石獣庭園 -Wing on the Wind-

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後日譚

No. 76 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第06章:凱旋

 緩やかな丘の上に軍馬を進め、その頂から見下ろした景色にリュ・リーンは安堵の吐息を小さく吐いた。
 王国の副都ウレアの鋭い尖塔が晩秋の午後の日差しの下で鈍色に輝いて見える。城塞の北側には黒麦の穂を刈り取った畑がポツポツと広がっていた。もうすぐ冬の寒風に吹かれ、この地方も白き雪精の訪問を受けることだろう。
「やっと到着したな……」
 リーニス砦を奪還し、ついにトゥナの領土に居座っていたカヂャの軍勢を駆逐し終わって帰途についたリュ・リーンはそれまでの疲れが出たのか、愛馬の背に揺られながらボゥッとする状態がしばしばだった。
 供に戦列に加わっていた将校たちも時折ふと気が抜けたように黙り込む。誰も口にはしなかったが、リーニス砦での骨の山のことを考えているに違いない。
 あの場所は大量の血のために大地が赤黒い海のようだった。そこに白い骨が島のようにこんもりと盛り上がっている光景は、哀しみと同時に薄気味悪さを感じさせた。
 勝利に浮かれていた将校たちのあまりの変わり様に、それを直接目にしなかった兵士たちですら、口数少なくその情景を語るその将校たちに同情の視線を送ったほどだ。
 粛々とした態度で背後に従う部下たちを振り返り、リュ・リーンは苦笑を浮かべた。
 自分自身はリーニス砦の戦いで散っていった者たちを王家の人間として弔うためにもあの場所へ出向く必要があった。
 だが部下たちまで引き連れていったのはまずかったかもしれない。ここまで大人しくなってしまうとは、正直思ってもいなかった。
 戦歴の将軍たちですら意気揚々といった気分にはなれないらしい。もっとも、彼らの同僚であるアルマハンタ将軍があの骨の山のどこかで眠っているのだと思えば、彼らが打ちのめされても致し方ないのかもしれないが。
 リュ・リーンの視界に、カヂャとの国境線であるなだらかな山地が映った。あの山地からやや平原寄りの場所にリーニス砦がある。その砦にリュ・リーンは敢えてウラートを残してきていた。あの死者の骨を弔い、片付けるためだ。
「もうしばらくしたら、ここも冬将軍がやってくるか」
 リュ・リーンは小さく呟いた。砦にはリーニスの地理に詳しい将軍アッシャリーが越冬のために残っている。今冬の砦の護りを預かれる将軍位の者は彼しかいまい。
 その壮年の将軍と供に自身の片腕であるウラートを残すことによって、王家が死者を決して軽んじてはいないことを示したわけだ。
 死者の埋葬が終わればウラートは王都に帰還するだろうが、その作業はかなりの時間を要するはずだ。もしかしたら冬の間中、彼は砦の周りを飛び回っていることになるかもしれない。
 十歳の折りに半年だけ離れていた守り役と、六年ぶりにまた別れることになった。思えば自分は本当に長い間、ウラートと供にいたのだ。まるでお互いが一つの人間であるかの如く錯覚するほどに。
 もし自分が王の後継者でない家系、ごくありきたりの庶民の子供として育っていたとして、そこにウラートと兄弟として生活していたとしたら……。
 埒もない空想が一瞬だけ頭をかすめ、リュ・リーンは顔を曇らせた。そんな空想は愚かだ。だが……もしその空想が許されるなら。やはりそこでもウラートは寛大で、厳しくも少々弟に甘い兄として側にいてくれるような気がしする。
 決して人前では許されないことだったが、自分の父母がウラートをもう一人の息子のように扱う姿をリュ・リーンは間近で見てきた。自分のなかに去来した想いは、あながち嘘ではないだろう。
 小さく頭を振ると、リュ・リーンは弛緩していた表情を引き締めて胸を張った。
 この空想は自分には許されないものだった。その空想の気弱さは王になる者には邪魔になる。想像と空想は別次元なのだ。
