背中に当たる木肌の滑らかさと冷たさを感じながら、彼女は扉の向こう側から僅かに聞こえてくる話し声に耳を澄ませた。
「身体を治すことを考えろや。そうしたら好きなところに連れてってやるよ」
軽薄さを装った口調に労りが混じり、常よりも小声のせいか、信じられぬほど優しげに聞こえる。語りかけられた相手はどう思うだろうか。罪悪感に苦しんでいるのか。それとも注がれた慈愛に陶然となっているのか。
答える声は小さすぎて聞こえないが、彼女は背中の扉から伝わる感覚で、室内がひどく湿った雰囲気になっていることを察した。
「そんな心配はしなくていいっていってンだろ。いつもの跳ねっ返りぶりはどうしたぃ。それじゃ萎れた菜っぱみてぇじゃねぇかよ。早く元気になれや」
押し殺した嗚咽が漏れ聞こえ、彼女の予想通りに場の様子は決して明るいものではないことを示していた。暗くなりがちな雰囲気を盛り立てようとする声の主の奮闘も虚しい。それを冷静に聞き取りながら彼女は口角を歪めた。
「さぁ、夜が明けてきやがった。オレはそろそろ行くぜ。ここに忍び込んだのがバレたら後々が厄介だ。近いうちにまた顔を出すから、それまでに少しは回復させとけよな。……いいか、ちゃんと身体を治せよ、な?」
カタカタと物音が響いてくる。窓枠から抜け出しでもしたのだろう。こちらが盗み聞きしていることにも気づいていたかもしれないが、会話の邪魔をされないのなら追い払う必要はないと判断したに違いない。
なにせ今の彼には時間も気持ちの余裕もないはずだ。こうやって極秘裏に忍び込んでくるような危険を犯す程度には。
もたれかかっていた扉から身を起こし、彼女はその扉を開けて侵入者が出ていった室内へと滑り込んだ。物音を立てない動きはお手の物である。
「あいつは素直に帰ったようだね。具合はどうだい、ヨルッカ?」
「キハルダ姐さん、いつからそこに……?」
「さぁ? いつからかねぇ。聞かれてまずいようなことでも話したのかい?」
ベッドに横たわったままヨルッカが振り向いた。身体を起こす気力すらないのだろう。首を少し動かす程度のことでも億劫そうである。
「あたいは、何もしゃべってないよ。ウラッツェは見舞いに来ただけで……」
「どうでもいいよ、そんなこと。わたしが何をしに来たか、判ってるかい?」
ヨルッカの乱れた赤毛が大きく震えた。強張った口許から荒い吐息が漏れる。
「どうやら判ってはいるようだね。本当にあんたにはがっかりしたよ。わたしの団に入ってからずっと目をかけてやっていたのに、とんだ裏切りだ」
「ごめん、なさい。こんなことに……」
「謝って済む問題じゃないよね? それくらい判ってるだろう。わたしたち遊民は自由であるために一族の厳しい戒律の中で生きてる。それを破る者がどういう末路を辿るのか、あんただって忘れたわけじゃないだろうに」
何度も「ごめんなさい」と謝り続けるヨルッカに冷えた視線を据え、キハルダは懐から一振りのナイフと二本の小瓶を取り出した。
「オルトワ姐さんは大層な怒りようさ。それも仕方がないだろうね。あんたのせいでわたしたちは砂漠への出入りが厳しくなったし、場合によっては他の地藩都への出入りも難しくなるかもしれないんだから」
ベッドの端に腰掛け、瓶の一つを掴んだまま、キハルダは冷たい笑みを浮かべる。鎧戸の隙間から漏れる暁光の薄い光が床に反射し、彼女の顔に鈍い色の陰を浮き上がらせていた。それは作り物の仮面めいた表情である。
「せめて苦しまないようにしてやれ、とオルトワ姐さんが言ったからね。わたしも無慈悲じゃない。元締めの言葉には従うことにしたよ」
弱々しく首を振るヨルッカに覆い被さると、キハルダは栓を開けた瓶口をその唇に押し込んだ。吐き出そうと藻掻くヨルッカの鼻をつまみ、息苦しさにのたうつ彼女が瓶内の液体を飲み干す様子をつぶさに観察する。
「さぁ、話してもらおうかね。あんたが砂漠でイコン族の若長に何を喋ったのかを。わたしがあんたの言葉を保証してやったのに、あんたはわたしを利用して一族を裏切った。その代償を払ってもらうときがきたんだよ」
どうせ捕まった先でも話ちまったんだろう、と囁きかけると、ヨルッカの顔が目に見えて怯えたものへと変わった。身体が衰弱するほどの拷問を受けたのだろうから、心が壊れてしまっていてもおかしくはない。
だが彼女は正気を失うことなく助け出されてキハルダの目の前にいた。それは幸運なのだろうか。もしかしたら救出されないほうが良かったのでは?
