第05章:血海
激しい風が枝木を吹き散らしていく。まるで伝説の竜が吠えたてて、大地に貼りつく者どもを嘲笑っているようだ。
リーニスの南方ではまだ夏の暑さが引かない。北方地区では早いところであればもう麦の刈り入れが始まっているであろうに。
「敵軍主力、平原を見下ろせる丘に陣取っています」
「陣形は紡錘形陣!」
リュ・リーンの元にもたらされた報告は周囲の将軍たちの内心に動揺の波紋を広げた。
士気の上がらない軍が攻撃を重視した陣形をとるとは思ってもみなかったのだろう。むしろ相手は手堅く攻守の切り替えができる正攻法な陣形で臨んでくるものとの予測が彼らのなかにはあったのだ。
「よほど切羽詰まっているか、あるいは強硬な指揮官がいたのか……。まぁ、大人しく尻尾を巻いて逃げ出さなかったのだ。形勢の逆転を狙っていることに変わりはない」
飛ばした斥候の報告にもリュ・リーンは動揺しない。むしろ戦いを楽しんでいるような酷薄は笑みが周囲の将軍たちを震え上がらせる。
「敵軍は一カ所に集中してるわけではないだろう。たぶん、どこかに他の兵を伏せているはずだ。こちらも後続隊を残す。周囲の伏兵どもを狩り出させろ! 地理に詳しい者を各隊につけよ!」
次々に指示を出すリュ・リーンのまわりには、これまでにカヂャ軍への復讐の機会をうかがっていた士官たちが集い、その指令を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていた。
軍馬の神経質ないななきと甲冑の擦れる音、そして木々の間を吹き抜けていく風の音以外は、リュ・リーンの声しか聞こえない。大軍での行軍だというのに、それは不気味なほど整然とした、あるいは無機質な動作だった。
「敵軍大将旗、確認とれました。王弟ルインディ公の旗章です!」
「ほぅ……」
相手の名前にリュ・リーンの瞳が鋭さを増した。口元には楽しげな笑みがもれる。
「これまでの占領作戦では表舞台に出てきてなかったが……。本国から派兵されてきたか? どうりで攻撃一本槍な陣形を組む」
相手の指揮官の名は将軍たちにも意外あると同時に、組まれた陣形を納得させるものだった。
王弟ルインディ。現カヂャ王の末弟はその猛々しい直情型の作戦をとることで知られている。防御することよりも相手をねじ伏せることに主眼を置いた彼の戦術は、カヂャ軍が勢いに乗っているときにはかなりの脅威である。
しかし、今回のように士気が落ち込んでいるときはどうであろうか?
彼の出現によってカヂャ軍の士気が回復していた場合、トゥナ軍はかなり厳しい戦いを強いられることになるだろう。だが逆に士気が上がっていなかった場合、それは長年の宿敵に煮え湯を飲ませてやれる格好の機会だ。
「ふふん。奴が軍を掌握しきれているかどうか……。かなりの短期間だったはず、奴を芳しく思っていない将軍たちには煙たいことだろう。大将旗以外の旗章は他に誰のものがある?」
冷酷な口調を崩さないリュ・リーンの様子に彼の側近くに愛馬を寄せていた将軍アッシャリーは背筋を震わせる。と同時に、戦の高ぶりに身体のなかの血を沸きたたせていた。
「現在確認がとれているだけで、四~五名の将軍がおりますが」
スラスラと報告をする部下の言葉に頷きながら答え、リュ・リーンはますます口元に笑みを深く刻んだ。
報告の最後に敵将ファドーの名が上がったとき、黒衣の王子は邪悪なほど危険な笑みを浮かべて笑い声をあげる。
「なんだ、あのうすのろがまだ陣中にいるのか。あのバカ者がいるのなら、楽勝だな」
なんとも頼もしく、また恐ろしい王子ではないか。これから繰り広げられるであろう血戦に臆することもなく、自分が負けるなどとは微塵も思っていないのだ。
彼の父親、シャッド・リーン王ですらここまで戦を楽しげにこなしはしないだろう。
目の前にある小高い山を越えればそこは敵が待ち受ける戦場なのだ。なのに彼は恐怖を感じてはいないのか、愉快げに笑い声をあげて伝令を手招きする。
「後続隊を敵の側面に回せ。それから……」
声を低めて数人の伝令へと耳打ちした王子の顔は魔神を思わせる凶暴な表情を浮かべていた。
その横顔を見つめながら、アッシャリーは甲冑の上から自分の胸元を押さえた。
戦以外でのリュ・リーンは、時には子供のように無邪気な表情を見せることもある。しかしひとたび戦となったら、この変わり様はどうだ。王都での貴族たちの足の引っ張り合いが子供騙しのように思えるほどに残酷な笑みを浮かべて敵軍を翻弄するではないか。
王都で物憂げに貴族たちの冷笑を浴びている王子は本当の彼ではないのだ。戦場で大剣を掲げて、軍馬を駆る姿こそが彼の真の姿に違いない。
現にここ三年。王子が成年して軍の指揮をするようになってからは負けなしだ。まさに戦場での王太子には魔神が乗り移っているのだ!
