待ちかまえていた警邏たちから幾つか質問を受けたがイコン族とのもめ事を公にすることもできず、ジャムシードは知らぬ存ぜぬを押し通した。
廊下の奥へ進むと、落ち着きなく部屋を出入りしていたオーレンが彼を見つけ、飛び上がって「ジャムシード!」と叫ぶ。上擦った声の調子に興奮と不安が入り交じり、こんな事態に陥ることになった事件の後遺症を感じさせた。
少年は駆け寄ってきて事件のあらましを忙しなく語って聞かせる。言葉にして吐き出すことで無意識のうちに恐怖や動揺を解消しようとしているのだと知れた。しかし少年の話は時系列が飛んで支離滅裂である。
肩にそっと掌を乗せて混乱しているのを落ち着かせると、ジャムシードは警邏の説明で腑に落ちなかったことを確認した。
「オーレン。襲ってきた男たちの容姿は憶えているか?」
「顔を隠してたから判らねぇよ。でも! あの背格好は絶対に東方人だって。ホラ、王宮でさ、見ただろ。あの人、あそこにいた東方人の。背の高さが変わらなかったんだ。だから見間違えようがないし!」
再び肩を叩き少年を落ち着けると、ジャムシードはおもむろに指を伸ばしてオーレンの頬をつまんで引っ張った。何すんだ、と痛がる少年の瞳を覗き込み、彼は意識的に意地悪げに笑う。
「お前、叔父格の俺にタメ口か? いい度胸だな。モス兄ぃに言いつけるぞ」
非日常の今に突然飛び込んできた日常の意識。それがストンと少年の中に落ちていった。動揺に揺れていた瞳が定まり、オーレンはポカンと口を開けたまま何度も瞬きを繰り返す。そして、すぐに不満げに口を尖らせた。
「なんだぃ! おいらが必死に説明してるってのに、ジャムシードのばか!」
「そうか、俺をばか呼ばわりかよ。それは是非ともモス兄ぃにお灸を据えてもらわなきゃな。口の減らない奴には罰が必要だ」
なんだとぉ、と怒りに飛び上がった少年の頭を鷲掴みにすると、ジャムシードは髪をグシャグシャに掻き回す。乱れた髪を両手で押さえるオーレンを引き連れ、彼は残りの子どもたちの無事を確認するために部屋に踏み込んだ。
「ジャムシード! 良かった。あの、ジュペがずっと目を醒まさなくて……」
湿布された片足を引きずりながらガイアシュが近づいてくる。顔色が悪い割に眼だけが異様にぎらついていた。どうやらオーレンと同じくまだ興奮が収まっていないらしい。それが人さらいとの争いの激しさを物語っていた。
問われもしないうちから襲われたときの状況を説明し始めたガイアシュの声は上擦っている。興奮していることもあるが、これから先の将来、自分がジュペを守りきれるか不安になっている様子が手に取るように判った。
合間にオーレンも会話に加わり、子ども二人がかりの説明を辛抱強く聞くのは骨が折れる。それでも警邏や少年たちの話をまとめてみると、東方人の男たちが突然に襲ってきたことと、助けてくれた人物がいることが判った。
「あぁ、よく判ったよ。ガイアシュもオーレンもよくやった」
二人の肩を軽く叩き、それぞれの瞳を覗き込みながら頷くと、彼らは一様にホッと安堵の表情を浮かべる。ようやく混乱が収まり、落ち着いてきたようだった。この分なら宿屋を引き払って移動しても大丈夫だろう。
それより気になることがあった。先ほどからベッドで横になるジュペを見ているが、昏々と眠り続けて目を醒ます気配がない。それが妙に気にかかった。
「ジュペは怪我をしていないか? 頭を打ったり、妙な薬を嗅がされたり。何か気づいたことはないか、ガイアシュ」
「オレが見ていた限りでは頭を打ったりはしてない。けど、もしかしたら何か嗅がされたかも。今思い出してみると甘ったるい匂いがしてたような……」
薬師でもないガイアシュでは詳しく判るまい。救士か薬師に診てもらったほうがよさそうだ。ジャムシードは少女の上に屈み込んで寝息を確認した。
「あっ! そうだ。ジャムシード、あの人たち。ジュペを助けてくれた人たちが向こうにいるんだった。オレ、すっかり忘れてた」
落ち着いた途端に思い出したのだろう。ガイアシュは急に大声を上げたかと思うと、ジャムシードの腕を取って引っ張った。
「え? その人たち、まだここにいるのか?」
「うん。そこの衝立の向こう側に。あなたに逢いたいって。あ、待って。オレ、呼んできます。きっとビックリしますよ」
それまでは子どもっぽい口調だったガイアシュであったが、落ち着きを取り戻すにつれて言葉遣いが丁寧なものへと変わってきた。
