混沌と黎明の横顔

第18章:轟神は睥睨す 4

 しつこくつきまとう男にうんざりしながら、ノティナは通りを急いでいた。
 今日は得意客から頼まれた早咲きの花の仕入れがあった日である。姉弟子たちが仕入れたものを仕分けするのが今朝一番の仕事だ。
 仕入れのあった日にしては遅い出勤である。それというのも彼女がここ数日の得意先回りを一手に引き受けていたためだ。師匠や姉弟子が気遣い、少し遅めに出勤しても良いよう取り計らってくれたのである。
 だだでさえ住み込み弟子ではないのだからと遠慮するノティナに、豪快に笑いながら「これから花の仕入れが増える繁忙期は遠慮なくこき使うわ」と宣言してみせた一番上の姉弟子の一言で彼女の反論は封じられてしまった。
 姉弟子のその言葉が気遣いからくるものだと誰もが判っていたが、師匠に次ぐ発言権を持つ一番弟子の意向に逆らえる者はいなかった。
「なぁ、ノティナ。少しくらい時間を取ってくれよ。どうせ仕分けは大勢でやるんだろ? ちょっとくらい遅れてもいいじゃないか。美味い蜜菓子プムランを作る露店を見つけたんだ。一緒に食べに行こうぜ」
 先ほどから同じことをグズグズと繰り返すこの男の口調には辟易している。が、師匠同士が懇意にしているために邪険にもできなかった。
「少し遅く出勤するからこそ急いでるんです。寄り道してる暇はありません!」
 早足で歩くノティナの息は少し上がり気味である。それくらいは急いでいるのだが、男は苦もなくついてきていた。早く諦めてくれないだろうか。
 間もなく大広場に通じる大通りに出るというところまで来たとき、彼女は常にない異変に気づいた。朝市はまだ続いているはずなのに大通りに見える人影が妙に少ない。早朝一番に商品を売り抜けて早めに帰宅する商人の姿がチラホラ見えるが、遅めに朝市に加わる商売人の姿がほとんどなかった。
「変ね。今日に限って王都に入ってくる者が少ないなんてあり得るかしら?」
 ノティナの呟きを聞きつけた男がようやく彼女から注意を逸らし、目の前の大通りを行き交う人の流れに注目する。彼の眼にも異変は明らかだったようだ。ヘラヘラと緩んでいた表情が引き締まり、眉間に皺まで寄っている。
「妙だな。商神講ザンザ・ウーリが終わった後だってことを割り引いても人が少ないぜ。街壁門で何かあったんじゃないのか?」
 確かにその通りだ。入ってくる者の姿が少ないということは、この街に入る手段が断たれているという可能性に行き着く。門で何かあったに違いない。
 ふらりと自然に身体が前に出た。無意識のうちにノティナは東側の街壁門へと足を向ける。彼女の後ろから当たり前のようにして男も一緒についてきた。
 この聖都ウクルタムの街壁門の中で庶民が徒歩で利用する門は東側である。街道の出発点とも言える場所であるこの街の東側から大街道は伸びているのだから当たり前といえば当たり前だ。
 南は河港に面し、北側は上級神官に王侯貴族などの上流階級者、あるいは軍関係者が利用する。そして西側はドロッギス地藩領主の黒耀樹公の本拠地、幻都ダレムにのみ通じていた。
 庶民は船を利用したのでなければ東側の門を通行するのが常で、ノティナが知らず知らずの間にそちらに足を向けたのは間違いではない。
「おい、ノティナ。門に行っても人が溢れ返ってるだけだと思うぜ。それよりも大広場の中央官庁に行って役人に状況を聞くほうが早いだろ?」
 男に声をかけられるまで、彼女は門前にどれほどの人が集まっているかなど考えもしなかった。ハタと足が止まり、しばし考え込む。
 街壁門に行っても大広場の官庁に行っても人は多いはずだ。となれば、状況を直に見るためにも街壁門に行くほうがいいのか。それとも門が閉ざされた現状を把握しているはずの役人に確かめたほうがいいのか。
 ノティナの逡巡を見越していたかのように男が彼女の腕を取った。
「どっちに行っても人だかりだろうけどよ、門前だと殺気立った奴らの中に突っ込んでいくことになるかもしれないだろ。街に入れない、出られないと大騒ぎになってるかもしれんし、そんな現場に立ち会うこたぁないぜ」
