「どうやら造物主は決着をつけさせてはくれないようね」
「そのようだ。お前を跪かせるのはもう少し先のようだえ」
何度も賽子を振ったが、どういう訳か二人の目数は同じもの以外出なかった。
いったい誰のどういう思惑で踊らされているというのか。それを確認できぬ身としては踊る舞台から降りることは許されないことなのだろう。
「では決着は違う駒を使って行なうとしようかえ」
「違う駒? この遊戯盤に使う駒はこれ一種類のはずよ。いったい……」
ニヤァと目の前の赤い唇が歪んだ。どう見ても良からぬことを考えてる気配である。真っ白な前髪の隙間から覗くその鮮やかすぎる口唇がどんな言葉を紡ごうとしているのか、警戒しないわけにはいかなかった。
「駒など掃いて捨てるほどおるではないか」
「まさか。あなた、人を駒に仕立てて……」
「おぉ、今さら良い子の仮面を被るのはおよし。お前も同じ穴の狢ではないかえ。人を思い通り動かそうとしたことがないとでも? 駒のように扱う手管なら負けてはおるまいて。のぅ、アジェンティア。そうであろうが?」
咄嗟に否定できずアジェンティアは口ごもる。人の世界に干渉してしまった以上、相手の言葉を否定するなど滑稽なことだった。がしかし、だからといって人を手駒にして悪ふざけをするほど悪辣ではないつもりである。
「どちらにしても、我が手駒はすでに動き始めておろうよ。お前のほうも駒を揃えつつあるようだし、ここから先は本気の勝負よな」
「なんですって? バチン、あなた何を……」
「おやおや。お前を追いかけるのに夢中で何もしていないとでも思ったかえ。生憎とそれほどお人好しではないわえ。種を植えれば発芽するのが自然の摂理。お前が必死に回収している核とて同様よなぁ」
バチンはニヤニヤしながら椅子の背もたれにのけぞり、身体を揺すった。楽しくて仕方がないといった様子で嗤っている。全身を小刻みに震わせるその嗤いはひどく神経質で、見ているこちらを不快にした。
「やはり核の回収を急がせたのは正解だったわ。あなたが何も仕掛けてないとは思わなかったけど、よほど質の悪いものを仕込んだようね」
「その回収が間に合うかのぅ? 狂気はどこででも芽吹くものだえ」
ゆらりと身を起こす女が立ち上がる姿を、彼女は苦々しい思いで見上げた。
「あなたを逃がすとでも思っているの? ここから出しはしないわよ」
「生憎と忙しい身でのぅ。用事を思い出したので失礼しようかえ」
左腕の中にあるむつきをきつく抱きしめ、アジェンティアは勢い良く立ち上がって右腕を振り上げる。それを見越していたのだろう。バチンは相変わらずにやついた嗤いを浮かべ、対立する者から素早く距離を置いた。
「あなたをここに留め置いて二度と外へは出られないように封印するわ」
「おぉ、やはりそのつもりでここへ招き入れたのだね。こうやって遊戯盤で競っている間に結界が完成する運びというわけかえ。だが、お前の思う通りになどならないよ。ここの結界は永遠に完成などしない」
「そんなことやってみなくては判らないでしょう。観念することね。本体と幻体を別々に封印し、さらに魂魄まで抜き取れば、あなただって二度と悪さをしようなどと思わないはずよ。ここで終わりなさい!」
アジェンティアが鋭く右腕を一閃すると、軌跡の延長線上に激しい銀光が奔った。空気を切り裂く烈風が衝撃波となってバチンを襲う。
この力を喰らってはひとたまりもあるまい。バチンにもそれは判っていたはずだ。長い髪を立ち上る靄の如く揺らめかせて飛び上がる。
「昔も今も単純な女よなぁ。そのように一直線な攻撃では避けるのは容易いわえ。片腕に出来損ないを抱えながらでは全力は出せまい? サッサと諦めて、殺される覚悟でもしておくことだよ」
次々に繰り出されるアジェンティアの猛攻を紙一重のところでかわしながらバチンがチラリと周囲を見回した。
「上手い具合に出口を隠したものだねぇ。ぼんくらなら騙せたろうよ」
「お黙りなさい。あなたにも見えてはいないはずよ。わたしを動揺させて出口を探ろうとしても無駄。ここから出られるのはわたしだけだわ!」
