石獣庭園 -Wing on the Wind-

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後日譚

No. 81 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第11章:約束

 見上げた夜空は雲がかかり、月も星も隠されていた。なんとも味気ない殺風景な空だ。
 こんな夜は雲の濃淡が描き出す紋様を眺めるしかない。その蠢く雲が別の生き物を連想させて、いつも最後には厭な想い出を思い出してしまうというのに、雨降りでもない限りは、夜ごと空を見上げるのが日課になってしまっていた。
「月が出ていない空など眺めて楽しいものかな?」
 間近に聞こえた低い声に、ウラートはチラと振り返る。
「別に楽しんでいるわけではありませんよ。なんとなく日課のようになってしまっているだけです。……アッシャリー将軍こそ、こんな時間にどうされました? 何か危急の知らせでも?」
「いや。雨を運んでくる風が吹いているのでな。寝つかれないのさ。どうも湿り気の多い風は好かんのだ」
「そういえば空気が湿気ってますね。明日は雨でしょうか」
「たぶん。リーニスでは雨だが、ワーザス地方辺りだとこの冬最初の雪嵐が吹いている頃ではないかね?」
 アッシャリーのいらえに頷きながら、ウラートは眼下に広がる篝火を見下ろした。
 トゥナ王国の東の果てにあるリーニス砦は、夏の惨状が消え去ると、以前と同じく謹厳実直な外観で東の山並みの向こうに広がる国カヂャに睨みを利かせている。血塗れた惨劇が嘘のようだ。
王都(ルメール)は白銀の世界に包まれているでしょうね。雪原を見ない冬を迎えようとは思いもしませんでしたよ」
 ウラートの隣りに立つと、アッシャリーも同じように眼下の篝火を見下ろし、鋭い瞳を細めた。
「これからは増えるかもしれんぞ。リュ・リーン殿下の片腕となるならば、このリーニス地方を抑える手腕が必要だ」
「そうですね。副王が女にうつつを抜かしてウレアに引っ込み、まったくあてにできない状況ではね」
 アッシャリーが刈り込んだ顎髭をしごきながら、不敵な笑みを漏らす。この年若い騎士の辛辣な批評が気に入ったようだ。
 下手をしたら貴族に不興を買うだけではすまないであろうに、ウラートは時々ズケズケと思ったことを口にする。普段は周囲に気を使い、人間関係を壊すような態度を取らないだけに、たまに飛び出す毒舌がアッシャリーには新鮮に映るのだろう。
「手厳しいな。否定はせんが。そういえば、王子からは手紙が届いているのか?」
「指示書くらいなものです。あの人は今は聖地(アジェン)との文のやり取りで大忙しでしょうからね。まったく、薄情なものですよ」
 ウラートがふてくされたように口を尖らせているのが面白いらしく、アッシャリーはいっそうにたついた笑いを浮かべた。
「なんだ。聖地の姫君にやきもちを焼いているのか? 今のところは貴卿のほうが王子の寝顔を見た回数は多かろうに。ところで、その姫。銀髪の美人だそうだが、卿は見たことがあるのか?」
「ありますよ」
「ほう。人となりはどのような姫だ?」
 軽い好奇心に駆られ、アッシャリーは身を乗り出した。それを見てウラートが顔をしかめる。確かこの将軍は意外と女好きだったはずだ。よもやリュ・リーンの妃に手を出すことはなかろうが、聖地の姫を話の種にするとは頂けない。
「……リュ・リーン王子の好みの女性だとだけ申し上げておきましょうか」
「もったいぶったな。少しくらい教えてくれてもいいようなものだが。……そうだなぁ。王子は母君と早くに別れている……となれば、母親似の姫君というところかな?」
「さぁ? カマをかけても無駄ですよ、将軍」
