第08章:愛しき者
「不甲斐ないなぁ~」
残念そうに何度も同じことを繰り返す父親をリュ・リーンは睨みつけた。まだ昨日知った父親たちの仕打ちを許したわけではない。
「どうして無理にでも扉をこじ開けなかったんだぁ~? ミリア・リーンの竪琴だけ置いてくるなんてなぁ」
嘆息する父を無視するとリュ・リーンは略装の軍服の上にマントを羽織った。黒づくめの衣装の色のなかにマントに縫い取られた金糸の王家の紋章だけが鈍く光る。
「リュ・リーン~。次の冬まで彼女が待っていてくれるとでも思っているのかぁ?」
「う、うるさいな! ……親父には関係ない!」
壁に掛けておいた自分の大剣の刃を確認するとリュ・リーンは乱暴にそれを担いだ。多くの敵の血を吸った剣は主の背で所在なげに揺れている。
結局昨日、リュ・リーンはカデュ・ルーンと会うことができなかった。
慌ただしく支度を済ませながら、リュ・リーンは窓の外に視線を走らせた。早朝の靄が花園を覆って、リュ・リーンの視界からその姿を隠していた。
父親にばれないようにため息をつくと、リュ・リーンは自室を出て愛馬の待つ広場へと向かった。
「殿下!」
見送りに出てきた従者たちが緊張の面持ちで、馬に跨る主を見つめる。苦戦が予想される戦いに旅立つ若い主人の無事を祈って従者たちが次々に祈りの印を切る。
「殿下……! お供をさせてください」
リュ・リーンよりも若そうな従者が泣きそうな表情で主を見上げる。
「まだ言っているのか。お前たちはここに残って王を補佐しろと言っておいたはずだ」
「ですが! ウラート殿は殿下と一緒に……」
先に軍に合流しているウラートを呼び返している時間の余裕がないだけだ。リュ・リーンはジロリと従者を睨む。同じ問答を繰り返している暇はない。
「親父!」
建物の入り口でリュ・リーンたちの様子をうかがっていた父親に呼びかける。
「なんだ~?」
いつも通りの間延びした返事が返ってくる。
「俺の侍従たちを虐めるんじゃないぞ! ……こいつらを虐めてもいいのは、俺だけだからな!」
わかった、わかった、と手を振って答える父親をもう一度睨んだ後、リュ・リーンは湖へと通じる城門を振り返った。ここから湖沿いに南下して行けば、ウラートが率いているトゥナ軍に落ち合えるはずだ。
「ハイヤッ!」
リュ・リーンは愛馬に鞭を当てると、別れの言葉も告げずに駈けだした。
「殿下~!」
「ご武運を!リュ・リーン様!」
従者たちの声を背中で聞きながらリュ・リーンは城門を飛び出すと、眩しい光を放つ湖を横目に聖地を後にした。
カデュ・ルーンとの仲は元に戻らず仕舞いだった。
父親の言うとおり次の冬までカデュ・ルーンが待っていてくれる希望は薄い。
自分を傷つけた男のことなど、次の冬がくるまでに忘れてしまったほうが彼女のためなのかもしれない。
自嘲を含んだ嗤いを口の端に浮かべると、リュ・リーンは何かから逃げるように鞭を振るって馬の速度を上げる。
瞬く間に聖地の王城は小さくなり、遠くに霞んで見えていたトゥナの軍旗が大きくなる。
金糸の縁取りに真紅の生地、大きくはためくその生地には三日月紋と左手短剣紋が縁と同じ金糸で縫い取られている。
さらに一段低い戦旗が見えてきた。
「クソ親父ッ! やっぱり最初から俺をリーニスに寄越すつもりだったな」
馬上でリュ・リーンは毒づいた。
下段の旗には黒地に金糸で五弁紋が縫い取られている。蛇苺の紋章。見間違えようもない、トゥナ王太子リュ・リーン・ヒルムガルの紋だ。
徐々に朝靄が晴れてきた。掲げられた槍の林が朝日に鈍色に光る。馬たちの忙しない息づかいと神経質そうに蹄を地面に打ち付ける音も間近に聞こえる。
「リュ・リーン殿下!」
