「じゃ、行ってくるよ」
「また海? 兄貴も飽きないねぇ」
「何言ってるんだ。サーフィンはこれからが本番だろうが」
「はいはい。行ってらっしゃい。気をつけてな」
「おう! じゃ、な」
それが、最後だった。
俺は十四で、兄貴は二十一。俺の記憶に、これ以降の兄貴の声は存在しない。
けたたましい電話のベル。すすり泣く風の声。……そして、潮騒の雄叫び。ぽっかりと空いた記憶の空白を埋め尽くすのは、そんな音の騒乱だけだった。
「おばさん。……和紀、上ですか?」
「まぁ、薫ちゃん。来てくれたの。……えぇ。ずっと籠もりっぱなし」
「ちょっと、いいですか?」
「遠慮しないで上がって。あなたの言うことなら聞くかもしれないわね、あの子。様子を見てきてもらえる?」
少しやつれた顔をした女性がスリッパを揃えながら微笑んだ。その寂しい微笑に頷き返した後、少女は足早に二階に上がっていった。
見慣れたドアの前で少し躊躇う。しかし、思い切ってノックをする。なかからの返事は、なかった。
そっと扉を開ける。夕暮れどきの薄暗い部屋には、昼間の熱気が歪んで重く沈んでいた。ベッドに背を預け、膝を抱えてうずくまる人影が見える。
何も言わぬまま薫は静かにその傍らに歩み寄り、そっと相手を見下ろした。相手の肩が微かに震えている。
「和紀……」
ビクリとその震えていた肩が大きく波打った。ゆっくりと上がった顔のなかで、瞳だけが涙に濡れて光っていた。
「薫……」
囁くような声が自分の名を呼ぶのを確認すると、少女は脇のベッドに腰掛けて、震える少年の肩に手を置いた。
「私……正紀さんのこと、好きだったよ……」
「うん……」
頷いた少年の眼からまた一滴の涙がこぼれた。
「まだ……信じられない」
「うん……」
徐々に暗くなっていく部屋のなかにすすり泣きが響いた。それは、どちらの声だったろうか。長いような、短いような時間のなかで、時折にあがるその声だけが、緩やかな時間の流れを教えていた。
「正紀さんのこと……忘れちゃ駄目だよ」
囁き声に答える者はなかった。
「あんたが思い出すたびに、正紀さんは生き返るんだから」
日が暮れて暗闇に包まれた部屋では、相手の表情は解らなかった。
「正紀さんの分まで、ちゃんと生きるんだよ」
震える手が少女の手を握り返してきた。それが精一杯の答えだった。それ以上の答えを返すことなど、できなかったのだろう。
「あんたが生きてる限り、正紀さんは死なない……」
再び小さな嗚咽が聞こえた。
宵星が窓の向こうに輝く。遠くから響く車の走行音が、潮騒のように、この部屋のなかへとうち寄せてきた。
海の見える丘に立つと、視線の先にある灰色の墓標たちは蒼く拡がる海と空に胸を張って立っているように見えた。
髪を吹き流す潮風に、微かな秋の匂いがした。霊園の片隅にひっそりと佇む一つの墓石に歩み寄り、その前に跪く。
「兄貴……。ただいま」
小さな墓標は何も答えてはくれなかった。初めから、そんなものに期待はしていなかったのだろう。男は手慣れた様子で花を飾り、線香を手向けた。
淡々とした静かな時間だけが過ぎていく。
ヒュゥ……と笛の泣き声のような風が、辺りの木立を吹き抜けていった。
「俺、やっぱり親不孝かな? ……兄貴なら、どうするだろう?」
風で吹き散らされた線香の細い煙が、再び糸のような弱々しさで天へと立ちのぼっていく。その軌跡を目で追いながら立ち上がった男は、諦めたような溜息をついて苦笑した。
「俺は、兄貴ほど賢くないからな。……他の方法が思いつかないんだよ」
ほんの一瞬。男の顔になんとも言えない複雑な表情が浮かび、消えていった。
「じゃあな、兄貴。また、来るよ」
囁くような声で別れを告げると、男はもう後を振り返ることなく霊園の階段を登っていった。
「待たせたな、竜介」
登り切った先に、大きな桜の木があった。その下で所在なげに佇む男に声をかけると、足早に近づく。
「もういいのかい、和紀? ずいぶんと早いな」
「想い出に浸るほど、センチじゃねぇよ。行くか?」
「あぁ……。薫の奴が待ってるからな。遅れるとうるさい」
駐車場に止めておいた車に乗り込み、無造作にキーをひねる。低重音のリズムでエンジンが唸りをあげ、潮騒のざわめきを掻き消す。
堤防沿いを滑るように走り出した車の右手に広い海原が見え隠れする。近くに迫っている岬の陰から躍り出てきた白い船影が、視界の隅をかすめていった。
ボォゥッっと霧笛の音が車窓越しに響く。チラリと目をやれば、先ほどの船が貨物船とすれ違うところだった。
再び霧笛が哭ないた。
忘れるな、と叫んでいるようだった。……忘れるな。ここにいるぞ、と。
(忘れるものか……)
とっくに死んだ兄の歳を追い越しても、なお、自分の兄は綿摘正紀わたつみまさき以外にいないのだ。
道が大きく左にそれ、視界から海の青さが消えた。潮騒の音も、磯の香りを運ぶ風も、もう届かない。低く唸るエンジン音とともに潮風の街を走り抜けながら、亡き兄の日に焼けた笑顔を思い出す。
そう、海の蒼さを見ると思い出す。潮騒の囁き、風の奔流。
消えぬ哀惜の念。
わだつみに消えた兄への弔鐘を打ち終わる日は、まだ……来ない。
終わり
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