「あ、たいは……ただ、淋しくて。だから、ウラッツェに帰ってきて欲くて」
焦点がずれだした眼に涙を溜め、上擦った声で喋りだした女の顔を、キハルダは間近からじっと凝視し、相手の言葉を聞き漏らすまいと息を詰めた。
「巡検使じゃ、なくなったら……遊民に戻れるんだから、だから……」
内蔵を痛めつけられているらしいヨルッカの声にはまったく張りがない。苦痛を抑え込むために息を吐き出そうと唇を開くたびに陽炎の如く揺れる呼吸が今にも途絶えてしまいそうだった。
「巡検使だと知られたら、お役ご免だ。馬鹿げた、大公家に縛られている必要も、なくなるし。昔みたいに……あたいたちのところに……」
「戻れるって? そんなことできないってことが判らなかったのかい」
口をつぐんだヨルッカの喉が小さく鳴る。呻き声を漏らしたかのような苦しげな呼吸が浅く、忙しく繰り返された。
「あいつが遊民に戻る機会はこれまでに二度あったんだ。あいつの親父と対面した直後とその親父が死んで兄貴が大公位に就いたときの二回さ。それを自分でふいにしちまったんだ。こちら側には戻ってこれない人間だよ」
ヨルッカが歯を食いしばって首を振る。頑是ない子どもが駄々をこねるときのように無心に首を振る様子は世の何もかもを否定しているように見えた。
「あいつは決してここには戻ってこない。そんなことはあんたが一番よく判ってるだろうに。どうして夢を見たんだい。いや、夢見るだけならいいさ。その夢を掴もうなんてしなけりゃ、こんなこと……」
ヨルッカの頬をキハルダの手が挟み込むと、翠眼の縁に盛り上がっていた涙が限界を超えてボロボロとこぼれ落ちていく。両掌を濡らす熱い雫を感じ取りながら、なおもキハルダは冷えた声で、怒りの熱を含んだ断罪を続けた。
「こんな、こんなバカな終わり方、誰も望んじゃいなかった。オルトワ姐さんやわたしがどれだけ惨めか判るかい? あんたを切り捨てると決めた、わたしたちの気持ちが、あんたに判るかい、ヨルッカ! 判りゃしないだろうね」
キハルダはヨルッカの頬から手を離し、ゆっくりと身を起こす。凍てつき温もりを忘れた瞳が涙に崩れた青白い顔を睨み降ろした。
「さぁ、選びな。自分を最期を。あんた自身が選ぶんだ。心臓を一突きされて一瞬の痛みだけで終わるか、この薬を飲んでゆっくりと確実に消えていくかを」
慈悲深いだろう、と唇を歪めて囁く。猫が嗤うようにキハルダの瞳が細められた。右手にナイフを、左手に小瓶を掲げる彼女は裁きの女神を彷彿とさせる。
「キハルダ姐さん、あたいは……ただ……。あたいは、独りでいたくなかっただけなんだ。これから先、誰もあたいの心に棲まないのなら、だったら偽りでも、たった一度だけでも、夢を手に入れたかっただけなんだ」
「いいえ。あんたの意地が通る時期は終わってるんだよ。子どもの我が侭は子どもだから赦されることさ。あんたが見た夢は一人前の遊民の女が抱いていい夢じゃなかった。それは、わたしたちの力を根底から覆す」
ヨルッカの顔をひたと睨み据えたままキハルダは話し続けた。
「あんたはあいつが巡検使だと明かしただけではなく、そこに集うていた王国民の正体も教えてしまった。誰が誰の意向で動き、その行動がどういう結果をもたらすか。契約者を裏切った代償は支払わなければならないんだよ」
ナイフを胸元に挟み、キハルダは小瓶の栓を捻る。手の中にすっぽりと収まってしまうほどのその瓶から甘ったるい匂いが立ち上った。
「動くんじゃないよ。暴れたら痛みが増すばかりさ」