 取りつくしまもないウラートの態度に、アッシャリーは憮然とした表情になった。どうも目の前の若者は一筋縄ではいかないようだ。
「チッ。口の堅いヤツ。もっとも我々としては、深窓の令嬢を気取っているお堅い姫君や男なら相手かまわず閨に引っ張り込むあばずれでもなければ、なんでもいいのだがな」
「随分な言われようですね。王子がそんな愚かな女に引っかかるとでもお思いですか?」
 アッシャリーのぞんざいな言い様にウラートは目をすがめ、ジロリと睨みつけた。リュ・リーンを嘲るようであれば、それが国軍を束ねる将軍であろうと容赦するつもりはない。
 しかし、ウラートの剣呑な視線にめげた様子もなく、アッシャリーはひょいと肩をすくめると人好きのする笑みを浮かべた。
「さぁ? それこそ、殿下の内面は我々には判らぬ。それに一番詳しいのは貴卿であろう」
「それは買いかぶりというものです。私など大した人間ではありません」
「また謙遜を。王子以上に王子のことを知っているのは、ウラート卿をおいて他にいないと、下士官の間ではもっぱらの噂だぞ」
 むず痒くなる称賛にウラートは眉をひそめ、口元を曲げた。どうもこの将軍と話をしていると、上級士官と話をしているというよりも、同年代の下士官たちと雑談をしているような妙な気分になってくる。
 この将軍の出身がリーニス地方で、それほど高位の家柄ではないことを思い出すと、ウラートはそれはそれで仕方がないのか、と小さく苦笑を漏らした。
「また勝手な憶測が飛び交っているものですね」
「なに、あながち嘘ではあるまいよ。少なくとも、貴卿は王子の欠点をよく理解している。それは我々では手出しのできぬ範疇だ」
 年長者としての風格など気にしていないのだろうか。アッシャリーは何度も頷きながら、自分の言葉に自分で納得している。
 ウラートは呆れ顔で小さく嘆息した。戦場での功績はいざ知らず、アッシャリーという男は普段は将軍という自覚が皆無なようだ。彼の性格は、かつてこの砦で軍を指揮していたアルマハンタ将軍の質実剛健な性格とは正反対だった。
「私をそこまで評価していただけるとしたら、それは亡き王妃陛下の教育の賜物というものですね。陛下なくして、今の私はあり得ません」
「ミリア・リーン様の秘蔵っ子か。それは手強そうだな。王妃陛下の気の強さにはシャッド・リーン陛下も手を焼いていたほどだ」
「どういう例えかたですか、それは!」
「有名なことなんだがなぁ」
 軽薄な口調で笑い声をあげたアッシャリーが湿った風が渡っていく夜空を見上げる。つられてウラートも真っ黒な空を見上げた。厚い雲に隠され、月も星も眠りのなかにいるようだ。
「さて。今度こそ本当に寝るとするかな。……ウラート卿。貴卿はまだ眠らんのか?」
「いえ。もう休みます。まだ残務処理は山積みですからね。寝坊するわけにもいきませんよ」
 真面目くさった顔で受け答えるウラートの言葉にアッシャリーが小さく笑みをこぼした。
「真面目なことだな。……だからこそ、貴卿が側に仕える王太子殿下も信用できるというものだが」
 それまでの軽々しい態度とは一変した落ち着いた声に、ウラートはハッと目を見張る。自分が置かれている立場を忘れていたわけではないが、改めてアッシャリーの口からリュ・リーンとの絆について言及されると粛々とした気分になる。
 サッサと歩み去っていくアッシャリーの背を見送りながら、ウラートは深い吐息を漏らした。




「ウラート。果物を切らしてしまったわ。奥の女官に幾つか持ってこさせてちょうだいな」
 王妃が最後に自分にかけた言葉は、ひどく素っ気なく、しかし肉親の親愛が込められたありきたりの言葉だった。
