混沌と黎明の横顔

第11章:水底の陰謀 6

 血の匂いが満ちた暗闇の中に松明が赤々と照らし出した一画で繰り広げられる行為は、陰惨を極めていると言ってもいいかもしれない。
 怪我に苦しむ獣のうなり声のような声が時折あがる以外は、肉を裂く鋭い音と荒い息遣いしか聞こえてこないのが、その凄惨さに拍車をかけていた。
 もう数えるのも億劫になるほどの回数、この禍々しい凶器を振り上げている。先端に鉄針を埋め込んだその鞭をさらに高々と振り上げ、ケル・エルスは容赦なく目の前の肉の塊にそれを打ちつけた。
 猿轡を噛ませた喉から引きつった悲鳴がもれる。それを冷めた眼で見おろし、彼は再び鞭で相手を打ち据えた。繰り返される加虐に相手が意識を失えば、一瞬の躊躇もなく水をかけて覚醒させ、また鞭で苦痛を与える。
 言葉を発することなく加えられる拷問の責めは、言葉で脅すよりも明確に彼の内心の怒りを表しているようにも見えた。
 猿轡の隙間からうめくような悲鳴が漏れ、許しを乞う単語が切れ切れに聞こえてくる。それでもエルスの手は止まらず、相手を責め殺すのではないかと思えるほどに容赦なく、そしてまた的確に鞭で相手の背肉をえぐり取った。
 暗闇の遠くから石階段を使う足音が響く。続いて錆びついた蝶番が軋む音が続くと、松明とは別の炎の揺らぎが差し込んだ。
「公子様、あまり過ぎれば声を出す気力も奪ってしまいますよ。その辺りにしておいたから如何でしょう。この男も己の身の程を思い知った頃です」
 現れた侵入者は壮年の落ち着いた男の声を発する。その声に従い、鞭の音が途絶えると、黒耀樹公子ケル・エルスは氷のような眼で振り返った。
「楼主か。邪魔をするな。この愚か者をこんな軽微な制裁で赦す気はない。よりにもよって王女殿下に仇なすとは。我が家の威信を借りての行為、この者自身の命で贖わせても足りぬ。近日中に一族郎党に罪状を突きつけてくれる」
「お怒りはごもっとも。ですが如何に激怒されようとも所詮はお母上の掌の上。あなたの命じた処罰が実現するかどうかは微妙な問題ですよ」
 エルスの眼差しが凍りつく冷たさを宿す。それだけで多くの者は背筋を震え上がらせるであろうが、目の前に立つ男には通用しなかった。
「どうせこの男もお母上の息がかかった貴族の縁者でございましょうに。あなたがどれほど怒り狂ったところで、殿下には茶番劇にしか映りませんよ」
 楼主の口調に嘲りが混じる。それを敏感に感じ、エルスは奥歯を噛み締めた。
「殿下との約束は必ず果たす。貴様の話につき合っている暇などないわ。用がないのならサッサと出ていけ。目障りだ」
「そういうわけにもいきませんよ。その男を殺されてはかないませんからね。殿下のご不興を買いたくなければほどほどにしてください」
 落ち着いた声だが瞳の奥には軽蔑が混じってはいまいか。それとも、そう感じるのはこちらに負い目があるからか。いずれにしろ楼主と話をしていると苛立ちばかりが募った。早く目の前から消えて欲しいばかりである。
「私のやり方に文句をつけるのは勝手だが、それで私の役目が果たせなくなるとは思わないのか。この男から情報を引き出すには己の立場をよく判らせなければならん。実家に頼ろうなどと爪の先ほども考えられぬ程度にはな」
「死んでは元も子もないと申し上げたまでです。それをどう受け取るかはあなた次第でしょう。殺さない限度を見極められる程度には感情を制しておいでならけっこうですよ。ですが、あまり時間をかけないほうが賢明でしょう」
