石獣庭園 -Wing on the Wind-

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Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔168日前〕 RSS Feed

第一幕:王道の恋

No. 60 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,王道の恋 , by otowa NO IMAGE

第04章:記憶の顔

 翌朝。リュ・リーンは目覚めるとすぐに自分の枕元にウラートがうたた寝している姿に気づいた。
 外からは小鳥のさえずりが聞こえる。今朝も小鳥の鳴き声に起こされたようだ。
 ウラートに起こされる前に目を覚ますという快挙を二日間に渡って成し遂げたわけだ。
 昨夜はウラートに髪を撫でられているうちにリュ・リーンは眠りについていた。代わりにウラートほうはリュ・リーンの髪をなでてずっと起きていたのだろう。
 リュ・リーンは少し申し訳ない気分になり、ウラートを起こさないようにそっとベッドから下りると、昨日の朝そうしたように今日も中庭に面した窓を開けてみる。
 昨夜の言いようのない虚しさが一瞬頭をもたげたが、それ以上に期待感に胸が膨らむ。
 肌寒い空気がリュ・リーンの頬をなでていった。中庭は朝靄に包まれている。
 だがリュ・リーンが期待した花の精霊の舞姿は今朝は見ることができなかった。
 小鳥たちのさえずりだけが響く花園は美しくはあるが、どこか疎外感があり、リュ・リーンは花園にまで嫌われたような錯覚に陥った。
「う……、リュ・リーン?」
 背後からの声にリュ・リーンは振り返った。窓からの光でウラートを起こしてしまったようだ。
「すまん、起こしてしまったか?」
「いいですよ、別に。もう起きなければならない時間です。……それより、リュ・リーン……」
 皆まで言わせずリュ・リーンは彼の侍従に微笑んだ。
「昨日は半日も公務をサボった。今日は休んでいるわけにもいかないな。枢機卿との会談は今日に繰り越したのか?」
「昨日の今日でしょう? 相手の都合だってありますよ。午前中は何も入れていませんが、午後からは学舎の訪問があります。大丈夫ですか?」
 ウラートには主人のこの落ち着きようが、逆に彼の傷の深さを顕わしているようで気がかりだった。
 リュ・リーンはウラートの心配をよそにゆっくりと伸びをした。身体のほうは呆れるほどすっきりとしている。重く気怠いのは心のほうだ。
「休みすぎなくらいだ。午前中からでも動けるぞ」
 リュ・リーンは身体を動かして、他のことに集中していたいのだ。ウラートはそれを悟ると、素早く頭を回転させて主人の今日の予定を組み替えていく。
「判りました。午前中から予定を入れましょう。すぐに調整します」
「おい、無理に変更しろとは言っていない。午前中に公務が入っていないなら、行っておきたいところがある」
 気をまわしすぎる従者にリュ・リーンは苦笑する。
「カストゥール家へ行ってきたい。朝食の間に連絡をとってみてくれ。ダイロン……いや、ミアーハ・ルーン卿の都合がつけば、すぐにでも訪ねたい」
 リュ・リーンは口元を歪めた。いずれはケリをつけねばならない相手だが、会うとなると気が重い。それでも会わねばなるまい。
「……はい。すぐに連絡を取りましょう」
 ウラートはリュ・リーンの意図するところを理解した。聖衆王やその娘に今回の縁談の件を断る前に、娘の想い人であるカストゥール候に断りをいれるつもりなのだ。
 神官職にも名を連ねる聖地の大貴族とトゥナ王の息子。聖地の王の娘の縁談としてどちらがより相応しいか、よく考えればわかることだ。
 それにしても、なぜ聖衆王は同族の大貴族の意向を無視するようなことをしたのか?
