石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

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序曲 朱き月の王

No. 56 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,朱き月の王 , by otowa NO IMAGE

第一章:月と竜

 雲海を見下ろしていた黒い影がふと小さな吐息を吐き、背筋をピンと伸ばした。黄昏の鈍い赤色の中、その残光を吸い取ったように禍々しく輝きを放つ巨大な月星が北天にかかっている。
「どこだ? お前はいったいどこにいる? 俺を置いて……どこへ行った?」
 まだ年若い男だ。ようやく成長期が終わったといったところだろう。肩から下がったマントがはためくたびに、彼の逞しい腕がチラチラと覗く。
 若者は赤い天球へと腕を伸ばし、それを受け取るように掌を翻した。血色の月は、地底に眠っていた秘宝のように濡れて見える。
 辺り一面も暮色に血のように染まっていた。
 腕の先にあるものを見定めようと、若者は顎を上げて眼をすがめる。翠の闇を湛えた彼の瞳はあまりにも深く、見る者がいたならば底なし沼のように吸い寄せられ、絡め取ってしまうだろう。
「見つけだす、必ず……。あの月に、お前を連れていかせはしない。俺はまだ伝えていない。お前に、何も伝えていないんだ」
 暗い翠眼で朱き月を追い、凍て始めた空に光り始めている他の小さな星を見渡すと、若者はギリギリと歯を噛み締めた。それは怒りのためではない。抑えきれない想いを押し込める仕草だ。
「側にいると言った。あの誓いは嘘じゃない……! もうこれ以上、誰も失いはしない」
 暗緑の瞳に激しい煌めきが宿った。触れれば火傷しそうなほどの強い輝きを見る者はいない。
 銅色(あかがねいろ)の空から顔を背けると、若者は再び眼下の雲海を見下ろした。巨大な竜たちが蠢いているようにゆっくりとのたうつ雲の峰は、彼を差し招いているように見えた。
 来い、と。ここまで来てみろ、と言うように……。
 雲の波間から竜たちの嘲笑う声が聞こえてきそうだった。彼らは、空飛ぶことも、地に隠れることも、水に潜ることも叶わぬ矮小な者に、どれほどのことができるか試してやろうと言っている。
 澱んだ暮色に染まる雲が、若者の目の前で大きな渦を巻いて下界へと誘う。雲の底にあるものを奪い取ってみろと言うように。
「行ってやろう。お前のいる場所が、凍りつく氷原の奥津城(おくつき)であろうと、燃えさかる火の山の腹の底であろうと……!」
 若者は荒れ山の地肌を蹴ると、羽織ったマントを翻して雲海を目指して駆け降りていった。彼の足下の石たちは蹴り砕かれ、行く手を遮る枯れ枝は弾き飛ばされる。
 山を後にする若者の後ろ姿は、荒れ狂い、天に向かって咆吼を上げる若竜そのものだった。


史書は語る……。
その血塗られた歴史を。
だが、人の心すべてを語るわけではない。
語られない歴史の中にこそ真実はあるのかもしれない。
人の流す血と涙と汗は、決して史書では語られない。
いや、語り尽くすことなどできはしない。

親から子へ、子から孫へ。
血は受け継がれ、語り継がれる。
人はどれほどの想いを託すのだろうか。
見果てぬ夢には、いつ届くのだろうか。
……判らない。
それは永遠に判りはしない。
そう、人々を睥睨する偉大なる神にさえも!

死に往く者たちよ。
その密やかなる声に耳を傾けるといい。
死と生の狭間から見つめる、その暗緑の瞳を見るといい。
すべてを飲み込んで舞う死の王の翼の下に休むなら
お前たちは時代(とき)水面(みなも)に映る青白き神の横顔を見るだろう。

嗚呼、今こそ夢を見よう……。美しく、そしてときに残酷な夢を。
眠る幼子に語るように優しく、戦場いくさばであがる怒号のように猛々しく。
あるいは、神に捧げられる祈りのように厳かに。
男たちの武勲いさおしと、女たちの懇願に耳を傾けて……。
さぁ、夢を見よう。
今暫くの間、夢うつつの世界を彷徨おう。

嗚呼、人よ。その美しき夢に微睡め──



 まわりを流れる雲の動きは、山の上から見たときと同様、竜の息遣いのように密やかだ。
 時に若者の腕に絡まり、時に遠巻きにその動きを眺める。それを繰り返し、侵入者の方向感覚を狂わせていく。ゆっくりと、じわじわと、獲物を追い詰めていく肉食獣のように。
 雲は大きな森を囲んでいるのか、蠢く雲波の間から、時折黒々とした木々の影が透けて見える。
 飛ぶように走っている若者は、腕を伸ばした先すら見えない白い闇の中を猛然と駆け、飛んでくるように現れる大木の幹を器用に避けながら、雲の奥深くへと突き進んでいた。
 辺りは何も音がしない。小鳥のさえずりや小動物が木の皮をかじる音、大型動物たちが下生え草を踏む足音、普通なら聞こえるはずの森の音が、この雲の中では聞こえてこなかった。
 若者も森の掟に従って一言も声を発しない。ただ、彼が駆け抜けていく足音ばかりが異様に大きくこだましているだけだ。
 どこまで続くのか判らない雲間の森を、若者は少しも怖れていないようだ。口元に浮かんだ不敵な笑みが、そのことを何よりも強く物語っている。
 ところが、それまで快調に進んでいた若者の足が突如止まった。今まで聞こえてこなかった音がする。
 遠くから、あるいは近くから葉擦れの音が聞こえていた。ザザザッ、ザザザッ、と繰り返されるその音は、何かが移動している音に間違いない。
 若者は息を殺すと、それまでの荒々しい動きが信じられないくらいの慎重さで、そっと足音を忍ばせて音の主へと近づいていった。
 相変わらず森の中を漂う雲が、音の主の姿を隠してしまっている。どれほどの距離にいるのか見当もつかないが、若者は相手を見失うことなく忍び足で歩き続けた。
 永遠に追いつけないのではないかと思われる時間が経った。
 いや、実際にはそれほどの時間ではなかったのかもしれない。雲によって視界を遮られた状態で、しかも陽も落ちた時刻だ。闇の中で蠢く灰色の雲のまだら模様から過ぎた時間を計ることなど不可能だった。
 妖かしにたぶらかされた気分になり、若者は苛立ちとともに立ち止まった。音を追いかけるだけ無駄な気がする。
 だが、ここから元来た道を戻ることもできそうにない。何より、明確な目印があって道を歩いていたわけでもないのだ。
 山の上でははやっていた気持ちが、この雲の冷気で冷やされたか、急速に縮んでいた。陽が落ちてから急速に冷え込んできている。夜露をしのげる場所を見つけたいところだった。
 そんなことをつらつらと考えていた矢先、先を往く音から意識がそれた途端、若者は音の方向を見失った。
 どうやら本格的に森の中で迷いそうだった。若者は恐ろしいとは思っていないようだ。むしろ夜の支配する時間帯に何かが出てくることを期待しているように、辺りに首を巡らせ、再び不敵な笑みを口元に刻んだ。
「俺の背後に道はない。俺が進むところが道そのものだ」
 彼は観察するようにゆっくりと辺りを見回し、低い呟きとともに移動を始める。背負っていた剣をそっと引き抜き、目の前に現れる枝や薮を切り払って、一直線に進み始めた。
 ガサガサと物音を立てながら進んでいくと、突然、目の前の薮がなくなり、大小の岩が連なる一角に出た。心なしか視界を遮る雲の層が薄くなってきたような気がする。
 透かし見ると、岩の間から点々と低い灌木が生えているが、それ以外は何もない場所のようだった。
 登り勾配になっている岩場を、足場を固めながら進むと、徐々に周囲の雲は微かな靄へと変わっていく。
 岩の連なりは終わることなく続いていたが、勾配がなくなった頂に辿り着くと、そこはさらに何もない場所だった。いや、正確にはだだっ広い泉が岩の間に広がっている。
 若者は油断なくその泉を見つけていたが、靄に包まれた泉の対岸付近から水音が聞こえてくることに気づくと、点在する岩を伝ってそちらへと近づいていった。
 バシャバシャと水面を叩く音は、動物が立てる物音のようだった。若者はゆっくりと音の元へと近づき、岩の陰からそっと首を伸ばした。
 白っぽい影が靄の中に浮かんでいるのが見える。それが人型をとっていることに気づくと、若者はさらに岩伝いに泉に近づき、眼をすがめて相手の様子を伺った。
 先ほど森の中で先を歩いていた主かもしれなかったが確証のないことだ。それにしても、夜は冷え込むというのに水浴びとは、どういう神経をしているのか。今は真冬ではないが、水浴びに適している時期ではない。
 若者は水浴びを続ける相手の体つきを観察した。細く白い身体だ。が、繊弱であるというわけではなさそうだ。
 実際、この岩場を歩いてきたのなら、弱い足腰ではここまでやってくることもできまい。動きは機敏だが、全体的に柔らかさを感じさせるものだった。
 どれほどの間、相手を見ていただろうか。ゆっくりと晴れてきた靄の間から見える人影の体格と横顔が、さらにハッキリと若者の視界に映った。
 雪のように白い肌にかかる髪は、夜空にまたたく星たちのようにキラキラと輝いて見える。清楚な銀色をしているのだろう。天にかかっている月が靄の隙間から差し込むたびに、水を滴らせた髪が光を放つ。
 髪に縁取られた顔の中で目立つのは高い鼻梁。彫りの深い顔立ちのせいで、相手の横顔が天を向くと、竜が空に向かって吼え立てているようだった。
 やや肉厚の唇や、滑らかだががっしりとした顎が、細い首筋とは対照的な印象を与える。
 厳つくはないが筋肉がのった肩と腕がゆったりとした動きで水をすくい、虚空へと煌めきを弾いて水と戯れ遊んでいる様子は、寒さの中でなければいつまでも見ていたいほど無邪気だった。
 その白い人が、くるりと若者のほうへ身体を向けた。向こうはまだこちらに気づいていないようで、大きく伸びをする仕草は開放感に浸っているようだ。
 が、若者は相手が向き直った瞬間に見えたものに驚き、眼を見開いて息を飲んだ。
 相手の胸には柔らかな双丘があった。
 女だ! 後ろ姿のときには、てっきり細身の男だろうと思っていたのに。
 どうしたことだろう。女の身でこんなガレ場の泉にやってくるとは。よほど曰くのある者なのか、変わり者なのか。
 若者が驚きに身を隠すことも忘れていると、ついに相手の女が若者に気づいた。こちらも驚き、口を半開きにして若者を凝視している。
 互いにまじまじと相手の顔を見つめていたが、最初に動いたのは若者のほうだった。彼は手にしていた剣を岩場の隙間に突き立てて辺りを見回した。そして、女が脱ぎ捨てていた衣類を見つけると、それを取り上げて相手に示す。
 泉から上がるよう促したのが相手にも伝わったらしい。女はバシャバシャと水音を立てながら岸へと近づいてきた。
 若者は手近な岩にそれを乗せ、剣を突き立てた場所まで後戻りした。
 先ほどから女は前を隠そうともしない。羞恥心というものがないのかもしれないが、若者は自分の中の礼儀で相手に不躾な視線を送るのを控えようとしたのだ。
 しかし、眼を背けようとした一瞬の視界に、若者は不可解なものを見つけてしまった。
 女の胸には果実を思わせる見事な膨らみがあるというのに、滑らかな腹部の下に、女ならばないはずのものが、しっかりと存在しているではないか!
 ギョッとして若者はその場に立ち尽くした。顔を背けることも忘れて、相手の身体に視線を這わせる。女の円みのある体格でも、男のがっしりした体格でもない、微妙な……いや、曖昧な体格の生き物が若者の目の前にはいた。
 男と女の特徴を併せ持った存在がいることを聞いたことがある。だが、目の当たりにしてみると、それはまったく別の生き物のように思えた。
 互いに一言も発しないまま、若者は相手を凝視し、白い者は暢気に身体を拭いて衣服を着込んでいる。奇妙な沈黙であるはずだが、夜の(とばり)の中では、そんな沈黙の時間もあるかと思わせた。
 異質な存在は衣装を着終わると、サバサバした様子で若者に向き直った。まったく相手の視線を気にしていなかったようだ。天にかかる朱き月のような瞳がヒタと若者を捉えるが、それは非難しているようには見えなかった。
「お前は、なんだ……?」
 若者はようやく重たい口を開いて問いかけを発した。その声は岩場のあちこちに反響して、何度となくこだまを返してくる。お前はなんだ、という問いかけは、問いかけを発した若者自身にも向けられたように錯覚させられた。
 白い者が首をひねる。こちらの言葉が理解できないのかもしれない。若者の間近まで歩み寄ると、戸惑いを浮かべる相手の額に掌をかざし、若者の黒い前髪をサラリとなで上げる。
 背格好は若者のほうがやや高い。体格も若者のほうががっしりしている。しかし、警戒心を露わにする若者に対して、白い存在には相手の懐の中にスルリと潜り込んでくる無防備さがあった。
 ゾクリと若者の身体が粟立った。恐怖ではない。何か血が沸騰するような奇妙な高揚感に目眩がして、若者は白い手から逃げた。
「オマエノコトバ、ムズカシイ。モウイチド、サワラセロ」
 異質な存在が抑揚のない声を発する。男なのか女なのか判らない奇妙な声に、若者は瞠目して立ち尽くした。
 それを了承と受け取ったのか、白い存在は若者の首筋に腕を絡ませ、彼の黒髪越しに白い額を押しつけてくる。生き物の温みに、若者の身体から力が抜けていった。
「判った。もうしゃべることもできる。“お前はなんだ?”と言ったのだな。我は……そうだな、我らの言葉では両性体(ヤザン)という。お前の言葉だと両性具有という存在のようだ」
「なぜ俺の言葉を?」
「お前は遠くからきた者なのだな。我らの言葉と違う言葉を話した。相手の言葉が判らぬでは話もできんだろう。だから、お前の頭の中にある言葉を教えてもらったのだ。……ほら、こうやって」
 再びヒラリと白い掌が舞い、若者の額にかざされた。再び生き物の温もりが若者の額に伝わったが、それ以外は何が起こるでもない。
「それだけで判ると? 見ず知らずの者を随分とあっさり信じるのだな。俺には信じられん」
「悪意ある者を魔霧が生かしておくものか。お前はこの泉に辿り着いた。それだけで充分だ」
「あの雲か? あれに意志があると?」
 白い存在が首を傾げ、にっこりと笑みを浮かべた。そんな仕草だけ見れば、女が微笑んでいるような優しげな印象しか受けないが、声や口調は男とも女とも判らない。
「我ら一族の言い伝えでは、魔霧を抜け出る者は幸運をもたらすとされている。遙か天の月より使わされた竜の化身だとも言われている。お前は、竜か?」
 相手の無心な瞳に、若者は再び絶句した。自分が竜などと、どこをどう見たらそんなものに見えるというのか。
「違うな。俺は人だ。竜じゃない」
「でも、竜が持つ瞳を持っている。やはりお前は竜なのだろう」
「やめろ。この瞳は俺の一族の間では珍しくない。お前は見慣れないものを見て、勘違いしているだけだ」
 不快そうに眉を寄せた若者の様子に、白い者は哀しげに項垂れた。がっかりしたらしく、肩を落とす様子が胸に痛い。
「魔霧を抜けてきた竜は幸いをくれると聞いて、ここまでやってきたのに。本当に竜ではないのか?」
「俺は海を渡ってやってきた。月からきた竜などではない。残念ながら、竜なら他を当たってくれ」
 さらに悄然と肩を落とした目の前の者に、さすがに若者も決まりが悪くなってきた。
「もう少し待ってみたらどうだ? 本当の竜がくるかもしれないぞ。俺みたいなまがい物ではなくてな」
 若者の言葉に白い者が顔をあげ、力無く微笑みを浮かべてそっと首を振る。
「お前、名は……?」
 若者が再び口を開いた。困ったように眉を寄せる顔つきに、白い存在は小さな笑い声をあげる。震える笑い声が岩場に反響して、辺り一面が笑いの渦に巻き込まれた。
「お前、面白いな。どうしてお前は悪くないのに、そんなに困った顔をするのだ?」
 若者がムッとした表情で口元を曲げる。その表情を見て、白い者はさらに笑い声をあげて身を翻した。腰の高さほどの岩へ舞い上がると、クルクルと身体を回転させてなおも笑い続ける。
「何が可笑しい!」
 若者の苛立った声も岩場に反響し、笑い声とささくれた声が不協和音を辺りに轟かせた。くわんくわんと鳴り響く鐘の音に似た反響に、二人が顔をしかめてしばし黙り込む。
 ようやく周囲の音が静まったとき、白い者が天を指さして囁いた。
「我の名はルラン。我らの一族の言葉で“二つの月”という意味だ。白き月と朱き月が交わった日に生まれた」
 クルリと身体を回転させると、ルランは岩の上から飛び降り、若者の顔を覗き込んでクスクスと笑い声を漏らす。
「お前のことはドルクと呼ぶことにしよう。一族の言葉で“竜”を意味する言葉だ」
 若者が呆れたように渋面を作ったが、ルランは気にした様子もない。むしろ、自分の考えが気に入ったらしく、若者の周囲をヒラヒラと飛び歩いては、楽しそうな笑い声をあげている。
 すっかり靄が晴れた天空では、黒々とした夜空に鋭い星が瞬き、北天の朱き月が岩場に立つ二つの影をじっと見下ろしていた。

〔 6945文字 〕 編集

Suction of the eye

No. 55 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,Suction of the eye , by otowa NO IMAGE

第02場 薫風にたなびく視線

 嬉しくも気が重い時間がやってきた。
 和紀は自宅の門をくぐると、隣家の門の前に佇む少女にチラリと視線を走らせた。門を挟んだ少女の隣りには、彼女の母親がニコニコと朝に相応しい晴れやかな微笑みを湛えてこちらを伺っている。
 中学に入学してから一ヶ月近く、変わらず繰り返されてきた朝の光景がそこにあった。
「おはよう、和紀くん。いつも時間に正確ね」
 聞き惚れるほどの美声も健在で、身体が宙に舞いそうなほどの心地よい声音に和紀の心臓は早鐘を打ち始める。
 なぜ、この人はこんなにきれいな声が出せるのだろう。もしもこの女性が歌でも歌おうものなら、そこらの三流ポップス歌手顔負けの迫力のある歌声が出せるのではないだろうか。
 和紀は緊張に肩をいからせながら、おはようございますと挨拶を返したが、まともに相手を見ることができず、オロオロと視線を彷徨わせた。そして無表情なまま佇んでいる娘の薫と視線が交わり、さらにうろたえる。
 初日からずっとこの繰り返しだ。見送りに立つ薫の母親に逢い、その声を聞けるのは密かな楽しみになっているが、学校までの遠い道のりをこの少女と一緒に歩いていくのは、少々……いや、かなりの苦痛を強いられる行為だった。
「和紀くん、今日もよろしくね。……薫ちゃん、気をつけて」
 自分の娘に「ちゃん」付けはどうかとも思っていたが、この女性がやると嫌味を感じない。いってきます、と平坦な返事を返す娘のほうが不作法であるような気さえしてくる。
 薫と連れだって歩き始めてすぐ、和紀はふと後ろを振り返った。
 敷地の中に立ったまま、娘の背中を見送る女性の姿が目に入り、彼は慌てて視線を逸らす。薫の母親がひどく切なそうな表情で娘の後ろ姿を見つめていた。彼女の顔に浮かんだ感情が、和紀にはどうにも理解できなかった。
 娘は背後の母親の視線などまったく感じていないのか、スタスタと一人で先に歩いていってしまう。可愛げがないといってしまえばそれまでだが、そのドライな態度が彼女の瞳の奥にある暗さを押し隠していた。
 初めて目にしたときの暗い雰囲気は、とりあえず朝の登校時には見ずに済む。朝っぱらからあの瞳を見せられたのでは気が滅入ってしまう。それだけがせめてもの救いだろうか。
 自宅が見えなくなってしばらく後、薫の歩調が緩んだ。これもいつものことだった。この付近にくるまで、彼女は一刻も早く自宅から離れたいとばかりに、後ろを振り返ることなく早足で歩くのだ。
 母娘の仲が悪いようにも見えないが、薫が母親の何かを重荷に感じていることだけは確かなようだった。
 和紀は出かかったため息を飲み込むと、少女より半歩先を歩き続けた。
 初夏間近の日差しは朝の空気を輝かせる。風に乗って草の青い匂いが届くと、差し迫った連休のことや空手道場の練習試合のことやらがふと頭を過ぎっていった。
 あと一週間足らずで登校時の苦痛から一時的に解放される。気詰まりな相手と何十分も一緒にいるのは道場の特訓よりも辛かったが、そんな苦悩も束の間とはいえ忘れることができそうだ。
 本来なら薫が学校までの道順を憶えた時点で別々に登校すれば良かったのだ。しかし、門まで毎朝見送りにくる薫の母親からさりげない懇願を感じ、今日までズルズルと一緒に登校するハメになったのだった。
 初日から学校ではこの外見だけは美少女な薫と和紀がつき合っていると噂が広まったのだが、彼女の冷徹そのものの視線と無言の迫力に気圧され、そんな噂も二週間も過ぎた頃には立ち消えている。
 気の強そうな女とつき合うなどごめんだと同級生の男子に触れまわっているせいか、トチ狂った上級生の男子から薫への橋渡しを頼まれることさえあった。
 相手からの言伝を薫に伝える程度の手助けしかやらないが、一撃で玉砕していることは、隣を歩く少女の冷淡な態度を日々見続けていれば明らかだった。和紀にはとても彼女にしたいとは思えない。
 いったい全体、彼女は何を考えているのだろう。一緒に登校していたところで会話があるわけではない。気詰まりなだけの相手といても楽しくなかろうに。
 和紀が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、彼の目の前に薄いピンク色をした封筒が差し出された。
「なんだよ、これ?」
「昨日の放課後、隣の女子に頼まれたの。中身読んだら返事してよ。渡してないのかって恨まれるのは厭だから」
「なんでその女が直接渡しに来ないんだよ」
「そういうあんただって、バカ男の使いっ走りで私に伝言しに来るじゃない」
 自分に告白しにくる上級生をバカ男呼ばわりするとは、なんという奴だろう。普通は自分に好意を示した相手を悪く言う者はいない。いるとしたら、よほど性格がねじ曲がっているのが相場だ。
 和紀は隣の少女を呆れ顔で見つめた。
 見た目が美形で他の女子と群れることがない薫は、周囲の男子生徒からは高嶺の花だと思われている。そのため呼び出してくる男子生徒の大多数は、軟派ながらかなり顔立ちが整った「美男子」だと言ってもいい。
 その先輩たちをバカ呼ばわりしたことが他の女子に知れようものなら、薫は良くて無視、悪ければいびられることになるだろう。女子生徒の陰湿なイジメは凄まじいと聞くが……。
「お前、バカ男なんて他の女子に聞かれるなよ。逆恨みされるだけだぞ」
「バカ男にまとわりついているバカ女にも興味はないわ」
 この少女には他人とのコミュニケーション能力が欠如しているのではなかろうか。立てなくていい波風まで立てようとしているとしか思えない。自分を追い込むようなことをして楽しいだろうか。
 和紀は押しつけられた手紙のことも忘れ、隣を歩き続ける少女の整った横顔を注視した。
 ハッとするほどの美少女であるにも関わらず、そこには硬質ガラスの冷たさと人形のような生気の無さしか感じ取れない。彼女には投げやりというか、刹那的なところがあった。
「手紙、読まないの?」
 チラリと横目で睨まれ、和紀は慌てて視線を手許に落とした。
 可愛いと言われている隣クラスの女子の名が封書に書かれている。散り果てた桜の花で染めたような封筒の色は甘ったるく、手紙の送り主の性格をよく表しているような気がした。
「これ、手渡されたときって他にも誰かいた?」
「いた、ウジャウジャと。手渡した子と同じクラスの女子がきゃあきゃあ冷やかしてたね」
 どうやら女子の仲良しグループぐるみで画策した手紙らしい。それだけで内容が知れようというものだ。読む気にならないが、無視しようものなら陰口を叩かれることは目に見えていた。
 容姿に自信があって友人に応援されながらの手紙や告白は、相手の男は振りにくい場合が多い。下手に振ると当の本人よりも外野が大騒ぎして男をなじるからだ。はた迷惑極まりない女の友情というやつだった。
 渋々と封を切った和紀は、手紙の書き出し数行を読んだだけでため息をついた。案の定、ピンクの紙の上にはつき合って欲しいことと今日の放課後に返事を聞かせてくれなどと書かれている。
 ここでつき合うことにしようものなら、今度の連休は絶対に初デートで潰される。空手道場の練習試合など、女子には地味すぎてつき合う気にもならないに違いなかった。
 いや、今後の展開を冷静に予想している時点で、自分にはこの手紙の主のことをどう思っているのか判ってしまうではないか。
 こんな手紙をもらえば、可愛い彼女が出来ると舞い上がる者もいるだろう。がしかし、生憎と和紀は今は空手のほうが面白かった。道場の熱気に身を置いていると、自分がどんどん強くなっていく気がしてならないのだ。
 そんな想いをこの手紙の主に話したところで理解はされまい。可愛い服を着て、テーマパークや映画でデートをするのが恋人同士の有りようだと思い込んでいるような人種なのだから。
 読み終わった手紙を封筒に戻しながら、和紀は一も二もなくこの申し出を断ることに決めた。取り巻きの女たちが人でなしだとか冷血漢だとか騒ぎ立てるだろうが、その罵りを甘受してでも自分の自由を明け渡す気にはならなかった。
 ふと隣を見れば、淡々とした足取りで薫が隣を歩いている。
 実は和紀は初めて一緒に登校した日から、女子では少し早いくらいのペースで歩いていた。歩調を合わせる気遣いを見せなければ、翌日からは薫のほうから別々に登校しようと言い出すかもしれないと思ったからだ。
 ところが、彼女は平然とした顔でついてきたのだ。
 身長が指一本分ほど彼女のほうが高いのだから歩幅も同じようなものだとは思っていたが、毎朝のロードワークを欠かさない自分についてこれないだろうと予想していたのが大きく外れてしまった。
 まったくもって予想を裏切り続ける女だと思う。
 こんな理解不能な奴と家が隣同士だというだけで、同級生からは幼なじみだと誤解を受けているのだ。知り合って一ヶ月ほどだと言ってもほとんど誰も信じてはくれないのだから、人間というのはいい加減なものだ。
 チラチラと横目で盗み見しているうちに、周囲に同じ制服を着た人影が目立つようになってきた。もうあと五分も歩けば学校の門が見えてくるだろう。今日の苦行からもやっと解放される。
「薫ぅ~。英語の宿題やってきた~!?」
 遠くにバタバタと両手を振り回しながら駆け寄ってくる少女の姿が見え隠れしていた。人付き合いの悪い薫の態度にもめげずに入学当初から張りついている少女だ。
 他の女子とも上手くつき合っているようで、彼女のお陰で薫はクラスから浮かずに済んでいた。
 薫は近づいてくる少女をジロリと睨み、宿題を丸写しする気ならノートは見せないと冷淡にあしらう。
「違うって! 辞書引いても全然判らない文法があるんだよぅ。薫なら訳せたでしょ~。教えてよぉ」
「その判らない文法って訳文全部なんて言わないでしょうね?」
「いやだ、いくらなんでも全部なんて……五ページくらい、かな?」
「それ、宿題の九割じゃない。本当に判らなかったの? 単に途中で面倒になって宿題するの止めただけでしょ」
「まぁ、そうとも言います。……って、薫ぅ。無視しないでよ~!」
 少女たちのやり取りを盗み聞きしながら、和紀は二人よりも数歩先を歩き始めた。
 この状況なら薫を置いて先に行っても問題はないだろう。が、あからさまに駆け出していくのも体裁が悪い気がして、ついつい近くを一緒に歩いて校門をくぐることになるのだった。
 どうして自分はこの結城薫という少女ばかり気にしているだろう。他の女子なら適当に合わせるか、サラリと受け流すかして適度な距離を保つのに、彼女のことになるとそのバランスを失ってしまう。
 和紀は薫の鋭い声を背中で聞きながら、答えの出せない自問自答を繰り返すのだった。


 待ちに待った連休が来ると、和紀は道場に入り浸って試合や練習に明け暮れた。身体を動かせば動かすほど成果が出るのが体感できるというのは、モチベーションを高めてくれる良い要素だった。
 しかも休みの後半数日は兄の正紀も道場に顔を出していた。大学に入ってからは空手道場に通うのを止めていた兄だが、たまに地元に帰ってくるとフラリと稽古場に顔を出すことがある。
 師範に次いで兄に褒められるのが嬉しくて、練習にも力が入ろうというものだった。
「よぅ、和紀。今日は練習は午前中で終わりだろ?」
「え? うん、俺は飯喰ったら自主トレしようかと思ってるけど……」
「母さんが昼飯は家の庭でバーベキューだとか言ってたぜ」
「げぇっ。肉喰えるのは嬉しいけど、後かたづけは俺の仕事じゃねぇかよ。コンロの始末とかしてたら午後からは練習出来ないぜ」
「俺の仕事じゃなくて俺たちの仕事だろ。面倒な思いをするのは俺も同じだっての。いいじゃねぇか、腹一杯好きな肉喰えるんだから」
 稽古が終わって三々五々に散っていく仲間たちと別れ、和紀はブツブツと不平を漏らしながら家路についた。
 隣を大股で歩く兄の様子は平然としたもので、この後に待っている天国と地獄のことなど気にも留めていないらしい。あるいはすでに諦めの境地に立っているのだろうか。
 家の近所の公園を突っ切り、玄関前のアプローチに差し掛かると、兄が言った通り香ばしい肉の匂いが漂ってきた。庭の植え込みの向こうで人が動く気配もしており、すぐにでも食事が出来るようだ。
 どうせ後で力仕事が待っているのなら、その前の食事を楽しまなければ損というものだ。
 和紀は兄に習って開き直ると、稽古の胴着を部屋に放り込み、アタフタと庭に降りていった。
「腹減ったよ。俺の肉、ちゃんと残ってる~?」
 今日は単身赴任中の父も一人暮らし中の兄も帰宅しており、久しぶりに家族が揃う日だった。母親が開放感からバーベキューをやろうと言い出すのも、思えば不思議はないのだろう。
 だが、庭に駆け込んだ和紀はその光景に眼を丸くした。
 のんびりとした足取りで後からやってきた兄に背中を叩かれなければ、唖然としたまま棒立ちになっていたことだろう。
 なぜ、隣の結城家の人たちがいるのだろうか。いや、正確には薫とその母親だけが我が家のバーベキューに参加しているのだが。未だに和紀は隣家の主人の姿を見たことがなかった。
「あら、二人とも遅かったわね。空手の稽古、長引いたの?」
「少しだけね。腹減ったよ。俺と和紀の分の肉、ちゃんと残してあるだろうな。野菜ばっかり喰わされたんじゃたまらないぜ」
「残してますよ、失礼な子たちね! ほら、正紀。あんたは初めてでしょう。挨拶なさい。三月の末にお隣に引っ越していらっしゃった結城さんよ。薫ちゃんは和紀と同い年だし、せっかくのバーベキューだから誘ったの。静ちゃん、うちの上の息子の正紀よ。前に話しだけはしたことあったわよね?」
「えぇ、お聞きしたわ。よろしく、正紀くん。お逢いできて嬉しいわ。工学部にいらっしゃるんですってね。それに和紀くんと同じくスポーツマンだって。……和紀くん、こんにちは。いつもありがとうね」
 薫の母親の歌うような美声は健在だった。
 兄の正紀が面食らって言葉を失うのを、和紀は隣で面白くなさそうな顔で見上げていた。
「初めまして、薫です。……よろしく」
 母親に続いて頭を下げる薫の声が聞こえなかったら、兄はボゥッと正体を失ったままだったのではないだろうか。
 ふと気になって父親を振り返ると、目尻を下げた父の顔が目に入ることになり、和紀は小さくため息をついた。どうやら薫の母親の美声は綿摘家の男に絶大な効果があるらしい。平然としている母が羨ましくもある。
「さぁ、食べて食べて。お肉が焼けすぎて不味くなっちゃうわよ。ほら、静ちゃんも薫ちゃんも遠慮しないで!」
 母親はこの母娘がすっかり気に入ったらしく、自分よりも十歳は若い薫の母親を馴れ馴れしく名前で呼んでいた。その影響で、和紀も逢った当初から薫のことを名前で呼ばされる。姓の結城で呼んだのでは母か娘か判らないからと。
 そんなのは屁理屈だと思うのだが、母が一度言い出したことは滅多なことでは曲げない頑固者であることを知っている和紀は、抗議の言葉をグッと飲み込むしかなかったのだ。
 兄と肉の取り合いをしながら、和紀はコッソリと薫の様子を盗み見ていた。
 どうして今日の誘いに乗ったりしたのだろう。やはり母親と一緒だからつき合ったのだろうか。そうでなければ、彼女がこの家に足を踏み入れるとは思えなかった。
 本当に何を考えているのか判らない少女だ。母親たちに話しかけられると、義理で微笑みを浮かべることはあるが、そうでなければ顔の表情一つ動かさないのではないだろうか。
 いや、今日は珍しくふと表情が和むときがある。和紀はその僅かな瞬間を何度か目撃し、彼女が向ける視線の先を確認した。
 ──兄貴を見てる。
 兄の正紀は弟の自分から見ても格好いい。同級生たちはそういうのをブラコンと言うんだと囃し立てるが、兄の切れ長で鋭い瞳と筆で描いたような形のいい眉だけでも人を惹きつけるものがあると和紀は思っている。
 まして空手やサーフィンといったスポーツで身体を鍛えており、Tシャツの袖口から覗く腕は適度に日焼けし、筋肉質で逞しい。
 自分もいつか兄のようになるのだと密かに思っているだけに、和紀は薫が兄に向ける視線に気づいてしまった。なんだか面白くない。兄に賞賛の視線を向ける少女の態度が気に入らなかった。
 今まで兄に熱視線を送った女がいなかったわけではないのに、今回はどうしてこう気に入らないだろう。理由が思い浮かばないのに、ひどく苛立ちを感じるのはなぜだろうか。
 もやもやとした内心を抱えたまま、和紀は焼き上がった肉を頬張り続けた。
 兄に憧憬の視線を向ける薫も、そんな彼女の内心を知ってか知らずか平然と話しかける兄の態度も、見ているとムシャクシャしてくる。視界に収めないようにしようとすればするほど、そちらのほうが気になって仕方がない。
 どうかしている。今までだって兄は同年代の女性や年下の少女たちと普通に会話していたではないか。それなのに、なぜいつもは無愛想な薫がぎこちなくも微笑みを浮かべている様子に苛立つのか判らなかった。
「あらぁ、お肉がもうないわ。和紀、冷蔵庫から新しいお肉を取ってきてちょうだいよ」
 母親の言いつけに生返事を返し、和紀は家の中に駆け込んでいった。
 兄と薫から視線を背けることができるのなら、こんな簡単な手伝いどころか、なんでもやったに違いない。
 台所のひんやりとした空気の中、和紀は気難しげに眉間に皺を寄せて立ちすくんでいた。不条理な苛立ちが少しでも落ち着きはしないかと思いながら。
 だが彼の期待も虚しく、ささくれだった内心はそう簡単には平静さを取り戻しそうもなかった。

つづく......

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Suction of the eye

No. 54 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,Suction of the eye , by otowa NO IMAGE

第01場 冷たい顔

 南国では桜の花も花開いた時期だが、この地方ではまだ薄桃色の花びらはほろほろと微かな彩りしか見せていなかった。日中の暖かな日差しが消えると、未だに空気はグッと冷え込んでくる。
 それは、こんな季節に始まった。
 和紀は己の鼓膜を叩く騒音に、不機嫌そうに眉をしかめた。玄関のチャイムが聞こえる。居間のテレビを見ながら夕食を待っていたが、台所から応対するように呼ぶ母親の声に急かされて重い腰をあげた。
「めんどくせぇなぁ……。こんな忙しい時間になんだっていうんだよ」
 自分はまったく忙しくないが……いやいや、テレビを見ていたのだから、大いに邪魔された気分であることは間違いない。忙しいといえば忙しいのだ。
 だが、不平不満は多々あれど、グズグズしていると母親から鉄拳が飛んでくることは間違いない。「あんた、中学生にもなろうっていうのに、お客さんとの応対一つできないの!? わたしはそんな風に育てた憶えはないわよ!」ときたものだ。
 玄関の向こうで大人しく立っている来訪者の影がドアガラスに透けて見える。背格好から女性らしいということが判ると、和紀は少しだけホッとした。
 夕食どきになるとやってくるセールスマンだと、しつっこくて面倒なのだ。もっとも女性でも押し売りの類はいるのだから油断はできないが。
 家庭のセキュリティーをあげるなら、居間か台所辺りに防犯カメラのモニタでもつけておけばいいのだろうが、生憎とこの家にそんな高価な代物はない。覗き穴からそっと相手を観察してみると、見たこともない中年女性が立っていた。
 人の良さそうな顔つきだ。卵形の綺麗な輪郭を縁取る黒髪は、玄関の防犯灯に照らされてもなお黒々と輝いている。今どき真っ黒の髪とは珍しい。もしかして染めているのだろうか。
 伏し目がちな睫毛の影が白い頬に映っていた。微かに震えるその動きで外気温の低さが伺い知れる。全体的な雰囲気から、自分の母親より若そうだと和紀は判断した。年上の女性ながら、この人は美人の部類に入ると余計な採点までしてしまう。
「どちら様ですか?」
 それでも用心深くインターフォン越しに声をかけた。美人だからって気を許すと、立て板に水の勢いでセールストークをまくし立てる喧しいおばちゃんだったというオチはご免被りたい。
 ところが、和紀の問いかけに「隣りに越してきた結城ゆうきと申します」と返ってきた。
 その相手の女性の声に和紀は思わず聞き惚れそうになった。こんなに柔らかで優しい音色をした声は初めて聞いた気がしたのだ。いや、高級デパートの受付に座っている見目麗しい女性たちもこんな柔らかな声をしていたはず。もしかしたら、それ以上に耳心地の良い声かもしれない。
「ちょっと待ってください」
 うっとりと相手の声を反芻しながら、そういえば昼間に引っ越し業者が隣りに出入りしていたっけと夢見心地で台所へ飛んでいった。
「お隣に越してきた人だよ。結城さんだってさ」
 最後の盛りつけにかかっていた母親が「あらあら」と手櫛で髪をかきあげて玄関へと出ていく後ろ姿を、和紀はちょっと羨ましそうに見送った。今風に茶髪に染めて若作りしている母親の若々しい声以上に、訪問者の声音は綺麗だった。
 訪問者の正体が判ったら自分のお役はご免のはずだが、今回の女性の声はもっと聞いていたい。もしもあの声で勧誘でもされようものなら、間違いなく誘いに乗ってしまうだろう。
 居間の敷居の側でウロウロと歩き回り、和紀は玄関口の話し声に耳をそばだてた。だが母親の大声が聞こえるだけで肝心の女性の声が聞こえない。
「もぉ~。なんて厚かましい大声あげてんだよ。ったく、聞こえねぇってば」
 ブツブツと小声で母親を罵ってみるが、こればかりはどうしようもない。それでも、どうにかしてもう一度声が聞けないものかと息を潜めてみる。図太い顔をして相手の前に出て行くには、和紀は複雑なお年頃すぎた。
「和紀ぃ。ちょっと出てらっしゃい!」
 イライラと気を揉んでいた彼は、母親の呼ぶ声に文字通り飛び上がった。引っ越しの挨拶に訪れたくらいで、自分が紹介に呼ばれるとは思ってもみなかったのだ。それともその訪問者の前で何か余計な用事でも言いつけられるのか。
 どきどきと心臓を踊らせながら恐る恐る玄関に近づいていくと、母親が一生懸命に手招きしている。扉の向こうに見える女性の清楚さと自分の母親のガチャガチャした態度の落差に、和紀は一瞬複雑な気分になった。
 がしかし、こちらに微笑みを向ける訪問者の雰囲気を感じ取り、彼は身体を緊張させた。顔が赤くなっていないかといらぬ心配をしながらドアの脇に立った和紀は、女性の顔を見るのが気恥ずかしくて母親の顔を見上げて問いかけた。
「なんの用? テレビ見てたのに」
「まぁ、可愛くない! まったくこれだから男の子は……」
 つい憎まれ口を叩いてしまう自分の口が恨めしいと思ったのは、今日が初めてかもしれない。内心とは反対に口を尖らせると和紀はそっぽを向いた。
「用がないならテレビ見たいんだけど」
「何言ってるの。用があるから呼んだに決まってるでしょ?」
 母親が自分の肩を押さえつけて、無理矢理に訪問者のほうへと向き直らせる。まともに顔を合わせることになって、和紀はあからさまに頬を染めた。玄関ホールと外の防犯灯の双方に照らし出され、彼の頬は熟したオレンジのような色になっている。
「うちの息子よ。今度、中学一年生。お宅のお子さんと同い年だから一緒に登校すればいいわよ」
 突然にベラベラとしゃべり始めた母親の言葉に面食らって、和紀は目をパチパチと瞬かせた。目の前にある女性がおっとりとした笑顔でこちらの顔を覗き込んでいて、心臓が飛び出しそうなほどドキドキする。
 その女性の視線がふと外の暗がりへと向けられた。白いうなじがブラウスの首から覗き、灯りの下で生白く光る。中年女性の後ろ髪は綺麗に櫛を入れて結い上げられていた。
「薫ちゃん、こちらに来てご挨拶なさい」
 柔らかな声に和紀はうっとりと聞き惚れて頬を緩める。なんて綺麗な声だろう。やはり今までに聞いたことがないほど心地よい声だ。
 自分にはかなり年上の兄がいることもあって、母は同級生たちの母親よりも年上であることが多い。対抗意識を燃やしているのか、母はいつも若作りをしており、声も溌剌とした若さを意識して大きめだった。
 その颯爽とした母親の声とはまた違った力強さと柔らかさを持ったこの女性の声は、聞く者の心を溶かしてしまう魔力を秘めているに違いない。
 女性に手招きされて暗がりから現れた人影が目にはいると、和紀はビクリと身体を震わせた。
「まぁ! お母さんに似て美人だこと! やっぱり女の子はいいわねぇ。わたしも欲しかったわぁ」
 母親が耳元で大声をあげなければ、和紀はポカンと口を開けたまま相手の顔に穴が開くほど見惚れ続けていただろう。
「娘の薫。和紀くん、同じ学校に通うのだけど通学路を教えてやってもらえるかしら? 土地勘が全然ないところだし、学校はちょっと遠いみたいだから」
 弓張月のように綺麗なラインの眉をひっそりとひそめて、女性が和紀の顔を再度覗き込んでくる。色白の肌に大きな黒目がよく目立つ顔立ちだと、和紀はそのときになってようやく相手の女性の顔をまじまじと観察した。
「い、いいですよ。ここから学校までの通学路は少し複雑だし、一緒の時間帯の通学でしょ? 憶えるまでなら……」
 この女性は美人の部類に入れてもいい顔立ちだと思う。だが娘のほうは……なんというのだろう。母親が包み込む真綿のような優しさと美しさだとしたら、薫と呼ばれた娘は、彫像のように硬質で、ピリピリとした鋭さをもつ刃のようだった。二人とも美人ではあるが、雰囲気も顔立ちも似ているとは思えない。対極にあるような親子だった。
「よろしく……」
 口数少なく頭を下げる少女は、ニコリとも笑みを浮かべずに母親の女性の側に立っている。彫刻芸術のような綺麗な顔が、かえって彼女の冷たさを際だたせているように見えて和紀は視線をそらせた。
 日本人にしてはやや薄めの色素をしているようだ。濃い茶髪に明るい茶の瞳は、全体的に彼女の印象を明るめのものにするはずなのだが、どういうわけか鋭さを前面に押し出した薫の態度は暗い印象を拭えない。
「こちらこそ、よろしく」
 そそくさと返事を返し、再び視線を合わせることなく和紀は返事を返すと、クルリと背を向けて居間へと駆け戻った。
 ずっと彼女を見ていると頭がおかしくなりそうだった。暗い淵に引きずり込まれそうな薄ら寒さに和紀は身震いした。
 背後の玄関からは母親の呆れ声が聞こえていたが、彼はソファに身を沈め、クッションをきつく抱きしめた。そして、暴れる心臓をなだめるように幾度も深呼吸を繰り返す。
 いつの間にか少女の母親の聞き惚れる美声のことなど忘れていた。あの聞き惚れるほどの柔らかな声から感じる温もりも吹き飛ばすほど、薫の暗い雰囲気のほうが和紀の心を掻き乱していく。
 いや、一見しただけでは彼女が暗いという印象は受けない。あの瞳だ。あの瞳も初めて目にする性質のものだった。薄い色素の瞳は明るさを感じさせる前に人の心を呑み込んでしまう。まるで色をつけた氷のよう。見る者を怖じ気づかせる冷たさが、そこにはしっかりと横たわっていた。
 あんなに綺麗な顔をしているのに、どうして笑わないのだろう。微笑んでいれば、もっと晴れやかで人を魅了することができるだろうに。それとも見知らぬ相手を警戒しているだけだろうか。
 近いうちに始まる中学校生活の始まりを喚起させる訪問者に、なんとも波乱に満ちた未来を想像してしまう。ぬるま湯のような時間から引きずり出され、きりきり舞させられる気配がするのは気のせいではないような……。
 居間に戻ってきた母親が頭を小突いていったが、それを無視すると、和紀は気のない視線をテレビ画面に向けたまま身震いを繰り返した。


 夜明けと同時に始めるランニングはすでに日課となっている。
 大学生の兄が家を出てからも、一人でトレーニングを続けることは止めなかった。長年習っている空手の腕前が、最近になってから急に上達してきてからかもしれない。
 体力がつくにつれて一足飛びに技も冴えてきており、ここで筋力トレーニングを疎かにしたら、せっかく伸びた芽が萎えてしまうのではないかと、心のどこかが怯えているのだ。
 東の空が白々と明けていく様を眺めながら、和紀は庭でストレッチを繰り返していた。充分に筋肉をほぐしてから予定通りのコースを走り始める。幾人もの見知った顔がいつも通りに朝の挨拶をしてすれ違っていった。
 アスファルトの上を走ると膝を痛めるとアドバイスを受けて以来、和紀は公道のランニングを短めにして、近所の広い公園内で走り込みや筋トレをするようになっていた。
 この日も近所をぐるりとまわって公園の前にやってくると、走っていたときの手足の筋肉をほぐしながらブラブラと公園内に足を踏みれた。
 すでに何人かの大人たちがランニングをしたり、のんびりと散歩を楽しんでいたりして、早朝とはいえそれなりに人の姿が見える。
「やぁ、おはよう。綿摘わたつみくん」
 サラリーマン風の中年男性が汗をふきふき近づいてきた。日に焼けた顔で微笑むと実年齢より若くみえる。聞いたことはないが、たぶん四十代後半ほどの年齢だろう。
「おはようございます。早いですね」
「今日は早めに会社に行くのでね。いつもより走った距離も短いよ」
 やや腹が出てきているが、筋肉質の体格から見てもこの男性が身体を動かすことが好きなことは容易に想像がついた。
 男性と別れた和紀はいつも通りのランニングを始めた。公園の土は適度な硬さがあり、確かに公道を走っているときよりも足が楽だ。
 自分のペースを守りながら黙々と走り続け、額にじっとりと汗をかくほどになると今度は筋力トレーニングを始める。目を瞑っていてもできるくらいに馴れたメニューだった。
 いつも通りの内容を淡々と消化して再び最後の仕上げに走り始める頃、和紀は公園内に見慣れない人影を発見した。
 東の空に昇っている太陽をじっと見上げて佇むその人影を確認すると、和紀の足は凍りついたようにその場で止まった。それ以上うんともすんとも動かない。
 昨夜出逢ったあの少女だ。太陽の光を浴びて、昨日以上に明るく見える茶髪がキラキラと輝いている。白い肌は遠目にも血色がよく、輝く茶髪と相まって昨夜の暗い印象とはほど遠い横顔だった。
 色白の肌も髪同様に発光しているような輝きを放っている。こんなに朝日の光が似合う横顔に初めて出逢った。
 茫然とその顔に見惚れていた和紀の背中をポンポンと叩く手がある。
「何を見ているんだい、綿摘くん?」
 ハッと我に返って振り向くと、先ほど公園の入り口付近で会った中年男性が立っていた。今度はスーツ姿である。どうやらこれから出勤していくようだ。公園内を通り抜けて駅まで近道しようというのだろう。
「あぁ……えぇっと……」
 もごもごと言い訳を考えるうちに相手が遠目に見える少女の姿を発見した。
「おやぁ? ずいぶんと可愛い子がいるじゃないか。なぁんだ、あの美人に見とれていたわけかい? それとも口説き落とそうと狙っていたか?」
「そ、そんなんじゃないです!」
「まぁまぁ。そう照れなさんな。あの子、稀にみる美人じゃないか。口説くなら早くしないと他の男に取られるぞ」
「だから! そんなんじゃないって!」
 顔を真っ赤にして反論する和紀の肩を気さくに叩くと、男性は楽しそうに笑い声をあげる。すっかり誤解しているらしい。和紀の言うことなどほとんど耳に入っていないようだ。
「若いっていいねぇ」
 楽しげな笑みを浮かべたまま手を振って立ち去る男性に和紀は地団駄を踏んだ。少しは自分の話を聞け! 誰も彼女を口説くなんて言ってない!
 だが誤解を解く前に立ち去ってしまった男性の後を追う気にもなれず、和紀はむくれたまま少女のほうを振り返った。そして、そのまま射すくめられるように硬直する。
 いつの間にこちらの存在に気づいたのだろう。薄い茶色の瞳でじっと自分を見つめる視線は昨夜の暗さを残していた。全体的な明るさを裏切る彼女の瞳の冷たさが、朝日で温まった和紀の体温を急速に奪っていった。
 だがいつまでもそこに立っていることはあまりにも不自然な気がして、彼はぎこちない動きで相手に近づいていく。できることなら、このまま自宅に走り帰りたいところだが、こうまでしっかりと視線を向けられて、あからさまに無視するわけにはいかないだろう。
 並んでみると彼女のほうがやや背が高いようだ。十代前半ではよくあることだが、和紀は少なからずショックを受けていた。
「お、おはよう。早いね」
「おはよう……」
 澄んではいるが無機質な声で返事を返す相手の前に立つと、和紀は真っ白な頭のなかをフル稼働させて言葉を探した。
「さ、散歩?」
「近所の道を憶えようと思って……」
「似たような家が多いから迷うだろ?」
「そうでもない」
「……そっか」
 あぁ。もう会話が終わってしまった。こんなときいったい何を話したらいいんだろうか。パンクしそうな頭には意味不明な言葉ばかりが浮かび、役に立たないまま消えていった。
「もう走らないの?」
 突然かかった相手からの声に、和紀はビクリと身体を震わせる。予測不能の事態に頭はグルグルしていた。何を言われたのかよく判らない。間の抜けた顔をしていることにすら、彼は気づいていなかった。
「……え?」
「ずっと走ってたでしょう? もう走るのはやめ?」
「あ、うん……。もう、帰るから……」
 帰るからと言いつつ足は根が生えたように動かない。再び太陽を眩しそうに見上げる白い横顔に寂しい拒絶を感じながらも、和紀は心臓を踊らせてじっと薫に視線を注いだ。
「まだ、帰らないのか?」
 恐る恐る問いかけると、ふと我に返ったように少女がこちらへと視線を向けた。昨夜と同じ暗い光を宿した薄茶の瞳がキラキラと光を弾いている。用心深く見知らぬものを警戒する子猫のような瞳だ。
 間近で見ると、薫の顔の造りは本当に整っていた。卵型の輪郭にスッキリと鼻筋の通った顔立ちというだけでも涼やかな印象を受ける。それにアーモンドのように切れ上がった瞳はくっきりとした二重瞼に縁取られ、髪よりもやや濃いめの睫毛が華やかさを添えていた。
 その瞳の上では睫毛と同じ色の眉がきりりとつり上がっている。それは彼女の容姿に鋭さを与えていた。聡明そうな額や滑らかな頬には染み一つない。和紀には文句のつけようがない美貌に見えた。
「帰ろうかな……」
 ポツリと呟くように囁いた少女の唇に和紀の視線は釘付けになった。
 やや下唇が厚めだが、花の花弁を思わせるその口元が微かに震えているように見える。まるで散り際の桜のようだ。
「寒いの?」
「え……?」
 唇の震えの原因が他に思いつかず、和紀は思ったままを口にした。ほとんど顔の位置は同じ高さにあったが、和紀は彼女の唇に目を奪われていて少女の瞳にどんな色が浮かんでいるのか気づいていなかった。
「唇、震えてるから」
 その和紀の言葉に、少女がハッとしたように自分の口元を押さえる。ついで鋭い視線を相手へと向けた。
 険悪なその視線に和紀が狼狽する。気に障るようなことを口走ったつもりはなかった。何にそんなに腹を立てているのだろうか。
「震えてなんか、ない!」
 言いざまに少女は背を向けて走り去っていった。人間に見つかって逃げ出す小動物のような俊敏さだ。後ろを振り返ろうとはしない。
 その背中を呆気にとられたまま見送ると、和紀は自分の唇をそっとなぞってみた。別に唇が震えていたところで何か問題があるとは思えない。どうしてそんなことで怒られるのか、彼には見当がつかなかった。
「なんなんだよ、あいつ……」
 いわれのない怒りをぶつけられた腹立たしさに和紀は頬を膨らませる。駆け去った少女の姿はもう見えなかったが、その消えた背を睨むように彼は眉をつりあげ、唇を尖らせた。
 やはり波乱の幕開けだ。あの少女と一緒に登校する学校までの道のりは、なんと果てしなく感じることだろうか。
 上手くやっていけるかどうか不安になり、和紀は照らし出す朝日とは対照的な想いため息をついた。

〔 7569文字 〕 編集

紫煙の向こう側

No. 53 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,紫煙の向こう側 , by otowa NO IMAGE

 頭の上を通り抜けていく足音。コンクリートと窓ガラス越しのその音は、わずか数メートル先の人の存在を、あまりにも遠いものに感じさせる。
 俺の中に残っているものは、今は胸を塞ぐ苦々しさと喉の渇きにも似たある渇望だけだった。
 半地下のこの店は、今の俺の気分を代弁しているように薄暗い。夜はパブに代わるが昼間はカフェとして営業しているこの店は、客の年齢層が高く、しかも男のほうが多いらしい。
 女性客もチラホラと見えるが、大抵が一人で店にやってきて待ち合わせの相手がくるとすぐに席を立ってしまう。ゆっくりとした時間が流れる場所だが、人々はぬるま湯のような空間に浸っていくことは少ないようだ。
 フゥッと口を尖らせて息を吐くと、細い紫煙が勢いよく噴きだし、すぐにユラユラと空気の中に溶け込んでいく。何度も繰り返してみるが、同じ輪郭を描くものは一つもできなかった。
 生まれて初めて煙草を吸ったのは、ほんの一ヶ月ほど前。それまでは見向きもしなかったというのに、一度吸い始めると日に日に本数は増えていき、今では一日一箱なんてざらだった。
 俺は残り少なくなった煙草を灰皿に押しつけると、新しい一本に火をつけた。
 この国で煙草を吸っていると冷たい目を向けられる。故郷でも嫌煙権を振りかざす人間によく行き当たるが、この国ではもっと徹底している。愛煙家が店に入るときは喫煙席の有無の確認は怠れなかった。
「Hey, boy! You must not smoke.」
 お節介な金髪男が俺に話しかけてくる。
 これで何人目だ? 俺はいい加減うんざりしていたが、ポケットからパスポートを引っぱり出すと、相手の目の前に大きく開いて生年月日の欄を指さした。
 男が俺の年齢を確認して青い目を大きく見開く。やはり五~六歳は年齢を間違えられていたようだ。
 この都市では十八歳から大人の扱いを受ける。喫煙も必然的にその年齢からは咎められない。自己の責任で管理しろというわけだ。
 俺は十九歳になっている。故郷ではまだ喫煙が認められていない年だが、ここでは大手を振って紫煙をくゆらせることができるはずだ。が、実際のところは故郷よりうるさい。ここは見て見ぬフリをするということをしない都市なのだ。
 この国では東洋人は外見年齢で得をすることもあれば、損をすることもある。俺の喫煙は大いに損をしている部類に入った。逐一、パスポートを引っぱり出してきて自分の年齢を教えなければならないからだ。ポリスになるとパスポートが本物かどうかまで疑う奴もいた。
 この店の中では、俺は客層の中では若い年代で、かなり浮いている。さらに煙草の煙を吐き散らして目立っているのだから、他の客に鬱陶しがられていても仕方ないのかもしれないが。
 大人しく自分の席へと戻っていった男が、同僚らしい男に首を振っている姿が目の端に入った。東洋人の年齢を当てるのは難しいとでも言っているのかもしれない。
 煙草は旨いから吸っているわけではない。気を紛らわせるために吸い始めただけだ。手持ち無沙汰になると余計なことを考えてしまうから。
 この夏、俺は最低最悪の失敗をやらかした。今までに築き上げてきた信頼を根底から突き崩す失敗だ。本当ならブタ箱に放り込まれたって文句もいえないはずだが、幸か不幸か、俺はここにこうして座っていられる。
 頭に血が昇ったまま彼女に会いに来たのがそもそもの間違いだったと、今ではちゃんと判っていた。のぼせた頭で考えることなど、ろくなものではない。それでも、焼けつく焦燥感に煽られ、勢いのままにこの国まで彼女を追ってきた。
 バカなことをした。他の奴らとの間には築けない信頼が二人の間にはあったはずなのに、その信頼をアッサリと裏切ってしまった。
 最初はちょっとした事件が発端でこじれた関係だった。しかし、時間が解決してくれるはずの事柄だったのだ。お互いがお互いを庇い合ったためにできた軋みが、最悪の不協和音を奏でる結果になった。
 夏の昼下がり、暑い部屋の中のあの悪夢。彼女がふいに流した涙が、俺の理性を焼き切ってしまった。
 俺のために流された涙だと思った途端、押さえていたタガは外され、凶暴な嗜虐癖が顔を覗かせた。シーツの上に押さえつけた彼女の喉から漏れる嗚咽が、今でもクッキリと思い出せる。
 何もかもが終わった加虐の痕に、俺はゾッとした。何をやったんだ。どうしてこんな真似を、と。
 情交の痕を洗い流して彼女の部屋を飛び出した俺は、一晩中夜の街を彷徨いた。しかし、結局はヘトヘトに疲れた足を引きずって、再び彼女の部屋の扉を叩いていた。
 夏の早朝、本来ならもっと清々しいものだろうに、俺たちの間にあったのはドロドロと歪んだ想いだけだった。
 彼女もほとんど眠っていないのだと、すぐに判った。目の下にうっすらと浮いた隈で、せっかくの美人が台無し寸前だった。俺を見る彼女の瞳は、いつもの力強さが欠片もなかった。
「どこに行っていたのよ。夜は治安が悪いってのに。下手なところに入り込んだら、命が幾つあっても足りやしないわよ」
 罵倒されることを覚悟して会いに行ったのに、彼女は開口一番こう言った。俺がホテルに泊まったとは考えなかったらしい。
 彼女は玄関先で茫然としている俺を部屋に招き入れると、気怠げな様子でキッチンに立ち、熱い珈琲を入れてくれた。そして、そのまま俺の左隣に腰を下ろすと、ホゥッと深いため息をつく。
 非難めいたことは一言も口にしないまま俺の頬をそっと撫でる指先の熱さが、彼女がいかに疲れているのかを教えていた。寝不足で身体がむくむほど俺を待っていてくれたのだと思い上がってしまう。
 しかし、まるで何年もそうしてきたような馴れた仕草が、かえって俺のしでかしたことを激しく非難していた。彼女の中に残っている傷跡に胸を痛めながら、同時にその傷が消えなければいいと心底思った。
「私、ずぅっと一人っ子だったし、小さな子どもの頃も近所の子と遊んだことなかったから、喧嘩したときの仲直りの仕方を知らないのよね。あんた、夜中になっても戻ってこないし、警察に捜索願を出した方がほうがいいのかどうか、散々迷ったわ」
 俺の頬を何度も撫でて満足したのか、彼女は机に向き直ると、ゆっくりと肘をつき、そこにそっと顎を乗せた。伏せられた瞼に浮かぶ静脈が、いつも以上に薄青くハッキリと浮かんで見える。
 あれが喧嘩なものか。俺が一方的に彼女を踏みにじっただけだ。目の前のオモチャを好き勝手にする幼子と同じ。相手のことなど考えなしだった。
 どうしてそんなに静かにしていられるのだろう。俺は彼女をめちゃくちゃにしたのに。当たり前のような顔をして隣りに腰を下ろさないで欲しかった。
 俺を警察に突き出すなり、罵倒して平手打ちにするなり、怒りをぶつけられたほうがいっそスッキリするだろう。彼女の傷が治らなければいいなどと、歪んだ想いを抱かずに済むのに。
 それなのに、彼女はホッと安堵のため息をついた後、珈琲を飲んだらシャワーを浴びて疲れを癒せとまで言うのだ。
 席を立った彼女がキッチンで朝食を作り始めのを見て、俺は矢も楯もたまらず彼女を抱きしめた。他に俺に言う言葉があるはずだ。日常の延長線上ではない言葉が。
 だけど、彼女は俺の頭をそっと抱きしめて力無く微笑みを浮かべるのだ。
「一晩中、泣いていたんでしょう? あんた、意外と泣き虫だもんね。……ごめん。ごめんね。私のせいだよね、あんたがそんなに傷ついているのは」
 彼女は一言も俺を責めなかった。謝るべきは俺のはずなのに、彼女が謝罪しなければならないことなどないはずなのに。
 俺は身体中から力が抜け、その場にズルズルと膝をついた。目の前にある彼女のくびれた腰を抱きしめ、何度も赦しを乞い、好きだと囁き続けた。
 卑怯な奴だ、俺は。好きだから赦してくれと懇願したのだ。俺の気持ちなど関係ない。俺のしでかしたことは、謝罪だけで赦されることではないのに。
 ただ彼女からは赦すという言葉も出なかった。曖昧に微笑みを浮かべたまま、俺の頭をそっとなで続けただけだった。
 消えそうな微笑みを浮かべる彼女を、俺は初めて目にした。キッパリとした拒絶以上に、その微笑みは俺の胸を刺し貫く。俺のことを好きだとも嫌いだとも言わない。
 沈黙が怖いと、このときほど思ったことはなかった。
 俺は彼女の身体を揺さぶって、俺のことが好きなのか嫌いなのかと問いただした。好きになれないのなら、嫌ってくれと、憎んでくれと。どちらか白黒つけたかったのだ。
 でも、彼女は跪く俺を見下ろしたまま、小さく首を振っただけだった。
 残酷な罰だ。彼女が俺に下した罰は、俺にとってはもっとも辛い罰だった。彼女のそばにいることを許してもらった代わりに、彼女の心は俺が手に入れることが叶わないほど遠くへ行ってしまった。
 もしも時間が巻き戻せるのなら、俺は昨日一日をやり直したいと痛切に思った。こんな結末を得るなんて、今の俺には耐えられないと。
 ところがどうだ。あれからほぼ一ヶ月半、いや、二ヶ月近くになるのか、暑い夏が終わり秋風を感じるようになった現在、俺は未だに彼女のそばにいる。平然とした顔をして。しかし、彼女の心を失ったまま。
 あの後、俺は機械的に彼女の入れてくれた珈琲を飲み、言われるままにシャワーを浴びた。その後に二人で彼女の作った朝食を摂り、ろくな話をしないまま彼女を残して帰国した。
 機内で死んだように眠りながら、俺は夢の中で彼女の曖昧な微笑みを何度も見つめ、狂った時間の中で聞いた彼女の嗚咽をなぞった。
 失意のまっただ中だというのに、俺は何も考えられない頭のままで仕事をし、学校に通った。本当に機械のような生活だった。何も考えないようにしていたのだろう。
 それから数週間後、今どき珍しいエアメールが届いた。ヴィジフォンや電子メールが当たり前のご時世に、ポストに突っ込まれていた白い封筒はあまりにも眩しかった。
 彼女からのエアメール。見慣れているはずの彼女の文字が、そのときばかりは見ず知らずの他人が書いたもののように映った。なんて他人行儀なことのするのだろうか、と。
 丸一日、俺はその手紙の封を開けることができなかった。もう失うものなど何もないだろうに、それでも決定的な拒絶をされなかった期待が心のどこかにくすぶっていたのだ。
 この手紙が俺を拒絶するものだったら、俺は今度こそ頭がおかしくなってしまう。今さら突き放すくらいなら、あのときに拒んでいて欲しかったのだ。
 それでも翌日、俺は手紙の封を開いた。宛先を読んだときに封書から薫った香りは彼女がいつもつけていたコロンの香りだった。彼女の触れた封書に書かれている内容がどんなものか、ひどく気になっていたのも事実だ。
 恐る恐る開けた封書の中からこぼれ落ちたのは、一枚のチケットと折り畳まれたパンフレット。そして、掌に乗るほどの小さなカードだけだった。
 チケットとパンフレットは彼女の住む都市で開かれる写真展のものだった。秋に開かれる写真展は、各地でも有名なカメラマンが毎年主宰するもので、なかなかチケットが手に入らないことで知られている。
 職場の先輩や上司がこれを見たら、きっと本来のチケット代の数倍の値段を払ってもいいから売ってくれと言い出しかねない貴重なものだ。
 俺は足下に落ちたアイボリーカラーのカードを拾い上げ、そこに書かれた彼女直筆の文字を信じられない思いで読んだ。
 落ち葉色の蔦模様で囲まれた文章は、その写真展へ一緒に行こうと誘う言葉だった。ツテがなければ入手することができないチケットを、彼女はいったいどうやって手に入れたのだろう。
 いや、それ以上に、俺と一緒にと誘ってくれたことが信じられない。
 俺がカメラマンを目指していることを知った上で誘っているのだ。写真展に赴くなど、自分の趣味でもなんでもないのに。
 俺は時差のことも考えずに彼女にヴィジフォンをいれた。
 それまでは何度もナンバーを押しながら結局繋ぐことができなかった、すっかり暗記してしまった彼女のナンバーがディスプレイで点滅している様子を、俺は混乱した頭でじっと見つめていた。
 真っ暗な画面の向こう側から彼女の声が聞こえても、俺は一瞬言葉を忘れて立ち尽くしていた。すぐに画面が切り替わり、起き抜けらしい彼女の格好を見て、俺はようやく現実へと引き戻されたのだ。
「チケット、届いた?」
 頷いた俺に彼女はそっと微笑みかけ、知り合いが手に入れたが都合がつかなくなったものを格安で手に入れたから使ってくれ、というのだ。
 格安なんて嘘だ。写真に興味ある人間なら喉から手が出るほど欲しい代物だ。誰が行けなくなったからといって格安で手放すものか。
 意外なところで、彼女は嘘をつくのが下手だ。いっそ、賭けで勝負に勝って相手から巻き上げたのだとでも言うほうが、よほど真実味があるだろうに。
「行きたくないなら別にいいよ。チケットは誰か他の人にあげて。私は一人で見に行くし」
 これも嘘だ。俺が行かないと言ったら、彼女も行かないに決まっている。わざわざ出掛けていくほど、彼女は写真が好きなわけじゃない。気晴らしに出掛けるなら、彼女はいつも小さな雑貨が売っている店に足を向けるのだ。
 俺は仕事や学校を休む手筈を一瞬のうちに頭の中で組み立てると、彼女に礼を言いがてら写真展に行く約束を取りつけた。
 途中からは天にも昇るような気分でいた。憧れの写真展に行けるというだけではない、その空間には彼女が一緒にいるのだ。手紙の封を開けるまでの鬱屈した気分などあさっての方角に消し飛んでいた。
 だが、ヴィジフォンを切って興奮状態が落ち着いた頃、俺の心はまたしても暗い気分に覆われていった。
 彼女にこれだけのことをさせながら、俺はいったい何をしてやれるというのか。歪んだまま修正された友情はあまりにも脆い。俺は恋人になりたいと思っていても、彼女はそれを良しとしない。
 俺たちの心は今もすれ違ったままだ。見えない亀裂に目を背け、結果を後回しにしているだけなのだ。
 何度も俺は自分の過ちを呪い、自分の馬鹿さ加減を嘲った。
 あの愚かしい行為がなければ、いつか彼女は俺自身を見てくれたのではないのか。俺を愛してくれたのではないのか。一生を互いの傍らで過ごすことができたのではないのか。
 後悔すればするほど、俺は自分で掛け違えた運命を呪った。呪って、呪って、自分の存在そのものに嫌悪を抱くほど呪って……。
 それでも、どうにもならない想いを抱いたまま、俺は再び彼女の元にやってきた。焦がれ続けた想いを消すことができず、惨めったらしく彼女の姿を追い求めて。
 通りの方角からクラクションの音が響いてきた。けたたましいその音に、俺は考え事を中断する。テーブルの上に置かれた珈琲はまだ半分量ほど残っていた。
 先ほどから指に挟んだままだった二本目の煙草も短くなってきた。約束の時間を五分ほど過ぎている。彼女が遅刻するとは珍しい。
 自分の周囲に漂う紫煙が、ゆったりと俺の肩を撫で頬を滑っていった。まるであの日の彼女の指先の柔らかさそのものだ。
 俺は未練がましく煙草を一吸いした後にその火をもみ消し、肺から最後の紫煙を噴き出すと、目の前に置かれた冷えた珈琲を口に含んだ。
 腕のいいマスターがいれた本格的な味だったが、俺にはあの日彼女のが俺のためだけにいれてくれた珈琲のほうが、俺の性に合っているような気がしていた。紅茶党の彼女が、料理に使うために買い置きをしていたであろうインスタントの珈琲のほうが、俺の今の苦い胸のうちにはしっくりとくる。
 俺はそっと腕に巻きつけた時計を見た。クラシカルなデザインが気に入って買ったものだ。ごつくてやや重たいのだが、俺の腕にはよく馴染んでいると自惚れている品だった。
 時間はいっこうに進まない。冷めきった珈琲が俺の待ち時間の長さをイヤでも認識させる。
 俺がそっとため息をついたときだった。階段を駆け下りてくる足音がし、背後の店の入り口で小さくベルの音がした。
 振り返った俺はそこに目的の人物の姿を認め、店の奥まった席から手をあげて自分の存在を知らせた。
 俺の座っている席を見咎めて彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、足早に近づいてくるとすぐに、煙草の匂いに顔をしかめた。彼女には煙草を吸い始めたことを教えていなかった。
 俺の目の前に立った彼女は、エアメールの中に入っていたカードと同じアイボリーのスーツを着込み、胸元は秋を連想させるくすんだオレンジとダークイエローが入り混じったスカーフで飾っている。肩から下げたやや大きめのショルダーバッグと靴の色は揃いの茶色がかった灰色だ。
 そして、前に逢ったときと同じコロンの香り。小さなパールのピアス。右手の小指を飾るリングはシンプルな金色だ。
「髪に匂いがつくじゃない。なんでそんな不味そうなものを吸い始めたのよ」
 俺の周囲に漂う匂いを追い払うように手を振ると、彼女は俺の向かいの席に腰を落ち着け、彼女の好み通りにミルクティーを注文した。
 走ってきて上気した頬の赤さが可愛らしく見えたが、それを口にすることはやめた。きっと彼女は照れも手伝って、余計に不機嫌になるだろうから。
「待たせたよね。ごめん」
 紅茶が運ばれてくるまでの間、彼女は遅刻を謝りはしたが、遅刻の理由に関しては何も言わなかった。言い訳をしないところがいかにも彼女らしい。
 運ばれてきたミルクティーをゆっくりと飲み干し、彼女が人心地ついてから、俺たちは店を後にした。
 会計を済ませたあとに俺はさりげなく彼女の肩に手を回そうとしたが、彼女は容赦なくそれを振り払い、サッサと先に店を出ていってしまう。俺の目には彼女の行動が俺を意識しての動作だと映るのは自惚れか?
 彼女を追う俺の視線が先ほど俺に注意をしにきた金髪男と絡まった。同僚との会話の合間に、彼はキザにウィンクをしながらこう言った。
「Good rack, boy!」
 俺の年齢が判っていても、彼には俺が子どもに見えるのだろうか。ダークグレーのビジネススーツを着こなし、Good rack.と余裕でウィンクをする男の態度が、俺には羨ましかった。
 軽く手を挙げて男のウィンクに応えると、俺は先に店を出ていった彼女を追いかける。階段を駆け上がると、そこは秋色の風が吹く街角だ。煉瓦で囲われた街路樹の下に佇む彼女が、首をすくめてこちらを見ている。
 日差しは暖かだったが、吹いている風は冷たい。寒がりの彼女には少し辛い季節が近づいてきていた。
「写真展、もう始まっているわよ」
 時間通りに到着しなくてもいいことは彼女も判っているはずなのに、遅れて店から出てきた俺を急かすように、彼女は俺の腕を引いた。
 彼女の指先から感じる温もりに、俺は幸福感に浸り、そして、同時に胸を掻き乱すやるせない想いにひどく傷ついていた。

終わり

〔 7789文字 〕 編集

去りし日々は還らず【後編】

No. 52 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,去りし日々は還らず , by otowa NO IMAGE


 間もなく夏休みを迎える時期。長期休み前の単位試験が終わって、多くの生徒の気が弛んでいる頃だった。
 僕たちの学校は単位制を導入していることもあり、滅多にいないが飛び級を行える学校として有名だ。
 彼女が、結城薫ゆうきかおるが飛び級をして半年早く卒業するという噂が耳に飛び込んできた。よほど頭脳優秀でない限り難しいことだったけど、薫はこれまで一つの単位も落としたことがなかったし、成績も常に上位五位以内につけていた。不可能なことではない。
 それでも、僕たちは彼女に裏切られたような気がした。理事会のメンバーにどれほど冷酷な仕打ちをしようと、彼女は和紀が望むように僕たちと一緒にいるだろう、と思っていたのに。
「そんなバカな! 学年が代わる時期なら判るけど、どうして残り半年っていう時期にいきなり卒業なんだよ!?」
 噂を聞きつけた僕は転がるようにして彼女の部屋へとやってきていた。事の真相を確かめるために。
 暑い日だった。梅雨明けの空気はチリチリと地上のものを焼いて、その年の夏の気温の凄まじさを簡単に予想させる。冷房が効いている室内だから汗一つかかないけど、そうでなければ耐えられない。
「おかしなことかしら? 私、合衆国ステイツの医大に入学が決まったの。だから、あっちの入学にあわせて卒業するだけの話よ。こんなケチな学校、さっさと辞めても良かったけど、卒業単位が必要だったからいただけだわ」
 あまりにもアッサリと認められ、僕は和紀のとき以上に無力感に襲われた。どうして彼らはこんなに簡単に決断し、僕たちを振り切って行ってしまうのだろうか。
 エリックもシャルロットも、翔も誠二もマオも、そして僕も、ただ君たちと笑って一緒の時を過ごしたかっただけなのに。
 春以来、薫はほとんど笑わなくなっていた。いや、表面上は皮肉を口元に湛えた笑みを顔に浮かべていたけど、それは本当の彼女ではない。薫は復讐を果たしたけれど、心の隙間を埋めることはできなかったんだ。
「アメリカの医大への入学なら、来年にしたって良かったじゃないか。今年度に僕たちと一緒に卒業して、来年の入学に合わせて受験することだって……」
「まっぴらだわ。こんな腐った学校、一分一秒だって長くいたくない。早く出ていくことが出来るのなら、それを最大限に活かすわ」
「君まで僕たちを置いていくのか!?」
 カッとして僕は怒鳴りつけていた。薫と同じように僕の鉄仮面も有名だけど、今の僕はそんなものをかぶっているだけの余裕などなかった。
「珍しいわね。竜介がそんな大声あげるなんて」
「話をはぐらかすな! 他の生徒は君の頭脳の優秀さにさもありなん、と言っているけど、僕の目を誤魔化すことはできないぞ。君は……逃げ出すんだ! 引っかき回すだけ引っかき回しておいて!」
「あの騒ぎならもうとっくに決着してるでしょう。私は自分のやりたいようにやっているだけよ」
 薫は平然とした顔で紅茶をすすっている。いつも僕たちを睨みつけている鋭い眼光が、このときばかりは穏やかさを取り戻す。本当は、和紀さえいたら彼女の瞳が怒りに曇ることなどほとんどなかったのに。
 外見の気の強そうな印象とは反対に、彼女の部屋はいかも女の子らしい。そのなかで紅茶のカップを持ち上げる薫の姿は、平素の彼女を知らない者が見たらお嬢様にしか見えなかっただろう。
 押し黙った僕に視線を戻すと、薫は自嘲めいた笑いを口角の端に浮かべて僕に紅茶を勧めた。普段なら僕も素直に従っただろう。けど、今は彼女の言葉に従う気分にはなれなかった。
「君は和紀がいないと手負いの獣だね。幼なじみが側にいないだけで、どうしてそんなに荒れ狂うんだよ」
「何言ってるのよ。和紀のことは関係ないでしょう。どうして皆、誰かと誰かをくっつけたがるのかしら。私には理解不能だわ。人をゴシップのネタにする人種ってサイテーね」
 一瞬、僕は目の前に座っているこの皮肉屋を殴りつけてやりたくなった。そんなことをしても何も解決しないと判っている。それでも、吐き気がするほど彼女の言動にむかついていた。
 平然とした顔で自分以外の者の存在や考えを見下したり否定したりするのは、彼女の最大の欠点だろう。やりすぎなければ自信家のように映るけど、そうでないとき、今のような状況では彼女の態度は不愉快以外のなにものでもない。
「可愛げがないにもほどがあるよ、薫。君を見ていると、僕の女嫌いに拍車がかかる」
「私をどうこう言うのはかまわないけど、それで女全般の評価を下さないでくれる? 竜介はいつだって極論なんだから」
「僕以上に君のほうが極論だね! どうしてそう我が強いんだよ。少しは他人のことも考えろ!」
「どうでもいいわよ、そんなこと。どうせ私は居なくなるんだから。本当なら和紀が学校辞めたときに、私だって辞めてなけりゃならないんだもの」
「和紀を止めなかった僕が悪いとでも言うつもり?」
 もう先ほどから堂々巡りをしているような気がする。彼女との話し合いは、今は不毛なだけだ。和紀と同様に、薫もすでに自分の中で下した決断に従っているのだから。
 僕は薫が口を開くよりも早く立ち上がると、彼女の顔を見ることなく部屋の出口へと向かった。話し合いは平行線のままだ。まったく実入りの少ない会話だった。
「言い忘れるところだったよ。薫、卒業おめでとう。もう二度と顔を合わせることもないだろうから、今言っておくよ」
 腹立たしさに、僕は戸口でチラリと振り返ると、いつも以上に冷たい口調で彼女に嫌味をぶちまけた。
 彼女が一瞬目を見開き、次いで何かを言おうと口を開きかけた。それをわざとらしく無視すると、僕は彼女を振り返ることなく、部屋を飛び出していた。
 それから数日後、長期休暇に入ると同時に、薫は渡米していった。八月末が彼女の卒業する日だったが、長期休暇に入っていたのでは、実質的な卒業は長期休暇とともにやってくる。
 もう少しのんびりと渡米するだろうと思っていた他の連中は、彼女の慌ただしさに驚いたことだろう。
 僕と、僕の周囲にいた数人だけが、彼女がすぐにでも居なくなると予測していた。そして、その予測通りに薫は誰に挨拶することなく、一人で僕たちの前から居なくなった。
 教師たちには僕たち生徒会役員は仲が良いと思われていたから、彼女が何も告げずに慌ただしく去ったことを気にするでもなく、無神経にも彼女の渡米先の住所を知らせてきた。
 仲の良かった友人の連絡先を教えてやったとでも思っているのだろう。
 シャルロットやエリックたちはその住所に宛てて手紙を送ったりしたらしい。メールアドレスやテレフォニーナンバーを知らされていなかったのだから、前時代的な通信手段しか残されていなかったわけだけど。
 僕は教師からもらった彼女の住所を書き付けた紙を、自室に戻ってすぐに破り捨てた。チラリとも見ていない。
 判っている。僕と彼女は同族だ。入学してすぐに、僕と薫は自分たちが同じような人種だと認めている。僕が彼女と同じ立場に立たされたなら、僕も彼女と同じような手段に訴えたかもしれない。それを僕は否定しない。
 残念ながら僕には幼なじみなど存在せず、彼女は女で、僕は男だった。僕に彼女とまったく同じ手段を使うことへの抵抗がある以上、彼女と同じ道を行く確立は格段に低いだろうとは思うけど。
 彼女は普段は性別のことを持ち出すと憤慨するくせに、最後の最後に自分が女であることを利用した。他人が見たら、彼女のやり方は卑怯だと思ったかもしれない。彼女と同族だと思っている僕もほんの少しそう思ったくらいだから。
 でも、卑怯ではあっても、僕は彼女のやり方が気に入らなかったわけではない。自分がやるのであれば、抵抗があるけど。
 ただ……彼女や和紀たちが僕の存在を忘れたように一人でサッサと行ってしまったことが、許せなかったのだ。僕は、ずっと彼らを大切にしてきたのに。


