第06章:真実の名
一言も言葉を交えることもなく、リュ・リーンは聖衆の長の自室へと連れられてきた。
白亜の大理石と磨き抜かれた黒曜石で飾られた部屋は、感情的なものが欠落しているように味気ない。
中央寄りに置かれた最高の材質で作られているであろう紫檀の飾り机の装飾も、華やかさより重厚さを演出している。
「掛けたらどうかね?」
自分は絹張りの椅子に腰を落ち着けながら、聖衆王は向かいの長椅子を指し示した。
リュ・リーンは血の気の引いた顔を一層歪めると、王に向かって何か言わなければと唇を開いた。
しかし痺れた舌は言葉を紡ぐことはなく、震える顎が歯をカタカタと鳴らすばかりだった。
「用向きの見当はついているが、一応聞いておこうか。トゥナ王の息子よ」
リュ・リーンの青ざめた顔色には一切目もくれず、聖衆王は淡々と話を始めた。それがリュ・リーンの神経を逆撫でし、彼に言葉を取り戻させることになった。
「王よ。ご存じだったのでしょう!? 何故、彼女を……!」
奥宮殿へ来た用向きも忘れてリュ・リーンは叫んでいた。聖衆王は知っていたはずだ。先ほどの態度から察するに彼は間違いなく彼女の力を知っている。
聖衆の長として聖地を治める者の娘が禍々しい力を秘めている。
考えようによってはリュ・リーンは支配者の弱みを握ったと言ってもよいはずだ。しかし今のリュ・リーンにはそこまでに思考を働かせる余裕などなかった。
今の彼には何故王が娘の婿に自分を選んだのか、いやそもそも何故カデュ・ルーンを養女にしたのか、その問いで頭が一杯だった。
「そんなことを訊ねにきたわけではあるまい?」
冷酷さを口調に混ぜたままの聖衆王の返答は、嘲笑うようにリュ・リーンの鼓膜を震わせた。
「聖……」
「そんなくだらない問いのために午前中の謁見前に余を訪ねたのか? ならば引き取ってもらいたいな。余が忙しい身なのは知っていよう?」
軽蔑さえ含んだ王の視線の前にリュ・リーンの舌は凍りついた。苛立ちだけが無為に募っていく。だが……。
「失礼を……。今日の面会の件は他でもありません、王陛下もすでにお聞き及びかと存じますが、我がトゥナの領土リーニスが存亡の危機にあります。
一刻を争う事態ゆえに聖領ならびに“神降ろし”の地の通過をお許し願いたく参上しました」
リュ・リーンは自分が何ごともなかったように聖衆王の前に跪き、当初の目的を告げる姿を遠くに感じていた。
頭の中に逆巻く思いは消しようもなかったが、自国の危機を後回しにできるほど時間の余裕はない。それでも聖地の通行許可を求めるリュ・リーンの表情には動揺がありありと浮かんでいた。
「旧き友よ、汝らの苦境に関しては知らせを受けている。我ら聖衆も汝らの立場には同情を禁じ得ない。だが“神降ろし”の地は血を嫌う。あの地を通る者の中に兵士が含まれることは耐え難い」
トゥナを“旧き友”と呼びかける聖衆王は無表情で、彼が言うような同情や憐れみの感情など一欠片も見えない。
「無論、ただでとは申しておりません。キャラ山の……」
「莫大な黄金や銀で対価を払うと? ……汝らはいつもそうだな。金ですべてを解決するか」
聖衆王がリュ・リーンの言葉を遮った。嘲りや軽蔑の感情を含んでいたほうがまだ人間味があったろう。
しかしその口調から感情は読みとれず、聖地の支配者の顔に感情らしい感情は浮かんでいなかった。
「旧き友の子よ。お前は交渉が下手だな。大事な切り札の出し所を見誤るな」
リュ・リーンが反論しかかったとき、またしても聖衆王がそれを遮るように口を開いた。
王の冷たい眼光にリュ・リーンは身震いした。まるで講義中に生徒を諭すような王の口調からは相変わらず何も読みとれない。
「リュ・リーンよ。今その胸の中にある秘密を飲み込むがいい。それを忘れると運命神に誓え!
