ガタガタと鎧戸が揺れる。外は嵐だ。きっちりと閉められているはずの窓からは笛の音色に似た甲高いすきま風が吹き込み、わずかな狭間すら侵そうとする嵐の凶暴さを室内にいる者に伝えようとしていた。
「見つからぬ、と……? 陣中が火災に見舞われたとき、あの娘は居なかったのであろうが。であれば、己の力を使ってどこかに逃れたはず。そう遠くには行っていないのだから、噂にならぬはずがあるまいが!」
黒檀の机を肉厚の拳が乱暴に叩く。持ち主の苛立ちを表現するに相応しい騒音が響き、机の下に跪く者を怯えさせた。
「それらしき人物が捕らえられたといった話は出てきておりません。また奴隷商人たちにもそれとなく当たってみましたが該当する娘は見つかりません」
「だったらどこへ消えたのだ! あの国のどこかにいるはずなのだ。たった独りで! なんとしても見つけ出せ。強欲なポラスニア人にあれの価値など判るものか。我が手に取り戻すのだ。ようやく邪魔者を消したのだからな!」
恐縮した様子で退室する男の背を睨み、部屋の主は忌々しげに舌打ちする。
先ほど机に叩きつけた拳がまだじんわりと痛みを訴えていた。怒りに任せてのことだったが、やり慣れないことはするものではない、とつくづく思い知らされる。それだけ余裕をなくしているのだと判断せざるを得なかった。
「見つけなければならぬ。国庫の金を浪費する愚かな王妃も、それに丸め込まれる無能な王も、思う存分に始末したのだから」
ひっきりなしに窓を叩きつける嵐の叫びは部屋の主の呟きすら掻き消しそうである。いや、扉の向こう側に立って盗み聞きする者がいたのなら、まず間違いなく聞き取れるような声の大きさではなかった。
「それにしても役立たずな者どもよ。人ひとり見つけられん。あの娘に付けておいた騎士どもも帰ってこぬ。あれほど守り通せと申しつけておいたものを」
柔らかな天鵞絨張りの椅子に身を投げ出し、男は天を仰ぐ。太り気味のその身体を受け止めた椅子はほんの少し居心地悪げに身じろぎしたように揺れ、その後は厳しい修行に耐える僧侶のように静まっていた。
「市井の者に拾われたわけでもない。奴隷商どもの手にも渡っていない。となると、やはりポラスニアの貴族どもに囲われたか? それでも、あれだけの器量の娘を黙って囲っておくはずもない。……どこに消えた?」
男は両手を組み、机に肘をついて自身の顎を支えながら口許を覆い隠した。
「おのれ、ポラスニア人め。どうしてくれようか。予想以上の打撃を我が国が被ることになろうとは。しばらくの間は撃って出ることもままならぬわ」
憎々しげに吐き捨てた男の顔はどす黒く染まっている。頭に血が上り、男の理性の一部を吹っ飛ばしたようだ。他に誰もいない室内に彼の独り言が溶ける。
「こんなことなら、まわりくどいことなどせず早々に国王を暗殺しておけば良かったか。いや……。やはり、あの娘に青水晶とやらを手に入れさせねばならなかったのだ。不安定な力のままではどこまで寿命が続くやら判らぬ」
口許の手を解き、指が白くなるほどきつく握る。こみ上げる怒りと焦燥に、自分の顔がどれほどひどい有様になっているか、彼は気づいていなかった。
「クソッ! 流れてくる噂と間者からの報告だけでは埒があかぬわ。あの老婆から知らされた内容が確かであれば、あの地に青水晶がある限り娘は必ず惹かれて近づくはず。そこを保護して連れ帰るしかあるまいな」
ブツブツと呟く声はともすると嵐に掻き消されそうに小さい。いつの間にか、虚空から暖炉の炎へと視線を転じた男は弱まった揺らぎを睨みつけていた。
「それにしても、焚き付けるだけ焚き付けてどこに消えたのだ、あの老婆は。警護の厳しい屋敷から抜け出すとはただ者ではあるまいが……。いや、今さら取り逃がしたことを惜しんでも致し方ない。今は雌伏のときよ。あの娘が無尽蔵の魔力を手に入れた暁には、ポラスニアなど一瞬で焦土に変えてくれよう」
目が据わった男の顔つきは、何かおぞましい存在に取り憑かれたかのように歪なものである。人であるのか、魔物であるのか、疑いたくなるほどに。
「ポラスニアからの情報をさらに集めねばならんな。特に貴族……いや大公どもの動向には細心の注意を払うよう命じておくか」
ふと口をつぐんだ男は胸元をまぐさり、懐から一本の小さな鍵を取り出した。
