石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔26日前〕 RSS Feed

後日譚

No. 79 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第09章:竪琴

 半年ぶり以上の王都(ルメール)であったが、リュ・リーンはそれほど深い感慨を抱くこともなく大通りを駆け抜けていった。
 本来なら聖地にずっと留まっていたかった。だが、母国に戦勝報告をしていない。面倒なことであったが、それを終わらせないことには、彼の戦は本当の意味で完結しないのだ。
 海のある西側から肌を刺す寒風が吹きつけ、凍てついた大地は石よりも硬く、騎乗している愛馬の蹄を容赦なく酷使させる。彼が生まれ育った大地は今まさに氷の大地へと変貌しているところだった。
 常に黒衣をまとっているリュ・リーンの姿は、雪が舞い始めた白銀の世界ではよく目立つ。地響きを轟かせて近づいてくる馬影に、家々の戸口には王都の住民たちが顔を覗かせた。
 その目の前を駆け去っていく未来の王に彼らは口々に歓声を送ってくる。リーニスに侵攻してきたカヂャ公国軍を、完膚無きまでに叩きのめした王子の戦いぶりは、すでに人々の知るところとなっていたのだ。
 リュ・リーンが王宮に近づいていくと、扉を固く閉ざしていた城門がギシギシと軋んだ音を立てて開いていった。
 その空間を当たり前のようにして駆け抜けると、リュ・リーンは下馬庭まで一気に駆け寄った。背後に続く騎士たちもそれに倣って付き従う。
「リュ・リーン殿下、ご帰還!」
 城門周辺を守護している兵士たちの間から、轟くような歓声があがった。その騒乱のなか、リュ・リーンは相も変わらず無愛想な表情のままで馬を下りる。
 すぐに近寄ってきた馬丁に手綱を手渡し、疲弊気味の愛馬の首を柔らかく叩いて労ってやる姿に馬丁が苦笑を漏らした。この王子は人間よりも動物に優しい。
「こいつもよく走って疲れたでしょう。たんまりと褒美をやることにしますです、殿下」
 真面目腐った口調の馬丁にチラリと視線を走らせると、リュ・リーンは微かな笑みを口元に湛えた。
「あぁ、頼む。ほとんど毎日乗り回していたからな。よくやってくれたよ。ゆっくりと休ませてやってくれ」
 馬丁は、滅多に口をきかないリュ・リーンが笑みまで浮かべて声をかけてきたことに驚いた。この夏の間に、王の跡取りは身体だけでなく、精神も随分と成長したようだ。
「それとも、聖地の綺麗なお姫様を妃に迎えるってんで、あの仏頂面の王子様でも嬉しいのかねぇ」
 旅用の簡素なマントをひるがえして去っていく王子の背中を見守りながら、馬丁は嬉しそうに微笑んだ。何にせよ、王子の顔に笑みを見つけることは稀なことだ。今後、その機会が増えるというのなら、喜ばしいことだった。
 馬丁から評価を上げてもらえた当のリュ・リーンのほうはと言えば、表面上は浮かれた様子などまったく見せていなかった。いや、実際のところは鬱屈とした気分でいたと言ってもいいだろう。
 王都へと帰還しなければならない時期がきたとき、彼は身を引き裂かれるような思いで聖地を後にしてきたのだ。カデュ・ルーンがいない場所はなんと味気なく、灰色に染まっていることか。
「おや。英雄のお帰りで。ようこそ、ようこそ」
 粘質の強い声に背筋を撫でられ、リュ・リーンは思わず身震いしそうになった。前方の廊下の支柱に寄りかかるようにして、三十そこそこの男とその取り巻きらしい数人が立っている。
