混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 7

 ズキズキと脈打っていた頭痛が収まりつつあった。これほどのひどい頭痛は高熱を出したとき以来で、その当時から十年は経っているだろうか。
 あれは修練のために神殿で学んでいた頃のことだ。幽霊騒ぎが持ち上がり、折悪しく幽霊らしきものに遭遇して、ショックのあまりに高熱を出して寝込んでしまったのである。今でも得体のしれない存在には腰が退ける。
 フォレイアはこめかみを抑えながら身を起こすと、午前の光と風を室内に送り込んでくる窓を振り返った。雨期の終わりの霞が消えようとしている。十日もすれば雨期の朝霞も消え、乾期の鮮烈な風が雲を払うだろう。
 頭痛で朦朧としている間、この室内は静かなものだった。が、今は窓の外から馬のいななきが小さく聞こえる。いや、もしかしたら頭痛で苦しんでいるときには気づかなかっただけかもしれない。
 炎姫家直下の僧院から馬車で戻ってきた途端、ひどい頭痛に襲われて屋敷の一室で休んでいくよう案内された。ジノンに支えられなければ歩けなかったほどで、顔色も悪かったのだろう、従兄は大層狼狽えていた覚えがある。
「心配をかけてしまったであろうのぅ。頭痛も落ち着いたことじゃし、そろそろ仕事に出向かねばならぬな。……それに、この屋敷の主人にも礼を申さねば。突然の訪問で慌てさせたことじゃろうし」
 目下、自分がやらねばならぬことを思いだそうと、フォレイアは確認するように思いついたことを声に出した。段取りを組んで進めていかねば、混乱のうちにうやむやになってしまうことは意外と多いものである。
 大公家という権力に依っている以上、その小さなうやむやが後々の災いとなることもあるのだ。隙を見せてはならない。そう教えられ、己と他者との線引きだけは見誤らないようにしてきたつもりだった。
 この屋敷の者に対しても、決して権力を押しつけてはならない。そう思えばこそ、世話をされて当然といった振る舞いを慎み、礼を尽くすべきところではそうせねばならないと、彼女は考えていた。
 がしかし、フォレイアが座る寝椅子の周囲には水差しがあるだけで呼び鈴の類はない。殺風景な部屋で寝椅子と小卓以外の調度品は無きに等しかった。
「使われていない部屋……ではなさそうじゃな。手入れが行き届いてはおる。じゃが、主人の趣味品も置いておらぬとは、なんという淋しい部屋であろう。もしや、ここの主人は世捨て人か? いや、王都にいてそれはあるまいし」
 どうもピンとくる考えに思い当たらない。あまりに何もないので、建材の高級感との違和感が否めなかった。ちぐはぐすぎて落ち着かないのである。
「客室用の臨時の応接間やもしれぬな。それだと普段は使わぬが、いざというときのために手入れは怠らぬようにしておくであろう。とはいえ、それでも殺風景な部屋には変わりないが」
 首を捻り、つらつらと考え込んでいた公女であったが、もとから深く考え込むのは得意ではない。判らぬことを突き詰めるようなことはせず、まずは家人を探すほうが先だと結論づけた。考えるより動け、それが普段の彼女である。
 が、父はいつもそんな彼女を短慮だと批判した。体当たりで動いて結果が出ることもあるとは認めても、大公家の者としては考えがなさ過ぎる、と。
 フォレイアは窓辺に吸い寄せられるように近づき、靄が晴れた空を見上げた。
「父上……。いったい、母上との間に何があったのですか?」
 母の墓は大霊廟内になかったのである。正確には納骨堂だけで、大公家に連なる者としての墳墓でもなかった。死後二十年以上経っても正式な埋葬さえされていない母は、何をしたのだろうか。姉はこの仕打ちを知っていたのか。
