混沌と黎明の横顔

第14章:止戈《しか》の楯 3

 一般的な貴族屋敷では朝食には早い。が、黒耀樹家の、ある食卓は違った。
 賑やかな会話が交わされ、笑い声が響き、世間が囁くこの大公家のギスギスした雰囲気とはかけ離れた和やかさの中、貴族の食事にしては質素だが、庶民のものと比べると遙かに豪勢な料理が卓を囲む者たちによって消費されていた。
「叔父さま、このパンも食べてみて。とっても美味しいのよ!」
 姪が差し出すパンを食卓越しに受け取り、ウラッツェは華やかな笑みを返す。
「ここで出されるパンでハズレがあったためしはないがなぁ。だが、リディアルナが勧めてくれるものなら絶品なんだろうな」
「もちろん! 叔父さまも絶対に気に入るわ。お皿に残ったソースを拭って食べると、ものすごくいい味になるんだから」
 まだ十歳にも満たない子どもがメインの料理のソースまでパンで拭って食べるとは恐れ入る。贅を尽くした大公屋敷の中で、これほど庶民的な感覚で食事をしている者はあまり……いや、ほとんどいないはずだ。
 傍らでは少女の母エフルシュネが複雑な表情で二人のやり取りを見守る。
「ナスラ・ギュワメ様、子どもの言うことをすべて実行していたのでは身が保ちませんわ。あまり真に受けないでくださいませ」
「いや。少なくともリディアルナは嘘は言ってない。ここのパンは絶品だ。パン職人に褒美を出しても惜しいとは思わないがな」
 パッと大輪が花が咲いたように少女の顔に満面の笑みが浮かんだ。椅子から飛び上がらんばかりで、母親が止める間もなく叫ぶ。
「お母さまが焼いたの! ねぇ、すごいでしょ? とっても美味しいの。それにね、このパン。わたしも生地作りをお手伝いしたのよ!」
 面食らったウラッツェが少女とその母親を交互に見比べ、恥じ入ったように俯いたエフルシュネの様子からリディアルナの言葉が真実であることを悟った。
「そりゃ、すごい。これほどの腕前のパン職人はそういないぞ。リディアルナもすぐに一人前のパン職人になりそうだな」
「本当にそう思う? お母さまくらい上手に焼けるようになるかしら?」
「なれるだろ。リディアルナのパン造りのお師匠はこんなにいい腕をしてるんだ。きっと舌の肥えた王太子殿下だって唸るくらい絶品のパンが焼けるさ」
 今度こそ椅子の上で小躍りし、少女は興奮でキラキラと輝く瞳を母親に向けた。己の技量を好意的に評価されれば嬉しいのは、大人も子どもも同じだ。
 弱り切った様子で眉尻を下げるエフルシュネが娘の晴れやかな表情に微笑み返す。その微苦笑には彼女の内心の困惑がありありと見え、ウラッツェは己の軽率さに口内で呪詛を吐き出した。
 大貴族の女主人が自らパンを焼くなど、庶民の奥方連中はともかく上流階級者なら眉をひそめよう。屋敷を切り盛りする女主人は使用人を統括する能力が問われるのであって、料理の才能の有無など意味がなかった。
 夜明け頃に遊民の隠れ家から戻り、自室で休む気になれずに大公屋敷の奥庭を散策していたのが間違いだった。そこで亡き異母兄の妻と娘に鉢合わせることが判っていたら、決して庭に足を踏み入れたりはしなかったのに。
 だが、この大きすぎる屋敷で、食事中だけでもつかの間の安楽を得る機会に恵まれた今この瞬間を否定するのもどうだろうか。
 エフルシュネの趣味をウラッツェがとやかく言う気がない以上、少女の嬉しげな表情を曇らせる言動は慎むべきだろう。
 このまま何事もなかったような顔でやり過ごし、この母娘との食事が終わった後はここでの会話を忘れてしまえばいいのだ。前黒耀樹妃が自らパンを焼き、それを食卓に出しているなどと吹聴する気はない。
