石獣庭園 -Wing on the Wind-

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Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔168日前〕 RSS Feed

第一幕:王道の恋

No. 57 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,王道の恋 , by otowa NO IMAGE

第01章:花の娘

「ねぇ、思い出さないこと?」
 彼女の声に答えるように、暖炉の(まき)が大きな音で爆ぜた。灰色虎の毛皮の上を炎の影が躍る。同じように彼女の横顔にも……。
「あぁ……。もう何年になるかな」
 花の香りのする彼女の髪を優しく撫でながら、彼は炎の中に昔日の二人の姿を重ねていた。
『我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ』
 青臭い。今から思えば随分と大胆な啖呵(たんか)を切ったものだ。心の中で苦笑すると彼は背後から彼女を抱きすくめた。
 後悔する恋などしていない。誰がなにを言おうが、これが自分の唯一、絶対無二の恋……。
 彼女の細い指が自分の頬に触れるのを感じた。暖かい日だまりのような感触。
 抱きしめているのは自分のほうなのに、なぜか逆に自分が抱きしめられているような錯覚を覚えて、彼はゆっくりと瞳を閉じた。
 その心地よさに浸るように……。




「殿下! リュ・リーン殿下!」
 背後からの呼び声を煩わしそうに聞きながら、リュ・リーンは窓から吹き込んでくる花の香りに心を奪われていた。
 目の前のテーブルには飲みかけの金芳果酒(ゴールドベリー)のグラスが置かれたままだ。春の訪れを知らせる香りがここには満ちている。
「殿下……! こちらでしたか」
 戸口からの声にリュ・リーンはようやく振り返った。つい今し方のぼんやりとした顔つきは消え失せ、冷徹な表情が刻まれている。
「何事だ、騒々しい」
 冷ややかな主人の対応に部屋の入り口で従者が立ちすくんだ。彼とそう歳も違わない従者は気圧されたのか、主人の顔から視線をそらして下を向いてしまった。
 そんな従者の態度に忌々しそうにリュ・リーンは舌打ちした。
 どいつもこいつも! ちょっときつい言葉を聞けば、怖じ気ずく。まったく不愉快だ。
「何か伝えにきたのだろう、早く言え!」
 イライラとした態度を隠しもせず、リュ・リーンは続けた。
 端正な顔立ちのリュ・リーンだが、大抵の人はその整った顔立ちよりも彼の激烈な性格のほうに肝を冷やし、恐れおののく。
 彼にはそれが腹立たしい。
 別に顔を褒めそやして欲しいとは思わないが、彼の視界のなかに立つ者の反応はほとんどの場合、彼を不快にさせることのほうが多い。
「あの……聖衆王陛下よりの伝言でございます。歓待の宴を催したいと存ずる。出席して頂けようか? とのことですが、いかが計らいましょうか」
 おずおずと申し出る従者にいっそうの苛立ちを覚えたが、声をあらげても彼の態度が変わるわけでもない。リュ・リーンは努めて無表情を装ったまま従者に指示を与えた。
「出席する旨を伝えろ。……どちらにしろ、断ることはできん」
 後の言葉は独り言に近く、従者には聞き取れなかった。
 あたふたと退出する従者などすぐに忘れ去ると、リュ・リーンは憤怒の形相も露わに手近にあった水晶のグラスを卓上から叩き落とした。
 絨毯がグラスを受け止め、その美しい輝きは割れることなく床に転がっていく。中の琥珀色をした液体がその軌跡上に飛び散った。
