混沌と黎明の横顔

第12章:破陽の石と陰守の花 6

 朝食も摂らずに館を飛び出したジャムシードが向かった先は、タシュタン地藩の出先官庁でもなければ、王太子が住まう王宮でもなかった。
 裕福な商人の住まいが集まる一画を外れ、幾つかの区画を通り過ぎると、そこは中産階級者が住まう家々が軒を連ねる区画。
 農耕地を耕し始めた王都近在の農夫が持ち込む鋤や鍬などの農具、乾期の人事の配置換えで移動する騎士や役人の荷駄馬の蹄鉄を鍛え直してやる鍛冶屋の喧噪が早朝からこの界隈を賑わしていた。
 ジャムシードは建ち並ぶ工房の一軒の扉に飛びつき、激しく叩いた。
「兄ぃっ! モス兄ぃ、出てきてくれ! 兄ぃっ!」
 鍛冶屋の威勢の良い音をも凌駕する声に見習いの少年がビックリして顔を出していたが、そんなものにかまっていられない。
 何度もモスカイゼスの名を呼び、扉を乱打し続けていると、工房の奥で人が動く気配が扉越しに伝わってきた。それでもジャムシードは扉を叩く。朝食を作っていたであろうモスカイゼスが顔を出すまで、それが止むことはなかった。
「朝っぱらから騒々しいぞ、シード。近所の迷惑も考えろ。ほら、サッサと入れ。お前が血相を変えて飛んでくるなら、よっぽどのことなんだろう?」
 モスカイゼスに促されるまま工房に滑り込み、そのまま奥の食堂へと通された。そこには早朝の微睡みを邪魔されたガーベイ・ロッシュ老が卓の前に鎮座している。老師は不機嫌の極みといった顔で不肖の末弟子を睨んだ。
「喧嘩に負けた犬のように騒ぎたてよぉって。何をやっておるか、このばか者が。自ら弟子を抜けた者が勝手に舞い戻ってくるでないわ」
「すみません、師匠。でも……どうしても頼みたいことがっ!」
 二階から億劫そうにアガラムが降りてくる。その後ろからは寝ぼけ眼をこするオーレンが顔を出し、何が起こっているのかと首を傾げていた。
「工房から焼け出された細工師風情に何を頼むと? 金銭の無心なら今の儂らは文無しで、お前のほうが金持ちなくらいじゃ。それに、役人の手伝いをしておるお前にはもう充分な助力をしたはずだがのぅ」
「藩校を開くための助力は充分に頂きました。その恩は忘れてません。ですが、今回はそちらではなく別件なんです。事は急を要します!」
 イライラと肩を震わせ、ジャムシードは口許を強張らせて師匠と対峙した。
「まぁ、そんなに熱くならずに。まずは茶でも飲んでから話をしたら?」
「アーガ兄ぃ、そんなにゆっくりしてられないんだよ。これから官庁のほうも回らなきゃならないんだ。頼むから! 俺の話を聞いてくれ!」
 アガラムがのんびりとした口調で落ち着かせようとしているのは判っているが、ジャムシードはそれに対して素直に従えるだけの余裕はなかった。
 末弟子の気安さでの訪問ではないと理解したのだろう。老師が皺だらけの指先をコツコツと卓に打ちつけ、弟子たちに座るよう促した。
「オーレン。お前は上にいってろ。盗み聞きなどするんじゃないぞ」
 ガーベイ・ロッシュの借家工房に居候しているモスカイゼスの少年弟子は不満を込めて大人たちを見回した。だが若師匠はもちろん、普段は気のよいアガラムも、気難しいがときに陽気な老師も、聞き入れてくれそうもない。
 渋々と階段を引き返す彼を呼び止めたのは、意外にもジャムシードだった。
「オーレン。この街にお前の仲間は来ているか?」
「おい、シード。何を言い出すんだ。オーレンを話に混ぜたりしたら……」
「どうなんだ? 来ているのか、いないのか。あぁ、それとも。細工師の見習いになったら仲間からは無視されるようにでもなったか?」
 ジャムシードの口調は挑発的である。少年はムッとして反抗的に切り返した。
「うるせぇ! おいらがハブられるわけねーだろ。ここに流れてきた奴らとも渡りはつけてらぁ! お前においらがどれだけのモンか判るかってぇの!」
「オーレン! なんだその口の利きようは!」
 モスカイゼスが怒鳴りつけると、少年は首をすくめて縮み上がった。が、ジャムシードは兄弟子を制し、こわごわとこちらを窺う少年を差し招く。
「お前の仲間にも報酬を弾んでやる。こっちに来て話に加われ」
「ジャムシード! お前、こんな子どもを巻き込んで何をやろうっていうんだ」