 それから一年後だ。もう逢えないかもしれないと思っていた和紀が、突然、僕やエリックの前に現れた。他の卒業生にでも訊ねたのだろう。僕たちが通っている大学まで、彼はやってきた。
 大学は夏期休暇で閑散としていたけど、僕とエリックは研究室の用事でほとんど毎日のように大学に出入りしていた。それも調べたのだろう。和紀は一日のカリキュラムを終えて学校から出てきた僕たちを待ちかまえていた。
 ものすごい形相だった。一目見て、彼が薫のことを知ったのだと、僕には判った。彼がこれほど怒り狂う理由が他にはなかったからだ。案の定、彼が開口一番に訊いたことは薫のことだった。
「薫の奴、今どこにいるんだ!?」
 殺気だらけの声。眼光だけで人を睨み殺しそうな彼の様子に、僕は首を振るしかなかった。
「僕は知らないよ。教えてもらっても迷惑なだけだから、住所を書いた紙は破り捨てた」
 その僕の左頬に、和紀の平手が飛んだ。構えていなかった僕はアッサリと吹っ飛び、さらに殴りかかろうとする和紀を、側でやり取りを見ていたエリックが真っ青になって止めたほどだ。
「竜。てめぇ、なんで薫を止めなかった!? 俺がいなけりゃ、理事会は大人しくなったハズじゃねぇか! てめぇの優秀な脳味噌は何をやってたんだよ、生徒会長!」
「僕はもう生徒会長じゃない。勝手に学校を辞めた奴にどうして殴られなきゃならないのか教えて欲しいね! 君たちの子守をするために僕がいたわけじゃないよ!」
 吹っ飛ばされたときにコンクリートの壁に背中を強かに打ちつけていた。どうにかこうにか身体を起こすと、僕はひりつく左頬を撫でながら和紀を睨みつけた。
 どうして彼にこんなことを言われなきゃならない? 勝手に出ていったのは和紀のほうだ。同じく薫も勝手に僕たちから背を向けた。なのに、それを止められなかった僕を二人は罵倒する。
「てめぇはぁっ!」
「薫に逢いに行ってどうするつもりさ」
 エリックが必死に和紀の身体を羽交い締めにして抑えていたけど、その拘束が外れるのも時間の問題だろう。和紀は高校時代以前から空手で全国大会まで出ていくような強者だったから。
 たとえ体格は和紀よりでかくても、武道などやったこともないエリックに和紀を止めておける力があるとは思えない。
「ちょ……! 逃げろ、竜介!」
 力任せにエリックの腕を振り解いた和紀が僕に飛びかかってきた。正面からまともに見ると、彼の姿は獅子が襲いかかってくるような錯覚に囚われる。空手大会で対戦した相手もさぞやゾッとしただろう。
 殴りつけられる寸前、僕は相変わらずの鉄仮面の表情で彼を睨んだ。
「君も見捨てられるよ」
 和紀が大きく眼を見開いて動きを止めた。殺気はまだ辺りに漂っていたけど、彼の表情からそれまでの怒りが消えている。
「どういう……」
「薫は僕たちになんの相談もなしに一人で何もかもやったんだ。そして、一人で出ていった。僕たちを見捨てて逃げ出した君と同じ、だろ?」
「俺は逃げてねぇよ!」
 和紀の瞳がつり上がった。ふてくされたときなどに目をつり上げることはあったが、彼がこれほど負の感情を表に出すのは珍しい。それだけ、自制が効かなくなっているということだろう。
「君は逃げたつもりがなくても、薫はそう思っただろうよ。当事者として、一人学校に取り残されたんだから。薫がどんな気持ちでいたと思う?」
 和紀は反論してこなかった。薫を守るつもりで学校を辞めたことが、彼女にどんな影響を与えたのか、彼は今になってようやく考え始めたんだ。それまでは、考えの端にさえ浮かばなかったのだろう。
「人の噂も七十五日って言うよね。和紀が学校を辞めた時期ってちょうどそれくらいの期間が経っていたと思う。もう少し辛抱していたら、三流のマスコミは次のゴシップに飛びついて君たちのことなんか忘れただろうに」
 和紀はまだ口を開かない。きっと彼の頭の中は、大混乱しているはずだ。自分が辞めた後の学校の様子など何も知らなかっただろうから。
「君が退学した事実は新しいゴシップネタだったよ。取り残された薫はその渦中に一人取り残された。気の強い薫だからね、表面上は前と変わってなかったけど。でも僕たちが何度話しかけても、彼女は笑わなくなった。……そして、彼女も君と同じように逃げ出したよ。僕たちの前から」
 随分と残酷なことを言っていると思う。今、僕が和紀に話をしている内容は、あくまでも僕の見地に立っての話だ。薫の立場に立てば、彼女なりの話があるだろう。そして、和紀の立場に立てば、彼なりの……。
「エリック。薫の住所、教えろよ」
 僕を見つめたまま、和紀はすぐ後ろに立つエリックに声をかけた。やはり薫に会いに行くつもりのようだ。もう、こうなったら彼を止められる者はいない。
「エリック。和紀に教えてやれよ。君は知っているんだろう?」
「……やだよ。なんで恋敵に教えてやらなきゃならないんだ」
 子どもっぽく頬を膨らませたエリックを、振り返った和紀が鋭く睨んでいる様子が、彼の背中からも伺えた。
 在学中から、薫にちょっかいを出すエリックと和紀は衝突が絶えなかった。今も彼らは薫を巡ってばかばかしい諍いをやめようとしない。
「エリック。そんなこと言わ……止めろ、和紀!」
 昔からの癖で僕が仲裁に入ろうとしたときだ。和紀が拳を振り上げ、エリックの鳩尾に鉄拳を叩き込んだ。僕が止めろ、と叫んだときには、すでにエリックは地面に長々と伸びた後だ。
「なんてことするんだ、和紀!」
「うるせぇ、黙ってろ!」
 地面に転がるエリックの懐を漁り、和紀はエリックの手帳を引っぱり出した。女と見れば手当たり次第に口説いて回るエリックらしく、彼は相手の女の連絡先をまめに手帳に記入している。その癖は今も治っていなかった。
「人の手帳を勝手に見ていいと思ってるのか!? エリックに謝れ!」
「黙れ。俺に指図するな」
 和紀が視線を上げ、僕と目を合わせた。それまでの怒鳴り声を収めた彼の声は、ひどく平坦な声だった。それが彼の内心の苛立ちを示しているように見える。
 エリックの手帳の一部を破り取ると、和紀は紙切れをジーンズのポケットにねじ込んだ。薫の住所を見つけたのだ。
「邪魔したな」
 奪い取った手帳をエリックの胸元に投げ降ろすと、和紀は僕たちに背を向けて行ってしまった。
 他のものに興味を失った彼の背中に、僕は以前と同じように声をかけることができなかった。いや、学校を去っていく彼の背中を見送ったとき以上に、彼の存在が遠かった。
 気を失っているエリックを抱き起こしながら、僕は和紀の背中を睨んだ。彼には薫しか見えていない。僕やエリックや、他の仲間たちのことなど、眼中にないのだ。それを思い知らされた気がした。
 以来、僕は夏が大っ嫌いになった。薫も、和紀も、二人とも僕の目の前からいなくなった季節だから。


 いつの間にか、桜華は俯いて相手の話に聴き入っていた。目の前の麗人を直視することができなかった。
「紫野さんは、それでも二人のことが好きなんですね」
 フェンスにもたれかかる竜介が、桜華のもらした囁きに苦笑して身体を起こした。
「僕は自他共に認める人間嫌いだったからね。彼らのお陰で、少なくとも女嫌い程度に改善することはできたんだよ。まぁ、女嫌いってだけで充分厭な人間だろうけど」
 フェンス越しに灰色の街が見える。コンクリートが林立する街だからというわけではない。今にも雪がちらつきそうな空模様を、街が写し取っているのだ。
「彼らがいなかったら、僕はもっと厭な人間になっていただろうね。見捨てられたと腹を立てても、僕は彼らを憎むことはできなかった。……桜華ちゃん。君はどうだい? 大好きな薫先生の側にいる和紀を憎めるかい?」
「わたしはもとから憎んでなんかいませんよ。ただ……」
「ただ……羨ましかった、かな」
 小さく頷く少女の頭をそっと撫でると、竜介はそれまで冷たい矜持を保っていた目元をほころばせた。そうやって笑っていたほうが、多くの人間に好かれるだろうに、彼はそれをごく一部の人間にしか見せないようだ。
「あの二人の間に入っていくことができる人間はいないだろうね。僕にも、僕の仲間にも無理だった。君がそれをできるとは、僕には到底思えない」
「そうかもしれません。わたしはただの患者ですから」
 泣き笑いの表情を浮かべた桜華の肩をそっと抱き寄せると、青年は建物の中へと誘った。身体はすっかり冷え切っている。これ以上屋外で話をするのはやめたほうがいい。
「女の人が嫌いなのに、わたしの側にいて平気ですか?」
「女は嫌いだよ。君が僕にしなだれかかってきたら、さっさと振り払ってさよならするさ。でも、君は自分が女だってことを主張しないだろう」
「人間嫌いじゃなくて、女嫌いってのは、そういうことですか」
 クスリと少女が喉の奥で笑い、青年もつられたようにクスクスと笑い声をあげた。
「……わたし、やっぱり薫さんと綿摘さんの間にあったこと、調べるかもしれません」
「僕に止める権利はないだろうね。でも、桜華ちゃん。彼らに関わろうとするのなら、それ相応の覚悟をしておくことだね。彼らは聖人君主じゃない。君が綺麗なイメージを抱いているのなら、待っているのは失望でしかないよ」
 笑いを収めた少女が漏らした言葉に、青年は静かな口調で答えを返す。それを予測していたのか、少女はしっかりと頷いて、白い白い廊下の奥を見据えた。そこには誰もいない。人の気配もない。
「まだオペは終わってないみたいだね。……君は休んでいたほうがいいと思うよ。終わったら知らせてあげるから」
「いえ。見届けさせてください。わたし、綿摘さんのこと好きじゃないですけど、自分を助けてくれた人を放って、一人でいることはできないです」
「薫が執刀している以上、和紀を死なせるわけないと思うけど。……いいよ。一緒に待っていよう。でも、身体の調子が悪くなったらすぐに病室に戻ること。いいね?」
 再び青年は硬いソファに腰を降ろした。今度は隣りに華奢な体格の少女も一緒に。
 互いに寄り添うでもなく、かといって他人行儀でもなく、二人は目の前に立ちはだかる白い扉を見つめて黙り込んだ。
 別の階の物音だろうか、遠くに人のざわめきのようなものが聞こえてくる。それ以外の物音がしない白い景色の中、青年と少女はその風景に溶け込むようにして静かに座り続けていた。

終わり

〔 7569文字 〕 編集

去りし日々は還らず【前編】

No. 51 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,去りし日々は還らず , by otowa NO IMAGE

 白い廊下、白い景色。年が明けたばかりのこの時期に、この光景は寒々しいばかりだった。
「紫野しのさん。ちょっといいですか?」
 白い空間の片隅に置かれた硬いソファに腰を降ろしてぼんやりしていると、緊張した声がすぐ脇からあがる。
 彼、紫野竜介しのりゅうすけは冷たい表情を崩すことなく相手の顔を見上げ、青ざめて強ばっている少女の表情の中に戸惑いを見つけた。
 まだ十七~八歳の年齢の少女は、柔らかな茶髪とやや大きく見える瞳のせいで西洋人形のように見える。
「何かな、桜華おうかちゃん。薫と和紀ならまだオペ室から出てきてないよ」
 竜介の硬質な声に桜華が首を振る。両手を身体の前で硬く握りしめ、真っ直ぐに竜介を見下ろす姿は、雪の降るなかに真っ直ぐに立つ、一本の若木のようだった。
「昔の薫さんたちのこと、お訊きしたいんです。薫さんと綿摘わたつみさんの間に何があったのか……」
「僕に話をしろって? 本人たちの了解もないまま? それは随分と失礼な話じゃないかな。君が知りたいのなら、薫たちに直接聞くべきだね」
「判っています。でも……。薫さんたちは、わたしが訊いても答えてくれないんです」
「それは君が知る必要のないことだからだろう? 薫は自分の大事な患者クランケに、余計なことを吹き込みたくないだけだよ」
 少女の口元が意固地に引き結ばれた。これで引き下がる気は毛頭ないらしい。どこかで見覚えのある表情に、竜介は自嘲を込めた笑みを口の端に浮かべた。
「桜華ちゃんは薫のことが好きなんだねぇ。だから、和紀が薫の側にいるとご機嫌が悪いんだ」
「それは……! 薫さんはわたしの主治医です。だから、少しくらい薫さんのことを知りたいと……」
「嘘つき」
 ビクリ、と桜華が身体を硬直させ、すぐに目の前に座る青年を強い眼光で睨んだ。
 竜介という勇ましい名前とは反対に、彼は柔らかな外見をしている。どちらかといえば女性と見間違われそうな顔立ちと言ってもいいだろう。冷たい印象を与える彼の姿は、決して他人と馴れ合うことのない意志表示のようにさえ見える。
「君は昔の薫に良く似ている。薫のほうが常識はずれではあったけど」
「紫野さん。あなたの話ならしてもらえますか?」
「……いいよ。君も頭がいいみたいだね。やっぱり薫に似てる」
 竜介は自分のコートを脇に抱えると、ソファからゆったりとした動作で立ち上がった。すぐ側に立つ少女を手招きして、彼は白い廊下を歩き始める。
「いつ頃の話を聞きたいのかな?」
 長い廊下の所々にある階段の一つを昇り、彼は少女を屋上へと連れだした。フェンスを張り巡らせた屋上は、冬以外の季節であれば風が通って気持ちいいだろう。しかし、この寒空の下で見るとあまりにも殺風景だった。
「紫野さんと薫さんたちの間に起こったことすべて……という訳にはいきませんか?」
「そんなことしたら話に何日もかかるよ。君さえよければ、高校三年生になる頃の話をしようと思うけど?」
 桜華はそっと頷き、真剣な眼差しを相手の口元に注ぐ。自分の知りたいことを、相手はよく理解しているはずだ。期待はずれなことを話はしないだろうと判断してのことだった。
 青年は手にしていたコートを少女に羽織らせ、無表情なまま彼女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「今から話す事の本当の原因は何ヶ月も前に起こった事件だけどね。僕には興味もないことだから、僕は僕の始まりから話をする。どうしても原因を知りたいのなら、君自身の力で調べることだね」
 少女の頭から手を離し、青年は灰色の空をチラリと見上げた。その空からすぐに目を反らすと、竜介はゆっくりとした口調で話し始めた。


 南の地方では桜の開花宣言が出され、この地方でも桜の蕾が膨れ始めた季節。
 まるで気楽な一人旅にでも出掛ける軽さで、彼は僕に向かって片手を挙げた。僕はそれにどう応えたら良いのか判らず、彼の真似をして静かに片手を挙げるだけだった。
「それじゃ、な」
 すれ違い様のハイタッチ。いつもなら機嫌の良いときの挨拶だった。頭上で交差した僕の掌を、彼は一瞬強く握りしめた。その間でも、僕をチラリとも見はしない。
 掌を放すと、彼はさっさと背を向けて歩き始めた。名残惜しげに振り返りもしない。あっさりとしたものだ。
 呼び止めよう。そう思って口を開き掛かったけど、僕の喉はひりついていて、どうしても声を出すことができないまま、彼の背が小さく遠ざかっていくに任せていた。
 どうしてそんなに簡単に背を向けることができるのだろう。彼は僕たちと一緒に過ごした日々を忘れてしまったのだろうか?
 いいや。そんなはずはない。忘れるはずがない。
 通りの向こうの角を曲がり、彼の均等に筋肉がついた背が見えなくなっても、僕はじっとその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
 どれくらいそうしていただろうか。ポッカリと心に空いた穴は空虚で、僕の中から時間という感覚をすっかり奪っていた。
「あいつ、どこいったのよ!?」
「薫……? どうしたのさ?」
 金切り声とともにバタバタと駆け寄ってきた少女の顔を、僕は虚ろな気持ちのまま見つめた。
 いつも怒ってばかりの薫は、今も声だけ聞いていると烈火の如く怒り狂っているようにしか聞こえない。しかし、彼女の今の顔はひどく歪んで泣いているように見えた。
「和紀はどこ!? ちゃんと答えなさいよ!」
「君らしくない慌てようだね。落ち着きなよ」
「いいから訊かれたことに答えなさい、竜介!」
 怒声を張り上げる彼女の背後には、寮の玄関口から怖々と顔を覗かせる男子寮生たちの顔が並んでいた。空手の上位有段者の薫に敵う男子はそういない。同じく空手をやっている僕でも無理だろう。彼女に勝てるとしたら……。
「勝手に退学届け出して出ていったなんて、嘘なんでしょう!?」
 薫は拳一つ半高い僕の肩を掴むと、遠慮容赦なくガクガクと揺する。女にしては握力が強い彼女に肩を鷲掴みにされると、それなりに痛いものだと、ふと頭の隅にどうでもいいことが浮かび、すぐに消えた。
「和紀は出ていったよ。もうここにはいない」
「バカッ! 生徒会長のくせになんで止めなかったのよ!?」
「止めて聞き入れるような奴じゃないだろう。それに、あの理事が退学届けを受け取ったんだよ。今の僕たちに覆せると思う?」
「あいつは今度の馬鹿げた事件のことで早まっちゃったのよ。あいつが学校辞めるのなら、私だって同罪でしょ!? 友人なら止めなさいよ、バカ!」
 空っぽになりかかっていた僕の頭の中が、自分の言葉にふと覚醒を始めた。その通りだ。僕も最初は和紀は早まったと思った。だから止めた。結論を急ぐな、と。僕たち生徒会の人間でなんとか理事会に掛け合うから、と。
 それをあいつは、どうでもいいことのように笑い飛ばし、もう退学届けを出してきた、と僕たちの前に爆弾を落としていった。しかも、校長や理事長にではなく、あのイカレた理事に、だ。
「僕だって止めたさ。君にとやかく言われる前にね!」
「もっと、ちゃんと止めなさいよ! 私が呼び戻してくる! どっちの方角に行ったのよ!?」
 ヒステリックに叫ぶ薫の目は充血していた。もしかしたら、彼女は本当にここまで泣きながら走ってきたのかもしれない。僕にはどうでもいいことだったけど。
「あっち。たぶん駅の方角だと思うけど。……でも追いつけないよ、きっと」
「うるさいわね! 追いついてみせるわよ!」
 僕の肩を突き飛ばすように放すと、薫は和紀が歩き去った方角へと飛んでいった。
 彼女を止めても無駄だろう。道の途中で和紀に追いつける保証などない。いや、たぶん追いつけない。万が一、和紀に追いつけたとしても、彼は帰ってこないだろう。
 僕は意気消沈して帰還するだろう薫をどうしようかと思いながら、寮の玄関へと引き返した。首を玄関扉から突きだして鈴なりになっている寮生たちと視線が合うと、僕はいつもの鉄仮面のままで寮の建物の奥を指さした。
 それだけで充分だ。彼らは三々五々に玄関から散って、ある者は自室へ、ある者は談話室へ、ある者は女子寮との境界線である食堂へと向かった。
 一時間もしないうちに、綿摘和紀わたつみかずきが学校を自主退学したことは知れ渡るだろう。良い噂と悪い噂も同時に。他人の不幸は蜜の味。一般の生徒には、単調な日々のちょっとした刺激を求めるにすぎない話題だけど。
「竜介ぇ~。薫、放っておいていいのか?」
「そうですよ、紫野先輩。まだマスコミがそこらにいたら、大騒ぎになっちゃいますよ」
 最後まで残っていたエリックと翔が不機嫌な顔つきで口を尖らせている。和紀や薫を止めなかった僕のことを不満に思っているに違いない。
「薫ならマスコミなんか突っ切って帰ってくるよ。それに今頃は理事会のほうもマスコミの上層部に圧力かけて頃だろうし……。一番の貧乏くじを引いたのは和紀一人ってことだね」
「オレもこの学校辞めたくなってきたね。他の学校と違って育成モデル校だから飛び級はあるし、校風も自由だけどさ。なんなんだよ、寄ってたかって和紀と薫ばっかり……」
「ボクもですよ。あ~ぁ、つまんない。この学校、他の学校より生徒の発言権あると思って入ったけど、今回のことは幻滅ですよぉ。ホント、あの理事なんかサイテーって感じ?」
 苦虫を噛み潰したような顔をしている二人に、僕はさらに冷酷に対応した。僕たち生徒の抗議なんか、理事会は痛くも痒くもないのだから。
「君たちが辞めたってなんの解決にもならないね。学校も大人たちもなんとも思わないよ。バカな生徒が減っただけだと思うさ。それにエリック。君は交換留学生なんだから、自分の都合で勝手に辞められないの!」
「なんだよ、冷たいなぁ!」
 ふてくされるエリックたちを無視すると、僕は自分の部屋へと向かった。遠くで人が動き回る物音がする。階段を上がり、自分の部屋へと続く廊下を歩き続ける道筋がひどく遠く感じた。ここはこんなに広かっただろうか?
 廊下の中ほどにある自室の前に辿り着き、扉に手を掛けたとき、僕はふと糸に引かれるように隣の部屋の扉を振り返った。
 沈黙する扉。開かれない扉。この部屋の主はもう帰ってこない。少し日に焼けた肌に収まりの悪い癖毛、人懐っこい笑顔をした同級生は、あっけないほど簡単にこの場所から居なくなってしまった。
 じわりと僕の視界が滲む。熱を持って歪んだレンズ越しに景色を見ているようだった。震える指先でなんとか暗証番号を押し、開いた扉の隙間から室内に滑り込むと、僕はその場に座り込んで顔を覆った。
 頭の奥が疼くような熱に侵され、目の前がグルグルと回っている。頬を伝うものの生ぬるさに、僕の胸はむかついて仕方がない。どうして、こんなにも息苦しく感じるのだろう。
 僕は息苦しさに何度か大きく息を吸い込み、その度に感じる胸の痛みに拳を幾度も床に叩きつけた。手の痛み以上に胸が痛い。
 無力だ。僕たちはあまりにも無力だった。何も、彼に何もしてやれなかった。僕たちの苦しみを知ってか知らずか、彼は自分の下した決断に従ってこの場所からいなくなった。それが一番正しいことだと思っているのか?
 薫はきっと追いつけない。僕が和紀を見送ってから随分と時間が経っていたはずだから。たとえ、追いつき彼を捕まえたとしても、彼は戻ってきはしない。
 それじゃ、と片手を挙げた彼の真っ黒な瞳には、どこか達観したような強い光だけがあった。怒ったときには子どものような顔をするくせに。彼があんな瞳をするときは、絶対に言いだしたことを曲げないときだ。
 彼は、もう戻ってこない。もう二度と……。
 高校生活を一年残したまま、彼はこの学舎から姿を消してしまった。


「おい、聞いたか! 薫のこと」
「あのバカ理事にヤられちまったって?」
「マジかよ。あのヒヒジジィ……見境ってもんがねぇのかよ」
 まことしやかに流される醜聞スキャンダル。公然と言葉にすることはできない話題に、学校中が浮き足立っていた。
 そんな話は嘘っぱちだと言う者もいれば、さもありなんとしたり顔で頷く者もいる。新学期が始まったばかりだというのに、授業そっちのけの雰囲気に教師たちの眉間には皺が寄りっぱなしだ。
 マスコミがようやく沈静化し始めた時期だっただけに、学校側は過敏になっているようだ。しかし、生徒たちには漏れないようにという努力は無駄に終わった。
 それもそうだろう。片方の当事者が故意に噂を流し、作為的に情報を操っていた。
「薫、君は危険な賭をしていること判ってるんだろうね?」
「だから何? 私のやることにいちいち文句つけないでよ」
「情報操作に生徒会副会長の地位を利用してるだろ。僕たち他の生徒会役員まで巻き込むつもりか? そんなことしたら、和紀がなんのために一人で泥をかぶったのか……」
「竜介たちに迷惑はかけないわよ! 私のことは放っておいて!」
 やることが無茶苦茶だ。ヤケになっているとしか思えない薫の暴走を止めようと、僕は必死だった。和紀を助けられなかったときと同じ無力感に苛まれながら。
「やりすぎるな、薫! そんなことしたって和紀は喜ばない」
「和紀は関係ない。私がやりたいようにやっているのよ。許さない。絶対にあの理事だけは許さない!」
 生徒の間では薫の気性の凄まじさは有名だった。しかし、教師たちの薫の認識は優秀だが皮肉屋で気の強い女子生徒という程度だ。彼女はその仮面を隠れ蓑に、恐ろしいほど巧みに情報を操作して理事会を追い詰めていた。
「利用できるものはすべて利用したわ。理事会に煮え湯を呑ませてやるために、爺さんにも頭下げたんだから。絶対に失敗はしないし、竜介たちにも迷惑はかからない」
「そんなこと聞きたいわけじゃないよ。君は自分をなんだと思ってるのさ。君を庇った和紀の気持ちを踏みにじる権利があるのか!」
「冗談じゃないわ。黙って引き下がるものですか。あいつら、ありもしないことで私たちをつるし上げたのよ!? 同じように、ありもしないことで抹殺してやるわ! 自業自得でしょ!」
 噂は生徒どころか、PTAや教育委員会にも流れた。理事会の理事が学校の女子生徒を暴行した。しかも、彼女にはなんの罪もないことをネタに脅したのだ、と。当の理事は反論したそうだが、教師の何人かが現場を目撃している。
 いかにもマスコミが喜んで食いついてきそうな話題だ。もうこれ以上隠し通せないギリギリのところで、薫は理事会に呼び出されていった。
 理事会に出頭した薫がどんな大演説をぶったのか知らない。生徒会会長とはいえ、一介の生徒にすぎない僕には知りようもないことだった。いや、たとえ知ることができても、もう僕には手出しできることではなくなっていただろう。
 薫が呼び出された理事会会議が終わった翌日、件の理事は解任された。理事会は自分たちに及ぶ被害を怖れるあまり、薫たちをつるし上げた理事を生け贄にしたというわけだ。
 そして、さらに一ヶ月も経たないうちに、その理事が飲酒運転の末に車ごと海に転落して死亡したことが噂で伝わってきた。
 薫は用意周到に理事会の面目を潰していったのだ。ようやく十八歳になるという少女に、老獪なはずの理事会の面々は、再起不能寸前までやられたといっていい。
 彼女は復讐を果たしたんだ。望み通りに。
 そして、彼女も僕たちから背を向けた。和紀と同じように。いや、もしかしたら、それ以上に冷たい方法で。

〔 6358文字 〕 編集

継承者の舞【後編】

No. 50 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,継承者の舞 , by otowa NO IMAGE

 薫の声に押されるようにして鏡の壁が内側へとゆっくり開いていった。どうやら壁の鏡はマジックミラーになっていたらしい。ぽっかりと空いた空間からもさもさの髪と無精ひげを生やした男が歩み出てきた。
「薫~。お前さぁ、説教が長ぇよ。徹夜続きのオレの身にもなれよなぁ。危うく寝ちまうところだっただろ。……ほらよ。パスワードの解除のついでに見つけたやつだ。そこのお嬢ちゃんなら、この資料がなんなのか判るんだろ?」
 今までの緊張感を吹き飛ばす、眠気いっぱいの声とあくびが無精ひげの間から漏れる。薫が再び苦笑いを浮かべながら、男の差し出したディスクを受け取った。
「悪かったわね。誠二の仕事はこれで終わり。奥に行ったついでに、昼寝してる奴らを叩き起こしておいてよ」
「あいよ~。んじゃ、一眠りしてくるわ」
 男はヒラヒラと手を振りながら階段をあがっていくが、蓮華は最後まで見送るようなことはせず、男から薫へ、そして桜華へと手渡されたディスクをまじまじと見つめた。
「なんですか、これ?」
 不審そうに眉をひそめた桜華が首を傾げながら薫を見上げる。その桜華に「開けてみれば?」と薫が壁の一角を指さして言う。壁は一面に鏡が押し込められており、その奥に何があるのかまるで見えないのだが。
 桜華は渋々といった顔つきで蓮華の脇をすり抜けると、鏡の壁の隙間に指先を差し込んだ。
 すぐに小さなモーター音が響き、続いて壁の一部がスライドすると、チカチカと点滅を繰り返す機器類が姿を現した。たぶんこの施設のコントロールパネルの一部だろう。
 桜華は馴れた手つきでパネルを操作すると、手にしていたディスクを機材のなかに押し込んだ。一瞬の沈黙のあと、キュルキュルと摩擦音が響いてパネルが新たな光点を瞬かせる。
 じっと黙ったままその作業を見守っていた全員が、ふと気配を感じて振り返ると、コントロールパネルの反対側の鏡壁に光幕と呼ばれる立体映像を投射する光が天井から降り注いできた。
 自動的に再生されるようになっていたのだろうか? ディスクから読み込まれたデータが光の幕に反射し始めた。次々に浮き上がっては消えていく膨大な文字、文字、文字。目で追うには不可能なスピードだ。
 スクロールし続けていた画面が消えると、光は一瞬の沈黙のあとに、今度は別の形を取り始めた。
「お父さん……!」
 桜華の声はまわりの少年たちのどよめきに掻き消されそうだった。辛うじて蓮華の耳に届いた彼女の声は、ひどくか細くて哀しい色をしている。
 目の前の立体映像は一人の男の姿を作り上げていた。
 蓮華には桜華の叫び声を聞くよりも早く、それが誰であるのか判っていた。桜華の父、葛城梓一郎だ。いや。桜華だけではない。自分にとっても義理とはいえ、父親であった。母、菖蒲の元から去っていくまでは。
 梓一郎と菖蒲との結婚は最初から破綻していた。一族の者によって無理に進められた縁談であったと聞いている。彼らの間には愛情などなかったのだから、それは致し方のないことだった。
 菖蒲が梓一郎との間に子どもを作ることを拒否し続けたために、一族の者がむりやりに人工授精を施し、菖蒲が胎児を殺さないようにと代理母をあつらえるという具合だったと聞いている。
 しかも、生まれてきた子どもを菖蒲は疎み、一族の後継者が誕生したことで役目を終えたと梓一郎は遠ざけられるようになった。天承院という一族はなんという残酷なことをするのだろうか。
 蓮華は、母である菖蒲と義理の父である梓一郎との確執の矢面に立たされた義妹の横顔を盗み見た。青ざめた桜華の横顔は強ばり、怒りとも絶望ともとれる複雑な表情を作っていた。
 義妹の視線を追って映像を見上げると、光のなかの梓一郎はゆったりとした動作で舞の基本形を繰り返しているところだった。
 菖蒲との結婚生活の合間に、彼は一人で舞の稽古をしていたのだろうか。この映像は自身の舞の型を研究するために撮影されたもののようだ。
 映像のなかの男は隣りに立つ桜華の整った顔とよく似ていた。母が妹を毛嫌いする理由の一つがこの顔立ちだった。桜華の顔を見るたびに不当な扱いを受けた記憶を呼び起こされ、母は彼女に辛く当たり続けている。
 桜華を可愛がっていた梓一郎が天承院を去ると、母の桜華への虐待はさらにひどくなった。ついに母娘は引き離され、幼い子どもはこの巨大な天承院の宗家寺院で育てられることになったほどだ。
「薫さん……。父が舞の稽古をしていたことは判りました。でも、だからと言って好きで舞っていたとは限りません。天承院はわたしに舞うことを強要しました。父にも同じことをしたかもしれません」
 桜華の固い声に、蓮華は現実へと引き戻された。立体映像の男は相変わらず舞の基本型を稽古し続けている。バスケットコートとその舞姿があまりにもアンバランスで、蓮華にはどちらが現でどちらが幻なのか、一瞬混乱したほどだった。
「解除用のパスワード、二種類あるのよね」
 薫の声に桜華の顔が険しくなった。自分の問いかけへの答えとは思えない相手の言葉だ。いったい何を言い出すのか。
「一つはシステムのシークレット部分のもの。ワードは"dear my daughter"、親愛なる娘へってところね。もう一つ。システムの一番奥に格納されていたこのデータのパスワードは"floral girl"だったわ。ねぇ? 舞を嫌っている人間が、わざわざデータにパスワードをかけまで遺したり、そのワードを花娘の英語読みにしたりするかしら?」
 唇を噛みしめたまま、桜華が立体映像を見つめていた。十数年前の父の姿だ。彼女にはおぼろげな記憶しかないであろうが、自分とよく似たその顔立ちを見間違えようはずがない。
「全部……花娘を舞うための基礎の型ばかり……」
 桜華の小さな呻き声が聞こえてきた。
 蓮華にもおぼろげに判ってきていた。目の前の虚像が舞っているのは、花娘を舞うために欠かせない基本形の型なのだと。
「桜華ちゃん……あの……」
 蓮華は背後から義妹の背を見つめ、その肩が微かに震えていることに気づいた。桜華のこれまでの認識を根底から覆すような事実だ。動揺するなというほうが無理だろう。
「山の大伯父貴は、花娘を教えるのはわたしで二人目だと言った。一子相伝のはずなのに。一人目は……まさか……」
「花娘は菊乃お祖母様から彼女の兄……今の家元に伝えられたはずよ。家元は私たちのお母様には伝えていないわ。一人目はきっと、お義父様よ」
 蓮華はそっと腕を伸ばし、恐る恐る桜華の肩に手を乗せた。
 家元にどんな考えがあったのか知らない。だが、本来の後継者であるはずの母ではなく、その配偶者である葛城梓一郎に、そしてその娘である桜華に花娘は伝えられていたのだ。
「どうしてこんなことを……」
 桜華の声はまだ震えていた。肩の震えも収まっていない。
 蓮華はその震えを抑えようとでもするかのように、義妹の肩においた手に力を込めた。
「家元の考えなんかどうでもいいわ。問題はこのデータが葛城梓一郎が遺していった資料のなかにあって、その正当な後継者であるあんたへと託されていたってことなんだから。彼が培ってきたものは、バスケだけじゃなかったってことでしょう」
 桜華の様子を見守っていた薫がようやく口を開いた。
 蓮華はぎこちない動きで薫を振り返った桜華の横顔が真っ青なことに気づいてうろたえた。これほど彼女が動揺しているとは。ただでさえ心臓が弱い彼女にこれ以上精神的な衝撃を与えてはいけない。
「桜華ちゃん。結論を急ぐべきじゃないわ。お義父様にどんな考えがあったのか、私たちが正確に理解するのは難しいんだから」
 だが青ざめた桜華の顔が自分へと向けられたとき、蓮華は冷たいものが背筋を伝っていく恐怖を味わった。目の前には飢えた獣のような顔をした少女の顔がある。これほど何かに飢かつえている表情を蓮華は見たことがない。
「どうして、お父さんなの? どうし……!」
 ビクリと桜華の肩が跳ね上がった。青ざめた顔色が見る見るうちに土気色に変わっていく。あまりの急変ぶりに蓮華の身体は凝り固まって動けない。
「桜華! 駄目よ。ゆっくりと息をしなさい! 息を止めちゃ駄目!」
 硬直した桜華の身体を支えたのは主治医である薫だった。桜華の心臓発作に馴れているからだろうか、周囲の少年たちも次々に四方に散り、桜華を横たえるためのマットやら、彼女の薬やら処置機材やらを引っぱり出して駆け寄ってくる。
 蓮華はその様子をオロオロと見守ることしかできなかった。話には聞いていたが、桜華の発作の様子を初めて目にした。狼狽えるなというほうが無理なのかもしれない。
「桜華ちゃん……。桜華ちゃん、死なないで……」
 周囲の少年たちが一通りの処置を終えて引いていくと、義妹の足下にへたり込んで蓮華はうわごとのように囁き続けた。
「大丈夫よ。いつもよりは軽い発作だわ。すぐに回復するわよ」
 取り乱す蓮華をなだめるように薫が振り返って呼びかける。その腕のなかで浅い息を繰り返す桜華の顔色はまだ青白いままだ。だが当初の身体を硬直させるほどの痙攣は収まっていた。
「わ、私が無理なお願いなんかしたから……」
 義妹の命に別状がないと判ったのか、蓮華は突然ボロボロと涙をこぼし始めた。安心と悔恨が同時に彼女に襲いかかる。
「それはうぬぼれってものだわね、蓮華。この子の発作があんた一人のせいだなんて思うのは、おこがましいにもほどがあるわ」
 泣き崩れそうな蓮華を叱責するように薫が厳しい声をあげた。その声に打ち据えられて蓮華の肩が大きく震え、涙をこぼす瞳を大きく見開いた。
「でも……でも、私が花娘を舞ってくれなんて頼まなければ……」
「あんたが頼んだからじゃないでしょう。桜華の発作は自分が思い込んでいた現実と事実が違っていたことのショックなんだから。まったく。あんたといい、藤見といい、どうしてそう思い上がりも甚だしいのかしらね」
 ズケズケと厳しい言葉を吐き出す薫に、蓮華はいっそう狼狽えて俯いてしまった。これまでの人生で、これほどストレートに言われたことなど桜華以外にいない。なんと言って言葉を返せばいいのか、見当もつかなかった。
 他の者たちの嫌味は遠回しに囁かれ、小さな切り傷を蓮華の心に与えるばかりだった。あからさまではあるが、薫の言葉にはひねこびた悪意がない。それに蓮華は困惑するばかりだった。
 薫の応急処置が効き始めたのか、桜華の顔色が戻ってきた。健康的な肌色とは言い難いが、先ほどの蝋人形を思わせる雰囲気からは脱しただけましというものだろう。
 桜華の喉から微かな呻き声が漏れた。呼吸も深く豊かになり、切迫した浅い息遣いはもうどこにもない。朦朧とした意識の底からゆっくりと浮上してきた桜華の瞼が小刻みに痙攣していた。
「桜華。疲れたんならそのまま眠りなさい。どっちみち今日の練習は終わりよ」
 薫の低い囁き声に反応して、桜華の瞼が大きく震えた。足下に座り込んでその様子を見守っていた蓮華が、両手を胸の前で固く握り、唇を噛みしめる。
「ごめんなさい、桜華ちゃん。もう困らせないから……。ごめんなさい」
 ピクピクと桜華の腕が痙攣したかと思うと、自分の胸元を掴んでいた指が強ばりながら持ち上げられた。
「薫……さん。起こしてください」
 か細いものだったが、明瞭な発音で桜華が声を発した。周囲を取り囲んでいた少年たちの口から安堵のため息がもれる。もう大丈夫だと、彼らにも判ったのだろう。
「こっちの心臓に悪いぜ、コーチ」
「ホントだよ。オレたちのほうが先にくたばっちまう」
 口々に軽口を叩く少年たちに桜華がチラリと視線を走らせ、一人の少年と視線が合うとじっとその瞳を見上げた。
「赤間。どうしてわたしが舞うことが好きだと思ったわけ?」
 険はないが鋭さを伴った少女声に、呼びかけられた少年はばつが悪そうに視線をはずす。だが周囲の仲間たちからも注目されて、しぶしぶといった表情で答えを返した。
「ごめん。覗くつもりなんかなかったんだけど、一昨日の夜、お前がここで一人で稽古しているの見たんだ。稽古が嫌いなら夜中に起き出してまでやらないだろうし……」
 少年の答えに桜華がギクリと顔を引きつらせる。その桜華の首をガッチリと締めあげる腕があった。
「桜華ぁ~! 私がきちんと睡眠時間をとれってあれほど言ったのに、言いつけを守ってなかったわねぇっ!?」
「か、薫さん……。ごめんなさい」
 頭上からの怒りの声に桜華がたじたじとなる。苦しくはないが、首に回された腕が、視線を相手からそらすことを許さなかった。
「謝ればいいってモンじゃないわよ! 自分で体力すり減らすようなことするんじゃない! いいこと!? 私の言いつけを破ってばかりいると、あんたの大っ嫌いな婆がくたばる前に、あんたのほうがくたばっちゃうわよ!?」
「ご、ごめんなさい」
 素直すぎるくらい大人しく謝る桜華に蓮華が目を丸くし、周囲の少年たちがニヤニヤと笑い顔になった。
 傍若無人なくらいに我の強い桜華が、唯一頭が上がらない相手がこの薫だろう。鬼のようにトレーニングでしごかれている少年たちには、溜飲が下がる一瞬なのだ。
「以後、気をつけるように。……って、もう何回言わせる気よ、あんたは!」
 頭を小突かれながら、桜華は足下にうずくまっている義理の姉を見た。二人の視線が絡み合ったとき、蓮華が口を開きかかる。だが、それを素早く制すると桜華が鏡の壁面を指さした。
「あのディスク、あんたにあげるわ。わたしには必要ないから」
「お、桜華ちゃん?」
 義妹の真意を測りかねて蓮華は声を上擦らせた。そんな蓮華の様子に取り立てて注意を払うでもなく、桜華がゆっくりと立ち上がろうとする。
「ちょっと……桜華、何をする気!? しばらくは休んでなさい」
 主治医の忠告を無視すると、桜華がまだふらつく足下をおして人垣を掻き分けた。そのまま鏡壁の一角に辿り着くと、馴れた手つきでマジックミラーの扉を押し開けて内部へと入り込む。
「あの……バカ!」
 薫が悪態をつくが、その口元には微苦笑が浮かんでいた。桜華がやろうとしていることを、察したのだろう。彼女を止めようとはしない。
「ほら、バスケ部の諸君! トットとボールや荷物を片付けなさい! 桜華の邪魔よ」
 薫に叱責されて、少年たちが思わず条件反射のように片づけを始めた。どうもこの気の強い主治医には逆らいがたいようだ。
 だが彼らにしても、これからいったい何が始まるのか判っていない。もちろん、未だに床に座り込んだままの蓮華にも判ろうはずがない。
 バタバタと少年たちが走り回っているなかで、薫が蓮華を練習場の片隅へと引っ張っていった。彼女たちの目の前には、先ほど桜華がディスクを差し込んだパネルがチカチカと光を放っている。
「ほら。桜華のお許しが出たんだから、サッサともらっておきなさい」
 薫は無造作にディスクを取り出すと、蓮華にその銀盤を押しつけた。蓮華が戸惑っているうちに、それは掌中にスッポリと収まり、そうこうするうちに薫が顎をしゃくって施設の一角を示した。
「お出ましよ」
 蓮華が振り返って見れば、数枚の薄衣を肩から羽織り、舞扇子を手にした桜華が、素足になって床面の中央に歩み出てくるところだ。桜華の顔色はまだ少し青白いが、足取りは先ほどよりも確かになってきている。
 周囲の人間が固唾を呑んで見守るなかで、桜華が床の中央に立ち、じっと蓮華へと視線を注いだ。
「わたしはあの人の前で舞う気はない。やるなら蓮華がやりなさいよ」
 桜華は着ていたトレーニングウェアの上着を脱ぎ始めている。下には薄手のTシャツしか着ていない。病気のためか、彼女の身体はひどく華奢に見えた。
「一度だけ……。たった一度だけ、わたしは天承院桜華として舞う。これが最初で最後よ。あとは知らない。このあとの天承院は、あんたたちで好きにしなさいよ」
 薄衣を重ね着して形を整えると、桜華は手にした舞扇子を一直線に蓮華へと向ける。挑みかかるような鋭い視線も一直線に義姉へと注がれ、辺りには張りつめた空気が広がった。
「でも桜華ちゃん、あなたと家元との約束は……。許しなく花娘を舞うことは禁じられているんじゃ……」
「葛城桜華が舞うのなら許されないわ。でも天承院桜華なら問題ない」
 まっすぐに伸ばした腕をすとんと落とすと、桜華は皮肉を込めた笑みを口元に湛える。
「忘れたの? 天承院の家元は女が継ぐのよ。菊乃お祖母様が亡くなったとき、仮で山の大伯父貴が継いだだけで、本来の継承者は別にいるのよ? 天承院を一度飛び出して連れ戻されたあの人は、その権利を剥奪されているし、花娘を知らない」
 蓮華は桜華の声を聞きながら手に収まっているディスクを握りしめた。声が枯れてしまったような気がして出てこない。
「女でこの舞を知っているのは、誰? わたしだけでしょ。天承院を名乗る限りは、わたしが現家元なのよ。誰もわたしを止める権利はない」
 蓮華は何か答えねばと口を開いた。だがやはり喉は何も音を発せず、彼女は力尽きたようにその場に座り込んだ。
 どれほど懇願しても聞き届けられなかった秘技の教えを、目の前の少女が教えてくれると言う。夢でも見ているのではないだろうか。
「あの人が花娘を見たいというのなら、あんたが舞ってやればいい。わたしはご免だけど、あんたならあの人の願いを聞き届けられるでしょうよ」
 ふわりと桜華の腕がかざされ、片手だけで器用に扇子が開かれた。風に揺れる花びらのようにその扇子の先端が震え、散り急ぐ花が舞うようにそれが翻ると、舞い始めた少女の喉からは舞の拍子をとる唄が響きだした。
 蓮華はその舞姿を食い入るように見つめる。それ以外に舞い続ける少女にどう応えろというのだ。
 今、自分の目の前で流派の頂点に立つ者が直々に舞っている。その一部の隙もない滑らかな舞を、彼女が受け継がせてくれるというのなら、それを正面から受け止めねばなるまい。それが相手へと礼儀というものだ。
 高低をつけた舞唄に沿って扇子が狂い咲き、少女の華奢な身体が柔らかく弧を描いて揺れ動く。その一部始終を見逃すまいと、蓮華は目を見開いて息を詰めた。
舞えや、舞え
この花嵐の紅のごとく
この身の血潮や
舞えや、舞え
 いつしか蓮華も舞い続ける少女と供に舞唄を口ずさんでいた。
 咲き狂う花のように絢爛と舞う娘の姿だけをただひたすらに追い、蓮華は自身の網膜へとその姿を焼きつける。新しい継承者へと引き継がれていく秘技は可憐で、俗世のあざとさなど微塵も感じさせない清廉なものだった。
 喉を震わせる蓮華の眦まなじりから一滴の涙かこぼれ落ちる。それを知ってか、知らずか、継承者の舞は止まることなく続けられたのだった。

終わり

〔 7742文字 〕 編集

継承者の舞【前編】

No. 49 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,継承者の舞 , by otowa NO IMAGE

「いい加減にして! もうわたしには関係のないことだわ!」
 罵声こそ浴びせてこないが、相手の形相は憎しみにどす黒く染まり、互いの間にある溝の深さをはっきりと伺わせる。
 突き放されることはあらかじめ予測していた。それは想像の範疇の答え。すんなりと承諾してもらえるとは思っていなかった。でも拒絶されたからと言って、ここで諦めるわけにはいかない。
「お願い。帰ってきてくれとは言わないわ。一度でいいの。……たった一度、お母様の前で舞って欲しいのよ」
 恥も外聞もない。蓮華は床に額を擦りつけて頼み込んだ。そうする以外にいったいどんな方法があったというのだろうか。
「蓮華れんげ……どうしてあんたがそこまでするのよ」
 長い廊下の端に佇む二人の娘に、冬空の寒気が襲いかかっていた。建物の外側に沿って渡された回廊は、山水造りの庭からの冷気をもろに受けてしまう。
 その庭を囲う石塀の向こう側には、雪の重みに項垂れる松木立が黒い影となって立ち尽くしていた。灰色の空からは雪こそ降ってこないが、刺すような寒風がこの巨大な建物へと吹き下ろしてきている。
 長い歳月の間、その荒ぶる風を受けて廊下と屋根を支えてきた柱は、すっかり色褪せて白茶けた姿になり果てていた。
 檜板の廊下はしんしんと氷のように冷え込み、土下座する蓮華の身体から容赦なく熱を奪っていく。それでも彼女は立ち上がろうとしなかった。
「お願いします。どうか……。一度だけ……お願い……」
「わたしを産み捨てた女を喜ばせるためだけに、どうしてわたしが舞を舞わなければならないわけ? 蓮華、そんなの虫が良すぎるでしょ!」
「判ってるわ。あなたがどれほど腹を立てているか、よく判ってる。でもあなたしか知らないのよ! 花娘を教えられたのは、あなたしかいないの! お願い……待ってちょうだい、桜華おうかちゃん!」
 顔をあげた蓮華は立ち去ろうと背を向ける少女の足にすがりついた。ここで逃してしまったら、もう二度と彼女は会ってくれない。どんなことがあっても彼女から承諾をもらわなければならないのだ。
「迷惑だって言ってるでしょう!? 山の大伯父貴にでも頼みなさいよ!」
「それができたら、あなたに迷惑なんてかけてないわ……。家元は私や藤見ふじみを遠ざけているのよ。どうやって教えを乞えというの」
「そんなことわたしには関係ない!」
 足にしがみつく蓮華を引きずって桜華が歩き始めた。すぐ目の前にある廊下の突き当たりには、檜造りの建物には似つかわしくない金属製の扉がはめ込まれている。
「桜華ちゃん……! お願い!」
 喉を涸らして懇願する蓮華を無視してなおも少女は歩き続けた。桜華の明るい色の茶髪に縁取られた顔は青ざめている。足下にすがる蓮華の声に動揺しているのだろう。
 桜華が金属製の扉に手を伸ばすと、それは内側から音もなく開かれて、一人の人物を吐き出した。
「こんな寒い場所で何してんのよ、あんたたち」
 出てきた人影は二人の様子を見て目を丸くした。一歩踏み出したままの姿で、まじまじと二人の姿を観察する。
「薫さん! 助けてください!」
「お願い、桜華ちゃん! たった一差し舞ってくれるだけでいいの! もう……お母様に残された時間がないのよ!」
 助けを求める桜華に向かって、蓮華は再び声をかけた。その様子にすべてを悟ったのか、薫と呼ばれた女は眉間に皺を寄せる。
「いい加減に放してよ! 鬱陶しい!」
 とうとうたまりかねて桜華が掴まれていない片足を持ち上げた。その足で這いつくばる蓮華の手を蹴ろうというのだろう。だがそっと肩に置かれた手に驚いて、その動作が止まった。
「止めなさい、桜華。邪険にしたって蓮華は諦めやしないわよ。……蓮華、こんな寒い場所にいつまでも桜華を置いておきたくはないの。続きはなかでやってくれる?」
「薫さん! 続きを聞くまでもありません! わたしは断っているんですから!」
 憤然と抗議の声をあげる桜華の肩を再び軽く叩くと、薫は腰を屈めて蓮華へと手を差し伸べた。今のやりとりを聞いていた蓮華の顔に、泣き笑いの表情が浮かぶ。
 目の前に出現した女の白い手をとって立ち上がりながら、蓮華は涙をためた瞳で桜華をじっと見つめた。だが見つめられている本人は、その視線を無視して苦々しげに顔を歪めるばかりだ。
 薫に導かれるようにして二人の娘は無機質な扉をくぐった。扉の向こう側へと滑り込んだ途端、そこは咳しわぶきひとつしない沈黙が落ちてきた。それまで扉越しに響いていた激しい足音や鋭い喚声がピタリと止んだ空間は異様だ。
 蓮華の目の前には、ローマの闘技場コロッセオを思わせる空間があった。緩い高低差のある階段状の観客席が彼女の前後に広がり、中央部分はワックスで磨きたてられた床がぽつんと広がっている。大きめの体育館とでも言えばいいのだろうか。
 今その床の上にはバスケットコートの模様が浮き上がり、床のあちこちに佇んでいる少年たちが胡乱げな視線を蓮華へと向けてきている。
 ただ、この施設の目立った特徴は他にもあった。客席より一段下がったコート面を囲む壁がすべて鏡張りになっている。ひどく落ち着かない気がするのは、死角のない空間がすぐそこにあるせいだろうか。
「今日の練習はここまでにしてもらいましょう。……どっちみちコーチが練習を見られなくなるんだから、今日の練習をこれ以上続けても無意味でしょう」
 朗々と響く薫の声に集まっていた少年たちが口を尖らせ、薫の隣りに貼りついている桜華へと視線を泳がせた。その間にも少し離れて立つ蓮華へとチラチラ好奇心の目を向ける。
 彼らはバスケットのユニフォームを着用しており、蓮華たちが廊下で言い争っていた「舞」という言葉とは、限りなく縁遠い存在だった。
「薫さん。わたし、蓮華に話をすることなんかありません! だから練習を続け……」
「そうね。話はないわね。でもやらなきゃならないことがあるはずよ?」
 薫の言葉に桜華はますます不機嫌な顔をした。頑固に口を引き結んで、上目遣いで睨んでくる少女の様子に、薫は腕組みしてじっと睨み返す。
「あんたは天承院流を継ぐのかしら? それなら継承者の舞を独り占めしておいたって問題はないけど……」
「冗談じゃありません。そんなもの継ぐつもりはないです!」
 苛立った桜華の叫び声に周囲の少年たちが顔をしかめた。そして非難がましい視線を蓮華へと向ける。彼らにも桜華の苛立ちの原因が、このひっそりと佇む娘にあるのだと判っている様子だ。
「ねぇ、桜華。あんたが問題にしているのは、死にかかっているどこかのおばさんの希望に沿って舞を舞ってやること? それとも、そのおばさんの側にいる愛娘に自分の技を盗まれること?」
 薫の問いかけに桜華が顔を引きつらせ、その背後では蓮華が息を呑む。
「あ、あの……桜華ちゃん。私のことなら……。絶対に舞を盗み見たりしないわ。だから、お母様の……」
「うるさい! あんたは黙っていて!」
 振り返りもせずに桜華が叫んだ。その金切り声に周囲の者たちは思わず後ずさった。だが目の前に立つ薫だけは鋭い視線を外すことなく、じっと桜華の紅潮した顔を睨み据えている。
「薫さん。こんな馬鹿げた舞を教わったばかりに、しつっこくつけ回されるわたしの気持ちが、あなたに判りますか? わたしはただの一度だって、自分から教えてくれと頼んだことなどなかったのに!」
 怒りにブルブルと拳を震わせる桜華の背後で、蓮華は胸の前で両手を固く握り、祈るような想いで二人のやり取りを見守っていた。周囲の若者たちも凍りついたように動きを止めたままだ。
「大人の勝手な都合で押しつけられたこの舞のせいで……」
「それじゃ、どうして後生大事にそんな舞を覚えているの? さっさと忘れてしまいなさい」
「一度覚えたものをどうやって忘れろと言うんですか! それに……ここに来てからずっと稽古に呼ばれているんですよ!」
 再び金切り声をあげた桜華に、薫が肩をすくめて小さく嘆息した。その態度が桜華の神経を逆撫でたらしい。食いしばった彼女の口元からギリギリと歯を噛み締める音が聞こえる。
「あんたの場合は忘れられないんじゃないわ。忘れたくないだけよ。花娘を舞えるのはあんたとあんたに教えた者だけ。つまり、門外不出のその舞を教えなければ、天承院の者はあんたを無視できないってわけね。結局あんたは天承院という鎖に繋がれていたいだけなんだよ」
「違う! わたしは……」
「違わない。あんたは自分を無視するなと駄々をこねている赤ん坊と同じよ!」
 薫の鋭い声に桜華の背が激しく震えた。それを背後から見守っていた蓮華が、同じく怯えたように震えながら声をかける。
「違うわ。桜華ちゃんは家元と約束をしているから、誰にも教えられないだけよ。天承院の直系だけが継ぐ舞を、傍系に伝えるわけにはいかないんですもの! 天承院の花娘は一子相伝の秘技だもの!」
 辺りは水を打ったように静まり返った。その耳が痛くなるような沈黙のなかで、薫があきれ果てたようにため息をつく。
「約束ですって? それじゃ、今の家元が死んだ時点で天承院流はお終いってわけね。桜華に伝えられた花娘を継いでいく者がいないのなら、他に後継者はいないってことでしょう?」
 その薫の声に答えるように、俯いて顔を歪ませていた桜華が憎々しげに呟いた。今まで紅潮していた頬が今度は青ざめてみえる。
「潰れてしまえばいいんだ。天承院がなくなったところで、世の中の何が変わるっていうんです」
「そうかしらね。確かに世界がひっくり返るような大事にはならないでしょうよ。でも膨大な数の弟子を抱えた流派が消滅したときの余波は決して小さくはないわ。現に直系のあんたは傍系の藤見に疎まれて、何度も命を狙われているでしょう」
「それももうすぐ終わりです。ここで父が作り上げたすべてのデータを記録し終えたら、もうわたしはこの場所にくることもないんですから。……あとは、天承院の人間で勝手にやればいい!」
 青ざめたまま顔をあげた桜華が絞りだすように答えを返した。苦り切った声が彼女のなかに溜まっている憤りを表している。
 しかしそんな桜華の答えにも薫の視線は鋭さを失うことなく、なおも彼女の瞳を射抜き続けていた。そんな視線に耐えられないのか、桜華は再び視線をそらして俯いてしまった。
「バカね。あんたにその気がなくても、家元はまだ諦めちゃいないわよ。来年、あるいは再来年……あんたがここに連れ戻されるという可能性を考えたことはないわけ? あの古狸が気前よく、稽古をすることだけを条件に、あんたにここを貸すわけがないでしょう」
「そんな……!」
 薫の言葉に不満の声をあげたのは、周囲を取り囲んでいる若者たちのなかでも一際背が高い少年だった。短く刈り込んだ髪を金色に染めているが、顔立ちは日本人のものだ。そのまわりにいた者たちも不満を露わにした表情をしていた。
「葛城かつらぎコーチはオレたちと一緒に全国大会を目指すんだぜ! 勝手に連れ出されてたまるかよ!」
「そうだよ。今年の惨めな負け方はもうご免だからね」
「来年こそは全国の頂点に立つんだろ!」
「本人が嫌がってんのに、ひでぇじゃないの!」
 次々にあがる不平の声に桜華が目を丸くする。口々に自分を引き留めているのは、普段は反抗的な態度ばかりをする一年や二年のメンバーだ。
「あら。事実じゃないの。桜華はあんたたち西ノ宮高校のバスケ部コーチであると同時に、この天承院流の後継者でもあるんだから。天承院の側からみたら、あんたたちとのことのほうがオママゴトなのよ」
 少年たちの怒りの声にも淡々と答えを返した薫の横顔には、とりたてて意地の悪い表情が浮かんでいるわけではない。背後から様子を伺う蓮華にもそのことは判っていた。しかし、少年たちにはその態度を理解する余裕はなさそうだった。
「オレたちのやっていることが遊びだと!?」
「お前……葛城コーチの主治医だかなんだか知らねぇけど、言っていいことと悪いことがあるぜ!」
 背格好だけなら薫よりも大柄な少年たちばかりだ。乱闘にでもなったら、怪我を免れ得ないだろうに。
「やめなさい、みんな」
 少年たちを押しとどめる声をあげたのは桜華だった。血の気が引いた彼女の顔には先ほどから苦渋が浮かんでいるが、決して少年たちのような殺気はまとっていない。
「でもよ……!」
「お前ら、全員頭冷やせ。葛城のことにいちいち首を突っ込むな」
 不満を浮かべる少年たちの後ろから低い声があがった。かなり大柄で筋肉質な少年がきつい視線を周囲の若者に注いでいる。
「赤間キャプテン……」
「部長! でもこいつオレたちのバスケを……」
 苛立った声をあげる背高のっぽの少年を制して、赤間と呼ばれた若者が桜華へと視線を向けた。
「結城ゆうきさんは俺たちのバスケをバカにしているわけじゃない」
「でも……」
 不満そうに口を尖らす後輩たちを制して、赤間がさらに続ける。
「葛城。お前の好きにやれよ。バスケ部のコーチだろうが、舞の家元だろうが、どちらを選んだってお前自身のことじゃないか」
 思ってもみなかったことを話し始めた赤間に、他の少年たちが息を呑んだ。いったい何を言い出すのだろう。
 当の赤間はそんな周囲の反応など気にした様子もなく、いや、周囲のことなど気にしている余裕がないのかもしれないが、言葉を選ぶように桜華に向かって語りかけている。
「この九ヶ月、お前のコーチのお陰でうちの部はずいぶんとレベルをあげたと思う。県大会程度の実力しかなかった部が全国大会に出たんだぜ? お前のこと、途中でコーチの役目放り出したなんていう奴はいないから……よく、考えて決めろよ」
「赤間先輩、何言ってるんスか。そんなこと言ったら……」
 部員のなかでは小柄な体格の少年が声を震わせた。
「そうですよ。今までだってあの藤見って野郎、葛城コーチをむりやり引きずって連れ出していたじゃないですか」
 ひょろりと細い身体で背の高さばかりが目立つ少年も、赤間の言葉に不満を漏らす。
 今年の全国大会、大事な初戦で思ったような力を発揮することなく敗れ去ったことに、誰よりも怒りと失望を露わにしたのは、この目の前にいる赤間ではなかったか?
 三年生の赤間にとっては、高校最後の試合があんな無様な負け方では、腹立たしいなどというものではないだろうに。
 桜華にコーチとして部に残って欲しいと願っているのは、赤間自身であるはずだ。でなければ、高校バスケをとうに引退しているはずのこの冬の時期に合宿になど参加するわけがない。
「葛城。お前、バスケと同じくらい、舞を舞うのも好きなんじゃないのか?」
 赤間の遠慮がちな問いかけに、成り行きを見守っていた蓮華は動揺していた。目の前に立つ少女が舞が好きだなどとは思ってもいなかった。彼女は小さな頃から、むりやりに稽古に引っぱり出され、嫌々舞っているのだと信じていたから。
「桜華ちゃん……。あなた……」
 蓮華は震える声で目の前にいる少女の背に呼びかけたが、相手の反応は彼女には向けられなかった。
「何を勘違いしてるのよ、赤間。わたしが好きで舞をやっていると本気で思ってるの? 冗談じゃないわ。こんな鬱陶しいもの、今すぐにでもやめたいわよ!」
 しかし、厭だと言う桜華の声に力強さは感じられない。他の少年たちにも桜華のなかにある動揺が見えてきたのだろう。互いに顔を見合わせてはいっそう困惑している。
「厭ならやめなさいよ。簡単でしょ、そんなこと。山の大伯父貴があんたとの約束を守ろうって気がさらさらないのに、どうしてあんたばかりが素直に言いなりになってなきゃならないわけ?」
 若者たちの間に広がった動揺に薫が小石を投げかけ、さらに波紋を広げた。蓮華自身も周囲の動揺に呑まれていて、自分がどう出ていいのか判らなくなっていた。
「あんたは舞を続ける気がない。一方で蓮華は天承院流が途絶えないようにしたい。どう? あんたの後継者の舞を蓮華に譲っても不都合なことないわよ」
「できません。大伯父貴が約束を破るかどうかなんて、今の段階では判らないことです。それに相手が約束を破るかもしれないからって、こちらが破棄していい理由になるとは思えません」
 強情に口元を引き結んで桜華が薫の顔を見上げる。それは強い意志の現れであるとも、駄々をこねている子どもの我が侭ともとれるものだった。
「意地っ張り」
「意地っ張りでけっこうです。わたしは天承院を継がないし、呼び戻されたって絶対に花娘を舞いません」
「じゃ……これであんたの父親が愛した花娘の舞姿は、永遠に見られないってわけだ」
「……え? お父さんが……?」
 突然、父を引き合いに出され、桜華が目を丸くする。天承院の娘、菖蒲あやめとむりやり結婚させられ、将来を嘱望されていたバスケットプレイヤーの地位を潰されてしまった父が、天承院の秘技“花娘”を愛していただなどと、いきなり言われても信じられるわけがない。
「あんたの父親、葛城梓一郎かつらぎしんいちろうは天承院流の師範代家系葛城家の出身でしょうが。自身は舞よりもバスケットプレイヤーとしての才能があったけど、舞を嫌っていたわけじゃないわよ」
「どうしてそんなことが判るんですか! 父はプロのプレイヤーになれたはずです。それを天承院の一存で踏みにじられて……」
 怒りを含んだ桜華の声に薫が苦笑を漏らした。そして、今までじっと目の前の少女に注いでいた視線をふとそらすと、自分たちを囲んでいる鏡張りの壁の一角へと目を転じた。
「証拠ならあるわ。……つい今し方見つけたばかりなのよね。それを知らせに行こうと思って、廊下であんたたちに鉢合わせたんだから」
 そう言うと、薫は鏡に映る自分へと声をかけた。
「待たせたわね。例のもの、出してくれる?」

〔 7338文字 〕 編集

氷解の呪文【後編】

No. 48 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,氷解の呪文 , by otowa NO IMAGE

「あんた変わってるわ」
 私がここへ来て二度目の昼を迎える頃、不機嫌な顔をしたままラナがボソッと囁いた。相変わらずふてくされた表情は崩していないし、私に敵愾心を持っているようだ。
 昨日に続いて診察の巡回に回っているところだったが、一通りの家庭を回り終えて再び最初の小屋から回ろうとした私に向けての彼女の言葉がこれだった。
「お金にもならないのに何度も診察に回るなんて。それに……カズキの側に居ようともしない」
「私がカズキの側にいたほうがいいの?」
 彼女の波立っている感情のなかに放り込んだ私の言葉は、彼女の苛立ちを間欠泉のように噴き上げさせた。
「誰もそんなこと言ってないわよ! でも、あんたを見ているとイライラする。取り澄ました顔して、カズキのことなんかこれっぽっちも心配してませんって顔を見てると……!」
 彼女の怒鳴り声に、今日も私の周囲に群れていた子供たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していた。物陰に隠れて私たちのやり取りを見守っている子の他に、泣き出している子もいる。
 いや、怒鳴り声に家々の戸口からは女たちが顔を覗かせているし、軍用の建物の戸口からは男たちの顔も見えた。
「子供たちが怯えているじゃない。可哀想に」
「そんなことどうでもいいわよ! なんだってそんな平気な顔してるのよ、あんたは! 本当にカズキの恋人なの!? 信じらんない!」
 ヒステリーを起こして地団駄を踏むラナの様子に周囲の人間たちは戸惑い、仲裁をしていいものかどうかと手をこまねいている状態だ。私が彼女の凶荒に同調すれば事態はいっそう悪化しそうだった。
「ドクの処置は適切だったわ。もう私が和紀にしてやれることは祈ってやることくらいよ。それだって私の神経をすり減らしてまで祈って欲しいなんて、和紀なら望まないわ」
 私の口調が気に入らなかったのだろう。ラナはいっそう腹立たしそうな顔つきになり、自分の上着をきつく握りしめる。
「祈ればいいじゃないのさ! 神様はそれを聞いてくれるかもしれないじゃない」
 彼女の言葉に私は思わず笑ってしまった。何を言っているのだろう、この女は。この私に神に祈れと言うのか?
「馬鹿馬鹿しい。……神などこの世にいないわ」
 怒りにラナの顔が歪んだ。避ける間もなく、彼女の平手打ちが私の左頬を叩く。渾身の力を込めたその掌が怒りのために小刻みに震えている。
「あんたなんか大っ嫌いよ! カズキに全然相応しくないわ。あんたなんか地獄に堕ちちゃえばいいんだ! あんたなんか……!」
 最後は現地語で罵り声をあげ、ラナは和紀の眠る建物へと駆け出していった。そのラナをマードックが押しとどめ、私に向かって叫んだ。
「カオル! カズキが目を醒ましたぞ!」
 呆気にとられたようにマードックを見上げていたラナがバタバタと暴れ始めた。カズキの元に行こうとしているのだ。だがマードックはその腕を放そうとしない。
「早く行ってやれ、カオル!」
 私はゆっくりとマードックに近寄るとラナを拘束する彼の腕に手をかけた。
「この腕を離しなさいよ、マードック。ラナの好きなようにさせて」
 驚いた二人の目が私に集中した。私に情けをかけられたとでも思ったのか、ラナの顔に怒りが浮かぶ。
「イーグルたちは?」
「あ……あぁ、病室に飛んで行ってると思うけど」
 未だにラナの腕を掴んだままのマードックが私とラナを交互に見比べて困惑していた。この手を離していいものかどうか、と。
「じゃ、私が会いに行くのは最後だ。私はここにいないはずの人間だからね。……ラナを離してやりなよ」
「しかし……」
 マードックもラナがカズキを気に入っていることに気づいているのだろう。私に気を使っていることは彼の態度からありありと伺える。
「ラナ。行ってカズキに会ってきなよ。イーグルの妹なら会いにいく権利は充分にあるだろう」
 マードックの腕を力任せにふりほどいたラナが私を睨みつけた。目をつり上げたその顔は私には子供っぽく見える。
「あんたなんか大っ嫌い。あんたになんか絶対にカズキを渡さないんだ!」
「お好きなように。和紀が心変わりするようなら、それはそれで結構よ。そんな軽薄な奴ならこちらから願い下げだわ」
「お、おい!」
「見てらっしゃいよ。絶対に渡さないんだから!」
 マードックが慌ててラナを掴まえようとしたが、素早く身を翻した彼女を掴まえ損ない、困ったように私を振り返った。私の態度が理解できないのだろう、彼の表情には今まで見たこともないくらいハッキリと困惑が刻まれている。
「ラナを焚きつけてどうする気だ? 素直に会いに行けばいいじゃないか」
「私はここにいないはずの人間だって言ったじゃない」
「……カズキに会わずに帰るつもりか? 強情な女だな、あんたは。必死になってここまで来たくせに」
 私の言わんとするところをおぼろに察したマードックが呆れたように肩をすくめた。彼には理解できないだろう、私の考えなど。
「マードックはカズキと話をしたの?」
「あぁ、オレが覗きに行ったときに目を開けやがったからな。一言二言だったが……。後はドクやイーグルに知らせて、あんたを探しに来たところだったんだ」
「そう。……じゃ、手伝ってよ。仕事が途中なんだ。通訳がいなくなっちゃったからね」
 マードックの目が大きく見開かれた。この状況でまだ依頼された診察をしようとする私の心境が理解できないらしい。小さく頭を振ってため息をつく。
「日本人ってのは、みんなそうなのか? それともカズキとあんただけか、そんなに強情なのは?」
「よく判ってるじゃない、カズキのこと」
 私が微かに浮かべた笑みに苦笑いで応えるマードックがひょいと肩をすくめてみせた。
「オレ以外でカズキの相棒が務まる奴はいないと思うぜ?」


 その後、和紀の病室を訪れる人間は絶えなかった。次から次へと兵士たちが建物を出入りし、果ては集落の女たちや子供まで建物を取り囲んでいる始末だ。
 ラナは姿を見せない。きっと和紀の側に張りついているのだろう。
「イーグルを助けた英雄だからな。今日はお祭り騒ぎになるだろうよ」
「英雄、ねぇ……」
 診察に訪問してもほとんどの家がもぬけの殻では仕事にならない。私は苦笑混じりに家々をまわり、昨日薬草を処方したミア婆さんの家までやってきた。
 家のなかを覗くと、昨日の中年女性が干した薬草を丁寧に仕分けしているところだった。
 私に気づくと慌てて立ち上がって駆け寄ってくる。私には理解できない現地語で早口に何かを告げているが、私にはまったく理解できない。ただ彼女の表情に昨日の暗さがないことから、老婆の容態が快方に向かっているらしいことだけは想像できた。
「婆さん、よくなったらしいぞ。……今日は起きあがれるようになったそうだ。現地の言葉はオレにはあまり理解できんが、だいたいこんなところだろう」
 辛抱強く女性の言葉に耳を傾けていたマードックが私に耳打ちしてくる。私の想像通りだ。
「ありがとう、マードック。ちょっとここで待っていて。患者を診てくるから」
 まだ何かをしゃべり続ける女性に微笑みかけると、私はその脇をすり抜けて室内へと踏み込んだ。昨日案内された床の上で老婆が器から何かをすすっている姿が見える。
「ミアさん。少しはよくなったようですね」
 どうせ日本語も英語も理解できないだろうから、私は母国語の日本語で彼女に語りかけた。
 私の呼び声にミア婆さんは顔をあげ、童女のようにはにかんだ笑みを返してくる。ラナの気性の激しさを体験したあとだと、彼女の慎ましさには面食らう。
 手にした器を傍らに押しやると、痩せた手を私に差し伸べて私には理解できない言葉でしきりと話しかけてくる。
 私はミア婆さんの傍らに座り込むと、彼女の背中をなんども撫でながら頷き返した。一所懸命に私に礼を言っているらしいことは理解できるが、それがどんな言葉であるのか私には判らない。それでも彼女の言葉が途切れるまで、私は辛抱強く頷き返した。
 ミア婆さんの診察を終え、外に出てみるとマードックは小屋の外壁にもたれかかったまま居眠りしていた。日は傾いてきており、木々の間には夕闇が垂れ込めてきてる。
「マードック。そんなところで夜になるまで眠ってると風邪をひくよ」
 私の呼びかけにマードックが片目を開けた。本当に熟睡していたわけではなさそうだ。
「終わったか?」
「えぇ。ありがとう。今日はこれでお終い。もうすぐ夕食でしょう? 帰ろうか」
 伸びをして身体をほぐすマードックの横で、私は遠くに見える建物を見つめた。まばらになっていたが人々の出入りがまだ続いている。リーダーを助けた英雄はしばらく解放してもらえそうもない。
「気になるなら行ってきたらいいじゃないか。本当に強情だな」
 私の視線の先を見透かしてマードックが混ぜっ返してくる。それを無視して私は歩き始めた。灯りが点り始めた家々の間を縫ってこの集落の中央にある広場へと向かう。
「カオルが会いにいけば、カズキの怪我なんか吹っ飛んじまうぜ?」
「お世辞なんかいらないよ。第一、和紀は私がここにいることを喜ばないね」
「なんてこと言うかな。恋人が会いにきてくれて喜ばない奴なんて……」
「マードック。カナダでのことを忘れたの?」
 私が初めて和紀にマードックを紹介された冬の出来事を思い出したのだろう。マードックが黙り込んだ。
「和紀はあのとき私をカナダに呼んだことを後悔している。今回はカナダ以上に危険な場所でしょう? 和紀は私がここにいることを喜ばないよ」
「それは……でもな、カオル……」
 チラリと肩越しに振り返った私の視線にマードックは開きかかった口をまたつぐんでしまった。あのカナダでの事件につき合った彼は、その後の和紀の荒れ様を知っているはずだ。
「あの怪我だとしばらくは起きあがれないね」
「あぁ、まぁ一週間はベッドの上かな」
「その間に私が帰国できるよう手配してくれる?」
 私の言葉にマードックが立ち止まった。気配でそれを察して振り返ると、彼は険しい表情をして私を見つめている。
「オレがやったことは迷惑だったか?」
「いいえ。感謝してるわ」
 私をここに呼んだことを言っているのだろう。彼の独断で決められたことだと思うが、あのときのマードックの配慮は私にはありがたかった。それは事実だ。
 私は自分の目で和紀の無事を確認できたのだ。何も知らずにいるよりも、どれほどマシだったかしれない。
 だが和紀は私をこの危険地帯に呼び寄せる気など毛頭なかっただろう。カナダのあの事件以来、和紀は今まで以上に自分のやっていることを私に話さなくなっていた。
 そうだ。あの冬のカナダで、私はレイプされた。和紀は自分が許せないのだ。自分の傭兵稼業に私を巻き込んだばかりに起こったあの事件を、彼は決して忘れてはいまい。


 私がここにきて七日目が過ぎようとしていた。
 和紀が意識を取り戻したあと続いた人々の狂乱は丸二日続き、ずいぶんとドクの気を揉ませたらしい。
 意識を取り戻したとはいえ、未だ微熱の続く和紀の体力を懸念してイーグルが人々を追い立てなかったら、その狂乱はまだまだ続いたかもしれない。イーグルの命を助けたということは、この集落の人々には感謝してもしきれるものではないのだろう。
 私は淡々と与えられた仕事をこなした上に、ドクの仕事の幾つかを請け負っている状態が続いていた。
 和紀の元に押し掛けてくる見舞客をさばくのはドクの仕事になってしまっている。和紀の体調を把握しているのが主治医である彼一人なのだからそれは仕方のないことだろう。
 ラナは毎日健気に和紀の元へ通っているようだった。私と集落のどこかですれ違っても、まったく無視して声をかけてこようとはしない。
 だが彼女の横顔が勝ち誇ったように輝いているところを見ると、和紀を独占している今、私よりも優位にいると確信しているようだ。
 昼下がりの気怠い時刻、女たちはのんびりと家事をこなし、男たちの大半は銃器の手入れに余念がない。
 私は治療すべき患者もなく、暇を持て余し気味だった。現地の言葉が判らないので、女たちのおしゃべりに混じることもできない。和紀が怪我を負った戦闘以来、戦いらしい戦いがないのでドクの仕事を手伝うにしても何もない状態だ。
「カオル!」
 マードックが木陰でぼんやりと木漏れ日を見上げていた私の元へと駆け寄ってきた。
「デュークと連絡がとれた。今日の日没間際にヘリをつけるそうだ」
「そう。ありがと」
「……本当にいいのか? カズキに会わなくて」
 彼はまだこだわっているようだ。それもまた仕方ないのかもしれない。私を呼び寄せたのは彼自身だ。和紀のために良かれと思ってやったことだったのに、その本来の目的はまったく達せられていないのだから。
「帰るわ。和紀の容態はもうだいぶん良いみたいだし……」
「判らんな。次に会える保証はない稼業だぞ、オレたちは。ここで会っておかなかったことを後悔するかもしれんぞ」
 不満を漏らすマードックに笑みを返すと私は目を閉じた。もう何度も彼と議論をしているその度に平行線なのだ。私の強情さに呆れたのか、マードックは小さく肩をすくめると元来た道を戻っていった。
 その彼の後を追って私も立ち上がった。帰るのなら荷物をまとめておかなければならない。いくら持ってきた荷物が少ないとはいえ、置いていくわけにはいかないのだから。
 私が割り当てられた小屋へと歩き始めるとすぐに、鼻歌を歌いながら女たちの集落へと向かうラナと行き会った。和紀の元から帰ってきたところなのだろう。踊るように浮き足立った足下を見ればすぐに判る。
 私に気づいた彼女が小さく鼻で笑った。いやに神経に障る笑い方をする。だが私は顔の表情を変えることなく、彼女を無視して自分の小屋へと入っていった。
 自分の感情を押し殺すことなど私には日常茶飯事のことだ。いや、必要とあれば白けていても笑顔の仮面くらい被ってみせる。
 医者という職業は権力者が近寄ってくることも多い。彼らに自分の内心を覗かれたくなれば、これくらいの芸当ができなくてはやっていけない。立派な志をもって医者になった者ばかりではない、その現実は私の心をいつも鎧で固めさせていたのだ。


 身支度を整えて集落の広場で出発を待っていた私の背後に人の気配がした。
「カオル。準備できたのか?」
 マードックが事務的な声をかけてきた。出発の時刻がきたのだろう。
「えぇ。いつでもいいわよ」
 立ち上がってマードックを振り返った私の視界の隅に病院の建物が入った。その扉が開き、イーグルが姿を見せる。
「意地を張るのもほどほどにしてくれよな」
「もう帰るってのに、まだ言って……る……!?」
 イーグルに続いて建物から姿を見せた人物を見て私の舌が強ばる。その私の表情から察したらしいマードックがいつもの猛獣に似た笑みを口元に浮かべた。
「今回のことは後でオレが二~三発殴られりゃ済むんだからさ」
 向こうもマードックの傍らに立つ私の存在に気づいた。大きく目を見開いた顔が強ばっている。
「薫……!」
 ほんの二十メートルと離れていない場所に立つ和紀があげた叫び声が、私の耳にはひどく遠い場所から聞こえるような気がした。
「どういうことだ、マードック! なんで薫がここにいる!?」
 茫然とした様子からすぐに立ち直ると、和紀は未だに痛む身体を引きずるようにして私たちの側まで歩み寄ってくる。険しすぎる声にマードックが居心地悪そうに身じろぎした。
「お前の通信機のデータを読ませてもらって彼女に連絡をいれたんだよ。オレの独断で、だけど」
「勝手なことをするな! 俺がいつ薫を呼んでくれと頼んだ!?」
 マードックに掴みかかっていく和紀だったが、怪我をしている今の状態ではどれほどの力も出ない。足下をよろめかせ、それをマードックに助けられる始末だ。
「せっかく会いにきてくれたんじゃないか」
「余計なお世話だ! 俺に断りもなしに勝手なことをするな、馬鹿野郎!」
 マードックの腕を払いのけると、和紀は今度こそ相棒を殴り倒そうと腕に力を込めた。
「やめなよ。ここへ来るって言ったのは私なんだから」
 私が振り上げかかった和紀の腕を押さえなければ、彼は何度でもマードックに殴りかかっていきそうだった。私の声に和紀の顔が歪む。ここへ来るまでの危険を思い描いているのだろう。和紀は唇を噛みしめたまま、じっと私を見下ろしてくる。
「こんな危ない真似をするなよ。お前に何かあったら俺はどうすりゃいいんだ」
 久しぶりに聞く彼の日本語は震えていた。マードックに英語で怒声を浴びせていたときの勢いはまったくなくなっている。
「どうもしない。何もなかったんだから」
「これから何もないって保証はないだろうが! お前に何かあったら、俺は今度こそ自分を許さない……!」
 叫び様に和紀は私をきつく抱きしめていた。腕が微かに震えている。背中にその震えを痛いほど感じて、私はなぜか可笑しくなってきた。自分に降りかかる危険には無頓着なくせに、私のことになるといつもこれだ。
 いつの間にかマードックがイーグルの側まで退いていた。ニヤニヤと笑いながら私たちの成り行きを見守っている。どうやらマードックという人物は私が思っていた以上に喰えない性格をしているらしい。
「怪我しなかったか、薫……?」
「あんた、自分の怪我の心配しなさいよね」
 自分のことは棚に上げて私の躰の心配をする和紀に呆れて、私は和紀の頭を小突いた。それでも和紀は私を解放しようとはしない。
 広場には他にも目があり、どうやっても私たちは彼らの注目を集めているのだが、和紀はまったくその様子に気づいていないようだ。
「ちょっと和紀。いい加減に放してよ。息苦しいし、恥ずかしいでしょ!?」
「やだ!」
 即答して和紀は私を抱きしめる腕をさらに強めた。
「もう! これから帰るんだから、放してってば!」
「え……?」
 ようやく和紀が私を戒める腕から力を抜く。怪訝な表情で私を見返す彼の顔には困惑が広がっていた。
「私がここへきたのはもう七日も前なの! だからいい加減に帰らないと仕事がたまってるのよ」
「そんな前からいたのか!?」
 目に殺気を宿した和紀がマードックを振り返った。今まで何も教えなかった相棒の仕打ちに腹を立てているのだ。その和紀の形相にマードックが首をすくめる。
「彼に当たるのは止めなさいってば! 私が口止めしておいたんだから」
「なんで黙っていたんだよ」
「言えばそうやってマードックに殴りかかっていくじゃない。それに必要以上に私を心配するし。だから何も言わずに帰ろうと思ったのに」
 私の返答に和紀は微かに眉を寄せた。それだけの仕草だったが、和紀が自分の言動を後ろめたく思ってることは手に取るように判る。怒りに任せて相棒に当たり散らしたことを少しは後悔してくれているようだ。
「あとでマードックに謝りなさいよね」
「マードック!」
 私の言葉を無視すると和紀は相棒の黒人に向かって叫んだ。不穏な光が目に浮かんでいる。私は嫌な予感に思わず身を引いたが、和紀が私を抱きしめていた腕に再び力を込めてそれを阻んだ。
「まだ間に合うよな? 出発を一日延ばせ!」
 有無を言わせない和紀の声にマードックが再び首をすくめる。その横ではイーグルが笑いを噛み殺して肩を震わせていた。
「何言ってるのよ!? これ以上引き留めないでよ!」
「どうせここまできたんだ。もう一日くらい仕事をサボれ! ……いいよな、薫がもう一日ここにいたって?」
 逃げようともがく私を抱きしめたまま、和紀はイーグルへと視線を走らせる。とても了解を求めているという口調ではない。命令を下すような断定的な言葉遣いにイーグルがさらに肩を震わせて笑いをこらえている。
「好きにしろ。私はいっこうにかまわん。……まぁ、問題はラナくらいか」
 チラリとイーグルの視線が集落の方角へ走った。その視線を追っていくと、広場の縁で身体を硬直させて私たちを見つめる彼女の姿が見えた。
 なんて人の悪い兄貴だ! 何も妹にこんなところを見せる必要などなかっただろうに。
 ショックのあまりに口がきけない彼女には目もくれず、和紀は私を引きずるように病院へと連れていく。広場の周囲で成り行きを見守っていた男たちや女たちが、ある者は笑いながら、ある者は呆気にとられて私たちを見つめている。
「バカ! 放しなさいよ!」
「いやだね。ほら、マードック。早くデュークに連絡入れろよ」
 愉しげに口元に笑みを浮かべた和紀に急き立てられてマードックが何処にか消えていく。私を助ける気は毛頭ないようだ。
「放してったら!」
「暴れるなよ。怪我に響いて痛いだろう」
 怪我と聞いて、突っ張ってきた私の腕から一瞬力が抜けた。それを見計らったようにふわりと身体が浮かんだ。和紀が私を担ぎ上げたのだ。
「バカーッ! 何すんのよっ!」
 私の抗議を無視すると和紀は悠々と病院と戸口をくぐっていく。本当にけが人か!? 人一人担ぎ上げるだけの体力がある奴が本当に怪我人なのか!?
 病院の扉を閉める寸前、和紀がイーグルを振り返った。
「明日の朝まで面会謝絶、な」
 私の目の前で扉が閉まっていく。そのわずかに隙間の向こうにイーグルの笑み崩れた顔が覗いた。
 まるでそれが当然の権利だとでもいうような堂々たる和紀の台詞を聞いたイーグルが今度こそ爆笑している声が響き渡り、それに後押しされるように和紀は病室の扉を開けてなかに滑り込んだ。
「何するつもりよ、あんた!」
「何するって決まってんじゃん」
 口元に凶悪なほど愉しげな笑みを浮かべた和紀の様子に、私の頭のなかは真っ暗になった。その私を再びきつく抱きしめた和紀が喉の奥で笑い声をあげている。いつだってこの男は私の考えなど無視して行動する。
「愛してるよ」
 和紀の囁き声が私の耳にはどんな媚薬よりも最悪な麻薬となって広がっていった。それは彼の危急を知らされたときに凍りついていた私の“時”をゆっくりと溶かす呪文のようだった。

