混沌と黎明の横顔

第09章:夜月の眼《まなこ》 5

 仕事をしなければならない。しかし今は手をつける気になれなかった。
 なぜ父上は認めてくださらないのか。姉上のことは高く評価しながら、妹の自分は決して省みてはくださらない。今回のことでも、こちらの話など初めから聞く気などまったくないことは、誰の眼から見ても明らかだった。
 いっそ自分などいなくてもよいのでは? 跡継ぎなら先代の大公の庶子の血筋から養子を貰い受けてもいいのだ。臣籍に下がっている者を取り立てるだけのことである。簡単なことだ。今までそうしなかったのが不思議なくらいで。
「いかんのぅ。どうも父上のこととなると後ろ向きじゃ。こんなふさぎ込んだ状態では仕事にならぬわ。……厨房で気付けのワインでも貰ってくるか」
 フォレイアは溜め息を飲み込み、背筋を伸ばした。
 父との間に横たわる溝は少しも埋まらない。傷つき、落ち込むたびに隙間は広がるばかりだった。もうどうしたら修復できるか見当もつかない。それでも臣下の者らに隙を見せるわけにはいかなかった。
 こうやって厨房で酒を貰う姿も、極力配下の者には見せぬよう気を遣う。本来なら官庁の下働きに当たる厨房の調理人たちと大公家の娘が親しく言葉を交わす機会など滅多にないからだ。余計な詮索を招くわけにはいかない。
 夕食前の厨房は殺気立つほど忙しいはずだ。この時間帯なら食堂には人が少ない。時間前に食堂に行っても調理人たちに追い払われるからだ。だからこそフォレイアが厨房に近づいても誰も気づかないだろう。
 そう予測して足を踏み入れた食堂に人影を見つけ、彼女は立ちすくんだ。出来れば今は顔を逢わせたくない相手がそこにいたのである。
「あっ! 公女さま! 公女さまもお茶を貰いにきたの?」
 母親の隣に座った少女が食卓から身を乗り出すように手を振っていた。
「いけませんよ、ジュペ。公女さまはお仕事中なのだから、話しかけてはお邪魔になるわ。ここで静かに待っている約束でしょう?」
 ジュペが抱きついた母親の反対側には、ジューザの妻だと名乗った女が暗い顔をして腰掛けている。青ざめた顔は疲れ切っており、あまりにも痛々しいばかりで、傍らの女が気遣う気配が今も辺りに漂っていた。
 女たちを守るようにガイアシュが離れた食卓の傍らに控えている。彼の立つ場所が三人の様子も入口も見張れる位置だと、公女は目敏く確認していた。
「仕事の合間の小休止じゃ。わらわに気を遣わず休んでおればよい」
 咄嗟に出た言葉は半分は偽りである。休憩には違いないが、仕事の合間ではなく、仕事をさぼって、が正確だ。しかも貰いにきたのは茶ではなく酒である。褒められたことではないが、それをあえて言う必要はないのだ。
 もともと炎姫家の人間は酒に強い。茶を飲もうが酒を呑もうが大差はなく、よほどの深酒をしても翌日にはケロリとしていることから、炎姫家の家色である朱とウワバミをかけて“朱蛇”と陰口を叩く者もいるとも耳にした。
「わたしも香茶が欲しいの。公女さま、一緒に厨房にいきましょ?」
 椅子から飛び降り、ジュペが公女の腕を引く。困惑して少女の母親を盗み見ると、一瞬不快そうに眉を寄せはしたものの、娘を止める様子はなかった。
「ガイアシュも一緒にいこうよ。ずっと立ちっぱなしで疲れたでしょ」
「いや、オレは別に疲れては……」
 少年は渋ったが、ジュペはそれを無視して引っ張っていく。慣れた人間相手ではあるが人見知りが激しい少女にしては少し強引だった。
 フォレイアはジュペに言われるがままに厨房へと足を踏み入れた。