「クラウダ・ソロスもパンを食べられたらいいのに。こんなに美味しいのに、まだ赤ちゃんで食べられないなんて残念だわ」
「そうだな。でも、もう少し大きくなったらリディアルナと一緒にパンを食べられるようになるさ。そしたら、パンを取り合うことになるぞ。食べる量が減るだろうけど、リディアルナはそうなったらどうする?」
「あら、決まってるわ。そしたらまた焼くの。お父さまが作った石釜ならすぐにパンが焼き上がるもの。アッという間に焼き上がってよ、叔父さま」
「そりゃいい。そんな便利な釜があるならパン作りの腕も上がるはずだ」
 貴族階級にある叔父と姪の会話としてはどうかと思うが、食事中の給仕もおかずに朝食の卓を囲んでいる今なら許されるだろう。
 むしろ、ウラッツェにしてみれば、この食卓だけが大公家の中で正常さを保っているように思えた。ここを一歩出れば、澱んだ空気に身を包まれ、肺腑の奥まで腐ってしまう。そういう歪みが当たり前にのさばっているのだ。
 兄の婚姻は政略ではあったが、築かれた家庭は温かく穏やかだったのだろう。このリディアルナという娘とエフルシュネの様子を見れば一目瞭然だった。
 父親の死を理解し、一時は深い嘆きの底に沈んでいた少女が今は笑っている。周囲の眼がある手前、無理はしているかもしれないが、決して後ろ向きではなく、父親がいた頃と変わりない様子で暮らしているようだった。
 食後の香茶を飲むのも苦しくなるほどパンを勧められ、ウラッツェは困り果てたが、兄亡き後のその家族が平穏に暮らしていることを知って安堵した。
 甥のクラウダ・ソロスが長じて大公位に就けば、母娘の地位もより確かなものになるだろう。いや、その前に少しでも足場を固めてやらねばなるまい。
 ワイト・ダイス亡き後の義母の専横ぶりは目に余る。王太子に嫌味を言われたからではなく、本気で対峙する時期がきているのだ。
「さて、それじゃあそろそろ仕事に戻るとするかな」
「えぇ!? 叔父さま、もう行っちゃうの?」
「そうだなぁ。オレはお前さんの父親より出来が悪くってな、余分に仕事の時間を割かないと一日の仕事が終わらないんだよ、リディアルナ。だから今のところはこれでさよならだ。また時間を作って遊びにくるから、それまでクラウダ・ソロスと仲良くしてるんだぞ。お前さんなら出来るよな?」
 屈み込んで頬を膨らませる少女の顔を覗き込んだウラッツェが、悪戯を思いついた子どものように笑みを浮かべ、リディアルナの目の前で指を鳴らす。
 その一瞬までは何もなかった指先に、瑞々しい真っ白な花弁を揺らす一輪の花が出現した。先ほど奥庭で少女の目を盗んで摘み取ったものである。
 食事中に萎れてしまわないかと心配したが、食卓脇に添えられていた指洗鉢の水を使い続けた甲斐はあったようだ。仄かな芳香と弾力のある花弁は、まだ充分にこの花が鑑賞に耐えられることを見る者に伝えていた。
「わぁ! ケジャーだわ。ねぇ、お母さま、見て。たった今、摘み取ったみたいにきれいに咲いてるわ! これ、ソロスにも見せてあげていい?」
 遊民の芸としては簡単な手品であったが、少女に対する効果は絶大だった。
 生後数ヶ月の赤子にケジャーなる花の識別が出来るとは思えないが、嬉しげに飛び跳ねる少女にそれを指摘することなく、母親のエフルシュネは肯首した。
「クラウダ・ソロスはまだ眠っていると思うけど、そのお花を一輪挿しに活けて、あの子の部屋に飾ってあげましょう。リディアに出来るかしら?」
「任せて! おじいさまの収集品の中に東方の細口壺があったでしょ? あれに水を入れて花を活ければ完璧よ! 早速、収集庫から出してくるわ」
