第12章:密議
冬の日差しは弱く、窓を開けても意味がない。部屋の主人は早々に戸を閉めて、暖炉の前の住人になってしまった。
椅子に腰を降ろした彼を待ちかまえていたように、低い男の声がかけられた。
「選王会の時期をこれほど早められるとは……。何を考えておいでになるのですか」
顎髭を撫でつけながら、年老いた男が苦々しげに口元を歪めた。厚手の羊毛と柔らかな山兎の毛で織り上げられた灰色の衣装、彼の真っ白になった髪は、それ自体が光を放っているように輝かしい。
「聖衆王の地位を降りると言っているわけではないさ。王位を譲る前に、後継者を決めて共同で統治できるようにしておく。前の聖衆王もそうだっただろう」
「しかし、共同統治の時期が長すぎますぞ。通例であればせいぜい一年ほど。今回の場合はいつもの倍の二年に及びます。周辺の諸侯どころか、聖衆の間にも混乱を招きかねません」
「そこを上手く取り持ってもらいたいと言っているのだ。ウード枢機卿、議院はそのためにも存在しているはずだが?」
暖炉の赤い炎をじっと見つめたまま、王と呼ばれた男は口元に蓄えた髭を撫でつけて笑った。悪戯を仕掛けてくるような笑みに、ウードと呼ばれた老人はいっそう口元と眉をしかめる。
「あなたの元で議長をやっていると、心労で倒れそうな気がしますな。この老いぼれを酷使して楽しゅうございますか?」
「貴卿にやれないはずはない。できねば王議会の選王侯を束ねている意味がないぞ。……トゥナが国力を上げてきている。さらに力をつける前に次の聖衆王を選ぶのだ。あれが圧倒的な力をつけた後に聖地の長が決まったのでは、こちらが喰われてしまう」
聖衆王の口元には笑みが浮かび続けていたが、その瞳は鋭さを増していた。冷徹とも取れる視線の切っ先は、目の前の老人ではなく、遙か彼方を見つめているようだ。
「さようでございますな。夏のリーニスでの勝ち戦以来、日増しにトゥナの親王派の力が強くなっていると報告を受けています。しかし、新たな聖衆王が決まれば、この聖地とて新旧の勢力で割れるやもしれません」
「選王会の時期はいつでも起こっていることだ。上手く御せぬようでは新たな王など務まらぬ。今回の新しい聖衆王を作り出す作業は、我ら王議会でも一年では無理だと判断したのだ。当初の予定より早めて選王会を行う」
「御意」
枢機卿ウードが微かに頷いた。それだけの仕草だったが、王は満足したように視線を一瞬だけ伏せ、再び瞼を上げた。今度は表情から笑みは消えている。
「そうなりますと、冬いっぱいを準備に費やし、選王会は春ということに。例年ですとトゥナとカヂャが戦を始める頃合いかと思いますが……」
王の表情はどこまでも相手から本心を隠しているような、つかみ所がないものだった。相手も心得たものなのか、別段気にした様子もない。
「春からの戦は始まるまい。聖衆王の選王会が始まるのだ。各国の王や特使たちが神降ろしを通ってやってくるだろう。カヂャにとっては夏に受けた痛手を癒す格好の年となろうがな」
「カヂャにも恩を売られますか。トゥナのシャッド候もその辺りを予測しておるでしょうな」
ウードの瞳が子どものようにキラキラと輝き始めた。どうやら身内の調整をするよりも、対外的なことで思考を巡らせるほうが好きな人物らしい。まるでチェスの試合を楽しんでいるような口振りだった。
ウードの様子に聖衆王がほんの一瞬だけ苦笑いを向ける。
「あれが脳天気にしているとも思えない。カヂャが兵力を蓄える以上に、リーニス地方の軍備を増強するだろうな。……あるいは、トゥナの宮廷に蔓延る寄生虫どもを今度こそ根絶やしにするか」
「それはいささか難しいかと。トゥナ貴族たちはミッヅェルやゼビと婚姻関係にある者も多いのです。下手に彼らに手出しをしては北方同盟にヒビが入りますからな」
