石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔300日前〕 RSS Feed

第一幕:王道の恋

No. 59 〔25年以上前〕 , 銀王宮年代記,王道の恋 , by otowa NO IMAGE

第03章:遠き日の涙

 帰ってくるなりリュ・リーンは手近にあったテーブルの足を蹴り折り、椅子を壁に投げつけて叩き壊した。
 それでも怒りが収まらないのか、傾いだテーブルを殴りつけてその卓上にヒビを入れる。
「リュ・リーン! なにをしているんです!」
 リュ・リーンに付き従っていった従者の一人から王子の様子を聞き、ウラートは従者たちを王子の部屋から遠ざけたあと、一人この部屋へと飛んできたのだ。
「ウラート!! お前は知っていたのか!? ……いや、知っていたんだな! 俺と聖衆王の娘との縁談のことを!!」
 恐ろしい形相でリュ・リーンはウラートを怒鳴りつけた。ウラートの肩までしかないリュ・リーンがウラートの胸ぐらを締め上げて眼をつり上げる。
「さぞ俺のことを滑稽に思っただろうよ。お前には俺が親父たちの手の中で踊っている玉にしか見えなかったってわけだ!」
「リュ……・リー……ン……」
 苦しそうにもがくウラートを更に締め上げるべくリュ・リーンは腕に力を込めた。
 同年の若者よりやや小柄なリュ・リーンだが、戦場で自ら馬を駆り大剣を振るっているその腕力は強い。このまま締め上げればウラートの息の根は止まるだろう。
 だがウラートの顔から血の気が引いた頃合いを計ったようにリュ・リーンは腕の力を抜いてウラートを解放した。
 床にくずおれ息を吸おうとむせるウラートを冷たく見下ろしたままリュ・リーンは壁にかかった自分の剣を引き抜いた。
「ウラート。親父から何を言われてきた?」
 剣の切っ先はウラートの眼前にぴたりと据えられている。
「……なにも……言われては……」
「嘘をつけ! 親父から、この話のお膳立てをするよう言われてきただろうがっ!」
 落雷のような怒声がウラートの頭上から降ってきた。眼前の切っ先は相変わらず微動だにせず突きつけられていた。
「出立前のあの時期のオリエルとの話は、俺が断ることを見越してのまやかしだったというわけか。ふざけたことを! ウラート。俺を愚弄してただで済むと思うなよ」
 リュ・リーンの怒りはいっこうに収まりをみせなかった。今ここでウラートの首をはねてもおかしくはないほどの憤怒の形相が刻まれている。
 このままでは流血沙汰は避けられない。
「……だったら断りなさい」
「なに!?」
 今まで大人しくリュ・リーンのされるがままになっていたウラートがリュ・リーンの顔を睨み返した。
 リュ・リーンの剣の切っ先を避けながら、ウラートはリュ・リーンの怒りを受け止めるように彼の主人の真正面に立ちはだかった。
「今までのお相手のように、聖地の姫君とのお話もお断りになればいい! ……簡単なことでしょう。あなたにとっては!」
「貴様は!」
 リュ・リーンの深緑の瞳が異様な光を湛えた。人の眼とは思えない、とトゥナの宮殿に出入りする貴族たちが陰で囁いているのをリュ・リーンもウラートも知っていた。
 リュ・リーンは剣を退くと自分を睨みつける侍従長の腹部めがけて足を蹴り出した。剣を持ったままでは不安定な蹴りだ。ウラートにあっけなく避けられる。
「何を怒っているのです。聖衆王はあなた次第だと仰せですよ。あなたから断っても不都合なことなどありません。断り文句が思いつかないのなら、いつものように相手の姫君に嫌われたらいい!」
 ウラートの言葉に衝撃を受けたのか、リュ・リーンは剣を取り落とした。鈍い音を立てて絨毯の上に剣が転がる。
 当のリュ・リーンは自分が剣を落としたことにも気づいていない様子だ。
 リュ・リーンの動揺ぶりにウラートのほうがたじろいだ。リュ・リーンらしくない。
「俺が……?」
 ウラートからしてみれば、簡単な理屈である。
 今までリュ・リーンがしてきたようにわざと相手に嫌われて断られてしまえばいいのだ。
 相手が聖衆王の娘となれば多少のもめ事は起こるだろう。もしかしたら聖衆アジェスの不興を買うかもしれない。
 だが伝え聞く聖衆王の人となりを聞いた限り、それが決定的な破局を招くようには思えなかった。
 それを考えるとリュ・リーンの様子は今までの彼の態度からすると異様だった。
 彼は破談を望んでいるのではないのか!?
 リュ・リーンは自分の動揺に気がついていなかった。傍らのウラートの存在も忘れて茫然とその場に座り込んでいる。
 彼が生まれて初めて遭遇したジレンマであったろう。
 だがウラートにそれが判るわけもない。
「リュ・リーン! しっかりしてください。リュ・リーン!?」
 ウラートの声も聞こえないのか、リュ・リーンは床の一点を見つめたまま動かない。
「どうしたんです、リュ・リーン!」
 ウラートがリュ・リーンの身体を激しく揺するが、彼の主人は何の反応も示さなかった。
 今までに見たこともないこのリュ・リーンの姿にウラートは全身から血の気が引いていくのを感じた。
 アジェンに来てからリュ・リーンはおかしくなっている。さしものウラートもどうしたらいいのか判らず、リュ・リーンを目の前にただ途方にくれた。
『俺が……諦める? それとも……奪い取る、のか?』
 リュ・リーンの頭の中をぐるぐると昔の情景が巡っていく。そして昨日からの出来事が……。
 親の作った道に乗るのか、自分の意志を優先させるのか。巡っていく思いは終止符を打たず、だた彼の心を千々にかき乱して止むことはなかった。
『ダイロン・ルーン。あなたは俺を恨むだろうか?』