間もなく成年を迎える時期である。大人として扱われたいと彼なりに言葉遣いを子どものそれから変えようと努力している途上のようだ。
ガイアシュは驚くと言うが、ジャムシードは少女を助けてくれたという相手の見当もつかないのである。驚くも何もないだろうに。
再びジュペの上に屈み込み、彼女の吐息の匂いを嗅いだ。仄かに甘い香りが感じられる。ガイアシュが言うように何か薬らしきものを嗅がされたようだ。自然に目覚めるならいいが、中和するものが必要なら急いだほうがいいか。
そう結論付けると、ジャムシードは背筋を伸ばして衝立へと向き直った。
足音が近づき、ひょっこりと顔を出したのは王宮にいる友人によく似た顔立ちの男だった。東方人、とりわけシギナ中央部より東側の人間の特徴を持つ容姿が一瞬だけ襲撃者のものと重なり、思わず眉をしかめる。
「ジャムシードさんでいらっしゃいますか?」
東方訛りのポラスニア語を操る男はギド商国の貴船主、ハウラ=ジロー・タケトーと名乗った。その国がどこにある国なのかと問い返せる雰囲気ではない。
「本当によく似ている。……あぁ、失礼。この子たちにも話をしたのですが、連れがおりましてね。その若者の顔があなたにそっくりなのです」
ジャムシードは周囲の空気が瞬時に凍りつく錯覚に陥った。一瞬にして体温を奪われた気がして、ゾクゾクと寒気に襲われる。
立ちくらみを起こしたときのような奇妙な平衡感覚の中に身を置き、彼はタケトーと名乗った男の説明を茫然と聞いた。
「館の前に倒れていたところを保護したのですが、自分自身の記憶を失っておりまして。この国の風習は憶えていますが、家族の元に送り届けることもできず、今日まで館に滞在しながら記憶が戻るよう治療をしているのです」
あなたに心当たりはありませんか、と物腰も丁寧に尋ねられたが、ジャムシードはすぐには反応できず、その場に突っ立っていた。
「あの……? もし? 何か失礼なことを申し上げましたでしょうか?」
あまりにも鈍い反応にタケトーが不審げに首を傾げる。成り行きを見守るガイアシュが上着の裾を引っ張るまで、彼は身じろぎひとつせずにいた。
「そこに、いるのですか? その、俺にそっくりな若者というのは……」
彼の声はひび割れ、動揺に上擦っていた。困惑しているタケトーや見上げてくるガイアシュとオーレンの不安げな表情にも気づかない。
「年格好は? どんな衣装を着ていました? どんな風習を憶えていますか?」
矢継ぎ早の質問にタケトーが眼を瞬かせた。が、相手の異変に動じることなく保護したときの状況を簡素に説明する。その話の内容からいよいよ確信を強め、ジャムシードはタケトーを押しのけるように衝立の側に近づいた。
踏み込んだ先に若者がぽつねんと佇んでいた。だが顔は見えない。しっかりと被ったシャーフが彼の眼許を隠し、かろうじて顎の線だけを覗かせていた。
急に姿を見せたこちらに驚き、ビクリと跳ねた肩の動きが小動物を連想させる。まるで追い詰められた鼠か兎のように震えていた。
「ジャムシードさん。あなた、彼に心当たりがあるのですね?」
手を伸ばそうとしたジャムシードを制するようにタケトーの声が追いかけてくる。そして、若者との間に割り込んだ男が静まり返った瞳でこちらを見上げてきた。心の奥を覗き見られるようで背筋が寒くなる。
「お訊きしてもよろしいでしょうか。あなたは彼とどんなご関係なのです?」
弟だと答えようとしたが、不意にジュペを襲撃した者のことを思いだし、素直に返事をしていいものかどうか迷った。
襲った者たちは東方人だという。目の前の男も同人種だ。そして、その男と一緒にいる若者が襲撃に荷担していないという保証はないのである。記憶がないというのも真実かどうか今の段階では判らないではないか。
もしも語られた内容が嘘だったなら、目の前にいる若者があの“シグムド”だったなら、どんな手管を使ってくるか知れたものではない。
だがしかし、話が本当だったなら。もし彼に記憶がないというのであれば、これは願ってもない千載一遇の好機かもしれなかった。
そう、記憶をなくしているという若者が、自分が探していた弟であったのなら。弟とヒューダー・カーランとの関わりを完全に断ち切れるのだ。犯罪者との関係を知られることなく、弟は王国の枠組みの中に戻ることができる。