机の一番上の引き出しの鍵穴に差し込み、そっと引き出しを開く。今までの凶暴な表情を弛め、彼は愛おしむように引き出しの中を覗き込んだ。
「そなたを奪っていった愚鈍な従兄は始末したよ。仇をとったのだ、嬉しかろう。それから、そなたの産んだ娘はきっと取り戻すぞ。そして、この国の……いや、周辺国すべてを平らげ、広大な地を支配する女王となるのだよ」
どこか夢見るような目つきで見おろす先には、陶板に描かれた優美な女性の姿絵が収まっている。白金色の髪を緩く結い上げ、薄い色素の瞳に憂いを湛えた視線が儚げにこちらを見上げていた。
ゆるゆると昇っていく太陽は曇天の狭間に隠れるように輝いていた。か弱い光に照らされる海原は、空の色を写し取ったかのように鈍い色合いで波頭をうねらせている。雨を呼ぶ雲は、今はまだ水平線の彼方でわだかまっていた。
「風予見をしているのか、リド・リトー?」
山頂の端に腰を下ろす男の背にひっそりとした声がかけられた。すでにその声を聞く前から背後の気配に気づいていたのだろう。驚く様子も見せず、彼は小さく頷いて見せた。振り返ったり、返事をしたりする気はないらしい。
「大陸に渡らなくていいのか? ホーマはともかく、サツキノはひとりでは戦えぬと思うが。まして、彼らは己に関係のない戦いを強いられているのに」
「俺は止めた。勝手に大陸に渡り、無駄な戦いに関わりを持ったのは奴らだ。俺たちの与り知るところではない。放っておけ」
後ろの気配が息を飲み、激しい動揺を表すように呻き声を漏らした。
「まさか見殺しにする気か? あの争いの元凶は私なのだぞ。それなのに私に無視しろというのか、お前は」
「諍いの種はお前じゃない。バチンがくだらぬ嫉妬心から暴れているだけだ。俺が出向いていかずとも、どうせ長老どもが動く。何も問題ないし、それでいいだろうが」
「無関係な人間まで巻き添えにして暴れているのだぞ! ただでさえバチンは人を虐げ続けてここまで来ている。このままでは人は滅んでしまうかもしれない。そうなったら、我ら一族とて無事に済むかどうか……」
焦る声を遮り、リド・リトーの右手が挙がる。たったそれだけの動作で相手を威圧できる空気が彼の周囲にはまとわりついていた。
「風が動いている、アイン。お前がどう感じているにしろ、俺たちはいずれ巻き込まれるだろう。だが、今はそのときではない。判るだろう?」
「急に真名を使うな。誰が聞いているか判らん。それより何を判れというのだ。いずれ巻き込まれるのなら今すぐ助力すればいい」
「うるさい奴め。宝馬には仲間たちがついている。そして指針である皐月野はお節介にも自ら進んで争いに関わるだろう。彼らは人々の間で伝説になる。その潮流が確かなものになるまで、俺は動かない」
不意に振り向いた男がうっすらと笑みを浮かべる。顔立ちそのものは平凡であるが、暗緑の瞳に宿る光は鋭く、見る者に畏れを抱かせるには充分だった。
「お前は動きたそうだな、アイン。だが今はまだ許さない。お前が奴らを気に入っているとしても、お前の主人はまだ俺だ。“聖なる息子”に選ばれた竜はお前だけだということを忘れるな」
崖っぷちから立ち上がり、男は東に広がる大海洋を見渡す。ざんばらの黒髪が荒磯から一気に吹き上がってくる風に弄ばれ、千切れそうなほどだ。
「すべての始末が終わるまで。俺が解放の言葉を囁くそのときまで、お前は俺の下僕だ、我が竜よ」
「そんな必要はない。私は消滅するまでお前に従う。今さら解放されたとて私に何ができるというのだ。狩人は裁き司。神が滅んだこの時代、もっとも神に近い場所から理の鉄槌を下すのみ」
再び振り返った男の顔の中で暗緑の瞳ばかりが異様なほど強い光を放つ。引き結ばれた口許に先ほど浮かんだ笑みはなかった。
「そう皐月野に言ってやったらどうだ? あの女はお前を気に入ったらしい。いずれ宝馬の意向など無視して動く。俺が何もせずともお前は解放されよう」
「リド・リトー、お前は忘れたのか。あれはホーマの女だ。情が厚いばかりに私の不具が物珍しいだけで、私に対して働きかけることなどするはずがない。竜王人の血に縁があろうとも、所詮は人。交わらぬ血よ」
苦い声がアインから漏れる。それをリド・リトーは鼻で笑い、軽く一蹴した。