「我々本隊はこのまま直進する。派手に登場してやれ。ルインディが俺たちの掲げるトゥナの軍旗を見誤らないような!」
後続隊が離れていくと、残された士官たちを前にリュ・リーンが再び笑みを浮かべた。自信に満ちあふれたその態度に若い士官たちの間からはどよめくような歓声があがる。
どちらの軍の指揮官が兵士一人一人にまで支持を受けているのか、比べるまでもないほどの熱気がトゥナ軍のなかには膨れ上がっていた。
「出立!」
リュ・リーンの朗々と響く声に呼応して軍馬たちが行軍を再開した。一糸乱れぬその動作がまるで竜の鼓動のように聞こえてくる。
戦場は目の前だ。この小さな山を越えた先に、血を求めて兵たちが集う。
獰猛な、嵐を予感させる風のなかで戦いの火蓋は切って落とされたのだった。
戦いの開始は弓隊からの攻撃によって開始される。互いの力を見せ合う前に、牽制しながらその間合いを詰めていくからだ。
双方の弓隊が雨のように矢を射かけあい、どちらからともなくそれが止むと、本当の戦闘が始まるのだ。
紡錘形の陣形をとっていたカヂャ軍は槍隊を前面に押し出し、その背後を重騎兵が斧を振り回して突進してくる。
対するトゥナ軍は突出するカヂャ軍の先陣を削り取るように取り囲んで両側面からその兵力を削り取っていく戦法をとった。
カヂャの戦力が優ればトゥナの兵壁は破られ、軍は二分されてカヂャ軍の餌食となるだろう。また逆にトゥナの兵力が優ればカヂャの兵数は減り、ついには取り囲まれて消滅してしまう。
なだらかな丘や平原が広がるこの一帯は、今まさに血みどろの戦いによって大地を朱く染め上げていた。
カヂャの軍隊の中央部で指揮をとっているルインディにとって、この戦術は博打のようなものだった。
わずかな均衡でこちらが優れば、敵軍を食い散らして葬り去ることができる。だが逆の立場になった場合、兵は全滅する可能性すら出てくる。
すでに幾度も機動力を活かしたこの陣形でトゥナの兵壁へと突進を繰り返していた。その度に敵軍は両側面へとまわりこんで自軍の側面を固める兵士たちに痛烈な攻撃を加えてくる。
走り抜けた後には、敵兵の骸以上の数の自軍の兵士の骸が転がっていた。
先頭を走る兵と後続の兵との距離が開くほどこの陣形は脆い。まばらな密集度では相手の兵を自軍の内部へと食い込ませるだけだ。
左右に軍を分断されてもトゥナ軍はアッという間に集結し終え、再び鉄壁の陣形を形成し直してしまう。まるで泥でも相手にしているようだ。
突き崩しても、押し切っても、いつの間にか元の形へと戻ってしまうのだ。
「おのれ! トゥナの蝿どもめ! チョロチョロと小賢しい! 我が軍の脚力が今少し強く、早ければ……!」
苛立ちが呪詛の言葉となって喉から溢れるが、それが自軍の手助けになるはずもない。こちらに不利な消耗戦は士気の差がいずれ勝敗を分けるだろう。
「……! 右方を守っているあの部隊はファドーのものか!?」
ルインディは鋭い鷲のような瞳を自軍の遅れがちな部隊へと向けた。
先ほどからあの一帯の兵士だけが異様に遅れているように思える。あそこがついてきさえすれば、陣形を崩すことなく反転して隊列を整え終わる前のトゥナに再度突進できるものを!