「はい、陛下。ただいま……あ……! すみません。すぐにお持ちします、母上……」
 王やリュ・リーンしかいない場所では、ウラートは王妃のことを母と呼ぶよう言われている。しかし、あまりにも身分の隔たった間柄であり、簡単に馴染むこともできず、ウラートはよく「陛下」と呼びかけて王妃に睨まれていた。
 今回も部屋には王子と王妃、そして自分しかいないのだから、言われた通りに「母上」と呼びかけなければならないのだが、うっかり「陛下」と口にしてしまったのだ。
 お小言をもらう前に部屋を飛び出すと、ウラートは絨毯が敷き詰められた長い廊下をパタパタと駆けていった。きっと部屋に戻ったら、気の強い王妃は口を尖らせながら文句を言うに違いない。
 女官たちがたむろしている部屋までやってくると、ウラートは遠慮がちに扉を叩いた。そして、扉が開けられるまでの僅かな隙に、そっと憂鬱そうにため息を漏らす。
 女たちはいつもウラートを玩具にしたがった。やれ髪を結わせろ、服を着替えさせろ、果てには化粧までさせられそうになったこともある。
 どうやら自分の顔立ちは少女のような造作であるらしいが、中身は歴とした男だ。女たちのように着飾らせてもらっても嬉しくもなんともない。
「あらぁ。いらっしゃい、ウラート。待ってたわよ」
 扉を開けた女官がウラートを見つけた途端に、パッと笑みの花を咲かせた。反対にウラートはガックリと肩を落として顔をしかめる。
 出てきた女官は特にウラートを着飾らせたがる一人だ。それも肌まで磨こうとする念の入れようで、逃げるのに苦労させられる。この様子だと、大人しく帰らせてはもらえそうもない。
 それでもウラートは情けなさそうに顔を歪めたまま、精一杯声を張り上げて用向きを伝えた。
「そう。果物をご所望なのね。判ったわ。すぐに用意するから、部屋のなかで待っていなさい」
「いえ! 外で待ちます!」
「何を言ってるの。こんな寒いところで待つことないわ。それに、廊下で一人で立っていたら、悪い人に連れて行かれちゃうわよ」
 宮殿の最奥にある後宮に悪い人など入り込むわけがないではないか、とウラートは口を尖らせる。しかし、対応した女官の後ろから数人の女たちが顔を出し、ウラートを見つけると我先に彼の腕を捕らえて部屋のなかへと引っ張り込んでしまった。
「陛下がお待ちなんです! 早く用意してくださいっ」
 自分の髪やら頬やらを遠慮なく触る女官たちに向かって精一杯大声をだすが、簡単に逃げられるものではない。王妃付きの女官は一人や二人ではなく、手の空いている女たちは格好の玩具が手に入ったとご機嫌だった。
「この前、出入りの商人から買ったリボンがあるのよ。ウラートの髪に似合いそうだから、髪を結ってあげる」
「え、遠慮します。僕よりもあなたの髪を飾ったらいいじゃないですか」
「前に殿方からいただいた帯飾り、ウラートにあげようと思うの。綺麗な銀細工だから、ウラートの衣装によく合うわよ」
「そんな高価なものいただけません! だいいち、相手の方の失礼じゃないですか」
「あぁ、このすべすべの肌! 白粉ののりが良さそうよねぇ……」
「そんな臭い粉をはたかないで! 陛下からいただいた衣装が粉まみれになっちゃうでしょ!」
 ウラートは最後には敬語も忘れて叫んでいた。女たちの手を振り解くと、わたわたと部屋のなかを逃げ回るのだが、面白がって女官たちは追いかけ回してくる。
 言い遣った用事を済ますまでの短い時間、いつもこうやって追いかけっこが続くのだ。ウラートにしてみれば、不本意なことこの上ない。
「なんで僕にかまうの! やめてよ。そんなものいらないったら!」
「いや~ん。ウラート、可愛いー! わたしにも触らせて!」
「綺麗な子は着飾らなきゃ駄目よ! ほら、ウラート用にドレスも用意したんだから!」