「それはどうかな。彼らの故郷では、彼ら自身は占の大巫女に選ばれた者どもだというぞ。その驕りがあろうさ」
嘲り混じりの苦笑はどこか冷たい。哭き騒ぐ風すら凍りつきそうだった。
「だが、その占言により宝馬の女は訶梨と定められ、皐月野は占の大巫女にと望まれた従妹に過ぎないとも聞いた。宝馬が皐月野をさらおうとも事態に大差はない。それが彼らの現実だ」
「彼らは示された道から逸れようとしているではないか。彼らが己の意志で大陸に渡ったように、定めを変えようとするなら自ら動くしかあるまい」
「お前の言うことは正しいよ。しかし、同時に間違っている。変えようと動くことこそが、定めに沿っているかもしれないと気づかないのか?」
アインが小さく息を飲む。それと察したリド・リトーが傍らへと歩み寄り、強張った白い顔を覗き込んで哀れむように囁いた。
「すべての宿業は初めから決まっている、としたら? それでも逆らえるか?」
反射的にアインは目の前にある暗緑の瞳を睨む。沸き上がった怒りをそのまま口にする直情的な言動には、まったく余裕が感じられなかった。
「リド・リトー、初めからすべてが決まっているのなら、私という存在を生み出した宿業などなければ良かったと思わないか? 逆らえぬ業に踊らされているだけだと納得できるほど、私は出来た存在ではないぞ」
「確かにお前にしてみれば、初めからすべてが定石通りに動いている遊戯板の駒だと言われたら、腹立たしいことこの上ないだろう」
「だったら! なぜ初めから決まっているなどという戯れ言を……ッ!」
視線が外され、リド・リトーは姿勢を正すと荒々しい風に相対する。今の彼の瞳は夢見るように茫洋としており、傍らにアインがいることすら忘れていそうだった。遠い、遙かなる涯を見つけるかのような横顔である。
「風予見はもっとも高い確率の未来を見るだけだ。だから、俺が話をしたようにすべてが確定しているという仮説は、俺たちの理論ではあり得ない。確率の低い未来も存在するというのが俺の見立てだからな。しかし、人はときに信じたがる。すべてが決まっている、何もかも神の思し召しなのだと」
再び山頂の端に近寄り、リド・リトーは崖下の荒れ狂う波頭を見おろした。その視界の端に赤い色彩が踊る。それは小さく手招きするように揺れる鮮やかな花だった。山頂の岩にしがみついて咲く多重の花はどこまでも可憐だ。
「初めから決まっていたことだと信じる者には、それはどこまでいっても定めに沿った世界だ。俺たちがどれほど未来は不確定要素に満ちていると説いたところで耳に入ることはない。……バチンがその良い例だ。あれは己の信じるものしか見ようとしない。そういう輩とやり合う覚悟はあるのか、アイン?」
背後にうずくまる気配から返事はない。リド・リトーは華奢な赤い花から視線を流し、岩場のあちこちを眺めた。意識して見ると、赤い揺らめきが点在している。その中に、同じ形ながら真っ白な花弁を揺らす花が存在していた。
「宝馬もまたバチンと同じ。あいつは己の信じるもののためにしか動かない男だ。信じているものと己が同じ方向を向いているときはいい。しかし、まったく噛み合わなくなったときの悲劇を想像してみろよ」
リド・リトーが肩越しに視線を投げて寄越す。冷めた瞳はどこまでも深く、見つめる先にあるものの本質を貫くように鋭かった。怯み、口をつぐむアインから反論が飛び出すことはない。それを察し、彼はなおも続けた。
「お前にその覚悟がないうちは大陸に渡っても意味がない。俺にとっての世界は俺たちが自由であることだ。他の輩などどうでもいい。なぁ、判るか、アイン? 俺もまた俺の望む通りの世界しか見ようとしない者の一人だ。それはお前も、皐月野も、長老も、誰も彼もが持っている心なんだ」
リド・リトーの視線の先でアインが俯く。綿毛のように柔らかな巻き毛がたなびく煙のように荒風に弄ばれた。気まずい沈黙が辺りに満ちる。
「だから俺は宿業は初めから決められていて、抗うことを許さぬ強固さで現存すると言っているのさ。俺たちが世界を望むように変えようとする行いは、他者から見れば傲慢極まりない。だが俺たちには必然だ。彷徨える羅針盤は磁極を指しているのではない。磁極があると錯覚しているだけだってことだよ」
