石獣庭園 -Wing on the Wind-

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Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔168日前〕 RSS Feed

第一幕:王道の恋

No. 58 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,王道の恋 , by otowa NO IMAGE

第02章:恋情

 夜明け頃にリュ・リーンは目を覚ました。気の早い小鳥たちのさえずりが小さく聞こえる。
 昨夜は疲れていたのでぐっすり眠ったはずなのだが、身体は未だに怠さを残している。
 リュ・リーンは身体をベッドから無理に引き剥がすと、中庭に面した窓をそっと開けてみた。
 大陸の北端部に位置するこの地方にしては暖かな空気が流れ込んできた。薄く朝霧が出ているようだ。たぶん夜中に雨でも降ったのだろう。
 大きく息を吸い込んだ空気に雨の残り香が含まれていた。
 城郭の向こうには青い水を湛えた大タハナ湖が見える。その向こうの黒い稜線の彼方にトゥナの首都ルメールがあるはずだ。
 リュ・リーンは感傷的な考えなどとは無縁の精神の持ち主だったが、いずれは自らの手で治める氷原の大都にはやはり他の都市とは違った感慨があった。
 小鳥たちのさえずりが大きくなってきた。霧が少し薄らぎ、中庭の花の色が鮮やかさを増してくる。
 故郷でも見慣れた花たちを眺めていたリュ・リーンは、花園の中に動く人影を見いだして釘付けになった。
 衣装の色こそ違うが、そこには昨夜の舞姫が鳥たちと戯れている姿があった。
「あれは……!」
 若草色の緩やかなドレスの裾が彼女の足の動きに応じてヒラヒラと揺らめき、高く天に掲げた右手の指に瑠璃色の小鳥が止まってさえずっている。
 リュ・リーンは彼女のまわりだけが光り輝いているような錯覚に陥った。
 幻想的でさえあるその空間は、高名な画家による宗教絵画のような気高さに満ちている。
 朝靄のなかで彼女の表情をハッキリと捉えることはできないが、彼女の身体の動きが今この時間を楽しんでいると語っていた。
 リュ・リーンは動くことさえできずに、ただ彼女の動きに魅入っていた。
 ほんの少しの物音で飛び立ってしまう小鳥たちのように、彼が少しでも動いたら娘はその場からかき消えてしまうのではないかと思われた。
「……!」
 彼女のまわりに集まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
 鳥たちの飛んでいく軌跡を追う娘の視線がふと背後に注がれた。リュ・リーンもつられてそちらに眼をやる。
「ダイロン・ルーン……」
 昨夜リュ・リーンにあからさまな敵意を向けていた若者が中庭に面したテラスの階段に立っていた。
 彼の口が動くのが見えた。何ごとかを娘に伝えているようだ。だが高い位置から二人を見ているリュ・リーンには二人の会話はまったく聞き取れない。
 ダイロン・ルーンの表情が今朝は穏やかだ。昨夜の険しい表情など想像もできないほどに。
 あれが本来のダイロン・ルーンの顔なのだ、とふとリュ・リーンは思い至った。
 娘が踊るような足取りで若者に近づいていく。
 リュ・リーンは無意識のうちに身体を強ばらせた。聖衆王の娘と聖地アジェンの大貴族、誰が見ても似合いの二人だ。
 表情を見ればお互いに気を許した者同士なのだとすぐに判るほど二人の表情は明るかった。
 知らぬ間に王の娘に惹かれていく自分自身の心が恐ろしい。リュ・リーンは目の前の光景に嫉妬している己に身震いした。
「俺の入り込む余地など、ない……か」
 何を考えている? 昨日一度見ただけの娘ではないか。
 リュ・リーンよ、お前は友人の恋人を奪うほどのたいそうな人間なのか? それとも敵意を見せた男など友人ではないか? だから、その男に恋人がいることを嫉んでいるのか?