 モスカイゼスは思わず弟弟子の肩を掴んで揺さぶったが、師匠の止める一言で押し黙り、少年とジャムシードを交互に見比べて苦い表情を浮かべた。
「オーレン、鼻が利くお前とお前の仲間を見込んで話をする。お前がここで見聞きしたことを口外しないと誓え。出来なきゃ、俺はお前相手でも容赦しない」
 子ども相手に本気か、とモスカイゼスが呻くが、睨み合っているジャムシードとオーレンの表情は真剣である。緊迫した状況の中で、アガラムだけがのんびりと厨房へと足を向け、手際よく茶の支度を始めた。
「おいらと仲間から外には漏れない。報酬に見合う仕事をするのが仁義だろ!」
 子どもと言えども神都カルバの貧民窟で生き延びてきた気概はある。いや、むしろ子ども同士で助け合ってきただけに大人たちよりも結束は強いのが彼らの特徴と言えた。
 今のオーレンの顔つきはうらぶれた路地生活でしのぎを削っていた頃のぎらぎらしたものが甦っている。十代前半と言えども侮れなかった。
「判った。お前の言葉を信じよう。そこの椅子に座れ。今から話をするから」
 茶の用意をして戻ってきたアガラムが丸い指先を器用に動かして茶器を配る。緊張感に張りつめた空気を感じていないかのような暢気な仕草だった。
 眉ひとつ動かさず茶を啜る老師の傍らで、眉間に皺を刻んだモスカイゼスと顔を強張らせながらも口許を引き結んだオーレンがジャムシードの出方を待つ。アガラムが腰を落ち着けたところで、ジャムシードは静かに口を開いた。
「昨夜、俺の娘のジュペとその母親ハムネア、伯母のナナイがさらわれた」
 驚きに眼を見開いたアガラムとオーレンの二人とは対照的にガーベイ・ロッシュの眉はピクリとも動かない。隣のモスカイゼスはといえば、さらに眉間の皺を深くして、弟弟子を睨んでいた。
「誰に……? もしかして、前にジュペを狙っていた奴らが?」
 以前の襲撃を目の当たりにしていたオーレンの声は引きつる。一歩間違えば命を落としていたであろう事件だ。忘れるはずもない。だが派手に騒ぎ立てない辺り、少年といえども一人前の男だった。
「お前が転げながら飛び込んできた理由がそれか。組織の力を当て込んでここに来たのなら見込み違いだぞ。黒の隠者カラス・ファーンが今は動けないことくらい知ってるだろう?」
 ビクリと背を震わせたのはオーレンである。貧民窟にたむろしていた少年はこの男たちが何者であるのかをよく知っていた。
 ひもじい生活でもカラス・ファーンがいたから飢え死にする子どもは少ない。彼らが運び込む物資が貧民窟を生かしていた。大人に反発しながらも子どもたちは彼らを上手く利用したし、彼らも貧民窟を巧みに利用していたのだ。
「組織の“黒”は動けないだろうな。でも“白”は動いているだろ? 彼らの情報を俺に売ってくれ。どれだけ金がかかってもいい。頼む」
 一人立ったまま深く頭を下げるジャムシードを、その場に居た者たちはそれぞれの思いを込めて、複雑な表情を浮かべながら見つめた。
「水姫公の追及が緩んだとは思えない。今は“黒”だけでなく“白”も活発には動けないんだ。お前がどんな情報を望んでいるか知らないが、思ったようなものは拾えないと思うがな。それこそ労力の無駄遣いじゃないのか?」
「だからと言って何も行動しないわけにはいかないんだ、モス兄ぃ。オーレンから聞いているとは思うけど、ジュペたちが東方に連れ去られでもしたら探しようがない。その前に見つけだして取り戻さないと……」
「この王都だけでなく国中でイコン族が暴れ回って大変なことになる、かな?」
「アーガ兄ぃ! 茶化してる場合じゃないんだ。彼女たちが連れ去られてから、もう何刻も経っている! こうしている間にも遠くに行ってしまう可能性がある以上、どんな情報でも集めておかないと!」
 門兄たちの気乗りしない表情にジャムシードは苛ついた。家族を持たない彼らにはこの焦りが判らないのだろうか。
 ジュペは父と呼んでくれた。その寄せられた信頼を裏切りたくはない。第一、結束の強いイコン族が一族の女を奪われて引き下がるはずがないのだ。
 それでも年に数人、女や子どもが砂漠から連れ出され、奴隷商人に売り渡されているのが現実である。ジュペたちを連れ去った者どもがそういった輩であったなら、どこか東方の地に売られていってしまうかもしれなかった。
