第08章:封印
じっと寝椅子に座り込んでいたダイロン・ルーンの耳に、書庫の扉が開かれる密かな音が聞こえた。次いで柔らかな蝋燭の明かりが書庫のなかへと差し込んでくる。書庫の暗闇のなかで感じる蝋燭の灯火は、心に刺さった棘を溶かす暖かさがあった。
日が落ちたのだろう。空気がシンと冷えてきていた。思考のなかに沈んでいたダイロン・ルーンは、ようやく自分の指先が冷たくなっていることに気づく始末だ。
恐る恐る書庫内に踏み込んでくる足音は、まるで雪のなかを歩いているように小さな小さな音となって庫内に反響した。
「兄様……」
遠慮がちな妹の声にダイロン・ルーンがほんの少しだけ振り返ると、視界の隅に映った妹は弱い灯火のなかでもハッキリと浮かび上がるほど、きらきらと銀髪を輝かせて立っている姿が見えた。
「どうした、カデュ・ルーン?」
「お食事にも顔を出されないから心配で……」
ダイロン・ルーンは驚きに一瞬目を見開いた。そんなに時間が経っていようとは思いもしなかった。元から薄暗い書庫のなかでは時間の感覚が狂いがちだが、それにしても随分と長い間椅子に座り込んでいたことになる。
「ありがとう。すっかり忘れていたよ」
穏やかな兄の声に安心したのか、カデュ・ルーンは手にしていた蝋燭の炎を書庫の燭台へと移していった。小さな炎が幾つも闇のなかに浮かび、古びた本たちを照らし出す。
「あまり遅くに食事を摂るのは身体によくないわ。まだ食事はできますから、食堂に行きましょう?」
兄の視界に入るところまで歩み寄ると、カデュ・ルーンはいつもの無意識の癖でそっと首を傾げた。それを椅子に座ったまま見上げていたダイロン・ルーンが、目眩を起こしたように視線を外すと、戸惑い気味に顔を伏せて囁いた。
「あまり空腹を感じない。今日はこのまま眠りたいくらいだ」
ダイロン・ルーンの言葉に娘が手にしていた手持ち燭台を近くの小卓へと預け、そっと傍らに跪ひざまづいた。兄を見上げる小造りな顔立ちのなかで大きな若葉色の瞳が炎を受けてキラキラと輝いている。
「お加減が悪いの? だから今日は虫の居所が悪かったのかしら?」
兄の膝に手を乗せてその顔を覗き込む彼女の仕草は、母親が子どもをなだめる優しさがあった。その掌の温もりは遠い日の母の手を思い出させる。
狂気のなかで死んでいった母は不幸な女性だったのだろうか? 息子としてはそうは思いたくないところだ。しかし、現実は妹が生まれて以降、母は決して幸福そうな微笑みを表情に浮かべはしなかったのだ。
「体調は悪くないよ、カデュ・ルーン。お前が心配することじゃない」
「兄様はいつもそう言って一人で解決しようとするのね。わたしはそんなに頼りないのかしら?」
困ったように眉根を寄せてさらに首を傾げる妹は、夏の間に森の木々を飛び回っているリスのようだった。しかし、あどけない様子が抜けないにせよ、彼女はもう一人前に扱われる年齢になっていた。
「私は私自身のことを考えていただけだ。お前だって自分自身のことを考えることくらいあるだろう? 心配するな。どこも悪くはないさ」
妹を安心させようとダイロン・ルーンは娘の白い手の甲を軽く叩き、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて見せる。それでもまだ一抹の不安が拭いきれないのか、カデュ・ルーンは腕を伸ばして兄の頬に指先を滑らせた。
「わたしのことで思い煩っておいでだったのではないの? わたしが……あの力を持っているから……」
「そんなことあるものか。お前は自分の力の御し方を覚えただろう? 誰にも頼らなくてもお前ならちゃんとやっていける。……今日は少々ドジを踏んだんだ。それでついリュ・リーンに当たり散らしてしまった。後から詫びないといけないな」
不安そうに自分を見上げるカデュ・ルーンを安心させようと、ダイロン・ルーンはなおも微笑みを浮かべる。燭台の炎は薄暗く、書庫のなかにはまだ闇が深く垂れ込めていたが、そのなかでも判るようにハッキリとした微笑みだ。
兄の笑顔に安心したのか、カデュ・ルーンは兄の頬に沿えていた指先を放すと安心したように微笑みを浮かべた。その笑顔を見ているだけで小春日の日だまりを連想してしまう。
