The 2nd scene * 王子
急ぎ王子宮へと戻ってきたウラートだったが、リュ・リーンの居室の前で立ち止まり、かなりの時間そこで逡巡していた。
自分が思ったような誤解であればいい。しかし、王子の癇癪がそれ以外のものであったなら、自分は守り役としてどうしたらいいのだろう。
困惑ばかりが頭の中を行き来して、これはという答えは浮かんでこない。
幾度もためいきを繰り返していたが、ついにウラートは覚悟を決めて目の前の扉を押し開けた。
「リュ・リーン……? そこにいますか?」
恐る恐るかけた声は真っ暗闇の部屋の奥へと消えていく。ここにくる途中で手に入れた燭台のか弱い光では、部屋全体を照らすことは叶わなかった。
ウラートは足下を照らしながら寝椅子の側に歩み寄った。
果たして、先ほど自分が着せかけておいた上着を抱きしめるようにしてうたた寝している王子の姿があるではないか。
ウラートはため息をつき、部屋のそこここに備え付けられた燭台たちに火を移していく。炎の柔らかな光に照らされた壁がぼんやりと輝き始き、光の具合だけなら夏の夕闇の中に立っているような気分だ。
「リュ・リーン、起きてください。本当に風邪を引きますよ」
ウラートは主人の傍らに跪き、年齢よりも小柄な身体を抱き起こして、そっと顔をしかめた。
リュ・リーンの身体はすっかり冷え切っている。ふてくされて夜着も着ずに寝てしまったようだが、これでは風邪どころか肺炎に罹ってしまう。まったく、自分の身体のことには本当に無頓着な王子だ。
ウラートはリュ・リーンを抱き起こすと、脱ぎ散らかされている衣服を着せていった。やや乱暴な手つきであったが、王子は寝惚けているのか目を醒ます気配がない。
王子を抱きかかえるようにして寝所まで連れていった。が、ベッドの天蓋は開いたままで、暖かいはずのリネンのシーツや雪ウサギの毛で織られた毛布もすっかり冷え切っている。
「寝所をこんなに冷やしてしまうなんて……。今夜はここで寝る気はなかったということですかね」
ウラートは眠って力の抜けているリュ・リーンの身体をベッドに引っ張り上げ、シーツの間に王子の小柄な身体を押し込んだ。
途端にリュ・リーンの小さなくしゃみが聞こえ、いつもの癖で身体が小さく丸められる。彼は赤ん坊の頃から小さく丸まって眠るのが癖になっているが、今夜は特に寒さも手伝って手足を縮こめているようだ。
手がかじかんでいるとはいえ、動き回っているウラートはまだましなほうだろう。身体が冷え切っているリュ・リーンには寝具の冷たさは辛いに違いない。
ウラートは寝所を飛び出し、先ほど火種に落とした暖炉の灰を掻き回した。すぐに埋火うずみびから赤い舌が伸び、穏やかな熱気が暖炉の周囲に広がる。
温まった暖炉から離れ、ウラートは薄明かりを頼りに窪み棚アルコープの中を探り、酒壷や香辛料を取り出した。それらを手早く調合すると、炎にかざして温め、再び寝所へと戻っていく。
王子の寝所に戻ったウラートは閉じられた天蓋の幕をそっと開き、そこでハタと動きを止めた。
「リュ・リーン、起きていたのですか?」
毛布の隙間から覗く暗緑の瞳が不機嫌な光を湛えている。寝惚けている気配を微塵も感じないところをみると、先ほど熟睡しているように見えたのも実は嘘かもしれない。
「何しに戻ってきた」
瞳と同様の不機嫌な声が毛布の下から聞こえた。他の従者なら震え上がってしまうだろう。だが、ウラートはなんでもないといった態度でニッコリと微笑みを浮かべた。
「薬湯を作ってきました。飲んでください」
「いらない」
「そう言わずに。せっかく温めてきたんですから」
遠慮なく毛布をめくり、丸まっているリュ・リーンの肩に手をかけると、ウラートは王子の青白い顔を覗き込んだ。
「風邪をひきかかっていますよ。あんな格好で寝ているから……。ほら、薬湯が冷めないうちに飲んでください。苦くないように蜂蜜も入れてあります」
いつも通りのウラートの態度に王子はさらに不機嫌そうに眉を寄せ、クルリと背を向けてしまう。その程度のことで機嫌を直してやるものかと意固地になっているらしい。
「飲んでくださらないのですか?」
ウラートの問いも無視し、毛布にくるまるリュ・リーンの背中からはふてくされた拒否しか感じなかった。
「……仕方ありませんね」
