第07章:剣鬼
掌に張りついてくる剣を引きずるようにしてダイロン・ルーンは長い石廊下を歩いていた。顔は無表情を保っていたが、内心は激しい苛立ちと動揺にさざ波立っている。
彼は自分でもどうしていいのか判らなくなっていた。原因は剣の稽古場での同僚たちとの会話にある。それだけは判っていた。
武官たちには到底敵わないが、ダイロン・ルーンは持ち前の器用さで文官のなかでは飛び抜けて剣術の腕をあげている。それを妬んだか、あるいは間近に迫った選王会への布石のためか、最近は文官出の同僚からの風当たりが厳しい。
いつものように剣の稽古が終わり、指南してくれた武官と歓談していると、背後から聞こえよがしの声が届いた。
「まったく、聖衆王の娘御の趣味は変わっている」
「まぁ、元から変わり者だったからな」
「他の娘だったら話が持ち上がった時点で毒でもあおって自決していよう?」
「それともトゥナの財宝にでも惑わされたか」
あからさまなその言葉にダイロン・ルーンの眉がピクリとつりあがった。彼とのつき合いが長い者ならば、それが押さえきれない怒りや苛立ちを表しているのだとすぐに気がついただろう。
だが今日はかすかに眉を蠢かせるだけではすまなかった。不躾な噂話をする者たちからは彼の表情は見えなかったが、ダイロン・ルーンと話し込んでいた武官が青ざめてその顔色をうかがったほどだ。
人当たりのよい彼からは想像もつかない表情がそこに浮かんでいた。
「それは我がカストゥール家への侮辱と受け取ってもいいのか?」
声は彼の氷色の瞳そっくりに凍てついている。武官に服の裾を押さえられたが、ダイロン・ルーンはかまうことなく立ち上がると振り返った。
普段の人当たりのいい彼しか知らない同僚たちが驚きに目を見張った。集まっていた文官たちの多くはばつの悪そうな表情を作って下を向く。
しかし迫りつつある選王会への高揚感に酔っているのだろう、人垣のなかの一人が小さく鼻を鳴らし、稽古場の地面に唾を吐いた。
薄い色合いの金髪と生白い顔立ち、それに紫苑色をした瞳の持ち主は、どこか中性的な雰囲気をした青年だった。カストゥール家と同程度の地位にある家柄の若者、名はガルディエ・ダナン。正神殿ではなく、天神殿つまり主神エンダリュンのみを祀る神殿の祭司だ。
新起神が興る前より世界に君臨している光の大神を祀る正神殿とは、何かにつけて対立している派閥の者だった。
「変わり者を変わっていると評しただけで侮辱とはな。呆れたものだ」
そのガルディエ・ダナンの言葉に勇気を得たか、さらにもう一人バカにしたような視線をダイロン・ルーンへと向けた。こちらの若者も天神殿で働いている者だ。ガルディエ・ダナンの取り巻きの一人といったところか。
「カストゥール家は家名に釣り合うだけの財力欲しさに妹を売ったともっぱらの噂だ。違うのか?」
「あるいは妹を寝盗られて仕方なく嫁に出すとか?」
ガルディエ・ダナンと同じ天神殿に所属している者たちの集団なのだろう。彼に追従するように、クスクスと忍び笑いが文官たちの間からあがる。
ダイロン・ルーンの顔色が青ざめ、次いで真っ赤になった。ダイロン・ルーンがむきになればなるほど、彼らはいっそう意地の悪い言葉で翻弄してくるに違いない。背後の武官が相手になるなと背中をつついている。
剣の鞘を指が白くなるほどきつく握りしめ、ダイロン・ルーンは一歩彼らに近づいた。握った剣の柄が怒りに震えている。
「もう一度言ってみろ……。カデュ・ルーンが誰に寝盗られただと!?」
「おやおや。違うのかい? 聖地中の噂だよ。トゥナの魔神の子に大事な操を奪われた愚かな……女……だ……」
ダイロン・ルーンは空いていた片手で素早く剣を引き抜くと、問答無用でガルディエ・ダナンへと切りかかった。
稽古の後で疲れが残ってはいたが、彼の振り下ろした剣は真っ直ぐに無礼者の頭上に落ちていく。相手には避ける間もない。