「組織から放逐されたお前と関わることになれば、下っ端の者たちに示しがつかないんだ。“白”の情報は“黒”を動かすためにある。組織外の者に売り渡すために収集する前例を作れば、これから先の組織の指針が変わってきてしまう。お前も一度は“三ツ眼鴉の尾”となった身だ。判るだろう?」
 判っている。カラス・ファーンは組織内の者と組織外の者を明確に区分することで秘密を守ってきた。だからこそ他の盗賊団のように潰されずにいる。
 組織を抜けた者は生涯そのことを口外しないし、組織内に留まっている者は組織を抜けた者には極力接触しないのも暗黙の了解だった。
 ジャムシードの場合は師匠や門兄と仕事上のつきあいで接触しているが、そうでなければ街で顔を見かけても無視されただろう。
 官庁に駆け込んで女たちの拉致を訴え出ても、市井の出来事として警邏の詰め所に行くよう退けられる可能性が高かった。イコン族の誇り高さを知らない警邏たちと悶着が起きるであろうことは想像に難くない。
 ジャムシードは歯がみし、両拳を固く握りしめた。なんという不甲斐なさか。
「情報は売って貰えないってことか? こうしている間にも彼女たちの身に良くないことが起こっているかもしれないのに」
 組織に関わってはいけないことは充分に承知している。だが足を向けずにはいられなかった。ほんの僅かな可能性でも縋らずにいられない。
「奴隷商人に連れ去られる子どもや女たちは何もお前の娘たちだけじゃない。この国で一日に何人の者が連れ去られていることか。お前の身内だけを特別扱いするわけにはいかん。それに我々も今は組織を守らねばならない。お前の扱いを巡っては組織内でも不満を漏らす輩が出ているんだ」
 例外を作りたくはない、ということなのだ。判ってはいたが、もしかしたらという希望に縋ってしまった。無力さに全身から力が抜ける。
 大人たちの間に沈黙が落ちると、座っていた椅子からオーレンが滑り降りた。
「オーレン? どこに行く気だ?」
 工房への戸口脇にかかっている上着を引っ張り下ろし、少年は外へ出る支度を始めている。師匠のモスカイゼスが険しい声で呼びかけるのに対し、彼は固い笑みを頬に浮かべながらキッパリと言い切った。
「仲間に逢ってきますから、おいらの朝食はいらないです。それから今日の仕事は半日休ませてください。戻ってからその分働きます」
「今の話を聞いていただろう! 勝手に動くんじゃない!」
「でも。おいらはカラス・ファーンじゃありませんから」
「オーレン! 弟子のお前が勝手をして黙っていると思うのか!?」
「すみません。でも勝手させてもらいます。おいら、ガイアシュと約束したから。友だちが困っているのに見過ごせません」
「なっ!? 約束だと? いったい何を……。いや、そんなことはどうでもいい。約束したからと言って子どもが口出しするな! こういうことは警邏に任せておけ。お前は今はここの見習いでスリ仲間とは縁切りしただろうが!」
「スリからは足を洗いましたけど仲間と縁切りなんかしてませんよ。おいらは仲間を見捨てたわけじゃないです。あいつらがやれる仕事が見つかれば紹介してやるし、困っていたら助けます。そうやって生きてきたんだから」
 止めたって駄目ですよ、と強張った表情ながら言い切ったオーレンの態度に、モスカイゼスは絶句して眼を見開いた。ジャムシードも門兄と同じく目を丸くして少年の顔を凝視するばかりであった。
「ほら、ジャムシード! サッサと行くぜ。おいらだって暇じゃないからさ」
 茫然としていたジャムシードの眼に一縷の希望に縋る光が灯る。街の裏路地という裏路地を知り、子ども同士の情報網を持つオーレンたちからなら、たとえわずかでも何か情報を仕入れることができるかもしれない。だが……。
「モス兄ぃ……。頼みます。半日とは言わない、ほんの一刻でいい。オーレンを俺に貸してもらえませんか? 危ない橋は渡らせないと約束しますから」
 門兄の弟子を連れ出そうというのだ。オーレン自身は勝手をすると言っても、弟弟子であるジャムシードにはそうも言えない義理と恩がある。
 苦虫を噛み潰したように顔を歪めたモスカイゼスがジャムシードとオーレンを交互に見比べ、舌打ちせんばかりの苛立ちをもって己の師匠を呼ばわった。
「お師匠。なんとか言ってやってください」