 聖地の民が外様である他国に嫁ぐことはかなり稀なことなのだ。
 娘を説き伏せたところで、自分の臣下の不満を残す形での婚姻が後のしこりになることは目に見えている。
 リュ・リーンの沈みがちな瞳の色を気にしつつも、ウラートは主の意向に添うべく他の従者に指示を出しに主人の部屋から退出した。
 部屋に独り残されたリュ・リーンは再び中庭へと視線を向けた。
 相変わらず花園の主の姿は見えない。リュ・リーンは急速に萎んでいく自分の気持ちを吐き出してしまうように荒々しい吐息をはいた。
 落ち込んでいる時間は自分には与えられていない。聖地での任務をやり残したまま帰国するわけにはいかないのだ。
 決着をつけるべきことは、早くつけたほうがよい。
 昨夜から考え続けていたことを、自分に言い聞かせるように確認するとリュ・リーンは窓を閉じようと身を乗り出した。
 そのリュ・リーンの動きが止まった。今まで陰になっていて見えなかったが、王城の奥宮殿の回廊に続く扉の近くに人影が見えるではないか。
 その人物を確認してリュ・リーンは愕然とした。
「ひ……姫!?いったい、いつから……」
 王の娘が木陰に顔を伏せたまま座り込んでいた。疲れたようにうずくまる衣装は昨夜と同じものだ。着替えもせずに部屋を抜け出してきたのだろうか?
「まさか……」
 リュ・リーンは動揺したまま部屋を飛び出していた。外の廊下を行き交う従者たちが、主人の形相をみて慌てて飛び退いていく。
 どこへ行くのかと呼び止める声が聞こえる。だが呼び声に応える余裕はリュ・リーンにはなかった。




 中庭に飛び出したリュ・リーンは、そこで足を止めた。昨夜の気まずい想いが彼の足を進めることを躊躇わせる。
 木陰では娘が身じろぎ一つせず、まるで白い彫像のように座していて、今にも消え入りそうなほど弱々しく見えた。それがリュ・リーンの気持ちに鞭を打つ。
 恐る恐る木陰へと近づく。娘と目が合ったら逃げ出してしまうかもしれない。
「姫……」
 ようやく娘の側までくるとリュ・リーンはひざまずいてそっと声をかけた。
 びくりと小動物のように肩を震わせて、娘が顔をあげた。その表情に胸が針で刺されたように痛む。泣きはらして娘の眼まなこは真っ赤になっていた。
「殿下……」
「姫……。まさか……まさか一晩中?」
 娘はこくりと肯く。そんな仕草は幼く見えた。
 信じられない。春先のこの時期、夜はまだ肌寒い。それを一晩中、外気に当たっていたというのか。
「なんてことを……!」
 リュ・リーンは衝動的に娘を抱きしめた。
 その身体が夜露に濡れたのだろう、湿っていることに気づくと、慌てて自分の上着を脱いで娘の肩にかける。そのときになって、娘が震えていることにリュ・リーンは気づいた。
 当たり前だ。一晩中、夜露に濡れたままこんなところに座っていては、風邪をひくどころではない。
 娘の意識は朦朧としているようだ。熱が出始めたのかもしれない。
「着替えを! ……あぁ、でもその前に身体を暖めなくては」
 リュ・リーンは娘の小柄な身体を抱き上げた。予想以上に軽い。青ざめた顔色の娘を気遣いながら、リュ・リーンは棟の入り口目指して足早に歩き始めた。
「待て! リュ・リーン! その娘をどこへ連れていくつもりだ!」
 恐ろしく冷たく、殺気だった声が背後からかかった。振り返って確認するまでもない。この声に聞き覚えがある。
「ダイロン……ルーン……」
 リュ・リーンは苦々しい思いで振り返った。
 テラスの上に息を切らしたダイロン・ルーンの姿があった。
 今しがた、ここへ来たのだろう。目を爛々と光らせ、自分を睨むダイロン・ルーンにリュ・リーンはどんな言い訳も通用しない頑迷さを見て暗い気持ちになった。
 娘は虚ろな意識のままリュ・リーンの腕に抱かれている。
 このまま娘を連れ去ってしまいたい衝動がリュ・リーンの身体を駆けめぐるのと、ダイロン・ルーンがテラスからリュ・リーンの前に飛び降りるのと、どちらが先であったろうか?