突然の恐怖に叫び声をあげることもできずにガルディエ・ダナンは突っ立っていた。周囲の者たちも口を開けたまま茫然と立ち尽くしていることしかできない。落ちてくる切っ先をただ見守るだけ。
ガキリと金属同士が噛み合う音が響いたのは、ガルディエ・ダナンの目と鼻の先に白刃が迫った次の瞬間のことだった。
ダイロン・ルーンは自分の剣を受け止める籠手の下から、薄紫色をした瞳に睨みすえられて固まった。その夜明けの空色がダイロン・ルーンの怒りを急速に冷ましていく。
「少々血の気が多すぎますな、カストゥール候。今のあなたの顔を水鏡ででもご覧になるといい」
低い壮年の男の声にダイロン・ルーンの理性が呼び覚まされ、自身の凶行に蒼白になる。改めて目の前の男へと視線を向けて、凶刃を防いだ籠手が無様に歪んでいることに気づいた。
「ドゥーン・ラウ・レイクナー……。すまぬ、貴卿の籠手が……」
武官ラウ・レイクナー家の当主だ。くすんだ銀髪と彫りの深い顔立ちのなかで薄紫の瞳だけが、いやに鮮やかな色をして見える。
「武具の一つや二つ壊れたところでお気になさいますな。こんなもの裏から叩き出せばすぐに直ります」
実際にダイロン・ルーンも籠手を心配していたのではない。その籠手の下にある腕を心配していたのだ。鉄の籠手が歪むほどの衝撃を受ければ、間違いなく痣ができていよう。かなりの痛みも感じたはずだ。
「ひ、人殺し! ミアーハ・ルーン、お前のやったことは聖衆王陛下や天神殿長にご報告申し上げるぞ!」
足下から聞こえてくるわめき声にダイロン・ルーンはようやくそちらに注意を向けた。ラウ・レイクナー家の当主の背後にヘタり込んで、ガルディエ・ダナンが蝋のように青ざめてキィキィと叫んでいる。
再びダイロン・ルーンのなかに怒りが広がっていった。なぜこんな輩に妹や自分が侮辱されねばならないのか。
「ではシン・エウリアット家のご当主にも今のいきさつをお話せねばなりませんな。それが公平というものでしょう、ガルディエ・ダナン・シン・エウリアット」
足下のガルディエ・ダナンに向けてラウ・レイクナー家の当主が声を発した。
その厳格な声にダイロン・ルーンがハッと我に返る。その通りだ。些細な喧嘩で済ますには事が大きすぎる。つい相手の口車に乗って剣を抜いてしまった自分の浅慮が悔やまれた。
自分の家名を持ち出され、ガルディエ・ダナンが渋面を作った。ダイロン・ルーンに斬りかかられたいきさつを探られたなら、彼も少なからず不愉快な追求を受けることになるだろう。
「ち、父上に申し上げるだと? ラウ・レイクナー、お前は武官の分際で我ら貴族のことに口出しするか!?」
腰が抜けたのかガルディエ・ダナンはいっこうに立ち上がろうとしない。上擦った声のまま簡易甲冑を着込んだ男を見上げるばかりだ。
「私が申し上げるのは、お二人が神聖な空庭で私闘を行おうとしたということだけですが? 稽古以外での殺生沙汰は禁じられております」
「わ、私は剣を抜いてはいない! 抜いたのはそこのカストゥール候のほうではないか!」
指先をわなわなと震わせて自分を指さす若者をダイロン・ルーンは睨みつけた。ここで悄然としていては相手につけ込まれるだけだ。こんな輩のために家名に傷をつけたかと思うと腹立たしいにもほどがある。
「さよう。剣を抜かれたのはアルル・カストゥール候です。しかしそれをご報告申し上げれば、なぜそのような事態を招いたのか詮議されましょう。私はこの庭を預かる者として、見たままを正確に報告せねばなりません」
「私は……何もしていない!」
「なるほど。では詮議の席でもそのように申し開きなさいませ。私も私の部下たちもありのままをお話します。……それで何も問題はございませんでしょう?」