 今まで沈黙を守ってきたガーベイ・ロッシュがどう出るか。いや彼もカラス・ファーンの一員である以上はモスカイゼスたちと考えを同じくすると予測できた。ジャムシードの頼みは一蹴され、オーレンには叱責が飛ぶのだろう。
 ジャムシードは身体を強張らせ、老師の口から放たれるであろう厳しい言葉に耐えようとした。誰の責めよりも師匠の責めが一番堪えるのである。
 だがしかし、茶を最後の一口まで飲み干したガーベイ・ロッシュは危なげない動きで椅子から降り、オーレンの傍らへと歩み寄った。
「その格好で路地に入ると物盗りに襲われるぞぃ。上の衣装箱の中にお前が前に着ていた上着があったろうが。あれを少し汚して着ていけ」
「お師匠! オーレンを今さら昔の仲間に逢わせてどうしようっていうんです」
 慌てふためくモスカイゼスの隣でアガラムが片手を額に当てて溜め息をつく。その顔は「あーぁ、やっちゃったよ」とあからさまに物語っていた。
 ジャムシードは先ほど以上に眼を見開き、信じられないものを見るような目つきで老師の丸い背中を凝視する。今、目の前で何が起ころうとしているのか判らなくなってきた。もしや夢でも見ているのだろうか。
「お前の師匠はうるさい奴じゃのぅ」
 少年の頭に太い掌を乗せ、ガシガシと掻き回しながらガーベイ老が首を振った。その仕草は本気で嘆いているわけではなく、焦る頭弟子をからかっている節が見え隠れする。それが理解できたのだろう。モスカイゼスの顔は今まで見たこともないくらいに渋いものへと変わった。
「からかわないでください。オレは本気で組織のことを心配しているんです」
 猛獣のうなり声のように低い声がモスカイゼスの喉から漏れる。口を挟まないがアガラムも同意見のようだ。末弟子を甘やかすのと組織を守るのとは、決して両立しないと彼らは考えているのである。
「のぅ、モスカイゼス。あのとき……。シーウェアが出ていったあのときに、組織の力を借りていたらどうなっていたと思うかね?」
 モスカイゼスの顔から表情が消え、アガラムの瞳が動揺に泳いだ。
 ジャムシードは聞いたことのない人物の名前に戸惑いこそしたが、二人の門兄の様子からそれがガーベイ・ロッシュ工房内では禁句とされてきた者の名であることを悟った。たぶん駆け落ちして家を飛び出した老師の娘の名だと。
「い、今はそんな話をしているのでは……」
「違うかのぅ? 儂には同じように見えるのじゃが」
 重苦しい沈黙がその場を圧した。誰もがしばし息をすることすら忘れ、互いの出方を探る眼つきで他人を見回す。
 いつもの工房の雰囲気からはかけ離れた空気にジャムシードは身震いした。自分が厄介な問題を持ち込んだばかりに師匠と門兄との間にいらぬ亀裂が入ってしまったのである。どうやって収拾をつけたらいいのだろう。
「おいら、あいつらのところに行ってきますね」
 沈黙に耐えられなくなったのはオーレンが最初だった。跳ねるように工房から飛び出し、通りの奥へと走り去っていく。その足音を聞きながら、ジャムシードは青ざめたモスカイゼスの顔と皺に埋もれた老師匠の顔とを盗み見た。
 ガーベイ・ロッシュの娘が二人とどう関わっているのか知らない。ジャムシードが弟子入りしたときには、工房に女手はなかったのだ。器用に厨房の仕事や洗濯をする師匠や門兄たちが自立した大人に見えたものだが、その裏側には何か事情があったのだろう。今さらになってそのことに思い至った。
「師匠。俺のことで兄ぃたちと言い争うのは……」
「自惚れるでないわぃ。お前のことで言い争うことなんぞ何もないぞ。それより、さらっていった輩の目星はついておるのか?」
「あ、いや……。東方人ってことくらいで他には何も」
 ふぅむ、と顎髭をしごきながら考え込んだ老師がチラリとモスカイゼスを見遣り、悪戯を思いついた子どものように口許を弛めた。
「なんじゃ、モス。言いたいことがあるなら言ってみぃ。だんまりを決め込むような性格ではあるまい。それとも急に口がきけんようになったか」
「オレがシウを止めなかったことを未だに根に持っていらっしゃるようですね」
「おやおや、やっぱり止めなんだのか。お前なら止められただろうにのぅ」
 モスカイゼスの剣呑な表情とは対照的にガーベイ・ロッシュの顔は楽しげである。が、珍しく声は浮ついているように感じられた。