「さぁ! 皆、凱旋ぞ! 胸を張れ。ウレアに入城するのに、情けない顔など見せるな!」
 リュ・リーンの声に救われたように兵士たちの顔が輝く。脳裏に焼きついた物言わぬ骨たちの姿を消すことは叶わないだろう。だが生きている者は常に前へと進んでいくしかないのだ。
 丘を下り始めると、リュ・リーンはそれまでの想いを押し隠すように、顔から一切の表情を消した。
 副都ウレアへと入城したリュ・リーンたちを待っていたのは、民衆の大歓声とウレアに残っていた駐屯兵たちの吹き鳴らす角笛(ペルタ)の雄叫びだった。
 耳を聾するほどのその音の海のなかをリュ・リーンは軍勢を引き連れてゆっくりと進んでいく。軍属の者にだけほんの時折見せる年相応の表情はどこにもなく、厳しい顔つきの素っ気ない態度だ。
「リュ・リーン王子、万歳!」
「黒衣の王子に栄光を!」
 むず痒くなるような賞賛の嵐の中、それでもリュ・リーンは眉一つ動かすことなくウレアの宮殿に入っていった。




 幾人目かの訪問者を追い返した後、リュ・リーンは忌々しげに舌打ちして寝椅子に転がった。戦場での切った張ったがなくなると、自分の日常はなんと不愉快なことに満ちていることか。
 ウレアの宮殿に入ると、そこはこれが今まで侵略を受けていた土地なのかと目を疑うほどに華やいだ雰囲気であった。
 王国を勝利へと導いたリュ・リーンには贅を尽くした贈り物が山のように届く。さらにリーニスの貴族連中が我先にとリュ・リーンの元へと機嫌を伺いに顔を出し、聖地の長の娘カデュ・ルーンとトゥナの王太子との仲を知りつつも自分の娘や姪を押しつけようと画策している始末である。
 今回の戦で王の跡継ぎとしてのリュ・リーンの地位はほぼ固まったと言ってもいい。この隙に未来の国王に取り入ろうとする下心が丸見えだ。
 いつもならウラートがそれら不愉快な連中を追い返してくれるが、今回は遙かリーニス砦で走り回っている彼にそれは不可能なことである。これまでウラートがいかにそつなく自分の周りから鬱陶しい連中を隔離してくれていたのかを思い知って、リュ・リーンはゲッソリとため息を吐いた。
「ウラート。早く戻ってきてくれ」
 寝椅子のクッションを抱きかかえ、リュ・リーンはうなだれたまま再びため息をつく。この夏の間に彼の背はかなり伸びていたが、ウラートへの甘えはあまり成長していなかったようだ。
 気疲れにウトウトと居眠りを始めたリュ・リーンを叩き起こすように扉が叩かれた。もうこれで何度目の訪問者であろうか。
 苛ついた様子で立ち上がると、リュ・リーンは乱暴な足取りで扉に近づき、そっと薄めに扉を開けた。扉の隙間から金色の色彩が覗いている。
「誰だ?」
 不機嫌な声で呼びかけるが、相手からの返事がない。不審に思いながらリュ・リーンは扉をもう少しだけ開けて相手の顔を確認した。
「イセンリア嬢ではないか! こんな夜更けに何かご用か?」
 扉の向こう側に立っていたのはウレアの城主、トゥナ王国の副王であるガラッド候の娘であった。
 煙るような淡い金髪の巻き毛を左肩から長く垂らし、手入れされた雪の肌が廊下の薄暗がりのなかで発光しているように輝いて見える。春の空色をした瞳を縁取る長い金の睫毛はそっと伏せられ、その上の瞼などは静脈が透けて見え艶めかしいほどの艶があった。
 それほど背が高いわけではないが、円みのあるふくよかな体つきがやや肉感的で子供っぽい印象とは無縁の令嬢である。
 彼女の美貌は隣国にまで知られるほどで、その容姿ゆえに求婚者が後を絶たないという噂はワーザス地方にある王都ルメールにまで届いていた。
「用がないのならお引き取り願いたい。俺は晩餐会に引っ張り回されて疲れているんだ」
 黙ったまま俯いているイセンリアに苛立ってリュ・リーンは扉を閉めかかった。
「いやっ! 待って……」
 城主の娘は閉まりかかった扉を押さえると、倒れ込むようにしてリュ・リーンの胸へと飛び込んでくる。避ける間もなく、リュ・リーンは彼女を抱き留める羽目になった。
「今晩はお側においてくださいませ、リュ・リーン殿下」