 強引な相手の態度にノティナは腹を立てたが、男の言い分を聞いているうちに納得してしまい、内心の怒りは有耶無耶のうちに霧散してしまった。
 大広場までが今日はいやに遠く感じる。その道のりを男に引っ張られて進みながら、彼女は胸騒ぎを抑えられずにいた。
 何か良くないことが起こっている。その確信だけはあるのだが、漠然とした不安も同時に湧き起こり、どうにも落ち着かない気分にさせた。
 大広場に近づくにつれ、人出が増えてくる。買い物客らが行ったり来たりする往来は日常の風景である。ここに通じる大通りで異変が起こっていることなど誰も知らないのではないか。それほど大広場近辺は活気づいていた。
「あら……? あそこにいる人、ジャムシード、さん? いえ……違う、わね」
 娘の小さな呟きに男が素早く反応する。急に立ち止まられ、ノティナは相手にぶつかりそうになった。すんでの所で止まれたのは、やはり男に対してどこか気を許していないところがあるからかもしれない。
「誰でも彼でもジャムシードに見えるのかよ」
 男が舌打ちし、彼女を睨み下ろしたが、ノティナのほうは相手の態度に恐れ入るどころか平然と睨み返した。やましいところなど何もないのに、相手の言葉に逐一恐縮などしれいられないではないか。
「あんな奴のどこがいいんだ? 役人に尻尾を振る小心者じゃないか」
「ジャムシードさんは役人に尻尾なんか振ってない。王都と海都ゲランを行き来して双方の工人の連絡役まで買って出ているそうだし。勤勉に働く人を悪く言うのはやめたほうがいいわ」
 男の眉がつり上がった。不快感を表した相手の態度にノティナのほうも剣呑な目つきで応じる。ジャムシードを悪し様に言われて愉快な気分がするはずがなかった。今すぐ男の目の前から去りたいくらいだが、腕を掴まれていて離れられないのだから仕方がない。
「あいつは飾り職人のくせに官庁で雇われてる。貴族どもから給金を貰ってる以上、あいつは工人なんかじゃない、ただの小役人だ」
 男が掴んでいる腕が痛かった。無意識のうちに掴む手に力が入っているのだろう。ノティナは腕を揺すって無言のうちに痛みを訴えたが、彼女から意識が反れている男はまったく気づく様子がなかった。
「ジャムシードが集めている工人はあいつの関係者ばかりだ。あいつが持ってくる仕事からあぶれた者は排除されるに決まってる。貴族に雇われた奴らは潤い、そこから弾き出された者は沈んでいくようなやり方をして、工人仲間が納得するはずがないだろうが。いずれジャムシードには天罰が下るさ」
 そんなことがあるはずがない。ジャムシードは工人組合を通して仕事を配分していると聞いた。それに今回彼がやっている仕事は貴族に雇われるのではないとも聞いている。都市部から弾き出された者らに職人の仕事を覚えさせるための場所を作るのだと言っていた。貴族たちはそんなことはしないものだ。
 男の言い分には大いに反論したいが、下手に口出しをすれば男が逆上しそうである。そうなっては力の弱い女の身では太刀打ちできない。ここは解放されるまで我慢するしかなかった。
 人の流れに逆らうように立ち尽くしている二人に何度も通行人がぶつかる。通行の邪魔だとばかりに、あからさまに非難する眼を向けてくる者もいた。
「なぁ、ノティナ。もう少し男を見る眼を養ったほうがいいぜ。ジャムシードと関わってるとろくな目に遭わないぞ。あいつときたら自分の言うことが全部正しいと思ってやがる。話を聞かない者を冷遇すること甚だしい輩だ。そんな奴を慕ったところで後々後悔するのは目に見えてるってもんだぜ。その点、オレならいつだってノティナの側にいてやれるし……」
 一瞬のうちに自制心が吹っ飛んだ。掴まれていた腕に痣が残るかもしれないのもかまわず、ノティナは乱暴に腕を振り解く。
「あなたにジャムシードさんの何が判るんですか! 勝手なことばかり言わないで! あの人は他人が話を聞かないくらいで意地悪をする人じゃないわ。むしろ自分が損をすると判っていながら他人のために動ける人よ!」
 目の前の男に向かって今までの鬱憤を晴らすかのように怒鳴りつけた後、彼女は男に背を向けて走り出した。ほんの一瞬でも男と一緒にいたくない。同じ空気を吸うことも耐えられなかった。