終わり

〔 9107文字 〕 編集

氷解の呪文【前編】

No. 47 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,氷解の呪文 , by otowa NO IMAGE

 それは夜、かなり遅くなってからのことだった。
 ノイズが激しく混じる男の声を携帯の電話口の向こう側に聞いて、私の“時”は凍りついた。遠く海の彼方からの声の使者は、幼なじみの危急を知らせるものだったのだ。
「どう……して?」
「依頼主を庇って被弾した。弾は全部抜き取ったが、左脇腹上部に当たったヤツがあばらと内臓に傷を入れちまったんだ。ここ数日が山だそうだ。……来るか?」
 身体から力が抜けていくようだ。ふと今が九月だということを思い出し、彼の兄も九月に亡くなったのだと気づく。恐ろしい錯覚に目眩がした。
「行くわ。なんとしてでも、そちらに行く!」
「了解。だが民間機はこの国の国境を越えられない。デュークに連絡を入れて、専用機が飛べるように手配する」
「いったい……いったい和紀はどこにいるのよ!?」
 国境が封鎖されているような地帯で瀕死の状態になっている幼なじみを想像していると胸が潰れそうだ。
 だからあれほど危険な仕事から足を洗えと言ったのに!
「説明は後からだ。すぐにバルダミッシュ宇宙港まで行け! そこの衛兵に合い言葉を伝えれば入れるようにしておく」
「合い言葉?」
「今から教える」
 電話の向こう側は慌ただしい気配がしており、自宅でこの電話を受けた私の生活空間とはまったく別世界が広がっているらしいことは理解できた。
 一語一句を聞き漏らすまいと耳をそばだてた私が、伝えられた合い言葉を確認する間もなく電話は途切れた。これからの諸々の手配のために慌てて切ったのだろう。
 私は茫然とソファに座り込んでいたが、我に返るとデイパックを引きずり出してきて身支度を始めた。時間が惜しい。一刻の猶予もない、そんな気がした。
 バルダミッシュ宇宙港は軍の管轄する施設のはずだ。身分証明書もなしに民間人が入ることなどできるわけがない。
 だが私は迷うことなく宇宙港のゲートの前に車をつけ、すぐに立ち去るように睨みつけてくる衛兵へと教えられた合い言葉を伝える。
 目を見開いた衛兵たちが慌てて通信機で本部と連絡を取っている姿がどこか滑稽だった。
 通信を終えた衛兵の一人が軍用に改造されたジープで先導して港内を走り抜けていく。それを見失わないようにハンドルをさばきながら、私は舌打ちした。
 和紀の今回の仕事はよほどヤバいものだったに違いない。でなければ、彼の相棒の人脈が恐ろしく広いか、だ。軍事施設にこうも簡単に出入りできるなど、聞いたこともない。
 迫ってきた無骨な軍用施設の前にジープが止まり、私がそのすぐ後ろに車をつけると、建物の前で銃器を携えていた兵士の一人が仰々しいほどの動作で私へと敬礼し、建物の内部へと案内する。
 何もかもが別世界だった。ほんの一時間ほど前までは私はただの民間人だったはずなのに、今は軍施設のなかを当たり前のような顔をして歩いている。
 案内の兵士が再び大袈裟なくらいに畏まって目の前の扉を開けてくれた。どうやら私の身分を勘違いしているらしい。一介の民間人だと教えてやったら、彼はどんな顔をするだろう。
 扉の向こうは眩いほどの光が満ちていた。決して廊下が薄暗かったわけではないが、室内の光量に目が慣れるまでに数秒かかったような気がする。
「ようこそ。お待ちしておりました、ミス・ユウキ」
 重厚な低音に首を巡らすと、部屋の隅に設けられていた応接セットから上背のある男が歩み寄ってくるところだった。
 相手の年は四十代後半といったところか。骨太のガッチリした体格に二メートル近い身長があるのだからかなりの威圧感があってもいいはずだが、そんな圧迫感は感じることもなく、彼は人当たりのいい笑みを浮かべて私に右手を差し出してきた。
「あなたは?」
「失礼。名乗るのを忘れておりました。カズキやマードックにはデュークと呼ばれています。本名はあしからずご容赦を……」
 慇懃な態度で腰をかがめる男の灰色の瞳に一瞬鋭い光が点った。どうやらこちらが相手を警戒しているのと同様に、相手もこちらを値踏みしているらしい。
「結構よ。私もあなたの本名に興味などないわ。……専用機を用意して頂けると伺いましたが?」
「えぇ。マードックから連絡を受けてすぐに手配させました。もう間もなく離陸できるでしょう。ところで……ミス・ユウキ」
 困ったようにデュークと名乗った男が眉を寄せた。ブルネイの髪を片手で撫でつけている仕草に戸惑いが見える。
「何か?」
「随分と落ち着いていらっしゃる。普通はもう少し取り乱すものなのですがねぇ。こんなことは日常茶飯事なのですか、あなたのお仕事では?」
 しみじみと聞こえる相手の声に私は苛立って眉をつり上げた。たぶん相手も私の内心を理解したのだろう。慌てて話の続きをする。
「いや、そんなことをお聞きしたいわけではなかった。実は向こうは少々ハードな環境になっておりましてね。専用機を幾度も飛ばせるわけではないのです。今回飛ばしたとなると、相手国を刺激しないためにも一週間ほどは様子を見なければならないでしょう。その間は……」
「自分の身は自分で守れ、と?」
「いやいや。そうではなくてね。女性にはちょっと厳しい生活環境ですので、清潔好きな方だとかなり苦痛かと思いまして」
 意外とこの男は私に気を使っていたらしい。劣悪な環境で生活したことがない人間には、耐え難い場所だと忠告してくれているのだ。外見だけ見れば、私はそんな環境で生活したことがある人間だとは思えないだろう。
「ご忠告ありがとう。でもシャワーやトイレがない程度なら平気ですよ。……それとも疫病でも蔓延しているとか?」
 私の返した答えが気に入ったのか、大男は口元を歪めて笑い声をあげた。
「それだけの心積もりがおありなら大丈夫だろう。シャワーやトイレはあまり清潔ではありませんが、ちゃんと備えてあります。それから……疫病が流行っているという報告は今のところ受けておりませんな」
「それだけ聞けば、充分ですわ」
「では搭乗口に向かいましょうか。そろそろ準備もできているでしょう」
 私の様子に緊張を解いた男が扉へと歩き出す。大股で歩くその後ろ姿には一部の隙もない。訓練された人間の鋭い気配が、幼なじみの見慣れた背中と重なって、私の胃を締めあげた。


 鼓膜を破りそうなほどの騒音を撒き散らして戦闘ヘリが下降していく。
 二十世紀初頭に飛行機という乗り物が歴史に登場してから、私が生きているこの時代までおよそ二百年に航空技術は飛躍的に発達した。一日二十四時間のうちの半分、半日で地球を一周できる航空機どころか、かなり高額ではあるが金さえ払えば宇宙にだって行ける時代だ。
「ヘリから降りたら、すぐに迎えの者の後について走ってください!」
 爆音のなかで指示を受けて下を確認すると、暗いブッシュの茂みの間に見覚えのある人物の姿が見えた。私の携帯に電話を寄越した人物……和紀の相棒マードックだ。
 宇宙港を飛び立ったのは草木も眠る丑三つ時という時刻だったはずだが、ここは日没間近の時刻のようだ。
 バルダミッシュ宇宙港から軍用の専用機から目的地の国境の手前でヘリに乗り換え、それからわずか三十分で目的の場所へと到着したのだ。恐ろしい高速移動だといっていい。
 時間を遡ったような、あるいは一日を早送りにして過ごしたような、妙な時間のズレが時差という単語になって私の脳裏に浮かぶのにそう時間はかからなかった。
 地面すれすれでホバーリングするヘリから一人の歩兵と共に飛び降りると、私は一直線にブッシュの群生へと走った。この大地は今、戦時中なのだ。いつなんどき銃弾が飛んできてもおかしくはない。
 私たちが地面に飛び降りると同時にヘリは勢いよく舞い上がり、飛んできた方角とは反対側に向かって飛び去っていく。
「止まるな! ヘリが陽動してくれている間にここを離れるぞ!」
 ブッシュのなかに駆け込むとマードックの猛獣のような唸り声が私を駆り立てた。マードックを先頭に、私の荷物を担いでいた兵士がしんがりに、私を間に挟んで鬱蒼と茂る木々の間を走り抜けていく。
 薄暗い樹木の下を、木の根に足を取られないように走り抜けるのはかなり体力を消耗する。ともすれば遅れがちになる私をマードックは辛抱強くサポートしてくれているが、彼の運動能力から考えればかなり遅い行軍だろう。
 どれくらい走ったかもう判らなくなる頃、もう辺りはとっぷりと日が暮れていたから、かなりの時間を走ったのだろうとは思うが、ようやくマードックが走る足を止めて静かに歩き始めた。
 息があがって呼吸するのもかなり苦しい。これだけ長時間、しかも全力疾走に近い状態で走り続けたのは何年ぶりだろうか。
「誰だ!」
 誰何すいかの声が暗闇の向こうから響いた。それにマードックが明瞭な声で何かを答える。私にはよく判らない単語だったから、たぶんこれもまた合い言葉のようなものだろう。
 彼の息はまったく平常だ。なんて体力をしているのか。いや、後ろの兵士も息を乱してはいない。戦闘訓練を受けた者たちの底抜けの体力には呆れるばかりだ。
 暗闇のなかから三人の男が現れた。全員がライフル銃のようなものを携帯している。私たちを取り囲むようにして彼らが周囲を固め、生い茂る茂みを掻き分けた先に、集落が忽然と姿を見せた。
 樹木を幾重にも重ねて自然の砦としているのだろう。覆い被さるように空を覆う大木の枝の下には、か弱いがランプの光が静かに溢れている。
 私たちの出現に集落の者が一斉に振り返った。不審と好奇心に満ちた瞳が私に集中している。
 どうやら一つの村のような集団を形成しているらしいこの集落には、マードックたちのような傭兵の他に、現地人の男女、老人、子供までいた。
「カオル。オレの側から離れるなよ。ここは女が少ないからな。下手に一人で歩き回ると、馬鹿な考えを起こす奴がいるかもしれん」
 マードックが低い囁きで私に忠告してきた。だがマードックの言うような荒んだ気配をこの集団の者からは感じない。それとも私の感覚が疲れで麻痺しているのか。
「マードック。その女、誰?」
 流暢とは言い難いが現地人らしい褐色の肌をした女が英語でマードックに話しかける。見知らぬ、しかも兵士でもない女の出現に警戒を強めているのだろう。
「カズキの恋人だ。お前ら、手ぇ出すなよ」
 唸るようなマードックの返答に場が一瞬だけ緊張する。彼の言葉に怯えていると言うよりは、カズキの名に反応したといった感じだ。
 マードックに話しかけた女が刺すような視線を私へと向けた後、ふてくされたようにきびすを返して他の女たちの元へと行ってしまった。なんだか厭な感じだ。
「シェーン。彼女の荷物を返してやれ。……こっちだ、カオル」
 後ろについてきていた兵士から自分の荷物を受け取ると、私は再びマードックの後ろについて歩き始める。幾つもの幌小屋を通り抜け、幾分マシな建物の前に到着すると、マードックはそっと扉をノックした。すぐになかから返事が返る。
 建物のなかは意外と清潔だった。最新とまではいかないが、幾つかの医療機器が並んでいる。ここがこの集落の病院の役割を果たしているのだろう。
「お帰り、マードック。えぇっと。そちらが……?」
「カオルだ。ドク、カズキの様子は?」
 三十代半ばほどの年齢だろう白人種の男が私の顔をしげしげと見つめてくる。だがマードックの声に我に返ると、状況を説明し始めた。
「相変わらず意識が戻ってない。弾は全部抜いたし、化膿止めも打ったわけだからね。肋骨にヒビが入っているから……熱も下がってない。後は彼の体力次第ってことになるかな」
「和紀はいつからそんな状態になっているの!?」
 会話に割って入った私に医者らしい男は眉を寄せた。その男の代わりにマードックが説明を始める。
「鉛弾を身体にぶち込まれたのは一昨日だ。敵から隠れながら丸一日かかって、あいつをここまで運んだときにはもう発熱していた。すぐにドクに弾を摘出してもらったが……」
「和紀はどこ!」
 今まで抑えていた苛立ちが突如噴き出してきた。もう耐えられない。和紀の様子を自分の目で確認しなければ気が済まない。
「奥の部屋だよ。でもまだ意識が戻っては……」
 医者の声を最後まで聞く気にはならなかった。彼の指し示した廊下の先の部屋へと急ぎながら、私は自分の胃を服の上から鷲掴みにした。キリキリと痛み続けている。それは急げ、とシグナルを送っているような気がして、私の焦りを否応なく煽っていた。
 そっと部屋の扉を開けると、室内はランプの明かりだけが点された薄暗い状態だった。一番奥にベッドがあり、その上に横たわる人影が見えた。
「和紀……!」
 よく見知っている幼さなじみの青ざめた顔に、私は身体の力が抜けそうだった。どうしてこんなことになっているのだろう。和紀がこんな場所でこんな風に眠っていていいはずがない。
 よろけながらベッドに近づき、横たわる彼の寝顔を見下ろしたとき、不意に私の眼から涙が伝った。止められない。止まらない。
 今まで涙を我慢していたという感覚はない。だがそれは私の頬を濡らし、和紀の眠るベッドの縁を湿らせ続けた。


 一晩中、和紀のベッドの傍らにいた私がその部屋を出たのは、朝の慌ただしさが建物の外を取り巻き始めた頃だった。
 外は朝靄が微かに残っていた。でもそれもすぐになくなるだろう。朝食のための煮炊きの音と匂いが人間の生の営みのリズムを告げているようで、私は小さく安堵のため息をついた。
 青ざめ、昏々と眠りつづける和紀の顔を見続けていると自分も生死の境を彷徨っているような浮游感に襲われ、ひどく身体が気怠くなってくるのだ。
「カオル!」
 聞き慣れたマードックの声が近くの小屋の脇からあがった。振り返ったその姿を確認すると、大柄な彼の脇には現地人らしい男と、昨日私がここに来たときにあからさまな敵意を剥き出しにした女が立っている姿も目に入った。
 私が返事を返す前に、現地人の男のほうがこちらに近づいてきていた。それを追うようにマードックと女が後ろに続く。
 男の歩く姿は堂々としており、この集落のなかでも決して地位の低い者ではないことを伺わせる。年格好は三十代くらいだと思われるが、他民族の年齢を外見だけで判断することは難しい。
「ようこそ、カオル。我々はあなたを歓迎します。昨日は挨拶もせずに失礼しました。私はここでは“イーグル”と呼ばれている。あなたもそう呼んで下さい」
 流暢な英語が男の口から流れる。聞きかじりで学んだにしては癖のない、限りなくネイティブに近いイーストアメリカンイングリッシュだ。名乗ったイーグルという名は本名ではないだろう。
「……一つ断っておくわ。私のファーストネームを呼べるのは私が許可した者だけよ。それ以外の人間が“カオル”の名を呼ぶことは許さないわ。以後は“ユウキ”と呼んで頂戴」
 男、イーグルの後ろに控えていた女の視線が険しくなった。その隣ではマードックが苦笑いを浮かべている。
「了解。私は日本人の風習にあまり詳しくないのでね。失礼があったことは詫びよう、ユウキ。そうそう。妹を紹介しよう。ラナだ。兄弟のなかでも一番の末っ子でね。ちょっと我が侭なところが……」
「イーグル!」
 不機嫌な女の声が割り込んできた。イーグルの傍らに寄り添うラナは険しい視線を私に向けたままだ。
 見比べてみると確かに彼らの顔はよく似ていた。決して高くはないがスッキリと通った鼻筋やアーモンド型に切れ上がった眼、やや肉厚な唇にえらの張った頬から顎にかけてのライン。民族的な特徴以外にも彼ら兄妹の容姿は酷似していた。
「私が一番上で、この子が一番下だ。他の弟や妹たちは死んでしまった。三日前には危うく私も死ぬところだった。……ユウキ。あなたには謝らなくてはならない」
 一瞬だけ目を伏せたあと、イーグルは真っ直ぐに私の顔を見つめてきた。
 あぁ、そうか。そのときに私は確信した。和紀が庇ったのはこの男なのだ。この集落のリーダー的な存在なのだろう。彼を失うということは、彼が率いているこの集団の人間には致命的なことらしい。
「謝る必要があるの? イーグル。私に謝るのではなくて、和紀に感謝するほうが先だわ。私はあなたに謝られるようなことはしていない」
「冷静、ですね。普通は恋人に何かあったら取り乱して大変なのに」
 イーグルの言葉に私はふと目眩を感じた。そうかもしれない。私は和紀の危急の知らせに衝撃を受けたが、取り乱したりはしなかった。彼らがいう恋人という立場に私がいるとしたら、冷静というよりはむしろ冷淡なくらいの態度だろう。
 だが私は和紀の恋人ではない。単なる幼なじみだ。……少々複雑な関係ではあるが。
「私が泣き叫んだら和紀の怪我が治るのかしら? 今回の和紀の怪我は仕事上のことでしょう。自業自得じゃないの」
「おいおい。そこまで言ったらカズキが可哀想だろう。通信を入れたときには、あんなに殺気立っていたくせに」
「あのバカはそう簡単に死にやしないわよ。……身体だけは頑丈にできてるんだから。相棒のあなたならそんなこと知ってるでしょう?」
 彼らが私と和紀の関係を誤解しているのは、マードックからの情報だからだ。そしてたぶん、和紀もその誤解を解こうとはしなかったせい。
 およそ半年前の冬、和紀は相棒のマードックとともに別の依頼を受けていた。そのときに起こったトラブルに私が巻き込まれ、マードックは私と和紀の関係を誤解したのだ。いや。予備知識の段階ですでに和紀に誤解させられていたと言っていいだろう。
 普段は嘘などつかない和紀だが、私のことに関してはいつだって自分に都合のいい嘘をつく奴だったから。
「ったく。本当にカズキが言った通りのじゃじゃ馬だな、あんたは」
「えぇ、おかげさまでね」
 私は小さく苦笑いを浮かべた。それをどう捉えたのか、イーグルは感心したようなため息をつく。
「強い人だ。……ところで、ユウキ」
 改まった口調でイーグルが私の瞳をじっと見つめた。
「マードックからあなたが医者だと聞いたのですが、ここに滞在している間、年寄りや子供たちを診てやってもらえないでしょうか? ドクは戦闘員の怪我の治療を優先しているので、戦いに加わっていない者の病気が心配で……」
「駄目よ、兄さん! この人に頼んだって! カズキの心配だってロクにしないような人が他の人間を診察してくれるわけないじゃない!」
 訛りが強い英語がラナの口から紡がれる。私にわざと聞かせるために英語でしゃべっているのだろう。そうでなければ私に関係なく現地語で話をしているはずだ。
「ラナ! まだ答えを聞かないうちから……」
「だって! この人、全然カズキの心配してないわ!」
 ふと十年近い昔の出来事を思い出した。私の目の前で和紀に向かって私のことを痛罵した少女がいた。あのときも私と和紀は憎まれ口を叩く仲だった。和紀を邪険に扱う私の態度に反発した少女は和紀のことが好きだったのだ。
 そう言えば私がここへ来たとき、彼女は私が和紀の恋人だとマードックから聞かされてひどく不機嫌そうな顔をしていた。
 たぶん、このラナという女も和紀を好きになっているのだろう。和紀はぶっきらぼうな言葉遣いをすることはあるが、女には優しいから。
「ラナ。心配してないなら、カオルはここまで来なかったろうよ。彼女は腕のいい医者なんだ。患者は引く手数多さ。その大事な仕事を放り出してきているんだ、心配してないはずがないだろう」
 マードックはいつも余計なことを言う。
 私の医者としての腕など彼女には関係ないだろうに。彼女はただ単に私の存在が気に入らないだけだ。どんな小さなことでもいいから難癖をつけてみたい、そういう女心を判ってない。いや、判っていて庇ってくれたのかもしれないけど。
「……マードック。庇ってくれなくてもいい。で? 治療する場所は? あの建物だと、医療機器の数云々よりも医者一人でいっぱいの広さだと思うけどね」
「いいのですか、本当に?」
「何よ。頼んだのはそちらでしょ?」
 ムッとした私の顔を見てイーグルが小さな笑い声をあげた。珍しいものを見るような彼の視線が鬱陶しい。
「面白い人ですね、あなたは。……年寄りや子供たちの治療はそれぞれの小屋で行ってもらいたい。新たに施設を建てるだけの余裕はないですからね。言葉が通じないでしょうから、助手にラナを使ってください。通訳としてしか役に立たないでしょうけど」
「ちょ……兄さん! わたし、手伝うなんて言ってない!」
「結構よ。通訳してもらえれば充分」
 勝手に話を進めていく私たちの横で不満そうにラナが頬を膨らませている。それをなだめるようにイーグルが彼女の肩を軽く叩いた。
 不満を残しつつも兄には逆らいがたいのか、ラナがそっぽを向きながら小さく頷く姿を私は視界の隅で確認していた。


 診察に回っている間に、私の後ろには小さな子供たちの行列が出来始めていた。傭兵以外の、しかも女など初めて見るので珍しいのかもしれない。
 私には判らない現地語でコソコソと囁きかわす彼らの様子は、好奇心で玩具にじゃれつく子猫のようだった。
 集落は木々に取り囲まれており、空もほとんど見えない。枝の間から覗く切り取られた青が見えなければ、ここが屋外だということを忘れてしまいそうだった。
 木漏れ日の間にひっそりと固まって建っている建物を一棟ずつ訪ね歩く作業は、研修医のときに恩師の後に従って患者の病室を巡っていたときのことを思い出させる。
「ラナ。次の家の家族構成は?」
「婆さんが一人と女が一人、それから子供が五人」
 必要最小限の言葉しか発しないが、私を案内するラナは自分に与えられた役割をきちんと果たしていた。気に入らない奴と仕事をするときに、バカげた意地悪をする医者仲間とは大きく違う点だ。
 戸口をくぐって次の小屋へと入っていくラナに続いて私がその敷居をまたぐと、私たちを取り巻いていた子供たちまでが戸口から家のなかをしげしげと覗き込んでくる。
 ラナが話をつけてくれたのだろう。中年の女性がおずおずと進み出て私を小屋の奥で横たわる老婆の元へと案内してくれた。
 老婆は弱々しい光を目に宿し、怯えた様子で私を見上げている。見知らぬ女がいきなり現れては、恐れるなというほうが無理な話だろうが。
「ラナ。この人はなんて呼ばれているの?」
「ミア婆さん、よ」
 どうせ通じないだろうが、私は第一声を日本語で話しかけた。
「初めまして、ミアさん。あなたを診察させてもらえますか?」
 日本語ではラナも理解できない。通訳できずにラナはムッとした顔をした。自分の存在を無視されたとでも思っているのだろう。
 次はラナに判るよう英語で指示を出す。
「彼女がこんな状態になってからどれくらい? それから身体の症状には何が出ているの?」
 ラナが不機嫌な顔のまま中年女性と話をする。女性は不安を訴えるようにラナに何事かをまくし立てる。その光景はラナの不機嫌な顔以外は、病院の診察室で看護婦に不安を訴えてくる患者の家族にそっくりだった。
「五日ほど前から嘔吐と下痢を繰り返している。今はほとんど水しか口にしていないそうよ。胃の痛みを訴えているわ。それ以外の症状は出ていないみたい。……よく働く元気な婆さんだったのよ」
「他の家族に症状は出ているの?」
「いえ。婆さんだけよ」
 女性の訴えている内容を通訳するラナは努めて不機嫌を顔には出さないようにしているようだ。それでも私と一緒に仕事をするのは厭なのだろう。診察にまわり始めてから一度も私の目を見ようとはしない。
 ラナからの説明を受けて私は老婆の胸に聴診器を当てた。心音や内臓が蠢く音が拡大されて鼓膜の奥を刺激してくる。馴染んだその感覚の下で私は忙しく頭を巡らせて病名の見当をつけた。
 この土地で自生している薬草を確認してあったので、そのなかから目的の薬草の名前をあげてラナにその服用方法を伝える。
「胃腸が弱っているときに、消化しきれないものを口にしたのかもしれない。この薬草は下痢を止める作用があるものと胃の痛みを抑える作用のあるものだから、煎じて食事の度に服用させて。食事は粥のようなものから始めて徐々に固いものに変えるように」
 症状の原因となったものまでは、簡単な診察では判らない。だが今後同じ症状が出たときには、彼らは今回の薬草を使って治すことを憶えているだろう。
「こんな草が?」
 半信半疑のラナを説得するには薬草の効能を一から十まであげて、なおかつ事例まであげる必要が出てくるだろう。そんな時間をかけてもいられない。
「効果は出るわ。保証する。胃の痛みが収まれば下痢と嘔吐はなくなるはずよ。水分はできるだけマメに取らせて」
 不満そうな顔をするラナに通訳させて中年女性に薬草の煎じ方を教えると、私は未だに怯えている患者へと視線を戻した。
「もう大丈夫。必ず治るから」
 この場にいる誰にも判らないだろうけど再び日本語で話しかけ、小さく老婆に微笑みかけて立ち上がった。
「ラナ。ここの子供たちはどうしたのかしら?」
 私の呼びかけにラナが指を戸口に向けた。
「あそこから覗き込んでいる子たちよ。見えるでしょ」
 確かに五~六人の子供たちが戸口の柱に隠れるようにして室内を伺っている。見知らぬ者が自分の住まいにいる不安に駆られて、彼らなりに家族を心配しているのだろう。
「子供は元気そうね。そちらの女性は? 特に問題はない?」
 ムスッとした顔のままラナが頷いた。中年女性は至って健康的であったし、子供たちも問題なさそうだ。この家での診察はこれで終わりだ。
「次に行きましょうか」
 ラナの不機嫌さを無視して私は小屋から外へ出た。子供たちが驚いたようにワッと散っていく。遠巻きに私を眺めながら囁く子供たちの様子は相変わらずだった。

〔 10638文字 〕 編集

斜陽の空

No. 46 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,斜陽の空 , by otowa NO IMAGE

 夏期休暇の静かな大学構内を抜けて敷地を出た途端、足は縫い止められたように止まった。懐かしく、胸の痛む姿が見える。
 いつかは来るだろうと予測していたはずなのに、その突然の来訪は一瞬にして時間を一年前に逆流させた。
 強ばった舌は痺れて言葉を発することを許さない。
 先に呼びかけたのは向こうだった。
「薫……。やっと見つけた……」
 すこし癖毛の、獅子のたてがみに似た髪型が微かな風に震えていた。日に焼けた精悍な顔の中で、黒い瞳が燃えるような激しさで光っている。
「よく……ここが判ったね」
 動揺に震える声だったがなんとか相手に答えると、薫はようやくしっかりと相手に向き直った。
「竜介やエリックには少々痛い目にあってもらったがな」
 自嘲気味な笑みを口元に浮かべて近づいてくる相手に気圧されて、薫は思わず後ずさった。相手の淡々とした口調とは反対に、自分を睨みつけているその瞳は押さえきれない怒りにたぎっている。
「和……」
「なんであんなことした? 相手はお前が手を下すような奴じゃないだろう」
 恐いほどの真剣さで瞳を覗き込んでくる相手を拒絶できず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。炎の瞳から目をそらせない。
「俺のためにやったのなら……」
「違う! あんたのためじゃない! あれは私自身のけじめをつけるためにやったんだから」
 大声にまばらな通行人が思わず立ち止まってこちらを見ている。さすがに居心地が悪い。
「チッ。……行こう。お前の部屋、この近くなんだろ?」
 忌々しそうに舌打ちする相手の声がざらついて聞こえた。こんなに苛立っている様子を見るのはいったいどれくらいぶりだろうか?
「……こっちよ」
 薫は先に立って歩き出したが、すぐに隣に並んだ男の顔を極力見ないように俯いていた。


 燦々と照りつける日差しは部屋の中の温度を容赦なく押し上げている。慌てて換気ファンを回しながら、窓という窓を開け放つ。
「適当に座っててよ。何か飲み物を入れてくるから」
 相手の顔を見ないようにキッチンへと向かおうとした肩が押さえつけられた。
「薫! なんであんな無茶やらかした!」
「放して!」
 乱暴に相手の腕を振り払ったつもりだったが、抵抗は相手には通じていない。両肩を掴まれて、むりやりに相手へとねじ向けられた身体が滑稽によじれてた。
「俺の目を見ろ! 自分のためだなんて言い訳するな。お前……本当、は……」
 和紀は動揺に思わず口ごもった。目の前では、いつも気丈なはずの薫が声を殺して泣いていた。
 意外と細い肩が僅かに痙攣している。その小さな嗚咽を茫然と聞きながら、彼はオロオロとした手つきで思わず薫を抱きしめていた。
「な、泣くなよ。俺、泣かすつもりで責めたんじゃない」
「和紀は……和紀は悔しくなかったの!? あんなバカ理事なんかに……!」
 しゃくり上げながら和紀を睨みつける薫の目尻は涙に赤く染まっている。その薫の憤りを抑えるように、さらに抱きしめる腕に力を込めると和紀はそっと囁いた。
「悔しくないよ。……お前は無事だったんだから。なのにお前ときたら……」
 ため息混じりの囁き声を耳にすると薫は身体の力が抜けたようにへたり込む。今までの緊張感がいっぺんに抜けてしまったようだ。
 ボロボロと頬を伝う涙が彼女を支える日焼けした腕や床に散っていく。
「私は……悔しかった。勝手な思い込みだけで私たちの価値を決める奴らが憎かった! それに乗せられる理事も、PTAの馬鹿な大人たちも!」
「だから理事を罠にはめたのか? 無茶をして……」
 床に座り込んでしまった薫を抱き上げると、和紀は部屋のソファへと運んでいき、そこにそっと座らせた。まるで磁器を扱うような注意深い手つきだ。
「薫……」
 そっと呼びかける和紀の声は優しい。
 顔を上げて相手を見つめる薫はまだ泣き止んでおらず、その瞳からは止めどなく涙が流されている。小刻みに震える肩が時々激しく波打ち、彼女が涙をこらえようとしていることが伝わってくる。
「雪山で俺たち二人が遭難したとき、それにあらぬ誤解をしたのは確かにバカなマスコミとあのイカレた理事だったけどさ。学園の皆は俺たちのことを信じてくれていたはずだ。竜介やエリック、翔やシャーリーだって……」
 泣き止まない薫の頬に指を這わせ、幾度も涙を拭いながら和紀は相手を安心させるように小さく微笑んだ。
「俺が学園を出ていくことで不愉快なあの騒動は収まったはずだぞ? それを蒸し返して相手を罠にはめたんじゃ……」
「仕返ししてやって何が悪いのよ! 私たちはそれだけのことをされたのよ!? 和紀だって退学しなくてもいいのに自主退学だなんて、ふざけるにも……ぅん!」
 薫の怒りの声が途中で止まる。
 自分の身に何が起こったのか判らず薫は混乱した。しかし、それが相手からの口づけで自分の口を塞がれているからだと気づくと、それまで以上に身体から力が抜けてソファへと身を沈める。
「俺は薫が好きだ。……だから、マスコミや理事どもの誤解もあながち嘘じゃないと思っている。あの山小屋で、あと数日一緒にいたら嘘は真実になっていたかもしれないじゃないか」
「嘘よ……」
 弱々しく首を振り、相手から目をそらすと薫は両手で顔を覆った。そんなことがあるものか。真実、自分たちの間には何もなかったのだから。
「嘘じゃない。きっとあのままだったら……」
「嘘! 和紀はそんなことしない!」
 悲鳴のように甲高い叫び声をあげると薫は相手の言葉を遮った。
 認めることはできない。自分は真実をねじ曲げた大人たちに復讐するためにあの罠を張ったのだ。それを根底から覆すような和紀の言葉を受け入れるわけにはいかない。
 顔を埋めたまま肩を震わす薫の姿に和紀は途方に暮れたようにため息をつく。
「俺を買いかぶるなよ……。俺だってそこらにいる他の男と変わらない。聖人君主じゃないんだぜ?」
「嘘よ。そんなの嘘……。和紀はそんな卑怯なことしない。今までだって、これからだって!」
「むりやりキスするような奴がか?」
 覆い被さってきた相手の囁き声に驚き、薫は顔をあげた。すぐ目の前に和紀の黒い瞳がある。息のかかるほど間近で見た彼の瞳は今までに知っているどんな光よりも凶暴な輝きを湛えていた。
 逃げようにもソファに押しつけられた身体は弱々しい抵抗しかできない。
「何をするつもりよ。そこをどいて……」
 怯えた声をあげる薫の目の前で和紀の瞳が細められた。まるで獲物を捕獲した肉食獣のような瞳だ。捕らえた相手をこれからどうしてやろうかと思案している残酷な表情。
「どうしようか? このまま噂を本当にしてやるのもいいかもな」
「やだ……。やめて……」
 後ずさることなどできないのに、薫は必死にソファへと身体を押しつけた。僅かでも相手から離れるために。
「あのままにしておけば良かったんだよ。やましいことなんてなかったんだから、いつかは俺もお前も笑って逢うことができたはずなんだ。それなのに……お前はそれをぶち壊しちまった。俺が必死に堰き止めていた想いを……」
 和紀の指先が薫の顎にかかった。その熱っぽい指先に薫は思わず身震いする。
 相手の想いに気づいていなかった。いや、気づかないフリをしてきた。それは幼なじみを失うことだと思ったから……。
「きっと……初めて逢った六年半前からずっとこうしたかったんだ……」
 熱い息が顎先にかかった。
 それは子供時代への決別のため息だっただろうか? それとも……?


 傾いた陽の光が窓辺に置かれた観葉植物の葉の影を長く壁に這わせていた。
 赤く澱んだ光が部屋を満たし、気怠げな空気が熱っぽく辺りには漂い続けている。そんな日暮れは初めて迎えたような気がした。
 身体の芯から鈍い痛みが襲ってくる。思い通りに動かない体が鉛のように重く感じられて起き上がるのがひどく億劫だった。
 首だけ動かして部屋の様子を伺っていると、シャワールームの方角から小さな水音が聞こえてくることに気づいた。まるで家のなかから眺める小雨の降る音を聞いているようだ。
 その水音が止まった。カチャカチャと人が動き回る物音が響き、しばらくすると向こう側の部屋の壁づたいに歩いてくる足音が聞こえてくる。
 扉の前で一瞬だけ足音が立ち止まったが、すぐにドアノブが動き、静かに人影が入ってきた。慌てて寝たフリをして目を閉じる。
 足音の主は息を潜め、そっとベッド脇に歩み寄ってきた。
「薫……?」
 かすれた囁き声にも答えずにじっと目を閉じたままでいると、静かに和紀がベッド脇の床に膝をついて顔を覗き込んでいる気配がする。
 起きていることに気づかれたくなくて、薄目を開けてその表情を確認することはできなかったが、和紀の気配が沈んでいることだけはハッキリと感じ取れた。
「傷つけたかったわけじゃないのに……。どうして俺はいつも失敗ばかりするんだろうな」
 恐る恐るといった手つきで薫の髪を手ぐしで掻き上げながら、和紀は深いため息をついた。指先が微かに震え、それが伝染したように、再度吐いたため息も震える。
「俺を憎んでいいよ、薫……。俺は、お前の期待を裏切った……」
 ベッドに横たわる者の顔を見つめていた和紀が、そっと立ち上がった。そして入ってきたときと同じく、静かに部屋を出ていく。フローリングの上を虚ろに響く足音が遠ざかる。
 そっと目を開けた薫は暗い影を部屋に作る窓枠の向こうの赤い空を見上げた。
 こんな陽光が斜陽という言葉に相応しいのだろう。気怠く、重たく、そして哀しい色をした暮色の太陽が。
 何もかもを引き裂いてしまったのは自分だ。沈黙がいつかは傷を癒しもしただろうに、それをこじ開けてしまったのだ。その結果、自分に何が残っただろうか?
「助けて。お願い、助けてよ……」
 苦しそうに呻きながら、薫は枕に顔を埋めた。
 この息苦しさから開放されるのはいったいいつだろう? 自分の蒔いた種を刈り取れる日はいつくるだろう? 犯した罪を償える日は……?
 どんな苦しみも、どんな罪も、いつかは時が癒してくれると言った者は誰だったろう。そんな言葉は嘘っぱちだ。これほどに苦しいのに、この想いが消えてなくなるものか。
 いつの日にか、和紀と再会するときがくるだろう。だが決してふざけて笑いあったあの頃には戻れない。怒りに任せてすべてを粉々にうち砕いてしまったのは、自分自身なのだから。
「助けて、和紀……」
 夏の夕暮れに吹く生暖かい風が窓から流れ込んでくる。シーツにくるまったまま、薫は自分の肩を抱いた。夕風とは別に、身体の奥底から吹いてくる風で芯から凍えてしまいそうだ。
 凍りついていく心の奥で幾度も幾度も助けの声を上げながら、薫は頬を濡らす。今はその涙を拭ってくれる者は現れそうもない。
「和紀……」
 自らの手で互いの間に溝を穿ってしまった幼なじみの名を呼びながら、薫は嗚咽を押し殺して肩を震わせた。何にも代え難い過去に想いを馳せ、もはや戻らぬ至宝の時を懐かしんで……。

〔 4548文字 〕 編集

仔犬の記憶

No. 45 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,仔犬の記憶 , by otowa NO IMAGE

 日が沈もうとしている。西の空は夕焼けで鮮やかなオレンジ色に染まっていた。辺りの街路樹もオレンジのまだら模様にその身を染めている。
 南へと真っ直ぐに伸びていく市道の端に、うずくまっている人影が見えた。自分と同じ中学校の女子生徒が着用している見慣れた制服だ。ダークブラウンの上着に、タータンチェックの同系色のスカート。
 その制服の後ろ姿は嫌になるほどハッキリと記憶している人物のものだった。
「薫! んなとこで、何やってんだよ」
 振り返った薫の顔が強ばっている。今年、中学に入学する直前に、自分の家の隣に越してきた少女の表情には、いつもの気の強さがなかった。
 遠慮無しに近寄ってみれば、彼女の目の前には段ボールの箱。さらにその中には子犬が一匹、鼻を鳴らしてこちらを見上げていた。
「和紀……」
「なんだよ、子犬じゃねぇか。誰だ、こんなとこに捨てていった奴は!」
 ペットに飽きたとか、面倒になったとかで、簡単に捨てていく奴は後を絶たない。すぐ側に公園もあるこの辺りは、動物好きな人間が犬の散歩コースにしていることもあり、ペットを捨てていく者がよく現れる。
「……ったく。後の面倒ばっかり他人に押しつけて、なんて飼い主だ。……な、なんだよ。なんか俺、悪いこと言ったか?」
 不機嫌そうに呟く自分をじっと見つめる少女の真摯な瞳に、一瞬たじろぐ。
「別に」
 ぶっきらぼうな相手の口調は、彼女が不機嫌なときによくやるものだ。もしかしたら、癇に障るようなことをうっかりと口走ってしまったかもしれない。
「あっそ。……ところで、どうすんだよ。お前、連れて帰るのか?」
 その言葉に傷ついたように顔を歪め、薫が首を振る。子犬に聞かれるのを恐れているかのように立ち上がると、小声で早口にまくし立てる。
「駄目。私のところ、父さんが動物大っ嫌いなんだ。連れて帰ったりしたら、虐め殺されちゃうわ。そんなの可哀想で……!」
「んだよぉ。……うちは母さんが動物の表皮アレルギーあるから駄目だしなぁ」
「もらってくれそうな人、いるかな?」
「さぁねぇ……。俺、学校の荷物家に置いたら空手道場行くから、そこで訊いてみるわ。お前も一緒にくるか?」
 物問いたげに首を傾げる薫を無視して、しゃがみ込んで目の前の子犬の頭をなでてやる。
 人見知りをしない丸い黒眼がじっと見つめ返してきた。自分の命運を目の前の人間が握っている、とでも思っているのか、神妙なその態度は放っておくことを躊躇わせるに充分だった。
「部外者が行ってもいいの? 入門希望って訳でもないし、ただ単に犬のもらい手を探しにきたってだけだと……」
 所在なげに佇む薫の表情は常にない、遠慮がちなものだ。らしくないその態度が、可笑しくて思わず笑ってしまう。
「何、遠慮してんだよ。でかい面して入ってきゃいいさ。どうせ、野郎連中ばっかだしな。美人が行けば、大歓迎だぜ?」
「……美人なんかじゃない」
 少々ムッとした表情になって薫が反論してきた。さらに混ぜっ返してやりたくなったが、彼女の眉間に寄せられたしわを見て、思いとどまる。いつもの気の強さがなりを潜めた薫の顔からは、孤独感が滲んでいたから。
「まぁ、どっちでもいいさ。道場の連中なら、俺たち中坊みたいに家族に聞かなきゃ、なんてこと言わなくても、犬の一匹くらいもらってくれる奴いると思うぜ?動物好きな奴だっているだろうし……」
 どうする?と首を傾げて相手の表情を見る。困惑した表情のまま、薫が頷くのを確認すると、再び子犬の頭をなでる。くんくんと鼻を鳴らしていた子犬がベロリと指を舐めてきた。
「うわっ! 気安く舐めんなよ。さっきハンバーガー買い食いしたから、匂いでも残ってんのかな? ……腹減ってんのか、お前?」
 じゃれつかれて思わず指を引っ込めると、残念そうに子犬が喉を鳴らす。その様子を見守っていた薫が小さな笑い声をあげた。
「あんたの指、餌と間違えられてるんじゃないの?」
 子犬を抱き上げた薫が、微笑みを子犬へ向ける。徐々に日が沈みかかっているこの時刻、彼女の表情を辛うじて判別できるだけの光源しかない。
 それでもその横顔を見ていると、やはり美人の部類に入る整った顔立ちをしているように思える。いや、有り体にいうならば、かなり自分好みの顔をしていると言っていいだろう。
「……どしたの、和紀?」
「い……いや。なんでもない。俺、胴着取ってくるから、お前も学校の鞄置いてこいよな。それから、おばさんに行き先伝えておけよ。遅くなるだろうし……」
 動揺を悟られていないかと、思わず早口になる。しかし、当の相手はまったく気にかけてはいないようだった。彼女の関心は子犬にだけ注がれている。
「え……? もらい手が見つかったら、すぐに帰るよ?」
 子犬の頭をなでながら、驚いた表情で見返してくる相手を軽く睨む。
「お前なぁ。これから道場に行けば、着く頃には真っ暗だぞ?いくらお前が気が強いったって、女一人で帰せるかよ。んなことしたら、俺が母さんに絞め殺されちまう」
 わざとおどけて自分の首を絞めてみせると、薄闇のなかで相手が小さな笑い声をあげた。
「おばさんなら、ホントに怒りそうだよね」
「だろ? ……んじゃ、行くか。そのチビ、段ボールごと運んだほうがいいぞ。たぶんなかの毛布、今まで使っていたやつだろうから」
「うん……。ところで、道場って何時まで?」
 連れだって歩き始めると、段ボールのなかから子犬は二人を交互に見比べては、鼻をひくつかせて甘えた鳴き声をあげ続けた。
 ポツンポツンと建っている街灯が、弱い光を辺りに放ち始める。子犬の鳴き声と、互いの話し声しか聞こえない。静かなものだ。
「たぶん、八時くらいだよ。いつも早組はそれくらいで上がるからさ。それに、遅組とも顔を会わせるから、飼い主探しには好都合だろ」
「そっか。わかった。それじゃ、準備してくるわ」
 納得した顔で頷く相手が清しい笑顔を向けてきた。それに一瞬見とれたが、駆け出そうとした薫を慌てて呼び止める。
「お……おい。そう慌てるなってば。俺だって準備があるんだからさ」
 チラリと振り返った少女が口を尖らせる。不満そうな表情が、いつもの大人びた印象を和らげた。
「和紀は着替えるのすぐでしょ? 私は時間がかかるのよ!」
「んなモン、適当なもの着ていけって! どうせ、その段ボール抱えて行くから汚れちまうぞ」
 いっそう頬を膨らませて睨んでくる相手を同じように睨み返す。その剣呑な雰囲気を悟ったのか、子犬が再び甘えたように鳴き声をあげた。
「チェッ……。犬になだめられてりゃ、世話ねぇぜ。あぁ、もういいや。俺が犬連れて行くから、お前着替えてこいよ」
 薫が抱き上げていた段ボール箱に手を伸ばす。
 間近に少女の顔があった。ふと、鼻をかすめる甘い香り。そして、無意識に手と手が一瞬だけ触れ合う。
「……!」
 刹那……指先に電流が走った。思わず顔が強ばるが、薄暗いなかでは、相手の表情はほとんど確認できない。
「じゃ、着替えてくるから。この子、お願いね。あ、そうだ。母さんが今日の夜食用にサンドイッチ作ってくれてるんだ。それも持ってくるわ。道場に行きながら食べよ! ……ハンバーガーだけじゃ、足りないでしょ?」
「あ……あぁ」
 動揺して返事の声が上擦っている。薫はまったく気づいていない。
 パタパタと軽快に走り出した少女の背中は、すぐに薄闇の向こうへと消えていった。彼女はまったく今の電流を感じなかったのだろうか。あんなに激しく身体中を駆け巡っていったというのに。
 今も指先は震えている。その甘い痺れに鳥肌がたつ。心臓の動悸が早い。喉がひどく渇いた。
 くぅん……と小さく鳴く子犬の声に、ようやく我に返って歩き出す。ぎこちない歩調は、さきほどの痺れの名残か?
「お前、薫に見つけてもらって良かったな……。変な奴に見つかってたら、虐められて酷い目に遭ったかもしれないんだぞ」
 甘えた鳴き声をしきりと漏らす小動物に小さく声をかけながら、街灯が照らし出す道を歩く。単調な帰り道のはずなのに、胸のなかがざわついた。
 甘く、どこか痛みを伴うそのざわめきが愛しくて、つい顔がほころぶ。
「なぁ。薫の家のサンドイッチはさ……、けっこう美味いんだぜ? 新鮮な卵とハム、それから庭で採れたパセリを入れた卵サンドに、熟したトマトとレタス、薄切りにした鳥の照り焼きに特製ソースを塗ったサラダサンド。お前も食べさせてもらえるかもな」
 痺れた指先に僅かに力を込め、しっかりと段ボールを抱え直した。
 家々の明かりと街灯を頼りに進む道の先に、他の家から少し離れて、見慣れた外観の家が二軒見えてきた。
 自分と……薫の家だ。見れば、二階の彼女の部屋に明かりが点っている。きっとタンスをひっくり返して、着ていく服を選んでいるに違いない。
 家の屋根の上、南の空にはとうに星が出ていて、ギラリと鋭い瞬きを地上へと放っていた。西の空も同様だ。太陽の最後の残光が消えれば、さらに星の輝きは増していくのだろう。
「お前、新しい飼い主に可愛がってもらえよ?」
 大人しく自分の顔を見上げている子犬に小さく微笑みかけた後、歩調をあげて家へと急いだ。道場へ行く支度をしなければならない。
 家の門についたところで、再び薫の部屋を見上げてみる。まだ電灯の光が弱々しく漏れていた。
 眉間にしわを寄せて、衣装選びをしているであろう少女の顔を思い浮かべると、胸が暖かくなってきた。その温もりは、きっと、いつまでも胸の奥底で輝く明かりになるだろう。そんな予感がした。
「ただいま~」
 小さな電子音が響き、セキュリティーロックが音声に反応して解除された。金属製の玄関扉を引き開け、玄関ホールへと滑り込む。
 母親は仕事から帰ってきていないらしく、家の中はガランとしていた。いつもなら一抹の寂しさを感じるのに、今は先ほど感じた胸の温もりが消えない。その暖かさをもっと強く感じようと、段ボールをそっと抱きしめた。
「好き……なのかな? でも、あいつの好きな奴は俺じゃねぇんだよな……」
 見下ろした子犬がクゥ~ンと喉を鳴らす。その小さな頭をそっと撫でてやりながら、玄関に設えられている鏡をじっと見つめた。
 十三歳の少年の顔がそこにある。子どもから大人へと変わっていく課程の、まだ半人前のその顔が鏡の向こうから自分を見据えていた。
「やっぱり……好きなんだよな?」
 誰に問うでもなく呟いた声を聞いている者は腕の中の子犬だけだった。

〔 4335文字 〕 編集

偽りの愛情

No. 44 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,偽りの愛情 , by otowa NO IMAGE

いつものように猫が歩く
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ

いつもの場所で立ち止まる
朝靄のなかに溶けながら
異形の友のねぐらの前に

清けき音色で鈴が鳴る
主なき犬小屋に
声無き声で呼びかける


鈴音とともに猫がいく
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ

 人の気配がした。なぜだか気になって足音を消して近づく。どうしてそんなことをしたのか、自分自身にも理解し難いことだったけれど。
 近づいていくにつれ、話し声が聞こえてきた。ひそひそと囁かれる声が意外に大きく響く。
 このまま廊下を歩いて行き突き当たりの角を曲がったら、鉢合わせになるだろう。なぜかその人物たちと顔を合わせることが躊躇われ、角部屋の襖を開けると中へ滑り込んだ。
 襖を閉じても部屋はぼんやりと明るかった。月明かりが障子越しに差し込んでくるからだ。
 真新しい障子に人影が映っている。煌々と照らす月光がその輪郭をハッキリと浮き上がらせていた。
 二人の男の影。見慣れた特徴のある体格だった。耳を研ぎ澄ませば、聞き馴染んだ二人の声がすぐ耳元で話をしているように聞こえてきた。
「お前は薫に冷たすぎるんだよ」
「どこが? 僕は女嫌いだって言ってるだろ。僕にしては最大限譲歩してるつもりだけど?」
「何言ってやがるんだよ。……薫はお前のことが好きなんだぞ。少しは解ってやれよ」
 鼻で嗤う気配が伝わってきた。相手の言い分が陳腐なものだと言っている。堂々巡りを繰り返している押し問答に嫌気が差しているらしい気配もする。
「僕は女の考えていることなんか理解したくもないね。だいたい和紀!お前がだらしないからだろ。いつまで半端な関係でいるつもりだよ。やることやってるんだから、さっさと薫をさらっていけ!」
「そんなことできるか!? 薫が好きなのは俺じゃなくって、お前だって言ってるだろうが。なんでそれがわかんねぇんだよ、竜介!」
 思わず大きな声になり、夜のしじまに大きく反響した。二人は慌てて口を閉ざし、辺りの気配を伺っている様子だ。人が近づいてくるような気配はしない。それに安堵したらしく、二人は同時に小さな吐息を吐いた。
 どちらからともなく廊下に巡らされている欄干に寄りかかる。同じように障子の影法師も欄干の影に絡まる。巨大な寺院に相応しい頑強な造りの欄干なのだろうが、影からは推測することは不可能だった。
「僕に過大な期待を寄せるなよ。薫が僕を好きだったのは高校時代の初め頃だけ。それもほとんど気の迷い! 今はなんとも思っちゃいないよ。薫と寝てるお前のほうがよほど釣り合いがとれるだろうに」
「薫は俺のこと、男として見てねぇよ。俺たちは友人以上の関係だろうけど、恋人じゃねぇんだから。俺が薫と寝てるのは、仕事の成功報酬だからだ」
「……ふん。だらしのない奴。昔っからお前は薫の尻に敷かれてるんだから。見てるこっちがイライラするよ」
 口調にはあからさまな嘲りの色が含まれていた。それに腹を立てたのか、影の一つが欄干から離れ、苛立った様子で廊下を歩きさっていった。
 長い回廊の向こうへと足音が消えるまで、残りの影は動かなかった。
「まったく……。いつまでたっても……」
 忌々しげに舌打ちした影が言葉尻を濁した。
 そして何を思ったのか、欄干にヒョイと腰をかけると忍び笑いを漏らす。まるで悪巧みを思いついたようなその笑い声が収まったとき、空を流れていた雲が月にかかり、その銀盆の姿を下界から遮ってしまった。
「いつまでそうしているつもりだよ。……出ておいで」
 スゥッと音もなく開いた障子から姿を現した者を予想していたらしく、欄干の上から再び忍び笑いが聞こえた。
「竜……。なんで和紀を焚きつけるようなこと言うのよ」
「事実だろ? 薫だって内心ではそう思ってるんじゃないの?」
「関係ないわよ」
「嫌だねぇ。二人揃って意固地なことったら……。僕を巻き込まないで欲しいんだけどな。薫のこととなるとあいつはめちゃくちゃだよ。自分でも何をしてるか判ってないんじゃないの?」
 鋭い視線で睨む相手の怒りをスルリとかわすと竜介が再び口を開いた。
 からかっているのか、それとも警告しているのか。あやふやな印象を与える口調は、彼の内心を隠して決してそれを掴ませない。
「あいつの兄貴に遠慮してる? 確か、綿摘正紀は薫の初恋の人だったよな。それとも……例の、あの事件を未だに引きずっているわけ?」
「どれもこれも大昔のことじゃない。もう忘れたわよ」
「どうだか。薫……。母親の亡霊に取り憑かれているのは勝手だけど、ほどほどにしとかないと和紀に愛想尽かされるぞ。もっとも僕の場合は母親の生き霊に取り憑かれているんだから、君のこと言えた義理じゃないけどさ」
 腰掛けていた欄干から飛び降りると竜介は肩越しに空を見上げた。雲に覆われた月は顔を見せない。
 星明かりのなかで続けられた会話の真意が隣に立つ薫にどこまで通じたのか判らない。黙りこくっている彼女の気配からはそれは読みとることはできなかった。
「じゃ、お休み。僕も持ち場に戻ることにするよ」
 竜介が背を向けて歩き始める。暗い廊下の向こうに消えかかったその背中へ「おやすみ」と女の声が追いついた。それに片手を挙げただけで答えると、彼は振り返ることなく暗闇へと消えていった。
 二人の男たちが消えた後は、ひどく空虚に感じる。身体が空っぽになったように軽い。
 まるで風に押されるようにフラリと欄干に寄りかかると、薫は暗い空の隙間から覗く星たちを見上げた。月が翳っている今の状態だと、星は鋭い光を放ち、地上に銀糸の光を落としていた。
「自分の中に流れる血が許せない……。そんな人間が誰かを好きになってもろくな事はないわ」
 自嘲に満ちた声が夜気を震わせた。その声に呼ばれたように雲間から月が顔を覗かせ、星の光を駆逐する。
 星の銀光はすっかり色あせ、青白い月光が闇を洗い上げていった。まるで初めから月の光しか存在しなかったかのように……。
 薫は頭の中から嫌な記憶を振り落とそうと首を振った。それでも抜け落ちない。忌まわしい記憶たちの奔流から逃げ出すように、和紀の歩き去った回廊へと走り出した。
 思い出したくない。消えてなくなればいい。……できることならば、自分自身の存在さえも。


 部屋の入り口に取り付けたチャイムが不機嫌な声を張り上げている。ひっきりなしに鳴くその叫びに急かされて、起き上がろうともがいた。
 しかし身体は言うことを聞かなかった。
 ガチャガチャとノブが喚いている。あんなに乱暴にしたら壊れるかもしれない、とバカげた考えが一瞬頭を過ぎった。
 考え事をするだけでも頭がガンガンする。何も考えずに眠っていたかった。放っておいてくれないだろうか? うるさくて、眠れない。
 ガチャリと鍵の外れる音がした。それを朦朧とした意識のなかで聞きながら、ウトウトと眠りの淵へと落ちていく。
「薫……!?」
 聞き慣れた声が天井から降ってくる。でも、眠くて……目を開けるのが億劫だ。
「おい。大丈夫なのかよ? 薫……あ!? ひでぇ熱!」
 ひんやりとした手が額にあてがわれると、すぐに素っ頓狂な声があがった。
 瞬く間に冷たい手が生温く感じるようになり、その手が外されると、慌てた足音が遠ざかっていく。
 何も考えたくなくて、うつらうつらとしていると、額にまた冷たいものが押し当てられた。柔らかい感触……。布地のようなものだった。冷たくて気持ちいい。
 熱で身体が蒸発しそうだったけれど、これで少し落ち着くかもしれない。
 眠たくて開くことも億劫な瞼を無理に押し開いて、自分の顔を見下ろしている人間の顔を見ようと目を凝らした。でも熱に視界が霞んでハッキリと輪郭が見えない。誰だろう?
「なんだ? ……どっか辛いとこでもあるのか?」
 心配してかけられる声が耳に優しかった。その声に安心して再び目を閉じる。
 すぐに睡魔が襲ってきた。白濁していく意識の隅で、先ほどの声を追いかける。もう一度、その声を聞きたくて、記憶のなかに紛れ込んだ声の断片を探しまわった。
「薫……? 眠ちまったのか?」
 囁き声が聞こえる。それに答えようとするが声が出ない。眠りに支配されていく身体は自由にはならなかった。
「まったく。心配かけやがって……」
 声がひどく間近から聞こえた。
「男が部屋ン中にいるんだぞ? いつもみたいに叩き出してみろよ?」
 鼻先に息がかかった。次いで、自分の頬を誰かの指がなぞっていく感触……。なんだか、むず痒い。
 首を振って避けようとするが、本当に身体はピクリとも動かなかった。
「薫……」
 熱のこもった声が掠れた。そして、唇の上に温かい感触を感じる。潜めた息づかい。自分の顎に添えられた生暖かい指先……。
 それらがふいに遠ざかった。まるで悪戯を見つかった子どもが逃げ惑うように……。
「俺ってサイテー……」
 自己嫌悪にささくれだった声がなぜかとても寂しく聞こえてきた。腕を差し伸ばしてやりたいのに、それは叶わず……。遠ざかってしまった気配に頼りない気分になる。
 胸が痛んだ。ジクジクと血を流しているように……胸が痛んだ。


 足早に廊下を歩いていった先に煙を吹かしている人物が見え始めた。ぼんやりと月を見上げている横顔に孤独がにじんでいるように見えてひどく胸がざわつく。
 思わず立ち止まって、その横顔に魅入ってしまった。
 その横顔がふとこちらを振り返り、ギクリと顔を強張らせた。くわえていた煙草を慌てて手持ちの携帯灰皿で揉み消す動作がぎこちない。
「また煙草を吸っていたのね。そのうちに肺ガンで死ぬわよ」
「大きなお世話だよ」
 舌打ちをして顔を歪めた和紀の顔には、つい今し方まで浮かんでいた孤独はなかった。
「なぁ、薫……」
「……側に寄らないでよ。私が煙草の匂いが嫌いなの知ってるでしょ?」
 今の和紀に近寄りたくはなかった。しかし自分に割り当てられた部屋の入り口は和紀の立っている場所の真正面だ。結果的には自分から相手に歩み寄っていく形になる。
 だが建物の周りをぐるり一周囲んでいる回廊は一間(※約1.8m)ほどの広さがあり、かなりの間隔を開けて相手とすれ違える筈だった。
 それなのに、吹きつける風を肌に感じたときには、相手の腕のなかにいた。
 月を背にして立っている相手の顔は翳り、表情をハッキリと確認することはできなかった。微かな煙草の匂いに目眩がした。鳥肌が立つ。
「部屋に入れてくれないか……」
「厭よ!煙草臭くなるじゃない!」
「成功報酬が欲しいんだけどな」
「……何言ってるのよ。まだ仕事は終わってないわ。明日、無事に桜華(おうか)たちを送り届けたら終わり!最初に言っておいたでしょ!?」
 自分を抱え込む腕を振り払おうともがく。それほど相手の腕に力が込められているわけではなさそうなのに、逞しい腕は離れなかった。なぜか息苦しい。
「和紀!」
 相手に自分の不快感を伝えるために、わざと不機嫌な声をあげる。その声に反応して、相手の肩が小さく震えた。
 荒い息遣いが聞こえる。強引に部屋に入ってくるつもりなのだろうかと、相手の出方を伺うが、そんな様子はいっこうに見えなかった。
「薫……」
 耳元で囁かれた声が熱かった。背筋に電流のような痺れが走る。それを相手に気取られることが恐ろしく、闇雲に相手を突き飛ばした。
 呆気なく拘束が解かれ、互いの間に人一人分の空間が空く。自分の過剰な反応に相手が驚いている気配が伝わってきた。その先を読まれることが怖くて足が竦む。
「薫……?」
 そのとき、何の前触れもなく月が翳った。まるで自分の見られたくない心を押し包むように……。
 星明かりのなか男の首に自分の腕を絡ませた。動揺に相手が息を飲む気配が腕越しに伝わってくる。相手がどう思っているのかなどかまっている余裕はなかった。素早く背伸びをし、その唇に自分の唇を押しつける。
 それに相手が反応する前に腕を振り解くと、薫はきびすを返して部屋へと走り込み、後ろ手に障子を閉め切った。
 待っていたかのように月の光が障子越しに射し込み、閉じたその障子のすぐ向こうにいる男の影を映しだす。
 その影のなかにすっぽりと収まっている自分の影を見つけたとき、不意に薫の頬を涙が伝った。
「薫……!」
「入ってこないで! 契約違反よ!」
 泣いていることを気取られなかっただろうか? いつも通りの声だっただろうか? そんなことを考えながら、薫はその場に座り込んだ。
 涙がいっこうに止まらない。声を殺すために両手で口を塞いだ。それでも嗚咽が溢れる。
「薫……お前……」
「入ってこないでったら!」
 ヒステリックな声音は逆効果だと頭のどこかで警鐘が鳴った。だがその警告よりも先に言葉のほうが溢れ出ていた。
「一人にして! お願いだから……」
 だがその言葉は聞き入れられなかった。乱暴に引き開けられた障子の隙間から月光が洪水のように部屋のなかを満たす。人型に切り取られた影だけが光の浸食を阻んでいた。
 その影が小さく収縮していき、部屋のすべてが月光に染まると、薫は温かい腕のなかに収まっている自分を発見した。
「放して……」
「厭だ」
 抱きしめられていた腕に力が込められた。痛いほどに強く……。
「やっと捕まえた……」
 再び耳元に落ちてきた囁きに身体が竦んだ。逆らおうとしたが手足に力が入らない。首筋にかかった温かい息に身体が小刻みに震えた。新たな涙が頬を伝い落ちていく感触。その頬を生暖かく柔らかいものが這っていった。
「今度こそ逃がさない……」
 男のほうの声も震えていることに気づいて、なぜかホッとした。なぜそう思ったのか……。薫はもう嗚咽を漏らしてはいなかった。涙も止まった。身体も震えてはいない。
「……逃げるわ。これは月の光が見せた幻。偽りの……」
 言葉の最後は塞がれた口のなかで行き場をなくして萎んでいった。相手には伝わったのかもしれない。最後の言葉がなんであったのか。
 それを確かめる勇気は今はなかった。伝わっていないことを祈りつつも、自分の考えていることなど相手には筒抜けであろうことは判っていた。
 肩を掴まれ、仰向けに畳に押しつけられた。男の表情は逆光で見えない。
「逃げたければ逃げろ。俺はどこまでも追っていくぞ……」
 間近で囁かれた声から顔を背ける。暗がりで光る瞳を覗き込んだら、それですべてが終わってしまいそうな気がした。
 そんな終わり方は卑怯だ。相手に対しても、自分に対しても……。
 でもいつかは終わりがくる。
 その終わり方がどんなものであれ、きっとそれは唐突に訪れて、有無を言わせずに結果を押しつけてくるのだろう。自分の望みさえ見失っているというのに、それは確実に訪れる。それでも、まだ……終わらせたくはない。
「逃げるわ……。ずっと遠くへ。追ってきたければ追えばいい」
 薫の囁き声に対する答えは男からは返ってこなかった。見下ろしている視線だけを痛いほどに感じだ。空気を焼き尽くすような激しい痛みだけを伴う視線だった。
 肩を押さえつけていた和紀の手が弛み、離れていく。そのまま部屋を出ようと、背を向けて立ち上がる。
 そこで一瞬動きが止まった。操り人形のようなぎこちなさで、畳に横たわる薫を振り返る。
「……どうして俺じゃ駄目なんだ?」
「他の誰でも同じよ」
 返ってきた答えに納得したのか、それとも失望したのか……。月光を背にしているその表情を読みとることはできなかった。


 フラリと入ったコンビニの片隅にプライスダウンブックを見つけ、何冊かの雑誌の表紙をぱらぱらとめくった。
 最新号が発売されたために、価格を下げて販売されている本たちは、申し訳なさそうに小さくなってこの一角に縮こまっている。ゴシップ雑誌はともかくとして、上質な絵本を思わせる表紙の文芸誌まである。
 時間から置き去りにされた感が否めないコーナーだった。
 まるで今の自分のようだった。
 普段はあまり目を通さない文芸誌を手に取り、中身をパラパラとめくっていると、一つの詩篇が目に留まった。
 偶然だった。素人の詩の投稿コーナーで、名前は匿名希望になっており、どこの誰が作ったものとも知れない作品だ。

いつものように猫が歩く
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ

いつもの場所で立ち止まる
朝靄のなかに溶けながら
異形の友のねぐらの前に

清けき音色で鈴が鳴る
主なき犬小屋に
声無き声で呼びかける

鈴音とともに猫がいく
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ


 奇妙な取り合わせだった。犬を訪ねてくる猫……。まるで性質の違うそれぞれの生き物が友というのはどうかと思ってしまうが、居なくなった相手からの反応をジッと耳を傾けて待つ猫の姿を想像して胸がざわついた。
 特に何かを買おうと思って入ったわけではなかったが、手に取ったその雑誌をレジまで運んだ。そのまま雑誌を棚に戻すことがどうしてもできなかったのだ。買ったからといって、目を通すとは限らないのに。
 コンビニから出たところで、見知った顔がこちらに駆けてくる姿を目にして立ち尽くした。別に何をしたというわけでもないのだが、なぜか顔を合わせずらかった。原因は判っている。
「薫……!こんなとこで何してんだよ。まだ熱があるだろうが!さっさと部屋へ戻れよ」
 頭ごなしに怒鳴りつけられ、思わず首を竦めた。
 気分転換に近所のコンビニにきただけなのだが、病み上がりで出掛けるのは無謀だったろうか? 腕に抱えた袋を抱きしめたまま、恨めしそうに相手を見上げてしまう。そんなにガミガミ言わなくてもいいと思うのだけど。
「……なんだ、本買いにきたのか。言えば代わりに買いにきたのに。ほら!もう行くぞ」
「どうして私にかまうのよ。放っておけばいいじゃない。寮のみんなはとっくに帰郷してるのよ?」
 手を引かれて歩きながら囁いた声に相手が立ち止まった。また怒っているのか、握っていた手に力が込められた。熱で火照った自分の手から相手の手に熱が伝染したように、一瞬相手の掌に激しい熱が籠もったように感じる。
「俺が居たら迷惑か?だったら俺も実家に帰るけど……。でも、今のお前は病人だぞ。寮母だって自分の家の大掃除でお前にばっかかまってられないんだから、俺一人くらい居たっていいだろ?俺のほうは親に今年は帰れないって言ってあるし……それに、おふくろもお前のこと心配してんだからな」
「私なら一人で平気なのに……」
「嘘つけ!この二日間、熱だして起きあがれなかったじゃないか。まったく、医者になりたいって言ってる奴が、そんなことでどうすんだよ!」
「医者……か。もうどうでもよくなった感じ……」
 投げやりな言葉に相手の顔が険しくなった。
 それは非難しているというよりは、何もできないもどかしさに焦っているようだった。どう言えば、自分の気持ちが伝わるのだろうかと考えあぐね、答えを見出せずにいる苛立ちが握った手からジンジンと伝わってきた。
「早く帰ろう……。ちょっと寒くなってきた」
 今度は自分が先に立って歩き始めた。すぐに相手も隣に並んだ。
「どうして私にはお母さんの血が流れてないんだろう……。どうしてあんな女の子どもなんだろうね……」
「薫……」
 辿り着いた寮の玄関でセキュリティチェックを受ける。その電子音が今日はやけに耳障りだった。
 何も考えたくはないのに、思い出すのはここ数日間の記憶の断片ばかりだった。寝込んでいたときのほうがマシだったくらい。熱のせいで何も考えなくて済んだのだから。
「どうしてお母さんは愛人が産んだ子どもなんか引き取ったんだろう。私を見る度に、厭なことを思い出すだろうに……。何も……何も教えてくれないまま、死んじゃうなんて……」
 黙ったまま手を握り返してくる相手の手の温もりが心地よかった。それでも、凍えた自分の心を溶かすことはできなかった。それを溶かせるのは自分自身だけ。でも今は駄目だ。凍てつき鋭く尖ったまま……。
「お父さんも……あの女も許さない……。お母さんが死んだのは、あの二人のせいなんだから」
「薫……」
「心配してくれてありがとう、和紀……。私、大丈夫だよ。死んだりしないから……。お母さんの後なんか追ったりしないから。……一人で、大丈夫だから」
 そう……。朝靄のなかでジッと耳を澄ます、あの白猫のように、一人で生きていけるようにするから……。


 母が私に注いだのは、偽りの愛情だったのだろうか……? 私が和紀と一緒にいるのは、なんのためだろう?
 見つけられない答えを探している私の心は今も凍てついたまま。時折吹きつけてくる温かい息吹に、立ち止まることはあっても、引き返すことはないだろう。
 彼に孤独を与える自分の罪を忘れない。自分のなかに流れる忌まわしい血の記憶がある限り。彼の優しさの上に胡座をかいて、甘えている自分の弱さを許さないように、未だに一人で立つことができない自分の罪を決して忘れはしない。

終わり

〔 8674文字 〕 編集

わだつみの弔鐘 潮騒の想い出

No. 43 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,わだつみの弔鐘 , by otowa NO IMAGE

「じゃ、行ってくるよ」
「また海? 兄貴も飽きないねぇ」
「何言ってるんだ。サーフィンはこれからが本番だろうが」
「はいはい。行ってらっしゃい。気をつけてな」
「おう! じゃ、な」
 それが、最後だった。
 俺は十四で、兄貴は二十一。俺の記憶に、これ以降の兄貴の声は存在しない。
 けたたましい電話のベル。すすり泣く風の声。……そして、潮騒の雄叫び。ぽっかりと空いた記憶の空白を埋め尽くすのは、そんな音の騒乱だけだった。


「おばさん。……和紀、上ですか?」
「まぁ、薫ちゃん。来てくれたの。……えぇ。ずっと籠もりっぱなし」
「ちょっと、いいですか?」
「遠慮しないで上がって。あなたの言うことなら聞くかもしれないわね、あの子。様子を見てきてもらえる?」
 少しやつれた顔をした女性がスリッパを揃えながら微笑んだ。その寂しい微笑に頷き返した後、少女は足早に二階に上がっていった。
 見慣れたドアの前で少し躊躇う。しかし、思い切ってノックをする。なかからの返事は、なかった。
 そっと扉を開ける。夕暮れどきの薄暗い部屋には、昼間の熱気が歪んで重く沈んでいた。ベッドに背を預け、膝を抱えてうずくまる人影が見える。
 何も言わぬまま薫は静かにその傍らに歩み寄り、そっと相手を見下ろした。相手の肩が微かに震えている。
「和紀……」
 ビクリとその震えていた肩が大きく波打った。ゆっくりと上がった顔のなかで、瞳だけが涙に濡れて光っていた。
「薫……」
 囁くような声が自分の名を呼ぶのを確認すると、少女は脇のベッドに腰掛けて、震える少年の肩に手を置いた。
「私……正紀さんのこと、好きだったよ……」
「うん……」
 頷いた少年の眼からまた一滴の涙がこぼれた。
「まだ……信じられない」
「うん……」
 徐々に暗くなっていく部屋のなかにすすり泣きが響いた。それは、どちらの声だったろうか。長いような、短いような時間のなかで、時折にあがるその声だけが、緩やかな時間の流れを教えていた。
「正紀さんのこと……忘れちゃ駄目だよ」
 囁き声に答える者はなかった。
「あんたが思い出すたびに、正紀さんは生き返るんだから」
 日が暮れて暗闇に包まれた部屋では、相手の表情は解らなかった。
「正紀さんの分まで、ちゃんと生きるんだよ」
 震える手が少女の手を握り返してきた。それが精一杯の答えだった。それ以上の答えを返すことなど、できなかったのだろう。
「あんたが生きてる限り、正紀さんは死なない……」
 再び小さな嗚咽が聞こえた。
 宵星が窓の向こうに輝く。遠くから響く車の走行音が、潮騒のように、この部屋のなかへとうち寄せてきた。


 海の見える丘に立つと、視線の先にある灰色の墓標たちは蒼く拡がる海と空に胸を張って立っているように見えた。
 髪を吹き流す潮風に、微かな秋の匂いがした。霊園の片隅にひっそりと佇む一つの墓石に歩み寄り、その前に跪く。
「兄貴……。ただいま」
 小さな墓標は何も答えてはくれなかった。初めから、そんなものに期待はしていなかったのだろう。男は手慣れた様子で花を飾り、線香を手向けた。
 淡々とした静かな時間だけが過ぎていく。
 ヒュゥ……と笛の泣き声のような風が、辺りの木立を吹き抜けていった。
「俺、やっぱり親不孝かな? ……兄貴なら、どうするだろう?」
 風で吹き散らされた線香の細い煙が、再び糸のような弱々しさで天へと立ちのぼっていく。その軌跡を目で追いながら立ち上がった男は、諦めたような溜息をついて苦笑した。
「俺は、兄貴ほど賢くないからな。……他の方法が思いつかないんだよ」
 ほんの一瞬。男の顔になんとも言えない複雑な表情が浮かび、消えていった。
「じゃあな、兄貴。また、来るよ」
 囁くような声で別れを告げると、男はもう後を振り返ることなく霊園の階段を登っていった。
「待たせたな、竜介」
 登り切った先に、大きな桜の木があった。その下で所在なげに佇む男に声をかけると、足早に近づく。
「もういいのかい、和紀? ずいぶんと早いな」
「想い出に浸るほど、センチじゃねぇよ。行くか?」
「あぁ……。薫の奴が待ってるからな。遅れるとうるさい」
 駐車場に止めておいた車に乗り込み、無造作にキーをひねる。低重音のリズムでエンジンが唸りをあげ、潮騒のざわめきを掻き消す。
 堤防沿いを滑るように走り出した車の右手に広い海原が見え隠れする。近くに迫っている岬の陰から躍り出てきた白い船影が、視界の隅をかすめていった。
 ボォゥッっと霧笛の音が車窓越しに響く。チラリと目をやれば、先ほどの船が貨物船とすれ違うところだった。
 再び霧笛が哭ないた。
 忘れるな、と叫んでいるようだった。……忘れるな。ここにいるぞ、と。
(忘れるものか……)
 とっくに死んだ兄の歳を追い越しても、なお、自分の兄は綿摘正紀わたつみまさき以外にいないのだ。
 道が大きく左にそれ、視界から海の青さが消えた。潮騒の音も、磯の香りを運ぶ風も、もう届かない。低く唸るエンジン音とともに潮風の街を走り抜けながら、亡き兄の日に焼けた笑顔を思い出す。
 そう、海の蒼さを見ると思い出す。潮騒の囁き、風の奔流。
 消えぬ哀惜の念。
 わだつみに消えた兄への弔鐘を打ち終わる日は、まだ……来ない。

終わり

〔 2206文字 〕 編集

PUPPET-傀儡の如くに-【03】

No. 42 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,PUPPET-傀儡の如くに- , by otowa NO IMAGE

「お前……! いつ、日本へ……」
 藤見(ふじみ)と呼ばれた男の声が今度こそ動揺しているのが判る。今までビクともしなかった男とは思えない。
 聞き馴れた葛城(かつらぎ)の声とは違う、大人の女の声が夜の空気を震わせる。
「いつだって、お前が桜華(おうか)に手出ししそうなときには帰ってくるさ」
 オレは自分の窮地を救ってくれたらしい人物を見上げた。月明かりに薄く照らされた顔の半面が藤見を凝視していた。
「随分と手荒なことをしてくれたね。タダじゃおかないよ」
「か、薫さん……!」
 葛城の声が聞こえた。彼女はオレを抱きかかえるようにして座り込んでいる。安堵感が葛城から漂ってくる。
 そうか。この人物が葛城の言っていた結城薫(ゆうきかおる)か。
 オレは自分の立場も忘れて、目の前の人物を観察した。
 葛城と同じような茶髪に目鼻立ちのハッキリした美人だ。彼女の顔を見ていると、美術の教科書などに載っているギリシャの女神像が連想される。
 引き結んだ唇には強固な意志が感じられた。鋭い眼光には、妥協を許さない力強さが漲っている。ただの一睨みで藤見の気勢を削ぐ辺りは並の男より強く見える。
 やはり葛城が絶対の信頼を寄せる人物だ。
 小石を右手で弄びながら、女は駐車場の入り口からゆったりとした足取りで近寄ってきた。
 今気がついたが、藤見はオレを締め上げていた右腕を押さえていた。彼女が小石を投げつけて負わせた怪我なのだろう。
「蓮華になんて言って言い訳するつもりだい? ……ふざけたことをしてくれたね。お前のお遊びにつき合わされる桜華の迷惑を少しは考えたらどうなのさ!」
「う、うるさい! お前なんかに指図される覚えはないよ。第一、蓮華はこの事は知らないんだ! 言い訳も何もあるもんか!」
 突如現れた女の言葉に藤見が動揺して半歩下がった。
 今までの冷徹さが蔭を潜めた彼の横顔はわがままな幼児のようだった。実際、藤見は成長しきっていない子供と同じなのかもしれない。
「蓮華が知らないって? お気楽なヤツ。だからお前らはいつまでたっても天承院を継げないんだよ! ……出といで、蓮華!」
 女の落雷のような声音に藤見は飛び上がった。
「蓮華……!」
 一人の男に伴われて、昼間に会った女性がフラフラと姿を現した。昼間に見た哀しげな表情が浮かんでいた。
「藤見……。なんてことを……」
 藤見と同じ顔立ちの女性が泣きそうな顔をして囁いた。黒絹の髪が月光を反射して輝いている。
「お前らが蓮華に告げ口したんだな! 卑怯者!」
 藤見のわめき声が夜空に空虚に響く。
「もうやめて、藤見!もう……」
 涙声で訴える蓮華が両手で顔を覆った。
「自分のやったことを棚に上げて卑怯者とはね。あんたってホントにろくでなしだよ、藤見。大事な蓮華を泣かせているのは、あんた自身じゃないか。……和紀(かずき)!」
 女が蓮華の背後に立っていた男に声をかけた。
 和紀と呼ばれた男がゆっくりとした足取りでオレと葛城に近づいてきた。鋭い眼光の野性的な感じの顔立ちの男だ。
「立てるか?」
 低い声がオレたちを包んだ。
 決して優しくもないが、冷たさも感じさせない穏やかな声がオレの耳には心地よかった。だが葛城は不機嫌そうに顔をしかめて、そっぽを向いた。
 オレは男の問いに行動で答えた。
 立ち上がり、服に付いた埃や泥を払い、まだ座り込んだままの葛城に手を差し出す。
 葛城は素直にオレの手にすがって立ち上がったが、まだ男と視線を合わそうとはしなかった。どうやら、葛城は結城女史の連れであるこの男が嫌いなようだ。
「桜華や彼女の友人を巻き込むなんて許さないよ、絶対に」
 突き放したような声が駐車場に響いた。
 オレと葛城は男に促されて駐車場の入り口から外に出た。暗い駐車場の敷地内には、藤見と蓮華、そして結城薫だけが残された。
「あそこに見える車で待ってろ。こちらの用が済んだら、すぐに行く」
 男は五十メートルほど離れた街灯の下に止められた一台の車を指さし、抑揚の少ない声でオレたちに指示した。
 オレが車の位置を確認して男を振り返ったときには、彼はすでに背を向けて駐車場に向かっていた。
 葛城は不機嫌そうな顔を崩さずに男の背を見送っている。
「行くか? 葛城」
 オレはいつまでもその場を動こうとはしない葛城を促した。きっとここから先はオレたちが立ち会ってはいけないことなのだ。たぶん葛城に配慮をしてのことなのだろう。
 だが、葛城は動かなかった。
「葛城?」
「ゴメン、赤間。わたし、最後まで見届けないといけない気がする。先に車に行っててよ」
 こいつは言い出したら聞かないところがある。いつもの気の強い顔に戻った葛城の白い横顔は、これまたいつも通りの頑固な意志を示していた。
 オレはそっと空を見上げて溜息をついた。オレ一人で行けるわけないだろうが。
 こいつはいつだってマイペースだ。なんだってこんなに頑固なんだ。折角、気を使ってあの場からオレたちを逃がしてもらったって言うのに。


