静かな夜空だった。雨雲がとぐろ巻くわけでもなく、星が騒がしく囁くでもなく、月光が虚空を席巻するでもない。ただただ闇が広がる、静かな空だった。
林の梢から覗くだけの空だったが、その程度は判るほど木々の手入れは行き届いていた。少し離れた場所に建つ王城同様に仕えている従僕が手を抜くことなく仕事をしている証拠と言っていいだろう。
ソージンは迷いなく林の奥へと進み、その木々が徐々にねじくれたものへと変化する様子を横目で眺めた。奥に進むに従って樹木の手入れはなおざりにされ、先ほどまでの勤勉な仕事ぶりからは信じられない状態になっていく。
しかし、よく見れば以前は手入れされていたであろう跡があちこちに見受けられた。これもまた仕方のないことなのだろう。最近になってこの林の奥に棲むようになった猛獣を恐れて、人が近づかないのだから。
どれほど進んだだろうか。城の回廊で燃える松明の火もほとんど見えない場所までくると、ソージンは足を止めて周囲を見回した。
「おい! どこにいるんだ。隠れてないで出てこないか!」
静まり返った林の中に彼の声だけが朗々と響く。しばらく様子を見ても物音ひとつしない。忌々しげに舌打ちし、ソージンは再び声をあげた。
「出てくるまでここで待つぞ! どうせ逃げられないんだから観念しろ!」
ひそとも音がしなかった樹林の間にザワザワと風が巻き起こる。いや、何か大きなものが枝を揺らし、まだ育ちきっていない茂みを騒がせているのだ。
『うるさい奴だ。そう大声で呼ばなくとも聞こえている』
うんざりした声を漏らした存在を他の者が見たなら腰を抜かしたろうか。白い毛皮をくねらせながら姿を現した馬ほどもある獣が口を開いたのだから。だが、ソージンは己と同じ白い色彩をまとった猛獣に臆しもしない。
「離宮での騒ぎは聞いていたか?」
『なぜ我がお前にそれを教えてやらねばならん。自分の仕事を放り出していたツケを我に支払わせようなどとは虫が良すぎるぞ』
「おれはおれ自身の仕事をしている。おれがいない間のヤウンを守るのはお前の役目だろうが。自分の仕事をしなかったのはどっちだ!」
ムッとしたソージンの目の前で獣がそっぽを向いた。子どもっぽい態度だが、自分が悪いなどとは露ほども思っていないことだけは確かである。
『人間に関わり合うなど冗談ではない。我に勝手な期待をするな』
ぶん殴ってやろうか。一瞬殺意を覚えたが、それを我慢してソージンは冷ややかな視線を相手に送った。たぶんこちらの怒りを感じ取っているはずだが、ふてくされているらしい獣はわざと無視している。
「そうか。つまり、お前はどこの馬の骨ともしれない異形が作り上げた呪詛に負けたと認めるわけだな。お前の操る魔術以上の力だったと」
『なっ!? 言わせておけば! 我の魔力は一族最強の力だ。そこらに転がっている輩と一緒にするな! あんなケチな呪詛なんぞに……』
「だが現実はといえば、ヤウンは呪詛に飲み込まれた王女の毒牙にかかりそうになり、お前は何も手出しをできずにいた。王太子を助けたのは仮初めの護衛である女騎士と双子の僧兵だ。ヤウンと主人と仰いだはずのお前じゃない!」
言い返したそうに身悶える獣の様子から内心の葛藤が見て取れた。どうせ契約と復讐の間に立ってのたうち回っているのだろう。自業自得だ。
相手の皮肉を嘲る残酷さに支配されているソージンも、実は己自身の失態に苛立っていた。本当のところ、ここに来て相手を罵っているのは八つ当たりというやつである。自分も危うく契約者を失うところだった。
予定外に帰参が遅くならなければ、もしかしたら王太子は護衛騎士である自分を離宮に伴ったかもしれない。基本が男子禁制である後宮区画にある離宮であるから、どうなったかは判らないのだが。
それでも双子の僧兵が自分の契約者を救ったと聞けば気分がいいものではない。今も僧院の偉い坊主と話があるとかで放り出された。自分が現場にいなかったのだから仕方がないが、ヤウンから据えられた灸は少々手厳しい。
「契約を守る意味を知っているか? 守る気がないのならここから出て行け。おれもお前も、ヤウンの許しがあるからここにいるんだ。契約を果たせない者に居場所などない。……お前も、それを肝に銘じておくんだな」
きびすを返して林の小道を戻りながら、ソージンは自嘲に口許を歪めた。