 背後から男が呼ぶ声が聞こえる。乱れた足音と通行人が罵る声も届いていた。それは人混みを走る彼女自身の周囲にも言えることである。何度も何度も通行人とぶつかり、そのたびに謝罪しながら彼女はなおも走った。
 混雑する大広場を走って移動するのには無理がある。ノティナが数え切れないほどの人間とぶつかり謝罪している間に、男はすぐ後ろにまで迫っていた。きっと傍若無人に人を突き飛ばし、謝りもせずに追いかけてきたのだろう。
「待てよ! 奴のところになんか行かせないぞ。あいつとお前じゃあ、歳が離れすぎてるじゃないかよ。なんだって、あんなどこの馬の骨とも知れない奴を慕うんだ! あいつはバゼルダルン人なんだぞ!」
 乱暴に肩を掴まれ、再び腕を掴まれた。ノティナは振り解こうと暴れたが、先ほど以上に強い力で掴まれてしまった。間違いなく痣になっているだろう。
「離して! あなたと一緒にいるのはまっぴらよ!」
 振り解けないのならこちらにも考えがあった。ノティナは男のすねを思い切り蹴りつける。痛みで怯んだ男の手から自分の腕を取り戻すと、彼女は素早く人混みに紛れ込み、男の眼から行方を眩ませた。
 腹立たしさが抑えきれない。どうしてあんな男と知り合ったのだろう。
 師匠同士が知り合いなのだから仕方がないことは判っているのだ。それでも「どうしてあんな男と」と内心で自分を罵らずにはいられない。もっと距離を置いておけば良かったのだ。関わり合いになどなるのではなかった。
 自分自身が悪し様に言われるのならいい。我慢することも反論することも出来るのだから。だが、この場にいない者を悪く言う男の態度に腹が立った。彼とて師匠同士を通じてジャムシードとは知り合いである。その人となりならノティナ以上に判っているだろうに、なんという態度だろうか。
 人混みを縫うように進みながらノティナは怒りの拳を握りしめた。先ほどまではぶつかった人々に謝罪する余裕があったが、今はその余裕すら失われている。握った拳でぶつかった相手を殴りつけてしまいそうなほどの凶暴な気分に囚われ、彼女はきつく奥歯を噛み締めた。
 いつの間にか官庁の近くにまで来ていた。常よりも多い人だかりが変事を告げる。街壁門の異変は徐々に人々の間に広まりつつあるのだ。
 ノティナは厭な気分を振り払おうと首を振り、大きく深呼吸を繰り返す。不愉快な気分はここまでだ。まずは現状を確かめよう。
 苛立ちを抑え込み、気を取り直して一歩を踏み出した彼女の目の前に人影が差した。男が追いかけてきたかと怯んだ彼女に人影がぶつかる。単に互いの目指す先が交差したがゆえの接触ではなかった。
 ギョッとして相手を見上げるよりも早く、ノティナの首筋に相手の腕が絡みつく。筋肉質の太い腕に首を絞められ、彼女は息苦しさに藻掻いた。
「動くな! 静かにしていろ。でないと首をへし折るぞ」
 小さいが鋭い一喝にノティナは竦み上がる。何がなんだか判らないが、自分の身に危険が及んでいることだけは理解していた。恐怖に悲鳴を上げることもできず、彼女はカタカタと震えた。
 目指す先はすぐそばなのに、ノティナの身体は不審者に引きずられて大広場の端へと移動する。助けて、と叫びたいのだが、舌は顎に張り付いて動かなかった。口の中は一瞬にして渇き、喉まで干涸らびたようだった。
「待ちやがれ! てめぇ、ノティナをどこに連れて行く気だ!」
 身体に衝撃が走り、石畳に身体が投げ出される。足蹴にした男が追いかけてきたらしいと気づくまでに、それほど時間はかからなかった。
 怒鳴りつける男と不審者のもみ合いを彼女は茫然と見上げていた。
 いったい何が起こったのか。ノティナにはまったく理解できなかった。唯一、彼女が理解できたことは自分が得体の知れない者に襲われたことと、今それが元で争いが起こっているということだけである。
 へたり込んでいた姿勢からようよう立ち上がり、ノティナはなんとか一歩を踏み出した。襲われた恐怖がまだ抜けていない。膝が笑い、上手く走れなかった。だが助けを呼ばなければならない。
「誰か! 誰か、助けて! 人殺しよ! 誰か!」