 どこからともなくもう一人の自分が問いかけてくる。苛立ちが募った。
 先ほどまで光に満たされていた心が瞬く間に萎んでいくのが判る。……なんと弱い人間なのか、自分という人間は。
 沈んだ気持ちのまま、それでも二人の姿を見やるリュ・リーンの背後から声がかかった。
「リュ・リーン。もう起きていたのですか?」
 彼の忠実な学友ウラートの声だ。
 主人を起こしにくるのは彼の毎朝の日課なのだが、珍しく今日は自分から起き出しているリュ・リーンの姿に驚いたようだ。
 普段のリュ・リーンは非常に寝起きが悪い。
 声をかけたくらいでは眼を覚ましていても絶対にベッドから降りないし、起こした後でもすぐにベッドに転がり込みそうな顔をしているのだ。
「どういう風の吹きまわしです? あなたが自分からベッドを出るなんて。……まぁ、仕事が一つ減って助かりますけどね。……リュ・リーン?」
 皮肉を言っているのにリュ・リーンは窓辺からこちらを振り返りもせず、その背中は不機嫌さを現してもいなかった。
 どうも昨夜から様子が変だ。
 ウラートはリュ・リーンの立つ窓辺へと近づき、彼の頭越しに外を見まわした。
「……?」
 中庭には花が咲き乱れているばかりで、他に変わった様子はなかった。
 リュ・リーンはいったい何を見ているのだろうか?
 ウラートは明らかに落ち込んだ表情をしている主人の顔を覗き込む。
「リュ・リーン。昨夜から変ですよ。宴でなにがあったのです?」
 ウラートは努めて優しげな表情を浮かべてリュ・リーンに声をかけた。彼にとってリュ・リーンと共に聖地を訪問するのは今回が初めてだ。
 リュ・リーンの前回の訪問のときは、ウラートたち侍従の同行は許可されなかったため、その時のリュ・リーンの生活を知っている者は今回の同行者のなかにはいない。
 昨夜の段階でリュ・リーンの話をまともに聞いておけば良かったのかもしれない、とも思ったが今となっては後悔しかできないことだ。
 第一、昨夜の話の様子から今日のこの落ち込みようは予想できるものではなかった。
「ウラート……。俺は六年前と比べて変わったか? 友人から白眼視されるほど厭な奴になったか?」
 消え入りそうな囁き声がウラートの耳に届いた。
「……難しいことを聞きますね。どちらとも答えられない質問ですよ。
 リュ・リーン、あなたは確かに六年前のあなたではない。でもね、六年前と変わらない部分だって持っているんです。今あなたが自分のどこの部分を比べているのか知りませんが、人間という生き物は自分の意志次第でどうとでも変われるのだと私は思っています。
 私は昔のあなたも今のあなたも好きですよ。そして、あなたが自分自身を見失わない限り、これから先のあなたも私は好きでいると思いますよ」
 リュ・リーンへの返答にはなっていなかったのかもしれない。しかしウラートの言葉がリュ・リーンの萎んだ心を少しは膨らませることができたようだった。
 傍らにたたずむ忠臣にリュ・リーンは少し救われたような笑みを見せた。
「さぁ、着替えてください。残念ながら朝食はまだ出来上がってはいませんのでね。時間がありますから、散歩でもしてきたらどうです?」
 ようやく笑みを見せた主にウラートは、いつもと変わらぬ口調で着替えを促した。
「そうだな。庭に下りてみることにする。出来上がったら呼んでくれ」
 努めて明るい声を出そうとしているリュ・リーンの様子にウラートはそっと眉をひそめた。




 誰もいない庭の中心に紅や白のカリアスネが咲き乱れている。
 花から立ちのぼってくる芳香で酔いそうだ。この時期から晩夏にかけて、この花はずっと咲き続けていることだろう。
 他の花の香りを消してしまうほどの濃厚な香りが、ふとリュ・リーンに先ほどの王の娘を思い起こさせた。顔ははっきりと見えなかったが、美しいといって差し支えない容姿だった。