「さて、これからあんたたちをどうしてくれようかねぇ?」
 結城の冷たい声が響いてきた。
 藤見の残忍さよりも背筋が凍る突き放したような声音だ。
 藤見などはどう思っただろう?
 つい先ほどまでは自分がいるはずもない立場に立たされる気分というのは、不愉快なものだろうが。
「蓮華は関係ないじゃないか!」
 藤見の苛立った声が後に続く。
「関係ない? そうかねぇ、蓮華が桜華の通っている学校まで押しかけて行ったと知らなければ、あんたもこんなことまでしなかったんじゃないの?」
 オレは息を飲んだ。
 蓮華が昼間、学校に押しかけてきたことをどうして彼女が知っているのか?
 だが、柏葉監督が迎えに行った人物が彼女であれば、知ることは出来るのだと思い至り、再び息を潜めて駐車場の会話に聞き耳を立てた。
「どうせ二度と桜華に近づくなと約束させたって、破ることは判りきっているんだから、本当に二度と桜華の前に姿を現さないように海にでも沈めてやろうかしらね」
「そんなことさせるもんか! 第一お前は医者じゃないか! 人の命を預かる職業のくせして人を殺す算段かよ!」
 藤見の声が怒りに震えていた。
 オレに言わせれば“よく言うよ”となるが、目の前で殺しの相談ってのは、ちょっとご免だ。気持ちのいいものじゃない。
 そのとき、隣にいた葛城が動いた。
 まるで風のように自然な動きのため、オレは一瞬反応するのが遅れた。だが、慌てて後を追う。
「お嬢ちゃん、何しに来たんだ?」
 オレたちを駐車場から連れ出した男が葛城の姿を認めて声をかけてきた。抑揚のない淡々とした話し方は先ほどと同じだ。
「桜華……? どうしたの、車で休んでなさい」
「いえ。休んでいる気分ではなかったので……。そこ、どいてください、綿摘(わたつみ)さん」
 結城に返事を返しながら、葛城のヤツは男を睨みつけていた。この男の名前は綿摘和紀というらしい。それにしても、随分と毛嫌いしているようだ。
 肩をすくめて男が身体をずらすと、葛城は滑るような滑らかな動きで結城へと近づいた。
「薫さん。あなたが直接手を下すまでもありません。……今夜のことは、院でふんぞり返っている山の大伯父貴に報告してください。それで充分です」
 葛城の言葉に藤見の身体が小刻みに震えているのが夜目にも判る。話題の人物は彼が震えるほどの強権を持っているようだ。
「それでいいのかい?ほとぼりが冷めたら、またこいつらはお前を狙うよ。いっそこの世からおさらばしてもらったほうが楽でいいのに」
 結城は医者とは思えない辛辣な言葉を藤見たちにも聞こえるように葛城に返す。
「私のことはどうとでも報告してください。でも……でも、藤見は! 弟のことは、どうか……。この子は、もう天承院の一員ではありません」
「蓮華! こんな奴らに頭を下げるな」
 結城の言葉に蓮華が、手を胸に組むように合わせて懇願した。芝居がかった動作が様になる人だ。並の男とかなら、それだけで許しているだろう。
「それは出来ないね。第一、お前たちの母親は、藤見が朝比奈家に入ったこと自体を納得しちゃいない。どうせ今回のことだって、裏ではあの女狐が指示してるんじゃないの!?」
 寄り添うように立つ双子を見比べながら、結城が軽蔑したような視線を二人に向けた。同情を誘うことなど、彼女には通用しないらしい。冷淡な態度は、はたで見ているだけのオレですら、怯んでしまうものだった。
 夏の時期なのに、空気が凍っているような錯覚さえ覚える。
「母は関係ありません! そうでしょ? 藤見」
 青ざめた顔をして蓮華が藤見を庇った。だが、藤見は答えを返さなかった。俯いたまま唇を噛みしめているばかりだ。
「答えられないのかい、藤見。それこそが、真実だね」
「う、嘘です! そうでしょ? ねぇ、藤見! なんとか言って!」
 なおも藤見を庇う蓮華の顔がますます青ざめた。
 オレは何がなんだか判らずに頭を混乱させ続けていた。
「だったら、なぜ藤見は答えない? 答えられないってことが答えなんだよ」
 意地悪く藤見を追いつめる結城を遮る葛城の声が響いたのは、そのときだった。
「もう、いいです。薫さん」
 疲れた表情と声の葛城の様子は、誰が見ても彼女が打ちのめされていると思うだろう。今にも倒れそうな葛城を支えているのは、結城の腕一本だけだ。
「……判ったよ、桜華」
 溜息とともに結城が小さく頷いた。凍りついた空気がゆっくりと氷解していく。
「お前なんかに……お前なんかに同情なんかされたくもない!」
 金切り声をあげて、藤見が葛城へと走り寄った。
「藤見……!」
 宵闇に銀線が走る。
 藤見の左手から放たれた光の線は一直線に葛城へと飛んでいく。
 葛城が避ける間もない。
 黒い影が光と葛城の間に立ちはだからなかったら、彼女は胸か腹をその光の刃で貫かれていたかもしれない。
 硬質アスファルトの上をサバイバルナイフに似た鋭利な刃物が転がった。
「……和紀! 利き腕をへし折っておやり!」
 怒りに燃え上がった結城の声が、黒い影に指示を出した。
 男はわずかに彼女を振り返った後、音もなく藤見に滑り寄ると、逃げだそうと身をよじった藤見を難なく掴まえた。
「お願いです。やめてください! 藤見を傷つけないで!」
 捕らえられた藤見と男にすがりついて蓮華が泣き出した。
 だが、結城は指示を撤回する様子を見せなかった。
 自分の腕にしがみつく蓮華を男はつれない様子で振り払うと、藤見の腕をひねりあげた。苦痛に顔を歪めながらも、藤見は助けを乞おうとはしなかった。
 憎悪に光る瞳が綿摘と結城を交互に見つめている。
「やめて! お願い。やめて!!」
 蒼白な顔をした蓮華が再び綿摘の腕に飛びついた。
 だが、無常にも藤見の腕は鈍い音と共にあり得ない方向へと曲がった。
「ウ……ゥッ!」
 悲鳴にもならない苦鳴をあげた藤見が土気色の顔をしてアスファルトの上に転がった。力無く垂れ下がる腕が壊れかかった人形の腕を連想させて気味が悪かった。
「藤見ぃ!」
 絹を裂くような悲鳴が上がると蓮華が弟を抱きかかえた。
 それを見守っていた葛城が目眩を起こしたように結城の腕に顔を寄せた。結城自身は無表情な顔を真っ直ぐに藤見に向けている。
 オレは身体が震えだすのを止められなかった。
 顔を歪めたまま、藤見が結城と葛城を睨んだ。どんな表情よりも凄まじい憎悪と殺意が込められた視線が二人の女の肌を焼く。
「殺してやる……。いつか、必ず。お前たちを殺してやる……!」
 藤見は本気だ。狂乱した瞳がそれを証明している。
 だがそんな藤見の怒りをせせら笑うように結城が不快そうに鼻を鳴らした。
 あの藤見の憎悪をまともに受けてなんとも思わないとは、それだけでこの女の神経はまともではない。
「だったら今度は自分の命と引き換えにするくらいの性根を鍛えてからにしな! ……お前みたいな乳臭いガキの相手をしている暇なんてこちらにはないんだよ。行くよ、和紀!」
 結城は葛城の肩を抱くようにして、闇に背を向けた。それを悠々と追って、綿摘が後に続く。オレも引きずられるような感覚を伴いつつ後を追う。
 肩を震わせて泣く蓮華と、屈辱に身体を震わせる藤見を残して、オレたち四人は後ろを振り返ることなく車へと向かった。


「桜華?」
 結城の声にも葛城は反応しなかった。皆、葛城の様子に注目する。彼女を見つめる何対かの視線が、その身体に絡みついているように見えた。
 結城が無理矢理に葛城の顔を上向かせた。
 葛城の顔は、人形のように動かなかった。傀儡(くぐつ)のようになんの感情も浮かんでいないその顔は、だた美しいだけで、生命の力強さなど感じはしなかった。
「桜華!」
 結城が語気を強めて、葛城に呼びかけた。その声の糸に操られるように葛城の瞳が動いた。と見る間に、葛城の瞳に透明な水が溢れた。
「薫さん……」
 疲れ切った葛城の声が車内を染めた。
「眠りなさい。今のあんたには、休息が必要よ」
 忍耐強い顔をして結城が葛城の肩を抱いた。それに素直に従って葛城が目を閉じる。
 すぐに彼女は深い眠りの淵へと落ちていったようだ。規則正しい寝息が聞こえてくる。
 オレは葛城の寝息に耳を傾けならが、今度こそ安堵の息を吐いた。
「自宅には、監督から連絡を入れてもらっているわ。今夜は監督の家に泊まりなさい」
 穏やかだが反論を許さない口調で結城が話しかけてきた。
「え……? でも……迷惑じゃ?」
 監督の家は一戸建てだがそれほど大きな造りの家ではない。夫婦二人暮らしの家に葛城が転がり込み、なおかつオレまで泊まることなどできるのだろうか? もしかしたら、結城薫自身だって今夜は柏葉監督の家に泊まるのかもしれないし。
「……私には、今夜は寝床は必要ないし、和紀は自分の部屋に戻る。休息が必要なのはあんたも同じ。今から自宅へ帰ったら、家の人を起こす羽目になるわよ?」
 オレは結城の言葉に甘えることにした。第一、彼女には何を言っても無駄な気がする。そんなところは、葛城とよく似ていた。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて一晩お世話になります。……ところで、オレたちがあそこにいるってよく判りましたね?」
 オレの質問に運転席から静かな笑い声があがった。
「ちょっと和紀! 何笑ってるのよ! ……あのね、桜華の制服の内ポケットには、いつでも小型のモバイルフォンが入っているの。それが発信器代わりになっているのよ。藤見のヤツも見逃すくらい小型で巧妙に隠してあるけどね。
 でも今回は手間取ったわ。桜華が通学路に使っている道にあんたたち二人の学生鞄が放り出されてなかったら、気づくのがもっと遅れたかもしれない」
 そういえば、オレは鞄を持っていない。今までは緊張の連続で気づきもしなかった。人通りの少ない住宅街の路地に放り出された鞄を想像して、オレはゾッとした。もう少し遅かったら、オレは死んでいたかもしれないのだ。
「喉の調子はどお? 痛みは?」
 結城が医者らしい口調でオレに声をかけた。先ほどまで、殺意を露わにしていた人物と同一とは信じがたい声だ。
「大丈夫です。なんともありません」
 実際に首を絞められた後の後遺症は何もなかった。案外、もう駄目だと思ってからも人間はまだまだ生きていられるものなのかもしれない。
「そう。……迷惑をかけたのは、こちらのほうだったわね」
 葛城の髪をなでてやりながら、結城がポツリとこぼした。
「あの……。葛城の病気、治りますよね?」
 オレは一番の気がかりを聞いてみることにした。葛城の病気が治れば、西ノ宮のバスケ部のコーチとして残っているつもりはないかもしれない。
 彼女の病気が治るといい、と思う心のどこかで、治らなかったら……と打算が働いている自分がいる。
「桜華に聞いたの? 珍しいわね、この子が自分から話をするなんて」
「いえ、成り行きで……」
 オレは今までの経緯を手短に説明した。
 黙って聞いていた結城が微かに口を歪めた。だが、オレにはそれが何を示しているのかは判らなかった。
「お嬢ちゃんにしては、随分と譲歩した。少しは成長したってことだな」
 運転席から声がかかった。それに結城が頷く。
「そうね。人間ってものを信用していなかった桜華にしては上出来だ。……あんたは桜華に信用されている数少ない人間ってわけだ」
 結城の瞳がスゥッと細くなり、オレを値踏みするように全身を眺めてくる。居心地の悪いものだ。この瞳の前で隠し事をするなど不可能な気がする。
「葛城はオレたちのコーチとして最大限に努力しています。彼女のコーチとしての才覚を部員全員が信じています。
 ……葛城がオレたちに嘘をつかないから、オレたちは彼女を信用している。それだけのことです」
 オレは居心地の悪さに視線をそらせた。
 葛城の病気が治らなかったら卒業するまで、あるいは卒業してからでも、ずっとコーチでいてくれるのではないかと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしかった。
「それでいいのよ、桜華との関係は。……本当はね、五分五分よ。時間との勝負。この子の心臓はもうボロボロだから、いつ死んでもおかしくない」
 彼女の言葉がオレへの答えだと気づくと、オレは全身から血の気が引いていく感覚に目眩した。いつ死んでもおかしくない、という結城の言葉は衝撃だった。
「そ、そんなに悪いのですか?」
「二十歳まで生きられないわ。今のままじゃ、ね」
 オレは思わず背もたれに寄りかかった。そうでもしなければ、目眩で倒れてしまいそうだった。
「二十歳って……じゃあ、あと三年くらいしか……」
「いいえ、二年よ。この子は今十八だから」
「えぇ!? 十八? だって、葛城は二年生で……」
 途中まで出た言葉をオレは飲み込んだ。葛城がオレと同い年でもおかしくはないのだ。西ノ宮に編入してくる前に彼女は入院などでブランクがあるかもしれないのだから。
「お察しの通りよ。桜華は高一の終わりにひどい発作を起こして入院してるわ。二年生になってからは、ほとんど学校へは通えなかった。
 今年の春先になってからよ、歩けるまでに回復したのは」
「……葛城は、知っているんですか? 二十歳までの命かもしれないってこと」
 オレは沈んでいた。自分があと二年の命だと言われたらどうだろう?オレならおかしくなってしまう。信じたくもない。
「知ってるわ」
 冷淡なほどきっぱりと結城がオレに告げた。
「葛城が可哀想だ……」
 オレがもらした言葉に結城の眉がつり上がった。
「可哀想? ……病気だから? それとも、不愉快な連中につけ狙われているから? どちらも桜華の前では口にしないことね! この子は同情されることが大嫌いだから」
 微かな怒りを含んだ彼女の声にオレは自分の言葉が偽善でしかないことを悟った。葛城は自分を可哀想だとは思っていない。いや、思いたくはないのだ。
 同情は葛城を傷つける。
「すみません。絶対に言いません……」
「そうね。今夜、見聞きしたことも、ね」
 オレは頷くしかなかった。今夜のことなど話しても誰も信じはしないだろう。
「何も教えられずに黙っていろって? それは不公平だな、薫」
 黙ってオレたちのやりとりを聞いていた男が不満をもらした。バックミラーから覗く黒い瞳がオレたちをジッと見つめる。
「知らないほうがいいこともあるわ」
「藤見はこいつも殺そうとするかもしれない。あんな無様な姿を見られたんだ。その記憶を消し去るには当事者全員を抹殺しようとするかもな。
 ……お前は何も知らないまま、消されたいのか?」
 黒い瞳が今度はオレだけを凝視した。
 オレは藤見の狂気を孕んだ瞳と声を思い出して身震いした。あいつは普通じゃない、絶対に狂っている。
「桜華だけを守っているわけにはいかなくなった、か」
 結城が溜息をついた。それが、オレにいっそうの恐怖を与えた。オレはまだ死にたくなかった。
 オレは不安そうな顔をしていたのかもしれない。結城は苦笑すると、一度だけ葛城の寝顔に視線を走らせて、話し始めた。
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
 猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。


 天承院家は、古代舞の家元である。代々、女主が家元の座を継ぎ、千年を越える家系を維持してきたのだ。
 だがその長大な命脈を保っていた家系に危機が訪れた。今から二十三年も前のことだ。
 当時、第四十六代家元である天承院菊乃(てんしょういんきくの)の一人娘菖蒲(あやめ)が十六歳の誕生日を目前に控えて突然に姿を消したのだ。
 この事態に天承院流を支える師範代家系『朝比奈』家と『葛城』家は色めき立ち、早速暗躍を始めた。
 跡取り不在で、自分たちの一門の誰かを院の養子という形で送り込むことができるのだ。突然に降って湧いた幸運に彼らは何よりも自分たちの利権の確保に奔走した。
 誰も跡取り娘の行方など心配もしない。
 だが両家の暗躍も空しく、四年後、菖蒲は天承院に連れ戻された。
 両親は娘の無事に躍り上がって喜んだが、連れられてきた娘が抱く男女二人の幼子に愕然とした。
 菖蒲にそっくりな子供は間違いなく自分たちの孫である。その事実に天承院内部は揺れに揺れた。
 菖蒲と幼子二人はすぐさま引き離され、菖蒲は一門の者が決めた相手と連れ添わされた。
 さらに菖蒲の幼い息子は朝比奈家へと養子へ出され天承院を名乗ることを許されず、双子の片割れである娘は天承院家に残されたが父親がいないという理由で跡取りとは認められなかった。
 菖蒲と新しい伴侶との間にはすぐに女児が作られた。しかし、それは自然の営みとは反する科学によって作り出された子供であった。
 菖蒲は自分の意志に反して生まれてきたこの子供を愛そうとはしなかった。
 だが天承院の正式な跡目を継ぐ子供の誕生だ。
 周囲から菖蒲の想いは無視され、まして子供に自らの意志など望まれもしない。
 その子供の物心がつく頃、形ばかりの夫婦であった子供の両親は再び他人に戻った。
 その後子供に無償の愛情を注ぐ者はいなかった。


「おはようッス」
「おうッス」
 朝練で体育館に駆け込んでくる部員たちに声をかけながら、オレはチラチラと入り口のほうを伺い続けた。
 あらかたの部員が揃い、ストレッチを思い思いに始める。
「はようッス」
「チーッス」
「はようございますッ」
 全員が緊張の糸を張りつめて戸口から入ってきた人物に挨拶をする。
「おはよう」
 いつも通りの厳しい口調と自信に満ちた双眸が部員一人一人に届けられる。変わらない朝が巡っている。
「コーチ。今日もいつものメニューですか?」
 高杉がストップウォッチを片手に指示を待っている。
「あぁ、頼むよ」
 葛城の声に部員たちが筋トレ用の道具をそれぞれ手に取る。
「すまなかった。……薫さんが、お前によろしくと」
 葛城の小さな声が彼女の前を通りすぎようとしたオレの耳に届いた。
 昨夜、オレは監督の家に泊めてもらったが、夜が明けるとすぐに家に飛んで帰っていた。葛城につきっきりだった結城薫とは今朝は顔を合わせていなかった。
 葛城はいつもと変わらないきつい眼光を部員たちに注ぎ、的確な指示を出している。
 何も変わらない朝。この朝日のなかでは、昨夜の出来事は夢物語のような気がする。
 だが夢ではないのだ。
 オレの記憶のなかには、結城から聞かされた遠くの世界の話が残っている。決して消えない錦絵のように、肌に刻まれるタトゥーのように。
『この子はね、PUPETT……人形なんだよ。糸で繰くられる操り人形。見えない傀儡師(くぐつし)に操られるように生まれてきて、まわりの大人の思うように作られて、そして使いものにならなくなれば捨てられる。
 ……傀儡(くぐつ)のような生き方しか出来なかった。そんな生き方しか許されない。いや、この子だけじゃない。この子の二人の姉兄もまた同じ。傀儡のごとくに操られ続ける……』
 朝日のなかで見る葛城の横顔には昨日の脆さはなかった。だが、その仮面の下にある素顔をオレは知っている。暗闇に怯える幼児のようなその素顔を。
「だぁ~! かったりぃ~!」
 遠くで佐倉井が不平をもらしている。それを葛城が腕組みしたまま睨む。
「……やりたくないなら帰れ! お前のようなヤツはいらん!」
 部員たちが首をすくめ、佐倉井はいつも通り生意気に葛城を睨み返す。
「いい加減にしろ、佐倉井! 真面目にやれ!」
 オレはいつも通りに佐倉井と葛城の間に入って、危険なバランスを取る。まったく変わらない日常が今は薄っぺらに感じる。
 ふと見れば、葛城が苦笑をもらしている。笑うことのなかった葛城の笑みに、それに気づいた部員たちがざわめく。日常が変わっていく。少しずつ、だが確実に。
 いつの日か、葛城は自分の足で立つだろう。傀儡(くぐつ)から人へと変わる、その日が早く来ればいい。
 そのときは、葛城は誰よりも綺麗に笑うだろう。

終わり

〔 10323文字 〕 編集

PUPPET-傀儡の如くに-【02】

No. 41 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,PUPPET-傀儡の如くに- , by otowa NO IMAGE

 重たい瞼を押し上げた先に見えたものは、葛城(かつらぎ)の青ざめた横顔だった。
「か、葛城。大丈夫か」
 病的な青白さをした葛城の顔は疲れ切っていた。医者にかかっているくらいなのだ、身体のどこかに変調があったのかもしれない。
 オレの声に葛城が我に返ったようにオレを振り返った。
赤間(あかま)!」
 葛城はオレの顔を見て安心したような表情を作った。
「ここ、どこだ? ……あっ! なんだ、これ!?」
 オレは自分の今の状況を把握して呆気にとられた。
 どこかのビジネスホテルみたいに殺風景な部屋のベッドの足にオレは手錠でつながれていた。同じく反対側の足には葛城がつながれている。
 どうやらどこかに監禁されたらしい。
「なんなんだ。あいつら誰だ!?」
 理不尽な拘束にオレは腹を立てた。
 突然に人を殴りつけて気を失わせておいて、どこだか解らない場所に監禁するなんて、まっとうな人間のやることじゃない。
「ごめん……」
 葛城の小さな弱々しい声が聞こえた。
 見ると葛城は膝に顔を埋めていた。紺色の制服の間から覗く葛城の頬が常よりも白さを増しているように見える。
「お前が謝るなよ。オレが怒ってるのは、お前に対してじゃない」
 どうもいつもの調子と違う葛城の様子にオレは戸惑った。普段の葛城なら素直に謝ったり、落ち込んだ様子など見せはしないのだ。
「でも……やっぱりわたしのせいだ」
 俯いたまま葛城が囁いた。
 確かにオレたちをさらった連中の目的は葛城にあるようだった。オレはいわば巻き込まれたのだ。だが、不思議と腹立たしさはなかった。
「悪いのは連中だろ? お前のせいだなんて思うな」
「……」
 どう言い繕ったものだろうか。葛城はかなり落ち込んでいるように見えた。
「それより、お前、身体の方は大丈夫かよ。顔色、随分と悪いぞ」
 血の気の引いた葛城の顔がゆっくりと持ち上がり、オレのほうへと向けられた。普段の気の強い表情が嘘のような弱った顔つきが、オレを不安にした。
「大丈夫。身体は平気」
 オレを安心させようとでもしているのか、葛城は口元に笑みを浮かべた。だが、引きつった顔に浮かんだ笑みは彼女を余計に弱々しく見せた。
 まるで、人形のようだった。作られた笑顔を貼りつかせるだけの人形のように無感動な笑みが葛城の顔には浮かんでいた。
「そ、そうか……」
 オレは言葉に詰まった。今はどんな言葉を葛城に伝えても、彼女には伝わらないような気がした。
 黙り込んだオレの耳に部屋のドアを開ける音が聞こえた。
 葛城が緊張に身体を強ばらせているのが、離れていても判った。たぶん、オレも同じだ。
「おや。お目覚めかい」
 若い男の声に続いて、その声の主がオレたちの前に姿を現した。
「……!」
 オレは今どんな顔をして相手を見ているだろう。相手の男はオレの反応を無表情なまま見つめていた。
「そうか……。お前、蓮華(れんげ)に会ったんだ?」
 淡々とした口調がオレの肌をなぶっていき、オレの全身に鳥肌を立てた。
 男は昼間に見た蓮華と呼ばれていた女性にそっくりだった。体格に男女の差は見受けられたが、顔の造りは瓜二つだ。
 双子、という単語がオレの頭のなかに浮かんだ。
藤見(ふじみ)! なんで赤間まで巻き込んだ!」
 葛城の詰問も男にはまったく動揺を与えてはいなかった。むしろ、そんな葛城を面白がっているようにさえ見える。
「巻き込まれたほうが悪い。……それに、お前が素直に言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったんじゃないの?」
 藤見と呼ばれた男は葛城に近寄ると、顔を近づけて、気味の悪い笑みを浮かべた。能面の笑みを連想させる作り物の顔だ。
「まったくかわいげのない女だね。少しは蓮華を見習ったらどうなのさ。お前を見てると、また滅茶苦茶にしてやりたくなるよ」
 葛城の顔が男の言葉に青ざめた。睨みつけている視線は鋭いままだが、血の気の引いた顔には生気が乏しかった。
「お前なんか大嫌いだよ。さっさと死んじゃえばいいんだ。いつも、いつも、蓮華の邪魔ばかりする。鼻持ちならないったらありゃしない」
 毒を含んだ言葉が葛城に浴びせられる。気丈にもそれに耐えながら、葛城は尚も相手を睨みつけていた。
「ボクは不本意だけど、これから院へお前を連れていくからな。蓮華にはできないんだから、今度の花娘はお前が演じるんだよ」
「断る……!」
 即答で返事を返した葛城の視線がさらにきつい光を帯びた。
「断る? ……お前に選択権なんか、ないんだよ。ボクだってお前が花娘をやるのは不愉快なんだ」
「なんで蓮華がやらないんだ! わたしはやらないからな」
 葛城の声がさらに大きくなった。うわずっていると言ってもいいかもしれない。オレは黙って二人のやりとりを見ていることしかできなかった。
「……できることなら、お前なんかにやって欲しくないよ。でも、蓮華は花娘を教えられていないんだ。知らないことは出来ないだろう?だから、お前がやるんだよ、桜華おうか。蓮華の前で演じるんだ。彼女なら、一度見れば覚えられる。そしたら、お前なんか用済みさ」
「イヤよ! 絶対に行かないッ!」
 葛城の頬が鳴った。うっすらの葛城の頬が紅くなる。
「うるさいよ。お前に選択権などないと言っただろう?……一度でいいんだ。蓮華の前で演じるんだよ。そしたら、そのあとはボクがお前を殺してやるッ」
「イヤッ!」
 再び、葛城の頬に平手が飛んだ。
「やめろよ!」
 たまりかねてオレは叫んでいた。無抵抗の人間に暴力を振るうなんて普通ならやらない。こいつは、どこかおかしいんだ。
「……部外者は黙ってな」
 オレの制止の声を不快そうな視線で受けると、男はオレを軽蔑したように見下ろした。冷酷な視線が、オレの背筋に悪寒を走らせた。
 それでも、ここで引っ込んではいられない。
「黙ってられるか!葛城は嫌がってるじゃないか!」
 男の眉がピクリと動いた。そして、徐々に顔にニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる。
「葛城……? はぁ~ん。お前、葛城姓なんか名乗ってるのか、桜華。随分と殊勝なことだ。そのまま葛城でいたほうがお前には都合がいいんだろうけど、今度ばかりは蓮華のためだからね。お前に花娘を演じてもらうよ」
「イヤ! やらないったら、やらないッ!」
 悲鳴に近い声で拒絶する葛城の顔は死人のように真っ青だった。
「何度も同じ事言わせるんじゃない!お前には選択権なんかないんだ!」
 葛城の拒否に、男はカッとなったのか、今まで以上に荒々しい口調で怒鳴った。顔に怒りのために朱がさす。
「そうだ。良いことを思いついた」
 その怒りが突然に冷めたように、男は平然とした顔を取り戻した。
 オレのすぐ傍らまで音もなく近寄ると、息がかかるほどの距離に顔を近づけてきた。ニヤリと笑う顔が不気味だ。
「桜華。彼をどうしようかねぇ?」
 男の指がオレの首にかかった。夏の時期だというのに、氷のように冷たい指だ。オレの全身が総毛立つ。
「やめろ!赤間に手を出すな!」
 葛城の顔が引きつっている。かすれ気味の声が、彼女の緊張感が頂点に達していることを示していた。
「さぁ。どうしよう? ……このまま指に力を入れたら、どうなる?」
 男の喉の奥で空気がもれる音がした。男の笑い声だと気づくまでに少し時間がかかった。
「やめて!」
 オレの喉は男の指の冷たさに痺れてしまったのか、言葉どころか呻き声一つでない。
「イヤだと言ったら?」
 薄ら笑いを浮かべている男の顔に、魔物の哄笑が重なる。この男なら本当にオレの首を絞めることなど朝飯前なのだ。
「お願い。やめて、藤見!」
 葛城の唇は青ざめ、震えていた。オレは彼女が泣き出すのではないかと思ったほどだ。だが、葛城はギリギリのところで、泣き声を押さえているようだった。
「だったら、院へ行くんだ。いいな」
「……」
 葛城は拒否の言葉を発しなかった。オレを人質に捕られては抵抗などできない。
 情けないことに、オレのことにかまうな、とはオレ自身は言えるほどの勇気がなかった。葛城の足を引っ張っているだけの存在である自分が酷く煩わしく思える。
「準備が出来次第、出発する。それまでは良い子で待ってるんだな」
 男はオレの首を指の拘束から解放すると、氷の視線をオレたちに投げつけ、この部屋を後にした。


「ごめんなさい……」
 伏し目がちに下を向く葛城の目尻に光るモノが見えた。
 後ろ手に拘束されている姿勢では、顔を覆い隠すこともままならない。部屋の電灯の光を受けて、葛城の涙が光る。
「な、泣くなよ、葛城」
 慰めの言葉が思いつかず、オレは滑稽なほど狼狽していた。
「でも、わたしのせいで……」
 声が涙に震えている。
 オレは何もしてやれないもどかしさに顔を歪めた。
「自分のせいだなんて思うなよ! お前のせいじゃない。絶対にお前のせいじゃないから!」
 オレは夢中で叫んでいた。
 普段の傲慢な態度が影を潜めた葛城は、あまりにも弱々しく見えた。そのまま消えてなくなってしまいそうなほどに小さくも見える。
 オレの空虚な言葉に、それでも葛城は反応した。
 そっと顔を上げた葛城の顔は今まで見た彼女の顔のなかで一番、綺麗で、脆かった。
「お前、行きたくないんだろ? だったら、どうにかして逃げる算段を考えよう。このままじゃ、どうにもならない」
 提案をしている自分自身がどうすれば逃げ出せるかなんて思いつきもしないのに、オレは葛城を励ますためだけに偉そうなことを言ってみる。
 それでも葛城には効果があったのか、彼女は泣きやんでオレをジッと見つめていた。
「……赤間。ありがとう」
 囁くような声がオレの耳に届いた。
 普段の葛城からは信じられないほど素直な言葉だ。いつもこんな調子だったら可愛い奴なのに。
 だがそんなことをつらつらと考えている時間はない。男は準備が出来次第と言っていた。
 準備がいつ出来るかは解らないが、男が葛城の様子を見にきたところを見ると、今少しの時間が必要なのだろう。
 どうやったら、それを有効に使ってやれるだろうか?
「赤間。わたしにちょっと考えがある……」
 考え込んでいたオレに葛城が声をかけた。
 見ると、葛城はいつもの気丈な顔に戻っていた。オレは少しだけホッとしたけど、なんだか惜しいような気分になった。葛城のあんな弱った顔はもう二度と見れまい。
「なんだ?」
「ドアの向こうには見張りがいると思うんだ。たぶんこの手錠の鍵を持っている。だから、その見張りから鍵を奪わなければ、逃げられない」
 オレは見張りのいる可能性をすっかり失念していた。
「見張りが自分からこの手錠を外すように仕向けるんだ」
「どうやって!?」
「私が発作を起こした振りをするからお前が外の見張りを呼んでくれ。見張りが藤見からわたしのことを聞いていたら、間違いなく奴はわたしの手錠を外すはずだ」
 発作?
 オレは聞き馴れない単語に少々戸惑った。
 オレの表情からそのことを読み取ったのだろう、葛城は奇妙な顔をした。苦笑というか、自嘲というか、なんとも言いようのない歪んだ顔だ。
「……心臓発作だ」
 オレはきっと驚いた顔をしたのだろう。
 オレの反応を確かめた葛城が、視線を床に落とした。オレの視線に耐えられないとでもいうように。
「わたしの心臓は精神的なショックを受けたりすると、筋肉が痙攣する発作を起こすことがある。今は……それを利用するしかない」
 ボソボソと喋る葛城の口調からは、諦めが伝わってきた。
 今まで自分のことを話たがらなかったのは、この病気のせいか。オレは一人で合点して、ちょっと落ち込んだ。
 もし葛城が健康になったら、西ノ宮のコーチなどすっぱり辞めて自分がプレイヤーとして活躍するだろう。
 それだけの実力が彼女にはある。オレたちにそれを止める権利はないのだ。
 反発している佐倉井や氷室たち一年生が近年稀にみる成長ぶりを見せているのは、葛城の指導の賜物だと二~三年生のオレたちは気づいていた。
 オレたちが入学してきたときに葛城ほどのコーチがいたらと、内心では思っているのだ。
 葛城の病気が彼女とオレたちを引き合わせたのだ。皮肉なものだ。
 いっぱしにバスケットプレイヤーを名乗っているオレたちに、葛城は同情などされたくはないのだろう。
 同情されてコーチの地位に甘んじているつもりはないのだ。葛城は、コーチとしてやっていくと決めた時点で、プレイヤーとしての誇りを捨てて西ノ宮に来たはずだから。
「本当に上手くいくかな?」
 オレは務めて憐憫を顔に出さないように気を使って、葛城の顔を見た。成功したかどうかなんて解らなかった。
「やってみるしかないよ。他の方法なんて思いつかない」
「そうだな……」
 オレと葛城はお互いの顔を見合わせて頷いた。
 大きく深呼吸した後、オレは大声をあげた。
「誰か! ……誰か、来てくれ!」
 オレの声を合図に、葛城が床に倒れ込んだ。身体を小さく丸め、肩で息をし始める。
「誰か! 誰もいないのかよ!おぉいっ!」
 葛城の言ったとおり、ドアが音もなく開くと、黒服の中年男が入ってきた。
「なんだ! うるせぇぞ」
「医者を呼んでくれッ!」
 オレの言葉に男は眉間にシワを寄せた。そして、何事かに思い至ったのか、視界から隠れていた葛城に駆け寄った。
 葛城は演技とは思えない苦しみようを見せていた。
 手足が小刻みに痙攣し、何かから身を庇うように丸まる姿は、オレでさえ震えが止まらなかった。
「た、大変だ……!」
 葛城の様子に青ざめた男が懐から鍵を引っぱりだす。葛城の手錠を外そうと焦るが、思うようにいかず、忌々しそうな舌打ちが聞こえる。
 ようやく手錠を外し終わった男が葛城を抱き上げようと彼女の腕を取った瞬間!
「ゲ……ゥ……!」
 無防備になっていた男の股間に葛城の蹴りが決まっていた。
 痛いぞ、ありゃあ……。
 オレは男に少しだけ同情した。と、同時に男の急所を躊躇なく潰せる葛城の無慈悲さに改めて寒気を覚えた。
 苦悶の顔から脂汗を噴き出してうずくまる男の首筋に葛城は腕を振り下ろした。小さな衝突音がした後、男は白目を剥き出し、股間を押さえた哀れな姿で気を失った。
 なんの躊躇いも見せず葛城が男の懐を探り、オレの手錠の鍵を見つけだすと、素早くオレを解放した。
「サ、サンキュ。それにしても、お前ちょっとやりすぎじゃないのか? ありゃあ、痛いなんてモンじゃねぇぞ。使えなくなってたら、どうするんだよ」
 同じ男としてオレは葛城に抗議してみる。だが葛城の返事は素っ気なかった。
「お前だって同じような目に遭っただろ? こいつらは自業自得だ!」
 オレは大事なところを蹴られた覚えはないぞ。
「ちょっと待ってて」
 オレから離れた葛城が手錠を持ったまま男に近づく。
「え……?」
 オレが見守るなか、葛城は男に手錠をかけていった。しかも、ご丁寧に両手両足が互い違いになるような拘束の仕方だ。
 これじゃあ、寝返りだってうてやしないじゃないか。さらに手近にあったタオルで男の口に猿ぐつわまで噛ませている。やっぱりやりすぎな気がする。
 右足と左手、左足と右手をそれぞれつながれた男はまだ正気には戻っていなかった。
 彼が我に返り、身動きできない、声も出せないその状態でどうやって助けを呼ぶのかと憐れみさえ覚えてしまう。
「さぁ、行こう!」
 満足したのか、葛城が立ち上がってオレを振り返った。
 いつもの強い眼光がオレを射抜く。さきほどの涙など想像もできない。
 オレがやったことと言ったら、助けを呼ぶ振りをしただけだ。こいつはとんでもない女だ。オレは改めて葛城の容赦をしない性格を思い知らされて慄然とした。


 廊下に出てみると、そこはやはりビジネスホテルのように殺風景な造りの場所だった。
「行くよ!」
 オレより先に部屋を出た葛城が、数歩先から声をかけてくる。
 突き当たりに階段を示すマークが見えた。エレベーターではなく、階段で下まで降りるつもりのようだ。
 先が読めない状況になることは少ないから、賢明な判断と言っていいのだろう。
 オレたちが閉じこめられていた部屋は七階最上階だった。案外大きな建物だ。市街地にこんな大きな建物なんてあったかな?
 頭のなかで市の中心街の地図を思い描くが、建物の階数までは思い出せなかった。
「ここ、どこなんだ?」
 葛城と並んで小走りに移動しながらオレは訊ねた。
「朝比奈がオーナーをしてる物件だ」
「朝比奈?」
 オレの疑問を表す返事に葛城の顔がしまった!という表情を浮かべた。話すとまずいことがあるのだろうか?
「オレが聞くとヤバイことなら、話さなくてもいいよ」
「いや……やばくはないけど」
 言い淀む葛城の顔には迷いが去来していた。葛城自身が話題にしたくはない内容なのか?
「なぁ、花娘って何?」
 オレの何気ない質問に、葛城はいっそう困ったような顔をした。俯き加減な視線が動揺している。
「……悪い。忘れてくれ」
 またしてもオレは余計なことを聞いてしまったようだ。
 葛城の眉間に寄せられたシワは不快さよりも、困惑と焦りを濃く映していた。葛城は自分に関わる事柄を語ることを極端に避けているようだった。
「ここってホテルみたいだから、建物の外に出さえすれば、逃げるのは簡単なのかな?」
 もう葛城に関する質問はしまい、と誓った後、オレは重苦しい沈黙を破って聞いてみた。葛城の表情がややほぐれた。
「……今は午後九時半過ぎだから、街のなかって言っても人通りは少なくなってるはずだよ。建物から出た後も油断はできないと思う」
「九時半!? オレ、随分と気を失っていたんだな」
 自宅ではオレの帰りが遅いことを不審に思っていることだろう。もしかすると柏葉監督の家に電話を入れているかもしれない。いや、監督や奥さんだって葛城が帰宅していないことを心配しているだろう。
「香奈ちゃん、心配してるよね……」
 ポツリと呟いた葛城の声が、オレの耳には大きく響いた。葛城が責任を感じていることは明らかだ。だが、情けない話、それを慰める言葉をオレは知らない。
 オレたちは辺りに注意を払いながら、息を潜めて一階へと降りきった。
 今まで邪魔が入らなかったことに感謝しつつ、オレは一歩前を進む葛城の後ろをついていった。
 葛城は恐ろしくしっかりしていた。場慣れしている、とでも言うのだろうか、足音を立てずに進んでいくその後ろ姿を見ていると同じ高校生とは思えない貫禄があった。
 ホテルの出入り口に厳重な見張りがいるのかと思ったが、フロントやロビーには呆気ないほど人の気配がなかった。
 だが葛城は用心しているのか、ホテルの裏口らしい方角へと進んでいく。
「赤間。あんたバイク乗ったことある?」
 裏口をすぐ目の前にして葛城が振り返った。顔には少しだけ安堵の表情が浮かんでいる。どうやら、無事に逃げ切れそうだ。
「いや。全然」
 バスケに明け暮れているオレにバイクの免許を取りに行く時間があるわけないだろうが。それにバイクで事故って手足を怪我したらどうするんだ。
 ……まぁ、興味がないわけじゃないけど、現在のところは乗る気はない。
「……じゃあ、わたしが運転するか」
「へ? お前、乗れるの!?」
「制服のスカートじゃ、乗りにくいし、今は免許証持ってないんだよね。だから、捕まるとやばいけど」
 葛城は通用口と書かれたドアをソッと押し開けた。
 道を挟んだ向こう側に蛍光灯の青白い光に照らされた駐車場の看板が見える。市営か民営の月極駐車場といったところか。どこにでもありそうな造りの駐車場には、車が十台ほどとバイクが二台置いてあった。
「でも、鍵はどうすんだよ?」
 オレは根本的なことを思い出して聞いてみた。バイクが目の前にあっても、鍵がなければエンジンをかけることなどできないだろうに。
「……やりようはいくらでもあるさ」
 通用口を静かに閉めながら葛城が囁いた。まわりの様子を伺いながら、道路の向こうに見えた駐車場へと足早に歩いていく。
「それって……。よくバイクの盗難なんかで使われているらしい手口の……」
「たぶん、あんたの言っているやり方になると思うよ。徒歩で逃げるには限界があるから」
 仕方ない、といった風情で葛城が肩をすくめてみせた。それにしてもどうして葛城は鍵無しでバイクのエンジンをかける方法を知っているんだ。
 だがそれを追及するには時間が惜しいような気がした。
「ここってそんなに家から遠いのか?」
 迂闊にもオレは歩いて帰れるほどの距離を想像していたから、少したじろいた。バイクに乗ることには抵抗はなかったが、無事に家に辿り着くまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「遠いよ。車やバイクでも一時間はかかるかな」
「嘘、マジ!?」
「んなことで、嘘つくわけないでしょ!」
 一時間といったら、市を二つや三つは通り越しているくらいの距離はある。それを歩きで帰っていては、帰り着く頃には夜が明けてしまう。
「行こう。グズグズしてると気づかれる」
 一台のバイクへと歩み寄りながら葛城がオレを促した。
 オレが見てもよく解らない機械を葛城は平然と外し始めた。彼女にはどの部品を外して操作すればバイクが動くのかが判っているようだった。
 やっぱりこいつはただ者じゃない。
 オレは呆れて溜息をついた。こんなところでバイク強盗の手伝いをする羽目になるとは。強盗の手伝いならそれらしく、見張りでもしていたほうがよさそうだった。
 オレはホテルの連中に気づかれてはいないかと気になって、駐車場の入り口へと引き返した。駐車場は袋小路になっていて、ここで追いつめられたらおしまいだ。
「どこ行くの?」
「見張りだよ。ここにいても役に立たねぇモン」
「判った。気をつけて」
 了解の印に葛城が片手をあげた。そして、すぐに自分の作業に没頭する。
 あの様子だと、車輪をロックしているチェーンや電子ロックなどの解除方法も知っているのだろう。泥棒稼業で生活していけそうなヤツだ。
 オレは入り口近くまで戻って手近な車の影からホテルの様子を伺った。建物内部は静まり返っていて、中から人が出てくる様子はなかった。
 オレは身体から力が抜けていくような安堵感からその場に座り込んだ。
「やれやれ……。やっと解放された」
「それはどうかな?」
 オレは背後からの声に背筋を凍らせた。
 反射的に振り返ろうと身体をひねったが、オレは自分の首に絡まった冷たい指に震えあがった。
「まったくバカにしてくれるじゃないか。やっぱりお前も用済みになったら殺したほうがよさそうだな」
 全身の血の気が引いていく。
 藤見と呼ばれてる男は白い麗貌に本物の殺意を込めてオレを睨んだ。
 萎えそうになる気力をオレは振り絞る。首に絡まる男の指は今にも満身の力が込められそうだった。
「か、葛城ぃ~!! 逃げろぉ~!」
 このままだと葛城は捕まってしまう。男の配下が近くにいるかもしれなかったが、彼女の不利益を見逃すことは出来なかった。
 それでなくてもオレは一度彼女の足を引っ張っている。
「貴様……!」
 男の双眸に炎が燃え上がった。


 葛城(かつらぎ)がこちらを振り返る姿が目に入った。驚きと悔恨をにじませた顔が夜の闇に浮かぶ。
 オレの声に葛城は反応したが、彼女は逃げ出さなかった。オレはまたしても、彼女の足手まといになってしまったようだった。
「いい根性をしてるよ、お前は。ボクは良い子で待ってろと言ったはずだ。自分の立場が判っているのか?」
藤見(ふじみ)……」
 苦々しい表情を浮かべた葛城の顔には半ば諦めが浮かんでいた。
「逃げ出してどこへ行くのかと思ったら、こそ泥の真似事とはね。……お前らしいじゃないか、桜華。泥棒猫に相応しいよ」
 毒々しい言葉は葛城の心にしっかり届いているように見えた。オレの耳元から聞こえる男の声が、彼女の心に突き刺さっていく様が見えるようだ。
 それでも葛城は歪めた顔を男に向けたまま、歯を食いしばって対峙し続けていた。
「わたしは花娘なんかやらない。蓮華がその技を欲しいのなら、山の大伯父貴に教えを乞えばいい!わたしから盗み取ったもので満足できる花娘ができるとでも思っているの!?」
「……確かにお前の技も未完成だ。だが知っている者と知らない者との差は雲泥なんだ! 伯父貴は蓮華に教えるつもりは毛頭ないんだよ。だったら、知っている者から盗むしかないじゃないか」
 オレの首にかかっている男の指は相変わらずビクともしなかったが、男は葛城の言葉に少しだけ怯んだように見えた。
 オレは男のその弱い部分を突いてみることにした。そうでなければ、オレは男の拘束から逃げることができない。
「結局あんたも蓮華とかいう人も、花娘に踊らされているってワケか? まるであやつり人形か道化師だな」
 オレは精一杯の勇気を振り絞って男を睨んだ。氷の美貌が間近に迫っていたが、先ほどの禍々しいほどの殺意は薄らいでいた。
「貴様なんかに、ボクたちの気持ちが判るもんか!ガキは引っ込んでろ」
 首に食い込む指に少しだけ力が込められた。オレの肺が空気を求めてもがいているのが判ったが、オレは男の手首をありったけの力で握りしめた。
 オレだってスポーツをやっているのだ。腕や握力を鍛えている。男がどれほど鍛えているのかは知らないが、そう易々とは殺されるつもりはなかった。
「駄目よ、赤間!」
 オレの様子を見た葛城が叫んだ。
「遅いよ」
 オレの目の前で男の口が笑みを浮かべた。昔ポスターで見た無表情な仮面に刻まれた笑みのように。オレは鳥肌が全身に拡がるのを悟った。
「死んじまいな。ボクに逆らおうなんて、百年早いよ」
 オレが握りしめた男の手首は振り払うどころか、頑強にオレの首へと絡みついてきた。痩せ気味の男の身体のどこにこんな力があるのかと思うほどの強い力がオレの首を圧迫した。
「やめて、藤見!」
 掠れた叫び声をあげて葛城が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
 男はオレの首を絞める力をいっこうに弱めることなく、翳りのある笑い声をあげた。夜の闇に消えていくその声がオレの頭のなかでリフレインし続ける。
 もう、駄目だ。息ができない。目の前が暗い。
 オレの両手が男の指を空しくかきむしった。
 意識が崩壊しそうになる寸前にオレは解放された。肺が流れ込んでくる酸素に飛び上がり、オレは激しく咳き込む。
「THE GAME IS OVER……。遊びは終わりだよ、藤見」
 明瞭で力強い女の声がオレの耳朶に届いた。

〔 10964文字 〕 編集

PUPPET-傀儡の如くに-【01】

No. 40 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,PUPPET-傀儡の如くに- , by otowa NO IMAGE

「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
 猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
 頷くことしかできないオレを脅す顔は、花さえ恥じらう美しさなのに、凄惨な匂いを漂わせる。
 その見知らぬ女の腕に抱かれた葛城(かつらぎ)の青ざめた横顔が、現実離れしていて夢を見ているようだった。


 ボールはリングの縁をクルクルとまわり、弾かれたようにこぼれ落ちた。床にボールが落ちる間もなく、痛烈な声が飛んだ。
「なにやってんだよ、下手くそ! レイアップくらいきちんと入れろ!」
 容赦のない罵倒を浴びせられた佐倉井(さくらい)が顔を歪めた。
「……うるせぇな、鬼婆ぁ」
 ボソリと囁いた声は相手に聞こえてはいないはずだったが、鬼婆ぁと罵られた相手は目をつり上げて佐倉井を睨みつけた。
「やる気ないわけ!? ……だったら、さっさと帰りな!」
「おい……葛城。それは言い過ぎだ」
「あんたは黙ってな、赤間(あかま)
 オレの忠告も簡単に却下された。葛城は顎をしゃくり、出口を示す。その顔が傲慢そうに佐倉井を見上げていた。
「誰も、やる気がねぇなんて言ってねぇよ!」
 不機嫌そうに吐き捨てながら、佐倉井がボールを拾い上げた。大きな手がバスケットボールを器用に掴み、オレに放ってよこした。
「キャプテン、もっかいパスだし頼むわ」
 シュート位置につこうとする佐倉井の背中に鋭い声がかかる。
「必要ない! 佐倉井、今日帰るまでに跳躍千回終わらせろ! それまで、ボールに触るな!」
 振り返った佐倉井の顔が怒りに赤く染まっていた。
「葛城……」
 これはヤバイ。
 佐倉井が切れそうだ。葛城はいくら一年先輩とはいえ、女だ。佐倉井の性格からして、女にここまで言われて黙っているとも思えない。
 オレは葛城の腕をとって体育館の隅へ引っ張っていった。
「お前、ちょっときついぞ。あそこまでポンポン言われたら、一年坊主だって頭にくるだろうが」
 葛城は不機嫌そうな顔を隠しもせず、佐倉井の顔を睨ねめつけている。
 だから、それがヤバイんだってのに。
「誰かが言わなきゃ、あいつにはわかりゃしねぇよ」
 口を尖らせたまま葛城はオレを見上げた。黙っていれば綺麗な顔をしているのに、この口の悪さときたら始末に負えない。
「あのなぁ……。お前、もう少し言葉を選べよ」
 最悪、身体を張っての喧嘩になったら、身長が二メートル近くある佐倉井に対して、その胸ほどの身長しかない葛城は圧倒的に不利だ。
 もっとも身長差の前に、女だってだけで体力的な差がありすぎるが。
「ふん」
 ふてくされてそっぽを向いた葛城にこれ以上何を言っても無駄そうだった。まったく、こいつはいつだって傲慢で不遜な奴なんだ。
「コーチ!」
 体育館の入り口から声が聞こえた。
 バスケット部のマネージャーで、オレの妹でもある香奈(かな)が葛城を手招きしていた。葛城が怪訝そうな顔をして歩き出す。
 その足がふと止まった。
「おい、佐倉井! わたしが見てないと思ってサボるんじゃねぇぞ!」
 しっかり佐倉井に念を押すことだけはわすれない。それにしても、もっとましな言い方ってもんがあるだろうが。
「葛城。そろそろ休憩取りたいんだけどな……」
 仕方なくオレはその場のピリピリした雰囲気を消そうと葛城に話しかけた。
 他の部員も疲れが溜まってきている。ここいらで休憩を入れたほうが効率が良さそうだった。
 葛城もそれに気づいたようだ。了解の印に手を挙げると、香奈の待つ外へと歩き去っていった。
 オレはため息混じりに部員たちに休息の指示を出した。
 葛城は今年の四月に編入してきた転校生だ。それもバスケット部監督の柏葉先生のお墨付きで、この西ノ宮高校のバスケット部のコーチとしてわざわざ編入してきたのだ。
 同年代の、しかも女がコーチに着任して、部員たちは初めは憤慨していた。だが文句はすぐに言っていられなくなった。
 彼女が部員たちの目の前で行ったシュートのデモンストレーションは、非の打ちようのない出来だったからだ。
 誰が予想しただろう、部員たちの指示する場所から放った、百本を越えるシュートをすべてノーミスでリングに押し込むなどと。
 オレたちと彼女の勝負を笑って見ていた監督が止めなければ、彼女は二百本でも三百本でもシュートを放ち、確実に決めていたはずだ。
 百発百中、一発必中の正確無比なシュートを見せつけられ、オレたちはぐうの音も出なかった。
 誰もそんなことはできない。同じ場所からシュートし続けるだけなら、あるいは奇跡的にできる奴がいるかもしれない。
 だが彼女が打ったシュートは一つとして同じ場所から放たれてはいない。
 ゴール下はもちろん、スリーポイントのラインを大きく下がった位置からでさえ悠々とボールを放り、リングの淵にはかすりもせずにネットの真ん中を突き抜けていくボールを目で追いながら、オレたちは敗北感に打ちのめされていた。
 飄々と百本ものシュートを放った後でさえ、葛城は涼しい顔をしていた。
 あいつは化け物だ。誰ともなしに部員たちが言い合っているのをオレは何度も耳にした。
 あのデモンストレーション以来、葛城が皆の前でプレイして見せることはなかった。
 だが彼女のきつすぎる眼光で睨まれ辛辣な口調で罵られる度に、部員たちがあの見事な放物線を描いて飛んでいく彼女のシュートを思い出しているに違いないことは手に取るように判った。
 かく言うオレも、怒鳴りつけられる度にあのシュートがストップモーションのように頭に甦る。
 ……床の上で軋むバッシュの足音。舞いを舞っているかのように優雅なジャンプ。乾いた音を立ててネットに吸い込まれていくボールの摩擦音。床に落ちたボールがバウンドしている規則的な打音。部員たちのもらす微かな吐息。
 葛城をうち負かせる者など、この部内に一人として居はしなかった。
「お兄ちゃん!」
 香奈の呼び声でオレは我に返った。
「なんだ?」
「もぅ! やっぱり聞いてなかったのね」
 頬を膨らます妹に苦笑いを浮かべて謝ると、オレは缶に残っていたスポーツ飲料を飲み干した。
「だからね、葛城コーチを訊ねてきた人ってのが、すっごい美人なの! しかも清楚って言葉がぴったりくるような!」
「はいはい、それで?」
「あの人、コーチのなんだろうね? お姉さんかな? まだ若いからお母さんってことはないと思うけど」
 葛城自身は清楚なんぞという単語からは一番ほど遠そうな性格をしている。
 あいつだって、黙っていれば美人の部類に入るのだ。その訊ねてきた人物があいつの身内だっていうのなら、外見で内面まで判断したくはないね。
「おれはその女の人見てないけど、香奈さんのほうが美人だと思うね」
 オレの側に座り込んでいた佐倉井がデレデレと鼻の下を伸ばして香奈を見上げた。こいつの反応は分かり易すぎる。香奈が好きだと顔にハッキリ書いてある。
 ……まぁ、兄の自分が言うのもなんだが、香奈は可愛い。佐倉井が惚れるのも無理はない。
「やぁだ~。佐倉井君ったら何言い出すのよ。でもすっごい美人なのよ~、その人ってば。女のあたしが見てもほれぼれするくらい。
 あ……でも、美人でも葛城コーチとはタイプが違ってたなぁ。コーチはどっちかって言うと西洋美人って感じだけど、その人は日本人形みたいな感じだったもん」
 どういう例えだ? オレにはどっちでもいい。見てもいない女の噂話なんか興味もない。
「ねぇねぇ、誰だと思う?」
 香奈がワクワクと目を輝かせてオレに返事をねだっていたが、まともに答える気にもならず、オレは葛城の出ていった体育館の戸口を振り返った。
「香奈ちゃ~ん。助けて~」
 大きな荷物を抱えた高杉真子(たかすぎまこ)がフラフラと歩いてくる姿が見えた。彼女もバスケット部のマネージャーだ。
 妹の香奈より一学年上だが、香奈が子供っぽいせいか、大人びた顔をしているように見える奴だ。
「真子先輩!? どしたんですか、その荷物!」
 前がほどんと見えない状態で足元もおぼつかない様子の高杉に気づいて香奈が飛んでいった。
 戸口の段差で立ち往生していた高杉が、香奈の手助けに大袈裟なほどのため息をついてぼやく。
「もぅ~、いやんなっちゃうわ。柏葉先生ったら、私一人にこの大荷物押しつけてどっか行っちゃうんだもの」
「あれ~。これって新しいユニフォームですかぁ~? わっ! 黒地に青赤のライン!西ノ宮カラーですね~」
 高杉のぼやきを無視して香奈が荷物の中からユニフォームを引っぱりだしている。休憩していた部員たちの目が光る。
 もう後数日もしたら、監督からレギュラーが発表されるはずだ。そのときにレギュラーナンバーの入ったユニフォームを手渡されることを皆夢見ているのだ。
 その憧れのユニフォームが目の前にある。目を輝かせるなと言うほうが無理というものだ。
「香奈さ~ん。おれも見たい!」
 すっかり子供のようにはしゃいで佐倉井が荷物の山に突進していった。
 柏葉監督の方針で、うちの部は実力主義だ。一年坊主でも実力があればレギュラーの座がまわってくる。
 佐倉井もここのところメキメキと力を伸ばしてきているから、決して夢物語の話ではない。
 もっとも監督が選ぶということはコーチである葛城の意見が多分に含まれるということだ。
 反抗的な態度の佐倉井を葛城がどう評価しているのか……少し気にはなるところだ。
 わいわいと部員たちが荷物に群がり、ユニホームを引っぱりだしては取り合っている。休憩時間はもうすぐ終わるが、これはしばらく収まりそうもない。
「やぁ、すみませんでしたね。真子くん」
 飄々とした声が聞こえたかと思うと体育館の入り口に柏葉監督が顔を覗かせた。
 四十代後半のはずだがスポーツマンらしい体型と十歳は若く見える男前な顔の造りで、学校の女子の間で密かに人気が高い。
「もぅ~、酷いですよ。一人でここまで運ぶの大変だったんですから! これ、貸しですよ、監督!」
 声をかけられた高杉が頬を膨らませて監督を睨むが、本気で怒っていないのは明らかだ。
「電話が入ってしまってね。……おや? 我が部のコーチはどこに行きました?」
 監督が人垣をキョロキョロと見まわした。
 葛城の姿が見えないことをいぶかしんいる。それもそのはずだ。葛城が部活時間にこの体育館にいないことなど、今までなかったことだ。
「葛城コーチなら、綺麗な女の人に呼ばれて裏門に行きましたよ」
 葛城に伝言をした香奈が代表して答える。
「綺麗な女の人? 誰です?」
 柏葉監督の丸眼鏡の奥の瞳が糸のように細くなった。
「えぇっと? ……名前を仰らなかったです。でも綺麗なストレートの長い髪で、色白の優しそうな顔で。葛城コーチより五つくらいは年上に見えました。顔が似てなかったけど、もしかしてお姉さんかと」
 香奈は相手の特徴を伝えようと一所懸命に思い出していたが、いかんせん、名前が判らないのでは要領を得なかった。
「……お姉さん。香奈くん、その人、確かに女の人だったの?」
「え? だってワンピース来てましたよ? ……スカートだったから、女の人だと思ったんだけど」
 急に不安そうな顔をした香奈に柏葉監督はニッコリと笑いかけた。
「あぁ、心配ないから。裏門だったっけ?様子を見てく……」
桜華(おうか)ちゃん……!」
 監督の声を遮るように、細い呼び声が体育館に沿って植えられているツツジの向こうからあがった。
 部員一同が驚いてそちらを向く。
 いつも以上に険しい顔つきの葛城がこちらへと足早に歩いてくる姿が目に入った。その後ろを二十二~三歳の女性が追いかけてくる。こちらも切羽詰まったような顔つきが尋常ではない。
「待って! 桜華ちゃん!」
 呼び声の主はこの女性のようだ。まだ三十メートルは離れている距離なのに随分とハッキリと声が聞こえる。
 葛城の下の名前を呼んでいるところをみると、やはり身内か近しい知り合いなのだろう。それにしても、葛城の奴も『桜華(おうか)』なんて、随分と大袈裟な名前をつけられたものだ。
 葛城に追いついた女性が、彼女の肩に手をかける。
「放せ! わたしに用はない!」
 葛城が乱暴にその手を振り払う。険悪な雰囲気だ。
「あなたに戻ってもらわないと困るのよ」
「うるさい! わたしにはもう関係ない!」
「桜華ちゃん! お母様も待っているの。お願いだから、天承院に戻って」
「関係ないって言ってるだろ!」
「天承院にはあなたが必要なの! お願い、桜華ちゃん! ……桜華ちゃん!」
 追いかけてきた相手を無視して葛城がこちらに歩きかかった。
「待って頂戴。桜華ちゃん」
 葛城の腕に女性が取りすがった。必至の声と形相がオレたちにもハッキリと見えた。
 この人が香奈の言っていた女の人だろう。確かに綺麗な女性だ。日本人形と香奈が言っていたが、その形容詞にぴったりの人だ。眉目秀麗、とはこの人のためにあるような言葉に思えた。
「わたしには用のない家なんだよ!」
 青ざめた顔の女性を突き飛ばすように払いのけると葛城が叫んだ。腕を払いのけられた拍子に、女性が蹌踉めいて地面に転がる。
 冷酷なほどに冷たい視線で葛城がその姿を見下ろす。
「あんたがやりゃあいいんだよ、蓮華(れんげ)。わたしには、もう関係ない!」
 冷え切った声が葛城の口からもれる。オレたちをあからさまに罵倒することはあるが、こんな冷たい口調で喋ったことはない。
「桜華ちゃん……」
「帰って!」
 裏門のほうへ顎をしゃくり、葛城は冷たい視線を蓮華と呼んだ女性に向け続けた。容赦をしない口調は聞いているオレたちさえ慄然とする厳しさがにじんでいた。
 葛城の態度に屈したのか、女性はフラフラと立ち上がり肩を落とした。青ざめた顔は白さばかりが目立つ。
 哀しそうな瞳で自分を見つめる女性のことなど無視して背を向けると、葛城はオレたちの待つ体育館入り口へと歩き出した。
 葛城の肩越しに女性が彼女の背中を見送る姿が目に入る。
 茫然とこの様子を見ていたオレたちに、歩き始めた葛城はすぐに気づいたようだったが、無表情を保ったその顔からは葛城の胸中を推し量ることはできなかった。
「何やってるんだ? まだ休憩時間だなんて言わないよな?」
 いつもの厳しい口調に戻った葛城がオレたち部員を見まわした。まったく乱暴な口調だ。
 彼女のきつい視線を受けて、部員たちが慌ててコートへと戻っていった。
 遠くに見えた長髪の女性が諦めたのか、力無く歩み去っていく。
「お前がついてて、何やってるんだよ、赤間! もうすぐ地区予選が始まる時期にだらけていてどうする!?」
 厳しい叱責がポンポンと葛城の口から飛び出してくる。
「悪かったよ。新しいユニフォームにちょっと浮かれていただけだ」
 反論すればするだけ葛城の口調がきつくなることを今までの経験で学習していたオレは、素直に詫びて部員たちの待つコートへ向かおうとした。
「あぁ、赤間くん。ちょっと待ってください」
 柏葉監督の声がオレを呼び止めた。監督の口調は先ほどの葛城の様子を見ていたにも関わらず、淡々としていた。
「桜華くん」
「……? はい」
 監督に返事を返しながら、葛城が首を傾げた。監督には随分と素直な態度をとる奴だ。
「すみませんが、今日は赤間くんに家まで送ってもらってください。人と会う約束があるので」
「えぇ!?」
 驚いてオレは目を瞬しばたたかせた。
 葛城は柏葉監督の家に居候している。部活の帰りはいつも監督の車に乗って帰るのだ。
 同じ家に帰るのだから、車に同乗してもオレたちは不思議に思わなかった。だが高校生にもなって、家まで送れとはいったいどういうことなのだ。
「柏葉先生。送ってもらわなくても、わたしなら一人で帰れますよ。子供じゃあるまいし」
 監督の言葉に葛城が口を尖らせた。それはそうだ。これでは葛城を子供扱いしているようにしか見えない。
「先ほど結城先生から電話が入りました。今夜、到着するそうですよ。僕がこれから迎えに行く約束をしましたから、今日の帰りは君一人になってしまいますからね。夜道の女の子の一人歩きは危ないでしょう?」
 部活が終わるのは、夜と言っていい時間帯になっているが、監督の家の距離は女が一人で帰るのに遠すぎるということはない。
 だが、葛城は監督の言葉に目を輝かせた。
「薫さんが……!?」
 ついぞ見たことのない晴れやかな顔つきだ。普段からこういう顔をしてくれていればいいのに。
「ちょっと監督! オレだっていつも香奈と一緒に帰ってるんですよ。妹も一緒に連れてけって言うんですか!?」
「そんなこと言ってませんよ。香奈くんは今日は他の部員に送ってもらってください。君はキャプテンなんですから、コーチを送っていくくらいのことでガタガタ言わない!」
 ふ、不公平な気がする。
 監督の家とオレの家は正反対の方角だ。葛城が帰宅する同方角なら、佐倉井や三輪とかがいるじゃないか。
 オレたちのやりとりを遠巻きに聞いていた部員たちが困惑している様子が背中に感じられる。
「じゃあ、頼みましたよ」
 オレが反論を思いつく前に監督はサッサと歩いていってしまった。
「……別に送らなくてもいいよ。ガキじゃないんだから」
 監督の姿が見えなくなるとすぐに葛城がオレに言った。つっけんどんな口調だったが、オレに気兼ねしている様子が微かに伺えた。いっぱしに気を使ってやがる。
「いいよ、別に。送っていくくらいなら。香奈のことは木塚にでも頼むし」
 オレは部員のなかで一番信頼の置けそうな男に妹を頼むことを決めると、葛城にチラリと視線を向けた。
 普段とは明らかに違う困惑した表情を浮かべた葛城の顔が、このときばかりは女子高生らしく見えた。


 部活の終了後、オレは葛城の着替えが終わるのを校門で待っていた。
「ゴメン、待たせた。迷惑かける……」
 コーチをしている葛城はいつも体育館や部室の施錠を確認してから、帰るのを習慣にしていたので、部員の中で一番遅く更衣室を出てくる。
 今日も女子更衣室の戸締まりに始まって、部室、体育館の施錠を確認して鍵を用務員室に返してから、駆けつけてきたのだろう。他の部員たちはとっくに帰ってしまっていた。
 薄情にも、他の男子部員は誰もオレにつき合おうとか代わってやろうとは言ってくれなかった。妹の香奈だけが一緒に行ってもいいと言ってくれたが、あまり帰りが遅くなると母が心配する。やはり先に帰すことにしたので、葛城を送っていくのはオレ一人になってしまった。
「んじゃ、行くか」
 オレが先に立って歩き始めると、その後ろを葛城がトボトボとついてくる。部活のときの勢いはまるでなかった。これでは囚人を連行しているみたいじゃないか。
「なぁ。結城って誰?」
 重苦しい沈黙に耐えかねて、オレは葛城に呼びかけた。昼間の女性のことを聞くのは葛城の様子からはばかられる以上、オレの関心はもう一人の人物に向かった。
 部活のときに見た葛城の喜びようから見ても、結城なる人物は葛城にとっては大切な人なのだろう。
 自分のことをあまり語ろうとはしない葛城を喜ばせるような人物にちょっとした好奇心が湧いたこともあった。
「……わたしの主治医」
「へ?」
 意外な答えにオレは思わず足を止めた。
「主治医? お前ってどっか悪いのか!?」
「大したことない。……薫さんは治るって言ってくれてるし」
 そう言えば、初めのデモンストレーション以降、葛城はオレたちの前でプレイの見本を見せてくれることはなかった。コーチと言いつつも、やっていることは監督代理のように指示を出すことがほとんどだ。
 どこが悪いのだろう?
 そういえば、葛城ほどの実力があれば、女子バスケでかなりのレベルの学校に入れるはずだ。
 彼女が西ノ宮高校のバスケ部コーチでいる不自然さを感じていたオレたちの疑問がこういった形で見えてくるとは思いもしなかった。
 オレに追いついた葛城がチラリとオレに視線を向けたが、すぐに外すと先に立って歩き出した。
 慌てて彼女を追うと、オレは並んで歩き始めた。
 どこが悪い、とは葛城は敢えて口にしなかった。たぶん、言いたくないのだろう。自分のことを語るのが苦手なのかもしれない。
 それ以上の追及がしにくい雰囲気に、オレは黙り込んだ。先ほど以上の気詰まりな空気が肩に重くのしかかってくる。
 押しつぶされそうな沈黙を破ったのは、今度は葛城のほうだった。
「推薦のほう、どうなってる?」
 初めは何を言われたか判らなかったが、それがオレの進路を言っていることに思い至り、オレは葛城の横顔をマジマジと見た。
 今まで葛城は部員の進路のことなど口にしたことはなかった。
 どう答えたらいいものか。迷っているオレを葛城がどう取ったのかは知らないが、オレにチラリと視線を向けた後、自分の言葉を補足するように続けた。
「昭島大のバスケ部から特待生で、ってことで話がきてるんだろ?……話は上手く進んでるのか?」
「うん……。進んでるって言えばいいのかどうか。条件付きだけど、まぁ、なんとか」
「条件?」
 葛城が眉間にシワを寄せてオレを見た。
「あぁ、特待生の条件は……全国大会でベスト4に入るってことなんだ」
「ベスト4!? 随分と厳しいじゃないか。ようやく全国大会に行けるってレベルだった学校の部員にだす条件じゃないよ」
「今年は西ノ宮に期待してるってことだろ? 今のメンバーなら、狙えないこともないと思う」
 確かにきつい条件だが、例年以上に秀逸な人材が揃っているのも事実だ。
 葛城が口を歪めた。不機嫌そうに鼻を鳴らす。なぜだか、葛城は怒っている。オレの進路なのに、葛城が怒ってどうするんだ。
「今のままじゃ、絶対に無理だ」
 ボソリともれた葛城の声は酷く掠れていた。
「え? なんで? 今までの練習試合を見ても、地区予選は楽勝だろうし……」
「全国は、そんなに甘くない」
 険しい顔つきの葛城の横顔にはなんとなく焦りが見えた。
「コーチのお前がそんな悲観するなよ。オレにプレッシャーかけてもいいことないぞ」
 オレの言葉に葛城はいっそう気難しい顔をした。
 ふと、後ろから聞こえる音にオレは耳を澄ませた。
 静かな音だったが、車が近づいてくる音がする。数年前からブームになっているソーラーカーの走行音だ。
 あの車は近くにくるまで音が聞こえないから、気をつけていないと危ないのだ。
 うっかり路地から飛び出した子供が正面衝突なんてことが最近のテレビニュースなどで流れている。
 そのオレの視界一杯に光が溢れたのは、車との距離を確認しようとオレが振り返ったときだった。
「……うわっ!」
 オレはあまりの眩しさに顔を覆った。ヘッドライトの光だとすぐに理解できたが、不自然さがオレのなかに疑問を投げかけた。
 このソーラーカーはオレたちのすぐ後ろの距離に近づくまでヘッドライトをつけていなかったのだ。
 辺りは暗くなっていて、ヘッドライト無しで走行するには危険すぎるはずだ。ライトを消していたのは、故意にやっていたとしか思えない。
「な、何が……」
 目の前がチカチカして物がよく見えない。
 車のドアが開く音が複数回した。
 痛む目を懸命に開いてオレはヘッドライトのなかに立つ人物を見ようとした。だが、それは叶わなかった。
 人の呼吸音がすぐ目の前でするが、目は一向に視力を取り戻さない。
 なんの前触れもなく、鳩尾(みぞおち)に激痛が走った。息ができない。
「やめて……!」
 遠くに葛城の声が聞こえた。
「うるさいよ、桜華。ボクと一緒にくるんだよ。おい! そっちの奴も一緒に連れていけ」
 葛城と争っているらしい男の声が、オレの腹を殴りつけた奴に指示を出す。再びオレの身体に激痛が走る。今度は後ろの首筋だ。
 あまりの痛みに苦痛の声をあげることも出来ず、そのままオレの意識は闇に落ちた。

〔 9858文字 〕 編集

傭兵と道化【02】

No. 39 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,傭兵と道化 , by otowa NO IMAGE

「あんた莫迦(ばか)じゃないの!?」
「薫。昔の映画で“莫迦、と言う人が莫迦なんです”ってセリフを言っていた主人公がいたぜ?」
 容赦なく俺を罵倒する相手をかわして、俺は関係のない話題を持ち出した。こんなことで誤魔化せるとは思っていない。
 脱ぎ捨ててあったジーパンを拾い上げる。
「いいえ。あんた本当に莫迦だわ! どうかしてるわよ! なんであんたがそんな場所にいくのよ。解ってるの!?」
 ベッドの上に飛び起きると薫は俺の顔を見据えた。
「俺が行くのは内戦まっただ中の○○○○共和国だ」
「そんなこと訊いてない! ……日本へ帰りなさい。いいわね!?」
 イライラとした命令口調がいつもの調子で少し苦笑する。この話し方はずっと変わらない。
「なんで?」
 もっと怒らせたくなってわざと神経を逆なでしてみる。着替えのために動かしていた俺の手足がその一瞬だけ止まる。
「なんで、ですって!? あんたね! ご両親になんて言い訳する気よ。あなたがたの息子は戦争に行って、人を殺してきましたって言うつもりなの!? それに、私は医者よ! 戦争しに行くって聞いて、はいそうですかって言えると思うの!?」
 案の定、薫は顔を上気させて詰め寄ってきた。着たばかりのシャツの胸元を捕まれる。
「言わなきゃバレないって。俺はフリーのカメラマンだぜ? 報道写真を撮りに行くって言って出てきたさ」
 憤りに気を取られていて油断している彼女の唇を奪うと、俺はニヤリと笑った。
「……じゃあ、な」
 毒気を抜かれてぼぅっとしている薫が我に返る前に、俺は玄関へと歩き出す。
 ふと病院で会った女のことを思い出した。
 伊部(いんべ)の死を手紙で知らせてくれたのは彼女だった。
 手紙には伊部が俺に会えたことを殊の外喜んでいたこと、俺と会ったあと十日もしたころ容態が急変したこと、桜が見たいと言って医師が止めるのも聞かずに院内の庭に出て、そこで吐血して息絶えたことが書かれていた。
 手紙の書面の所々に涙がにじんでいた。もしかしたら彼女は伊部のことが好きだったのかもしれない。
 伊部のほうはどうだったのだろう。
 人を信用できないと奴は言っていた。最期まで、誰にも心を許さなかったのだろうか?
 ピエロのように顔には満面の笑みを湛え、相手には心の中まで覗かせないまま?
「こ、この……わからず屋! あんぽんたん! 莫迦野郎ぅ!」
 背後から叫び声が聞こえてきた。
 俺が玄関のドアを開ける音に、やっと我に返ったらしい。その声が涙声に聞こえたのは俺の中にまだ感傷が残っているからなのか。
 俺はその声を無視して玄関のドアを閉めた。
 友達以上、恋人未満。
 今のこのアンバランスな関係になる前から俺と薫とのつきあいは続いている。
 伊部が俺の前から姿を消してからすぐに彼女と出会った。俺一人が勝手に運命の出会いだったと思っている。
 薫は俺が死んだら泣くだろう。だがその涙は友人としてか? それとも恋人としてか? ……たぶん彼女はそのときでさえ、どちらをも選べないだろう。
 マンションから出て俺はタクシーを拾った。客を選ばず誰でも乗せるイエローキャブだ。
「”空港へやってくれ”」
 俺が日本人だと解るとドライバーはチップをはずんで貰おうと、ニッカリと愛想笑いを浮かべた。
 相手の笑みに同調する気になれず、俺は窓を薄く開け、シートに寄りかかると外の流れていく景色に視線を泳がせた。


 卒業式は無事に終わった。俺たち六年生は教室で担任から最後の話を聞いて解散ということになっていた。
 女子のなかには泣いている子もいたけど、ほとんどの奴はこのあとの春休みに気をとられていて、先生の話もろくに聞いていなかった。
 退屈なだけの先生の話を我慢して聞いたあと、俺たち卒業生は思い思いに校舎の外へと飛び出していった。
 余計な私物の持ち込みを禁止されていたけど、今日だけはみんなカメラを持ってきている。友達同士で撮りあうのだ。
「えぇ~、どうしてぇ。一緒に撮ってよぉ~」
「なんで? 伊部君、写真嫌いなの?」
 女子にまとわりつかれていた伊部のいる方角から声が聞こえてきた。二人で写真を撮りあっていた俺と誠二は、その声のほうへ振り向いた。
 伊部は校門近くの桜の木の下で、困ったような顔をしていた。
「写真は嫌いじゃないって。でも、時間がないんだ。もう準備しに帰らなくっちゃ!」
 校門へと歩きだそうとする伊部を押し止めようとするように女子がそのまわりにまとわりついていた。どうやら伊部は土日のサーカスの開演のための準備があるらしい。
 俺は恨めしそうに伊部を見上げる女子たちの外側から伊部に声をかけた。
「伊部。明日の準備間に合わないのか?」
 伊部が俺の声に救われたようにこちらを見た。
「あ……うん。団員の人数はたいして多くないから、僕も手伝わなきゃいけないし。今日は早めに帰れるって言ってきたから、遅れると他の人に迷惑かかる」
 カメラを持ったままそれでも伊部のまわりを離れようとしない女子たちにほとほと困っているようだ。
 俺は辺りを見まわした。
 折良く母さんが俺のほうへ近づいてくる姿が目に入った。
「お母さん!」
 俺の声に何か感じたのか、母さんは早足で近寄ってきた。
「どしたの、和紀? 何かあった?」
 俺は手短に伊部のことを説明すると広場まで車で乗せていってもらうよう頼み込んだ。
 俺の家は学校から遠かったから、今日は近くの有料駐車場まで車で来ている。
 母さんはチラリと伊部のほうへ視線を走らせると、軽くうなずいた。OKのサインだ。
「伊部! 俺ンところの車で送ってやる。約束の時間まであと何分だ?」
「え? そんな悪いよ。僕、走っていくから」
「だから、あと何分だよ!」
 俺のイライラした声に伊部は渋々返事を返した。
「あと……十五分、くらい」
 伊部の言葉に女子たちの間から驚きの声があがった。
「えぇ~! 全然間に合わないじゃん」
「広場まで車で十分以上かかるんだよぉ~」
「走っていっても間に合わないよ~」
 伊部の言葉に母さんは校門へ向かって小走りに走り出していた。車を取りに行ったんだ。
 俺は伊部のまわりを取り囲んでいる女子をかき分けると、伊部の腕を掴んで校門へと引っぱっていった。
「急げよ! 車なら間に合うだろ。約束、守るんだろ?」
 いつもは俺より早く走る伊部がノロノロと俺の後ろを走っている。その後ろを誠二と女子がついてきていた。
「でも綿摘君。記念写真撮ってたんだろ? いいよ、僕走ってくよ」
「だから! 走っても間に合わないって言ってるだろ」
 ごねている伊部を引きずるように校門の外へ引っぱりだすと、母さんの運転する車が門の前に横づけた。
「ワリィ、誠二。あとで取りに寄るから俺の荷物、お前ん家に置いといてくれ」
 誠二の返事も待たずに俺は伊部を車に押し込むと、乱暴にドアを閉めた。
「ちょっと~、もう少し静かに閉めてよ。この車ポンコツなのよ」
「解ったってば。早く出してよ」
 母さんはブツブツと文句を言いながらも、車を走らせ始めた。俺の記憶が辿れるくらい前から乗っている軽自動車は、エンジンをウンウン唸らせ、ステレオからはPOP音楽を流し、軽快に町の中心部に向けて疾走した。


「君はいつも自分に正直な男だったね」
 突然の言葉に俺は戸惑いを隠せなかった。
「僕には出来ない芸当だったよ。人を信用しようとしなかった僕には、君のその正直さは羨ましい……いや、妬ましい強さだった」
「そんなこと、ない」
 俺は精一杯の抵抗をしてみせた。
「そうかな? 今でもそれは変わらないみたいだけど?」
 女子の人気を一身に集めていたのは伊部じゃないか。卒業までのたった三週間のあいだ、お前はクラスの関心を一身に集めていたんだ。男も女も誰もが伊部の行動に注目した。そういうカリスマが伊部にはあった。
「僕はピエロだった。サーカス団での仕事だけじゃなくて、実生活でもピエロを演じ続けていたんだ」
 俺の目の前にいる今の伊部には……昔感じたカリスマはなかった。
「ゴメン、独りでベラベラしゃべって。気を悪くしたんなら、謝るよ。少し浮かれていた」
「いや、気にしてない」
 俺はそれ以上どう言えばいいのか思いつかなかった。
 彼がどうして俺なんかに会いたがったのか解らない。もしかしたら昔の知り合いなら誰でも良かったのかもしれない。
 短い沈黙のあと、伊部は俺に人当たりの良さそうな笑顔を向けた。