「あのグズが! 軍でどれだけ無駄飯を喰えば気が済むのだ!」
苛立ちを強めたルインディが自軍の将を痛罵する声が聞こえでもしたのか、トゥナ軍から大きな鬨の声があがった。せっかく今の突撃で敵軍を分断したというのに、またしても相手のほうが先に隊列を組み直してしまったのだ。
「クソッ! トゥナの魔神め! あいつが前線に出てくるとろくな目に遭わぬ!」
敵兵たちの人波の向こうに鈍く輝く黒甲冑の指揮官を思い出してルインディが歯がみした。トゥナの黒い王太子は聞きしに勝る戦上手のようだ。よく兵をまとめて自在に操る。
同じ指揮官として羨望を禁じ得ないところだが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「別働隊はまだ到着しないか!?」
ルインディの荒々しい声に側近の一人が答えを返す。
「間もなくでしょう。トゥナ軍の到着が予想よりやや早うございましたからな」
消耗戦の最中で側近の落ち着いた声はルインディに平静さを呼び覚まさせた。指揮官が熱くなりすぎては冷静な判断などどできない。
落ち着け、落ち着けと幾度も自身に呼びかけて、ルインディは自軍の隊列を整え続けた。そのとき、彼のなかに閃くものがあった。
足手まといになり、なおかつ敵軍の格好の標的にされているお荷物ファドーを上手く利用してやればいいではないか!
「ファドー隊を後方に下げよ!」
隊列を組み直している兵たちが指揮官の声と伝令たちの声によって移動していく。上手い具合に遅れ気味のファドーたちはカヂャ軍のしんがりにようやく追いついてやっとの思いで陣形に加わったところだった。
「突撃!」
鋭い叫びとともに軍馬に鞭を当ててがむしゃらに走り始めたカヂャ軍は、ファドーとその部下たちに休息を与えることなく、再びトゥナ軍へと襲いかかっていった。
トゥナの兵士たちはすでに臨戦態勢に入っている。騎馬を中心にしたカヂャ軍とは違って歩兵も相当数いるのだが、各隊の士官がよほど上手くまとめているのか、脱落者がほとんど出ていない。
突撃しながらルインディが舌打ちした。戦闘中にこれほど統制のとれる軍隊がいったいどれだけあるだろうか。
だが機動力においてはこちらが上だ。足手まといを置き去りにして突き進むカヂャ軍は再びトゥナ軍を突き抜け、その部隊を分断することに成功した。
カヂャの隊列から離されていたファドーの部隊はまだトゥナ軍のなかだ。むさぼり食われるようにその隊列が消滅していく。
その様を観察する余裕も惜しんで、ルインディはトゥナ軍の手薄になった兵壁へと襲いかかった。
必死の抵抗を試みるファドー隊とカヂャ本隊に挟まれたトゥナ軍の左側面が隊列を乱したのはそのときだった。遅れたカヂャ軍の部隊に気を取られていたために陣形を建て直す機会がほんの一瞬後手に回ったのだ。
「切り崩せ! 弓隊! 後方より援護!」
叫び様にルインディは手近なトゥナの歩兵の肩先に戦斧を叩き込んだ。血飛沫を上げて倒れる敵兵に目もくれず、愛馬の馬蹄で敵歩兵を蹴散らしてトゥナ軍の隊列を崩し続ける。
カヂャの後方では弓隊が自軍の頭上を越えて敵軍の中央部に達する飛距離から死の雨を降らせている。
挟撃された隊列を救いにこようとしていたトゥナ本隊も矢の雨に足並みを乱しがちだ。
「進め! このままトゥナの中央を突破する!」
崩れ始めたトゥナの隊列に更に深く浸食すると、カヂャ軍はその騎馬の機動力を活かしてトゥナ軍の中央部へと襲いかかった。
「来たぞ……! 味方だ!」
折しもカヂャの別働隊が平原へと到着し、喚声をあげてトゥナの反対側面へと襲いかかる。未だ疲弊を知らない別働隊はトゥナ軍が反応する以上の速度でその側面へと迫りっていた。
「カヂャの勝ちだ、黒い魔神め!」
ルインディの怒りにたぎった叫び声が戦いの空へとこだました。
突進するルインディの視界に今日、幾度目か目にする黒い甲冑が入ってくる。トゥナの王太子だ。あの首級さえ捕れたなら!