 しっかりと自分の胸にすがりついている娘を持て余し、リュ・リーンはただ立ち尽くした。いきなり部屋を訪ねてきたかと思えば、今度は夜伽をすると言っているのだ、この娘は。
 貴族のなかには貞操観念など欠落しているのではないかという者が多いが、この娘もそういった連中のうちの一人らしい。リュ・リーンは半ば呆れながら、娘を引き剥がした。
「イセンリア嬢。俺には婚約者がいるのだがな? 自分が何を言っているのか、判っておいでか?」
 リュ・リーンは不機嫌な表情のままで娘を見下ろす。自分から望んでやってきたわけではあるまい。父親のガラッド候に焚きつけられたのだろう。
聖地(アジェン)の姫君でございましょう。存じておりますわ。でも王子妃が一人だけだという決まりはありませんでしょう?」
 娘は伏し目がちに頬を染めて小さく囁いた。彼女にしても、女としての野心があるのなら、時期国王の王太子の妃となる絶好の機会だと内心では思っているのかもしれない。
 リュ・リーンはうんざりした気分で小柄な女を睨んだ。だが相手はこちらの顔を見ようともしない。まるで恥じらうように視線を伏せたままだ。
「なぜ顔を上げない? 俺の顔が見られないか?」
 苛立ちを含んだリュ・リーンの声にイセンリアが恐る恐る顔をあげる。だがリュ・リーンの暗緑の瞳と視線が絡まると慌ててまた顔を伏せてしまった。
「顔をあげて俺の瞳を見てみろ!」
 怯えた様子で顔を背ける娘の肩を掴むと、リュ・リーンは彼女を引き寄せる。相手の身体が小さく震えていた。そのことが余計にリュ・リーンの嗜虐に火をつけた。
「俺の妃となれば毎日この瞳を見るのだぞ? そうやって一生顔を背けているつもりか?」
 リュ・リーンの嘲りの声に娘は再び恐る恐る顔を向けるが、彼女の空色の瞳は動揺に揺れ動き、リュ・リーンの視線を避けるように自分の視線を定めようとしない。
「そんなに俺の瞳が恐ろしいか。よくぞそれで俺の妃になどと言えるな。夫の顔もまともに見られないような女などいらぬわ!」
 娘の肩を突き放して廊下へと押し出すと、リュ・リーンは乱暴に彼女の目の前で扉を叩き閉めた。
 忌々しさと一緒に胃の腑に降りてきた苦い思いが王太子の胸に広がる。
 いつもそうだ。誰も彼もが自分の瞳を恐れるのだ。この暗緑の魔の瞳(イヴンアージャ)を! 死の王ルヴュール神の申し子だと恐れられ、避けられていることに自分が傷つかないとでも思っているのか!?
 リュ・リーンは小卓(ハティー)へと歩み寄ると、そこに用意されていた上等な蜜酒(ミード)を勢い良くあおった。体中に広がる酒の熱に一瞬だけ苛立ちが削がれたが、すぐに胸くそ悪い想いが沸き上がってくる。
「クソッ! 俺だってこんな容姿で生まれたくなどなかった!」
 再び杯に蜜酒(ミード)を満たすと、リュ・リーンは一気にその強い酒を飲み干した。
 まるで喉の乾きを癒すために飲んでいるかのように、何度も何度もそれを繰り返す。だが酔いはいっこうにやってこず、むしろ頭のなかは冴え渡っていくような気がした。
「俺も両親のどちらかに似たかった。金の巻き毛か柔らかな栗毛で、青い海の色をした瞳でも持って生まれてきたかったのだ。それなのに……。どうして……」
 酒をすっかり飲み干し、寝椅子に倒れ込むと、リュ・リーンはクッションに顔を埋めて呻き声をあげ続ける。
 泣き叫んだら少しは楽になれるのだろうか。だが彼の口から嗚咽が漏れることはなく、ただ苦しげに肩を震わせて途切れがちに呻き声があがるだけだった。
「神よ……。あなたは残酷だ。どうして俺をこんな姿で下天に遣わしたのだ!」
 自身の姿に呪詛を呟くリュ・リーンの声を聞く者は誰もいない。だがその呻き声を遮る来訪者がまたしてもやってきた。
 控えめに叩かれた扉からの音にリュ・リーンは言い様のない苛立ちを感じ、初めはまったく無視を決め込んだ。だが扉を叩く音は執拗に続き、彼に沈黙を許さなかった。
 険悪な表情のままリュ・リーンは扉に歩み寄り、勢い良く扉を開ける。部屋の灯りが廊下の暗がりを照らし、訪問者は突然の光の洪水に目元を覆っていた。