 調理人たちが一瞬殺気立った視線を寄越したが、入り口に立つ公女とジュペを眼にした途端、掌を返したように態度を急変させる。申し訳なさげに後ろに控えているガイアシュがいっそ哀れに思えるほどの態度の差だ。
 茶を所望すれば二つ返事で上等な香茶が用意され、差し出される。
 さらにジュペには香茶どころか果実水や焼き菓子を与えそうな勢いの調理人たちに、フォレイアは夕食前だから茶で充分だと牽制しなければならかった。娘を可愛がるジャムシードが彼らの態度に苦笑いを浮かべた気持ちが、ここにきてなんとなく判った。好待遇も時には困惑しか感じないこともあるのだと。
 香茶を注いだ器を手に食堂へ戻りかけた公女の上着をジュペが引いた。
「公女さま、もう少しここにいてもいいでしょ?」
 少女の視線が食堂にいる母と伯母に注がれ、すぐに反らされた。フォレイアはようやく彼女が母と伯母を二人だけにしようと、他の者を厨房へ誘ったのだと気づいた。無邪気に見えて少女なりに気を遣っていたのだ。
「ジュペ。この椅子を使わせてもらおう。公女さまもどうぞ」
 厨房で使う丸椅子を二脚、ガイアシュが引きずってくる。本人は警護を続ける気でいるが、ジュペが彼の上着を握って離さなかった。これでは警護役が務まるはずもない。戸惑う少年が少女を見おろし、ぎょっと目を剥いた。
「ジュペ!? な、なに、どうして泣いてるんだよ?」
 ガイアシュの声にフォレイアもジュペの顔を覗き込み、声を殺してボロボロと大粒の涙を流す様子に困惑した。急に泣き出した理由が判らない。
「ジュペ、どうしたのじゃ。何を泣く理由がある。どこか打ちでもしたか?」
 ジュペは首を振って公女の問いを否定した。口を開くと泣き声が漏れるからだろう。少女は握りしめたガイアシュの上着に顔を埋め、肩を震わせ続けた。
 一時の混乱から立ち直った少年が肉の薄い少女の背を撫でさする。そうして何を思ったのか、こちらに背を向けて座る二人の女たちから小さな姿を隠した。
「ハムネアとナナイは気づいてないから。気が済むまで泣いたらいいよ」
「伯母、さん。ナ、ナイ、伯母さんがっ。ずっと、わたしを、見ないの。きっと、わたしのこと、嫌いに、なったんだよ。勝手に、砂漠を飛び出して、迷惑かけたからっ。伯母さんも、もう、わたしのこと、いらない子だってっ!」
「そんなことない。ナナイがジュペを嫌うはずない。ハムネアの娘なんだから」
「だけどっ。ずっと……。さっきから、ずっと」
 大きく波打つ背の震えが少女の内心の慟哭を伝える。懸命に慰めるガイアシュとは対照的に、フォレイアは言葉が詰まって何も言えなかった。物陰で涙する少女のことを大人たちはどれほど知っているのだろう。
 自分がいらぬ子だと砂漠で感じ取り、父親を頼って飛び出してきたのだ。伯母の態度に改めて目の前に現実を突きつけられ、また同じように、いやもしかしたら前以上に傷ついたとておかしくはない。
 存在を認められぬ寂しさは、フォレイア自身もよく知っている感情だった。
 だからこそ、彼女は言葉を失って途方に暮れる。少女を慰められるのは孤独を乗り越えた者だけだ。同じ場所に立つ者にはジュペの支えになるなど無理な話である。他人に幸せを分け与えられる者は幸せな者にしかできないのだ。
 厨房の慌ただしさがまるで遠い国の出来事のようである。ジュペと伯母のナナイとの関係がどうであろうとフォレイアには関係ないのに、頭の中をグルグルと駆け巡っていく感情はひどく物悲しかった。
「ジュペ。やっぱり泣いているのね。さぁ、こっちにいらっしゃい」
 不意に入り口に人影が差し、穏やかな声が届けられた。茫然としていたフォレイアが振り返ってみれば、少女の母親が腕を差し伸べているところだった。
「我慢していたのね。もう大丈夫よ。泣かないで話をしましょうね」
