強制的な睡魔に襲われた後の覚醒はひどく怠い。身体が思うように動かず、頭もハッキリとしなかった。眠る前の焦燥感で深く眠ったとは思えず、頭の芯にぐずぐずと疲れが残っていて一日中頭痛を引きずりそうな予感がする。
それでも必死に身体を起こし、ジャムシードは両手の指先でこめかみを揉みほぐした。少しでも早くしっかりと目覚めねばならない。ぼやけた苛立ちばかりが先に立つ今、曖昧な記憶を確かめねばならないのだ。
じくじくとした弱い頭痛を無視し、彼は自分の身体から毛布を払いのける。忌々しさがこみ上げてきた。意識がしっかりしてくるにつれ、昨夜のことが甦ってくる。得体の知れない女にまんまとしてやられた。
夜が明け切らぬ今、室内は暗い。女が去った後に誰かが部屋に入ってきた形跡は見当たらなかった。とはいえ、暗闇の中では正確なことは判らないが。
手足に力が戻っているのを確かめた後、ジャムシードは出来る限り急いでイコン族が泊まっている部屋へと急いだ。まだ朝も早い時刻で、館の厨房で調理人が起き出すかどうかという頃合いだろう。
客人用の階段を駆け上がり、イコン族の女たちが眠っているはずの客室扉を叩いた。が、返事がない。再び、今度は先ほどより大きな音で扉を叩いた。それでも室内で人が動く気配は伝わってこない。
廊下に備え付けられた大型の灯心ランプの炎が申し訳程度に扉を照らしていた。その炎が揺れると扉が震えて見える。それが室内にいる女たちが怯えているような錯覚を引き起こした。背筋が粟立つ。厭な予感がした。よくないことが起ころうとしている前触れか。焦りがいっそう強くなった。最悪の事態が否応なく想像される。ジャムシードは己の全身から血が引いていくのを感じた。
「ハムネア、ナナイ! そこにいるなら返事をしろ。頼む、起きてくれ!」
乱暴に扉を叩き続けながら叫ぶが、扉の向こうはコトリとも音がしない。そうこうするうちに隣の部屋の扉が無遠慮に開き、寝ぼけ顔の男が顔を出した。
「まだ夜明け前だぞ、ジャムシード。うるさいじゃないか。いったい女の部屋の前で何をしてるんだ。まさかこの時間に朝食の知らせじゃないだろ」
「クィービ、ジューザを起こせ! この部屋の扉を蹴破る!」
口をぱかりと開き、唖然とした男の顔がジャムシードの焦燥に引きずられるように強張っていく。転がるように室内に飛び込み、半狂乱で部屋中の男を叩き起こしている物音が廊下にまで響きわたった。
ジャムシードは扉に体当たりした。本当はこの扉は外側へ開くものである。蹴破るとは言ったが、押し開けるとなると一人では難しい。だが鍵がかかり、引っ張ったくらいで開かない以上、扉を壊すしか思いつかなかった。
「どういうことだ、ジャムシード。そちらの部屋に何があったというんだ!?」
従兄弟に叩き起こされ、髪に寝癖がついたままのジューザが上着をひっかけたままの姿で飛び出してくる。それを横目に、ジャムシードはうなり声をあげながら再び扉に身体を叩きつける動作を繰り返した。
「畜生! 俺があのまま寝込まなかったら……。畜生っ!」
「落ち着け、ジャムシード。何があったのか説明しろ。おい!」
狼狽するジャムシードの肩を掴み、ジューザが揺すぶる。
「女に、薬を盛られた! あの女の口振りからして、イコン族の女に何か仕掛けるようなことを匂わせていたから。ハムネアやナナイは呼んでも返事をしないし。俺があそこで寝込まずにすぐに行動していたらっ」
目の前で顔を強張らせたジューザの眼の奥が暗くなった。ランプの明かりだけではよく判らないが、きっと血の気が引いてひどい顔色になっているだろう。
「部屋には内側から鍵がかかっている。ここの合い鍵はないのか?」
ナナイが絡むと冷静ではいられないはずのジューザが努めて平静を装った声を出した。だが、肩を掴まれたジャムシードだけは目の前の男が今にも暴れ出さんばかりの怒りに震えていることを察した。
骨が折れそうなほどにきつく掴まれた肩はきっと痣が出来ている。指が食い込んだ肉が引きちぎられかと思えるほどに痛んだ。
「客室の鍵は館の主人が管理しているものだ。持っているとしたらタケトーさんが。俺、あの人を呼んでくるから、ジューザはナナイに呼びかけ続けてくれ」
落ち着け。落ち着かねば。恐慌状態に陥りでもしたら内輪もめが始まる。そんなことになったら、女たちの安否を確かめる前に自滅してしまう。