「それ、女の子の衣装じゃない! 僕は男なの! お・と・こ!」
「ウラートなら男でも女でも、どちらの衣装だって似合うわよ! ほら!」
「イヤーッ! ヤダったら! 放してー!」
 廊下にまで響く騒動の末、用意された果物の篭を引っ掴むと、ウラートは這々の体で女官たちの部屋を逃げ出した。あれ以上いたら、どんな有様になっていたことか。
 背後から女たちの笑いさざめく声が聞こえてきたが、ウラートはそんなことに注意を払うどころではない。半泣きで廊下を駆けていき、息を切らせて王妃が待つ部屋の前へと辿り着いた。
 走ってきたため、篭のなかに綺麗に収まっていた果物の幾つかが落ちそうになっている。それを慌てて収め直すと、ウラートは深呼吸をして扉を叩いた。
「ただいま戻りました」
 この後には王妃のお小言が待っているに違いない。少し憂鬱になり、ウラートは俯きがちに室内へと入っていった。
「お待たせしました。果物を……」
 嗅ぎ慣れない匂いにウラートは口をつぐみ、顔をあげると、そのまま凍りついたように立ち尽くす。
 寝椅子の足下に王妃のドレスの裾が見えた。どう見ても床に寝転がっているようにしか見えない。が、王妃が寝椅子以外の場所で眠る姿など今まで見たことがない。
 鼻の奥を刺激する匂いは鉄錆の匂いに似ていた。腕に抱えていた果物篭が、重力に引かれてゴトリと床に落ち、収まっていた果実たちが不機嫌そうに床に転がった。
 心臓が早鐘を打つ。口の中が乾き、耳の奥がボゥッと重い音を立てる。手足が何もしていないのに、小刻みに震えた。
「陛下……?」
 ウラートは床に貼りついた足を引き剥がすと、恐る恐る寝椅子を回り込んで、そこにいる王妃の姿を覗き込む。
 最初に目に入ったのは、鮮やかすぎるほど強烈な色彩を放つ朱だった。鉄錆の匂いがいっそう強く鼻につく。
 匂いに気圧されたようにウラートはよろけ、力の入らない足がガクリと折れて、床に座り込んでしまった。
母様(マァムゥ)。目、開けて……。母様(マァムゥ)?」
 小さな囁き声に、ウラートは視線を動かした。鮮血の池のなかに、衣装を血染めにして小さな王子がうずくまっている。王子の衣装は焦げ茶色に染められた温かな羊毛の短衣(チュニック)だったが、それは血塗れてどす黒い色に変わっていた。
「お、王子……。リュ・リーン殿下……」
 ウラートは這いずって幼いリュ・リーンの元へと近寄ると、王子の黒絹の髪へと腕を伸ばした。
 その腕が途中で止まる。
 彼が腕を伸ばすよりも先に、倒れている女の腕がゆっくりと持ち上げられたのだ。見れば、王妃は荒い息を繰り返し、身体を小刻みに痙攣させている。
「リュ・リーン……。良い子ね。怖くないから、泣かないでね」
 何度も咳き込みながら王妃は血で赤く染まった口元をほころばせた。蝋のように青白い肌に、血の朱は殊更に鮮やかさを増して見える。まるで、王妃の生命そのものが今まさに流れ出してしまったかのようだ。
 ウラートは喉の奥に声を貼りつかせ、ブルブルと震えていた。彼の目の前では、小さなリュ・リーンが母親の手を握りしめてポタポタと涙をこぼしている。
「大丈夫。怖くない……怖くないから。良い子……ね。お前は良い子……」
 しゃくりあげるリュ・リーンが幾度も母を呼ばわるが、王妃の声は徐々に小さく弱くなっていった。
 幼い王子の手が血で滑って母親の腕から離れる。血溜まりのなかに厭な音を立てて白い腕が落ちたとき、ウラートは声にならない叫びを上げ、転がるようにして入ってきた扉のノブに飛びついた。
「だ、誰かっ! 誰か来て! 王妃様がっ!」
 かすれた甲高いウラートの叫びに、廊下の向こう側にある女官たちの部屋から数人の女たちが飛び出してくる。