 予想外のリュ・リーンの反応にウラートは困惑しつつ、午後からの主人の予定を体調不良との名目で取り消して今日一日分は何とか取り繕った。
 だが明日以降の予定も詰まっているのだ。
 リュ・リーンが今夜中に元に戻る保証はない。明日以降もあの状態のままだったら、まずいことになる。
「ウラート殿」
 自分の補佐として同行させた若者が近づいてきて、耳打ちする。
「何!? 聖衆王陛下のご息女が?」
 トゥナ王家の一行があてがわれた棟の入り口に聖衆王の娘が見舞いに来ているとの伝言にウラートは青くなった。
 今のリュ・リーンの姿をアジェンの者に知られるのは芳しくない。人の噂に戸はたてられない。
 この様子がもし故郷でリュ・リーンを快く思っていない連中にでも知れ渡ったら、トゥナでのリュ・リーンの立場は微妙なものとなるかもしれない。
「私が行く……。他の者を遣わしては礼を失しよう」
 不安そうに他の侍従たちが見守る中、ウラートは王の娘と対面すべく棟の入り口へと向かった
 控えの間として使っている部屋に足を踏み入れると、ウラートは聖地の支配者の娘と対峙した。
 相手に不快感を与えないよう言葉には細心の注意を払い、あくまでも最上の礼節を尽くしつつ、面会を求める相手の要求をかわすのは容易なことではない。
「では、どうあってもお会いすることは叶いませんのね」
「申し訳ございません。本当に王子はつい先ほどお休みになったばかりなのです。ご来訪は目を覚ました折に必ずお伝えしたしますので、今日のところはなにとぞお引き取りを」
 共も連れずに訪ねてきた娘をいぶかりながらも、ウラートは深々と頭を下げた。
 首から聖衆王の紋をかたどったペンダントを下げている以上、彼女は王の近親者に違いないのだから。
「判りました。今日は諦めることにしますわ。……殿下のご回復をお祈りしています」
 あっさりと相手が退いたことに驚きつつも、ウラートは油断なく王の娘を観察した。
 歳の頃からいってリュ・リーンとの縁談が持ち上がった娘であろう。柔らかな物腰の端々に彼女が本当にリュ・リーンを案じてやってきたことが伺えた。
「ご無礼の段は平にご容赦を」
 リュ・リーンが部屋へ籠もっていることは嘘ではないが、休んでいるかどうかはウラートでも判らない。いや、きっと茫然と座り込んでいるだけだろう。
 あながち誇張ではない嘘に王の娘はあっさりと引き下がり帰っていった。
 彼女が去った後、ウラートは安堵の吐息を大きく吐くと、ふとあの娘ならリュ・リーンも気に入りそうなものだが、と埒もない考えに一瞬浸り苦笑した。
 リュ・リーンは親の言いなりになるのが厭なのだ。相手の容姿や性格など考慮してはいまい。
 もう少し自分の将来を考えて欲しいものだと、主人を心配しつつウラートは同僚たちに報告をすべく奥部屋へと引き上げた。