 昼間の冷たい女とは思えぬ慈悲深い母の声に、公女は少なからずたじろいだ。
 娘に対して母親が優しく声をかけること事態はおかしくない。だがあまりにも自分が受けた印象とは違う態度を、どう捉えたらいいか判らなくなったのだ。
 これはフォレイアが誰に対しても極端に態度を変えない性格だからだろう。相手によって言葉や態度、果ては性格まで変えて見せる意味は、彼女の中では巡検使などの裏の仕事に分類されることが多かったのだ。
 ジュペの母親が娘と公女への態度を極端に変えたからとて驚くことはないはずである。だが、泣いている少女と己を重ね見ていたフォレイアには、冷たくあしらわれた相手の態度の激変は混乱の元にしかならなかった。
 彼女が困惑している間にジュペは泣きやみ、母親の言葉に耳を傾けていた。
「ナナイがあなたと話をしたいそうよ。行って話をしてきなさい」
 ジュペが息を呑み、小さく首を振る。自分の存在を否定されるのではないかと怯える子どもに一人で大人と対峙せよとは酷なことだ。しかし、少女の願いも虚しく母親は毅然とした態度を崩すことなく背筋を伸ばした。
「ジュペ。部族に戻ったらあなたの母親はナナイなのよ。今までのように一緒にいてあげられないの。問題が持ち上がるたびに逃げるわけにはいかないわ」
 萎れた花のように俯くジュペの頬を女の手が包み込む。目尻に溜まった涙を親指で拭いながら、掌は顎の線を優しく撫でていった。
「ねぇ、ジュペ。今回あなたは上手く逃げる方法を見つけたわね。では、次に問題が起こったときには戦う方法を見つけなければ。ナナイと喧嘩してらっしゃい。そんなことにはならないはずだけど、もしも叩かれそうになったら絶対に助けてあげるから。……喧嘩して、仲直りしましょうね」
「でもっ。喧嘩はよくないって。お母さん、いつも言ってたのに!」
「そうね。今まではそう言っていたわ。だけど、これからジュペはナナイを母と呼ぶのよ。遠慮などする必要はないの。今だけは思いっきり喧嘩していいのよ。あなたが今までに感じたことを言葉にしてぶつけてあげなさい」
 どうあっても母親が助けてくれないと理解したジュペがぎこちなく伯母の待つ食卓へと向かった。しかし、少し歩いては振り返ってこちらの顔色を伺う。しかし母の態度が変わらぬと悟り、少女は心許ない足取りで食卓に歩み寄った。
 待ちかまえるナナイの表情も少女に負けぬ強張りようである。果たして二人の対話は上手くいくのだろうか。他人事ながらフォレイアは気を揉んだ。
 ジュペとナナイの話し声はここまで届かない。戸口から伸び上がって様子を伺うフォレイアの耳にガイアシュに話しかける女の声が飛び込んできた。
「今までありがとう、ガイアシュ。よくやってくれたわね。あなたがいなかったらジュペは無事に王都まで辿り着けなかったわ。ジャムシードもわたしも感謝してるのよ。……でも、次からはジュペの言葉に従うだけではなく、あの子が戦うときの力になってやってね。あなたになら任せても大丈夫でしょう」
 緊張した様子で少年がジュペの母親を見上げる。頭半分ほど上にある女の顔から何かを読み取ろうと必死だ。そこに少年が何を見たのか、フォレイアには判らない。しかし、引き結ばれた少年の口許が緩むのを彼女は確かに見た。
「あなたのお言いつけ通りに、青のハムネア」
 ガイアシュにとって、言い渡された言葉にはどんな意味があったのだろう。ようやく十五になろうという若者には荷が重い内容だ。だがハムネアを見上げる少年の瞳に困惑や動揺はなく、むしろ晴れ晴れとしてさえいた。
「では早速、仕事をしてもらいましょう。ジュペとナナイの話が終わるまで誰にも邪魔させないでね。たとえそれが部族長やジャムシードであっても」