 言われるまでもない。夜明け前には片を付けねばならなかった。王子への報告は朝一番だ。そして、この男の背後にいる者どもがこの場所を嗅ぎつける前にすべてを引き出さねば、どこから邪魔が入るか知れたものではない。
「だったら私の手を止めさせるな。貴様と話をしている時間すら惜しい。余計な忠告をしに来ただけなら戻るがいい」
 楼主が慇懃に頭を下げたが、部屋の片隅に移動しただけだった。行きすぎないよう監視する気だ。ケル・エルスは舌打ちを我慢し、囚人を見おろした。
 うわごとのように許しを乞う囁きが猿轡の隙間から漏れ聞こえる。それは不明瞭な音で他の者が耳にしても意味が判らなかっただろう。しかし、こういう仕事に慣れている彼にはこの手の囁きは聞き馴染んだ音だった。
 そう、音だ。これは言葉ではない。たまたまもれた音が人語に聞こえるだけ。そう思って仕事を淡々とこなしてきたし、これからもこなしていくだろう。
 母親譲りの残虐な性格はこういうときには役に立つ。顔色ひとつ変えることなく拷問に手を染める公子に嫌悪を向ける者もいようが、それが己の仕事であり、周囲から期待されていることであればやるのが当然であった。
「知ってることをすべて話すのなら、これ以上の鞭打ちはやめてやる。だが、一言でも偽りを語れば、死んだほうがましだという目に遭わせるぞ」
 エルスの陰気な声が聞こえたのか、芋虫の如く転がった男の全身が震えた。
 乱暴に男の脇腹を蹴り上げ、俯せになっていた身体を仰向けた。怪我をしている背中が床にこすれて痛むのだろう。猿轡の隙間からは苦痛の呻き声が漏れた。それを無視し、エルスは男の鳩尾に足をかけた。
「話ができるようにしてやろう。だが自害しようなどと思わぬことだ。そんな真似をしたが最後、生きたまま竈につり下げて薫製にしてやる。貴様が口にしていいのは私の質問への答えだけだ。それも偽りは一切許さない」
 壊れた人形のようにガクガクと首を振る男の口許から猿轡を取り外す。口の両端から頬にかけて肌がこすれて赤く腫れて跡が残っていたが、それに同情する気にはまったくなれなかった。自業自得というものだ。
「貴様に計画を持ちかけたのは誰だ?」
「バ、ラド卿の遣いが、神殿に……」
 ケル・エルスは素早く片手を挙げて男の言葉を制した。
「嘘をつくな、と言ったはずだ。貴様が仕える神殿にバラドが出向くものか」
「本当です! 遣いの者は、確かにバラド卿の、家の者だと名乗って!」
 声に力はなかったが反論する口調には必死さが滲んでいる。公子に信じてもらえなかったら自分の命は終わりだと、これまでの責め苦から理解したようだ。
「どんな外見の者だった?」
「は……。あの、見かけは東方人のように、特徴の乏しい奴で。あまり覚えては、いないのです。で、ですが! バラド卿の印章を持って、神殿に面会を求めて参りましたし。そ、その……金の支払いも……」
 つまり王女に狼藉を働く報酬を受け取ったというわけか。エルスの眉がつり上がり、怒りのあまり口の端が引きつった。
「つまり、貴様はバラド卿の印章を見て本物の遣いだと思い、その依頼を引き受けて報酬も受け取った、というわけだな。そして貴族の遣いだというのに異国風の使者を疑問にも思わなかった、と」
「それは……。ですが、印章は本物でした。それは間違いありま……ゲフッ」
 エルスは鳩尾に置いていた足に力を込めた。痛みに咳き込み、呼吸もままならずに藻掻く囚人の様子を公子は怒りに燃えた眼で見おろす。
「印章が本物であるという証拠は? 確証もなしの思い込みか?」
「違います! 絶対に本物です。バラド卿の紋が入った印章箱に、聖包布までかかっていたのです。印章だけなら偽装もできますが、聖包は神殿の……」