「なんの用だ! 俺は眠らせてもらうこともできないのか!」
 室内からの光の眩さに顔を背けていた者が恐縮した表情でリュ・リーンに視線を向ける。若い男だ。リュ・リーンよりは年上であろうが、二十代半ばほどではないだろうか。
「お休みのところを申し訳ありません。つい先ほど届いた書簡がありましたので」
 リュ・リーンは光のなかに浮き上がった男の顔が、この宮殿で自分の身のまわりの世話をするためにあてがわれた従者のものであることを確認して、剣呑な視線をふと緩めた。だが不機嫌さをすべて拭い去ることはできない。
王都(ルメール)からでも何か言ってきたのか?」
 山脈の向こう側にある故郷の都から戦地のリュ・リーンに手紙が届く場合、それは危急の知らせてあればあるほど、彼にとっては凶報であることが多い。夜も更けた時刻に従者が飛んでくるのは、よほどのことに違いない。
「いえ、あの……。書簡は聖地(アジェン)からのものであります」
「なに? 聖衆王陛下から……」
 こんな時刻に知らせが届くほどのことが聖地に起こったのだろうか? いや。それにしてもあの聖衆王がリュ・リーンに知らせを送ってよこすようなことと言ったら……。
「いえ。違います、違います! 聖なるお方からには違いありませんが、あの、聖衆王のご息女からの……」
 王太子の言葉を遮ってしまったことに気づき、従者は途中から言葉を濁すように俯いてしまった。代わりにおずおずと蝋封が施された書簡を差し出してくる。淡い光沢を放つ蝋封に押された印はもう見慣れてしまったものだった。戦地にいるリュ・リーンに常に救いの手を差し伸べてくれた手紙だ。
 胸に沸き上がった甘いざわめきに息を呑むと、リュ・リーンは従者の手からそっと手紙を取り上げた。
「どうして? 危急の知らせでもない限り、明日の朝にでも届けてくれたら……」
 取り急ぎリュ・リーンに知らせるべき手紙でもあるまい。先ほど届いたというのなら、この従者も就寝していたであろうに。
「あの……わたくしなら恋人からの手紙は一刻も早く読みたいと思いまして。僭越ながら……。すみません。お邪魔をしてしまいました」
 もごもごと小さく言い訳をして俯いてしまった従者が頬を赤く染めていた。そのまま後ずさるように廊下の暗がりへと消えていこうとする。
「待て。お前、名は?」
 リュ・リーンは及び腰な相手を呼び止めるとじっと男の顔に視線を注いだ。
「オ、オージュンと申します、殿下」
 口ごもりながらおろおろと返事をする男の態度にリュ・リーンは小さく口元だけで笑った。もっとも俯いている相手にはその顔は見えないであろうが。
「そうか。オージュン、礼を言う。遅くにすまなかったな。お前も休んでくれ」
 驚いて目を見開く従者の目の前で王太子の部屋の扉がゆっくりと閉じていく。開け放たれたときの荒々しさとはうって変わったその静けさに、従者は安堵と供に満足げな笑みを浮かべたのだった。
 一方、リュ・リーンは蝋封を切るのももどかしげに書簡を開くと、むさぼるように羊皮紙の表面に視線を走らせていた。
 戦の最後の決戦の間、彼女からの手紙は手元に届けられていなかった。数日おきには届けられていた手紙ではあるが、さすがに戦場の最前線にまで運ばせるわけにもいかない。
 彼がようやく婚約者からの手紙をまとめて手にとることができたのは、平原の安全が確保され、リーニス砦で簡単な弔いを済ませてすぐのことだった。それ以来の手紙ということになる。
 あれからすでに十日以上経っている。もう我慢の限界だ。ささくれだつ神経がすり減ってしまいそうだったのだ。
 手紙の内容はいつも通りリュ・リーンの身を案じている言葉が並び、戦いが終わったことに安堵しているというものだった。女性らしい丸みのある優しい文字が婚約者の柔らかな声となってリュ・リーンの耳元に聞こえてくる。
「カデュ・ルーン。カデュ・ルーン……。逢いたい……今すぐ、今すぐ逢いたい」
 自分の凱旋を、勝利の帰還を心底喜んでくれているのは彼女だけのような気がした。王太子だというだけのことで薄っぺらなおべっかを使う他の者たちに、こちらの内心など到底判るまい。