ウードの答えに王は小さく頷いた。しかし、口をついて出たのは彼の同調する言葉ではない。
「だが建国以来の懸案であるワーザスとリーニスとの力関係が崩れ始めている。現在、副都にいる副王の権力は脆弱だからな。ここ数年のうちに完全にワーザスに取り込まれ、名実ともにリーニス領はトゥナ国領となるだろう。そうなれば、トゥナ候の地位は盤石だ」
王の横顔を揺らす暖炉の炎が不規則に身体を揺り動かして、王の顔に炎の影を刻みつけていた。その赤い影をウードがじっと見つめる。
「これまでもリーニスの副王などに権力はありませんでした。名ばかりの地位にございましょう」
「そうだ。名ばかりの地位だった。しかし、その名ばかりの地位と統治の権力を、あの副王は自らワーザスからやってきた若造にくれてやったのだ。今回は黒太子が統治権を返上したから良いようなものだが、あれが王となった暁には、副王の統治権などあるまいよ」
王の重い声に耐えかねたように、暖炉のなかで薪が燃え崩れ、ザラザラとかすれた音を立てた。それは二人の会話のなかに出てきたリーニスという地方が、トゥナ王朝の力の前に屈している様子を象徴しているように見える。
「……トゥナは勝ちすぎましたな」
「そうだ。勝ちすぎだ。国同士の均衡が崩れるほどに……。ところが、その勢いを遮るだけの力を今は誰も持っていない。御す者がいるとしたら、その手綱の元を握っているはこの聖地の長でなければなるまい?」
聖衆王の言葉を肯定して、枢機卿は深く頷き返した。細められた眼の奥では、計算高い瞳が鋭い光を放っている。
「まこと、その通りで。御身の娘御と黒太子との婚儀は、暴れ馬に轡を噛ませるには丁度良い時期だというわけですな」
「さて? どうだろうな。果たして大人しくなるかどうか」
クスクスと聖衆王が笑い声をあげた。面白がっている様子の王に、ウードも同調するように笑う。
「何を仰せです。陛下の娘御に黒い魔神は首っ丈だともっぱらの噂ですぞ。トゥナ中の女たちが、今頃は胸を掻きむしって悔しがっておりましょう」
「その噂が本当であれば、父親としては娘を取られても溜飲が下がるというものだがな。……では、ウード卿。聖地内にて触れを出し、すぐに諸国にも使者を出してもらえるか? 奴らの泡を食った様子を見るのが楽しみなのでな」
「心得ましてございます。トゥナに集まっている注目、そろそろ我が聖地へと取り戻さねばなりますまいて」
悠然と立ち上がり、衣擦れの音も静かに頭を下げると、ウード枢機卿は聖地の支配者の部屋から退出していった。
それを見送る王の顔には、表情らしい表情は浮かんでいない。淡々とした彼の態度から、今までの会話の本心がどこにあるのかを知ることは不可能であろう。銀髪の下の瞳は森の奥深くにある泉のように静かだった。
トゥナ王国がリーニスの朱の血戦で大勝した翌年、聖暦九九七年の年明けは、この通達により周辺の諸侯たちの間に、新たな緊迫を張り巡らせた。もっとも、それは周辺諸国のみならず聖地の内部をも揺り動かしたのであるが。
本来は厳冬期の静かなこの時期、聖地からの通達はその寂水の水面をざわめかせるに充分すぎるものであったのだ。
執務室に金と黒の二つの影がいた。黒い影のほうが小柄であったが、それでもどちらの影も平均身長はあるはずだ。
「副王はぁ~、お前の代にはなぁ~、廃止だろぉ? リーニスを併呑してぇ~、二百年だからなぁ。よい頃合いであろうぅ~」
のほほ~んと間延びした声が金色の影から漏れる。首を傾げて黒い影を見遣る瞳は、晴天の下に広がる海洋のような蒼色だった。