「そうでもなかろうて。入れたものは出られるものだえ。完全に外部と隔離できるような場所はどこにも存在しない。そうであろう、アジェンティア」
確かに完全に封じられる場所などないのかもしれない。だからといって、それでバチンを自由にする理由にはならなかった。己の力を過信するつもりはないが、彼女に出口を見破られるほど柔なものではない。
「お前の手から逃れるだけなら簡単なことさ。侮るでないわ」
逃げに徹していたバチンの口許が引き締まり、今度は攻撃へと転じてきた。
相手の突進を素早く避け、アジェンティアは鋭く右手首を返す。先ほどから閃く銀光がねじれ、バチンの首筋へと襲いかかった。
だが身を屈められ、再び光は行き場を失う。素早さはアジェンティアの身上であったが、それは同時にバチンにも通じることだった。
「やはり大巫女と同等の実力を持つだけはあるわね。あなたの本体とはやり合いたくないものだわ」
「当たり前だえ。分裂した我が身ですら制せぬお前に我が本体が負けるものか」
「だからと言って、あなたに大人しく従う気はないわ。まして今のわたしは番人。たとえ仮初めの世界とはいえ守るのが仕事よ!」
「あの方の作られた世界をやっつけ仕事で修復するしかできぬくせに、偉そうな口を叩くでないよ。こんな歪な世界、滅ぼして真新しい世界を創ってくれる」
言い合いながらも攻撃と防御は続いていた。どちらもめまぐるしく立ち位置を変え、相手の攻撃をかわしながら自らも反撃することを繰り返す。
この戦いも決着は容易に着きそうもなかった。むしろ共倒れになるのではないかと思えるほどの激しさで銀の閃光飛び、重苦しい空気が振動する。
「お前の支配する場にいるといらいらする! サッサと出ていってやるわ」
「勝手に入ってきたのはあなたのほうでしょ! さぁ、いま大人しく封印されるのなら、苦痛は最小限に留めておいてあげるわ。わたしに完全に叩きのめされる前に観念したほうがいいわよ。でないと容赦しないわ!」
「そんなものはお互い様さ! お前に赦しを乞うような惨めなことするものかえ。たとえ魂を奪われたとてごめんだよ!」
飛びかかってきたバチンの腕が振り回され、鈎爪状の指先がアジェンティアの頬をかすめた。ずり落ちそうになった腕のむつきを抱え直し、彼女は優美な眉をきつくつり上げて目の前の女を睨む。
「だったら、そのようにしてあげるわ。あなたのやり方にはほとほと我慢がならなかったのだから。わたしの持てる権限すべてを使って封じてあげる!」
一際大きな声で罵り、アジェンティアは瞬時に高速呪文を唱えた。それに気づいたバチンも身構え、次の攻撃への対応をみせる。
「お前のいいようにされてなるものか。その忌々しい出来損ない共ども、ズタズタに切り裂いてくれる。そこを動くんじゃないよ、アジェンティア!」
幾つもの呪文を練り上げていくアジェンティアに向かってバチンが吼えた。
獣の如き絶叫を放ちながら襲いかかってくる女のほうが僅かに早かっただろうか。アジェンティアはほぼ完成していた術を止めることが出来ず、辛くも急所は避けたが右肩に鈎爪を喰らった。
凍みるような痛みが肩から腕へと広がる。凍傷を得たときのじわじわと迫り来る痛みに似て、バチンが放った爪がもたらした傷は彼女を一瞬怯ませた。
「ホホホッ! 特製の爪の味はどうだえ? 我が身から作り上げた毒がお前の全身に回るのも時間の問題よなぁ。動けば動くほど毒の回りが早まるぞえ」
鈍い動きしかできぬ腕を動かし、次の攻撃を防ぐ。先ほどよりも勢いを弱めた銀光が小鳥を守る籠のようにアジェンティアを幾重にも取り囲んだ。
「さぁさぁ! どうしたえ。そんなところに収まっていたのでは戦えぬぞ。出てきて魔術を使ったらいい。それともこちらから守りを砕いてやろうか?」
バチンが意気揚々とした態度で嘲り嗤う。目の前に翳した腕の先では、禍々しい鈎爪がアジェンティアの血で僅かに濡れていた。爪先の血をベロリと舌で舐め取り、赤い唇に塗り込めるように舌なめずりする。
「お前の血は甘いのぅ。忌々しい裏切り者の血と愚かな男の血を引いていながら、この味は甘露のようではないかえ。もったいないのぅ。一滴残らず搾り取って飲み干してやろうか? それともあの方への捧げ物にしようか?」