馬の群から一騎抜け出てくる者の姿が見えた。
「ウラート!出立だ! 角笛を吹け!」
リュ・リーンは自分に駆け寄る友の姿を認めると、声高に叫んだ。自身が休む間もなく行軍を開始させるつもりなのだ。
リュ・リーンは軍から僅かに離れた場所で馬を止めると、空気を震わせて鳴く角笛の叫びを待った。
程なく何か巨大な生き物の啼き声を連想させる、地を這う低重音が辺りにこだました。それを合図にトゥナ軍は馬蹄を踏みならして行軍を開始する。
眠りから覚めた竜のようだ。リュ・リーンは一体となって進んでいく軍隊を眺めてふと思った。だが、夢想に浸っているのも一瞬の間だった。
「総員、聖地へ捧剣!」
叫びながら、自らも重い大剣を天高く捧げ持つと、リュ・リーンは愛馬の脇腹を蹴って先頭へと駈けだした。
リュ・リーンの号令に一部の隙も見せずに兵士たちが従う。白銀の剣や槍の穂が朝日に輝く。
漆黒の愛馬を疾走させてその鋼の波の脇を走り抜けながら、リュ・リーンは暗緑の瞳を鈍色に輝く聖地の城郭に向けた。
この想いよ、届け。
聖地へと掲げる剣をいよいよ高く捧げ持つと、リュ・リーンは声無き叫びをあげた。
延々と続く原野を行軍しながら、リュ・リーンは前方に見えだした神降ろしの地を伺った。
切り立った断崖がそびえ、その黒っぽい岩肌を剥き出しにする台地は人を拒絶するようだった。
遙か太古に神が降り立ったと言われる台地は人が足を踏み入れるには畏れ多い場所だ。
今回はこの台地のすぐ脇を通り抜け、チャルカナン大山脈の北端を迂回する軍路を通ることになる。
道程は決して短くはないが、イナ洞門のようにリーニスに入ってすぐに戦闘が始まるような危険性は少ない。カヂャ軍の情報を集めながら進むのには向いている。
「リュ・リーン殿下」
先頭の一団を率いていたウラートが馬を寄せてきた。
「工兵は洞門の修理に回しましたし、王都には早馬を出して、救援物資の補充をするよう伝えてあります。最悪の場合は歩兵を補給隊に使用することになりますが?」
「構わん。歩兵を引き連れていては、身動きがとれなくなるかもしれん。今でも行軍の速度が遅いくらいだから、いっそ歩兵を補給隊に回したほうが楽だろう」
ウラートのやることにそつはない。自分の思った以上のことを先回りしてやってくれるのだから、これほど重宝な人材はいまい。
「あの……」
珍しくウラートが言いよどんだ。それに心当たりは充分ある。
アジェンの城郭が見えなくなるとすぐにリュ・リーンはウラートを呼びつけて、彼が居なかった間のアジェンでの出来事を話していた。もちろんカデュ・ルーンの力のことだけは伏せて。
格好の良い話ではなかったが、黙っていてもいずれは判ることだ。
「なんだ? 他にも何かあったか?」
それでも、自分からその話を蒸し返したくはないリュ・リーンは冷たい返事を返す。
「アジェンの姫は、本当にあなたのことを嫌いになったのですか?」
「……たぶんな」
大袈裟なくらいに大きなため息をついてみせるウラートの様子をわざと無視するとリュ・リーンは前方へと注意を向け直した。
その彼の視線の先に逆走してくる一騎の馬が見えた。
「……ウラート。あれはお前の副官じゃないか?」
リュ・リーンは巧に馬を操って自分たちに近づいてくる騎士を指し示した。ウラートもそれに気づいたようだ。
「そうです。……何かあったのでしょうか?」
瞬く間に馬を寄せる男の息が上がっている。
「殿下!」
砂煙とともにリュ・リーンの脇に馬をつけた騎士は紅潮した顔をリュ・リーンに向けた。目が動揺している。
「何かあったのか!?」
「あ、あの……。それが! ……聖地のお方が!」