「くそっ…! どいつもこいつも喰えぬ奴ばかり!」
「物に当たっても仕方ないでしょう。落ち着きなさい」
 従者と入れ違いに入ってきた男がたしなめるように声をかけた。
「ウラートか」
 不機嫌そうな顔のままリュ・リーンは窓辺へと歩み寄り、眼下の景色を見下ろした。いくつかある中庭の一つだろう。色とりどりの花が咲き乱れている風景は、彼の心情とは裏腹にのどかだ。
「まだ出発前のことを気にしているのですか? あなたらしくもない」
「うるさい! 気にしている、ではなく腹を立てているのだ!」
 眼をつり上げるとウラートと呼んだ従者のほうへ向き直る。
 十六歳になるリュ・リーンから見るとウラートはいくらか年上になる。細身だが筋肉質のいかにも武官らしい体格とは反対にウラートは女にもてそうな優しい顔立ちをしていた。
「父王の勧められた縁談を壊したのはあなたのほうですよ。いったい何人のお相手を怒らせれば気が済むのです。少しは大人になってください」
 弟をたしなめるような顔でウラートが忠告する。その言葉にリュ・リーンはふてくされたように横を向いた。
「見合いをすっぽかしたぐらいでうるさいのだ、あの親父は! しかも相手はたったの十歳のガキじゃないか。ふざけるにもほどがある!」
 誰も自分の言い分など聞いてくれない。
 口では成人したのだから、と言いつつ、実のところはまだまだ子供扱いされているのだ。
 ウラートは床に転がったままのグラスを拾い上げ、丁寧に磨き上げてテーブルに戻すとリュ・リーンの怒りをスルリとかわして返事をする。
「……オリエル嬢はあなたの従妹でもあるのですよ。少しくらい優しくしてもいいじゃないですか、それこそまだ子供なんですから」
「ウラート! お前は親父の肩を持つのか!? お前まで親父のメンツを潰したとか言うのか!? ふざけるなよ! 俺は王族間の婚姻などまっぴらだ。いくつ縁談が持ち上がろうが知ったことか。片っ端から潰してやる!」
 俺の存在意義は何だと言うんだ。子孫を残すことだけが、俺の存在理由だと言うのなら一生涯結婚などしない。
 そんなものしなくても子供は残せる。政略結婚だと言うのなら、はっきりとそう言えばいいのだ。俺のためだなどと見え透いた嘘で固めた縁談など誰が受けるか。
 相手は俺が決める。誰にも文句は言わせない! それが政略結婚であったとしてもだ。
「非難しているのではありませんよ。あなたの好きにすればいいのです。いずれあなたは王になる。あなたは誰に媚びる必要もない方だ。
 ……ですが、相手を見極めてください。王になると言うことは、我が王国の民すべての命運を握ると言うことなのですから。あなたの采配一つで、国が揺れる」
 判りきっていることを殊更口に出して見せて、ウラートはリュ・リーンの反応を見る。自分の仕える主人は王の器に足る人物であるのか、とその瞳はリュ・リーンに問いかけていた。
「……。判っている、ウラート。俺が生まれ落ちたときからそれは決まっていたのだから。逃げるつもりはない」
 いつでも自分は試されている。それは避けようのない現実。
「判っておいでなら、けっこうですよ。
 さて、さしあたっては聖衆王の招きを受けたのです。身支度を整えてください。ここはあなたの王国ではない、いわば敵地です。あなたの一挙手一投足が注目されているのですから、心して宴の席に出て頂かねば!」
 湯浴みの支度が整っているらしい。
 ウラートの指し示した部屋へとリュ・リーンは視線を向けると、不愉快な記憶を消し去るように頭を振り、年上の従者に皮肉っぽい笑みを見せた。
「お前は口うるさい爺さんになりそうだな、ウラート」
「大きなお世話ですよ、リュ・リーン」
