時間があるようでない。かと言って、切羽詰まってもない。つまり焦りが出てきているのだ。こういうときは落ち着いて仕切り直すに限る。どうにかやりくりしようと思うほど事態は空転するものなのだ。
アジェンティアは走っていた足を止め、キョロキョロと辺りを探った。
取り立てて目立つものがあるわけではない。いや、むしろ何もない空間である。それでも彼女には何か見えるのか、あちらは駄目だとかこちらにしようかだとか、ブツブツと呟いている低い声が聞こえてきた。
「やっぱりあそこがいいかしらね。落ち着いて座れなくてはくつろげないわ」
目星をつけた場所へと歩き出し、どれほども行かないうちにアジェンティアは再び立ち止まった。今度は迷うことなく腕を伸ばし、無の空間を鷲掴みにする。そのまま扉の取っ手を引くように腕を動かし、薄闇に裂け目を作った。
「こんなものかしら。気づいてもらえないと意味がないし、この程度ならちょうどいいくらいよね。……さて、後は待つばかりだわ」
大事そうに抱えていたむつきを抱き直し、彼女は裂け目の奥へと滑り込んだ。
通り抜けた先で真っ先に眼がいくのがチロチロと小さな火を揺らす暖炉であろう。煉瓦と鉄が炎の朱に染まり、高価な木材の壁板も温みのある色に染まる。
「懐かしいわね。何年ぶりかしら、ここに来るの。彼が亡くなった時以来?」
暖炉近くの寝椅子に歩み寄ると、アジェンティアは腰を落ち着けてのんびりと足を伸ばす。傍らの小卓には、いつの間にか温めた薬草ワインが酒杯から湯気を上げ、バターの香ばしい香りを放つ焼き菓子が置かれた。
腕の中のむつきを覗き込み、彼女は安堵した様子で頬ずりする。その姿は赤子をあやす母親の姿そのものだった。
「早くいらっしゃい、バチン。わたしを出し抜いて仕掛けをあちこちに施したのでしょうに、待たせるなんて図々しいわよ」
優雅に杯からワインを飲み、暖炉の火にあたるアジェンティアからは焦りや怒りといった負の感情は想像できない。それでも、彼女が焼き菓子をつまむ指先は必要以上に力がこもっているように見えた。
どれほどそうやって軽食を楽しんでいたろうか。相変わらず炎は部屋を温め続け、壁に掛けられた風景画やタペストリーに微妙な陰影を刻んでいたが、室内に薄ら寒いすきま風が吹き込んできた。
「やっとおでましね。待ちくたびれて石になっちゃうところだったわよ」
「いっそ石になったらどうだえ。お前がホーマに与えた力で岩に閉じこめられたというデラのようにな、裏切り者の巫女の娘よ」
憎しみに震える声と共に現れたのは白い髪に白い肌、唇の赤さばかりが目立つ女である。長い前髪が眼許を隠し、その表情は見えないが、口の端の歪みと声音から彼女の内心を推し量ることは容易だった。
「誰かが支柱になる必要があったのよ。それをデラが引き受けただけのこと。あなたがわたしの立場でも同じ選択をしたでしょうよ」
「なにを偉そうに。あの方から奪った力を行使してみたかった、と素直に認めたらよかろう。どこまでも可愛げのない。しかもこの部屋! なんという懐古趣味だえ。故郷の部屋を模して悦に入っておるか。吐き気がしてくるわ!」
「あなたほどの懐古趣味ではないと思うわ。ここはわたしがくつろぐための部屋であって、本来は誰かを招き入れるところではないの。そこをどうしようが勝手でしょう? あの人だって自分の趣味で作り替えていたはずよ」
「あの方の部屋とお前の下賤な父親が好んだ部屋を一緒に語るでない! 虫酸が走るわ。早々に口を閉ざすがいい!」
金切り声をあげた赤い唇が荒い息を吐く。叫んで息が切れたらしい。この程度の会話で呼吸が乱れるとは、思ったより疲弊しているに違いない。
アジェンティアは内心でほくそ笑んだが、涼しい表情でワインを口に含んだ。
「わたしの父は一国の王よ。下賤呼ばわりされる覚えはないわ。父親が判らないあなただって人のことは言えないでしょう。……ところで喉が渇かないかしら。薬草ワインでよければ差し上げるけど。どうする、バチン?」
「お前のワインなど飲めたものではないわ。お断りだえ!」