「兄様でも失敗をするのね。少し安心したわ。でも食事を摂らないのは良くないわ。一緒におつき合いするから、食堂へ行きましょう?」
自分に全幅の信頼を寄せる妹の微笑みにダイロン・ルーンは胸を詰まらせた。この微笑みをうち砕いてしまうことなどできようか。
「あぁ、判った。お前の言うとおりにしよう」
ダイロン・ルーンは妹の手を取ると静かに立ち上がった。この半年で妹の背も随分と伸びていたが、元が小柄なこともあり、彼女の外見はまだまだ華奢な印象を受ける。
供に食堂への廊下を歩きながら、二人は他愛ない話をして笑い合った。誰もが仲の良い兄妹だと噂する、穏やかで親しみのある空気がそこにはある。決して後ろ暗さなど感じない、ただ強い絆だけが存在した。
食堂では無数の燭台に灯火が揺れ、入ってきた兄妹を手招きする。聖地を統括する長の食堂だ。こじんまりとしたなかにも贅を尽くした調度品が並んでいた。
普通ならば養護院を出てカストゥール候の名を継いだダイロン・ルーンが、聖衆王と食事を摂ることなどあり得ない。だが、聖衆王の養女になったカデュ・ルーンの兄という立場と、聖衆王の甥という地位がそれを許していた。
本来なら与えられないはずの王宮の個人書庫にしても贅沢なことで、ダイロン・ルーンの同僚からみたら羨望を禁じ得ないに違いない。かつて机を並べて同じ学舎で学んだ友とはいえ、ダイロン・ルーンに嫉妬しない者はいないだろう。
しかし……、とダイロン・ルーンは内心で嘆息した。どれほどに恵まれた環境にいても心が満たされないことはある。むしろ養護院で他の孤児たちと供に、妹と寄り添って暮らしていた時期のほうが遙かに満たされていたのではないだろうか。
「また難しい顔をなさっているわ。今日はよほどの失敗をなさったの?」
自分の顔を覗き込んでくる妹の態度に苦笑いを浮かべて、ダイロン・ルーンは小さく肩をすくめた。
「そういうことはあまり詮索するものではないよ、カデュ・ルーン。憶えておきなさい。リュ・リーンが気難しい顔をしていても、あれこれと詮索しないほうがいい。男には考えることが山ほどあるんだ」
「まぁ。女が何も考えていないみたいな言い方ね。でも、兄様……」
妹の言葉が途切れたことを訝しんで、ダイロン・ルーンは椅子をひいていた手を止めた。どうしたというのだろう。別に言いよどむようなことはないはずだが。
「カデュ……?」
「初めてね。リュ・リーンとわたしのことを話してくれたのは……」
ダイロン・ルーンは妹の言葉に動揺した。確かに今までは故意にリュ・リーンと妹の関係を無視していたのだ。ところが、今はそれが自然と口にのぼる。胸を突き刺す痛みが消えたわけではないが、二人の関係に苛立ちを覚えなくなっていた。
「そ、そうだったかな?」
「えぇ、そうよ。……兄様の口からリュ・リーンの話を聞くのは、彼が留学してきていたとき以来だわ」
嬉しそうに微笑む妹の顔にダイロン・ルーンは一瞬見とれた。
彼女からこれほど優しい微笑みを引き出すリュ・リーンが羨ましい。自分がどれほど望んでも、彼女にこの穏やかさを与えることはできまい。そう思えるから余計に胸が痛む。
妹に腰掛けるよう促したあと、ダイロン・ルーンは自分の席に腰を落ち着けた。
すっかり冷えていたが、彩りよく盛りつけられた夕食が彼の前に並べられている。それらを無理に胃へと押し込みながら、ダイロン・ルーンは機嫌のいい妹の顔を時折盗み見ては顔を曇らせた。
暗闇のなかで封じた想いが溢れだしてくる。自分には禁じられた言葉を妹に囁ける、かつての学友の顔が目の前にちらついて離れない。
半年の間に大人びた顔つきになった彼が妹の傍らに立つ姿が、あまりにも容易に想像できて、ダイロン・ルーンは胃のなかに詰め込んだ食事を吐き出しそうになった。
この苦しさから解放される日はくるのだろうか? そんな日は永遠にこないような気がしてならない。これほど強い執念がどうやったら消え去るのか、ダイロン・ルーンには見当もつかなかった。
翌日の昼頃、本来ならば剣の稽古の時間であったが、空庭への出入りを差し止められていることもあって、ダイロン・ルーンは久しぶりに清花カリアスネの庭と呼ばれる中庭へとやってきた。何か予感があったのかもしれない。