 彼女のどこにこうまで惹かれているのか、リュ・リーンには判らなかった。美しさだけならトゥナの王宮にだとて、選りすぐりの美女が何人もいたのだ。
 自問し続けるうちにリュ・リーンは再び昨夜のダイロン・ルーンの態度を思い出していた。無表情な顔のなかで瞳だけが憤怒に光っていた。
 なぜ自分にあれほどの怒りを見せるのか、リュ・リーンには見当がつかなかった。六年前に別れて以来、一度も会っていないのだ。
 出口の見えない迷路に迷い込んだ気分になり、リュ・リーンは足元の花を蹴り飛ばした。
 花に罪はない。単に八つ当たりするものが欲しかっただけだ。
「やめて! なぜそんなことをするの」
 少女の厳しい詰問の声にリュ・リーンは驚いて振り返る。
 朝靄のなかに見た少女が庭の端に立っていた。
 声の厳しさとは裏腹に娘は哀しそうな視線をリュ・リーンに向けていた。
 リュ・リーンはまずいところを見られて、内心動揺していた。だが動揺しつつ、心臓が早鐘を打つ。つい先ほどダイロン・ルーンと共にこの場を去った彼女と、会えるとは思ってもみなかったのだ。
 娘が小走りに近寄ってくる。だが視線はリュ・リーンにではなく、彼の足元の花に向けられていた。
 少女が脇を通り過ぎたとき、リュ・リーンの嗅覚にカリアスネの芳香よりも甘い香りが届いた。脳の奥が痺れそうな感覚。
 無惨に散らされた花をそっと花壇の土へと還してやりながら、少女はつぶやいた。
「……かわいそうに」
 茫然としているリュ・リーンに少女は非難の視線を向ける。
「ごめん……」
 気の利いた言葉が思いつかず、リュ・リーンは素直に詫びた。最悪の出会いである。彼女の自分への印象はかなり悪いと思っていいだろう。
 今度からは物に当たるのはやめよう、と悄然としながらリュ・リーンは心に誓い、ため息をもらした。
「花はどんな酷い仕打ちをされても、文句一つ言えないわ」
 独り言のように少女が囁いた。
 返す言葉もなくリュ・リーンはうなだれるしかなかった。
「もう……こんなことしないでしょう?」
 念を押すような少女の言葉にリュ・リーンは黙って肯いた。
 ひどく惨めな気分だ。自分が子供じみて見える。これでは一人前の扱いをされなくても文句は言えまい。
 落ち込むリュ・リーンの頬が暖かい手に包まれたのは、その時だった。
 驚いて顔を上げたリュ・リーンの視線のすぐ先に少女の顔があった。遠目で見たとき以上に愛らしい顔立ちだ。血が逆流しそうなほど心臓が踊る。
 自分の顔が真っ赤になっていることを自覚してリュ・リーンは狼狽えた。
「あ……」
「約束ね。リュ・リーン殿下」
 少女に名を呼ばれてリュ・リーンは心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど驚いた。
 よく考えてみれば紹介されていないだけで、昨夜の宴の席で一度顔を会わせている。この聖地を訪れている異人で客分として聖衆王に招かれる者はトゥナ王の息子である彼だけのはず。
 自分の名が知られていてもいっこうに不思議はないのだが、今のリュ・リーンにはそんなことを考える余裕はなかった。
 リュ・リーンは更に顔を赤く染めた。
 娘が触っている自分の両頬が熱くて溶けてしまいそうだ。彼女の手を払いのけることもできずに、ただただリュ・リーンはその場に立ちつくしていた。
 少女はもう怒ってはいないのか、人を魅了する笑顔をリュ・リーンに向けている。
 リュ・リーンにとって、この事実は重大だった。
 彼の髪の色や瞳の色を見て、平気な人間など数えるほどしかいないのだ。
 大抵の人間は嫌悪や恐怖で彼を避ける。そう、表面上は平静を装いながらさりげなく彼から身を逸らすのがすぐに伝わるのだ。それが彼女にはなかった。
 少女はリュ・リーンを恐れるどころか、無邪気な笑顔を見せさえした。リュ・リーンには信じられない光景だった。