「バラド侯の聖包布の紋章を知っていると?」
 聖包布は貴族の男子が成年したときに神殿から贈られる個別紋章を刺繍した品のことだ。護符サルクが誕生のときに贈られるごく身近な品なのに対して、聖包布は社会的に自立した証を得たという意味で政治色が濃い品である。
「もちろんです。あれを手配するよう承り、刺繍を施す女神官を選んだのが、一人前の神官になった初仕事で。忘れようがありません」
 聖包布の刺繍には相応の、そして同等の力量を持つ技術者が必要だった。
 表には持ち主の個別紋章が、裏側には作らせた神殿の紋章が縫い取られている。表と裏を行き来する糸で同時に別々の紋章を刺繍する難易度の高い作業だ。貴族の成年の折、神殿への喜捨は莫大である。それなりの手業を見せつける品を贈らねばその神殿の沽券にも関わることだった。
「誓って見間違いではないと言い切れるか? 偽物かもしれないなどと後から言い訳しても遅いぞ。他に助けを求めるための時間稼ぎであれば……」
「誓って! ケル・エルス様、誓ってそのような! お話ししたことは、すべて真実です。ですから、どうか命は取らぬと。どうか……ッ!」
 助けてくれと泣きつく囚人のみっともない姿にエルスは小さく鼻を鳴らす。軽蔑するだけでは足りなかった。こんな男のために王太子の不興を買うはめになったとは。この腹立ちをどうしたら晴らせようか。
「貴様の命を取るか取らぬかは王太子殿下がお決めになることだ。私の一存でどうこうできる問題ではない。バラド侯爵が知らぬ存ぜぬを通せば、お前の首は刑場の櫓に吊されることになろう。いや、王女殿下への振る舞いだけで王家への叛意と取れる、と判断されることも充分にあり得る」
「そんな! 私は命じられただけで、反逆などと……」
「だが貴様は次期国王の姉君に危害を加えようとした。その事実は動かし難い。たとえ王女の血の半分がバゼルダルンのものであろうと、尊き血を蔑ろにした者への処罰が穏やかであるはずがない。今から覚悟しておくことだ」
 貴族だから殺されはしないだとか、亡国の姫が産み落とした娘になら何をしていいだとか、内心で甘いことを考えていたに違いない。神殿という小さな世界で暮らす貴族階級者に多い惰弱な思想だが、そんな稚拙な人間だからこそ容易く相手の策に乗せられ、いいように使われたのだ。
 つくづく愚かな男だと、黒耀樹公子は囚人を睨み下ろした。
「裏付けを取るためにしばらくの間は生かしておいてやる。その後の処分については追って沙汰が出る。それまでに未練を捨てておくことだな」
「おねがいです! どうか、殺さないでください。死にたくない。いやだっ!」
「無駄な懇願はやめなさい。この牢に繋がれた時点であなたは貴族でも神官でもないのです。どのような心積もりで王女殿下に手を出そうとしたのか知りませんが、王太子殿下を蔑ろにした罪はその身で贖いなさい」
 それまで沈黙を守り、やり取りを見守っていた楼主が口を挟んでくる。邪魔するかと身構えると、男は腰を屈めて戸口のほうへと公子をいざなった。
「あの囚人は我が楼館で預かります。あなたはすぐにでも裏付けの調査に入られたほうがいいでしょう。バラド侯爵が本当に関わっているかどうか判断はつきかねますが、あなたへの嫌疑は未だに晴れていないのですからね」
 かすれた声で喚き散らす男を置き去りに、ケル・エルスは楼主と共に階段室へと歩み出た。言われるまでもない。朝までに全容を明らかにすることが無理でも、できるだけ情報を集めねば黒耀樹家も王家の不興を買うはめになる。