 次々に部屋へ入っていった女官たちが、息を飲んで立ちすくみ、すぐに一人の女官を残すと、あとの女たちはバタバタと部屋の外へと飛び出していった。
「ウラート。お医者様を呼んでくるから、あなたは彼女と一緒に王妃様の側にいて!」
 早口にウラートに指示を与える女官の顔色は蒼白だ。絶望が彼女の瞳の奥に揺れている。
 痺れて思考が止まった頭で、ウラートはぼんやりと硬いベッドの上で冷たくなっている母親のことを思い起こしていた。
 氷のように冷たかった母の顔は、今の王妃よりもひどい顔色をしていた。まだ王妃の顔色はあそこまでひどくない。まだ、王妃は死んではいない。
 足下がよろけたが、ウラートはフラフラと王妃の側へと近づいていった。女官がリュ・リーンを血溜まりから引き離そうとしていたが、幼い王子は頑としてそれを聞き入れず、取り落とした母の白い腕にしがみついている。
母様(マァムゥ)!」
 震えながら母を呼ぶ王子の声に、女官が顔を背けた。ウラートはそんな彼女の仕草に微かな怒りを覚えた。王妃はまだ死んでいない。まだ身体は暖かいし、顔色だって悪くない。
 王子がしっかりと抱きしめている王妃の白い腕を一緒に抱きながら、ウラートはリュ・リーンの震える肩を強く抱きしめた。
「殿下。お母様を呼んでください。きっとお応えになりますから」
 幼い王子がウラートの言葉にいっそう大きな声を出して母親を呼んだ。何度も、何度も。喉が切れそうなほど大きな声で。
 その叫びが聞こえたのか、王妃の閉じられていた瞼が震え、微かに頬が揺れる。緩慢な動きで王妃は首を巡らせると、自分を呼ぶ息子とそれを支える従者の少年を視界に収めて、安堵したように微笑んだ。
 王妃の薄い空色の瞳は、春の空のように柔らかく霞んで見えた。
 何事かを口にしようと、王妃は唇を震わせる。が、漏れるのは虚ろな風音のような呼吸音ばかりで、言葉は何一つ出てこなかった。
 見開いていた瞼がゆっくりとゆっくりと閉じられていく。そして、ついに青白い瞼が完全に閉ざされると、後は何度呼ぼうとも彼女の瞳が開くことはなかった。




 王妃の国葬が厳冬のなかで滞りなく執り行われた後、リュ・リーンはさらに気難しい子どもになった。
 周囲の大人が抱き上げようとしようものなら、腕に噛みついて逃げ出してしまう。最高潮に機嫌が悪いときなどは、実の父親であっても側に近づけないほどだ。
 唯一、ウラートだけが王子の側にずっと寄り添うことを許されていた。
「リュ・リーン殿下。今日は湯浴みをしてくださいな」
「イヤだ。熱い湯になんか浸からない!」
 王妃の代わりにと、女官たちがリュ・リーンの世話をしようとするが、王子はそれらをことごとく無視し、ウラートにしか心を許そうとはしない。
「リュ・リーン様。我が侭をおっしゃっては困りますわ。さぁ、あちらに……」
「イヤだって言ってるだろ。あっちへ行け!」
 王子が容赦なく小さな拳を振り上げるようになったのもこの頃からだ。彼の癇癪に恐れをなして、年若い女官ほどリュ・リーンに近寄らなくなった。
「殿下。女官たちをあまり遠ざけては……」
「いらない! 女官たちなんかいなくてもいい!」
「でも……」
「いらないって言ってるだろ! あいつら、いつも怯えた眼で見るんだ。大っ嫌いだ!」
 ただでさえ黒髪に暗緑の瞳を持ち、死の王の申し子よと怖れられる王子は、母親の死後はどんどん王宮のなかで孤立した。心を閉ざし、物憂げに佇み、きつい視線を周囲に投げかけていたのでは、それは致し方のないことだろう。
 さらに間の悪いことに、春がきて父王がリーニス地方へと出陣していく時期がきてしまった。そうなると、王子はいっそう王宮内で孤独を囲った。