表情一つ変えることなく武官がガルディエ・ダナンを見下ろしている。反論された本人はと言えば、助けてくれる者はいないかと自分の同僚を振り返るが、誰もかれもが関わり合いになることを恐れて視線をそらしてしまう。
実際、剣を抜いたのはダイロン・ルーンだけであった。しかしガルディエ・ダナンもやりすぎていた。彼は相手を嘲弄しただけではなく、選王会のために開放されている稽古場、この空庭に唾を吐き捨てている。
相手を侮辱し合っただけならばそれは当人同士の問題だけで済んだだろう。だが相手の見ている目の前で唾を吐くということは、相手に挑戦していると取られても仕方のない行為だ。剣を抜いているか、抜いていないかなど問題ではない。
片方は稽古以外で抜刀し、片方は王を選ぶための神聖な場所に唾を吐いたという事態は、見過ごすわけにもいくまい。暗黙の了解のなかで私闘は禁じられていた。それを犯せば厳罰は避けられない。
異様な緊張感が辺りを覆った。かたや現聖衆王の甥カストゥール候、かたや天神殿ではかなりの影響力をもつエウリアット候の子息。選王会にも出場するであろう二人の若者の対立は、この聖地に血生臭い争いを巻き起こすことになる。
「それとも。選王会の迫った大事な時期です。この庭を預かる私の裁きで済ませますか?」
ダイロン・ルーンとガルディエ・ダナンは同時に息を飲んだ。聖衆王などの高位高官に報告されれば厳罰は免れ得ない。だが武官のラウ・レイクナーが下す裁きならば、処罰にも限界というものがある。
「武官が我ら貴族を罰しようというのか? 思い上がるのも……」
「お厭でしたらお父上や聖衆王の御前で申し開きを。詮議は少々手続きが面倒ですからね。できましたら私も忙しいこの時期に煩雑なことは避けたかったのですが、どうしてもおっしゃるなら……」
「私も忙しい身だ。面倒な手続きなどしていられないぞ」
うだうだと逡巡しているガルディエ・ダナンを無視すると、ダイロン・ルーンはラウ・レイクナーの背中に呼びかけた。
無駄に体裁にこだわっているときではない。ラウ・レイクナーの条件を飲めないということは、延々と詮議の場に立たされねばならないということだ。選王会を控えている大事な時期をそんなことで台無しにされたくはなかった。
「カストゥール候は異存ないそうですが? あなたはいかがです、ガルディエ・ダナン卿?」
「……いいさ。聞いてやろうじゃないか、お前の裁きとやらを」
虚勢を張るガルディエ・ダナンだったが、未だに地べたに座り込んだ姿勢では威厳など出ようはずもない。それを見下ろしたままダイロン・ルーンは不機嫌に眉を寄せた。
どうして相手の挑発になど乗ったのだろう。口争いだけならばお互いにこんな惨めな目に合うこともなかったのに。
「よろしい。では御両名に申し渡します。これより二十日間、この空庭への出入りを禁じます!」
あからさまにホッとした表情を浮かべたのはガルディエ・ダナンのほうだった。だがダイロン・ルーンは不機嫌な表情を崩すことなく、ラウ・レイクナーの背に声をかけた。
「二十日間も剣の稽古をさせてもらえないのか? この空庭の外ではまともに剣を振るえる場所などないのに」
その声に甲冑の武官が振り返る。微かだったが彼の口元には好意的な微笑が浮かんでいることにダイロン・ルーンは気づいた。
「ご不満でしたら面倒な手続きをして詮議の場で申し開きをなさってください。しかし詮議となれば、剣の稽古どころか、神殿でのお勤めにも支障をきたしますぞ。それでもよろしいか?」
「じょ、冗談じゃない! 大事な職務に穴を開けられるか! カストゥール候! そんなばかばかしい手続きなどしないだろうな!?」
ようやく同僚に助け起こされながらガルディエ・ダナンがわめき声をあげる。彼には剣の稽古ができない程度どうでもいいらしい。それよりも詮議のことが噂になり、神殿で自身の悪い風評が立つことだけは避けたいようだ。