しどろもどろな答えを返す男は、それ以上なんと言っていいのか判らない、といった様子で前方を指し示した。
「……? ……誰かいるのか!?」
その時、緩やかな行進を続けていた軍隊が止まった。前方からざわめきが聞こえてくる。
「ウラート! ついてこい!」
叫ぶや否やリュ・リーンは馬に鞭を当てて前方へと愛馬を疾走させていた。
誰かが行軍を止めたらしい。聖地の者だとしたら、この辺りを警備している者にでも鉢合わせたのだろう。
ここの通行許可は出ていたが、まだそれを知らない者がいてもおかしくはない。
「どうし……あぁ!?」
先頭で右往左往している騎士たちに声をかけようとしたリュ・リーンはその先に視線を向けて絶句した。
軍隊の前に立ちはだかっていたのはたった一騎の馬だった。
それくらいならこうも驚きはしない。リュ・リーンが驚いたのはその馬上にいる人物が自分のよく見知っている者だったからだ。
「ダ、ダイロン・ルーン!」
リュ・リーンの声に後から追いついてきたウラートも馬上で身を固くした。
「トゥナ軍の指揮官。前へ出られよ」
拒絶を許さない、厳しい声がダイロン・ルーンからかけられた。ざわめきとともに騎士たちが一斉にリュ・リーンを振り返る。
リュ・リーンはダイロン・ルーンの声に気圧されたように馬を降りると彼の前に歩み寄った。気遣わしげに自分を見ているウラートの視線を感じる。
「“清浄の誓い”を受けられよ」
まわりの騎士たちの動揺など無視してダイロン・ルーン、いやカストゥール候は神降ろしの地の方角を指し示した。かの地の少し手前に小高い丘が見える。
「清浄の誓い!? しかしあれは儀礼的なもので、以前から省略して……」
「今回は特別だ。聖衆王陛下の使者がお待ちだ。“神の小庭”へ上がるといい」
身の潔白を誓う儀式は昔はこの軍路を使う度に行われたものだった。
だが数代前のトゥナ王の時代からその儀式を行うことはなくなり、切り立った台地の脇を通り過ぎるときに軍の指揮官が一団を代表して台地に向かって誓いを立てるだけに止まっていた。
儀式で時間を取られることの煩雑さにリュ・リーンの顔は曇ったが、今のダイロン・ルーンは聖地の長の代理としてここに立っている。彼の言葉に逆らうことは、聖衆王に逆らうことに等しい。断れはしない。
リュ・リーンは愛馬に戻り、その鞍に背負った大剣を収めると固い表情のまま“神の小庭”と呼ばれる丘の上へ上がっていった。
「他の者には私から誓いを与える。隊長以上の騎士だけでよい。前へ出られよ」
背後からカストゥール候の声が響く。
リュ・リーンはそれに一度振り返ったが、困惑しながらも騎士たちがカストゥール候の前に跪く姿を確認すると、小さく嘆息して再び歩き始めた。
丘は人の背丈の三倍近い高さがあったが、小さなものだ。リュ・リーンは身軽にその急斜面に彫り込まれた階段を登っていく。
「なんでまた今回だけ……」
聖衆王のやることはさっぱり判らない。急階段を上りきったところで、リュ・リーンは顔を上げた。
「……!」
そしてそのまま凍りつく。そこにいる者は……。丘の中央に端然と立つ者は……。
「……カデュ・ルーン」
茫然とリュ・リーンは囁いた。一人で軍の前に立ちはだかるダイロン・ルーンを見つけたときの驚きなど比ではない。知らずに足が震える。
「こちらへ。旧き友よ」
王の娘は愛らしい声でリュ・リーンに呼びかけてくる。慈悲に満ちたその顔は、光の大神の妻“リーナ”を彷彿とさせるものだった。
言葉に引きずられてリュ・リーンは娘の傍らへと近づき、崩れるようにその前に跪いた。カデュ・ルーンの手が自分の額に触れる感触をリュ・リーンは痺れたままの身体で感じた。
聞き馴れた神話の一節がカデュ・ルーンの口元から流れる。リュ・リーンはその声にただ聴き入るばかり。