ウラートは諦めたようにため息をつくと天蓋の隙間から身体を引き抜いた。薄い天蓋幕の向こう側でリュ・リーンが身じろぎしている。こちらの気配を伺っている様子が手に取るように判った。
ウラートは静かに微苦笑を漏らす。手の中の器から一口薬湯を口に含み、残りをベッド脇の小卓ハティーに乗せた。
薄幕の向こうでリュ・リーンがそっと身体を起こす気配が伝わってくる。その動きに合わせて天蓋の幕を跳ね上げ、ウラートはベッドの上の主人を押し倒した。
不意を突かれたリュ・リーンに反撃する間も与えず、スッキリと通った鼻筋を押さえて、青ざめている口唇を自分のもので塞ぐ。
バタバタと暴れる王子の手足が肩や胸を打つが、ウラートはそれを無視して口の中の薬湯をリュ・リーンの喉の奥に流し込んだ。相手が完全に薬湯を飲み下すまで顎を掴まえておくのは少々面倒ではある。
「ば、ばかやろう! 何をするんだ!」
ようやく押しつけていた唇を離した途端、リュ・リーンの口から悲鳴混じりの怒声が放たれた。
「ご自分で飲みたくないようでしたから、飲ませて差し上げただけです。どうしますか? 残りも同じようにして飲ませましょうか」
わなわなと肩を震わせて睨むリュ・リーンの顔を間近から覗き込み、ウラートも負けじと暗緑の瞳を睨みつける。だが、どちらかが根負けするまで続きそうだった睨み合いは、意外にもウラートが視線を反らして終わった。
「そのままでは身体が冷えてしまいます。早く毛布にくるまりなさい」
しかし、忠告を無視してリュ・リーンはいつまでも寝具の上に座り込んでいる。それを横目に見ながら、ウラートはベッドから滑り降りた。
ところがその動きが止まる。着込んでいる上着の裾が引っ張られ、天蓋幕の外に出ていくことができないのだ。
「リュ・リーン……?」
「俺の世話は義務か?」
未だに王子の瞳には怒りが浮かんでいた。誰もが怖れ、逃げ惑う死の王の瞳だ。だが、ウラートはその瞳に睨まれても少しも恐ろしいと思ったことがない。
闇の中で猫の眼のようにうっすらと光る瞳に驚きこそすれ、それに魅入られ、死に取り憑かれると怯える他人の気持ちが判らなかった。
「我が侭な主人の世話は義務も伴うでしょうね」
ウラートの返答にリュ・リーンの瞳が細められる。王子の形の良い唇がギリリと噛み締められた。そして瞳の中を怒りの他に寂しげな光が行き来する。
そのことに気づかないほど、ウラートは鈍くなかった。
「今のあなたは私の主人なのですか?」
ウラートの問いかけにリュ・リーンが眉をひそめる。何が言いたいのか理解し難いらしく、困惑に瞳の中の光がゆらゆらと揺れ動いていた。
「……あなたはまだ私を兄と思っていらっしゃるでしょうか?」
問いかけの言葉を変えると、王子は唖然とした表情でウラートの顔を見つめ返してくる。虚を突かれたその表情が可笑しく、ウラートは喉の奥で笑い声をあげた。
「手の掛かる弟の世話は苦ではありませんよ。……たまに、あまりの子どもっぽさに呆れはしますけど」
「こ、子どもじゃない! 俺は十三になったんだから、もう成年だ!」
「大人は薬を飲むのを嫌がって駄々をこねたりしませんよ」
さらりと嫌味を返されて、リュ・リーンが返答に詰まって絶句している。その表情もやはり年齢よりも子どもっぽく見え、ウラートは可笑しそうに笑い声をあげ続けた。
「笑うな! 元はと言えばお前が悪いんだ!」
「……そうですね。すみません。まさかあんなところにうずくまっているなんて思いもしなかったのですよ」
アッサリと非を認めたウラートの口調に、リュ・リーンは眉を寄せ、さらに口元を歪めて奇妙な表情を浮かべる。まるで幼子が泣き出す寸前に作る顔のように見えた。
「嘘だ。俺の眼を見て怯えたんだろ」
「私がですか? それは誤解です。どうして私があなたの眼に怯えなければならないんですか」
「みんな怯えてる。姉上たちだって……。時には父上だって怖がっている。さっきの女なんか、ここにいる間中ずっと泣き出しそうな顔をしていた。みんな……俺の眼が怖いんだ」
ウラートは降りかかっていたベッドの上に這い上がると、冷え切っているリュ・リーンの肩を抱きしめた。ウラートの態度に困惑した王子が、窮屈な姿勢から顔をあげる。