ダイロン・ルーンにしても、職務を放り出して詮議の席に引っ張り出される事態は避けたいところだった。それでなくても剣の稽古をしながらの職務は身体にはきついのだ。これに詮議など加わったら身が保たない。
「判った。その裁きを受けよう……」
ため息とともにダイロン・ルーンは承諾した。それでも顔には不機嫌な表情が張りついたままだったが。
「けっこう。ではこの場においでの皆様に証人になって頂きましょう。このお二人が二十日間、この稽古場に出入りしないよう、監視をお願いします」
ラウ・レイクナーのこの言葉で、ようやくこの場に縛りつけられていた人々が開放された。一方の当事者であるガルディエ・ダナンも同僚に支えられながら空庭を後にする。
三々五々に庭を出ていく皆の後ろ姿を見送りながら、ダイロン・ルーンは再度ため息をついた。まったくとんだ茶番劇だ。こんなみっともない姿をさらすことになろうとは。
「短慮はなりませんぞ、カストゥール候。御身に何かありましたら、嘆かれる方が多かろう。……もちろんシン・エウリアット候のご子息にしても同様だが」
最後まで残っていたダイロン・ルーンにラウ・レイクナーが声をかけてきた。彼の薄紫の瞳に呑み込まれそうだった。
「助力、感謝する」
ダイロン・ルーンは頷くようにして頭を下げた。貴族階級の者が高位とはいえ武官に頭を下げたとあっては外聞が悪い。それが頭の隅をかすめて、なんとも半端な礼の言い方だった。
「なに。私も少々腹が立ちましたのでね。ほんの半年とはいえ、私の預かり子が悪し様に謗られては、見過ごすこともできません」
ラウ・レイクナーの言葉にダイロン・ルーンは彼が留学中のトゥナ王太子宿泊先当主であることを思い出した。自分も一度だけ彼の家に行ったことがあるはずなのに、そのことをすっかり忘れているとは。
「では私はこれで。そうそう、剣の稽古は王宮の奥にある庭のどこかででも続けてください。一人ではまともに稽古もできないでしょうが、剣の重みを忘れなければ二十日間の空白などすぐに埋まりますよ」
飄々と歩き去っていく武官の背中をダイロン・ルーンは憮然とした表情で見送った。随分と奇妙な形で救われたものだ。
それにしてもばかなことをしでかしたものだ。ついカッとなってしまった。だが……だがまた再び妹が貶められるようなことがあったら……。きっとまた自分は同じ過ちを繰り返してしまうのではないだろうか。
ダイロン・ルーンは辿り着いた思考の果てにゾッとして身震いした。なんという短慮だ。軽率な行動の結果を今し方見せられたばかりだというのに。
誰もいなくなった空庭から逃げるようにしてダイロン・ルーンは走り出た。まるで自分の考えから逃げ出すように。
宮殿の入り口に辿り着くまで行き交う者は誰もいなかった。そのことにダイロン・ルーンは心底ホッとした。
そして今、宮殿の奥へと続く長い長い石廊下を歩いているというわけだ。なぜ自分はあんなにも怒りを露わにしてしまったのか。言葉の応酬だけならばこんな惨めな想いを抱かずに済んだのに。
廊下の出口をくぐり抜けるとそこは吹き抜けの空間だった。周りを建物の石壁が囲み、その壁に沿ってアーチ型の屋根が吹き抜けを一周している。ここを最初の起点にして王宮が広がっているのだ。
濃い灰色の空が高い建物の屋根を覆っている。今夜辺りからまた雪がちらつくだろう。それにしても、今の空は自分の心のなかを写し取ったようにどんよりとした色をしているではないか。
暗い気持ちを引きずるダイロン・ルーンの視界の隅に黒い影が動いた。
ハッとしてそちらを見遣ると、人気のない廊下の一つに入っていくトゥナ王太子の背中が映った。見知っているはずのその人影は随分と背が高い。
半年の間にリュ・リーンの身体は少年のものから青年のものへと急速に成長している。長身のダイロン・ルーンにも追いつきそうな勢いだ。