拳を握りしめ、肩を怒らせて立ち尽くすバチンは歯軋りする。どう噛みついても飄々とかわしてしまうアジェンティアの態度が気に入らないのだ。一泡噴かせてやろうにも押されっぱなしとなれば態度も硬化しよう。
「では、そちらに座りなさいな。立ったままで話をしたいのなら止めないけど。あちこちに仕掛けをしてくれたお陰で疲れてしまったから、わたしは勝手に食事も休息もとらせてもらうわよ」
一口大に割った焼き菓子を口に放り込み、のんびりと咀嚼しながらバチンの様子を横目で探った。突っ立っている己の姿の滑稽さに気づいたのだろう。渋々ではあるが用意された肘掛け椅子に腰を下ろしていた。
アジェンティアは片腕でむつきを支えたまま、空いているほうの手で指を鳴らす。小気味良い音と同時に肘掛け椅子の横にワゴンが現れ、暖かな食事と何種類かの酒が注がれた壺が食欲をそそる芳香を放った。
「食べなさい。招かれざる客でもあなたはその椅子の仮初めの主人なのだから、食事をする権利を与えられてもいいでしょう」
怪訝そうに首を捻ったバチンが自分の座る肘掛け椅子を見おろし、それがなんであるか気づいて小さく飛び上がった。
「今頃気づいたの? あなたが必死に探し回っていた椅子でしょうに」
ひっそりと笑い声を漏らし、アジェンティアは空いた酒杯にワインを注いだ。
「これは、あの方の玉座ではないかえ。何を企んでおる?」
「そんな椅子ごときが欲しいのなら持っていくがいいわ。それは玉座ではなく、あの人が考え事をするときに使っていた愛用の椅子でしかないのよ。ご大層に崇めても、あなたに力など与えてはくれないでしょうね」
再びアジェンティアが食事を促すが、バチンは警戒して手を出さない。まるで未知なるものに遭遇した子猫のように毛を逆立てて威嚇していた。
「あの人なら堂々と食べたでしょうね。毒だろうが薬だろうが、盛られたからどうした、と返事をするような性格だったから。わたしの母は逆だけど。毒を取り除いて食べる用心深さがあったわ」
「フンッ! お前の母親はあの方の慈悲で生かされていたのだえ。毒を盛られたのなら盛られたなり食せば良い。生きるも死ぬもあの方の心積もり次第だというのに、何を警戒することがあろうか」
「そう。では、あの人の為に生きているというあなたも、あの人と同じように食事をするわけね。母のように毒を選り分けて食べることなどない、と」
返答に窮したバチンが、しばらくの逡巡の後に開き直って食事へと手を伸ばす。鳥の丸焼きの脚をもぎ取り、口のまわりを脂まみれにしながら食べる姿は華奢な外見の割に豪快であった。やけくそになっているのかもしれない。
警戒する素振りもなく食べる姿に満足し、アジェンティアは観察を続けた。
こうして見ると、お互いに本当によく似ている。肌の白さは同じ様なものだし、髪色も白銀と純白という差はあれど艶やかな光沢は同じだった。瞳は隠れて見えないが色味は違う。こちらの暗緑色の瞳は特別な色であるから。
知らぬ者が見たなら姉妹だと言われても疑いひとつ持つことはないはずだ。
ということは、目の前の女と母も、そしてあの人も似ていることになる。似ているのは当たり前だ。彼女たちには血の繋がりがあったのだから。母はあの人を姉と呼び、そして目の前の女を従姉妹と呼んでいた。
それが、母にとってどれほどの重荷になっていたのか、彼女たち二人は知っていただろうか。いや、少なくともバチンは知らなかった。知る気もなかったはずである。だからこそ母を裏切り者と誹るのだ。
赤い唇がチーズを噛み砕く様を見守りながら、アジェンティアは腕のむつきを抱え直し、悠然とした仕草で寝椅子の背もたれに寄りかかった。
「干し魚の戻し炙りもあるわよ。あなた、それが好物だったわね。穀造酒との組み合わせが絶妙だと。そうよね?」
食べる手を止めることなくバチンがジロリとこちらを睨む。前髪の隙間から覗く瞳が反発したそうであるが、傍らのワゴンに出現した好物を目の前に、反論の言葉はどこかに消えてしまったようだ。
無邪気な子どものように口角を持ち上げた表情に、アジェンティアは内心の苦々しさを押し殺して微笑んでみせる。
「遠慮することはないわ。わたしの食糧庫を減らしてやろうという気概くらいはあるのでしょう? だったら、これは絶好の機会ではなくて?」