そして、今後一切、誰に対してもそれを口にするな。それならば、聖地へトゥナ軍が足を踏み入れることを許可しよう」
「な……!」
リュ・リーンは目を見開いて聖衆王を凝視した。
「出来るな? ……もちろん、娘との縁談は断ってもらって結構。もっともお前がトゥナの後継者ならば、娘を娶れはすまいがな」
「お、己の娘を政の道具とされるか!?」
「……。娘とて駒の一つだ。そんなことも判らぬのか」
先日は宴の席で自慢げに娘を指し示していた者がこうも冷淡に娘を扱えるものだろうか。勝手に娘の婚姻相手を決め、そして今度はそれを破棄しようという。
それに振り回される娘の気持ちのことなど考えてもいないのか。
リュ・リーンは自分の中で何かが外れる音を聴いた気がした。
「こ、断る……! そんなことを承伏できるか!?」
それが自分たちを支配する者への暴言であることも忘れて、リュ・リーンは叫んでいた。
「あなたにそこまで彼女の人生を差配する権利があるのか! 養女とはいえ自分の娘のはずなのに、あなたが彼女の幸せを願っているとは思えない!」
「ほう? ではお前はどうなのだ。カデュ・ルーンを愛しているとでも言うつもりか? 滑稽な!」
王の口調は相変わらず冷徹で、その視線はリュ・リーンを射抜くように鋭いままだ。リュ・リーンの拒絶や批判にもまったく動じていない。
「俺は彼女を愛してる!」
だが、噛みつくような口調で返事を返すリュ・リーンに聖衆王は冷笑を向ける。冷たい視線がリュ・リーンの頭からつま先までを舐めるように滑っていく。
「子供よな。いつ狂うともしれない異端者を本気で愛おしんでいると?」
王の言葉にリュ・リーンは激昂した。目の前が怒りで真っ赤に染まっていく。このまま聖衆王の前に居続けたら、憎悪で何をするか判らない。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ”……王よ、失礼する。あなたとは意見が合いそうもない!」
古代神話の最終章を飾る“神への言霊”を引用するとリュ・リーンは聖衆王を睨み、そしてきびすを返した。
引用した言葉は神と英雄との問答の場面に出てくるものだ。最愛の妻を亡くした英雄に光の大神は新しい妻を娶れと促すが、それを拒絶して英雄が言い放った言葉がこれだ。
王朝開闢以来、この言葉はトゥナ王族などの間では密かに使用されている。
大神に逆らうようなこの言葉は、聖地に関わりのある者の前ではおおっぴらに使える類のものではない。
しかしその英雄の末裔と称しているトゥナ王家としては、聖地への反骨精神を表す言葉の一つとして口にするのだ。
今まで逡巡していたリュ・リーンの心は決まった。
誰がなんと言おうと、カデュ・ルーンを、自分の愛している女を侮辱されるのは許せない。
自分が大事に想う者を謗られて、それを享受するほどリュ・リーンは寛大ではなかった。
もしカデュ・ルーンがリュ・リーンの妃となり、もしトゥナの貴族たちに彼女の力が知れたなら、最悪の場合リュ・リーンは王族の地位を追われるばかりか、異端者を一族に加えた者として暗殺されるかもしれない。
父王とてかばい立てできないだろう。
それでも! リュ・リーンは決めた。カデュ・ルーンが拒まないのならば、自分が彼女の秘密ごと最愛の女を護るのだと。
燃えるような怒りを抱えたままリュ・リーンは王の居室から出ていこうとしていた。
そのリュ・リーンを呼び止める声が聞こえた。
「待つといい、リュ・リーン」
厳然とした声音には予想外にも微かな穏やかさが含まれていた。今までの冷酷さはなく、むしろ好意的とも取れそうだ。
驚いてリュ・リーンは王を振り返った。
いつの間にか聖衆王は立ち上がり、こちらへ歩いてきていた。王の表情には侮蔑や非難の色はなく、口元には静かな笑みさえ湛えていた。
リュ・リーンは王が近付くに任せ、その口が開かれるのを待った。
「……トゥナ王家の気位の高さは有名だが、お前のそれは母親のミリア・リーン譲りだな。まったく、シャッド・リーンも手を焼いているだろうて」
「は、母をご存じなのか!?」
リュ・リーンは再び動揺した。時折聖地を訪れる父王はともかく、聖衆王が母ミリア・リーンを知っているとは思いもしなかった。
「知っているとも。あのじゃじゃ馬には昔シャッド・リーンと一緒に振り回されっぱなしだったからな。わがままなことこの上ない女だよ、お前の母親は」
苦虫を噛みつぶしたような顔をしてみせると聖衆王はリュ・リーンの瞳を覗き込んだ。
リュ・リーンはたじろいで一歩後ずさる。彼の瞳をこうもマジマジと覗き込める人間はいない。
「自分が怒り狂っているときの顔を見たことがあるか、リュ・リーン? 若い頃のお前の母親がヒステリーを起こしたときの顔にそっくりだ」
「な……」
聖衆王からあからさまに母親のことを言われようとは思ってもみなかった。今までの怒りも忘れてリュ・リーンは王の顔に見入った。
「ついでに言っておくとな。……余に向かって今の大言を吐いた奴はお前で二人目だ。親子揃って芸のないやつだな」
「えぇ!?」
親子揃ってだと?
