この世に雌雄の別があるように、あるいは光が強ければ強いほど闇が濃いように、平穏を願う心と裏腹に、人は戦いによって富と名誉を得る。
それは遙か古の神々が押しつけた業なのか。それとも人が自ら知らぬ間に望んだことなのか。命の分岐点で賽を振る運命の神ヴァヌスですら知り得ぬことであった。
そう、誰も知らぬことなのである。暁と黄昏の狭間に佇む小暗き神、ヴァヌスの隠されたもう一方の顔を誰も見ることができないように……。
ポラスニア王国暦二九六年、雨期。王国の大都、聖都ウクルタムはけぶる銀糸の洗礼をその身に受けていた。
王国一の面積を誇る大都市の上に落ちる冷たい天の恵みは、ここ貴人街でもひときわ眼を引く大邸宅にも等しく降り注ぎ、鋭角の屋根の勾配を撫で回した。
「こんな馬鹿げたことが赦されるものですか! 貴族の誇りがあれば、殿下も元老院も認めるはずがないでしょう!」
手にした書面を握る女の拳は小刻みに震え、それに同調するように歪めた薔薇色の唇も痙攣を繰り返す。眉間に盛り上がった深い皺が彼女の機嫌の悪さを言葉以上に証明していた。首筋を覆うレースの優雅さも台無しである。
「どういうことなの! 説明おし、ケル・エルス」
書面を手渡した後、扉の近くまで下がっていた若者が慇懃に頭を垂れた。
「そこに記してある通りです、母上。黒耀樹家のナスラ・ギュワメを次期当主とするよう、王太子殿下ならびに炎姫公、水姫公両閣下から勅が下りました」
「そんなことは見れば判ります! あの忌々しい泥棒猫がどうして栄えある黒耀樹家を継ぐことができるのか、それを説明しなさい」
「父上のご遺言により、当主亡き後は直系男子の最年長者が次の家長となることに決まっておりますので。兄上は遺言を残しておいでにならないのですから、父上の遺言が優先されることになりました」
女はカッと目を見開き、手の中にある書面を握り潰した。
「あの薄汚い子どもは庶子ではないの! 直系男子ではない者が家長になるとはどういう意味ですか。ここ数ヶ月、王家の方々と元老院が会議を重ねた結果がこれですか!? どう考えて慣例からはずれているでしょうに!」
「いいえ。間違いはございません。兄上は自らナスラ・ギュワメを正式な騎士に叙しました。兄上の騎士たちが証人です。彼は今、貴族なのです」
見開いた瞳をさらに大きくし、女──元黒耀樹公妃にして前黒耀樹公母リウリシュは恐怖と怒りをない交ぜにした表情で息子の冷めた顔を見つめた。
「ワイト・ダイスが直々にあのふしだらな女の息子を騎士にしたと? そんなばかな! あの子がそのように愚かな真似をするはずがありません。第一、正式な手続きも踏まぬのにどうして騎士になどなれるのですか」
「証人は兄上の騎士ばかりではありませんよ。その場には炎姫公閣下の騎士も含め、十名以上の騎士が証人として居合わせています。それ故、簡略ではありましたが、ナスラ・ギュワメを正規の騎士として叙する妨げにはならぬと判断されたのです。これは元老院の法務官殿も承認せざるを得ません」
暖炉の炎に舐められ、薪がゴトリと崩れ落ちる。その勢いに煽られ、炎が大きく揺らいだ。鮮やかな黄金色が元公妃の左半身を染め上げ、落ち着いた濃紺のドレスにまだら模様を緩やか描き出す。硬直した室内の空気にそぐわぬ炎の踊りは、どこまでも情熱的であった。
「母上? お顔の色が悪いですよ。気付け薬にワインを持ってこさせましょうか? それとも横になったほうが楽になりますか?」
言葉遣いは丁寧だが、息子のケル・エルスの表情には母親を気遣っている気配が見えない。無表情な彼の顔立ちは一流の細工師による精巧な仮面のそれと同じだった。母親と同じ薄茶の髪に縁取られた顔の中では、茶色の瞳が目の前で寝椅子に座り込む女の様子をつぶさに観察している。