 広場までは車ならあっという間の距離だ。
 伊部はサーカスのとんがり頭のテントが見えてくると、安堵のため息をはいた。やっぱり自分で言っている以上に時間を気にしていたんだ。
「ありがと、綿摘君。でも、君けっこうお節介だったんだ」
「なんだよ。人が困っているのを助けるのはお節介かよ」
 伊部は話をする余裕が到着寸前になって出てきたらしい。緊張していた顔から力が抜けた。
 広場の駐車場に車が滑り込むと、伊部は窓から顔を出して警備員に一言二言話しかけていた。
「すみません、このままテントの裏へつけてください」
 窓から頭を引っ込めて、テントの右手を指さす。母さんは再びアクセルを踏み込むと、伊部の誘導でテントの陰へと車を移動させた。
「ありがとうございました。すみません。ここで待っててもらえますか? いま団長を呼んできます」
 車が止まると、伊部はシートから飛び降りて俺や母さんの返事も待たずに、テントの中へと駆け込んで行った。
「あ~ぁ、行っちゃった」
 母さんがハンドルにもたれかかったまま、ため息をはいた。
「俺、ちょっと見てくるよ」
 大人の団員は忙しくて、伊部を送ってきた俺たちに挨拶するどころじゃないかもしれない。
 車から降りてテントの入り口へと歩きかかると、伊部が飛び出してきた。
「綿摘君!」
 伊部は息を切らしている。
幸三(ゆきみ)、待ちなさい」
 ジーパンにカッターシャツ、頭髪を覆う赤と黄のバンダナ。一見すると若いいでたちだけど、伊部を追ってきた大人の人はけっこうな年齢のおじさんだった。
「団長! こっち」
 このおじさんが団長さんらしい。
「綿摘君とお母さんに送ってもらったんだ。ホラ、あの人!」
 俺が車のほうを振り返ってみると、母さんは車から降りていた。
 おじさんは車のほうへ歩み寄り、その大きな体を深々と前へ折った。
「うちの幸三が大変お世話になりました」
「いいえぇ~。和紀のお友達ですもの。当然です」
 母さんは家では出さないよそ行きの声と笑顔で、団長さんと挨拶を始めた。長くならなきゃいいけど。
「おい、伊部!」
 俺は隣で立っている伊部の脇腹を小突いた。
「なぁに?」
「あの人、お前のお父さん?」
 団長は伊部とはあまり似ていないけど、今”うちの幸三”って言った。”うちの団員”って言わなかったから、もしかしたらと思った。
「え~? う~ん。お父さん、ねぇ。お父さんだけど、お父さんじゃないなぁ」
「はぁ?」
 どういう意味か聞き返そうとしたところに、おじさんの声が聞こえてきた。
「幸三。こっちへおいで。お前もお礼を言いなさい」
 それ以上のことを聞くこともできず、俺は伊部のあとを着いていき、母さんの隣に並んだ。
「ありがとうございました。助かりました」
 良い子の顔をして、伊部が母さんに頭を下げた。元々、素直そうで、屈託のない性格の伊部は学校の先生からも受けがいい。
 その良い子の顔が俺にはむかつく。今どき、六年生にもなってそんな素直な奴はいない。
 良い子を望む大人には解らない。子供特有の敏感さで俺は伊部の良い子は作り物だと感づいていた。
 初めは、その化けの皮を剥いでやろうかとも思ったけど、伊部には伊部なりの事情があるのかもしれないし、卒業間際の時期にそんなことでクラスのなかを掻き回すのも厭だったので、放っておいたのだ。
 素直な子供は大人にとっては扱いやすい。母さんも無害そうな伊部を良い子だと思っているだろう。
 伊部は、そんなふうに大人に思われなければならない生活をしているのだろうか?
 俺は、ふとサーカスのテントを見上げた。
 色鮮やかな旗を風になびかせているテントの屋根は、伊部を覆い尽くす見えない力でもあるのだろうか。人の良さそうな顔の下にある本当の伊部の顔はどんな顔なのだろう?
「君もサーカスを見に来るかい?」
 テントを見上げている俺に団長が声をかけた。
「あ……はい。明後日、見に来ます」
「そうか。楽しみに待っていてくれよ。……じゃ、行くか、幸三」
 団長は伊部の頭の上に手を軽く乗せると、二人して俺たちにお辞儀した。
 それを合図に俺は車のドアをくぐった。母さんがセルをまわして、車のエンジンをかける。
「それじゃ、失礼します~」
 母さんは最後に一言、挨拶するとアクセルを踏み込んで車の速度を上げた。
 俺たちの車を見送る団長と伊部の姿は見る見るうちに小さくなっていき、広場の駐車場から出るとまったく見えなくなった。
 遠ざかっていくサーカスのテントはコンクリートの町並みのなかでは、そこだけ時間に取り残されたような違和感があった。


「今日はありがとう。会えて嬉しかったよ」
 やつれた顔に昔のような爽やかな笑顔を浮かべると、伊部は骨張った右手を俺に向けて差し出した。
 遠慮がちにその手を握る。俺の右手には病人特有の熱っぽい湿った感触が残った。
 俺は逃げるように病室を後にした。
 病室の外は、入る前と変わらない静けさが広がっていた。先ほどの女性の姿もどこにも見あたらない。
 俺は伊部を忘れていた。ようやく思い出した後でさえ、自分の時間をたった三週間だけの、たいして親しくもない級友のために割くことに腹立たしさを感じていたのだ。
 その後ろめたさから逃れるように俺は振り返ることもせずに病院の門を出た。
 しばらくの間、桜を見る度に伊部のやつれた顔を思い出して、俺は気分が滅入った。……俺があいつの死を知らされたのは、桜の季節が終わろうとしていた頃だった。
 あいつと初めて会った年から十二年が経っていた。


 ゾウの上に乗って登場した伊部に、女子が歓声をあげた。
 伊部はピエロの格好をしていた。
 顔にはピエロのメイクなど、なにも塗っていなかったけど、ブルーとピンクのストライプの衣装はまわりで踊っている大人のピエロたちと色違いなだけで同じ形だ。
 日曜日、俺は誠二と兄貴と一緒にサーカスを見に広場までやってきていた。
「きゃ~! 伊部くぅ~ん」
 伊部は気づいていないのか、それとも無視しているのか、ゾウの上で観客に手を振り続けている。
 下で踊っているピエロがゾウ使いの女性とステップを踏みながらゾウを誘導して会場を一周させると、BGMの曲調が緊迫感のあるものに変わった。
 ステージの中央に大きな玉が置いてある。
 ゾウはその玉のまわりをグルグルと回り始めた。
 ゾウの背中には伊部が乗ったままだ。
 ゾウ使いの鞭が地面を打つと、ゾウはゆっくりと玉に前足をかけた。
 さらに鞭の音が続くと、器用に後ろ足も玉に乗せ、ヨチヨチと玉乗りをする。ゾウの巨体は微妙なバランスを保ってステージ上を右へ左へと移動する。
 ゾウの背中から口笛が響き、伊部が辺りの観客へ拍手を求めて戯けてみせると、歓声と拍手の嵐が起こった。
 他にもスリリングな空中ブランコやアクロバットバイクの出し物が披露される。
 その間を縫って、伊部たちピエロは観客を笑わせに会場のあちこちへと出没した。俺たちの側にも伊部はやってきて、わざと転んだり、バク転をしたりして観客の歓声を浴びていた。
 ピエロを演じているときの伊部も普段と変わらない屈託のない笑顔を浮かべていた。それがいっそう普段の伊部を解らなくした。
 地のままでピエロを演じていると言えば、それまでだが、俺には学校での伊部もピエロの伊部も、どちらも嘘をついているように見える。
 俺は拍手を送りながら、伊部が一瞬でも本当の自分を見せないものかと目を凝らして、伊部を見続けた。


 ショーがすべて終わると、観客は潮が引くようにテントからいなくなった。
 女子のなかには伊部に会えないものかとテントの裏側へ回ろうとする奴もいたけど、関係者以外は立入禁止の立て札の前には警備員が頑張っていて、とても近づけそうもなかった。
 俺は兄貴と誠二の二人と広場を囲むようにして並んでいる屋台を冷やかしながら見て歩いていた。
「あ~、いかん。ヤニがきれた」
 兄貴が自分のポケットから取り出したタバコを覗いて、残念そうにつぶやいた。
「兄貴~。お母さんに見つかったら、大目玉だぜぇ? タバコなんか止めちゃいなよ~」
 大学へ進んでから、兄貴はタバコを覚えていた。まだ二十歳前なのに。
「正紀さん。タバコって旨いの~? 臭いだけだと思うけど~?」
 俺の言葉より誠二の言葉のほうが効いたらしい。兄貴はちょっと傷ついた顔をすると、俺たち二人を見下ろした。
「臭い? 俺、臭うか?」
「臭い! って言いたいけど、兄貴はコロンつけてるからあんまり臭わない。でもタバコ吸ってすぐには彼女とデートしないほうがいいと思うね。吸ったあとは臭いから」
 最近になって兄貴には彼女ができたらしい。母さんや父さんには内緒で夜遅くまで、携帯電話で話している声が隣の部屋から聞こえてくるから、俺にはバレてる。
 彼女ができるとそれなりに気を使うらしく、兄貴は今までつけたこともなかったユニセックスコロンを彼女とお揃いでつけている。これは俺の推論だけど。
「やっぱ、ガキには大人の味はわからんか」
「なんだよ、兄貴だってまだ二十歳前じゃんか!」
 プリプリ怒っている俺の頭を軽く小突くと、兄貴はタバコ買ってくると言い残してコンビニへと歩いていった。
「タバコって大人の味かぁ?」
 隣では誠二が首を傾げて兄貴の後ろ姿を見送っていた。
「んなワケねぇだろ! あれは屁理屈って言うんだよ、へ、り、く、つ!」
「そ~だよなぁ~。臭いもんは臭い。……あ、俺トイレ行ってくるわ。ここで待っててくれよ」
 誠二は俺の返答も聞かずに広場の公衆トイレへと走っていってしまった。
 俺は移動するわけにもいかず、近くの植え込みの縁に腰掛けた。
「あ~、綿摘君だぁ~!」
 俺を呼ぶ声に振り向くと植え込みの向こう側から、伊部が手を振っていた。まわりに取り巻きの女子はいない。
「なんだ、伊部じゃねぇか。テントの後片づけとか手伝わないのか?」
「うん。昨日から連日公演になったろ? だから、明日の準備イコール今日の片付けだから、終わるの早いんだぁ~。それに公演の最中にも片付けはしてたんだよ、みんなと手分けして」
 伊部は植え込みを乗り越えて俺の隣に座った。
「お前、こんなとこ女子に見つかったら身動き取れなくなるぞ」
 俺の忠告は伊部にはどこ吹く風なのか、笑って聞き流されてしまった。
 春祭りの会場は広場だけではないから、俺たちの座っている植え込みの一角などは人は少ないのだが、それでもまったく人が通らないわけではない。
 学校でも女子にあれだけ取り囲まれているんだから、校外で会ったら大変なことになりそうなもんだけど。
「みんな楽しそうだねぇ」
 道行く人をぼんやりと眺めていた伊部がぽつりと呟いた。
「え? あぁ、そうだな。春祭りは一ヶ月近く続くから、花見も兼ねて人出が多いからなぁ~」
「花見か~。僕は見飽きちゃったよ。毎年桜の開花を追いかけながらの公演なんだもん」
 伊部はつまらなそうに足元の小石を蹴飛ばした。近くの下水のマンホールの蓋の上を小石は転がっていった。
「人はピエロのようだね」
「え? ピエロのよう?」
 俺は伊部が言って意味が解らずにオウム返しに聞いた。
「うん。僕たちピエロはさ。どんな悲しいことや辛いことを抱えていても、公演のときは笑うんだ。お客さんたちを笑わせるために自分が笑って見せるんだ。人も同じだよ。春がきた、花見をしようって笑っている陰で、実は仕事に疲れていたり、家族や大事な人と喧嘩していたりする。滑稽だよ」
 伊部はいつものように笑ってはいなかった。まるで別人の顔をしている。
 あぁ、これが伊部の本当の顔か。退屈そうに行き交う人たちを見る冷めた目。
 伊部は自分を取り巻く人々をこんな目線で見ていたんだ。
 大人たちの理想の良い子を演じて見せる裏では、伊部はその大人たちさえも冷たい視線で捕らえていたんだ。
 決して良い子ではない。大人に反抗してやろうと、精一杯突っ張っている俺たちと同じ目をして伊部はそこに座っていた。
 俺はようやく伊部幸三という人間がはっきり見えた気がしてホッとした。
「お待たせ。……アレ? 伊部じゃん。お前、まずいぜ。すぐ近くを女子が彷徨いてるぞ。見つかったら大騒ぎだぜ?」
 誠二が伊部を見つけると今来た道を振り返った。
「女子に鉢合わせたのか?」
 俺が伊部に代わって聞いてみる。
「いるいる。まだトイレの辺りにいるよ」
 少し背伸びをするように後ろを見ていた誠二が返事をする。随分と近くにいるじゃないか。
「あ~ぁ、散歩も終わりか。じゃ、僕行くよ」
 伊部は砂を払って立ち上がるとトイレの方角にチラリと視線を走らせたあと、俺たちに悪戯っぽい笑みを見せた。
 俺はふと気になって、走りだそうとする伊部に声をかけた。
「伊部。ここの祭りが終わったら、また桜を追いかけていくのか?」
 伊部が何を当然のことを、いう顔つきで俺を見た。
「そうだよ。桜サーカスは春を追いかけていくサーカスだからね」
「じゃあ、春以外は? ……その他の季節はサーカスはやらないのか?」
「やってるよ。色んなテーマパークや祭りの出し物なんかで呼ばれてる。それがどうかした?」
 何を聞いているのかといった風情で伊部が首を傾げた。
「お前、ずっとピエロやってるんだろ?」
 頷く伊部の顔は相変わらず怪訝そうな表情を刻んだままだ。
「ピエロやる奴って頭がいい奴が多いって聞いたことある。お前、頭で考えすぎだよ。やりたいこと、やりたいようにやれよ!」
 俺の言葉を伊部がどう受け取ったのかは知らない。
 ただ俺の言葉に応えるように微笑んだ伊部の顔がなんだか泣きそうな顔に見えたのは俺だけだったのだろうか?
「そう、かもね……」
 小さく答えた伊部の声をかき消すように女子の歓声が背中から聞こえた。
 とうとう見つかってしまった。
 その歓声に弾かれたように伊部が駆け出した。
「ありがと! さよなら、綿摘君、木羽君」
 俺には去り際の伊部の声が少し震えて聞こえた。


 五月の薫風が車内に流れ込んでくる。
 二十分も車を走らせた頃、空港がその巨大な姿を前方に現した。
 俺を死地へと運ぶ、白亜のゲート。
「泣くなよ。俺は帰ってくるから、さ」
 もう彼女には聞こえない。だから、これは俺自身への約束。
 生きて帰るための呪文。愛しい、求めて止まない女の元へ帰ってくるための……陳腐な言い訳。
 タクシーを降り、空港の建物の扉をくぐる。
 巨大な待合室の椅子の一つから背の高い黒人が立ち上がり、こちらに手を挙げるのが見えた。俺も合図を返す。
「Mr.ワタツミ?」
 俺はたどたどしい日本語で話しかけてくる相手に右手を差し出した。
「“カズキでいい。あんたがマードックか?”」
「“OK、カズキ。俺がマードックだ。マードック・ラジュノバ。あんたとあっちでコンビを組むことになっている”」
 その俺の右手を握り返しながら、マードックはニヤリと笑いかけてきた。
「“コロンの残り香がする。シュシュのミスティナイト。いい趣味の女だな。今生の別れは済ませたのか?”」
 マードックの言葉に俺は口の端をつり上げて笑みを返した。傭兵として雇われる奴に、綺麗なしゃべりを期待するほうが愚かだ。
「“別れ? 抱きたくなりゃ、帰ってくるさ!”」
 薫との関係を説明する気にもなれない。
 俺の言葉にマードックは猛禽を思わせる顔に満足げな笑みを浮かべた。どうやら俺は気に入られたらしい。
 俺はにわか仕立ての相棒の反応を確認すると、顎をしゃくって彼をゲートへと促した。
 窓の外には日本の地方都市との姉妹都市提携のときに贈られたという桜の木が植えられている。とうに花は散り、薄い緑が枝を覆っていた。
 俺はその桜の木に伊部の死に顔を見たような気がした。
 ほんの一瞬咲き狂い、風任せに散り乱される薄紅色の花びらのような奴の人生。
(伊部。お前は俺に自分と同じ死の匂いを感じたのか? ……だとしたら、残念だな。俺は死なない。俺はお前とは違う)
 桜のように咲き狂い、何かに飢えたように逝き急ぐ。
 俺たちの生き方はどこか似ているのかもしれない。だが、違うのだ、伊部。
 俺たちは同じじゃない。
 お前は道化師。人に笑いと幸福を与える者。
 俺は傭兵。金で雇われ、人に死と恐怖を与える者。
 俺がお前でないように、お前は俺ではあり得ない。
 お前は天国からでも俺の生き方を笑って見ているといい。殺戮でしか己の存在を示せない、俺の愚かな生き方を。
 それでも俺は後悔だけはしないだろう。

 そして、これからもきっと、桜を見るとお前とのやり取りを思い出す――。

“人はピエロのようだね”

傭兵と道化。

交わるはずもない俺とお前の生き方。

あいつは満開の桜の下で逝ったという。

では、俺の死は……?

いずれやってくる俺の死に様はいったいどんなものだろう?

望めるのなら、俺は愛しい女の腕のなかで……死にたい。

終わり

〔 10519文字 〕 編集

傭兵と道化【01】

No. 38 〔25年以上前〕 , Venus at the dawn,傭兵と道化 , by otowa NO IMAGE

桜の咲く頃になると思い出す。
“人はピエロのようだね”
あいつは満開の桜の下で逝ったという。


 女の荒い息が聞こえる。首筋に汗が光っているのが目に入った。
和紀(かずき)……。どうしたの? こっちに来てから変よ……」
 女の問いかけを無視して俺はその艶っぽい声を出す口を自分の唇で封じた。
 鼻腔の奥に香水の甘い香りが広がる。シュシュのミスティナイト。他の男から贈られたものだ。昔馴染みの、俺もよく知っている奴。
 背中にまわされた腕に微かな力が込められるのが解った。指先が震えている。
 離した唇からもれる押し殺した喘ぎに、俺は少しいらつく。
「声を出せよ、薫」
 何度言ったか覚えてもいない言葉。素直に従おうとはしない女。
 無益な抵抗を試みるように顔を背ける女を虐めたくなり、俺は女の両膝を肩に担ぎ上げた。
「いや! やめ……て……、あぁっ!」
 女が身体を硬直させるのが解ったが、俺は彼女の懇願を聞き流した。
「ひぃっ……」
 自分の手で口を覆う女の腕を無理矢理に引き剥がす。悲鳴に近い喘ぎ声をもらす女の耳元に俺は口を寄せた。
 女の耳には俺が贈ったエメラルドのピアスが光っている。
「いい子だ……。そのまま、声を出せ」
 女を蹂躙しながら、俺は数ヶ月前に会った男のことを思い出していた。
 あいつと初めて会ったのは、まだガキの頃だった。


 教室内が騒がしい。例の季節はずれの転校生のせいだ。卒業を間近に控えた三月初旬に転校なんてしてくるなよ。
 一目でクラスの女子のアイドルになった人物はその女子たちに囲まれて得意げである。
「今日からこの六年B組で一緒に勉強する”インベユキミ”君です。彼は町内のふれあい広場にきているサーカスの団員です。このクラスで一緒に勉強できるのはあと三週間ほどしかないけど、皆さん仲良くしてくださいね」
 担任のデブ川ぶた実こと出来川秀実(できがわひでみ)が頬の肉を震わせながら紹介すると転校生はチョークで自分の名前を黒板に書き始めた。
「伊部幸三、と書きます。”コウゾウ”でなくて、”ユキミ”と読むから間違えないでね」
 爽やか、という形容詞が似合いそうな美少年アイドル系の顔だ。絶対女子にモテそうな顔だな。
 案の定、女子たちは拍手喝采している。俺は後ろにいる木羽誠二とこっそり顔を見合わせて、お互いに渋い顔をして見せた。
 一時間目の終了直後から奴の机のまわりは群がる女子たちで溢れかえっている。
 とばっちりは俺と誠二に降りかかっていた。
「おい! 邪魔だよ。そこは俺の席だぞ!」
 伊部幸三は俺の前の席になっていた。
 俺の席は窓際の最後部から二番目。このクラスは一列ごとに男女が入れ替わる配置になっているから、俺の右隣の列は全員女子だ。
 伊部の席の前はすべて男子なのだが、配置上俺と誠二の席は教室の隅に追いやられる形になり、伊部の席に女子が群れる休憩時間に自分の席にいるのは不可能に近い。
「なによぉ~」
「やぁねぇ~。ちょっとくらい良いじゃない」
「だから男の子って乱暴で嫌いよ。あっ、伊部くんは別だからね!」
 きゃいきゃいという擬音が聞こえてきそうな喧噪のなかでも、伊部の奴はニコニコと笑みを絶やさず、そういった所がまたアイドル系の仕草に似てむかついた。
「ダメだよ、美枝ちゃん。そんな言い方したら。ご免ね、彼女たちも悪気があって言ってるワケじゃないから。綿摘(わたつみ)君、木羽(きば)君」
 しゃべり方まで美少年アイドル気取りかい! むかつく。
「ゴメンって言うくらいなら、お前が休み時間は移動しろ!」
 むかつきついでに、後先考えずに伊部に当たり散らす。
「さいて~!」
「やぁだぁ~、綿摘君って乱暴ぅ~」
「うるさいな! さっさと退けよ!」
 ブーイングを受けながら俺は女子を押しのけて強引に自分の席についた。折良く二時間目のチャイムが鳴ったからだ。
「こぉら~! 席につけよぉ~」
 二時間目は理科だ。教科担任の貝原綱雄(かいばらつなお)がチャイムが鳴り終わる時間を計ったように教室に入ってくると、窓際にたむろしていた女子たちが慌てて散っていった。
「お~し! 全員いるな。さっそくだが今日の理科の授業は……外だ!」
 本人は格好良く指さしたつもりらしいけど、全然様になっていない姿で校庭を指さす貝原先生は自分が嗤い者になっているとは、夢にも思っていないようだ。
「さぁ~! みんな先生についてこい!」
 熱血先生を演じているらしい貝原先生の後ろにゾロゾロと従いながら、6-Bの児童は校庭の桜の下までやってきた。
 退屈な先生の質問に俺たちが答える形式で授業は進んでいった。
「綿摘君、綿摘君」
 後ろからの囁き声に俺はそっと振り返った。
 無邪気そうな笑顔をした伊部と目が合った。さっきまで女子に囲まれて立っていたはずなのに、伊部はいつの間にか俺の背後に立っていた。
 しかもなんて人の良さそうな顔をしているんだ。やっぱりこいつむかつく。
「ねぇ、この後は業間休みなんだよね? だったら、学校の中を案内してくれない? 僕、校内のこと全然知らないんだ」
 屈託なく話しをする転校生に俺は露骨に厭そうな顔をして見せた。
「女子の誰かに頼めよ。俺は厭だね!」
「えぇ~。だって女の子に頼んだら、喧嘩になっちゃうじゃん。頼むよ。前の席のよしみってことでさ」
 ヌケヌケとよく言うよ。喧嘩になるだぁ? そうだろうさ、お前のせいで喧嘩になるだろうよ。平穏無事だった6-Bにお前は波風を立てに来たようなものだからな。
「じゃ、頼むね~」
 勝手に決めて伊部の奴は元いた位置へ戻って行った。
「ちょっと待てよ。誰もOKしてないだろ!」
「わ~た~つ~み~。先生の授業はそぉんなにつまらないかぁ~?」
 こめかみに青筋を立てた貝原先生が俺の前に立っていた。俺だけのせいじゃないだろうに、手痛いゲンコツを喰らったのは俺一人だった。
「自分だけ都合良く逃げやがて」
 俺の不平を聞き流しながら、伊部は学校中を彷徨って俺を引きずり回した。
「ねぇ、ここは?」
 なんの目的もなしに歩き回っているとしか思えない伊部の後を歩きながら、俺は彼の指さす方向を見た。
 4階。最上階の一番端にある使用していない教室だ。
「使ってねぇよ、ここは。子供の数が減ったから空いてるんだ」
 伊部につき合わされて俺は渋々ついてきていたが、それでも案内をサボったわけではなかった。
 六年間も通った学校だ。俺が知らない所なんかない。職員室ではどの先生がどの机を使っているかも、校長室にはどんなトロフィーが置かれていて、体育用具室には何が詰まっているかも、職員トイレの故障している場所だって知っている。
「もうだいたいは見ただろ? 業間休みだけで学校中を見回れるわけないんだから、教室に帰るぞ」
 休み時間は残り五分を切っている。
 次の授業は国語。担任のデブ川の授業だ。遅れたら、あの暑苦しい顔で迫られるんだ。冗談じゃないぞ。
「わかった。じゃ、昼休みも頼むね」
 またしても勝手に俺の予定を決めると、伊部は俺を軽々と追い越して6-Bの教室へと滑り込んでいった。


 芽吹いたばかりの桜のつぼみが窓の下に見える。
 無機質な白いドアの脇に病室ナンバーだけが貼られていた。ナースセンターで確認した番号に間違いない。最近は病人のプライバシーとかで、当人の名前を出している病棟はないから当然だろう。
 病室のドアを開けると、中から出ようとしていた女性とぶつかりそうになり驚く。相手も俺に驚いた様子だ。
「あの……?」
 戸惑う女の後ろ、衝立の奥から声が届いた。
「だれ?」
 若い男の声だ。
綿摘和紀(わたつみかずき)だ。伊部(いんべ)か?」
 女性の顔がパッと輝くのが解った。俺に頭を下げると衝立の向こうへと俺の体を押しやる。
「やあ! 綿摘君。本当に来てくれたんだ」
 伊部はよろよろと起き上がった。
 白いベッドに身を起こした姿のあまりの弱々しさに俺は目を背けた。
「伊部。お前はあのサーカス団で働いているものだと思っていた」
「そうだね。ずっとピエロのままでいられたら良かった。でも桜前線と一緒に旅したサーカスはもうないんだ」
 返答に窮して俺は黙ったままだった。


 結果から言えば、俺は昼休みは伊部から解放された。
 業間休みに放っておかれた女子たちが、我先にと奴を案内しに出てきたからだ。最初から女子に任せておけば良かったんだ。
 その後も伊部は女子にまとわりつかれていたが、気にする様子も見せず、全授業が終わると広場の仮設してある自宅へと飛ぶように帰っていった。
 俺は下校するときに校門のところで奴に追い抜かれた。
「バイバーイ! 綿摘君、また明日ねぇ~」
 後ろを振り返って俺に手を振る伊部の顔は本当に屈託がなく、無邪気に見えた。
「おぉ~い。かずきぃ~!」
 校門を出てすぐに誠二の声が追いかけてきた。
 俺は立ち止まって、誠二(せいじ)が追いつくのを待つ。背負ったランドセルをガタガタいわせて、誠二は俺に追いつくと、「悪い悪い」と俺に向かって両手を合わせた。
「おせぇよ。職員室に当番日誌届けるだけなのに、何分かかってんだよ」
 誠二は俺の不平にもう一度謝ってから、ポケットから数枚の紙切れを出した。なんだかカラフルな紙だ。
「これだよ、これ! このチケット貰ってたら遅くなっちまって」
 ポケットの中で少しシワのよった紙にはこう書かれていた。
 『春祭り 桜サーカス入場券』
「桜サーカス? もしかして、ふれあい広場のサーカスのか?」
「うん。伊部幸三(いんべゆきみ)が置いてったのさ。再来週の日曜日の招待分らしいよ。見に行かねぇ? タダだし」
 こいつ。無料につられたな。
 俺は家が少し遠いこともあり、早足で歩きながら誠二の顔を見た。
「お前、ゲームソフトばっか買ってるから金がねぇんだぞ」
 こいつは暇さえあれば、ややこしいゲームをやっている。俺なんか分厚い攻略本を見なけりゃクリアできそうもないようなヤツだ。
「それとこれとは関係ないだろ~。お前行きたくないわけ?」
「行かねぇなんて言ってないだろ」
 俺は誠二の手からチケットをむしり取るともう一度その紙面を眺めた。
「兄貴も誘うかな……」
 去年から下宿しながら大学に通っている七つ違いの兄を思い出して、つぶやいた俺の一言に誠二が噴きだした。
「出たな、ブラコン」
「なんだよ、兄貴誘っちゃ悪いかよ!」
 低学年のころはお前だって俺の兄貴に懐いてただろうが。
「やだねぇ~、兄貴兄貴って。もうすぐ中学生だぜ? いつまで兄貴にくっついてるのさ、和紀ちゃん。兄貴の真似ばっかしてるから、爺くさいんだよ、お前」
「き~ば~せ~じぃ~。お前、ゆってはならんことを~」
 俺を冷やかして走っていく誠二を追いかけて俺は猛然とダッシュした。
「ゆるさぁ~ん! 待たんか、せいじぃ~!」
 翌日以降も伊部のまわりは女子が群れていた。飽きないのかねぇ。
 でも徐々にその光景に馴れてきた俺たちは、教室に転校生がいることの違和感を感じなくなっていた。
 卒業間近で六年生は授業らしい授業が少なくなっていて、卒業式の練習だとかお別れ会の準備だとか、お祭り気分のほうが強くて日常が非日常に化けていたのもそれに拍車をかけていた。
 みんな伊部がサーカスの団員だと知ってはいたが、奴がその話題になると巧みに話をそらすので、いつの間にか誰もその話題を口にしなくなっていた。自分が特別な者を見るような目で見られることが嫌いだったのかもしれない。
 春休み前なので、サーカスの開演は土日だけだったし、卒業式が間近に控えていた俺たちは式の前にサーカスを見に行くような気分ではなかったことも話題を控えた一因だ。
 それでも誰も決して伊部を嫌ったり、除け者にはしなかった。あいつは誰とでも気さくに口をきいた。
 あいつのことを嫌ってはいないが、うっとうしいとは思っていた俺にさえ、他の人間と変わらない口調でつき合っていた。
 クラスの奴は皆示し合わせたように卒業式の翌々日の日曜日。あの招待券の日にサーカスを見に行くと言い合っていた。俺も誠二と兄貴と一緒に行くことにしている。
「やっぱり兄貴も呼んだのかよぉ」
 誠二の奴はニヤニヤしながら俺を冷やかしたが、俺は真面目に取り合わないことにした。


「綿摘君の撮った写真見たよ。ホラ!」
 彼の手には一週間ほど前に発行された報道雑誌が握られていた。確かこの雑誌の担当者からの依頼で渡した写真は中央アジアの、とある国の地方都市の風景だったはずだ。
「懐かしい風景だった。……って言っても、僕は覚えてたわけじゃないんだ。僕の母親から聞かされていた風景、母の故郷の風景だった。カメラマンの名前を見たときは同姓同名かと思ったんだよ」
 立ったままの俺を枕元の椅子に腰掛けるよう促すと、伊部は自分のまわりにクッションを何枚か重ねて、その中に身体を沈めた。
「雑誌社に電話をかけてきた声は女の声だったらしいけど、さっきの人か?」
 俺が病室に入ったときにいた若い女の顔を思い出した。
「そう。彼女に話したらさ、勝手に電話しちゃって……。雑誌社の人たち、ビックリしたろう?」
「別に。電話の問い合わせなんていくらでもあるって言ってた」
 雑誌を刊行していれば、色んな電話がかかってくるだろう。依頼、打ち合わせ、苦情、問い合わせ……。数え切れないくらいに。
「へ~ぇ。でも迷惑かけちゃったね。僕が会ってみたいなんて言い出したばっかりに。彼女、ボランティアでここの病院に出入りしてるんだけど、ちょっとお節介なとこあるから。でも君が会いに来てくれて嬉しいよ」
 無邪気に笑う伊部の表情に俺は罪悪感を感じた。
 俺は忘れていた。雑誌の担当者から連絡を受けるまで、伊部の名前などすっかり忘れ去っていた。
「母親の故郷って言ったな? お前の母親って外国人だったのか?」
 他の話題が思いつかず、俺は伊部の言葉尻に乗って話を振った。
「うん。僕と母はね、中央アジアの故郷の内乱を逃れて、父親の故郷である日本に亡命してきたんだ。僕はまだ三つにもなっていなかったはずだよ」
 俺の様子など気にもせずに伊部が話し始めた。
 俺はただ黙って聞いていることくらいしかできない。
「でも着の身着のままで転がり込んだ日本の親類の家で、僕たちは厄介者だったよ。父は会社からの出向命令で母の故郷へ来ていたんだ。反対されていたんだよ、母との結婚は……」
 そんな話は聞いたことがなかった。俺や俺の同級生が知っている伊部は、人当たりが良くて女子に人気の美少年……。ただそれだけだった。
「内乱に巻き込まれて父が亡くなったことを知ると親類は母と僕を放り出した。行くあてもない母は、幼い僕を抱えて途方にくれたことだろう」
 淡々と語る横顔には、怒りも悲しみもなかった。ただ事実を無心に伝えるだけ。
「そんなときだった。町にサーカスがやってきた。……母はね、故郷で雑技団の団員だったんだ。団長に会いにいって、必死に自分を売り込んだらしいよ。片言の日本語で。」
「……」
 なにも言わない俺の反応など気にしていないのか、伊部は話を続けた。
「母は疲れていたんだろうね。馴れない異国での暮らし、馴染めない異国の言葉。サーカスの団員になってから一年もしたころ、母は覚えたての空中ブランコの練習中に足を滑らせ、頭を打って死んだ。命綱もネットも張らずに一人で練習していたらしい。見つけたときには手遅れだった」
 俺はホッとため息をもらした伊部の横顔を盗み見た。少し疲れたような表情だ。


 卒業式の日がやってきた。
 今日は母さんも一緒に登校するのだ。朝から準備に余念がない母さんは香水の匂いをプンプンさせて、信じられないくらい濃く見える化粧をしている。
「お母さん、化粧濃いよ」
 ドレッサーを覗き込むその後ろ姿を見ながら俺が忠告したが、母さんは上の空で聞いちゃいなかった。
「ふあぁ~……。お。和紀、もう支度できたのか?」
 三日前から帰省している兄貴がやっと起きてきた。
「兄貴遅いよ。みんな朝御飯食べちゃったぞ。ねぇ! お母さん。早くしてよ。卒業式に遅刻なんて格好悪いよ」
「はいはい、終わったわよ。正紀(まさき)、ご飯ラップかけて適当に暖めてね」
 化粧で大変身した母さんは兄貴に朝食を指し示すと、俺の手を引いて玄関へと急いだ。
「もう! 子供じゃないんだから、手なんか引かないでよ」
 慌ただしく家を出ると俺と母さんは学校へと急いだ。
 予鈴が鳴るギリギリの時間に到着すると、母さんは式場になっている体育館の受付へ、俺は6-Bの教室へと向かった。
 教室はいつも以上にざわついていて落ち着かない。
「はぁ~い。みんな、おはよう。全員、揃ったわね? じゃ、体育館へ移動しますよぉ~。教室の外に整列してくださ~い」
 デブ川……出来川先生がはち切れそうなスーツ姿で現れた。
 俺は落ち着く間もなく席を立つと教室の外へと向かった。その途中で伊部に追いつく。
 伊部はみんなより少し離れた場所に立っていた。
「……ピエロだ」
 伊部のつぶやき声に俺は奴の顔を盗み見た。
 笑みを絶やさない伊部の顔が少し引きつって見えた。ピエロ? 誰が? 何を見ているんだろう?
「おい、伊部。早く並べよ!」
 俺は伊部に声をかけてみた。奴は我に返ったような顔をして、クラスの連中のなかに混じっていった。
 俺は最後尾から辺りを見まわしてみた。だけどピエロのように見える奴など誰もいなかった。


「伊部、疲れたんなら……」
「大丈夫。今日はいつもより気分がいいんだ。それより綿摘君、喉乾かない?」
 相変わらずの様子で伊部は俺の顔を覗き込んだ。
「あ……いや。少し……乾いた、かな」
 俺じゃない、きっと伊部自身が喉が乾いているのだ。
「じゃあ、そこの冷蔵庫から適当なもの出してよ。あ……僕は飲みかけのミネラルウォーターがあるから、それでいい」
 俺は言われるまま冷蔵庫の中を物色して、伊部のミネラルウォーターと自分用にコーヒーを取り出した。
「サンキュ~。悪いね、お客さんを使っちゃって」
 冷えたボトルを受け取ると伊部は昔ながらの明るい笑い声を上げた。
 曖昧な返答をする俺を横目に伊部は美味そうにミネラルウォーターを口に含んだ。
「母が死んだとき僕は小学校に入ったばかりの歳だった。」
 喉を潤すと伊部は話の続きを始めた。
 それはまるで死に急ぐ人間が自分の生きた証を何かに残そうとするように、誰かに刻みつけておこうとするように見えた。
「母が亡くなってから、父方の祖母だという人が僕を引き取りに来た。でも団長は僕を渡さなかった。母は自分に万が一のことがあったときのために僕を団長の養子にしておいてくれたからさ。祖母は団長を罵り、僕をなだめすかして連れ帰ろうとしたよ。でも、僕は行かなかった」
 伊部は唇の端をつり上げた。彼らしくない、歪んだ笑い。
「何故だと思う?」
「父親の親類を恨んでた?」
 適当な見当をつけて答える俺に伊部は意味ありげな微笑みを向けた。
「そう、当たりだ。僕は日本人が憎かった。僕の中に流れている父の血も含めて!」
 言葉などなにも浮かばなかった。
 伊部は人当たりの良い人格を演じている自分のなかの、隠していた暗い部分を俺に見せて何を言おうとしているのか。
「君の写真を見て思ったんだ。あの写真は懐かしさを感じた。でもそれだけだった。僕にはなんの感慨も浮かばなかったんだ。あそこは僕の故郷だと思っていた。でも……皮肉なもんだね。僕の故郷はいつの間にか、この日本になっていたんだ。憎んで、嫌って、軽蔑していたはずの国が……僕の故郷に」
 俺には返してやる言葉がまったく思いつかないままだった。
「疲れちゃったんだよ、僕も母親のように。どんなに馴染もうとしてもこの国は僕を拒絶する」
「伊部……」
 顔に浮かべた皮肉っぽい笑みはいったい誰に向けたものなのか。


「もう! タバコはやめてって、いつも言ってるでしょ。臭いじゃない! それに身体にいいわけないんだから」
 俺が床に転がったシガーケースの中からタバコを一本取り出して口にくわえると、女はすかさずそれを取りあげた。
 ここで取りあげられたタバコを奪還しようなどと、考えて実行すると、手酷いスパンクが飛んでくる。この女の城では、そういった些細な抵抗でも数十倍にして返されるのだ。
「大人しいのはベッドの中だけだ」
 俺の独り言に女の目がとんがる。
「なんですって!?」
「なんでもねぇよ。この紅茶もらうぞ」
 女が飲み残していた冷めた紅茶を一口だけ口に含む。自慢の紅茶もこう冷めると渋みがきつい。
「私にも頂戴。喉がカラカラ」
 俺は女の伸ばした手にマグカップを握らせるとベッドから立ち上がって窓のスクリーンカーテンをそっとずらした。
 まだホワイトカラーたちの出勤時間ではないのか、マンションの下の道の人影はまばらだ。
「日本で何があったのよ。あんた、今日はおかしいわよ」
 長年のつきあいでお互いの行動パターンの多くは理解されている。だが、今回の些細な気落ちは自分でも説明できるものではなかった。
「……自分でもよく解らん。少し苛ついてるかもな。昔の知り合いに会っただけだ」
 下手に隠すとしつこく詮索されてうっとうしい。簡単な説明だけはしておく。
「ふぅ~ん?」
 それ以上の詮索に興味を失ったのか、それとも俺自身が感じてもいない何かを感じ取ったのか、女はその話題をそれで終わりにした。
「それで? これからの予定は?」
 ベッドの上で足をパタパタと動かしながら女が俺を見上げた。まるで猫を見ているようだ。
 気まぐれで高慢で、気位が高い。そっくりと言えばそっくりだ。
「十一時発のフライトだ。朝食は空港で摂るからいいよ。シャワー、借りるぜ?」
「どうぞ、ご自由に。私は今日は非番。見送りにはいかないからね」
 元々、見送りにくるとは思っていない。
 浴室へ向かう俺の背後から声がかかった。
「ちょっと~。裸で部屋のなか歩きまわらないでよ。バスローブ使ってよね」
「タオル巻いてるだろ? 第一、今さら何を照れて……」
 俺は最後まで言い切ることができなかった。女のお気に入りだという大きな羽根枕が二つ、立て続けに飛んできたからだ。
 やっぱり、この城で女に逆らうのは賢明なことではなさそうだ。
 もう五年以上も異国で生活している女にとって、外の世界でならともかく、この部屋で思い通りにならないことは許し難いことらしい。
 彼女なら、自分のほうを向こうとしない太陽を無理矢理に自分へ向けるくらいの傲慢さを持っていても不思議には思わない。

〔 9333文字 〕 編集

移ろい花

No. 37 〔25年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 雅屋(みやびや)の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
「あぁ、若旦那。おいでなさいませ。あいすみませんねぇ、ご足労かけちまって」
 赤い塗りの柱に手をかけてぷらぷらと入ってきた若い美男に女将(おかみ)が艶めかしい足取りで近づいてくる。四十路を超えているであろうに、十は確実に若く見える化粧をして、流し目を送る姿はさすがに商売女。
「どうしましたね、お(えい)さん。……店までわたしを呼びにくるなんざぁ、今までなかったことだけど?」
 年若い男が気に入りの扇子で自分のすんなりとした顎を撫でながら、黒目がちな瞳をひたと艶女(たおやめ)に向ける。
「いえね。新しくきた子どもの見立てをして頂きたくて……」
「そいつはお前さんの仕事じゃないかね? 客に見立てをさせたとあっちゃ、女将の名折れじゃないかねぇ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいな。あちきの手に余るからお願いに上がったんじゃございませんの」
 恨みがましい視線を投げかけ、生白い顔を近づけてくる女将の仕草に苦笑を浮かべると若旦那は手持ちの扇子をはらりと広げて口元を覆い隠した。
「いいのかねぇ、わたしなんぞに頼んで。見立てをする振りをして喰っちまうかもしれないよ?」
 青年の穏やかな黒目が悪戯っぽく光っている。覆い隠した口元もきっと同じように笑みを浮かべていることだろう。
「よござんすとも。若旦那の趣味に合うならどうぞお好きに。……でもねぇ、ずぶの素人でございますよ?」
「たまには玄人女じゃなくてもいい、とわたしが言ったらどうするつもりだい」
 自分のからかいに女将がしゃあしゃあと答えを返すことに青年は気をよくしたか、その綺麗な顔をほころばせて満開の笑みの花を咲かせた。
 まったく男にしておくには惜しいほどの美貌に、女将のほうが一瞬見惚れて赤くなる。
「それじゃ、いつもの紫陽花(あじさい)の間で待っていてくださいな。その娘に茶を運ばせますから」
 自分の滑稽さに狼狽えた女将は早口に言葉を紡ぐといそいそと奥へと引っ込んでいった。さすがに置屋の女主人が客の顔に見惚れたとあっては格好がつかないらしい。
 残された若旦那は女将と入れ替わりに現れた下男に下駄を預けて、悠然と階段を上がっていく。優雅な足取りは変わりなく、舞でも舞っているような後ろ姿だった。
 さて、いつものように案内もつけずに紫陽花(あじさい)の間へとやってきた若旦那は、襖を開けたところではたと立ち尽くした。先客がいるではないか。
「おや?」
 先客といっても男ではない。ようやく十になったくらいの少女である。
 子どもは無心に床の間の掛け軸を眺めていた。部屋の名前の由来になっている紫陽花(あじさい)の花とそれを見返る艶めかしい女の白い横顔が、その子どもの視線を受け止めている。
 部屋に入ってきた者がいることにも気づいていない様子で、一心不乱に絵に見入る姿はどこか張りつめていた。
 バタバタと忙しない足音が響いて女将が姿を現した。険しい顔つきをして一直線に若旦那の側にやってくると、部屋のなかを覗いていっそう目をつり上げる。
「お(はつ)! 探してもいないと思ったら、またこんなところに勝手に!」
 若旦那を押しのけて部屋に踏み込んでいった女将は有無を言わせずに子どもに詰め寄ると、容赦なくその幼い頬を打ち据えた。
「あれほど勝手に部屋に入り込むなと言ってもまだ大人しくしてないのかい! あちきの言うことが聞けないなら、今すぐ(くるわ)の通りに放り出してやるよ!」
 娘の前に仁王立ちになった女将の形相(ぎょうそう)は凄まじく、鬼が人を食い殺すような悪相だ。
「およしよ、お(えい)さん。物珍しいんだろうよ」
「いいえ! いつもいつもこの部屋に入り浸って、言っても聞きやしない。今日もお客がくるからと勝手に入らないよう言いつけておいたってのに!」
 いらいらと声を荒げる女将をそっと諫めると、青年は畳の上で身体を小さくしている娘の前に跪いた。
「そうカリカリしなさんな。小皺が増えるよ。……この娘だね、わたしに見立てをさせたいと言っていたのは。お(はつ)というのかい?」
 後の言葉は娘に向かって発したのだが、その本人は頑固に口を引き結んでいっこうに返事を返してくる様子がない。
「何をだんまりしてるんだい! ちゃんと答えなきゃ駄目だと前にも言っておいたろう!」
 再び女将が荒れ狂った声をあげた。
「およしよ、女将。まだ子どもじゃないか。……ここはわたしに任せておくれ」
 若旦那の言葉に渋々と矛ほこを収めた女将が下がっていくと、娘と二人残された若旦那はほっとため息をついた。
「やれやれ。おっと……」
 娘に向き直ると若旦那は小さな笑みを浮かべた。
紫陽花(あじさい)が好きなのかい?」
 こくりと頷く幼い頭をそっと撫でてやり、若旦那は浮かべた笑みを深くした。
「わたしも好きさ。日が経つにつれてどんどん色を変えていく姿なんざ、お前さんがたのように綺麗じゃないかね」
 娘と同じようにじっと掛け軸を見上げると二人してしばし絵に魅入る。
「お初はどうしてこの花が好きなんだい?」
「……」
 押し黙ったまま答えようとしない子どもの様子に若旦那は首を傾げた。どうしたものだろうか。
「名前……知らない人と話をしちゃ駄目なの」
 もそもそと呟いた子どもの横顔に困惑を見て、若旦那は破顔した。生まれ育った家庭で躾けられたのだろう。見知らぬ人についていくな、話をするな、と。
「そうだった。わたしとしたことが名前を名乗っていなかったなぁ。……わたしの名前は真左右衛門(しんざえもん)さ。近しい者は皆“しんざ”と呼ぶねぇ」
 じっと聞き耳をたて、こちらの顔を真剣な面もちで見上げていた子どもが丁寧に座り直すと行儀良く頭を下げた。
鮒皆村(ふなかいむら)権六(ごんろく)の娘“(はつ)”です」
「ほぅ。これはこれは……。立派な挨拶ができるじゃないかね」
 頭を上げたお初がじっと若旦那の顔に見入っている。
「どうしたね? わたしの顔に何かついているのかい?」
 優しげな笑みを子どもに向けると、若旦那は両手で自分の頬をなで回した。その仕草はまるで子どもが口元を拭っているように無邪気なものだ。
「……真左右衛門さんは男の人?」
「おや! おやおやおや! わたしが女に見えたのかい?」
 いたく驚いたという顔をして若旦那は目を丸くしてみせた。しかし本当のところはいつものことだった。よくよく見れば男だと判るだろうが、一見しただけでは女に間違われることはしょっちゅうだ。
「声は男の人なのに、顔はあんまり優しい顔をしているから……」
 子どもなりに申し訳ないと思っているのだろう。お初が困ったように俯いて指をもじもじと絡ませている。
 その子どもの身体をひょいと抱き上げると、若旦那は再び掛け軸に向き直った。意外と腕力があるらしく、子どもの身体を持ち上げる様子にまったく気負いがない。
 膝の上で娘が体を固くして俯いている。よく知らない男の膝に抱きかかえられ怯えているのだろう。
「お初は幾つになるんだい?」
 おどおどとした様子の娘の桃割れ頭を撫でてやりながら、若旦那はじっと掛け軸に視線を注いでいた。その掛け軸のなかでは紫陽花(あじさい)を見返る美人が艶っぽい視線を花の群に向けている。
「と、十です……」
「そうか。十になるのか。それじゃあ女将が焦るのも無理はないなぁ……」
 男の言っている意味を図りかねた娘が首をねじって振り返った。自分の歳と女将がどうやったら繋がるのか判らないのだ。
「お前さん。ここがどういう場所か知っているかい?」
 首まで真っ赤になりながらお初が頷いたのを見て、若旦那は苦笑した。どうやらこの年格好の割には物をよく知っている子どものようだ。
 自分を抱き上げた相手が男である以上、どういう目で自分が見られているのか想像できてしまうのだろう。怯えていたのはそのためか。
「そうか。お初は賢いね。置屋(おきや)は春を売るところだからねぇ。……でも今すぐにってことじゃないさ。お前さんはまだ十だからね」
 それに……、と続けようとした男の声を遮って子どもがその後を継いで話し始める。
「お父ちゃんの労咳(ろうがい)の薬がいるんです。早くお金を稼がなきゃいけないし……」
「うん……。そうか。お初はお父ちゃんを助けにきたんだな。でもお初の歳じゃ、すぐにはお金は稼げないねぇ。お初が稼げるようになるまでは女将がお父ちゃんの薬の金を出してくれているんだろう?」
 淡々と言葉を続けながら、若旦那は顔を曇らせた。
 置屋は芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋や料亭などに差し向けることを生業なりわいとしている場所だ。揚屋(あげや)にあがるにはお初の年齢ではまだ無理な話だった。
 突然に娘は男の膝から飛び出すと畳に額を擦りつけて頭を下げた。
「お願いです! あたしを買ってください! 薬代が……いるんです」
 父親の病で出来た借財のかたにこの置屋に売られてきたのだろう。父親を助けるためには、高い薬を買うための金がいる。それを自分が作ろうというのだ。
 お初は幼い肩を震わせて畳にひれ伏していた。
「その時期がきて、お前さんの気が変わっていなかったら、そのときは揚屋にお前さんを呼び寄せようか。でも今日はお前さんを買うために来たわけじゃないんだよ」
 強ばった顔のまま娘が顔を上げた。自分を買うためでなかったら、いったい何をしようというのか。彼女には皆目見当がつかない様子だ。
「お初。お前さん、三味(しゃみ)を弾くことも、小唄を唄うこともできないだろう? ここは女郎屋(じょろうや)じゃないからねぇ。芸を覚えてなんぼなんだよ。それができなきゃ、お前さんの身の置き所は廓屋(くるわや)辺りに落ち着いちまうからねぇ」
 ほっと嘆息すると男は哀しそうに微笑んだ。
 娘が置かれている立場を説明してやるのは、少々心が痛んだ。この花街にやってくる女たちはいつだって哀しい過去を背負っている。生きてここから出ることが叶う女はほんの一握りだけなのだ。
「女将はお前さんが何に向いているのか図りかねているんだろう。わたしなんぞにお前を見立ててやってくれと頼みにくるくらいだからねぇ」
「なんでも習います! 教えてください!」
 娘には選ぶ権利などなかっただろう。それを確認させている自分に嫌気が差して、男は口元を歪めた。
 この置屋の女主人はなんと厭な役回りを押しつけてくれたことか。
「お初……。ちょっとここへおいで」
 娘を自分の目の前に差し招き、その手を取ると若旦那はじっと幼い手を見つめた。細く長い指はまだ子どもの幼さを残していたが、すでに働いている者の指だった。
「百姓をやっていた割には荒れていないね。でも指先にはマメができた痕がある。お前さんは家で何をやっていたね?」
「機織りを……」
 娘の言葉に得心したのか、若旦那は優しげな笑みを浮かべて相手を見つめた。
「そうか。鮒皆村には機織りの上手い者がいると聞いていたが……。お前さんの実家がその家なんだな」
 呉服屋仲間のなかでも有名な話だ。三つ向こうの鮒皆村には、腕のいい機織り女がいると。この娘の母親辺りがその機織りなのだろう。その母親についてこれまでずっと機織りを習っていたに違いない。
「お母ちゃん、先月に死んだんです……」
 ぽつりと呟いた娘の暗い声に男は胸を突かれた。
 父は病の床につき、頼みの母が亡くなったとあっては、彼女を助けてくれる者はいないに等しい。
「婆ちゃんがお父ちゃんの看病しなくてはいけないから、あたしがお金を稼ぐの」
 この花街ではよく聞く話だと言ってしまえばそれまでだ。だがそう割り切ってしまうには娘はまだまだ幼い。何も言えない男にかまわず、娘はとつとつと話を続けた。
「六つと三つになる弟たちもいるから……。お父ちゃんの病気、治さないと……」
 娘の瞳に涙はなかった。涙を流し尽くしたのだろう。世の中にはどうしようもないことがあるものなのだと、この歳で悟ってしまったのだ。
「だから……三味線でも小唄でもなんでも……なんでも教えてください。あたし全部覚えます」
「そうか……。うん。そうだな。芸事をどんどん覚えなければならないねぇ」
 自分が見立てるまでもない。この娘は自分のやるべきこと、やらなければならないことをすでに知っているではないか。
「それにしても女将はいったいどういうつもりでわたしを呼んだりしたのかねぇ。……お前さんの見立てなぞ必要もないことだろうに」
 首を傾げて自分を見つめる娘の顔はきょとんとしている。
「真左右衛門さんは三味線の先生じゃないの?」
「まさか! 自分で三味線を弾くことはできるが、人に教えるなんざ……」
 ふと途中で言葉が止まった。人に教えるなんざ……?
『花は愛でるばかりじゃつまらんよ。育ててなんぼ……そう手塩にかけて育てたほうが何倍も綺麗さぁね』
 突然に頭に浮かんだ自分の三味線の師匠の言葉に若旦那は呆気にとられた。
 なんだろう。言われた当時は「そんな面倒なことを」と思ったものだが、今突然に合点がいった。その通り。育ててなんぼ……。
 幼い娘が紫陽花(あじさい)の色のようにいかように変わっていくのか。それを間近で見続けるというのはなんと心楽しげなことだろうか。
 やおら立ち上がると男は口元を引き結んで掛け軸へと目を走らせた。居ても立ってもいられないといった様子で、驚いて自分を見上げる娘のことも忘れているのではないだろうか。
「そうか。そうだそうだ。その手があったじゃないか」
 譫言(たわごと)のように呟く若旦那の様子に娘は呆気取られて見守るしかない。いったい何を言っているのだろうか?
「あの……」
「あぁ、そうだ。お前さん。わたしが三味線の師匠に見えるかい?」
 今の今まで春を買いにきた客か芸事の師匠だと思っていたのだ。見えるも何も、そのものだと思い込んでいた人間にそれはないだろうに。
「あたしはてっきり芸事のお師匠様だと……」
「そうか。それじゃ、そのままわたしがお前さんの師匠をしよう。そうしよう」
 口の中でぶつぶつと呟いている男はすっかり自分の考えが気に入った様子で、ふらふらと部屋の襖に歩み寄っていく。
 自分の考えに気取られてすっかりお初の存在を忘れてしまっているようだ。
「わたしが育てればいいんじゃないか。なんだ簡単なことだ……」
 襖を開けてふらりと歩き出した男を追ってお初も廊下へ飛び出した。いったいどうしてしまったというのだろうか?
「あれ? 若旦那、どうなさったんです? まさかもうお帰りですか?」
 茶を入れて上がってきた女将が驚いて、階段の上で立ち止まる。
「あぁ、お(えい)さん! 丁度良いところへ」
 まだどこか夢見心地で歩み寄ると若旦那は楽しそうに笑みを浮かべて女将の耳元で何事かを囁いた。
「えぇ!? 若旦那がですか? でも、でも……御店(おたな)のほうは……」
 いいから、いいから、と女将の肩を叩いて、ようやく若旦那は後ろについてきていたお初を振り返った。
「お初。近いうちに稽古を始めよう。お前さんはもう十になっているからねぇ。早く始めないと他の者に追いつけないよ」
「え……?」
「取り敢えずわたしはこれから三味(しゃみ)の師匠に頼んで免状を取ってもらうから、今日はこれで失礼するよ」
 何が何やらさっぱり判らない娘を残して、若旦那は浮かれた足取りで置屋を飛び出していってしまった。
「お初。いったい若旦那と何を話していたんだい?」
 夢見心地の青年の様子に目を丸くした女将が少女を振り返った。だが当の本人にも何が起こったのか判っていない。
「はぁ……。若旦那好みの娘だろうと思って、初めから贔屓にしてもらえるように引き合わせたってのに……。なんでまた芸事の師匠なんかを買って出たんだか」
 ぶつぶつとこぼす女将の様子を困った顔で見上げていた娘が、その言葉に顔を輝かせた。
「真左右衛門さんがあたしに三味線を教えてくれるんですか!?」
 娘の様子にたじろいだ女将が顔をしかめる。
「若旦那を名前で呼ぶなんて。まぁ、なんてことを……」
 だがすぐに顔を引き締めると、厳かな口調で娘に言い渡す。
「いいかい、お初。近日中に若旦那が三味線の稽古をつけに通っていらっしゃるようになるからね。……間違っても師匠を名前で呼ぶような失礼をしちゃいけないからね。きちんとお師匠様と呼ぶんだよ!」
 その言葉を聞いているのかいないのか、嬉しそうに頷いた少女は踊るような足取りで女将の回りを飛び跳ねた。
「これ! ばたばたと暴れるんじゃないよ! さっさと階下(した)へいって、今度こそ大人しくしているんだよ」
 生返事をして階段を駆け下りていく娘の後ろ姿にため息をつくと、女将は軽く首を振った。
 世の中思い通りにはならないものだ。雅屋(みやびや)の若旦那は確かに風流人だが、どういう酔狂であんな少女に肩入れするのか。
「あぁ、あちきだって二十年若けりゃあねぇ……」
 無駄になった茶盆の上の茶を恨みがましい目で見つめると、女将は気が抜けたといった様子で肩を落とした。
 雅屋の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
 そして、それにまた一つ小粋な噂が尾ひれをつける。
 雅屋(みやびや)の若旦那が育てた芸妓は、花街一の三味(しゃみ)を奏でる……。
 今となってはもう昔々のお話。粋で洒脱な色街の片隅のほんの儚い物語。

終わり

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魔法使いのスコーン

No. 36 〔25年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 あたしはトボトボと煉瓦石通りを歩いていた。
 お洒落な街角のショーウィンドゥは深い秋色に染まっていて、まわりを行き交う人たちの横顔は、どれもこれも明るく見える。肩を落として歩いているあたしは、一人浮いているように見えることだろう。
 今日、あたしは一世一代の勇気を振り絞って告白した。生まれてこのかた、これ以上に勇気を出そうとしたことなんてない、くらいにあたしとしては精一杯だった。
 相手の反応はこう。
「お前さぁ~。鏡見たことあるのかよ?」
 呆れたように見返してくる彼の視線に耐えられず、あたしは視線を落とした。胸がチリチリと痛む。もしかしたら、と淡い期待を込めて告白した結果に、あたしは泣き出しそうだった。
 確かにあたしは美人じゃない。癖の強い赤毛に、ぷっくりと丸い顔。それから、濃い灰色をした奥二重の眼。身体も少々丸っこい。……でも決して太っているわけじゃない、と自分では思っているけれど。
 繁華街を通り過ぎてすぐのところがあたしの家。
 普通の家よりちょっとだけ大きい。まぁ、家族の人数が多いからね。七人家族が住むとなれば、並の大きさの家じゃ、無理ってものだし。
 なんにも考えられないまま、玄関のドアを開けた。
「あ……! ナギ~! 遅かったじゃない、待ってたのよぅ」
「……お母さん? 何、その格好」
 めかし込んで大きな荷物を提げた母親の姿に、あたしはちょっと戸惑った。よく見れば、弟と妹が母のそばに張り付いている。二人とも母と同様に綺麗な格好をしている。
「あっらぁ。これから旅行よ、旅行! キャンセル待ちしてたホテルの空きがあるっていうから。しかも四人分もよぉ」
 聞いてないよ、そんなこと。あたしはムッとした顔をしたに違いない。
「あらあら~。お土産買ってくるから、そんなに拗ねないの」
 お母さんはすっかり舞い上がっている。いつだってこんな調子だ。たぶん、この連休を利用して楽しんでくるつもりなんだろうな……。って四人分? お土産!?
「ちょっと! じゃあ、私一人で留守番なの!?」
 うちは七人家族だ。父と母。それに上から女男女男女と五人の兄弟姉妹。私は上からも下からも三番目の真ん中。でも、上の二人は就職していたり、学校の寄宿舎に入っていたりするから、今は五人家族。それなのに四人ってことは……。
「だってぇ~。本当は二人分だったんだけど、子どもが小さいからって言ったら、子ども二人分追加してくれるって言うんだも~ん。これは行かない手はないでしょう? あんたもうジュニアハイスクールに入っているから一人でも大丈夫でしょ? だからお留守番お願い、ね」
 こ、この親は……。
「あたしはどうだっていいわけ?」
「何言ってるのよぅ~。この広い家、一人で使いたい放題よ? 贅沢な休暇じゃないの。あら、大変! 時間がないわ。パパを待たせてるのに。じゃ、ナギ。お留守番、お願いねぇ」
「ちょっと~!?」
 バタバタと足音もけたたましく、母と弟と妹たちは外へ飛び出していった。独り取り残されたあたしは呆然とそれを見送るしかなかった。
 なんでこうツイてないのよ……。落ち込んでいるときに、この仕打ちはないんじゃないの? ベソをかく気力も失せて、あたしは鞄を引きずって二階の自室へと上がっていった。


 やっぱり来ちゃった……。
 あたしは軽い自己嫌悪に陥りながら、ふかふかのソファに転がって小綺麗な部屋のなかを見回した。ここは、お父さんの弟サヤッシュ叔父さんの家。自宅から歩いて二十分くらいかかる。
  白い壁にアールヌーボー調のポスターやドライフラワーのリースなんかがかかっていて、落ち着いた雰囲気がある部屋。これ、叔父さんの趣味じゃなくって、叔父さんの奥さんカーシャ叔母さんの趣味だってことがまるわかり。叔父さんは独身時代は貰い物の絵画の額とかを無秩序に並べていたくらい大雑把でこだわりのない人だったから、部屋の中をここまで統一できた試しはないんだから。
「あら……。もう泣き虫は終わり?」
 キッチンのほうからかかった声に振り返ると、カーシャ叔母さんがトレイにティーセットを乗せて運んでくるところだった。丸い眼鏡の奥で薄い灰色の瞳がクリクリと動いている。私と違って大きな眼にくっきりとした二重まぶた。眼鏡をかけているから余計に目立つ。
「ほら、ナギちゃんの好きなフォションブレンドのミルクティー。それからスコーン」
 広い自宅に独りでいることに耐えられなくて、トボトボと歩いて叔父さんの家に着いた途端にあたしは泣き出していた。玄関先で迎えてくれた叔母さんは、何も聞かずにリビングまで連れてきてくれて、あたしが泣きながら語った出来事に辛抱強く耳を傾けてくれた。
 兄弟姉妹が多いあたしには、親に相談するにも言い出しにくいことが山ほどあった。友だちに相談したりして解決できることならいい。でも、今回みたいに、今すぐ、どうしても、話を聞いて欲しいときは、叔父さんの家に駆け込んでいく。両親はいつだって忙しくしていて、肝心なときにちっともそばにはいてくれなかったから。
 第一、兄弟姉妹の真ん中って非常に不公平なのだ。上の姉や兄たちは、初めての女の子男の子ってことで何かと親は珍しがって手をかける。下の弟妹たち双子は遅くに生まれたこともあって、両親はめちゃくちゃに甘い。間のあたしは独りぽつんとしていることが多かった。
 もっとも昔から親の干渉が少なかったから、それに馴れてしまって、あれこれ聞かれるのも鬱陶しいと思うようになっていたのも事実だけど、今回みたいにあまりにも突然に独りで放り出されるのはあんまりだ。
「今日は叔父さんは残業で遅くなるけど、久しぶりに一緒に夕飯食べられるわね。……何か食べたいものある?」
 まるでそれが当然のように叔母さんはニッコリと笑った。
「叔母さんの作ったものならなんでもいい……」
 あたしは暖かいミルクティーをゆっくりとすすりながら、笑い返したつもり、だった。
「そう。それじゃ、クリームソースフォンデュなんてどうかしらね。ちょっと寒くなってきたしね」
 どう? と問いかけるように叔母さんの首が傾げられると、その短めに切りそろえたブロンドの髪が窓から入ってくる夕日に照らされて淡いオレンジ色に輝いた。叔母さんの色の薄い唇は相変わらず笑みを浮かべている。
「うん……。あたしも作るの手伝うよ」
「あら、助かるわ。じゃ、お茶を飲んだら、下ごしらえだけしちゃいましょうか」
 まるで何事もなかったようにニコニコと微笑みながら叔母さんは、自分のティーカップを持ち上げた。叔母さんの頬にもあたしと同じようにそばかすがある。美人じゃないし、どっちかといえば、痩せぎすで少年のような雰囲気がある人。口調はいつも穏やかで、ほとんど怒ることがない。叔父さんはいい人を奥さんにしたと思う。
 叔父さんとお父さんとは十五歳も歳が離れている。だから、叔父さんにしてみれば、あたしたちのほうが兄弟姉妹のような錯覚を覚えるらしい。確かに今年二十八歳になる叔父さんと十四歳になるあたしとだったら、叔父さんとお父さんとの年齢より近いわけだし……。
「ねぇ、叔母さん。……叔父さんと結婚して良かった? 結婚しなきゃ良かったって思うことない?」
 あたしの突然の問いかけに、カーシャ叔母さんは眼をパチパチと瞬かせた。そりゃ、ビックリするよね。何を突然に訊いてくるのかと思っただろうな。さっきまで好きな子に振られたってワンワン泣いていたのに。
「そうねぇ~。80%くらいは良かったと思えるかな」
「へ……? 80%? じゃ、じゃあ、残りの20%は!?」
「もちろん。しなきゃ良かった、ってほうよ」
 相変わらず笑みを絶やさない叔母さんの顔からは、どんな真意があってその数字をはじき出したのかさっぱり判らない。でも、微笑んだ顔は優しくて、あたしの問いかけをはぐらかしたわけではないことだけは理解できた。
「魔法使いに魔法をかけられちゃったのよ。魔法のスコーンを食べてしまったの」
 クスクスと喉の奥で笑い声をあげる叔母さんの顔は、いつもより断然綺麗で、両頬は夕日が染めた朱よりも強い赤みが差していてあたしと大して歳も変わらない少女のようだった。


「サヤッシュと私は職場結婚なの。知ってるわよね?」
 あたしはジャガ芋の皮を剥きながら肯いた。叔父さんと叔母さんの結婚式には、叔父さんの勤めている印刷会社の人が大勢詰めかけていたから、よく知っている。
 カーシャ叔母さんは火にかけた鍋のなかの水に塩を放り込むと、ブロッコリーとカリフラワーを小房に分け始めた。叔母さんの持っているナイフが動くたびにブロッコリーの緑やカリフラワーのクリーム色の固まりがコロリコロリとボールのなかに転がり、綺麗なモザイク模様になっていった。
「私はまだ入社したての新人で、その頃学生時代につき合っていた彼とはちょっと微妙な……そうね、倦怠期に入っていたのよね。……倦怠期って判る?」
 あたしはチラリと叔母さんの横顔を盗み見ながら「うん」と返事をした。学校ではみんな大人ぶりたいから、そういう大人の恋愛に出てくる単語をやたらと使いたがる。十四歳のあたしたちが使うよりももっと重みのあるはずの叔母さんのいう倦怠期がどんなものか知らない。好きな人との間の馴れ合いのような鬱陶しさとか寂しさとかは、失恋したばかりのあたしには想像の遙か彼方の出来事だったし。
 あたしがジャガ芋を剥き終わり、一口大に乱切りにすると、叔母さんは「じゃ、次はこれね」とニンジンを手渡しきた。再びピーラーでニンジンの皮を剥きながら、叔母さんの話に耳を傾ける。
「つき合っていた彼は、ちょっと……その……わがままなところがあってね。自分の思い通りにいかないことがあると、癇癪を起こしたりするの」
 ビックリしてあたしは叔母さんの顔をまじまじと見てしまった。叔母さんの穏やかな顔からは、そんな癇癪持ちの人とつき合っていたとは想像もつかない。あたしの視線に気づいたのか、叔母さんがあたしを振り向き悪戯っぽく眼を細めて笑った。
「その日も彼は、駅前通りにある美味しいって評判の店のスコーンを食べたがったの。……ほら。いつも長蛇の列ができているでしょ?あそこよ。並んでスコーンを買うだけなのに、一時間はかかっちゃうのよね。女の子がたくさん並んでいるところに混じるのが厭だって言う彼を近くの喫茶店で待たせて、私一人で行列にならんだの。寒い日でね……。長時間並んでいるうちに手がかじかんでしまったわ。ようやく買えたときには、一時間半も経っていて。慌てて彼の待っている喫茶店へ向かおうと店を飛び出したの。……彼、待たされるのも大っ嫌いだったから」
「なんで一緒に並んでくれないの? ……一緒だったら、待ってるのだって辛くないのに」
 あたしの声は知らず大きなものになっていた。叔母さんは魚介類の皮を剥いたり、殻を外したりしていた手を休めて、あたしのほうにチラリと視線を向けた。でも、すぐに手元に視線を戻すと、小さくため息を吐いた。
「……そうね。きっと、照れ屋だったんでしょうね」
 殻からポロリと外れたホタテの身が一瞬だけプリプリと震えて、ボールの底で大人しくなる。
「店から慌てて飛び出した私はね、ろくすっぽ周りも確認せずに道路に飛び出したの。……危うく車に轢かれそうになっちゃったのよ、そのとき。サヤッシュが助けてくれなかったら、大怪我していたでしょうね」
「え……!? サヤッシュ叔父さんが助けてくれたの?」
 叔母さんは「そうよ」とニッコリと口元をほころばせた。そんな話初めて聞いた。確か叔父さんは結婚するまでは、あたしたちと一緒に暮らしていたけど、女の子を助けたなんて話聞いたことなかったよ。
「でもね……。せっかく買ったスコーンを道路に全部ぶちまけちゃったの。私は助かったことよりも、その転がっていくスコーンを見て泣き出したい気分だったわ。助けてもらったお礼を言う前に、思わず“スコーンが……”って口走っちゃっていたもの。随分と失礼なことしたと思うでしょ?」
 同意を求められても、なんと答えていいのか判らなくて、あたしは眉をよせて眉間に皺を作った。皮の剥き終わったニンジンをジャガ芋と同じように乱切りにしていく作業に集中しているかのように、叔母さんから視線を外したまま。話のなかの叔母さんはあたしの知らないカーシャという名の一人の女性だった。
 叔母さんはあたしのそんな仕草もいっこうに気にした風もなく、再び淡々と話し始めた。
「サヤッシュはね、自分が悪くないのに“ゴメン”って謝ったのよ。何度も何度も。同じものを買ってくるって言い出したときには、私のほうが焦っちゃったわ。道路に飛び出したのは私のほうだったのにね。たぶん、私が泣きそうな顔をしていたから、サヤッシュなりに慰めようとしてくれたんでしょうけど」
 人の良いサヤッシュ叔父さんらしいと思った。あたしたち兄弟姉妹の遊び相手になっているときでも、叔父さんは泣き出した子どもを笑わせようと悪戦苦闘していた。叔父さんは誰に対しても優しい。
 鍋のなかで湯がクラクラと沸騰し始めていた。叔母さんはカリフラワーとブロッコリーを手早く湯通しして冷水に放り込むと、あたしが切ったジャガ芋とニンジン、それから白小蕪を茹で始めた。
 手持ち無沙汰なあたしに叔母さんからウィンナーと生ハムを切るように声がかかった。あたしは調理台に並べられている食材のなかからそれらを掴み出すと、ウィンナーに切り目を入れ、ハムを一口大に切り分けていった。
「それから、どうなったの?」
 あたしは好奇心に負けて、叔母さんの話の先をせがんだ。
「それから? そう、サヤッシュへのお礼もそこそこに私は彼の待っている喫茶店に飛んでいったの。スコーンは駄目になったから、近くのパン屋で甘パンとサツマイモのシナモンスティックを買い込んでね。……でも、喫茶店に行ってみたら、彼はもうそこには居なかったの。ウィエイターに聞いてみたら、ほんの十分くらい前に出ていったって」
「待っててくれなかったの!?」
 あたしは思わず手を止めて叫んだ。随分とひどいことをする人だと思う。
「待っていてくれたのよ、ずっと。……買ったパンを持って彼のアパートまで飛んでいったわ。どうして私を置いていったのか知りたかったし、スコーンではなくなったけど、一緒にパンを食べようと思ったしね。でも、彼は家にも帰っていなかったの。途方にくれちゃったわ」
 堅めに茹で上がった野菜をザルにあげ、叔母さんは鍋の茹で汁に調理用の白ワインとレモン汁を少々振り入れた。今度は魚介類を湯通しするのだ。手際よく湯がかれ、鍋からザルへと移される貝やエビたちは、ほんのりと白や赤に色づいている。あたしは切り終わったウィンナーとハムを叔母さんの手の届くところまで運んでいった。
「元の駅前まで戻って彼を捜したわ。どうして駅前だと思ったのか、今でも判らないけど。……結局、その日は彼を見つけることはできなかったのよ。代わりに、またサヤッシュと会ったの。彼ね、本当に代わりのスコーンを買いに行っていたの。あの寒空の下、周りは女の子ばかりだっていうのに、自分のものでもないスコーンのために一時間以上もずっと列に並んだのよ」
 茹で終わった野菜と魚介類のザルを押し退けて、叔母さんはウィンナーとハムを次々に鍋のなかに放り込んだ。
「私を見つけるなり飛んできて、スコーンの入った袋を押しつけると、またゴメンって謝り始めたわ。せっかく買ったスコーンを駄目にしてゴメンって。サヤッシュのせいじゃないのにね。……翌日、会社は休みだったから、朝一番に彼のアパートへ行ったの。サヤッシュの買ってくれたスコーンを持って。私の買ったパンは家族にあげちゃったから」
 茹であがったウィンナーやハムをザルに移し終わった叔母さんは、フォンデュ用に使っている浅いホーロー鍋にニンニクをこすりつけ始めた。あたしは茹であがった野菜たちを大皿に見栄えよく盛りつけていく。
「アパートについて彼の部屋のドアチャイムを鳴らしたの。すぐに足音が聞こえて、ドアが開いたわ」
 叔母さんは鍋を火にかけ、バターを小さく切り分けると、その鍋のなかに転がした。
「……出てきたのはね。見ず知らずの女の人だったの」
 あたしは盛りつけていた手を止めて、叔母さんの横顔を凝視した。カーシャ叔母さんの瞳はどこか遠くを見ているようだった。あたしは叔母さんが受けたショックを考えて、一人胸を痛めていた。
「彼女と何を話したのか、忘れてしまったわ。私は逃げ出そうとしたの。でも、足が動かなかったわ。それにすぐに彼が出てきたから……」
 それは聞いているあたしにも息苦しい瞬間に思えた。どんな想いで叔母さんは、彼の顔を見たのだろうか。
「彼はね……、ちょっとだけ気まずそうな顔をした後に開き直ってこういったの。“お前だって昨日は別の男とよろしくやっていただろ”って。何を言われているのか、さっぱり判らなかったわ。頭のなかは真っ白だった。でもね、知らないその女性が彼に寄りかかっているのを見たら、ふいに怒りがこみ上げてきて、手に持っていたスコーンを彼に向かって投げつけて叫んでいたの。“もう私たち終わりよ!”ってね」
 バターが滑らかに溶けると、叔母さんは小麦粉をバターのなかに振り入れて馴染ませていった。
「後は振り返りもせずに駆け出したわ。彼がその後どうしたのかは知らない。駅前近くの公園まで駆け戻ってきて、ベンチに腰を落ち着けてようやくゆっくりと考えることができるようになったの。……たぶん、彼は前日に私がサヤッシュに助けられたところを見たのね。それで誤解したんだと思うわ。だから腹を立てたんでしょうね」
 バターと小麦粉が馴染んでペースト状になると、叔母さんはミルクをゆっくりと回し入れてペーストをのばしてクリーム状にしていった。木杓子でゆったりと鍋の中身を掻き回す叔母さんの動作にはよどみがなく、一連の作業は滞りなく続けられていく。
「彼の部屋にいた女性と彼がどういう関係か判らないわ。もしかしたら、私のほうの誤解だったかも知れない。でも、彼にスコーンの袋を叩きつけたとき、私は本気で彼とのことを終わらせようとしていたことも事実だと気づいたの。私たちお互いにお互いが重荷になっていたのね。それから、彼とは連絡を取らなかったわ。……それで彼とは終わり」
 野菜たちを茹でた茹で汁をホーローの鍋に移しながらも、叔母さんは木杓子を動かす手を休めることはなかった。鍋の半分の深さまで汁を注ぐと塩こしょうを振り、鍋の火を弱め、中火でコトコトとシチュー状になったクリームソースを煮込んでいく。
 叔母さんは木杓子を動かしながら振り返ると、あたしにバゲットを切るように言った。命じられるままに、あたしはパン籠からバゲットを取り出し、パン切りナイフで一口大にパンを切り、パン皿へと積み上げていった。
「公園のベンチで私がボゥッとしているとね、またサヤッシュに会ったの。ジョギングから帰ってきたところみたいだったわね。私を見つけるとビックリしたように眼を見開いて立ち止まったわ」
 木杓子が時々ホーロー鍋の縁に当たってコツコツと音を立てる以外は、叔母さんの声しか聞こえなかった。
「“どうしたの? なんで泣いてるの?”って訊かれるまで、私は自分が泣いていることにも気づかなかったわ。なんと答えていいのか判らなくて、でも何か言わなきゃって思っているうちに、彼に投げつけたスコーンがサヤッシュに買ってもらったものだと思い出してね。泣いていることとは全然関係ないのに、思わず“スコーンまた駄目にしちゃった”ってサヤッシュに言っていたの」
 バゲットを切り終わったあたしは、パン切りナイフを持ったまま、半ば口を開けた状態で叔母さんの話に聞き入っていた。
「サヤッシュはそれを聞いて誤解したんだと思うわ。公園のなかで営業しているスコーンのワゴンストアまで走っていって、スコーンを山盛り買い込んで戻ってきたの」
 クスクスと小さな笑い声をあげるカーシャ叔母さんの横顔は、あたしと同じ十代のように若々しく見えて、すごく可愛らしかった。ボーイッシュな普段の雰囲気とはまったく正反対。
「ベンチまで戻ってきて、私の隣に腰掛けてね。“ここで食べちゃいなよ。お気に入りのスコーンの味には落ちるだろうけど、ここのスコーンもけっこう美味しいんだよ”って」
 あたしは思わず噴きだした。叔父さんの鈍さは昔からだけど、女性が公園のベンチで座って泣いている理由がスコーンが食べられなかったからなんて、おかしいとは思わなかったのだろうか。それとも、叔父さんなりに考えて慰めているのかしら。
 叔母さんは火を止めると、ゲラゲラと笑い声をあげるあたしの額をコツンと小突いた。
「ナギちゃん、笑いすぎ。……さ、あとはチーズを入れるだけだから、あっちで休憩しましょうか」
 その叔母さんの行く手を塞ぐようにあたしは両手を拡げて立つと、ニッコリと笑顔を叔母さんに向けた。
「ね、スコーンを焼こうよ!」