肝に銘じておくのは自分も同じ。後悔からは何も生まれないのを経験していながら、今夜の自分の行動を後悔せずにはいられない。と同時に、また同じ事が起こっても同じように行動し兼ねない自分がいることも知っていた。
樹木がまばらになるに従い、梢の向こうの空は広々と見渡せる。そこにはほんの少しの星が申し訳なさそうに輝いていた。
「過去に捕らわれているのはお前だけではない。だから忠告してやるんだ」
溜め息混じりの呟きは林の奥にいる存在には聞こえていまい。いや、たとえ聞こえていたとしてもそれを素直に受け留めるとは思えなかったが。
どうしても捨てきれない過去が……そうではない、自分にとっては過去ではなく現在進行形だが、重苦しく肩にのし掛かってくる。
己の蒔いた種を未だに刈り取れていないのだから当然の報いなのだが、契約との狭間でひとり悶々とする時間が増えていることは否めなかった。
「故郷の近況と引き替え、か……。タケトーめ、相変わらず嫌味な奴だ」
城下にある異邦人を主人と仰ぐ館での会話を思い出し、ソージンは苦い思いを飲み下すように奥歯をきつく噛み締める。知りたい情報を手に入れようと思えば相手の要求を呑まねばならなかった。が、その要求は理不尽すぎる。
交換条件として持ち出されるには不愉快すぎて、怒りが鎌首をもたげた。
「勝手におれを婿候補なんぞに選びやがって。どうせ娘の護衛を任せるのにはちょうどいいとか考えたんだろうが……。あのいかれトンチキの脳天気王、今度顔を合わせる機会があったら張り飛ばしてやるっ」
腑が煮えくり返るかと思えるほどの怒りと苛立ちに彼は思わず足を止める。再び見上げた夜空は相変わらず星が少なく、ソージンの八つ当たりを避けようと姿を隠してしまったのではないかと邪推したくなる寂しさだった。
「いいや。張り飛ばすだけでは気がすまん。腕の一本もへし折ってやる」
無意識のうちに背負っていた太刀を引き抜くと、彼は闇の中でもギラリと鋭い輝きを伴う白い軌跡に彼は眼を細める。
実用を重視した太刀は、肉厚の刃に星光を受けて生々しいほど闇夜に白い刀身を浮き上がらせた。多くの血を吸ったはずの凶刃に意識が吸い寄せられる。
「なぁ、お前の兄弟太刀はどこにいるんだ? そろそろ鞘鳴りが始まっても良い頃合いだが。この国に手がかりがあるんじゃないのか?」
ゆったりと、しかし無駄が一切ない仕草で太刀を目の前に掲げ、ソージンはぬらぬらと光って見える刃の表面を凝視した。
「お前の兄弟を呼べ。おれが自身の片割れと見えぬ共鳴を繰り返すようにな。同じ鋼から鍛えられたからには、向こうもお前を呼んでいるだろう?」
失せ物を見つけねば追放は解かれない。十年以上もそうやって故郷から失われたものを探し回っていた。手がかりを追って、追って、追い求めて、ようやく共鳴する鞘鳴りが大きくなった土地に辿り着いたというのに。
この土地に来てから鞘鳴りは起こらない。それは手がかりが遠のいたからなのか、それともあまりにも兄弟太刀に近づきすぎて太刀が安息を手に入れてしまったからなのか。遠い故郷に繋がる太刀を睨み、ソージンは低く呻いた。
「おれは必ず故郷に帰ると誓ったんだ。お前も片割れを見つけ出せ」
ふと背後に気配を感じて振り返ると、薄ぼんやりとした人影がこちらに近づいてくる様子が見えた。揺らめく炎のような髪が身体にまとわりついてうるさいのか、邪険に振り払う姿が妙に子どもっぽく感じられる。
「毛獣とかいう獣からわざわざ抜け出してきてまでなんの用だ? まさか文句を言いに来たか」
『うるさい。我が呪詛を退けられなかったなどとほざくから、きちんと対処できることを証明しに行くだけだ。サルシャ・ヤウンはどこだ!』
「主人の気配くらい探れるだろうが。だがな、今は来客中で逢えないぞ。それにその姿を人前にさらす気か? 得体の知れない侵入者と誤解されて王宮中の衛兵が総出で追いかけ回してくるだろうな」
『人目を避けて行くに決まっているだろうが! 我が後先考えずに行動す……』
「後先考えずにヤウンと契約を交わしたことは忘れたのか?」
ぐうの音も出ず押し黙った相手の様子に小さく鼻を鳴らし、ソージンはひとり歩き出した。つき合っていられない。この異形はとことん子どもなのだ。外見が大人に見えても中身は空っぽだと認識しておこう。