ヨルッカが顔を背け、ベッドから逃げだそうと藻掻く。だが再び右手にナイフを握りしめたキハルダが鋭い切っ先を首筋に当て、短く制止した。肌に押し当てられている刃の冷たさにヨルッカが身震いする。
「キハルダ姐さん、どちらを選ぶかはあたいの権利じゃ……」
「あんたに任せておいたら一日経っても決まらないじゃないか。あんたは子どもの頃から痛いのが嫌いだったよね。それに拷問で厭というほど痛い目に遭っただろう? だったら最期くらい静かに終わらせてあげるよ」
室内に入ってから初めてキハルダの唇が柔らかく微笑んだ。だが細められたままの瞳に温みが戻ることはなく、口許の柔らかさと眼許の冷たさの不安定な具合が彼女を人形めいた存在に見せる。
「さ、終わりにしようね。あんたは遊民の間から姿を消し、わたしたちはあんたを忘れる。もちろん、あいつもいつかはあんたを忘れるよ」
それで総て終わりさ、と囁き、キハルダは小瓶の口を傾けて中身をゆっくりと垂らした。ヨルッカの青ざめた頬に褐色の液体がこぼれ落ち、筋を作って彼女の唇を濡らしていく。カタカタと小刻みに震えるヨルッカの目尻から熱い雫が幾筋もこぼれ落ちた。朝日の中で、その雫が一瞬鋭く光る。
「我らは“契約の民”。遠きを知る“記録者”が率いる、漂白の道化師たることを一瞬も忘れてはならぬ。忘れた者は一族から消えるのみ」
瓶の中身を総てこぼしてしまうと、キハルダは億劫そうに身を起こして背筋を伸ばした。女神の彫像の如く立ち上がった姿は、だが神のように凛としてはおらず、むしろ罪状を告げられる罪人に似ている。
ベッドに縫いつけられたように動かないヨルッカが小さく呻き声を漏らした。彼女の首筋にはナイフを押し当てられた赤い筋がうっすらと浮かび、頬には褐色の液体が流れた跡が残る。身体は未だに震えが止まっていない。
「これ以降、遊民の中にヨルッカの名は存在しない。オルトワ姐さんが先日決めたように、ウラッツェの名も。あんたたちは緩慢な死を迎え、もう二度とわたしたち遊民と交わりを持つことはない」
静かにキハルダが後ずさった。背を丸め、足音を忍ばせる様は、神々の怒りを恐れて逃げ惑う堕落した聖職者の身のこなしである。
「人は、自分に向けられる純粋な好意を裏切ることを良しとしない。あんたは一族の者が向けてくる好意に何を感じたんだい? 少しは罪悪感を感じていたのかい。わたしたちはあんたのことが好きだったよ。だけど……いや、だからこそ……。あんたの裏切りをなかったことに出来ないんだよ」
扉を開けて廊下に滑り出す一瞬、キハルダは室内を振り返って残る者を見つめた。しかし、そこにいる者が彼女を見つめ返すことはなく、重苦しい沈黙に固まった空気が彼女の呼吸を苦しくするばかり。
キハルダは素早く扉を閉め、もう二度と振り返ることはなかった。追われる罪人の如く忙しなく、おぼつかない足取りが彼女の内心の混乱を表している。
唇を噛み、俯きがちに歩いたが、ふと彼女は前方に気配を感じて顔を上げた。にゃぉん、と甘い猫の鳴き声とくねる尾の軌跡。その小動物をあやす優しげな指の動きとは対照的な冷徹な厳しい眼差し。思わず足が止まった。
「オルトワ姐さん、いつからそこに……」
女元締めは問いには答えず、立ちすくむ相手の許へ歩み寄る。強張った顔を覗き、握られたナイフに手を添えると、固まる指先から凶器をもぎ取った。
「団に戻りな。お前さんのここでの仕事は終わったんだよ」