前夜から降り始めた雪が朝にはうっすらと地面を雪化粧させていたはずだが、庭師が入ったらしく、雪を取り除いた黒土の痕がそこここに残っていた。曇った空からは時折思い出したように白いものが舞ってくるが、降り積もるほどではなさそうだ。
その黒と灰色と白の景色のなかに彼はいた。
午前中の仕事を終え、午後の仕事がぽっかりと空いてしまったらしい。しばしの休息だというのに、所在なげに庭に佇む背中には鬱屈とした雰囲気が漂っていた。
逃げ隠れするつもりもない。ダイロン・ルーンは足音を消すこともせず、庭へと続く石階段を降りていった。
すぐにダイロン・ルーンの足音は相手の知るところとなった。振り返った青白い顔が強ばっている。昨日の乱闘のあとだけに、警戒しているようだ。
「正神殿の長との会見が流れたそうだな。今日は神楽の練習のあるカデュ・ルーンにも逢えないだろうから、暇を持て余しているといったところか?」
「あなたこそ何をしているんだ? 神殿での仕事があるはずだろう。神殿長との会見が流れて、俺がこそこそと動き回るとでも思って監視にきたのか?」
ダイロン・ルーンはその言葉に苦笑いを浮かべた。相手は人間を警戒する森の獣のように距離をおこうとしている。それというのも昨日の自分の行動のせいなのだろうが、こんな険のある顔を見せられたのは久しぶりだった。
「お前の行動をいちいち監視していられるか。私は休憩中だ。夕方前には職場に戻る」
「ずいぶんと長い休憩があったものだな。大神殿はそんなに暇な職場なのか?」
会話を交わしながらダイロン・ルーンは相手へと歩み寄っていった。昨日感じた通り、相手はこの半年でずいぶんと背が高くなっている。もう自分との身長差は拳一つ分もあるまい。
「暇なわけがないだろう。休憩というのは語弊があるな。本当は剣の稽古の時間なんだ。ちょっとした手違いでしばらくは皆と稽古ができないから、適当に時間を潰しているってわけだ。それに、ここにはお前がいるだろうと思ってな、リュ・リーン」
名前を呼ぶと相手の黒絹の髪が微かに震えた。今のダイロン・ルーンの言葉にいっそう警戒心を強めたらしい。表情を殺していたが、鋭く輝く暗緑の瞳には挑んでくるような力強さがある。
「あなたのほうから話があるとはな。今度はどんな文句があって、こんな寂しい場所まで御足を運んで頂いたのかな?」
「嫌味はよせ、リュ・リーン。……悪かった。昨日はやりすぎた」
リュ・リーンの顔がギョッとしたようにひきつり、ダイロン・ルーンの顔を気味悪そうに覗き込んだ。まだ警戒を解いていないようだ。致し方のないこととはいえ、ダイロン・ルーンは不機嫌そうに口を尖らせた。
「なんだそのあからさまな驚きようは。私が謝罪するのはそんなにおかしいか?」
「いや……いや、すまない。昨日のことがあったから……。しばらくは口を利いてもらえないかと思っていたところだ。まさかあなたのほうから声をかけてくるとは考えてもいなかった」
眉根を寄せ、困ったように視線を外すリュ・リーン顔には、少年時代の素直さのなかに鬱々とした想いを溜め込んでいた彼の顔が重なって見えた。
それを発見できたことが、ダイロン・ルーンにはむしろ驚きだった。すっかり成長したと思っていたリュ・リーンの大人の顔の下には、まだまだ甘えてくる少年の幼さがあるではないか。
突然にダイロン・ルーンは妹が彼の側にいたがる理由が判ったような気がした。外見がどれほど大人びて冷淡になろうと、リュ・リーンのなかには少年の日に見た痛々しい姿がかすめて浮かんでくる。
それは弱い者や寂しい者に対して敏感に反応するカデュ・ルーンの注意を引くだろう。妹の見ているリュ・リーンの横顔が、今このときに彼自身にも見えたのだ。
「お前は……変わらないな、リュ・リーン」
ぽつりと呟いたダイロン・ルーンの声に、今度はリュ・リーンが口を尖らせた。そんな表情をすると、取り繕っていた冷淡な仮面が消え失せてしまうというのに。
「俺が全然成長していないみたいに言うんだな。もう、俺は子どもじゃないぞ」
「あぁ……。お互いに子どもじゃない。判っている、そんなことは」
