混沌と黎明の横顔

第07章:忘却に横たわる神 1

 記憶が曖昧だと感覚も曖昧になるのだろうか。ベッドの上で意識を取り戻してからこちら、日々過ごしてきた記憶を思いだそうとしても、ハッキリと思い出せないことがあった。時折襲われる頭痛のせいもあるかもしれない。
 自分というものが掴めないのは、なんと心許ないのだろう。このまま茫洋と生き、そして消えていってしまうようなやるせなさに苛まれた。
 目の前の机の上には書類が散見している。教えられた仕事を淡々とこなしている時間は悩まずに済むが、ふと気を抜いて我に返ったこの瞬間、己の微妙な立場を思い出して落ち込むのを繰り返していた。
 もう少し前向きに考えたほうがいい。そう言われたが、素直に受け入れるには自らの情報がなさすぎた。あやふやな気持ちを持て余すばかりである。
 彼はここ何日かで見慣れてきた男の横顔をぼんやりと見上げた。この国の人間とは違って背は低く、東方人特有の童顔できめの細かい肌質をしている。男の表情は読みにくく、何を考えているのかすぐには判らなかった。
 がしかし、仕事を教えてもらう前までは温厚そうに見えた男も、いざ仕事となると厳しい表情をしていることが多い。それもこの数日で見慣れてきたが。
「疲れたのなら部屋に戻って休んだほうがいい」
 そう声をかけられるまで、自分が相手を見ていることすら意識していなかった。こちらを振り向くことなく、手許の書類を睨んだままかけられた言葉は素っ気ない。が、それも仕事中だからである。
 机に向かっていないときと仕事中の言葉遣いに大いに落差がある男なのだ。日常生活でのバカ丁寧な言葉遣いより、こちらの素っ気ない口調のほうが気が楽なのだが、そう伝えても日常の言葉が変えられることはなかった。
「サキザード? どうした? 疲れたのではなく判らないことがあるか?」
 不審げに顔を上げた男が首を傾げてこちらを見る。スッキリした顔立ちの中で黒々と光る瞳に見つめられると、何もかも見透かされている気分になった。
「少し休憩をしていただけです。判らないわけではありませんから。すみません、仕事の続きをしますね。もうすぐ終わりますし」
 与えられた仕事は単純な計算と書類の分類である。計算の知識があり、文字が読める者なら誰でもできる仕事だが、何も考えずに済むし、鬱々と考えに浸っている暇がない程度には量があるのがありがたかった。
 だが、しかし。こんなに頼りない有様でこれから先どうしたらいいのか……。
「休憩していたのならちょうどいい。茶を淹れるから付き合って欲しい」
 書類を脇に押しやった男は、悠然と立ち上がると部屋の扉を開け、廊下の奥にある使用人たちの控え室に声をかけた。
 茶を淹れるための湯や茶葉、道具を運ばせる気である。男は使用人に茶を淹れさせないことを、サキザードはここ数日で学んだ。
「サキザード、こちらへどうぞ。すぐに茶を淹れますから」
 仕事を離れた途端に言葉遣いがバカ丁寧になる。物腰が柔らかなので抵抗は薄いが、あからさまに線引きされている気がして、ひどく疎外感を感じることに男は気づいていなかった。いや、気づいていても直す気はないのか。
「タケトー。どうして使用人に茶を淹れさせないのですか。館の主人であるあなたが手ずから茶を淹れては、使用人の仕事がなくなりますよ」
 雇い主のタケトーは仕事の割り振りも的確で、他人を使う行為に慣れていることを伺わせた。なのに使用人の給仕の仕事を取り上げているのが解せない。
 促されるままストーブの近くに置かれた椅子に腰を下ろし、サキザードは傍らに同じように腰を落ち着けた男の瞳を覗き込んだ。
「厨房にはこの土地で雇った者も出入りしますからね。毒を盛られないように気をつけているだけです。湯や茶葉になら細工しにくいですから」
「でも食事は料理人に作らせているではありませんか。口に入るものすべてに神経を使うのなら、同じく料理人にも疑いがかかるのでは?」
 雨期末で空気はぬるんでいるが、多少の肌寒さは残っている。休憩するときは緊張を解すために茶を飲みながら身体を温めるのが習慣になりつつあった。
「料理人は母国から連れてきた者を中心にしています。が、茶を淹れるための給仕係は雇っていませんから、もし使用人に茶を淹れさせると母国から連れてきた料理人の下につけた現地人の下働きが淹れることになります」