ジューザの手を肩から外すと、ジャムシードはぞろぞろと起き出してきた他の男たちとジューザに後を託し、飛ぶような勢いでタケトーの部屋へと急いだ。
走りながらふと思い至ったことだが、自分が薬を盛られたように他の者にも薬を飲まされたかもしれない。眠っている人間は抵抗も妨害もできないのだ。そうやって事を成せれば小さな労力で最大の利益を得ることが可能である。
タケトーが雇った使用人だと思って油断した自分が迂闊だったのか。
「くそっ! どこの奴らがなんの目的でッ! ジュペに何かあったら、ただでは済まさない。絶対に捕まえてやる!」
ジャムシードは階段室から躍り出ると飛ぶが如き勢いで廊下を走った。その勢いのままタケトーの部屋の扉に取りすがり、激しくその表面を叩くと、あらん限りの声で室内にいるであろう館主を呼ばわう。
「タケトーさん、起きてください! タケトーさん! 合い鍵を貸してください。早く起きてくれ! タケトーさん!」
室内で物音が小さく響いた。続いてパタパタと軽い足音が扉へと近づいてくる。軋みもなく滑らかに開いた扉の隙間から東方人特有のクリーム色をした肌が覗いた。黒々とした瞳が怪訝そうに細められ、こちらを確認するとさらに扉の隙間を大きく開いて何事かと問いかける。
「ジュペが眠っている部屋の合い鍵を貸してください。何度呼んでも室内からの応答がないんです。タケトーさん、急いで!」
「この早朝ですよ。まだ眠っているのでしょう? こんな時刻になぜ……」
「昨夜、俺は薬を盛られたんです! この館の使用人だと思って油断しました」
唖然としたタケトーだったが、すぐに表情を険しくした。
「ばかな。この館の使用人はすべて私の代理人と私自身とで面接を行って雇い入れた者ばかりです。勝手に出入りできるはずがありませんよ」
「だから油断したんです。寝酒を貰って飲んだ途端、急に眠くなった。あんなに急激に眠気が襲ってくるなんてありえない。それに、あの女の最後の言葉はどう考えても俺という人間が判っていて言ったとしか思えません」
考え込むような仕草でタケトーが上目遣いで睨む。それに怯んではジュペたちの安否を確認できない。なんとしても彼から合い鍵を借りねば。
「もともと眠かったから酒を飲んで眠ったのではないのですか? だいたい、この館の使用人であなたを知らない人間などいませんよ。眠りかけているあなたに一声かけていったとしても不思議ではないでしょう」
「違う! あれはそんな言葉じゃなかった。あの女、訳の判らないことを……」
「訳の判らない? あなたが誰か知っていて声をかけたのなら、訳の判らないことを伝えるはずがない。きっと寝ぼけていらっしゃったのですよ」
「俺は寝ぼけてない。どちらにしてもジュペたちの部屋は確認させてください。早く合い鍵を貸して! それで安心できるなら安いものでしょう!」
渋々といった態度のタケトーを引きずるように部屋から連れだし、ジャムシードは再び転げるように階段を駆け下りていった。
その後ろを走るタケトーはついていくのに精一杯で、今にも転びそうである。が、もしも彼が転びでもしたら、ジャムシードは有無を言わせず抱えて走りそうな形相だった。廊下の向こうに騒いでいるイコン族の姿を確認し、ジャムシードの足がさらに早まる。タケトーも今度は不審を口にしなかった。
「どいてください。今すぐに開けますから。……ちょっと押さないで! あぁ、もう! 少し静かにしてください。ジャムシードさんも! そんなに背中を押したら痛いじゃないですか。ちょっとは手加減してください!」
どうなっているんだ、早く開けろ、とせっつくイコン族を引き剥がし、ジャムシードは館の主を前に押し出す。タケトーから鍵を奪って自分で開けたいくらいなのを我慢しているのだ。その顔つきは鬼気迫るものがあった。
「いいから早く開けてくれ! ジュペたちが無事かどうか確認できたら、どんな罵倒だって誹りだって甘んじて受けてやる!」
もう何を言っても仕方がないと判断したのだろう。タケトーは素早く鍵を開けると、せっつかれる前に扉の取っ手を引っ張った。
扉の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。女たちの寝室用にと室内は適温に保たれているはずなのに。その事実が示す結末を暗示するが如く吹く寒風に、その場に居合わせた全員の口がぴたりと閉ざされた。