 戦場では血が沸きたつほどの高揚感に酔っていた。だがひとたび戦いが終わると、身体のなかに吹く虚ろな風は心を寒くするばかりだ。それを包み込んでくれる者はやはり彼女、カデュ・ルーンしかいなかった。
「カデュ・ルーン……」
 別れしなに見た哀しげな彼女の微笑みを思い出して、リュ・リーンは婚約者からの手紙にそっと口づけた。これから彼女の元に帰るのだ。あの寂しげな顔が今度は麗しい花のようにほころぶ様を見るために。
 だがリュ・リーンが実際にワーザス地方を目指して出立できたのは、その夜からさらに十日近く経ってからのことだった。
 一時的に戦時下での統治官としてリーニスに君臨したリュ・リーンには今後の施政の引き継ぎやら、リーニスに駐屯させる兵士の配置決めやら、取り組むべきことが多すぎた。疲れを癒す間もなく奔走してそれらを片付けると、リュ・リーンは引き留めようとする貴族たちを振り切って馬上の人となったのだった。
 小隊ほどの小規模な騎士のみを引き連れて、リュ・リーンは修繕されたばかりのイナ洞門を目指して愛馬を駆る。目指すは雪と氷の大地。そして、その雪原に佇む鈍色の尖塔に住まう恋人の待つ街へ。
 帰ろう、君の待つ場所へ。
 帰ろう、この翼を休めるために……。




 イナ洞門を抜けた先、故郷ワーザス地方はすでに雪化粧を帯びていた。薄曇りのなかで見ても目の奥を射すきらきらしい銀雪が北風に空を舞っている。
 目の前に広がる見慣れた懐かしい風景に、リュ・リーンは心を躍らせた。
 ひたすらに疾走させている愛馬は洞門を抜けてから山脈沿いに北上し、遠く地平の向こうに聖地が望める丘の上にさしかかったところだった。
 日が傾く頃にその鈍色の城塞の前に辿り着くと、リュ・リーンは安堵とともにはやる気持ちを押さえ込んだ。一刻も早く芳しい花の香りのする娘の元へと向かいたいところだが、それはまだ許されることではない。
 この聖地(アジェン)の支配者に神降ろし(エンダル)の通行許可を賜った礼を伝えるのが先だ。
 苛つく内心を押し包むように旅用のマントを身体に巻きつけると、リュ・リーンは軋んだ音を立てて降りてくる跳ね橋をじっと見上げた。待っている時間というのはなんと緩慢にすぎていくことだろう。まるで焦らされているようだ。
 降ろされた橋を渡り、トゥナ王家に与えられた王城の棟へと向かいながらリュ・リーンは無意識のうちに庭に視線を走らせる。一刻も早く逢いたい人物がもしかしたら出迎えてくれぬかと。
 そんな人目につきやすい場所に探し求める娘がいるはずがないことは判っていたが、せめて一目だけでもと視線は彷徨い続けた。
 結局、以前に使っていた部屋へと案内され、その窓から眼下の庭園を覗いて見ても、愛しい婚約者の姿を見ることはできなかった。
「カデュ・ルーン……」
 冬支度を終えた庭を見下ろしながらリュ・リーンはポツリと婚約者の名を呟いてみた。
 いったいそれにどんな魔力があるのか、明日までの辛抱だと堪えていた心の水面をザワザワと波立たせる。同じ城のなかにいるというのに、まだ彼女には会えない。聖衆王との謁見を終えるまで、どうやってそれに耐えろというのか。
 聖衆王が謁見に割く時間よりも随分と遅かったが、リュ・リーンは身支度を整えるとあたふたと奥宮へと向かった。
 本来なら伴ってきた数名の部下も供に拝謁できるよう手配したいところだったが、それでは明日の謁見時間まで待たねばならない。リュ・リーンにはとてもではないが、そこまで待っていられる気分の余裕がなかった。
「聖衆王陛下に拝謁を賜りたいのだが。取り次いでもらえないか?」
 リュ・リーンは奥宮へと通じる巨大な扉の前で頑固に無表情を保っている衛士たちに声をかけた。だが彼らはあらぬ方角を見るばかりで、扉を開けてくれようとはしない。
 これが父であるシャッド・リーン王であったなら、臆面もなく扉を押し開けて勝手に入っていってしまうところであろう。しかしリュ・リーンにはそこまでの度胸はない。
