王宮の区画から飛び出し、下町にある飯場に潜り込んだところまで追いかけてくるとは思わなかった。
ウラッツェは目の前に座る男の顔をまじまじと見つめた。継母によく似た面差しがのんびりと豚肉料理を頬張る様子はさすが貴族の優雅さである。が、こんな場末の食堂で顔を突き合わせていることの違和感への答えにならなかった。
「お前、いい根性してやがるな。どっからそんなボロ着を拾ってきたんでぃ」
「蛇の道は蛇、ですよ。あなたばかりが市民にコネを持っているわけではないことくらいご存じでしょう。……あぁ、この味付けはいいですね。良い店をご存じだ。さすが兄上です。今度、料理人に言いつけて作らせてみましょうか」
肉体労働者が多く集う店の味は貴族の好む味付けより濃いめである。乾期の頃になれば更に今よりも塩味を強くし、汗で失った塩分を補給するのだ。美食に慣れきっているはずの異母弟の舌に馴染んでいるはずがないのだが。
「せっかくの料理が冷めてしまいますよ。食べないんですか?」
どうして顔を見るのも厭な女の息子と一緒に食事をせねばならぬのか。まともな会話もなかった異母弟相手に世間話もなかろう。
しかも場所は単独行動しているときによく利用する飯場だ。できれば他人に浸食されたくない領域である。特に大公家に関わる者には。
ウラッツェは切り分けた肉を口に放り込み、ため息と一緒に嚥下した。
「それ喰ったらサッサと帰れ。オレ様の憩いの時間を邪魔すンじゃねぇ」
「話が終わったらお言葉に従いましょう。……私にもあなたの息抜きの相伴をさせてください。それくらいの我が侭は許されるでしょう?」
目の前の異母弟は実の兄であるワイト・ダイスとは正反対の涼やかな雰囲気を持つ若者だった。亡き異母兄以上に関わりが浅かったせいで、幼い頃の繊弱な面影しか思い出せないが、噂に聞く限り今は惰弱さとは無縁のはず。
ここまで乗り込んでくるくらいだ。よほどのことがあったのだろう。あるいは、これから起ころうとしているのか。いずれにしろウラッツェが話を聞き終わるまで解放する気はあるまい。その程度の覚悟はせざるを得なかった。
二人の周囲では体格の良い労働者が肉の塊にかじりつき、汁碗を叩いて食事のお代わりを要求したりと騒がしい。誰も異母兄弟が向かい合う席のことなど気にしていなかった。まして、彼らが王族であることなど知る由もない。
食事の大半を平らげた頃。若者が杯を取り上げ、蜜酒で喉を潤した。
「今日は、兄上に最後通牒を突きつけに来たのです」
干した杯を卓の上にそっと置き、若者はサラリと目的を口にする。彼の涼しげな眼許は微塵も揺れることはなく、ふてくされた態度で椅子にもたれているウラッツェを観察している様子がありありと伺えた。
「最後通牒、ね。オレ様の行く先々をつけ回すくせに、今さら何を言おうってンだよ。あんまりコソコソ動き回ってると痛い目みるぜ」
「あなたが反撃してこないからです。いつまでも逃げてはいられませんよ。母はあなたを陥れるためには手段を選びません。ご存じだと思いますけどね」
椅子にもたれかかったままウラッツェは自分の深杯から酒を干した。だらしのない態度であるが、彼の暗緑色の瞳は刺すように鋭い。
「やはり気になるようですね。……では、これをあなたに差し上げましょう」
ボロ着の上着から若者が薄汚れた包みを引っぱり出した。食器の間に置かれた包みは手に少し余る程度の大きさで、柔らかいものを包んでいるようである。
促されて手に取ったウラッツェは、出てきたものに目を見開いた。
「見覚えがありますよね? それを預かっています。……いえ、預かる予定です。返して欲しければ、というのが今日の用事です。最後通牒の意味、お判りになりますよね。覚悟を決めていただきますよ」
ウラッツェの掌に握られているのは少し艶を失った赤い髪とそれに絡まる飾り紐である。独特の編み込み模様は遊民が好んで使う飾り紐のもので、彼の記憶にある限り、その飾り紐を使っている女はただ一人だった。
「どうして……。なんでヨルッカをッ!」
だらけていた身体が跳ね起き、目の前に端座する若者を睨む。従姉が継母に引き渡されると聞いて、心中穏やかでいられるはずがなかった。
「イコン族にあなたが巡検使だと露見した原因がなんなのか、お判りになりませんか? その女、あなたが使っていた影でしょう?」