 ガイアシュの眉尻が僅かに下がる。現実的な問題となると、やはり役割の大きさに戸惑いが出てしまうようだ。それもハムネアは承知しているのだろう。食堂の入り口を指差し、男たちを入れないよう見張ることを命じた。
 つむじ風のように飛んでいった少年の背は喜々としており、己よりも目上の男二人を押しとどめておく難しさなど考えてもいないように思える。
 大丈夫なのかと怪しむフォレイアのほうが胃が痛くなりそうだった。
「ご心配には及びませんわ、公女さま。子どもたちは大人が思うほど頼りない存在ではありません。むしろ経験がないぶんだけ偏見も少なく、思い切りがいいのですから。そうでなければ子ども二人で砂漠など渡ってはきません」
 こちらの考えなどお見通しだと言わんばかりに、アッサリと言い切られてしまう。つい今し方の母親の表情は消え、冷たい女の横顔になっていた。
 当たり前のことだが、フォレイアには娘に見せたような優しげな態度は取らない。冷徹で素っ気ない声音に冷気すら漂っていた。ジャムシードの邪魔をしただけで、こうまで嫌われるものだろうか。
「ジューザとジャムシードはどこで何をしておるのじゃ。官庁の中とはいえ、ガイアシュ一人を護衛につけておくとは……」
「別の部屋で男だけで話をしていますわ。女には聞かれたくない話なのでしょう。部族長になると体面を保つために色々と気を遣いますから。その辺りは公女さまもよくご理解いただけるかと思いますが」
 ハムネアの横顔が振り向き、フォレイアを真正面から捉えた。アーモンド型のクッキリとした眼許と綺麗な鼻筋しか見えないが、それだけでも充分に美女であることが判る。気を遣って女たちに近寄らない調理人たちがチラチラとハムネアの立ち姿を盗み見ている気配がフォレイアの背後から漂ってきた。
「身内にも内密にせねばならぬことがあるのか? しかも話し合っている相手はジャムシードじゃ。あれはイコン族ではないのに」
「確かにジャムシードはイコン族の血筋ではありません。ですが、彼はナナイが弟と呼び、ジューザが義弟と認めた唯一の男です。我々にはそれだけで充分に身内として遇する価値があります。まして彼は――」
 突然ハムネアが口をつぐむ。口許を覆う布地越しでもハッキリと見て取れるほど、女の唇はしっかりと引き結ばれていた。
 まして彼は。その次は何と言うつもりだったのか。自分の前夫だとでも言う気だったのか。それとも別の何かだったのか。フォレイアには判らない。
わらわがしたことは、それほど気に障ることであったか?」
 どうしても訊かずにはいられなかった。権力者に反発する者がいることは知っている。が、この女がそれをあからさまに示す理由が判らなかった。聡明だとの噂を耳に挟んでいただけに、この挑発的とも思える態度が解せない。
 公女が不快感からイコン族を嫌えば一族には不利になるのだ。そんなことも判らない愚かな女ではないだろう。何か目的があるはずだ。
「公女さま。あなたは真面目な方ね。物事は白黒で片が付くとお考えだわ」
 こちらの問いに答える気がないのか。肩すかしに公女は苛立った。
 不意にハムネアの意識が食堂へ、いや入り口のほうへ向く。つられてフォレイアも同じ方向を見遣り、そちらからジューザの怒鳴り声が響いてきていることに気づいた。どうやらガイアシュは押し切られてしまったらしい。
 少年の首根っこを掴んで食堂へ足を踏み入れたジューザが妻と姪が二人でいる姿を見つけて困惑顔になった。後ろから顔を出したジャムシードも同様だ。
「まったく困った人たちね。話し合いは男の専売特許ではないのよ!」