 母が亡くなったとき、フォレイアは三歳になろうかという年齢だった。母親の顔など覚えていないが、五歳上の姉が母に瞳の色以外は瓜二つだと周囲に言われ、姉を母親代わりに育ったのである。
 そのためか、彼女は母への思いは薄かった。むしろ姉への思慕のほうが強いのを自分でも自覚している。そして、母に瓜二つの姉を溺愛する父に姉と同じとはいかぬとも認めて欲しいと願って今に至る。
 その一直線の思いに、今迷いが生じていた。父や母、姉は当時何を見、何を思い、どう動いていたのだろう。そしてそれに関わる伯父は何をしたのだろう。炎姫家には、どんな闇が隠れ、今なお蠢いているのだろう。
 今まで考えなかったツケを支払わされているのか。今朝の頭痛はその反動で起こったもののような気がしてならなかった。
「教えてください、父上。あなたは何を思い、どうしたいのですか?」
 美しく設えた納骨堂だった。可愛らしい動物の塑像に囲まれ、快活だったと聞く母の性格をよく表しているように思う。それだけのものを作り上げながら、なぜ正妃の母を大霊廟に埋葬しようとしないのかが判らなかった。
「あなたにとって、母上や姉上、わらわはなんなのですか?」
 問いかけたとて返事が戻ってくるはずもない。それでも口に出さずにはいられないといった心境なのだ。誰かが明確な答えを返してくれたら良いのに。あり得ないことを望んでしまうほど、公女は未だに混乱の中にいた。
 フォレイアは見上げていた空から視線を戻し、室内を改めて見回した。
「本当に何もない部屋じゃ。……もしや、ここの主人は貧しい暮らしを余儀なくされておるのであろうか?」
 調度品を売り払いながら暮らしている貴族もいることは知っている。上流階級の生活を維持するのは大変なのだ。そう考えると、この部屋の寂れ具合も納得できる。先ほどは思い至らなかったが、起き抜けでボゥッとしていた頭がスッキリしてくるにつれ、色々と予測することができた。
「さて、呼び鈴がない以上は自分で動くしかないのぅ。誰か見知った顔がおる場所まで移動するとしようか。のんびりしていては仕事に支障が出る」
 いちいち頭に浮かんだことを口に出している時点で、己の中に不安があるのだと彼女は気づいていない。
 フォレイアは扉に手をかけ、ゆっくりとそれを押し開けた。寝かされていた部屋は高貴な身分の者を泊める客室ではなかったらしい。控え室もなしに廊下に出るような部屋が貴賓室であるはずがなかった。
 シンと静まり返った廊下の先は朝だというのに薄暗い。普通なら鎧戸を開けて光を取り入れるのに、ここでは窓は閉ざされ、所々に置かれた燭台の上で蝋燭が朧気に炎を揺らしていた。この廊下は未だに夜の領域にある。
 公女は手近な燭台に歩み寄ると、それに腕を伸ばした。足許を照らすために燭台のひとつを使わせてもらおうと思ったのである。
 だがしかし、手を伸ばしたまま彼女は動きを止め、鼻をひくつかせた。
 嗅ぎ慣れない匂いがする。甘ったるいような、饐えたような、妙な匂いが漂っていた。どこからだろう。何か特別な薬草でも焚いているのか。
 香を焚いているのであれば、その場所に誰か人がいるかもしれない。そう考え至り、フォレイアは匂いが漂ってくる元を探そうと、燭台を取り上げた。
 掲げた燭台の上で蝋燭が揺らめき、その動きが風の流れを教える。風上に当たる方角へと進みながら、公女は再び首を傾げた。どうしてこうも人の気配がないのだろう。まるで屋敷内から人が消してしまったかのようだ。
 先へと進んでいくと階段に出くわした。階下へ繋がる階段である。
 下へ向かおうと一歩を踏み出したフォレイアだったが、不意に匂いの元は階下ではないことに気づいた。風は確かに階下の窓から吹き込んできているようだが、妙な匂いは下から上がってこない。この階のどこかに……。