 衛士たちが決してこの扉を開けてくれそうもないと判ると、トゥナの王太子は小さなため息をついてきびすを返した。やはり無理だったか。もしかしたらと思ってやってきたが、相手は正式な手続きを踏まねば会ってくれそうもないようだ。
 悄然と肩を落として部屋に戻ってきてみると、部下の一人がバタバタと走り回って自分を捜しているところに出くわした。
「殿下! 良かった。そこにおいでだったのですか」
 右手に丸めた羊皮紙を握りしめている。何事かと彼の差し出す巻物の蝋封を見たリュ・リーンは心臓が一足飛びに跳ね上がり、血が逆流しそうな激しさで流れ出す感覚に襲われた。
 清花(カリアスネ)の紋章が押された蝋封だ。この夏の間、どれだけこの紋章を見たことだろう。
 手早く封印を切ると、リュ・リーンは紙面の上に視線を滑らせた。見慣れた柔らかな文字にさらに心臓が激しく波打つ。
「これを届けてくれた者は?」
「この巻物を置いてすぐに帰ったそうです。返事が必要な内容でしたでしょうか?」
「いや、必要ない。夕食までまだ間があるな。部屋にいることにする」
 懐に手紙を押し込むとリュ・リーンは足早に自室へと戻った。
 後ろ手に扉を閉めながら手紙を懐から引っぱり出すと、もどかしげにそれを広げて紙面を再び指でなぞりながら読み始める。
 羊皮紙の表面には文字の他に簡略化された見取り図が書かれていた。その図を頭に叩き込むと、リュ・リーンは暖炉へと近づいていく。
 一瞬だけ惜しそうに羊皮紙の文字を見つめ、次いでそれを振り切るように赤々と燃える炎へと投げ込んだ。ジリジリと羊皮紙を燃やす炎がすべてを呑み込んでしまうまで、リュ・リーンはまんじりともせずに佇んでいた。
 羊皮紙が跡形もなく燃えてなくなると、自室の扉を薄く開けて廊下の様子を伺った。人影はない。階下からも足音は聞こえてこなかった。
 リュ・リーンは音もなく部屋から滑り出ると足音を忍ばせて階段を下り、王城の回廊へと通じる扉からこっそりと抜け出していった。
 窓から差し込んでくる陽光に照らされて彼の影が回廊に長く伸びていく。その物言わぬ影だけを従えて、リュ・リーンは頭の中にある見取り図通りに進んでいった。
 あまり使われていない区画なのだろう。王城の従者たちともすれ違うことなく、リュ・リーンは一つの小さな扉の前に辿り着いた。何本かの木の幹から削り出された板で組まれた扉だ。
 ここに来るまでの間にも心臓は躍り続けていたが、扉の前に立つといよいよ胸はドキドキと暴れ回る。扉へと伸ばした指先が緊張に微かに震えている。
 触れた扉はひんやりと冷たかった。だが石のような硬質な冷たさとは違う。触っていると表面からは判らない木の内部の温みが伝わってくるようだった。
 その扉をリュ・リーンはそっと押してみた。わずかな力を加えただけでは開かないようだ。さらに力を加えて押すと、滑らかな動きで扉が暗い口を開けた。
 向こう側に枯れた枝が数本転がる地面が見える。その奥には葉を落とした裸木が身体をよじっている姿がある。その白っぽい木肌がぼんやりと光っているように見えた。
 王城のなかの庭の一つに違いない。周りを石壁に囲まれた小さな庭に足を踏み入れると、リュ・リーンは気忙しく辺りを見回して目的の人物を探した。
 数本植えられている白い木と枯れた草ばかりが目に入り、この場所を教えてくれた人物の影が見当たらない。落胆したリュ・リーンは庭の中でも日当たりのいい場所に据えられた庭机へとフラフラと近づいてそれに寄りかかった。
 薄曇りの一日だったとはいえ、そこには微かな日向の香りが残っている。頑丈な石製の机に寄りかかったままリュ・リーンは木の梢を見上げた。剥き出しになった小枝の向こう側に空が見える。
 灰白色の木肌と褪せた空色の織り模様にぼんやりと見とれていたリュ・リーンの耳に扉の軋む音が響いたのは、空を見上げすぎて首が痛くなりかかった頃だった。
 リュ・リーンは緊張に肩を強ばらせて振り返っる。その視線の先に銀に染まった人影が見えた。
 額から頬にかけての髪だけを残し、後ろ髪を柔らかく結い上げた髪型は初めて目にするものだったが、間違いなく探し求めていた人物だ。
