石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔26日前〕 RSS Feed

後日譚

No. 80 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第10章:魔眼(イヴンアージャ)

 祝宴の主役がいなくても、宴の席は賑やかだ。その様子を幕間の隙間から眺めて、リュ・リーンは口元だけにうっすらと嘲弄の笑みを浮かべた。
 このまま、どこかに雲隠れしても、誰も気づかないのではないだろうか。饗宴の片隅に目立たないように配されている番兵すら、主賓がいなくなったことに気づいていない。
 ふと、誰かに見られている視線を感じて、リュ・リーンは鋭くそちらを一瞥した。
 姉たちとともにこの宴へとやってきた男たちの一団のなかから、じっとこちらを見つめている若者がいた。ややくすんだ色の金髪が、宴のあちこちで灯されて蝋燭の揺らめきにけぶるように輝いている。
「あれは……ラスタ・リーン姉上のところの……」
 それが病で伏せっている次姉の家の者だと思い出すまでに、リュ・リーンはしばらくの時間を要した。
 本来なら次姉とその夫が招かれる宴であるが、病で出席できない姉夫婦に代わって、彼らの義弟がやってきている。普段、あまり顔を合わせることのない若者を憶えていただけでも、リュ・リーンとしては奇跡的なことだったろう。
 その若者がリュ・リーンから視線を逸らすと、ふわりと集団のなかから抜け出した。人の波に乗ってあちこちを渡り歩き、思い出したように宴の娘たちにまとわりつきながら、ゆったりとした足取りでこちらへとやってくる。
 飛び抜けて整った顔立ちの男ではないが、娘たちに微笑みかける表情は甘く、世慣れない少女たちならうっとりと見つめ返してしまうだろう。
 自分にはとてもできない芸当だ、とリュ・リーンは苦い思いを噛みしめた。
 外見で損をしている彼にも、この若者のように仕草で欠点を補うことは可能であるかもしれない。しかし、他人の好奇の目に触れること自体が苦手なリュ・リーンには、真似しようという気すら起こらないことだった。
 リュ・リーンはその若者から視線をそらすと、幕間の奥へと引っ込んでしまった。人々の間に入っていき、興味本位に話しかけられるのは好きではない。
 テラスへと続く大窓に寄りかかって星空を見上げると、星たちがチリチリと音を立てて瞬いている様子が間近に迫っていた。外気は冷たいが、他人の煩わしい視線にさらされないだけ、リュ・リーンにはマシに思えた。
「さっさと抜け出してやるかな……」
 疲れを感じて、リュ・リーンは瞳を閉じた。眼裏(まなうら)には、今まで見上げていた星空がくっきりと浮かび上がってくる。
「宴を抜け出されるのでしたら、お供させてもらえますか?」
 かすれた囁き声に、リュ・リーンは驚いて振り返った。いつの間にか、先ほどの若者が幕間の隙間から滑り込んできている。宴の広間から漏れる光と星灯りで、彼のくすんだ金髪がチラチラと小さな輝きを放っていた。
「突然、ご無礼を。こんな機会でもない限り、殿下のお側にはいつもウラート卿がおいでで、わたくしなどは近づけませんので。オフィディア伯サイモスの異母弟ランカーンと申します」
 薄紫の瞳が柔らかな笑みを浮かべている。貴族出身者にしては、顔の造詣はそれほど美麗ではないが、作り笑顔であったとしても彼の浮かべる微笑みは特上品であった。つられてこちらまで微笑みを返してしまいそうになる。
 普段のリュ・リーンならば不機嫌さを如実に表して、暗に相手を拒絶しただろう。ところが、ランカーンと名乗った若者の笑みに毒気を抜かれ、彼には珍しく口角の片方を持ち上げて薄い笑みを浮かべている。
「死神の顔でも拝みにきたか?」
「神のお姿を間近で拝する栄誉を与えていただけるのですか?」
 足音を立てることなく、ランカーンはリュ・リーンの目の前まで歩み寄り、ゆったりとした動作で王太子の前に跪いた。そのまま、若者はリュ・リーンがまとっている儀礼用のマントの裾を手にすると、その端にそっと口づけを落とした。
 あまりにも自然で静かなランカーンの動きに、リュ・リーンは相手を拒絶することも忘れて佇んだままだ。いつも自分を取り巻く不愉快な連中とは、少々勝手が違ってた。
「あまりに畏れ多く、ご尊顔をわたくしの眼に映すことがはばかられます。このままの姿勢で失礼を」
 跪き、顔を伏せたまま、若者がリュ・リーンへと声をかける。
「口の上手い奴だな。俺のこの瞳を見てみろ。どうせ毛嫌いされている瞳だ。今さらどうこう言われてもなんとも思わない」
「申し訳ありません。それはご勘弁願います。殿下の瞳に魅入られますと、自分の強欲さを懺悔したくなって参りますので」
「面白いことを言う。俺の瞳を見て、死の神に招き寄せられそうだと言う奴はいても、懺悔したくなると言った奴は初めてだ」
 初対面の者には無口なはずのリュ・リーンが、目の前の若者に向かっては饒舌だ。相手の反応が、彼には珍しくて仕方がない。
 この魔の瞳(イヴンアージャ)を怖がっていることに代わりはないが、言葉を濁すことなく、実直に恐ろしいと受け答えをする者は、今までほとんどいなかった。
「皆が口下手なのでございましょう。殿下の瞳は、相手に嘘偽りを許さない瞳です。欲深い者には、天罰と同じ」
「フン。では、お前は俺に嘘をつきにきたか? 俺の顔をまともに見られないというのなら、お前も嘘つきだということになるな」
 俯いたままのランカーンをリュ・リーンは嘲弄した。そのリュ・リーンの言葉に、金髪の若者は小さくため息をつく。
「いえ。わたくしは嘘つきではなく、欲深い人間でございます。ですから、殿下のお顔を見ていると、懺悔したくなってくるのです」
