石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

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後日譚

No. 74 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第04章:下天

 花園の花たちの数が随分と減ってきていた。もうすぐ、カリアスネの花の季節も終わる。剥き出しになっている土の色が秋冬の到来が近いことを知らせていた。
 庭に張り出したテラスから見下ろすと、銀色の輝きが残り少ない花の間を行き来している。夕暮れも迫っているというのに、その輝きは辺りの翳りに気づいていないようだった。
「毎日毎日飽きないことだな……」
 ダイロン・ルーンはせっせと花たちの世話をする妹の小さな背中を眺めながら苦笑した。
「カデュ……」
 妹の名を呼ぼうと上げかけた声をダイロン・ルーンは飲み込んだ。
 次いで、苦々しげに顔を歪める。
「なぜ……」
 洩らした声は怒りに震えているようだった。
「彼女は私の妹じゃないか……。それを……」
 傾いてゆく太陽を見つめる彼の視線が鈍く光った。薄い色合いの瞳に映った太陽が歪んでいる。
 思い出したくもない記憶が、瞬く間にダイロン・ルーンの意識を支配した。
「神よ……。なぜ、こんな忌まわしい記憶を植えつける。こんなものを思い出さなければ……。私は……」




 午後の間中ずっと剣の稽古をして汗を流した彼を待っていた者がいた。
「……? イージェン。どうしたんだ?」
 同僚の横顔がゆっくりとこちらへと向き直る様子を見ながら、ダイロン・ルーンは首を傾げた。確か、彼は今日は剣の稽古の日ではないはずだ。
「少々伺いたいことがあるのだがな、カストゥール候」
 同僚の声は硬かった。
「なんだ? どうかしたのか?」
 顎をしゃくって自分を促すイージェンは無表情なままで、それがダイロン・ルーンには奇妙な胸騒ぎを覚えさせた。
「イージェン。いったい何があったんだ? 貴卿らしくもない」
「……らしくもない、か。そうかもしれん」
 人気のない建物の陰に入ったとき、ダイロン・ルーンがたまりかねて前を行く同僚を呼び止めた。
「お前に気取ってみたところで仕方のないことだ。単刀直入に訊こう。……何故、縁談を断った?」
「な、なぜそれを知っている? ……第一、貴卿には関係のないことだろうに」
 予想もしなかった問いかけにダイロン・ルーンは動揺した。自分の縁談のことをどうしてイージェンが知っているのだろうか? いや、それよりも、イージェンにはダイロン・ルーンが誰と連れ添おうと関係がないではないか。
「関係ない? ……お前、まさか縁談の相手も聞かずに断ったのか!?」
 イージェンの顔つきが強ばり、そして、険しくなった。
「……イージェン!?」
「聞かなかったのだな。……信じられん。妹がここまで虚仮(こけ)にされていようとは……」
 唇を噛みしめたイージェンの顔は血の気が引き、怒りを通り越して、絶望を刻んでいるように見えた。
「まさか……貴卿の妹だったのか? ……いや、そんなはずはない。貴卿に妹がいるなどと聞いたことは……」
「……いるさ。血の繋がらない妹だがな」
 イージェンの言い分に何か思い至ることがあったのか、ダイロン・ルーンはハッと息を飲んだ。
「……継母殿の連れ子の?」
「そうだ……。ようやく思い出したようだな」
 歪んだ笑みを浮かべたイージェンの表情には、自嘲が刻まれている。
「私が断った理由など訊いてどうするつもりだ……」
 少々憮然としてダイロン・ルーンは問い掛けた。
 普通、断られた理由など訊きにくるのは非常識なことだ。その一点においても、イージェンの行動は不可解なものだった。
「……そうだな。すまん。どうかしているようだ、今日は。忘れてくれ」
「イージェン?」