 自分を呼び捨てにできる数少ない人間の一人である学友の脇をすり抜けると、リュ・リーンは浴室へと向かった。
 熱めの湯に浸かった後にむせるほどの香料を体中に吹きつけられ、リュ・リーンはうんざりした顔をした。
 王侯貴族のたしなみだとかで、ここ数年流行っている香水が彼は好きではなかった。こんなものを嬉々として振りかける輩の気が知れない。
 見目麗しく着飾った女たちならともかく、老若問わず男どもが、この香水はどうだとかあの香料を使うとなんだとか話し合っている姿は興ざめだ。
「もう、それでいい! 下着にまで振りかけるな! 匂いがきつすぎて吐き気がする」
 リュ・リーンは自分の服にせっせと香料を振りまく従者たちを叱責する。
 なぜ彼らはこんなくだらないことに心をくだくのか。それでリュ・リーンが彼らの評価を高くするわけでもないのに。
 二人の従者がリュ・リーンの衣装の形を整えながら近寄ってくる。
 謁見のときに着ていた重たい衣装ではなく略装の簡素な衣装だ。リュ・リーンに言わせればこれでもまだ動きにくい。
 しかし一人で歩くのにも難儀な正装をさせられるよりはマシだろう。数時間にも及ぶであろう宴の席で、正装のような堅苦しい衣装を着込んでいては、苦痛以外のなにものでもない。
 従者たちのされるがままに衣装を着込み、後頭部からこめかみまでを帯状に覆う飾冠(ティオレ)をつけながら、リュ・リーンは退屈そうなため息をついた。
 これから腹黒い爺さんたちの相手をしなければならないのだ。父王の代理としてこの地に赴いている以上、彼の印象が自身の王国の印象として相手方の記憶に刻まれることになる。
 あの手この手でこちらの腹を探ってくるであろう、老獪(ろうかい)な為政者たちの顔を思い出して、リュ・リーンは不愉快な気分を避けられなかった。




 先触れの声と共に入来したリュ・リーンの姿を室内の人間が一斉に注目する。
 黒絹を思わせる髪に奥深い森の緑よりも濃く深い色合いの翠の瞳。これだけで見る者に、違和感を与えるには充分な色彩だった。
 一年の半分近くを雪と氷に閉ざされる大地の王国出身者に黒髪は少ない。まして伝説でしか聞き及ばない深い翠の瞳。闇の神の瞳を持つと言うだけで人は彼を恐怖する。
 ざわめきの声に恐怖と嫌悪が混じっていることはリュ・リーンには手に取るように解る。いつもの反応だ。いちいち気にしていたら身が保たない。
 彼はいつも通りに耳障りな囁き声のする方角を冷たく一瞥する。それだけで囁き声は凍りついた。彼の視線を浴びた者はほとんどが闇に心を覗かれたような嫌悪に身を震わせる。
 リュ・リーンを見聞しようと集まってきた者のなかにはここへ来たことを後悔している者もいるだろう。
「お招き頂き感謝いたします、陛下」
 文句のつけようのない完璧な立ち振る舞いで王の前に歩み寄ると、リュ・リーンは優雅に会釈してみせた。その彼の動きに合わせて、薄手の羊毛でできたマントがしなやかに揺れる。
 リュ・リーンの挨拶に聖衆王が玉座から立ち上がった。
「部屋は気に入って頂けたかな? トゥナ王の息子よ」
 儀礼的な呼びかけ。決して心を許してはいない者への些細な牽制。
「はい。六年前と変わらぬ景色に心が和みました。さすがは聖衆王ご自慢の花庭園でございます」
 他にどう返事をしろと言うのだ。リュ・リーンは内心で毒づきながら、それでも表面上は笑顔を作ってみせた。見えない腹の探りあいはもう始まっているのだ。
「ハハハッ! 世辞などよいわ。トゥナの王宮にある伽藍造りの大庭園に比べれば、ささやかなものだ。……随分と背が高くなられた、リュ・リーンよ。トゥナ王も鼻が高かろう、そなたのような自慢の息子がいるのだから」