「カデュ……ルーン……」
 どれほど緊張していたのだろう。リュ・リーンは情けなくかすれた自分の声を遠くに聞きながら、銀の愛しい影へと駆け寄っていった。
 幾度夢に見ただろう? どれほど彼女の声や姿を思い起こしたことだろう? この半年、触れることの叶わなかった娘の身体を抱きしめると、リュ・リーンはうわ言のように相手の名を繰り返して呼んだ。
「お帰りなさい、リュ・リーン」
 囁く相手の声に鳥肌が立った。こんな甘い高揚感はいつ以来だろう。緩めた腕のなかでカデュ・ルーンが口元をほころばせている。
 ふいにリュ・リーンの鼻腔にむせそうに甘いカリアスネの香りが広がった。カデュ・ルーンの香りではない。彼女の使っている香はもう少し大人しいはずだ。
 これは半年前のあの夜、初めて彼女を抱きしめたときに辺りに立ちこめていた花の香りだ。
 リュ・リーンは夢を見ているような浮游感に襲われた。
「あぁ……夢じゃないんだな? 俺の腕のなかにいるのは、確かにあなたなのか……カデュ・ルーン」
 戦場で荒々しい声をあげて部下に檄を飛ばしてたリュ・リーンからは絶対に想像もつかないか細い声だ。そのかすれた声にカデュ・ルーンが声をあげて笑った。
「えぇ。わたしはここにいるわ。……ねぇ、誰にも見つからなかった? 手紙も燃やした?」
 冬枯れた庭のなかで見るとカデュ・ルーンの瞳はいよいよ若葉の鮮やかさを見せ、半年前の花の季節を思い出させる。あれからもう半年、いやまだ半年しか経っていないというのに、随分と逢っていなかったように感じる。
 若葉の瞳と赤いカリアスネのように色づいた唇が娘の白い顔のなかにくっきりと浮かんでいる様を、リュ・リーンは痺れた頭の隅で熱心に見続けていた。
「リュ・リーン? どうしたの?」
 返事をすることも忘れているリュ・リーンの様子にカデュ・ルーンが首を傾げた。その仕草ですら木の枝で身体を震わせる小鳥を連想させ、リュ・リーンはうっとりとその姿に見惚れてしまう。
 再会したら彼女にかけようと思っていた言葉の数々も何もかも忘れ、リュ・リーンは再びカデュ・ルーンを抱きしめた。半年の間に伸びた背のお陰で今は彼女の全身を包み込んでしまえる。
「カデュ・ルーン……カデュ……」
 呪文を唱えるように幾度も彼女の名を繰り返しながら娘の顔をそっと見下ろすと、リュ・リーンは恐る恐る彼女の頬に指を滑らせた。滑らかで温かみのある肌触りに指先が痺れる。
「カデュ・ルーン、やっと逢えた……。どれだけ逢いたかったことか」
 相変わらずの囁くような声で愛しい名を呼びながら、リュ・リーンはゆっくりと彼女の頬に唇を寄せた。彼女が好んで使っている香がその銀髪から漂ってくる。
 リュ・リーンは繊細な銀細工でも扱うように、そっとカデュ・ルーンの白い頬に口づけを落とした。傷つけることを恐れるような慎重さだ。
 そのカデュ・ルーンの頬に朱が差した。恥じらうように伏せられた若葉の瞳にうっすらと涙が溜まっている。今にも溢れそうな雫たちが彼女の睫毛を濡らす。
「あぁ……駄目。我慢しようと思っていたのに。わたしったらなんて弱虫なのかしら」
 ついに堪えきれなくなりカデュ・ルーンの瞳から涙がこぼれ落ちた。頬に添えられたままのリュ・リーンの指にその熱い雫が伝う。幾つもの小さな水晶が指先で弾けていくたびに、リュ・リーンは訳の判らない高揚感にくらくらと目を回した。
 俯くカデュ・ルーンの顎を引き上げて上向かせると、リュ・リーンは彼女の白い頬を濡らす奔流を指先で拭う。間近で見る娘の唇は涙を堪えようと小さく噛み締められていた。
 そんな我慢などしなくてもいい。リュ・リーンは先ほどから胸に噴き上がっくる高揚感に耐えかねて彼女の唇を奪った。
 カデュ・ルーンが必死に戒めているものを解きほぐすように幾度も赤い花弁の上に口づけを落とし、娘の華奢な身体を壊れそうなほどに強く抱きしめる。カデュ・ルーンが自分の腕のなかで身体を震わせ、しがみついてくる気配が伝わってきた。