「では、その欲深い者が俺になんの用だ? お前の強欲を満たすものを俺が持っているとでも?」
 せせら笑うリュ・リーンの言葉に、ランカーンが俯いたまま首を傾げた。それは一瞬の逡巡だったかもしれない。あるいは、困惑であったのかもしれない。
「実は殿下に引き逢わせたい者がおります。わたくしが外遊先で見つけだした者なのですが……」
「断る。そんなものに興味はない」
 相手の言葉が終わるよりも早く、リュ・リーンは拒否していた。
 それを予測していたのか、ランカーンが再び小さなため息をつく。それは一呼吸おくときの癖であるかのように、ごく自然な動作だった。
「彼は殿下のお時間を割いていただくに値する者かと思います。少なくとも、ギイ伯爵家のシロン卿よりは害をなさないでしょう」
「こそこそと逢わねばならんということ自体が気に食わない。俺の正面に立てぬ者をどう信用しろというのだ?」
 そのときになって、ようやくランカーンが顔をあげた。怯えているかと思った彼の瞳はクッキリとリュ・リーンを見上げ、恐怖に揺れてなどいない。
「お父上の勧めでゼビ王国へ行った折に見つけてきた者です。その男のことは、他の者には内密にしたいと思いましたので」
 父王の勧めと聞いて、リュ・リーンは眉を寄せて考え込んだ。そういえば、去年の秋頃に、父の母親、リュ・リーンの祖母にあたる女性の実家の者を国外へ外遊させると言っていた。では、その若者がランカーンであったというわけか。
 リュ・リーンはようやく目の前の若者が自分の従兄弟筋の者であることを思い出した。長姉が母方の祖母の実家へ、次姉が父方の祖母の実家へ嫁いでいる。その家名に名を連ねる以上、ランカーンもまた王家に近しい者だ。
 口を閉ざしているリュ・リーンをじっと見上げたまま、ランカーンが再び口を開いた。
「本当は外遊とは名ばかりで、オフィディア家からの体のいい厄介払いですが。失礼。これは殿下には関係のないことでした。これをご覧いただけますか?」
 ランカーンが差し出した紙切れを手に取ったリュ・リーンは、いよいよ眉間の皺を深くした。薄暗い幕間のなかでもハッキリと判る黒髪の若者の顔を写し取った姿絵だ。
「こんなものを持ち歩いて楽しいか? くだらない」
 この王国のなかで、姿絵になるほど名の知れ渡った黒髪の若者など、自分しかいないではないか。それをこの若者が持ち歩いているという事実に、リュ・リーンは嫌気が差した。
「よくご覧になっていただけますか? それは殿下ではございません」
「なんだと……?」
 リュ・リーンは改めて姿絵の顔を凝視した。しかし、薄暗さのなかで見るその顔形は、いかにも自分に似ており、他人だと言われてもすぐには信用しがたい。
「この姿絵は王都(ルメール)の裏界隈で商売をしております絵師に描かせたものです。お調べいただければ、宮廷お抱えの絵師の手によるものでないことはすぐに判ります」
 ランカーンの言葉は、暗に宮廷絵師の前に連れ出すことのできない者を描かせたのだと告げていた。リュ・リーンは驚きとともに鋭い視線を相手へ向ける。
「連れてきたのは……殿下によく似た男でございます」
 息をひそめ、囁き声をもらしたランカーンの顔に、このとき初めて計算高い狡猾な色がうっすらと浮かんだ。
「なるほど。お前が強欲な人間だというのは本当らしい。俺の影を紹介する代わりに、何か見返りをよこせということか」
「殿下はお命を常に狙われております。影武者を一人立てたところで、どれほどの効果があるのか、わたくしには見当もつきませんが、使いようによってはお役に立てるでしょう」
 ひそひそと言葉を続けるランカーンの表情は計り知れない。リュ・リーンは相手をどの程度信用していいものか、逡巡を続けていた。読み違いをしたら、それは自分にとっては命取りになりかねない。
「お前の言うことを信用する根拠は?」
 リュ・リーンは努めて冷たい口調で言い放つと、手にしていた姿絵を相手に突き返した。
「根拠など何もありません。ただ、わたくしは欲深い人間でございますので、自分のためにも、殿下のためにも役立ちそうなものを見過ごすことが、いかにももったいないと思ったのです」
 ランカーンが完璧な微笑みを顔に刻んだ。まったく喰えない奴だ。自分の腹のなかを明け透けに見せておきながら、その表情は何を考えているのか少しも読めないのだから。
 リュ・リーンは窓際を離れ、ランカーンに背を向けると、幕の向こうで繰り広げられている饗宴の広間へと足を向けた。
 訪問者を残してその場を立ち去るかと思われた王太子の足が止まる。手にした幕の端を握りしめたまま、リュ・リーンは僅かに振り返った。
「ランカーン。お前の忠誠は王家のあるのか? それとも、俺か? あるいは、自分自身か?」
 リュ・リーンの問いかけに、ランカーンが立ち上がって振り向いた。
 金髪の若者は小さく腰を屈め、相変わらずの上質な笑みを貼りつかせたまま、王子の黒衣の背を見つめ返してくる。
「申し上げた通り、わたくしは欲深い人間でございます。忠誠の第一は自分自身に、そして、その次にわたくしに満足を与えてくれる人間に向いております。これまでの人生のなかでは、わたくしを満足させ得る方は未だに現れておりませんが」
 その答えに納得でもしたのか、リュ・リーンは小さく口の端をつりあげた。
「面白い奴だな。王太子の前で、そこまでズケズケ言える奴も珍しい。……いいだろう。今夜の馬鹿げた茶番劇ももうすぐ終わる。その後に、王宮の東側にある伽藍庭園へと来るがいい。お前の演出する舞台に上がってやろう」
 リュ・リーンの返答に、ランカーンは深く腰を折った。それを視界の端で確認すると、リュ・リーンは二度と振り返ることなく幕間を後にした。