 謁見のときから変わらずにいた聖衆王の厳めしい顔がふとほころんだ。
 リュ・リーンの顔を眺める王の瞳には六年前のリュ・リーンが見えているだろう。まだ成人前で必死に背伸びして大人に負けまいと懸命な幼い子供の顔が。
「不肖の息子でございます。いたらぬことばかりで父の心労は絶えないでしょう」
 礼儀正しく答えながらリュ・リーンも六年前の王の姿を思い浮かべた。
 今とさして変わらない。厳格だがユーモアを解するこの王がリュ・リーンは実父以上に好きだったはずだ。いつからだろう。いつから自分はこんな冷徹な人間になったのか。
「ふふ。親はその心労さえ厭わぬものだよ。さぁ、皆! 今日は余の旧い友人のための宴だ。存分に楽しもうぞ」
 王の声に凍てついた空気が溶け、それを合図に酒や馳走がふるまわれた。幾人かの宮女たちが舞を舞い始めると、舞の楽に合わせて手拍子があちこちで聞こえだす。
 王に誘われて柔らかな長椅子でくつろぎながらも、リュ・リーンは話の相づちを打ちつつ油断なく辺りの人物を観察していた。
 多くの者は彼と視線を合わさないように仲間との会話に集中している。だが中には怖いもの見たさでか、チラチラと王とリュ・リーンの姿を盗み見ている者も少数いた。
 そんな輩のひそひそ声が研ぎすました彼の耳には聞こえてくる。
「大した切れ者らしいぞ、あの王子は。ここ二~三年、あの王子が指揮をとる戦は負けなしだとか」
「今年で十六か? 王族の男子がこの歳でまだ妃を娶っておらんとは……」
「さもあろう。あの瞳……見ているだけで震えが止まらぬ。あれは魔性の瞳だ。女が怖がって近づくまいて」
「あの王子が王になったときが心配だ。ここ聖地アジェンをないがしろにするのではないか?」
「トゥナ王宮であの王子がなんと呼ばれているか知っているか? 野獣王(ビストルード)と言われているらしい」
「聞いたことがあるぞ。容赦のない性格で、怪我をする従者が絶えぬとか」
 憶測の域を出ない戯れ言が飛び交うのには馴れている。だが気持ちのいいものではない。
 リュ・リーンは聖衆王に気づかれないよう舌打ちすると顔を歪ませた。雑魚には言わせたいだけ言わせておけばいい、と割り切っているつもりでも苦々しい思いが消えるわけではないのだ。
 宴も進んでいき人々が気持ちよく酔いに身を任せかけた頃、王の傍らに一人の侍従が滑り寄ってきて耳打ちした。
「そうか。連れて参れ」
 王の小声が耳に入る。一通り家臣と引きあわされた後だったのでリュ・リーンは気にも留めなかった。まだ会っていない家臣の者でも連れられてくるのだろう。
 相変わらず舞姫たちの踊りは続いている。王が紹介してくる家臣を見ているより、麗しい乙女たちを見ているほうがよほどましだ。
「陛下。遅れまして申し訳ございません」
 予想外な若い男の声にリュ・リーンは思わず振り返った。王の臣下のなかでは一番の若年ではないだろうか。年の頃、およそ二十歳前後。淡い銀色の髪にどこか見覚えがある。
「待っておったぞ。さぁ、近くへ参れ」
 親しげに声をかける王に男が歩み寄り、傍らのリュ・リーンに軽い会釈をする。だが、その顔が笑っていない。むしろ怒っている、といったほうがいいだろう。
あからさまな敵意にリュ・リーンは少したじろいだ。
「リュ・リーン。覚えておるか?司祭長を務めるカストゥール候ミアーハ……」
 リュ・リーンは眉をよせた。カストゥール……ミアーハ……? 六年前の記憶を手繰り寄せている彼を手助けするように若者が王の言葉の後を受けて話し始めた。
「その名では記憶していまい。覚えているとすれば、“ダイロン・ルーン”だ」
 記憶のパズルが音を立ててきっちりと合わさった。
 ダイロン・ルーン!