ジャムシードは茫然とするタケトーの脇をすり抜け、部屋の中に飛び込む。
暖炉がない代わりに備え付けられた薪ストーブは今もか弱い熱を放っているが、その熱を奪う風が窓から吹き込んでいた。夜明けを告げる風はいつもなら清々しいのに、今は嘲笑っているようにしか感じられない。
ジャムシードの視線の先、並んだ二台の大きなベッドの寝具は皺が寄っており、誰かが使用した形跡があるのに、そこには眠っているはずの二人の女と幼い娘の姿はなかった。シーツの皺の陰影が深い闇よりも濃く見える。
「ナナイ! ハムネア、ジュペ!? どうして? 三人ともどこへ。どこに連れていかれた!? ジャムシード、お前。お前、知っているのか? ナナイはどこに、誰に連れていかれた! お前、知ってるんだろ!?」
ジューザがもぬけの殻のベッドを見て恐慌状態に陥った。ジャムシードの肩を掴んで激しく揺すぶる目つきは仇でも見ているかのようである。
ジャムシードはそっと右手を伸ばすとジューザの眼許を覆い隠した。いきなりの目隠しに驚いて腕を振り回したジューザの拘束から逃れ、彼は後ろで途方に暮れた様子で佇むタケトーを振り返る。
「タケトーさん、使用人を一人残らず集めてください。俺に薬を盛った女が誰なのか確かめます。もし、あなたが雇った者の中にいたのであればいなくなった者の名を誰かが知っているでしょう。でも使用人の中にいなかった場合、彼女は外から館の中に忍び込んできたことになる。その場合……」
「幾つかのことが考えられますね。あなたに不自然さを感じさせなかったということは使用人の誰かから情報を得ていたことになります。その情報源の人物が故意に情報を流したのか、知らぬ間に漏らしていたのか。いずれにしろ、この館で起こった事件である以上、私の責任です」
潔く頭を下げるタケトーの謝罪に首を振って謝罪する必要はないと断り、ジリジリと苛立ちを募らせているイコン族の男たちに呼びかけた。
「三人が連れ去られて何刻が経っている。近辺を探っても何も手がかりは残っていないだろう。俺は今までの情報を持って炎姫公のところに行ってくる。王都で人がさらわれた以上、砂漠の民だけでの捜査には限界がある。焦りはあると思うが、必ず成果に繋がるものを持ち帰るから先走った行動は謹んでくれ」
「それなら部族長も一緒に行くのだろう? お前だけで炎姫公のところに行かれたのでは、イコン族の面目が立たないぞ」
クィービが険しい表情でジャムシードとジューザを見比べる。王都という場所ではイコン族の立場が弱いことは判っていた。が、だからといって黙って引き下がる気はない、とその表情が物語る。
「もちろんそのつもりだ。……ジューザ。一緒に来てくれるな?」
「当たり前だ。妻と妹と姪がいなくなったのだ。黙っていられるか!」
当初の動揺を自分なりになだめすかしたジューザが唸るように返事をした。言葉の端々に苦々しい思いが滲んでいる。サッサと砂漠に戻る算段をしなかった自分の迂闊さを呪っているのかもしれない。
「タケトーさん、下に行きましょう。使用人たちに確認しなければ」
「判りました。こちらにどうぞ。……あぁ、でもイコン族の皆さんがおいでになったのでは使用人たちが混乱します。何名か選んだ上でお願いしますよ」
ジューザは当然として、ジャムシードは意外にも人選にガイアシュを推した。
「ガイアシュはまだ子どもだ。それなのに……」
「でも、あなた方よりも長くこの館で寝起きしてみえるし、うちの者たちとも親しくしていただいていますからねぇ。ジャムシードさんが仰るように使用人の緊張を解すにもちょうどいいのではありませんか?」
使用人を全員集めるとなればいらぬ憶測と動揺を産む。そのことで今後、タケトーと使用人たちとの関係に亀裂が入ってもらっては困る。子どもでも見知った顔の者が同じ場にいるだけで使用人たちの心証はまったく違うのだ。いや子どもだと思っているからこそ気安いこともある。
昨夜、初めてこの館にやってきたイコン族の者たちに強く反論できることではなかった。ガイアシュは大人の中で居心地悪そうにしているが、すでにジャムシードや部族長と一緒に階下に向かう腹は決まっているらしい。
「皆、この部屋を調べておいてくれ。何か見慣れないものや不審なものがあるかもしれない。オレはジャムシードと一緒に話を聞きに行ってくる」