 明らかに落ち込んだ様子の同僚の姿に、ダイロン・ルーンは違和感を感じずにはいられなかった。どう考えても、彼の様子はおかしいのだ。
「……父は、なぜ、継母殿を後添いになど選んだのだろう」
 ぼそりと呟いたイージェンの声の暗さにダイロン・ルーンはハッとした。
「義妹殿が……好きなのだな?」
 青ざめた同僚の横顔がダイロン・ルーンの問いを肯定していた。
「トゥナのように、血の繋がりのない者や片親の血筋が違っている者同士ならば、身内であったとて婚姻の妨げにならないというのだったら、どんなにか良かったのに……」
 泣き笑いの表情がイージェンの横顔に浮かぶのを見たダイロン・ルーンは、思わず視線をそらした。イージェンの言葉がなぜが胸に突き刺さる。
「お前に感謝しなければならないのだろうな、カストゥール候。これでもうしばらくは妹と一緒にいられる……。愚かな望みだが……」
「私は……」
 どんな返事をしても、今は滑稽にしか聞こえそうもなかった。ダイロン・ルーンは微かに首を振っただけで、続く言葉を飲み込んだ。
「カストゥール候……。いや、ミアーハ・ルーン卿。貴卿はこれからもずっと独り身を通すつもりか?」
 イージェンの声は囁くように小さかったが、ダイロン・ルーンの耳には氷原を渡る風よりもはっきりとした音となって聞こえていた。
 ずっと独り身を……? なんのために……?
 イージェンの問いかけに答える言葉が見つからず、ダイロン・ルーンは再び彼から視線をそらせた。……何を迷っているというのか。叔父にはあれほどきつく返答をしたというのに。
「貴卿も……添えぬ相手を想っている、か?」
 同情も憐憫もない、淡々としたイージェンの口調にダイロン・ルーンは目眩を覚えた。
 添えない相手……? 誰も、そんな者はいない。
 言下に否定しようと顔を上げたダイロン・ルーンの瞳が同僚の孤独な眼とぶつかった。喉まで出かかっていた言葉が霧散する。
「すまぬ。……やはり今日はどうかしているようだ。詮無いことを訊いてしまった。それこそ他人には関係のないことだった……」
 自分に背を向けて歩き去る男の背を、ダイロン・ルーンは見守った。大地に足を縫い止められたようにピクリとも動けない。
「どうして……」
 誰に問うでもなく、ダイロン・ルーンは呟いた。
 同僚の言葉を否定したかった。自分は誰も好きになれないだけだと。
 だが、その答えを声に出そうとすると、言葉は萎えたように力を失う。こんなバカなことがあっていいはずがない。
「嘘だ……」
 ダイロン・ルーンは唇を噛みしめた。
 無力な自分を呪う。
 何に対して無力なのかも判ってはいないのに、ただひたすらに無力感に(さいな)まれる自分自身を呪った。




 部屋の外の話し声に子供は首を傾げた。
 どうしたのいうのだろうか? なんかだいつもと様子が違う。
 落ち着かない様子で子供部屋から顔を覗かせた子供の眼に、階下のホールで気忙しく話をしている父親の横顔が飛び込んできた。
 険しいその顔にブルッと身震いすると、子供はそっと扉を閉めようとした。
「アリスン・ルーンが……」
 子供の動きが止まった。なぜ、母の名が出るのだろうか?
 まだ四~五歳の子供には、母親の存在は何よりも重いものだ。
 その名前に反応して、再び扉の陰から階下の父の様子を伺う。よく見れば、父親と話をしている相手は、母の弟、子供から見れば叔父に当たる人物だった。
「意識は戻ったのだろう? ならば心配せずとも……」
「意識は戻った……。だが、不安なのだ。産まれてくる子供は……!」
「落ち着いてくれ、義兄上。大丈夫だ。子供はあなたの子に間違いないのだ! そうだろう? ……おかしなことを考えないでくれ」
「判った……。その通りだ。アリスン・ルーンの産み落とす子供がオレ以外の者の子であるはずがない」
 低くくぐもった父と叔父の会話は子供には理解できない言葉ばかりだった。いったい、何の話をしているのだろうか?