 リュ・リーンの姉たちも、王子の癇癪に心配を募らせるそれぞれの守り役から止められて、思うようには弟の側にいることはできなかった。
 一年前に結婚したの長姉エミューラ・リーンがギイ伯シロンの子を腹に宿していたこともあり、次姉のラスタ・リーン以下五名の姉たちも長姉を差し置いて王太子である弟の元を訪なうことができなかったことも禍した。
 王妃が亡くなったのは年が明けたばかり、リュ・リーンの五歳の誕生日の翌日だった。ウラートは八歳。彼自身もまだまだ子どもで、リュ・リーンの立場をどうしてやることもできない。
「殿下。でも湯浴みはしないと」
「イヤだったら、イヤだ!」
「そんなことおっしゃらずに。私もご一緒しますから……」
 王妃の死後、ウラートは自分のことを「僕」と言わない。さらに外見とは不釣り合いなほど大人びた顔つきをするようになった。成長することをやめてしまったリュ・リーンの代わりに、彼の分まで成長しようとしているかのようだ。
 ウラートは心を凍らせてしまった王子を心配して、今まで以上に側にいることが多くなった。
「ウラートも一緒に入る?」
「はい。ご一緒します」
「……じゃあ、入る」
 食事も湯浴みも勉学も、リュ・リーンは何もかもウラートとともに行動したがる。それは母親を慕ってついて歩いていた頃と同じだ。他人が少しでも彼らの仲を邪魔しようものなら、黒髪の王子は凄まじい癇癪を起こして暴れ回った。
 ウラートの言葉なら素直に聞き入れるリュ・リーンを、忌々しく思っている人物は多かっただろう。未来の国王としてこの癇癪持ちの王子が不適格であると、早々に結論づけてしまった者も少なくない。
「足下が滑りやすいですから、気をつけてくださいね」
「うん。判った」
 ウラートは大人びた口調で話しかけながら、リュ・リーンの手を引いて歩く。それまではいつも周囲の大人たちの顔色を伺い、緊張し続けていた様子が嘘のような落ち着きようだ。
「結界魔法で冷気は入ってこないようになってますけど、あまり壁際にはいかないでくださいね。身体を清めたら、すぐに上がっていいですし……」
「判ってる。アチッ!」
「殿下。まず手足を温めてから入らないと。指先が冷えているから熱く感じるんですよ」
 献身的に王子の世話を焼くウラートに、王妃付きだった女官たちの多くは好意的だ。しかし、そんな彼ら二人の姿を間近に見ることのない他の者たちは、たまに王子と出くわしては彼の勘気に触れ、いっそう幼い王子から背を向け、その王子の世話をするウラートを悪し様に軽蔑した。
「さあ、殿下! 身体もきれいになったし、湯冷めしないうちに寝ましょう」
 湯から上がると、ウラートは自分の身体から水滴が滴り落ちるのも構わず、リュ・リーンを夜着に着替えさせる。
 冬場の寒さがなくなったとはいえ、そんな状態では風邪をひいてしまう。雪国の春は短い。昼間はまだ温みのある日差しが差すが、夜は寒さに震えることも多かった。
 年輩の女官がそんな守り役を心配して、なにくれとなくウラートの体調を気遣ってやらなかったら、とうに寝込んでいただろう。
「暖かい花蜜湯を持ってきますから、待っていてくださいね」
 水蒸気に当たって湿気ってしまった王子の髪を乾かしながら、ウラートはリュ・リーンを寝室の暖炉前へと引っ張っていった。
 小さな身体がスッポリと隠れてしまうほどの布を王子の身体にかけ、ウラートはバタバタと花蜜湯を作りに奔走する。王妃が生きていたなら、彼女かウラートのどちらかがリュ・リーンの相手をし、もう一人が花蜜湯を作っていただろう。
 出来上がった花蜜湯を持って暖炉の前に戻ってみると、身体が温まってウトウトし始めたリュ・リーンが、布地の繭のなかで丸まっていた。生成りの布地を背景に、リュ・リーンの黒髪が暖炉の炎に照らされて赤くまだらに染まっている。