 嬉しそうに駆けていくリディアルナの背を見送り、ウラッツェは胸を撫で下ろした。とにもかくにも、小手先の芸ではあったが手品が成功して良かった。
「食事中に手許を気にしていると思ったら、あんなものを隠していらしたのね。あなたの多芸さ加減には驚かされっぱなしですわ」
「いやぁ、成功して良かったぜ。久しぶりだから勘が鈍ってないかと心配したんだけどな。それより、大公妃がパン職人も逃げ出すほどの腕前をお持ちとは想像だにしなかったぜ。……もしかして太公母には内密ってやつか?」
 エフルシュネが鈴を転がすように華やかに笑った。
「それがお義母さまもご存じですの。毎朝しかめっ面でパンを召し上がっているはずよ。嫁の手癖の悪さを諫めるか、美食のために奨励するか、とね」
「人が悪いなぁ。そんな真似しちゃ黙ってないと思うんだが」
 肩をすくめるウラッツェの姿にエフルシュネがさらに笑い声を高くする。母親としての顔ではなく、そこには仲間に悪戯の打ち明け話をするお転婆な娘の顔が覗いていた。リディアルナの活発さは明らかに母親譲りであろう。
「口出しできないのですわ。お義母さまの茶飲み仲間が集まっている茶会を狙って“わざと”焼きたてパンや菓子を差し入れているのですもの。知り合いに絶賛されてしまっては、さしもの女傑も真実を飲み込まざるを得ません」
「なるほど。あのおばさんの性格からして、よもや周囲のお喋り雀どもに向かって大公妃が自ら焼いたパンだとは言えんだろうなぁ」
 父クラウダ・ヌーンが生きていた頃、大公専用の談話室でよく顔を合わせる機会があったが、あの当時のエフルシュネからこれほどの悪戯を義母に仕掛けるとは想像すらできなかった。猫を被るのが上手いのは女の習性であろうか。
「リディアルナがパン作りだけじゃなくて菓子や料理にまで手を出すのは時間の問題みたいだな。早々に厨房を改造しておいたほうがいいか」
「それには及びませんわ。もうすでにお義父さまが改造させた後ですもの」
 誰のために、とは訊くまでもあるまい。嫁いできたエフルシュネのために決まっている。嫁の意外な才能に父が目をつけないはずがなかった。
「そういうことなら安心か。リディアルナも落ち着いているようだし、オレがあれこれ口出ししなくてもやっていけそうだな」
 朝食の誘いを受けたのは父親を亡くした少女の様子を見るためでもある。内面の傷までは読み切れなかったが、表面的には大丈夫そうだった。
「そうですわね。本当はもっと悲しんだり、落ち込んだりしてもいいと思いますの。でも、あの子なりに気を使っているのですわ。大公家の娘としてどうあるべきか、直感的に肌で感じ取っているのでしょう」
 どことなく沈んだ声でエフルシュネが呟く。それに賛同の言葉を返すことは容易い。が、なぜか同調することは躊躇われた。
 お互いに、兄を、夫を、戦によって亡くしているのだから悲しんでもいいはずだ。それなのにお互いに慰め合うようなことはしない。親しく会話を交わしながらも、どこかでお互いに距離を置いている関係が続いていた。
 もしワイト・ダイスが生きていたら、また違った関係が築けたかもしれない。しかし彼は亡くなり、彼の母親が冷たい監視の眼を嫁と継子に向けていた。お互いに関係を邪推されるわけにはいかないのである。
「ナスラ・ギュワメ様、せっかくの機会ですからお礼を申し上げますわ」
 エフルシュネに礼を言われるようなことをしただろうか。ウラッツェは首を捻り、ここ最近の自分の行ないを振り返った。が、何も思い浮かばない。