「朱の血戦での人選は、今回への布石だったんだな。まったく喰えない国王だ。副王の一族が地団駄を踏んでいる様子が思い浮かぶよ」
黒い影が小さく嘆息した。しかし、会話のなかの人物に同情しているというわけではなさそうだ。口元に浮かんでいる微かな笑みは、さも気味がいいと言っているように見える。
「ところで、いい加減にその神経に障るしゃべり方、やめてくれないか」
「うっふふ~。お前もマシャノと同じことを言うなぁ」
「それで直したつもりなのか?」
黒い影の発する声が明らかに低くなった。忍耐の限界を超えそうなのか、秀でた白い眉間によった皺が深い。
「ちゃ~んと聞き取れるだろぉ? 父はこういうしゃべり方なのだぁ~」
「嘘つけ! 俺が子どもの頃はまともにしゃべっていたじゃないか! イライラするからやめてくれ! 俺の神経を逆なでして、そんなに楽しいのか!?」
「ん~。リュ・リーンと話をすると楽しいなぁ~」
勢いよく立ち上がると、リュ・リーンは剣呑な瞳を父親に向けた。ほの暗い緑の瞳は、こういうとき凄まじいほどの殺気を放つ。見慣れていない者なら、とうに失神しているだろう。
「ほらほら~。そんな怖い顔をするなぁ。せっかくの美男子が台無しじゃないかぁ~」
「俺は顔の善し悪しなんか気にしてない! もう我慢ならん。そのしゃべり方を続けるなら、俺は自室に帰る!」
足音も荒々しくリュ・リーンは執務室の扉へと歩き出した。背後の父親のほうを一度も振り返らない。
「あぁ……。ミリア・リーン……。一人息子が余を見捨てていくぞぉ~。寂しいなぁ……。いっそ、お前のところに逝こうかなぁ~」
扉に手をかけていたリュ・リーンの背中が凍りついた。背後から聞こえる涙声に恐る恐る振り返ってみると、父親が椅子の背もたれにしがみついて、こちらをじっと見つめているではないか。
「別に見捨ててないぞ。そのしゃべり方さえどうにかしてくれたら……」
「ミリア・リーン~。息子が余を苛めるぞぉ。小さい頃はあんなに素直で可愛かったのになぁ。大人になって嫁をもらうとなったら、親は用済みなのかぁ~……」
「用済みだなんて一言だって言ってないだろうが。何を一人でひがんでいるんだ、このクソ親父!」
「やっぱり苛めるんだぁ~。父親って損だよなぁ」
しみじみとした口調で肩を落とすと、トゥナ王は椅子の背もたれからズルズルと滑り落ち、リュ・リーンの視界から消えた。大きな体で椅子の座面に丸まっているらしい。
「判ったよ。判ったから、その態度はやめてくれ。話を聞くから拗ねるなよ。いい大人がみっともないと思わないのか?」
リュ・リーンはこめかみを指先でグリグリと押し、大きなため息をついた。
どうしてか、母親の話題が振られると抵抗できなくなる。家臣たちはリュ・リーンの短気を怖れて口にしないが、この父親は平然と亡くなった王妃を持ち出してはリュ・リーンにかまいたがる。
ひょっこり首を伸ばしてこちらを見る父親の蒼い瞳が笑っていた。涙声などどれだけでも作れるし、この喰えない父親が本気で人前で泣くはずなどないと判っていても、リュ・リーンはどうしてか父の拗ねた態度には逆らい難かった。
手招きされ、リュ・リーンは大人しくそれに従うと、父親の隣りに腰を降ろした。まだ父親の体格のほうが大きかったが、以前の見上げるような身長差ではなくなっている。そのことが、リュ・リーンには新鮮に感じられた。
「リュ・リーン~。聖地で選王会が開催されるのは聞いているなぁ?」
「あぁ。予定よりも早い。聖地はこのトゥナがよほど怖いのか? 新しい聖衆王をサッサと決めて、その教育にかかりたいらしい……」
父親がよく使っている香料がリュ・リーンの鼻腔をくすぐった。顔をあげてみると、目の前に父親の顔がある。
「な、なにをしてるんだ?」