 トゥナ王国の伽藍庭園は諸外国でもよく知られていた。王宮を支える石柱と同じくらいに太い柱が庭のそこここに立ち上がり、柱頭からは優雅な曲線を描いた石梁が隣り合った柱同士を繋いでいる。
 一見すると屋根と壁のない建物のように見えるだろう。代わりに屋根や壁の役割を果たしているのは蔦類の植物だ。実際にそれらの機能を果たしているわけではないのだが、庭園の内側から見渡したとき、それらの植物たちは鬱蒼と繁って見る者を取り囲んでいる錯覚を与える。
 しかし、冬場の今は緑の天蓋を望むのは難しい。枯れ果てた雑草が庭園のあちこちで縮れ、柱に取りすがる白茶けた蔦たちは、寒さから逃れようと必死に石柱にしがみついている。足下の土中では花々の球根や越冬する虫の幼虫たちが、今はまだ遠い春を夢見てまどろんでいるところだ。
 月は雲間に隠れ、途切れた雲の間から光を投げ落としてくる星たちの下で見ると、伽藍庭園は人を拒絶するように頑なな沈黙を守っているように伺えた。
 ほとんど闇一色。僅かに白い石柱が星灯りを弾いて、白灰色の身体を真っ直ぐに天へと伸ばしている姿が見えるばかりだった。
「……待たせたな」
 リュ・リーンの低い声に反応して、石柱の一つから淡くくすんだ金色の輝きが姿を現した。
「おみ足をこのような場所までお運び頂き、恐悦至極に存じます」
 完璧な動作でランカーンが腰を折り、満面に笑みを貼りつかせる。が、その表情が王太子を見た途端に強ばった。いや、正確には、その脇に佇む人物の姿を認め、瞠目したのだ。
「ネイ・ヴィー卿。あなた様もご一緒とは存じませんでした」
「殿下から面白いものを見せてもらえると伺ってな。滅多にない機会であろうから、遠慮なくご一緒させてもらったのさ」
 ネイ・ヴィーと呼ばれた男は、明るい金茶色の髪に縁取られた顔のなかで萌葱色をした瞳を光らせている。口元に蓄えた薄い髭が皮肉を込めた笑みに小さく歪んでいた。
 ネイ・ヴィーは、ようやく十七になるリュ・リーンよりも、五つ以上は年上であろう。ただ、武官と呼ぶにはいささか貧弱な体格が、彼の実年齢を推測する目を惑わせる。
「ご随意に。あなた様にも気に入って頂けると思いますよ。……こちらへ」
 最後の言葉は、斜め後ろの闇に向かって放たれた。相変わらず、ランカーンの口調は内心を読ませない柔和なものだ。
 夜の暗がりから浮かび上がってきた人影に、ネイ・ヴィーが驚きの一声を発したのを、リュ・リーンは背中で聞いていた。
 そのネイ・ヴィーの驚きも無理はない。彼らの前に姿を現した者は、リュ・リーンによく似た漆黒(ぬばたま)の髪に、薄く日焼けはしているが白い肌をしていた。まるで兄弟のようによく似ている。
 唯一違っているのは、その瞳の色であろう。リュ・リーンの深く憂いが籠もった暗緑の瞳に比べ、目の前の若者の瞳は黒っぽい灰色をしていた。
 リュ・リーンはその事実に、がっかりしたようにため息をつく。彼は現れる若者が自分と同じ瞳の色を持っていることを期待していたのだ。自分と同じ瞳を持ちながら、他国で育った者を見てみたかったのだ。
 期待が外れ、リュ・リーンはあっけないほど簡単にランカーンたちに背を向けた。
「殿下!?」
 ランカーンとネイ・ヴィーが同時に呼びかけたが、リュ・リーンはチラリと肩越しに振り返っただけで、向き直ろうとはしない。
「ランカーン。不合格だ。容色は俺とよく似ているが、瞳の色が違いすぎる。今度は俺の瞳の色とよく似た奴を連れてこい。それでは意味がないだろう」
「ひ、瞳の色以外は兄弟のようによく似ております、殿下!」
 このとき、ランカーンが初めて自分の被っていた仮面にヒビを入れた。こんなにアッサリと却下されるとは思ってもみなかったのだろう。
 狼狽えたランカーンを、ネイ・ヴィーが気の毒そうに見遣っていたが、リュ・リーンの決定が覆らないことを知っているのか、何も口を挟んでこない。
「瞳を見られなきゃ、いいんだろ」
 背を向けて歩き始めたリュ・リーンを呼び止めたのは、まったく聞き覚えのない、いや、よく聞き馴染んだ声だった。自分のものによく似た声に、リュ・リーンは思わず立ち止まったのだ。
「こいつ……声まで殿下に似ている」
 ネイ・ヴィーはゾッとしたように首をすくめ、足を止めたリュ・リーンを伺った。すべては王子自身が決めることだ。
 今度こそ向き直ったリュ・リーンが、自分によく似た若者の瞳をじっと注視していた。自分の言葉一つで、彼らの今後が決まる。それは戦のときの駆け引きよりも味気ない、退屈でくだらない決定のような気がした。
「俺の聞いた話じゃ、あんたの瞳をまともに見ることができる人間なんて、ほとんどいないってことじゃないか。顔もまともに見られないような奴らが、相手の瞳が何色なのかなんて気にするのか?」
 目の前に立っている者が何者か判っていないのか、リュ・リーンによく似た若者はズケズケと言葉を並べ立ててくる。傍らで聞いているネイ・ヴィーが、その不躾さに胃痛を起こしたように鳩尾を押さえた。
 リュ・リーンが喉の奥で小さな笑い声をあげる。決して友好的とは言い難い声音だが、目の前に立つ若者の口調を面白がっていることが明白な笑い声だった。
 王子はゆっくりとした足取りで、若者へと近づいていく。