あぁ。そして生き別れていた時間を取り戻すことができるかもしれないのだ。憎悪と侮蔑の視線を向けられることもなく、兄として見てもらえる。
バラバラになった家族がまた元通りに……いや、父母亡き今はたった二人だけの兄弟として、一緒に生きていけるかもしれなかった。
どちらを選べばいい? 疑惑を持ったまま兄として振る舞っていいのか。それとも今はまだ赤の他人のふりをして相手の思惑を見極めるべきか。
「答えていただけないのですか? それとも答える言葉を持たぬのですか?」
タケトーの催促にジャムシードは唾を飲み込み、ゆっくりと吐息をついた。
「彼の顔を見せてくれないか? それによって答えは変わる」
まだ心は迷っている。どっちつかずのままだ。それでも、弟に逢いたかった。
タケトーはジャムシードの態度に不審を抱いたらしい。だがしかし、数呼吸の後には、背後に庇った若者を振り返ってどうしたいのかを尋ねていた。
男の声はジャムシードと会話していたときよりも数段優しげで、それまで若者にどう接してきたのかを容易く想像できる。
問われた若者は幾分か逡巡している気配であった。だが先に進むには己の顔をさらすしかないと納得したらしい。ゆるゆると腕を持ち上げて顔を覆う布地に手をかけた。見ているほうにしてみれば緩慢な動きである。
家具にかけた掛け布を剥ぐように滑り落ちていく布の向こう側を凝視した。伏せられていた瞳が開く。強張った唇を噛み締めて顔を上げた若者を確認した瞬間、ジャムシードは呻きながら弟の名を呼んでいた。
他人のふりなどできようか。見た目がここまでよく似ているのだから他人だと主張するのも難しかろう。だがそんなことよりも、見捨てられた迷子のように途方に暮れて立ち尽くす弟を、他人だとすげなくすることはできなかった。
「サキザードというのが彼の名なのですか? あなたと彼はいったい……」
「血を分けたたった一人の弟だ。十八年……いや、もう十九年になるか、生まれたばかりの弟は里子に出され、それっきりだった」
僅かに首を傾げ、ジャムシードと若者を見比べていたタケトーが「ふむ」と小さく唸る。まだ完全に不審は消えていないが、強く否定する材料もないと判断したに違いない。それまでのあからさまな嫌疑が瞳から消えていた。
「複雑な事情がおありのようですね。ここで詳しい話を伺うには、少々込み入っているようにお見受けしました。場所を変えてもよろしいでしょうか?」
ジャムシードが頷くと、タケトーは若者を振り返って彼の同意も得る。だが場所を変えるにしてもどこに行けばいいだろうか。
「すまないが、場所を変える前に娘の治療を先にさせてもらえないか。何か薬を嗅がされているらしい。救士に診せて中和する薬を処方してもらわないと」
「薬? あの男たちは薬を使ったのですか。……であれば、東方のものである可能性が高いですね。となると、この国の方々には判らぬ薬を使ったかもしれませんよ。あれらは質の悪い者に雇われた者たちですから」
喉が一瞬詰まった。ジャムシードだけではなく、彼の後ろにいるガイアシュも息を呑み、怒りを含んだ呪詛を呟く。身体中が怒りで熱くなった。
「いったい、奴らは何者だ。その賊を知っているということは……」
「同じ東方人種ですからね。あなたがお疑いなのも無理はない。今ここであなたからの嫌疑を払拭はできないでしょうね。実はあの者たち自身の正体は知りません。ですが、彼らを雇ったであろう人物のことは知っています」
知りたいですか、と問われ、ジャムシードは目をつり上げる。知りたくないはずがなかろう。それをもったいぶるとはどういうことだ。
「あなたの怒りはごもっともです。本当はすぐに教えて差し上げたいのですよ」
タケトーが苦笑いを浮かべる。緩やかに歩み寄り、ジャムシードの目の前に立つと、東方人の男は腰を屈めるよう手招きした。何をする気かと身構えたが、相手の辛抱強い態度にジャムシードは折れた。
「おおっぴらにできぬ話です。この続きは我が館にて。東方の医術に詳しい者も雇っておりますから娘さんの治療も請け負いましょう。我らの素性がハッキリしない段階での招待は不愉快でしょうが、是非とも受けていただきますよ。このまま宿屋を出ていったのでは、またお嬢さんは狙われますから」