「神聖なる光が汝を照らすよう願う。汝の身が聖なる限り、よき風を送り、清かな水を運び、微睡みの地を約す。汝、ここにその身の潔白を誓い給え。永久に神への恭順を誓うならば、汝、ここにその身の清らかなるを誓い給え」
「……神よ。神よ、我を見届け給え。我が身、清浄なる限り、我の行く末を見届け給え。穢れあらば、光の炎にて我を焼き尽くし給え。神を讃えん。永久に神を讃えん」
いつの間にか目を閉じていたリュ・リーンは、自分の声を遠くに聞き、間近にあるはずの王の娘の顔を脳裏に思い描いた。
リュ・リーンの誓いの言葉が始まるとすぐにカデュ・ルーンは彼の頬を両手で包み、その白い顔を近づいてきた。
彼女の息遣いまではっきりと聞き取れる。顔にかかる娘の息が頬をくすぐる。
リュ・リーンの耳に辛うじて届くほどの細い声が流れる。
「汝を讃えん。汝は清浄なり。誓いは受け入れられた。四大精霊の名にかけて、汝の末を見届けよう……」
詠唱を続けていた娘はそこで口を閉ざした。まだ続きがあるはずだ。忘れてしまったのだろうか? リュ・リーンは痺れた頭の片隅でふとそんなことを考える。
そうこうするうちに、カデュ・ルーンは再び口を開いた。だが、出てきた言葉は詠唱している神話の一節ではなかった。
「……リュ・リーン」
娘が自分の名を呼ぶ声がリュ・リーンの耳朶の奥に稲妻のように走る。驚いてリュ・リーンは目を開けた。
判ってはいたが、間近に迫る娘の視線とぶつかってたじろぐ。両頬を包む彼女の手は熱く、今にも火を噴きそうだ。
「あなたはなんて卑怯なの。私の心を盗んでおいて、サッサと消えてしまうなんて!」
自分を見つめる娘の目から次々と涙の粒が伝い落ちていく。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは慌てて立ち上がろうとしたが、自分の頬を包むカデュ・ルーンの手がそれを邪魔する。
「わたしのことを嘘つきだと言ったり、愛していると言ったり、これ見よがしに竪琴を置いていったり……」
彼女の頬から伝い落ちた涙がリュ・リーンの頬に落ちる。
リュ・リーンは彼女の涙に狼狽えてその場にうずくまるばかりだ。
「わたしにどうしろと言うの……。非道いわ……、自分だけ納得して」
「カデュ・ルーン。泣かないでください……。どうしたら……」
嗚咽をもらす娘の泣き顔にリュ・リーンはただ見とれた。
「いやよ……。死んでは……いや。生きて、帰ってきて……。生きて……」
カデュ・ルーンは自分の体重を支えきれなくなった人形のようにリュ・リーンにもたれかかると、その首にしがみついた。
彼女の柔らかな胸に顔を半分埋めたまま、リュ・リーンはそっと彼女の背を抱いた。華奢な、肉づきの薄い背中は小刻みに震え、脈打っていた。
「カデュ・ルーン。約束します……。必ず帰ってきます。だから……。お願いですから、泣かないでください」
ようやくカデュ・ルーンの身体を引き離すとリュ・リーンは立ち上がった。
涙でぐしゃぐしゃになっている彼女の顔を拭いてやりながら、リュ・リーンはカデュ・ルーンに微笑みかけた。
「帰ってきます。必ず……」
自分の腕のなかで震える娘を愛おしそうに見つめながら、リュ・リーンは彼女の肩に落ちかかる輝く銀髪を梳る。
娘は瞳に涙を浮かべたままだったが、もう泣いてはいなかった。
「きっと帰ってきてください。約束です」
「はい……」
リュ・リーンは娘に判るようにしっかりと頷いた。
「汝の末裔に讃えあれ……」
再び王の娘の唇から神話の一文が溢れだす。カデュ・ルーンの瞳に溜まっていた涙が最後の一滴となってこぼれ落ちた。