『待て! 我を案内せんかっ。サルシャ・ヤウンはどこにいる!』
「お前が勝手に出歩くのは迷惑だ。今あいつに会いに来ている奴は僧院の坊主だからな、下手したらお前の存在を感じ取る。騒ぎになる前にとっとと帰れ」
『呪詛の対処をしろと言ったのはそっちではないか!』
「どうして対処しなかったのか、と訊ねたんだ。もうすでに対処済みのことを後からしゃしゃり出てきても遅すぎる。どうせ呪詛そのものは祓えないくせに。今後の対応はヤウン自身が考えている。お前の出る幕ではない」
傍らをふよふよと漂いながらついてくる相手を横目で睨み、ソージンは吐き捨てるように突き放した。ここまで愚かな奴だとは思わなかった。空っぽの頭の持ち主だと判っていたら、こんな場所までこなかったものを。
『呪詛は取り除けなくとも対処方法くらいは……』
「その対処法をヤウンは話し合っているんだ。邪魔するな」
鋭い一瞥と共に吐き捨てた言葉に一瞬相手が怯んだ。が、すぐに体勢を立て直すと、今まで以上にぴったりと隣に張り付いて一緒に行こうとする。
どうやら意地でも自分が役に立つことを証明したいようだ。そのくだらない意地のために、周囲が迷惑するかもしれないことは考慮しないらしいが。
彼は歩みを止め、隣の空間に浮いている異形に向き直った。
「どうやら本気で留めねばならんらしいな」
『我がどこに行こうがお前には関係ない。人の気配なら読んでやるから、サッサとヤウンのいる部屋に案内しろ。どうせ人間ではろくな対処法など……』
引き抜いたままだった太刀を片手で軽々と頭上に掲げ、ソージンはかろうじて聞き取れる程度の小声で何事かを呟き始める。
『なんの真似だ? いったい何をしようとし──ッ!?』
朱髪が大きく揺れ、異形が背後に飛び退いた。見開かれた瞳は内心が読み取りにくい白目なしの黄金眼だったが、目の前の小さな白い男に脅威を感じ取ったことだけは、その行動から察することができる。
『なんだ、その音律は? 何を言っている!?』
「……たかまがは……かむろしに……はらえどのみて……ことだまを……」
人型をした柱の如く直立不動で呟き続けるソージンの姿は異様なものだった。黒々とした瞳の奥に得体の知れない光が火花を散らしているのが見える。
『お前っ! 我らの真言と同じ音律の言語を操れるのか? ただの人間ではないな!?』
「あめつちのことわり……わだつみのかんなぎ……ほこのいかずち……」
顔を引きつらせ、朱髪の異形はズルズルと後退していった。
『王宮の近くで力を奮うとは、なんという蛮族だ。お前こそ人目を気にしたらどうなのだ。つき合いきれん! 我を巻き込むな!』
やってきたとき以上に異形は素早く林の奥へと飛んでいく。その姿が見えなくなると、ソージンはそっと太刀を手許に引き戻した。ホッと吐息をもらし、得物を鞘に戻しながら空いた手でこめかみを押さえる。
「どうやら焦ると魔力の有無を感じ取る余裕がなくなるらしいな。故郷の大婆殿の真似をして祓えを唱えただけでこうも絶大な効果があるとは。あいつが未熟者で助かった」
試しにやってみたはったりも時には役に立つ。彼は口端だけで苦く嗤った。
「それにしても用意周到に呪詛を張り巡らせる奴がいたものだ。敵だと思っていた軍も自軍も呪詛をかけた輩の掌で踊らされていたとはな。こういうやり方をする奴に味方はいないのが常だが、ヤウンはそれに気づいているのか?」
魔道に関しては後手に回っている感が拭えない今現在、もし気づいていたとしてもどう対処するのが有効なのか判らないだろう。ソージン自身にしても標的が明確になっていない敵との戦いは苦手だった。
「呪詛を解かせるのなら一族の巫が破邪祓えも行なえて適任なのだがな。今ここで無い物ねだりをしても仕方がないか」
迷いを振り捨てるようにひとつ溜め息を吐き出し、小さく頭を振ると、ソージンはゆっくりと歩き出した。近づいてきた建物の回廊周辺を巡回する警備兵が松明の明かりに照らされ赤く染まって見える。
夜も更けてきた今、政務と典礼の施設を抱える王城に人影は少ない。代わりに宮廷人の寝所や私室が多い宮殿には今も行き交う人の姿が見受けられた。