 リュ・リーンより三つ年上で聖衆王の甥にあたる男だ。リュ・リーンは飛び上がるように立ち上がった。
「ダイロン……。ダイロン・ルーン! あなたなのか」
 六年ぶりに見る男の顔に昔の面影を探してリュ・リーンはその顔を凝視した。
 氷を思わせる淡いブルーの瞳、ここ聖地では珍しくもない銀の髪。鼻筋の通った涼やかな容貌。確かに昔日の面影が残る男の顔……だが、かつての屈託のない笑顔は今ダイロン・ルーンの表情からは消えていた。
「久しいな、リュ・リーンよ」
 ダイロン・ルーンは少年の声から大人の男の声へと変わっていた。リュ・リーンがそうであるように。
 しかしかつてのダイロン・ルーンはこんな冷たい声をだす男ではなかった。面倒見のいい彼は多くの友に囲まれ、いつも明るい笑い声の中心にいた。
 トゥナ王族としてのたしなみで聖地アジェンに預けられた孤独な少年にも、彼は変わらぬ笑顔で接したのだ。多くの大人たちが少年を避けているというのに。
「あ……あぁ、本当に。いつから名を?」
 自分の声が震えているのに気づく。動揺が隠せない。きっと顔がこわばっている。
「もう二年ほどになる。亡くなった父の爵位を継いだのだ。父の名も継いだから今はミアーハ・ルーン・アルル・カストゥール、が私の名だ」
 抑揚のない冷めた声が返事をする。リュ・リーンは他の話題を探そうと記憶のなかをひっかきまわした。一人の幼い少女の顔が浮かぶ。
「そう言えば、妹君は? 確か……カデュ・ルーン殿だったな。彼女はお元気か?」
 リュ・リーンのその言葉に男の顔がいっそう険しさを増した。その様子に驚いたリュ・リーンがなにか取り繕ろわねばと口を開きかかる。
「二人とも、座ったらどうだ。新しい舞手が出てきたぞ」
 正面の舞台のほうを顎でしゃくってみせた聖衆王が、意味ありげにリュ・リーンに笑いかけた。王は二人の剣呑な雰囲気など意に介した様子もなく、グラスの中の果実酒を口に含む。
 王を挟んで反対側に腰を下ろした旧友に困惑しつつ、リュ・リーンは舞台へと視線を向けた。
 王の言ったとおり淡紅色の衣装をまとった乙女が一人、松明の灯りに照らされて舞台へと進み出るところだった。炎に照らされた娘の白銀の髪が雪の結晶のように輝いている。
 娘は花びらのように重ね合わされたドレスのひだをたくし上げると、雪よりも白い両手を天高く突き上げて、両手のすべての指を使って中空に柔らかな曲線を描き始めた。
 両手の動きに合わせて全身が旋回していき、それにつれてドレスの裾が大きく膨らむ。まるで朝日を浴びてその花弁を開こうとしている花のようだ。
 緩やかで緩慢な動きから徐々に娘の体は早いテンポのリズムを刻み始めた。
 松明はそよとも風に揺らいではいないが、娘のまわりにだけ激しい風の動きがあるようにドレスがひるがえる。
 時折、見えない風がドレスに隠れた娘の肢体を浮き彫りにし、少女から女へと移ろい始めている娘の微妙な体格が現実離れした妖しさを醸しだしていた。
 時々転調を繰り返す楽の音とリズムを早めていく舞だけなのに、リュ・リーンは体中の血がざわめくのを感じた。全身が小刻みに震える。戦場で敵と刃を交えているときにも似た興奮。心臓が早鐘のように鳴り、息は激しく乱れていく。
 体の奥底から沸き上がってくる衝動を反射的に押さえ込んで、リュ・リーンは小さく呻いた。
 まわりの人間たちが楽に合わせて拍子を打っている姿が見えるが、リュ・リーンにはその音も、楽の音も聞こえてこなくなっていた。ただ正面で無心に舞い続ける娘とその姿を照らし出す松明の灯りばかりが、眼の奥に焼き付いて離れない。
 魅入られた、と言うのはこういうことを言うのか。
 心のどこかで冷静に自分自身を観察しているもう一人の自分の存在を感じて、リュ・リーンは必死に平静を取り戻そうと荒い息を整える。
 大歓声がリュ・リーンのまわりで起こった。
