僧侶たちが去った部屋はまだ空気が震えていた。淡い炎のように揺れるターナの髪がその振動にさらされて蛇の如くうねる。見ようによっては不気味この上ない姿であるが、ヤウンにはそれが陽炎のように儚く思えた。
『姉を休ませてやるがいい、サルシャ・ヤウン。結界は完成している。お前の片割れに害が及ぶことはない』
「判った。ベッドに運ぶから待っていて」
先ほど守護結界を張る術が完成した瞬間、残っていた僧侶三人は気を失った。すぐに意識を取り戻したが、疲労の色は隠しようがなかった。魔力の差は歴然としていてもターナ・ファレスに疲れがないとは言い切れない。
僧侶たちを簡単に労い、疲れを癒すよう僧院に帰したが、膨大な魔力を提供したターナは未だに人型を保ったままでいた。
眠り込んだ毛獣はまだ目覚めていない。ターナが戻れば獣が覚醒し、何事もなかったかのように悠然と振る舞うのだろう。
「ターナ。手助けしてくれてありがとう。お陰で……」
姉を寝所に運び終わり、元の部屋に戻ってきた王太子は室内に足を踏み入れたところで立ち止まり、息を呑んだ。
「ター……ナ!?」
朱き精霊は部屋の中央でうずくまり、ゼィゼィと肩で息をしている。今までなんともなかっただけに、その急変ぶりに王子は動揺した。
「いったい何が……ッ。どうしたっていうんだ!」
『触るな、サルシャ・ヤウン。我に触るのではない!』
駆け寄り、その身体に触れようと腕を伸ばしたヤウンを精霊の声が制する。乱れた息の下で顔を上げたターナの視線は力強いままだった。
「何が、あったんだい? 君の身体に何が起こったの?」
問わずにいられようか。守護結界を張ったがゆえの作用だというのなら、ヤウンは精霊の助けを得たことを深く後悔するだろう。
『お前には関係ないことだ。気にすることは……』
「気にしないわけがない! 君は僕をなんだと思ってるんだ。君を都合良く利用して、後は平気な顔をしているロクデナシだとでも!? 冗談じゃない。説明して。君に何かあったら僕は後悔するだけじゃ済まされないんだよ!」
ターナは苦しげに顔を歪めながらも笑い声を上げた。
『完璧な結界を張ってやると言ったではないか。力を多少使いすぎただけだ』
「……嘘だ。僕に嘘をつかない約束だろう? 君は今、嘘をついてる。そうじゃなければ、僕に触れるななどと言わないはずだ。僕が触れたらまずいことが起こるからでしょ。いったい、君に何が起こっているの!」
王太子の反論にターナは顔をしかめる。朱き精霊は何を隠しているのか。
『嘘はついていない。僧侶たちの魔力を全部吸い取るわけにはいかぬだろうが。そんなことをしたら下手をすれば死んでしまうからな。だが足りぬ分の魔力はどこかで補うしかない。となれば我しかおらぬだろう。しかし、この手の守護結界など張ったのは初めてで予想以上に魔力を無駄にしてしまった』
ターナの口許に苦笑が浮かんだ。己の不甲斐なさを嘲り、呆れている。もしかしたら自己嫌悪に陥っているかもしれない。震えるターナ・ファレスの身体を支えることもできず、サルシャ・ヤウンは唇を噛みしめた。
『だから減ってしまった分の魔力を回復させようと自然界から気を吸い込んでいる最中なのだ。この状態でお前に触れられると魔力が余計に不安定になる。それ故に、触れるなと言っただけだよ』
嘘をついている顔には見えない。だが何もかもを語った表情ではなかった。嘘をついていないというのならば、わざと語っていない部分があるに違いない。今のターナにはヤウンに知られたくない何かがあるのだ。
謎の多い精霊たちに隠し事をされては人間であるヤウンに手出しなど出来ようか。元々がターナには不本意な契約だったのだ。形ばかりの主人である自分にターナがすべてをさらけ出すはずがない。
「判ったよ。君の言うことを信じる。でも、僕はどうしたらいい? 何をしたら君の苦痛を和らげることができるの?」
無力だと思うときはこういうときだ。子ども扱いをされている気分である。力弱き存在だと退けられ、無視されていると感じた。それでも何かしたい。そう思うことすらターナには鬱陶しいかもしれないが。
『特にはない。だがしばらくの間は力が不安定になる。毛獣の中で眠るから、お前の呼びかけに応えることが出来ぬかもしれぬ。それを承知しておけ』