「約束してね?」
「は……はい……」
 鈴の音のように愛らしい笑い声をあげると、娘は踊るように身を翻してリュ・リーンから離れた。そして優雅に会釈してみせる。
「まだ挨拶していなかったわ。昨夜はご挨拶もなしに失礼しました。……ようこそ、我が聖地(アジェン)へ」
 少女が屈めた腰を伸ばし、返事を催促するかのように首を傾げるのを見て、初めてリュ・リーンは彼女が昨夜するはずだった挨拶を今してみせてくれたことに気づいた。
 自分はまだ嫌われてはいないようだ。それがリュ・リーンには嬉しかった。
「歓待を感謝します、姫」
 自分も彼女に合わせて昨夜の続きを演じてみせる。彼の従者たちが見たら、王子の頭がおかしくなったと誤判しそうだ。
 気難しく感情の起伏の激しい彼が、座興につき合うなどとはどうしたわけか、と。そして今までに見せたこともない穏やかな笑顔をしていることも。
「きつい言い方をしてごめんさいね」
 本来謝るべきはリュ・リーンのみで少女に非はなかったはずなのに、彼女は申し訳なさそうな顔をしてリュ・リーンに許しを請うた。
 驚いて首を振るリュ・リーンの様子に娘は笑い声をあげた。たったそれだけのことなのにリュ・リーンは自分の心臓がさらに激しく打つのを感じる。
「あら、大変! わたしったらお父様に呼ばれているのを忘れていたわ」
 用事を思い出したのだろう。娘は慌てて城の中へと駆け出した。
 テラスの上まで登ったとき、少女は振り返ってリュ・リーンに手を振った。
 少女の光り輝く笑顔を見送った後、リュ・リーンは自分が大事なことを忘れていたことに気がついた。彼女の名前を聞き忘れたのだ。
 自分の間抜けぶりに落胆し、リュ・リーンは朝から何回目か判らない深い深いため息をはいた。




 ウラートと共に朝食を摂りながら一日の予定を確認をするのがリュ・リーンの一日の始まりとなっている。
 今日は午前中に六年前に宿泊先として世話になったラウ・レイクナー家に訪問し、昼食を摂った後、午後からは枢機卿の屋敷を訪ね、トゥナ王国のロディタリス大神殿からの親書を手渡し、その親書の内容の交渉を行うことになっていた。
 老獪な枢機卿との交渉は難航することが予測されるが仕方がない。
 トゥナがこのアジェンを国教の聖地として崇める以上は、聖地の枢機卿に取り入ってでも聖地でのトゥナの地位を少しでもあげておく必要がある。
 今回の聖地訪問の表立っての訪問は大聖殿への供物の奉納だが、実際は聖地の有力者たちを探り、将来トゥナ王国がより高みに登るための根回しなのだ。
 この交渉が隣国を追い落とすための工作へとなるのだから、年若い王子に託された使命は決してなま易しいことではない。
「かの枢機卿は謎の多い人物です。こちらが考えている以上に、腹の内を見せようとはしないでしょう。カヂャ国との小競り合いとは違いますからね。短気を起こさないでくださいよ」
 リュ・リーンに焼きたてのパンを手渡しながらウラートが念押しした。ウラートにはリュ・リーンの短気だけが心配の種だ。
 リュ・リーンは今まで軍を率いての戦であれば、天性の才能を発揮して自軍を勝利へと導いてきた。しかし、年若いだけに話し合いでの駆け引きとなると経験が足りなかった。
 同年代の若者と比べれば確かに駆け引きのコツは心得ているが、今回の相手はリュ・リーンより狡猾でウラートより知略を巡らすのが巧みな人物なのだ。
 相手に隣国よりトゥナに肩入れしたほうが得だと納得させることができれば、この後の国境での駆け引きや小競り合いが格段にやりやすくなる。
 それは判っていても、ぬらりくらりと話をはぐらかしていくであろう相手のペースに焦れずに、交渉を続けていく根気をリュ・リーンが無くしてしまうことが危惧される。