 今まで通ってきた廊下に匂いの濃密な場所はなかった。ということは、階段を挟んだ反対側の廊下に面した部屋のどこかから匂いが漏れているのだ。
 頭の隅でチリチリと警告するものがある。匂いの元を探していたはずなのに、その大元を見つけてはいけない、と見えざる何かが囁いた。得体の知れない存在には腰が退けてしまう彼女にとって、この警告は無視できないものがある。
 しかし、その警告を素直に受け入れるのにも抵抗があった。最初の思い通りに匂いの元凶を見つけねばならない、という訳の判らない使命感が沸き上がる。自分の感情を持て余し、フォレイアは階段の最上部で立ち尽くした。
 たっぷりと百は数えるほどの時間が流れた後、公女は正体不明の好奇心に突き動かされる子猫のようにそっと踏み出した足を戻し、身体の向きを変えた。
 もしも今の彼女を王太子やジャムシードが見たなら、いかにも彼女らしいと評したであろう。内心では怖じ気づいていても、フォレイアが義務や責務、使命を放棄することはあり得ないだろう、と。
 だが、彼女をそう評価する者も今はおらず、重苦しい沈黙が横たわる薄暗い廊下が公女を飲み込もうとするかのように闇の口を広げているばかりだった。
「確かめるだけじゃ……。香炉か何かで焚いておるのであろうから、その中身を見た後に下へ行けばよい。それでこの不可解な気持ちも落ち着く」
 己に言い聞かせ、フォレイアは静かに廊下を進む。時折、匂いを確かめるために立ち止まり、クンクンと子犬のように鼻を鳴らした。
 子どもの頃、夜中の空腹に耐えかねて厨房へと忍び入り、匂いだけを頼りに夕食の残り物や焼き菓子、チーズやワインといった類の食料を失敬していた悪行が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「奥に行くほど濃くなっておるな。最奥の部屋か……」
 ぼんやりと見える奥の扉は瀟洒で女性的な意匠であることから、部屋の主が女であることを予想させる。もしかしたら、この建物の主人はどこかの未亡人か、婚期を逃した破産間近の貴族娘であるのかもしれない。
 目的の扉の前まで恐る恐る近づくと、公女は燭台を足許に置き、扉に耳を押しつけて室内の様子を窺った。が、分厚い扉は音を外には漏らさなかった。
 実際に開けてみるしかなさそうである。フォレイアは意を決し、扉の取っ手を掴んで引っ張った。この手の扉は大抵の場合、外側に開くものである。
 案の定、音もなく滑らかに扉が開いた。と、先ほどの匂いが溢れ返り、思わず彼女は顔をしかめた。恐ろしく甘ったるく感じる。まるで蜜をぶちまけたような凄まじい芳香で、いかに甘い香りでも胸が悪くなる。
 入り込んだ部屋は控えの間のようだ。奥にさらに豪奢な意匠の扉が見える。ということは、屋敷の主人かそれに準ずる身分の者の部屋である可能性が高い。
 濃密な匂いが身体にまとわりつき、フォレイアは眩暈を感じた。が、先ほど沸き上がった使命感に突き動かされ、彼女は奥の扉へと足を向けた。
 こちらの扉も女性的な意匠である。やはりこの奥部屋の主は女なのだ。
 この異様な芳香を女主人が好んで放っているとなると、少々頭がおかしいのではないかと思える。それほど奥から漏れてくる匂いは尋常ではなかった。
 控えの間も薄暗いままである。点々と灯る蝋燭の炎だけが公女の影を床に投げかけていた。今度も扉を引き開け、中を覗き込もうとしたフォレイアは、いっそう密度を増した芳香の度合いに反射的に顔を背けた。
 とてもまともに吸い込めるものではない。控えの間より明かりが多く灯されていることは一瞬のうちに確認できたが、仔細を眺めるような余力はなかった。