 怪訝そうに眉を寄せる彼の表情から察したのだろう。前大公妃は少し呆れた様子で眼を見開き、すぐにクスクスと笑い始めた。
「あなたらしいですわね。……夫の習慣を守ってくださっているでしょう?」
 そう告げられ、はたと思い出したウラッツェは狼狽えた。まさかエフルシュネが知っているとは思わなかったのである。
「いや、あれはだな。鳥にとって大事な餌場になっているだろうと思って……」
「早朝の剣の稽古後、水飲み場近くに雑穀を撒いておく。その習慣は黒耀樹家に代々続いている風習だと聞かされています。あなたにも教えようかどうしようか迷っておりましたの。伝えれば強制することになりそうで」
 パン作りがばれたときと同じように、眉尻を下げたエフルシュネが苦笑を漏らした。気を揉んでいた自分がバカらしくなったのだろう。
「なのに、あなたときたら当たり前のように続けているのですもの。驚きましたわ。お義父さまや夫の習慣など知らないだろうと思っていたのに」
「悪かった。大公家の男しか知らない風習だろうと思ってな。女たちに伝えられているとは思ってもみなかった。ケル・エルスが代わりに行なってもいいだろうとは思ったんだが、あいつは自分の屋敷に籠もりがちで、朝っぱらから大公屋敷にまで出向いてきそうもなかったんでな」
「大公家の男たちのひねくれぶりには慣れました。あなたも夫も、それにケル・エルス様も本当に素直じゃなくって困ったものですわ」
「オレがひねくれてるのは判るが、ダイスやエルスは素直なほうだろ?」
「まぁ! 自分のことはよく判っていらっしゃるようですけど、他人のことになると疎いところまでそっくり。本当に困った人たち! でも肝心の根っこの部分では通じ合うところがあるようですわね」
 心配して損しましたわ。そう言って肩をすくめるエフルシュネの言葉を遮るように、部屋の扉が甲高い叫び声を上げた。
 給仕ではあるまい。彼らが扉を叩くときはもっと丁寧である。とはいえ、扉を乱暴に叩くほど急ぎの用事があったとも考えられた。
 首を傾げたエフルシュネが落ち着いた声で入室を許可すると、転がるように部屋に飛び込んできた家令パレが背後を指さし、叫んだ。
「ケ、ケル・エルス様が……! 大公閣下、弟君が騎士を連れて……」
 異母弟が部下の騎士を連れて訪ねてきたくらいで驚く男ではない。大公屋敷に長年仕える家令が動転するほどのことが起こったのだ。
 ウラッツェは泡を食う家令を制し、耳を澄ます。すると、甲高い軍靴の足音と剣が剣帯と擦れる音が廊下に響くのが聞こえてきた。大公屋敷の奥向きに武器を携帯して入り込んだ者がいる。しかも一人ではなかった。
「ケル・エルスは何人の騎士を連れてきた?」
「五名です。いずれも略式の武官服を着て、腰には剣を下げておりまし……」
 家令が報告し終えるより先に扉の向こうに男たちの姿が見えた。早朝から黒耀樹公子に呼び出されたろうに、騎士たちの衣装に乱れはない。羽織った上着に黒い縫い取りを認め、ウラッツェは内心で毒づいた。
「あれは大公直属の親衛隊でしょう? 夫の親衛隊は解散したはずでは?」
 ウラッツェと同じく縫い取りの色に気づいたエフルシュネが不安げな声を漏らす。物々しい気配に怯えているらしく声が上擦っていた。が、動揺を知られまいと表情を押し殺している横顔は、さすが大公妃の貫禄である。
「忙しそうだな、ケル・エルス。朝の爽やかな時間くらい穏やかに過ごしたいものだが。ところで、その物騒な連中もお前も、ここの朝食にありつくには少々遅刻してきたようだが、そんなに腹が減っていたのか?」
 直立不動で佇む騎士の間から抜け出し、異母弟はひとり優雅に腰を折った。