 ささやかな好奇心が頭をもたげ、子供はこっそりと部屋を抜け出すと、階段の物陰から二人の様子を覗き込んだ。
 二人が階段の下から離れた。向かった方向からして、父の書斎に行くらしい。子供は足音を忍ばせて階段を下りると、二人の後に続いた。
 書斎の扉に耳を押し当ててみる。
 だが、中からはボソボソと会話する声が聞こえるだけで、話の内容まで聞き取れない。
 少し考え込んだあと、子供は書斎の隣にある書庫へと向かった。
 父の蔵書や大切にしている品物が収められた小さな部屋に忍び込むと、向かって右側の壁に扉が見える。父の書斎と繋がっている扉だった。
 注意深く扉に寄り、扉の隙間に耳を押しつけてみる。
「誰にも知られてはならない……」
「当たり前だ。そんなことをしたら、産まれてくる子は殺されてしまう!」
 物騒な二人の会話が子供の耳に飛び込んできた。思わず扉から耳を離す。
 だが、好奇心に負けて再び耳を扉に押しつけて中の様子を伺う。盗み聞きをしている子供の表情は無邪気で、自分が悪いことをしているとは思ってもいないようだった。
 大人のやること話すことに、逐一興味がでてくる年頃なのだろう。
「なぜアリスン・ルーンはあの花園になど行ったのだろう? ……本人はまったく覚えていないらしいが、オレには解せない。小さな息子を放っておいて、出掛けていくような女じゃないんだ」
「それは……」
「産まれてくる子が、オレの子であってくれと願うばかりだ……。もし……。もしも、魔性の子であったら……」
 父親のただならぬ呻き声に、子供は困惑した。どうして父はこんなに哀しげな声をあげるのだろうか?
「ミアーハ……」
「マシャノ・ルーン……。お前はこの秘密を墓場まで抱えていってくれるのか?」
「……もちろんだ。誰にも洩らさぬ。そう、例え、実の父であろうとな。ミアーハ・ルーン、誓えというのなら、百万回だとて誓ってもいい。頼む……。姉を守ってやってくれ。姉には貴卿しかおらぬ……」
 居心地悪くなり、子供は扉から離れた。いつもの父と叔父ではない。何かがおかしい。きっと聞いてはいけないことを耳にしてしまったのだ。
 こどもはこっそりと書庫から抜け出すと、一目散に子供部屋へと駆け戻った。
 何が起ころうとしているのだろうか? 母に何かが起ころうとしている。いや、母だけではない。この家に何か災いが起ころうとしてるのだ。
 父の言葉のなかにあった、魔性の子というのは何だろう?
 小さな胸を痛めながら、子供は微睡みのなかに沈んでいった。




「あぁっ! いやよ。放して! ……こんな子を産むつもりはなかったわ!」
 子供は狂乱する母親を茫然と見つめた。
 母の手には銀色に輝く凶刃が握りしめられている。それを父が取りあげようともみ合っているのだ。
「放して、ミアーハ! いやよ! この子はわたしの子じゃないっっ」
 青ざめ、泣き喚く母の形相が恐ろしく、子供はベッドの陰に身を隠した。母はどうしてしまったというのだろうか?