 王宮へと足を踏み入れ、父王の待つ居室へと向かおうとしていたところだ。その宮殿のなかでも深部に近い場所に出入りできる者は限られている。
「これはギイ伯爵。そんなところで何を?」
「なぁに、大事な義弟殿の無事を確認しに参ったのですよ。よくぞ生きて帰られた。カヂャの蹄に蹴散らされはしないかと心配しておりましたぞ」
 ギイと呼ばれた男の明るめの青い瞳が、ギラリと光る。その眼は「どうして死んでくれなかった」と非難がましくリュ・リーンを責め立てていた。その取り巻きたちも口にこそ出さないが、友好的とは言い難い視線をリュ・リーンへと浴びせる。
「お心遣い感謝しよう。そうそう、姉上はいかがお過ごしです? 随分とお逢いしておりませんが」
「もちろん、元気ですとも。元気でいてもらわなくては。私の大事な妻ですからねぇ。それにしても、義弟殿。戦場ではこの王都よりも美味いものを食べさせてもらえたようで。その勢いで身長が伸びては、いずれ宮殿の天井を突き抜けてしまわれるのではないか?」
 クスクスと喉の奥に絡まるような笑い声をあげながら、リュ・リーンの義兄は冷たい視線を送り続けてきた。半年ほど見ない間に伸びたリュ・リーンの身長ですら、目の前の男には鬱陶しかったのだろう。
「ご忠告通りにはなりますまいよ。俺は父に似ているそうだからな。……では、失礼する。王に報告をせねばなりませんから」
 相手の冷笑に負けない冷たい笑みを口元に浮かべると、リュ・リーンは男たちを押しのけるようにして宮殿の奥へと向かった。
 その彼の背を憎しみの籠もった幾対もの瞳が見送っている。それを背に痛いほど感じながら、リュ・リーンは苛立ちに眉をひそめた。
 戦に圧勝したとしても、王都の人間が自分に向ける視線が変わることはないだろう。その評価を完全に覆すには、リュ・リーン自身が王位に就き、彼らに忠誠を誓わせるしかあるまい。
 奥宮殿へと足を向け、父王が待つ部屋への取り次ぎを頼むと、リュ・リーンは控えの間をウロウロと歩き回った。帰ってきてすぐだというのに、宮殿に立ち込めている毒の臭気に吐き気がする。
「カデュ・ルーン……」
 氷原の向こうの街に残してきた娘の名を呟くと、リュ・リーンは暖炉のなかで揺れる炎をじっと凝視した。揺らめく赤い手がかつて彼女が舞っていた舞の動きに見えてくる。
 彼女を守るのだと心に誓いながら、それでもリュ・リーンの内心から不安は去らなかった。こんな場所に彼女を連れてこなければならないのかと思うと、それだけで暗澹とした気分になってくる。
 頑強な壁を拳で殴りつけ、リュ・リーンは小さくうめいた。
「彼女に何かあったら……俺はどうすればいいんだ」
 無意味に募る焦燥感を落ち着けようと、リュ・リーンは幾度も深い呼吸を繰り返し、脳裏に銀の舞姫を思い描いた。不思議と、彼女の笑顔を思い出すと心が鎮まってくる。
 眼を軽く閉じ、眼裏(まなうら)の花の微笑みに微笑み返すと、リュ・リーンは安堵したように肩から力を抜いた。昔ならまだ不機嫌さを引きずっていただろうに、今は彼女を思い出すたびに、僅かではあるが心に静穏が訪れる。
「カデュ・ルーン」
 彼女の名を呼べば、心の奥底に暖かい灯火が点る。本当に、彼女の名にはいったいどんな魔法がかけられているというのだろうか?
 廊下から足音が聞こえてきたのは、そんなときだった。
 その足音が控えの間の前で止まり、その足音の主は無遠慮に大きく扉を開いた。その空間から大柄な男が室内へと滑り込んでくる。