「ヨルッカが密告したってのかよ。そんなはずねぇ。王国の者を売るような真似をすれば、イコン族と王国との間に亀裂が生じ、自分たちももめ事に巻き込まれることをよく判ってる。与える情報は吟味するはずだぜ」
「遊民の元締めもおかんむりでしょうよ。遊民が巡検使の影をしていたというだけで風当たりがきつくなるのに、裏切り行為を働かれていたとはね」
若者の瞳が刃のように鋭さを増す。ウラッツェも負けじと睨み返した。
「ヨルッカを引き渡そうってのか、元締めの奴。裏切りの代償だとでも──」
「早とちりしないでください。売りにきた相手は遊民ではありませんよ。でも、それが誰なのかは私は知りません。母はそこまで私を信用していないので。ですが、女が母の手に墜ちれば心身共に無事ではすみませんよ」
母の残忍さは身をもってご存じですよね、と呟く異母弟の瞳の奥に暗い炎が見える。異母兄ワイト・ダイスは気難しくとも明朗な性格をしていた。が、この若者は心の奥底に鬱屈したものを抱えているらしい。
「女を拘束したところで、あなたを大公の座から追い落とすことなど不可能だと母には言いました。しかし、あの人は狡猾なようで世間知らずだ。失敗すると判っている策を弄することでしょう。……愚かな女です」
「自分の母親を愚弄するてめぇは何様だよ、ケル・エルス。涼しい顔して高みの見物か!? てめぇの女嫌いは始末が悪すぎるぜ」
ウラッツェの怒りを鼻先で嗤い、若者は空いた食器を傍らに押しやった。
「人のことよりご自分の身内のことを心配したらどうです。あの赤毛の女がどうなるか判っていますか? あなたと同じ色の瞳をくり抜き、舌を切り取り、手足の骨を折って、強制労働に就く奴隷に投げ与えられるでしょうね」
ゾワリと背筋が粟立つ。滲んだ恐怖を顔に出さないだけで精一杯だった。下手に口を開いたら、罵る言葉以上の暴言を吐きそうである。
「何日保つでしょう? 一ヶ月? 二十日? 十日? 私が知る限り、二日と保ったことはありませんよ。たった一人で何十人という奴隷の慰み者にされるのです。気が狂うのが先か、衰弱死するのが先か。時間の問題ですね」
「てめぇら親子は狂ってやがるっ。どこまで人の尊厳を踏みにじれば……」
「食事も終わったことですし、出ませんか? 話の続きは外でしましょう」
ゆらりとケル・エルスが立ち上がった。暗い笑みを浮かべた若者の顔から真意を読み取ることは難しい。薄気味悪さを感じ、ウラッツェは口をつぐんだ。
「母が提示した条件をお教えしましょう。ここでは他人の耳目が多すぎます」
素早く周囲を見回した若者の視線が注目を集め始めていることを教える。辺りにいる者たちが言い争いの気配を感じ取っていた。これ以上は関心を引くわけにはいかない。ウラッツェは表情を殺し、弟の後に従って店を出た。
曇天にも関わらず下町の路地には幼い子どもが駆け回る。それは貧しくとも平和な暮らしを送る者たちの象徴のような姿だった。
己の異質さを突きつけられた気がして、ウラッツェは自嘲の吐息をもらす。王族を嫌いながら、いつの間にか自分はその王族に馴染んでしまっていた。
どうして父親が死んだときに遊民に戻らなかったのだろう。昏く心を覆う自問が鎌首をもたげた。そのたびにちらつく顔が今もまた脳裏に去来する。もう二度と逢うことの叶わぬ存在だというのに。
「随分と余裕ですね。それとも何も考えられないくらい焦っていますか?」
自分の思考が横道に反れていたことに気づき、ウラッツェは苦笑をこぼしそうになった。が、口許を引き締めて厳しい表情を作ると、淡々とした表情で隣を歩く異母弟を睨む。チクチクと挑発してくる言葉遣いが憎らしかった。
「母からの交換条件をお伝えします。あなた自身の意志で大公位を退いてください。退位の理由はお任せします。もっとも最近の騒ぎを考えると、あらぬ噂は立つでしょうけども。その後、女とあなた自身を交換しましょう」
一瞬だけケル・エルスの視線がウラッツェに注がれ、すぐに反らされた。
「この程度の交換条件であなたを追い落とせると思っている母が愚かしいが、一応は返事を聞きましょう。……条件を呑みますか?」
呑むはずがない、という気配が滲んだ言い方である。異母弟のそんな態度が気に食わなかった。心をなくしてしまったような冷たさである。