ケラケラと嗤う女を光の隙間から透かし見、アジェンティアは唇を尖らせて細く息を吐き出した。焦りは禁物である。痛みを逃がし、毒の影響を最小限に抑えなければ。バチンの思い通りにする気はなかった。
「大人しく捕らえられる気はあるまいて。残念だが、お前の血をあの方への供物にすることは難しかろうなぁ。代わりに骸を捧げることにしよう。血はこの場ですべて飲み干してやろう。我が餌食となり、血肉となれ!」
アジェンティアは左腕のむつきをしっかりと抱え、感覚が鈍ってきた右腕を己の胸元へと引き寄せた。その仕草は祈りを捧げているようにも見える。
「その出来損ないとの別れはする必要はないぞえ。すぐに同じ場所に送ってやろう。お前の父母も首を長くして待っておろうからな!」
高々と鈎爪を振り上げるバチンの唇が高揚感に歪んだ。血に酔う者特有の狂気に支配された眼が前髪の隙間にぎらつく。アジェンティアが見守る前で、異様な白さを保つ魔女の腕が振り下ろされた。彼女の足は、それを避けない。
「ここで潰えるがいい、“美しき者”。お前は敗れたのだえ」
耳障りな金属音が響き渡った。白い前髪の隙間から驚きに見開かれたバチンの瞳が覗く。不可思議な色をしたその眼は幼さすら感じた。
アジェンティアの周囲には鮮やかな銀の荊が取り巻く。内側にいる者を守る金属の蔓が侵入者の腕に鋭い棘を突き刺す様子は、お伽噺の一節を絵画にしたような美しさではあった。生憎とそれを鑑賞する者はいなかったが。
「ま……さか……。お前、その術は……」
ゆらゆらと白い女の姿が揺れ、霧に滲む人影の如く輪郭が霞む。まともな言葉にならない呻き声が眼の前の口から漏れるのを聞きながら、アジェンティアは静かにゆっくりと息を吸い込んだ。
「花、巫女の力は……完全には、お前に、引き継がれていない、はず……」
「そうよ。まだら模様のように使えない力があるわ。でも、残念ね。この術は使えたの。“陰守の花”は、ね。どう? この毒はさすがに効くでしょ?」
陽の光に雪像が溶けていくようにバチンの身体が崩れ始める。口許を引きつらせた女が苦々しげに吐き捨てた。
「お前如きに、やられるとはっ。このままでは、すまさぬぞえ」
「どうかしらね。あなたにも判っているはずよ。この術に触れて無事に済むがはずがないって。対抗するには“破陽の石”を支配下に置くしかないわ。だけど、その石の持ち主はあなたじゃない」
会話を続ける間にもバチンは徐々に消えていく。それを見おろすアジェンティア自身も立っているので精一杯だった。魔力の消費が激しい術を使ったとき特有の倦怠感が全身を襲っている。腕にも力が入らなかった。
「この幻体は、もう無理でも、他に我が分身は、存在する。次の再会には、必ずや首級を取って、やろうぞ」
「その再会を楽しみにしてるわ。あなたの分身をひとつ残らず始末したら、わたしも肩の荷が下りるでしょうね」
憎らしや、と呟きを残してバチンは消滅した。いや正確にはバチンの幻体であるから本物ではなかったのだが。
「いったい、残りはあとどれだけいるのかしら。こんなこと続けていたら、わたしの身体がもたないかもしれないわね」
全身から力を抜き、アジェンティアは怠そうに右腕を持ち上げる。物憂げに自身の周囲を見回し、投げやりな態度で「解除」と囁いた。
ふたたび耳障りな金属音が響き、銀の荊が消え失せる。彼女はその場にへたり込み、左腕に抱えていたむつきを膝の上に下ろした。
「作るときは時間がかかるのに壊すのは一瞬。これって何かに似てるわね」
ぐったりと肩を落とし、アジェンティアはむつきの上に倒れ込む。目の前がぐるぐると回っていた。身体中から力という力が抜けていく感覚にひどく心許ない思いが沸き上がる。自分が自分でなくなりそうだった。
「きついわね。この術を使うのは二度目だけど以前よりも厳しいわ。どうしようかしら。このままじゃ立ち上がれない」
普通に声を出しているつもりなのに、その声は震えている。収まらない眩暈に彼女は身体を横倒しにした。このままではむつきを潰してしまう。