息を呑んだキハルダが、崩れるように壁に寄りかかる。項垂れる彼女を見つめたオルトワだったが、労りの言葉ひとつかけずにきびすを返した。
「恨むなら、このオルトワを恨みな。だけど怒りを感じるのは幸いだ。憎悪を向ける相手は自分の醜さを教えてくれる。そして、その向ける感情は、相手ではなく、自分に向けているのだということを忘れぬことだよ」
ノロノロと顔を上げたキハルダが見た者は飼い主の肩で楽しげに尾を振る猫の後ろ姿と、優雅な足取りで廊下の角を曲がろうとしている女元締め……いや、漂泊の民を操り動かす、異能者の横顔だった。
代々の大公と配偶者が眠る霊廟が半地下の建物内に並ぶその場所は、壮麗ではあるが、やはり重苦しい雰囲気に包まれていた。死者の永眠を妨げる訪問者を歓迎しているようには感じられない。
などと想像してしまうのは、やはり堂々と訪問したわけではないからか。
「伯父上の墓所はここにはないはずじゃ。堂を通り抜けた先に霊場があって、特別に許された大公直属の寵臣の廟や愛妾、庶子の廟が建てられておる。その外れに傍流として大公家に関わっていた者がまとめて葬られた廟がある」
先ほど大霊廟堂の扉前まで付き従っていた娘はフォレイアたちが廟内に入るのを見届け、外へと戻った。堂の敷地内に入れる者は限られる。大公家の許しなしには足を踏み入れられぬ場所に、正式な侍女でもない者は伴えなかった。
「謀反を企てた者の扱いにしては厚遇だな。やはり大公家の者だからか?」
大公廟の脇をすり抜けて裏側に回ると大霊廟堂の奥に抜ける廊下が現れる。歴代の大公廟の裏側を通る格好になり、居心地が悪い気分になるが、そこを通らねば奥へと行くことはできない造りになっているのでやむを得ない。
「本来なら謀反人として罰せられた者に廟は与えられぬ。が、伯父上が謀反人として裁かれた経緯は配下の者が先走った結果の引責らしい。その後にも問題はあったが、父上が跡継ぎとなる前は次の大公とみなされておった方であるし、特例として廟が与えられたのであろう」
「自分の妻と娘の命を狙った男を許したってのか? アジル・ハイラー伯父は随分と寛大な男だな。……その事件でお前も怪我を負ったのだろう?」
ジノンに問われて炎姫公女は仄かな苦笑を漏らした。今さらといった感がある。そう問うくらいなら同行など求めねば良かったのだ。とはいえ、同行せねばジノンがここに入ることは不可能だったろうが。
「妾の怪我は命に関わるものではなかったからのぅ。それに、三歳になるかどうかといった歳であったし、恨みも何も、よく判らぬのじゃ」
フォレイアに半歩遅れて歩きながらジノンが嘆かわしそうに首を振る。
「それでも、だよ。母親を殺されたんだぞ。オレの頼みとはいえ、よくササン・イッシュ伯父の廟に一緒に詣でる気になったな」
「母上のことをよく覚えておらぬからであろう。ただ、父上がそれまで以上に気難しくなったと聞いてからは伯父上に良い感情は湧かぬ」
ジノン卿には申し訳ないが、と断りを入れるが、その当の相手は気にする素振りもみせず、まぁ普通の反応だろう、と素っ気なく返しただけだった。
「オレにしても伯父とはいえ実感が湧かぬ相手だ。母のことがなければ詣でることもなかっただろう。今さらながら、オレたちの間柄は奇妙な縁だな」
大霊廟堂を抜け、裏庭に当たる霊場へと足を踏み入れると、そこは墓所とは思えぬ明るさに満ちた場所であった。だが周囲を壁に囲まれたそこは、どことなく秘密の匂いがする摩訶不思議な空気にも満ちている。