 夜半になり従者たちも寝静まった頃リュ・リーンはそっと窓を開けて外を眺めた。
 レイクナー家でこうるさい雀よろしくお喋りする貴婦人たちから今回の縁談の話を耳にしてから、リュ・リーンは怒りを抑えるのに一苦労だった。
 帰ってきて暴れた後の虚脱状態から少しは立ち直った。
 だがやるせない気持ちが消えたわけではない。王の娘やダイロン・ルーンのことを考えると心が掻きむしられるようで、叫びだしたくなってくる。
 ダイロン・ルーンの怒りの理由はこれだったのだ。自分の想い人を政治の道具として利用しようとしている聖衆王やトゥナ王家が許せないのだ。
 きっと彼はリュ・リーンも承知してここへ来ていると思っているだろう。
 自分の知らないところで事が進んでいく苛立ち以上に、友に与えたであろう屈辱を考えるとリュ・リーンは身体の震えが止まらなかった。
 と同時に、いかなる運命であれ王の娘に惹かれていく自分も否定できないでいた。
 自分の欲する者を手に入れれば友を失い、友を取ればリュ・リーンは自分の魂の半分が砕け散ってしまうのではないかと思うほどの喪失感を感じるであろう事が判っていた。
 どちらも取れない、だがどちらも取りたい。
 夜になっても花の芳香は立ちのぼってリュ・リーンの鼻腔にその馥郁たる香りを運んできた。
 その香りに誘われたのか、リュ・リーンはふらりと窓辺を離れると中庭に下りる廊下を足音を忍ばせて歩いていった。
 月明かりのなかを庭に下りてみると花の芳香が身体に絡みついてくるような錯覚に陥る。どうして夜でもこれほど花の香りがするのだろう。
 リュ・リーンは胸いっぱいに香りを吸い込み、その後深いため息を吐いた。アジェンにきてから自分はため息ばかりついている。
 自嘲に顔を歪める。朝に少女と会った場所に立ち、自分が蹴散らした花の残骸を見下ろしてリュ・リーンは泣きそうな気分になった。
 日頃はえらそうに自分の道は自分で決めるなどと言っておきながら、いざその時がきてみればなんと不甲斐ない様だろうか。
 大人になるということ、一人前として扱われるということの重みを今リュ・リーンは厭というほど感じていた。どちらかを選択しなければならない。それは彼自身が決めなければならないことだ。どちらかを……。
「リュ・リーン殿下」
 すぐ脇からの小さな声にリュ・リーンは飛び上がらんばかりに驚いた。そして、振り返ったその視線の先にいた人物の姿に彼は逃げ出したい衝動に駆られた。
「姫……。いつからそこに?」
 今もっとも会いたくて、もっとも会いたくない人。高鳴る胸の動悸を必死になだめながらリュ・リーンは王の娘と向き合った。
 娘は寝間着に着替えているようだった。柔らかなガウンをぴったりと身体に巻きつけている。
「ほんの少し前から……。一度呼びかけたのですけど気づかれませんでしたか?」
 朝と変わらない穏やかな笑顔で少女はリュ・リーンに語りかけた。娘の声が耳に心地よい。
「すみません。気がつきませんでした。……夜の散歩ですか、姫」
「いいえ」
 首を振って否定する娘の髪が肩で揺れている。月光が髪の上を踊っていく。
「夕刻にお見舞いに伺ったときはお休みだと聞きましたけど、ここに来れば殿下にお会いできるような気がして。お加減はどうです? 少しは気分が良くなったのかしら」