「ちょっと、師匠! モス兄ぃも! いい加減にしてくださいよ。シーウェアはモスカイゼス兄ぃの制止を振り切って出ていったこと覚えてるでしょう。今さら昔のことを蒸し返してどうしようっていうんですか!」
 アガラムが思わず椅子を蹴って立ち上がる。その形相は彼には珍しくひどく険しいものだった。どちらかといえば感情を波立たせない質のアガラムが大声を上げるほどに、師匠の娘の話は古傷を刺激するものなのだろう。
「あー、判っとるわぃ。モスが拗ねておるだけじゃ。そうカッカするでない」
「師匠がいらん昔話なんぞするからでしょうがっ!」
「もういい、アーガ。シウの腹に駆け落ち相手の子どもがいると聞いて制止しきれなかったのはオレだ。師匠に恨まれても仕方ない」
 三人の会話の蚊帳の外に置かれ、ジャムシードは途方に暮れるばかりだった。今まで知らなかった情報が洪水のように押し寄せてくるのである。頭の中で筋道を立てて整理するだけで精一杯の気分だ。
「この石頭が! 誰が恨んでおるなどと言うた。どうせならお前が腹の子どもごとシーウェアのことを引き受けたら良かったんじゃ。うじうじ迷っておる間にどこの馬の骨とも知れん男に横からさらわれよぉって! この根性なし!」
 師匠がモスカイゼスを罵倒する姿など初めて見たかもしれない。一番上の兄弟子は何事もそつなくこなし、師匠が工房を留守にすれば工房を預かるほど信頼が厚いのだ。なのに門兄に相応しくない単語がポンポンと飛び出してくる。
 あんぐりと口を開けて師匠と兄弟子を見比べるアガラムと視線が合い、ジャムシードは慌ててモスカイゼスへと視線を転じた。だが、そこで見てはいけないものを見てしまい、どこを向いたらよいものかと虚空に視線を彷徨わせる。
 顔を真っ赤に染めて狼狽える頭弟子の姿など初めて眼にしたのだ。どう取り繕ったらいいのか判らない。今日はもしかして厄日なのか。そんな埒もない考えに取り憑かれるほどにジャムシードも動揺していた。
「ま、いいわぃ。過ぎ去ったことに愚痴を言っても始まらん。今はジャムシードの身内をどうするかということじゃ。とはいえ、この不肖の弟子の身内だとバカ正直に話したら組織は二の足を踏むじゃろう。誰の身内か伏せて情報を洗い出してみぃ。それなら不満は出んじゃろうて」
 火中に“昔話”という名の栗を放り込んだ張本人がアッサリと話題を転換する。現実へと引き戻された弟子たちは揃って渋面を作った。
 他人を煙に巻くこの態度こそ、ガーベイ老がガーベイ・ロッシュであることの証明だったのに。老いて好々爺とした外見で彼を侮ってはならなかったのだ。そのことを改めて思い知らされた。
 すでにオーレンは神都からこの街に避難してきた仲間たちのところに向かったし、チクチクと罪悪感を刺激されたモスカイゼスは強く反対できない。末弟子に一番甘いアガラムも頭弟子が強く出ない以上は現状に流されるだろう。
「オーレンが下町の聞き込みをするだろう。オレたちは商人関係を洗うぞ」
「あと上流階級層も見逃せないかな。奴らの後ろ盾がある奴隷商も多いから」
 まんまと乗せられてしまったモスカイゼスは、見たこともないほど深い皺を眉間に刻みながらもアガラムに情報屋たちに逢う手筈を整えるよう命じている。
 自分の思い通りの結果になったにも関わらず、ジャムシードは複雑な気分で老師匠と門兄たちのやり取りを眺めた。ああでもない、こうでもないと言い合いながら今後の対策を練る姿は馴染みのもののはずなのに、今の自分はその輪に加わることは出来ない立場になったのだ。
 自ら望んでそうしたのだが、それを突きつけられてみると惨めなものである。
「何をボサッと突っ立っておる、ジャムシード。サッサとここに来んか! お前の娘を見つけるのは時間が勝負じゃろうが!」
 話し合いに加わっても、どこか薄い膜越しに接しているような距離を感じる。これが組織を抜けるという意味なのだ。
 いつか水姫公の監視の眼が緩む時期がきたら戻ることが出来るだろうか。そんな楽観的な考えが浮かんだが、ジャムシードはその考えをすぐに振り払った。それは難しいだろう。炎姫家や王家と関わる前なら可能だったろうが。
 それに炎姫公との約束があった。もう組織の一員としてこの輪に加わることは二度とない。これが最後だ。
 その事実を深く噛み締め、ジャムシードは目の前の会話に意識を集中させた。