どちらからともなく黙り込むと、二人は同時に地面へと視線を落とす。奇妙な沈黙だった。だがなぜか不快なものではない。どこかしらホッとする、優しい静寂だ。
ダイロン・ルーンがふいに顔をあげた。その視線に気づいたリュ・リーンが同じように顔をあげ、どうしたのかと首を傾げる。その表情は気安く肩を叩き合い、笑い合った少年時代の顔つきだった。
「リュ・リーン。……私と馴れ合うなよ。お前が王になるというのなら、たとえ妻の兄であっても容易く心を許すな」
「それはどういう意味だ?」
大きく目を見開いたリュ・リーンの表情に、ダイロン・ルーンは微苦笑を浮かべた。
彼は単純だ。いや、実際には心のなかに如何に大きな葛藤を抱えていようと、表面に現れる感情は是か否かのどちらかだ。曖昧さがない。戦ではどれほどの狡猾さを見せるのか知らないが、私生活においては脆いほど子どもの部分を露呈する。
ダイロン・ルーン個人としては、そんな明解なリュ・リーンを好もしく思っている。だが聖地の貴族としての視点ではどうだろう? あまりにも今の彼はつけ入り易いではないか。
「お前が公私をハッキリわけているのは、王になる者としては大切なことだろう。だが私的な場所だとしても、私人として振る舞う相手を間違えるな。私はいずれ聖衆王となる。いや、たとえ選王会の途中で敗れ去っても、神殿の要職についてみせる。……お前はそういう人間を前にして今のままでいるつもりか?」
返答に窮したリュ・リーンが唇を震わせた。忘れていた……いや、新たな聖衆王を選ぶための評議が行われることは知っていた。しかし、ダイロン・ルーンの名があがる可能性を頭では判っていても、感情は納得していなかったのだ。
「お前は父王のようには振る舞えまい? 彼のように、気楽そうな顔の下に計算高い王の顔を隠せはしないだろう。ならばトゥナ王家やお前と利害を異にする者の前で仮面を外すな。……いいか。私が聖衆王になったら、お前がかつての学友であったとしても容赦はしない。それを肝に銘じておけ」
リュ・リーンの強ばった顔つきが一瞬哀しげに歪んだ。それをダイロン・ルーンは見逃していない。
「子どもではない、ということはそういう意味合いも含むんだぞ、リュ・リーン。それができないのなら王になどなるな!」
静かだが厳しいダイロン・ルーンの声音に打たれ、リュ・リーンが俯いた。ダイロン・ルーンはその様子をじっと見守った。答えを待つ必要などないことは判っていた。リュ・リーンはトゥナ国王になるのだ。それは避けようもない。
「大事な妹の嫁ぎ先が足下をすくわれて潰れたのでは目も当てられない。……死ぬなよ、リュ・リーン。お前がカデュ・ルーンよりも先に死ぬんじゃないぞ」
視線をそらしていたリュ・リーンが困惑した顔をあげた。瞳には期待と動揺が交互に行き交っている。本当に、こういうところは変わっていない、とダイロン・ルーンは頭の隅で子ども時代のリュ・リーンを思い出していた。
「いいのか? 俺と彼女のこと……」
「お前は勝っただろう。それとも他の奴に異議を唱えられたら黙って身を引けるとでも言うのか?」
「誰が引くか! そんなことを言い出す奴がいたら、俺の手で叩きのめしてやる」
怒りで咄嗟に叫び返したリュ・リーンが、ダイロン・ルーンと視線が合った途端に顔を赤らめた。昨日のことを思い出したのだろう。まさしく、自分の婚儀に異議を唱えるダイロン・ルーンを叩きのめしてしまったのだから。
「あの……怪我はなかったのか? うっかり力を入れすぎたから……痣とか、切り傷をつけてしまったんじゃ……」
再びおろおろと視線を彷徨わせている相手の様子に、ダイロン・ルーンは小さな笑い声を漏らした。その声にリュ・リーンが本当に困ったように顔を歪ませる。
「本当に……お前は変わらない」
ダイロン・ルーンが再びぽつりと呟いた。だが今度はあとに続く静寂のなかに、優しさはない。
昨日に引き続いて様子がおかしい友人に、リュ・リーンは首を傾げた。リュ・リーンの視線の先にあるダイロン・ルーンの横顔には寂寥感がある。それがいったい何からくるのか、彼にはまったく判らないのだ。
「ダイロン・ルーン。何かあったのか?」
「何も……。何もない」
突然にダイロン・ルーンが背を向けて歩き始めた。なんの断りもない。この庭へとやってきたときと同じように、彼は唐突に去っていこうとしていた。