 トゥナ王のただ一人の後継者であるリュ・リーンであるが、国内に彼の敵がいないわけではない。今回の訪問が失敗に終われば、その敵が喉元に噛みついてくるのは間違いない。
「リュ・リーン……、サラダを残すんじゃありません!」
 取り分けたサラダをテーブルの向こうにさりげなく押しやるリュ・リーンの様子をめざとく見つけるとウラートはサラダボールをリュ・リーンの目の前に押し出した。
「ソースが酸っぱいからいらないっ!」
 山盛りのサラダをウラートの前に押しやるとリュ・リーンは肉料理が盛ってある皿を自分の前にすえて上目遣いにウラートを睨んだ。
 だが、そんなことを許すほど甘いウラートではなかった。
「……料理人があなたのためにわざわざ酸味を押さえた特製ソースを作ったんですよ。彼の努力を無駄にするのですか?」
 厳しい顔つきでウラートはリュ・リーンを諭した。ここで許してしまえば、この後リュ・リーンは絶対サラダを口にしなくなるだろう。
 主の前に置かれた肉料理の皿にウラートは手を伸ばした。
「野菜は嫌いだ!」
 目の前にある肉の皿を取りあげられるのが厭で、リュ・リーンは皿を持ったままウラートから離れようと椅子ごとテーブルの端にずれていく。
「いつまで子供じみたことを言っているんです! 食べなければ、昼も夜も明日の朝も毎食、食事はこのサラダしか出しませんからね!」
 それはリュ・リーンにとって拷問よりも辛い。野菜を食べない日はあっても肉を食べない日などリュ・リーンには考えられないのだ。
「う゛~~……」
 だがウラートならやりかねない。テーブルいっぱいに並べられたサラダを想像してリュ・リーンは胸が悪くなってきた。
 しぶしぶ元の席のあった場所に椅子を戻し、持っていた皿をテーブルの上に置いた。
「きちんと腰掛けて。……そう、その皿をこちらに寄越しなさい」
 ウラートは有無を言わせずリュ・リーンの肉料理を取りあげると、サラダをボールに盛ったまま彼の目の前に置いて食べるように促した。
 ボールの中にはまだ三分の一ほどサラダが残っている。
 当然三分の二はウラートが平らげているのだが、リュ・リーンは恨めしそうにウラートが手に持っている自分の肉料理を見ると、しぶしぶといった感じで不味そうにサラダを口に運んだ。
 公の席や戦場での姿とは反対に私生活でのリュ・リーンの子供っぽさにウラートは時々嘆息を禁じ得ない。
 一人息子で末っ子だという環境を差し引いても、リュ・リーンはかなりわがままである。
 口うるさいとリュ・リーンは言うが、ウラートがいなかったらこのわがままな王子はまともな生活を送っていないのではないかと思うと、小言が多くなろうと言うものだ。
 この子供っぽい短気さが交渉のときに出れば、話し合いは上手くはいかないだろう。
 ウラートがどれほど気を揉んでいるかなどお構いなしに、リュ・リーンは顔を歪めたままサラダの最後の一口を口の中に押し込むと、よく噛みもせずに残っていたスープで口の中のものを流し込んだ。




 ここは以前と変わらない木の香りに満ちていた。
 リュ・リーンは六年前と変わらぬ部屋の様子に嬉しそうに微笑んだ。
「あなたが使っていた部屋は今、息子の部屋として使っていますよ」
 そう言ってラウ・レイクナー家の主が紹介してくれた息子は、六年前の赤ん坊だった頃の面影など無く、きかん気な性格の少年に成長していた。
 その息子が案内してくれた部屋は、リュ・リーンがいた頃の状態そのままに使われていた。
 大木を削りだして組まれた壁や床・天井は大きな木箱の中にいるようで、それだけで秘密の小部屋めいて、少年だったリュ・リーンの心をわくわくさせたものだ。
「昔のままだ。懐かしいな……」
 今見れば、簡単な木製のベッドが置かれただけの小さな部屋だ。それが当時のリュ・リーンにはたいそうな隠れ家のように見えたものだ。