「お前の親父は子供の頃に無茶をやらかしては下っ端の神官たちの頭を悩ませていたが、どういう訳か女のことに関してだけは身持ちが堅かったな。
後にも先にも余の父親と余に向かってあの大言を吐く奴はシャッド・リーンだけだと思ったのだがな」
「お、親父が……?」
聖衆王の口から出てくる実父の姿は息子のリュ・リーンからしてみればいつもの姿なのだが、それを聖地でもそのまま実行していたとなると、父親はリュ・リーン以上に無茶な性格をしていることになる。
現聖衆王の父親と言えば、大神神殿の前神官長レーネドゥア公爵だ。
政治の表舞台は聖衆王とその配下が取り仕切っているが、各神殿内はそれぞれの神に仕える神官たちが牛耳っているのだ。
その神殿権力の権化とも言える神官長に向かってあの“我が恋は云々”と言い切ったとしたら、大神神殿の権威に唾を吐きかけたに等しい。
「何を言ってるんだ、あのクソ親父は」
目の前に聖衆王がいることも忘れてリュ・リーンは小さく呟いた。
よくぞ今まで暗殺もされずにトゥナ王としてやってきたものだ。よりによって神官長に向かってあの言霊を吐いて、無事に済んでいることは奇蹟のようなものだ。
「父は子供の戯れ言だと思ったのだよ、リュ・リーン。お前の父がその大言を吐いたのは十を少し過ぎたばかりの子供のときだったからな」
さも呆れたといった顔をして聖衆王は肩をすくめた。
「呆れた親子だよ、お前たちは。一人の女に命をかけるところまでそっくりだ。……あの当時はシャッド・リーンだけが特別なのかと思ったが、息子のお前まで同じだとはな」
「何を仰りたいのです?」
いきなり昔話など始めた聖衆王の態度には先ほどの冷ややかさはなかったが、リュ・リーンは王の意図するところが見えなかった。
用心深く王の表情を探ってみるが、狡猾な王がそれを表情に表すはずもない。
「判らぬか?」
再び口元に穏やかな笑みを浮かべると聖衆王はリュ・リーンの瞳をまっすぐに見つめた。
自分の瞳を覗かれることに馴れていないリュ・リーンは一層に動揺を深くした。なぜこれほど平気な顔をして自分の瞳を見ることができるのか。
怯えたように後ずさるリュ・リーンの姿を哀れんだのか、聖衆王はその視線をずらした後、先ほどまで坐っていた椅子へと戻っていった。
「お前の両親が異母姉弟だと言うことは知っていよう?」
椅子に座りながら、またしても聖衆王は話題を変えた。困惑したままリュ・リーンは肯首してみせた。
前トゥナ王、リュ・リーンの祖父には二人の妃がいた。
有力貴族の息女と侍女上がりの女だ。貴族出身の娘は男女一人ずつの子をなし、もう一人の娘は男の子を一人だけ産んだ。
貴族出身の娘が産んだ男児がまともに成長していれば、力の均衡からいっても、その子供が王位に就いただろう。だが、その子供はまともには育たなかった。
齢五歳を過ぎても言葉を話さず、歩くことも出来ず、ただただ生まれたばかりの赤子と同じように起きては食べ、食べては寝るだけを繰り返す状態が続いていた。
これでは王位につくことなど出来るはずもない。
継承権を剥奪された子供はそれでもいくらかの時をそれから生きて、母や外祖父の願いも空しく死んでいった。
その後、貴族出身の妃を担ぐ者たちは遺された女児に王位継承権を与えようと躍起になった。
残りの男児を亡き者にすれば女児しか残っていない王の子だということで彼女にも継承権が発生するはずだと、幾度となく王宮には暗殺者が送り込まれ遺された王子の命を狙った。
結局、暗殺はことごとく失敗に終わり、王子は無事に成人して父親の跡を継いで王となった。
だが普通は王位に就いたとて暗殺が終わるはずもない。
それが止んだのは、父親から王位を譲られた王子がその場で自分の妃として異母姉を指名したことが宮殿中に伝わったからだった。
よもや自分たちの盟主たる王女を相手にかっさらわれるとは思ってもみなかったのだろう。
貴族たちが混乱している間に諸々の手続きは終わり、反目し合っていた二人の妃は諍い合う意味を失って沈黙せざるを得なくなった。
婚姻に関してトゥナの法律はかなりいい加減な部分がある。片親が違っていれば兄弟姉妹であろうと婚姻の対象になるのが、その例の一つだ。