「お、親父! こんなところまで何しに出てきた」
 本来なら息子であるリュ・リーンが王の居室に案内されるはずだ。それが、王自らが控えの間まで足を運んでくるとは。いかにも腰が軽い国王である。
「リュ・リーン~。息災であったかぁ~?」
 半年前と変わらぬ間延びした声に、リュ・リーンは脱力したように肩を落とした。ときどき、自分の父親が本当にこの男なのかと疑いたくなる。こんなとぼけた王がどこにいるというのか。
「元気だからこうして報告に戻ってきたんだ。どこを見てるんだ、まったく」
「んふふ~。やぁっと背が伸びたなぁ」
 大股で息子に歩み寄ると、トゥナ王は息子の顔を両手で挟み込んでじっとその暗緑の瞳を覗き込んだ。
 かつては腰を屈めなければ、間近に見ることができなかった息子の瞳を、今は悠々と見ることができる。息子の身体の成長ぶりにそうごを崩すと、王は子どものような笑い声とともに息子の頭をグリグリとなで回した。
「うわっ。やめろってば。俺はもう子どもじゃないんだぞ!」
「いや~。子どもだ、子ども~。リュ・リーンはぁ、いつまでたっても~、余とミリアの子どもだぞぉ?」
 どうしようもないほど笑み崩れている父親の顔を見上げ、リュ・リーンは困惑とともに苦笑いを浮かべた。どこまで真実で、どこまで偽りなのか判らないが、父王の態度が今はひどく懐かしい。
「この調子ならぁ、来年の冬には余の背に追いつくな~」
 いつまでも息子の髪をくしゃくしゃと掻き回している王に、リュ・リーンが苦笑混じりの声をかける。
「これじゃ、いつまで経っても戦勝の報告ができないんだがな、親父」
「おぉ~。そうそう~。忘れていたぞぉ。……でも、お前が報告せんでも、ウラートからちゃ~んと聞いているがなぁ」
 戦地からリュ・リーンに付き従っていたウラートが報告書を送り続けていたのだろう。トゥナ王はニヤリと口元をつりあげて悪戯っぽい笑みをみせた。
「どうせそんなことだろうと思った。しかし、今回の戦は親父が裏でグンディを牽制してくれたお陰で助かったよ。せっかくトゥナが勝っても、ゼビやミッヅェルがグンディに呑まれていたんじゃ目も当てられないからな」
 手近な長椅子に腰を降ろしたトゥナ王がさも楽しそうに息子を見上げる。そして、リュ・リーンが思ってもみなかった言葉を突きつけてきた。
「んっふっふっ。よく判っているじゃないかぁ。それでぇ、聖地ではカデュ・ルーン姫といいことしてきたか?」
「な、なななな……! 何を……!」
 真っ赤な顔色になった息子の様子に、トゥナ王シャッド・リーンはつまらなさそうに口を尖らせた。
「こ、このスケベ親父! どうしてそういう話が出て来るんだ。俺と彼女はまだ婚約したばかりで、結婚しているわけではないんだぞ!」
「なんだ~? まだなのか~? チェッ。早く孫の顔がぁ、見たいのにな~。どうせ来年には一緒になるならぁ、早いも遅いもないがなぁ」
「けじめってものがないのか、親父には!」
「けじめ~? だって、お前ぇ、竪琴(リース)を置いてきたんだろうぅ? あれの意味が判ってないのか~?」
 突然に出てきた竪琴リースという単語に、リュ・リーンは戸惑い、それを贈る意味を真面目に考え始めた。
「確か竪琴(リース)の意味は“汝、その音色にて我を慰めよ”だったと──」
「そうそう~。で、それから~?」
「そ、それから? それ以外の意味があるのか!?」
 息子の狼狽ぶりにシャッド・リーン王は呆れたように目を見開いた。
「リュ・リーン~。もしかしてぇ、本当に知らないのか~?」