 白いベッドの中で蠢く者があった。
 小さな五指が子供の視界に入ってくる。
「赤ちゃん……?」
 子供はベッドに乗りかかってその小さな生き物をマジマジと見つめた。
 何故か、その赤子からは甘い花の香りがした。甘いような、切ないような……。カリアスネの花の匂い。
 すやすやと眠っている赤子の短い髪は白銀に光り、真っ白な肌が雪のようだった。母と同じ髪の色に肌の色だ。
 好奇心に駆られ、子供はそっと柔らかそうな頬に触れてみた。
「ダイロン! ……その子に触るんじゃありませんッ!」
 母の金切り声に子供は飛び上がった。
「いい加減にしろ、アリスン!」
 荒々しい父の声が母の声を追ってきた。子供はどうすればいいのか判らず、ただおろおろとするばかりだった。
「ダイロン・ルーン。……部屋に行っていなさい」
 動揺に震える息の下から父が子供に呼びかけた。父の顔にはまだ理性が残っているようだ。子供にはそれが最後の光明のような気がした。
 転がるようにして部屋の扉に取りついた子供は、勢いよくそれを開け放ち、室外へと走り出た。
「ダイロン・ルーン……!」
 廊下の向こうから聞き馴れた叔父の声が聞こえてきた。
「叔父上様……」
 泣きそうな顔をしてダイロン・ルーンは叔父に腕を差し出した。
 それに答えるように彼を抱き上げた叔父は、努めて穏やかな表情を浮かべて問い掛けた。
「どうした? 父上に叱られたのか?」
 子供はプルプルと首を振り、父と母が争っている部屋を指さして、声を震わす。
「母上が……。母上がおかしいの。赤ちゃんにひどいことを……!」
 パァッとダイロン・ルーンの瞳に涙が浮かんだ。一度堰を切ってあふれ出た涙は止まらず、ダイロン・ルーンはしゃくりあげ始めた。
「よしよし。良い子だから、泣くんじゃない……」
 叔父に背中を撫でさすられ、ダイロン・ルーンはようよう涙を封じ込めた。
「母上……、病気なの? だから、あんな酷いことするの?」
「そうだな……。きっと病気なのだよ、母上は。だから治さないとな。……ダイロン・ルーン。一人で部屋に戻れるかな? 私はすぐに母上の病気を治しに行きたいのだけれど」
 叔父の真剣な表情を見つめてダイロン・ルーンはこくりと頷いた。
 一刻も早く、母の病気を治して欲しかった。元の優しい母に戻って欲しかった。
「一人で大丈夫だから……!」
 涙を拭い、精一杯強がってみせたあと、ダイロン・ルーンは叔父の見守る中、階段を駆け上がって子供部屋へと飛び込んだ。
 子供部屋の扉を閉める寸前、母の叫び声が響いてきた。
「こんな忌まわしい血を引く者が、あなたとわたしの子供だとでも言うの!? ……嘘よ! そんなの絶対に嘘よ!」
 扉を勢いよく閉め、自分のベッドに飛び込むと子供は耳を覆った。
 何も聞こえなくなれば、恐ろしいことなど起こらないとでも思ったのか、両耳を塞ぎ、身体を丸めて。彼は長い長い静寂のなかで、独り震えていた。




 学舎から帰って来てみると、妹は独りぼっちで遊んでいた。
 妹が産まれて以来母は床に伏せりがちで、神殿の仕事で忙しい父も一日中家にいるわけにも行かず、ダイロン・ルーンと妹は静まり返った家のなかで二人で過ごすことが多かった。
 まだまだ赤子だった頃の妹の面倒を見たのは、父とダイロン・ルーン、それに叔父が探してきた育児係の女性だった。母は妹にまったく関心を示さない。
 妹のカデュ・ルーンが三つになるのを境に、慣例によって育児係の女性も家に来なくなった。
 父が仕事に向かい、ダイロン・ルーンが学舎に行ってしまうとカデュ・ルーンはたった一人で家に籠もっていた。
 気丈なのかそれとも感情が乏しいのか、カデュ・ルーンは大人しい。
 カストゥール家が抱えている召使い女が出す食事を食べ、昼寝をしている。いるのかいないのかわからないくらいに。
 およそ子供らしい笑い声をあげることもほとんどない。
 いや一度、ダイロン・ルーンとはしゃいで階段で遊んでいたとき、その声に苛ついた母が金切り声をあげて彼女を罵ったことがあった。