前トゥナ王妃たちにどれほどの不満があろうと、定められた手続きを踏んで成立してしまった婚礼に異を唱えるのは不可能だった。
それくらいのことはリュ・リーンでも知っていた。
聖衆王は頷くリュ・リーンの姿を目を細めて眺めたあと、年下の者に話して聞かせるというよりは、独り言を呟くように話し始めた。
「シャッド・リーンは幼い頃から自分の身に危険が及ぶことをよく承知していた。物心ついたときから死と隣り合わせに生きてきたのだろう。
自分が生き延びる方法ばかりを考えていた、とシャッド・リーンは言っていた。どうすればより安全に生きていけるのかと、そればかり考えたと。
顔も見たこともない姉と反目し合う愚かしさに一番疲れていたのは、シャッド・リーン自身だったろう」
リュ・リーンは黙って立ちつくしたまま、その話に聴き入った。
「十歳になり、ここアジェンに留学してきたとき、シャッド・リーンは初めてミリア・リーンに会った。十歳だぞ? お互いの子供を護るためにトゥナ王妃たちはそれくらいに人目に我が子を曝すのを怖れていたのだ。
……可笑しいのは、お互い別々の屋敷に宿泊していたから、相手がよもや自分と血を分けた姉弟だとは思いもしなかったということだ。
しかもシャッド・リーンの奴は姉とは知らずにミリア・リーンに惚れていた。ミリア・リーンにからかわれていることにも気づかずに、散々彼女に振り回された挙げ句、自分たちだけで勝手に結婚の約束までして先の大言だ。馬鹿馬鹿しい!」
父親の子供時代をリュ・リーンは初めて聞いた。
五人の実姉以上に自分を猫可愛がりする父が疎ましく、成人してからはつっけんどんな口しか利いていない。そんな話をしたことはなかった。
「シャッド・リーンは自分とミリア・リーンを護るためにあらゆる手段を講じることを、十歳のときに誓った。
……リュ・リーン。お前はどうなのだ? 自分だけではない、カデュ・ルーンのすべてを護るために己の両手を血に染める覚悟をしたと言うのか!?」
聖衆王の口調は厳しさを帯びていたが、なぜかリュ・リーンにはその口調に祈りにも似た色合いが含まれているように感じられた。
親父も通った道か。
ふとリュ・リーンは軍馬とともに大河を遡っているであろう父親の顔を思い出した。
父とそんな話をしたことはなかった。だが自分には間違いなくあの男の血が流れていることが実感できる。
聖衆王に告げる答えは一つだけだ。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ”……幾度問われても答えは同じです。
たとえあなたが愚かと笑おうと、カデュ・ルーンを諦めるつもりはありません。誰にも譲らない。彼女は……カデュ・ルーンはこのリュ・リーン・ヒルムガルが護る!」
初めから……、彼女に初めて会ったときから、気づいていなかっただけで、とうに答えは出ていたのだ。
たとえ彼女が親友の恋人であったとしても、忌まわしい力をその内に秘めていても、自分が帰っていく先は彼女以外に考えられない。
リュ・リーンの答えに聖衆王は大仰にため息をついた。
「本当に愚かな奴だ、二度も大言を吐くとは……。カデュ・ルーンがそんなに欲しければくれてやるから、どこへなりと連れて行け。余にしてみれば厄介払いができて丁度いい」
投げやりにリュ・リーンの答えに応じたあと、聖衆王はリュ・リーンに興味を失ったのか手を振って退出を促した。
「あぁ、そうだ……。リュ・リーン。さっさとリーニスに行ってカヂャを追い返してこい。トゥナが滅びては、カデュ・ルーンの嫁ぎ先がなくなってしまうからな」
ついでに付け足したような言い方で退出しかかっていたリュ・リーンの背中にそれだけ言うと、王はそっぽを向いて目を閉じた。
リュ・リーンは目を見張った。カデュ・ルーンを取った時点でエンダル経由の軍路を使う手だては諦めていたのだ。
「……あ、ありがとうございます。御意に沿うよう努めます」
聖衆王の心変わりに驚きつつ、リュ・リーンは素直に頭を垂れた。
もしかしたら、聖衆王は自分を試すためだけにこんな手の込んだことをしてみせたのではないか?