「毛獣には触れられるの? 僕は駄目でも?」
無性に不愉快な気分がこみ上げてきた。自分はターナを手助け出来ないのに、スヤスヤと眠り込んでいる獣には出来ることがあるとは。
『毛獣は昔から魔力への耐性があるからな。それに感情の流れが安定しているのだ。人は心を揺らす。我はその乱れに巻き込まれることに慣れていない。力が安定するまでは近寄らぬほうがいい』
口許をへの字に曲げてターナを睨んでみたが、荒い息で苦しげにしている様子を見ては、沸き上がった苛立ちをぶつける気も失せた。そんなことをすれば、自分が子どもだと言っているようなものである。
「だったら早く毛獣の中に戻って。もう邪魔しないから」
一歩、二歩、ヤウンはターナから離れた。足許には白い毛の塊。いや、大きな体を丸めた猛獣が安らかな顔で眠っていた。王太子の視線の先にいるターナが首を巡らせて毛獣の姿を探す。すぐにその存在を認めた。
すぐにでも仮初めの姿を消すものと思っていたが、未だにターナはそこにいる。消えるどころか精霊はため息のように頼りない吐息を漏らした。何かを諦めたような、覚悟を決めたような、そんな気配が漂ってくる。
『そんな顔をするな、サルシャ・ヤウン。お前の双子の片割れは大丈夫だ。我が結界の支柱となっている間に彼女の中に巣くう悪しき力は浄化される。もうこれ以上、彼女が魔力に振り回されることはない』
何を急に言い出すのだろう。それは結界を張る術法を始める前に聞いたことではないか。姉は大丈夫だと返事をもらっている。今さら何を……。
すでに聞いた話を再度聞かされ、王子は困惑したが、それも一瞬のことだった。ターナの発した言葉の裏側から彼は目の前の精霊がとんでもない負担を背負ってしまったことに気づいたのである。
「君のその不調の原因は魔力が安定していないだけじゃないよね。姉の、アルティーエの中にある異質な力も引き受けているんだろう? だからそんなに苦しんでいるんだ。そうでしょ? さっき、僕がアルティに引きずられて動揺したりしたから。だから君は代わりに……」
『黙れ、サルシャ・ヤウン! 同情なぞまっぴらだ! そんな哀れんだ眼で我を見るな。お前のその態度は気に食わん!』
急に怒鳴りつけられ、ヤウンは小さく飛び上がった。その拍子に猛獣の身体に足許をすくわれる。王子は派手な音を立てて床にひっくり返ると、強かに腰を打った。怪我はなさそうだが、打ちつけた痛みですぐに動けない。
『ヤ、ヤウン!? どうした? どこか怪我をしたのか!?』
つい今し方の怒声を放った相手とは思えぬ上擦った声にヤウンは困惑した。
ターナにとって人間など苛立ちを増長させる生き物でしかないだろうに。それとも主人の身に何かあれば、それは従うターナにも悪影響を及ぼすのだろうか。そう考えれば精霊の動揺ぶりにも納得がいった。
「だい、じょうぶ。ちょっと腰を打ったけど、怪我はしてない、から……」
さすがに痛みに耐えながらではまともな声が出ない。オロオロと手を伸ばしては引っ込める精霊の動揺ぶりが可笑しかったが、ここで笑い出せばターナは本気で怒り狂う気がして、ヤウンは笑みを噛み殺し、唇の端を歪めた。
『た、立てるのか……?』
そういえば、これまでのターナであればブツブツと文句を言いながらも主人を助け起こすくらいはしただろう。触れたくても触れられない、という状況はヤウンだけではなく、目の前の朱き精霊にしても同じことなのだ。そう思い至れば、今までの卑屈な考えも霧散してしまった。
「平気だよ。打った腰に、痣くらいは出来たかもしれないけどね」
時間が経つにつれて声が戻ってきた。もういつもと大差ない。それがターナにも伝わったらしく、あからさまに安堵の表情を浮かべていた。
「ターナ。君のほうこそ大丈夫かい? さっきは随分と苦しそうに見えたよ?」
毛獣に寄りかかり、ヤウンはゆっくりと上体を起こす。熟睡している猛獣の身体が小さく震えたが、瞼が開くことはなかった。
『この状態に慣れつつある。多少は怠さを感じるが、もう問題はないようだ』
つい先ほどまで肩で息をするほど苦しげだったが、話をしている間に呼吸は回復していた。一見しただけでは具合が悪いところなど見当たらない。