 その様子をランカーンとネイ・ヴィーが、奇しくも同時に生唾を飲み込んで見守っていた。もしも、この黒髪の若者が王太子の機嫌を損ねていたら、問答無用で切り捨てられるだろう。
「俺の瞳を見る者がいない、だと? それは逆だな。皆、俺の眼を恐いモノ見たさでチラチラと盗み見るんだ。そして、そこに死神と同じ瞳を見つけて怯える。見ていないようで、彼らは見ている。死に魅入られるのが怖いくせに、死の淵を覗きたがるのさ」
 若者の目の前に立つと、リュ・リーンは笑みを表情から消し、ジッと相手を凝視した。脇からそのリュ・リーンの顔を見つめていたランカーンが、喘ぐように浅いため息を繰り返し顔を背ける。彼にはそこまでが限界だったようだ。
 無表情ななかに光るリュ・リーンの瞳は、呼び名の通りに魔性のものだ。誰もかれもが気を反らせなくなり、そのまま死へと誘われてしまいそうな錯覚に背筋を凍らせる。
 若者も、目の前で突如光り出したリュ・リーンの暗緑の瞳に、たじろいだように半歩下がった。初めて目にする人外の瞳に、驚きを隠せないのだろう。
「この瞳の名を知っているか? 魔の瞳(イヴンアージャ)と言うのだ。死の魔王ルヴュールと同じ、人間を暗黒の淵へと引きずり込む瞳だ」
 若者が下がった分だけリュ・リーンは相手へと近寄った。すると、また若者が半歩下がる。再び、リュ・リーンが近づく。また若者が下がる。
 それを数度繰り返し、足下の石につまづいて若者が地面に転がった。それでも、若者はリュ・リーンの瞳から視線を逸らすことができず、惚けたように暗く光る暗緑の瞳を見上げている。
 リュ・リーンは黒髪の若者を見下ろしたまま、うっすらと口元に被虐的な笑みを浮かべた。相手に覆い被さるように身を屈めると、相手の顔の間際まで寄り、さらに相手の瞳の奥を覗き込む。
「や、やめろ。それ以上、近づくな!」
 座り込んだまま背後に逃げようと、手足をばたつかせる若者の胸ぐらを掴むと、リュ・リーンはゆっくりと瞬きをした。
 途端に、魔性の呪縛が解けたように、若者の動きが止まった。肩で忙しなく息をしながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う様は、心底安堵しているように見える。
「少々、遊びが過ぎたな。だが、憶えておけ。今までに俺の瞳の呪縛から逃れた者はごく僅か。それも俺が本気を出していない場合ばかりだ。お前にできるのか、俺の真似事が?」
 リュ・リーンを見上げている若者が悔しそうに唇を噛みしめた。その顔つきを見下ろしていたリュ・リーンの口元に再び、相手を嘲弄するような笑みが浮き上がった。
「お前、名はなんという?」
 問われて、若者が訝しげにリュ・リーンを見上げる。さすがにまだ恐怖が去っていないのか、彼の瞳を注視することはなかったが。
 再度リュ・リーンに問われ、若者はもそもそと「シーディ」と答えを返す。その名を口に出して確認すると、リュ・リーンは満足したように頷いた。
「雇われる気をなくしたか、シーディ?」
 リュ・リーンは無感動な視線を若者に向け続けている。ランカーンがその様子を固唾を呑んで見守っていた。
「こんな目に毎日遭うのならごめんだ」
 シーディと名乗った若者がふてくされたように返事を返す。そして、自分をこの地に連れてきた青年のほうにチラリと視線を走らせ、すぐにそっぽを向いた。こんな目に遭うなんて約束が違うとでも言った態度だ。
「毎日? それじゃ、毎日ではなければいい、ということか?」
 やや嘲りを含んだリュ・リーンの声に、若者がギリリと奥歯を噛み締め、苛立った様子で吐き捨てる。
「どうせ他に行くところなんかないからな。ゼビ王国にだって、フラリと立ち寄っただけだし」
「ふん……。根無し草か……」
「悪いかよ!? 俺だって好きでさすらっているわけじゃないんだ!」
 リュ・リーンの口調に苛立ちを強めたシーディが、噛みつくように叫んだ。
 彼らの様子をハラハラと見守っていたランカーンが、その態度に顔をしかめて小さく呻く。この王子に対してこんな口調で返事をするとは……なんという恐れ知らずだ。
「さすらえる手足があるだけ、マシだろうに」
 そう言い捨てると、リュ・リーンは座り込んだ若者に背を向けて歩き始めた。今度は若者も、ランカーンも、黒衣の王太子を止めようとはしない。少し離れた場所で成り行きを見守っていたネイ・ヴィーが、ホッとしたようにため息をついた。
 が、彼の安堵もそこまでだった。再び足を止めたリュ・リーンがクルリと取り残された二人を振り返り、意地の悪い笑みを浮かべて言い放つ。
「シーディ。過大な報酬を期待しないのなら、雇ってやろう。……それから、ランカーン。こいつにトゥナの王宮での作法を学ばせろ。別に俺と同じ王太子の作法でなくてかまわん。だが、近衛兵程度の教養は身につけさせろ。お前との話は、それからだ」
 言い捨てると、リュ・リーンはサッサと伽藍庭園から出ていってしまった。あんぐりと口を開けてリュ・リーンの言葉を聞いていたネイ・ヴィーが、我に返ると、転がるように王太子の後を追いかけていく。
 取り残された金髪の青年と黒髪の若者は、目をひん剥いたまま、全身を星の銀色に染め、遠ざかっていく黒太子の背中を見つめていた。




