The 1st scene * 夜姫
暗闇には夜香木の甘やかな香りが漂う。夜の暗がりのなかで緩慢に蠢き、生ける者の時間を凍りつかせ……松明越しに見る濃密な香りの闇には、気怠い気配が色濃く溶け込んでいた。
沈黙の時間の中でジリジリと炎が焦りの声をあげて身をよじりのたうつ様は、閨のなかの狂乱を彷彿とさせ、滴る闇の濃さに冒されているように見える。
光と影。その境界線の上でじっとりと沈んでいく宵闇の声に耳をそばだてて立ち尽くす人があった。
いったいどれだけの間そうやって佇んでいたのか、足に根が生えたように動かない人影は瞬きも忘れて輝きの向こう側を透かし見ていた。その場を通りかかった者がいたとしたら、腕組みをしているこの人影を彫像とでも勘違いしたかもしれない。
突如炎が大きく揺らめき、人影の横顔を大きな翳りで覆うと、その一瞬を待ちかまえていたように、闇の最奥で扉が軋みをあげてゆっくりと開く音が聞こえてきた。
揺らめく松明の灯りに照らされてぼんやりと人型が浮かんでいる。小柄で色白の、亜麻色の髪が美しく輝く女だ。たっぷりとした布地をふんだんに使った衣装を着ていても彼女の豊かな肢体を隠すことは不可能だった。
足早にこちらへ近づいてくる女を黙って迎えると、影は臆することなく腕を差し出した。
影は年若い男だ。十代の半ばから後半の年代であろうか。明るい滑らかな茶髪に縁取られた顔立ちは柔和で、中性的あるいは女性的な印象を見る者に与える。
「ご苦労なことですわね。伽が終わるまでそうやっていたんですの?」
わざわざ問いかけるまでもあるまい。腕を差し出した者の身体は冬場の冷気で凍え、袖の布越しですら寒さに震えていることが指に伝わってくるというのに。
判りきっていることだからか、相手の男は答えを返さなかった。
「夜姫、房での首尾は……?」
若者は反対にかすれた声で女へと問いかける。女のふくよかな唇が形良い笑みの形に歪められた。そう、歪んだ……と言うのがもっとも適切だった。
「王都の花館一の夜姫が、あなた様の主に粗相をするとでも? 愚かな問いですこと、ウラート卿」
「不快に思われたのでしたら失礼を。これも慣例の一つですから」
「ばかばかしい慣例ですわね。……えぇ。ご希望通りに。それが殿下にとって心楽しいことであったかどうかは別ですけど」
ウラートのため息混じりの言葉に女も同じくため息と共に返事をする。同じ動作をしているというのに、一人は疲れたような、一人は苛立ったような態度だった。
点々と行く先を照らす松明の間を抜けながら、二人の男女は冷え切った廊下を進んでいく。互いの吐く白い息が宵闇のなかに物憂げに溶けていった。
何を話すでもなく二人は黙ったまま歩き続ける。それぞれの足音が石の床を滑っていく空間は寂しいばかりで、明るければ華やかさに彩られているはずの壁は、闇の中で不機嫌に二人から顔を背けていた。
廊下を幾度か折れ曲がり、二人の行く手に月明かりに照らされた戸口が小さく見え始めると、重い沈黙を破って女が小さな吐息をついた。
「これが最初で最後にしていただきたいわ。あの方のお相手は……もう……」
何を思い出したのか、女は小さく肩を震わせて眉間に深い皺を刻んだ。亜麻色の髪がその苦悩を隠すようにハラリと額に落ちかかってくる。
「初めは名だたる美姫のなかから選ばれて喜んでいらっしゃったのに。ずいぶんな言い様ですね」
「あなた様は恐ろしくないのかしら? わたくしには無理ですわ。耐えられない。あれ以上留まっていたら……死に囚われてしまいそうで」
月明かりに浮かぶ戸口はもう目前だったが、女の足取りがハタと止まった。怯えた表情で隣りに佇む若者を見上げる。
「不敬は承知の上よ。でも駄目。これ以上は無理ですわ。あの方の……あの瞳を覗き込んだが最後……。魅入られて戻ってこられなくなるわ」
「本当に不敬な言葉だ。その言葉、私の胸だけに納めておきましょう。他言されないことを忠告しておきます」