 生まれて初めて親しい者もいない環境に放り出された少年には、一日の終わりにこの部屋で木の香りを嗅ぎながら、これからのことや故郷のことを空想する時間が、大切なものに思えた。
「殿下。王の後継者って、どんな感じ?」
 懐かしさに浸っていたリュ・リーンを現実に引き戻すように声がかかった。
 振り返ったリュ・リーンの視界に薄いそばかすのある少年の顔があった。彼は、相手の身分になど頓着していないようだ。
「どうって? レイス。君は何を期待して訊ねている?」
「ん~……言葉そのもの、なんだけど。あのさ、殿下も知ってるとおもうけど。アジェンはさ、王様を選王会で選ぶじゃない。現王の要望か、王選議員の要請があったときに」
 リュ・リーンは幼い口調で聖地の慣習を説明する少年をベッドの縁に差し招いて座らせると、自分は少し離れた場所に腰掛けた。
「それで選王会が開催されることになると、成人男子で身体の達者の者は全員がその大会に参加することになってるでしょう。すべての者に公平に機会を与えるって名目で」
 少年の声には、どこか皮肉めいた口調が含まれている。
「公平では、ない?」
 少年の表情から微かな非難の色を見てとったリュ・リーンは、彼の心理を肯定してやるように問いかける。
「そう! そうなの。公平なんてとんでもないって。今までの王が文官出身の貴族ばっかりなの知ってる?」
 リュ・リーンが首を横に振ったのを確かめると、少年は畳みかけるように先を続けた。
「選王会はさ、初めに口頭で問答をするんだ。その問答ってのが問題なの。神話語で! 神殿規律と! 古代神話を暗唱するんだよ! 非道いじゃない!? 僕たち武官出身者に、そんなことまで勉強する余裕なんてないよ。最初から武官出を排除するためにやってるとしか、僕には思えない!」
 少年はさも憤慨していると言いたげに、口をとがらせた。
「問答の後の選別は? 今度は筆記の問答でもあるのか?」
 ふくれっ面の少年の気を逸らすべくリュ・リーンは選王会のその後を訊ねた。
「その後こそ、重視して欲しいよ。問答の後はね。武芸戦なんだよ、勝ち抜きの。武官のいない武芸戦の無様なことったらないよ。普段の模擬戦でさえへっぴり腰で、真剣で闘技したこともない文官たちが、大事な王を選ぶ大会でどんな勇ましい姿を見せられるっていうのさ。頭にきちゃうよ」
 年の頃七歳ほどといったところの少年が、もっとも最近でも十年以上前の選王会を見物できたとは思えないが、見てきたように不平を鳴らすその姿は微笑ましい。
「なるほど。それは確かにレイスには損な話だ。神殿規律はともかくとして、古代神話の暗唱は文官たちの得意芸だ」
 聞き及んではいたが、聖地の文官びいきは徹底している。これでは、軍事で自国を支えているトゥナ王国が煙たがられるわけだ。
 午後からの枢機卿との会談を想像して、リュ・リーンはうんざりしたように嘆息した。
「ほんと。いやになっちゃうよ。古代神話なんて、どうやったら覚えられるのさ。新起神話を覚えるのがやっとだってのに」
 リュ・リーンの真似をしてため息をつくと少年は軽く肩をすくめて見せた。
「レイス、諦めるな。……そうだな。トゥナに帰ったら、神官長に頼んで神話語の辞書と古代神話の伝承録の写しを送らせよう。どうだ? 文官たち並の書籍が君の手元にくる。努力次第では、次回の選王会で勝ち抜けるかもしれんぞ」
 言葉の途中から少年は目を光らせて、リュ・リーンの顔を覗き込んでいた。幼い顔とは反対の野心的な表情がうっすらと浮かんでいる。
「本気? 僕が本当に王になったら、何を見返りに要求するつもり?」
 子供とは思えない狡猾な表情を浮かべたまま、少年は口調では無邪気さを装った。
「王になったら考えよう。なれないかもしれないだろ」
 リュ・リーンは少年の突飛な考えに苦笑した。もう自分が王になると決めているかのような口調だ。他にも多くの青少年たちがいるだろうに。