「お前が連れていっていい娘ではない」
 当然の要求をするようにダイロン・ルーンが娘に手を伸ばした。
 リュ・リーンは反射的にその腕を避ける。自分でもなぜそんなことをしたのか判らない。
 ダイロン・ルーンの片眉がピクリとつり上がる。怒っているときの彼の癖だ。
「さっそく亭主気取りか?」
 侮蔑の視線をリュ・リーンに向けたまま、ダイロン・ルーンはリュ・リーンに一歩近づいた。
「昨夜から部屋に戻っていないと聞いて探してみれば……。お前たちはどこまで私を愚弄すれば気が済むのだ」
 背の高いダイロン・ルーンを見上げながら、リュ・リーンは青ざめて一歩退いた。足元に花壇の石積みの感触が伝わる。これ以上退がることはできない。
「ダイロン・ルーン……。俺は……」
「くだらない言い訳など聞きたくもない!」
 叩きつけるようなダイロン・ルーンの言葉に、リュ・リーンはそれ以上何をどういえばいいのか判らない。
 更にダイロン・ルーンが一歩近づいた。かつての彼からは想像もできないような厳しい表情を浮かべている。
 リュ・リーンは気圧されたように身体をふらつかせ、バランスを失うと紅いカリアスネが咲き乱れる花園に娘もろとも倒れ込んだ。濃密な花の香りが辺りに散らされる。
「返してもらうぞ」
 ダイロン・ルーンが娘の腕に手をかけた。リュ・リーンはどうすることもできずに、ダイロン・ルーンに抱き上げられた娘を見上げた。
「ダイロン・ルーン……」
 リュ・リーンの呼びかけを無視するとダイロン・ルーンは背を向けかけた。その友の腕のなかで娘が身じろぎした。緩慢な動きで腕が上がり、うっすらと目を開ける。
「ん……。リュ……リ……ーン殿……下?」
 娘が自分の名を呼ぶ。ダイロン・ルーンではなく、自分の名を。
 リュ・リーンは花に埋もれた身体を起こすと、無意識のうちに娘へと手を伸ばした。その伸ばした腕が、続く娘の言葉で止まる。
「兄様……?」
 え……? 今、彼女はなんと言った?
 訳が分からず、リュ・リーンは恋敵と娘の顔を交互に見比べた。心配そうに歪むダイロン・ルーンの顔が、リュ・リーンのなかで娘の優しげな顔と重なる。
「ま……まさか。カ……デュ・ルー……ン……殿か……?」
 おぼろな記憶のなかから、リュ・リーンはダイロン・ルーンの妹の姿を必死で思い起こした。
 ダイロン・ルーンと同じ聖地では珍しくない白銀の髪。雪のように白い肌。そして、伏し目がちな瞳の色は……?
 思い出せない。
 リュ・リーンと視線を合わそうとしなかった友の妹の瞳の色はリュ・リーンの記憶から抜け落ちていた。
 だが目の前にいる王の娘の顔立ちはダイロン・ルーンとよく似ている。
 リュ・リーンは娘の顔立ちを聖地の民特有のものだと思っていた。
 聖地の民は皆、よく似通った顔つきをしている。同族婚の多い地域では、必然的に似た顔立ちのものが多くなる。聖地とて例外ではない。
「ダ、ダイロン・ルーン。その娘がカデュ・ルーン殿なのか!?」
 リュ・リーンは確認せずにはいられなかった。
「なんだと……?」
 ダイロン・ルーンの顔に新たな怒りが刻まれたことにも気づかない。
 リュ・リーンの身体が後ろに吹っ飛んだのは次の瞬間のことだった。鳩尾に響く激しい痛みに息が止まる。
「ぐ……」
「カデュ・ルーンか、だと? 貴様……! よくもそんな口を!」
 娘を抱きかかえていたダイロン・ルーンの右足が自分の鳩尾を痛打したことが解るまでしばしの間が空いた。肺が空気を求めてもがいている。
「ダ……イ……」
 リュ・リーンを見下ろすダイロン・ルーンの顔は怒りにどす黒く染まっていた。
「二度と妹に近づくな!」
 氷よりも冷たく、ナイフより鋭い声で吐き捨てるように言い残すと、ダイロン・ルーンは回廊へと続くテラスの階段を上がっていった。
 リュ・リーンは苦痛に顔を歪めたまま、その後ろ姿を見送るしかなかった。己の勘違いと優柔不断さが招いた結果だ。
 頭のなかでもう一人の自分があざける声が聞こえる。
 愚か者、愚か者……、愚か……者。




 よろけるように自室のある棟へと戻ったリュ・リーンは彼のために奔走しているであろうウラートを探した。