 きっとウラートが取りなしたのだろう。リュ・リーンは自分が逃げ隠れしていたようで、恥ずかしさに顔を赤らめた。自分は彼女を騙しているのだ。
「見舞っていただいたとは知りませんでした。すみません」
 リュ・リーンはまともに彼女の顔を見ることができなかった。
「殿下はさっきから謝ってばかりね。わたしが勝手に押しかけていったの。お付きの方たちはさぞ困ったことでしょうね? でも、回復されたみたいで良かった」
 少女はさらにリュ・リーンに近づき、その白い手をリュ・リーンの額に当てた。夜気で少し冷えた娘の手のひらが肌に心地いい。
 彼女は本当に自分のことを心配してくれている。リュ・リーンは歓喜の叫びをあげている自分の心をどうすることもできなかった。
「顔色もいいし、熱もありませんわね」
 娘が額に置いていた右手をリュ・リーンの頬へと滑らせた。
 相手の頬を触るのが彼女の癖なのだろう。柔らかい手のひらの感触を感じ、リュ・リーンは彼女の手を取った。そっと触らなければ壊れてしまいそうだ。
 彼女の右手に軽く頬ずりしたあと、リュ・リーンはその手に口づけした。
 娘の手がピクリと震えたがそれ以外の抵抗は見せず、彼女はされるがままにリュ・リーンに右手を預けている。新緑の瞳にも動揺は見えない。
 彼女は何もかも判っていると言いたげにリュ・リーンに微笑みかけた。
 胸苦しいような焦燥感と喉の乾きにも似た期待にリュ・リーンは少女を抱き寄せた。
 相変わらず娘は抵抗しない。ガウンの下から感じる肌の温もりは森の小動物たちのそれに似て繊細で無防備だ。
 リュ・リーンはそっと腕に力を入れる。
 彼女に触れている部分すべてが火に焼かれるように熱い。乱れ気味なリュ・リーンの呼吸の下で娘がホッとため息をつき、ゆっくりと彼を見上げた。
 そして、その唇が信じられない言葉を紡ぐ。
「わたしをお連れください。王都(ルメール)へ……」
 リュ・リーンの舌は痺れたように動かなかった。心臓は魔王の冷たい手に鷲掴みにされたように凍りつき、目の前はくらくらと揺れながら視点が定まらない。
 リュ・リーンは両腕の拘束から娘を解放するとよろよろと後ずさった。
「嘘だ……」
 ようやく絞り出すようにうめき声を上げたリュ・リーンを今度は娘が信じられないような顔をして見つめた。
 何を言っているの? とその表情は問いかけている。
 リュ・リーンの言葉の意味を測りかねているいるようだ。なぜそんなことを言われるのか判らない、と。
「リュ・リーン殿下……?」
「嘘だ! あなたには……! いや、王に言われて俺の元に来たのか? 憐れみで来たのなら、やめてくれ!」
 悲鳴に近い叫び声をあげるとリュ・リーンはきびすを返して城内へと駆け込んだ。自分の背中を見つめる少女の視線が痛い。いっそ泣き叫べたらいいのに。
 リュ・リーンは自室へ駆け戻るとベッドへと倒れ込んだ。
 到底、王の娘の言葉を信じる気にはなれなかった。
 ダイロン・ルーンへ向けた親愛の情を表した彼女の微笑みは決して偽りのものではなかった。
 あれが彼女にとっての真実なら、今のリュ・リーンに向けて囁いた言葉は政略のための婚姻に服従する誓約にしか聞こえない。
「リュ・リーン!」
 馴染みのある学友の声にリュ・リーンはビクリと肩を震わせた。慌てたような足音の後に枕元にかしずくウラートの顔が見えた。酷く心配そうな表情を浮かべている。