「なぜダイスはそのような……」
「私には知り得ぬことです、母上。兄上の考えは兄上にしか判りますまい」
青ざめた顔ながら眉をつり上げ、リウリシュは勢いよく立ち上がって二番目の息子を鋭く睨んだ。寄る年波には勝てぬが、それでもなお彼女の姿は貴族のもので、表情の険しさと怒りに強張った身体でなければ賛美されたろう。
「何を暢気なことを言っているのです! お前の兄が継いだ座がどこの馬の骨とも知れぬ狼藉者に奪われたというのに、よくも平然としていられますね」
「私に何ができると仰るのですか? これからは異母兄に仕える身なのですよ。母上もその辺りをわきまえたほうがよろしいのではありませんか? 贅を凝らした暮らしも次の当主の心積もり次第なのですから」
「黙りなさい! わらわは認めませんよ。あのような無頼の輩をワイト・ダイスの次に据えるなど我慢なりません! ケル・エルス、あなたもダイスの弟なら奪われた地位を取り返す気概を見せたらどうなのです!」
小さく肩をすくめ、物憂げにため息をついた息子の姿にリウリシュはいっそう苛立ちを募らせた。兄のワイト・ダイスは完璧な子だったというのに、この下の息子はどうしてこう反抗的なのだろう。
「ナスラ・ギュワメ自身は大公位に就かなくても気にも留めないでしょうね。しかし、父上の遺言があり、兄上から叙せられた騎士爵を持つ以上、彼には大公家に連なる者としての責務が発生します。それを妨げることは容易ではありませんよ。そんなことくらい母上でもお判りでしょう?」
「言われなくても判っています、それくらい。その障害を取り除く努力をしなさいと言っているの! あなたはワイト・ダイスの同腹弟なのですよ。あの汚らしい私生児とはわけが違います。しっかりしなさい!」
「他の二大公も元老院も認め、王太子殿下直々のご命令だと申し上げたでしょうに。よくお考えください、母上。この状況を覆すには、ナスラ・ギュワメが姿をくらますか命を落とすか、あるいは謀反を暴かれるかしない限り無理な話ですよ。……そして、今の時点でそのような事態はあり得ません」
歯を食いしばり、唇を歪めていたリウリシュはそれでも諦めきれずにいた。怒りに我を忘れそうである。しかし、そこで取り乱したところで事態が好転するはずもないことを、彼女は経験から学んでいた。
暖炉に近づき、炎の端にかけられた鉄鍋を鍵棒で取り上げると、ほどよく温まっている蜂蜜入りのワインの芳香を殊更ゆっくりと嗅ぐ。ささくれた気分が少しだけほぐれ、彼女は強張っていた肩から少しだけ力を抜いた。
「待っているだけでは何も起こりませんよ。傍観者でいるうちに猟師はあなたの目の前から獲物をかすめ取ってしまうのですから。野兎を手に入れるためには猟犬をけしかけるか、鷹を放つかして獲物を追い詰めるだけでなく、獲物を奪おうとしている野狐を仕留めてしまうことも必要です」
リウリシュは自分用に革と羊毛で作らせた鍋掴みを手に取り、暖炉脇の小卓に置かれた銀杯に鍋の中身を注いだ。こちらの酒杯も彼女用に特別にあつらえたもので、杯脚と持ち手の銀細工は煙水晶で覆われている豪華な品である。
「示唆に富んだご指摘、ありがとうございます。ですが、野狐もばかではありませんよ。仕留められにノコノコ足下に出てくるはずもない」
「だからこそ、狐獲りの罠を人間は発明したのではありませんか。野兎を狐と分け合えるはずがないのですから、邪魔な狐には消えてもらわなくてはね」
舐めるようにワインをすすると、リウリシュは息子の反応を伺った。