「なんというきつい匂いであろう。……喉が詰まりそうじゃ」
 己の声がかすれていることに彼女はこのとき初めて気づいた。見知らぬ屋敷を勝手に探索している緊張と、得体の知れないものに向かっていくときの薄気味悪さだけではない。きっとこの芳香になんらかの影響を受けているのだ。
 サッサと逃げ出すべきである。そう頭の隅に何かが警告する。だが彼女はその場に踏み留まり、袖口で口許を押さえて室内を覗き込んだ。
 薄ぼんやりとした明かりが灯る中に寝椅子が見える。その上に横たわる人影も。体つきから見て女だろうと予測した。小卓やら毛皮の敷物やらの調度品が転がっている。その奥に何やら塊が見えた。
 横たわる人影はピクリとも動かない。眠っているのかもしれない。が、この異様な芳香に眼を醒まさずにいられる神経が信じられなかった。
 フォレイアは口許を押さえたまま室内に踏み込んだ。見ず知らずの者の私室に勝手に入り込む無礼が足を鈍らせるが、もしや強い芳香に女が気分を悪くしているのではないかと考え至り、確かめずにはいられなくなったのだ。
 間近に寄り、女の顔を覗き込んだ公女は感じ取った違和感にたじろいだ。
 奇妙なほど白く透けて見える女の肌であるとか、毒々しいほど赤い唇であるとか、落ちくぼんだ瞼であるとか、胸元を握りしめている指の細さであるとか。どうにも胸をざわつかせる。何がこうまで異常を訴えるのだろう。
 フォレイアは腕を伸ばして女の腕に触れた。揺り起こして相手の声を聞けば、この強烈な違和感から解放されるはずである。が、ひんやりした肌に触れた瞬間に、彼女は違和感の正体に気づいてしまった。
「息を……しておらぬ、のか?」
 一気に血の気が引く。足許がグニャグニャと歪んだように膝から力が抜けた。
 呼吸とともに上下しない胸元や鼻から漏れるはずの寝息が聞こえないのが、これほど奇妙に感じるとは思わなかったのである。
 死後それほど経ってはいないはずだ。まだ肌は生温い。身体を揺すれば起き出すのではないか。そう思えるほど、女の身体はまだ柔らかさを失っていなかった。だが、死んでいる女が息を吹き返す見込みはない気がする。
「なんということじゃ……。死者だけが残された部屋とは。だが、いったいどうしてこんなことに? 何か病にでも罹っていたのか?」
 思案の底に沈んでいたフォレイアの耳にうなり声が届いた。ギョッとして目の前の女をマジマジと見つめたが、死者は深い沈黙の底にいるばかりでである。
「今の声は……。まさかこの者が未練がましく化けて出てきたか」
 幽霊の類が大の苦手な彼女にとって、亡霊が間近に現れようものなら悲鳴を上げて一目散に逃げ出しかねない事態だ。ビクビクしながら首を巡らせ、公女は部屋を見回してうなり声の正体を探った。
 調度品の影が蝋燭の炎が揺れるたびに震える。それが亡霊の影に見えて恐ろしさをいや増しに増す。次に呻き声が聞こえたら公女は間違いなく逃げ出すだろう。それくらい薄暗い室内は彼女を怯えさせていた。
 最初にそれに気づいたのは、より深い闇があると思ったからだ。しかし、炎の揺れにも同調することなく黒々と固まるその存在が、実は先ほど入り口から見た奇妙な塊であることに彼女はようやく気づいた。
 ジッとその塊を睨んでいたフォレイアだったが、再びうなり声が聞こえ、それが塊がいる付近から聞こえたことで、その存在が人であることに思い至った。
「そこにおるのは誰じゃ? なぜこのような場所におる!」
 誰何の声に応えはない。もしや死にかけているのではないか。先ほどのうなり声は断末魔の叫びだったのか。貴族の中には海外から妙な薬を買い付け、それを吸引して引き出される快楽に溺れる者もいると聞いたことがある。この部屋に満ちる芳香は薬によるものだったのか?