 父親が目の前で深いため息をつく姿を見て、リュ・リーンは顔を強ばらせる。いったい竪琴(リース)を贈るということにどんな意味が込められているというのだ。
 返事もできずに突っ立っている息子を差し招くと、トゥナ王は自分の隣の席へとリュ・リーンを座らせた。
「あのなぁ、竪琴(リース)という単語は女性詞だろう~? だからぁ、特定の女の姿を指すんだなぁ」
 ため息混じりの父の口元を凝視して、リュ・リーンは一語一句を聞き逃すまいと息をひそめる。そんな息子の様子に、トゥナ王はますますため息をついた。
「その特定の姿ってのはなぁ~……」
 ふとそこで口をつぐむと、シャッド・リーン王は生真面目な顔をしている息子の耳元に口を寄せ、ごにょごにょと小声で囁きかける。途端、リュ・リーンの顔が先ほどの赤面以上に赤くなった。
「女の……声? それも……それも……」
 動揺に震える息子の声に、トゥナ王は再びため息をついた。トゥナの王族男子なら、成年の儀式の一部で経験済みであろう。だが、目の前の息子がその場数を踏んでいるとは思いがたい。
 この手の恋愛の駆け引きにはまるで疎い息子の横顔を苦笑混じりに眺めると、トゥナ王は励ますようにその背を叩いた。
「まぁ、なるようになるさ~。どうせ来年にはぁ、カデュ・ルーン姫はここにくるんだからぁ~。というわけでぇ、孫の顔を~楽しみに待ってるぞぉ」
「そんな……。そんなバカな……。俺はそんなこと全然知らなかったぞ……。そんな……」
 もはや息子が自分の声など聞いていないほどの衝撃を受けていることに、トゥナ王はようやく気づいた。鈍すぎるのも良し悪しだが、どうやら息子の場合はこちらの知識のことも鍛え直しておく必要性があるようだった。
「嘆くな、リュ・リーン~。父がついておるだろぅ?」
 悄然と肩を落とすリュ・リーンが、恨みがましそうな視線を父へと向けた。なんの慰めにもなっていないような父親の言葉に、文句の一つも並べてやりたいところだろう。
「どうしてあのとき、竪琴(リース)なんか持ってきたんだよ! あれさえなかったら、こんな恥ずかしい想いしなくても良かったんだぞ」
「そうか~? でも、そうなったらぁ、お前はこれからもずぅっとぉ、知らないままだったんだぞ~?」
「うぅ……。そ、それは……。で、でも! カデュ・ルーンがこのことを知っていたら……知っていた……ら……」
「ま~、知ってるかもなぁ」
「あぁっ! 耐えられない。彼女の前で俺はどれだけバカ面をさらしていたんだ!?」
 呻き声とともに頭を抱えたリュ・リーンの背を再び叩くと、シャッド・リーン王は少しも慰めにならない言葉を息子に贈った。
「リュ・リーン~。長い人生のなかにはなぁ、幾つかの汚点も残っているものだぞ~」
「こんな汚点なんかいらない! まだ負け戦のほうがマシだ!」
 父の言葉に反論しながら、リュ・リーンは自分の片手で自分の首を締めつける。こうでもしないと、叫びだしてしまいそうだ。
 なんという失敗だろう。これまで、彼女がリュ・リーンの贈った竪琴(リース)を奏でている音色を平然とした顔で聞いていた。その音色を思い出すたびに、自分の無知に罵声を浴びせてやりたくなってくる。
 竪琴(リース)を贈るという意味にそんなものが含まれているなんて、少しも考えつかなかった。女が、寝所であげる泣き声だなんて……!
 彼女はなんと思っただろう? しかも、贈っておいて何もしなかった自分を、どう感じただろう?
 信じられない失態に、リュ・リーンは呻き声をあげ続けた。