「家族団らんの時間を無粋にも邪魔したようで申し訳ありません、義姉上」
 腰を折ったまま頭を上げないエルスに戸惑い、エフルシュネはウラッツェに助けを求める視線を送る。しかし肝心の大公は異母弟を見つめたまま動かない。
 部屋の主が対応すべき返事にウラッツェが口出しする危険性を察したのか、彼女は居住まいを正して訪問者に向き直った。
「いったい何事でしょう、エルス卿。朝早くからお仕事とは感心なことですが、先触れもせずにおいでになっては驚いてしまいますわ」
 彼女からの言葉を受けたエルスがようやく顔を上げる。ところが彼が見ているのは部屋の主ではなく異母兄その人であった。
「こちらに黒耀樹公がおいでだと聞きつけて無礼を承知で訪ねてきました。大公閣下とお話させていただきたいのですが、よろしいでしょうか、義姉上」
 駄目だと言える状況ではない。むしろ言わせないために騎士を引き連れてきたのではないかと勘ぐれる現状だった。
 それでも、このような暴挙を許すのはどうかと迷うエフルシュネが返答を渋っている脇で、ようやくウラッツェが一歩を踏み出した。
「よほど急ぎの用事のようだな。いったい何を慌てている、ケル・エルス?」
 異母弟へと言葉を発しながら、ウラッツェは傍らの義姉に小さく頷く。心配するなという意味と、奥の子ども部屋にいるリディアルナとクラウダ・ソロスのところに行くよう指示したのだ。
 察しよく食堂を後にするエフルシュネの足音が聞こえなくなるまで、ケル・エルスは口を開こうとはしない。訪問は強引であったが、義姉への配慮を忘れるほど無礼な輩になり果てたわけではなさそうだった。
「お願いがあって参上しました。ここからご一緒していただけますか?」
 厭だという返事を拒絶する固い声で、射抜くような視線を容赦なく浴びせてくる。背後に立つ騎士たちは大公と視線も合わせようとしないが、エルスの命令次第では剣を抜く覚悟をしているらしく、降ろした腕の先で指が小刻みに震えているのが確認できた。前大公の親衛隊は現大公の味方はしないらしい。
「どんな用件があって同行を望む? 言えないような用件なら同行は断るぞ」
「容易きことで。我が母がお話ししたきことがあると申しております。是非とも大公閣下のお時間を割いていただきたく、お迎えに上がりました」
 これは迎えとは言わず連行と言うのでは? 呆れたが口にはしなかった。
「ほぉぅ? オハハウエが私生児ごときに何用であろう? 姿を見れば眼が穢れ、声を聞けば耳が穢れ、触れれば肌が穢れると仰っていたはずだが?」
 こんな程度で怯む相手ではないことは判っていたが、平穏な朝の雰囲気をぶち壊されたのである。多少の嫌味は許されてもよかろう。
 案の定、完璧な微笑みの仮面を貼りつけたまま、ケル・エルスが口を開いた。
「繊弱な息子に母の心が判ろうはずがありません。兄上自らお確かめください」
「出来れば懺悔の言葉を聞きたいものだな」
 殊更にゆったりとした歩調で異母弟に近づき、ウラッツェは腰を屈めて相手の表情を覗き込んだ。しかし、相手の仮面は容易く外れそうもない。
「あなたへの懺悔があるかどうかなど……」
「オレへの懺悔なぞどうでもいい。あの女が詫びるのは親父と兄貴に対してだ」
 太公母をあの女呼ばわりされ、背後の騎士たちの間にざわめきが走った。色めき立ち剣を抜こうとする者、動揺して硬直する者、呆気に取られて異母兄弟のやり取りに聞き入る者、さまざまである。
「母が父や兄上に何を詫びる必要があると? もしや僧院に入らぬからと責めておいでなのですか? それなら息子を案じての結果であると……」