猛り狂っている愛馬を駆ると、ルインディは漆黒の騎士へと躍りかかった。
「その首もらったっ!」
ルインディの血まみれの戦斧が黒い甲冑をかすめる。その戦斧の柄元を黒騎士の大剣が薙ぎ払った。重心を狂わされてルインディがよろけ、その隙に相手はトゥナの騎士たちに守られて離れていく。
「おのれ、黒太子! 逃げるか!?」
苛立ちに叫び声をあげたルインディが再び黒騎士へと飛びかかっていくが、幾重にもトゥナの騎士が壁となって立ちはだかった。
「ルインディ殿下! 深追いはなりません!」
目を血走らせた指揮官を押し止めるようにカヂャの士官も間に入る。
混戦の様相を呈してきた戦場に、また新たな鬨の声があがったのは、ルインディと黒い王太子とが刃を交え終わったそのときだった。
「な……に……!?」
カヂャの別働隊はすでに到着している。他は兵を伏せていない。
辺りを見渡せば、別働隊の背後から襲いかかってくる一団があるではないか! 数こそ少ないが、トゥナの軍旗を掲げたその一団がいっそう混戦へと両軍を叩き込んだのだ。
「クソッ! トゥナも兵を分けていたのか!」
兵を束ね直さねばなるまい。こんな混戦状態で兵を失うわけにはいかない。
ルインディが兵団を建て直すために号令をあげようとしたその刹那……。
まったく思いもよらない方角から鬨の声があがった。
「なんだと!? 背後から!?」
振り返ったルインディの視界に兵団が入ってきた。
戦闘開始とほぼ同時に止んでいた風が再び舞い始めている。その不吉な竜の啼き声を連想させる風音が嘲笑っているかのように聞こえた。
風に翻る新たな兵団の戦旗はカヂャのものではない。
あぁ! 紅地に黄金の正三日月紋と左手短剣紋! トゥナ王家の紋章だ。
そこにはカヂャの仇敵、トゥナ軍の軍旗が竜の叫びに呼応するように翻っているではないか!