「てめぇの母親に伝えておけ。条件は呑んでやる。その代わり、ヨルッカに手を出してみろ。ただじゃおかねぇぞ」
弾かれたようにケル・エルスがウラッツェを振り仰ぐ。信じられないものを見た、といった表情に僅かに溜飲が下がった。
「母も愚かだが、あなたは更に愚かだ。女一人のために命を捨てますか!?」
押し殺した声に怒りが混じる。母親の言いなりに異母兄を陥れにきた者にしては人臭い感情に思えた。まるでウラッツェが大公位から退くことを望んでいないかのような口振りである。ますます目の前の弟のことが判らなかった。
「女一人と嘲るてめぇにオレ様のことなんか判るかよ。ざけんじゃねぇぞ」
「……あぁ、条件を飲むと言いながら、裏工作をするつもりですね? 大公位を退くと言い出しても、すぐに退位できるとは限りませんし」
時間稼ぎをするために条件を飲むなどと言い出したのだろう、と言い募られ、ウラッツェは忌々しさに舌打ちした。無論、大人しく相手の言い分に従う気はない。が、大公位が惜しいからではなかった。
「まぁ、いいでしょう。しばらくは母とあなたの酔狂に付き合います。追って連絡を入れますから、あなたもせいぜい反撃の方法を考えてください」
「るせぇな。てめぇら親子の酔狂に付き合ってるのはオレのほうだぜ。いい加減にうんざりだ。大公位なんかくれてやるから勝手にしやがれ」
ありがたくもない貴族の称号を押しつけられ、ただでさえ嫌味ばかり聞かされる毎日である。王太子は身内の始末をつけろとうるさいが、血みどろの争いなどご免被りたい身としては継母のしつこさにはうんざりだった。
「あなたが献上してくださっても母は喜びませんよ。あの人は邪魔な存在を踏みにじって奪い取らなければ納得しないのですから。いつものようにのらりくらいと誤魔化さず、真剣に反撃してください。でないと、本当に死にますよ」
「殺す気満々の条件出してきやがったくせに何をほざいてやがンだ。用事は終わったんだろ。てめぇと連れだって歩く気はしねぇよ。トットと失せろ」
「無策のまま母の前に出る気ですか? いたぶられるのが趣味だと? 僧院での戯童紛いの扱いも自身の楽しみのためですか」
ウラッツェは暗緑色の瞳を細め、鋭い視線を異母弟にぶつけた。普段は垂れた目尻から送る秋波に女たちが寄ってくる美貌が、このときばかりは悪鬼のように凶悪に歪む。いや、元々が整っているだけに余計に恐ろしい形相だった。
「我が家直下の僧院でも母の息がかかっている者は多く収まっていましたしね。陰に隠れて悪さをするくらい容易かったでしょうよ。父上もご存じなかったようですし、あなたが沈黙を守れば腐れ外道どもはお咎めなしですね」
異母兄に腹を刺され、救士院から移された僧院での過去を知る者は少ない。大公の息子とはいえ庶子では権力などなかった。継母の持つ権威の誘惑に負け、金を掴まされて少年時代のウラッツェに暴行を働く輩がいたのである。
「いつまでここでくっちゃべってる気だ。用は済んだんだ。失せやがれ」
「あなたが大公になって彼らは戦々恐々としている。母に庇護を求めている者もいるようです。……絶好の復讐の機会だと思わないのですか?」
「オレの前から消えろ。てめぇの顔を見てると反吐が出る」
また連絡しますよ、と言い残して異母弟の背が遠ざかっていく。辻の向こうに細身の後ろ姿が消えるまでウラッツェは路地で佇んでいたが、その間も全身が倦怠感に包まれていくのを感じていた。
「どいつもこいつも勝手をほざきやがって。オレにかまうンじゃねぇよ!」
異母弟の後を追うように路地を抜ける。しかし、そこから先は逆方向に歩き出しながら悪態をついた。なぜいつも自分の望みとは反対の事態が巻き起こるのか。苛立ちを吐き出した後にはどんよりとした気分が残った。
「ヨルッカの奴……。なんてことしやがったンだよ。オレを売ったりしたら、後々どうなるか判ってるだろうに。バカヤロウめ」
なでつけている髪をグシャグシャと掻き混ぜる。崩れた前髪が額に落ちかかり、ウラッツェの容姿を常よりも幼くみせた。
従姉がイコン族にウラッツェの正体をばらしたのは間違いなかろう。貴族の突き上げからも、証拠を掴んでの強気だと今さらながら思い返された。