 あたしと叔母さんは他愛のないお喋りをしながら、スコーン作りを楽しんでいた。
「やっぱり訊いてくるんだ、“赤ちゃんはまだ?”って」
「そうね。結婚して四年になるから、近所の人たちも、もうそろそろって思うんでしょうね」
 薄力粉とベーキングパウダーをふるいにかけ、バターを粉とこすりあわせるようにして混ぜていく。砂糖をさらに加えて馴染ませたあと、冷蔵庫で三十分くらい冷やす。
 その三十分の間は、のんびりと紅茶を楽しむ。フォション社のブレンド。あたしはこの紅茶にミルクを入れて飲むミルクティーが大好き。フォションと言えばアップルティーと言う人が多いけど、あたしはミルクティー好みにセイロンやアッサムをブレンドしたこのフォションのオリジナルブレンドの香りが小さく頃から好きだった。
「あたし、ここのうちの子どもになろっかなぁ。うちは兄弟多いから、一人くらい叔父さんのうちの子どもになってもいいと思うな」
 半ば本気であたしが呟いた言葉に叔母さんはちょっと困ったように眉を寄せた。
「そんなことできないわよ。お義兄さんやお義姉さんに恨まれちゃうわ」
「え~? お父さんもお母さんも、あたしのことほったらかしだよ。現に今日だってあたし一人置いて旅行に行っちゃうし」
 口を尖らせて反論するあたしの髪をクシャクシャと撫でながら、叔母さんがニッコリと微笑んだ。あたしのお母さんが最後にこんな風に笑いかけてくれたのなんて、いったい何年前だったろう。
「ナギちゃんのお父さんもお母さんも、ナギちゃんのこと大切に思っているわよ」
「嘘だぁ~。だったら、どうしてあたしを置いていったりするのよ」
 あたしの不満げな抗議に叔母さんはもう一度笑みを返してくると、ちょっとの間だけ瞳を閉じて、何か意を決したように両目を見開いた。薄い灰色の瞳が部屋の照明にキラキラと光っている。
「ナギちゃん、どうして自分の名前がナギだか知ってる?」
 あたしは頭かぶりを振った。変な名前だと思っていたけど、どんな意味があるのかなんて訊いたことはなかった。
 確かに兄弟のなかであたしだけ妙な名前だった。上の姉がアン、兄がアシュレイ。下の双子は弟がフレイ、妹がフラミー。あたしだけ妙に浮いた名前だと思っていたけど、いったいどんな意味があるというのだろう。
「ナギと言うのはね、日本語で風が凪いだ状態を示す言葉なの。だから、日本語ではこう書くのよ」
 叔母さんは立ち上がってサイドボードの上に置いてあったメモ帳と万年筆を取ってくると、たどたどしい手つきで何やら変わった形の図形を書いた。どうやらこれが日本語の文字らしいということは判ったけど、あたしにはまるで見知らぬ文字だった。
「ナギちゃんはね。お母さんのお腹のなかで死にかかったの。生まれてくるときに臍の緒が首に巻きついて窒息してしまってね。自然分娩じゃなくて、帝王切開で生まれたのよ。とりあげられてからすぐに新生児専用の集中治療室に運ばれてね。一ヶ月くらいそのなかで育ったの」
「嘘……」
 そんな話、今まで一度も聞いたことなかった。大雑把な両親は普段からあたしのことはほったらかしで、ジュニアスクールにあがったばかりの双子の弟と妹をかまってばかりいる。落ち着いて自分の赤ん坊の頃の話なんてしたことはなかった。
 カーシャ叔母さんは立ち上がると冷蔵庫から先ほど入れたスコーンの生地を取り出してきた。溶きほぐした卵を全体に混ぜ込み、ミルクを少しずつ加えて生地をまとめていく。
「ナギちゃんのお父さんとお母さんは、その小さな赤ん坊がこれからの人生を平穏に過ごせるように“ナギ”と名付けたの。ちょうどその頃、近所に日本から来ていた大学教授が住んでいたそうだから、その方から教えてもらったのかもしれないわね。
 これは全部サヤッシュ叔父さんから聞いたことだけど、間違いないと思うわよ」
 叔母さんはまとめた生地を板の上に据えてめん棒で器用にのばしていく。あたしはノロノロと立ち上がると、型抜きを手に取り、叔母さんが生地をのばし終わるのを待ちかまえた。
 叔母さんは生地をのばし終わると、その場所をあたしに譲り、自分はオーブンに余熱をかけにキッチンへと向かった。あたしは黙々と生地を型抜きしていく。
 戻ってきた叔母さんはその手に油を塗った天板を持っていた。あたしは型抜きした生地を天板に丁寧に並べていった。
「ナギちゃんはほったらかしにされているわけじゃないのよ。二人ともナギちゃんのこと随分と心配しているの。……たぶん、今回の旅行だって、ナギちゃんを連れていって疲れさせちゃ駄目だと思ったんじゃないかしらね」
「だ……だって、あたしそんなひ弱じゃないよ? 赤ちゃんの頃ならともかく、今は健康で……」
 叔母さんは「そうね」と肯きながら、並べられた生地のうえに溶き卵にミルクを加えたつや出しソースを塗っていく。
「今のナギちゃんは健康そのものよね。でも、お父さんとお母さんのなかではいつまでも、集中治療室のなかでチューブに繋がれていたナギちゃんがいるのよ。何かあったらって、心配で心配でたまらないのよ」
 ふいにあたしは自分の眼の涙腺が弛んだことを自覚した。頬をなま暖かい涙が伝っていく。告白して振られたとき感じたチリチリと焼けるような胸の痛みがぶり返す。
 うぅん、もしかしたら、それ以上に胸が痛かったかもしれない。
「カーシャ叔母さん……」
 あたしの言いたいことが判っているかのように、叔母さんはあたしの頭を撫でて自分の肩を貸してくれた。あたしは叔母さんの肩に頬を預けて、今日二度目の涙を思いっきり流した。
「泣きたいだけ泣きなさいね。……誰もあなたを独りぼっちになんかしないからね」
 叔母さんの言葉が胸に浸みた。それ以上にお父さんやお母さんが今まであたしに伝えてこなかった想いが胸に浸みた。
 あたしは独りぼっちじゃなかった。


 フォンデュの鍋を再び暖め直し、チーズをちぎりながら入れていたカーシャ叔母さんが振り返った。
「天板が熱いから気をつけてね」
 あの後、余熱が終わったオーブンでスコーンを焼き上げたところだった。取り出した天板からスコーンを剥がし、バスケットのなかに並べていく。馴れた作業だけど、ボゥッとしていると指先を天板でやけどする。
 バスケットのなかで丸い身体を寄せ合っているスコーンたちのうえに埃よけのナプキンをかけ、あたしはダイニングのテーブルにクロスをかけにいった。叔母さんの趣味でこのうちのクロスはアイボリー地に草色の刺繍が縁に施してあるだけの簡素なものと決まっていた。
 クロスの皺を伸ばし、叔母さん自慢の保温プレートをテーブルの中央に置く。
 この保温プレートは今流行りの組立キットを工夫して叔母さんが手作りにしたものだ。普通は組み立てるだけのものだけど、叔母さんはタイルや端材でお洒落なトレイみたいな仕上がりにしている。上手くコード収納の部分も処理してあるから、プラグを使わないときはプレートの下側にコードが隠れて、使おうと思えばテーブルの飾りとしても充分に活用できる。
 フォンデュ用の長い串を用意して、それぞれの取り皿を並べる。あたしは自分用にティーカップを、叔父さんと叔母さん用にはワイングラスを用意した。茹でた野菜や魚介類、肉類を盛った皿をテーブルにセットすると、あとはフォンデュの鍋を待つばかりだった。
「ご苦労様。もうすぐサヤッシュ叔父さんも帰ってくるから、そうしたら食事にしましょうか」
 叔母さんはキッチンから顔を覗かせて、あたしのテーブルのセッティングをチェックすると満足そうに微笑んだ。
 クリームソースのほうもチーズが加わって、かなりフォンデュらしくなってきた。そのフォンデュを入念に仕上げている叔母さんをキッチンに残し、あたしは先ほどできたばかりのスコーンの入ったバスケットと貯蔵棚にしまわれていた蜂蜜の瓶を持ってダイニングへと戻ってきた。
 ナプキンを持ち上げてなかを覗くと、美味しそうな焼きめのついたスコーンたちが眠っている。そのスコーンたちをテーブルの上にセットし、バスケットの脇に蜂蜜瓶も置く。
「蜂蜜をすくうスプーンを忘れているわよ、ナギちゃん。それからアプリコットジャムも出しておいてね」
 めざとく足りないものを見つけた叔母さんがキッチンから声をかけてきた。あたしは座りかかっていた体勢から飛び上がると、スプーンとジャムを取りにキッチンに駆け込んだ。
「ねぇ、カーシャ叔母さん。公園でサヤッシュ叔父さんと食べたスコーンは美味しかったの?」
 あたしは途中で途切れていた話をふと思い出して訊ねてみた。
「あぁ、ワゴンストアのスコーンね? もちろん、美味しかったわよ。だって魔法使いが持ってきてくれたスコーンだもの」
 フォンデュの鍋を丁寧に掻き混ぜながら叔母さんは悪戯っぽい笑みをあたしに向けた。そういう顔をすると、叔母さんの顔は少年のように見えるのが不思議だ。
「魔法使い? 叔父さんが?」
「そうよ。サヤッシュは魔法使い。……あのとき一緒に食べたスコーンにはきっと魔法がかかっていたのよ。だって、彼と別れて悲しかったのに、あの後少しも泣かなくて済んだもの」
 クリームソースフォンデュが出来上がったらしく、叔母さんは火を止めると鍋を保温プレートまで運んでいった。あたしが事前に暖めておいたプレートがこれからはフォンデュの暖かさを保つように仕事をするだろう。
 あたしは叔母さんの後を追ってダイニングテーブルまで来ると、スプーンとジャム瓶をバスケット脇に置いた。
「でも、叔父さんと結婚しなきゃ良かったって思うことが20%くらいあるんでしょ? それなのに、叔父さんは魔法使い?」
「そうね。魔法使いでも喧嘩をするときはあるもの。本当にちょっとしたことなんだけどね。……ナギちゃんもお兄ちゃんやお姉ちゃん、それから下の二人と喧嘩したとき、“大っ嫌い”って思うときあるでしょ?」
 あたしはコクンと肯いた。小さい頃は上の二人とよく喧嘩した。普段は小さなあたしの遊び相手をしてくれる二人だけど、時々癇癪を起こして、お互いが意地を張って喧嘩になる。そんなときは、本当に大っ嫌いって思っていた。
 今になって思えば、ほんの些細なことでの喧嘩で、どうしてそんなことで言い合いになったのか不思議なくらい。
「サヤッシュと私も同じ。いつも仲がいいわけじゃないのよ。ときには喧嘩するし、意地も張るの。どれも後から思えばつまらないことなんだけどね。そんなときは“どうして結婚しちゃったんだろう”って思うのよ。
 ……でもね。大抵の場合、腹を立てて口を利かないでいると、どちらかが耐えられなくなって口を開くの。そうなると、喧嘩は終わり。いつの間にか仲直りしているわ」
 叔母さんはキッチンへと戻っていき、再び姿を現したときには、手にワインクーラーとワインの瓶を持っていた。淡いピンク色のラベルがとっても綺麗なワインだ。きっとロゼワイン。
「そんなときも思うの。これはきっとサヤッシュが魔法をかけたんだって。どんなに腹を立てていても、どちらかが話を始めると、機嫌が直っちゃう魔法よ。……ねぇ、ナギちゃん。あなたの叔父さんはとても凄腕の魔法使いだと思わない?」
 テーブルにワインクーラーをセットして、サイドボードに置いてあったティーセットを取り出すと、叔母さんはまた悪戯っぽく笑った。楽しそうに喉の奥からもれる笑い声は、本当に少年があげる笑い声のように屈託がない。
 あたしは椅子に腰を降ろして叔母さんの笑い声を聞きながら、二人のうち、どちらが魔法使いなのか考えていた。叔母さんの痛みを取り除いてしまった叔父さん。叔父さんは魔法使いだと笑う叔母さん。あたしには二人とも魔法使いのような気がした。だって、叔父さんが叔母さんの痛みを癒したように、叔母さんはあたしの痛みを消してしまったもの。
「さぁ。そろそろ魔法使いのお帰りよ」
 叔母さんはニッコリとあたしに笑いかけると、最後までキッチンに残っていたパン皿のパンたちを取りにキッチンへと向かった。
 あたしはその背中を見送りながら、家の外の音を聞き流していた。汽車の警笛が遠くにかすれて聞こえる。近所の猫がナゥナゥと甘い声をあげている。
 シャラシャラと軽快な車輪の音が聞こえてきた。チリリンとこの家の前で鈴がなり、ガチャガチャとペダルが鳴った。
 サヤッシュ叔父さんだ。叔母さんの予感は的中した。……やっぱり魔法使いは叔母さんのほうかもしれない。でも、あたしの口を突いて出たのは別の言葉だった。
「来た……! 魔法使いが帰ってきたよ」
 あたしは飛び上がるようにして玄関へと駆け出した。外の芝生を踏みしめて玄関へと近づく足音に負けまいと、ドアのノブに手をかけて勢いよく開く。
「お帰り!」
 目の前には、あたしと同じ癖の強い赤毛に丸顔で、黒炭のように真っ黒な瞳をクリクリと動かしてサヤッシュ叔父さんが立っていた。
「やぁ、ナギ。そろそろ来る頃だと思ってたよ。ほら!」
 そういうと、サヤッシュ叔父さんはあたしが前から欲しがっていた、叔父さんの会社で印刷している童話を一冊、あたしに手渡してニッコリと微笑んだ。

終わり


【作中のレシピ】

スコーンの作り方(10個分)
●薄力粉200g ●ベーキングパウダー小さじ2 ●バター50g
●砂糖25g ●卵1個 ●牛乳約60cc
●そのほかに、好みのジャム、蜂蜜、生クリームなど
1.薄力粉とベーキングパウダーをあわせてふるう。
2.バターを加え、指先でこすりあわせるようにしてボロボロになるまで混ぜる。
3.砂糖を加えて混ぜ合わせ、冷蔵庫で30分ほど冷やす。
4.溶き卵を加えて全体に馴染ませ、粉がまとまる程度まで牛乳を加減しながら加える。
5.まとめた生地をまな板などの上で1.5cmほどの厚みにめん棒などでのばし型を抜く。
6.薄く油を塗った天板に型抜きした生地を並べる。
7.溶き卵に牛乳を加えたもの(分量外)を刷毛などで生地の表面に塗る。
8.220度に熱したオーブンで10分間焼く。
9.出来立ての温かいスコーンに好みでジャム、蜂蜜、生クリームなどをつけて食べましょう。

クリームソースフォンデュ(四人分)
●エビ4尾 ●ホタテ貝(ボイルが便利)4個
●ブロッコリー1株 ●カリフラワー1/2株 ●蕪2個
●ニンジン1/2本 ●ジャガ芋2個 ●フランスパン(バゲット)1/2本
●クリームシチューの素50g ●牛乳1カップ ●ピザ用チーズ50~100g
●ニンニク1かけ ●レモン汁大さじ1.5
1.ブロッコリー、カリフラワーは小房に分け、蕪は四つ割り、ニンジン、ジャガ芋は乱切りにする。
2.塩を入れた熱湯で以上を堅めに茹でる。
3.茹で汁に酒大さじ1、レモン汁を加え、エビ、ホタテ貝をさっと茹でて、エビは殻を剥く。
4.フランスパンは角切りにする。
5.ニンニクを二つに切り、切り口を鍋にこすりつけ、砕いたクリームシチューの素、水(茹で汁)1/2カップを加えて煮溶かす。
6.牛乳、酒とこしょう少々、チーズの順に滑らかに煮溶かす。
7.1、3、4を串に刺し、鍋のクリームをからめて食べましょう。

※腕に自信のある方は、クリームシチューの素の代わりにホワイトソースを自分で作ってみるのもいいでしょう。
こちらのレシピはトッピングや具を変えることによって、バリエーションが楽しめます。

〔 15001文字 〕 編集

昔語り おりょうさま

No. 35 〔25年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 昔むかしのことじゃ。
 このお話は、婆の爺がまだうまれる前のお話じゃよ。




 あるとき、村人が落人(おちうど)をかくまったそうじゃ。戦で負け、落ちのびてきたその若武者は、それはもうひどい怪我で、これでは助からぬと誰もが思う有り様じゃったそうじゃ。
 ところが、村長(むらおさ)の末娘がたいそう気の毒がり、毎日毎日、若武者をかくまっておったお宮のお(やしろ)へ通っては介抱したのだと。
 しかしな、娘の手厚い介抱で、ようようと命をつなげた若武者じゃったがのぅ、娘を嫁にもらいたいと村長に言うてしもうたがために大変なことになってしもうたのじゃ。
 村長はたいそう腹を立てたそうじゃ。
 官位もない、ただの落ちぶれた武士(もののふ)に大事な娘をやるわけにはいかんとおもったのじゃろうなぁ。
 恐ろしいことに、村長は村の若者の何人かに命じてお宮に火をかけさせ、その若武者を焼き殺してしまったのじゃよ。
 燃え上がった炎の向こうからは、村人を呪う武士の叫び声が聞こえていたそうじゃ。あぁ、恐ろしや、恐ろしや……。
 末娘は父の悪行を悲しがり、焼け落ちた社のなかから見つけた若武者の太刀をこっそりと持ち出して、供養のつもりでお宮の裏手にあった大きな大きな池に沈めたのだと。
 それからしばらくして、村長の末娘は村でも裕福な家へと嫁いでいったそうじゃ。それはきれいな花嫁さんだったそうじゃよ。




 娘が嫁いでちょっとした頃からじゃった。村に夜な夜な、それは恐ろしいうめき声が響くようになったそうじゃ。
 誰とはなしに、あの落人が無念がってうめいているのだと噂が広がり、村長も恐ろしくなったのだろう。焼け落ちたお宮を立派な物に建て直し、若武者を弔ってやったそうじゃ。
 それでも、夜な夜な響くうめき声はいっこうに静まることはなかったそうじゃよ。
 身の毛もよだつ不気味な声が村の家々の壁といわず屋根といわず、辺り一帯を覆い尽くして、なんとも凄まじい声じゃったそうじゃ。
 たまりかねた村長が遠くの街から祈祷師(きとうし)を高い銭を払って呼び寄せて、若武者の魂を慰めようとしたが、まったく効き目があがらなんだと。
 村長の末娘の嫁ぎ先では、新たに迎えた嫁が原因だと気味悪がり、離縁してしまおうかとまで考えていたというから、その声の凄まじさたるや……。南無南無……。
 娘は自分が原因で起こっている村の騒動に心を痛め、ふさぎ込んで、とうとう病の床についてしまったらしい。
 来る日も来る日も、夜になると恐ろしいおめき声が風に運ばれて村中を覆い尽くし、村人は夜も眠れぬ有り様に疲れ切ってしまったそうじゃ。
 それからしばらくして、田んぼの稲をようようと刈り終えた頃合いじゃった。村長の末娘の姿が、ぷっつりと嫁ぎ先から消えてしもうたそうじゃ。
 探せども探せども、娘は見つからず、辺りはとっぷり日も暮れてきたし、またぞろ村中を覆うおめきが聞こえ始める時刻になろとしておった。
 村長は娘を探せと村人に命じたが、誰も恐ろしがって家の外へ出ようとはせなんだと。
 結局、村長は一人で松明《たいまつ》をかかげて、村のあちらこちらを一人あてどもなく彷徨うたが、いつもの声が聞こえ始めると、這々の体で逃げ帰ったそうじゃよ。
 いつものように始まった恐ろしいうめき声じゃったが、しばらくすると、その声に混じってなにやらおかしな音が聞こえてきたそうじゃ。
 バシャバシャと大きな大きな魚でも跳ねておるような水音が、お宮様の方角から村の方角へとこだましてきよった。もう、皆恐ろしゅうて、蒲団を頭から被ってガタガタと震えて夜明けを待っておったんだと。
 じゃが、声も水音もいっこうに静かにはならず、それどころか水音が段々と大きくなり、魚どころか、竜が暴れておるような轟音(ごうおん)と共に、村中の家の屋根に滝のような水が降ってきたそうじゃ。
 ザバザバと降り注ぐ水に村人は肝を冷やし、生きた心地がせなんだというぞな。
 長い長い夜が明けて、村人が恐る恐る外に出てみれば、昨夜水しぶきが降ってきたはずの地面はチラリともぬれておらず、きれいなまンまだったんじゃ。
 不思議なこともあるものだと、村の若者が何人かで連れ立ってお宮様へと様子を伺いに出かけてみたそうじゃ。
 お宮はいつも通りに静かで、昨日の騒ぎは(うそ)のようじゃった。
 若者たちは怖々とお宮のまわりを調べたあと、ふと気になって裏手の大きな池へとやってきたのじゃ。
 ところが、あれだけ大きかった池が、どういうわけか一晩ですっかり縮んで小さく干上がってしまっておったそうじゃ。
 どうやら、夜の間に村に降った水はここの池のものだったらしいが、水たまりのように小さくなった池の水がいったい全体、どこへ行ってしまったのか皆目わからぬことじゃった。




 そうそう。池にはな……。娘が沈めた落ち武者の太刀に、娘の身につけていた帯が絡みついて沈んでおったんじゃと。
 それ以来、夜な夜な続いた恐ろしい声は聞こえんようになったんじゃ。
 その後、池から引き上げられた太刀と帯はお宮様の社に封じられ、その太刀と娘の帯を納めたお社様を武者ヶ社(むしゃがしろ)と呼ぶようになり、その社のあるお宮様をさして、村人は「おりょうさま」と呼ぶようになったそうじゃ。
 落ち武者に魅入られた娘を悼んでか、あるいは、村の災厄を取り除いてくれた感謝からなのか。娘の名の『おりょう』から付けられたことには変わりはないわな。
 村長の娘が若武者を好いておったのかどうかは、ついに解らずじまいだったらしい。大人しい娘じゃったそうだで、何も言えずに思い(わずら)っておったのかもしれんのぅ。
 じゃから、お前たち。
 おりょうさまの境内に遊びに行ったら、必ず武者が社に手を合わせるのじゃよ。今も、あのお社の奥には、この世で連れ添えなんだ二人の想いがしまってあるからな。
 この婆も一度、子供の頃に、お社の奥に祀られておる古い太刀と色褪せた帯を見たことがる。……どちらも、なんともいえん、哀しい色をしておったのぅ。




 さぁ、昔語りは終わりじゃ。
 じゃがこれは、婆の母様(かかさま)父様(ととさま)から教えられた大切な話じゃ。
 お前たち。……夢、忘れるでないぞえ?

終わり

〔 2585文字 〕 編集

折れた翼-Requiem-

No. 34 〔25年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

この折れた翼を如何にしよう?
もう一度あの大空に羽ばたける緊張の瞬間があるだろうか?
緑滴るパレンバンよ
あの島は今も鬱蒼たるジャングルに覆われているであろうに──

 昭和十六年十二月八日。
 大日本帝国はアメリカ合衆国に宣戦布告した。
 双方に数多の血が流れたこの戦争で翻弄されたのは弱い立場の人民のみで、実質その指揮に当たっていた高官のなかで処罰された者は少ないと言う。


「大熊軍曹殿!」
 背後からの明るい声に栄三郎は振り返った。
 頭に包帯を巻かれ、右腕を肩から吊られた姿で自分に笑みを向ける青年の姿を確認したが、それよりもその青年が看護婦と話している光景が不思議な気がした。
「芝?」
 陸軍飛行学校時代の後輩があっけらかんとした笑みを浮かべている。痛む左足を庇いながら、栄三郎はゆっくりと相手に近づいた。
「お前、背が伸びたなぁ~」
 身体検査ギリギリで飛行学校に合格した青年の背は栄三郎より握り拳二つ分高くなっていた。
「そうでしょう? 背高のっぽたちをことごとく追い越しましたから、もう誰もチビとは呼ばないですよ」
 ニッカリと笑みを見せる表情は背の高さとは反対に随分と幼い印象を受ける。
「なんだお前、女を口説いてるのか?」
 栄三郎のからかう口調に、芝と相手の看護婦が顔を見合わせて吹きだした。
「あはは。違いますよ。この人、斉藤信江さん。同郷なんですよ。まぁ、姉貴みたいなものですよ」
 芝の説明をニコニコと笑顔で聞いていた看護婦が、大熊にペコリと頭を下げた。
「幼なじみか。そりゃ失礼」
 別段、美人でもない看護婦だが丸い身体や笑うと糸のように細くなる眼が人なつっこそうな感じを受ける。
「じゃね。達夫ちゃん、大人しくしてるのよ!」
「ちょっと、その達夫ちゃんはやめてよ!」
 ふくれる芝を残して看護婦は早足で持ち場へと帰っていった。
 広島、呉軍港のこの病院には外地での戦傷者が収容されている。栄三郎もつい昨日、軍港から直送されたところだ。
「飛行学校卒業以来ですよねぇ」
 芝が目を細めて外の景色に魅入る。初夏の若葉が色鮮やかに木々を彩り、空気は生命に溢れている。
 栄三郎も窓の外の明るい陽射しに視線を向けた。
 自分はこんなところで何をやっているのだろうか? 帰りたいと願ったはずの内地なのに、心はひどく空しい。


「この作戦において重要なことは、飛行場内の残存航空勢力を一機残らずおびき出し殲滅することにある」
 隣の小谷中尉のため息を聞きながら、栄三郎は微動だにせず前の部隊長を注視した。
 出撃の時間は迫っている。説明は前日までにじっくり聞かされているのだから、早く解放して欲しいものだ。
 隣の中尉もそう思っているのだろう。ばれないようにそっとため息をつく。これで五回目のため息だ。
「まず爆撃機四機にてパレンバン飛行場上空を旋回し敵機をおびき出し、時間差で到着した我が戦闘機群がその敵機を撃墜する! 囮り機の乗員は戦闘機部隊と密に連絡を取り、敵機を引き渡すよう心がけよ!」
 部隊長の説明が終わったようだ。栄三郎は素早く敬礼すると、上官の後に従って愛機へと歩き出した。四機の爆撃機が銀翼を陽光に鈍く光らせている。
 小谷中尉、河内曹長二人が次々に操縦席に滑り込んで行く後ろ姿を眺める。
 ふと、栄三郎は基地を振り返った。マレー半島の端に位置するこの基地は、冬の季節にも関わらず頬をなでる風が暖かい。
 米国と開戦してからまだほんの二ヶ月。戦局は我が軍に有利に展開していた。シンガポールの陥落も時間の問題だろう。憂うべきことはなにもない。
 だが胸のなかにわだかまる、この重い空気はなんだろう?
「大熊軍曹、何をしている!編隊長機の我が機が配置につかなければ、他の機が離陸できんのだぞ!」
 河内曹長の落雷のような声に栄三郎は飛び上がると、通信室へと潜り込んだ。
「小谷機、配置よぉ~し!」
 機外からの誘導員の声を合図にしたように、機体が滑走路上を滑り出した。地鳴りのような轟音が鼓膜を震わせる。
 胃が浮遊しそうな違和感とともに空に舞い上がった機体の窓越しに、栄三郎はマレー半島とその端に張りつくように建てられた基地に向かって敬礼した。
 ふとその姿勢のまま、故郷の家族の顔を思い浮かべる。今頃、故郷の岐阜は伊吹おろしに吹かれて寒かろう。
 かなりの飛行距離を飛んだあと、栄三郎はゆっくりとした足取りで操縦室へと向かった。
「中尉殿、敵は上手く罠にかかるでしょうか?」
 二度目の通信を報告すべく顔を出した栄三郎は小谷の背中に語りかけた。
「成功させるしかない。一機でも多くの戦闘機を引きずり出すんだ。たとえ我が機が墜ちようとも、な」
 聞くだけ無駄なことは全員が解っていることだ。それを一番年若い栄三郎が口に出しただけのことなのだ。
 囮り機に志願したときから、覚悟していることだ。墜落の二文字は飛行機乗りなら常に意識する。
「チッ! 積乱雲が出始めました。視界が利かなくなる前に高度を上げて雲上に出ないと……」
 河内が滑らかな動きで計器類の確認を始めると、小谷は操縦棹をしっかりと握りしめて機体をゆっくりと上昇させていった。防風窓から他の機も後に続いている姿が確認できる。
 行く手を阻むように拡がる雲海を眼下に眺め、栄三郎は上官たちの横顔を見比べた。
 二人とも日に焼けた浅黒い顔をシッカと前方に向け、鋭い眼光を時折計器類の上に注ぐくらいで、他にいつもと変わった様子はない。
 再び通信室へと滑り込みながら、栄三郎は自分のなかにわだかまる不安を払拭するように頭を振った。


 貧しい家の三男坊に生まれ、喰うに困らないからという簡単な理由で軍隊に入った若者は当然のことながら生活時間の多くを戦いに費やした。
 楽しかったわけではない。むしろ苦痛であったと言ったほうがいい。
 満州で砂まみれの行軍に飽き飽きして、内地に戻るために飛行兵に志願したのだって愛国心からではなかった。
 内地に帰れるのなら嫌われ役の憲兵に志願したって良かったのだ。
 もっとも憲兵は馬に乗れなければならない。どちらかと言えば足の短い栄三郎に「乗馬などは無理だ」と上官から不名誉な返答をもらっていたのだから、志願したところで聞き入れられるとは思えないが。
 内地に帰ってからはその嬉しさから、陸軍の飛行学校へ編入してからも教官の目を盗んでは悪さばかりしていた。飛行学校内でも六期の遠藤、大熊、中村の名はつとに有名で、皆が三人を指して“三羽がらす”と呼んだほどだった。
 遠藤と中村は達者でいるだろうか?
 栄三郎は内地で収容されたこの病院で見つけたお気に入りの場所から、遠くに飛ぶ鳥を眺めてぼんやりと考え込んでいた。


「こちら小谷機。パレンバン島を確認。上空は雲一つない上天気」
 友軍との連絡で電鍵でんけんを叩いていた栄三郎は、ふと手を休めて今はまだ小さな島影をじっくり眺めた。
 あんな小さな島に米国は基地を作っていたのか。日本ならまだ冬のこの時期にもかかわらず、パレンバン島もマレー半島と同じく緑が溢れ返っていた。
 あの小さな島に巣くっている米兵たちを追い払うのだ。
「叩き落としてやる」
 栄三郎は小さく呟いた。
 島影を視界に収めたときから、体中の血が沸き返ってきていた。大東亜戦争が始まる以前から従軍している兵士の血が、栄三郎のなかで目を覚ましている。
 栄三郎の呟きが聞こえたわけでもあるまいが、島から飛び立つ八つの機影が目に入った。
 まっすぐこちらへ向かってくるかと思われた敵機は、正反対の方向へと飛んでいく。まるで、恐れをなして遁走してくようだ。
「大熊! 機銃の準備はできているか!?」
 通信管から河内の声が響いた。
「はい! いつでも発射できます」
「よし! 来たぞッ!」
 栄三郎の答えを待っていたかのように敵戦闘機が反転すると、日本軍爆撃機に襲いかかってきた。
「右上方に二機行ったぞ!」
 小谷の声に河内が応じる声が響いてきた。栄三郎も右側機銃に飛びつく。
「どこだ……?」
「いたぞ! スピットファイヤー、ハリケーンの二機だ! 大熊、よく狙え!」
 河内の声に栄三郎は一層目を凝らす。こちらを威嚇するように飛行する二機が視界の隅をかすめる。
「この……! 当たれ!」
 爆撃機より素早い戦闘機を射撃するのは、骨が折れる。だが経験を積んできた栄三郎たちに出来ない芸当ではなかった。
 一度目の射撃を外したあと、栄三郎は慎重に敵機との間合いを計る。
 機長の小谷が地上からの高射砲を避けつつ、敵戦闘機からの機銃射撃範囲ギリギリの位置を巧みに飛び回る。
「もうちょい……。そうだ、こっちへ来い!」
 花の香りに惹かれて飛んでくるミツバチのように群がる敵戦闘機の鼻先スレスレをあざ笑うようにかすめ飛ぶ。
 そのすれ違い様に栄三郎はありったけの早さで相手に機銃を撃ち込んでいった。
 一機、燃料タンクにでも引火したのか、業火を噴いて失速していく。
「やった!」
 仲間の機が連携して敵戦闘機の背後を襲う勇姿が栄三郎の視界に入ってきた。
「やったぞ、これで二機を撃墜した。あとは……六機か?」
 再び栄三郎は首を巡らせて、残りの敵戦闘機の配置を確認した。味方四機に対して敵は残り六機。まだ決して有利とは言えない状況だ。二機を撃墜したとは言え、油断はできない。
「二、三、四番機! 編隊を組み直し始めました!」
 河内の声が通信管から流れてきた。見れば、今まで個別に戦っていた味方が当初の予定通りの編隊を組み始めている。
「よし! 我が機も合流する。敵に罠と感づかれないよう適度な距離に詰めるぞ」
 小谷が挑発するように敵戦闘機群の間を縫って飛び始めた。
 味方の戦闘機群の機影はまだ見えない。彼らにこの小うるさい蠅どもを引き渡すまでは、決して自分たちが囮りであることを悟られてはならないのだ。
「爆撃を再開する。他の機の様子はどうか?」
「編成に乱れなし! 各機、準備整っている模様です」
 小谷と河内の声に緊迫感が強まる。
「敵戦闘機の様子は?」
「我が編隊を囲むつもりのようです! 四散していた各機が徐々に包囲網を作り上げています」
 河内の声が一層の緊張をみせる。
「駄目か。仕方ない。編隊を解くぞ」
「しかし!」
 抗弁する河内の声を遮るように機長の声が響いた。
「忘れるな。友軍が到着するまでは、敵機を誘い出したままにしておかねばならんのだ!」
 他の爆撃機も編隊を解くと散り散りになる。
 敵戦闘機群を壊滅させなければ、明日以降に予定されている落下傘部隊の投入が遅れていく。
 パレンバン飛行場を占拠するには、敵戦闘機の殲滅は必須だ。
「左上方より敵機襲来!」
「急上昇する!何かに捕まれ!」
 言うが早いか小谷は操縦棹をあらん限りの力で引いた。
 胃の腑を押しつぶされそうな重圧のなか、敵戦闘機の射程範囲から逃れたことを確認すると、栄三郎は敵機の位置を確認しようと窓に顔を押しつけた。
 敵の機影はかなり離れた位置に見えた。
「中尉! 後方の敵機はかなり離れた位置に見えます」
「再度、編隊を組むぞ」
 栄三郎の呼びかけに小谷がすぐさま反応する。
 三々五々に散っていた日本軍爆撃機が瞬く間に集結して編隊を組み直したとき、敵戦闘機群はまだ包囲網を完成させてはいなかった。
「爆弾投下用意!」
 もしかしたら敵戦闘機八機すべてが残っていたとしたら、こうはいかなかったかもしれない。
 本当にほんの僅かの瞬間だった。だがその僅かの時間で爆撃機群たちには充分だ。猛烈な勢いで迫ってくる敵戦闘機の乗員たちにもその光景は見えたはずだった。
「爆弾投下!」
「了解。爆弾投下!」
 基地上空に差し掛かっていた日本軍の爆撃機部隊は、編隊長機の爆弾投下を合図に次々とその腹から禍々しい凶弾を吐きだしていった。
「全機解散!」
 味方基地の噴き上げる炎に気を奪われたのか、敵戦闘機群の包囲網にほころびが生じていた。
 日本軍爆撃機全機は、思い思いの方角へと回避していく。高射砲も届かない上空からの爆撃に基地は南面から火を噴き、ジャングルは赤く染まっていく。
「基地の様子は?」
「敵基地、南側が炎上している模様」
 栄三郎は小窓から眼下を覗く。基地は一部を炎に舐められながらもまだ機能しているかに見えた。だが更なる投下を試みるだけの爆薬はもはやない。
「大熊軍曹! 友軍に通信を入れろ。“我、爆撃に成功せり”」
 小谷の声が誇らしげに通信管から響く。
「了解!」
 栄三郎は嬉々として電鍵を叩き出した。


「おぉ~い。熊! 山賊の熊!」
 栄三郎は頭上からの呼びかけに首を巡らせた。
 学舎の二階から手を振る同期生の姿に栄三郎も手を挙げて答える。エラの張った顔が特徴の中村は、その顔に屈託のない笑顔を刻んでいた。
「田舎からミカンが届いたんだ!喰いに来いよ」
「おぅ、すまんな! もらいに行くよ」
 栄三郎は軽快な足取りで二階に駆け上がると、頑丈な扉枠に頭をぶつけないよう気を使いながら講義室の扉をくぐった。
「おう、来た来た! おせぇぞ!」
「ホラよ! 熊用の餌だ」
 目の前に飛んできたミカンを片手で受け取ると、栄三郎はちょっとその匂いを嗅いでみた。その栄三郎の様子に中村が茶々を入れる。
「あ! なんだ、毒でも入ってると思ってるのか!? 失礼な奴だな。遠藤を見てみろ! 毒が入ってるように見えるか? それにしても、遠藤! お前は猿以下か! 猿だってもう少し行儀良く食べるだろうに」
 遠藤は口のなかのミカンを飲み込みながら、すでに次のミカンに手を伸ばしていた。
「ふはぁいぞ。なひゃむは~」
「きったねぇなぁ。口のなかを空にしてからしゃべれよ!」
 ぎゃあぎゃあと喚く中村と意地汚くミカンを頬ばる遠藤を見比べながら、栄三郎は笑い声をあげた。
「お前ら、どこのガキだ! 少しは落ち着いて喰えよ」
 栄三郎の笑い声が勘に障ったのか、中村が顔を歪める。
「大熊! お前に言われたくないね! この前、寮長の隠してた酒を失敬してきて、一人だけで飲んじまっただろが! お前はあだ名の通り、本当の山賊だ!」
「何を言うか! あれは、みみっちく隠しておくほうが悪いんだ! 酒なんてものは呑んだ者の物だ!」
「かぁ~! 人の物は自分のものかい! いやだねぇ~。俺はそうはなりたくないね」
 二人の舌戦を横目に遠藤は一人で黙々とミカンを胃に収めている。
「こら、遠藤! 一人で全部喰う気か!?」
 さすがに遠藤の食欲に中村が鼻白んだ。こいつは放っておいたら、絶対に一人で食べ尽くす気だ。
「熊! 早く喰えよ。遠藤の奴、俺たちの分を残しておこうなんて了見は持ち合わせていないらしいぞ!」
 木箱一杯に詰められていたミカンがすでに三分の一は無くなり、遠藤の傍らにはミカンの皮がうずたかく積まれている。
 この皮の数だけ遠藤の腹に収まったのだとしたら、胃袋のなかはミカンで一杯に埋まっているはずなのに、遠藤の食欲は一向に止まることがなかった。
「おい! 遠藤。俺の分も残しとけ!」
 慌てて栄三郎が木箱に近寄ると、自分の分だと言わんばかりに両手を木箱に突っ込んで山盛りのミカンを掴みだした。
「お、お前ら! 遠慮ってモンがないのか!?」
「ぬぁい!」「ないね!」
 遠藤と栄三郎に即座に返答されると、中村は天上を一度見上げてため息をついた。聞いた自分がバカだった。
「畜生! 俺も喰わなきゃ損だ!」
 本来のミカンの所有者も参戦してミカン争奪戦は再開された。
 このあと、ミカンを食べ過ぎた三人が三々五々に医務室やらトイレやらに世話になったことは瞬く間に学校中に知れ渡ったのだった。


 誇らしげに爆撃の報告を電鍵に打ち込んでいた栄三郎の身体に異様な衝撃が伝わったのは、その報告を打ち終えようかというときだった。
 栄三郎は電鍵盤がまだ震えていることに気がついた。かなりの衝撃が機体に走ったのだ。軽快なエンジン音を響かせていたはずの愛機が、今は苦しげに呻いている。
「なんだ!?」
 栄三郎は操縦室へと駆け込み、その室内の有り様に息を飲んだ。
「小谷中尉殿!」
 小谷は敵弾の破片を頭部に受けて、全身を朱に染めていた。ガックリと倒れ伏している小谷を支えながら操縦棹を掴んでいる河内の半身も小谷の血がベットリと貼りついている。
 なんということであろうか。敵戦闘機との空中戦で巧みに相手の攻撃をかわし続けていたはずなのに。小谷ほどの熟練飛行士がこんなに簡単にやられて良いわけがない。
 栄三郎は膝の力が抜けていくような気分に、すぐ近くの壁に両手で取りすがった。気づけば、燃料がが白い煙のように機内に噴出していた。
「大熊! 手を貸せ!」
 河内の必死の形相に栄三郎はようやく我に返ると、河内の反対側から小谷を抱えた。
「俺は整備一辺倒で操縦は不慣れだ! 大熊、操縦棹を!」
 蒼白な顔色の河内の手から栄三郎は操縦棹を託されると、機体を安定させようと躍起になる。だが棹は栄三郎をあざ笑うようにジリジリとしか動かない。
 雲間に突っ込んだ愛機は、見る見るうちにジャングルに近づいていく。“自爆”の二文字が栄三郎の脳裏を駆け巡った。
「大熊! 敵基地に機首を向けられるか? どうせ墜落するなら、あの基地を道連れにしてやる!」
 血走った視線をウロウロと辺りに泳がしていた河内が、空いた手で辺りのスイッチを引っかき回しながら叫んだ。
「く……む、無理です、曹長。操縦棹が……」
 渾身の力を込めて棹を引き戻そうとあがく栄三郎の努力に反して、機体は横転、錐もみを続けていた。機体内で身体を踏ん張っているだけで精一杯だ。
「ゆ、友軍だ! 戦闘機部隊が到着したぞ!」
 揺れる機体の制御に気を奪われていた栄三郎の耳に河内の歓声が届いた。思わず栄三郎もその方角に視線を向ける。
 風のように飛来した味方戦闘機群が爆撃機に群がる敵戦闘機を一機、また一機と血祭りに上げていく様子が見えた。
 敵戦闘機からの執拗な攻撃から解放された仲間の爆撃機が、こちらへと飛んでくる姿が栄三郎の目に入った。
「二番水沼機と四番村山機が来ます」
 河内にもその姿は見えていると思えたが栄三郎は口にせずにはいられなかった。僚機は失墜していく編隊長機を気遣うように両側に寄り添い、その翼を振って励まし続けていた。
「作戦は成功したな」
 今までのうわずった声が嘘のような静かな声で河内が呟いた。
 栄三郎がハッとして河内を振り返る。泣きそうな笑顔で河内が僚機に手を挙げるところだった。
 決別の合図。
 これ以上、一緒に飛行していては残りの二機も一緒に墜落する危険性がある。この高度がギリギリのラインと言っていい。栄三郎は我知らずに唾を飲み込んだ。
 死にたくはない。……軍人にあるまじき考え。だが栄三郎はそのとき痛切にそう願った。
 生きたい、生きたい、生きて内地に帰りたい!
 その栄三郎の腕の下で小谷が身じろぎしたのは、河内が僚機との決別を済ませ、二機の爆撃機がゆっくりと高度を上昇させていったときだった。
「小谷中尉殿!」
 栄三郎の声に河内が素早く反応した。
「中尉!」
「……を」
 小谷の囁き声が二人の鼓膜を叩く。
「スイッチを……」
 朦朧とした意識のなかでも小谷は愛機を操縦している。栄三郎は小谷の身体を支えたまま、再び操縦棹を握った。
「引くんだ……。スイッチも……一緒に」
 小谷の声に答えるように栄三郎は操縦棹を引き、河内はスイッチを操作する。だが機体は一向に上昇する気配を見せず、地上はグングンと目の前に迫ってきていた。
 栄三郎の視界一杯にジャングルの緑色が拡がる。
 駄目だ。
 栄三郎たち三人を乗せたまま、戦爆連合編隊長機は南洋の密林へと一直線に吸い込まれていった。


 全身の骨が砕けるかと思うほどの衝撃が身体を襲ったあと、間髪をおかず三人の身体は機体の壁に激突し、その反動で機外へと放り出された。
 愛機は銃弾の痛々しい傷跡をさらし、どうにか爆発もせずに三人を地上へと送り返したのだ。
 栄三郎は身体を動かそうとしたが、断念せざるを得なかった。激痛に息が止まる。どこからか小谷と河内が苦痛に呻き声を発しているのが聞こえてくる。
「中尉殿……! 曹長殿……!」
 喘ぎに近い声で呼びかける。だが栄三郎自身の声が小さすぎるのか、二人から返答はない。
 痛みに混濁している意識が薄れていく。身体が重い。痛い。苦しい。栄三郎は機外へ放り出された姿勢のまま、ピクリとも動けずに気を失った。
 どれほどの時間気を失っていたのか定かではない。全身に叩きつける雨粒で栄三郎は意識を取り戻した。
 空中戦が開始されたのは、正午前後だったはずだ。熱帯地方特有のスコールが降り始めていることを考えると、かなりの時間眠っていたらしい。
 ギシギシと痛む身体を地面から無理矢理引き剥がすと、栄三郎はふらつく頭を抱えた。地面に叩きつけられたときに頭を打ったのかもしれない。
 体中が痛みに悲鳴をあげている。ややもすると混濁しそうになる意識が戻ったのは、この痛みのお陰かもしれない。
 生きている!
 意識がハッキリとして初めて頭に浮かんだのはそれだった。
 生きている。俺は生きている!
 他の何も浮かばない。ただその言葉だけが頭に響く。
「そ、そう言えば……中尉と曹長は!」
 ようやく残りの二人のことを思い出した栄三郎は、痛みでぎこちない動きではあったが辺りを見まわした。
 まだ夕方ではないと思うのだが緑の天蓋のように空を覆う密林とスコールが光を栄三郎の視界から遮っていた。
 薄暗がりのなかに眼を懲らすと、ねじくれた熱帯の樹木の影からゲートルを巻いた足が覗いていた。
「あ……!」
 よろけながらその足の持ち主の元へと歩み寄った栄三郎は、俯せになっているその人物の顔を覗き込んだ。
 小谷中尉だ。
「中尉……! 小谷中尉殿!」
 頭の傷からは血は止まっていたが肩や腕は血に染まったままだ。スコールに全身を打たれてもすべての血を洗い流すことは不可能だったようだ。
 上官の名を呼びながらその肩を揺する栄三郎の後ろから、今度は別の人物の呻き声が聞こえてきた。
「うぅ……。こ……こは……?」
 かすれた声の持ち主は河内だった。栄三郎は小谷の肩に手を置いたまま振り返って、もう一人の上官の姿を探した。
 シダ類の茂みに上半身を突っ込むように倒れている河内が見えた。緩慢な動きで身を起こすその背に栄三郎は声をかける。
「河内曹長殿!」
 その栄三郎の声に河内の意識の覚醒が早まった。
「大熊?」
 先ほどのかすれ声とは反対に意外と元気そうな声が返ってくる。
「大熊、無事だったか。……中尉殿!」
 栄三郎の足元に倒れている小谷に気づくと、河内は這うようにして近づいてきた。小谷の顔を覗き込んだ河内が気遣わしげに上官の名を呼ぶ。
「中尉! 小谷中尉! しっかりしてください、中尉!」
「曹長。中尉の怪我の程度はよく判りませんが手当をしないと……」
 微かに動いている小谷の喉仏が彼の生存を示している。河内もそれを確認すると安堵のため息を小さくつく。
「機内から備品を取ってきます」
 機敏とはとても言い難い動作で栄三郎は立ち上がると、河内の返事も聞かずに愛機へと歩き出した。
 自分たちをここまで運んでくれた愛機は、翼を折られ、窓を砕かれ、機体の各所は大きく歪み、原型を大きく崩していた。
 吹っ飛んで大きく口を開いている入り口からヨタヨタとなかへ這い上がると、栄三郎は応急備品があったと思われる場所へ向かった。
 備品を探し当てて元の場所に戻ってみると、河内が小谷の帽子を苦労して脱がせているところだった。
 血で頭に貼りついた帽子は脱がせにくい。だが力任せに引き剥がせば傷口が開く心配があって思うようにはいかない。
「曹長!」
 栄三郎は上官に呼びかけると、小谷の身体をそっと支えた。小谷の頭を持ち上げたことで作業は格段にやりやすくなったようだ。
 慎重に帽子を脱がせて応急手当を済ませると、栄三郎は再び上官を地面に横たえた。
 手当の間にスコールは止んでおり、辺りからは獣や鳥の鳴き声が間遠に聞こえる。
「大熊、偽装して機を隠さねば」
 ジャングルのなかとはいえここは敵地である。基地には未だ無傷の兵が残っていよう。爆撃機が墜落しただけで爆発などしていないことを敵が知っていれば、捜索隊が出ているかもしれない。
 栄三郎もその可能性に思い至ると痛む身体に鞭打って立ち上がった。
 愛機は無惨なその影を密林の暗がりのなかに溶かし込んでいた。よくぞ自爆もせずにここまで飛んできてくれた。
 一瞬の感傷に胸が詰まる。
 だがすぐにその感傷を振り切るように栄三郎は辺りに生えているシダや地面に落ちている木々の枝を集め始める。
 急がねば、完全に日が落ちる前に作業を完了させなければならない。
 大事な我が機を敵の手中に落としてたまるか。それに、墜落機の発見が遅れるということは、それだけ自分たちの発見も遅れるということだ。
 一言も口をきかないまま栄三郎と河内は黙々と偽装作業を続けた。
 大破したこの機が再び大空に舞い上がる日はこないかもしれない。だがともに空を駈け、敵を追った戦友に違いはない。
 ともすれば、その哀れな姿に涙しそうになりながら、栄三郎たちは夕闇が迫ってきている密林で作業を急いだ。


「あら、大熊さん。こんなところでひなたぼっこ?」
 頭のすぐ上から柔らかな声が聞こえた。見上げれば、芝の幼なじみ斉藤信江の笑顔があった。
「あぁ。ここは風の吹き溜まりみたいで、気持ちいいんですよ」
「へぇ~? 飛行機乗りってみんなそうなの? 風がどうのって?達夫ちゃんもそんなようなこと言ってたし」
 栄三郎が座っている場所は病棟と病棟をつなぐ渡り廊下の外側だ。廊下の両端に立っている腰板に背中を預けている栄三郎の姿は廊下側からはわざわざ覗かない限り見つけることはできない。
 人に会う煩わしさから逃れたいときは栄三郎はだいたいここにいる。
 廊下を行き交う人の足音を背中に聞きつつ建物と廊下に囲まれたこの窪んだ空間にいると現実から切り離されたような感覚になる。さわさわと頬をなでる風も大人しい。
 栄三郎はこの空間が結構気に入っていた。
「飛行機乗りが皆そうかは知りませんよ。でも空を飛ぶ奴は大抵は風を意識していると思います」
 一人の時間を邪魔された煩わしさはあったが、後輩の知り合いを邪険に扱うわけにもいかず、栄三郎は丁寧に答えた。
「そうなの? 大熊さんも飛ぶのが好きなのね?」
 どういう解釈をしたらそんな答えが見つかるのだろう? 栄三郎は彼女の突飛な答えに内心は首を傾げたが、実際には肩をすくめて見せるだけだった。
「ここは大熊さんのお気に入りみたいね? ごめんなさいね、邪魔しちゃったわ。他の人には内緒、ね?」
 悪戯っぽく笑った看護婦の笑顔がえらく眩しく見える。栄三郎は陽射しを遮るように額に手をかざすと、同じように悪戯っぽく笑って答えた。
「えぇ内緒です。もちろん芝にも」
「じゃ、約束」
 そう言うと看護婦は腰板越しに丸みを帯びた小指を栄三郎に突き出した。面食らった栄三郎がその指をしげしげと見つめると、看護婦はプッと頬を膨らませた。
「ほら。指切り! お姉さんの言うことは聞きなさい」
「え?」
 別にそんなことしなくてもいい。いや、それよりお姉さんって言うのはどういうことだろう?
 栄三郎が躊躇いを見せる。それに有無を言わせぬ態度で看護婦が、再び小指を突き出した。
「年上の言うことは聞くものよ? ほら!」
 看護婦の強気な態度に困惑したまま、栄三郎はその柔らかい指に自分の無骨な小指を絡めた。
「はい。指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます。指きった!」
 赤ん坊をあやすように優しげな表情で指切りすると、看護婦はふわりとした笑顔を栄三郎に向けた。


 機の発電装置が破壊されているので、友軍との連絡はまったく取れない状態だった。この密林を自力で抜け出さなければならない。
 偽装が終わった頃にようやく意識を取り戻した小谷に肩を貸しながら、栄三郎は夕暮れの鳥の交響楽を聴いた。
 囮り作戦は成功したはずだ。ならば、明日にも落下傘部隊がこの島に投入される。密林から抜け出し、友軍と合流すれば助かるのだ。
「我々の位置は解っているのか?」
 苦しそうな息の下から小谷は囁いた。
「敵飛行場の北側に墜落したことぐらいしか判りません」
 河内が栄三郎の反対側から小谷を支えて返事を返す。
「そうか。落下傘部隊が投入されるのは島の西側平野部だ。西へ進路を取ろう」
 微かな光源から西の方角の見当をつけ、三人は互いを庇い合うように密林を進んだ。足を捻挫していたり、体中を打撲していたりと、満足に動ける者がいないのだから致し方ないが、歩行は困難を極めた。
 三人だけの行軍は遅々として進まない。ところどころで見かける果実や木の実を食べて、苦しい飢えからは解放されたが、ややもすると方向を見失いがちになる。
 日がとっぷりと暮れてからは一層方角が知れなくなり、木の根につまづき、夜行性の獣の唸り声に怯える。
 敵がどこに潜んでいるか知れなかった。それ故に火を焚いたり、ランタンなどに灯りを灯すわけにもいかない。躰は疲労を訴えてくるが、ゆっくりと休憩するだけの気持ちの余裕が三人にはまったく無かった。
 極限の緊張と際限なく続く鈍い痛み。もつれがちな足取りを前へと進めるのは、それぞれの気力だけだった。
「河内、どうした? 足が痛むのか」
 始めに河内の異変に気づいたのは小谷だった。自分を支えながら歩く部下の息がかなり激しく荒い。
「だ、大丈夫であります」
 苦しそうな息の下から聞こえてくる声は決して大丈夫な様子ではない。
「大熊、少し休もう。疲れたよ、俺も」
 小谷が河内の様子を察してつかの間の休憩を申し出る。だがその休憩中でも辺りに気を配ることを忘れない。
「偵察に行ってきましょうか」
「バカ。月も見えないほどの暗闇だぞ。ここへ帰ってこれなくなる」
 栄三郎の申し出は小谷にあっさりと却下された。お互いの表情も判別できないほどの闇が拡がっているのだ。偵察どころではない。
「……はい。河内曹長殿。具合はどうですか? 少し水を飲まれますか?」
 自分も左半身が痺れたままだったが、栄三郎は三人のなかでは一番体力が残っているようだ。
 余力のある者が限界に近い者を気遣わなければ、限界を超えた者は脱落してしまうだろう。この密林のなかで気力体力ともに失ったら、それは死を意味する。
「す、すまん。少しくれ」
 栄三郎は河内の声のする方角へ手探りで移動すると、その手に水筒を握らせた。
 河内の手は酷く熱っぽい感じがする。もしかしたら、躰のどこかの骨を折っているのかもしれない。
 喉を鳴らして水を飲む河内の動作には疲れの色が濃く、間断なく襲ってくる痛みがその疲労を増長させていることが手に取るよう判る。
 しかし栄三郎にはそれをどうしてやることもできない。
 栄三郎は胃に冷たいものが下りてくる厭な感覚を振り払うように努めて明るい声を出した。
「夜が明ければきっと友軍がきます。それまでの辛抱ですよ」
 水を飲み終わった河内が喉の奥で笑う。その笑みに力はなかった。
「俺は生きて帰るぞ」
 唸り声に似た小谷の太い声に栄三郎は振り返った。その視線の先に小谷がいるはずだが暗闇に覆われた小谷の姿はしかと判別できなかい。
「はい。全員で内地に帰りましょう」
 栄三郎は小谷の声に救われたような気分になった。お国のために死ね、と言われても、人はそう簡単に死ねるものではない。まして死への諦観の境地に達するには栄三郎たちはまだ若い。
「子供がな、生まれたんだ」
「……! お、おめでとうございます。いつです? どちらだったのですか?」
 小谷が小さく笑う声が耳に入る。
「先月の九日だそうだ。男だとさ」
 まだ見ぬ息子の姿を思い描いているのか、小谷はそれだけ言うと押し黙った。
「生きて帰りましょう、中尉殿。自分も家族の顔が見たい」
 河内が苦しげな息の下から囁いた。小さな声なのに驚くほどよく響く。
 辺りには温みのある沈黙が流れた。どこから敵が襲ってくるか解らない緊張感のなかでの一瞬の穏やかな安らぎ。それぞれが、それぞれの想いを噛みしめる。
「……そろそろ行くか」
 小谷の呼びかけに全員が身を起こした。
 行こう、日本へ。懐かしきふる里へ。


「あ。そう言えば、大熊さんを探している人がいたわ。どこだかの新聞社の人みたいだったけど? お知り合いの方?」
 栄三郎と指切りしたあと、看護婦の斉藤信江は今思い出したといった様子で栄三郎に問いかけた。
 栄三郎はちょっと考え込んで、今日の昼過ぎに新聞社の人間と会う約束をしていたことを思い出した。
「あ! しまった。約束してたんだ」
 病院にいると日にちや時間の感覚が狂ってしまう。ぼんやりしているときが多いせいか、今日が何月の何日かなんてどうでもよくなってしまうのだ。
「まぁ。それじゃ、急いだほうがいいわよ。お相手の方、随分と探し回ってると思うわ」
 他人事のため、のんびりと答える看護婦を後に残して、栄三郎はあたふたと廊下の腰板を乗り越えて病室へと急いだ。
 栄三郎を取材したいと申し出を受けたのはつい二~三日前のことだ。
 気乗りはしなかったが断る理由も思いつかず、相手の「慣例ですから」との言葉に渋々承諾しただけだった。
 郷里の母親は喜ぶかもしれない。
 栄三郎の胸中にお国のためなどという感情はこのときも芽生えてはこなかった。
 自分は薄情なのか、それともひがんでいるのか。連日の戦勝に酔いしれる世間に取り残され、栄三郎の胸中は侘びしさに満たされるばかりだった。


 暁の鳥たちの交響楽を聴きながら栄三郎たちはジャングルでの朝を迎えていた。
 一睡もせずに行軍を続けていたため、身体の疲れは限界に近かった。一番体力が残っていた栄三郎も全身の倦怠感に悩まされている。
 ただ冬場でも暖かい南洋の密林にいるお陰で、まばらではあるが諸処に果実らしきものが実っていて、ひもじい思いはせずに済んでいる。
 密林のなかは朝になっても薄暗いところが多く、気をつけないとすぐに木の根や下草に足を取られて転倒してしまう。
「どれくらい来たでしょうね?」
「さて?かなり歩いたつもりだがな。河内、お前に合わせて進むから無理をするな!」
 朝日が昇ってからは小谷は栄三郎に寄りかかって歩いていた。
 河内の負担は幾分減っていたが、足を痛めている彼は杖にすがらなければ歩くのは困難な状態だった。道程で見つけた手頃な木の枝を杖代わりに歩いているが、河内の歩みは痛みに遅れがちだ。
「じ、自分なら大丈夫であります」
 平静を装うとするが、青ざめた顔色がそれを裏切る。
 後ろを歩く河内を気遣う小谷を支えながら栄三郎は頭上を覆う緑の天蓋を見上げた。
 ねじくれた枝や蔦があざ笑うように栄三郎の視界から空を切り取っている。もう少し空が見えたら、この閉塞感から解放されるだろうに。
 小さくため息をついた栄三郎の耳に聞き馴れた音が届く。
「……!? ち、中尉! あの音!」
 小谷の耳にも聞こえたのだろう。二人は肩を組んだままの姿勢で小さく切り取られた空を伺った。
「機銃弾の爆撃音……。友軍だ!」
 栄三郎の口から歓喜の叫びが漏れた。落下傘部隊を投入すべく、日本軍が再度の攻撃を開始しているのだ。爆音は遠くに近くにと繰り返し辺りに響き渡った。
「もうすぐだ! もうすぐ合流できるぞ」
 三人は疲れた身体を奮い立たせて、動かぬ体を前へ前へと進めていく。
 もうすぐだ。もうすぐ仲間の元へ行くことができる。もうすぐこの苦しい行軍ともおさらばだ!
 敵基地からも高射砲で応戦しているようだ。間断なく聞こえる懐かしい音に三人の心は舞い上がっていた。
 友軍だ。友軍が来た。
 今までの重い足取りが嘘のように三人は勇んで密林を進んでいく。だがどれほどの距離に友軍が来ているのかはまったく見当がつかない。
 闇雲に進むうちに爆撃音は間遠になり、そして途絶えた。


「聞きましたよ、軍曹殿。新聞に載るんですって?」
 芝が軽快な足取りで近づいてくるのを栄三郎は黙って見守った。
 芝の怪我の具合は随分と良くなっているようで、頭に巻いていた包帯は取れていたし傷はほとんど目立たなくなっていた。元々頑強で怪我の治りが早い質なのかもしれない。
「以前に一度載ってるよ。別に珍しいことでもないだろう?」
 見知らぬ相手からの過剰な賞賛にうんざりしていた栄三郎は、芝の遠慮ない口調にさえ神経がささくれてしまう。
 栄三郎の気難しい顔つきに芝が目を丸くし、驚きの表情を見せた。
「どうしたんですか? あの特派員、なにか失礼なことを言ったのですか!?」
 芝は勝手に勘違いな解釈をしたらしい。
 建物の外に止められている軍用車に乗り込もうとする新聞社の特派員の背中を鋭い視線で睨んでいる。人の良い芝の性格ならそんな解釈もできるのかもしれない。
「何も失礼なことなんか言ってないさ、あの人は。俺が疲れてるんだよ。たぶん、な……」
 栄三郎は疲れた身体をベッドに横たえると軽く目を閉じた。
 芝の困惑する気配が伝わってきた。栄三郎は片目を開けて芝の表情を確認すると、やれやれといった感じで身体をねじる。
 自分の疲れの原因など芝に解るはずもない。芝に当たったところで、気が晴れるわけではない。だがダラダラと話をするには気分が乗らなかった。
「あ! のぶ姉ぇから差し入れもらったんです。喰いますか?」
 大儀そうに身体を起こした栄三郎の脇に屈み込むと芝は抱えていた袋を差し出した。ほんわりと爽やかな香りがもれている。
「なんだお前、姉さんが面会に来たのか?」
 差し出された袋を反射的に受け取ると栄三郎は中身を覗き込んだ。
 夏みかんだ。ちょっと季節的には早いような気もするが、芝の郷里では珍しくないのかもしれない。
「面会なんか来てませんよ。のぶ姉ぇってのは、ほら。前に紹介したでしょう? 看護婦の斉藤信江。のぶえだからのぶ姉ぇ。たぶん誰かからもらったんだと思いますけど、遠慮なく食べてください」
 栄三郎は丸い体型の看護婦の顔を思い出して顔をほころばせた。もらった夏みかんを弟分たちにも分けてくれたわけだ。
 夏みかんの明るい色が彼女のふんわりとした笑顔と重なって、栄三郎はなんだか面はゆい気分になった。
「遠慮なく頂くよ」
 口腔一杯にじわりと拡がるその甘酸っぱい味をゆっくりと楽しむ。丁度、小腹が空いてきたところだったので、夏みかんの酸味が胃に染みわたった。
 栄三郎は胸のなかに溜まっているもどかしい寂寥感がほんの少し薄まった気がした。
「芝。斉藤さん、幾つなんだ?」
「? ……のぶ姉ぇの歳ですか? 俺より二つ上だったと思うけど?」
 栄三郎の突然の問いかけに芝は首を傾げながらも、先輩の機嫌が直ったことに安堵したようだった。
「のぶ姉ぇの歳がどうかしたんですか?」
「別に。ちょっと気になっただけだ」
 歯切れの悪い栄三郎の答えに芝の顔が怪訝そうに歪んだ。
「なんですか? ……ま、まさか!」
 どう言ったらいいものか、と顔を引きつらせる芝の視線から逃れるように栄三郎は立ち上がった。そして、そのまま窓際まで足を引きずって歩く。
 自分より一つ年上の看護婦の顔を脳裏に思い浮かべながら、栄三郎はぼんやりと考え込んだ。
 骨髄を損傷し左半身の自由が利かなくなった自分が空に舞う日はもう二度とこないだろう。どうせ長くない人生だがこれからは愉快でもないことをやって生きていくよりは、心穏やかに過ごして生きたいものだ。
 戦いのなかで敵に銃口を向けておきながら、自分だけ平穏に暮らそうというのは贅沢なことだ。
 だが栄三郎の飛行機乗りとしての生命は終わっている。それならば、少しくらい他の夢を見てもいいではないか。
 燦々と降り注ぐ太陽の光を窓越しに振り仰ぐと、栄三郎は抜けるような青空に憧憬の視線を送った。


 駄目か。このまま友軍と合流できないのか。
 爆音が聞こえなくなると、三人の足取りは途端に重く鈍いものになった。互いに顔を見合わせて、その顔に浮かぶ焦りと失望に一層孤独を深めていく。
 密林の木々が徐々に少なくなってきていた。もうすぐこのジャングルも途切れるはずだ。だがその先に彼らが求める友軍の姿はないかもしれない。鈍った足取りは止まりそうになる。
 そんな彼らの耳に再び聞き馴れた爆音が聞こえてきた。この音は……。
「手榴弾の爆発音だ!」
「落下傘部隊だぞ」
 期せずして三人の口から歓喜の絶叫があがった。
 相変わらず爆音は近づいたり、遠退いたりして友軍との距離は定かではない。だが確実に近づいてくる戦友たちの姿を思い描いて、三人は再びジャングルの端を目指して歩き出した。
 そして、とうとう密林を抜けると弾音は一層間近に聞こえ、その激しさを増した。すぐそこに友軍の突撃の喊声すら聞こえ出す。
 密林を彷徨っているうちに日は落ちかかっていた。爆撃音を聞いてから何も食べずに歩きづめていたが空腹感を感じる余裕もない。
 平野部をよろけるように進んでいくと、やがて遙か前方に民家らしきものが見え始めた。
 地面の各所に塹壕が数カ所掘られている。建物と自分たちの今の位置から見て、ほぼ中間地点の塹壕に敵軍旗が見えた。手榴弾と機銃で応戦しているのだ。
 その建物からこちらに向かって駈けだしてくる一団の姿が目に入った。三人ももつれる足にかまわず駈けだす。
 ウォンと空気を震わせる鬨の声がその一団からあがる。
 塹壕に張りついていた敵軍が背後の自分たちに気づく。彼らは前方の敵と挟撃されたと勘違いして、泡を喰って散り散りに逃げていく。
「日本軍だぞぉ~!」
 三人は絶叫しつつ駈けだしていたが、足をもつれさせてもんどり打って倒れると、そのままへたへたと座り込んでしまった。
「お~い! おぉ~い!」
 自分たちに呼びかける仲間たちの声に胸が震える。勇んで駆けつけた戦友たちの腕に抱えられると、三人は堪えきれなくなって泣き始めた。


 友軍に救出され軍艦でマレー半島へ運ばれる間に、栄三郎たち三人は自分たちが勝手に英雄に祭り上げられていることを知った。
 少年兵だった頃には憧れていた英雄というものに自分がなっている、この不可解さが栄三郎に言いようのない苛立ちを募らせた。
 そんなものになりたくはない!
 だがどう反論しようと上司がお抱えの新聞社特派員に連絡を入れ、彼らを記事にするよう手はずを整えていた。
 勝手に作られていく偶像に栄三郎たち三人は途方に暮れるしかない。
 人々の勝手な賞賛に栄三郎は疲れ切っていた。
 自分の翼は今もあのジャングルで眠る愛機とともに折れ飛んだのだ。こんな身体では二度と空に舞う日はこない。あの緑の天蓋を見上げることももうないだろう。
 鬱蒼と茂る密林は自分のなかの何かさえ覆い隠してしまった。今の自分にいったい何が残っているというのか。
 生きて帰ってきた。
 ただそれだけが今の自分に残っている。これから先がどうなるかなど神でもない自分に解るわけもない。
 だけど……いや、それでもいい。
 生きて、生きて、生き抜いて……。
 そして静かに土に還ろう。
 自分のなかでだけ結論を出すと、栄三郎は自分でも気づかないうちにうっすらと笑みを浮かべていた。
 入院してから、いやもしかしたら飛行学校を卒業してから初めて浮かべる、穏やかで自然な笑みだったかもしれない。


 西暦一九九六年(平成八年)五月十七日。
 大熊栄三郎永眠。
 これでまた戦争の記憶を残す者が一人減った。
 彼はあまり多くを語ろうとはしなかったので、医者に「この戦傷では、四十歳まで生きられない」と宣告を受けながら、彼がその倍以上の人生を歩んだことを知る者は少ない。

終わり

この物語は亡くなった祖父に捧げる鎮魂歌である。君よ、心安らかに眠れ……。

〔 18168文字 〕 編集

脱出 【ある生物】

No. 33 〔25年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 その生物はいつも考えていた。
『外の世界で生きたい』
 それの棲んでいる世界は穏やかであった。暖かであった。静かな微睡みの中にあった。
生物は考え思う。
『どうしてここは、こんなに変化がないのだろう。あぁ、外の世界へ行きたい。外のあの荒野へ行って己を強くしたい』
 温暖な世界に馴れきった仲間たちはうららかな日差しに目を向けて、ボゥッとしている。
 時間の境界線がない、昼だけの世界。寒暖の差などない、ぬるま湯のような世界。他人と競って生きる必要もなく、ほどほどに生きて死んでいく。
 毎日……この概念が昼だけの世界に当てはまるのなら……一定の時間に自称『管理人』がやってくる。
 彼はやってくると生物やその仲間たちに食べ物をくれる。それも人工的に加工したものばかりだ。そして、一人一人に声をかけていく。
 生物はそんな言葉など無視しようと外の吹き荒れる荒野をジッと眺めた。
「おい! お前はまだ陽の光を見ないのか。どうしてそんなほうばかり見ているんだ」
 管理人が怒りと悲しみを生物にぶつける。しかし生物は管理人から顔を背けて外の世界のことを思う。
 諦めてこの世界から出ていく管理人がその世界の境界線の扉を開けたとき、外の世界の空気が少しだけ流れ込んできた。
 生物は喜びに全身を震わせた。仲間たちは恐怖に震えおののいている。
『あぁ、外の世界よ。なんて清楚な風の流れだろう。行きたい。行ってみたい。あの吹きすさぶ風の中の大地に降り立ちたい』




 なんの変化もない世界。まだるっこしいこの世界にある日、突然の闖入者たちがあった。
 あの『管理人』の奴がしきりと頭を下げて、その闖入者たちに話しかけている。そいつらは仲間を一人一人見ては、管理人に何事かを告げていた。
 最後に生物のところへきて言った。
「なんだね、この出来損ないは!!」
 生物はこの闖入者の言った言葉を理解できなかった。頭を下げて謝っている管理人が今日は随分と小さく見えた。
 ナンダネ、コノデキソコナイハ……?
「捨ててしまいなさい、こんなもの!!」
 闖入者は怒って去っていく。生物は訳も解らずに立ちつくした。
『なんだあいつらは。変な奴』
 後に残った管理人はため息をついて生物を見上げた。つまらないものを無くしたときにつくため息のようにどこかなげやりな感じのするため息だ。
「やっぱり駄目だったか」
 管理人のことなど意に介さず、外を見続ける生物の体を管理人は無造作に掴み持ち上げた。そのまま扉へと向かって歩き出す。
 仲間たちが悲鳴を上げている。外への恐怖と仲間の運命に身をよじり震わせる。
 しかし生物は外の世界へと連れ出される喜びに全身を揺らした。
『外だ! 外へ行くんだ!』
 寒風が体に吹きつけたかと思うと、生物は投げ出されていた。
 抵抗することもなく身を横たえ、徐々に冷えていく体とは裏腹に生物は歓喜の叫びを上げ続けた。




 一週間もした頃、生物は自分の死を感じた。だが、同時に新たな命の産声も聞いていた。
 ある晴れた暖かな初春の日、巨大な温室農園の敷地に隣接した荒野の片隅に、縮れ枯れ果てた一本の向日葵の下から小さな芽がその荒れた大地から萌え出していた。

終わり

〔 1350文字 〕 編集

タッシール紀

No. 32 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
放浪者の瞳

 旧暦から恒星暦へと暦が変わってすでに千年以上が経った現在も、惑星タッシールは栄華の極みにあるように見えた。辺境惑星の羨望の視線を浴びて、この星の住人たちは常に取り澄まし、己の権勢を誇ってきたのだ。
 そう。ここトルテリア共和国首都バルヴァに建つ国立トルテリア大学もその羨望の視線を向けられる施設の一つに違いない。彼、アッサジュ・パルダという考古学の権威をそこに飼っているゆえに……。
 窓の外は灰色の雲が垂れ込め、秋の物憂げな愁雨が今にも降り出しそうな気配だった。キャンパス内を学生たちは急ぎ足でせかせかと歩き回っている。その姿は降りだそうとしている雨と競争をしているようだ。
 部屋の窓から眼下のキャンパスを見下ろしていたアッサジュ・パルダは、扉をノックする音にふと我に返って返事を返した。
 灰色がかった蒼紺の視線を扉へと注ぐと、その木製の扉が開いて入ってきた人物をしげしげと観察する。小綺麗に短く刈り込んだ黒髪に褐色の肌の男だった。歳は三十代前半と思われる。顔の造りは悪くない。
 訪問者の褐色の顔のなかに暗い色合いの翠の瞳が鋭く光っていた。深い知性を宿した瞳の色は優しいがどこか孤独を含んでいるように見える。
「やぁ、ワーネスト。久しぶりじゃないか!」
 気さくに声をかけると、アッサジュ・パルダは散らかった応接セットの机の上を片付けて、客が取り敢えず落ち着けるスペースを瞬く間に造り上げた。
「ご無沙汰しております。教授は相変わらずお元気そうですね。そうそう、お嬢さんがもうすぐご出産だと伺いましたよ。とうとうお祖父ちゃんですか」
「なんだね。この老いぼれに孫の世話でもして隠居しろと言うのかね?」
 手早く香茶を淹れると、老教授はどっかりと相手の向かい側に腰を降ろして苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を見せた。
 骨格のがっしりした体格のアッサジュ・パルダは年は取っていても隠居するような柄には見えない。白髪のほうが多くなった頭髪を撫でつける指は、学者というよりは労働者といった感じさえ受けるのだ。
 ワーネストと呼ばれた男は苦微笑を浮かべ、受け取った香茶を一口すすった。
 香草をブレンドした香茶の味は独特で、好き嫌いが分かれるところだろうが、この男の口には合っているらしい。苦微笑が消えると、その顔には満足そうな笑みが刻まれた。
「トルテリアの香茶はどれも美味いですね。オレの国だともっと味が薄くて、物足りないんです。この国にいるとずっと香茶を飲み続けていたいような気がしますよ」
「もちろん! このトルテリア共和国の香茶茶葉は宇宙一だからね」
 まるで自分が褒められたように胸を張ると、教授は人なつっこい笑みを浮かべて年下の男を見つめ返す。そしておもむろに自分のカップから香茶をすすって、さも威厳を見せるように重々しく頷いた。
「発掘は順調なのですか?」
 ひとしきり香茶談義を繰り広げていた二人の間にふと沈黙が落ちると、年下の訪問者が何げなく質問をしてきた。
「うむ。まぁ、順調とは言えないが……。発掘にはつきものだからね、現地でのトラブルや費用の問題などは」
「あの海のなかから突きだしている奇山にいったいどれくらいの考古学的価値があるのかしりませんけど……。あそこの島の住人は保守的で排他的な気質をしている者が多いんですよ。気をつけてください」
 心配そうにこちらを伺う男に「大丈夫だ」と手を振って応えると、老教授はポットに残っていた香茶を二つのカップへと注ぎ足す。キザにならない程度にもったいぶった手つきがいかにも洗練されており、彼が充分な教養と学問を身につけられる裕福な市民の出であることを示していた。
「君のほうこそずいぶんと忙しいのではないのかね? 惑星一の発行部数を誇る月刊誌プラネットで署名入りライターを務めているとなれば、忙しさは半端ではあるまい?」
「えぇ。今日も取材準備の途中でして……」
 再びカップに口をつけるとワーネストは誇らしげに目を細める。その瞳の奥には野心的な光が点っていた。
 雑誌プラネットは惑星タッシールの歴史や環境、科学などありとあらゆる分野の最先端を紹介する雑誌である。惑星住民のなかでこの雑誌の名を知らない者はいないと言っても過言ではない。
 その雑誌で記事の最後に文責署名を入れられる記者というのは、かなりの実力者だと言ってもいい。専門分野はあるにしろ、彼ら署名ライターは実に多くの知識をその脳内に収めているのだ。
「私の発掘内容以上に、君の好奇心の触覚に触れるような面白いネタがあるのかね? それは是非聞かせてもらいたいものだな」
 アッサジュ・パルダは子どものように好奇心で光る視線を相手へ注ぎ、相手が話し出すのをワクワクとして待っていた。
「教授、記事になるかどうかも判らないんですよ? ……あぁ、判りましたよ。そんな恨みがましい目で見ないでください。絶対に他言無用ですからね」
 相手の好奇心をいなそうとしたワーネストは、不満げに頬を膨らます老教授の様子に苦笑いを浮かべる。まったくもってこの老人は子どものようだ。面白い玩具を取り上げようとすると、途端にふてくされたように機嫌を悪くするのだ。
「実は今回はガイアへ飛ぼうと思いましてね。今日はそのスターシップの手配をしに行くんです」
 アッサジュ・パルダが自分の言葉に失望どころか、なおいっそうの好奇心を募らせたらしいことを理解すると、ワーネストは香茶を一口すすって微かなため息をもらした。いまさら話をやめるわけにもいかない、といったように。
「あの惑星に大したものがあるとは思えませんけど。大昔に海に飲まれた大陸のことを調べてみようと思っているんです。このタッシールの大沈没時代を彷彿させる話題でしょう?」
「ほう! あの辺境の惑星にも大陸を呑み込んだ海があるのかね。それは興味深い。だがあの惑星は双子星ではなかっただろう? 我がタッシールの双子星が消滅したときのような激しい変動などなかっただろうに、いったいどうやってそんな巨大な海のうねりができたのかね?」
 お伽噺をねだる子どもそっくりに瞳をキラキラと光らせた老人の態度に、ワーネストが苦笑いを深くした。まったく好奇心の塊のような御仁だ。
 手に持ったままのカップの縁を指先でなぞると、ワーネストはやや目を細めてじっと香茶の水色に視線を落とした。指でなぞっている振動で、水面には小さなさざ波が立っていた。
「惑星の地軸が狂ったんですよ。神話の書物にも海に飲まれる大陸の話は出てきますから、かなり大規模なものだっと思います。その辺りと絡めて記事にできたらいいんですけどね」
「なるほど! 遠いガイアとタッシールの意外な共通点か。君ならきっと面白い記事が書けるだろう。しばらくは君の署名入り記事から目を離せないな!」
 老齢の域に達したとは思えない大きな声で相手を称賛すると、アッサジュ・パルダは顔を大きく笑みで崩した。
 この快活な老人に褒められて嬉しくない人間などいないだろう。ワーネストも満点をもらった生徒のように晴れやかな笑みを浮かべ、ついで照れくさそうに鼻の頭をこすった。
「それにしても君はあちこちを旅しているようだね。私がこの国の周辺で地面を掘り返しているのと比べると、まったくタフだと思うよ」
「何を仰っているんです、教授だって充分タフじゃないですか。だいたい発掘の指揮をとりながら自分もシャベルを持って地面を掘り返すなんて……。いい加減にお歳を考えていただきたいものですね」
「この老体から発掘の楽しみを奪おうというのかね? それはないよ。この楽しみを取り上げられるなんて我慢ならん」
 教授の太い指先はどうやら発掘の重労働のために培われたものらしい。優雅に指を振る動きは滑らかだが、妥協を許さない職人のような頑固さがそこにはあった。
「そうそう。ところでスターシップの手配をするということは周期船で行くわけではないのかね?」
 カップの底に残っていた香茶を飲み干すと、老教授は首を傾げた。辺境惑星とはいえ、ガイアにはここタッシールから定期巡航船が出ているのだ。専用のスターシップをチャーターするより遙かに安上がりだろうに。
「えぇ。周期船で行くと思わぬ足止めを喰いそうなんですよ。ここ数ヶ月、あの星団域は宇宙嵐が断続的に続いてましてね。周期船では辿り着けないかもしれません。だからあの地区に詳しい船長を専任で雇うことにしたんです」
 それを聞いたアッサジュ・パルダが「う~む」と低い唸り声をあげた。恒星から噴き出す宇宙風。その風の巻き起こす宇宙嵐は厄介な代物だ。嵐のただ中に突っ込んでしまうと、嵐に吹き飛ばされたり磁場が狂ったりとかなりの危険を孕んでいる。
「あの辺りがそんな危険な状態だったとは。それで……見つかったのかね、その優秀な船長とやらは」
「もちろんです。今日これから逢いに行くんですよ。直接交渉できる手筈を整えましたからね」
 その言葉に老教授の瞳がキラリと光る。好奇心以上の興味を含んだ相手の気配に、ワーネストが一瞬たじろいで身を引いた。
「だ、駄目ですよ。一緒に連れていけませんからね!」
 思わず声を上擦らせてワーネストは叫んでいた。ところが老教授はまったく相手の言葉を聞き流して、いそいそと外出用のコートを取りに立ち上がっているではないか。
「教授!」
「まぁまぁ。ちょっと逢うくらいならいいじゃないか。ガイアのある星団域に詳しい人物となれば、当然ガイアの歴史にも造詣があるとみたがね? こんなチャンスは滅多にないだろう? なぁ、ワーネスト。まさか老い先短い老人の愉しみを取り上げたりしないだろうね」
「これから向かう先は決して治安がいい場所ではないんですよ!」
「そんな場所に君は一人で行くのかね? それならなおさら私が一緒に行かなくては。大事なかつての教え子に何かあったら大変だ」
 抗議の声をあげようと口を開きかかったワーネストは幾度か舌を動かそうと試みた。だがそれらすべてが無駄に終わると、肺のなかの空気を全部絞りだすほどの深いため息をつき、片手で額を覆ってうめき声をあげる。
「船長に逢っても、相手の機嫌を損ねるような真似はしないでくださいよ。今までの苦労が水の泡です」
「なぁに。麗しき神々は善良な市民をいつだってお救いになるものさ。人生なんて、どうとでもなるものなんだよ、ワーネスト」
 気さくに年下の訪問者の背をポンポンと叩くと、老人は悪戯に成功した少年のように愉快そうな笑みを浮かべて相手を圧倒した。
 その灰色がかった蒼紺の瞳の力に逆らえないのか、ワーネストは引きつった顔に無理矢理笑みを浮かべるしかないようだった。