「素晴らしい勝ち戦だったとか……。王国中、殿下の噂で持ちきりでございますよ、リュ・リーン様」
「戦模様をぜひともお聞きしたいものですな。きっと、他の者も聞きたがっておりますぞ」
 もったいぶった口調の貴族たちに取り囲まれ、リュ・リーンはうんざりしていた。なぜ彼らと楽しくもないのに、一緒にいるのだろうか。まだ始まったばかりの饗宴の空間を、リュ・リーンは冷めた視線で見回した。
 王都に帰ってきてからのリュ・リーンは、表面上は戦の起こる前と大差ないように見えた。身長が飛躍的に伸びて同年代の若者よりも高くなったお陰で、彼の欠点をあげつらう箇所が減り、不満に思っている輩もいるようであるが。
「我が娘など、殿下の姿絵を買い求めておりますぞ」
「姿絵……?」
 芳しくない表情のまま、リュ・リーンは隣でおしゃべりを続ける男の顔を見返した。いま、彼はなんと言ったか?
「そうそう。街でもあちこちで飛ぶように売れておるとか。今では宮殿どころか、王国中の女たちの憧れですな」
「どうしてそんなものが出回っている?」
「もちろん。リーニスの朱の血戦の英雄に娘たちが熱をあげているせいではありませんか」
「誰もかれも、殿下に夢中でして。他の公子たちが妬むほどですぞ」
 リュ・リーンの声が一段と低くなったことにも気づかず、貴族たちは下品な笑いを口元に浮かべている。彼らには、リュ・リーンの声の調子から王子の機嫌の善し悪しを判断することなどできないのだろう。
 元から鋭いリュ・リーンの視線が、いつもに増して険しくなった。
 自分の知らないところで、自分の虚像が勝手に歩き回っている。顔も知らない女たちが身勝手な想像で王子に憧れを抱くのは自由だが、それでリュ・リーンの気分がよくなるわけではない。
 苛立ちを込めた視線を周囲を取り巻く男たちに送ってみるが、彼らはいっこうにリュ・リーンの不機嫌さに気づいていなかった。
 こんなときにウラートがいたならば、彼がさりげなく不愉快な連中からリュ・リーンを遠ざけてくれたことだろう。しかし、ウラートがいない今は、リュ・リーン自身がなんとかしなければならなかった。
 リュ・リーンは全身から不機嫌さを放出して気難しい顔をしている。ところが、貴族たちはそれを照れとでも受け取ったのか、なおも揶揄するようにしゃべり続け、遠巻きにリュ・リーンを眺めている貴婦人たちへと意味ありげな視線を送っていた。
 不快感にリュ・リーンの背中には虫酸が走っている。もうこれ以上は辛抱できないギリギリいっぱいのところだ。
 と、そのとき。饗宴の広間にさざ波のように歓声が広がっていった。
 振り返ったリュ・リーンの視線の先に、数名の女が目に入った。他のどんな貴婦人たちよりも華やかに、艶やかに、堂々と人垣を割っていく彼女らのすぐ脇には、女たちを引き立たせるためにいるとしか思えないような男たちが寄り添っている。
 うっすらと、リュ・リーンの口元に嘲弄が浮かんだ。男たちは威厳を保とうと必死なようだが、隣りに立つ女たちのほうが数段貫禄があるように見えるのだ。リュ・リーンには、どんな道化の狂態よりも滑稽な光景に映った。
 人の波を掻き分けて進む集団が、リュ・リーンのいる場所へと一直線に向かってくる。その様子を、リュ・リーンは黙って見守っていた。自分のほうから近づいていこうとはしない。
「ごきげんよう、弟殿。今回のお手柄、お祝い申し上げますわ」
 リーニス地方に広がっていた秋の麦穂を思わせる豊かな女の声に、リュ・リーンは慇懃に腰を折った。長姉エミューラ・リーンが、他の姉たち数人を引きつれてリュ・リーンのために催されている饗宴へとやってきたのだ。
 それまでリュ・リーンを囲んでいた貴族たちが、遠慮した様子ですごすごと引き下がっていく。その逃げ足を内心で嘲笑いながら、リュ・リーンは姉の白い手をとり、薄い手袋に覆われた爪先に接吻を落とした。