リュ・リーンの脳裏にふとそんな思いが浮かんだが、無表情を保つ王の顔色からそれを伺うことは不可能だった。
廊下を歩いていたリュ・リーンの足がふと止まった。
視線の先にここよりも少し狭いだけの廊下の入り口が目に入る。あそこはカデュ・ルーンの居室へとつながるものだ。
リュ・リーンの胸がチクチクと痛んだ。
彼女に会いたい、会いたい、会いたい……。
その廊下に踏み込もうと数歩進んだところで、リュ・リーンは躊躇って足を止めた。どんな顔をして会えばいいのか判らない。
聖衆王には大きなことを言ってはみたが、いざ彼女と会おうとすると気後れした。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは声に出して最愛の女の名を小さく呼んでみる。
廊下の突き当たりに半開きの扉が見える。数十歩は先にあるその扉まで彼の声が聞こえるとは思えない。
「カデュ・ルーン」
もう一度、呼びかける。だが返事を返してくる者は誰もいない。
もっともリュ・リーンは返事を期待してるわけでもないだろう。それを期待するには声が小さすぎる。
しばらく無人の廊下に立ちつくしていたリュ・リーンは、肩を落として王の娘の居室に背を向けた。
だが足が前に動かない。
「カデュ・ルーン。あなたを愛している……。愛して……」
自分の想いが果たして届くのだろうか? 彼女は以前のようにあの柔らかな微笑みを自分に向けてくれるだろうか?
幾度となくリュ・リーンは自分の心に反問する。しかしそれに答える者とて、ここには存在しなかった。
胸にこみ上げてくる熱い塊に身を焼かれながら、リュ・リーンは足を引きずるようにしてその場を後にした。
疲れて戻ってきたリュ・リーンの目に初めに飛び込んできたのは慌てふためく従者たちの姿だった。今朝ここを出るときはこんな状態ではなかったはずだ。
「なんだ……? この騒々しさは」
「あ! で、殿下!」
「何があったんだ、騒々しい」
「あ……えっ……と」
不機嫌そうに質問するリュ・リーンの様子に従者たちが一瞬口ごもる。それにリュ・リーンは苛立ったが、今は怒鳴りつける気力もない。
「なんだ。怒ってないから、ちゃんと喋れ!」
眉間にシワを寄せていては口では怒っていないと言っても信じてもらえまいが、リュ・リーンは自分としては最大限の努力を払ったつもりだった。
「それが……」
「殿下、驚かないでお聞きください」
ざわついていた従者たちの間から副侍従長を務めている男が顔を出した。ウラートがいない間は彼が従者たちの責任者なのだ。
「……?」
リーニスがカヂャに攻め込まれて存亡の危機にあると言う以上に驚くことなどあるのだろうか? リュ・リーンは男の次の言葉を辛抱強く待った。
「王が……。トゥナ王陛下がお一人でお越しになっておられます」
「な、なにぃ~!?」
ほとんど絶叫に近い叫び声をあげるとリュ・リーンは、父親の訪れを告げた男に掴みかかった。
「ど、どういうことだ! 共も連れずに一人だと!? 親父は援軍を率いてまだポトゥ大河の下流にいるはずだぞ!」
「そ……それが、こっそり軍を抜けてこられ……ぐぇっ」
皆まで聞かずにリュ・リーンは副侍従長を突き放すと、自室へと駆け上がっていった。
あのバカ親父! こんなところへ来ている暇があるのか!?