ジューザにしても不満がないわけではなかろう。が、ジャムシードの提案に乗る形で彼は居残る男たちに指示を出した。揉めているこの僅かな時間すら今は惜しい。少しでも早く女たちを連れ去った者の手がかりが欲しかった。
ジャムシードはタケトーを促し、ジューザとガイアシュ、そして少年の父親ということで連れていくことを妥協したクィービを連れて階下へ急いだ。
タケトーがすでに起き出していた使用人に指示を出し、寝ている者も作業が途中の者も一堂に集めた頃には、夜空はしらしらと明けてきていた。
「これで全員ですか? 他にいない者は? よく確認して欲しいのですが」
何事かと顔を見合わせ、囁き交わしていた者たちがキョロキョロと周囲の者を見回し、全員揃っていると主人に請け合う。その返答にジャムシードの表情が曇った。あの女が使用人でなければ、内情を漏らした者がこの中にいることになる。ということは、ここに共犯者がいる可能性が高くなった。
「実は昨夜、この館に見慣れない女がいたそうなのです。……ジャムシードさん、その女の特徴を話していただけませんか?」
小さく頷き、ジャムシードは覚えている限りの侵入者の特徴を列挙する。その間もジューザとガイアシュが使用人の表情を窺い、そこから何か掴めないかと探っていた。もちろんジャムシードとタケトーも目を光らせている。
ジャムシードの声が途切れた一瞬、ふとガイアシュが前に進み出た。
「今朝の話、ちょっと聞きたいんだけどいいかな?」
ガイアシュと同年代と思われる少女とその弟らしき子どもらが怯えた様子で後ずさる姿が目に入る。何か思うところがあったであろうガイアシュの行動力は褒めてやりたいところだが、今この場であの姉弟から何か聞き出せるかどうか微妙なところだ。周囲の大人が向ける不審の眼に萎縮してしまっている。
「市場で親切にしてくれた人がいるって言ってたろ? その人、タケトーさんに似ていたって。どんな感じの人だった?」
弟を庇うように立つ少女はガイアシュよりやや年下であろうか。泣きだしそうな顔で周囲に助けを求める視線を彷徨わせる。が、誰も助けてはくれないと悟ると、唾を飲み込み恐る恐る口を開いた。
「あたしと同じくらいの背丈で、ご主人さまと同じ髪の色と真っ黒な眼の色をしてたの。ご主人さまより大きな眼だけど、あたしよりはつり目で、ゆでた卵みたいにきれいな肌の人だった。お供の人も東のほうの人で、あたしと弟が買い出しの荷物を山ほど抱えているのを見て、ここまで運ぶのを手伝っ……」
震える声が詰まり、ボロボロと涙がこぼれる。そんな姉の様子を見上げ、弟が狼狽えていた。その場にいる者は誰一人として口を開かず、厭な沈黙が場を支配している。少女は悪くない。が、話をするタイミングが悪すぎた。
「もういい、ガイアシュ。下がれ。後は俺が引き受ける」
ジャムシードの隣に立つジューザがもどかしげに呻く。件の女がどこの者なのか問い質したかろう。しかし彼女が知っている可能性は無きに等しかった。
泣き出してしまった少女から気まずげに視線を反らし、ガイアシュが振り向く。彼も緊張していたのだ。その強張った肩を軽く叩いてジューザの傍らへ引き戻すと、ジャムシードはタケトーに呼びかけた。
「あなたがいつも使って紙と……木炭をいただけますか?」
「紙と木炭ですか? すぐに用意しましょう」
足早に部屋を出ていく館主を見送り、ジャムシードは固唾を飲んで成り行きを見守る使用人たちを見回す。状況が判らない困惑がヒシヒシと伝わってきた。
「他にこの子の言う女とその連れを見た者はいるか? 大事なことだから知っていることがあれば、どんな小さなことでも教えて欲しい」
ざわついている使用人の間から一人の飯炊き女が進み出る。
「若旦那さま。もしかしたら、あたいが見た女も同じ人かもしれません」
少女が口火を切ったことで話がしやすくなったのだ。立て板に水とはいかないが、飯炊き女はつっかえながら興奮気味に自分の知っていることを語った。だが語った内容については少女の話と大差がない。
大して待たずにタケトーが戻ると、ジャムシードは受け取った紙に木炭で何かを描き始めた。紙はもっとも描きやすい材質である。一般的な羊皮紙や布張りでは荒すぎて、ジャムシードの腕前では細かな部分を描ききれなかった。