 辿り着いた場末の酒場は降り出した雨のなかで見るとひどくうらぶれた感じがする。剥げかかった看板に刻まれた文字はもうほとんど読むことができない状態だが、目をすがめてじっと見ていると辛うじて「宵星亭」という文字が浮かんで見えた。
「なんとも興味深い建物じゃないかね。この街にまだこんなに古い建物があるとは思いもしなかったよ」
 老教授の、古びているが仕立てのいいコートの肩に小雨が降りかかっていたが、濡れることを気にしない質なのか、彼は目を細めて酒場の外観を観察していた。
「教授。悪いことはいいませんから、ここでお帰りになったほうがいいですよ。ここは教授のような方がくるような場所ではないと思いますから……」
「まだそんなことを言っているのかね。さぁさぁ、そんなことを言わずに偉大な冒険を敢行してくれる船長に逢わせてくれたまえ」
 そう言うと老人はさっさと一人で壊れかかった扉を押し開けて店内へ入っていく。まったく不用心というか、大胆というか。その後を追いかけながらワーネストは諦めたようにため息をついた。
 狂雑なポップスががなり立てている店内には、それに見合った男女が入り浸っていた。
 ドラッグの甘ったるい饐すえた匂いが充満し、シガーの紫煙が店内の最奥を霞ませている。ここには、混沌と頽廃があった。
 ところがカウンターのなかに立つバーテンは、およそこの傾きかかった酒場に相応しくない姿をしてるではないか。目の奥を焼く炎のような赤髪に象牙色の柔らかな色合いをした肌は薄暗い店内では一際目を引く存在だ。歳もまだ若く見える。
 感心した様子でその姿に見惚れている老教授の脇をすり抜けると、ワーネストは臆する様子もなくそのバーテンへと近づいていった。
「やぁ、ヴィーグ。オレの客はもう来ているかい?」
 カウンターで忙しく手を動かしていた若者が心持ち顎をあげてワーネストへと視線を走らせた。愛想のない表情で、相手を不快にさせないギリギリの拒絶を感じる態度だ。
 その見上げる瞳が炎の髪とは正反対の氷色をしていることに気づいて、アッサジュ・パルダは目を見張った。薄い色の瞳をしている者はこの国には少ない。それでなくてもこの赤髪は目立つだろうに、氷海の色をした瞳は見る者を捕らえて放さない。
「奥にいますよ。今、マスターと話をしているはずです」
 炎の情熱も、氷の拒絶も何もない無感動な声が若者の喉を震わせたとき、店の奥から大柄な男が顔を覗かせた。癖の強い鉄色の髪に鮮やかな空色をした瞳がよく映える男だった。
「マスター。ご到着です」
 現れた男に気づいたバーテンが無機質な声をその男にかける。どうやらこの空色の瞳をした男がこの酒場のマスターらしい。手近な客と談笑していたが、ふと顔をあげて値踏みするようにワーネストとその脇に立つ老人を眺め回した。
 平均身長より頭一つ分ほど高い男から見下ろされも、訪問者たちは威圧感は感じなかった。彼が長年の間に客商売で培ってきた特技だろう。客との間に適度な距離を置く店の主の態度はむしろ心地よくさえあった。
「いらっしゃい。お目当ての方は奥ですよ。……到着されましたよ」
 ワーネストを手招きしたマスターが奥の扉を半開きにして中に声をかけていた。
 年下の同伴者と供に他の客の間をすり抜けてその扉へと近づきながら、アッサジュ・パルダはその様子を面白げに眺めている。得難い経験の一つ一つを脳に刻みつけようとでもいうのか。
 喧しい店内を抜けて奥の部屋へと案内されて入っていくと、そこには数人の男たちがのんびりと杯を傾けているだけの静かな空間だった。
「あ~……。お待たせしました」
 今までの店内の様相とはまったく正反対の、むしろ知性を深く宿した瞳を持つ男たちの姿にワーネストのほうは少々面食らっているようだ。その横で老教授がニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべて立っている。
「ワーネスト・トキア氏、ですか? お一人でおいでになると伺っていたが?」
 猛禽類の瞳を思わせる琥珀色の瞳を持つ男が、瞳と同じ鋭い批判を込めた声をあげた。まわりの男たちも口にこそ出さないが、賛同の視線を向けている。約束が違うのではないか、と。
「すまんねぇ。私が無理矢理にくっついて来てしまったのさ。ガイア星域に詳しい人間なんてそういないからね」
 ワーネストが口を開くよりも先に、老教授がコートを脱ぎながら豊かな声で返事をした。外の肌寒さを一掃する温かな声だったが、男たちはさらに胡乱な視線を老人へと向けるばかりだ。
「オレの大学時代の恩師です。口の堅さは保証しま……」
「お喋りな奴は嫌いだ!」
 初めに口を開いた男が厳しい声でワーネストを制した。それに射すくめられたようにワーネストが硬直する。最悪だ。予定外の人間を連れてきたことが彼らを怒らせてしまったようだ。
「おやおや。ワーネスト。君の知り合いは随分と短気な人間のようだね。よほどこの年寄りを寒空の下に放り出したいらしい」
 言い訳に苦慮していたワーネストは教授のこの声に余計に肩を落とした。この老人にはこの緊迫感が判らないのだろうか? このままでは今まで自分が準備してきたことがすべて水の泡だというのに。
「自己紹介がまだだったねぇ。私はアッサジュ・パルダ。国立大学で教鞭を取らせてもらっとる。あ~。専攻は……」
「考古学でしょう? 今はイフォーバ山をあちこち掘り返しているそうじゃないですか。山の精霊に祟られやしませんか?」
 今まで黙っていた一人の男が口元に薄く笑みを浮かべて老教授とワーネストを見上げている。光量を落とした室内にも関わらず、彼の周囲は輝いているように錯覚しそうだった。
 まったく混じりっけのない白い髪はまるで老人のようなのに、白人種らしい肌の艶は決して年寄りに見えない。長く垂らした前髪で顔の左半分を覆っている。彼の年齢はむしろワーネストよりも若そうだ。
 精悍な顔立ちのなかで一つの暗い翠の瞳が微かな好奇心に輝いていた。
「私をご存知かね? それは光栄なことだ。あ~。名前を伺ってもかまわんかね、お若いの?」
 嬉しそうに笑みを浮かべる老人とその若者を交互に見比べてワーネストは戸惑っている。だが下手に口出しをするとこの一瞬の和みが崩れてしまいそうで、彼は手を出しかねていた。
「ここでは俺たちの名前を聞かないことです、教授。あなたの命を保証しかねる。だが呼び方に困るのなら……俺のことはガイスト、と呼べばいい」
 やんわりと拒絶を漂わせながらも相手は老人を受け入れたようだった。周囲の男たちはまだ険悪さを残した視線を立ったままの二人に向けていたが、この白い男の言葉を遮ろうとはしない。
「ガイスト? えぇっと……。確か、私の記憶に間違いがなければガイアのどこかの地区の言葉で亡霊という意味があったと思うがね」
 太い指先で自分の額をトントンと叩きながら知識をひっくり返している老人の態度は至って真剣で、相手を出し抜いてやろうなどという魂胆はまったくないようだった。それが気に入ったのか、若者が幾つかの空席を指さした。
「座ったらどうです? 入り口の側じゃ暖房が行き届いていないでしょう」
 ようやく同じ席につくことを許されて、ワーネストはホッと吐息を漏らした。恩師を席の一つへと誘うと、自分もその隣へと腰を落ち着ける。やっとこれでスタートラインに並べたのだ。
「やれやれ。寒くなると昔痛めた膝が疼いて困るよ。この国は雨期に入ると急に冷え始めるからねぇ。老骨には堪えることだ。……寒さしのぎに一杯引っかけてもいいかね?」
 室内の大テーブルに並んだ人数はアッサジュ・パルダとワーネストを入れて六人になった。自分たち以外の四人の顔を見回すと、老人は無邪気な笑みを浮かべてボーイを呼ぶ仕草をして見せる。
「どうぞ。俺たちも丁度酒を追加したいと思っていたところだ」
 白い男、ガイストが目配せすると琥珀の瞳をした男が手元の呼び鈴を押した。実際に彼らが酒を追加したかったのかどうかは疑わしい。それぞれの手元にはまだ充分な酒が残っているように見えたから。
 ほどなくして先ほどのマスターが顔を出し、次々とあげられる注文を手早く確認すると表へと引っ込んでいく。扉が開いているときだけ、外の喧噪が聞こえてくるが、それ以外は室内はまったく静かなものだ。
「イフォーバ山からは宝物でも出てきましたか?」
「今のとこは何も出てきやせんよ。雨期に入ってしまったのでね。乾期になるまでは発掘作業は中断せざるをえん。まったくもって忌々しい雨だよ」
 同じテーブルについたものの話を切り出せずにいたワーネストは、アッサジュ・パルダと白い男の会話を横で所在なく聞いているしかなかった。
 他の男たちは会話に加わろうとはしない。それが自分たちを拒絶しているように感じて、ワーネストは胃が痛くなってきていた。この場所に恩師を連れてきたことは、やっぱり間違いだったのかもしれない。
 あまり待たされることなく注文した酒が届けられた。トレイを片手に入ってきた炎の麗人は顔色一つ変えることなく、注文主の前に酒を置いて立ち去っていく。取りつくしまもない態度とはこのことだろう。
 注文した蜜酒ミードを口に含むと、老教授は満足そうに顔をほころばせた。
「なかなか美味しい酒だ。寒い陽気のときには酒は心の友だね。この歳になると一緒に酒を飲んで語り合ってくれる友人も少なくなってきてねぇ。寂しいことだ」
 そのアッサジュ・パルダの言葉にガイストが小さな笑い声をあげる。それはバカにしたような高慢な笑いではなく、静かだが親しみのこもった笑い声であった。
 だが残りの男たちはその和やかな雰囲気に同調することなく、黙々と自分たちの酒を飲み干している。その彼らの態度にワーネストは自分のこれまでやってきたことが無駄に終わったのだと、内心ではガックリしていた。
 なんということだろう。ガイアに渡るためにこの数ヶ月、ツテを頼ってあちらこちらを奔走してきてきたというのに、最後の最後で自分の判断ミスから何もかもを潰してしまったのだ。
 隣で歓談する恩師を恨むのはお門違いだが、誰かに八つ当たりできるというのならやはりこの老教授に八つ当たりしたくなるではないか。
 鬱々と落ち込んでいるワーネストの耳に突然彼の名を呼ぶ低い声が届いた。驚いて顔をあげると、自分と同じ瞳の色をした男とまともに視線が絡まった。思わず息を呑み込んでしまった。
「え……?」
 毎朝、鏡のなかで自分の顔のなかにある同じ色の瞳を眺めているが、この白い男の瞳はどこか凄惨な輝きを放っているように感じる。右目だけしか見えないが、彼のもう片方の瞳も一緒に見ることだけは勘弁してもらいたいものだ。まるで死の淵を覗き込んでしまったような気分になる。
「出航は四日後だ。今日と同じ時刻に、この酒場で待っている。そこからシップまで案内しよう」
 相手が何を言っているのか、一瞬理解できずにいたワーネストだったが、それが自分が本来ここへ来た目的だったことを思い出すと、彼は隣の老教授に視線を走らせた。当のアッサジュ・パルダは相変わらずニコニコと笑みを浮かべてかつての教え子の顔を見つめ返しているばかりだ。
「あ、ありがとう。四日後の同じ時刻だね?」
 相手からの確約をもらえるとは思ってもみなかった。相変わらず周りの男たちはムッツリと黙り込んでいるばかりだったが、特に反対する気配はない。針のむしろの上に座らされるような航海になるかもしれないが、ともかく当初の目的を達したのだ。
「遅れるな。時間になっても現れなかったら、置いていくからな」
「その日は仕事を全部キャンセルして、寝坊しないように家中の目覚ましをセットしておくことを勧めるよ、ワーネスト」
 気楽に教え子の肩を叩く老教授が茶目っ気たっぷりのウィンクをしている。その顔にキスの雨でも降らしたくなったが、ワーネストはその馬鹿馬鹿しい行為を思いとどまると、亡霊の名を持つ男へと腕を差し出した。
「よろしく、キャプテン・ガイスト。えぇっと、報酬はあの額でいいということかな?」
「けっこうだ。もちろん、チップを弾んでくれるというのなら、断る理由はないがね」
 自分の掌を握り返してくるガイストの手は、亡霊という名とは反対に温かかった。ひんやりとした手の感触を想像していたワーネストはその意外な温もりに目を丸くして戸惑うばかり。
「清すがしき旅路を送らんことを」
 契約の成立を祝うように老教授が手元の杯を掲げた。
 恩師の言葉が、遙か昔に旅人たちの間で交わされた祝福の挨拶であることを頭の隅でチラリと思い出しながら、ワーネストはガイストに安堵の笑みを向けた。


 四日後、再び酒場へとやってきたワーネストはカウンターにいる見覚えのある人物の背中に釘付けになった。
「教授、ここで何をやっているんですか!」
 そう。大学時代の恩師アッサジュ・パルダ教授がのんびりとバーテンの若者を相手に蜜酒ミードの杯を傾けているではないか。
「やぁ、ワーネスト。時間よりも早いじゃないか。昨日は興奮して眠れなかったんじゃないかね?」
 ピクニックを楽しみにして寝つけなかった子どもと教え子を同列に扱う老人に、ワーネストが呆れた顔をして口をへの字に曲げる。だが当の老教授はまったく意に介していない様子で、酒のお代わりを若いバーテンに頼むと椅子の上でくるりと教え子に向き直った。とても老人らしくはない快活な動作だ。
 ふてくされる教え子の態度すらアッサジュ・パルダにはおかしな曲芸の一種であるらしい。陽気な笑い声をあげてウィンクをして見せる。
「若い人と話をするというのはいいね。刺激があって面白いものだ」
 呆れ顔だったワーネストが怪訝そうにバーテンを盗み見た。教授が今まで話していた若い相手とはこのバーテン以外にいないだろう。無表情で客に相槌を打ちそうもないこの若者相手にいったいどんな話ができたのか。
「どうぞ、教授」
 丁寧な手つきでアッサジュ・パルダの前に置かれたグラスのなかには鮮やかな泡混じりの琥珀色をした液体が入っていた。
「おや? ヴィーグ、注文したものと違うようだが?」
「あまりたくさんお酒を召しても身体に悪いですよ。そろそろ脳をシャッキリとさせないと。オレンジジュースを多めにしたスプラッシュです」
「私は満足に酒も呑ませてもらえないのかい?」
 さも哀しそうに首を振る老教授の肩越しに若いバーテンが薄い笑みをワーネストへと向ける。
 ワーネストはヴィーグの笑顔など一度も見たことがなかった。彼はこれまで幾度も足を運んでいるというのに。それなのにこの老人はたったの二度逢っただけでこの若者の心を掴んでしまったようだ。
「まぁいい。スプラッシュでもアルコールには違いないからね。さぁさぁ。ワーネスト、お迎えが現れるまでここに座って話し相手になってくれんかね?」
 自分の隣の椅子を軽く叩きながらアッサジュ・パルダはいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「えらく軽装備じゃないか。他の荷物は現地で調達するのかね?」
 バーテンに自分と同じ飲み物を注文すると、老教授は教え子の格好をしげしげと眺めた。ワーネストは荷物を抱えているが、これから辺境惑星へ旅立つにしては随分と少なく見える。
 いったいアッサジュ・パルダの笑顔にどんな魔力があったものか、当のワーネストはそれまでのふてくされた気分を脇に押しやってのっぽの椅子に腰を落ち着けていた。
「着替えなんかはあちらで調達すれば充分ですからね。取材用のレコーダーや撮影機器さえあればなんとでもなります。未開の地へ行くわけじゃないですから」
「なるほど。それはそうだ」
 出てきたカクテルで互いに乾杯すると、二人はその香りと味をひとしきり堪能した。
 アーモンド風味のリキュール・アマレットとオレンジジュースをソーダ水で割っただけのこのカクテルは、優しい口当たりで意外と人気がある。決して酔わないとは言わないが、へべれけに酔うほどの酒でもないだろう。
 周りの喧噪とはかけ離れた、落ち着いた雰囲気が二人の周囲に漂っていた。その穏やかさをうち破る喧噪が彼らのすぐ脇であがった。
「ブルジョアがいったいこんな場末になんの用だよぅ~?」
「この哀れな貧者にお恵みを施してくれる、ってぇかぁ?」
 酔っ払ってすっかり出来上がっている二人の酔漢が老人の仕立てのいい上着の肩にぶつかってくる。アルコールだけではなくドラッグもやっているのか、彼らの白目の部分は黄色く濁っていた。吐く息は腐り始めた生ゴミよりもひどい匂いがする。
 酔漢たちは二人ともかなりがっしりとした体格をしていた。浅黒い肌には蛇や髑髏の入れ墨が覗き、身につけている衣装は善良な市民からはほど遠い、まるで戦闘服のような出で立ちだ。
 ワーネストは無視するように恩師の肘をつついたが、ほろ酔い加減のアッサジュ・パルダは人の良い笑みをその酔っ払いどもに向けて手まで振ってみせた。
「やぁ、兄弟。楽しんでおるかね? 今日は旅立ちにはとてもいい日だよ」
「きょ、教授!」
 絡まれているというのに、まったく暢気な顔をしている老人にワーネストは慌て、助けを求めるようにカウンターの向こうに立っているバーテンを見た。だが若者は涼しい顔をして静観しているだけで、助ける気などない様子だ。
「お~、じいさん。おれたちゃ、楽しみたいのよ」
「ものは相談だがよ~。あんたの懐のなかにある財布を少し軽くするお手伝いをしたいわけだなぁ」
 ゲタゲタと笑いながらカウンターに寄りかかり、アッサジュ・パルダとその連れを値踏みする酔漢の態度は傍若無人だ。ところがそんな無礼な態度さえ気にした様子もなく、老教授は相変わらず口元から笑みを消そうとしない。
「この薄給取りの老いぼれにはあんたがたの満足しそうなものは与えられそうもないがねぇ。あるのは長年貯めに貯めた知識だけだよ」
 にこやかな顔をしたまま拒絶してみせる老人の態度に酔漢たちがムッとした。怯えて素直に財布を寄越すか、怒りだして喧嘩になるかと思っていたのだが、まったく期待はずれもいいところだ。
「おいおい、じいさん。こんないいお召し物を着込んでいる奴が、おれたち貧乏人に施しもできねぇってワケはねぇだろ」
「そうだぞ~。その上着を質屋にでも入れて貧しき者に金を恵んでやろうと思わねぇかよ」
 ヘラヘラと笑みを浮かべているが、目を怒らせて酔漢たちがアッサジュ・パルダを取り囲んだ。こうなったら身ぐるみ剥がしてやろうというわけだ。
 様子を伺っていたワーネストが恩師の腕を引く。この状態になったら逃げるしかあるまい。なんとか相手を出し抜いて、この店からできるだけ離れなければ。
「よしなよ。お前たちの敵う相手じゃないよ」
 そのときになってようやくバーテンが口を開いた。氷色の瞳が冷ややかに二人の酔漢を見つめている。アッサジュ・パルダやワーネストに向けていた笑みを引っ込めた若者の瞳には凍りつきそうな軽蔑の色が浮かんでいた。
「あぁ~ん? ヴィーグ、雇われバーテンのクセして客に説教たれるんかよ」
「おめぇは黙ってろよぉ~」
 酔いにふらつきつつも不敵な笑みを浮かべる酔っ払いが床に唾を吐きかけた。その粗野な態度にますますバーテンの若者が冷たい視線を向ける。
「勝てやしないよ、お前たちは」
 ふてぶてしく酔漢たちを煽るバーテンの口調にワーネストは焦った。何も喧嘩をふっかけるようなことを言って、ますます自分たちを窮地に追い込むことはないだろうに。
「お~。それじゃやってもらおうじゃないか? えぇ? この老いぼれと優男におれたちをぶちのめす腕っ節があるってぇのかよ」
 酔漢たちが筋肉質の腕をかまえて上体をゆらゆらと揺らした。喧嘩慣れしているようだ。酔ってはいてもそう簡単にやられそうもない。
「お前たちの相手はこちらの二人じゃないさ。後ろを見なよ」
 顎をしゃくって店の入り口を示した若者の言葉につられて、酔漢の二人とそれに絡まれていた二人の客が同時に振り返った。
 その人影の周囲だけ、薄暗い店内にも関わらず異様な輝きに満ちているようだった。白い影のなかに一点だけ点った暗緑の輝きが凄惨な光を放つ。
 これまでの茶番を見ていたのだろう。不機嫌以上の怒りを滲ませたガイストの顔色に酔漢たちは口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしていた。
「ご機嫌じゃないか。いったい俺の客になんの用だ?」
 低い、まるで獄界から聞こえてくるような暗い声に酔漢たちは縮み上がったようだ。口のなかでもごもごと声にならない言い訳をすると、こそこそと人混みのなかへと逃げ込んでいく。
「いらっしゃい、ガイスト」
 バーテンがサバサバとした口調で新たな客に呼びかけた。その声にようやく我に返ったワーネストは胸をなで下ろす。まったくヒヤヒヤするではないか。
 その原因を作った老人に視線を走らせたワーネストは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。アッサジュ・パルダはあっけらかんとした顔をしてガイストへと手を振っている。なんという気楽さだろう。
「あなたはずいぶんと強運の持ち主なのか、それともよほどの向こう見ずな性格らしいな。俺の到着が遅れていたら、鳩尾に数発喰らっていたかもしれないのに」
 のんびりとした様子の老教授にガイストが苦微笑を見せた。ワーネストと同じように呆れているのだろう。だが当のアッサジュ・パルダはまったく堪えた様子もなく、ニコニコと笑みを浮かべるばかりだ。
「でも君が登場してあっけなく幕切れだよ。元気かね、ガイスト?」
「ほんの数日前に逢った相手に聞くには陳腐な台詞だと思わないのかい、偉大な考古学者さん」
「おや。君に偉大だと認めてもられるとは嬉しいねぇ」
 太い指を優雅に蠢かせ、老教授は灰色がかった蒼紺の瞳を茶目っ気たっぷりに見開いてみせた。そのおどけた態度にガイストの笑みがますます深くなった。
「呆れるくらい楽天的な人だな」
「私の人生だ。私の思った通りに生きるさ。どうだね、君も一杯やっていかんか。急いで出航することもないだろう? 今のお礼に一杯おごらせてもらえるとありがたいんだがね」
 空席を指し示したアッサジュ・パルダに誘われ、ガイストがひょいとカウンターにもたれかかった。その様子を眺めていたワーネストは、彼の姿が薄暗い店内ではひどく絵になるような気がして感嘆の吐息をつく。
「ふ~ん。スプラッシュを呑んでいたのか。俺にも同じものをくれないか、ヴィーグ」
 暗緑の瞳をカウンター上に滑らせ、ガイストが注文を口にした。そのゆったりとした態度に老教授が人懐っこい笑みを浮かべる。たいそうご機嫌な様子だ。
「今日は教え子のお見送りかい?」
「そうとも。教え子の楽しい旅路を祝して!」
「宇宙嵐に遭遇して昇天する可能性ってのは考えてないらしいな」
「まさか! 君たちなら大丈夫さ」
 自信満々なアッサジュ・パルダの口調にガイストが喉を鳴らして笑った。その根拠のない自信はなんなのか、と。反対側の隣で聞いていたワーネストにしても、同じように苦笑を浮かべている。
「大丈夫だとも。君たちは放浪者の瞳を持っているからねぇ。ほら。君もワーネストも翡翠の翠よりも深い翠色の瞳をしているだろう? その瞳はね、昔から生粋の旅人の瞳だと言われているんだよ」
 どこか夢見るように話す老人の話の内容に、ワーネストは思わず恩師の肩越しにガイストを見た。相手もこちらへと視線を向けている。
 互いの顔のなかに暗い緑色を確認すると、その瞳に初めで出逢ったとでもいうように慌てて視線をそらした。
「君たちの前には常に新しい旅路が途を開けている。どんな困難があってもきっとそれらを切り抜けていけるさ。考古学で喰っている人間の間ではよく知られていることだ。この惑星の歴史のなかには常にその瞳を持った者が彷徨っているんだよ。……永遠の放浪者の瞳というんだ、君たちの瞳は」
 そういえばそんな話を昔に聞いたことがあったかもしれない、とワーネストは老教授の横顔を見ながら考えていた。いつもあちこちを彷徨っている自分には相応しいではないか。
「なるほど。一所に留まらない俺には相応しいな」
 アッサジュ・パルダの向こう側で低く呟いたガイストがふと遠くを見るように顎を持ち上げた。彼もまた、あてどもない旅路を行く彷徨い人なのだ。
「君たちは君たちそれぞれの旅路を往きなさい。今回はたまたまその途がちょっと交わっただけだ。だが二人の放浪者の往くところに旅の終焉などないだろう。きっとまた新たな旅路が待っている」
 まるで予言者のように二人の未来を示して見せる老教授にワーネストとガイストが同時に視線を走らせ、年老いた男の顔の向こうに旅人の瞳を持った者を認めてどちらともなく笑みを浮かべた。
「面白い旅になりそうだ」
 微かに笑いを含んだ声で囁いたガイストが、手元のカクテルを一気にあおった。乱暴な手つきであるにも関わらず、その動作は近寄りがたい威厳がある。まるで王のように堂々とした態度だ。
「行こうか、ワーネスト・トキア。出航だ」
 グラスをカウンターの上に戻すと、ガイストが新たな旅路への道連れに声をかける。気負いも何もない、飄々としたその声につられるようにワーネストが立ち上がった。
 その二人の男たちを見送るようにアッサジュ・パルダが椅子ごと振り返る。変わらない笑みを浮かべた老人の顔には、遙かな憧憬が広がっていた。
「汝、清すがしき旅路を送らんことを!」
 遠く昔から言い伝えられる旅立ちの言葉を贈ると、老教授は優雅な指の動きで彼らを送る。その自然な仕草には溢れんばかりの親しみが込められていた。
 店の戸口で振り返ったその教え子が、超然とした笑みを浮かべている恩師を振り返る。そっと手をあげて見送りへの謝意を示すと、あとは振り返ることなく扉から滑り出していった。
「お見送り、お疲れ様でした」
 アッサジュ・パルダの背後から年若いバーテンが声をかける。その若い声のなかにも自分と同じ遙かな憧憬が滲んでいることを認めると、考古学の権威と言われ続けている男は晴れやかに微笑みを返した。
「さぁ、ヴィーグ。残された者同士で語り明かそうじゃないか!」

終わり

〔 15146文字 〕 編集

タッシール紀 カサブランカ

No. 31 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE

 昔、俺の家の向かいの白い家に、貴族とは到底思えないじゃじゃ馬が住んでいたよ。
 顔は綺麗なほうだったが、性格は最悪だ。あれが俺の女に対する最初のトラウマだな。……あんな酷い女は他にいないと思ったもんだ。
 殴るわ、蹴るわ……。毎日ボコボコにされていたんだぞ。




 午前中の探検を終えて家の前に辿り着いた少年の前に、ほっそりとした影が差した。
「やいっ! へ~みん!」
(げっ! マリーア!)
 顔を見れば喧嘩をふっかけてくる五つ年上の少女だ。
 家柄は貴族だと言っていたが、名前ばかりで金がないのだろう。庶民の住宅が建ち並ぶ一角に屋敷を建てていたし、大して裕福そうにも見えない家だった。
「うるさいっ。なんの用だよ、キツネブタ!」
 あからさまにムッとした表情をした相手が剣呑な目つきで見下ろしてくる。
 そう。見下ろしてくる、と言うのが一番ピッタリだ。なんせこちらは来月ようやく六歳になるが、あちらはとっくに十一歳。
 眉間によせた皺しわがピクピクと痙攣けいれんしている。キツネブタと呼ばれて相当頭にきているらしい。
 少女の顔立ちは決して不細工な造りではない。やや細いつり眼で顎も尖り気味だが、ふっくらとした口唇や贅肉のついていない体格は少女らしい円まるさのあるものだった。まぁ、成熟した女性の円まるみとは明らかに違うが。
「このガキァ……」
 とても貴族とは思えない乱暴な口調で口元をつり上げた少女が小さな少年に向かって腕を伸ばした。
 深窓の令嬢には似つかわしくない日に焼けた肌が彼女の活発な性格を表しているように素早い動きだ。
 だが少年はそれ以上にすばしっこい。伸ばされた腕の下をかいくぐると一目散に家へ入ろうと駆け出していた。
「へんっ! 誰が捕まるか……よ?」
 捨て台詞を残した家に駆け込んでしまえば、自身の身は安全であったはずだが……。生憎と相手は素直に逃がしてはくれなかった。
「このクソガキ! いつもいつも生意気なのよ!」
 襟首を掴まれ引き倒されると馬乗りにのしかかられてボコボコに殴られる。
「ぎゃぁ~っっ!」
「参ったかっ、このチビ! 参ったなら、参ったと言え!」
 ポカポカと殴られながらも、降参するのが悔しいばかりに顔中傷だらけになってもついに謝りはしなかった。
「誰が参ったなんて言うもんかぁ~! ちくしょー! この男女ーっ!」
 子どもなりの最後の意地というものだろう。
 殴り疲れて自宅へと帰っていく少女の後ろ姿を、地面に転がったまま見送る少年の顔は土埃で真っ黒だ。
「うぅ……。ちくしょーっ! 覚えてやがれぇ~!」
 いつか仕返ししてやろう。ギッタギタに伸してやるのだ。
 そう思っている間に、少年は翌年には幼年学校へと編入して生まれ育った家から寮生活へと生活の場を移してしまった。




「あぁ、待っていたぞ。シュバルツァルト大尉。さっそくで悪いが、これから私の代理でアレン子爵の新築祝いパーティに行ってくれ」
 出勤早々に上司から呼び出され、何事かと出向いてみれば……。どこぞの貴族のボンボンが建てた新居の祝いに顔を出せと?
 しがない宮仕えの身分では断ることもできず、フリッツは不機嫌そうな表情で敬礼を返した。
「場所はアフトス地区β-1ブロックK-003番だ。……ご機嫌斜めだな、シュバルツァルト」
 上司が相手先の地図を書き記した紙をヒラヒラと振って意地の悪い笑みを浮かべた。
「いえ……別に」
「お前の貴族嫌いは相変わらずだな。まぁ、そうむくれないで旨い飯でも喰ってこい。どうせ向こうはお前が運んでいく祝い金が目当てなんだ。それに見合うだけのもの喰わせてもらってもバチは当たるまい?」
 退屈なデスクワークよりもマシだろう、と送り出す上司から仏頂面のまま祝儀の目録が入った封書を受け取ると、フリッツは公用の無音車サイレントカーに乗り込んだ。
 貴族は好きになれない。だが軍部が彼らの支持なくしては円滑に機能しないのも事実だ。勇猛で知られる軍とて動かしているのは人なのだから。
 不機嫌なまま乗り込んだ屋敷は豪勢で、真っ白な壁が眼に眩しい。
 案内された会場には貴族やその取り巻きの商人、軍関係者がウジャウジャと群れている。よくぞまぁ、真っ昼間から堂々とタダ酒を飲みにくるではないか。
 だが自分もその同類だと気づくとフリッツは自嘲的に口の端をつり上げて会場の片隅に避難した。もちろん、片手には好物のカクテル『ドッグノーズ』を忘れない。
 馴染めない雰囲気を外からぼんやりと眺め、外面ばかりにこだわる貴族たちの成金趣味な衣装を検分していくと、ふと鮮やかな深紅の布地の上に真っ白なオーガンジーの袖をあしらったドレスに身を包んだ女性と眼があった。
(……ん?)
 どこかで見覚えのある顔だ。どこで会ったのか?
 しっかりとした足取りでこちらに近づいてくる女の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
 不躾なほどに相手の顔を凝視していたフリッツは、相手が自分の目尻を指でつり上げてみせる動作に硬直した。
「マ……マ、マリーア・カサブランカ!」
 実家の向かい側に建つ白い洋館の住人。かつての自分の天敵が目の前に不敵な笑みを浮かべて立っている。
「久しぶりねぇ、フリッツ・ヴィスタス」
「マ、マリーア! なんであんたがここにいる!?」
 思わず後ずさる彼を追いつめるようにマリーアが婉然えんぜんと微笑んだ。子どもの頃にはなかった色気があるが、その顔の下にある強気な気性は相変わらずのようだ。
「あぁら、今日はうちの新築祝いだもの! 女主人がここにいるのは当たり前でしょ。ほほほっ」
「何ぃ!?」
 相手の高笑いに怯んでさらに後ずさるフリッツの側にマリーアがにじり寄ってきた。端から見れば恋の駆け引きでもしているように見えるのだろうが、子どもの頃の記憶を引きずるフリッツには蛇に睨まれた蛙のようなものだ。
「まさか、ア……アレン子爵夫人……?」
「おほほほっっ! そうですとも。おつむの悪いあんたもようやく飲み込めたようね」
 勝ち誇ったように笑う女の身体からは甘い柑橘系の香りが匂い立ってくる。
 子どもの頃もマリーアは決してお洒落をしないわけではなかったが、長い年月がやはり磨きをかけているのだろう。上質な絹で出来ているらしいドレスは彼女の黒絹の髪をいっそう引き立たせていた。
「まぁ、でもあんたが知らなくても仕方ないわね。わたしが結婚したのは十年前くらいになるけど、確かその当時ってあんた士官学校に入ったばかりで実家に顔を見せてないでしょ」
 壁に貼りつくフリッツに更ににじり寄るとマリーアがさも愉しそうに口元をつり上げた。
「それにしてもあのチビのフリッツ・ヴィスタスが随分と大きくなったものだわね。見違えたわよ」
 女の顔は見つけた獲物をどうやって料理してやろうかと思案している猟師のようだ。
「マリーア!」
 その女の向こう側から苛立った声がかかる。
「何をそんなところで油を売っている!」
 つかつかと歩み寄ってくる男の表情は怒りにどす黒く染まっていた。歪んだ怒りが体中から発散されている。
「私に恥をかかせるつもりか!?」
「あら、ステファン。すぐにそちらに参りますわよ」
 余裕の笑みを浮かべた女が振り返り、その視線の呪縛から逃れるとフリッツは大きく吐息を吐いた。
「フンッ! その男をお前のツバメにでもするつもりか?」
 さも軽蔑した視線をマリーアと自分に向ける男の態度にフリッツはあからさまに不快感を示す。
「なんだ、その生意気な眼は。軍人のくせに!」
 驕り高ぶった相手の態度にフリッツのこめかみに青筋が立つ。眉間の皺しわがいっそう深くなった。
「我々に飼われているくせに、人妻に手を出そうとするとは、なんて奴だ」
 上司の代理できていることも忘れて身体が動いたのは、その相手の一言を聞いた後だった。我慢ならない。
「フリッツ・ヴィスタス!」
 女の制止を振り切って、ふんぞり返っていた目の前の男めがけて突進する。
 相手が避ける間も与えずに、握りしめていた拳を相手の顎へと叩き込み、床に転がったところを蹴り上げようとした。
「止めなさい! フリッツ!」
 さらに大きな女の声にフリッツはようやく我に返って動きを止めた。恐る恐る殴りつけた相手を見下ろす。
 足下で転がっている男は殴られた拍子に口の中を切ったのか、口の端から血を滲ませていた。もはや後の祭りである。フリッツが公衆の面前で貴族を殴りつけた事実は消えない。
「フリッツ・ヴィスタス!」
 厳しい女の声に思わずフリッツは振り返った。いつの間にか目の前にマリーアが立っている。目をつり上げ、突き上げるように自分を見上げてくるマリーアの顔には先ほどの笑みは欠片も見えない。
 口唇を噛みしめる女からは憤怒の感情しか読みとれなかった。
 派手な音をたててフリッツの頬が鳴ったのは、彼が女と向かい合った次の瞬間のことだった。
 遠巻きに眺めていた招待客たちの間からどよめきの声があがる。
「マリ……」
 平手で打ち据えられた理由も判らずフリッツが抗議の声をあげかけると、マリーアはいっそう鋭い視線で彼を睨みつけてきた。
「よくもわたしの夫を殴ったわね。……許さなくてよ」
 フリッツの言い訳になど耳を貸す気は毛頭ないらしい。怒りに燃える女はそれでも女主人としての自覚があるのか、フリッツを無視して周りの取り巻きを見渡した。
「どなたか! この方を別室へお連れ願えませんかしら?」
 冷ややかな態度で軍関係者がたむろする方角へ声をかけたマリーアに応えるように、群衆の中から一人の軍人が進み出る。
「アレン夫人。小官がその役目、お引き受けしましょう」
 軍人にしては柔和な物腰と知的な瞳をした男だ。どちらかといえば、貴族的な風貌だろう。長く伸ばした黒髪や薄い灰色をした瞳、長身で細い体格は軍服よりも貴族たちの身にまとう衣装のほうが似合いそうだった。
「お願いしますわ、メルリッツ大尉」
 アレン夫人に恭しく腰を折って敬意を表すると、メルリッツと呼ばれた軍人がフリッツの腕を引いた。
「行こう。……さっさと退散したほうが身のためだぞ、シュバルツァルト大尉」
「どうして俺の名前を……」
 驚いて相手を見返すが、メルリッツは不可思議な笑みを小さく口元に浮かべるばかりでそれ以上取り合おうとはしない。
 そんな二人を後目しりめにアレン夫人は床に座り込んでいる夫の側に寄るとかいがいしく助け起こしていた。
 忌々しそうに舌打ちするアレン子爵が歪んだ表情のままフリッツを見上げる。
 メルリッツに引っ張られ、その二人に背を向けたフリッツに小さな声が届いた。
「……クズが」
 アレン子爵のものだ。再び湧き起こった怒りにフリッツが振り返る。その剣呑な光を湛えた琥珀色の瞳に子爵が思わずたじろいだ様子で後ずさった。
「行こう、シュバルツァルト」
 再びメルリッツに急かされてフリッツは今度こそパーティ会場を後にした。貴族を殴りつけてしまったのだ。その場に留まっていることなどできはしないだろう。




「無茶をする男だな、君は。まぁ、それが取り柄なのだろうが。……そうそう、彼女。アレン子爵夫人に礼を言っておきたまえ」
 フリッツを連れて屋敷の廊下を歩みながらメルリッツは小さくため息を吐いた。どうしようもない奴だとでも思っているのだろうか?
「なんで礼なんか言う必要がある? 平手打ちを喰らって礼を言うなんておかしいじゃないか!」
 不愉快そうに口元を曲げたフリッツの態度に今度は大仰にため息を吐くとメルリッツは立ち止まった。
「まだわからないのかね? まったく……もう」
 困った奴だと苦笑いを浮かべるメルリッツの態度にフリッツはますます不快そうに口元を曲げる。
「まぁ、ちょっと考えてみたまえ。彼女があそこで卿の横っ面を叩かなかったとしよう……。その後、君はどうなっていたと思うね?」
 同年代らしいメルリッツがいかにも生徒に語りかける教師のような態度を取るのでフリッツは面白くない。しかし問われたことには答えようとじっと考え込む。
「あ……」
 貴族とやり合った将校たちの処分は大抵は謹慎処分や降格処分などだ。その取り調べをする場所は……。
「憲兵たちと留置場ブタバコ行き?」
「まぁ、そんな所だ。……そんな散文的な言い方じゃなくて、もう少し言い方があると思うがねぇ」
 肩をすくめるメルリッツが急かすように再び歩き始めた。
「おい……。玄関はあちらだぞ。どこへ行くつもりだよ」
 てっきりこの屋敷から退散するものだと思っていたフリッツは玄関ホールとは別の方角へと向かうメルリッツに戸惑って声をかけた。
「こちらでいいんだよ。さっさとついてきたまえ」
 もうここまで来たら破れかぶれだ。憲兵に連行されるのが早いか遅いかの違いだろう。降格処分か……あるいは左遷か。どっちにしろ明るい未来は待っていない。
「……で。彼女に礼を言う理由だがね」
 一つの扉の前で立ち止まったメルリッツがドアノブに手を掛けて振り返った。
「あの場で君を叩いたことで周りの人間は気勢を削がれ、憲兵を呼びにやることも忘れてしまったわけだが。それ以外にも、あの平手打ちで夫の面子めんつも守ったわけだよ」
 言っていることが判るか? と首を傾げるメルリッツの態度がますます教師じみて見え、フリッツは不機嫌そうな表情になった。
「俺を公衆の面前で叩くことがどうして夫の面子めんつを守ったこ……あ!」
 ふてくされていたフリッツにもようやくマリーアの行為が及ぼした効果を理解したようだ。
 本来なら自分よりも身分の高い貴族を殴りつけたのだ。すぐさまその場で憲兵に引き渡されていただろう。それが未だに自由の身でいられる理由がもう一つある。
 たとえ貴族とはいえ、女のマリーアが大の男を打ち据えたのだ。普通なら公衆の面前で殴られた男のほうは屈辱で怒り狂っているはずだ。
 彼女の幼なじみで相手の気性をよく知っているフリッツならばこそ、打たれても大騒ぎしなかっただけの話で、本当ならもっとややこしいことになっていた。
 彼女は怒ったフリをして、二人の男の面目を保ったわけだ。
 メルリッツはフリッツの様子を確認すると、真新しい扉を押し開いてフリッツを室内へと誘いざなった。
 入った部屋は趣味の良い応接間のような場所だった。
 たぶん出入りの商人などとの商談に使われるものなのだろう。玄関ホールからそれほど離れていないし、屋敷の奥部からはまだまだ遠い位置にあるようだ。
「大した女傑だと思うがね。たったあれだけのことであの場を納めてしまったのだから」
「あぁ……確かにそうだ」
 かつてのマリーアは自分の感情に任せて相手を振り回すだけの少女だった。それがいつの間にか計算高い女になっている。
 落ち着かない様子で窓際に佇んでいるフリッツとは対照的にメルリッツは優雅に足を組んで応接セットのソファに腰を降ろしていた。
 これからどんな目ににあうのか判らないフリッツには、彼の悠々とした態度は忌々しいばかりだろう。
 サラサラと柔らかな衣擦れの音が廊下の方角から聞こえてきた。
 扉を振り返り、無意識のうちに身構えていたフリッツの視界に深紅の色彩が踊る。屋敷の女主人の登場だ。
「ありがとう、メルリッツ大尉。助かりましたわ」
 いつの間にかソファから立ち上がっていたメルリッツが優雅に腰をかがめる。
 そつなくなんでもこなしそうな、この器用な男にフリッツは不機嫌な視線を向けたが、自分に近づいてくるマリーアに気づいて彼女へと向き直った。
「どうやら少しは落ち着いたみたいね」
 目の前に立った彼女はよく見れば自分の肩ほどの身長しかない。昔見上げるようにして睨み合っていたときにはなんという大女かと思ったものだったが……。
「マリーア……」
「短気なところはチビの頃と変わらないわね。本部へ帰ったら、上司から大目玉でしょうに」
 サバサバとした態度は昔と変わっていない。しかし強したたかに振る舞う彼女の行動はやはり年齢を重ねた重みがあった。
「あんたは随分と変わったよ、マリーア」
 ムスッとした表情で受け答えるフリッツにマリーアが目を瞬しばたたかせる。そして心外だと言わんばかりに目を見開いた。
「変わった? どこが?」
 あまりにもあっけらかんとしている彼女にフリッツは脱力しかかる。まるで自分の変わり身には頓着していないようだ。
「ねぇ、フリッツ。私の平手打ち、まだ痛いでしょ?」
 ニッコリと悪戯っぽく微笑むマリーアの瞳には悪意や雑念がまったくなかった。
 その二人のやり取りを見守っていたメルリッツが小さな笑い声をあげる。そのメルリッツとフリッツの視線が絡み合った。戸惑った表情のフリッツにメルリッツはさらに笑い続ける。
「それとも……もう全然痛くないの?」
 首を傾げ、二人の男たちを見比べていたマリーアがジロリと長身のフリッツを見上げた。
 その女の態度にフリッツはようやく笑みを漏らす。そうだ。昔の彼女の平手打ちはたいそう痛かった。今でもその勢いは衰えてはいない。
「あぁ……。あぁ、まだズキズキするよ」
 それ見たことかと胸をそらすマリーアの態度に男たちは再び笑い声をあげた。
 いじけたり怒っているのもバカらしくなってくる。彼女の根っこは変わってはいない。マリーア・カサブランカはそれ以外の何者でもないのだ。
「さぁ、その頬の腫れが引くように冷やしタオルを持ってこさせるから、頃合いを見て、堂々と正面から帰りなさいよ。……いいわね?」
 当然だという口調で命令するとマリーアが扉へと歩きかかった。その歩調がふと止まる。
「メルリッツ大尉。申し訳ないけど、もう少しだけこの不肖の弟分につき合って頂けるかしら?」
 再び恭しく腰をかがめて了承の意を伝えるメルリッツに頷き返し、マリーアがフリッツを振り返った。
「ステファンとのことはお互いに痛み分けよ。判っているでしょうね、フリッツ。……ホントに男って世話が焼けるんだから!」
 ブツブツと不平をこぼしながら部屋から出ていく彼女を見送り、フリッツは苦笑いを浮かべた。ふと叩かれた頬を撫でてみる。小さな痛みはあるが、それは不愉快なものではなくなっていた。




 え……? それは初恋だったのかって?
 ……いや。ちょっと違うぞ、それは。あれは初恋じゃない、と思う。
 たぶん久しぶりにあった姉が、やっぱり昔と変わってなかった……と確認したような。……そう、そんな感じだ。今でもマリーアは苦手なんだから。
 あぁ、判った判った。今度会わせてやるから。
 しかし……未だに『白き聖母マリーア・カサブランカ』と聞くとゾッとするんだよ。あれは悪魔の呪文だ。
 俺が女が苦手なのは、絶対にあのマリーアのせいだと思うぞ。
 何を拗ねてるんだ。俺が言いたかったのはだな……。
 あぁ、めんどくさい。だからこんなことを聞かせるつもりはなかったんだ。まったく、これだから女ってやつは……。
 判った。判ったから機嫌を治せって。悪かった。別にお前を嫌いだなんて言ってないだろう。俺の昔の話を聞きたがったのはお前の方じゃないか。
 ……頼むよ。機嫌治してくれよ。
(あぁ、だから女はよく判らなくて苦手なんだよ。どうしてプロポーズなんかしたのか、未だに大いなる謎だ!)

終わり

〔 7963文字 〕 編集

タッシール紀

No. 30 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
キャプテンガイスト [02]

 スペースシップ内部のドックはひどく閑散としていた。
「少しはこちらの身にもなって欲しいですよ。もう少し味方を集めてから乗り込んだほうが有利でしょうに……」
 刺々しい口調で不満を漏らす者はまるで影のようないでたちをしている。腰まで伸ばした長い黒髪に冷たい星空のような瞳、そして真っ黒なタートルネックのスペースノーツ用のスーツ。
 平均以上の身長の割に身体はひょろりとして見える。黄色人種系特有の顔立ちであったが、決して童顔というわけではない。たぶん幾つもの民族の血が流れているのだろう。
 その黒い男に対峙しているのはまだ十代であろう娘一人だった。
 苦笑いを浮かべて相手を見上げる瞳は蒼と紅のオッドアイ。褐色の肌に光り輝くブロンドの髪は見る者の瞳を焼くほどの眩さを放っている。
「時間がないのよ、時間が! それくらい判るでしょ、ケルタリオン」
 歳不相応な大人びた表情の娘が、相手を諭すように答えた。目の前の相手はどう見ても三十歳前後であろうに。
「しかしですね、サリアルナ……」
「いい加減におしよ、リオン! サリアルナが時間がないって言っているじゃないか。あたしたちにできることをやるしかないんだよ」
 二人の会話に割り込んできた声は苛立ちを含んだものだ。
 ドックの出入り口を振り返ると、一人の女が立っているのが見えた。しかし……その容姿は……。
 ケルタリオンの目の前に立つ娘とほとんど同じ姿形をしているではないか。
 激しい輝きを放つ金髪に褐色の肌、大人びた表情に仕草……唯一違うのは、片方は蒼と紅のオッドアイなのに対して、片割れは夜明け前の空の色に似た紫紺の両瞳を持っている。
「まったく男のくせにグダグダと……。その肝っ玉の小さなところをなんとかおしよ! みっともないったらありゃしない」
「アルタミラン……。お前こそ、そのはすっぱなしゃべり方をなんとかしろ! それじゃあサリアルナの影になっている意味がない」
 不機嫌な顔をさらに不機嫌そうに歪めて、ケルタリオンと呼ばれた青年がうなった。
「ハンッ! 男も女も見境なくがっついてる奴がよく言うよ! あたしは口が悪いだけで済むけど、あんたの手癖の悪さは頂けないね“アスモデウス”」
「それは仕事だ!」
「どうだか。プルトンの裏通りで男のケツをなで回すような奴の言うことを信用できるもんかぃ」
「お前どこからそれを……」
「フンッ! やっぱり身に憶えがあるんじゃないか」
 鼻を鳴らしながら二人に近づいてきたアルタミランと呼ばれた女は冷めた視線を男に向けたあと、娘に恭しく腰をかがめて微笑んだ。
 まったく対極にあるその態度にサリアルナが苦笑する。
「相変わらずね、あなたたちは。ところで見送りにきてくれるとは思っても見なかったわよ“ベルゼブブ”」
「おや、失礼ね。あたしが見送りにきちゃいけないのかい? まぁ、純然たる見送りじゃないから、文句も言えた義理じゃないか。……ほら、これを“アスタロト”から預かってきたのよ。“女王クィーン”のタワーに入る前に見ておいてちょうだい」
 聞き比べれば違いが判るが、別々に聞いたら女たちの声は同じものに聞こえたことだろう。それくらいに二人はよく似ていた。
「“アスタロト”だと? あいつがいったい何を寄越したんだ」
 黒目がちな鋭い視線をアルタミランへと注いだケルタリオンは、目の前にある預かりものだという包みに手を伸ばそうとした。
 その手をアルタミランがはたき落とす。
「気安く触るんじゃないわよ。これはあたしが個人的に預かってきたものなんだから。ガイストから直接サリアルナに手渡すよう言づかってんだよ!」
「怪しげなものを直接サリアルナに渡すほうがどうかしているだろうが! それともお前が検分したのか、アルタミラン!」
「必要ないね。ガイストはサリアルナに心酔してる。彼が直接渡せと言ったからには、それなりの必然性があるんじゃないのかい? あいつはそういう男だよ」
「大元が連邦の保安官だったような奴だ。私たちとは一線を画すべきだろう!」
 堂々巡りを繰り返しそうな二人の言い争いをため息混じりに見守っていたサリアルナが、ふと表情を引き締めた。薄く細められた両目に鋭さが増す。
「……来たわ。二人とも下がってちょうだい」
 娘の低い声にハッと我に返った二人が辺りを見渡した。なんの変化も感じられないのだが……。
「向こうにあなたたちの姿を見られたくないわ。下がって! 見送りはここまでけっこう!」
 サリアルナの声に残りの二人が慌てた様子で物陰へと飛び込んでいった。ガランとしたドック内にサリアルナ一人の影が佇む。
 小型艇ばかりで、大型船が一つも並んでいない構内はまったく寂しい限りだった。こんな廃れた宇宙艇のドックにいったい誰が来るというのか。
 無の空間であるはずの場所から、一瞬煌めきが放たれる。それを確認しようと目を凝らすと、今度は渦巻く光の輪が出現した。
「供も連れずにきたのか、ゴゥトの娘」
 光輪のなかに人影が見える。若い男のようだった。血色の髪が淡い光のなかでもクッキリと浮かび上がっている。
「朱あかの近衛殿ですわね? まさか“女王クィーン”の側近であるあなたが直々にここに姿を現すとは……」
「誰もお前を迎えに来たがらなかっただけの話だ。……どうする? 本当に来るのなら、陛下の周りの人間はお前を目の敵にするだろう」
 抑揚の少ない声には人間味のある感情はまったく読みとれず、淡々と話をする男の態度には好意も敵意もなかった。
「行きますわ。私の血にはゴゥトと同じだけカーヴァンクルの血も混じっているんですからね。陛下の治めるニケイヤの門扉をくぐるまでは帰る気はありません」
「良かろう。ならば陛下の元まで先導しよう。……座標はβ*-00。10分だけ待つ。それ以後はこの座標も消滅させるぞ。我々についてこれない者を陛下の領域に入れるわけにはいかんからな」
「了解!」
 娘の応答を確認すると光の輪と朱い人影は一緒に消え失せた。
「サリアルナ……!」
 背後の闇からの声に一瞬だけ振り返った娘が、小さく口元に笑みを浮かべる。しかしすぐに走り出すと、そのまま目の前に鎮座している小型艇へとよじ登っていった。
 上部のハッチを開け、船内に滑り込もうとしたその瞬間、船体の下で見送る二つの影に小さく手を挙げて別れの挨拶をする。
 それがお互いの間でもっとも相応しい別れ方だとでも言うように。
「“乙女ドウター”! 出航するわよ! エンジン出力最大! 座標位置はβ*-00!」
 彼女の声に反応して小型艇が振動を始めた。どうやら人工知能を組み込まれた船のようだ。程度の差はあれど、多くの船体に組み込まれ始めた技術はこの小型艇でも充分に機能しているらしい。
 滑らかな動きで小型艇“ドウター”は上昇を開始した。そしてドックの天井いっぱいまでその高度をあげると不意に消失し、地上からその様子を伺っていた二人の視界から完全に見えなくなってしまった。
「時空間移動に移ったな。この短時間で船体のエネルギーを最大にできるとは……相変わらずサリアルナの腕は大したものだ」
「当然さね。それでこそあたしたちの主だろう。……さて。“神ゴッド”と“女王クィーン”の戦いにどうケリがつくのか見物だねぇ」
「見物だと!? 何を悠長なことを! 勝ち馬に乗らなきゃ損だろうが。サリアルナが“女王クィーン”の元へ行ってしまった以上は、“神ゴッド”側への工作は私たちだけでやらなきゃならないんだぞ!」
「まったく、ぎゃあぎゃあとうるさいねぇ。“女王クィーン”側の工作を一人で受け持とうってサリアルナに比べたら可愛いモンじゃないかい。……さぁ、行くよ! サリアルナがいないときを想定して、あたしは自分自身をこの姿に作り替えたんだからね。あんたもちったぁ協力しな!」
 胸をそびやかしドックを後にするアルタミランの後に続きながら、ケルタリオンはいつも通りの不機嫌そうな顔を引き締めていた。


 コンソールパネルで正確な座標を確認すると、サリアルナはホッと安堵の息を漏らした。相手が指定した時間内には充分に間に合う計算式が弾き出されたのだ。
「第一関門はクリアってところね。……そうそう。忘れるところだったわ。ガイスト、いったい何を寄越したのかしら?」
 先ほどアルタミランから手渡された包みを素早く剥ぎ取ると、なかの箱の蓋を開けてみる。
「……ピアス?」
 真綿にくるまれるように納められていたものは、虹色の淡い輝きを放つオパールのアクセサリーであった。
「どういうことかしら? ガイストがわたしにピアスをくれるなんて? しかも天然石じゃないわね、これ。人工オパールを寄越すなんて全然らしくないわ」
 サリアルナはしげしげと見つめていたが、思いきって手にとってみた。
 直径が八ミリ近くあるオパールの粒はウォーターオパールと呼ばれるタイプのもので、半透明の石のなかではありとあらゆる光が閉じこめられているように、光の粒子が踊っている。
 じっと見つめているサリアルナの手のなかで、そのオパールが一瞬だけ赤光を放った。
「……!?」
『サリアルナ……? 出発したんですね?』
 微かな囁き声にサリアルナは目を見張った。宝石が喋っているではないか!
「その声……ガイスト? いったいどうやって?」
『昨日お見せしたパラライトの筒と同じ原理です。人体の表皮温度とあなたの声の波長によって通信スイッチが入るように……』
「そんなこと聞いてないわ! いったいどうやって通信させているの!?」
 サリアルナの動揺した声にオパール石の向こう側から小さな笑い声が漏れ聞こえた。ガイストが笑っているのだ。
「ガイスト!」
『すみません。でもオレが昔何をやっていたのか、ご存知でしょう?』
「保安官時代のこと? ……あ。囮専門の捜査をしていたわね、確か」
 眉間に皺を寄せてじっと考え込んでいた娘が納得したようにため息を吐いた。どうやら思い当たる節があったらしい。
「あなたタッシールの衛星軌道上にあるスティルスシーカーにハッキングしたわね!? そんなこと“女王クィーン”に知れたら、タダじゃ済まないわよ!?」
『承知しています。でも“ノイエス”にいるあなたと連絡を取るには、この方法しか思いつきませんでした。他の通信方法では邪魔が入る……』
「だからってこんな無茶なことしないで!」
 悲鳴混じりのサリアルナの声に再びガイストが小さな笑い声を漏らした。
『今回ばかりは聞きませんよ。母親と親友に裏切られて、ボロボロになって死にかけていたところを助けてもらった恩……これで返せるとは思いませんが、孤立無援の場所にあなたを独りにしておくことはできないでしょう?』
「……バカね。わたし、そんなに頼りないかしら? 皆ちっとも信用してくれないわ」
 乱れた髪を掻き上げながらサリアルナは苦笑した。いつもは強気に光る瞳が、ふと一瞬だけ翳る。
『信用していますとも。でも相手は“女王クィーン”です。“神ゴッド”の娘でありながら、反旗を翻した者がいったいどういった振る舞いをするか……。それを心配しているんですよ』
 宝石から漏れ聞こえる囁き声にサリアルナがそっと瞼を閉じて口元を歪めた。
「わたしも無事では済まない、と? それでも行かなければならないわ。わたしの下についている者たちのためにも……兄さんのためにも……。皆を守るために権力ちからがいるわ。それを手に入れるまでは……」
 言葉の最後は空気に溶け、ガイストには届かなかっただろう。だがすべてを察しているのか、通信機の向こう側から再び囁き声が漏れてきた。
『それも承知しています。だから手伝わせてください。オレではあなたの兄代わりには不足でしょうけど……』
「……ありがとう」
 ふとメインパネルに映し出されている暗闇の空間に銀色に輝く惑星を見上げ、サリアルナは小さく微笑みを浮かべた。
 あの惑星ほしの上にこそ自分の帰るべき場所がある。いつか、必ず帰って行くのだ。
 電子音がコントロールルームの空間を満たしたのは、彼女が僅かばかりの感傷に浸っているときだった。
「……! 目的の空間に入るわ。ガイスト! 通信を切るわ」
 彼女の顔が今し方の穏やかな表情から険しい顔つきへと変貌した。
『了解。“ノイエス”に入ったら、自室が与えられるはずです。そこのルーチンコンピュータにこの通信機をチップとして埋め込んでください。“ノイエス”の周波数を分析してその水面下で通信ができるようになりますから……』
「まったく……。さすがは一流の闇バイヤーだわ。そのハッカーの腕、保安官として使われなくて良かったわよ」
 呆れてため息をついたサリアルナを残して通信は切られた。
 その一瞬の静寂を無視して、新たな通信音が彼女の耳朶を打つ。
『ようこそ、ゴゥトの娘。これより我らの王が治める領域に入る。ここから先は我々の指示に従え。でなければ、この領域を航行することは不可能だ』
「了解。指示をどうぞ」
 無機質な声に応じるとサリアルナはいっそう表情を引き締めた。
 未知の空間へと足を踏み入れていくにも関わらず、この顔つきは好奇心と野心に輝いて見えた。


「キャプテン! 出航準備オーケーです!」
 背後からの呼び声に振り返れば、古株の船員クルーが緊張した表情で立っていた。
「了解。積み荷は大人しくしているか?」
「はい。筋弛緩剤を調節して打ってありますからね。……目的地まで自由に動くこともできないでしょう」
「判った。だが見張りは怠るなよ」
 部下が頷いて出ていったあと、彼は大儀そうに椅子から立ち上がった。ふと机の上に転がっていたカードを手に取ると、そっとその表面を撫でる。
「サリアルナ……」
 低い呟きを聞く者は誰もいない。それでもその声を聴かれることを恐れるように、ガイストは口をつぐんだ。
 荒々しい通信音が部屋に響いたのは、その一瞬の沈黙の後だった。
 慌ててカードを胸ポケットにねじ込むと、パネルを操作して通信を繋ぐ。
「Yes?」
『ガイストか? 私だ……』
「アスモデウス……。何の用だ? オレはこれから“ガイア”に向けて出航するところなんだけどな」
 卓上の通信ボードに浮かんだ人影にガイストは薄く笑みを浮かべて見せた。そろそろ何か言ってくる頃だとは思っていたが……。
 珍しく苛立っている様子の相手に、日頃の溜飲を下げた感がする。
『サリアルナに渡したものはいったい何だ! 私の目を盗んで何を企んでいる、貴様!?』
「別に何も企んじゃいないさ。心配ならサリアルナにでも訊いてみな。それよりも早く出航させてもらえないかな? “神ゴッド”からの依頼の品物を早いところ届けないといけないんだ」
 あえて答えをはぐらかし、相手の苛立ちをいっそう煽ってみる。多少の意地悪くらいは許されるだろう。
『“神ゴッド”だと!? いったい何を持っていくつもりだ!』
 苛立った相手の声に再び笑みが漏れた。だがそうそう相手をはぐらかすこともできまい。相手は充分に自分に不信感を持っている。これ以上はお互いの益にならないだろう。
「実験体だ。いつもの“神ゴッド”の気まぐれだろ?」
『実験体……? そんなものここ最近仕入れてないはずじゃ……』
 思い巡らせている相手の様子に、ガイストは冷たい微笑みを向けた。冷酷この上ない表情には、サリアルナと対していたときの穏やかさは抜け落ちている。
「いたさ。“プルトンサイドウェイ”で一人仕入れたじゃないか。お前が玩具にしていただろう?」
『ゴロツキどもに追われていた女か?』
 通信ボードの人影が片眉をつり上げた。その眉の下の黒い眼まなこが忌々しそうにこちらを睨んでいる。
「そうだ。その女だ。まさか……気に入っていたなんて言わないよなぁ、ケルタリオン?」
『……ふん。行きづりの女じゃないか』
「それを聞いて安心したよ」
 冷たい言葉の応酬にふとガイストが視線を在らぬ方角へと向けた。暗緑の瞳が鋭く時計の文字上を滑っていく。
「時間が迫ってきた。悪いがここまでだ。“ベルゼブブ”によろしく伝えてくれ」
『なんで私がアルタミランへの言づてを頼まれなければならないんだ! お前が自分で伝えてこい!』
 未だに相手は苛立ちが収まっていないようだ。いつもは冷酷な横顔しか見せないというのに、今回のことでは随分と脆い一面を見せたものだ。
「ケチ臭い奴だな。昔のパトロンのよしみじゃないか。それにアルタミランとは従姉妹なんだろう。
 ……まぁ、いいさ。航行中にでも連絡をとってみるから。掴まえるのは骨が折れるだろうけど」
 あからさまにムッとした表情になった相手にチラリと視線を走らせるが、出航時間が気になるのか、ガイストはそれ以上の言葉の応酬を避けるようにすぐに視線を外した。
「じゃ、オレは行くからな」
 慌ただしく上着を羽織り、幾つかの通信機器とIDカードを机の上から掴み上げる。いつも通りの慣れた仕草だ。
『……私たちを裏切ったら、殺してやるぞ。判っているんだろうな“アスタロト”』
 背を向けかけていたガイストは、その絶対零度の声に肩越しに振り返った。
 だが相手の声に答えを返すことはなく、小さく鼻で笑うと何事もなかったように部屋を後にしたのだった。


 彼女はいつか必ず自分を光のもとへと帰してやると言った。
 だがそんなことは不可能だろう。
 すでに自分の両手は真っ赤な血に染まってしまっている。今更どうやって過去の栄光の日々へと帰っていけというのか。
 どだい一度闇へと堕ちた自分には無理なことなのだ。
 実母と親友に裏切られたあのとき……。妹を助けてやれなかったあのとき……。自分の心は光のもとでは死んでしまったのだ。
 再び息を吹き返したというのなら、それは闇に染まることを覚悟して目を覚ましたからなのだ。
 もう戻れない。妹は輝かしい栄光に包まれて立つ自分の姿だけを信じていたはずだ。彼女はこんな自分を望みはしなかっただろうが……。
 そのたった一人の妹を……母は見捨て、親友は汚していった。
 自分たち兄妹を見捨てていくのなら、そのまま捨て置いてくれれば良かったのだ。何も妹をめちゃめちゃにしていくことなどなかった。
 自分たちだけで生きていく算段くらいつけていけたのだ。
 それなのに……。
 物思いから覚め、船橋ブリッジを見渡すと、船員クルーたちはそれぞれ配置につき終わっているのが確認できた。
 そっとため息を漏らした後、ガイストは暗緑の瞳をメインスクリーンへと向けた。赤外線で照らし出された港内には、大小取り混ぜたスターシップたちが所狭しと並んでいる様子が見える。
 いくつかの船はこちらの船と同じように間もなく出航するのだろう。こちらも管制塔から許可が下り次第出航できるようになっている。
「遅いな、タワーの連中は……」
「つい今し方、外周航路にいた輸送タンカーとどこかのイカれた個人艇が衝突したとかで、その撤去作業の間は出航するなと連絡が入ったらしいですよ。すぐに終わるでしょうけど……」
「どこのバカだ、タンカーに突っ込んでいくなんて」
「さぁ? どうせろくなもんじゃないでしょ」
 通信官との会話にガイストは口元を歪ませた。
 ろくなもんじゃない、と言っている自分たちはいったいどれほどの者だと言うのだろうか?
 両手を血に染めて生きている自分たちの末路など、タンカーに突っ込んでいくよりも酔狂なものだろうに……。
 闇のなかに降り立って復讐を誓った日から、いったい何年経っただろうか?
 自分を蹴落として出世していった親友の心臓に憎悪の刃を突き立てからは……?
 実母とその情夫がベッドでよがっているところにマシンガンをぶち込んでやってからは……?
 どれもこれも昨日のことのように覚えている。もちろん、冷えたコンクリートの上で冷たい骸となっていた妹の死に顔も……。
 自身の死の恐怖と妹の死による狂乱から、この髪は色が抜け落ちてしまった。
 自分の髪でもないのに、妹はいつも兄の漆黒の髪を自慢していたというのに、まるで妹の死の道行きへの供をしたかのようだ。
「そうだ。外宇宙に出たらJumpの前に“ベルゼブブ”の旗艦を探してみてくれ。見つかる確立は低いと思うが……」
「了解」
 淡々と答えを返してくる部下たちの様子には、自分が今抱いていた一瞬の感傷など伺うことはできない。
 自分自身でさえ、ヴェールの奥に感情を押し殺しているのだ。彼らだとて他人に見せない闇をその身体のなかに抱えているだろう。
 すべての復讐が終わり、血みどろになっている自分の姿を許した者は、サリアルナだけだった。
 復讐のために講じたあらゆる手段を、彼女だけが黙って受け止め、飲み込んでくれたのだ。同じように闇に墜ちた者たちでも、自分を許しはしなかったというのに……。
 死んでしまおうとさえ思っていた自分の手を取った少女の温かい掌を今でも感じることができる。
 同情の笑みも侮蔑の視線もなしに自分を見つめるオッドアイに助けられなければ、自分はいったい今頃どうなっていただろうか?
『We made have waited.』
「お、来た来た!」
 管制塔からの通信音声に船員クルーの間から安堵の声があがった。
 いつまでもジリジリと待たされるのは嬉しいものではない。出港時の緊張はベテランでも新米でも変わりはないのだ。
『All green!』
「O.K! All green! Please,Open the gate!」
 管制官の声にガイストは、いつも通りの答えを返した。そして相手からも同じように答えが返ってくるはずだ。
『O.K. Gate Opens! Good luck your travel.』
「thanks. ……Engine maximum!!」
「Aye,captain!」
「Aye-aye,sir!」
 変わらない言葉の応酬に船員クルーたちも同じように応じてくる。何百回と繰り返してきた出港時の光景だ。
 安全を約束された航海などない。この航行がもしかしたら最後になるかもしれない。いつもそう思い、部下たちの働きを見守ってきた。
 今回もそうだ。ましてや“神ゴッド”の領域である“ガイア”へと向かうのだ。“女王クィーン”の統べる“ノイエス”と大差のない荒れた航海になることは間違いない。
 赤外線が描き出した建物や船たちの影がジリジリと後方へと流れ去っていく。
 再びこの惑星に帰ってくることを願いながら、ガイストは胸ポケットに納められた通信カードをそっと押さえた。
 再び失うことの恐怖に比べたら、地獄への航海だとて可愛いものだ。
 この航海の果てにある“神ゴッド”の領域へと入ったら、ガイストはあらゆる場所にハッキングを仕掛けるつもりでいた。
 暗黒を支配する両陣営が滅びようが繁栄しようが、自分にはどうでもいいことだ。
 しかし片方の陣営にはサリアルナがいる。彼女の氏族長であるゴゥト公の命によって、人質同然の待遇で派遣されたのだ。
 彼女がいる場所が安全であるはずがない。
 そんな彼女を救う力など今の自分にはないのだ。
 その現状を少しでも打破するためなら、あらゆる情報を集めてやろう。それが神聖不可侵と恐れられる“神ゴッド”だろうと、恐怖の女神と呼ばれる“女王クィーン”だろうと知ったことか。
 他の誰のためでもない。自分自身のためだ。
 自分のなかに残る最後の希望の火を消さないために、さらなる血の道をいくのだ。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 小さく口ずさむガイストの歌声に、いつのまにか船員クルーも一緒になって歌い始めていた。
 どの顔からもその歌にかける想いなど見えてきはしない。だが彼らの小さな歌声はいつまでも止むことがなかった。
 惑星の周回軌道から徐々に高度をあげ、母星は靄に包まれたような淡い輝きを放つだけの存在となっていた。
 だがそのヴェールの下には残酷なほどの狂気が潜んでいるのだ。惑星ほしに棲む者ならば、誰もが知っている荒れ狂う堕落と頽廃とともに……。
 惑星タッシールは眠らない。
 不夜城の人工光を宇宙にまで放ち、あざとく輝き続けるこの惑星ほしが眠りにつくとしたら、それはきっと滅び去るときだろう。

終わり

〔 10169文字 〕 編集

タッシール紀

No. 29 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
キャプテンガイスト [1]

 惑星タッシール。宇宙空間世界の生命生存地帯でこの名は富と権力の象徴である。だがそれは腐敗と堕落、そして混沌の巣窟でもあった。
 光が深いほどに闇が濃いように、闇に蠢く者どもがあざとく咲き狂う星は、このタッシールをおいて他にない。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 物騒な歌を口ずさみながら長身の男がネオン街を歩いていく。
 飄然という言葉がさり気なく似合男だ。ざわめきが路地裏から湧き、まとわりつくように男のまわりに拡がった。
「助けて……!」
 夜のネオン街には不釣り合いな女が男の腕にしがみついてきた。その女を追ってきた男たちが威嚇するように二人を取り囲む。
「これはまた。随分とやさぐれたお兄さん方とお友達になったもんだな、お嬢さん」
 男……正確に伝えるなら、青年といったほうが適当だろう。
 胡散臭げな男たちに囲まれた青年は、煩わしそうに右眉をつりあげると、その物騒な人間たちがにじり寄ってくる様を鼻で笑った。
 青年が女の腕をそっとずらす。まわりを取り囲んでいる男たちは、沈黙を守ったまま、ジリジリと輪を縮めていた。
 どれほど甘く見積もっても、こちらと仲良くしようという柄ではないようだ。
 囲んだ二人が囲みから逃げられない位置まで輪を縮めると、リーダー格の男が半歩前に進み出た。
「女をよこせ……」
 ドスを効かせた低い声は、青年の耳にも届いたはずだ。
 雑多な人混みのなかで、これほど間抜けな取引はあるまい。
 だがこのネオン街“プルトンサイドウェイ”では、当たり前の光景なのだろう。通り過ぎる酔っ払いどもや流しの娼婦たちは、このやりとりに見向きもせずに歩き去っていく。
 ボスの隣で卑屈な態度で立っていた小男が黄色い歯を剥き出して叫んだ。
 辺境星域語らしく、何を言っているのか解らないが、片手にナイフをちらつかせているところを見ると脅しているようだ。
「人にものを頼むときの態度じゃないなぁ、お兄さん。オレは今日機嫌がとぉっても良いんだよ。爆発しちまう前にとっとと失せな!」
 嘲りを含んだ声が男たちの鼓膜に届くと、小男はナイフを握り直して顔を歪めた。相手の言葉は理解できなくても、自分の脅しが失敗したことだけは解るらしい。鋭利なその刃物を振り上げ、青年に襲いかかる。
 しかし青年の胸ぐらに手が届こうとしたその瞬間、掴みかかってきた小男の指は簡単にひねり上げられていた。
 長身の若者の顔に危険な笑みが浮かんだ。
 そのニヒルな笑いを浮かべた秀麗な顔の半分は長く伸ばした前髪に隠されていたが、顔半面だけでも女子供なら怖じ気づきそうな形相だった。
「野郎……!」
 気の短そうな大男が、青年に躍りかかっていった。
 重量戦車のような圧迫感を辺りに振り撒き、豪快に繰りだされる拳は常人なら確実に骨を叩き割られそうな素早さだった。
 だが青年は常人ではなかったようだ。女の細い腰を抱き上げると、身軽に反転して、捕らえていた小男の躰を巨漢の繰りだす剛拳の前へと突き飛ばした。
 短い叫びと骨の砕ける鈍い音が辺りに響き、すぐさま生臭い血の臭いが辺り一面に拡がった。
「ひぃぃっ……」
 女が喉を絞るような声をもらして失神した。頭蓋骨を砕かれた男の仲間たちでさえ、その生臭い臭いに顔を背けた。
「畜生めっ」
 さすがにこのような惨事が起これば、通行人のなかから野次馬が出始めた。
 しかし誰も決して警官や保安職員を呼びに行こうとはしない。明らかにこの状況を面白がって見物しているのだ。
 人垣を散らそうと躍起になる男たちを軽蔑の眼で見下すと、青年はその場を立ち去ろうと人混みに分け入った。
「ま、待ちやがれ! その女、置いてけっ」
 無謀にも追いすがってきたサングラスをかけた二人の男は青年の肩に触れる前に、一人はアスファルトと懇ろな仲になっていた。
 もう一人はさらに悲惨だったろう。
 両膝にローキックを喰らい、大地と接吻した男は、その後頭部を力任せに踏みにじられた。
 割れたサングラスの破片と顔面が非友好的な結合を遂げると、音域をまるで無視した声が男の喉から迸る。
 絶叫をあげて転げる男を見て、観客は歓声をあげて囃したてた。青年はさらに冷めた視線を男たちに送り、女を担ぎ上げたままきびすを返した。
「兄ちゃん、つえぇじゃねぇの」
「まだ四人残ってるぜ。全員、ぶっ倒してってくれよ!」
「なんだ、なんだぁ。もう終わりなのかよ。つまンねぇぜ! これからだろう。もっとやれよ。コラァ!」
 どの声もこれ以上の流血を期待して浮かれている。
 馴れ馴れしく青年の腕を掴んで引き戻そうとする輩までいる始末だ。観客の声は青年にまとわりつき、放そうとはしなかった。
 うるさそうに人混みを掻き分けようとした青年の眼前に影が差した。先ほど仲間を自分の鉄拳で挽肉にしてしまった大男が顔を真っ赤にして立ちはだかっている。
「貴様……殺してやるッ!」
 丸太のような腕が振り回され、若者めがけて飛んでいく。まわりの野次馬が慌てて飛び退く。それをしり目に青年は軽々と巨漢の攻撃をかわした。
「うっとうしいんだよ、でくの坊がっ」
 初めて青年の声に怒気が含まれた。
 でくの坊呼ばわりされたほうも赤い顔をいっそう赤く染めて罵声を叩きつける。
 人語の域を外れた咆吼をあげて大男が青年に襲いかかった。
 若者が蝶のように舞い飛び、その攻撃をかわす。さらに、もう一度かわそうと後ろに飛び下がった。
 とその時、青年の足元に空き瓶が当たる。
 若蝶が均衡を崩したその瞬間を、大男は見逃さなかった。
 筋肉の塊のような太い腕がすかさず長身を捕らえた。肉食獣の笑みが満面に浮かべ、若者の背後から空き瓶を転がしたボスに頷く。
 大男は遠慮躊躇もなく、相手の胴体を締めつけた。若者の骨が軋む音が聞こえ、その全身が弓なりに反り返る。
 ところがこの状況にあってさえ青年は女を抱えあげたままだった。
 満身の力を込めて青年を締め上げていた大男にボスが声をかけた。
「ゴルベリ。殺すなよ」
 温情の声音では、当然、ない。自分たちが優位に立ったと確信した者が発する凶暴な笑いが、暴漢たちの間からあがった。
「へへへ、大人しく言うことを聞いてりゃ、痛い目に遭わずに済んだものをよぉ。バカな奴だぜ」
「どうしやスか? ……一緒に連れていくんで?」
 固唾を飲んで見守っていた野次馬たちを一瞥すると、ボスは凶悪な笑みを浮かべた。
 歓楽街にたむろするチンピラなどはこの顔を見ただけで逃げ出してしまいそうだ。辺りを囲んでいた野次馬連中も潮が引くように消えていく。見世物は終わったのだ。
「あちら方面の好色で美形好みのお偉い様にでも調達してやるさ。それまでは薬ヤクでも射っておねンねしていてもらおうか」
 ゴルベリと呼ばれた大男が腕の力を緩め、若い男女をアスファルトの上に放り出した。若者は気を失ってしまったのか、ピクリとも動かない。
 大男のレバーのようにテラテラと光った舌が、肉厚の唇の上をねっとりと這いまわる。
「兄貴よぉ。商売モンにするンなら、らしく仕立てあげなきゃなんねぇんだろ? だったら、俺にその役目やらせてくれよ」
 男たちは気を失ってしまった青年の身体に遠慮もなく視線を這わせ値踏みをする。大男は許可さえ下りれば、今この場でも気絶している青年を八つ裂きにしてしまいそうな目をしていた。
 ボスの右隣に立っていたカーキ色のジャケットを羽織った鷲鼻の男が、若者が未だに抱えている女のそばに歩み寄った。それに続いて、丸顔のちんくしゃデブが若者へと近寄る。
 二人の暴漢の手が男女の腕を掴もうとしたその瞬間、何かが光速の早さで二人の喉笛を掻き切った。
 悲鳴さえあげる間もなく男たちが倒れていく。
 一瞬の出来事にボスも大男もなす術もなしに立ちすくむ。二人の血走り見開かれた眼が、気絶しているはずの青年と女の顔面を捕らえた。
「……!」
 より驚いたのはボスと大男のどちらだったろうか?
 いつの間に拾い上げたのか、先ほど頭をかち割られた小男のナイフを片手に、残りの腕に女を抱えた青年が、倒れた二人を踏みつけて立ち上がった。
「やぁ。随分と手荒な歓迎をしてくれた。挙げ句に再就職の世話までしてくれるとなりゃあ……お礼をしなけりゃ、バチが当たろうってもンだよ。なぁ? お兄さん方、そうだろ?」
 背後に巨漢を、正面に性悪なボスを見据えて、若者はのんびりとした口調で喋りながら、血塗られたナイフを弄ぶ。
「この野郎……! よくもやりやがったな」
 大男が背後から若者に掴みかかる。ボスの方はといえば、惚けたように青年を、いや、青年の乱れた前髪を凝視していた。見てはならないものを見てしまったかのように、恐れおののき、ジリジリと後退していく。
「や……やめ……。ゴルベ……リ……」
 もつれて滑らかにまわらない舌を必死に動かして、ボスはたった一人残った仲間を止めようとするが、当のゴルベリの耳にはそんな制止の声など届いていない。
「ゴ、ゴルベリ……!」
 掠れきった声を張り上げて相棒の名を呼ぶのと、ゴルベリの眉間に深々とナイフが突き立つのと、どちらが先だったかわからない。
 砂煙を立てて倒れる巨漢には一瞥もくれず、青年は正面で座り込んだ男を睨み続けていた。
 なんという腕前であろうか。人一人を抱えたままの状態で、後方から襲ってくる敵の急所を振り返りもせずに仕留めるとは!
 腰を抜かし、失禁しながらも這いずって逃げようとするボスに、悪魔の微笑みを浮かべた若者が一歩また一歩と近づいていく。
 側の消火栓にぶつかり、そのまま動かなくなったボスの目の前までくると、青年は狂気にも似た微笑を浮かべたまま、ゆっくりと前髪を掻き上げた。
「これに見覚えがあるのかい? ……それとも、聞き覚えがあるのか? この顔の特徴に……」
 今まで前髪に隠れていた若者の顔左半分が露わになる。麗しいまでの美貌が刻まれた顔が、残りの半面が現れた途端に醜怪な魔物の表情へと変貌した。
 美神の嫉妬に触れたか、あるいは魔神の悪戯か、青年の顔左半分には見るも無惨な裂傷がひきつれを作っていた。
 レーザー銃などの火器類の凶器ではない。強いて言えば陶器や鉄片などの切れ味の悪い破片で無理矢理に押し潰された感じのする傷痕だ。
 男は逃げる気力も尽き果てたのか、青年の手が自分の首に回されても抵抗しなかった。静かに締め上げられていく喉の奥から弱々しい息がもれる。
「あ……あ、あんた……は、ガイ……スト……。ダー……クガ……イス……ト」
 この惑星タッシールのダークサイドの住人ならその名を知らない者はいない。
 悪名高き闇バイヤーの名を口にした途端、鈍い厭な音を立てて男の首は真後ろへとへし折られた。
 すべてが終わったかと思われたそのとき、雑踏のなかから忽然と黒い男が現れた。死んだ男を見下ろす白髪の若者よりもさらに背が高い。腰まで届く長い黒髪を結いもせずに、肩で風を切って近づいてくると、当然のように気を失ったままの女を貰い受け、青年を促して歩き出した。
 まだ宵の口に入ったばかりの歓楽街は人通りも多い。もっとも、このプルトンサイドウェイにいる者自体がまっとうな人間であるはずもない。
 だがネオン街の一角で起こったこの惨劇を目撃した者の数は少なく、たまたま見届ける羽目になった者も口を堅く閉ざして、この日の悪夢を語ろうとはしなかった。