両側面から敵の攻撃を受けたカヂャ軍は、それでもかなりの時間踏みこたえていた。だが機動力の高い騎馬兵団も、その俊足を封じられてはいかんともし難い。
「隊列を整えよ! 今は深追いするな!」
トゥナの王太子の叫ぶ声がルインディの鼓膜を叩く。相手は更なる味方の登場にすっかり余裕を取り戻していた。対して、こちらは陣形を整えようにも隊を指揮する士官が次々と屠られ、統制がとれなくなってきている。
「黒太子め! 将ばかりを狙わせておる……!」
混戦のなかにも関わらず、トゥナ王軍の兵士たちは狙いすませたように各隊の指揮官たちに襲いかかっていた。瞬く間に兵団の隊列を整え、その最中でさえ敵への攻撃を忘れない相手にルインディは舌打ちをした。
「ドゥニアダ!」
ルインディは自分の近くで戦斧を振り回している部下を呼んだ。
上官の声にそのドゥニアダがチラリと視線を向けてくる。だが腕は忙しく斧を振り回し続けていた。愛馬の足下から敵の歩兵が槍を突き上げてくるのだ。ちょっとでも気を抜けば串刺しになってしまう。
「兵を引かせろ。リーニス砦まで後退だ! お前が指揮をとれ!」
驚いて目を見開く部下を残してルインディが軍馬を駆った。彼の愛馬の蹄にかかって幾人ものトゥナ兵士が押し潰される。彼どころか、彼の軍馬まで敵の血を浴びて朱く染まっていた。
一直線にトゥナの本隊中央に迫る彼の背後ではドゥニアダが主を呼び止めようと叫んでいたが、ルインディにはその声は届いていない。いや、届いていたとしても彼は止まらなかっただろう。
「黒太子……!」
一直線に迫ってくる紅に染まった騎士に気づいたトゥナの騎士たちが王子を守るように立ちはだかる。その甲冑の壁にルインディが戦斧を叩き込み、甲冑ごと騎士たちの腕や肩の骨を砕いていった。
「邪魔するなぁっ!」
獰猛な叫び声がルインディの喉から迸り、その勢いのままに振り回された斧は次々とトゥナの騎士たちを戦闘不能な状態にしていく。カヂャ兵の多くは大地に骸となって横たわり、残りの兵は戦線を離脱していたが、ルインディだけは黒い甲冑の持ち主の姿を探して戦場を彷徨っていた。
「どこだ……! 隠れずに出てこい、魔神め!」
凶暴なルインディの声にトゥナの多くの兵は怖じ気づいている。彼の前には相変わらずトゥナの騎士が立ちはだかり行く手を遮っていたが、その向こうにはチラチラと黒い影が見え隠れしていた。
「待てぇい、トゥナの魔神! お前は逃げることしか出来ぬか!」
逃げ出したカヂャ兵も多くいたが、踏みとどまって戦い続けている者は王弟ルインディを助けに行こうと足掻いている。だが背後から襲いかかってきたトゥナの新手が巧みにその行く手を遮り、ルインディとの距離を離していく。
「ルインディ殿下ぁっ! お戻りくださいぃっ」
絶叫する部下たちの声は、もはやルインディのいる場所まで届いてはいない。兵士たちの阿鼻叫喚の喧噪から徐々に引き離されていっているのだ。
だがルインディは目の前にちらつく黒い人影を追うことに必死で、そのことにまったく気づいていない。立ちふさがる騎士たちを蹴散らし、トゥナ軍の指揮官に一撃を喰らわせてやろうと躍起になっていた。
「待たぬか、この腰抜けがぁっ!」
幾度目かのルインディの痛罵に黒い甲冑の騎士が馬を止めた。優雅に馬首を巡らし、本来ならば両手持ちのはずの大剣を軽々と片手に掲げる。
獲物が振り返ったことにルインディはほくそ笑んだ。ようやくまともに相手をしてくれそうだ。血濡れた戦斧を構え直すと、彼は今まで以上の素早さで軍馬を駆って相手へと飛びかかっていった。
トゥナ軍の騎士たちが主を庇おうと走り寄ってくるが、当の王太子自身がその部下たちを制してルインディへと突進してくる。
ルインディの戦斧と黒太子の大剣が火花を散らしてぶつかった。
一撃目は引き分けと言っていいだろう。お互いの力が拮抗しており、勢いに任せて打ち込まれた斧と剣は互いの勢いに弾かれてしまった。