「ここのどこかに伯父上の墓所があるはずじゃが……」
「正確な場所はフォレイアも知らないのか?」
「うむ。手前の大公霊廟に以前に一度来たきりで、ここまで足を踏み入れたことはないからのぅ。じゃが、昔、姉上にお聞きしたからよく覚えておる。姉上は炎姫家の歴代の大公やその縁戚関係には実に詳しかった」
生前の姉はサルシャ・ヤウンの側で史学を専門に教える養育係として働いていた。水姫公妃という立場でそのような仕事をすることに周囲から非難の声も上がっていたはずだが、覚えている限りは我関せずを貫いていた。
「仕方ないな。手分けして探すとするか」
フォレイアは頷き、ジノンと別れて墓所の一つひとつを見て回った。
墓所の清掃を担当している僧侶に聞けば早いのだが、できれば僧院の者に誰の墓参りに来たのかを知られたくはない。ただでさえ炎姫公との関係に亀裂が生じているジノンの立場がこれ以上悪くなるのはまずかろう。
伯父ササン・イッシュの死から二十年ほどだ。それほど古い墓ではないはずである。苔生した墓を除いて見て回ればすぐに見つかるだろう。
いくつかの墓碑銘を辿った後、フォレイアはふと何かに呼ばれた気がして背後を振り返った。そこには人の背丈ほどの納骨堂が建ち、幾つかの彫像が庇の下に鎮座する。像は愛らしい小動物ばかりでどこか少女趣味的であった。
この雰囲気は男性の墓所に不似合いだ。納骨堂が伯父のものとは思えない。だがなぜか心惹かれ、納骨堂の主は誰かと刻まれた銘を指で辿った。
「“海と自由を愛した娘がここに眠る。──王国暦二七五年。アジ……ル・ハ、イラー公……妃フィオナ”? ど、して……。なぜ正妃の母上がここに?」
読み間違いではないかと三度も読み返したが、フォレイアが三歳になる歳の暦に間違いはなく、父アジル・ハイラーの名を見間違うはずもない。
本来なら大公廟に祀られるはずの正妃がなぜ縁戚者の墓所で眠っているのか、それがどういう意味を持つのか、にわかには理解し難かった。
「大霊廟堂に祀られないということは、正妃の扱いではないということか?」
日当たりの良い、墓所内でも一番良い場所ではあるが、本来母が眠っているはずの場所ではないところに、廟ではなく納骨堂が建っている。王族の埋葬方法にしては異様なものを感じ、公女は震え上がった。
見てはいけないものを見てしまったような、暗い穴蔵の底に突き落とされたような眩暈を感じ、彼女はよろけて後ずさった。
何かの間違いだと思いたい。だが大公妃の墓所を作る場所を間違える愚か者はいない。いや、納骨堂ならば母は正式に葬られてもいないということだ。
時代が下れば貴族の間で氏族廟が広まり、納骨堂も墓所の形態のひとつとされる。が、王国暦二〇〇年代後半の今は家族墳墓か位廟が多く、火葬前提の納骨堂は、まだ土葬が中心の時代では仮の安置所という意味合いが強かった。
炎姫家当主の正式な配偶者でありながら、死後二十年以上も経っても正式に葬られていないとは、あまりにも異常だった。怖じ気づきもしよう。
なぜ、どうして、と疑問の嵐に襲われている彼女を呼ぶ声が聞こえた。最初はその声すら耳に入っていなかったが、すぐ傍らに駆けつける足音が聞こえ、耳元で名を呼ばれては、我に返らないはずがない。
「伯父貴の墓を見つけたって言ってるのに、いったい何に見とれてるんだ」
「あ、いや……。なんでもない。伯父上の墓がどうしたと?」