背後からリュ・リーンが呼びかけるが、ダイロン・ルーンはチラリと肩越しに振り返ったが、軽く手をあげて応えただけで後戻りしようとはしなかった。
ゆっくりとした足取りで石階段を登っていく友人の背を見上げながら、リュ・リーンは無意識のうちに腰に帯びていた細身剣の柄を握りしめる。焦燥に身を焼くように眉を寄せ、苦しげに口元を歪めて。
「ダイロン、いや……ミアーハ・ルーン! これから剣の稽古をするのか?」
石階段を登り終えようとしていたダイロン・ルーンの背に、トゥナ王太子の声が届いた。追いすがってくるその声に再びダイロン・ルーンは振り返って、声の主を見下ろす。
「あぁ、剣の稽古だ。だが二十日間は空庭への出入りが禁じられてしまったからな。どこか適当な庭を見つけて独りで稽古だ」
答えを返しながらダイロン・ルーンも無意識のうちに腰の剣を握りしめていた。本来、文官である彼には無用のものであるはずだが、その剣は当たり前のようにして彼の腰に居座っている。
「それじゃあ、俺が相手をしてやるよ。昨日のあの腕前だと、選王会での出来が心配だからな」
友の銀影を見上げていたリュ・リーンが強ばった笑みを浮かべた。どこか無理をしている笑顔だ。階段の上からそれを見下ろしていたダイロン・ルーンが複雑な表情で応じた。
「お前の仕事はどうするんだ。いつまでも遊んでいられないだろう。それに半日つき合ってもらった程度で、私の剣の腕前があがるものか」
「やってみる前からそんなこと言うな。それから仕事のことならなんとでもなる。なぁ、昨日の庭でどうだ? あそこなら誰も何も言わない」
しばし考え込むように顎に手をかけていたダイロン・ルーンが視線をあげた。もう表情のなかに迷いはない。
「判った。頼むとしよう」
「それでは……お手合わせ願おうか、カストゥール候」
リュ・リーンがダイロン・ルーンの顔をじっと見上げたまま、右の掌で左の二の腕を叩き、続いて滑るようにして左胸を二度叩いた。ここ聖地の武官が相手に試合を申し込むときによくやる仕草だ。
剣の稽古をするようになって、ダイロン・ルーンも武官たちと手合わせするときには、その仕草をするようになっていた。どんな意味があるのかは聞いたことがなかったが。
自身の胸を叩いて相手の挑戦に応じながら、ダイロン・ルーンは石階段を駆け上がってくる黒髪の友人に静かな笑みをこぼした。
しかし、並んで歩き始めたとき、彼らの顔にはお互いへの親愛の情は浮かんではいない。二人の顔には、戦場へと旅立つ戦士の表情が浮かんでいたのだ。
激しい剣戟が続いていた。白刃が弧を描くたびに響く金属音で鼓膜が破れてしまいそうだ。
銀と黒の影が交錯すると、小さく火花が散る。弱い守護魔法をかけられた練習用の剣と、同じく守護魔法でくるまれている儀礼的に武官が日常帯びている細身剣が、それぞれの結界に触れあって反発し合っているからだ。
ここ数日、この銀柳の庭は静寂から見放されていた。灰色の空に響きわたる剣戟の騒乱が、毎日数刻ずつ続いている。
「まだ踏み込みが浅い! 剣を突き出すときは、軸足の体重を移動させないと駄目だ」
「突きをかわされたら、すぐに間合いまで下がって脇を固めろ! 相手は待っていてくれないぞ」
「相手の切っ先だけじゃない、身体全体の動きを見るんだ!」
次々に出される相手からの忠告に、なかなか身体がついていかない。目で動きを追うだけでも精一杯だ。剣で応戦するとなると、手足は枷に繋がれたように思った通りには動いてくれなかった。
「肘が上がりすぎだ! 右脇ががら空きだぞ!」
相手の姿が一瞬視界から消えた直後、右手の指先は痺れを残したまま凍りついた。はじき飛ばされた剣が、鈍い音を立てて地面の上を転がっていく。
「今日はこれで十数回は死んでるな」
自嘲気味に相手を振り返ると、ダイロン・ルーンは小さく肩をすくめた。その肩も息が上がっていて、忙しなく上下している。
ところが相手はほとんど息を乱していない。微かな笑みを浮かべたまま、転がっている剣を拾い上げて刃こぼれを確認する余裕まである。
「少しずつは腕を上げているさ。休憩しよう」
今まで、ただの一度でも目の前の若者に勝てないでいる。まったく。力の差は歴然としているではないか。