ウラートの顔にうっすらと冷たい笑みが浮かんでいた。その表情から憤りを読み取ったのか、女は青ざめて瞼を伏せた。
「あなた様には判らないのだわ。あの瞳の恐ろしさが!」
「私はその瞳を毎日見つめているのですよ。恐ろしいものですか。私の主人のことをこれ以上悪し様に言うのでしたら……」
「やめて! もう言わないわ、誰にも……。だからこれが最初で最後にしてちょうだい!」
伏せた顔を大きく背けて夜姫が鋭く囁いた。色白の肌が戸口から差し込んでくる月光に青ざめて見える。その生白い首筋を見下ろしてウラートが小さく鼻を鳴らした。
「殿下が望まれたらお呼びすることになりますが? それでもあなたは拒まれますか」
ウラートの問いかけに女の肩が激しく震え、怯えから自分の両肩を抱きしめて首を振る。
「やめて……。お願い、やめて。あの方の瞳に魅入られたら生きていけない。わたくしは卑しい女だけど命は惜しいわ」
「殿下の初人に選ばれたのです。誰も卑しいなどとは言いますまいよ」
ウラートの指が女の額にかかった前髪をそっと掻き上げた。その指先を追うように夜姫の瞳が若者へと向けられる。彼女の淡い蒼眼の奥には、死の影への怯えがありありと浮かんでいた。
女の表情にウラートは苛立ちを覚える。誰もかれもがこうだ。なぜそれほど怯えるのだろうか?
「眼を閉じてください」
事務的な口調でウラートが声をかけた。女が怪訝そうな表情で彼を見上げる。何をするつもりなのかと別の怯えが彼女の瞳の上に広がっていた。自分に従おうとしない女に若者が冷たい笑みを向ける。
「忘れなさい。二度と思い出さないことです」
ウラートは片手で素早く女の瞼を覆うと彼女の形の良い唇を奪った。熱のこもらない接吻は長い間続けられ、もがく女の二の腕や頤に若者の指先が痛いほどに食い込んでいる。
舌を割り込ませ、歯列をなぞりながら、ウラートは冷たい瞳で女の表情を伺っていた。押しのけようと腕をあげる夜姫を壁に磔にし、執拗に彼女の口内を犯していく。甘い痺れとは無縁の口づけだった。
抵抗をやめた女の花唇を解放し、ウラートはそのまま彼女の首筋に舌を這わせた。片手だけで巧みに女の胸元をはだけると、白い肌の上に散った赤い花びらを確認して小さく笑う。
「一応は満足されたようだ」
ほとんど聞き取れないほどの小声で呟くと、ウラートは幾つか散った花びらの一つを舐め、強く吸い上げた。その感覚に女が白い喉元を仰け反らせる。
「今夜のことは忘れなさい。……あなたは殿下の初めの女にはなれても、永遠の女にはなれない」
相手の反応を弄ぶようにウラートは散っている花びらを一つずつ辿り、さらに濃い色の花弁の痕を残していった。そのたびに夜姫は喉を震わせ、熱い吐息を漏らし続ける。
いつの間にか白い腕はウラートの茶髪を梳り、ときおり強く引き寄せていた。その腕の蠢きにウラートは微苦笑を漏らした。なんと単純な女よ。
自分の唇と指の下でのたうつ女の白い肌を征服しながら、若者は憎悪と愛情を込めて花弁の最後の一つを強く吸った。
湿った音とともに肌から唇が離れると、女がウラートの口元をぼんやりと見上げた。彼の唇は女の痴態を嘲笑うように冷たく歪んでいる。
「満足しましたか?」
途端、女は怒りも露わにウラートの左頬を打ち据えた。凍えた空気に鋭い打音がこだまする。
「どれほど卑しくとも、わたくしにだって誇りがあるわ。この躰が欲しくもないのに触らないで!」
「私はあなたのお手伝いをしただけですよ。思い出したくもない情事なら忘れることです。あなたがたの場合はさっさと他の情事に耽ることですね」
ウラートの冷めた言葉に夜姫の唇が噛みしめられた。乱れた襟元を両手で押さえて屈辱にブルブルと震える女の唇から、獣の唸り声のような吐息が吐き出される。
「そうね。忘れることにしますわ。今夜のことすべて!」
キッと若者を睨みつける女の目元が怒りに赤く染まっていた。その挑みかかってくる女の視線をウラートはすげなく見つめ返し、彼女がきびすを返しても口を開かなかった。