「ん~。リュ・リーンは~、目元以外はミリア・リーンに似てるなぁ~っと」
「あぁ、そう……。ちょっと待て。なにをしてるんだ、親父!?」
トゥナ王はリュ・リーンを抱き寄せると、くんくんと鼻を蠢かせて王子の黒髪の匂いを嗅いだ。
「う~ん。やっぱり匂いはミリア・リーンと違うか~」
「当たり前だ! 母上は花の香料を使われていただろうが! 俺の使っているものは香木だ!」
「チェッ。同じだったら良かったのに~。あぁ、そうそう~。それでなぁ、選王会はお前が顔を出せよ~。余はやることがたくさんあるからなぁ」
リュ・リーンを抱き寄せたまま、トゥナ王は息子の黒髪に頬ずりした。まるで幼子を可愛がっているような仕草に、リュ・リーンのほうが赤面する。
「やめろ! 気色悪い!」
「気色悪くない~。ん~、やっぱり息子はいいなぁ。娘じゃぁ、こんなことしていたら、婿どもに何を言われるか判らんしなぁ~」
「俺にだってカデュ・ルーンがいる! 離れろ、バカ!」
「そうそう~。そのカデュ・ルーン姫に会えるんだからぁ~。ちゃ~んと良いことしてもらってこいよぉ~」
首筋まで真っ赤になると、リュ・リーンは腕を振り回して父親の腕のなかから逃げ出した。肩で荒い息をしながら、黒髪の王子は握り拳を震わせている。
「ど、どど……どうしてそういう話になるんだ!? 俺と彼女はまだ結婚してないと、前から言っているだろうが!」
「放っておいたら他の男に盗られるぞぉ~? 選王会って言ったら、各国の男どもがウジャウジャ来るんだからなぁ~。知らないぞ~。彼女が他の男に寝取られてもぉ」
父親の言っていることは判るが、あまりに直接的な言い方にリュ・リーンはさらに顔を赤くした。
「バカなことを言うな! 聖地内で、聖衆王の娘に手を出す奴がどこにいる!?」
「ここにいる」
ゆったりと指先をリュ・リーンに向けて、トゥナ王はニヤリと笑う。悪戯を成功させたときの子どもの表情だ。言葉に詰まって立ち尽くすリュ・リーンをたたみ込むように、王はケラケラと軽い笑い声をあげた。
「寝てなくてもぉ、口づけはしただろう~? 下士官どもの間ではぁ、派手な噂になってるそうだぞぉ~。“神降ろし”の地での誓約の口づけは衆目の知るところだからなぁ」
これ以上は赤くなれないだろうと言うほど顔を染めると、リュ・リーンは動揺に揺れる視線を彷徨わせる。
下士官たちに見られたのは知っていたが、軍隊どころか父親の耳にまで届くほどの噂になっていようとは思ってもいなかった。こんなに噂になることが判っていたら、絶対にあのとき彼女を抱きしめたりしなかっただろうに。
「だからなぁ~。早いところ孫の顔を見せてくれ~。隠居した父親への孝徳だと思ってなぁ」
「……隠居? どういう意味だ?」
リュ・リーンは父王の言葉に我に返った。対するトゥナ王は口元に笑みを浮かべたままである。
「まさか、カデュ・ルーンとの婚儀と同時に譲位するなんて言わないよな?」
「それも考えたんだがなぁ~。少々早いんだなぁ。宮廷の害虫どもをもう少し減らしておかんとぉ~、お前の負担が増えるばっかりでなぁ」
椅子にもたれかかり、頭の後ろで腕を組むと、トゥナ王は面倒くさそうに唇を尖らせた。こういう仕草をすると、さらに子どもっぽく見えるのだが、当の本人はいっこうに気にしていないようだ。
「俺では力不足だと言いたいわけか?」
「そうじゃなくてぇ~。お前の対立勢力を増やす必要もないだろう~。……お前、魔導を学んでいるんだろうぅ?」
ギクリとリュ・リーンの身体が強ばった。父親にも内緒にしていたのだが、ばれているらしい。この分だと、他の貴族連中にも知られている可能性が高いと見るべきだろう。
「神殿の神官どものなかにもなぁ、お前のことを良く思っていない輩はいるんだよなぁ。貴族の息のかかった連中なんか特になぁ~」