呻いたのか唸ったのか判らぬ声を漏らし、バチンは魚料理に手をつけた。どこか恍惚とした表情で虚空を見上げる姿は無防備そうに見える。実際には油断しているのかどうか疑わしいものだったが。
彼女の好物は母も好んだ料理の一つである。普段から同じものを食べて生活していたのだ。好みが似通っていても不思議はなかった。
何事も起こらなければ仲の良い姉妹と従姉妹だったのだろう。だが彼女たちの間に亀裂は生じたのだ。誰もそれを望んでいなかったとしても。
神と近しい存在。そう呼ばれたあの人とある男との間の確執が一族の間に不和を招く先触れとなったと聞く。確執のきっかけが何かは知らないが。
一族の先導者に選ばれたあの人を男は認めなかった。そればかりか下された神託に逆らって、彼は母を伴侶に望んだと言う。神託によって選ばれた伴侶であるはずのあの人を徹底的に無視して。
混乱を望んでいなかった母は居たたまれずに逃げ出した。それを追って、男も出奔したことも知らずに。一族の冬の時代の頃の話である。
大陸の南へと旅立った男の消息は各地で伝承として残されていた。それを辿ることは容易で、あの人にとっては朝飯前だったはず。
そうしなかったのは高すぎる誇りのためだろうか。男が自らの意志で戻ってくるまで待つ気だったのか。今となっては判らない。
だが、男が戻ってくる気配はなかった。そうして、あの人がそれを理解するより前に、母は見つかってしまった。母は連れ戻され、男を一族に取り戻す駒にされたと言う。裏切り者の印を施され、男の血脈を集める器として。
『他の者に裏切り者と誹られてもかまわないの。でも、あの人に言われた言葉は魂の髄まで刻まれて消えてくれないわ。あの人にとって、わたしが取るに足りぬ存在だと、そう言われてしまったようで』
諦めを滲ませて囁く母の声が鼓膜の奥で繰り返し響く。
──何度でも裏切るがよい。お前が真実、私の前に身を投げ出してひれ伏すまで、私はお前の裏切りを何度でも赦してやろう。
母の額に刻みつけられた印。あれを施しながら囁いたあの人の表情を容易に想像できた。慈悲深く微笑みながら、冷酷な指を持つ、あの人の姿を。
──あの男と同じ魂を探すのだ。お前は花。甘い蜜の匂いに引き寄せられ、奴は必ず現れるだろう。反抗する根を枯らし、服従の種を植え付けよ。
母に聞かされた言葉はあの人に逢ってからはあの人の声でこだまするようになった。あの人が消えた今も、それは鳴り止まない。
裏切りを赦すと言いながら監視の眼を刻み、母を呪縛することで男を呪縛する気でいたことを、一族の大半が容認した。あの人に反発した者は男と共に一族を離れていたし、母を慕う者は虐げられ発言力を失っていたという。
一族から追い立てられ、彷徨い歩いた母が父に出逢ったとき、運命の歯車は軋んだ音を立てて歪んだ最後の回転を始めたのだ。
母は歓喜しただろうか。それとも絶望しただろうか。幼い日に見た両親の姿は穏やかで、一族の残酷な要求など想像もできなかった。
長大な寿命を持つ一族から放逐され、その命を極限まで削られた母には時間がなかったはず。父や娘との暮らしを守るために、彼女が今度は逃げるためではなく戦うために裏切りに手を染めたとて責められる筋合いはない。
他の誰が認めずとも、アジェンティアは認めていた。そうでなければ己はここに存在せず、父母の墓標を守ることなど出来はしなかったのだから。
バチンの食事もあらかた終わろうとしていた。モーヴ色の果実を頬張りながらハーブ湯で片手の指先を洗う姿は絵になる。権力の座に近い場所にいただけに、バチンの仕草には奉仕されることになれた者特有の驕慢さがあった。
「お前の食料を減らすことにも飽きたわ。そろそろ勝負をつけようかえ」
「本気で勝てると思っているの?」
「勝つとも。お前がホーマたちを使って築き上げた血脈の結界は崩れた。我が魔力は無尽蔵に補給でき、繭内の者の支持も限定的なお前は限界も近いはず。これで勝てぬはずがあるまい。お前の支配も終わりよなぁ」
肘掛け椅子に深く腰掛け、バチンが口許にいやらしい笑みを浮かべる。相手の神経を逆撫でずにはいられない笑い方だった。