耳元で囁かれた内容にジャムシードは眉間に皺を寄せる。これは罠だろうか。それとも本当に親切心から出た言葉だろうか。こちらが突っぱねることができないと見越した上での招待に乗るしかないのか。
瞬時に判断できる材料がないのが悔しかった。だが、ジュペや弟のことがある。厭でもこの男の招待を受けるしかなさそうだった。
「では参りましょう。ガイアシュ君、ジュペちゃんの荷物をまとめてください。オーレン君、彼は足を怪我をしていますから君が二人の荷物を持ってくださいね。……それから、サキザード。とお呼びしたほうがいいのでしょうね?」
それまでのやり取りの間、黙して佇んでいた若者が強張ったままの表情でタケトーの顔を見つめている。どうしていいのか判断できない様子だ。
「そのことも踏まえて今は館に戻ります。まずは腹ごしらえしてから話をしましょう。それでよろしいですよね、ジャムシードさん?」
穏やかな口調であったが、当たり前のように他人に指示を出す姿は人を動かすことに慣れた人物であることを教えている。ジャムシードは無言で頷き、ジュペをそっと抱き上げた。弟に再会できたというのに諸手を挙げて喜べない。
「行くぞ、二人とも。俺からはぐれるなよ。今日の人出じゃ探してやれないぞ」
先に廊下に出ていたタケトーたちが先導するに任せた。彼は少年二人を引きつれて人でごった返す大広場をすり抜け、貴人街へと進んでいった。
「ジャムシードがもう戻ってこないというのは本当のことだったのか?」
真昼でもやや暗さを感じる礼拝堂の奥、個室祈祷室の片隅で密やかな会話が交わされる。街が商神講で賑わう今日、礼拝堂にも祈祷室の列にも人影はなかった。
「ここ最近は炎姫家で新しい仕事を任されています。今の時点で我らと接触する危険性を考えてのことでしょう。王太子殿下にも彼のおおよその正体を知られていては下手な動きは見せられますまい。しかし……」
僅かな沈黙の後、初老の男と思しき重厚な声が囁く。
「下の者たちはジャムシードの配慮を察することはできまい。今の彼は我らと縁を切り、王族に媚びているようにしか映らぬはず。血気にはやった者が短慮を起こして粛正に乗り出さねばよいが」
「左様で。未熟な者に遅れをとる腕ではありませんが、ジャムシードは身内に対しては甘すぎます。これがイルーシェンであれば心配したことはありませんが、接触を拒むという手段を取っている以上は下との軋轢は避けられぬかと」
老いてしゃがれた声が殷々と響いた。気落ちし、ため息が混じった報告内容に、祈祷室の壁越しに対峙した男は慰めの言葉をかけるのを憚る。小手先の励ましなど無意味なことはよく判っていた。
「黒の頭領としては無理でも、王族と接触があるなら諜報関係の目利きはできるはずだ。“長老”、ジャムシードに白の役割を振ったらどうだ?」
「水姫公に目を付けられ、炎姫家の監視下に置かれている今の状況では危険すぎます。すでに我が下にいる者との接触も慎重の上に慎重を重ねてのこと。あまり深入りさせるような真似をさせぬほうがよいでしょう」
老いた声にかぶせるように男は苦い思いのこもった言葉は発する。
「そうも言ってはおれぬ。王宮で何やら不穏な動きがある」
壁の向こうで小さく舌打ちする音がした。この国に限らず、王位が移る時期の権力中枢部というのは魑魅魍魎が跋扈するおぞましき巣窟である。
「ラジ・ドライラム陛下亡き後、王太子殿下を国王に推す勢力が優勢なのは結構だが、その陰で王子の身辺に取り入ろうと働きかけている者が多いと報告を受けている。溜まった膿を絞り出す好機であると同時に、王権の強化も弱体化もこの時期の状況次第でいくらでも変化していく。つい今し方の報告も……」
不意に男は口を閉ざし、礼拝堂とは反対側、聖廊奥の扉へ意識を集中した。
「迎えが来てしまったようだ。手短に伝えよう。先ほどの報告で王宮で花嫁選びが始まることが決定した。次期国王の左隣に立つ栄誉を掴む娘が誰になるか、貴族と神殿を巻き込んだ権力争いが持ち上がろう」
男が立ち上がり、目の前の壁に手を当てる。向こう側にいるであろう老いた仲間を労るように木目の筋を撫でた。
「ガーベイ、決してはやまったことをするでないぞ。お前の育てた弟子は簡単に潰されはせん。組織の結束を強めてこそ、彼もいつか戻ってこられるのだ」
身じろぎする気配が伝わってくる。たぶん返事の代わりに頭を下げたのだろう。そう察し、男は聖廊への扉を押し開けて個室祈祷室から抜け出した。