「だからって親父が手を下すこともない。俺が相手をすればいいことだ」
憮然とした表情でリュ・リーンが父親の言葉を遮った。どうも未だに過保護に扱われているような気がしてならない。いい加減に大人扱いしてくれてもいいようなものだ。
「お前はぁ、神殿の奴らには手を出すな~。あいつらは余が相手だなぁ。お前は貴族たちをどうにかすることを考えろ~。……カデュ・ルーン姫のことはぁ、嗅ぎ回られたくないからなぁ」
「判ってる。だから魔導を身につけようとしているんだから。彼女に手出しする奴らは、ただでは済まさない」
息子の顔つきを頼もしそうに見つめ、頭の後ろで腕を組んだトゥナ王は、楽しそうに笑い声をあげた。
「手始めにぃ、お前は選王会で他の国の王たちを掻き回す~。その間に余が神殿のなかを粛正ぇ。その後にカデュ・ルーン姫を迎えることになるなぁ。貴族連中はぁ~……う~む。ちと厄介だなぁ」
「俺の即位のときには跪かせてやるさ。あいつらの主が、遠い血筋にあたる異国の王ではなく目の前に立つ者だと……。厭と言うほど思い知らせてやるさ」
息子の潜められた声にトゥナ王は眼を細め、喉の奥で笑う。リュ・リーンの耳には、その笑い声が先ほどの笑い声よりも残酷で力強く聞こえた。
やはりまだ父親には敵いそうもない。いつか追いつき、追い越すにしても、その時期は今ではないようだった。
開け放った窓から差し込んでくる日差しはまだ弱々しかったが、確実に時が経ち、春が近づきつつあることを伝える温みを含んでいた。
「リュ・リーン殿下。例の……あの男が参っておりますが」
ネイ・ヴィーが足音もけたたましく駆け込んでくる。彼が飛び込んでくる前から、リュ・リーンは彼が部屋へとやってくる気配を感じていた。
「騒々しい奴だな。シーディがきたのだろう。ランカーンも一緒か?」
「は、はい。仕上がりをご覧にいれたいそうですが」
「判った。通せ。そろそろ来る頃だろうとは思っていた」
窓辺の卓上に足を投げ出していたリュ・リーンがゆったりと身を起こす。だらしないはずの姿だが、彼がやるとそれだけで一枚の絵のようによく似合うから不思議だ。
再びバタバタと廊下を駆け戻っていくネイ・ヴィーの足音を聞きながら、リュ・リーンは唇に笑みを乗せた。酷薄なその笑いは、彼の姿を魔王そのものに変える。陽光の下にあってもなお暗い翠の瞳が、不気味な輝きを帯びていた。
「さて。どう使ってやるかな」
一人ごちるリュ・リーンが自分の懐に手を入れて何かを引っぱり出した。握り込んだ掌を開くと、そこには血を溶かし込み、紅玉のように輝く石が乗っている。
「影と成せば恐怖を呼び、対となせば毒を吐く……か。俺にとっては、去年の夏同様の避けては通れぬ障壁だな」
ふわりと腕を動かして目線の高さまで石を持ち上げると、リュ・リーンは口のなかで低く何事かと呟いた。と、見る間に石の表面が光り、ドクリと蠕動を始める。
リュ・リーンは石がドクドクと脈打つ様子をしばし眺め、ふと我に返ったように、今度はそっと息吹を石へと吹き込んだ。途端に石の表面に炎の波紋が広がった。炎の波は王子の白い頬にも同じ波紋を映し出す。
「外の様子を見せよ」
リュ・リーンは当たり前のような顔をして石に向かって呟く。持ち主の声を理解しているのか、脈動する石が身をくねらせて表面の透明度を上げた。血色の輝きのなかに、何やら蠢く影がある。
「ふん。少しはマシな歩き方ができるようになったらしいな」
石の内部を覗き込んで、リュ・リーンは楽しげに囁いた。見れば、蠢く影は数人の人影となって石の奥に映し出されている。この赤い石は魔導に使われる道具のようだ。