「ウラート……! ウラートはいないのか!」
 従者たちが慌ただしく走り回る使用人部屋の階へ足を踏み入れるとリュ・リーンは侍従長の名を呼ばわった。
「リュ・リーン殿下……!」
 階段の手すりにもたれかかったままの主人の姿を見て従者たちが驚きの声を上げた。
 それもそのはずだ。リュ・リーンは花壇に倒れ込んだときについた花の残骸や草汁に全身をまだらに染めたままなのだ。なんという姿をしているのか。
「ウラートはどこだ!」
 彼らの驚きを無視してリュ・リーンが苛立たしげに声を上げた。従者の一人にリュ・リーンが視線を走らせると、天敵に睨まれた小動物のようにオロオロと従者が答えを返す。
「ウ、ウラート殿でしたら……殿下のお部屋に……」
 腹立たしい。主人の質問一つに答えるためにどれほどの時間をかけるのか。
 リュ・リーンは忌々しそうに舌打ちすると、自室のある上階へと重い足取りで階段を登っていく。
 その自室のある階から慌ただしく足音が響いてくる。ウラートがリュ・リーンを探し回っているに違いない。
 何をそんなに慌てているのか。探しているのはリュ・リーンのほうであろうに。
「ウラート!」
 リュ・リーンは上にいるウラートに聞こえるように叫ぶと、未だに痛む腹部を押さえて階段の途中で立ち止まった。
 遠慮容赦なく鳩尾に打ち込まれた蹴りで、きっと腹部には痣ができているだろう。あの場で胃のなかのものを吐き出さなかったのが不思議なほどだ。
「リュ・リーン……! どうしたのです、その格好は!」
 階段の上に姿を見せたウラートが青ざめた顔で叫んだ。
「なんでもない! それよりも、先ほどの……」
「それどころではありません! ……王が! トゥナ王陛下が、リーニスへ向けて軍を動かされました! しかも指揮官は王ご自身だと……!」
 一瞬、リュ・リーンは彼の学友の言っている意味が掴めずに目を瞬かせた。
「え……?」
 親父が、なんだって?
「軍の規模およそ騎兵五〇〇名、歩兵一五〇〇名、工兵が一〇〇名! 先ほど、王都よりネイ・ヴィー卿の密書が届きました」
「な、何だと!? 何故リーニスに援軍がいるんだ! あそこには冬期の間、国軍の七割近くが配備されているのだぞ!」
「我々が聖地に出立したのと入れ違いでアッシャリー将軍から援軍要請があったようです。“リーニス砦は敵軍の手中にあり、カヂャの軍馬に我が平原は蹂躙されている”と!」
「ばかな!」
 リュ・リーンは腹部の痛みも忘れて階段を駆け上がった。
 リーニスはトゥナにとって生命線だ。あの地方を取られては自国は成り立たない。
 トゥナ王国は巨大なチャルカナン大山脈によって東西に分断されている。
 切り立った断崖に囲まれた大地を突きだしたワーザス半島の西端に王都ルメールは位置し、東部のリーニス平原に出るには半島を塞ぐ大山脈を越えなければならない。
 およそ二百年前、ワーザス半島に閉じこめられていたトゥナ王国がリーニス王国を併呑してその版図を広げてより、カヂャ公国との戦が収まりを見せるのはトゥナが兵を動かせない冬に限られる。
 だがそれですら、他国を利用する謀略を尽くしてのことだ。
 リーニスの豊かな農産物やワーザスの金塊といった莫大な富を分配する条件で、エンダル北方同盟に加わるミッヅェル公国、ゼビ王国のカヂャ北方の国々から戦を仕掛けさせてかの国の戦力を削がせている。
 その均衡が崩れない限り、冬期にカヂャ公国がトゥナを攻めることなどできるはずがない。
「何故だ! カヂャにこの時期、我が国を攻める余力はないはずだぞ。何があったんだ!」
 ウラートの顔色がその一瞬で怒りに赤く染まる。
「東のグンディ帝国がゼビの王都付近に侵攻しています。ゼビはミッヅェルに援軍を依頼せざるを得ない切迫した状況です。
 ゼビが滅びては、次はミッヅェルがグンディの餌食。両国ともカヂャを揺さぶるどころではありません!」
 リュ・リーンの顔にも怒りが刻まれる。
「グンディの欲惚けじじいめ! カヂャに踊らされたか!」
 トゥナは豊穣なるリーニス地方の作物によって国民を養っている。その豊かさが国の力を増強していたが、同時に人口を増加させてもいる。