 信用のおける使用人の目が届かない、とタケトーは言いたいのだろう。サキザードが小さく頷くと、男は再び口を開いて説明を始めた。
「料理は配膳直前に毒見をしていますが、茶はそのようなことをしないので、もっとも注意しなければならないのです。解毒薬は多く持ち込んでいますけど、それらに頼りすぎては過信が生まれますからね」
 ストーブは最小限の炎しか燃えていない。ほんのりとした温かみが伝わってきて、気を抜くとうたた寝をしてしまいそうな心地よさだった。
「実は茶として供されたものは毒を盛りやすいのです。だから茶は自分で淹れ、茶葉の具合や湯の匂いを確認するのですよ」
 廊下を歩いてくる足音が聞こえる。使用人がワゴンを押しながら茶道具を運んでいるのだ。その特有の音もこの数日で聞き馴染んでいた。
「あとね、毒を仕込む課程では料理も茶も大差はないのです。人の手に何度も触れるという点で料理のほうが毒を盛るのに誤魔化しが利きます。だから茶葉や湯などには細工がしにくいと言ったまでで」
 タケトーの穏やかな表情が少し引き締まる。珍しく彼の瞳に緊張が走った。
「厨房が暇な時間なら使用人に茶を淹れさせても周囲の眼があり安心です。しかし忙しい時間帯だと茶を淹れるような単純作業に注意を払う者はいません。そして料理を運ぶときよりも茶を届けるほうが人目に触れにくい」
 もっとも信用できるのが自分自身だということか。そして、変則的に飲むこともある茶には監視の眼が行き届かないから注意が必要なのだ。そういう生活が日常とは。タケトーという男はいったい何者なのであろうか。
 扉が叩かれ、雑用係の衣装を着込んだ少年によって茶道具が運び込まれた。サキザードは初めて見る顔だ。とはいえ、使用人全員の顔など憶えていないが。
「おや? 料理長に言われて持ってきたのか?」
「はい。いつもの給仕係の方は腹痛で休んでおいでですので。僕が急遽ご用を果たすことになりまして。……あの、湯はストーブの上でかまいませんか?」
 指先で顎を撫でて考え込んだタケトーが、顔を上げて少年に微笑みかけた。
「湯は沸き立てだろう? では、そのまま茶を淹れてくれ」
 唖然としてサキザードは男の表情を探る。つい今し方まで茶は自分で淹れると話をしていたのに、舌の根も乾かぬうちから他人に委ねるというのか。
 主人の前で茶を淹れるという行為に緊張しているのか、少年はぎこちない手つきだったが、丁寧に淹れた茶を差し出してきた。
 しかし、タケトーはそれを受け取らない。ニッコリと微笑んだまま、茶の味を覚えるためだと、自分で淹れた茶を飲んでみるよう少年に促した。緊張感で強張っていた少年の表情が、その瞬間に凍りつく。
 その様子にサキザードも悟った。見慣れぬ者が運んできた茶葉と湯、そして茶道具。そのどれかに毒が仕込まれているのだ、と。
 タケトーは微笑んだままだ。だが今なら判る。眼は笑ってなどいなかった。
「どうした? 飲みなさい。自分の茶の味を覚えなければ上達しない」
 目に見えて狼狽える少年を見つめる男の表情は微笑みを刻んだ仮面のように不気味である。隣で様子を伺うサキザードがそう思うのだから、正面から視線で射すくめられた少年なら、丸裸にされている気分になっているだろう。
「自分が飲めない代物を主人に飲ませる気か? 使用人の資質に問題があるな。採用時に誰が推薦状を書いて寄越した? 傍迷惑なことだ」
「も、申し訳ありません。茶を淹れるのは初めてなもので……」
 主人の言葉に踊らされている少年を見て、サキザードは出かけたため息を飲み込むのに苦労した。毒についての指摘をせずにいるだけで、タケトーは少年が誰かに遣わされた刺客であることに気づいている。
 毒を盛ったことに気づかれていないと思い込む少年は自業自得だが、巧みに事の本質を覆い隠して相手を手玉に取っている男のやりようも陰湿だ。
「もういい。手の中にあるものは下げなさい。後は私がやる」
 新しい茶器を用意させると、タケトーは肩をすくめてサキザードに謝る。
「申し訳ない。言った先から毒を盛られるようなことになりました。あなたに被害が及んだから兄上に申し開きのしようもない」