「随分と手間取っていたな、ガイスト」
 絡みつく長髪を払いのけながら黒い男が言った。重厚なアルトの音程が耳に心地よく響く。
 筋肉質のガイストと比べると、この男の方は身長の高さばかりが目立つ。しかし見る者が見れば、幅広の肩やしなやかに伸びる肢体が鍛え抜かれた強者の持ち物であることがわかるだろう。
「お前に見られていたとは思わなかったよ」
「女の所へいった帰り、だろう? この時間帯にあの通りをブラついていると必ずお前に出くわすんだ。もっとも、お前が他の女に鞍替えしちまえば別だがな」
 男が喉の奥で含み笑いをする。三十代前半と思われるその顔つきからは想像もできないような殷々たる声音が、彼のそれまでの人生を表しているようだった。
 男は黄色人種系の肌や髪質だが、決して童顔ではない。多くの民族の血が混じり合った結果を体現したような顔立ちだ。
「チッ! 嫌味な奴だな、お前は。……やめろよ、この人混みのなかで何しやがんだよ」
 肩に女を担ぎ上げたまま男の手がガイストの腰へと伸びてきた。黒目がちだが切れ長の瞳がからかうように光る。
「いやに照れるじゃないか。……初めてでもあるまい、この街でなんの遠慮がいるんだ?」
 険悪な視線を男の横顔にスパークさせたが、ガイストは口を噤んで喋ろうとはしなかった。
「なんだ怒ったのか? 謝らんぞ。事実を言っただけだからな、私は」
 ガイストの腰に腕をまわすと男は耳元で囁いた。身じろぎしてその腕から逃れようとするガイストを放すまいと、男の腕にさらに力が込められる。
 ガイストが苛立たしげに首にまとわりつく髪を払いのけ、唸るように低く言葉を吐きだす。
「……やめろ、アスモデウス」
 その声に、当のアスモデウスは嘲りを含んだ冷笑で報いた。
「そう、私はアスモデウス……。“淫乱”の魔天使の名を持つ者だ。そう“神ゴッド”が名付けた。そして、お前の相方なんだ……アスタロト」
「……! その名で呼ぶなっ! ……オレは、ガイストだ」
 全身を小刻みに震わせ、アスモデウスの腕を無理矢理に引き離すと、ガイストは低く叫んだ。
 しかしアスモデウスが忍び笑いをもらしながら、再び無遠慮に若者の身体をまぐさる。
 アスモデウスの視線がガイストの青ざめた横顔を舐めるように這っていく。医者か研究者のような観察眼が冷たい。
「そうだな。確かにお前はガイスト……亡霊だ。光の当たる場所には二度と戻ることは出来ない、葬り去られた人間だからな」
 そうだ。もう戻れない。光の天使が住まう場所へは……。もう二度と。
 ガイストの横顔に苦渋が拡がり、両肩が目に見えて落ちる。
「そうそう。“神ゴッド”と“女王クィーン”、双方への定例報告を忘れるな。
 私たちには選択の余地などないのだからな。今はどちらかにつくわけにはいかないんだ。この世界では中立を保つ立場だということを忘れるなよ、ガイスト」
 突然に事務的な口調でアスモデウスがガイストに声をかけた。それは今までの言葉が嘘のような無機質な声だった。
 相手の傷心を知っていて、わざとそれを無視して見せる、残忍な彼の横顔に憐憫という単語は一番似合わないようだ。
 傷ついたガイストと見知らぬ女を伴って、アスモデウスは暗黒街の奥深くへと進んでいった。
 闇の顎あぎとへと吸い込まれていく彼らを見咎める者は誰もいない……。


 夜が明けようとしていた。薄汚れた窓から覗く空は筆で軽く掃いたように薄い紫雲を浮かべている。
 まだ街のこの近辺は眠っている時刻だ。ツーブロック向こうの大通りならば、すでに運搬専用の地上車ランドカーが凶暴な排気風を吐き出しながら走り回っているだろうが。
 眠れない夜を過ごした夜明けの色は、安堵と虚脱感に満ちているようだった。
 窓からの弱い光に照らされた室内の家具たちは、澱んだ黒い影を床や壁へと伸ばし、部屋の主の気分をいっそう滅入らせているばかりだ。
 大仰に溜め息を吐いた彼は窓辺の分厚い壁にもたれかかったまま、金属製のドアを睨みつけた。
 すぐにそこから視線をずらす。しかし彷徨っていた瞳は再び吸いつけられるようにドアの表面へと向けられる。
 何かを待っているような素振りだ。
 何度目かに瞳が往復したあと変化はやってきた。
 ドアの電子ロックからセキュリティアラームが聞こえる。来客を知らせるその音はボリュームを絞ってあるらしく、ひどく小さな音だった。
 口唇が渇くのか何度もそれを舐める。緊張感に身体が強ばっているようだ。
 だが来訪者をそのまま無視することもできないらしく、重い足取りでドアへと近づく。まるでそのドアを開けたときが自分の運命が決まるときだとでもいうかのような決死の表情だ。
 緊張した顔つきのままドア横の電子ロックを外す動作は、緊張はしていてもよどみない。
 外の人物を確認しようとしないところをみると、待ち人であることを確信しているのだろう。「チキッ」と金属が擦れる小さな音の後、ドアはゆっくりと横にスライドしていった。
 部屋の外は廊下だ。彼の瞳が目に見えて細くなる。照明がついている加減で、室内よりも明るいくらいだ。光に目が慣れていないと言えばそれまでだが、彼が目を細めた理由は、それだけではないだろう。
「……どうぞ」
 低い声で訪問者を室内へと誘う。その声は少し掠れて聞こえた。
 悠然と室内へと足を踏み入れた人物を見れば、彼が視線を外している理由が頷ける。それは眩すぎる輝きに満ちていたのだから。
 訪問者は彼の白人種特有の白い肌と雲のように真っ白な髪、暗く光る翠眼とはまったく対照的な外見を持っていた。
 まず、真っ先に目を惹くのは髪だ。
 どんな群衆に混じっていても、遠目にすぐに判るほどの豪奢な金髪。それ自体が太陽のような輝きを発している様は、壁画から抜け出してきた神か聖人のような壮麗さを感じさせた。
 そしてこめかみから落ちかかる金髪に縁取られる顔は滑らかな褐色肌。どこにもくすみや染みのないその皮膚は何よりも健康的な印象をまわりに与える。
 訪問者は、美しく、華やかな外見の娘だった。
 顔立ちもたぶん雰囲気を裏切らない造りなのだろうが、横長の偏光グラスをかけた顔はその細部を伺うことはできなかった。
「殺風景なところで暮らしているわね。……もっとましなところに住めるでしょうに」
 呆れたように呟いた声は、魅惑的な震えを帯びて空気に溶ける。それを怯えたように聞きながら、彼は簡素なサイドボードの上からマグカップを取り上げた。
 相手を見ないようにするには、他の作業に没頭するしかない。
「あ……。わたしは濃いめのブラックにしてよ」
 黙々とコーヒーを淹れ始めた彼の背中に遠慮のない声がかかる。
 外見の神々しさからは想像できない平易な態度に驚きでもしたのだろうか、男はチラリと振り返った。
 だが娘が断りも無しに古いソファへと腰を降ろし、のんびりと室内を見回している様子を確認して、再びコーヒーを淹れる作業へと戻る。
「ねぇ、ガイスト……」
 背後からの声に彼は怪訝そうに振り返った。相手の神経質な色を帯びた声に驚いたのだ。こんなざらついた口調は滅多に耳にすることなどない。
「何か……?」
 即席で淹れたコーヒーを手に、慎重な足取りで娘の側までくると、未だに偏光グラスを外していないその顔を覗き込むようにしてそれを手渡す。
「ガイスト。相変わらず他人行儀ね、あなたは……」
 苦笑しながらカップを受け取った娘が、指に伝わるコーヒーの熱を愉しむようにして両手でその器を包む。
 昇ってくる太陽の光が窓ガラスに反射して娘の頭上へと降り注ぎ、彼女の髪は燃え立つように輝いた。
「日が昇ったのね……」
 ぼんやりとした口調で娘が窓から空を仰ぎ、我に返ったように手の中のコーヒーを一口すする。
「今回は急な注文でしたが? 何か上層部であったのですか、サリアルナ?」
「いいえ。上では何もないわ」
 硬い声のままに答えた娘は、気怠げな手つきでカップをテーブルへと置き、目の部分を覆っていた偏光グラスを外した。
 その様子を見守っていたガイストの視線が、無意識のうちに娘の瞳へと注がれた。そう。娘の瞳は少々変わっていたから……。
 燃えるような金髪のなかに極上のサファイアとルビーが一粒ずつ。いや彼女の瞳は右目が蒼、左目が紅というオッドアイだった。
 対極をなすその色彩が、娘の表情を判らなくする。
 これでは偏光グラスをかけていたときと同じだ。
 冷たい蒼の瞳は彼女の感情を押し包み、燃え上がる紅の瞳は彼女の気性の激しさを雄弁に物語っているように見えるのだ。どちらが本来の彼女なのであろうか。
「頼んだ品物を見せてもらえる?」
 自分を見つめる者と視線を合わせないようにカップに視線を落としたまま、娘は早口に言葉を紡ぐ。
 その神経質な声に眉をひそめたが、ガイストは何も問わずに席を立ち、壁に穿たれた窪み棚アルコープの前まで歩いていった。
 幾つかの置物のうち、左端下隅に置かれた絵付き皿を持ち上げる。そして、その皿を支えていた支柱と取り上げると、棚の中央に剥きだしで置かれた時計の軸芯へと突き立てた。
 ゴキリと何かが噛み合う音がしたあと、棚の奥の壁に一本の亀裂が走る。奥にさらに空間があるようだ。
 ガイストは開いた隙間に指を差し入れ、そっと左右にスライドさせた。
 乾いた紙が擦れるように微かな音とともにぽっかりと穴が開く。奥には大小さまざまな包みが所狭しと並んでいた。
 その中から細長い筒状の包みを取り出すとガイストは傍らに置いてあった絵付き皿を元の位置に戻した。
 再び微かな音をたてて隠し扉が閉まり、棚奥の壁がピタリと合わさる。壁の模様と同化して亀裂の跡はまったく区別できなかった。
 脇に抱えた包みを持って娘の前に戻ってきたガイストが恭しい手つきでそれを差し出す。
 それを一瞬手に取ることをためらった娘だったが、意を決したように両手で包みを受け取り、乱暴な動作で包み紙を引き裂いていった。
 中から硬化プラスチックの筒箱が姿を現す。
 大きさは娘の片腕の長さとほぼ同じくらいではないだろうか?
 筒の上部は透明プラスチックになっており、見慣れない鳥の頭を持つ怪物が筒のなかで眼を光らせている。
 その頭が入っている部分が蓋になっているらしい。頭を覆う透明プラスチックを鷲掴みにした娘が強引にそれを引っ張る。だが簡単には開かないようだ。
 不機嫌そうな表情で娘が筒を見下ろす。
「壊れますよ。貸して下さい。開け方を教えますから」
 娘の乱雑な手つきをハラハラして見守っていた男がそっと手を差し出した。それに素直に従って、娘は手の中の筒を相手に渡す。鈍い光沢を放つ筒が朝日に反射して、一瞬だけギラリと鋭く光った。
「一見プラスチックに見えますけど、新種の金属“パラライト”でできているんです。御存じでしょう? 温度や振動を記憶する金属です」
 こくりと頷く娘によく見えるように男は筒の頭を握り込んだ。大きな掌に包まれて頭の部分が隠れてしまう。
 そのままゆっくりと左回りに筒をひねり、何かに引っかかって止まると、掌を離し、今度は指先で頭をコツコツと叩く。
 じっと見守る娘の目の前で、怪物の彫り物がグラグラと揺れ、キラリと紅い光をその両目に宿した。不気味な赤色灯が小さく瞬く。
「カーヴァンクルの瞳が光ったら、後は簡単に開きます。……どうぞ」
 受け取った娘の手の中で、筒はアッサリと口を開けた。筒の口を下に向けて振り回すと、ストンと縄の束のようなものが落ちた。筒を放り出した娘はそれを掴み取ってジッと眼を凝らした。
 細かくしなやかな金属の鎖が幾重にも巻きつけられた品物は見ただけではどんなものなのかさっぱり判らない。
「ご依頼のローズウィップ……。見ただけでは普通の鞭ですが、操るときの手首のひねり一つで多種の鞭に変化します。使用方法は……」
「いいわ。それは判っているから……。ありがとう。いい出来の品だわ。さすがはジェミニ恒星系一のバイヤーが見立てただけはあるわね」
 ニッコリと微笑んだ娘の表情は玩具を手に入れた子どものようだった。
 だが彼女の手の中にあるものは、決して玩具ではない。使い方によっては恐るべき破壊力を持つ武具である。
「これで心おきなく“ノイエス”へ行けるわ」
「ノ……イエス……!?」
 ガイストの瞳が動揺に震えた。
 それを横目で確認した娘が皮肉っぽい笑みを浮かべる。彼女には相手の驚きのほうが意外なようだ。
「何を驚いているの。わたしが護身用にこの鞭を頼んだとでも思ったの?」
 小さな笑い声がもれたがそれは少しヒステリックにも聞こえる。その声を止めようとでもいうのだろうか。ガイストは娘の両肩を掴んで、彼女の体を自分へと向けた。
「サリアルナ! いつ“女王クィーン”の元へ行くんですか!?」
「痛いわ、放してよ」
「答えてください!」
 語気を強めるガイストから視線をそらし、娘は自分の膝の上にある金属の鞭を見つめた。
 冷たい視線だった。視界に入ったものすべてを凍りつかせるように残酷な視線が娘の美貌から放たれている。
「明日よ。兄さんから命じられたわ。……たぶん兄さんは公から指令を受けていると思うけど」
「サリ……」
「止めないでよね。わたしは“ニケイアの門”をくぐって、その先に行くんだから」
 ガイストへと向けられた視線は今度は炎のような激しさを含んでいた。自分の決めた道を邪魔する者は、その業火で焼き尽くすつもりなのだろうか?
 諦めたようにガイストが視線を落とした。止めて聞くような娘ではないと判っているのだろう。小さく首を振り、深い溜息を吐くと、再びガイストは顔をあげて娘の顔に見入った。
「次に遭うときは……敵同士かもね。“神ゴッド”が勝つか、あるいは“女王クィーン”が勝つか。あなたは勝つほうにつきなさいよね。闇に堕とされたのなら、そこで生き抜く算段をしなきゃ」
「どうして公はいつもあなたをそんな過酷な場所に……」
 ガイストの沈んだ声にサリアルナは口元を歪めて笑った。
 それはいったい誰を嘲笑っているのだろう。自分の運命? それとも自分を憐れんだ瞳で見る目の前の男? あるいは冷酷に命を下す者たちだろうか?
「わたしの知り得る範疇じゃないわね。心配してくれてありがとう、ガイスト。でもわたしは死にに行くわけじゃないわ」
 堂々と胸を張る娘の表情は、ちょうど朝日を逆光に浴びてハッキリとは読みとれない。
「生き延びてくださいよ。あなたには、あなたの力を必要としている人がたくさんいるハズです。オレを救ったように、あなたにはその力を使うべき人がたくさん……」
「えぇ。帰ってくるわ、必ず……。だって、このタッシールはわたしの故郷なんですもの」
 額にかかった髪を掻き上げながら娘は穏やかな微笑みを浮かべた。今までの強気な表情がふとほぐれる。大人びたなかに少しだけ幼さを残したその顔立ちが、そのときは優しく見えた。
「もう行くわ。品物の代金はいつも通り……に……ガイスト?」
 突然、男に抱きしめられて娘は眼を見張った。
「帰ってきてください、サリアルナ。オレはまだあなたに恩を返していない」
 自分を抱きしめる男の真綿のような髪をなでながら、娘は再び微笑んだ。それはまるで慈母の穏やかさを漂わせた温かな笑み。
「あなたがわたしに返す恩などないわよ。わたしがあなたを救ったのはほんの偶然だったんだから」
「それでも……。それでも闇に堕ちた者にはどんな小さな光でも眩しく見えるものです。あなたがオレの妹代わりでいてくれたからこそ、オレは今生きている。サリアルナ。生き延びてください。あなたが死んでしまったら……」
 強ばった表情を自分へと向けるガイストをなだめるように娘は小さく笑い、彼の前髪を掻き上げて、隠された左半分の顔をじっと凝視する。潰され醜くひきつれたガイストの半面に恐怖や嫌悪の視線を向けることはない。
「わたしは権力ちからを手に入れたいの。わたしを待っている人たちを救うにはもうそれしか方法がないから。
 わたしの両手も血に染まっているわ。今更きれいごとを言うつもりもない。だから……ガイストも待っていて。わたしは必ず戻ってくるから。必ず、あなたを光の中へ帰してあげる」
 残酷な刻印を刻まれたガイストの半面を再び髪で覆い隠すと、娘は静かに立ち上がった。
 どれほどの想いで待っていろと言っているのか、ガイストには理解できたのだろうか? 細められた彼の暗緑の瞳には未だ不安がくすぶっていた。
「また会えるわ」
 娘の囁き声を茫然と聞きながら、ガイストは立ち上がることができずに独り座り込んだ。
 その背中を娘が一度だけ振り返り、何も声をかけることなく静かに部屋を出ていった。
 窓の外を見上げれば、昇りきった朝日が街並みを白く染めている。
「オレは……また何もできないまま見ているしかないのか?」
 震える声で呟くと、彼は娘の座っていた椅子に寄りかかった。身体が気怠い。昨夜眠れなかった疲れがドッと押し寄せてきたかのようだ。
 娘が乱暴に引きちぎった包み紙をつまみ上げ、ぼんやりと見つめているうちにいつもの唄を口ずさんでいた。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 ハラリと手から紙がこぼれ落ちた。
 その様子を見守るガイストの口元は苦しげに歪んでいる。
 何か言いたいことがあるのに、どうしてもその言葉が見つからないときのように、心許なく、寂しげに……。
「神よ……。心あるならば、彼女を守りたまえ……。どうか彼女を……」
 顔を覆い呻くように神に祈りを捧げる男の姿を窓の外から蒼い空だけが見下ろしていた。

〔 12323文字 〕 編集

ナジェール譚

No. 28 〔25年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
金と紅 Part:2

「やかましいぃっ! 出て行けーっ!」
 次々に飛んでくる小物類を避けながら、アダーリオスは更なる説得を試みる。結局は無駄に終わるであろうことを予測しつつ……。
「いい加減に落ち着けよ、ミノス。怒ったって仕方ないだろ!」
「黙れ! 誰のせいだと思ってるんだよ!」
 よりいっそうの怒りを込めてナイフが飛来した。アダーリオスは慌てて身をよじって後退する。
 目にでも突き立ったら、失明してしまうではないか。
「危ないな! 元はといえばお前が悪いんだろ! 余計な食い意地なんか張るからだ。自業自得だっていうの!」
 一歩間違えたら、殺し合いにでも発展しそうな雰囲気だ。
 食事が終わるや否や、ものすごい勢いで金蠍蛇宮へと帰ってきたミノスは、当たり散らせる物という物すべてを叩き壊してまわった。
 従者たちが恐れをなして、牙獣王宮へ帰り着いたばかりのアダーリオスに助けを求めに走ったのも頷ける暴風雨だ。
 いつも一緒に行動していることが多いアダーリオス以外で、ミノスのヒステリーを抑えることができる人物はいまい。
 しかしそのアダーリオスにしても今回のヒステリーには手を焼いている。ミノスが疲れて座り込むか、怒りを吐き出すことに飽きるまで収まりそうもない。
「出てけっ! 出て行けったら!馬鹿野郎ーっ!」
 もはや絶叫と変わらない怒鳴り声を響かせてミノスは荒れ狂い、辺りの小物類をアダーリオスへと投げつける。
 そのアダーリオスは飛び交う凶器を叩き落とし、蹴り飛ばしてミノスが鎮まるのを待ち続けているだけの状態だ。
 金蠍蛇宮殿の外ではミノスの数年ぶりの凶行に従者たちがオロオロと狼狽し、手を取り合って座り込んでいる。主人の身に起こった出来事を知る由もない従者たちはただただ心を痛めて、主人の怒りが収まる時を祈るように待ち続けていた。
 普段のミノスは悪態はつくし喧嘩はしょっちゅうという傍若無人ぶりだが、従者たちに粗暴な振る舞いをすることはなかった。その彼がこれほど見境もなく暴れ狂っているのだ。よほど腹立たしいことが起こったに違いない。
 初めて彼がその美貌からは想像もつかない凶悪な形相を人前でさらしたのは、彼が正闘士に選ばれる直前のことだった。
 正闘士を決める闘技戦を数日後に控えたその日、対戦相手の取り巻きの一人が発した言葉がミノスの逆鱗に触れたらしい。
 ……らしい、という憶測の域を出ないのは、この半死半生の目に遭った男が、今はミノスの従者としてこの宮殿に仕えているために主人の不利益になりそうなことを語らないからだ。
 よもや殺しはすまい、と傍観していた兵士たちが、ミノスの容赦のない拳に数多の負傷者を出しつつも止めに入らなければならなかったことを考えれば、その怒りの鉄拳がどのようなものであったか推し量れよう。
 そのとき以来、ミノスはこのヒステリーの発作を起こしていない。吹き荒れるヒステリーの嵐が過ぎ去るまで従者たちはじっと堪え忍ぶしかないようだ。
 かなりの時が経ち、所在なく宮殿のまわりを彷徨いていた従者たちが疲れて一所へ固まり始めた頃、背後からの声が彼らの心臓を鷲掴みにした。
「ここで何をしているのだ、お前たち」
「……!!」
 目を白黒させて振り返った彼らは声の主を確認するや、魂の抜けたように表情で相手を見上げた。
 銀月の光に照らされてなお紅い髪が夜風に流され、それに縁取られて雪よりも白い肌が夜目にもはっきりと浮き上がる。さらに見つめる瞳は氷色。なのにその奥には地獄の業火もかくやという底光りする輝きを湛えていた。
 魔人が地上に現れたなら、こんな瞳をしているに違いない。
「お前たち、ここの宮殿の侍従ではないのか?」
 再び宵闇を切り裂く声が従者たちにかけられた。
 その間、従者たちは人形のように突っ立ったまま動かなかったのだ。現れた紅の麗人に魅入られていた、と言ったほうがいいだろうか。
 一人が我に返ったように頭を振り、鄭重に跪くと、麗しい来訪者に応対する。
「ご来訪に気づかず失礼を……。海聖宮殿の御方とお見受けいたしましたが……?」
 相手が軽く頷くのを確認して、従者は再び口を開いた。
「我らはこの金蠍蛇宮殿と牙獣王宮殿に従事しておる者でございます。実は……」
 その従者の答えを遮る破壊音がわき起こった。猛々しい音とともに崩れた壁から吐き出された人物を見て、従者たちは蒼白になる。
牙獣王(レンブラン)様!」
 何名かの従者が吹き飛ばされたアダーリオスの元へと走り寄った。
 幸い怪我らしい怪我をしている様子はない。壁に叩きつけられ、ぶち破った衝撃のために一時的に体が動かせないだけらしい。
 従者に助け起こされ、ブツブツと不平を鳴らすアダーリオスに見守る従者たちの間から安堵の吐息が漏れる。石片を払いのけながら、アダーリオスは心配ないと従者たちに笑顔を向けた。
 その表情が従者たちの脇に立つ人物を捉えた途端に固まった。
「カイゼル!こんな所で何をしてるんだ!?」
 闇に浮かぶ白い顔が無感動にこちらを見つめている。その表情からは心中の動きなど微塵も伺えない。
「大蛇が暴れ回っているようだな……」
 鉄仮面が口を開いた。カイゼルの口調からは人間臭さなど片鱗も見えない。何を考えてこの辺りを彷徨いていたのだろう。
「責任に一端は君にもあるんだぞ。食堂で君がミノスを無視し続けていれば良かったんだ」
 上目遣いで恨みがましい口調のアダーリオスの態度から、ミノスのヒステリーの原因が目の前の紅の麗人であることを悟った従者たちが彼から後ずさる。
 とんでもない人物が現れたものだ。非難するアダーリオスはと言えば、ミノスをなだめすかすことに疲れたのか、ゴロリと瓦礫の上に転がって溜め息をついていた。
 アダーリオスの言葉にも痛痒すら感じていない態度でカイゼルは宮殿の奥部に視線を走らせた。その二人の様子を従者たちは遠巻きにして見守るしかない。
 その従者たちの視線の先でカイゼルの表情がゆっくりと動いた。初めは目の錯覚かとも思ったが、それがまごうことなく微笑を刻んだのを確認して、従者たちは戦慄にも似た驚きに茫然となった。
 その空気を敏感に感じ取ったアダーリオスが、従者たちを見回し、その空気の原因らしいカイゼルへと視線を向けた。
 だがアダーリオスがカイゼルを振り返って見たときには、すでにカイゼルの美貌に浮かんだ表情は跡形もなく消えていた。それでも従者たちの様子から彼の顔に浮かんだ感情の見当がつく。
 食事のときの不機嫌さを思い出して、アダーリオスはムスッと頬を膨らませた。
 またミノスだ。この紅の鉄仮面は普段は他人に無関心で、必要最小限の感情しか出さないくせに、なぜかミノスのこととなると鮮やかな表情を浮かべてみせる。
 嫉妬にも似た腹立ちにアダーリオスは自分自身、少々戸惑った。しかし、年頃の娘のようにヒステリーを起こすだけで、この麗人の美貌に微笑を浮かばせることができるのなら、自分もヒステリーを起こしてみたくなるではないか。
「彼はまだ奥にいるのか?」
 鬱々と思考を巡らせていたアダーリオスに冷めた声がかかった。
 ギョッとして顔を上げたアダーリオスのすぐそばに暗い(ほむら)を燃やす瞳がある。黄昏の正殿で見た神々しいまでの闘士の姿はそこにはなく、北の氷原に立ち尽くす魔人の出で立ちそのもののようだ。
「あ……あぁ。いる、と思う」
 そうか、と呟きを残してカイゼルは金蠍蛇宮殿へと歩を向けた。驚いて止めようとする従者の脇をすり抜けてカイゼルは宮殿の入り口に手をかけた。
「どうする気だよ? 今のミノスは手負いの獣そのものだぞ。君に会ったらいっそうひどくなると思うけどね」
 アダーリオスの言葉にカイゼルが立ち止まり、肩越しに振り返った。相変わらずの淡々とした口調で返事が返ってくる。
「責任の一端は私にある、と言ったな? 金蠍蛇(ムシューフ)をこれ以上放っておくとまわりの人間が迷惑だ。私なりに責任を取らせてもらおう」
 だから口出しをするな、ということか。それほど大柄でもないのに、アダーリオスたちの前に立つカイゼルの体がこのときばかりは異様に大きく見える。
 アダーリオスは呆れたとばかりに肩をすくめ、やけになったように再び口を開いた。投げやりな口調が彼がこの一見に飽き飽きしていることを物語っている。
「もしミノスの奴が奥にいなければ、南の高楼にでも登っているだろうよ。いつもあそこで頭を冷やしているからな」
 カイゼルが怪訝そうに片眉をつり上げた。たった今、奥にいるか? との問いに、いるはずだと答えたばかりではないか。そんなカイゼルの態度にアダーリオスは問われもしないのに話し出す。
「どこの宮殿でもあるはずだけど、この金蠍蛇宮殿にも抜け道があるんだ。いなけりゃ、それを使って外へ出ているはずさ。
 そうなると、この神域であいつが行くとしたら南の高楼くらいだよ。ミノスは独りになりたいときは、たいていあの場所にいるんだ」
 感心した様子もなく、カイゼルはくるりと背を向けて入り口をくぐっていった。聞きたいことは全部聞いた、ということだろう。
 優雅な足取りだけを見ればそれは美しい光景なのだが、彼の態度はあまりにも冷徹に見えた。
「よろしいのでしょうか? あの方にお任せしても……」
 猜疑心を捨てきれない従者の一人がアダーリオスにおずおずと尋ねる。あの冷淡な表情でミノスのヒステリーを鎮めることができるようには見えなかった。
 現に行動をともにしているアダーリオスにさえ、止められなかったのだ。
「大丈夫だろうさ。もうオレの手には負えないんだし……」
 カイゼルの姿が宮殿のなかに消えてからしばらくして、アダーリオスは従者に付き添われて自分の宮殿へと向かった。
「金と紅……。互いが互いを凌ごうと争っているようだな……」
 ぼそりと呟いたアダーリオスの声は彼を支えている従者の耳にも聞こえないくらい小さなものだった。


 無人の塔は朽ちかけた痛々しい姿の半分を闇色に染め上げていた。
 神域の拡張とともに新築された物見櫓は、ここから東西に幾分離れた二地点にある。もはや使用されない以上、この高楼が取り壊されるのも時間の問題であろう。
 息の詰まるような静寂を破ったのは、砂利を踏みしめる微かな足音だった。すべてを拒絶するような、あるいはすべてを肯定するような、厳粛な足取り……。
 毛織物特有の衣擦れの乾いた音。衣装に縫い込まれた刺繍が微かな月の光に煌めく密やかな輝き。闇のなかで浮き上がる白い顔。……そして、水晶よりも艶やかに光る双眸と燃え立つ炎よりも紅く長い髪。
「なるほど……。確かにここにいるらしいな」
 殷々と響く声が夜風に運ばれて消えた。
 何を根拠に、この塔にいると断じたのか伺い知ることはできない。石壁を叩いたり、絡まる蔦をむしり取ったり、カイゼルは熱心に、そして物珍しそうに使い古された物見櫓のまわりを彷徨いた。
「見事な造りだ。北にもこれだけの建造物があれば……」
 感嘆の吐息が漏れ、それも風に運ばれていった。
「……何しにきた!」
 殺気立った声がカイゼルの頭上から降ってきた。ついと見上げれば、櫓の頂上付近から黄金の煌めきが覗いている。
 ミノスだ。声を聞いてすでに判っているであろうに、カイゼルは首を傾げて改めて確認する。
金蠍蛇(ムシューフ)か?」
 無言の返答が返ってきた。それだけで充分だ。カイゼルは躊躇うことなく高楼の入り口を潜った。恐れる素振りは微塵もない。
 誰も使っていない割には、塔のなかは以外にきれいなままだ。もう少し朽ちた木材や崩れた石材やらが散乱しているかと思ったのだが。無人だというだけで、まだ使っているのではないだろうか? とてもうち捨てられたとは思えない。
 外でかかった声の主の元へと急ぎながらもカイゼルは興味深げでにまわりの壁や手すり、足下の石床を観察し続けた。
 見れば見るほどに北の備えとして欲しい建造物だった。これだけの材料を氷原で手に入れるには並大抵のことではない。この資材が運べるものならば……。
 考え事をしながらの速度であったが、ついに塔の頂上へと到着した。
 開け放された扉の向こうに澄んだ星の光が見える。月が少し翳っているのか、星たちはチリチリと啼いているように瞬いていた。
 穏やかな空だ。氷原の空がこんなに優しい表情を見せるときなどほとんどない。いつも吹き荒れる風に目を覆って足早に家路へと急ぐばかりだった。
 わずかな感傷に胸を焼いた後、我に返ってカイゼルは頂上の石畳へと踏み出した。
 目的の人物はすぐに目に入った。逃げも隠れもせず、じっと自分が到着するまで待っていたらしい。蒼い星のように輝く瞳が自分へ向けられている。
 奇妙な快感だった。カイゼルにとって人に見られるということは、好奇の視線の前に立つということを意味していた。それなのに、この相手は興味本位な視線を向けはしない。
 敵愾心も露わに、自分をねじ伏せようと殺気立っている。神に選ばれた同じ正闘士の地位にありながら、その蒼い瞳は自分を倒すべき仇敵としてしか認識していないようだ。
牙獣王(レンブラン)は怪我もないようだ。後から詫びを入れに行ってきたらどうだ?あれはどうみてもやりすぎだからな」
 自分がいつも以上に饒舌になっている。
 なぜか新鮮な気分だ。普段はあまり人と話をする機会などないせいだろうか? いや、違う。黙ったままで睨み合っていたら、きっと彼の瞳に呑み込まれてしまうからだ。沈黙に耐えられないのだ。
「大きなお世話だ。……お前の言うことなんか、誰が聞くかよ!」
「少なくとも、私の弟子は私の言いつけを守るがね。君とはウマが合わないな……」
 弟子、と聞いてミノスの眉がピクリと震えた。
 正闘士と言っても、ピンからキリまで色々だ。力のある正闘士ほど弟子を育て、新たな闘士見習いを神域へと送ってくる。それが腕の良い正闘士の目安でもあった。
 まだ成年に達していないミノスには、弟子をとるほどの技量はまだない。今のところは自分の力を高め、より強くなることが彼の最大の関心事だ。
「フン。子育てしてる暇があったら、北の警護を強化したらどうだよ。氷原は設備が貧しいらしいじゃないか。神域から派兵される兵士たちが一番行きたがらない地区だぜ?」
「……やれるものなら、とっくにやっているさ」
 忌々しげに口元を歪めたカイゼルの表情にミノスが一瞬たじろいだ。言葉のあやでつい相手の足下を見るようなことを言ってしまったと後悔しているようだ。
 カイゼルのほうもそんな相手の動揺を見透かしているのか、冷酷な仮面をかぶり、じろりとミノスを睨ねめつける。
「神域でぬくぬくと育ったお坊ちゃんにとやかく言われるのは不愉快だな。自分の未熟さを友人に当たり散らして発散する程度の者がよくも正闘士に選ばれた。神域の威厳も堕ちたものよ」
 カイゼルの冷笑にミノスの瞳がカッと見開かれた。眦まなじりが避けるほどに開かれた瞳から蒼い炎が噴きだしている。
 対するカイゼルの氷の瞳にも、冷たい炎が揺れていた。触れれば火傷しそうなほどの緊張感が二人の間に張りつめる。
「言わせておけば……!」
 怒りに震える拳をさらにきつく握りしめ、ミノスが大きく一歩を踏み出した。それに応えるようにカイゼルも一歩踏み込む。
 ギラギラと輝く蒼い視線と氷の視線が空中で火花を散らした一瞬後、一人は黄金色の風となって、一人は逆巻く炎ほむらとなって、互いを凌ごうと拳を繰り出した。


「なめるな……! お前なんかに……」
 カイゼルへと走り寄ったミノスが電光石火の勢いで右手を突き出す。それをヒラリと舞ってかわしたカイゼルが踊るように蹴りを出す。
 横っ飛びにミノスはそれを避けた後、相手の懐へ飛び込んでいく。目の前に迫った相手との間合いを取るためにカイゼルが華麗なステップを踏んで後退した。
 直情的な動きをするミノスの攻撃は円舞を舞うようなカイゼルの防御に阻まれ、針のように鋭いカイゼルの攻撃は曲芸師たちの軽業のようなミノスの防御に阻まれた。
 一進一退の攻防には終わりがないような気がする。
 だが、戦いが長引けば長引くほどミノスには不利だった。彼の年齢は十四。対するカイゼルは十九だ。この年代での体力差は持久戦となったときに確実に現れる。
 互いに的確な蹴りと拳で渡り合っているが身長差を補うためにミノスはカイゼル以上に激しく動き回って相手を牽制しなければならない。素早い動きは体力があってのことだ。スタミナが切れたら、ミノスはカイゼルの蹴りの餌食になるだけだろう。
「そろそろ降参したらどうだ?」
 相手の体力がジワジワと落ちてきているのを見計らって、カイゼルがミノスに冷笑を向けた。瞬く間にミノスの顔が怒りに染まる。
 それを計算していたのか、カイゼルは不敵な笑みを浮かべてわざと懐に隙を作る。
 まんまとその誘いにミノスが乗った。狙い違わず相手の鳩尾めがけて突き出された蹴りが、寸前で弾かれた。
 それもただの弾き方ではない。ミノスが全体重をかけて出した蹴りは、カイゼルの下からの膝蹴りで方向を歪められ、空振りした。だが勢いに乗っていたミノスは体を支えきれずにあらぬ方角へと体をよろめかせる。
 一瞬の虚が致命的な隙をミノスの背後に作ってしまったのだ。
「は……ぐぅっ」
 背後から首をガッチリと締めつけられ、ミノスはもがいた。両肘まで使って押さえ込まれた首はびくともせず、為す術もなくミノスは腕や足を振り回した。
 しかし体同士が密着しており、拳や蹴りでの攻撃はまったく意味を成さなかった。わずかでも体がずれたなら、拳を奮う余地も生まれようが、油断なく首を締め上げるカイゼルの動きに無駄はない。
「私の勝ちだ。……諦めろ」
 吐息のような囁き声がミノスの耳元で聞こえた。
 カイゼルの息はまったく乱れていない。空気を求めて暴れるミノスの呼吸が荒くなっていくのとは対照的に、水中に潜っているかのように潜められた呼吸は、いや増しにミノスを焦らせた。
 相手の余裕が癪だった。だが持久戦になった時点で自分の勝ち目はほとんどなくなっていた。最初の打ち合いで相手を牽制しきれなかった自分の落ち度が敗因なのだ。
 それでも素直に敗北を認めるには相手の余裕の表情が憎らしい。
 返答をしないミノスに焦れたのか、カイゼルが再び耳元に口を寄せた。生暖かい息がミノスの耳朶をくすぐる。
「……死ぬぞ?」
 だがミノスはいっそう暴れて相手への抵抗を試みた。どうにかして体を少しでもずらせないものかと全身をくねらせる。その動きを読むようにカイゼルが呪縛をきつくした。
 いや……それどころか自分よりも小柄なミノスの体を引きずって塔の端へと歩み寄る。
「頭は少しも冷えていないようだな。荒療治が必要だ」
 苦しい息の下でミノスがカイゼルの顔をチラリと見遣る。何をされるのか判らない。
 塔の下から吹き上げてくる風が顔をなぶっていった。それは何かとてつもなく不吉な予感がする。逃げ出さなければ……。そう思いながらも、体は自由にならない。
「正闘士になったほどだから、修行は出来ているだろう。……夜風で頭を冷やせ」
 ミノスの首を締め上げていたカイゼルの腕が弛んだ。その一瞬の間に逃げだそうとミノスは体をよじったが、カイゼルの動きのほうが素早かった。
 あっさりとミノスの体が宙を舞う。
「うわわっっ!」
 足首を掴まれ、塔の外へと投げ飛ばされたのだ。支えるものもない空中でミノスの体が一瞬制止し、その後、真っ逆様に地面へと落下していった。
「うぎゃ~っ!」
 素っ頓狂な叫び声を上げて落ちていくミノスを櫓の上から見下ろしていたカイゼルが、腕組みして眉を寄せた。不本意そうに口が尖っている。
「まさか……受け身を取れないのか、あいつは?」
 信じたくないものを見てしまったといった様子で、カイゼルは肩をすくめ、ヒラリと塔の石組みから身を躍らせて遙か眼下に見える地面へと飛び降りていった。
 まるで紅い鳥が舞い降りていくように優雅に、ゆったりと……。


 体がギシギシと痛んだ。霞む視界のなかに最初に飛び込んできたのは、灯心草に点された小さな炎だった。
 その紅い揺らめきをぼんやりと見つめていると、痛みが少し薄らいでいく。
「来るのが遅いと思っていたら、こんな落とし物を拾ってくるとは……。珍しいことですね、あなたにしては。この坊やのどこが気に入ったんです?」
 呆れたような口調にどこか聞き覚えがあった。
「さぁね、どこが気に入ったのだか。……治療費は後から送りますよ」
「おや、仰々しいことで。キスの一つでもしてくれたら、帳消しですよ。打ち身程度の治療なんですから……」
「それを安いと受け取るべきか、法外だと言うべきか……」
「……失礼ですね。女性には優しくするものですよ」
「いいや。あなたは女じゃない。……と言って男でもない、か」
 忍び笑いが聞こえる方向へと首を巡らす。白い人影と紅い人影が重なって見えた。輪郭がハッキリとしない。
 誰だったろうか? ゆらゆらと蠢く影たちの声を思い出そうと頭の中を引っかき回す。もつれた記憶の糸のほころびを探すのは面倒だった。
「おや、気づきましたか。……具合はどうです、ミノス」
「はへ……?」
 よく状況が飲み込めない。霞んでいた視界のなかの人影が徐々にハッキリと見えだしたが、それは違和感のある光景だった。
「打ち所が悪くて、おバカさんになったんじゃないでしょうね。おチビのミノス?」
「誰がチビだよ。……数年後にはてめぇの背なんざ追い越してるぜ、男女のムーラン」
 含み笑いを浮かべたまま自分を見つめている朱の瞳の持ち主に悪態をつく。覚醒するに従ってミノスはいつもの不遜な態度を取り戻していた。
 目の前には海聖アクームのカイゼルが長椅子にゆったりと腰を下ろし、その肩にしなだれかかるようにして白廉(アリア)のムーランが寄り添っている。カイゼルの白い肌とムーランの純白の肌と髪が、カイゼルの燃えるような髪の色をいっそう激しいものに見せていた。
「どうやら頭も無事みたいですね。少しは可愛げのある性格になっていたら良かったのに。……どうします、カイゼル。私がしばらく預かりましょうか?」
「虎の穴に仔山羊を放り込むようなものですね。連れて帰りますよ」
「……とことん失礼な人ですね、あなたって人は」
 絡みついてくるムーランの白い腕を慎重に外すとカイゼルは音もなく立ち上がった。残念そうな溜め息が後に残されたムーランの口元から漏れる。
 その様子を大人しく見守りながらミノスは背筋に走った悪寒に耐えた。
 どうやら自分は今、白廉宮殿にいるようだ。海聖宮殿共々、普段は人気のない宮殿なので、近寄ったことがなかった。
 以前にムーランと会ったときは正殿で顔を会わせていたし、長話をした記憶もない。適当にあしらわれ、からかわれた想い出しかないので突っかかってみたが、ムーランの噂はいつもどこか妖しげなものが多い。
 こんな宮殿に置いていかれたら、どんな目に遭わされるか知れたものではない。
「まだ動くな」
 起きあがろうともがいたところにカイゼルの冷たい制止の声がかかった。高楼での仕打ちを思い出し、彼の忠告を無視することに決める。
「うるせぇな。指図は受けな……いぃっっ!」
 体に走った激痛に顔が歪む。あの高さから突き落とされたのだ、並の人間なら死んでいたかもしれない。
 減らず口を叩けるだけ大したものなのだが、痛みにのたうち回るミノスをカイゼルは冷たく見下ろした。
「受け身もとれんとは……。未熟者め。もう一度、双頭獣パービル殿に鍛え直してもらえ!」
「お……お師匠は関係ない!」
 呻き声が混じるが、強気で言い返してくるミノスの様子にカイゼルがわずかに口をつり上げて笑った。獲物を追いつめている肉食獣のような笑みだ。
「どうしようもない愚か者だな」
「珍しい。あなたが私以外の者の前でも、そんなに饒舌に振る舞えるとは知りませんでしたよ、カイゼル」
 背後からの声にカイゼルが顔をしかめた。不機嫌さを表しているのだ。
 膨れっ面こそ見せないが、彼の顔がふてくされたものだと気づいてミノスは目を丸くした。自分がカイゼルにいいようにあしらわれているように、カイゼルもムーランとのやりとりでは未だに主導権を握れないでいるようだ。
 少しだけ胸のすくような気がした。だが、その自分は二人にまったく歯が立たないのだから、みそっかすもいいところだが。
「薬草も頂いたことですし……。そろそろお暇いとましますよ、ムーラン」
 肩越しにムーランを振り返ったカイゼルが無表情に声をかける。それに悠然と笑みを浮かべて頷くムーランはやはり一枚上手ということか。
 外見は二十代半ばといった年齢だが、実際の所はもっと年かさなのかも知れない。平坦な顔立ちのムーランからは、顔に浮かんだ表情以上のものが内心に隠されているようなあいまいで得体の知れない雰囲気が漂っている。
 ムーランの曖昧模糊とした表情を観察していたミノスの体がふわりと宙に浮いた。
 驚いて自分の体を見下ろしてギョッとする。カイゼルが軽々と自分を抱きかかえているではないか。こんなみじめったらしい格好は他にはあるまい。
 ミノスはジタバタと暴れてみる。が、不安定な体勢からではカイゼルの戒めを解くのは容易なことではなかった。
「大人しくしてらっしゃい、坊や。自力で歩いて帰れないのですから、カイゼルに抱いていってもらうしかないでしょうに」
「う……うるせぇ! 一人で歩いて帰れる!」
「……黙ってろ。耳元で喚くな」
 抵抗するミノスの動きを封じると、カイゼルが戸口へと向かった。それを送り出すようにムーランがゆらゆらとした足取りで続く。
 ミノスはと言えば、動く度に激痛が体を貫き、さすがに大人しくしているしかないようだ。情けないことだが、カイゼルの肩にしがみついて体を固定していないと、痛みに意識が遠のきそうだった。
 この男の腕の中で気を失うなど、屈辱以外の何物でもない。
「それじゃ、見送りはここまでにさせてもらいますからね」
「えぇ。……では、またいずれ」
 囁くような小声で別れの挨拶を済ませる二人を不機嫌そうに睨み、ミノスは頬を膨らませた。結局自分は厄介なお荷物でしかないわけだ。
 彼らの万分の一でもいい、相手を寄せつけない強さが欲しかった。正闘士になって二年……。自分はまだまだ一人前の正闘士とは言えないようだ。
 歩き始めたカイゼルの肩越しに見送る白い影を見ると、白い指先をコケティッシュに蠢かせて自分に手を振るムーランと眼があった。ぷいと顔を背けるが、それすら相手にはお見通しなのか、忍び笑いが耳に届く。
 いっそう頬を膨らませたミノスの頬を冷えた夜風がなぶっていった。
「お前のところには打撲に効く薬草は用意してあるのか?」
 突然に話しかけられてミノスの体が硬直した。忘れていたわけではなかったが、自分の目の前にある白い麗貌はどこかしら幽玄世界の住人を見ているような印象を与える。
「し……知らない。従者たちに聞けば判るだろうけど」
 そうか、と小さく呟いたカイゼルの横顔は無表情なままで何を考えているのか見当もつかない。
「なんでムーランのところへなんか連れていったんだ」
 不機嫌なままにミノスがカイゼルに問いかけた。同じ正闘士仲間のなかでも、ムーランほど得体の知れない者はいないだろうに。
 カイゼルの瞳がチラリとミノスへと向けられ、また前方へと戻った。表情は少しも動かない。
「薬草をもらいに行く約束があったからな。お前の治療はついでだ」
「治療って……。でも、ムーランじゃなくても治療くらいできるだろうが」
「ムーランの腕は一流だ」
「男か女かもはっきりしないような奴じゃないか!」
 ギロリとカイゼルの瞳が光った。殺気が宿ったといったほうが正確かもしれない。
「人の身体的特徴をあげつらって愉しいか?」
 底冷えのする声がミノスの背筋を這い登ってくる。思わず身震いしてミノスはカイゼルから眼をそらした。
「ムーランは確かに男でもなければ女でもない。……無性生体なのだから、判別のしようがない。それはムーランが望んでそうなったわけではあるまいに」
「……」
「相手に敵わないからと言って、貶おとしめて良いことはない。お前も正闘士の端くれなら、心得ておけ。体がどうであれ、ムーランの医師としての腕は認めても良いはずだぞ」
 冷え切ったカイゼルの声に打ちのめされてミノスは下を向いた。
 子どものように駄々をこねている自分が愚かに見える。カイゼルの言い分に反論する余地は自分にはない。
 ムーランを煙たがっているばかりの自分には正々堂々と彼の言葉を受け止めることすらできない有様だ。
「宮殿に戻ったら、二~三日は安静にしていろ。打撲は翌日と翌々日が一番辛いからな」
 悄然と肩を落としたミノスの様子にかまうことなくカイゼルは立ち並ぶ宮殿群の間を進んでいく。
 飄々とした彼の態度にいっそう惨めな気分になったのか、ミノスは金蠍蛇宮殿に到着するまで一度も彼の顔を見上げることなく俯き続けていた。


 薄紫色の東の空に鋭い星光が瞬き始めた。風が一瞬凪いだあと、再び吹き始めた。今度は夜の風だ。人の肌をなだめるような優しい風が吹き抜けていく。
「ミノス。そろそろ行こう」
 いつまでも動こうとしない若者にアダーリオスが声をかけた。
 それにようやくミノスが振り返る。口元を少しだけ歪めて笑うが、顔は笑顔を刻もうとしているのに、瞳は泣きそうだ。
「アダーリオス。今回はヒースも来ているんだろ?」
「あぁ……」
「行こうか。皆、待ちくたびれているだろうしな」
 肩を並べて丘を下り始めた二人の姿は麓からは見えないだろう。
 見習いの若者が呼びにきてから随分と時間を費やしている。痺れを切らして待っている正闘士仲間たちの強面を想像したのか、ミノスがクスリと笑みをもらした。
「浮遊大陸の者たちは相変わらず我が物顔で空を席巻しているってのに……。俺ときたら、いつまでも独りで暮れなずんでいる。愚か者のところは少しも治っていないな」
「……ミノス。お前だけじゃない。ヒースの前ではそんな顔をするなよ。あいつが一番傷つく」
「判っているさ」
 銀色の月光が頭上から降り注いだ。その澄み渡った光に体を洗われ、二人の足が同時に立ち止まった。
 丘の麓に人影が見える。白い影と淡い銀色に輝く、二つの影……。
「……お迎えだ。年寄りどもが苛立っているらしいな」
 口の端をつりあげてミノスが喉を鳴らした。笑おうとして失敗したのだ。見覚えのある人影に、歩を進める勇気がくじけそうだった。
「……ムーランとヒースか。爺たちをなだめすかしているのはシエラ辺りかな?」
 苦笑を漏らしながらアダーリオスがミノスを促した。
 それに勇気を得たのか、再びミノスの足が動き出す。そんな二人を見守りながら、眼下の影がそっと寄り添った。消え入りそうなその影たちにミノスは手を挙げて応える。
「待たせたな、白廉(アリア)。出迎えご苦労さん、海聖(アクーム)
金蠍蛇(ムシューフ)牙獣王(レンブラン)星導主(アグールー)がカンカンですよ。急いでください」
 気遣わしげにミノスとアダーリオスを見比べていた銀髪の少年が早口にまくし立てる。濡れたように光る藍色の瞳が憤然と燃えているところを見ると、随分と麓で待っていたのかもしれない。
「爺のヨタ話なんか聞いてられるかよ、ったく」
「ヨタじゃないです。浮遊大陸とのいざこざなんですから! 上空を彷徨うろついている竜種をどうするか話し合おうっていうときに……」
「およしなさい、ヒース。ミノスに突っかかっていっても、バカらしいだけですよ。ホントにお気楽なんですから、この人は」
 純白の髪をしどけなく掻き上げながら、ムーランが少年を流し見る。朱色の瞳が呆れたというように光り、少年のささやかな反論を封じてしまった。
 膨れっ面のヒースの顔に昔日の自分が映る。その奇妙な感覚に苦笑すると、ミノスはわざとらしく伸びをして銀月を見上げた。
「お月様も顔を出したことだし……そろそろ爺たちの顔を見に行ってやるか。俺がいなくちゃ何も始まらないようだしな」
「だから急いでって言ってるでしょ!」
 いっそう頬を膨らませたヒースの肩をムーランがなだめるように叩き、アダーリオスが小さな笑い声をあげた。ミノスの傍若無人な外面に騙されているうちは、ヒースもかつてのミノス同様にまだ半人前だということだろう。
「さぁて、行くか。……ところで、飯くらい喰わせてくれるんだろうな、爺どもは」
 闇の中でさえ太陽のように輝くミノスの髪に見とれていたヒースがムッとした顔をして反論しようとしたが、それを遮ってムーランがしれっと返事をする。
「私がここへ来るときには用意してありましたけどねぇ。……もう下げられかもしれませんよね」
「あぁ~ん? 腹ぺこで爺の眠たいお説教なんぞ聞きたくもねぇぞ。急ぐぞ、アダーリオス。俺の飯がなくなっちまう」
「俺の、じゃなくてオレたちの、に訂正してくれ」
 歩調を早めたミノスを追いかけてアダーリオスたちも駆け出した。それぞれが羽織る純白のマントが優雅にはためき、闇夜に白い翼を広げる。
 背後に遠ざかる黒い丘を振り返る者は誰もいない。
 死者を抱いた丘は沈黙を守ったまま、駆け去る四つの影をいつまでも見つめているようだった。

終わり

〔 13772文字 〕 編集

ナジェール譚

No. 27 〔25年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
金と紅 Part:1

 暮れなずむ丘の頂に黄金色の影が佇んでいた。小高い丘の下に、ゆったりとたゆたう海原が見えた。遮るものがない丘の上で、人影はじっと動かない。眩しいほどの輝きを放つ髪だけが純白のマントの上に波打って流れ落ちる。
「馬鹿野郎……。自分独りで歩くことを止めちまいやがって。俺じゃ面倒みきれねぇぞ」
 感情を押し殺すために噛みしめられた唇は微かに震え、血が滲むほどに拳を握りしめている。
 それでも逆巻く激情を隠しきれず、彼の蒼い瞳はカッと見開かれ、巌も砕けよ、と地面の一点を睨み続けていた。腰まで届く巻き毛も、彼の激情につられたように風に逆立つ。
「馬鹿野郎……」
 何度口走っただろう。無益なことと知りつつ、彼は悪態をつき、長い間そうやって立ち尽くしていた。他に何もできなかったから……。
 背後に人影が差した。それに気づいているのかいないのか、黄金の人影は微動だにしない。くすんだ短めの金髪に縁取られて日に焼けた顔が目の前の若者に向けられている。二人は同年代だろう。二十代も半ばといったところか。
 お互いに何も言葉を発しはしない。丘の上にひっそりと立ち尽くす二人の姿はまるで彫像のようだ。潮騒の規則的な音だけが時を刻む。
 人の気配がした。二人の背後に控えたその影が跪く。
金蠍蛇(ムシューフ)牙獣王(レンブラン)天聖秤(ラディーム)から召集がかかっております。正殿までお越しを……」
 若年の闘士見習いが、遠慮がちに声をかけた。その呼びかけに「わかった」とだけ返事を返すが、金蠍蛇(ムシューフ)と呼ばれた闘士はいっこうに動く気配を見せない。
 だが見習いの若者は、用事は済ませたとばかりに足早にその場を立ち去っていく。
 勇名な闘士の聖なる眠りを妨げることへの畏れではない。夕暮れが迫った空を背景に、その半身を赤く染めて背を向け続ける黄金の闘士に、激しい拒絶の気を感じたからだった。
「丸三年が経つ……。お前が逝ってから。俺たちが初めて会ったあの日からなど、いったい何年経ったのかな。……なぁ、カイゼル」
 まとわりつく髪を払いのけて、金蠍蛇(ムシューフ)の闘士は夕焼けに燃える海を見下ろした。寂々とした空気に耐えられぬのか、闘士は海から視線を外し、再び丘の一点……かつての盟友の白い墓標に食い入るような視線を投げかける。
 それを見守る牙獣王(レンブラン)の静かな視線だけが、人影と墓標を包んでいた。


 真夏の日暮れ時、ここ神域では昼間の熱気は去り、一日のうちでもっとも開放感に満ちた雰囲気が辺りを包む時刻だ。
 もうしばらくすれば、星が薄紫色の空にダイヤモンドのように輝き散らばり、麗しい姿を地上の生き物の前に見せるだろう。
 ほとんどの者は一日の訓練を終えて、一息ついたところだった。
「ミノ~ス!」
 くすんだ金髪の精悍な顔立ちの少年が高台へと駆け上がっていく。彼が足を向ける高台には、黄金の影がじっと相手が近づいてくる姿を見下ろしていた。
 少年は駆けどおしでここまで来たのだろう。夕焼けに染まっていない側の頬がうっすらと赤みが差している。
「何を慌ててるんだよ、アダーリオス」
「あいつ……。海聖(アクーム)が来たんだよ! 今頃は法王様に謁見しているぞ」
 息を切らせている少年、アダーリオスを見つめてるミノスの眉がピクリとつり上がった。こちらもアダーリオスと大して年齢差はなさそうなミノスの顔が少年の顔立ちから闘士のものへと変貌していく。
 不敵に口元を歪め、嘲弄的な光を湛えた瞳を細める。元々鋭い眼光がいっそう鋭利な刃物の輝きを浮かべた。獲物を追いつめ、一撃で屠る狩人の容貌がよく似合う少年だった。
「ふん、珍しいこともあるもんだな。あいつが北方の氷原から出てくるのは二年ぶり……か?」
「あぁ、そうだな。たぶん二年くらいになる。オレは一度後ろ姿を見たことがあるけど……氷の闘士と呼ばれているのに、炎よりも紅い髪をしてたっけ。ミノスはまだ面識がなかったろう?今回は会っておくか?」
 もうすぐ陽が没していく遠くの山々の彼方を眺めながら、二人は高台を降りて広場へと向かった。
 いつも日没近くになると、大広場は夕涼みも兼ねて談笑のたまり場となる。この日は北の氷原から海聖(アクーム)のカイゼルが、東の山谷から白廉(アリア)のムーランが到着しているとの噂で、賑わっていた。
 神域を流れる川から引かせた水道橋の各所から溢れる水飲み場も同様で、珍しい客人の到来の噂は瞬く間に神域のあちらこちらに広まっているようだ。
「姦しい奴らだ。いつの世にも人の噂話で狂喜乱舞するバカはいるが、今のこの様と言ったら人のあら探しをして楽しんでいる下賤な下界の輩と同じじゃないか。神域の者にあるまじき浅ましさだ」
 ミノスの顔が嫌悪に激しくゆがみ、その体からは闘気が噴きだした。あからさまな侮蔑の言葉を吐き出す彼に、アダーリオスは苦笑をもらし、ささやかながら弁明を試みた。
「仕方ないよ。滅多に神域に顔を見せない三人の闘士のうち、二人も同時に見る機会が訪れたとなれば、誰だって好奇心をくすぐられるさ。オレだって、噂話をしている奴らと大差ない心境だよ」
「俺たち闘士はいったいいつから曲芸団の見世物馬や道化師になり果てたんだ? 第一、神域を守る闘士はその二人ばかりじゃないぞ。空席になっている雅天矢(サージャ)双生樹(ジャクラ)以外の十席は埋まっている。俺やお前だってその闘士の席を預かっているんだぞ! まったく気分が悪いったら……何が可笑しい、アダーリオス!」
 自分の横で笑い始めたアダーリオスを睨みつけて、ミノスは口を尖らせた。先ほどの冷徹な眼光はなりを潜め、自分の話を体よくはぐらかされた子供のようにむくれて頬を膨らませている。
「あぁ、悪い、悪い。でも、ミノスだって興味がないわけじゃないだろう? 特に海聖(アクーム)のカイゼルには……」
「なっ……」
 図星を指されて顔を紅潮させたミノスを見て、アダーリオスは再び笑い出した。そっぽを向いたミノスが足早に金蠍蛇宮殿へと歩き始めた。それをアダーリオスが追いかけてくる。口元はまだ笑みを貼りつかせたままだ。
「ついてくるなよ!」
「だぁ~め、駄目! 顔にしっかり書いてあるぜ、ミノス。“気になって仕方ない!”って。お前はムーランとは面識があるけど、カイゼルには一度も顔を合わせたことがないだろ? 好奇心が旺盛なミノスが無関心でいられるもんか。それに氷の闘士との呼び名も高いカイゼルが氷の名に相応しくない髪の色をしていると聞いて……痛っ!」
「……バカッ!」
 アダーリオスの頬に強烈な平手打ちを食らわせると、さっきよりも顔を紅くしてミノスが怒鳴った。どう贔屓目に見ても、やりすぎな感がある。しかし、ミノスの性格をよく知るアダーリオスは素直に詫びた。
「謝ったって許してやらん!」
 言葉荒く喚くミノスを見て、アダーリオスはまた笑い出しそうになった。だが、辛うじて笑みを納めると、今度こそ真顔でミノスに語りかける。
「まぁ、でも実際のところ、カイゼルには会っておいたほうがいいよ。北方の守りを一手に引き受けている強者だ。今後接触することも多くなるだろうし……」
 アダーリオスとしてはこの機会に是非とも海聖アクームと面識を得たいと思っている。しかし自尊心の高いミノスが自分のほうからノコノコと会いに行くとも思えない。
 アダーリオス独りで会いに行こうものなら、後からどれほど八つ当たりされることか。素直に自分の提案に乗ってはこないミノスをどうやって会見の場まで連れて行こうか……。
 当のミノスにしても重要性は判っているつもりなのだ。
 闘士のなかでも、自分たち正闘士はきっちり十二人。正闘士の座を狙う従闘士や下働きの衛士などのような雑兵とは扱いが違う。力量の差があるのだから当然のことだが、それに見合った責務もこなす。
 北方の大地を守る海聖(アクーム)はその正闘士のなかでもかなりの強者との噂が高い。同じ正闘士同士、面識があるほうが何かと都合がいい。
 判ってはいるが、自分のほうから出向くということが許せないのだ。
 暮れ残っている太陽光が二人を照らしている。それを凝視しながら考え込んでしまったミノスに、アダーリオスは小さく苦笑すると一つの提案をした。
「法王の謁見は海聖(アクーム)が先らしい。とすると、だ。そろそろカイゼルの奴は自分の宮殿へと戻る頃だと思うんだけどな」
「……! アダーリオス……」
 にんまりとした笑顔をアダーリオスがミノスに向ける。つられるようにミノスも笑みを返し、正殿へと向けて二人は走り出した。
 後になり先になりしながら、ミノスが相棒に向かって叫ぶ。
「アダーリオス! ……許してやるよッ」
 真夏の太陽が、今まさに地平線の彼方に沈もうとしていた。


 黄金の額飾りが眩く輝き、深紅の髪がいっそう赤みを増して見える。色素の薄い瞳は氷色。松明の炎が映っているせいなのか、激しいほどの眼光を放っていた。
「……では、また私の元に弟子入りを希望するものが?」
「左様。大陸の東の果てに住む少数民の子どもだがな。名は……確か、ヒースと言ったか。
 卿の元には二年前にアイザーが弟子入りしたばかりだが、他の者も弟子を抱えておったり、まだ師となるには未熟であったり……。指導できる者もおらぬ上に、当のヒース本人からのたっての願いだそうだ」
 御簾の向こう側から響く法王の声はいかめしく、御簾越しに見える錫杖が鈍色に重々しく光っていた。その錫杖の持ち主に射抜くような視線を走らせた後、紅い麗人は深々と腰をかがめた。
「御意のままに……」
 法王が確認の意味で静かに頷いた。それを退出の合図と心得ているのか、かがめた腰を浮かせる。
 鳥が舞うごとく軽やかにマントをさばいて立ち上がると、後は後ろを振り返ることなく謁見の間を後にした。
 彼の表情は少しも崩れない。凍りついたように無表情を保ったまま。
 謁見の間の大扉が軋んだ音を辺りに響かせて彼の背後で閉ざされる。
 両側に立つ衛士たちに目礼で挨拶を済ませた。それで終わりだ。必要以上のことを喋ろうともせず、紅の人は長い回廊へと歩を進めた。
 ふとその廊下の先に視線を送れば、人影と視線が合った。
 純白の髪に蝋のような白い肌。ほの暗い朱色の瞳がそのなかで唯一の色彩だ。艶然と微笑むその顔立ちは中性的で、全身を覆うケープと相まって男とも女とも判断がつかない。
「お互いに神域へくるのは久しぶりですね。……変わりないですか、カイゼル」
 声はややハスキー。これも男のようでもあり、また女のようでもあった。どこかのっぺりとした顔は仮面を思わせる平坦な作りだった。美人、というよりは得体のしれない顔といったほうがいいか。
「えぇ。あなたも変わりない様子ですね、白廉(アリア)のムーラン」
 端正な顔立ちに儀礼的な笑みを浮かべ、カイゼルが必要最小限の返事を返す。
「この後は暇ですか? 私のところに切り傷や火傷に効く薬草がありますけど、取りに来たらどうです? ……今年は生育がよくてね。採りすぎてしまって、困っているのですよ」
「お伺いしますよ。北の氷原では薬草は貴重品です。……しかし、食事がまだでしてね。夕食後にお伺いすることになるが、よろしいか?」
 二人の会話を打ち切るように、廊下の奥から衛士が声をかけてきた。
白廉(アリア)。法王様がお待ちです、お早く……」
 ムーランは衛士の方に了承の身振りを見せ、再びカイゼルへと向き直った。物足りなさげな様子が伺えたが、顔には年長者の余裕の笑みが浮かんでいる。
「では、また後ほど、私の宮殿で……」
 飄然と歩き去るムーランを氷の瞳の端で見送り、カイゼルはマントを翻してその場を離れた。冷酷な横顔からは感情らしいものは何一つ見当たらない。
 正殿を出て眼下へと延びる長い石畳の階段を見下ろすと、二人の少年が踊り場付近に所在なげに佇んでいる姿が目に入った。雑兵たちが身につけている皮の鎧が夕暮れのなかに鈍い光沢を放っている。
 二人ともカイゼルよりやや年下、およそ十三~四歳であろうか。一人はくすんだ金髪。もう一人は……。
 いま一人の少年の容姿を確認したカイゼルの顔に驚きが広がった。しかしその感情もすぐに冷たい瞳のなかに封じられる。
 それでも無表情ながら、視線を二人から外さぬままにカイゼルは階段を下り始めた。
 何という金髪だろうか。カイゼルは不躾な自分の視線に気づいて慌てて瞳を二人からそらしたが、押し隠したはずの一瞬の驚きに自分が動揺していることを自覚していた。
 こんな経験は初めてだ。それほどに少年の容姿は人目を惹いた。
 正殿は小高い場所に建てられているため、陽が沈んでも空を焦がす太陽の赤い光が見える。その残光のなかにあってさえ、少年の髪は燦然と黄金色に輝き、それ自体が中天の太陽のような眩さで夕風に揺れている。
 片側に寄り添うように立つくすんだ金髪の少年も決して平凡な容姿ではないのだが、この黄金の塊のような少年と並んで立つとどうしても見劣りがした。
 これほどに黄金の激しい煌めきが似合う者を見たのは初めてだ。いったい誰に師事している闘士見習いであろうか?
 新しく弟子入りしてきた者たちの噂を記憶の底から掘り起こしながら、カイゼルはホッと小さな吐息を吐き、盗み見るように彼らの顔を観察した。
 見れば見るほどその黄金の髪に目を奪われる。
 しかし陶然とその髪を眺めていた瞳が少年の深海を思わせる蒼い瞳とぶつかったとき、カイゼルの表情が凍りついた。
 いや、表面上はまったく判らないだろう。だが氷色の彼の瞳がほんのわずかに細められたことを説明するならば、それは凍りついた、と表現するしかない。
 思わず歩んでいた足を止めて立ち止まる。
 滅多に神域へこない自分が好奇の視線にさらされることはいつものことだ。カイゼルには別段気に病むようなことではない。だが少年の瞳に好奇心以外の別の感情を見出した。
 体からあふれ出している闘気……。鋭い視線。雑兵とはとても思えない、胸をそびやかすその姿勢。
「なるほど。噂には聞こえてきていたが……。そういうことか」
 カイゼルの表情に薄く笑みが浮かび、それもまた消えていった。
 無表情というヴェールの奥に湧いてきた感情を包み込んで、カイゼルは石造りの階段を踏みしめてゆっくりと歩き始めた。
 カイゼルが近づくにしたがって、二人の少年の顔が目に見えて引きつっていく。あふれ出している二人の闘気がカイゼルの白い肌の上に突き刺さる。
 まだ幼さを残した彼らの表情には、はっきりとした闘志が浮かび、自分を値踏みしている様子が見て取れた。
 太陽の輝きを持つ少年のほうは特に激しい闘志をむき出しにしている。だが懸命にこらえているのか、カイゼルの通り道を塞いだりはしない。
 蒼い瞳の奥で炎が揺らめいていた。少年たちは二人とも正闘士への礼節をわきまえていないようだ。普通、見習いならば地位の高い闘士に対して、跪くか頭を垂れるかなどの行為で敬意を表す。
 だが彼らにはその様子が皆無だった。
 カイゼルが二人のいる踊り場まで到着した。そのまま彼らの眼前をゆっくりと通り抜け、さらに続く階段へと歩を進める。まるで二人のことなど眼中にない態度だ。
 そのゆったりと歩んでいたカイゼルの足が止まり、糸に引かれるように、ふっと背後の二人を振り返る。
「……!?」
 氷の瞳が二人を流し見、初めて感情らしい感情をその白い相貌に浮かべた。それはまるで悪戯が成功したときの悪童が浮かべる、誇らしげな笑顔のように鮮やかな表情だった。
「全然似合わないな、どこでそんな服を調達してきたんだ。……特に金蠍蛇(ムシューフ)。君の変装はまったくいただけない。これほどその格好が似合わない者を初めて見たぞ」
 氷原を吹き抜ける風はきっとこんな感じなのだろう。そう思わせる笑い声が薄闇の空に消え、悠然と歩み去る紅の闘士を見送る少年たちは唖然としたまま立ち尽くしていた。
「ばれていたのか……」
 溜め息とともに呟くアダーリオスの脇で、ミノスが激しい視線をカイゼルの背中に送っていた。
 地平線の向こうに沈んだ太陽が最後の光芒を放ち、その残光も神々の居ます空に抱かれて消えていく。星の輝きが増し、その銀の天糸を二人の少年の頭上へと落としていた。


 淡い月光に照らされた影法師が二つ、タンゴでも踊るように幾つもの宮殿の間を進んでいく。
「ミノス、どこ行くんだよ。食堂は反対側だぞ! おいったら! ……聞いてるのか、お前はっ」
 アダーリオスがミノスの背中に呼びかける。それに答えてミノスがくるりと振り返った。不機嫌な顔のなかで蒼い瞳がギラギラと光っている。
「うるせぇぞ。俺は考えごとをしてるんだ。ちょっと黙ってろよ」
 自分がどこへ向かおうと勝手だろう、とミノスの表情が主張していた。
 だがアダーリオスも負けてはいない。自分に出来うる最高に怖い顔を作り、睨みつけてくる相手と真正面から対峙する。
「フンッ。どうせカイゼルに正体がバレちまって、悔しいんだろ。あれじゃ、物陰から盗み見をしていたのを見つかったガキと同じだからな!」
 ミノスの顔に見る見るうちに血が上っていく。表情も激変して、今にも襲いかかってきそうな凶暴な視線がアダーリオスの瞳を捕らえる。
 それを内心では冷や汗をかきながら観察し、相手の怒りが頂点を越えそうになった一瞬を計って言葉を続ける。
「オレは腹減っちまったよ。さっさと飯喰いに行こうぜ。早く行かないと、他の奴らに盗られちまうからな!」
 怒りとは対局にある呑気な笑顔を浮かべたアダーリオスに、ミノスが一瞬虚を突かれ、自分だけが怒り狂っていることがバカらしくなったのか、荒々しい吐息を吐いて空を見上げた。
「早く来いよ!」
 一足早く駆け出したアダーリオスを追いかけながら、ミノスが苦笑する。
 来た道を瞬く間に逆走し、広場に隣接した公会堂脇の食堂へと二人は駆け込んでいった。
 本来ならば、正闘士となったミノスとアダーリオスは自分の宮殿で食事を摂ることができる身分だ。
 しかし成年まで今少しの猶予がある二人には、宮殿での静かすぎる食事よりも、賑やかな大衆食堂での食事のほうが何倍も魅力を感じるのだ。
 ところが、食堂の名前“居眠り天使”という安穏としたイメージとはほど遠い喧噪にいつも包まれている食堂が、今日に限って奇妙な沈黙に満たされていた。
 異様なほどの熱気と羞恥の欠片もない好奇の視線。その怪しい雰囲気に半ば呑まれながら、二人はその原因らしい方角へと首を巡らせた。
「カ……イゼル……?」
 法王との謁見のときにまとっていた正装を脱ぎ、北方民が好んで身につける毛織物の上下という軽装に着替えている。
 四人掛けのテーブルにたった独りで腰を下ろしているが、彼が目立っているのは、そのせいではない。
 炎よりも紅い髪に氷色の瞳。北方民特有の静脈まで透けて見える雪のように白い肌。
 神域に住まう者の日に焼けた肌や濃い色素の瞳を見慣れている者には、髪以外のカイゼルの色素の薄さは現実離れした印象があった。
 この場に居合わせた全員が見惚れている、と言っても過言ではない。それほどに目立つ容姿だった。
「ハッ! 掃き溜めに鶴だぜ。お貴族様のあいつがこんな下々のところにくるとは思わなかったな。きっと自分の宮殿でふんぞり返って食事をしてるだろうと思ったのに」
 容姿だけならカイゼル同様に貴族的なミノスが口元を歪めて、吐き捨てるように呟いた。それをアダーリオスがたしなめる。
 だがミノスの表情からは素直に反省してるようには見えなかった。
 もっとも、カイゼルは貴族階級の出身ではない。多少裕福な家柄の者ではあったが。さらに余談ながら、ミノスやアダーリオスも平民出だ。いや貧民層に近い貧しい家柄の出身である。
 地方を見回る巡検闘士に見出されてこの神域へこなければ、今でも痩せた土地を耕している農民か、うらぶれた下町で職を求めて彷徨く乞食になっていただろう。
 むくれるミノスを引きずってアダーリオスがカイゼルへと近づいていった。まわりの兵士たちの間から驚愕とも羨望ともつかぬざわめきがあがる。
「やぁ。ここ空いてるかな?」
 どうぞ、と答えるカイゼルに礼を言い、アダーリオスはふてくされているミノスを小突いてカイゼルの正面に設えられた空席へ座らせた。
 自分も二人の間、右手にミノスを、左手にカイゼルを見る形の席に腰を落ち着けて、ミノスと二人分の料理を注文する。
 凄まじいほどの熱気が三人を押し包んだ。
 この視線の集中砲火を浴びて、たじろぎもせずに端座している彼らのほうがはっきり言えば驚異的だが、それに気づいている者は一人もいないようだ。
「その衣装だとこの神域では暑いだろ、カイゼル」
 異様に高まっている緊迫感を拭うようにアダーリオスがカイゼルへと声をかけた。その一言でまわりの兵士たちからも緊張感が一瞬引いた。
「……そうでもない」
 短い返事を返したカイゼルにさらに話しかけようとアダーリオスが口を開きかかったとき、険悪な口調でミノスがぼそりと呟いた。
「ケッ!暑くないわけねぇだろ。……勿体つけやがって」
 ミノスの毒舌に収まっていた辺りの緊張が一気に高まる。
 先ほどの好奇心とは別の緊迫感が、空気を重くして三人のまわりに凝固したようだった。
 ハラハラとミノスの傍若無人な態度を見守る見物人以外に、三人を餌にして賭事を始める輩まで出る始末だ。
 ヒソヒソと囁き交わす声が、アダーリオスの耳に届いた。
「赤毛に180出すぜ」
「なに、ミノスも負けてねぇって。おいらは200だ」
 その声につられるようにまわりのテーブルからも、囁き声があがる。
「オレもその賭に乗るぞ!」
「こっちもだ!」
 収まる様子などない。むしろエスカレートしていきそうだ。アダーリオスは不快感に抗議しようと彼らのほうへと振り返った。
 だが、その目の前に人影が差す。
「ピュ~♪」
 この不愉快な緊迫感の原因を作った張本人が呑気に口笛を吹く。
「へぇ。今日は珍客のお出でとあって豪勢だぜ。こんなことなら、いつでもお出で頂きたいモンだね。これでアステアの蜜酒(ミード)でもあれば言うことなしなんだけどな」
 平然と料理の品評をしているミノスに呆れ果てて、アダーリオスは嘆息した。そして視線を反対側のカイゼルへと向け、そのまま凍りついた。
「シ、シエラ」
 視線の先には黒づくめの男が立っていた。ちょうどカイゼルに料理のトレイを手渡し終わったところだった。切れ長の鋭い瞳が、ジロリと自分の名を呼んだ少年へと向けられ、口の端をつり上げて笑みを見せる。
「三人、仲の良いことだな」
 その刃物のような視線をまわりのテーブルへと順繰りに送る。鋭い切っ先を連想する瞳に恐れをなして、兵士たちが慌てて背を向けた。
 彼の冷たい一瞥に震え上がらない者はいない。自分に対峙する者がいないことを確認すると、男は残っていた最後の椅子に遠慮なく腰を下ろした。
「こ……ここで食べるの? いつもは自分の宮殿で食べるのに、どうしたのさ」
 情けない声音でアダーリオスが男、剣角(カント)のシエラに問いかけた。それに答える相手の口調はこれ以上はない、というほど高飛車なものだ。
「どこで食べようが勝手だろう。お前たちの食料を運んできてやった人物を追い払おうってのか?」
 反論の糸口を見つけられず、口をパクパクと開閉させるアダーリオスを後目に、シエラは自分のパンを頬ばって知らん顔を決め込んだ。相手の動揺などどこ吹く風といった様子だ。
 時折にまわりのテーブルへと威嚇の視線を向けているが、彼と渡り合おうとする者など兵士のなかにはただの一人もいはしない。
 その様子に、ようやくシエラが自分たちを賭事の対象から救ってくれたのだと、アダーリオスは気づいた。苦手な相手に山のような恩を作ってしまったようだ。複雑な表情のまま、アダーリオスは他の二人へと視線を向けた。
 ところが彼の左側に腰掛けている鉄仮面は「我関せず」と黙々と料理を口に運んでいたし、反対側の金髪の相棒は大恩人の皿の上に乗った羊肉のステーキの切れ端を虎視眈々と狙っているところだった。
 シエラに恩を感じているのは、アダーリオス一人だけのようだ。
 アダーリオスはがっくりと肩を落とした。
「オレっていったいなんなわけ……?」
 小さく呟いたアダーリオスの声は、ミノスの声によってかき消されてしまった。
「アダーリオス、お前喰わねぇのか? んじゃ、これ、俺がもらってやるよ!」
 返事をする暇もあらばこそ。シエラにステーキ強奪作戦を阻止されたミノスがアダーリオスの皿から鶏肉料理をさらっていく。
 呆気にとられてそれを見守ってしまったアダーリオスは、それが自分の好物の料理であることを思い出して目をつり上げた。
「ミノスッ! そ、それはオレのだろ!」
 慌てたところでもう遅い。ミノスはすでに咀嚼を終え、肉を嚥下していた。ニッカリと笑う小悪魔の微笑にアダーリオスは猛然と反撃を開始した。
「この野郎~ッ! オレの好物に手を出してただで済むと思うなよ!」
「へへぇ~んだ。俺様の好物はもう胃袋のなかだぜ。どうしようってのさ、アダーリオス」
 余裕の笑みを浮かべる相手に負けじとアダーリオスは不敵な笑みを浮かべて見せた。
「奪うばかりが能じゃないぜ」
 ギクリと顔を強ばらせたミノスの小皿に、アダーリオスは恭しく大皿から茄子とピーマンのソテーのうち茄子だけを移し替えた。あっという間にこんもりと茄子が山を成した。ミノスが蒼白になる。
「うぐ……」
 片手で口元を押さえたミノスが呻き声をあげた。
 ここ神域では、出てきた料理のうち自分の皿に取り分けたものは必ず食べ尽くすのが暗黙の了解になっている。それが膨大な人数の料理を賄う調理人たちへの礼儀でもあるし、無駄な残飯を減らす方法でもある。
「ア……アダーリオス。卑怯だぞ……!」
 茄子のぶよぶよと震える果肉から視線をそらすことができず、ミノスは蒼白な顔そのままの声で抗議した。
「他人の食料をくすねるのは卑怯じゃないってワケか? 都合のいいことだなぁ。……全部喰えよな、ミノス!」
 同情の余地はない、とばかりにアダーリオスが冷たく睨み返してくる。奪うばかりが能ではない、とはよく言ったものだ。ミノスは茄子が大の苦手らしい。
「勘弁してくれよ~……」
 半泣きで助けを求めるミノスを無視してアダーリオスは食事を続けている。
「程々にしておいてやれ、アダーリオス」
 二人のやりとりを黙って見守っていたシエラが、ようやく食事の手を休めて忠告してきた。しかし、真面目な顔をして注意しているわけではない。声が笑いにうわずっているし、口元が心なしか歪んで見える。
 シエラの忠告にアダーリオスが不承不承といった顔つきでミノスを見た。
 ミノスは相変わらず茄子と睨めっこを続けている。本当に茄子が駄目なのだろう。よほど過去に酷い目に遭っているに違いない。
「チェッ……」
 もう少し懲らしめてやろうと思ったのだが……。
 諦めてミノスの取り皿へと手を伸ばしかけたアダーリオスの目の前を白い繊手が横切り、続いて紅い色彩が踊った。
 ギョッとしてアダーリオスが身をすくめる。
「貰うぞ」
 面白みに欠ける声がさらに続いた。ミノスの前に山盛りになっていた茄子が姿を消し、跡には空っぽになった皿が放り出される。
 茄子の呪縛から逃れ、自分の置かれた現状を理解するや、ミノスが憤然とした顔つきでカイゼルに鋭い眼光を送った。
「ミノス、礼を言え」
 歯軋りさえ聞こえてきそうなほどの形相をしているミノスの右手から追い討ちをかけるように声があがった。
 相手を射殺す視線が声の持ち主へと移ったが、当の本人は何喰わぬ顔をして、眼前の料理を消滅させることに腐心している。
 ミノスは再び不機嫌な視線を、救世主へと向けた。感謝とはほど遠い表情である。しかし片頬を引きつらせながらボソリと囁く。
「……礼を言う」
 とてもではないが、感謝しているようには見えない……どころかその正反対である。
 しかし成り行きを静観していたアダーリオスは目をひんむいてミノスの顔をマジマジと見た。この傲慢な少年が大人しく礼を口にするとは!
 衝撃に手に持っていたスプーンを落としそうになる。
「……。大したことじゃない。私は茄子が好きなんだ」
 淡々と茄子を胃袋へと収めていたカイゼルの手が止まり、穏やかな微笑みさえ浮かべてミノスへと返事をする。そんな光景は想像だにしていなかった。
 今度こそ、アダーリオスはスプーンをスープ皿のなかに落下させた。
 自分の問いかけにも無愛想なら、まわりの兵士たちの嬌声にも無関心だったカイゼルが、ミノスのいい加減な礼の言葉程度で微笑むとは!
 場を取り繕うとしていた自分が滑稽に思えて、アダーリオスは嘆息した。
 なぜこんなところで自分が道化を演じていなければならないのだろう。
 用心深くスープの池からスプーンを取り出し、こっそりとアダーリオスはまわりの人間や同席者の様子を盗み見た。
 剣角(カント)のシエラが現れてからは、兵士たちは四人への関心よりも自らの食欲への忠誠を優先させており、今のやりとりを見ていた者は誰もいないようだ。
 自分の右側に座るミノスは屈辱感に頬を染めたまま乱暴に食事を続けているし、左側のカイゼルは他人のことなど眼中にないといった顔つきで黙々と料理を減らしている。
 さらに正面に座っているシエラは無関心を装いつつ、面白がって成り行きを傍観している気配が伺えた。
 こんなことで気を使っているのは、自分一人だけだ。
 うんざりした気分になり、アダーリオスは自分の食事へと没頭する決心をした。
 まわりの人間にかまっていて自分の食事をし損なうなんて、今のこの状況から考えるに、これほど馬鹿らしいことはないと思えたのだ。
 珍妙な空気が流れる食堂で、夕食は静かに続いた。

〔 12323文字 〕 編集

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