数日前にリーニス地方から戻って以来、彼がこの王城に滞在していることは知っていた。だが半年前の出来事が心に引っかかったままで、ダイロン・ルーンは彼とまともに顔を合わせていなかったのだ。
気まずさが頭をもたげたが、ふと彼の向かった先が使われていない区画であることを思いだして戸惑いが浮かんだ。いったいどこへ向かっているのか。
剣の稽古を終えたなら着替えて大神殿の職場へと戻るべきだろう。しかし腐りきった今の気分のまま、選王会のことでギスギスしている職場へ戻る気になどなれるものか。
ダイロン・ルーンは深く考えることなく、廊下の奥に見える黒い人影に誘われるように歩き出した。
黒い背中が小さな扉をくぐっていく。それを廊下の角を曲がったところで確認すると、ダイロン・ルーンの表情は険しくなった。なぜ彼がこんな場所を知っているのかと。
そこはダイロン・ルーンさえ知らないような宮殿内の小庭園だった。扉に近づいてよく見てみると、すり減った扉の錨版に消えかかった文字で「銀柳の庭」と刻まれている。
何代か前の聖衆王の時代に王の紋章に使われていた銀柳を象徴する庭でも造ったのだろう。迷路状になりつつある聖地の王城のなかには、このような庭が所々に造られていた。
扉に耳を近づけて庭の様子を伺ってみるが、向こう側からは何も聞こえてこない。ダイロン・ルーンは途方に暮れたように視線を彷徨わせたが、次の瞬間には意を決したように扉へと腕を伸ばした。
微かな軋みをたてて扉が開いていく。灰色の景色が扉の形に切り取られたように目に入ったが、それをよく観察することもなくダイロン・ルーンは入り口を潜った。
腰を屈めて入った庭の片隅に石造りの机が見える。その机にもたれかかるようにして黒い人影が佇んでいた。
こちらの気配に気づいたのか、相手の肩がピクリと震え、弾かれたように振り返る。穏やかな光を讃えていた暗緑の瞳が、自分の姿を捉えた途端に大きく見開かれる様子をダイロン・ルーンは苛立ちを込めて見守っていた。
「ダイロン・ルーン……? どうしてここに?」
相手の声は半年前と同じだ。だがおよそ六年前の少年のものとは異なる大人の声をしている。そして背丈は半年前からは見違えるほどに高くなっていた。この調子で背が伸びれば、近い将来には追い越されてしまうだろう。
昔のリュ・リーンと変わらないところと言えば、宵闇よりも深い色をした黒髪と魔の瞳と呼ばれる暗緑の瞳だけ。かつてリュ・リーンの瞳の奥を支配していた孤独は今の彼の瞳のなかにはなかった。
「私や叔父上に隠れて、こそこそと逢い引きか? “リーニスの朱の血戦”の英雄は随分と姑息な真似をする。……それとも平原の戦場でも相手の寝首を掻いていたのか?」
ダイロン・ルーンは獣の唸り声のように低い声で囁く。彼の脳裏にはつい先ほど空庭での出来事が思い浮かんでいた。同僚たちの嘲弄が耳の奥で幾度も繰り返される。今、その張本人が目の前にいるのだ。
「別にやましいことなどしていない!」
顔を歪めてなじるダイロン・ルーンの態度にリュ・リーンがムッとして叫び返す。だがダイロン・ルーンは態度を硬化させたまま目を細めた。その冷たい瞳の上で彼の形良い眉がつり上がっている。
「……カデュ・ルーンを辱めることは許さん」
「ダイロン・ルーン、誤解だ! 俺はなにも……」
リュ・リーンが立っていた石造りの机から離れて、ダイロン・ルーンへと足を一歩踏み出した。だがそれよりも早く当のダイロン・ルーンは手にしていた鞘から刀身を抜き放つ。鈍い陽光の下でも、その刃は不気味なほど鋭い輝きを発した。
抜き身の剣を持つダイロン・ルーンにリュ・リーンは一瞬怯んだ。だがなおも説得しようと足を踏み出す。
それを押し返すようにしてダイロン・ルーンは剣を振りかぶり、振り上げた勢いに乗って相手めがけて襲いかかった。
「やめろ! ダイロン・ルーン!」