「リーニスの残存兵数は!?」
 リーニスが荒らされ、あろうことか奪取されては、氷原が大半を占める西側ワーザス地方の民が飢えに苦しむのは目に見えている。
「副都ウレアから北部にかけてはまだ五万の兵力が温存されています。ですがカヂャとの最前線のリーニス砦を守っていたアルマハンタ将軍の戦死で士気はがた落ちです。
 カヂャの軍勢はリーニスの南部の大半を押さえたと。報告が届いた時点でザナ大河を下りながら北上し、オルナ山へ迫る勢いとか」
「くそ! アルマハンタが……!」
 実直さを体現したようなアルマハンタ将軍の顔を思い出してリュ・リーンは顔を歪めた。彼の戦死はトゥナには大変な痛手だ。
 リュ・リーンは脳裏にリーニス地方の各砦の配置を思い描く。
 現在のリーニス地方にいる人物でましな者といったら南方ルキファ王国国境のユーゼ川上流部に配されているタタイラス将軍か、リーニス側からイナ洞門の修繕にあたらせているアッシャリー将軍くらいのものか。
 ルキファに睨みをきかせているタタイラス将軍はともかく、アッシャリー将軍は早馬を王都に出した後は副都の守備に入っているはずだ。
 簡単には副都が陥落するとは思えないが、予断は許さない状況であることに代わりはない。
「ダライが生きていれば!」
 昨年に戦死したダライ将軍が存命していれば、状況は今少し変わっていただろうに。
 リーニスの状況は切迫していた。いくら兵が残っていても指揮する者の絶対数が足りていない。
 下士官たちの士気向上のためにも、強力な主導者がいる。だが王自らが出馬しても、一度散らされた指揮系統を再度まとめるのは容易ではない。
「ようやく雪が解け始めたとは言え、標高の高いチカ山を越える軍路はまだ無理です。安全なエンダル台地経由の軍路は聖衆王に許可を取る時間のない今回は選択できません。
 王陛下は先月崩れて修繕し始めたばかりのイナ洞門を通る軍路を選ばれたのでしょうが……たとえ一〇〇名の工兵を投入したとしても、洞門の瓦礫を取り去るのに時間を取られ過ぎます」
「残りは航路だが……。狭海(ヒョルドー)に流氷が残っている以上、使いものにならん。確かに親父ならイナ洞門を使うだろう。
 だが使者の早馬ならともかく、大量の軍馬と歩兵を通すとなると崩れた洞門では狭すぎる! ……軍は今どこを移動している!?」
 焦りの色を隠しもせず、リュ・リーンは自室へと向かった。彼の部屋にはトゥナとその王国内にあるアジェンの地形が記された地図がある。
 自室の扉を蹴破るほどの勢いで開けると、リュ・リーンは書棚の端に押し込まれている巻紙を引っぱりだした。
「ウラート! ネイ・ヴィーの報告では、王の出立はいつだ!」
「援軍要請の使者の到着が我々の出立後の翌日。王の出立はその翌日です」
「何!? ……王ともあろう者がなんと急ごしらえな」
「今年は雪解けが遅かったですからね。たとえ軍馬と言えども、親善隊の我々と大差ない速度でしか行軍できないでしょう。ポトゥ大河沿いに行軍しているとして、ざっとこの辺りかと……」
 リュ・リーンは無意識のうちに右手親指の爪を噛みながら唸り声を上げた。
「明日にもポトゥ大河とツェル川の合流地点にさしかかる。……ウラート! 親父を止めろ! リーニスには俺が行く!」
 驚いてウラートがリュ・リーンの険しい顔を見る。
「リュ・リーン! 聖地での任務はどうするのです。あなたの代わりなどいないのですよ」
「判っている! だが王都を空にして良いわけがないだろうが。王都にはギイ伯爵が残っている。
 あの危険極まりない男を監視の目もつけずに野放しにしておけるか!? 親父には、あの忌々しい義兄を押さえておいてもらわねばならん!」
 リュ・リーンは一番上の姉と婚姻を結んだ驕慢な男の顔を思い出して歯がみした。
 なんと間の悪い! たとえリーニスからカヂャを追い払えたとしても、王都を空けていては父が理不尽に玉座から追われる危険がある。
「……。判りました。ですが、あなたがここでの任務を放棄した、とギイ伯に揚げ足を捕られますよ」
「……今回の聖地訪問の目的はなんだ? ウラート?」