砂漠にいた時期、イコン族にウラッツェのことを告げられた人物の候補は少ない。彼の正体を知っている王国側の人間が漏らすとは考えにくかった。となると、本来は中立であるはずの遊民しかいない。
かつての仲間に裏切られたとは思いたくなかった。それが真実から目を背けさせていたのである。ヨルッカの心理を読み切れなかったが故の油断だった。
「オレはもう遊民に戻れねぇって何度も言ったろうが。巡検使をやめてもどうにもなんねぇンだって。ホントにあのバカ、どこまで考えなしに動き回りゃ──」
無意識に歩き、辿り着いた先でウラッツェは苦い笑みをこぼした。
「オレも進歩ねぇな。……結局、自棄を起こしかかるとここかよ」
王都の娯楽を賄う歓楽街の門が彼の目の前に立ちはだかっている。花館は開いていないが、闘鶏場はそこそこ賑わっていた。
入街料を払い、ウラッツェはふらふらと歓楽街に吸い込まれていく。目指すは闘鶏場だ。あそこなら氏素性など問う者は誰もいない。気楽な場所だった。
仕事休みの労働者が手を出す賭博で一番の馴染みが闘鶏である。貴族の娯楽である賭戦場よりも猥雑な空間は、抱えた孤独を一時的に埋めるにはちょうど良かった。
賭事にのめり込む男たちの間を賄い女が行き来する。その中に赤毛の女がいた。ランプの明かりに髪が照らされるたびに苦い思いがこみ上げる。
「オレのせいなんだろうな。……無事でいて欲しいってのは欲張りか」
闘鶏場をあてもなくうろつくが、いつしか野次は背後に遠のき、歓楽街に従事する者の宿舎近くに立っていた。少し離れた場所では軽武装した男が剣の型をなぞっている。戦奴だ。これから賭戦場で戦うのだろう。
ぼんやりしているうちに闘鶏場を通り過ぎてしまったのだと、ウラッツェはようやく気づいた。戻って闘鶏で賭けをする気力はなくなっていた。
型をなぞる戦奴の体格は逞しく、上背のある立ち姿は奴隷の卑屈さなど微塵もない。むしろ武人としての風格すら漂っていた。名のある戦奴に違いない。
不意に男が動きを止め、ウラッツェを一瞥した。黒っぽい髪の隙間から覗く瞳は黒褐色。薄く貼り付く口髭を指先で撫でる仕草に背筋が冷えた。
「ワイト・ダイス……。オレがお前の母親を殺したら、やっぱり恨むか?」
戦奴の立ち姿に異母兄の姿が重なる。呟きは微風に散らされてしまったが、口の端に登った言葉の意味は重石となってウラッツェの腹に溜まった。
遊民にも王族にもなりきれない自分の半端さが厭になる。飄々と世間を渡っているつもりで、その実、根無し草の薄っぺらさに寒々とした思いを抱いていることを、もしかしたらワイト・ダイスには気づかれていたのかもしれない。
今こうして大公としてあるのは、どこにも定まらぬ自分の根を下ろす場所を、兄が死の瞬間に示したがゆえか。奪う気などこれっぽっちもなかったのに、ダイスと同じ場所にいる自分が奇妙に思えた。
「ヨルッカを突き放しておかなかったオレの怠慢か。ツケを払えってことかよ」
巡検使として遊民の情報網を利用していたのである。付かず離れずの距離を保ち、仕事を言い訳に誤魔化し続けた関係に決着をつけねばならなかった。
ウラッツェの腹を刺した事実を兄は謝罪しなかった。もしかしたら彼は母親の代わりに自らが罪を被ったのかもしれない。いまわの際に呟かれた単語はその母に向けられたものだったのだ。あり得ないとは言い切れない。
「もう気づかないフリは出来ねぇな。引導渡すのがオレの役目だってンなら、全部の泥を呑む覚悟しなくちゃなンねぇんだろ。……なぁ、大公に収まっているってことは、そういうことなんだろ、ワイト・ダイス」
常に黒耀樹公として最善を尽くしてきた異母兄の姿が思い出される。彼なら立ち向かっていくはずだ。逃げ回っている自分とは大きな隔たりがある。
「判ってるよ。お前はオレを認めてくれたんだろ。……逃げるのはヤメだ」
ウラッツェはゆっくりときびすを返した。視線の先にいたはずの戦奴の姿は消えている。賭戦場へ赴いたのだ。かの奴隷も自らの戦場で戦う。それと同じように自分も戦いの場に出向かねばならなかった。
遠のく歓楽街の喧噪を惜しいとは思わない。それがほんの少し誇らしかった。
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