 バタバタと背後に従い歩くネイ・ヴィーが何度目かのため息をついたとき、リュ・リーンはようやくチラリと振り返って、嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「俺の決定が不満か、ネイ・ヴィー?」
 俯きがちに歩いていたネイ・ヴィーがハッとして顔を上げる。自分が知らぬ間に不満を漏らしていたことにやっと気づいたようだ。
「申し訳……。出すぎたことを……」
「気にするな。陰でネチネチと嫌味を言う奴らよりマシだ。あのシーディという男がどこまで使い物になるかは未知数だ。お前の不安も当然だろう。……きっと、ウラートなら一も二もなく反対している」
 まとわりつくマントをうるさそうにたくし上げると、リュ・リーンは宮殿の外回廊から夜空を見上げた。凍てついた星たちは、今にも降ってきそうなほど鮮やかな輝きを放っている。
「でしたら、なぜあのように氏素性の知れない者を──」
「知れないからこそ、だ。貴族連中の息のかかった者が側にいたのでは息が詰まる。あの男なら鬱陶しい牽制も無視するだろう?」
「ですが、ランカーン卿の手の者です。ランカーン卿は前オフィディア伯の庶子。嫡子の現当主とはあまり仲がよいとは言えませんよ。彼が殿下に近づいてきたということは、充分に下心があるからですし……」
 見上げていた夜空から視線をそらすと、リュ・リーンはチラリとネイ・ヴィーを振り返った。宵闇のなかで見ると、リュ・リーンの瞳はいっそう物憂げな色をしている。
 まるで深い森の奥で誰かが訪れるのを待っている沼のようだ。周囲の音や空気まで呑み込みそうな暗い緑の瞳は、それを見ているだけで禁忌を犯している罪悪感に駆られる。
「俺の周囲に集う者の大多数は下心がある者ばかりだ。今さら一人二人増えたところで気にもならん。……ただ。ランカーンには、お前やウラートのような無私の忠誠はなくとも、自分自身の欲望には忠実だという利点がある」
 判るか? と首を傾げるリュ・リーンの態度に、ネイ・ヴィーは小さく首を振った。リュ・リーンの言いたいことが判らない。我欲に溺れる者など、リュ・リーンの側に置いておけるはずがない。
「ランカーンには権力が今どちらを向いているのか、正確に計るだけの洞察力がある。つまり、あれが俺に近づいてきたということは、ギイ伯や奴の義兄オフィディア伯よりも俺が玉座に近いと判断したということだ」
「自分の位置を探る物差しになさるおつもりですか?」
「そうだ。あいつには日和見な爺連中よりも若い分だけ野心がある。いけ好かない義兄から嫌味の一つも言われるだろうに、オフィディアの名を背負って外遊に出掛けていくだけの気概も。毒を盛ってくる陰険な輩ではない、と判断した」
 再びリュ・リーンは歩き始めた。ゆったりとした歩調だったが、彼の気配には僅かな緊張感が漂っている。それを鋭敏に感じ取ったネイ・ヴィーはまた小さくため息をついた。
「ご随意に、殿下。でも、あのシーディという者に何をさせるおつもりで?」
「近衛兵にする」
 振り返ることなく、リュ・リーンはネイ・ヴィーの問いに答える。それは日常会話のようにごくアッサリとした口調だった。
「こ、近衛兵ですって!?」
 思わず立ち止まったネイ・ヴィーであったが、リュ・リーンが足を止めないのを見て、再びバタバタと追いかけた。
 近衛兵になれる者は身元のしっかりとした騎士階級の者だけだ。それなのに、どこの誰とも知れない者を兵団に推挙できるはずがない。
「殿下。お気は確かですか!? そんなことできっこありません!」
「できない、のではない。やるんだ」
「殿下……!」
 情けないほど素っ頓狂な声をあげて抗議するネイ・ヴィーの態度に、リュ・リーンが意地の悪い笑みを向ける。
「誰が王宮の近衛兵にすると言った?」
「お……だって、近衛兵と言ったら王宮の……」
 パクパクと口を開閉させ、目を泳がせているネイ・ヴィーの様子が可笑しいのか、リュ・リーンはクスクスと喉を鳴らして笑っていた。そうやっていると、リュ・リーンも年相応の若者に見える。
「王子。意地の悪いことをしないで教えてください!」
 憤懣やるかたない、といった顔つきのネイ・ヴィーに対して、リュ・リーンは屈託ない笑みを浮かべていた。王子のその表情にネイ・ヴィーが困ったように眉を寄せる。
「か、変わられましたね、殿下」
「え? なんだって?」
「去年の冬頃から見ると随分と丸くなられた、と申し上げたのです。よく笑われるようになりましたし」
 眩しげに目を細めるネイ・ヴィーの様子に、リュ・リーンは居心地悪そうに肩をすくめた。突然に何を言い出すのかと思えば……。
「どうせ去年の俺は刃物のように尖っていたと言いたいんだろう」
「自覚があったんですか?」
 心底驚いているネイ・ヴィーの態度に、いささかリュ・リーンはムッとした。が、何を思ったのか、そのまま彼に背を向けてスタスタと歩き始める。
「あっ。ちょっと王子! 待って下さい。さっきの話の答えはなんだんですか!? 教えてくださいよ!」
 足早に歩き去るリュ・リーンの後ろを転がるようについていきながら、ネイ・ヴィーは自分の失言に苦虫を噛み潰していた。
 ここ最近のリュ・リーンの雰囲気の軟化に気を抜いていた。前までのリュ・リーンならもっと冷たい態度を取られただろうが、今でも十分王子は不機嫌になっている。
「俺をよぉっく見ているはずのお前なら判るだろう。それでも判らないのなら、俺自身よりも俺を知っているお前の義弟にでも聞け!」
「やめてくださいよ。ウラート卿なら、我がタウラニエスク家に養子に入って以来、一度も里帰りしてきてないんですよ。義弟なんて言われても、ピンときません! 第一、どうして彼が殿下以上に殿下のことを判るんですか!?」
「自分で考えろ」
 取りつくしまもないリュ・リーンの口調に、ネイ・ヴィーは情けない表情でため息をついた。やはりこの人には、油断してはいけないのだ。