こうして王宮を見てみると緩やかな呼吸を繰り返しながら眠る獣のようだ。なだらかな山肌を利用して建てられた建物全体の息遣いが夜のしじまにこだまするのを感じられるのは、こういう静まり返った夜なのかもしれない。
「人の意識が国ごとに違うように、巣喰っている獣の質も違って当然。この国の獣も美醜を兼ね備えた歪な生き物だ。これからその光と陰、どちらが色濃く反映されるかで形が変わっていくのだろう」
そのとき、自分はどう動くことになろうか。そしてどう変わっていくだろうか。多くの国や地域を通り抜けてきたソージンにとって、その変化はどこか遠い場所のことの如く他人事であった。今回もそれと同じだと思っていた。
だが水面に落ちた石の波紋が他に影響を与えるように、もしかしたら今夜の出来事は自分の変化を何か決定的に変えるものになるかもしれない。
ちらつく怨敵の影、知己との再会、鞘鳴りをやめた愛刀。それらがこの国に集中し、今までは仮初めの客人でしかなかった彼に足枷を与える。
決して異郷で根を下ろす気はない。が、さりとて何もかもを簡単に切り捨てて去るには、この土地のことは心のどこかが警鐘を鳴らす。
転機が来ようとしているのだ。己にはまだ見えない何かが、警戒せよと叫んでいる。来るべき時期を見誤らぬよう、その覚悟だけはしておこうと、ソージンはか弱い星光が浮かぶ夜空を仰ぎながら決意を新たにしたのだった。
「ようやく動き始める。さてさて、かの王子がどんな采配を見せることやら」
惜しげもなくレースをふんだんに使った室内を見回しながらラシュ・ナムルは形の良い唇を笑みの形に歪めた。一見すると楽しげに笑っているが、鮮やかな蒼眼にはそれを裏切る鋭い光が浮かんでいる。
「では、これでようやくお役ご免になるのですね?」
傍らで紙束を掻き集めていた若者が心底安堵した表情で訊ねた。
「エッラ、そう簡単にお役ご免にすると思うか? 娘の教育係の仕事はまだ完全には終わっていないぞ。後宮に入るとはいえ正式なものではないことを忘れるなよ。表だっての理由はあくまでも女官見習いにすぎん」
「他の貴族の姫も大公家の姫も同じ扱い、ですか。王太子殿下も考えましたね」
「だろう? さすがは我が教え子。家格を重視して後宮の部屋割りなどしない、という立場を貫く気のようだからな。今のところはそれで正解だ」
幼い頃の王子を思い出しているのか、ナムルの瞳に僅かだが面白げな色が過ぎり、すぐにそれも瞳の奥底へと沈んでいく。
そんな大公の様子を見守る乳母子のエッラはといえば、まだ続く己の職務にげんなりした様子で、今までのきびきびした手つきからは一転、億劫そうな動きで紙束をまとめだした。子守はたくさんだ、と態度が示す。
「エッラ、別に禁欲を至上とせよと命じた覚えはないぞ。我が娘に手をつける愚挙に出ない程度の分別はあろうが。どこぞで女を見繕え」
「禁欲など始めからしておりませんよ。ただひたすら疲れるだけです。あの姫は想定外の存在ですから。あんなに無邪気なのに男の視線を意識して振る舞える娘を他に知りません。……今からそら恐ろしいですよ」
「お前以外の者を教育係にしないで良かったようだな」
苦笑いとも嘲弄ともとれる表情をし、ナムルは雲塊のような寝台に近寄った。極上の薄黄色の絹地に別の色味の絹糸で贅沢な刺繍を施した掛け布団はレース職人一人が一年かかって行う仕事量以上のレースがあしらわれていた。
その真ん中にまるで珍鳥の卵のように丁寧にくるまれて眠っている少女の寝顔はどこまでもあどけなく、精巧に作られた人形のように整っている。この娘が明日にも王宮の魔窟とも呼ばれる後宮の一画に入るとは、取り決めたナムル自身すら夢ではないかと思えてしまうのが不思議であった。
「たまにいるのだよ。生まれた時から他人を狂わせる資質を持つ存在がな」
自覚がないからこそ始末が悪い。いや自覚していても悪いが、意図してやっていることなら制御できることでも、無意識となれば悪意以上に脅威だ。
「今まで彼女はどうやって身を守っていたのでしょうね。あんなに無防備では簡単に捕まってしまうでしょうに」
ようやく紙束をまとめ終わったエッラがぽつりと呟いた。どこか途方に暮れたような声で、それがこれまでに彼が溜めた疲労の大きさを物語る。
「周囲がお互いに牽制し合っていたのではないのかな。あるいは、もっとも強い者の庇護下に入って他の者を制してきたか、だな。いずれにしても、今後はあの娘を視界に収める者たちの心境は穏やかではなくなるだろう」