「あぁ、見つけたんだ。けど、ちょっとあれはひどいぞ。葬った奴の怨念を感じるな。あそこまでやるなら、いっそ墓など与えないほうがいいほどだ」
どういうことだ。怪訝そうに眉を寄せたフォレイアの表情から内心の困惑を察したのだろう。ジノンが霊場の一画を指さした。
「あそこの薄暗い一画、あの辺りに伯父貴の墓があるんだがな。廟の前に安置されてる神像の首が落とされてるうえに、廟全体に鎖が巻きつけられていて、まるで罪人に縄をかけて刑場に引き据えているような有様だ」
唖然としたフォレイアだったが、すぐにその表情は強張り、引きつった。伯父を葬らせたのは炎姫公アジル・ハイラーである。父は決して異母兄を赦したわけではなかったのだ。その事実を突きつけら、慄然とした。
「これほど凄まじい怒りだとは思わなかった。やはり相当な確執があったか」
やはり? どういう意味だ。まるでこの事態を多少は予測していたようなジノンの口振りに、公女は表情を殺す。目の前の男は何を知っているのだろう。
「ところで、フォレイアは何に見入っていたんだ?」
先ほどまで公女が凝視していた納骨堂に興味を示し、ジノンがふらりと脚を踏み出した。咄嗟に彼を止めようとしたフォレイアだったが、すんでの所で間に合わず、扉に刻まれた文字が従兄によって読み上げられた。
「アジル・ハイラー公妃フィオナ? これは亡くなった伯母上の墓所なのか」
特に不審を抱いた様子を見せないジノンの態度に、彼が異邦人なのだと思い知る。ポラスニアと風習が違えば、亡くなった正妃の扱いが異常であることにも気づかないのは当たり前だった。
「おや? しかし、それならフォレイア。以前に大霊廟堂に来たときは誰の墓参りだったんだ? オレはてっきり母親の墓に詣でたものとばかり思っていたが。この霊場には足を踏み入れていないのだろう?」
「あ、ああ。以前は姉上と一緒に先代大公の廟に。当時の妾は五歳、大霊廟堂の薄暗さが恐ろしゅうて。それ以来、大霊廟堂近辺には近寄らなんだ」
「母親恋しさよりも先祖の亡霊が怖いか。炎姫公女の意外な弱点だな。おっと、そう睨むな。別に誰にも喋りはせん。第一、今はもう平気だったじゃないか」
剣呑な目つきをした公女にジノンは慌てて媚びた。実は今でも彼女は、いわゆる“出そう”な場所が少々苦手なのだが……。それをわざわざジノンに教えてやる必要はあるまい。フォレイアは内心ふてくされながらきびすを返した。
「おい、もう帰るのか? 母親への挨拶は終わったのか?」
「母上への挨拶などすぐに終わる。記憶も薄くては大した想い出もないのじゃからな。それより、ジノン卿こそ伯父上への挨拶は終わったのか?」
足早に霊場を後にする公女の後ろに従い、ジノンは小さくため息をつく。
「終わった。いや、終わったことにする。……あの墓を見せられては、母のささやかな感傷に浸るどころではないからな」
苦り切った従兄の様子にフォレイアは霊場の中で唯一の薄暗さを広げる一画へチラリと視線を走らせた。ジノンに伯父の墓の具合を教えられたからか、来たときには感じなかったおどろおどろしさに気圧されそうになる。
霊場の一等地に安置されながらも正規の扱いを受けぬ母と、正規の場所とはいえ薄暗い一画にがんじがらめにされ、貶められている伯父。対照的な二人の墓所に、父の内心が透けて見える気がして薄ら寒さを覚えた。
自分の知らぬ何かがある。それを直感しながら公女は知ることを恐れた。
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