「神に感謝を……」
リュ・リーンは王の娘の手を取ると、その甲に口づける。これで清浄の誓いはすべて完結した。
リュ・リーンは名残惜しそうにカデュ・ルーンの手を離し、神の小庭の下で待つ部下たちの元へと歩き出した。
まだ幾人かの騎士たちがカストゥール候の前にかしずいたままでいる。もう少し彼らの誓いはかかりそうだ。
「リュ・リーン殿下……!」
リュ・リーンが階段に足をかけたところで背後から声がかかる。肩越しに振り返って見ると、カデュ・ルーンが小走りにこちらに駆け寄ってくるところだ。
リュ・リーンは彼女に向き直った。
「リュ・リーン!」
走ってきたままの勢いでカデュ・ルーンはリュ・リーンに抱きついた。向き直っていなかったら、危うく下に転がり落ちていたかもしれない。
「カデュ……!」
リュ・リーンの首に抱きついたままカデュ・ルーンは背を伸ばし、彼の頬に自分の唇を押しつけた。見る見るうちにリュ・リーンの頬が赤く染まっていく。
「わたしを……わたしを王都にお連れください」
それだけを言うとカデュ・ルーンはリュ・リーンの胸にしがみついた。彼女の不安が伝わる。
「カデュ・ルーン……。帰ってきます。必ずあなたを迎えにきます。……贈った竪琴の弦が狂わぬうちに、必ず」
リュ・リーンはカデュ・ルーンの頬にそっと触れた。そして、その指を顎まで滑らせる。
「カデュ・ルーン。覚えていてください、この名を。ルーヴェ・リュ・リーン・ヒルムガル……。この名を忘れないでください」
ハッと目を見開いたカデュ・ルーンにリュ・リーンは微笑みかける。
聖名を持つ者は支配されることを怖れるあまりに、自らの真の名をその配偶者にすら教えない者が多いというのに。
自分を支配する禁忌の言葉。彼女の不安が取り除けるのなら、自分の真実の名を教えるくらいなんだというのだ。
「リュ・リーン……」
カデュ・ルーンが信じられないといった様子で首を振る。
「カデュ・ルーン。必ず帰ってきます。我が名に織り込まれた神の名にかけて」
「リュ……。エーマ、です」
一瞬、リュ・リーンは何を言われたか判らなかった。だがその単語の意味を思い出して、それがカデュ・ルーンの聖名だと悟る。
エーマ。“愛しき者”……彼女に相応しいその真実の名。
「エーマ……。あなたを……愛しています」
かすれた声は本当に自分のものだろうか? リュ・リーンはカデュ・ルーンの顎をそっと持ち上げる。
「ルーヴェ……」
囁き声とともに彼女の濡れた瞳がそっと閉じられた。頭がボゥッとしたままだ。心地よい支配が身体に拡がる。
そのまま吸い寄せられるように彼女の唇に自分のそれを重ねる。
彼女の唇は壊れそうに柔らかで、甘かった。
リュ・リーンはカデュ・ルーンを抱きかかえたまま階段を降り始めた。下のほうでざわついていた騎士たちの様子が少し変わっている。
彼らは一様にリュ・リーンとその腕に抱きかかえられた娘に注意を向けては外し、と視線を落ち着かなげに彷徨わせていた。
「リュ・リーン……」
うわずった声がリュ・リーンの耳に届いた。そちらを見るとウラートが顔を引きつらせて立っている。そして横にはダイロン・ルーンの仏頂面がある。
「……上での誓いは終わったのか?」
ダイロン・ルーンが低い声で問うた。感情を押し殺した声だ。
「終わった。こちらは?」
カデュ・ルーンを静かに降ろすとリュ・リーンは改めてカストゥール候に向き直った。そのリュ・リーンの背中にカデュ・ルーンが隠れる。気配でそれを感じたリュ・リーンが後ろを振り向く。
「カデュ・ルーン?」
王の娘が怖々とした様子で兄を見遣っていた。
「兄様……。怒ってるわ」
「え……?」