暖炉から遠く離れた扉の近くに佇むケル・エルスの表情は、部屋中の燭台の上で揺れる蝋燭の灯火を受けてもハッキリとは読みとれない。忌々しいことに、リウリシュはこの二番目の息子の内心を計りかねていた。
「昔、母上のために新しい薔薇を作った庭師がいましたよね。……彼が作り出した薔薇は、確か血が滴るような深紅の薔薇でしたか」
「え、えぇ。そうだったわ。そのようなことをしてくれた者もいたわね。随分と昔に辞めてしまったのだけど。よく憶えていましたね」
急な話題にリウリシュはそっと顔をしかめる。暖炉の炎で温まったはずの身体がザワリと震え、全身の毛穴が開いたように冷や汗が流れる。
室内はふんだんに蝋燭を使っているお陰で夕焼けのごとく明るいはずなのに、彼女の周囲だけはなんとも言えない暗がりが広がり、奇妙な沈黙が落ちる。その居心地の悪い沈黙を破ったのは若者のほうだった。
「同じ薔薇という植物でも違う品種をかけあわせてより良い品種を作り出すことができます。混ざり合うことで良くなることだってあるでしょう」
実の息子は義理の息子と上手くやれと言いたいのだ。持ち出された話題に漂う匂いを嗅ぎとれる。胸にあった動揺が一瞬で弾け、怒りが取って代わった。
「出来の良い品種同士ならそれも可能かもしれません。ですが、腐りきったものをどう活用しようと、良いものなどできはせぬのです。ケル・エルス、あなたはいつまでそうやって後込みしているつもりですか? 兄上の地位を取り戻しなさい。それが実の弟であるあなたがやるべきことです!」
ピシリと言い返し、リウリシュは息子の顔を睨みつける。視線の先であからさまにガッカリしている若者の顔を見ていると腹が立って仕方がなかった。どうしてこの子はこんなに意気地がないのか。やはり父親が……。
「エルス。可愛い息子よ。母の仇を取ってちょうだい。あの女の息子にあなたが劣るはずがないわ。これはあなたにしかできないのよ」
先ほどとは打って変わった懇願の声を出し、リウリシュは息子に切々と訴えた。それが功を奏したのか、若者が決意したように顔を上げてた。
「母上はナスラ・ギュワメを陥れろと、そうお命じになるのですね?」
「まぁ、陥れろだなどと。あの者が本来いるべき場所へ帰してやるだけですよ」
掌中の酒杯をゆるゆると揺らし、彼女は立ちのぼる芳香にうっとりとした。
本当は継子などこの手で引き裂いてやりたいくらいである。しかし、夫が認知してしまった以上、大義名分もなく手出しをすることは難しかった。
「命令でないのなら、これは母上からのお願いだと受け取りますが?」
「えぇ、その通り。情婦の産んだ子どもごときが、あなたの父親と兄とが就いた地位を脅かしているのですよ。女のわらわでは外出もままなりませんし、他の殿方への説得はあなたにしてもらわねばならないのですからね」
実際には非公式に貴族階級の者たちを呼びつけ、あれこれと注文をつけることはしょっちゅうである。だが、それをわざわざ疎遠になっていた息子に伝えることもあるまい。そのように些細なことは言わぬが花というものだ。
「母上の願い、しかと耳に届きました。これより黒耀樹家の安泰を計るべく、骨身を惜しまず働きましょう」
相手からの返事に女が鷹揚に頷くと、ケル・エルスは宮廷作法の手本のように完璧で、見る者に吐息をつかせる優雅な動作で腰を折る。
こういうところは父親や兄の無骨さが似なくて良かった。リウリシュは部屋の外へ滑り出していく若い背中を見送りながら、そんなことを考えていた。
さて、それにしてもこの先どうしたものだろう。王議会での決定を覆すのは容易ではない。よほどの失態をしない限りは義理の息子を大公位から引きずり下ろすのは難しいのが現実だった。何か良い案はなかろうか。