聖廊の先には簡素な飾りを掲げた扉が立ちはだかり、彼の行く手を遮っている。その扉が微かな音を響かせた。ノックの後に届いたのは彼を呼ぶ若い男の声である。戻る時間が来たと告げる声はひどく素っ気なかった。
「判っている。そう急かさずとも、いつも時間は守っているではないか」
彼の足音で距離を測っているのだろう。扉は絶妙のタイミングで開き、迎えに来た青年の姿を露わにした。目深に被ったフードから覗く青白い顎の線がきつい。緊張のためか、あるいは無言のうちに不服従を訴えているのか、沈黙を守る青年は顔も上げずに迎えた男を外へと促した。
羽織った長衣の袖口から覗く衣装は高級品で、青年が裕福な神殿の神官であることを物語る。出迎えを受けた男も高価な品を身につけているが、やや日焼けした顔がどことなく庶民臭さを感じさせた。
「司祭長様ご自身でこのような末端近くの神殿礼拝堂に出向かれるのは感心しません。このようなお役目は下の神官にお申し付けください」
「せめてもの息抜きだ。そう固いことを言うな」
「下々の者と関わるのもほどほどになさって欲しいものです。司祭長という地位の格が落ちてしまうではありませんか。その辺りをご自覚ください」
冷たい声に司祭長は口の端を歪める。神殿も王宮も権力を求めるという意味においてはそう大差はなかった。派閥に属し、徒党を組んで富と名誉を求めながら、その中でも秘かに足の引っ張り合いをする。そんな世界を何十年も眺めていると、この国を支えているものはなんだろうかと首を傾げたくなった。
「ここでのあなたの存在は民に知らせぬほうがよろしいかと。フードを被ってお顔を隠してください。奥聖廊を抜けたら馬車に乗るまで気を抜かれぬよう」
口うるさく注意する青年の言葉に従い、彼はフードを目深に被って廊下を進む。しかしよく観察すれば、この二人の身分をおおよそ予想できるはずだ。
「ここまで隠し立てると命を狙われているような気分になるな」
「実際に命を狙われてもおかしくないのではありませんか? 権力の甘い蜜に群がる者にとっては、それを邪魔しようとする輩は始末するに限るでしょうよ」
つんけんとした口調で返事をする青年だったが、廊下の突き当たりに到着して馬車まで移動する段になると、振り返って仕える主人の全身を眺め回した。
「先に出て様子を見てきます。危険がないと判断できたら……」
「調べたから安全になるという類のことでもなかろう。人目がないことを確認したからこそ祈祷室まで呼びに来たのだろうが。お前は心配性すぎる」
不満げな青年を促し、司祭長は悠然とした足取りで建物の外へと歩み出る。素早く周囲を見回したが、特に不審な点はなかった。
「急ぎましょう。あなたほどの身分の方がこのような末端の礼拝堂にいるなど下々の耳に入れば、聖刻を授けてもらおうと縋り付かれて動けなくなります」
「そうなったらそうなったときだよ。脱出方法はいくらでもある」
「シャンバラード司祭長! あなたはのんびりしすぎです」
顔を真っ赤にして怒る青年をなだめすかし、司祭長は飄々と目的の場所に向かう。付き従う若者は文句を呟いていたが、視線は常に周囲を警戒して注意を怠ってはいなかった。ほどなく馬車が見え、二人の口から安堵の息が漏れる。
「ところで司祭長様。今度の花嫁選びはどなたが選ばれるのでしょう?」
馬車に乗り込み、御者に出発の合図を送ると、青年の役目は一段落した。安心感から口を突いて出た言葉の陰に興味本位の好奇心を読み取れる。司祭長は苦笑を浮かべ、神話が伝える一節を思い出した。
「左手に妻神を抱きし大神は支配の神錫を掲げて睥睨す、か」
王妃の席は国王の左側と定められているのはこの一節に由来する。国王の左半身、つまり心臓がある側を守るという意味合いもあった。しかし、今回の騒動で王太子を支えるに足る娘が選ばれる可能性はあるのだろうか。
「選ばれる娘も王太子殿下も、この王国にはただの駒だというわけか……」
馬車の揺れに身を任せ、司祭長は震える垂布の隙間から街を眺めた。大市から離れたこの一画は、個室祈祷室の列廊と同じ静けさに満ちている。
男の内心を嘲笑うように響く車輪の騒々しさに追い立てられ、馬車は白亜の神殿のひとつへと吸い込まれていった。
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