 公女は部屋の片隅にうずくまる者の正体を確かめるべく、足を踏み出した。ところが、体重を支えようとした膝がヘナヘナと崩れ落ちる。
 寝椅子の背もたれに寄りかかり、フォレイアは唖然と己の足を見おろした。何が起こったのだろう。急に力が入らなくなるとは。
 よろける身体をなんとか立たせ、再び一歩を踏み出す。今度は慎重に、いきなり体重をかけない静かな一歩だった。大丈夫。身体は支えられた。だが、頭がふわふわする。眩暈に似ている気がするが、それとはまた別の揺れだ。こういう状態を「酩酊している」というのか。
 そう考え至ったとき、彼女は自分がこの匂いに酔っているのだと気づいた。
 うずくまる者たちの下へは向かわず、よたつく足を励まして大窓へと進む。この異様な甘ったるい匂いを薄めねば。窓という窓を開放すればマシになるはず。そう判断しての行動であった。
 がしかし、窓に辿り着いた公女は愕然とした。そこは錠がかけられ、鍵がないと開かない仕組みになっている。盗賊よけにしては異様な厳重さであった。
 このままでは倒れる。そう判断したフォレイアは壁で身体を支えながら、主室の扉まで戻り、そこから転がり出た。控え室にも匂いは充満していたが、少しは匂いの濃度が薄れているように感じられる。
 この部屋の窓も錠がかかり、開かないことを確認すると、公女は迷わず廊下まで進んで、ピッタリと閉ざされた鎧戸を壊さんばかりの勢いで押し開けた。
 廊下の窓は鍵もなく、ごく普通の窓である。なぜあの主人の私室ばかりが厳重に閉ざされているのか。判らないことばかりであった。
 とにかく誰か呼ばねば。自分一人では室内の者を運べない。早く救い出さねば死人が増える。次々に窓を押し開き、彼女は階下へと繋がる階段へ急いだ。
「誰か! 誰ぞおらぬのか! 人が倒れておる。手を貸してたもれ!」
 公女の叫びが聞こえたか、階段を駆け上がる足音が響いた。これでひとまずは大丈夫。安堵したフォレイアは手すりに掴まり、そのまま崩れ落ちた。床に座り込んでいるというのにふわふわする。身体を動かすのが億劫だった。
 足音の主が彼女を抱き起こし、何を思ったか口許を布で覆う。先ほどまで嗅いでいた甘ったるい匂いが口一杯に広がり、彼女は小さく藻掻いた。しかし意識が薄らいでいる今、手足はまともな抵抗をみせない。
「ばか者! フォレイアに何をする気だ!」
「あんたこそ何様のつもりだ。我が主への依頼がある以上は客分として扱ってやるが、そうでなければ部外者にすぎんのだぞ。それにな、あの部屋の中を見られた以上、大人しくしてもらうしかあるまい?」
 朦朧とする意識の底に引きずり込まれながら、彼女は従兄と誰かが言い争う声を聞いた。だがしかし、最初は苛立ちに激昂していたジノンの声が徐々に力を失っていく。対する相手の声は平坦なままで感情が見えてこなかった。
「薬を嗅がせ過ぎれば気が狂うぞ。そんなことになったら貴様らの主人に依頼した仕事は果たされん。契約不履行ではないか!」
「この程度で気が狂うものか。せいぜい体の自由が奪われる程度だ。それより、手が空いているならあの扉を閉めてこいよ。それくらい出来るだろう?」
「客分だとぬかしたその口でこき使う気か?」
「やらぬならそれまでよ。この階に上ってきた者全員が薬にやられるぞ。我らは解毒剤を飲んでいるが、あんたやこの女の分は今ここにないからな」
「なんだと!? 奥の部屋の女どもの分もないのか?」