「無尽蔵に魔力を補給できるわけがないでしょう。あなたの限界もすぐ来るわ」
「出来るとも。五つの血脈中、すでに二つは絶えた。さらに残り三つのうちの一つは我が手駒として使うよう細工してある。一つの血脈で我らの血が強まれば人にすぎぬ残りの力など無きに等しい。そうなれば結界など木っ端微塵」
確かに作り上げた結界はズタズタである。今からもう一度作ろうにも手間暇がかかりすぎて間に合わない。だが、血脈は絶えてなどいないのだ。まだ血の結界は有効なはず。長い歳月で力は多少減退してはいるが。
「あなたの目論見を阻止しようと動く者は多いのよ。それをすべて読み切れるわけではないでしょうに、どこからその自信はくるのかしら?」
「分身の力が弱いお前には判るまい。こうしている間にも我が分身たちは働いておるわ。お前の結界など風前の灯火よ」
「そう。あなたがそこまで言うのなら勝負しましょう。どちらがどの駒を使って、どのように戦うか。……一族の者も興味を持つでしょう」
こちらが少しも怯えないのが気に入らないのだろう。バチンが忌々しそうに唇を歪め、視線で射殺してやりたいとばかりに睨んできた。
「まさか、そこまで大言を吐いておいて“厭です”なんて言わないわよね?」
「もちろん、勝負は受けてやるとも。勝利を手にした暁には、あの方の器を作るための材料にしてやろう。それすらお前にはもったいない待遇だえ」
アジェンティアは薄い笑みを顔に貼りつけたまま、新たに指を鳴らす。
今度は二人の間に低い卓が現れ、手の込んだ彫り細工が施された石の盤と駒十数体、黄金の細い棒が多数、そして賽子が鎮座していた。
「駒を決めなさいな。ルールは覚えているのでしょう?」
石盤を睥睨したバチンが幾つかの駒を選ぶ。ぞんざいに扱っているような動きだったが、素早く動く指先に迷いはまったくなかった。
「その高慢ちきな態度が崩れるのを見るのが今から楽しみだえ。さぁ、お前も駒を選ぶがいいよ。どうせ大したものは残っておるまいが」
「ルールを忘れているようね、バチン。石盤の上に乗った駒はすべて平等なのよ。動きが派手か地味かの違いはあるけど」
「何をばかなことを。役割が違えば位が違って当然だえ。駒にも強い弱いがあることくらい常識ではないか。この勝負、初めから勝敗は決しておるな」
ゆったりとした手つきで駒の配置を終えたアジェンティアが、黄金の細棒を一掴み取り上げる。よく見れば、表面に細かく文字のようなものが刻まれており、彼女はそれを確認しているようだった。
「どうやら駒も財も揃ったようね。では、この戦いで全て決めましょうか」
バチンが賽子を摘み上げる。指先だけで握り込むと、またしても無造作な手つきで卓上に放り出した。戦いは呆気ないほど簡単に始まったのである。
「まずは血脈の統合から始めるとしようか。獣人どもの血などいらぬ。共食いをさせて王国の基盤を崩してやろう」
放った賽子の目を確認し、バチンは麦穂の形に似た駒を前進させた。
「呪詛ごときで人を支配できると思わないことよ。あなたの力に屈していない血脈者は多いの。……それから、彼らを獣人と呼ぶのはやめなさい」
今度はアジェンティアが賽子を振り、出た目に従って駒を掴む。彼女が取り上げたのは八角形をした駒だった。それは丁度、今し方バチンが動かした駒の目の前へと押し出され、駒同士がぶつかり合っているような形を取った。
「獣人を獣人と呼んで何が悪い。奴らを我ら一族と同等に扱おうというお前の酔狂につき合ってはおれぬわ。……これだから獣人との混血児はいただけぬ」
バチンが黄金の棒を数本取り上げ、石盤の傍らに立てる。続いてアジェンティアも同じように数本の棒をバチンの対面に立て、互いを睨み合った。
前髪の隙間から覗くバチンの瞳はぎらつき、暗緑の眼を細めるアジェンティアの表情は険しい。お互いに譲る気はないのだ。部屋の中に満ちる殺気は濃度を増し、二人のしなやかな髪や滑らかな肌をチクチクと刺激していった。
戦いはまだ序盤。盤上の駒たちが沈黙を守るばかり……。
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