 それ以後は今まで以上に妹の口数は減った。
「カデュ・ルーン! ただいまっ」
 兄の声に振り返ったカデュ・ルーンの顔がほころんだ。笑い声をあげることはなかったが、笑顔を忘れてしまったわけではない。
 そのことは、父とダイロン・ルーンに安堵感を抱かせた。
「兄ちゃま……」
 目の前に転がっている積み木に興味を失ったカデュ・ルーンがパタパタとダイロン・ルーンに駆け寄り、両手を差し出した。
 その小さな妹を抱きしめるとダイロン・ルーンはニッコリと微笑んで見せた。
「良い子にしてた? カデュ・ルーン」
「うん」
 カデュ・ルーンは聡明な瞳を見開いて兄の顔を凝視すると真剣な面持ちで頷く。その表情がおかしくてダイロン・ルーンは再び微笑んだ。
 母にそっくりな若葉色の瞳が自分をまじまじと見つめている。
 それに少々居心地が悪くなったダイロン・ルーンは、妹の手を取ると廊下を指さした。
「父上の書庫へ行こう。……昨日の続きを読んであげるよ」
 目をキラキラと輝かせて、自分の手を握り返す妹の顔を見つめてダイロン・ルーンは胸を痛める。
 なぜ、母上はこんなにもカデュ・ルーンを避けるのだろう? 妹は何も悪いことなどしてはいないのに……。
 それに対する明確な答えは父親からも得られなかった。
 無論母親になど問えたものではない。妹の名を口にしただけで、母親はヒステリックに喚き出すのだから。
 あの日。妹が産まれた日、母の心は壊れてしまったのだ。きっと、病魔が母の心を粉々に砕いてしまったに違いない。
 妹の手を引きながら、ダイロン・ルーンは廊下の奥に視線を走らせた。
 奥にある部屋に籠もっているであろう母の自室の扉は固く閉ざされ、微塵も開く気配を感じさせなかった。




「魔物の子! お前さえいなければ……!」
 肩を怒らせて妹に詰め寄る母の形相にダイロン・ルーンは凍りついたように立ちつくしていた。
 母も自分も、そして妹も簡素な白い衣装を身につけていた。
 ……喪服だった。聖地アジェンを中心とした国家群は、葬儀や喪中の間はこの色の衣装を身にまとう決まりになっている。
 母の白い衣装には、(すす)が染み込んでいた。それが母の狂気の原因のように思えて、ダイロン・ルーンは恐れおののいた。
 父が亡くなったのは、つい三日前だ。
 死因はハッキリとしていない。突然に職場である大神殿で倒れ、侍医の手当の甲斐もなく、呆気ないほど簡単に父は逝った。
 父の死を告げにきた神職者は、まだ幼いダイロン・ルーンとカデュ・ルーンに事の次第を伝えるのを躊躇い、召使い女に女主人を呼びやらせた。
 その間の居たたまれないといった顔つきをして佇む相手をじっと見つめている妹の様子がいつになく興奮しているように見えて、ダイロン・ルーンは落ち着かなかった。
 あの後、父の死を知らされた母は半狂乱だった。
 駆けつけた叔父とそのお抱えの侍医が母を落ち着かせるのに手こずる様子を物陰から見ていたダイロン・ルーンは、泣きそうな気分でいっぱいだったのだ。
 父が死んだというのに、母は元の母には戻ってくれない。父の死を知ったとき、もしかしたら母が正気づくのでは、と淡い期待を懐いたのだが、結局それは裏切られてしまった。
 父の棺に火がかけられ、その遺体が真っ黒に焦げついてもなお、母は現実を受け入れようとはしてくれない。
 それどころかまるで関係のない妹に詰め寄り、あらん限りの悪口雑言を吐き続けている。
 カデュ・ルーンの顔は真っ青だった。たとえ、可愛がられていなかったにしろ、生みの母にこのように憎まれていようとは思いもしなかっただろう。
 本来、自分を守ってくれるはずの者が、自分に悪意の塊を投げつける。それは、ようやく物心がつき始めた彼女にとって、自分の世界が崩壊するほどの衝撃だ。
「母上! やめてっ!」
 ついにダイロン・ルーンは泣きながら母にすがりついた。母の服に貼りついている(すす)が彼の頬や服の袖口を汚した。
「お放し! ダイロン! あぁっ! この忌まわしい霊繰り(ディー)の小娘さえいなければ! ミアーハを返して! わたしの夫を返しなさい、この悪魔!」