「あなた様もかつてはわたくしと同じ場所にいたくせに……! よくもこのように冷たい仕打ちができたものね!」
戸口で月光を浴びながら女が振り返った。顔の半分が月明かりに青く染まり、瞳はどす黒い蒼に染め抜かれている。
返答をしないウラートに焦れて女はさらに言葉を叩きつけた。
「たとえ王子つきの従者になってもそれでは娼館の男娼と変わらないじゃない! なんて冷たい男かしら!」
言い終わるや否や、女は身を翻して建物の外へと飛び出していく。カタカタと凍てついた雪の上を駆け去っていく女の足音に続いて、複数の重たい足音が一緒に遠ざかっていった。従えてきた花館の下僕たちのものだろう。
足音が遙か彼方へと消え去ると、ウラートはようやく戸口へと歩み寄り、月光に全身を洗わせた。
王城の前庭へと続く小道には人影はない。青い月明かりが辺りを群青色に染め、痛いほどの沈黙を広げている。凍てついた重い空気のなか、ウラートは静かに深い吐息をついた。
「男娼、ね……。事実ですから腹も立ちませんが」
冷たい光に身震いすると、彼は自分の両腕を撫でさする。衣服の上からでは、少しも温みを感じはしなかったが。
「誇りなら私にもある。彼を認めない者を許すほど、この誇りは安くはない」
ウラートは銀に輝く円盤を見上げた。無垢な色で輝く月をしばらく見つめた後、彼は何事もなかったかのように扉を閉めて廊下の奥へと戻っていった。
世界に沈黙が落ちる。宵の鳥さえ今夜は眠っているとみえる。凛々と冷える空気に抱かれ、長い冬の夜はなおも続く。
音もなく降り注ぐ銀の月光だけが世界を蒼く冷たく染め上げていた。
王子の部屋の前に佇むと、ウラートはしばし躊躇して目の前の扉を見つめた。
本当なら今夜は主人を訪ねるべきではない。しかし先ほどの女の言動がひどく気にかかった。チリチリと胸の奥を焼く。
「ちゃんと眠っているかどうか、確認だけしましょう」
後ろめたさに言い訳し、ウラートはそっと扉を開けて室内へと滑り込んだ。暖炉の炎はほとんど消えかかっていたが、室内は廊下の寒さより数段マシである。
「火を落とさずに寝所へ入られたか」
ため息混じりに呟くと、ウラートは暖炉のくすぶりに近寄っていった。このまま燃え尽きるまで火を置いておくわけにはいくまい。
後始末を終え、ふと腰を伸ばしたウラートの鼻腔に青臭い匂いが届き、彼は小さく眉をひそめた。ここはいつも主人が好んでいる香木の香を焚いていたはずだ。なのになぜ?
ウラートは辺りを素早く見回し、こちらを睨めつける一対の瞳に立ちすくむ。
「今頃になって何をしにきた、ウラート?」
ややほぐれ始めていた身体の緊張が、その一言で一瞬にして最高点まで到達した。暗がりで鈍く光る暗緑の瞳は鋭い槍の穂先に似てウラートの心臓を刺し貫いてくる。
「リュ・リーン殿下……。まさかずっとそこに?」
ウラートは自分の声が震えていることに驚いた。こんな情けない声を上げたのは初めてかもしれない。
「無様に腰を抜かしているかもしれない主人を笑いにきたか? 生憎だったな。言われた通りにやってやったさ。下世話な貴族どもから謗られないようにな」
「どうして寝所にいないんです?」
ウラートの問いにリュ・リーンの眦が大きくつり上がり、手近にあったクッションがウラートに向かって叩きつけられた。それだけではない、次から次へと、手当たり次第に物が飛んでくる。
苛立っているリュ・リーンにウラートは少なからず狼狽した。普段から気難しい王子であるが、これほど理不尽な八つ当たりをされるとは思いもよらなかった。
飛んでくる小物を避けながらウラートはどうしたものかと首をひねり、怒りをぶつけてくるリュ・リーンの手元を見て顔をしかめた。相手は上半身に上着を引っかけただけの姿だ。
「いい加減にしてください、リュ・リーン。何をそんなに怒っているんです」