「確かにあなたの瞳を怖がる人もいるでしょうね。私はそれを否定することはできません。でも、これだけは信じてください。私はあなたを怖れてはいない。他の誰があなたを怖れようと、私はあなたの側にいますよ」
包まれた温もりに安堵したのか、リュ・リーンの強ばっていた身体から力が抜けた。ウラートの胸にもたれかかり、王子は深いため息を漏らす。
「俺は人間だ。……化け物じゃない」
「えぇ、もちろんですとも」
ウラートは目の前の黒髪をそっと撫でながら静かに瞳を閉じた。なぜか疲れがドッと出てきた。決してリュ・リーンを疎んじているわけではないが、彼の軋んだ悲鳴をあげる心を感じるたびに、この疲れを感じるのだ。
もしかしたら、この倦怠感こそがリュ・リーンの不安の正体なのかもしれないといつも思う。
誰にも理解してもらえない孤独の中にリュ・リーンはいる。どれほど言葉を重ねようと、彼の孤独を真実理解することはウラートにも不可能なことだった。王子の嘆きを理解するには、ウラートはなんでも器用にこなしすぎていた。
今夜の初人ういびととの契りは、リュ・リーンの心の傷をさらに深くえぐったらしい。いつも近くにいるウラートの心すら疑うほど。
力の抜けたリュ・リーンの身体を横たえると、ウラートは自分の身体も一緒に毛布の中に滑り込ませた。そのままの姿勢で王子の身体を抱きしめ、彼は微かに震えている主人の背中を撫でさする。
何年ぶりだろうか。かつて王妃が存命だった頃には、小さな王子にせがまれてこうやって同じベッドで寝入っていた。寒さをしのぐのに、人の体温は驚くほど心地よく感じたものだ。
「ずっとこうしていますから……。眠りましょう?」
顎の下にあるリュ・リーンの黒髪に声をかけ、ウラートは再び瞼を伏せた。寒さに自分の身体も随分と疲れていたらしい。リュ・リーンから感じられる温かさにホッとすると、瞬く間に睡魔が襲いかかってきた。
微睡みの浮游感の中、リュ・リーンの声が聞こえた気がする。何度も「兄さま」と呼びかけられ、そのたびに抱きしめる腕に力を込めた。
王子が十歳のときに聖地アジェンに留学し、それ以来ずっと兄と呼ばれたことなどなかった。それを一歩ずつ大人になっているのだと理解しているつもりでいたが、今夜の様子を見る限り王子の心の一部はまだ子どものままだ。
夜明け前の暗がりに怯える子どものように、あるいは見知らぬものに警戒する子猫のように、触れた途端に跳ね上がるリュ・リーンの心を抱きしめて、ウラートは何度も側にいるからと呟き続ける。
「リュ・リーン……。私は……あなたが好きですよ」
うつらうつらと眠りの浅瀬にたゆたいながら、ウラートは声にもならない声で王子に囁きかけた。それが聞こえたのだろうか、それとも眠気に勝てなかったのか、ウラートの胸元に顔を埋めたままいつの間にかリュ・リーンも寝息を立て始めていた。
静かな闇の帳とばりに囲まれ、二つの寝息だけが規則正しく響いていた。
肩先の寒さに震え、ふと眼を醒ましたウラートは闇の深さに頭を混乱させた。ここはどこだったろう。いつもの自分のベッドより暖かい気がするが。
腕の中にある温もりの原因を思いだすと、ウラートは苦笑いを浮かべた。子守のために横になったが、自分も一緒に眠ってしまったようだ。
身体を起こそうとしたが、リュ・リーンの指がしっかりと上着を握りしめており、それをはずすのは容易ではなさそうだ。ウラートは苦笑混じりのため息をつくと、再びベッドに突っ伏した。
「……父上のところへ行く気か?」
胸元からせり上がってきた囁き声にギョッとして、ウラートは首だけ持ち上げる。顎をくすぐる黒髪がもぞもぞと動き、すぐに青白い顔の中で光る暗緑の瞳が現れた。
「貴族どもがお前は父上の寵童だと嘲っていた……」
「言いたい者には言わせておきなさい。あなたが気にすることではありません。少し動いてもいいですか? 肩が痛くなってきました」
毛布の中に深く埋まりながら、ウラートはリュ・リーンと同じ視線になるよう移動する。間近で見ると、王子の瞳は濡れた緑の翡翠のように光って見えた。
「どうして父上のところへ行くんだ。お前は俺の守り役じゃないか」
「私には今のところ身を守るべき官職がありませんからね。……陛下も私の立場を苦慮しておいでなのでしょう」
王宮の外は夜明け前の薄明かりが広がっているのかもしれない。自分の瞳の色に似た、蒼く深い闇と朝の到来を予感させる微かな光が織りなす空色を懐かしく感じ、ウラートは紗幕越しに鎧戸を見つめた。