「リュ・リーン……」
「なんだ……?」
 どうしようもない苛立ちにリュ・リーンは不機嫌な声を出した。誰かに八つ当たりしたい気分だ。
「……」
 何も言わずに黙り込んでいるウラートの様子に更にリュ・リーンは苛立ちを強めた。
「なんの用だ! 用がなければ、さっさと出ていってくれ!」
 一瞬の躊躇いを見せた後、ウラートは遠慮がちに主人に問いかけた。
「彼女が……好きなのですね?」
 リュ・リーンの胸がズキリと痛んだ。改めて指摘されるとなお苦しい。いっそ嫌ってしまえれば、どれほど楽だろう。
「すみません。覗き見するつもりはなかったのです。先ほどあなたが中庭に出ていく足音が聞こえたので、後をつけたら……」
 何も言わないリュ・リーンの態度を肯定と受け止めたのか、ウラートはベッドの縁に座り直すと、幼子をあやすときのようにリュ・リーンの髪をなで続けた。
 母親が亡くなってから幼いリュ・リーンをいつもウラートはこうやって寝かしつけたものだ。自分も十歳にもならない子供だったが。
 リュ・リーンは幼いころから人前では泣かない子だった。ウラートはそのことをよく知っている。
 自分の瞳の色が人ならざる者の持つ瞳だと謗られても、可愛げのない子供だと陰口をたたかれても、彼は人前では泣かず、独りで部屋に籠もって声を上げずに泣く子だった。
「ウラート……」
 リュ・リーンが伏せていた顔を上げてウラートの顔を見上げた。涙はない。どこか疲れ切った表情だった。
「俺の涙は涸れてしまったのかもしれない。悲しいのに、惨めなのに、あふれるどころか滲んでもこない」
 自嘲を含んだ声が震えている。
 それは悲しみを感じなくなるほど傷ついているからだ、とはウラートはついに口にすることができなかった。
 強くなれ、とウラート自身がいつもリュ・リーンに言っている。そしてトゥナ王も国民も、暗黙のうちにそれを強要する。
 強くなければトゥナでは認められない。弱い王など国を滅ぼすだけだ。
「リュ・リーン。父王への意地など捨てなさい。彼女が好きなら、この縁談を受ければいいではないですか?」
 リュ・リーンが折れればいい。見栄や意地など捨てて、彼女への気持ちを取ればいいのだ。そうすべきだ。
 たとえ政略での婚姻であってもリュ・リーンにとって不利益などないのだから。
「違う。彼女はダイロン・ルーンの恋人なんだ」
 血の気の引いた顔色のままリュ・リーンが囁いた。まるで病人のようだ。
「な……! そんなバカな……!」
 ウラートは目眩を覚えた。
 トゥナ王国から持ち込まれた縁談だとはいえ、聖衆王は想い人のいる娘をリュ・リーンと娶せようとしているのか。
 それでは王の娘に想いを寄せているリュ・リーンが傷つくばかりだ。
「今朝早くに中庭でダイロン・ルーンと会っている彼女を見た。あんな綺麗な笑顔を恋人以外の男に見せる女がいるか?」
 ウラートは茫然とリュ・リーンの声を聞いていた。どう言ってリュ・リーンを慰めてやればいいというのだ。リュ・リーンはこれ以上はないと言うほど傷ついているのだ。トゥナ王はこんな縁談を持ち込むべきではなかったのだ。
 今は弱くてもいい。そう言ってやれない自分が恨めしく、ウラートは彼の主人の傷が少しでも癒えないものかと、彼の髪を優しくなで続けた。