「それならいいんだ。だったら、早く戻ったほうがいいよ。君としばらく話が出来なくなるかもしれないのは淋しいけど、これまでも僕の我が侭につき合わせていたようなものだからね。少しは我慢しないと」
人型を取っているだけで魔力は微量に消費していると以前に聞いていた。魔力を多大に消費した後なのだから今は早く獣の中に戻ったほうがいい。そう自分に言い聞かせてみるが、心が急に寒さを感じ、ヤウンは身震いした。
『その、サルシャ・ヤウン。それについてなのだが……』
言いづらそうに口ごもるターナの様子が胸をざわつかせる。言いにくいことを言わねばならないらしい。そこには何か特別な意味があるに違いない。
聞きたくない。なぜかそう思った。ターナが語ろうとしている内容を聞いたなら、ひどく厭な気分になるであろう予感がした。
「ターナ、早く戻ったほうがいい。君はもう充分に働いたよ。少しでも早く魔力を安定させたほうが君のためにもいいでしょ? だったら……」
『サルシャ・ヤウン、だからこそ話しておかねばならんのだ』
王太子は自分の顔が強張ったことに気づいたが、咄嗟に精霊から顔を背け、内心を悟られまいとした。先ほどの術法のときのように動揺したことに気づかれれば、またターナは主人への気遣いであれこれ世話を焼こうとするだろう。
もう子どもではないのだ。王になろうという人間がいつまでも甘えてなどいられなかった。それでなくてもターナ・ファレスには過重な責務を負わせてしまったのである。これ以上は寄りかかれない。
「どうしても今その話を聞かなければならないのなら聞くよ。でも急ぎではないのなら後にして。今日は色々とありすぎて混乱してるんだ」
ターナが言葉を呑み込んだ気配が伝わってきた。
頭では頼っては駄目だと判っているのに、いざ言葉にするのはその反対である。聞かねばならない話だと予測できても、心がそれを拒絶していた。厭だと言えば朱き精霊が強制しないと知っているから甘えている。
『では、ひとつだけ伝えておく。しばらくの間、我は毛獣の制御で手一杯で幻体も作り出せなければ思念の声も出せない状態に陥る。場合によっては獣すら御せぬやもしれぬ。当分は毛獣と逢うのも避けたほうがよい』
反射的に王子は振り返り、取り繕うのも忘れてターナを凝視した。己がどんな表情を浮かべているかも懸念の外である。今朝の彼は不運続きだ。
精霊の顔が歪む。苦々しい表情を浮かべたかと思えば、すぐに困惑と苦痛をない交ぜにした何とも言えないものへと変じた。
『そんな顔をするな。我は契約を守る。お前を見捨てるわけではない』
「判ってる。君が契約を破るはずはないって。……だけど、君と逢えないのは淋しいよ。前は独りでも平気だったのに。僕はどうしてしまったんだろう」
強い王になりたいと願っているのに現実はどうだ。どんどん弱くなっている。このままでは駄目になってしまう。
今ならまだ間に合うだろうか。以前の自分に立ち返ることが出来るだろうか。
無性に泣き出したい気分になったが、ヤウンは奥歯を噛み締め顎を上げた。
『まだ姉の混乱に同調したときの動揺が抜けておらぬのだろう。その不安が消えるのにも、そう時間はかからぬはずだ。……そろそろ外の者がここにくる。お前も心積もりだけはしておけ』
本当にそれだけなのだろうか。アルティーエに同調しただけでこれほどひどい有様になるものなのか、ヤウンにはまったく判断がつかない。
「ターナ。君の魔力はどれくらいで落ち着くの?」
『正確な時期は判らぬ。だが長期間ではないだろう』
感情が見えない淡々とした口調だが、精霊は伏し目がちである。予測不能な事態に困惑しているのは自分だけではないのだと、王太子は相手の態度から推測した。ヤウンに見せないだけでターナも不安なのに違いない。
「判った。君が戻ってくるのを待ってるよ。後のことは心配しないで」
取り残されるような気分を押し込め、王子はゆっくりと頷いた。
これ以上、朱き精霊を引き留めても無意味である。他の人間に姿を見られるのもまずい。毛獣の中に異形の者がいると知られていても、実物を見るのと噂話だけなのとでは、人々の間に交差する感情はまるで違うのだ。
こちらを見おろすターナの視線をしっかりと受け止める。まだ何か言いたげだが、部屋に近づく足音に精霊は僅かに顔を歪めて俯いた。蜃気楼の如く立ち姿が揺らめき、空気に溶けるまで、一呼吸もかからなかった。