 翌日、リュ・リーンは次姉の見舞いのためにオフィディア家へとやってきていた。
 しかし、随分と待たされているのに、いっこうに姉のところへ案内されない。しばらくの間、談笑につき合っていた姉の夫も先ほど出ていったきりで戻ってこない。
 焦れてリュ・リーンは部屋のなかをウロウロと歩き回っていた。他に誰も人がいないからいいようなものの、俯きがちな姿勢で行ったり来たりを繰り返す彼の姿は王太子の威厳とはほど遠い。
「いったい何をしているのだ!」
 とうとうリュ・リーンは部屋から飛び出すと、手近にいた召使いの一人を捕まえた。震え上がっているその男を脅しつけて、姉が臥せっている部屋へと無理に案内させる。
 屋敷の主人であるオフィディア候がギョッと顔を強ばらせてリュ・リーンを迎えたが、王子は相手の様子を完全無視して部屋の主へと声をかけた。
「姉上。お加減が悪いと伺って、急いで参上したのですが……。逢ってはいただけないのですか?」
 紗の降ろされた天蓋のなかで人の蠢く気配がする。人影がノロノロと起きあがり、こちらへと顔を向けていた。
 病人を少しでも明るい雰囲気の場所へとの心遣いからか、窓から差し込む光が姉のいる天蓋の内側まで届いている。肌寒さを多少は感じるが、澱んだ空気が漂っていないだけに陰気さとは無縁なことにリュ・リーンはホッとしていた。
 次姉は姉弟のなかでも、もっともリュ・リーンを甘やかせた姉である。長姉が優しくとも、時には厳しい言葉を口にするのに対し、次姉はリュ・リーンの我が侭をいつも寛容に許していた。
 よほど無理難題を押しつけたとき、本当に申し訳なさそうにできないと答える彼女の態度は、リュ・リーンには長姉の厳しい叱責よりも胸に堪えたものだ。
「リュ・リーン……? 病が移るわ。早くお帰りなさい」
「紗越しにお話することも叶いませんか? せっかくきたのに」
 低く囁くような女の声に、リュ・リーンは小さく眉をひそめた。最後に聞いた次姉ラスタ・リーンの声はこんなにか弱くはなかったはずだ。姉は明るい、光が弾けるような笑い声をあげる人だ。
「相変わらずね。──外してくださる?」
 後の言葉は、二人の間に立って途方に暮れている彼女の夫へと向けられてものだ。妻の容態を気にしつつも、王太子の要求をはねつけるだけの気概もないのか、オフィディア候は渋々といった態度で部屋から出ていった。
「結婚が決まったそうね、リュ・リーン。おめでとう。わたくしはそれまで生きていないかもしれないから、今のうちにお祝いを差し上げるわ」
「そのように気弱なことを! 父上が嘆かれます。早く元気になってください、姉上」
 苛立った口調でリュ・リーンが姉の言葉を遮る。彼の態度に、紗の向こう側からかすれた笑い声があがった。
「ずいぶんと背が伸びたのね。……死ぬ前にもう一度逢えて良かったわ」
「ラスタ・リーン姉上!」
 リュ・リーンの口調がさらに険しくなる。死ぬことを前提にした言葉など聞きたくない。自分はここに見舞いにきたのであって、遺言を聞きにきたわけではないのだ。
 しかし、リュ・リーンの思いを知ってか知らずか、ラスタ・リーンは自分の死を予見する言葉を覆しはしなかった。
「自分が死ぬか生きるか、判っているのよ。それだけ。悲観して言っているわけじゃないわ。……ねぇ、リュ・リーン。王宮の伽藍庭園はまだ綺麗に整備しているかしら? 荒れ果ててはいない?」
「えぇ。今は花たちは眠っていますが、春には赤や白の花たちで賑わうでしょう。皆で植えたナナカマドも花をつける──」
 肩を落とし、ため息をつきながらリュ・リーンは姉の言葉に答えた。彼女の瞳は自分を映しているだろうが、実際に見ているのは今ここにいるリュ・リーンではなく、幼い頃、たった一度ではあったが姉弟全員で訪れた伽藍庭園での光景だ。
 光り輝いていた幸福なひとときだった。リュ・リーンのなかではおぼろげな記憶でしかないが、子どもたちの守り役たちをすべて退け、両親と姉弟だけで過ごした数少ない想い出の場所だ。
 王宮のなかで、ほとんど顔を合わせることのない姉弟たち全員が逢えたわずかな時間だった。毎年夏の間は戦場に出ている父王が、その年はずいぶんと早く帰還でき、のんびりと家族だけでくつろげるとは、望外の幸運であっただろう。