再び温かい蜂蜜入りワインを杯に注ぎ入れ、リウリシュは小さく嘆息した。
「忌々しい穢れ子め。そうとも、あの者さえいなえれば、わらわの人生はもっと平穏で幸福に満ちておったものを……」
握りしめた酒杯と掌がこすれ、細工の盛り上がりが柔肌に食い込む。ささやかな痛みに顔をしかめ、いよいよ不機嫌になった。
暖炉で揺れる炎を険しい表情で凝視していた彼女だったが、不意にその揺らめきが大きく乱れたことに気づいて我に返る。室内の空気が動いたのだ。
「そこにいるのは誰です! 出てきなさい!」
湧き上がった恐怖を隠し、リウリシュは押し殺した声で誰何する。その態度は威厳に満ち、つい今し方までのヒステリックな気配を感じさせなかった。
「お美しいご婦人がそのように声を張り上げてはいけません。あなたに益をもたらす者の訪問をもっとお喜びください」
侵入者の静かな声音に安堵したが、彼女は表面上、冷淡な表情を保った。
「大公家妃の部屋にこそ泥のごとく黙って忍び込んだ慮外者が何を申すのですか。衛兵を呼びますよ。サッサと出ておいき」
暗がりにうずくまる存在がクスクスと忍び笑いを漏らした。こちらの言動を物笑いの種にしている。そう直感し、リウリシュは瞳を細めた。
「よほど命が惜しくないとみえますね」
「いいえ、まさか! 命は惜しいですよ。ですから衛兵など呼ばないでくださいませんか。それよりも、あなたが得をする話をしたほうが有意義です」
「相手の利益になる、と明言する者に限って利己的です。己の利益を隠す者を信じるなど愚か者のすることですよ。消えなさい。そうでなければ……」
「こちらに何も利益がないなどとは言いませんよ。ですが、あなたにも利益があるからこそお誘いしているのです。我らと手を組みませんか? あなたは目障りな継子を退けられるし、我々は王宮の掃除ができる」
ずっと握りしめていた酒杯からワインを一口飲むと、リウリシュは小卓に器を置き、尊大な仕草で指を振った。
「話だけは聞きましょう。わらわがそれを気に入るかどうかは別問題ですけれどね。気に入らない話を持ってきたのなら、そのほうを処罰することにしましょう。くだらぬよた話に煩わされるなど、わらわには許し難い」
「なに、面白い話を聞くことができると思いますがね」
暗がりにいる者は相変わらずその場を動かない。リウリシュは暖炉で指先を温めるふりをしながら、視界の端で油断なく相手を観察し続けた。
「彼が僧院に押し込められた後、どこで何をしていたのかはご存じですか?」
「僧兵の資格を得た後、修練の旅を続けているとだけ聞いています。あちこち放浪しては気まぐれに夫のところに挨拶に立ち寄っていたようですが。それがなんだというのです? 私生児を各地に作っているなどという話なら驚きはしませんよ。いかにもあの薄汚い無頼がやりそうなことです」
軽蔑をありありと声音に含ませ、元公妃は冷たい視線を侵入者に向ける。見た目は指先を屈伸させてかじかみをほぐしているが、思い出した忌々しさに彼女は口許を引き締め、舌打ちしたい誘惑をねじ伏せるほうが忙しかった。
「確かに放浪していたのは事実ですが、それには目的があったのですよ。彼はクラウダ・ヌーン公の巡検使だったのですからね」
唖然としてリウリシュは暗がりの相手を振り返る。今、なんと言ったのかと。
信じがたい言葉を耳にした。噂でしか聞いたことがない巡検使というものが本当に存在し、またそれがまともに機能しているというのか。