 彼女の紅い花唇から離れても、リュ・リーンは白い頬や額、首筋へと口づけを落とす。自分の唇が柔肌に触れるたびに娘が身体を小さく震わせることに気づいたが、それすら案じてやる余裕がなかった。
「カデュ……エーマ。エーマ……」
 気軽に口にしていい名ではない。それは彼女を支配する聖名(ルーンガルド)なのだから。だがリュ・リーンは熱に浮かされたように幾度もその名を呼び、飽きることなく彼女を抱きしめ続けた。
 どれほどの間そうしていただろう。辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていた。木立の白い木肌が闇にうっすらと浮かび上がっている。
 一過性の情熱が過ぎ、穏やかな充足感が胸を満たすと、リュ・リーンはようやくカデュ・ルーンを戒めていた腕を緩めてそっと身体を離した。
「ごめん……。腕、痛かっただろう?」
 加減することを忘れていた。痛くないはずがない。それでなくてもカデュ・ルーンは華奢な体格なのだ。だが彼女は口元をほころばせているばかりで、一言も非難を口にしない。
 じっと自分を見上げていた娘が再び「お帰りなさい」と口にするのを聞いて、リュ・リーンはばつが悪そうに俯いて「ただいま」と返事を返した。先ほども彼女は同じように迎えてくれたというのに、自分はなんと間抜けな反応を返していたことか。
「怪我は大丈夫なの?」
 ギョッとしてリュ・リーンは目を見開いた。そして慌てて自分の右頬にできているであろう薄い傷痕を指でなぞる。それほどひどい傷痕はできてはいないのに、彼女はすぐに気づいたようだ。
 目をそらすことなく自分を見上げてくるカデュ・ルーンには嘘や誤魔化しなど通用しないのかもしれない。
 困惑するリュ・リーンの両頬を掌で包むと、カデュ・ルーンは柔らかな微笑みを浮かべた。薄暗いなかでもはっきりと判るほどに明るい笑顔だ。
「その傷痕、痛まないの?」
「あ……あぁ。もう全然平気だ」
 魔の瞳(イヴンアージャ)と恐れられる自分の暗緑色の瞳にもまったく怯えを見せない婚約者の態度に、リュ・リーンは畏怖を感じた。身内である姉たちですら、時に恐怖を浮かべて異端の弟を見るというのに。
「カデュ・ルーン……。あなたは俺が怖くないのか?」
 これまで恐れていて聞けなかった問いがふいにリュ・リーンの口から溢れた。彼女の好意を信じていないわけではない。だが死の王と同じ瞳を覗き込むことは、愛情以前の宗教的な嫌悪の問題であろう。
 カデュ・ルーンが首を傾げて眉を寄せた。
「どうして? リュ・リーンはいつだって優しいわ。どこが怖いの?」
 何を問われたのか判らないと言った様子で、カデュ・ルーンはますますじっと若者の暗緑の瞳を覗き込んだ。
 むず痒いようなざわめきに浸ると、リュ・リーンは嬉しそうに顔を歪める。打算の混じらない純粋な愛情だけで自分を見てくれる者がいるというのは、なんと喜ばしいことか。
「皆、俺の瞳を怖がって避けているのに……」
「あら、それはあなたが気難しい顔をしているからよ。笑ってごらんなさいな。皆、逃げやしないわ」
 クスクスと笑い声をもらしてカデュ・ルーンが抱きついてきた。その無防備な愛情に戸惑いながらリュ・リーンもうっすらと笑みを浮かべる。
 不器用な自分には親しい者たちの前以外で微笑むことはできないかもしれない。でも、きっとこの麗しい花の娘となら、カデュ・ルーンとならずっと笑いあって生きていける。リュ・リーンはそんな予感に胸が暖かくなった。
 辺りには花の香りが立ちこめているような気がする。冬が間近に迫っているこの季節にそんなことはあり得ない。
 だが彼女が、カデュ・ルーンがいる場所でなら、そんな奇跡が起こっても不思議はないのかもしれない。
 紅や白の花弁を揺らして咲き乱れるカリアスネよりも鮮やかな聖なる花が、今は自分の腕のなかで笑い声をあげている。この花を慈しみ、供に生きていける喜びにリュ・リーンはいつまでも胸を震わせていた。

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