「あぁ。それにしても、お前は強すぎる。本当に手加減してるのか?」
「汗もかかないんだぞ。手加減してるに決まってるだろう。武官が文官にやり込められていたんじゃ、なんのために武官をやっているのか判らないじゃないか」
「信じられない。私はこれ以上早くは動けないぞ。どういう鍛え方をしたら、そう易々と身体が動くんだ」
緊張感が弛んだのか、ダイロン・ルーンは片隅に寄せられた石椅子へと乱暴に身を沈めた。若者がそのすぐ脇の地面に足を投げ出して座り込む。
「おい、リュ・リーン。地面なんかに座ると身体が冷えるぞ。椅子ならまだ空いてる。こっちに座ったらいいじゃないか」
「椅子も地面も大差はないさ。なぁ……。カデュ・ルーンはいつも神楽を練習しているのか?」
「え? あぁ、庭の手入れに忙しい時期はそれほどでもないがな。冬場はほとんど毎日だ。それが何か?」
身体の後方に腕をつき、だらしなく足を投げ出していたリュ・リーンが小さなため息をついた。
「……つまらない」
ボソリとリュ・リーンが呟くのを聞きつけ、ダイロン・ルーンは眉間に皺を寄せる。そして、おもむろに優雅に組んでいる足をほどくと、足下の若者の脇腹を蹴りつけた。
「イテッ! 何するんだ、ダイロン・ルーン」
「悪かったな、私のお守りばかりで! 別に律儀に剣の稽古につき合ってくれなくてもいいんだぞ」
ダイロン・ルーンはじっとりと冷たい視線を投げ下ろす。その彼の態度にリュ・リーンは慌てたように首を振った。
「ご、誤解だ。そういう意味で言ったんじゃない! 俺はただ……」
「どうだか」
「ダイロン・ルーン!」
そっぽを向いた友人の横顔を目にして、リュ・リーンは思わず立ち上がった。
その気配にダイロン・ルーンがチラリとリュ・リーンの顔を見上げ、そこに見捨てられた子どものような表情をして佇む若者を確認すると、大袈裟なくらいのため息をついた。
「リュ・リーン。前にも言ったが、その感情剥き出しの顔はやめろ。お前が今、何を考えているのか、はっきりと読みとれるぞ」
ダイロン・ルーンの言葉にリュ・リーンは一瞬だけハッとした表情になり、自分の顔に手をもっていく。だが、すぐにその指を引っ込めるとふてくされた表情をして銀髪の友人を見下ろした。
「他の奴ならいざ知らず、どうしてダイロン・ルーンの前でまで取り繕わないといけないんだ。そんなのおかしいじゃないか」
「リュ・リーン。ここ聖地の人間は日常的に騙しあっているんだ。もちろん、私も。将来、その聖地の中核に立つ人物に自分の人となりを暴露してどうするつもりだ。仮面を外すな、いいな」
ダイロン・ルーンの冷ややかな受け答えにリュ・リーンがカッとしたのか、石造りの机を平手で叩いた。彼の感情に従うように、暗緑の瞳に鋭い光が灯る。
「ダイロン・ルーンは俺のことならなんでも知っているはずだ。俺がここに留学していた時期、四六時中、一緒にいたんじゃないか。今さら取り繕うようなものなんか何もない!」
「リュ・リーン。それは子どもの理屈だ。私たちは利害を異にする者同士なんだぞ。必要以上に馴れ合うんじゃない」
ダイロン・ルーンの口調も頑なだった。互いの言葉は平行線を辿り、決して交わることがないように思われた。まるで銀と黒の互いの髪の色のように対極にあるような口論だった。
「友人の前でまで王を演じろというのか!? それでは王たちはいったいどこで本当の自分を出せるというんだ!」
「そのためにお前にはカデュ・ルーンがいるのではないか。それとも、カデュ・ルーンの前では格好をつけたいから、いい子の仮面を外せないか?」
「ダイ……! カストゥール候、あなたは俺を侮辱しているのか!?」
リュ・リーンは拳をきつく握りしめて銀色の若者を睨んだ。自分の伝えたいことがこれほど通じないとは思わなかったらしい。
「気に障ったか? だがな、これが聖衆のやり方だ。感情を剥き出しにする者がこの地で繁栄することはできないんだ。お前たちトゥナ人のように荒ぶる魂だけで生きてはいけん」
姿勢良く椅子に腰を降ろしたまま、ダイロン・ルーンは静かな口調でリュ・リーンに声をかけた。それまでの突き放すような態度から、子どもに教え諭すような柔らかな口調へと変わっている。