政治向きの堅苦しい噂は、黒耀樹家のサロンに集まる貴婦人たちの口の端に登ることがほとんどない。それ故に今までは気にも留めなかったが、噂が事実だと言うのであれば、継子は裏社会に精通していることになる。
なんということだろう。修練の旅をしてはいても聖界に身を置く以上は政治的な人脈など持っていないだろうとタカをくくっていた。それが違うとなれば、あの忌々しい穢れ子を大公位から追い落とすのは不可能に近い。
「ご存じなかったようで。しかし巡検使というものがどういう存在かは知っておいでだ。それを知っているだけでもさすがは大公妃と評価できます」
「だ、黙りなさい! わらわの評判をとやかく言う資格を持つとでも言うのですか。女だからと侮っているのなら後悔しますよ!」
「これはご無礼を。ご婦人の中には着飾ることと美食に耽ることしか考えていない方もおいでですのでね。あなたがそういう向きの方ではないと知って、心から安堵したからこそ突いて出た戯れ言です。ご寛恕ください」
「……口の減らない者だこと。よろしい。話をお続け」
リウリシュは酒杯にワインを満たし、寝椅子へと戻ってきた。その途中、先ほど握り潰した報告書がドレスの裾に当たり、再び彼女の中に苛立ちを沸き立たせる。邪険にその紙屑を遠ざけ、彼女は柔らかな寝椅子に身を預けた。
そもそも噂には尾鰭がつくのが相場。真に受けるほうがどうかしているのだ。今まで彼女が噂を信じてなかったのも当たり前であろう。
それでもまことしやかに語られる噂話には妙な説得力があった。それが真実だったからなのだと、今更ながら苦々しく思い返される。
彼らの任務は多岐に渡り、王国の歴史に深く繋がっているらしいことだけは噂からも推察できた。だが所詮は噂であり、どこまでが事実か判らない。
「クラウダ・ヌーン亡き後、ナスラ・ギュワメは黒耀樹家を離れ、王太子の庇護下に入ったのですよ。王太子直属の巡検使としてね。ワイト・ダイス公は父親ほどには異母弟の巡検使ぶりを評価していなかったということかな」
当然ではないか。腹違いの弟とは最初からそりが合わないのだ。遠ざけるのが普通である。この侵入者は、少々おつむの回転が悪いらしい。
リウリシュは顎の下で杯を揺らしながら招かれざる者に視線を走らせた。
「実際、彼は非常に優秀だったようですよ。父親の巡検使時代に炎姫公とも面識を得、王太子からの仕事以外も数多くこなしています。それらすべて成功を収めているのですから王子には拾いものでしょう。……今回の任務までは」
含みを持たせた相手の言葉にリウリシュは口許を引き結ぶ。継子の活躍など聞いても嬉しくもなんともないが、最後の言葉には何かあると直感が告げた。
「残念ですね。彼は最後の最後でヘマをやらかした。とても大きな失敗をね」
暗がりから声が上がるのを待ち続けたが話の続きは出てこない。リウリシュは焦れ、それを隠すために寝椅子の上で身を起こしてワインを一口すすった。
「もったいをつけても何も出ませんよ。話の続きをしないつもりなら帰りなさい。興味深い話ではあるけど、秘密主義者を協力者にする気はありません」
「用心深いのはよいことです、リウリシュ妃」
「わらわの名を呼ぶ許可は与えていません。無礼な真似をするでない!」
「失礼。……彼がどんな失敗をしたか、聞きたいとは思いませんか?」
「そちらが勝手に押し掛けてきたのでしょう。喋りたければ喋りなさい」
リウリシュは小さく鼻を鳴らし相手から顔を背ける。継子の足を引っ張る材料が目の前に提示されようとしているが、相手に素直に従うのは癪だった。
小さく空気を振動させる笑い声が耳に届き、彼女は眉をつり上げる。またしてもこちらを笑い者にする気だ。許し難い無礼者め。我慢にも限度がある。このような輩を相手にしたのが間違いだった。