「リュ・リーン殿下。起きて下さい。そんなところで寝ては駄目です。ほら。花蜜湯は飲まなくてもいいですから、ベッドへ上がってください」
「う~ん……。母様(マァムゥ)……」
「……で……んか……」
 リュ・リーンの寝言にウラートの小さな口元が歪んだ。見る見るうちに、夜明け寸前の濃紺の空色をした瞳に透明な雫が滲む。
 小さな王子を必死に抱き上げると、ウラートは涙をこらえてベッドへと歩いた。八歳の子どもにとっては、これはかなりきつい労働だ。それでも、ウラートは黙々と王子を温かな寝具にくるみ、まだ生乾きの髪を拭く作業に勤しむ。
 亡くなった王妃のことを考えると、頭がどうかなってしまいそうだった。今、この瞬間にも子ども部屋の扉を開けて、王妃が美しい栗毛を輝かせながら顔を見せるのではないかと思ってしまう。
「はは……うえ……」
 食いしばった歯の間から涙に震える声が漏れた。
 眠りの淵にまどろんでいる幼子の顔のなかに、敬愛してやまない王妃の顔が重なる。白い(おとがい)雪花石膏(アラバスター)のように滑らかで秀でた額。リュ・リーンの黒髪や暗緑の瞳に誤魔化されて気づく者は少ないが、王子の顔立ちは母親である王妃に似ている箇所が多い。
 王妃が存命中は気後れして呼ぶことが躊躇われた呼称を、ウラートは幼い王子のなかにある懐かしい面差しに向かって何度も呟いた。もう二度と応えが返ってくるはずのない声を探すように。
 この方に仕えるのだと心決めてから、果たして自分はどれほどのことを成しただろうか? 王妃の足手まといにしかなっていなかったのではなかったか?
 守り役とは名ばかりで、実際のところ、王妃は二人の子どもを抱えて忙しかったに違いない。王の留守中は彼女が王城の主である。それを切り盛りするだけでも神経を使ったであろうに。
 こらえきれなくなり、ウラートは涙をこぼした。一度堰を切って流れ出した涙は後から後から溢れだし、彼の頬を伝って幼い王子の頬に滴る。嗚咽をこらえるのに精一杯で、ウラートは伝い落ちる涙を放っておいた。
「うぅ……ん……。……ウラート?」
 ウラートの涙の滴りに気づいて、リュ・リーンが寝惚けた顔をあげる。眠そうに眼を擦っていたが、自分を見下ろす守り役が声もなく泣いている様子に驚いて飛び起きた。
「ウラート。ウラート……」
 泣き止まない年上の友にしがみつき、リュ・リーンは指先でウラートの頬を拭く。それでもウラートの涙が止まらない様子に、王子は震える背中を撫でながら囁いた。
「泣かない……。泣かない。ウラートは強い。誰よりも強い」
 それはリュ・リーンが母である王妃にあやされるときに必ず言われていた言葉だった。抱きしめ、背中を撫でながら、王妃は歌うように何度も言葉を繰り返し、むずがる幼子につき合っていたものだ。
「王子……。リュ・リー……ン殿……下」
 ウラートはいっそう肩を震わせ、自分を支える子どもに寄りかかった。
「兄様は強い」
 唐突な言葉にウラートは目を見開き、相手の暗緑の瞳を見つめる。王子は今なんと言ったか?
「兄……?」
「ウラート兄様は強い。だから泣かない。母様(マァムゥ)はいつもおっしゃっていた」
「わ、私はあなたの兄上でもなんでもありません。ただの……ただの奴隷上がりの……」
 自分の言葉にひどく傷ついて、ウラートは途中で押し黙った。その通り。自分は国王に買われてやってきた奴隷の子で、王妃の庇護下になければ、何の力もない存在だ。
 こうしてリュ・リーンの側にいるのは、王妃との約束もあるが、何よりも自分自身の保身のためではないか? 再びどこかへ売り払われないために、王子にとってなくてはならない存在になることで、我が身を守っているのではないか?