改めて友人の顔を見ると、彼の片眉はつり上がっている。リュ・リーンは、やっと自分の失態を知った。
「ダ……」
「浮かれているのは結構だが、戦場でその首を掻き落とされないよう、精々気をつけることだ」
丘の上での様子を見られていたのだ。リュ・リーンは顔を赤らめたり青ざめたりさせた後、開き直って告げた。
「案じるな。婚約者をむざむざ寡婦にするつもりはないからな」
そして傍らで頬を染めるカデュ・ルーンの肩を抱く。
リュ・リーンの言葉と態度にダイロン・ルーンの眉はいよいよつり上がり、その脇に立つウラートは目眩を起こしたように右手を額に当てた。
聖地神聖暦九九六年。トゥナ王朝暦にして一九四年。
聖地アジェンの文筆官たちの綴った史書には、トゥナ領リーニスの戦況が克明に記され、その惨状がこう書き残されている。『戦場は血で朱に染まり、カヂャ兵の骸は累々と積み上げられていった』と。
トゥナ軍の勝利は瞬く間に近隣諸国に伝わり、その軍を指揮した黒衣の王太子の名は諸国の間で恐怖をもって語られた。
黒い魔物、魔神の申し子。凶暴なる野獣王。
カヂャ軍を血の海に沈めた、その容赦のない手腕に近隣の国々は慄然とし、いずれ訪れるであろう彼の即位が自国の凋落の日であるような錯覚を起こさせた。
聖地の史書はこの戦について更に詳しい記述をしている。だが、それをここですべて書き記すことは不可能だ。この場では、それが確かに書き記されていることを伝えるに止めよう。
後の世に“リーニスの朱の血戦”と呼ばれるこの戦いは、トゥナの力を近隣に知らしめ、これから訪れるこの王国の隆盛を予感させた。
「カデュ・リーン?」
自分の腕に抱かれて、暖炉の火に見入る妻の白い頬の輪郭を眺めながら、リュ・リーンは呼びかけた。
「なぁに?」
リュ・リーンは振り返った妻の滑らかな額にそっと指を這わせた。柔らかい温かさが指先から拡がる。
強大な神の力を宿した眼は、今はその奥で眠っている。狂った霊繰りの力も……。
だがいつの日か。その超常の力たちは彼女の命を容赦なく奪うだろう。人の躰に収めておくには大きすぎる力だ。
「リュ・リーン? 何を怖れているの?」
妻の穏やかな声がリュ・リーンの胸に突き刺さる。怖れないわけがない。いつか自分の元から最愛の者を奪っていく力を。今からリュ・リーンは己の無力を呪っているのだ。
そのリュ・リーンの身体を包むように彼の妃は王の肩を抱いた。幼子をあやすようにそっと、だが力強く。
「わたしはここにいるわ、リュ・リーン。泣かないで。ずっとここにいるわ」
トゥナ王の目に涙などない。だが彼の心が泣いているのを過敏に感じ取った王妃は呪文のように繰り返す。
泣かないで、泣かないで……。わたしはここにいるから……。
もうすぐ雪が解ける。戦の季節だ。トゥナ王は領土と民を護るために戦場へと向かうだろう。
子供の頃、リュ・リーンは自分の名に織り込まれた死の神が支配する冬が嫌いだった。だが今は雪が解けて自分を戦場へと追い立てる春や夏のほうが疎ましい。
冬になりここへ帰ってきたときに、彼女は温かい笑顔で迎えてくれるだろうか? 次の冬まで生きていてくれるだろうか?
戦の最中でもふと思い出す焦燥感。自分の死など怖くない。だが、彼女の死は……。
「ルーヴェ……。泣かないで」
いつか潰ついえるその呪文を、繰り返し繰り返し囁く妻の腕のなかでリュ・リーンは呟く。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ……”」
ワガコイハオウジャノコイナリ。シシテモナオ、ソノホノオハキエジ……
終わり
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