手許を覗き込んでいたタケトーが小さく感嘆の声を漏らす。それに興味を引かれたジューザとガイアシュも紙に描かれたものを眺め、驚きの声を上げた。
「驚きましたねぇ。ジャムシードさんには絵師の才能もありましたか」
「俺に本物の絵師の才能はないよ。この程度で絵師は名乗れないし、門兄のほうが腕は上さ。素描は絵師だけじゃなく細工を生業にしてる者なら誰でも必要なんだ。植物や動物の特徴を正確に把握する必要があるからな」
おおよその特徴を掴んだ女の顔が紙に浮き上がっている。これを見れば、どんな女なのか口で説明する必要はあるまい。
「なんで最初から描かなかったんだ。これを見せれば誰だって女の特徴が理解できて判りやすい。いちいち言葉にしなくても良かっただろうが」
「そんなことない。眼で見たものはつい見たような気にさせられるんだ。口で説明した特徴が思い浮かばない状態で絵を見せたら正確な記憶がぼやける」
描いた絵を少し離して眺め、納得がいく出来だと判断すると、ジャムシードは姉弟と飯炊き女を呼び寄せて、それを目の前に翳した。
「この女に間違いないか? 違っていたら言ってくれ」
三人は食い入るように描かれた人物に見入る。自身の記憶と比べているらしく、すがめられた眼は真剣な割にどこか茫洋として見えた。
「似ています。でも間違いないかどうか、自信がありません」
「あたいも同じです。東の人たちの顔は見分けが難しくって……」
「おいら、顔をよく覚えてないけど似てると思う。たぶんこの人だよ」
予想した答えだったが記憶の中の女が実在する手応えは掴めた。女の所在を探すとなると、王都で東方人が集まりやすい場所で聞き込むしかないだろう。
「イコン族と俺の知り合いに頼んで聞き込みをしよう。タケトーさんは……」
「どこかで見た顔ですね。この特徴からいってシギナの血筋のはず。はて……。ジャムシードさん、この女とどんな話をしたのですか?」
どんな話を、と問われても今はよく思い出せない。何か言われた記憶はあるが、それがなんだったのかハッキリとしなかった。
「ハッキリと思い出せないんです。あのときは意識が朦朧としてたから」
「眠り薬を盛られたのでしたね。薬の知識もあるとなると、やはりシギナに縁のある者でしょう。……皆、この女の顔をしっかりと覚えなさい。今日は館の仕事は休みにしますから、手分けしてこの女を探します」
ジューザが「えぇ!?」と困惑した声を漏らした。イコン族ならば部族総出で探索に出ることもあるが、彼らから見た街の人間がそれほど積極的に厄介事に関わるとは思っていなかったのだろう。
かくいうジャムシードも困惑し、タケトーとその使用人たちを見比べた。館での仕事で給金を貰っている使用人にしてみれば迷惑な話である。案の定、大半の者が不満げに顔を見合わせてひそひそと囁き交わしていた。
「昨夜、この館からイコン族の女性三人が連れ去られました。警備を命じていた者、お前たちにも責任がありますね? それから厨房で働いていた者にも。場合によっては部屋係の者にも、です」
警備を担当していた男たちが苦々しい表情ながら頷く姿が目に入る。が、他の者たちは大いに不満があるようで、ぶつぶつと不平を漏らした。
「不服そうな顔をしても無駄ですよ。この館で働くにあたっての注意は最初に面接で出しておいたはずです。私の命令がきけないのであれば今までに支払った給金を返上して出ていってもらいます。そういう条件でしたよね? 今日は全員で人捜しです。館をまわす上での最低限の人員だけを残しなさい」
それでは解散、と宣言したタケトーを止めに入る隙はない。情報をもたらした三人に報酬だと銅貨を数枚手渡す館の主の態度は実に堂々としていた。
「すぐに簡単な朝食を作らせますから、その後はすぐに探索にかかれますよ」
「ありがとございます。俺も工人仲間にシギナ人の集まっている場所を聞いてみます。イコン族の皆は街に不案内ですから……」
「オレたちも探すぞ。じって待ってなどいられないからな」
ジューザの言葉にガイアシュも強く頷く。置いていったら暴れだしそうだ。
「判った。それじゃあ東方人が出入りしている商館をあたってくれ」
動き出した館の中は先ほどまでの空気が嘘のようにざわついている。そのただ中で、ジャムシードは未だ曖昧な自分の記憶に苛立ちを隠せないでいた。
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