リウリシュは寝椅子から立ち上がろうと、腹と両足に力を入れた。
「あぁ、お待ちを。動くと危ないですよ。今しばらくご辛抱を」
何を言い出すのか。またからかおうとでもいうのだろうか。まだ半分以上残っている杯を傍らの卓に乗せ、彼女は相手に反発して立ち上がった。
が、そのとき。周囲でかすかな破裂音がいくつもこだまし、部屋中の燭台の炎が次々に消えていった。ギョッとして立ちすくむ彼女の横顔を照らすのは暖炉の暖かな炎の輝きだけで、室内はほとんどが闇に浸食されている。
「このほうが内緒話には相応しい。……さぁ、これをお受け取りください」
鼻腔を刺激する甘やかな芳香に視線を落とせば、いつの間に近づいたのか侵入者がすぐ傍らに佇み、真っ赤な薔薇を差し出していた。
「言い伝えに乗っ取り、薔薇の下の秘密を共有しようではありませんか」
目の前で暖炉からの光だけでみてもハッキリ判る。この薔薇はリウリシュのために改良された、あの深紅の薔薇だ。見間違えるはずがない。
二番目の息子といい、この侵入者といい、なぜこうも薔薇を話題にするのだろう。あの庭師の男のことで何か知っているとでも言うのだろうか?
燭台の灯りが消えただけで室内が一気に冷え込んだ気がする。背筋を這い登ってくる悪寒にリウリシュは身震いしそうになり、思わず頬肉の裏側を噛み締めて恐怖に耐えた。ここで弱みを見せるわけにはいかないのだから。
「わらわの名を冠した薔薇を携えてくるとは、どこまでもふざけた輩ですね。そのようなものに頼らずとも守る価値のある秘密なら進んで守ります」
「それは重畳。女性の多くは口が軽いですからね。あなたのような方ばかりだったら少しは世の中も救われるでしょうに」
初めて口を開いたときから、この者の口調は柔らかく淡々としている。しかし、その声音の奥底には他者を、特に女性を蔑視している気配が感じられた。
息子ケル・エルスにも共通する、退廃的な中にも他人を値踏みするような排他感を伴った匂いがぷんぷんする。息子と同類ならこの男も……。
人の噂に上る下の息子の行状を思い出すと、知らず表情が歪んだ。おぞましい性癖をどこで身につけたものか。継子を片づけた暁には性根を鍛え直さねば。
胸に沸き上がった嫌悪を消すため、リウリシュは目の前の薔薇を奪い取ると、芳醇な香りを鼻腔いっぱいに満たした。庭師がはにかみながら手渡したときのことが思い出される。あの男も純朴なままであったなら良かったのに……。
「話を続けましょうか。ここまでも興味深い話だったでしょう? お耳を拝借できれば、もっと愉快な話を聞くことができますよ」
目深にフードを被った男は顎の辺りだけを暖炉の炎にあぶられ、ゆるゆると微笑みを浮かべている。口調の柔らかさとは別種の粘液質な気配は、獲物を捕らえようと罠を張る蜘蛛の糸のようだった。
「よろしい、話しなさい。ここには我らと薔薇しか聞く者はおりませんから」
男のフードがずいと近づく。仄かに相手の衣服から煤けた匂いがした。だが、些細なことに囚われていた意識は耳にした話の内容を聞くうちに遠ざかり、抑えようのない興奮によって完全にうち砕かれたのである。
「おぉ……。それがまことであるのなら、わらわにも勝ち目があろう」
リウリシュは薔薇の茎をきつく握りしめた。棘と余分な葉は取り除かれていたが、長く伸ばされた爪がそこにあったはずの棘の代わりとばかりに掌に食い込んでいく。その痛みも忘れて、彼女は愉悦の表情を浮かべたのだった。
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