再びリュ・リーンはか細い息吹を石へと吹きかけた。また表面に炎の揺らめきが蠢き回り、内部に映し出されていた人影も消える。
王太子は何事もなかったように石を握りしめると、それを無造作に懐へと押し込んだ。酷薄な笑みが消えた彼の表情は、仮面のように無機質なものだ。
立ち上がった王子は、陽光につられるように窓辺に寄った。冬の終わり、春の到来を告げる薫風はまだ吹いてこない。しかし、その時は確実に近づいてきていた。
眼下に遠く流れる大河を静かに見下ろし、リュ・リーンは大河の源に佇む王城の鋭き尖塔に思いを馳せた。
「もうすぐ選王会が始まる。ダイロン・ルーン、お前は大丈夫なのか? いかに聖衆王の甥であろうと、お前は選王会での地盤は他の貴族どもの子弟より弱いはずだ……。勝ち残るのは容易いことではないぞ」
廊下を歩いて近づいてくる者たちより、遙か東の山脈の麓にある聖地へと、リュ・リーンの思いは飛んでいた。身体は王都に縛られていても、心だけは天を駆け、銀色に輝く聖なる王宮に降り立っているようだった。
黒塗りの馬車がこじんまりとした屋敷へ入っていった。馬止せでその動きを止めると、御者が飛び降りて扉を開ける。
人影が二つ滑り降りてきた。一人は馬車に乗っていたときから苛立った声をひっきりなしに呟いていたらしく、降りてからも地面を蹴り飛ばし、あちこちに八つ当たりを繰り返している。
「なんなんだよ、あいつは! 俺をなんだと思ってやがる」
「落ち着け、シーディ。殿下の近衛になるということは、ちょっとやそっとの腕前では無理なことだ。お前は物覚えが良いほうだが、やはりまだ殿下のお気に召すだけの教養を身につけてはいないということだ」
唸り声をあげる若者をランカーンがたしなめる。が、振り返った若者の灰色の瞳は、激昂を抑えるのに精一杯で、ランカーンの言葉の半分も納得して聞いてはいまい。
「俺は貴族のオモチャか? 毎日、毎日、机にかじりついてワケの判らん神話だの伝説だのを憶えて、身体中に痣ができるほど剣の稽古をさせられる。ほとほとうんざりしてきた!」
「そのうんざりするようなことを、あの王子は十七年間やってきているのだがね、シーディ?」
二人の言い合いの後ろでは、御者がしずしずと馬車を移動させていく。馬たちまでもが、二人の言い争いに巻き込まれることを避けているように見えた。
「十七年! あぁ、考えただけでうんざりする。俺にもこれからずっとそうやっていけってわけか!?」
うろうろと地面の上を歩き回る若者に近寄ると、ランカーンは若者の肩を軽く叩いた。
「お前は憶えが早い、と言っているだろう。おおよその下地ができれば、ことは息をするのよりも簡単さ。忘れるな。王子に近づけば近づくほど、お前は英雄になれるのだぞ。……王子に取って代われるほどにな」
「王子なんて堅っ苦しいもの、誰がなりたいものか! 俺は暴れ回るための戦場と、飢えなくてすむ食べ物が欲しかっただけだ」
ランカーンの不吉この上ない言葉にも、若者は渋面を崩さない。苛立ったままランカーンの腕を振り解くと、サッサと建物のなかへと歩み入っていく。
彼の強ばった背中を見送りながら、ランカーンは苦り切ったため息をついた。
「やれやれ。ウラート卿の苦労が判る気がする。十年以上もあの王子につき合っているというだけで、称賛に値するな」
軽く首を振ると、ランカーンはゆったりとした足取りで屋敷のなかへと入っていく。
その彼を招き寄せるように、奥からはシーディの叫び声が聞こえてきていた。空腹を訴えているようだ。怒りを鎮めるために酒や食事が必要なのだろう。ランカーンは苦笑いを浮かべると、待ちかまえていた従者に食事の用意を指示した。
「殿下の我が侭は噂に違わぬ。あいつの我が侭など可愛いものなのだろうな」