振り下ろされる白刃を避けざまにリュ・リーンが叫ぶ。だがその声を追うようにしてダイロン・ルーンは剣を薙ぎ払った。
「逃げるな、リュ・リーン! 私と手合え!」
「バカな! あなたと手合う理由などないではないか!」
驚愕の声をあげるリュ・リーンにダイロン・ルーンが再び襲いかかる。心の臓を正確に狙い、体重のすべてをかけた突きが繰り出された。
「ないだと!? ……本気でそう言っているなら、私の剣の錆になるだけだぞ、リュ・リーン!」
ダイロン・ルーンのぎらつく瞳が、リュ・リーンの驚きに見開かれた暗緑の瞳を捕らえた。氷色をしたダイロン・ルーンの瞳には憎しみの炎が燃え上がっている。
「正気か、ダイロン・ルーン!」
信じられないものを見たと言いたげにリュ・リーンの瞳には動揺が浮かんだ。戦う理由が彼にはない。ダイロン・ルーンの誤解さえ解ければ、すべては丸く収まるものだと思っている。
「私に勝ったなら、カデュ・ルーンをトゥナの王都なり、どこへなりと連れていくがいい! さぁ、剣を抜け!」
怒りに歪んだ顔でダイロン・ルーンが吐き捨てるように叫んだ。普段は雪のように白い彼の顔色が、この時ばかりは怒りのためにどす黒く染まっている。
リュ・リーンはダイロン・ルーンの振り回す剣先から身をかわし続けた。戦場で渡り合う剣戟に比べれば、本当の実戦を積んだことのない友人の太刀筋を避けることなど造作もないことだった。
「やめてくれ、ダイロン・ルーン!」
だがリュ・リーンの制止の声も空しく、ダイロン・ルーンの剣の切っ先は更に怒り狂ったようにリュ・リーンへと向けられた。彼の耳にはリュ・リーンの声など聞こえていないのだ。
「剣を抜け! リュ・リーン!」
友人の瞳に本物の殺意を見出して、リュ・リーンは愕然とした表情を作る。
心のどこかで、ダイロン・ルーンは妹カデュ・ルーンと自分のことを許してくれているとタカをくくっていたのだ。これほどに殺意を露わにされるとは思ってもみなかったのだろう。
「やめ……」
とうとうダイロン・ルーンの振るう剣先がリュ・リーンの頬をかすめた。僅かな血臭がリュ・リーンの躰にまとわりつく。ダイロン・ルーンの息はとうに上がっていたが、凶暴な剣戟は収まりを見せはしなかった。
「くそっ……」
鼻をくすぐる血の匂いに酔ったのか、リュ・リーンの暗緑の瞳が妖しげな光を帯びる。悪態をつくその表情には戦場で垣間見せる彼のもう一つの顔が覗いていた。
「後悔……するぞ。ダイロン・ルーン!」
腰から下げていた細身の剣を抜き放つと、リュ・リーンは襲ってくる凶刃を巧にはじき返しヒラリと舞った。まるで漆黒の鷲が急旋回して飛び回っているような身軽さだ。
リュ・リーンが戦で使用している大剣から比べれば、今手にしている細身の剣の重さなどなきに等しい。ダイロン・ルーンの剣戟を軽やかにかわした彼の腕から鋭い白刃が繰り出された。
防戦一方だったリュ・リーンの反撃を受けて、ダイロン・ルーンの剣が悲鳴をあげる。今までに受けたこともない重たい衝撃に彼の腕全体が痺れた。歪んだダイロン・ルーンの顔が衝撃の強さを物語る。
取り落としそうになった剣を辛うじて支えると、ダイロン・ルーンは再び剣を突き出した。だが黒い魔鳥のように身を翻すリュ・リーンにはかすりもしない。実戦を経験した者とそうでない者との差は歴然としていた。
額に汗をにじませて獲物の姿を追うダイロン・ルーンを嘲笑うかのように、剣の重みが彼の動きを鈍らせていく。武官として身体を鍛えているわけではない彼にとって、相手の機敏な動きについていくことは端から無理な話だ。
「こちらだ、ダイロン・ルーン!」
背後の鋭い声に反応してダイロン・ルーンが振り返ると、目の前に暗緑の瞳を輝かせている友の顔があった。剣を振り上げようとした腕に今度は痺れではなく激痛が走る。あまりの痛みにダイロン・ルーンの頭のなかは一瞬真っ白になった。