ノックもせずに扉を蹴り開けるとリュ・リーンは自室へと転がり込んだ。
「おぉ。息子よ~。達者であったかぁ」
えらく間延びした声は忘れようもない。
「お、親父! こんなところで何している!?」
「何してる~? 父は花を愛でていたんだがなぁ」
剣呑な息子の言葉に答えたつもりなのか、トゥナ王シャッド・リーンは窓を振り返った。リュ・リーンが日課のようにして眺めていた花園がその視線の先にある。
「そんなことを聞いているのではない! 援軍はどうしたんだ! えぇ!? しかも一人で来ただと!? ウラートに途中で会っただろうが! 俺の大事な侍従をどこへやったんだ!」
「何を怒っているのだ~? ウラートなら援軍の指揮を取りに向かわせたぞ。それより、久しぶりに会ったのだ、顔をよく見せよ、息子よ~」
リュ・リーンは暢気にヘラヘラと笑っている自分の父親に素早く近付くと、頭二つ分は高い位置にある父の顔を掴んで自分の顔の前に引き寄せた。彼のこめかみには青筋が浮かんでいる。
「……最後に会ってからまだ十日と経っていないっ。いつまで俺をガキ扱いするつもりだ、クソ親父!」
そう言い様に相手の両頬をつねり、思いっきり引っ張る。
「いだだだ! 痛い、痛い。止めよ、リュ・リーン」
「王としての自覚があるのか、バカ親父! 軍隊は放ってくるわ、息子の侍従は顎でこき使うわ、危機感はないわ! 少しはまわりの迷惑を考えろ!」
自分のことは棚に上げてリュ・リーンは父親の頬を一層強くつねりあげ、アジェンに来てからの鬱憤を晴らすように当たり散らす。
そんなことをしてもなんの解決にもならないのだが。
「痛い~。顔が伸びる。リュ・リーン、放してくれ~。それに余は遊んでばかりいたわけではないぞぉ。ギイが悪戯をしないようにしたし、早馬で副都のアッシャリーに戦の指示は出しておいたし~」
それを聞いてリュ・リーンはようやく父親を拷問から解放した。
「ギイ伯爵に何をしたんだ?」
未だ怒りは収まったわけではないが、リュ・リーンは鋭い視線で父親を見上げた。トゥナ王は赤くなった頬をなでながら、息子の顔を見下ろして悪戯っぽく笑う。
「ふふふ~。当分の間は悪戯ができないよう、食事に下剤を混ぜさせている」
「げ、下剤!?」
毒薬ではなく、下剤を盛るというやり方の子供っぽさがいかにも父王らしく、リュ・リーンは毒気を抜かれた。
しばらく身体の自由を奪うのなら痺れ薬を盛ったほうが効率がいいだろうに。
「下剤なら怪しまれないだろぅ。ここのところ囲った女のところへ毎晩通って行くとエミューラ・リーンがこぼしていたからなぁ。ギイにはいい薬になっただろうなぁ。くふふ」
トゥナ王は娘婿の哀れな姿を想像しているのか、さも楽しげに笑い声をあげると息子の頭をグリグリとなで回した。
「やめんか! 髪が乱れる!」
乱暴に父親の手を払いのけるとリュ・リーンは自分の右手親指の爪を噛んだ。
父親もまんざらバカではないらしい。
聖地にギイ伯爵を呼びつけてできもしない交渉を押しつけようと思っていたが、本人がその様では屋敷どころか部屋からだとて一歩も出られまい。そんな無様な姿を人目に晒せるほど伯爵の気位は低くはないはずだ。
「リュ・リーン~」
間延びした唄うような口調でじゃれついてくる父親を邪険に押しのけると、リュ・リーンは自室から出て、階下で二人のやりとりをハラハラと聞いているであろう従者たちを呼ばわった。
「誰か居ないか! 出立の準備をしておけ!」
応じる声の後にバタバタと駆け去る足音を確認すると、リュ・リーンは室内から自分を見守る父親を振り返った。
窓から差し込む光のなかにいる父親は大きな体躯の割に王らしくは見えず、崩した姿勢で椅子に座り机にもたれかかるその容姿は子供っぽい印象しか受けない。
「親父……」
自室の扉を後ろ手に閉めながら、リュ・リーンは改めて父を呼んだ。今までの騒々しさは消え、静謐な空間が出来上がる。
「なぜ俺に黙ってアジェンの姫とのことを……」
リュ・リーンは苦々しげに父親を見遣った。聖衆王の娘との縁談話を聞かされたとき、リュ・リーンはまず何よりも父親に裏切られたと思ったのだ。