一人呟きながらランカーンは食堂へと向かった。シーディの躾は終わっていない。彼が食事をする間も、あれやこれやと注意をせねばならないだろう。食事くらいゆっくり喰わせろと若者は怒鳴り散らすだろうが、ランカーンとしてはそうも言ってはいられない。
今日の王子への拝謁でも、彼は不合格のままだった。王太子の近衛とするには役不足だと烙印を押され、シーディは憤懣やるかたない様子だ。いったいいつまでこんな茶番を続けるのか、と。
「茶番でなど終わらせるものか。是が非でもシーディを王子の近衛にする。王子の側に私の息がかかった者を……。オフィディアの当主の座を射止めるには、あの王子の心を手に入れねば」
ランカーンの囁き声は空気に霧散し、聞き取れるほどの大きさはない。だが彼の表情には微かな野心が覗き、言葉よりも雄弁に彼の内心を物語っていた。
聖地からの噂は大地を駆け抜け、リーニスの砦にも届いていた。まるで季節の変わり目に吹く風のように一気に駆け抜けた報は、当然のごとくウラートの耳にも達している。
「聖衆王が王議会に対して、選王会の開催を告げたそうだな」
西のワーザス地方に比べてリーニスの春は早い。温みのある陽の光の下で部下へ指示を出していたウラートの元に、将軍アッシャリーが出向いてきたのは、砦中が噂に浮き足立っているときだった。
「将軍、まさかあなたまで浮ついているのではないでしょうね?」
「まさか。だが通例よりも早い選王会の開催だ。しかも雪解けと供に開かれるとあっては、気にするなというほうが無理だろう。現聖衆王を決める選王会のときは、オレはまだ駆け出しの軍人だったんでな。出来ることなら、今度の選王会を間近で見たいくらいなのだが……」
顎髭をしごきながら楽しそうに目を細める将軍の様子に、ウラートは大仰なほどのため息をついた。陽光に照らされた彼の夜明け寸前の空色をした瞳が、皮肉をたたえて光っている。
「そういうのを浮き足立っているというのではないのですか? 噂好きな尻軽女と同じ様なことを言わないでください」
「ウラート卿。貴卿はときどき嫌味なくらい冷静だな。選王会ってのは、一生に数度しか行き会わないのだぞ。血統ではなく己の力のみにて王位を選ぶなど、面白いと思わないのか?」
「本来ならば他の王国でも、聖地のように行われていてもおかしくはないでしょう? 王の能力に欠ける者が王位に就いて、国が栄えた試しなどありませんよ。合理的でけっこうではありませんか」
将軍の好奇心に冷や水を降りかけると、ウラートは大人しく指示を待っている部下に再び命令を下した。
「貴卿と話をしていると、自分がガキのような気分になるぞ。まったく。こんな手厳しい奴に育てられたとは、リュ・リーン殿下もお気の毒に」
「お褒めの言葉はありがたく頂戴いたしますよ。それで? 私と軽薄な噂話をしたくて、こんなところまでおいでになったのですか?」
「それだけなわけないだろうが。噂話はもう一つある。……貴卿にはこちらのほうが重大だろうよ」
作業に戻ろうとしていたウラートが厭そうに眉を寄せた。が、将軍の真剣な眼差しに不機嫌を押し込めると、相手にまともに向き合った。
「なんですか? 王都で何か起こったのですか?」
「いや、王都では何も起こっていない。……が。リュ・リーン殿下の姉上ラスタ・リーン様がお亡くなりになる少し前より、殿下の側にオフィディア伯の異母弟ランカーン卿がいるらしい」
「ランカーン卿が? オフィディア伯とは兄弟仲がよろしくない方でしたね。まさか伯爵位を狙って王子に近づいてきたのでしょうか……」
「さてな。オレにも判らぬわ」
自分がいない間に、リュ・リーンの身辺ではきな臭いことが起こっているのではないだろうか?