「リュ・リーン。こんなところで何やってるんだ?」
 頭上からの声にリュ・リーンは高い塔の窓を見上げた。一人の少年と視線が合った。
「ダイロン・ルーン……」
 なんと答えたらよいのやら。リュ・リーンは口ごもったまま相手を見上げ続けた。
「登ってこいよ。見晴らしがいいぞ、ここは」
 リュ・リーンの様子など気にした様子もなく、ダイロン・ルーンは友を手招きしている。
 黒髪の少年は少し躊躇ったあと、友人に頷き返して塔の入り口をくぐった。
 螺旋で急勾配の階段は少年の足には少しきつい。途中からは息が切れてきた。だがダイロン・ルーンも登ったのだ。
 自分に登れないはずはない、とよろけそうになる足を踏ん張って上へ上へと歩を進める。
 下を見ると入り口が随分と小さく見える。
 どれくらい登ってきたのか忘れかけたころ、ようやくダイロン・ルーンの待つ頂上へとたどり着いた。下ばかり見ていた視線をふと横へずらす。
「あれ……?」
 塔の頂上を一周するように作られた足場の向こうに扉が見える。
「やっと上がってきたか」
 リュ・リーンの右手から声が聞こえ、それに続いて銀髪の少年の顔が覗く。
「なんだ? 何を見てるんだ、リュ・リーン?」
「ダイロン・ルーン。あっちの扉には何があるんだ?」
 リュ・リーンは自分の視線の先にある扉を指さした。ダイロン・ルーンはチラリとそちらに視線を向けると、何を言ってるんだという顔つきで友を見た。
「神殿につながってるに決まってるだろ?」
「あれ? ……あそこからも神殿に出入りできるのか?」
 驚いて聞き返すリュ・リーンの顔を見て、ダイロン・ルーンは更に怪訝そうな顔をする。
「おい、リュ・リーン。お前、どこからこの塔に入ったんだ?」
「え? 下の入り口から……」
「えぇ!? 下から登ってきたのか!?」
 呆れたようにダイロン・ルーンが叫んだ。
「お前……よく登ってきたな」
「え? ダイロン・ルーンは下から登ったんじゃないのか!?」
 リュ・リーンはこのときやっと自分が勘違いをしていたことに気づく。息を切らして登ってきた自分が滑稽だ。
「大人だって嫌がる螺旋階段を……。物好きな奴だよ、お前は」
 リュ・リーンは改めて階段の下を覗き込んでぞっとした。
 よくもまぁ、この細い階段を延々と登ってきたものだ。塔の下に続く螺旋階段は際限なく続く、とぐろ巻く蛇のように伸びている。
「し、知らなかった……。神殿のどこでつながってるんだよ、あの扉」
 自分の足を酷使して登ってきた苦労が、とてつもなく無駄なことに思えてリュ・リーンはため息を吐いた。
「なんだ、本当に知らないのか?学舎に向かう途中で二股に別れている道をいつも右に折れるだろ? あそこを左に行くのさ。まっすぐここにつながってるよ」
 ダイロン・ルーンは笑いながらリュ・リーンの質問に答えた。リュ・リーンはさらにもう一度ため息を吐くと、疲れた足をさすって座り込む。
「おいおい。せっかく苦労して登ってきたんだ。見てみろよ」
 ダイロン・ルーンの呼びかけにリュ・リーンは大儀そうに立ち上がると、彼の学友が眺めている彼方を見遣った。
「わぁ……。きれいだ……」
 二人の視線の先には、雪解け水とポトゥ大河からの水流を受けて満々と水を満たす大タハナ湖が広がっていた。
 遮るものが何もない。なだらかな平原のなかの巨大な湖の水面は陽光にキラキラと輝いて、もう一つの太陽がそこにあるような目映さだった。
「この時期、ここからの眺めがアジェンのなかで一番綺麗なんだ。どうだ? 苦労して登ってきた甲斐があったろ?」
「広いな……。なんて広いんだろう」
 茫然と呟くリュ・リーンの横顔を見て、ダイロン・ルーンが嬉しそうな笑い声をあげた。
「そうだ。水神の住まいたる湖はどこよりも広いのさ」
 陽気に、なんの憂いもない笑い声を響かせてダイロン・ルーンはリュ・リーンの肩を軽く叩く。
「行こう!」
「え? どこへ?」
 驚いて聞き返すリュ・リーンの額を指で小突きながらダイロン・ルーンが言った。
「忘れたのか。養護院へ連れていってやるって言ったろ?」
「えぇっ!? で、でも妹が人見知りするって……」
 塔の扉を開けて、神殿への石橋を渡り始めたダイロン・ルーンの後ろを追いかけながらリュ・リーンは本当に行っていいものかと、首を傾げた。
 ダイロン・ルーンには両親がいない。正確に言えば四年ほど前に病気で亡くなったらしいのだが。