 厳しいがどこか暖かい声音が傍らから発せられ、フォレイアは女を盗み見た。
「どうしてそう他人を自分の思い通りに動かそうとするのかしらね。さぁ、兄さん。いい加減覚悟もできたでしょう! ナナイとジュペ、それにガイアシュに話さなければならないことがあるのではなくて?」
 凛と胸を張り、両手を腰に当てて立ちはだかるハムネアの横顔は優しい。その表情に遠い日、出会ったことがあるのをフォレイアは思い出した。
 駆け落ちする前の姉が当時の水姫公子を見るときの瞳にそっくりなのである。心から愛おしむべき者を見つけた勝者の顔だった。
 視線の先を辿れば、彼女が誰を慈しんでいるのかよく判る。公女は顔を背け、厨房から突然の成り行きを見守る調理人たちと視線を合わせた。
「祝杯を挙げるのは目の前のようじゃ。今夜は祝い酒にワイン樽の栓を開けることになるやもしれぬ。準備しておけよ」
 ハムネアの瞳の輝きを見、声の艶を聞くと、誰からも愛されていない自分が惨めに思える。これは小さな嫉妬だ。イコン族の間に生じていた亀裂は、それまでに培われた絆によっていとも容易く修復されようとしているというのに。
 傍らから小さな風が巻き起こり、フォレイアの耳に予想外の暗い声を届けた。
「なぜあなたが彼と一緒にいるの? わたしは諦めなければならないのに」
 振り向いた公女の視線の先には穏やかに微笑む女の横顔。フォレイアが声をかけるより先に、先ほどと同じ暗い囁き声が放たれた。
「もし不手際の償いをするというのなら、わたしに彼を返してっ」
 女から憎しみが伝わる。今もなお、彼女の中ではジャムシードは夫なのだ。
 相手の背がゆるゆると遠ざかっていく。それを呼び止める勇気は今の公女にはなかった。早鐘のように鳴り出した心臓が騒がしい。
 女の肩越しに妻と姪の肩を抱くジューザの姿が見えた。そこから少し離れて、三人の元へと少年の背を押すジャムシードの姿も。
 ハムネアは一直線にジャムシードへと歩み寄った。それが当然の姿であるかのように彼の傍らに寄り添い、兄夫婦と娘、そして縁者の少年がぎこちなく和解していく様子を見守る。それは本当に自然な姿に見えた。
「返す必要などあるのか? その男は妾のものではない。そうであろうが」
 低く呟く公女の声を聞く者は誰もいない。調理人たちは未だ忙しく立ち働き、イコン族たちは穏やかに微笑みあっていた。この場のどこにもフォレイアの居場所はない。薄ら寒いすきま風が彼女の心を吹き抜けていった。
 目の前にあるのは暖かな家族の象徴。それを遠巻きに眺める自分という存在はなんなのだろう。大公家の正式な跡取りでもなければ、政略結婚のための駒でもない。今年の乾期半ばには二四歳になるというのに宙ぶらりんのままだ。
 王家から再三正式な後継者を決めるよう促されても、名だたる上級貴族から婚姻を申し込まれても、父はそれらを無視している。まるで自分には跡取り娘など存在しないかの如き振る舞いだ。あまりにも心が寒い。
 片手に冷えた茶器を握りしめたまま、フォレイアは残った片手で自らの上半身を抱きしめた。凍える心を少しでも温めようときつく腕を握る。しかし、どれほど身体を抱きしめようとも、忍び込んでくる寒気には勝てなかった。
「顔色が悪いけど……。どこか具合が悪いところでもあるのか、公女さま?」
 ハムネアを兄夫婦のところに残してジャムシードが歩み寄ってきた。彼の肩越しに覗いた様子は先ほどと同じく血の絆を感じさせる光景である。眼にするたびに心が冷えていくようで、公女は慌てて目を反らした。
「なんでもない。それより女たちから目を離すな。官庁内とはいえ、悪心を抱く者がいるやもしれぬのじゃぞ。もうこれ以上の騒動はまっぴらじゃ」