「そんな……。急に言われても……」
「お前の留学期間が半年間だけだったのは痛かったな。ちょうどこの地に馴れた頃に王都に呼び戻されてしまった……。トゥナ王にしては手ぬるいやり方だった。だが今さら愚痴を言っても仕方ない。学ぶことだ、リュ・リーン。……敵と味方を区別するように、王の仮面がいかに重要か、お前にも判るときがくるだろう」
俯き、押し黙ってしまったリュ・リーンを無視して、ダイロン・ルーンは音もなく立ち上がった。机の上に放り出されていた剣を手にすると、鞘から刀身を抜き放って天へと掲げる。
「選王会へは各国の王や大使が集い、新たに誕生した聖衆王に忠誠を誓うことになる。たぶん……トゥナ王はお前をその席に出席させるだろう。ゼビやミッヅェルの北方同盟の国々だけではない、カヂャも同席する。先の戦で大敗しているだけに、カヂャからの挑発はしつこいぞ」
鋭い風切り音とともに振り下ろされた白刃が、初冬の大気を切り裂いていった。その音を確認しながら、ダイロン・ルーンはなおも話を続ける。
「カデュ・ルーンとの婚儀のこともある。私とお前の関係は注目を集めるはずだ。私が聖衆王か聖衆一族の要職に就き、妹の婿であるお前と近しくしていたなら、他の国々の者たちの間には強い危惧が生まれるだろう」
顔を強ばらせたまま佇んでいるリュ・リーンが、唇を噛みしめた。それを知ってか知らずか、ダイロン・ルーンは教えられた剣の型を思い出しながら身体を動かし続けている。
「リーニスの朱の血戦で、お前は勝ちすぎた。強大になりすぎたトゥナの足を引っ張りたくてしようがない連中ばかりだぞ。私との関係が良好だと判断した場合、大半の特使や王たちは諦めるのではなく、お前と聖地アジェンとの結束を崩そうとしてくるはずだ。どの国もトゥナの言いなりになる気はないだろうからな」
振り返ったダイロン・ルーンの表情には微苦笑が浮かんでいた。彼の氷色の瞳は鋭さを保ったまま、年下の友人の様子を観察している。
ダイロン・ルーンには日常的なことだ。相手の心のなかを探り続け、自分が常に優位に立つことが彼らの一族には必要不可欠だ。
この聖衆一族を、神の領域に住まうことを許された民として各国の頂点に君臨させることこそが、自分たち一族の繁栄に繋がっていることなのだから。
「俺を……嫌っているわけじゃないんだな?」
リュ・リーンがようやく口を開いた。その飛び出してきた言葉にダイロン・ルーンは呆れ果てて肩をすくめる。
「おい、こら。ちゃんと人の話を聞いていたのか、お前は!」
「聞いてたさ。ダイロン・ルーンが俺以上に俺のことを考えていてくれたってことは、よく判ったよ」
嬉しそうに目を細めるリュ・リーンに近づくと、ダイロン・ルーンは相手の白い額を指先でつついた。
「何を自惚れてるんだ、バカ! お前もそれくらいのことは考えておけ」
「判ってる。ちゃんと考えるよ」
「あぁ、もう! お前の甘えた体質を見ていると、気が気じゃない。こんな奴に大事な妹を任せなきゃならない兄の身にもなってみろ」
ダイロン・ルーンは両手でリュ・リーンの黒髪を掴むとワシャワシャとそれを掻き回した。乱れたその黒髪の下で、なおもリュ・リーンが笑っている。それに腹を立て、ダイロン・ルーンが今度は両手をリュ・リーンの頬に滑らせてしっかりと掌に包み込んだ。
「リュ・リーン……。本当に、カデュ・ルーンのことを頼むぞ。これからは私が守ってやることができないんだからな」
ようやく神妙な顔つきに戻ったリュ・リーンが小さく、だがしっかりと頷いてみせた。それを確認したダイロン・ルーンが、安心したように微かな笑みを口元に浮かべる。
そして、リュ・リーンの頬を包んでいた掌を外すと、何事もなかったように背を向けかけた。
「ダイロン・ルーン……」
「なんだ? まだ文句があるなんて言わないだろうな?」
振り向いた友人の眉間に浮かんだ皺に、リュ・リーンが苦笑をもらした。その態度にダイロン・ルーンはいよいよ皺を深くする。笑われるようなことを言ったつもりはない。
「そうじゃないよ。俺、魔道を学ぶつもりなんだ。詳しい書物を知っていたら教えて欲しいんだけど」
「どうした? シャッド・リーン王の真似でもするつもりか?」