 舞台上の乙女が深々と腰を屈めて会釈している姿が目に入る。混乱した頭のままリュ・リーンは舞手の技量に拍手を送った。
 見事な舞であった。解放された安堵感にリュ・リーンは深い吐息を吐いた。
「どうだね、今の舞は? 気に入ったかね」
 リュ・リーンの吐息に気づいて聖衆王が耳打ちした。まだ痺れている頭のままリュ・リーンは再度息をもらすと、王に返事を返した。
「見事です。トゥナにもあのような舞手はおりませんよ。どなたのご息女なのですか、あの女性は?」
 まだ頭はボゥッとしている。体の火照りも残っていた。
「余の娘だ」
 淡々と答える王の言葉にリュ・リーンは耳を疑った。
「え? 陛下の……?」
 聖衆王の娘? 六年前にここを訪れたときは王に娘などいなかった。あの娘の体格からして十数歳といった年頃のはず。実の娘でないとしたら、どこかの貴族の娘でも養女にとったのだろうか。
 突然の王の娘の出現に驚くリュ・リーンを無視してミアーハ・ルーンが立ち上がったのは、そのときだった。
「陛下、私はこれにて……」
 王への挨拶の後にリュ・リーンへも慇懃に会釈をして、ミアーハ・ルーンは人だかりを避けながら、舞台の下へと歩き出した。
 舞台下に降り立った先ほどの娘の側まで行くと、その肩を抱いて宴の外へと連れ出していく。
 娘に王への挨拶もさせずに退出させる不自然さにリュ・リーンは眉をひそめた。
「やれやれ。困った奴だ。せっかくリュ・リーン殿に娘を紹介しようと思うたに、連れて行ってしまったわ」
 隣で肩をすくめる王の態度に漠然とした不自然さを感じた。
 その後宴が終わるまでの間ずっと、リュ・リーンは娘を連れ去る聖地の大貴族の後ろ姿とこちらにチラリと視線を送った王の娘の横顔を思い描いていた。
 彼女の驚きと困惑を含んだ表情がリュ・リーンの記憶に印象的に残っていたのだ。




 舞が終わった後に入れ替わり立ち替わり現れる家臣たちと腹の探りあいを繰り返した宴が終わると、リュ・リーンは疲れ果てて自室へと戻ってきた。
 待ちかまえていた従者たちに手伝わせて動きにくい衣装を脱ぐと、従者の一人に学友ウラートを呼ぶように伝えて、自分は温めの湯船に体を伸ばす。
 ほどなくウラートが浴室に顔を覗かせた。
「なんです? 男の入浴姿は見ても嬉しくないですけど」
 憎まれ口を叩くウラートを軽く睨むと、リュ・リーンは彼を差し招いた。
「バカげたことを言ってないでお前も入ってこい。そんなとこに突っ立ってると服が湿って風邪をひく」
 普通は王族などはたとえ友と呼ぶ間柄であったとしても、一緒に、と入浴や就寝を誘うことはない。それを誘うのは友と呼ぶ以上の関係でなければならない。その点から言ってもリュ・リーンははみだし者と言っていいだろう。
 だがリュ・リーンもウラートもいっこうに気にする様子もなく、一度に十数人は入れそうな浴槽に気持ちよさそうに体を伸ばしてひととき眼を閉じる。
「宴ではなにがありました?」
 無表情なままのリュ・リーンの隣に移動するとウラートは囁いた。浴槽はあきれるほど広く、囁き声であってもよく響いた。内緒話をするにはここは不向きなようだ。
「……ダイロン・ルーンに会った」
「はい?」
 六年前のここでの生活をかいつまでウラートに話ながら、リュ・リーンは宴でのダイロン・ルーンの態度を思い出していた。
 不可解だ。人はあんなに変われるものだろうか? あの人なつっこい笑顔でまわりの大人たちからも可愛がられていた少年が、たったの六年であんなに冷たい眼をするようになるとは。
 それからカデュ・ルーン。
 リュ・リーンより二つ年下の少女の話になった途端に、ダイロン・ルーンは更に険しい顔つきになった。
 彼女になにかあったのだろうか。六年前、内気で兄の後ばかり追っていた少女の容姿を思い浮かべる。細かな容姿までは思い出せないが、華奢な体格の娘であったことが記憶に残っている。