「淑女の振る舞いも充分に身につけられましたからね。たとえ水姫家の血を引かぬことを誹ろうとも彼女自身の振る舞いを蔑むことは不可能です」
ぐっすりと眠り込む少女を見おろしながらナムルは口許だけで笑った。穏やかな表情に見えるが、やはり眼だけは笑っていない。
「サルシャ・ヤウンが惑わされるかどうかは判らぬがな。少なくとも、この娘に翻弄されて脱落していく姫君たちは多かろう。家名持ちの貴族ほど無駄に誇り高い。己の策に溺れて自身の命脈を断つ道を歩むことになる」
「後宮に入るのではなく女官見習いで王宮に置かれると知っただけで憤死しそうになる姫君たちも多いでしょう。それが判っていてわざと嫌がらせをする辺り、王太子殿下も随分と人が悪い御方ですね」
あどけない寝顔をずっと眺めていたい誘惑を意志の力でねじ伏せ、水姫公はゆっくりと乳母子のほうを振り返った。塗りが施された華美な箱に先ほどの紙束を丁寧に収めている姿がナムルの視界に入る。
「ヤウンに兵学を教えたのは私で、史学を教えたのはユニティアだ。戦い方を知っている者に教わった学はヘナチョコ貴族どもとの駆け引きに役立っているようだぞ。そうでなくては私は己の教師役に落第点をつけねばならん」
「前黒耀樹公には武術を教わられたとか。他にも語学に法学、神学、商法も学ばれているはず。王太子殿下は閣下のご希望通りに成長されましたか?」
「期待以上だ。油断すれば寝首を掻かれる。そうでなければ面白くないがな」
エッラが紙束を収め終わった箱を抱えて書記机に歩み寄った。迷うことなく引き出しの一つを引き開ける。丁寧にそれを収めると、ホッと肩の力を抜いた。
「まず第一段階は終わりました。次も順調であることを祈りましょう」
ところで、と表情を引き締めたエッラが振り向いた。
「最近、神都のあちこちで麻薬の売買が横行していると報告が上がってきました。混乱につけ込んで貴族は言うに及ばず庶民の中にも手を出している者がいるようです」
水姫公の眉間に一気に深い皺が寄る。童顔で有名な大公であるが、険しい表情は決して柔弱ではなく、むしろ怒れる神の如く厳しいものへと変化していた。
「どこの者が入り込んでいる? 戦が始まる前は脳味噌の足りん貴族が依存するだけで庶民は麻薬になど手を出していなかったはず。我が都市を汚した不埒者には必ず鉄槌を喰らわしてやらねばならんぞ」
「さようでございますね。今までの調べではどうやらシギナ辺りの者が絡んでいるらしいです。……ま、これは昔からのことで順当ですが」
薬草の知識に長けているシギナの者は周辺国に広がる麻薬組織の中心にいる。彼らを通さずに流通する麻薬などない、と言っても過言ではない。であるから、エッラの報告はまだ何も掴んでいないというのに等しかった。
「トカゲの尻尾切りだな。末端の売人は中程度の元締めを捕まえて締め上げたところで大元には辿り着かん。が、貴族のボンボンが薬漬けになるのは自業自得だが、庶民にまで薬が蔓延するのはいただけん」
「相変わらず貴族には手厳しいことで。とはいえ、庶民にまで麻薬が広がるのは確かに困ることは確かでございます。少しでも多くの情報を集めさせておりますゆえ、閣下も貴族連中との会話には注意を払っていただけますか?」
「言われるまでもない。ハスハー地藩で広がりつつあるということは他の地藩にも足がかりを作りつつあるはずだ。王都に集まる貴族の様子を観察してくるとしよう。特に中央貴族におもねる輩をな」
麻薬組織もコネを欲するはず。となれば、中央に近い権力者を協力させるのが一番だ。叩けば埃ばかり出てくる中央貴族の懐に潜り込んでいる者どもを燻り出すには、はやりこちらが動いて見せるしかないだろう。
「東方人に協力している者を出来るだけ多くあぶり出していきます。貴族の工作のほうは閣下にお任せしてもよろしいでしょうか?」
「任せておけ。女をたらし込む腕はまだまだ落ちてはいないぞ」
言葉遣いこそ丁寧だが仕事の上では対等であることを匂わせるエッラの視線をしっかり受け止め、ナムルは自信に満ちた笑みを浮かべた。
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