 次々に飛び出してくる言葉にカデュ・ルーンは顔を強ばらせ、泣くことも忘れてブルブルと震えている。このまま母の悪態を聞き続けていたら、彼女は粉々に砕け散ってしまいそうだった。
「お願い! やめて、母上! カデュ・ルーンは悪くない! やめて!」
 首を激しく振りながら、ダイロン・ルーンは母親にしがみついた。目の前を黒い煤が舞う。
 ……父の遺体の一部だ。ふとダイロン・ルーンはその黒い煤の正体を思い出し、涙を流した。
 父の棺が燃え尽きた後、母は焼け残った遺骨をかき集め、抱きしめたまま放そうとはしなかった。
 まわりの人間が無理矢理に引き離して屋敷に連れ帰らなければ、母はずっと焼けた父の遺骨を抱いて動かなかっただろう。
 召使い女が主人の手足についた煤を拭い取ってくれたが、母は服を着替えようとはしなかった。眠ることさえ忘れてしまったようだ。
 ダイロン・ルーンとカデュ・ルーンがおどおどと母を遠巻きに眺めても、その気配にすら気づかない。
 時折ぶつぶつと何事かを呟くだけで、眼の焦点はまったく合っていなかった。
「お放し! 殺してやるっ! こんな悪魔の子なんて……!」
 魔物が乗り移ったような形相をしているのは、母の方だった。
 ダイロン・ルーンを身体ごと引きずって、狂女は小さくなって震える娘に近寄った。ぎらつく瞳が娘の肌を焼く。やせ細った腕が緩慢に上がり、幼い妹の首へとかけられた。
「やだっ! やめて、母上!」
 その細腕にかじりついた彼を押し退ける母の力は凄まじく、ダイロン・ルーンは床に転がり、痛みに呻いた。優しかった母はどこへいってしまったのだろうか?
「死んでしまえばいいのよ、お前なんて!」
 金切り声をあげてカデュ・ルーンの首を締め上げる母の横顔には、かつての穏やかな表情はない。
 ダイロン・ルーンは引き裂かれる思いで、母の腕に取りすがった。
「やめてーっ!」
「ダイ……っ!」
 ようやく九つになろうかという子供に大人を止める力などあるというのだろうか? だがダイロン・ルーンはあらん限りの力で母親に体当たりすると、無我夢中でその腕に噛みついた。
「何をするの、ダイロン・ルーンッ!」
 母の腕から逃れたカデュ・ルーンが床でうずくまって咳き込んでいる。
 不規則に響くその咳が、彼女がまだ生きていることを証明しており、ダイロン・ルーンは安堵の息を、母親は怒りの呻き声を洩らした。
「カデュ・ルーン……」
 這うようにして妹に近づいたダイロン・ルーンは、苦しげに咳き込むカデュ・ルーンの背中をさすり、震える自分の躰を落ち着かせようと、深い吐息を吐いた。
「呪われた子……! 邪な者の器! お前は私の大切な家族をたぶらかしたのね! ……あぁ! ミアーハ!」
 調子外れの絶叫をあげると、母親は転げるようにして部屋の傍らにある飾り棚へと走り寄った。血走った目をした横顔が、ダイロン・ルーンには恐ろしい悪魔の横顔に見えた。
「何もかも、消えておしまいっ! ……すべて。塵芥(ちりあくた)となればいいのよ!」
 ダイロン・ルーンには手の届かないその棚から母が引っ張り出したのは、水晶の小瓶だった。薄紫色の液体が半分ほど入った小さな小瓶は、ダイロン・ルーンの手にもすっぽりと収まりそうなほどの大きさしかないのに、異様な存在感となって彼の視界に貼りついた。
 もどかしげにその瓶の口を引っ張る母の形相は尋常ではなく、恐怖に震えるダイロン・ルーンとカデュ・ルーンのことなど眼中にない。
「ミアーハ……! 連れていって! ……わたしをあなたのいる場所へ連れていって!」
 茫然とその母親の様子を見つめる目の前で、女は小瓶の栓を抜き取ると、中の液体を一気にあおった。喉を鳴らしてその不気味な液体を飲み干した母の顔には、久しぶりの安堵が浮かんでいた。
「は……母上?」
 震える声で呼びかける息子の声が聞こえたのか、女はゆっくりと振り返った。青ざめた顔色に、ほんのわずか、赤みが差したように見える。
「ダイロン・ルーン……」