「くだらん。そんな陳腐な言い訳はよそでやれ。解散した親衛隊まで引っぱり出してコソコソと何をやっているか知らないが、どうして親衛隊が解散したか、あの女は己の胸に手を当ててよくよく考えてみるべきだな」
 再び騎士の間にざわめきが走った。今度は自分たちのことに関わりがあるだけに、固唾を飲んで会話の行く末に聞き耳を立てている者ばかりである。
「大公を守れない親衛隊は用無し、との通達でしたね。ですがダイス兄上にもっとも近い場所においでだったギュワメ兄上にも同じことが言えましょう。それに親衛隊は援軍に組み込まれ、大公とは距離が開きすぎていました」
 ウラッツェがあからさまな仕草で鼻を鳴らした。不満を表したというよりも軽蔑を多分に含んだその仕草にも、エルスは顔色ひとつ変えない。
「オレの力及ばずに兄貴を救えなかった不首尾は近いうちに王家から処分が下される。だが、オレが親衛隊を解散したのはダイスを助けられなかったからじゃない。その前だ。親父が戦死した原因、お前だって判っているはずだ」
「はて? 敵軍の追撃を受けた王太子と炎姫公女の軍を助けるための防波堤となり、名誉の負傷の末の死であったと聞いておりますが?」
 ウラッツェは口の端を歪めた。表立って伝わっていることに意味などない。真実はいつだってその裏側で息を潜めているのだ。
「親父の乗った軍馬が急に制御できなくなったとか、楯となるはずの親衛隊がなぜか大公から離れていたとか、傷の手当に衛生兵すら呼ばずに粗雑な手当で済ませただとか、ろくでもない話ばかりがオレの耳には届いているがなぁ」
「……滅多なことを口になさらないほうがいい。それは噂にすぎませんよ」
 ようやくケル・エルスの声に苛立ちが混じる。それを見越していていたウラッツェはいっそう皮肉を湛えた口許を歪め、異母弟を挑発した。
「噂、ね。そう、噂にすぎないのかもしれん。だが、あの女の言葉を借りれば、火のないところに煙は立たないと言うぞ。クラウダ・ヌーン亡き後にもっとも得をしたのは誰か、世間で知らぬ者はいまいよ。そこのところをオレとしてはじっくりとお訊きしたいね、オハハウエに」
 異母兄の顔にじっと視線を注いでいたケル・エルスがホッと静かにため息をつく。それは兄の言動に呆れたために出たものか、それとも逆に身の内側に抱える何かを諦めたために出たものか、他人が見ても判らないため息であった。
「それでは、なおさら閣下は太公母の御許へ起こしいただかなければなりませんね。お互いに納得がいくまでお話しください」
 公子は片腕を軽く持ち上げ、背後の騎士たちに退室するよう合図する。その姿勢のまま異母兄を注視し、相手の視線を引きつけるように持ち上げていた腕をゆっくりと振ってウラッツェを室外へといざなった。
「参りましょうか、ギュワメ兄上。母をあまり待たせたくはありませんので」
 硝子製の人形を思わせる固い表情の異母弟を睨みつけ、ウラッツェは重い一歩を踏み出す。元より逃げ隠れする気はないが強制されるのは好まなかった。それでも今ここで退けば、奥の子ども部屋にいる親子に何らかの危害が加えられる危険性がある以上、異母弟についていかないわけにはいないだろう。
 略式とはいえ正式な武官服に身を包む騎士と貴族のお仕着せを着込んだ異母弟に取り囲まれると、軽装のウラッツェの姿はどうにもみすぼらしかった。
 途中、騎士と公子の登場で逃げ出していた家令が廊下の隅から顔を覗かせ、神に祈る仕草をしているのが目に入る。どうやら自分の姿は罪人に見えるらしかった。それもまた異母弟が狙った効果かもしれない。
 ウラッツェは皮肉げな薄笑いを浮かべ、父譲りの長身で周囲を睥睨しながら歩き続けた。