投げつける小物がなくなると、リュ・リーンは怒りに拳を震わせたままウラートの顔を睨みつける。
「リュ・リーン殿下。その格好では風邪をひきますよ」
他の者であったならリュ・リーンの一睨みで怖じ気づいていたであろう。しかし王子の偏屈な態度に馴れているウラートには、リュ・リーンの凄まじい形相もなんの効果もなかった。
ぷいとそっぽを向いてしまったリュ・リーンに素早く近寄ると、ウラートは自分の上着を脱いでスッポリと王子の頭に被せた。
「勝手に入ってきたから怒っているんですか? それなら謝ります」
「出て行け!」
リュ・リーンの髪に触ろうとしたウラートの腕が勢いよく振り払われる。
「殿下。私は謝罪もさせてもらえないのですか?」
「うるさい。あっちへ行け! 俺に触るな!」
「判りました。出ていきますから服を着てください。でないと本当に風邪をひきます」
「やめろ! 俺に触るなって言ってるだろ!」
自分の上着を主人に着せようとしたウラートの腕が、再び鋭く叩かれた。痛みにウラートの顔が一瞬しかめられる。
「……勝手になさい。これ以上は面倒みきれませんよ」
ここまであからさまに拒絶されるとさすがに腹が立ってくる。ウラートはしかめっ面のまま立ち上がり、不機嫌そうに顔を背けるリュ・リーンを残して王子の居室を後にした。
腹立ち紛れに廊下を進み、王子宮を抜けてさらに王宮の奥へと進んだ。
やはり今夜はリュ・リーンの側に行くべきではなかったのだ。あれほど荒れ狂っているところをみると、王子は先ほどの夜姫の態度にひどく傷ついているのだろう。
山のようにある王子の成年の儀式はあらかた終わっていたが、今夜の荒れようだと明日の朝に待っている幾つかの儀式に出席したがらないかもしれない。またリュ・リーンの女性嫌いに拍車がかかりそうな厭な予感がする。
ウラートは憤りの赴くままに運んでいた歩みを鈍らせ、ついに止めてしまった。つり上がっていた彼の眉が、今は哀しげにひそめられている。
「やはり初人の選別を他の者に任せるべきではなかった。……とはいえ、今さらそんなことを言っても遅いのですよね」
深々とため息をつき、ウラートは王宮の最奥部に足を踏み入れた。静まり返った空気が彼の密やかな足音に掻き乱されていく。
長い廊下を歩んでいくと所々に衛兵たちが佇んで夜警に当たっていた。その一人一人に労いの言葉かけ、ウラートは当然の顔をして彼らの前を通り過ぎていく。誰にも彼の行く手を止めることはできないのだ。
目の前に古めかしい扉が現れたのは衛兵たちの姿も見えなくなった奥宮の一画だった。
一瞬だけ躊躇ったものの、ウラートはすぐに扉を薄く開けて室内へと潜り込んだ。ここにも夜香木の甘やかな香が満ち、胸苦しいほどの痺れが身体の芯に走った。
身体の震えを抑えてウラートは周囲を見回す。天鵞絨張りの寝椅子の上に横たわる人影が暗闇の中に浮かんだ。そちらへと一歩踏み出したときだ。
「誰だ? ……おや、ウラートか。どうしたのだ? リュ・リーンに何かあったか?」
気怠げな声は一瞬で、すぐにそれは鋭いものに変わった。部屋の主はゆっくりと身体を起こすと、静かに伸びをしている。
ウラートはその傍らに足早に近づき、素早く跪いて項垂れた。
「しくじったのか?」
「いえ……。ですが、不愉快な思いをされたようです。大変な荒れようで手がつけられません」
身を起こした男は寝乱れた衣装を直す気配もなく、静かにため息を吐きだす。部屋の向こう側で燃える暖炉の炎に浮かび上がった横顔には、忌々しそうな表情が刻まれていた。
「……やはり駄目だったか」
「やはり? 陛下、まさか今夜のことを予測されていたのですか?」
「あれは余の息子だぞ。おおかたの察しはつく。相手の女は魔の瞳に怖じ気づいていたろう? 暗闇であの瞳と対面して平然としておれる者は少ないからな」
ウラートは男の傍らに跪いたまま瞼を伏せた。