 何年ぶりかに聞いた母の穏やかな声。正気に返ったのだ。母の心は元に戻ったのだ。ダイロン・ルーンは泣きながら母の差し出す腕へ飛び込んだ。
 だが、母は息子を抱き締めはしなかった。訝しんでその顔を見上げたダイロン・ルーンの表情が凍りつく。
「は……はは……うえ……?」
 グラリと母の身体が前のめりに倒れ込んできた。子供に支えられるはずがない。避ける間もなく、ダイロン・ルーンは母親の身体の下敷きになった。
 重たいその身体を避けようともがくが、ピクリとも動かない母の身体は、ダイロン・ルーンを(いまし)める枷のようにのしかかってくる。
「兄ちゃま……?」
 唖然として床に座り込んでいたカデュ・ルーンが怯えた声をあげた。次々と起こる事態に彼女は対処しきれず、震えたまま動けないのだ。
「カ……カデュ……」
 胸を圧迫されているダイロン・ルーンは、まともに息もできない。苦しそうな兄の声にカデュ・ルーンはしゃくり上げ始めた。何がなんだかわからないのだ。
「泣か……ないで……。カデュ……」
 妹の様子を見ようと首をねじ曲げたダイロン・ルーンの視界に母親の歪んだ顔が映った。目をカッと見開き、口を歪めたそのどす黒い表情は、自分を呪い殺そうとでもするかのように、陰惨な影を浮かべていた。
「ひぃっ……!」
 苦しい息の下から甲高い悲鳴をあげると、ダイロン・ルーンはガタガタと震えた。
 母は……死んでいた。
 母の飲み干したものは毒薬だったに違いない。なぜ、そんなものがこの屋敷にあるのかは知らない。なぜ、母が毒をあおらなければならないのかも、判らない。
 母に取り憑いていた魔物が自分にもその凶暴な牙を剥いてくるような錯覚に、ダイロン・ルーンは怯えて不自由な手足をバタつかせた。逃げなければ。早く、この物言わぬ(むくろ)から離れなければ……!
 訳の判らないわめき声をあげながら、母親から離れようとするダイロン・ルーンの身体がふと軽くなった。ハッと我に返れば、母親の身体が宙に浮いているではないか。
 ダイロン・ルーンは声にならない悲鳴を喉の奥で絞り出した。
 恐怖に目を見開く彼の目の前で、女の屍がゴロリと横に転がった。手も触れていないのに、動き回るその死体にダイロン・ルーンは恐れおののいて後ずさりした。
「兄ちゃま……!」
 飛びつくように自分に抱きついてくる妹を抱えてダイロン・ルーンはガタガタと身体を震わせ続けた。何が起こったというのだろうか? 勝手に動く死骸など、この世にあるはずがない。
 これは……夢だ。きっと夢なのだ……。次に目を開けたとき、自分はベッドの上で天井を見上げるはずだ。そして、優しい母はきっと側にいてくれる……。
 ダイロン・ルーンは母の遺骸から視線をずらし、ふと自分の袖口にこびりついた煤を見つめる。突然に胸に熱い塊が沸き上がった。
「父上……! 助けて……」
 溢れ出してくる涙を拭う気力もないまま、ダイロン・ルーンは妹の震える肩をしっかりと抱きしめた。
 叔父が駆けつけてきたのは、その後間もなくだった。たぶん、召使い女が部屋から聞こえてくる会話を耳にして、知らせに走ったのだろう。
 部屋の惨状を一目見て、叔父は茫然と立ち尽くした。
 それをどこか遠い場所から眺めているように感じながら、ダイロン・ルーンは疲れ果ててぼんやりと叔父と母とを交互に見つめた。
 心は何も感じない。凍ったままだった。
 叔父が自分を呼ぶ声もどこか遠いところから聞こえてくる。涙の乾ききらない瞳で相手を見上げながら、ダイロン・ルーンは自分の心が凍え死のうとしている様子を感じ取っていた。
「叔父上様……。僕を、死なせて……」
 妹と自分を抱きかかえる叔父に囁きながら、ダイロン・ルーンは真っ暗な淵へと落ちていった。




 尖塔の上には誰もいなかった。太陽の残光は無くなり、宵闇の重たい空気が辺りを覆っていた。
 イージェンと別れ、妹が中庭で庭園造りに(いそ)しむ後ろ姿を見守った後、ダイロン・ルーンは何かに引き寄せられるようにこの場所にやってきていた。
 あぁ……。私はいったい誰を愛しているというのだ?