 慇懃な態度で見送る楼主に囚人の治療を任せ、公子は地上へと繋がる階段を早足で登っていった。見送る男の視線が背に突き刺さる。そこに冷ややかな軽蔑を感じ取り、彼は奥歯を噛み締めてそれに耐えた。
 母親の庇護から抜け出せぬ青二才だと嗤っているのだろう。あるいは囚人を拷問する姿を茶番と捉え、呆れ返っているのかもしれない。
 個人の印章だけでなく聖包布まで持ち出されたとなれば、それは今回の事件に本人が関わっているか、あるいはバラド侯爵家から公然と持ち去られたかのどちらかだ。他にも盗まれた可能性もあるがそれでは騒ぎになっていよう。
 ケル・エルスは今回の事件の裏側に母親の影を感じずにはいられなかった。ドロッギス地藩に所領がある貴族に影響を及ぼせて、なおかつ印章や聖包布を容易く持ち出せるのは地藩主である黒耀樹家だけである。
 異母兄がこんな姑息な手段で王女を籠絡しようとするとは思えなかった。女にだらしがないと噂されているが、彼は女に無理強いなどしない質である。となれば、黒耀樹家のもう一つの権力に的は絞られてしまうのだ。
「母上、まさかあなたなのですか? 王家に弓引く気だと仰るのか」
 点在するランプの灯りが照らす公子の顔は幽鬼の如く青ざめている。さんざめく花館の外れ、寂れた一画を進みながら、彼は険しい表情を崩せずにいた。




 呼びつけた楽士の指先が奏でる双弦琴フィレリラの音色を聞き流しながらシヴェラリアーナは今後のことを考え込んでいた。
 姉娘のアルティーエにまで手を伸ばしてきたとなると、我が身もおちおちとはしていられまい。ただでさえ夫亡き後も王宮に居座り、その夫が贔屓にしていた楽奏士タクタイドとの関係が噂されている有様だ。
 別段、誰とどうこう噂されたところで痛くも痒くもない。むしろイルーシェンとの噂はこちらが積極的にばらまいたのだから、広がってもらわなければ困るのだ。中央貴族たちを振り回すにはそれくらいやらなければ。
 けれども、もしも王妃と楽奏士の噂から王女を手に入れようと躍起になっている者どもが暴挙に出たのだとしたら……。
「不愉快だこと」
 ぽつりと呟いた声が聞こえたのだろう。双弦琴のしらべがプツリと途絶えた。
「続けて、イルーシェン。あなたの音を非難したわけではないから」
 小さく頭を垂れ、恭順の意を示した奏士が再びしっとりとした琴の音色を奏で始める。間もなく雨期が明けるこの時期に相応しい力強さを根底に伺える曲だ。王妃の気分を少しでも盛り立てようとの気遣いが見える。
 だが、綺麗なだけの女性に見える己の本性を、目の前の楽奏士は薄々気づいているはずだ。ときに誰よりも冷酷に振る舞える人となりを。
 現に今、娘の傷心を知りながら傍らに寄り添ってはいない。王妃が動けば注目を集める。だからこそ離宮に人々の関心を向けさせないためにも娘と距離を置かねばならない。娘を守る以上に王となる息子を守るために。
「最優先すべきは王位を掴むこと。そしてそれを維持し、継承させること」
 もし息子の王位継承に邪魔となれば、シヴェラリアーナは血を分けた娘であっても見捨てるだろう。我が事ながらそれを容易に想像できた。
「わたしが享楽的な女を演じておけば、次の王としてのサルシャ・ヤウンに注目するだろうと思ったのに。いきなり息子の急所を突いてきたわけね」
 王族内から反対の声もあがらない現状で王太子を失脚させるのは無理な話である。だからこそ次の権力者に媚びを売りにすり寄ってくると予想したのだが、逆に母親の行動を疎んじて息子や娘ごと潰しにきたのか。
 時期国王の花嫁選びだけでも頭が痛いというのに、また厄介な真似をしてくれたものだ。ヤウンに王位を継がせたくない陣営といえば……。