痛みに手から剣がこぼれ落ちる。慌ててその剣を拾い上げようと屈めたダイロン・ルーンの身体が、次の瞬間宙に舞った。
「うあぁ……!」
ダイロン・ルーンは背中から地面に激突すると、吹き飛ばされたときに感じた胸部の痛みと地面からの衝撃に激しく咳き込んだ。落ちたときに口のなかを切ったのか、彼の舌は血の味を感知し、その生臭い匂いが鼻腔を満たす。
「……俺の勝ちだ」
冷酷なほどきっぱりとした声が頭上から降ってきた。その声にダイロン・ルーンは弾かれたように顔をあげる。
鋭い切っ先をピタリと自分に当てて、静かに見下ろしてくるリュ・リーンの青白い顔があった。怒ったように口を歪めているその顔は、ダイロン・ルーンが見知っている人物のものではない。絶対的な強さを誇示する戦士の顔だ。
悔しさに唇を噛みしめたダイロン・ルーンは睨みつけてくるリュ・リーンの視線を避けるように目をそらした。その視線が庭の入り口へと彷徨い、そこに佇む小さな銀影を捉えて固まる。
「カデュ……」
ダイロン・ルーンの囁き声にリュ・リーンがビクリと身体を震わせた。焦ったように振り返り、そこに蒼白な顔色をしている婚約者を見つけて真っ青になる。
「カ、カデュ・ルーン! いつからそこに!?」
ブルブルと身体を震わせている娘の瞳は大きく見開かれ、唇は血がにじむほどきつく噛みしめられていた。柔らかそうな淡紅色の衣装は彼女に強く握りしめられて皺だらけだ。
ダイロン・ルーンに突きつけていた剣を放り出すと、リュ・リーンは転がるようにしてカデュ・ルーンへと駆け寄った。
その後ろ姿を暗い瞳で見つめていたダイロン・ルーンはノロノロと立ち上がり、自分の剣を引きずるようにして拾い上げる。いつの間にか放り出していた鞘も一緒に拾うと、気怠い手つきで刀身を収めた。
足下にはリュ・リーンが手放した細身の剣が転がっている。それは自分の手にしている実用向きな剣よりも華奢な造りだというのに、刃を交えてもびくともしなかった。
リュ・リーンとの力の差は、剣術を学び始めたダイロン・ルーンにもそれとすぐに察しがつくほどの圧倒的な差だった。いいようにあしらわれていただけだったのだ。
振り返ったダイロン・ルーンは、そこに恋人に抱きしめられてポロポロと涙をこぼす妹の姿を確認した。苦い想いが胸に広がる。認めたくはない想いが。
それ以上、寄り添う二人を見ていることに耐えられず、ダイロン・ルーンは二人に声をかけることもせずに庭から出ていこうとした。
「兄様……! 待って!」
悲鳴のような妹の声にダイロン・ルーンの足は引き留められる。心は早く立ち去りたいと願っているのに、身体はそれを裏切ってこの場に留まってしまう。
「どうして? どうして許してくれないの? わたし……どうしたらいいの? どうやったら兄様は許してくれるの!?」
涙声で訴えるカデュ・ルーンを支えるようにリュ・リーンがその肩を抱いていた。その光景にダイロン・ルーンの胸はチリチリと痛みの炎を燃やす。このもどかしさが誰に判るというのか。
「お前のせいじゃない、カデュ。これは私の……私だけの問題だ」
「ダイロン・ルーン! それでは答えになってない!」
それまで静かに二人のやり取りを見守っていたリュ・リーンが声を荒げた。憤りに顔が紅潮している。彼やカデュ・ルーンにはダイロン・ルーンの怒りは理不尽なものだった。
「お前に答える義理などないな、リュ・リーン」
凍てついた声でリュ・リーンの呼びかけを切り捨てると、ダイロン・ルーンは今度こそ扉をくぐり抜けた。細身のその背中は強ばり、見守る二人どころか世界中を拒絶しているような頑な態度だった。
言葉を失って立ち尽くしている妹とその婚約者のことが、庭を後にしたダイロン・ルーンの頭のなかを占め続ける。気づかなければ良かったのだろうか? それともこれはやはり気づくべくして気づいたのだろうか?