母様(マァムゥ)は嘘はおっしゃらない! ウラートは家族。父様(ダムゥ)にもそうおっしゃっていた」
 リュ・リーンの言葉にウラートはさらに瞳を見開いた。まさか王妃がそんなことを言ってくれていたとは。
 王妃ミリア・リーンは、誰もいないところではウラートに王と王妃のことを父母と呼ぶことを許してはいたが、人前では臣下として扱っていた。
 ウラートはそれを身分の高い者の気まぐれだとばかり思っていた。娼婦であった実の母親が子どもを孕んだ途端、まったく娼館に寄りつかなくなったという顔も知らない父親のように。
「ミリア・リーン陛下が……そのようなことを……」
母様(マァムゥ)とお約束した。王太子リュ・リーンの守り役はウラートだけ。他に誰もいらない。ウラート兄様がいればいい」
「殿下……」
「ウラートは母様(マァムゥ)と一緒にいたときのように、リュ・リーンと呼び捨てていい。誰も咎めない」
 止まっていたウラートの涙が、再び溢れ始めた。その様子にリュ・リーンが心配そうに手を差し伸べてくる。暖かい小さな手に抱きつかれたまま、ウラートはいつまでも涙を流し続けた。
「リュ・リーン殿下……」
「違う。リュ・リーンでいい」
「……リュ・リーン。私も母上とお約束したように、ずっとあなたのお側にお仕えします。何があっても、どんなときも……」




 眠りにつこうとベッドに腰を降ろしたウラートの視界の隅に、小卓(ハティー)の上に置かれた護符が映った。柔らかな光沢を放ってはいるが、なんの変哲もない石がはめ込まれた護符だ。
「ミリア・リーン陛下……」
 ウラートは立ち上がってそれを手に取ると、石の熱を感じようとでもいうのか、護符を唇にそっと押し当てた。
 頭のなかで先ほどのアッシャリー将軍の声がぐるぐると巡っている。リュ・リーンとの絆、聖地の姫君、亡き王妃……亡き……母。
 皮肉なことにリュ・リーンは自分と同じ五歳のときに母親を亡くしていた。
 決定的に自分と違うことは、彼の目の前で母親が事切れたということだ。鮮血を吐き絶命した母親に取りすがって泣き叫ぶリュ・リーンの声をウラートは未だに憶えている。
 ウラートは母親が病に倒れたときに隔離されており、亡くなって土気色をした顔で硬いベッドに横たわる姿が最後の対面だった。冷たい母の身体が恐ろしく、だた一度触れただけで身体の震えが止まらなかった。
 自分の熱が母の冷たい身体に奪われるのではないかと怯えたのだ。一緒に連れていかれのるのはないか、と。
 リュ・リーンの母親ミリア・リーンの場合はまったく違う。
 彼女は病がどれほど進行しようと息子の側から離れようとはしなかった。日に日に顔色は青ざめ、身体は痩せ衰えていこうとも、凛と胸を張り、頭をそらして王宮の女主人であり続けた。
 ベッドへ戻ると、ウラートは掌のなかの護符をじっと見下ろした。この護符はこれまで自分を守り続けてきてくれた。
 貴族たちは奴隷の子が王族の側にいることをバカにし、それを平然と側に置くリュ・リーンや、それを許しているシャッド・リーン王を異端扱いしている。自分のために被る不利益をはねのけている彼らの期待を裏切るわけにはいかない。そんな思いでこれまで必死にやってきた。
「あなたは誇り高い方だった。私はあなたに仕えることができて幸せです。今はお約束通り、あなたの息子に仕えることこそが……私の至福になっていますよ、母上」
 王妃が亡くなり、リュ・リーンの子ども部屋で泣き明かした夜以来、ウラートは涙を封印している。王子に強くなれと言う代わりに、自分自身が王子に負けぬほど強くあろうとした。
 事実、ウラートや父シャッド・リーンの背を見て育ったリュ・リーンは、この夏以来、凄まじい成長を遂げている。聖地の姫との一件も引き金になっているだろうが、間違いなくリュ・リーンは父王に勝るとも劣らない王になるはずだ。
 玉座の高みから並み居る家臣たちを睥睨する黒髪の王の姿が、ウラートには容易に想像できた。
「もうすぐです……。あなたの息子は誰よりも高い場所に登るでしょう。誰よりも強く、誇り高い王が……もうすぐ……」
 磨かれた石の表面をそっと撫でると、ウラートは再びその表面に口づけを落とす。その横顔は貴婦人の指先に接吻を落とす騎士の顔だった。

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