突然のことにダイロン・ルーンは怪訝そうに首を傾げる。武の国であるトゥナ王国は、呪術やら魔道といった超常の力にあまり重きをおかない。知識としてその力の存在を知っていても、自らがそれを使役しようとする者は多くないのだ。
「超常の力を戦に使うのは、その反動の激しさからも褒められたことじゃない。俺も親父もそのことは充分に知っているさ。だからトゥナは戦に魔道士たちの助言を入れないんだから」
「だったら……」
「俺が魔道士になれば、カデュ・ルーンの例の力に注目する者は少なくなるだろう? 聖衆は学舎で学習して、超常の力を使える者が多いことはよく知られている。宮廷の奴らにしてみれば、聖地の民の持つ特性の一つにすぎないように見えるだろう。本来、彼女に集まるだろう注意を俺にも向けることができる」
言葉一つ一つをゆっくりと噛み締めるように答えるリュ・リーンの様子に、ダイロン・ルーンは困惑した。
何もそこまでやれとは言っていない。ただでさえリュ・リーンの武人としての腕は恐れられている。それに加えて魔道士としても力を奮うとなれば、より多くの危惧を周囲の者に抱かせるだろうに。
「俺なら年中命を狙われているからな。少々、狙われる機会が増えたところで大した差はない。それに微弱ではあっても、彼女のまわりに俺の守護結界を張ることもできる。力の暴走を恐れて、トゥナの王宮内に彼女を閉じこめておかなくても済むだろう?」
「お前……」
「この夏の間、ずっとどうしようかと迷っていたんだ。俺が魔道士になった場合は、親父のように周囲を牽制するのではなく、逆に周囲を恐れさせる王になるだけだろうと。でも、カデュ・ルーンを守るためには超常の力が必要だ。だから、これからの一年、俺はできるだけのことをしようと思う」
魔神の申し子と恐れられるリュ・リーンが神々の業にも通じる超常者の力を得るということは、より神に近しい存在となっていくようなものだ。必ず周囲との軋轢を産むだろう。それでも彼はその力を望むと言う。
ダイロン・ルーンは目眩を起こしたように掌で目元を覆い、しばらくその場に立ちすくんでいた。
「ダイロン・ルーン。頼むよ」
乱れた呼吸を整えるように何度もため息をつく友人の様子に、リュ・リーンは痺れを切らしたようにその名を呼ぶ。その呼び声に促されたか、ダイロン・ルーンは恐る恐る腕を降ろして顔をあげた。
「リュ・リーン……お前の行こうとする道は茨の道かもしれんぞ? それでも行くのか?」
「何もせずにいるほうが、俺にとっては罪だ。彼女は俺にとって、それだけのことをするに値する人だ。俺の瞳を見て、怖くないと……。綺麗な瞳だと言ってくれたのは、後にも先にも彼女だけだ」
なんの迷いもなく、むしろ晴れ晴れとした顔つきでそう答えられ、ダイロン・ルーンにはもはや返す言葉がなかった。彼は一つ頷くと、大きく息を吸い込んだ。
「叔父上から借りている書庫のなかに何冊か参考になるものがある。私は全部憶えているから、お前にやろう。どうせ叔父上も全部憶えていて、必要ないだろうからな」
ダイロン・ルーンの言葉に、リュ・リーンが嬉しそうな笑みを浮かべる。その無心の笑みを見つめながら、彼は自分の敗北を認めていた。
自分にはここまでできなかった。簡単な魔道や呪術ならば、自分なら今すぐ使いこなすことはできる。それは聖地の民としてはごく当たり前のことだ。
だが何もないところから……むしろ自分の負荷にしかならない力を身につけてまで、妹を守ろうとしたことがあっただろうか? そう、例えば今、自分の権力掌握の足がかりにしようとしている剣術の稽古のようなことを。
思い出せる限りのなかで、ダイロン・ルーンの記憶にそんな強い執念はない。
半年前、自分に向かって「カデュ・ルーンの人生をくれ」と言ってきた若者の力強い眼差しが、今再び目の前にある。あのときも自分は無意識のうちに彼の強さにすがっていた。そして、今もまたすがろうとしている。
逢うたびに強く、より高いところに向かっていく黒髪の友人に、ダイロン・ルーンはこのとき初めて畏敬の念を抱いたのだった。
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