 まさか、実の妹を……? そんなバカな。そんなはずはない。だが、彼女の薄緑色の瞳を見ていると……。
 ……違う。彼女は妹なのだ! 紛れもなく、私の妹ではないか!?
 それとも、違うのか? ……違うのですか、母上!?
 あの日、魔の森で何があったのです。あなたがこの下天に産み落とした者はいったい何者なのですか!
 教えてください、母上。どうか……。教えてください!
 いいや……。もうそれを教えてくれる者は誰もいない……。どこを探しても、いないのだ。叔父である聖衆王だとて、ことの真偽は知りようもない。
 ならば、今まで通りに妹と接するしかないのか……?
 いっそ、あの忌まわしい力を受け継いでいる者が自分であったら良かったのだ。それならば、自分のことだけを考えていられたものを!
「なぜ、私ではないのだろう……? なぜ、カデュ・ルーンでなければならぬ?」
 ダイロン・ルーンは苦々しげに呟き、尖塔の窓から眼下に広がる森を見つめた。
 暗い緑を滴らせた樹木は、何も語ることなく鬱蒼と茂っている。その暗い色彩が彼の胸をチクチクと刺す。
「あの日、母は一人で森の花園へ出掛けた。……母自身の記憶にさえない出来事だ」
 何かを確認するように呟き続ける彼を見咎める者は誰もいない。……ただ、冷たくなってきた風だけが、彼の声に耳を傾ける。
「母は呼ばれたのか……? 神か、あるいは魔神に……。カデュ・ルーンが産まれてきたことは必然だったとでも……?」
 唇を噛みしめるダイロン・ルーンの横顔は青ざめていた。
「なぜ、神は妹をこの下天に遣わしたのだ? ……忌まれた霊繰りの血筋を復活させてまで! 死を……! 彼女の死を見届ける者のことを考えたことがあるのか、神よ!」
 握りしめられた拳が微かに震え、眉間によったシワがさらに深くなった。眼下に広がる森の翠に怒りの視線を向け、歯ぎしりする。
「リュ・リーン……! お前にカデュ・ルーンを渡すわけには、いかない……」
 凄惨な光を湛えたダイロン・ルーンの氷の瞳が、いっそう激しく森の緑を睨みつける。その見覚えのある色が、彼の胸中を掻きむしっていく。
「渡さない……。渡しはしない……!」
 風が()きながら空を渡っていく。
 尖塔に立つ人物の白銀の髪を吹き散らし、弄ぶように。
 苦悶の表情を浮かべたその人物に声をかけるのは、冬の訪れを告げる風のみだった。
 彼の苦悶は嫉妬だったのだろうか? それとも、去っていく者への執着だったのだろうか? 彼の独白を聞く風は、何も答えてはくれない。
 空にぽっかりと浮かんだ白い月の光が、冷酷に彼の肩を洗っていった。

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