「姉上も相変わらずお美しく、お健やかなご様子で何よりです」
「お前も相変わらず綺麗な顔ね。背も伸び、すっかり凛々しくなったこと。我が家の年若い侍女たちまでお前の話ばかり。黒衣の王子は、かしましい女たちの噂の種よ」
 無表情なリュ・リーンの顔をじっと観察していた姉たちが、小さく喉の奥で笑い声をあげた。皆、それぞれに父母の美貌の恩恵に預かり、光り輝かんばかりの華やかさがある。
 その中でも、長姉エミューラ・リーンはもっとも母親の容姿を濃く受け継いでいると聞く。栗毛の滝髪を高く結い上げた髪型の下に覗く、すんなりとした(おとがい)の輪郭が、リュ・リーンのなかのぼんやりとした記憶の母と重なっていった。
 ふと、この場にいる姉たちの数に気づき、リュ・リーンは首を傾げた。
 彼女たちの数は四人。リュ・リーンには六人の姉がいる。数年前に他界した一番下の姉を抜けば、この場には五人の姉が揃っていなければならないはずだ。
 長姉のエミューラ・リーンに気取られていて、リュ・リーンはそのことにようやく気が付いた有様だった。
「ラスタ・リーン姉上はどうされました? お姿が見えないが……」
 この場に居ないのは次姉である。すぐ下の妹を思いやっているのか、長姉エミューラ・リーンの表情が翳った。
「夏の終わりに体調を崩してね……。以来、床に臥せっているわ」
「それほどお加減が悪いのですか? 少しも知りませんでした」
「お父さまが、あなたには知らせないように仰ったのよ。お姉さま、すっかり痩せてしまわれて……もう……」
 胸を詰まらせて涙ぐむ三番目の姉の肩を、エミューラ・リーンがそっと抱き寄せて首を振る。
「まだ、どうかなったわけではないわよ、セイシャ・リーン。お祝いの席で、こんな湿っぽい話は止めましょう。……ねぇ、皆さん。楽師に竪琴(リース)を弾かせてちょうだいな。今日は弟の戦勝祝いなのですからね」
 声を高くしたエミューラ・リーンの態度に、沈みそうになった場の雰囲気が再び華やいでいった。
「リュ・リーン……。ちょっとこちらへ……」
 長姉エミューラ・リーンが手招きして末弟を側に呼び寄せたのは、王の娘の病の翳りをうち消すように賑々しく楽師たちが音楽を披露し、人々がその音色に合わせて踊り始めた頃だった。
「おや、エミューラ。我が愛しの妻よ。またまた君は弟殿を独り占めかい?」
 粘質な男の声に、リュ・リーンは一瞬だけ厭そうな表情をしたが、それをすぐにヴェールの奥へとしまい込んで、いつもの無表情に戻った。
「まぁ、シロン。あなた、義弟にやきもちでも焼いているの? わたくしの夫はそんなに狭量な男だったかしら」
 わざとらしく肩をすくめるエミューラ・リーンに、彼女の夫であるギイ伯爵はムッとした表情で答えを返した。
「もちろん、やきもちなんか焼いているものか。しかしね、君。英雄を独り占めというのは良くない。彼は王国中の宝ではないかね」
 皮膚の上をまとわりつく男の声に、リュ・リーンは小さく身震いする。何度聞いても、馴染めない男の声だ。どうしてこんな男が自分の義兄であるのか、ほとほとうんざりしてくる。
「あら、すぐにあなたがたの英雄はお返しするわよ。でも、ほんの少しくらい、弟とお話させてもらっても文句を言われる筋合いじゃないと思うわ。そうでしょ、シロン?」
 あどけない童女のように無垢な微笑みを夫へと向けたあと、エミューラ・リーンは弟の背を押して幕間を通り抜け、バルコニーの一角に腰を落ち着けた。
「嫉妬深い夫を持つと大変だわ。そう思わないこと、リュ・リーン?」
 苦笑いを浮かべる姉の言葉に同調することなく、リュ・リーンは無表情のまま眼下のポトゥ大河を眺めている。この河の上流、遙か大タハナ湖の畔に立つ都にいるはずの恋人を想いながら。
「相変わらず無愛想ねぇ。その態度じゃ、うちのオリエルが癇癪を起こすのも無理ないわね」