「話していたら、今回のアジェン行きを渋っただろぅ? お前は天の邪鬼でいつも余の言うこととは反対のことをしでかすからなぁ」
「でも、何も聖衆王の娘を!」
胸に拡がる苦い想いを吐き捨てるようにリュ・リーンは言った。
そうなのだ。彼女の肩書きは何も聖衆王の娘でなくても良かったのだ。カストゥール家の娘でもなんら差し支えないはずだ。
彼女がカストゥール家の者であることが最初から判っていれば、ダイロン・ルーンとの関係に気を揉んであれほど悩むこともなかった。
今さらながら己の失態が悔やまれる。
「なんだ? 王の娘は気に入らなかったのか~? おかしいなぁ。マシャノ・ルーンの奴が太鼓判を押した娘だったんだが?」
何を暢気なことを言っているのか。その娘が異形の者であるからこそ、聖衆王はトゥナに彼女を押しつけようとしたのではないか。
「本当に気に入らなかったのか~? ミリア・リーンに似た娘を、と頼んでおいたのに。マシャノ・ルーンの奴、嘘を言ったのか?」
「ちょっと待て! 誰に頼んだだと!? さっきから言っているマシャノ・ルーンってのは誰だ!?」
首を傾げる父親に詰め寄るとリュ・リーンは相手を睨んだ。
「ん~? あぁ、お前は知らんか。聖衆王の名だ、マシャノ・ルーン・アジェナ・レーネドゥア。あいつにお前の気に入りそうな娘を探してもらうよう頼んだのだが……はて? どういう娘だったのだ、その娘は~?」
のんびりと自分を眺める父王にリュ・リーンは目眩を覚えた。
「母上の顔さえうろ覚えな俺にどうやったらその娘が母上に似てると判るんだ! 第一、彼女の髪は銀髪で母上の栗毛とは似ても似つかない……」
「そうではなくてぇ。お前の母親代わりになるほどの包容力を持った娘を探してくれと余はマシャノ・ルーンに頼んだのだ。
お前のきかん気な性格を享受できるのはそれくらいの娘でなければ務まりそうもないからなぁ。そういう娘ではなかったのか~?」
リュ・リーンは何も言えずに黙り込んだ。
さすがに父親だけのことはあった。息子の性質をよく心得ている。
父王は幼い頃に母親を亡くしたリュ・リーンのトラウマをよく判った上で、相手を探していたらしい。
「気に入らなくはない……」
ボソリとそれだけ答えるとリュ・リーンは俯いた。その黙り込んでしまった息子の顔を覗き込んだトゥナ王はニッコリと微笑んだ。さも安心したと言うように。
「そうか! 気に入ったか~。良かった、良かった」
「良くない! 俺が気に入っても、彼女は……!」
不用意に彼女の部屋に踏み入り、秘密を覗いて、自分は彼女の心を傷つけてしまった。きっと彼女は自分の不躾さに嫌気が差したろう。
「そうか~? マシャノ・ルーンからの返事では、娘のほうもお前に気があると言ってきたんだがなぁ? 絶対にお前も気に入ると言っていたし。お前、嫌われるようなことをしたのか~?」
ギクリとリュ・リーンは顔を上げ、腕を組んで首を傾げる父親の顔に一瞬だけ視線を向けると再び俯いた。
その息子の様子にトゥナ王は大袈裟なため息をついた。世話の焼ける奴だ、と内心で言っているのがリュ・リーンにさえ判る。
「何かヘマをやらかしたな、リュ・リーン? 早めに謝ったほうが得策だぞ~。夫婦喧嘩ってやつは、男のほうが先に謝ったほうが円満に解決することが多いからなぁ」
「ま、まだ俺とカデュ・ルーンは夫婦じゃない!」
先走る父親の考えにリュ・リーンは一瞬たじろぎ、顔を赤く染めた。
「ほぉ~、カデュ・ルーンと言うのか~。“聖なる魂”あるいは“聖なる神の器”と言った意味か。良い名だな。ミリア・リーンにもその娘を見せてやりたかったなぁ」
ぼんやりと窓から差し込む光を見つめながらトゥナ王はしばし物思いに耽る。その蒼い瞳は死んでいった者とでも会話しているのだろうか。
光を受けて淡い金色に光る髪に縁取られた父親の横顔を見つめてリュ・リーンはそっとため息をついた。
「……さて、リュ・リーン。グズグズせずに謝りに行ってきたらどうだ~。どうせお前のことだ、自分が援軍を率いて聖領を突っ切るつもりだろう?