 リュ・リーンは頭一つ分上にあるウラートの顔を見上げた。意地の悪い笑みを浮かべている。
「え? 神殿への供物の献上と、ロディタリス大神殿からの親書を枢機卿に手渡して……」
「そうだ。供物献上と枢機卿の取り込み。この二つだ」
 ウラートはリュ・リーンの真意が見えずに困惑した。
「義兄上にその栄誉の一つを譲ってやろうではないか」
「リ、リュ・リーン! なんてことを言うのです! 自分から勝ちを譲るのですか!」
 とんでもないことを言い出した主にウラートは震え上がった。
 王子に与えられた任務の代理を受けたとなれば、当のギイ伯爵は今後それを鼻にかけて、尾ひれをつけて喧伝してまわるだろう。
「勘違いするなよ、ウラート。あのバカ義兄に気難しい枢機卿が会うと思うか?」
「う……。まさか、伯爵に恥をかかせるつもりですか!?」
 気位の高い枢機卿が王族に名を連ねるとはいえ、王の後継者以外の者にそう易々と面会を許すとはとても思えない。
 ニヤリ、と口を歪めて自分の言葉を肯定してみせる主にウラートは目眩すら覚えた。この王子は災いすら、自分の地位を固めるために利用してみせるつもりなのだ。
「あぁ、リュ・リーン。あなたと言う人は! ……いいですか、その策略は諸刃の剣だということを忘れないでくださいよ」
「あの男に枢機卿相手の交渉などできるか! それに俺が交渉に当たったとしてもトゥナに有利な条件で枢機卿を取り込める可能性は低い。ギイ家の人間もそれを狙っていたんだ。あの男が同じ立場に立たされたときの顔が見てみたいね!」
 ギイ伯爵がリュ・リーンの失敗を手ぐすね引いて待ちかまえているように、今度はリュ・リーンが義兄の失態をあざ笑ってやろうというのだ。
 しかし危険な賭には違いない。
「伯爵を引っ張り出すのに、親父がいる。俺から言い出しては、義兄に無駄な恩を売るだけではなく、俺自身が負けを認めるようなものだ。王命として聖地にご足労願おうか。なぁ、ウラート?」
 義理の兄の吠え面を想像しているのか、リュ・リーンの顔がいっそう意地の悪い表情を刻んだ。
 ウラートは不幸な目に会う伯爵にほんの少し同情したあと、ため息とともにその感情を押しやり、眼前に迫っている危機へと頭を切り換えた。
「主命謹んで拝します。小官自らが王陛下の元へ参じ、必ずや吉報をお届けします!」
 リュ・リーンの前に恭しく膝をつくと、ウラートは右掌を心臓の上に当て、主に向かって頭こうべを垂れた。
「聖地との境界線辺りで王と会えるだろう。すぐに俺も軍と合流する。後のことはその時に……」
 ウラートの言葉に頷いて見せるリュ・リーンの顔は力強く、謀略と戦術を駆使して戦場を駆け巡っているときの表情になっていた。
 その後、ウラートは律儀にも自分の身支度を済ませながら、リュ・リーンの世話を焼いてアジェンの王宮を飛び出していった。
 二人の従者を引き連れてポトゥ大河沿いに駆け去るウラートの姿を見送った後、リュ・リーンは自室へ戻り開いたままの窓から外を眺める。
 一時の忙しなさが過ぎてしまうと、今朝の中庭での顛末が思い起こされた。
 リュ・リーンは幼い頃のカデュ・ルーンの容姿をもう一度思い起こしてみる。やはりはっきりとした記憶は残っていない。
 何故、思い出せないのか。大事な友の妹だと言うのに。
 リュ・リーンは爪を噛んだ。ウラートは子供っぽいと言うがリュ・リーンが考え込んでいるときの無意識の癖だ。
 相変わらず、カリアスネの花は吹く風に優しげに揺れている。
 古代の勇者の一族に捧げられたと言う、この花の姿はリュ・リーンのなかで聖地の王の娘の姿と重なって見えた。
「カデュ・ルーン。何故あなたなのだ。何故? ……何故ダイロン・ルーンの不興を買ってまでトゥナに嫁ぐことを承諾したのだ?」
 自国の危機にも関わらず、己の関心がカデュ・ルーンの上から去らないことにリュ・リーンは苦笑を禁じ得ない。
 聖地にきてからの自分はどうかしている。彼女のことになると、どうしてこうも情けない様をさらすのか。

〔 9935文字 〕 編集

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