 あの風景を憶えているからこそ、自分たち姉弟は決定的にいがみ合うことなく今に至っている。
「秋の終わりだったわね。赤く色づいた蔦葉や枯れずに最後まで咲いていた紅いカリアスネが、とても綺麗な色をしていて……。リュ・リーンはまだお母様に甘えたい盛りで、わたくしが成年を迎える頃だった。あれが子供時代の──お母様との最後の想い出」
 リュ・リーンは姉の言葉に応じることができず、立ち尽くしていた。姉の言うとおり、あれが母が王宮の外に出られた最後の機会だった。その後すぐに母は胸の病を患い、翌年の冬に悪化すると大量に吐血して他界したのだから。
「ねぇ、リュ・リーン。お祝いは何が欲しい?」
 ふとラスタ・リーンが我に返り、リュ・リーンを呼ぶ。姉の問いに、王子は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに口を引き結んで微かな微笑みを浮かべた。
「姉上のお顔を見せてください」
 天蓋から戸惑いの気配が伝わる。しかし拒絶の言葉は聞こえてこない。再び、リュ・リーンが顔を見せてくれと声をかけると、天蓋の紗が微かに揺れた。
「病んだ姿を見せろというの? 化粧もしていないわ」
「姉上のお顔を見ないまま帰れと仰るのですか?」
 弟の表情のなかに何を見たのか、ラスタ・リーンは長い長いため息をつく。
「ここに、おいでなさい」
 頑固な弟に諦めたのか、意外とあっさりラスタ・リーンは王子を手招きした。姉が心変わりしないうちにと、リュ・リーンは足早に天蓋に近寄り、姉が作った紗の隙間から天蓋のなかへ割り込んだ。
 ラスタ・リーンの顔色はかなり悪かった。身体も随分と痩せている。夏のわずかな間だけで病が急速に進行したらしい。病んでなお輝きを失わない金髪と、深い蒼色をした瞳の大きさばかりが目立った。
 彼女の色を失った唇が弱々しい笑みを刻む。
「ひどい有様でしょう?」
「……いいえ。今もお綺麗です」
 嘘ではなかった。痩せ衰え、身体が弱っていてさえ、姉は光に包まれているようだった。ただ、この痩せ方に憶えがある。
「姉上……。やはり胸を──?」
 死に際の母によく似ていた。ラスタ・リーンの容姿は父親であるシャッド・リーンに似て華やかだったが、痩せて眼の大きさばかりが目立つ顔は、亡くなる前の母の状態にそっくりだった。
「そうよ。移るかもしれないから側に来て欲しくなかったのに」
 リュ・リーンはベッドの縁に腰を降ろすと、姉の細い指をとり、そっと握りしめた。なんという細い指だろう。危うく力を入れすぎたら折ってしまいそうだ。幼い頃に、繋いだ手はもっとふくよかであったのに。
「皮肉ね。エミューラ・リーン姉様のほうがお母様に似ているのに、死に方はわたくしのほうがそっくりになりそうよ」
「やめてください。まだ、希望はあります! 遠方の国の薬を手に入れましょう。国中の医者を集めて……」
 リュ・リーンの言葉にラスタ・リーンが微笑みを浮かべる。その表情にリュ・リーンは言葉を詰まらせた。
 それは死を悟った者の顔だった。諦めて自暴自棄になっているわけではなく、ただあるがままに、命の灯火が消える日を待っている表情だ。
「死ぬのは、怖くないの。死の王が迎えにきても平気よ。きっとルヴュール神は、リュ・リーンによく似た綺麗で優しい顔をしているでしょうから」
 自分の顔が綺麗で、しかも優しいはずがあるものか! リュ・リーンは喉まで出かかった叫びを呑み込んだ。姉は病に臥す自分を嘆くどころか、死を楽しんでいるように見える。
「首が据わったばかりの黒髪の赤子に逢ったときは、怖かったわ。本当に。死の神が目の前にいるような気分になってね」
 王太子の胸がチクリと痛んだ。皆がそう思っているだろう。自分の黒髪と暗緑の瞳は、この国の人間には死そのものだから。生の対極にあるものが目の前に立っていて怖れるなというほうが無理というものだ。
 それでも、周囲の人間の反応や言葉は否応なしにリュ・リーンを傷つける。
 顔をしかめたリュ・リーンにラスタ・リーンが笑いかけた。青ざめた肌に、ほんのわずかだが赤みが戻ってきている。