「俺の守り役では役不足か……」
自嘲に口元を歪め、目を伏せた王子の態度に、ウラートは何度目か判らない苦笑を浮かべる。
いつかリュ・リーンにも判るときがくるだろう。王が自分の後継者のため、その臣下とするべき若者に目をかけることはよくあることだ。貴族たちがやっかみ半分に男娼と嘲ったところで痛くも痒くもない。
「守り役は官職ではありませんからね。貴族たちを納得させるだけの手柄を立てなければ、私の王宮での地位などないに等しいのですよ。これはあなたのせいではありません。そうでしょう?」
指を伸ばし、リュ・リーンの頬を何度もなぞりながら、ウラートは自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
何年か後に、陰口を叩いていた者どもを追い落としてやればいいだけのことだった。今は目指すべき黎明の手前にいるだけだ。
「夏になれば俺はリーニスに出向く。そのときはお前も一緒だ……」
「えぇ。戦場では遠慮なく武勲を立てさせていただきましょう。置いていかれないように、あなたも励んでくださいよ」
いつも通りの軽い口調でウラートが笑う。それにつられたようにリュ・リーンも小さな笑い声で喉を震わせた。
「お前こそ、遅れずに俺についてこいよ。この王都ルメールでふんぞり返っているしか能のない貴族どもに泡を噴かせてやるんだからな」
王子の瞳が真っ直ぐにウラートに向けられる。その瞳の力強さに安堵と、同時に一抹の寂しさを覚えながらウラートはしっかりと頷き返した。
「当たり前です。……私が仕えるのはあなただけですからね。しっかり武勲を立ててください。私もそのおこぼれに預かれるんですから」
くすくすと毛布の下で笑い合っているが、二人の目は至って真剣だ。何年かかろうと、王国の頂点に立つために二人で遙か高みを目指していくのだ。もう何度そのことを話し合ったかしれない。
「ついでにサッサと奥方を決めていただけるとありがたいのですけどね。あなたが決めてくれないと、私の伴侶も見つけづらいものですから」
「うるさいな。……俺を見ても怯えない女なら誰でもいいよ。お前、どこかで女を引っかけて連れてこい」
ふざけて混ぜっ返せば、リュ・リーンはふてくされた様子で頬を膨らませる。いつも通りの彼の態度だ。
「仰せのままに……」
ウラートもいつも通りの口調で、いつもの態度で返事を返す。本気でウラートが口説き落とせば、落ちない女などいないだろう。しかし返事をしながら、お互いにそんな悪ふざけはしないであろうことは充分に判っていた。
「……なんだか、眠いな」
「そうですね。まだもう少し眠れるでしょう。夜が明けたら忙しくなりますよ。一眠りしておいたほうが賢明でしょうね」
どちらからともなく寄り添い、瞼を閉じながら、互いの温もりに安堵して、二人は微かな吐息を吐きだした。そして、二人とも緩やかに眠りの淵へと落ちていく。
宵闇に飛び交うみさご鳥の羽音がする。同時に夜明けに抗議するようにさえずるその鳴き声も。今日の夜明けはきっと美しいに違いない。
ウラートは鎧戸の向こう側に夜明け前の薄明かりを感じ取っていた。
夜の闇は夜明けの先触れたる薄明かりの前が一番深い。その深みから抜けだしさえすれば、後はこの瞳の色のような蒼い光が差し、紫色に染まった雲がたなびき出すのだ。
リュ・リーンの成年の儀式は数日中にすべて終わるだろう。その暁には、彼は正式な王太子としてこの王国に君臨することになる。そして夏がきて、王子が戦地に赴けば、彼は間違いなく幾つもの武勲を立てるのだ。
貴族たちに謗られ、蔑まれようと、リュ・リーンは王の子どもに恥じない知識と能力を養ってきた。それが試され、証明される日も近い。どれほど内心で反発しようと、貴族たちもそれを認めざるを得ないだろう。
その夜明けが待ち遠しい。天を照らす太陽のごとく王国を照らすであろう者を我が主と呼べる誇りを、ウラートは知っていた。
そう遠くない将来、遙か高みに立つ者の傍らにいる自分の姿を思い描き、ウラートは微睡みの中で静かに深い微笑みを湛えた。
終わり
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