交差した視線が一つは怒りに、もう一つは冷酷にぎらついている。
弾かれ、押し戻された勢いから立ち直ると、二騎は再び激突した。ルインディの戦斧が弧を描いて下方から、トゥナの王太子の大剣が一直線に上方から襲いかかる。今度は上方から打ち据えた分だけ黒騎士の勢いが勝った。
上体を馬上でよろめかせながらルインディが馬首を巡らせてやや後退する。その彼を追うように大剣が甲冑の胸当てをかすめていった。だがルインディに傷を負わせるほどではない。
「まだまだぁっ!」
三度愛用の斧を構えると、ルインディは馬に弾みをつけて相手が突きだした切っ先を薙ぎ払った。今度は王太子が上体を泳がせて馬首を下げる。
すかさずルインディは馬を寄せると黒騎士の胸部めがけて戦斧を叩き込んだ。
だが甲冑を着ているとは思えないしなやかな動きで相手が攻撃をかわす。相手の騎士には隙がないのではないかと、ルインディは苛立ちを強めた。
幾たびも激突を繰り返し、互いの得物の刃もこぼれ落ち、底抜けの体力を誇っていた二騎の軍馬もかなり疲弊し始めた頃。またしても先に動き始めたのはルインディのほうであった。
今度こそは相手の首を刎ねるつもりで戦斧を振りかぶる。狙いは寸分違わず黒騎士の顎を捕らえるはずだ。器用に手綱を操る相手の動きを読み、その剣技をかわしてルインディは残る力をすべて斧の刃に乗せて相手の頸部へと叩き込む。
間違いなく彼の斧は相手の兜を捕らえ、その首を刎ね飛ばした。黒光りする兜が血に染まった大地の上を転がっていく。
やった……! ついに魔神をこの手にかけたのだ。
ルインディは狂喜して愛用の斧を高く掲げる。この数年、母国の兵に煮え湯を呑ませてきた黒い魔物を討ち果たした。
だが彼は腕を上げたその姿勢のまま凍りつく。背中に焼けつくような痛みを感じた。いったい自分の身体に何が起こったというのか!?
獣の唸り声が聞こえる。それが自身が漏らす苦痛の声だと気づく間もなく、ルインディは馬上から転がり落ちて大地に激突した。
混乱した彼の視界に屠ったはずの黒騎士の愛馬が近づいてくる。霞みがちな視界のなかにその馬上の人影が映った。
そんな……! 間違いなく兜ごとその首を叩き折ったと思っていたのに!
彼の頭上には、肩先まで伸びた黒髪を風になびかせ、魔神の暗緑の瞳を輝かせる青白い肌の若者の顔があった。トゥナの王太子リュ・リーンの、冷たくどんな剣よりも鋭利な視線に串刺しされ、ルインディはようやく自分が相手の策略にはまったことを悟った。
自分が叩き折ったと思った兜は中身などなかったのだ。どれほどの早技か知らないが、この黒髪の騎士はルインディの斧刃の下をかいくぐり、自身の頭部を守っていた兜を脱ぎ捨ててさも必殺の一撃が成功したように見せかけたらしい。
さらに背中の痛みから察するに、鞍にかけられている投げ槍をすぐさま投擲して背後から襲いかかってきたのだ。
「卑怯な……」
血泡を噴くルインディの口元から微かな声が漏れる。一騎打ちをしている相手の背中から襲いかかるとは……。
怒りに顔を赤く染め、ルインディは起き上がろうともがいた。そんな彼を上から見下ろしたまま、トゥナの王太子が冷淡な声を発する。
「卑怯? 砦の井戸に毒を投げ込むような戦い方をするのは卑怯ではないのか?」
背中の傷は思ったよりもひどいようだ。身体に力が入らない。ルインディは自分を見下ろす青白い顔を睨みつけた。そんな彼に氷の視線を浴びせ、リュ・リーンがさらに続ける。
「戦いをなんだと思っているんだ。正々堂々と一騎打ちをする場所をお前は間違えたのさ。……ここは戦場だ。試合場じゃない。勝った者がすべてを貰い受けるのが常だろうが。勝つための努力をしなかったお前に勝者になる機会などあったと思うのか? 自分に有利になるように駒を配せなかったお前の負けだ!」