 一緒に、と風呂に誘ったウラートの存在などすっかり忘れてリュ・リーンは考え込んでいた。
「リュ・リーン! 浴槽から上がりなさい。のぼせていますよ」
 頭から湯をかけられてリュ・リーンは我に返った。考え事にふけっていたので、不意打ちに驚いて湯を少し飲んでしまう。
「ウ……ウラート! お前……主人に向かってなんてことをっ!」
 ウラートの後を追おうと勢いよく立ち上がったリュ・リーンの視界が暗転した。派手な音を立てて水中にひっくり返った彼は今度はたらふく湯を飲み込んだ。
 浴槽から這い上がって激しく咳き込むリュ・リーンにウラートはあきれたように声をかける。
「だから、のぼせてるって言ったでしょ。そんなに勢いよく立ち上がる人がありますか。……立てますか、リュ・リーン?」
 ここで素直に立てないとは言わないのがリュ・リーンの意固地なところだ。ムキになってウラートを睨む。
 めまいが収まると不機嫌そうな顔をしてゆっくり立ち上がり、ウラートの差し出す布に全身をくるんだ。
「はい。寝間着には自分で着替えてください」
 リュ・リーンに寝間着を押しつけ、自分の衣服をさっさと着込むと、不機嫌な主人を残してウラートは浴室から姿を消してしまった。
 与えられた日程を淡々とこなしていくリュ・リーンと違ってウラートはリュ・リーンの公務日程を組んだり、侍従長としてまわりの者に指示を与えたり、故国に報告書を書いたりと忙しい。
 リュ・リーンのようにのんきに風呂に浸かっている余裕などないのだ。主の気まぐれにつき合うのは、それがウラートにとっての気分転換になるからに過ぎない。
 トゥナ国の王宮でも最近はウラートは王やリュ・リーンの雑事の始末に忙しく働いている。
 ウラートは有能で、万事をそつなくこなしていく。それはそれで大変重宝するのだが、リュ・リーンは自分が独り取り残されたようでひどく惨めな気分になった。
「俺はいったい何なんだ」
 成人してからずっと繰り返している自問をそっと呟くと、リュ・リーンは緩慢な動きで寝間着に着替えて自室のベッドへともぐり込んだ。
 柔らかな寝具がリュ・リーンのまだ成長しきっていない身体を受け止める。
 従者が焚いたのだろう、香木の香りが部屋中に満ちている。体に吹きつけられる香水と違って空中を漂うこの香りがリュ・リーンは好きだ。子供の頃からの馴染みの香り。
 まだ自分が幼い頃に亡くなった母を思い出す。
 死というものがなんなのかさえ判っていなかった頃の母の死は、現実離れしていて実感が伴わないものだった。それだけに夜になると母を恋しがってよく泣いた、と聞かされていた。
 この香りを嗅ぐと、顔もおぼろにしか覚えていないはずの母を思い出す。
 母親の記憶を辿っていたリュ・リーンの脳裏に先刻の舞姫の姿が甦った。ドレスの淡紅色が目の前をチラチラと往復する。
 新雪のように白い肌。雪煙のようにサヤサヤと流れる銀髪。紅色のカリアスネの花に似た鮮やかな唇。そして……春の若芽を思わせる淡緑色の瞳。
 思い出しているだけなのに全身の肌が粟立つ、この奇妙な感覚はなんだろう。……どこかで会ったことがある。どこで会ったのだろう?
『あなたはいったい、どこの誰なのだ……?』
 いつの間にかリュ・リーンは眠りの淵へと誘われ、ゆっくりとその中へと沈んでいった。
 湖上を渡る風の音が遠くに聞こえる。あの風は遙かトゥナ国の首都ルメールにまで渡っていくのだ。そして風に急き立てられるようにして短い春が終わりを告げる日もそう遠くはない。
 眠りのなかでリュ・リーンは覚えていないはずの母の声を聞いた気がした。
『早く大人におなり。お前には待っている人がいるのだから……』

〔 10708文字 〕 編集

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