自分もつい先ほど闇に光る瞳と対峙した。あのときは突然の人の気配に驚いたのだが、迂闊なことに発した声は裏返っていた。思い返せば、彼が癇癪を起こしたきっかけは「なぜ寝所にいないのか?」というウラートの問いだった。
あれで王子は誤解したのではなかろうか? 守り役のウラートも夜姫と同じ恐怖を感じていると。普段は不機嫌にしていても、自分の言うことに耳を貸さないということはないのだ。今夜の荒れようは聞き分けのない赤子と同じだ。
「王陛下。今回のことは私の失態かもしれません。殿下にいらぬ誤解を抱かせたのかも……」
ウラートの強ばった表情に王は口の端をつり上げる。皮肉をたたえた口元とからかうような眼の光は、王を実際の年齢よりも年若く見せた。
「リュ・リーンの寝所にまで押し掛けていったのか?」
「いえ、入ってすぐの居間に……。暖炉の火を落としたらすぐに退出するつもりでいたのですが、寝椅子と敷物の陰から声をかけられて飛び上がってしまいました。たぶん、あのときの私の様子を誤解しておいでだと……」
王の喉元から低い笑い声が漏れた。震えた空気は暖炉で揺れる炎と共鳴したようにゆらゆらと室内の住人の身体にまとわりついてくる。
「ということは、あいつは女を寝室に引っ張り込まなかったのか?」
「……そう言われてみれば、殿下は他人を寝所に入れたがらない性分の方でした」
「それはまた……。随分と寒かっただろうに」
クスクスと屈託のない明るい笑い声が響き、ウラートは不機嫌な表情で王の横顔を見上げた。
こちらとしては笑い事ではない。あそこにリュ・リーンがいるとは思っていなかったのだ。自分はそのことに驚いただけのことなのに、王子は勘違いし、激しい癇癪を炸裂させている。どこが笑えるというのか。
「そう睨むな。……早くリュ・リーンのところに行ってやれ」
「しかし、あの様子ではしばらく勘気は収まりますまい。今夜はそっとしておいたほうがよろしいのでは?」
「それでいいのか? 余はいっこうにかまわぬが」
王は勢いよく寝椅子から立ち上がると、再び伸びをして暖炉の前へと歩いていった。快活な足取りには迷いがなく、先ほどの気怠げな声を発した人物とは思えないほどサバサバとした動作だった。
ウラートは唇を噛みしめ、じっと王の背中を見つめる。
「失敗の種類にはいくつかある。だがこの場合の喩えに使うなら、大別すれば二つだ。判るか、ウラート?」
王はこちらに背を向けたままだった。暖炉の火に灰をかぶせているらしく、部屋の薄闇が溶けて、周囲はとっぷりと暗闇に落ちる。
ウラートは言葉もなく項垂れ、じっと王の次の言葉を待った。
「時間とともに赦される失敗と、時間が経てば立つほど赦されなくなる失敗だ。お前が言う失態は今回はどちらに当てはまる? 余であればどちらでも解決させることができる。が、お前自身はどちらの解決方法を選ぶのだ?」
ウラートが顔を上げると、そこには暗闇の中をゆっくりと歩み寄ってくる王の影があった。元から大柄な体格ではあったが、いつも屈託なく笑う表情が見えないだけで、その影はどこか恐ろしい存在であるかのような錯覚に陥る。
「誤解を解くのなら、早いにこしたことはありません……」
「ならば立て。今のお前がしなければならないことは、この部屋で余に報告してうずくまっていることではなく、トットと王子の部屋に行くことだろう」
ウラートは弾かれたように立ち上がり、間近にある王の顔を見上げた。暗くてよく見えないが、いつも通りの笑みが口元に浮かんでいるような気がする。
「報告は終わりだ。余も休むゆえ、お前も仕事が終わったら休め」
静かに腰を折り、無言で王への挨拶を済ませると、ウラートはあたふたと王の居室から飛び出した。その背後で王の小さな笑い声が弾けていたことに、彼は果たして気づいていただろうか。
「世話の焼ける息子たちだ。……なぁ、ミリア・リーン?」
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