「当たり前だ。薬をあちこちに移動して危険にさらすとでも? 解毒剤は我らの船にしか置いていない。判ったらサッサと扉を閉めてこい」
「だったら貴様が閉めてこい。フォレイアに気安く触るな」
「船で散々他の女を慰みにした輩でも、己の物にする予定の女は気になるか?」
 蛭のような湿り気が頬の上を這う感触がする。フォレイアは振り払おうとしたが、腕は思うように動かず小さく痙攣しただけだった。
「そうムキになるなよ。舐めたくらいで減るものか。扉を閉める気がないなら、下で手紙の続きを書けよ。この女の父親があんたを跡継ぎに指名したくなるようなご立派な内容の文章を直々に認めてもらわないと後の仕事が出来ないぞ」
「貴様に言われずとも書いている。第一、手紙を出すのはまだ先ではないか」
「手紙を大公に渡す機会は少ない。用意は早いに越したことはないだろうが」
 父に手紙を出すとはどういうことだ。ジノンは何をする気なのだろう。動かない身体がもどかしい。今すぐに従兄を問いつめたかった。
 再び階段を上がってくる足音が聞こえた。ぼんやりとした意識では、それが一人なのか複数なのかまでは判らない。ただ傍らにいる男たちが聞こえた足音に口をつぐみ、注意を階下へと向けたことだけは感じ取れた。
「何を揉めているの。キッショーボー殿が苛立っておいでよ。アヤノジョウ、あなたもほどほどにしなさい。公女さまを下の部屋に移してちょうだい。そろそろ乗船の準備が出来たと知らせが入るはずよ」
「儂に指図するな、ハナサギ。今の我らの盟主はジョーガだ。あんたは一族の長の代理権すら与えられていない。儂は小娘に顎で使われる気はないな」
「何度も言うけど、わたしは一族の長の娘で大婆さまの跡取りよ。その事実を否定するというのなら、あなたのほうこそ一族から出ていきなさい」
「何をたわけたことを。長の娘と言うが側女の子ではないか。正妻の子らすら今はバラバラだというのに、側女の子ごときがしゃしゃり出るな」
「アヤノジョウ! 言って良いことと悪いことがあるぞ。ハナサギさまは大婆さまの跡を取る大事なお方だ。それを忘れるな」
「おやおや、じゃじゃ馬の腰巾着が偉そうに。ヤタカよ、女の尻を追いかけて情けをかけてもらう気か? 仮長の妻女になった姉が石女うまずめだと弟も気苦労が耐えぬなぁ」
「やめなさい、アヤノジョウ。サラシナのことはヤタカと関係ないでしょう。あなたにはあなたの、ヤタカにはヤタカの仕事があるわ。分を超える発言が多いとなれば、キッショーボー殿にも思うところがあるでしょうね」
「口の減らない女だな。可愛げのない。その跳ねっ返りぶりでは、ジョーガの身内に女にされなければ、一生男に触れることもなか……ゥオッ!?」
 突然の衝撃に襲われ、身体を強かに床に叩きつけられた。フォレイアは痛みに呻き声を漏らしたが、それは囁き程度のもので誰にも気づかれなかった。
「おやめ、ヤタカ。あなたが怒り狂ってどうするの。それより早く公女さまをお移しして。こんな場所に置いておくわけにはいかないのよ」
 ヤタカと呼ばれた若者とアヤノジョウと呼ばれた男がそれぞれに不満を漏らしたようだったが、女はそれに取り合わず傍らで成り行きを見守っていたらしいジノンを促し、階下へと降りていく足音が響いた。
 身体が宙に浮き、ゆらゆらと揺れる。階下へと移動しているのだ。茫洋として定まらない意識が遠のくのを感じながら、フォレイアは聞き取った会話の内容を記憶の片隅に刻みつけた。