 シヴェラリアーナは小さく唇を噛んだ。敵対する陣営は大きい。貴族の大半はサルシャ・ヤウンの動向を静観している状態だが、少しでも天秤の揺れがどちらか一方に大きく傾いだなら、我先にと勝ち組へ走るはずだ。
 弱みを見せてはいけない。つけいる隙があると判断されれば襲われる。
 だからこそ、今回の王女への手出しは表沙汰にされることはないのだ。向こうもそれが判っているから、こうもあからさまに強攻策に出たに違いない。後ろ盾のない王妃とその子どもたちなど取るに足りぬと。
「後ろ盾のあるなしで人を判断する輩に負けるわけにはいかないわ」
 王太子に媚びを売りつつ、その裏では失脚させようと目論んでいる者どもの裏をかいてやろう。それ故に息子の花嫁選びは慎重にやらねば。
 国王の正式な伴侶という立場は力強い支えになると同時に最悪の敵にもなる。婚姻という契約で縛られている間は王家との絆を大切にするだろうが、ひとたび跡継ぎが産まれれば外戚家にとって王など邪魔なだけだ。
 生まれてきた王子を国王に据え、国政の重席に収まるには、王を排除するしかない。そのためにあらゆる手段を使って暗殺者を送り込むことになる。
 ここ最近の歴代の王が国内ではなく周辺国の王家や有力貴族から妻を迎えている裏側には、国内の腹黒い事情が存在していた。外圧がなければ団結しようとしない貴族連中には諸外国の姫は丸め込むか敵対するかの価値しかない。
「どこまでも目先のことしか考えない人たちだわ。女狐に踊らされていることに気づいてもいないとは。まったく困ったことね」
 ふと伏せていた瞼を持ち上げると、イルーシェンと視線が絡まった。まだ双弦琴を奏で続けていいのか、と無言で問いかける楽奏士の鮮やかな緑の眼が、無邪気な赤ん坊のようにさえ感じられる。
 イルーシェンの態度からは、宮廷にはびこる悪意や焦燥といった負の感情がまるで見えなかった。彼自身けっして無垢ではないというのに。
「娘を差し出してきた家の者には牽制が利くでしょうね。人質も同然だし。だけどそこから先は不透明だわ。でも……」
 曲を続けるよう指先だけで指示し、シヴェラリアーナは考え込んだ。
 買収できた貴族や商人、聖職者たちはどこまで協力するだろうか。完全な忠誠を誓う者などいない。王太子に絶対忠誠を誓っていたのは、今思い返せば前黒耀樹公ワイト・ダイスだけだったかもしれない。
 その皮肉さに王妃は声もなく笑った。可笑しくもなんともないのに。
 大切な我が騎士を卑劣な手段で殺した男の息子が、この王国の中でもっとも信頼に足る者だったとは、なんというお笑い種であろう。いったいどんな悪辣な茶番劇だというのか。その答えを誰か用意してくれぬものか。
 息子を王位に就けるのだ。ここからがその正念場のはず。迷ったり考え込んだりしている暇はないというのに、シヴェラリアーナはふと立ち止まりたくなる誘惑に駆られていた。このまま進んでいいのだろうか、と。
「ねぇ、イルーシェン。あなたはの生き方をどう思う?」
 亡くなった水姫公妃ユニティアは不器用だと言った。生きづらいだろうと。そのように評されるのが意外に思え、当時は笑い飛ばしたものである。だが今になって思うと、彼女にはこんな未来が見えていたのかもしれない。
「懸命に生きていらっしゃいます。それ故に、傷ついていらっしゃるように見えます。背負わずに済む業を自ら背負っている、そんな生き方に思えます」
 弦を爪弾く指先が止まり、ゆっくりとこちらに顔を巡らせた楽奏士が囁いた。下がらせた侍女には聞こえまい。イルーシェンの声にシヴェラリアーナは森の奥の泉に広がる波紋のような揺れを感じた。