痛いほどの沈黙の中で、引きつった悲鳴のような風ばかりが天空へと吹き上げた。寒々とした曇天は虚しいほどに空っぽで、渡る鳥の影すらない。
「……なぁ、アイン。お前は白と紅、どっちが好きだ?」
唐突な問いかけにアインは顔を上げた。なんの話か咄嗟には理解できない。眉間に皺を寄せると、リド・リトーは崖下を指さし「花の色だ」と短く答えた。
「突然なんだ。花などどうでもいい。今は……リド・リトー!? 何をする!」
アインの目の前で、男の身体が虚空に舞う。止める腕を伸ばすのも間に合わず、引き締まった身体は岩場の下へと落ちていった。
アインは転げるように山頂の端に駆け寄る。身を乗り出して下を覗き込むと、視界を遮るように紅と白の色彩が溢れ返った。
「きれいに咲いていると思わないか? 今年はいつもより数も多いから、少しばかり花精から失敬しても文句は言われないだろうさ」
悪戯げな笑みが花の向こうから覗き、唖然としているアインの頭上へと移動していく。目を見開き、その動きに応じて首を巡らせば、いつの間に呪文を唱えたのか、風の術を使った魔力をリド・リトーから感じ取ることができた。
ゆっくりと虚空を歩き、鳥が舞い降りるように山頂へと降り立つと、リド・リトーは指先で花の茎を弄びながら馥郁とした香りを嗅いでいる。己の下僕がどれほど肝を冷やしたのか知らぬげな態度に、アインは眉をつり上げた。
「どうしてそう、お前は訳の判らぬ行動に出るのだ。こっちの身にもなれ!」
「俺がこんなことでくたばるものか。この程度のことで狼狽えるな。大陸に渡ればこんなものでは済まされないほどの危険に見舞われるんだぞ」
まったく反省していない相手をさらに詰ろうと口を開きかかったアインだったが、あまりにも泰然としたリド・リトーの態度に気が削がれ、沸き上がったはずの怒りをため息とともに放り出した。
「花など愛でて、どういうつもりだ。普段なら見向きもしないだろうに」
「乾期を代表する花なのに、雨期間近のこの時期によく咲いていると思ってな。珍しいだろうが。……それで、白と紅、どっちが好きだ?」
「どっちでもいい。私は花を愛でる趣味などない。どちらを好きかと問われても答えようがないというものだ。どっちつかず。まさに私そのものだな」
リド・リトーの眉間に皺が寄る。不快感を示すものというより内心の苦渋を押し殺すときの表情に似ていた。茎から花弁へと指先を這わせ、散り始めている花のひとひらを爪で弾く。花びらが力尽きたように散り、風に煽られた。
「生き直したいか、アイン? 俺の側にいる限り、お前は輪廻の理から外れている。だから魂の船には乗せてやれない。だがしかし、別の方法もある。器を再構築すれば記憶は失われるが、再びファレスとして復活できるぞ」
「いらない。復活したところで何が変わる。またあの選択の時間を迎えるだけのことだよ。私が同じ過ちを繰り返さない保証などないではないか」
嘆息し、リド・リトーは手にしている花々の残った花弁をむしり取る。荒っぽい仕草にアインが眉をひそめたが、取り立てて文句を言うでもなく、男の手で握り潰されていく哀れな花びらを見つめていた。
「どうして選ばなかった、アイン? 俺はお前に雄体を取れ、と伝えたろう。他の奴らの思惑など無視すれば良かったんだ。なぜ耳を傾けた!」
相手を直視できず、苛立ちから顔を背けたアインは瞼をきつく閉じて唇を噛みしめる。耳も塞いでしまいたい衝動に駆られた。塞いでも聞こえるのだから、それがまったく無意味な行為だと知ってはいたが。
「アイン。お前に罪があるとしたら俺の下僕なのに命令に従わなかったことだ」
「選択は主人ではなく私の意志が尊重されるはずだ。……そうだろう? 選択の時、他人がそれを強制することは許されないと教えたのは、他ならぬお前だったではないか。それなのに、今そのお前の口から罪と断じるのか?」
言葉に窮したのだろう。リド・リトーは沈黙し、あからさまに視線を逸らして俯いた。彼の腕は力無く垂れ下がり、掌中の花弁が一枚ずつ風に運ばれる。
長い永い沈黙が続いた。しかし、二人は先に口を開くことを恐れるように、互いを視界の端に忍ばせながら彫像のごとく突っ立ったままであった。
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