地面に転がされるような事態になってからルインディはやっと理解した。確かにカヂャの指揮官である自分を一人引き離すようにこの王子は誘導していたではないか。それに気づかずに深追いし、堂々と一騎打ちに持ち込んだと思っていた自分が浅慮だったのだ。
戦には勝者と敗者しかない。その境界線を分けるのは、最後まで立っていた者が勝者であり、地面に倒れた者が敗者だという単純な、だが厳然としたものだ。
ギリギリのところで知略を巡らせ、相手と駆け引きを繰り返して勝機を探るのが戦ではないか。その根本的なところを失念し、剣の稽古か御前試合のような高揚感に浮かれていたのだ。
目の前の死神がゆっくりと大剣を振りかぶる姿をルインディは茫然と見上げる。出血が多いのか、身体は痺れたように動かない。もしかしたら投げ槍には毒でも塗ってあったのかもしれない。
「……汝、死の王の翼の下に眠れ」
人を死へと導く魔王の声だ。その、相手をねじ伏せ平服させる神の声はなんと甘美に自分を死へと誘うのだろうか。誘惑を妨げる者は誰もいない。
狙い定めて振り下ろされた大剣が視界いっぱいに広がった。次の瞬間、ルインディの魂は死の魔王の元へと旅立っていった。
最期の旅路を見送るたった一人の者は、なんの感銘も哀悼も表情に浮かべず、感情を殺した瞳で静かに見守っているだけだった。
王弟ルインディ卿、討ち死。
その報が戦場を駆け巡るのにそれほどの時間はかからなかった。それまで必死に防戦し、指揮官の元へと向かおうとしていたカヂャの将校たちが雪崩をうって後退し始める。
すでにカヂャ国軍は軍隊としての形を失い、群からはぐれた草食動物のようなものだったのだ。とどめを刺しに襲いかかるトゥナ軍の前に、ただただ逃げ惑うばかり。
リーニス砦へと遁走するカヂャ兵が大半だったが、なかには真っ直ぐ東の本国へと向かう脱走兵もいる。血に飢えた獣と化したトゥナ兵たちが逃げるカヂャ兵たちを次々に血祭りにあげ、ついにはリーニス砦まで取り戻すのにさほどの時間はかからなかった。
リーニス砦に立て籠もろうとしたカヂャ兵はそこでもトゥナ軍の待ち伏せにあったのだ。
カヂャ軍との戦いの前から、トゥナ軍はいくつもの別働隊を用意していた。その別働隊がもぬけの殻となっていた砦に先回りしてそれを占拠していたのだから、どうしようもあるまい。
完全に瓦解したカヂャ軍はここで息の根を止められた。
そうだ。トゥナ王国軍はその手に完全な勝利を掴んだのだ。
リーニス砦に到着したリュ・リーンを出迎えたのは、彼の幼い頃からの学友だった。
「ウラート。ご苦労だったな」
門を入ってすぐの前庭で愛馬を降りたリュ・リーンは気難しい顔つきをして出迎えた友にねぎらいの言葉をかける。
「また無茶をしたそうですね、リュ・リーン」
この半年の間にすっかり眉間の皺が板についてしまったウラートが冷え冷えとした声を出した。その不機嫌な声にリュ・リーンは首をすくめたが、すぐに気を取り直して砦の中へと入っていく。
「ところで……この砦に駐屯していたトゥナ兵たちの遺骸は?」
「さすがにカヂャの者たちも死体と一緒に寝起きする気はなかったのでしょう。砦の南門の外に積み上げられておりました。もちろん、到着してすぐに簡単な弔いを済ませましたが……」
「俺も行く。案内してくれ」
砦の内部を突っ切って、リュ・リーンは足早に南門へと向かった。彼の背後から主立った将校たちがついてくる。彼らにしてみれば砦に入ってすぐに勝利の勝ち鬨をあげるのだろうと思っていただけに、王子がどこへ向かっているのか見当もつかない様子だ。
南門に近づくに従って饐えた臭いと香木の香りが辺りに漂い始めた。
「ほとんど白骨化していましたが……。血や肉、内臓が腐って出す臭いですからね。この腐臭だけは香木を焚いてもなかなか消えません。辛いですよ、この先はもっと悪臭がします」
「かまわん。……リーニスに根ざす以上、彼らは俺の民だ」