「でも、あの伽藍庭園で走り回っている男の子は、とても綺麗な瞳をしていた。わたくしたちは知っているわ。その鉄仮面の下にどんな優しい顔を持っているのか」
「姉上……。それは買いかぶりすぎです」
 リュ・リーンの囁き声にラスタ・リーンがそっと俯いた。
「ごめんなさい。わたくしたちの態度がリュ・リーンを傷つけているのよね。死を怖れるばかりに、死の神に似ているというだけの理由で……」
 何も答えないリュ・リーンを伺い、ラスタ・リーンの視線がチラリと上がり、すぐにまたベッドの上に落とされた。
「リュ・リーンを傷つけたかったわけではないのよ。知らない死というものが、怖かっただけ……。でも、もう怖くないわ。全然、怖くないのよ。お母様の穏やかな死に顔を見てからは、全然怖くないの。わたくしも静かに逝ける──」
 ラスタ・リーンの指を握っていたリュ・リーンの手に力が込められた。その僅かに強められた力に答えて、ラスタ・リーンも細い指で握り返す。
「また次に生まれていくための、魂の船に乗るだけよ。寂しくないし、怖くもない。だから、またどこかで逢いましょうね、リュ・リーン?」
 顔を上げたラスタ・リーンは、やつれた顔に花のような笑みを浮かべていた。光を弾き、自身が輝きを放っている金色(こんじき)の花のような笑みを。
 リュ・リーンは強ばる顔になんとか笑みを刻み、小さく頷くしかなかった。死の息吹は戦場で間近に感じたことがある。しかし、こんなに穏やかに寄り添う死は知らない。
「また皆と一緒に、あの伽藍庭園で遊ぶのよ。小さかったナナカマドが、大きくなって迎えてくれるわ。だから、そのときには迎えに行ってあげる。きっとリュ・リーンは不慣れで迷子になってしまうでしょうから」
 唇を噛みしめて胸に刺さる痛みをやり過ごすと、リュ・リーンはようやくしっかりと笑みを口元に刻んだ。
「お願いします、姉上。母上と一緒に迎えにきてください」
 満足げにラスタ・リーンが頷き、口を開きかかったとき、部屋の入り口に人の気配がした。心配したオフィディア伯が様子を見に来たのだ。
 紗の間からのぞく姉弟の様子に一瞬狼狽した表情を浮かべたが、館の主は何も言わず、再び姿を消した。
「サイモスが心配しているわ。行きなさい。……また逢いましょう」
 リュ・リーンは名残惜しげに口を尖らせたが、姉の言葉に素直に従って立ち上がった。しかし、すぐには戸口へと向かわず、握りしめたままの細い指先にそっと口づけを落とし、低く囁いた。
「また、お逢いしましょう」
 胸が苦しかった。鋭い剣をねじ込まれたとしたら、こんな痛みが走るのだろうか? そう思うくらいに苦しかった。それを無理矢理にねじ伏せると、リュ・リーンは自分にできる最良の微笑を姉に向ける。
「さよなら。また逢いましょう。……今日はわたくしが見送るわ。わたくしの旅立ちのときには、リュ・リーンも皆と一緒に見送ってくれるでしょうから」
 姉の言葉に頷き返し、リュ・リーンは彼女に背を向けて歩き始めた。背中に暖かい視線を感じる。それは日だまりのようにリュ・リーンを包み込んでくる。
 戸口の陰で佇んでいる義兄に面会の礼を伝えると、リュ・リーンは最後にもう一度天蓋のなかの姉と視線をかわした。姉の大きな瞳が笑みに細められる様を確認し、リュ・リーンは今度こそ廊下へと歩み出した。
 もう二度と振り返らない。
 次姉ラスタ・リーンが、長い旅路へと出発したという知らせがリュ・リーンの元へ届いたのは、冬の寒さがもっとも厳しくなる時期のことであった。

〔 16428文字 〕 編集

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■メール


編集

■カレンダー:

2000年8月
12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031

■最近の投稿:

■日付一覧:

■日付検索:

■ハッシュタグ:

  • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)

■新着画像リスト:

全0個 (総容量 0Bytes)

▼現在の表示条件での投稿総数:

1件