 兄という単語に身が竦む思いがした。未だに慣れない身内を示す言葉は上滑りして耳に落ち着かない。自分によく似た顔を見るたびに違和感を憶えるのだ。が、そんなことをタケトーに愚痴っても何も解決しない。
「どれに毒が入っているか判らないのですから休憩は終わりですね」
 立ち上がろうとしたサキザードを制し、タケトーは茶葉の入っている小振りな茶壺を手に取った。蓋を開け、中身を摘み上げて鼻先で匂いを嗅ぐ。小さく頷いてワゴンに戻すと、次はストーブ上の銅製の湯差しを覗き込んだ。
「毒は茶葉に混ぜられていますね。いつもの茶葉の匂いではありませんので。湯や茶器は問題ありませんから、これで新しい茶を淹れましょうか」
 新しい茶葉もないのに? そう思っていると、タケトーは仕事机の傍らの棚から巻物を抜き取り、その奥に腕を突っ込んで包みを引っぱり出した。
「秘蔵の茶葉があるんですよ。祖父母が好んで飲んだ銘柄なのですが、この国では扱っていない東方の茶葉でね。使用人の不始末のお詫びです。今日はこの茶をご馳走しましょう。……緑茶を飲まれた経験は?」
 サキザードが首を振ると、彼は破顔して茶葉の包みを振って見せた。
「うっかりしてました。あなたは記憶を置き忘れていたのでしたね。でも、飲んだ経験があってもなくても、味わって損はない銘柄の茶葉ですよ」
 取り出された茶葉は針のように細く尖り、いつも飲む香茶の茶葉よりも生々しい芳香を放っている。青臭さすら感じさせるこの茶葉が、果たしてどのような味なのか、サキザードには皆目見当がつかなかった。
「私がこれを初めて飲ませてもらえたのは初院を無事に卒業した日の夜でした。祖父の部屋に呼ばれて、お祝いだからと祝麩と一緒に頂いたんです」
 詳しい状況は判らないが大事な日に飲む高級茶のようである。そんな高価なものを居候の身でご馳走になっては申し訳ない。断ろうとサキザードが口を開きかけると、それより先にタケトーから声がかけられた。
「毒茶を飲まずに切り抜けられたお祝いです。一緒に飲んでくださいね」
 断る機会を失い、サキザードはぐったりと椅子の背に寄りかかる。たぶんタケトーにはこちらの内心などお見通しなのだ。先ほどの少年の処分をどうする気か知らない。が、この男なら刺客だと知った上で雇い続けそうだった。
「遠慮は禁物です。雇用主と従事者の立場でいるときはそのように振る舞いますが、それを離れたらあなたは客人。館主の私がもてなして当然ですよ」
「やめてください。わたしは居候です。そんな風に扱われる身では……」
「居候か客人かを決めるのは館の主人たる私の心ひとつです。本来なら身内の兄上のところに戻るのが筋ですのに、お預かりしているばかりか仕事まで手伝ってもらっているのですから。お陰で私の仕事量が随分と減って助かります」
 話をしている間もタケトーは新しい茶道具を使って淀みない手つきで茶を淹れていく。コロンとした形の陶器の注ぎ口から茶器に注がれた茶は清々しい薄緑色をしていた。香茶の深い色合いを見慣れた身には不思議な色である。
 椅子に腰を落ち着けたタケトーが茶の芳香をゆっくりと吸い込み、嬉しそうに口許を弛めた後、茶器に唇を当てた。喉仏が動く様子をサキザードはぼんやりと眺めていたが、我に返ると慌てて自分の茶器から茶を啜った。
 鮮烈な渋みが口いっぱいに広がりながら、仄かに甘みを感じる。眠っていた脳が揺さぶり起こされるような、力強い味わいの茶であった。
 孫のために手ずから茶を淹れるタケトーの祖父の横顔が見えたような気がする。めでたい宵に祖父と孫が卓を共にして茶を嗜む様子が微笑ましい。
 ホッと肩の力を抜いた瞬間、斜向かいから穏やかな声が上がった。
「兄上のこと、まだ慣れないでしょうが少しずつでも話をしたらどうですか?」
 緩んでいた気持ちが瞬時に強張り、サキザードは俯いた。仕事先から戻った男と顔を合わせづらく、夕食もそこそこに部屋に引っ込む日々が続いている。
 ジャムシードと名乗った男の顔は銅板鏡に映る自分によく似ていて、言われなくても兄弟だと判るほどだ。それなのに近しい感情を抱くことができない。
「どんな顔をして逢えばいいのか判らないのです。罵られるわけでもないのに。いえ、むしろ腫れ物に触るように扱われると、自分が自分でないような気になります。タケトー、あなたもそうですよ。どうして吾に下へも置かぬ扱いをするんですか。使用人たちと同じように普通に喋ってください」