「さぁね? でも王になる可能性も否定できないよ。まぁ、選王会でいいとこまでいければ、その後の地位も上がるだろうけど。
 ……ところで最初の質問。王の後継者ってどんな感じ?」
 アジェンの子供たちが皆こんな野心を持っていたとしたら、と想像してリュ・リーンは背筋に薄ら寒いものを感じた。
 聖地の者たちが小狡く立ち回る様を苦々しく思ってきた。
 しかし子供のころからこういった考えを植え付けられているとしたら、大した武力もないのに今まで侵略もされずに聖地の地位を保ってきたことも納得できる。
「どんな、か。気が重くなるときもある。……が、王の代理として、すべてをチェスの駒のように差配していくのは、快感だな」
「ふ~ん。快感ね。だからだね、皆が王になりたがるのは。僕もやっぱり王になろうっと」
 表面上は寛大な年長者を装いながら、リュ・リーンは自分の半分も生きていない少年が大人と変わらない野心を持つことに驚嘆した。
「殿下。僕、遊びに行ってもいい?」
 父親から案内役を仰せつかったものの、まだ七歳になったばかりの少年には、明確な記憶に残っていないかつての同居人より遊び友達のほうが大切なのだ。
 自身にも身に覚えがあった。しかめっ面をした教師役の神官たちと向き合っているときよりも、同年代の少年たちといるときのほうが遙かに楽しかった。
 少年を退屈な役目から解放すると、リュ・リーンはかつての目線で部屋を見まわした。
「もう六年。……いや、まだ六年しか経っていないと言うのに」
 その日その日を泣いたり笑ったりして過ごしていた日々が、遠い過去のような気がする。
 自分は変わったとウラートは言った。それがどう変わったのかは、ウラートは答えてはくれなかった。
 また彼は変わっていないとも言った。それもまたどう変わっていないのかは教えてくれなかった。
 六年ぶりにあったこの屋敷の当主には自分はいったいどのように映っているだろうか。
 たった半年あまりの子供部屋。ここから毎日神殿の学舎に通い、色々な人に会い、色々な思いをした。
 今でも相変わらずリュ・リーンの瞳の色は他人に忌避されていたが、彼の外見を気にすることもない友にも出会えたと思っていたのだ。
 つい昨日までは……。
『ダイロン・ルーン。俺がなにをした……。あなたが憎悪するほどのことを、俺がしたと言うのか!? 教えてくれ』
「リュ・リーン王子。居間にいらっしゃいませんこと?わたしのお友達も見えているのよ」
 物思いに耽っているリュ・リーンに子供部屋の戸口から声がかかった。
 レイクナー夫人の笑顔が覗いていた。美人とは言えないが、人を安心させる暖かい笑顔をした女性だ。
 きっと誰にでもこんな笑顔を向けているのだろう。決してお喋りではない人だが、彼女のまわりには人がよく集まる。
 今日でもリュ・リーンが来訪する寸前まで客がいたようだった。
 レイクナー家は貴族でも下位のほうの家柄だ。武官の家柄らしく質素だが、堅実で率直な当主とその夫人を慕って訪れる者は軍属以外の者も多い。
「すぐ行きます」
 たぶん興味本位でリュ・リーン見たさに押しかけてきた貴婦人たちが居間には待ちかまえているのであろうが、素直に返事をするとリュ・リーンは立ち上がった。
 夫人の足音を聞きながら、もう一度リュ・リーンは部屋の中を見まわす。
 少年の日は戻らない。ならば、先に進むしかあるまい。ダイロン・ルーンが変わったというのなら、その変わってしまった彼とつき合っていくしかないのだ。
 時よ、戻れ! と念じる暇があったら、後悔しない生き方を選択したほうが賢明と言うものだ。
 リュ・リーンは小さな子供部屋にかつての自分を再び封印すると、一度も振り返ることなくその部屋を後にした。

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