だったら、早く仲直りしておかないと、今年はリーニスから動けないだろうから、機会を失って本当に愛想をつかされるぞぉ?」
「な、なんでそれを知ってるんだ!」
ウラートにさえ明かしていなかった戦術をどうして父王が知っているのか!?
「リュ・リーン~。余はトゥナの王だぞぉ? 一番効率よくかつ効果的に動くためにどうすればいいかを考えるのはお前より長~くやっている。お前が今朝王に謁見を申し込んだと聞いてすぐに判ったぞ?
……上手くいったのだろぅ? マシャノ・ルーン、いや聖衆王との話し合いは」
あれを上手くいったと言ってもいいのかどうか。だが結果的にエンダル台地を経由する軍路は確保できた。
以前も使用したことのある軍路なのに恩着せがましく許可を出す聖衆王のやり方は腹立たしいが、トゥナがリーニスを失って国力を落としてはトゥナの軍事力を体よく使っているアジェンとしても都合が悪いはずだ。
聖衆王はそこのところもよく判っていたのだろう。
「お前のここでの任務は父が代わってやる。精々リーニスでは派手に暴れて、“黒い悪魔”の名に相応しい戦果を挙げてこい。
あぁ、そうだ~。今すぐに軍に合流することはないぞ。明日にも我が軍は大タハナ湖の南側に到着するだろう。お前の甲冑も持ってきているから、ちゃんと着込んでいくんだぞぉ~?
先年のように兜もかぶらずに戦場を駆け回るんじゃないぞ、父の寿命はあれで十年は縮んだ」
「まったく何から何まで。言いたい放題言ってくれる……」
リュ・リーンは自分が駆けずり回っていたことが馬鹿馬鹿しくなってきた。
聖衆王はリーニスが蹂躙されていることを自分と変わらない早さで察知していたし、父親は彼の考えなどすべてお見通しだ。
彼らの掌中できりきりまいしている自分が政治家としても半人前だということをこれほど思い知らされたことはない。
「どうした? リュ・リーン~?」
扉へと向かう息子にトゥナ王は間延びした口調のまま問いかけた。
「侍従たちに指示の出し直しだ。今すぐに出立しなくて済んだからな」
忌々しげに父の問いに答えながらリュ・リーンは振り返った。
その視線のすぐ先に自分の顔を覗き込む父の顔を発見してリュ・リーンはぎょっとした。
いつものふやけた締まりのない顔ではない。厳しい王の顔をして真っ直ぐに自分の瞳を見つめる父を、これほど間近で見たことがあっただろうか?
「ルーヴェ……」
低い重々しい声がトゥナ王の口からもれる。 リュ・リーンは己の足が微かに震えていることを自覚した。
ルーヴェ。何年も聞いていなかった自分の“聖名”。
秘された名。真実の名。人は真の名を知り、“支配の言葉”を使う者によって支配される。逃れることは許されない。
リュ・リーンの聖名を知る者はもはやこの世では父王ただ一人。その父は魔道師としての力も使えるのだ。
「……はい」
名を呼ぶ者に抵抗などできない。リュ・リーンの思考は強制的に支配される。
シャッド・リーン王の両手が上がり、息子の顔を包み込む。王はさらに自分の顔を近づけると、息がかかるほど間近から囁く。
「忘れるな、お前の名を。お前に災いをもたらす者、すべてに死を与えてこい。そして、生きて帰り、余の掲げる王杖を奪い取れ……」
「はい……。ちちうえ……」
忘れるはずもない、この忌まわしい名を。
ルーヴェ・リュ・リーン・ヒルムガル。名の意味は“氷原で死の翼を震わす鳥”。終焉神の使徒。
自分を追放した者たちに氷の刃を向けた放逐者の名がリュ・リーンの名には織り込まれている。
自由を奪われたリュ・リーンの思考の断片にその神の密やかな声が聞こえる。
災いをなす者には死を……。限りなく残酷なる死を!
熱に浮かされたように頷く息子に微笑みかけるとトゥナ王は息子の暗緑色の瞳を覗き込んだ。人ならざる者の瞳を。魔の瞳を。
「死の王の御子よ、生きて我が王国にお戻りあれ」
囁き声は小さなものだったが、リュ・リーンの耳には落雷のような激しさでこだました。
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