すぐ傍らの猛獣がもぞもぞと蠢く。うっすらと開いた瞳は寝起きのためにぼんやりとしていた。その状態の相手に王子はしがみつき、素早く耳打ちする。
「待ってるからね、ターナ。僕のこと、忘れないでよ」
グルグルと喉が鳴った。それを返答と受け止め、王太子は一瞬切ない表情を浮かべる。今まで当たり前に話ができた相手がいないだけで、どうしてこんなに心細くなるのだろうか。二度と逢えないわけでもないのに。
扉が叩かれたのは、そんなときだった。ヤウンが入室を許可すると、女騎士アイレンが背後に人影を伴って姿を現す。予定通りの人物だ。
「サルシャ・ヤウン殿下。アルティーエ姫の侍女エスティラナ殿をお連れしました。寝室へお通ししてもよろしいでしょうか?」
顔見知りの侍女がヤウンと寝室の扉を交互に見比べる。姉の様子が気になって仕方がないのだ。アルティーエはまだ疲れて眠っているだろうが、エスティラナの心の平穏のためにも寝室への入室を許可しないわけにはいくまい。
「アルティーエはまだ疲れて眠っているんだよ、エスティラナ。無理に起こさないでね。でも、もし起きあがれるようなら予定通りにしていいよ」
王子の言葉に目を輝かせた娘が飛ぶような勢いで寝室へと駆け込んでいった。あの調子で姉を叩き起こしてしまわなければいいが、と不安が頭をもたげもしたが、常のエスティラナならそんな真似をするはずがないことを同時に思い出し、なんとも曖昧な表情でヤウンは天井を仰ぎ見た。
「殿下、そろそろ自室に戻られませんと時間が……。そちらの毛獣もご自身で奥庭に連れていかれるのでしょう?」
アイレンの鋭さに一瞬ヒヤリとする。他の者であれば、ここまで自力で辿り着いた猛獣なら、帰りも自分の力で戻るだろうと安直に考えそうなものだ。ところが彼女は王太子が付き添っていくのが当然と考える。
毛獣と王子の間にある奇妙な空気を敏感に察知したとしか思えなかった。
それとも単純に、サルシャ・ヤウンという若者が背負う国務の重圧から、この短い時間だけでも逃避させようと気を利かせたのか。
感情を浮かべない彼女の表情からは、どちらなのかまでは判らなかった。
「そうだね。毛獣をここには置いておけないし。……アイレン。君は引き続き離宮の警備を。王女が王宮の自室に戻るまでの期間なら仕事に支障はないね?」
炎姫家での仕事に支障があったとしても王太子との関わりが優先されるだろう。炎姫公アジル・ハイラーならアイレンにそう指示を出すはずだ。だからこそ、節目ごとに敢えて確認しなければならない。
王子からの依頼があったからアイレンは王宮に残るのだという事実を明確にしておけば、彼女が元の仕事に戻ったとき周囲からの不満は上がりにくい。王子の自分が沈黙していたのでは彼女の独断と誹られよう。
「そちらはご安心を。それと……。実は先ほどソージン卿が気になることを話しておりました。途中までご一緒いたしますので伝言をお伝えいたします」
鷹揚に頷き、ヤウンは猛獣のたてがみを撫でて立ち上がった。言葉は通じずとも判るらしい。毛獣は落ち着かなげだが、大人しく王太子の傍らに従った。
すぐ後ろに従う女騎士は廊下でも周囲への警戒を怠らない。堅牢な離宮で、なおかつ厳しい監視の眼があれば、姉の秘密は守られることだろう。
「それで? 離宮で話ができないほど危険な伝言なのかい?」
離宮と王城との中間地点付近まで来ると、ヤウンは背後に声をかけた。
「危険といえば危険です。炎姫公女フォレイア姫が拉致されたと聞かされては」
「なん……だって? フォレイアが?」
両足が縫い止められたかのように動かない。これ以上はないほど大きく瞳を見開き、王太子はまじまじとアイレンの顔を凝視した。彼女が冗談や嘘をつくとは思えないが、たった今、信じられないことを聞かされた。
「早朝に従兄弟のジノンと炎姫家の霊廟へと詣で、その帰り道で馬車を寄せた館から出てこない、と。ソージン卿が館に潜入して確認したところ、一室にイコン族の女二人と少女が一人、薬を嗅がされて監禁されていたそうです。炎姫公女が監禁されている場所までは特定できなかったようですが。