 聖地の慣例に従って、成人前に両親を亡くした子供たちや経済的貧困層の子供たちは孤児を預かるための施設、養護院へ入れられる。
 父親のカストゥール侯爵の名を継ぐには幼すぎたダイロン・ルーンは、妹と二人で養護院で暮らしている。
 これはどんな貴族でも例外はない。逆に言えば、どんなに貧しい家の子供でも平等に扱われる施設だ。
 リュ・リーンは以前に自分が下宿しているラウ・レイクナー家へダイロン・ルーンを招いたことがある。レイクナー夫人に薦められてのことだったが。
 その時にダイロン・ルーンと約束したことがあった。ダイロン・ルーンの暮らす養護院への招待だ。
 だがダイロン・ルーンの妹は極端な人見知りだとその後すぐに人づてに聞かされた。
 妹を気遣うダイロン・ルーンが気軽にリュ・リーンを呼ぶとは思えなかったので、リュ・リーンは諦めていたところだった。
「なんだ、妹のこと気にしていたのか? 大丈夫だよ。それに……」
 途中で言葉を切ると、ダイロン・ルーンは後ろのリュ・リーンを振り返って意味ありげに笑う。
「お前、もうすぐトゥナに帰るんだろ?」
 ぎょっとしてリュ・リーンは立ち止まった。
 確かに半月ほど前、トゥナの王都ルメールから使者がきて手紙を置いていった。その手紙には父王からの命で来月末には帰郷するよう記してあったのだ。
 突然の命にリュ・リーンは困惑すると同時に落胆した。
 まだ聖地にきてから半年ほどだ。ようやくここにも馴れてダイロン・ルーンのような友人も出来始めていたところなのに。
 暗い顔をするリュ・リーンの頭をくしゃくしゃと掻き回し、ダイロン・ルーンが口を尖らせた。
「水臭いぞ。なんで教えてくれないんだよ」
 リュ・リーンは俯いたまま、どう答えていいのか迷った。
「遠慮してたんだろ?」
 その通りだった。
 リュ・リーンと違ってダイロン・ルーンには友人が多い。
 世話好きで、誰とでもうち解けるダイロン・ルーンから見れば、ほんの半年ほどの、しかも人から避けられるような容姿をしたリュ・リーンなどすぐにでも忘れてしまう存在に思えた。
 自分の事情など話したところで、それをまともに聞いてもらえるとも思っていなかったリュ・リーンは黙って帰ってしまおうかと考えていたのだ。
 俯いたままのリュ・リーンの腕を引いて、ダイロン・ルーンは歩き始める。堂々としたその足取りには、気負いも傲慢さもなかった。
「お前、最近元気なかったろ? 気にしてはいたんだけど……。叔父上や枢機卿に聞かなければ、気づいてやれないところだったよ」
 やはりダイロン・ルーンは叔父である聖衆王にリュ・リーンの帰都のことを聞いたのだ。
「帰ってしまうのは、仕方ない。でも……約束を守れないのは、厭だ」
 黙ったままのリュ・リーンの反応を見るように、一語一句を噛みしめながらダイロン・ルーンは言葉を紡いだ。そして彼の小さな学友の肩を抱く。
 ところが、その抱きしめた肩が小さく震えているに気づいて、ダイロン・ルーンは驚いて立ち止まった。
「リュ・リーン……?」
 ダイロン・ルーンはリュ・リーンの顔を覗き込んで慌てた。リュ・リーンは目に涙を一杯に溜めていた。
「お、おい。リュ・リーン……」
 ダイロン・ルーンはどうしてよいか判らずに立ちつくす。なぜ泣かれるのか判らない。
「……」
「え? なんだって?」
 リュ・リーンがくぐもった声で何か囁いた。ダイロン・ルーンはそれを聞き取ろうと顔を寄せる。
「ありがとう……」
 ようやく聞こえた声は涙に震えていた。
 自分は感謝されるようなことをしただろうか?
 ダイロン・ルーンはリュ・リーンへの返事を思いつかず、口を二~三度パクパクと開閉させたが、言葉として出てきたのは想いとは別のものだった。
「な……涙を拭けよ。王になる男が簡単に泣くな」
 ようやくそれだけの言葉を発すると、ダイロン・ルーンは自分のハンカチをリュ・リーンへ差し出した。

〔 11114文字 〕 編集

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■メール


編集

■カレンダー:

■最近の投稿:

■日付一覧:

■日付検索:

■ハッシュタグ:

  • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)

■新着画像リスト:

全0個 (総容量 0Bytes)

▼現在の表示条件での投稿総数:

1件