「別に謝るつもりはありませんよ。十歳の子どもと見合いさせられたこちらの身にもなってもらいたい。俺は子守じゃありませんからね」
 冷え冷えとしたリュ・リーンの声に、エミューラ・リーンがつまらなさそうにため息をついた。
「なんて愛想のない叔父様かしらねぇ。可哀想なオリエル。こんな人と一緒にならなかっただけ幸せってことかしら」
「嫌味を言うためにこんなところに引っ張ってきたのですか、姉上? 娘のオリエルとの縁談を持ちかけてきたのはそちらでしょう。そのあとに、断ってきたのもそちらだ。俺にとやかく言うのは止めてくれ」
 苛立ちの籠もったリュ・リーンの声に、彼の姉は小さく(かぶり)を振って肩をすくめた。
「オリエルとのことをうるさく勧めてきたのは、シロンのお父上よ。判っているでしょう。先の国王陛下、わたくしたちのお祖父様が奴隷に産ませた娘を貰い受けてから、ずっと、あの人は王家に劣等感を抱いているのよ。末っ子のシロンを……王家の姫に産ませた子どもの血筋を少しでも王家そのものに近づけようと必死」
「それで、姉上は同情して自分の娘を、自分の弟と見合いさせたと? ばかばかしいにもほどがある! ギイ伯は現国王の従弟という地位と、未来の国王の義兄という地位があるではないか。それ以上を望むとあらば……」
「望めるのなら、玉座そのものを欲しがるわよ、あの人」
 リュ・リーンの言葉を遮って、エミューラ・リーンは不吉な声をあげる。ひそめた声の迫力にリュ・リーンが眉を寄せた。
「娘との縁談は、きっとお前が壊してくれると踏んでいたから、他からなんと言われようが平気よ。オリエルの癇癪をなだめるのが大変でしたけどね。でも、お前が妃を迎えるなれば、また状況が変わってくるわ」
「彼女に手出しするなら、姉上でも容赦しない!」
 リュ・リーンの声が一気に殺気立つ。普段から人々が怖れる彼の瞳の色が、夜の闇のなかで、鋭すぎる輝きを点した。その様子を見て、エミューラ・リーンが身震いする。
「いつ見てもぞっとするわね、お前の瞳の色は……。いいわ。お前にその覚悟があるなら大丈夫でしょう。自分の妻を守るための努力を惜しまないことよ。お前自身とともにね」
 黙ったまま姉を睨みつけている弟に微かな微笑みを浮かべると、エミューラ・リーンは弟と並んで大河を見下ろした。
「まわりに無関心だったお前を夢中にさせるなんて、どういう娘かしらね。綺麗な子? 優しい子なのかしら?」
「……美しい、白いカリアスネの花のような人です」
 夜風に吹かれながら、リュ・リーンは淡い微笑みを口元に浮かべる。弟の整った横顔を見つめていたエミューラ・リーンが満足そうに頷いた。
「お前のそんな顔は初めて見たわ。良い娘なのでしょうね。今から逢うのが楽しみよ」
 姉の囁き声に、リュ・リーンは意地の悪い笑みを湛えて混ぜっ返した。
「自分の娘をフッた男の妻のあら探しでもするつもりでしょう?」
 そのリュ・リーンの言葉に、エミューラ・リーンが鼻で笑う。さも気味がいいといった態度で弟を見遣ると、風に絡まる後れ毛をなで上げた。
「もちろんですとも。娘の敵討ちもさせてもらえないなんて、母親として、これ以上つまらないことはないわ」
「彼女を泣かせたら許しませんよ、姉上。俺の恐ろしさはご存知でしょうが」
 充分に凄みを効かせたつもりだったが、リュ・リーンの言葉にも恐れ入った様子など見せず、エミューラ・リーンは楽しそうに喉の奥で笑っている。「心得ておくわ」と答えながら、その瞳は大きく笑み崩れていた。
 姉の態度に憮然とした様子だったリュ・リーンが、ふと思い出したように次姉の容態を問いただした。弟の言葉にエミューラ・リーンの顔も翳りがちになる。
「あまり良くはないわ。寒くなってきているから、身体にずいぶんと負担がかかっているかもしれないし。……あぁ、でもお前に心配してもらっていると知ったら、あの子のことだからすぐに良くなるわ」