 王都全体に関わる騒動が起こっているからか、官庁に群がる人々の関心はこちらに向かなかった。彼女の叫びを聞きつけたのは朝市に店を出している商人たちのほうが先だった。何事かと争う男たちを遠巻きにするだけだったが、ともかく騒動に気づいてさえ貰えれば警邏がやってくるはずだ。
 揉み合っている二人のうち、シャーフを被って顔を隠している男のほうが体格がいい。何か体術を身につけているのかもしれない。
「あぁ、お願い。誰か二人を止めて! 誰かいないの? お願い、やめて!」
 ノティナは見物人を押しのけて前に出ると、ハラハラと二人の争いを見守った。今にも知り合いが殴り殺されるのではないかと思うと、気が気ではない。両手を揉み合わせ、落ち着かなげに身体を揺すった。
 仕事場に急がねばならないことも、官庁で王都の変事の原因を教えてもらうことも忘れて、彼女はオロオロとしていた。
 誰も二人の争いを止めようとしない。下手に声をかけられない、鬼気迫る勢いで殴り合っているのだ。助けこそ求めはしたが、こんな争いを眼にしてはノティナも恐怖で足が竦む。見物人たちも同様だろう。
「誰か止めてよぅ! お願い。このままじゃ……」
 こんなときジャムシードがいてくれたら、と埒もないことが頭の片隅を過ぎった。彼なら争いが目の前で起これば仲裁に入るか、力ずくでも止めてくれるのに。見た目はごく普通なのに存外喧嘩に強いのだ。
 ここに彼がいたなら間違いなく殴り合いを止めることができたはずだ。
 どうしょう。どうしたら争いを止められるだろう。なぜ襲われたのか判らないが、彼女を助けにきた男が襲撃者と戦っているのである。見捨てて自分だけ逃げるという選択肢は彼女の頭から抜け落ちていた。
「ジャムシードさん、助けて……。こんなの、ヤダァ……」
「貴様らっ! この大広場で何をしとるかァ!」
 ノティナが居もしない相手に助けを求めるのと警邏の怒声が響き渡るのとはほど同時だっただろうか。ともかく殴り合いを止められそうな輩の登場に、彼女はホッと胸を撫で下ろした。それでも身体の震えはまだ収まらないが。
「この人出の中で狼藉を働くとは! 二人とも詰め所まで来いっ!」
 数名の警邏が人を押しのけて飛び出してくるのをノティナは確認した。
 殴り合っていた男たちの動きが鈍る。遠巻きにする人々の口からも安堵のため息が漏れた。これで騒ぎは収まると誰もが思っただろう。
 ところが、シャーフを被った男はそう考えなかったようだ。当然だろう。騒ぎの元凶である彼が大人しくなれば捕まって詰め所の独房に監禁されるだけだ。
 警邏の登場で気を抜いた男の鳩尾に痛烈な一撃を加えると、襲撃者は相手が崩れ落ちるのも確認せずきびすを返した。一瞬のうちに脱出できる場所を探り、またしてもノティナのいる方角へと駆けてくる。
 先ほどの恐怖が湧き上がり、彼女は声にならない悲鳴を漏らして後ずさった。だが後ろには野次馬が群がり、思うようには逃げられない。見物人に足を取られて尻餅をついたノティナは、竦んで動かない身体を必死によじった。
 彼女の恐怖が伝染したかのように周囲の野次馬も襲撃者から遠ざかろうと動き始めた。潮が引くように人の波が割れ、男の逃げ道を確保する。誰も意図的にそんなことをしたわけではないが、ノティナは一人取り残された。
 男の太い腕が彼女の腰を捕らえる。娘の抵抗などものともせず、軽々と彼女を担ぎ上げると、悲鳴を上げて逃げ惑う人々の間を駆け抜けていった。
「い、いやぁっ! 助けてぇ! 離して! 誰か、助けてぇっ!」
 やっと声が出るようになったが、そのときには時すでに遅し。ノティナの助けを求める声に応えられる者はその場にはいなかった。
 これだけの騒ぎが起こってさえ、官庁の周囲に群がる人々は大広場での出来事に無関心である。彼女を指さし、叫ぶのは露店の商売人やその客ばかりだ。
 再び助けを求めようとしたノティナだったが、乱暴に揺すられ、その動きで男の肩が腹にめり込むと痛みと息苦しさに喘ぐことしかできなかった。
 騒ぐな、との男の脅しを受けるまでもない。彼女は肩の上でぐったりとし、意識を失いかかっていた。それを知ってか知らずか、襲撃者は彼女を乱暴に揺すりながら大広場を走り抜けていったのだった。