腐臭に怖じ気づいている将校たちが戸惑いながらついてくる。その動揺のなかをリュ・リーンは顔色一つ変えずに南門へとやってきた。
辺りのあまりの臭気に、付き従ってきた将校のなかには涙目になっている者もいれば、吐き気を催して壁に寄りかかっている者もいる。戦場で血の匂いを嗅ぎ慣れている戦士たちにもこの腐乱していく死骸の臭いは耐え難いらしい。
背後の者たちにようやくリュ・リーンが振り返って声をかけた。
「ついてきたい者だけついてこい。お前たちにはこんな酔狂につき合う義務はないからな。体調の優れない者は砦の向こう側に戻れ」
振り向いたリュ・リーンの顔色も悪い。その彼に寄り添うウラートにしても決して平気なわけではないようだ。将校のなかにはとうとう耐えきれずに胃の内容物を吐いている者が出だした。
「ウラート。お前も残っていいぞ」
「おつき合いしますよ。あなたが途中で気絶したら、運び出さなきゃいけませんからね」
心配しているのか、嫌味を言っているのか判らないウラートの反応に、リュ・リーンは苦笑いを浮かべる。そして「じゃあ、頼むとするか」と学友の肩を軽く叩いて門の外へと踏み出していった。
獄界がどんな場所かと問われたら、目の前に広がっている光景を指してここがそうだ、と言ってやりたい気分だった。
まともな死体などただの一つもない。春先の戦いで死んだ者たちがおよそ半年もの間、こんな場所に放置されていたのだ。蛆が湧き、腐り果て、そして白骨化しているものばかりだ。
目に浸みる臭気の元は肉や内臓が腐った結果だけではなく、流されたおびただしい血の生臭い匂いでもあるのだろう。足下の大地は大勢の兵士たちが流した血を吸いきれずに今も赤黒く染まっていた。
黙って立ちすくむリュ・リーンの背後で、なんとか付き従ってきた将校たちも絶句する。
赤黒い大地の上に積み上げられた白い骨たち。その骨の間に蠢く黄色い蛆。なんと凄まじい光景だ。わずかに骨に残った腐肉に向かって食屍鳥が舞い降り、彼らの足に蹴り転がされた髑髏がカラカラと虚ろな音を立てて骨の山から転がり落ちる。
耐えきれなくなった将校数人が口を押さえて門のなかへと駆け戻っていく。
誰が責めようか。この凄惨な光景を見て、誰が耐えよと命じられようか。
呻き声一つあげることもできずに立ちすくんでいた将校の目の前で、リュ・リーンが鈍い足取りで骨の山へと近づいていく。呼び止めようとするのだが、その声は喉に貼りついて出てこない。
骨山の麓まで辿り着くと、リュ・リーンは緩慢な動作で足下のがい骨を拾い上げ、山全体を見渡すように首を巡らせた。
白い骨の山を見上げる王子の背には、黒いマントが下がっている。そこには鈍い金糸の輝きに縫い取られたトゥナ王家の紋章が……まるでこの光景に肩を落としているようにうなだれていた。
リュ・リーンがその重たげなマントを外す。戦いの間、常に彼の背にあったその布は色褪せ、所々にすり切れができていた。
外したマントを骨たちの上に投げ置くと、手にした骨を重しの代わりにマントの上に置く。白い骨のなかに埋もれるようにして広げられた王家の紋章が秋の空の下で鈍い光を放っていた。
「お前たちのことは決して忘れない。王家は……、トゥナ王国はいつもお前たちと供にある」
リュ・リーンの絞りだすようなうめき声が震えている。頭を垂れ、黙祷する王子に倣ってウラートや将校たちも静かに目を伏せた。その彼らの頭上を食屍鳥たちが嘲笑うように鳴きながら飛び回っている。
トゥナ軍本隊がリーニス砦に入城した日、ついに彼らの間から勝ち鬨は上がらなかった。葬送の香木が砦の至る所で焚きしめられ、男たちの低い祈りの声が途絶えることなく続く。
死の嘆きを払うように篝火が点された砦は、炎の朱に照らされて血の涙を流しているようだった。
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