 他人の人生を評するほど老成はしていまいに、若い楽奏士は生真面目な様子で王妃に返事をする。ときに嫌味を平然と口にすることすらあると噂に聞くイルーシェンにしては、今夜の態度は静か過ぎはしないだろうか。
「何かあったの、イルーシェン? 随分と落ち込んでいるように見えるわ」
「何もありませんし、落ち込んでもいません。シヴェラリアーナ様にご懸念いただけるとは光栄の限りでございます」
 他人行儀な態度に王妃は苦く笑った。宮廷で広がる噂話では爛れた暮らしを送っていることになっている二人の関係が、こうもアッサリとした主従関係に終始していることを貴族連中が知ったらどう思うだろうか。
 呆気に取られるであろう貴族の顔を想像し、王妃は意地悪い気持ちが蛇の鎌首のようにもたげるのを止められなかった。
「今回の仕事が終われば、あなたの周囲をうろつく愚か者どもの数もぐっと減るでしょうね。この宮廷内で贔屓の信奉者がいるなら言っておいてちょうだい。罰を受けないよう、のほうも注意しておくから」
 感謝の言葉を発して頭を下げる男の態度は、やはり普段と違って見えた。
 楽の才能と同等に美貌を誇る楽奏士への宮女からの誘惑は多かろう。また同時に官吏や貴族からの誘いも途切れぬと聞く。なのに王妃の傍らに存在する彼の姿を、宮廷人は脅威の眼をもって眺めているはずだ。
 芸で生きる者にとって権力者の庇護はなくてはならない力である。国王ラジ・ドライラムが亡くなった今、次の王の最有力候補であるサルシャ・ヤウンに跪くことはあっても、王妃に媚びを売っていいことなどないはずだ。
 この国は王族やそれに準じる貴族ほど未亡人は俗世を捨てて僧院へと居を移す風習が残る。律令で定められたものではないので、元黒耀樹公妃リウリシュが権力の座に居座っているが、それは非常に異例なことだった。
 その前例に倣ってシヴェラリアーナも今は王宮に居座り続けている。もちろん喪が明けておらず、まだ僧院に移る時期ではないので、数年前に夫と死別したリウリシュよりは胸を張って居座っていられるのだが。
 だが権力からはいずれ遠ざかる女よりは、次の権力者の側にいることが筆頭楽奏士であり続ける定法。そうしないイルーシェンは奇異な存在である。
「あなたはいつまで側にいてくれるのかしらね、イルーシェン?」
「お望みとあらばいつまでも。ラジ・ドライラム陛下との想い出話ができるのは、僭越ながらこの賤しい筆頭楽奏士だけかと思われますが?」
「夫との想い出話を糧に余生を送れと? 残念ながら、そのように静かな生活は性に合わないわ。あなたの奏でる音に癒されるのは一時のことですからね」
 ともすれば突き放したようにも聞こえる返答をし、シヴェラリアーナは華やいだ微笑みを相手に向けた。知る人が見れば、それは王太子が仮面として被る微笑みとと同じだと気づいたろう。やはり、こういうところは親子だった。
「わたしはね、公王となるべく育てられたの。いいえ、自分から王になろうと勉学に励んでいたわ。夫となる男を公王と崇める気などこれっぽっちもなかったのよ。いっそ結婚などせず、子どもだけ産んで国を動かそうかともね」
 だが夢に終わった。そう呟き、王妃は壁にかかるランプの炎を見上げた。
 還らぬ時間を嘆いても始まらない。すべてを手に入れるためにすべてを捨てるのだ。そう思わねば、当時は国を滅ぼされたことに納得などできなかった。
「後悔も懺悔も、わたしには無縁のもの。それは当時も今も変わらないわね」
 誰に伝えるともなく囁く王妃の言葉を楽奏士だけが静かに受け止める。再び流れ出した琴の音色は眠る子に歌を口ずさむ母の声のように優しげだった。