「仕事中の態度とそれ以外の態度を気にしているのですね。まぁ、確かに極端に見えるのは知っていますが。でも、それが私の流儀です。直す気はありませんよ。身内である使用人に他人行儀な口調で話すことはありませんからね」
 暗に赤の他人なのだと線引きされた気がして、サキザードはいっそう顔を強張らせた。仕事の間だけは他の使用人への示しがつかないから身内の端くれとして扱ってくれる、そういうことなのだろうか。
「吾のような厄介な人間を手許に預かっているのは面倒でしょう? やはり兄だというあの人が借りている宿舎のほうに移ったほうがいいのですね」
 タケトーには意識が戻ってから面倒ばかりかけている。もういい加減に手を煩わせるような真似はやめたほうがいいのだ。
「あなた一人分の世話など私には大した負担ではありません。むしろこの国のことを学ぶのに役に立っています。あなたに逢いに来るジャムシードと色々な話ができますから。あなたも一緒に話を聞いてごらんなさい。面白いですよ」
 心に溜まる違和感は晴れない。自分が何者かを他人──兄だから他人ではないが──から聞かされたところで、実感が伴わなければ辛いだけだ。
「あなたの兄上も、以前に記憶を失ったことがあるそうですよ」
 茶を啜りながらタケトーが漏らした言葉にサキザードは顔を上げた。視線が絡み合うと、タケトーが穏やかに微笑みかけてくる。
「記憶がない心細さをあの人は知っています。会話を繋げようと思わなくていいのです。相手の言葉に耳を傾けるところから始めてみたらどうですか?」
 思ったような反応を返さない人間を相手にする者がいるだろうか。それとも戸惑うこの感情すら理解してもらえるというのだろうか。
 兄と名乗るあの男とタケトーと、どちらにより親しみを憶えるかと言えば、今の自分は間違いなくタケトーだと答えるだろう。雛が初めて眼にした存在を親鳥だと認識するように、自分にとっての保護者は目の前にいる人物だ。
 きっと。兄はそれに気づいている。たぶんタケトーも。距離を縮めようとしない弟の態度にどれほど焦れているだろう。二人が心配していることも肌で感じ取れる。だが、血の繋がりだけで気を許すことはできなかった。
「何も憶えていないのです。話をすることなど……」
「あなたが話をする必要はないのですよ。まずは相手を知るところからです。彼は子どもを相手にするのも上手いですからね。何も知らないからと蔑んだりはしませんよ。あなたが気に病むことなどありません」
 世間一般の常識や日常生活の智恵は憶えていても、人の名前はまったく思い出せない有様の自分を卑下しているのだと、タケトーは考えているらしい。
 そうではなかった。ただ、居心地のいい館から離れたくないだけだ。この館内なら安心していられる。外で知らぬ人間と関わって疲弊することもない。
 自分は他人と接触する煩わしさから逃げているのだ。記憶を取り戻したらここから出ていかなければならない。だから、思い出すきっかけになりそうなものや人から離れようと藻掻いているのだ。
 そんな内心もタケトーなら読んでいるのか。知っていて、あえて気づかぬふりを貫いているのか。そろそろ他人の世話から解放されたいのかもしれない。だからこそ、兄と話をしろなどと勧めてくるのかも……。
「タケトー。あなたも同席してくれますか?」
 冷えてきた茶器を両手で握りしめ、サキザードは小刻みに揺れる水面を凝視した。タケトーが今どんな顔をしているのか見たくない。もしその表情に一瞬でも呆れや嫌悪が浮かんだらと思うと、恐ろしくて顔を上げられなかった。
「もちろんです。初めは兄上がジュペちゃんに話して聞かせているお伽噺にでも耳を傾けていればいいんですよ。義理の妹さんや兄弟子の娘さんが小さい頃にせがまれてよく話をしたとかで、面白い話を本当によく知っていますから」
 判りました、と返事をしてチラリと斜向かいを一瞥すれば、タケトーが茶器に茶を注ぎ足している姿が見えた。厄介者から解放される安堵から、それほど落ち着いているのか。そんなひねくれた考えを抱く自分に嫌悪を感じ、再び俯いたサキザードは茶の水面に映った己の瞳の暗さにゾッとしたのだった。