「判ったよ。ハムネアとナナイが薬の買い付けを終わったら砂漠に戻るから、あと少しだけ辛抱してくれ。それにもう庁舎前で言い争いすることもなくなるから、他の役人たちの気を揉ませることもないはずだ」
 飄々とした態度の相手に腹が立ってくる。こちらは大公との話し合いの最中、気が気ではなかったというのに、どうしてこう平然としていられるのか。
「明日からは別の噂で官庁内は持ちきりじゃぞ。お前が父上から出された条件、あれはイコン族に知らせぬ気であろう? どうするつもりじゃ」
「官庁には来させないから彼らの耳に入ることはない。大丈夫だ」
「暢気なことを。なぜあのような条件を呑んだ。理解できぬわ。いくらお前の父親の故郷でも、ジューン島はお前にとっては異郷じゃぞ」
「それでも受けるしかない。大公閣下も俺があっさり受けるとは思ってなかったんだろうな。余計なごり押しをせずに交換条件は成立したんだから」
 ジャムシードの声が固くなった。彼なりに緊張し、それを隠していたのか。それともこちらの態度に腹を立てたか。どちらにしろ言わずにはいられない。
「これで済むと思っておるのか。炎姫公を甘く見るでない。すぐにでもティレミーを妻に迎えて領主の座を継げなぞという条件を……」
 ジャムシードが自分の唇の前に指先を立てた。ハッと彼の背後を覗けば、ハムネアがこちらを注視している姿が見える。表情は見えないが、先ほどの言葉を思い出す限り彼女が面白く思ってはいないことだけは確実だ。
「今はおおっぴらに口に出さないでくれ。頼むから」
 頷くしかない。初めにジューザとジャムシードの口論を止めた時点で、公女は否応なしに共犯者になってしまっているのだから。
「だったら彼らを早く砂漠に帰すのじゃ。知ればジュペは傷つくであろうし、あの女も黙ってはおるまい。騒がれては庇いようがないぞ」
「仰せのままに、公女さま。だけどハムネアはわからず屋ではないよ。ジュペはともかく、彼女なら話せば納得するさ。それと、帰るにしても薬草を仕入れてからだ。そうでなければ大公閣下の不審を招くだけだからな」
 さも仕事の話が終わったかのように離れていくジャムシードの背を睨んだ後、フォレイアは歯がみしたい自分をなだめるために冷えた茶を飲み干した。
 あの女が物わかりがいい女などであるものか。ジャムシードが他の女と結婚すると知れば、どれほどの嫌味をこちらにぶつけてくることか。
 ジャムシードがイコン族の女たちを呼ぶ声が耳に届いた。まとわりつく娘を軽々と抱き上げ、微笑みかける男の顔から新しい重荷を背負い込んだことなど想像もつかない。元妻の名を呼ぶ声にも翳りはなかった。
 不意に、公女は父から名を呼ばれる機会の少なさに気づく。フォレイアの名を口にするのは王族か上級貴族くらいで、それも姫の呼称を伴ったものがほとんどだった。そういえばジャムシードも公女の名を呼ばない。彼などは出逢ってからこちら、一度でもフォレイアの名を口にしていなかった。
 フォレイア個人を見てくれる人間が何人いるだろう。彼女の背後には炎姫家があり、その権力者の影響を抜きにして見られることはないのだ。
「いや、一人だけおる。たった一人だけ、妾の名を対等に呼ぶ者が……」
 真白き髪と夜空の闇色をした男を思い出した。彼に無性に逢いたくなり、フォレイアはそっと眼を閉じて眼裏に姿を刻む。縋り付くような想いで記憶を漁る彼女にとって、それは暗黒に浮かぶ唯一の灯明である。
「ソージン。顔が見たい。声が聞きたい。いま何をしておる?」
 泣き出したいような寂しさを隠して厨房へ戻った。調理人の間をすり抜けて酒蔵へ降りると、公女はようやくこらえていた涙を一粒こぼしたのだった。