ウラートは不意に不安が胸にこみ上げ、顔を歪めた。何か、厭な予感がしてならない。
オフィディア家は現国王シャッド・リーンの母親の生家でもある。亡き王妃ミリア・リーンの母親の生家ギイ家と同じく名家であるが、どちらも血生臭いお家騒動が絶えないことで有名だ。王家を巻き込んで家督争いをするつもりなら、ウラートとしては容赦するわけにはいかない。
「アッシャリー将軍、ご忠告感謝しますよ。どうやら、悠長に仕事をしている時間はないようです。さっさと作業を終わらせて、王都に戻らなければ」
「なぁに。感謝されることでもないさ。オレはこれでお前さんに一つ貸しを作ったことになる。そのうちに返してもらえばいいことだ」
普段は軍人肌で王都での権力闘争には興味なさげな様子だが、将軍の耳は意外と早いようだ。王子付きの臣下に恩を売ることも忘れないところなど、なかなかどうして、しっかりしている。
「早いところここでの仕事を終わらせることだぞ。たぶん、選王会絡みで聖地へ行くのは殿下ご自身だろうからな。置いていかれでもしたら、王子の周囲で何が起こるか判らぬぞ」
「そうですね。仕事を急がせることにしましょう」
ウラートはきびすを返すと、部下たちに再び指示を出しに駆け出していた。強ばった彼の背中を見送りながら、アッシャリー将軍が小さなため息をつく。
「王は一人では成り立たん。いかに優れた臣下を多く持つかで、王の器が決まる。幸い、ウラートの選別眼は確かだ。無能な輩を放置しておくまいよ。……あの王子には公正な王になってもらわねばな。そうでございましょう、シャッド・リーン陛下?」
砦の外にうずたかく積まれていた同輩の遺骨はすでに埋葬されていたが、大地に染み込んだどす黒い血は未だに点々と残されており、かつての血色の海に浮かんだ骨の山を想像すると身震いしたくなる。
降り注ぐ陽光の下、アッシャリーは来たときと同様、軽快な足取りで砦のなかへと戻っていった。
惨状を消すため、砦の周囲の土を削り取って血を消し去る作業を冬の間中続けてきたが、それも間もなく終わるだろう。急いで終わらせることもないのだが、春になると攻めてくるカヂャの軍勢に備えて、一冬の間に完全に終わらせるつもりで作業させていたのが幸いした。
砦の周囲に点在する部下の間を走り回るウラートの様子を、外壁の上でチラと見遣った後、アッシャリーは腕組みをして東の山並みを睨んだ。
今年はカヂャ軍は攻めてこれまい。王自身か、その近親者がこのトゥナのリーニス領を通って聖地へと向かうとなれば、聖地の不興を怖れて軍勢を動かすことを手控えるはずだ。
もっともカヂャにとっては、聖地での選王会を口実に、この時期に軍を休養させられ幸いであろう。カヂャ国内の急進派でも聖地の名を出されては、そう易々とは動けない。兵力を温存して来年まで力を蓄えておける。
「聖地の連中め、やることが狡賢い。カヂャを休ませてやるつもりだな。恩を売っておいて、さらに自分たちはトゥナより先に地盤を固めるつもりか。先手を打たれたってわけだ。王陛下がどう出るか……。いや、王太子殿下が諸国の王どもの挑発を無視できるかどうかが、この夏のトゥナの試練か?」
アッシャリーの視線の先、薄青い山のなだらかな稜線が、間もなくの春の到来を告げていた。だが、今年はその山並みを超えてくる者は、リーニスに血の嵐を呼ぶ軍隊ではなく、腹黒い策謀を練る策士どもだけのようである。
「まったく! 今年もオレの出番がないではないか。暴れ足りないことこの上ない。やはり聖地の選王会でも見物に行きたいものだな」
不遜な口調の将軍の立つ外壁の下から従者が声をかけてきた。それに片手を挙げて応えると、アッシャリーは将軍位にいる男にしては軽率なほどの軽々しい足取りで外壁から駆け降りていった。
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