 弟の無表情な顔のなかに、ラスタ・リーンを案じているらしい様子を見つけて、エミューラ・リーンが穏やかな笑みをもらした。怪訝そうにこちらを伺う、警戒心いっぱいの弟の態度はついからかってやりたくなる。
「あぁ、それとも。お前の姿絵を枕元に張って眺めているくらいだもの。心配してもらっているなんて知ったら、そのまま嬉しさのあまりに昇天してしまうかしらね?」
「な、なんでラスタ・リーン姉上まで俺の姿絵を持っているんですか!? 冗談じゃない! そんなもの、枕元に張るのは止めさせてください」
 リュ・リーンの悲鳴混じりの抗議にも、エミューラ・リーンは涼しい顔のままだった。むしろ、姉を元気づけているのだから、とすぐ下の妹の肩を持つ始末だ。
「クソッ! カデュ・ルーンだって俺の姿絵なんか持ってないのに、どうして姉や知らない女の慰め者になど……」
「あぁら、失礼な子ね。姉が弟可愛さに姿絵を買い求めたっていいでしょうに。それに、モテない男より、モテる男のほうがいいでしょう? お前の大事な婚約者に聞いてごらん。きっとわたくしと同じことを言うから」
 余裕の表情でエミューラ・リーンは弟を見返した。その態度にリュ・リーンはますます焦れるが、彼の苛立ちは少しも姉には伝わっていないようだった。
「いいじゃないの。減るものでもなし」
「まさか、姉上……。あなたも俺の姿絵を持っているなんてことは……?」
 ニィッと口元を笑み崩す姉の表情に、リュ・リーンは今度こそ鳥肌を立てた。どうやら次姉だけではなく、この目の前の姉も自分の姿絵を持っているようだ。下手をすると他の姉たちも……。
「わたくしの集めたもののなかで、一番男っぷりのいいものをお前の婚約者に送ってあげましょうか? 夫の姿絵も持っていないようじゃ、妻としては哀しいでしょうからねぇ」
 嫣然と微笑みを浮かべる姉に、リュ・リーンは引きつった笑みを浮かべたまま切り返した。
「お心遣いは感謝しましょう。でも、けっこうですよ。彼女はまがい物の俺ではなく、本物の俺の側にいるのに相応しい人ですから」
「あらそう。残念だこと。……でも、なんて虐め甲斐のある子かしらねぇ」
 まとっていた衣装の裾をゆったりと持ち上げると、エミューラ・リーンはバルコニーから宮殿のなかへと歩を進めた。外気にさらされていたお陰で、身体はすっかり冷え切っている。これ以上、外での立ち話は無理だろう。
 悠々と歩み去った姉の姿が消えても、リュ・リーンは複雑な表情を浮かべたまま、引き下ろされている幕を睨んでいた。
 先日の竪琴(リース)の件といい、今回の姿絵のことといい、今まで気にも留めていなかったことが、次から次へと襲いかかってくる。まったく予想もしていない部分からの攻撃に、自分がこれほど脆いとは思ってもみなかった。
「カデュ・ルーン。まさか……あなたは、こんな俺に愛想を尽かさないよな?」
 自分の言葉にどっぷりと落ち込み、リュ・リーンは足の先から力が抜けていく感覚によろめく。バルコニーの手すりにもたれかかると、リュ・リーンはため息とともに銀星を見上げた。

〔 11909文字 〕 編集

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■メール


編集

■カレンダー:

2000年8月
12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031

■最近の投稿:

■日付一覧:

■日付検索:

■ハッシュタグ:

  • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)

■新着画像リスト:

全0個 (総容量 0Bytes)

▼現在の表示条件での投稿総数:

1件