「わたしの力も徐々に衰えているということかしら。分裂してすらバチンはあれだけの力を駆使できるというのに。本当に困ったわね。このままではアインを取られてしまうわ。そんなことになったら……」
怠い全身が床にめり込みそうだった。どうにも身体は言うことをきかない。
「あ、はは……っ。本当に駄目だわ。早く手を打たないとバチンが“破陽の石”の獲得に動き始めてしまうのに。あの石を今手にしているのは──」
声すら出すのが億劫だ。毒を楯にした術は発動者にも威力を発揮したらしい。
「アイン……? あなたなの? どうして、泣いて──」
遠のいていく意識の向こうで彼女は赤子の泣き声を聞いた。記憶はあり得ないと叫んでいる。この場で赤子の声が聞こえるなどあるはずがない、と。だが混濁する感覚が甘えたように泣く声を届けてきた。
「だ、れ……。泣いて、るのは……だれ……?」
倒れてもなお天井が、床が、壁が回っている。腕を持ち上げることすら出来ずに横たわるアジェンティアの頬を微かな風が撫でていった。
「莫迦が。やりゃぁがったな。“陰守の花”の匂いがしたら辿ってきてみれば、こんなところでくたばってやがる。どうしようもねぇ女だな」
荒々しい衣擦れの音と共にひんやりとした掌が額に触れる。言葉遣いの悪さから想像するような乱暴な手ではなく、恐る恐るといった触り方だった。
「命には別状ねぇな。どうせ力の加減もしないで術を使ったんだろ。慣れない術を使うときは充分に気をつけなけりゃならねぇってのに」
侵入者の声に被るようにして、「にゃぉん」と甘く猫が鳴いた。
眩暈だけではなく耳の具合もよくない。何者かの声は聞こえるのに、それが誰なのか判断できなかった。回る視界と割れて聞こえる声が神経を翻弄する。
うっすらと遠のいた意識が余計にそれに拍車をかけていた。このまま己の意志で意識を手放しさえしたら、よほど楽になれるだろうに。それでも必死にしがみついているのは、すぐ手許にあるはずの存在を守るためだった。
あぁ、だがしかし。怠い腕が思ったように動かない。正体の判らぬ相手からか弱い存在を守ってやらねばならないというのに。
「守ってやる気なら引っ張り回すんじゃねぇよ、莫迦。培養液から出されただけでも負担をかけてるってのに、こんな布きれ一枚で包んだだけで何させようっていうんだ。この本体がどうにかなったら幻体がどうなるか判るだろ?」
ぶつぶつと文句をつけながら侵入者がむつきを抱き上げた。制止の声を上げように喉は震えるばかりで音を発しない。焦りに歪む彼女の頬に滑らかな毛皮が触れたのはそのときだった。
「おい、その女にあまり近づくな。油断してると噛まれるぞ」
誰に向かって発しているのかよく判らない。さわさわと頬を撫でる柔らかな感触が薄れている意識の下でも気持ちよかった。
ナォン、と耳元で猫の鳴き声がする。この頬に感じる毛皮は鳴いた猫のものなのか。それとも別の猫が他にもいるのか。猫の気配は感じられても、それが一匹なのか複数いるのかは、今の彼女には読み取れなかった。
「お前、術を使っている間に俺のことを考えただろ? 余計な真似をするなよ。お陰で引っ張られてきちまったじゃないか。こんな毒まで撒き散らしやがって。なんでもっと穏便に手を打たねぇ? 血の気が多いのは父親譲りか?」
今の言葉で誰が側にいるのか判った。そして、ここにいる猫がなんであるのかも。それにしても、こちらが反論できないから言いたい放題だ。そりが合わないことは理解していたが、弱っている今は嫌味を言われると気が滅入る。
「母親にでもなったつもりだろうけど、こいつはお前に母親役なんて望んでねぇぞ。いい加減に解放してやれ。バチンもお前もいい迷惑だ」
猫が抗議するように鳴いたが、侵入者がそれを意に介した気配はなかった。
「処置はしておいた。次は俺になんか頼るな。助けてやるのはこれっきりだ」
薄れる気配を追いかける力は残っていなかった。感じるのは傍らにいる柔らかで暖かい気配のみ。それに安堵し、彼女は緩やかに意識を手放した。
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