人さらいの一団は大半が東方人で、脅迫されて手を貸していた東方人の商人の証言もあります。さらにその商人の監視をしていた者も捕らえ、今この離宮の外れで我々の監視下に置いてあります。
ソージン卿は王都にいるイコン族に協力を乞い、監禁されている女たちと公女を救出するとのこと。彼が出ていってからまだそれほど時は経っておりません。館の場所も聞いておりますが兵を出しますか? ソージン卿は炎姫家が醜聞に巻き込まれないよう秘密裏に助け出すつもりのようですが」
姉のことに続いて今度は炎姫家の問題が飛び出してくるとは。次期国王に相応しい人間か、と神々に試されてでもいるのだろうか。
「アイレン、君は炎姫家の騎士だ。なぜ公女の救出に向かわなかった?」
「先ほども申し上げましたが通常の職を外れて王女の警護にあたる間は、こちらが最優先です。炎姫家が関わろうと、その順位が変わることはありません」
この女騎士は呆れるほど愚直に仕事をこなしているらしい。目配り気配りも出来るが、根本の仕事に対する姿勢は堅苦しいほどだ。
「独断で公女の拉致に関することは炎姫家に伝えました。すでに大公の耳にも入っている以上、王家はこれ以上の干渉は避けたほうがよろしいでしょう。ただ、人身売買が疑われる事件です。これに関しては殿下自らが指揮を執られるのが得策かと思われます。場合によっては今朝の王議会を蹴ってでも」
「炎姫家への連絡も手配済みか。捕らえた者の尋問はまだなんだね?」
傍らの毛獣がグルグルと喉を鳴らす。己の存在を思い出させようとしているのか、それとも王子を気遣っているのかは判らなかった。その様子を淋しげな微笑みで見おろし、ヤウンは豊かなたてがみに指を絡めた。
「意識を失っておりますのでそのままにしております。それと、王都の警備について黒耀樹公に問い合わせたのですが連絡がつきません。前大公妃とご令嬢のお二方と食事を摂られた後、大公母の元に向かったそうですが……」
王太子はそっとため息をつき、眉を寄せた。
「黒耀樹家でも問題が発生したようだね。ケル・エルスに連絡はついたの?」
「私には黒耀樹公との師弟関係はありますが公子へのツテがありませんので」
ナスラ・ギュワメと連絡がつかないとなると黒耀樹家でもめ事が起こっている可能性が高い。巡検使の各局に探らせたほうがよさそうだ。
「あっちでもこっちでも問題が噴出してくれるよ。まったく頭が痛い」
ぼやいても仕方がないがぼやかずにはいられない。これで水姫家でも騒ぎが起これば今日の王都は運命神に見放されていることになりそうだ。
ヤウンが苦笑いを口の端に浮かべ、巡検使の局に連絡を入れるよう指示を出したところで、離宮の警備に就いている兵士が駆け寄ってくる姿が目に入った。
「殿下! 水姫公より親書が届きました」
「……あぁ、来ちゃったよ。ラシュ・ナムルからの親書って、いっつもろくなこと書いてないんだよね。今日のも絶対に良くない知らせだよ」
親書を届けにきた兵士には聞こえないようにぼやいた王子は、皮紐を組まれ、蝋封を厳重に施された巻物を開くと、素早く内容に目を通す。案の定、水姫公の養女がルネレー公国の者と思われる不審者に誘拐されたとの知らせだ。
本当に今日の王都は神々にそっぽを向かれているとしか思えない。
踏んだり蹴ったりだ、と口の中で不満を漏らすが、声に出しては何も言わない。むしろ姉の部屋での腑抜けた状態からいつもの泰然とした王太子の姿に戻り、ヤウンは次々に指示を出していった。
「悠長なことはしていられないね。王都を封鎖せよ。各街壁門を閉ざし、すべての船の出航を禁ずる。各大公家の当主は至急王城へ登城。元老院、および王議会出席者も同様だ。それから東方言語に詳しい通事を用意せよ」
御意、と敬礼して命を受けた女騎士と兵士が離宮区画の境界線へときびすを返す。その後ろ姿を見送った後、ヤウンは大人しく座り込んでいる猛獣を振り返った。毛繕いする姿は大きな猫にしか見えないのどかさである。
促せば素直に従う姿は今までと変わらなかった。ただ声にならない“声”が聞こえなくなっただけ。こんなときこそ聞きたい声が聞けず、王子は再び湧き上がってきた切なさを必死に噛み殺した。
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