「カデュ・ルーン……。どうしてお前は……私の……」
口を突いて出た言葉をダイロン・ルーンは途中で呑み込んだ。目をそらすことができない現実に、彼は押しつぶされそうな気分だった。
その現実から逃げるようにダイロン・ルーンは奥宮の扉の前へと辿り着く。いつもはしかめっ面をしている衛士たちが、聖衆王の甥の険しい表情にギョッとした表情を作った。だが質問することを恐れるように扉を開けて顔を伏せる。
普段なら愛想良く声をかけるダイロン・ルーンが、扉の番人たちへの挨拶もせずに駆けるようにして通り抜けていった。その後ろ姿を見守るのは衛士たちが閉じていく巨大な扉だけだった。
叔父から与えられた書庫へと逃げ込むとダイロン・ルーンは手にした剣を床に投げ出し、部屋の片隅に鎮座する寝椅子へとへたり込む。唸り声をあげて頭を抱える彼を物言わぬ本たちが見下ろしていた。
剣の稽古が終わったなら、本来は職場に戻らねばならない。だが今のこんな状態で職場に出ていくことなどできない。同僚の前でいったいどんな顔をしていろというのか。それよりも何を口走ってしまうか判らない。
リュ・リーンの胸に顔を埋めて泣き、自分に向かって「なぜ結婚を許してくれないのか」と問いかけた妹の姿が目に焼きついている。
その姿を見て確信した。自分は女性を愛せないのではない。妹を愛しているのだ。実の妹を、カデュ・ルーンを……!
両親を亡くして孤児となり、二人で寄り添うように生きてきた。彼女を守るのは他の誰でもない、自分なのだと言い聞かせて。それは当然のことなのだと……。だが、どうだ。今、彼女を守る者は他にいる。もう自分は必要なくなってしまったのだ。
「神よ! あなたは残酷だ。なぜカデュ・ルーンを私の妹としてこの下天へ遣わしたのだ。私には初めから彼女のそばにいる資格などないではないか。ずっとそばにいたのに……近くにいたのに、私には彼女はもっとも遠い存在だ!」
うめくように神を呪詛するダイロン・ルーンが激しく頭を振った。まるで現実を拒絶するかのようだ。
「カデュ・ルーンは父上の血を引いていないかもしれない。魔の森で彷徨っていた母上を見初めた者の子かもしれない。……あぁ! ここがトゥナであったなら……。トゥナであったなら……私にも望みが……」
口にしたところで現実は変わらない。だがダイロン・ルーンは寝椅子に身を預けると、叶わぬ望みにすがるように肘掛けをきつく握りしめた。指先がその力に白くなるほどだ。
「判っている……。彼女の血の秘密は暗黙の封印のなかにある。誰にも知られてはならないことだ。夫となるリュ・リーンにさえも……。私とカデュ・ルーンは同じ父母を持つ兄妹で……婚姻の対象にはなり得ない……」
自分の言葉に打ちのめされたダイロン・ルーンが、力尽きたように背もたれに身を埋めた。疲れ果てたその表情には泣き顔はない。いや、泣く気力すら失せているのだ。
「そうだ。カデュ・ルーン……お前のせいではない。これは……私の問題なのだ」
父と叔父が守り通そうとした秘密を知ってしまった代償だ。知らなければ、自分はカデュ・ルーンを実の妹だと信じて疑いもしなかっただろう。幼子の好奇心がもたらした……あまりにも大きな代償だった。
まるで仮面のように強ばったダイロン・ルーンの顔には憔悴が浮かんでいた。それが辛うじて彼が人間であると教えていたが、もしも今この場に誰かが入ってきたとしたら、椅子に座るその姿を精巧に作り上げられた神像だと勘違いしただろう。
「私はお前の兄だ。それ以外になり得ない。……私は、私はお前の兄でしか……」
自分の言葉の剣に刺し貫かれたようにダイロン・ルーンの身体が痙攣した。氷色をした彼の瞳は虚空の一点を睨み、そこから微動だにしない。
薄暗い書庫のなかでダイロン・ルーンの人影だけが白く浮き上がっていた。その姿は見る者がいたとすれば、胸を打たれたかもしれない。孤高の頂きに立つ神のようだと。
しかし、彼の姿を見守るのは古びた本たちの山ばかりで、彼の悲痛な声を聴く者は誰もいなかった。
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