No.42 (ランダム表示)
「お前……! いつ、日本へ……」
藤見と呼ばれた男の声が今度こそ動揺しているのが判る。今までビクともしなかった男とは思えない。
聞き馴れた葛城の声とは違う、大人の女の声が夜の空気を震わせる。
「いつだって、お前が桜華に手出ししそうなときには帰ってくるさ」
オレは自分の窮地を救ってくれたらしい人物を見上げた。月明かりに薄く照らされた顔の半面が藤見を凝視していた。
「随分と手荒なことをしてくれたね。タダじゃおかないよ」
「か、薫さん……!」
葛城の声が聞こえた。彼女はオレを抱きかかえるようにして座り込んでいる。安堵感が葛城から漂ってくる。
そうか。この人物が葛城の言っていた結城薫か。
オレは自分の立場も忘れて、目の前の人物を観察した。
葛城と同じような茶髪に目鼻立ちのハッキリした美人だ。彼女の顔を見ていると、美術の教科書などに載っているギリシャの女神像が連想される。
引き結んだ唇には強固な意志が感じられた。鋭い眼光には、妥協を許さない力強さが漲っている。ただの一睨みで藤見の気勢を削ぐ辺りは並の男より強く見える。
やはり葛城が絶対の信頼を寄せる人物だ。
小石を右手で弄びながら、女は駐車場の入り口からゆったりとした足取りで近寄ってきた。
今気がついたが、藤見はオレを締め上げていた右腕を押さえていた。彼女が小石を投げつけて負わせた怪我なのだろう。
「蓮華になんて言って言い訳するつもりだい? ……ふざけたことをしてくれたね。お前のお遊びにつき合わされる桜華の迷惑を少しは考えたらどうなのさ!」
「う、うるさい! お前なんかに指図される覚えはないよ。第一、蓮華はこの事は知らないんだ! 言い訳も何もあるもんか!」
突如現れた女の言葉に藤見が動揺して半歩下がった。
今までの冷徹さが蔭を潜めた彼の横顔はわがままな幼児のようだった。実際、藤見は成長しきっていない子供と同じなのかもしれない。
「蓮華が知らないって? お気楽なヤツ。だからお前らはいつまでたっても天承院を継げないんだよ! ……出といで、蓮華!」
女の落雷のような声音に藤見は飛び上がった。
「蓮華……!」
一人の男に伴われて、昼間に会った女性がフラフラと姿を現した。昼間に見た哀しげな表情が浮かんでいた。
「藤見……。なんてことを……」
藤見と同じ顔立ちの女性が泣きそうな顔をして囁いた。黒絹の髪が月光を反射して輝いている。
「お前らが蓮華に告げ口したんだな! 卑怯者!」
藤見のわめき声が夜空に空虚に響く。
「もうやめて、藤見!もう……」
涙声で訴える蓮華が両手で顔を覆った。
「自分のやったことを棚に上げて卑怯者とはね。あんたってホントにろくでなしだよ、藤見。大事な蓮華を泣かせているのは、あんた自身じゃないか。……和紀!」
女が蓮華の背後に立っていた男に声をかけた。
和紀と呼ばれた男がゆっくりとした足取りでオレと葛城に近づいてきた。鋭い眼光の野性的な感じの顔立ちの男だ。
「立てるか?」
低い声がオレたちを包んだ。
決して優しくもないが、冷たさも感じさせない穏やかな声がオレの耳には心地よかった。だが葛城は不機嫌そうに顔をしかめて、そっぽを向いた。
オレは男の問いに行動で答えた。
立ち上がり、服に付いた埃や泥を払い、まだ座り込んだままの葛城に手を差し出す。
葛城は素直にオレの手にすがって立ち上がったが、まだ男と視線を合わそうとはしなかった。どうやら、葛城は結城女史の連れであるこの男が嫌いなようだ。
「桜華や彼女の友人を巻き込むなんて許さないよ、絶対に」
突き放したような声が駐車場に響いた。
オレと葛城は男に促されて駐車場の入り口から外に出た。暗い駐車場の敷地内には、藤見と蓮華、そして結城薫だけが残された。
「あそこに見える車で待ってろ。こちらの用が済んだら、すぐに行く」
男は五十メートルほど離れた街灯の下に止められた一台の車を指さし、抑揚の少ない声でオレたちに指示した。
オレが車の位置を確認して男を振り返ったときには、彼はすでに背を向けて駐車場に向かっていた。
葛城は不機嫌そうな顔を崩さずに男の背を見送っている。
「行くか? 葛城」
オレはいつまでもその場を動こうとはしない葛城を促した。きっとここから先はオレたちが立ち会ってはいけないことなのだ。たぶん葛城に配慮をしてのことなのだろう。
だが、葛城は動かなかった。
「葛城?」
「ゴメン、赤間。わたし、最後まで見届けないといけない気がする。先に車に行っててよ」
こいつは言い出したら聞かないところがある。いつもの気の強い顔に戻った葛城の白い横顔は、これまたいつも通りの頑固な意志を示していた。
オレはそっと空を見上げて溜息をついた。オレ一人で行けるわけないだろうが。
こいつはいつだってマイペースだ。なんだってこんなに頑固なんだ。折角、気を使ってあの場からオレたちを逃がしてもらったって言うのに。
「さて、これからあんたたちをどうしてくれようかねぇ?」
結城の冷たい声が響いてきた。
藤見の残忍さよりも背筋が凍る突き放したような声音だ。
藤見などはどう思っただろう?
つい先ほどまでは自分がいるはずもない立場に立たされる気分というのは、不愉快なものだろうが。
「蓮華は関係ないじゃないか!」
藤見の苛立った声が後に続く。
「関係ない? そうかねぇ、蓮華が桜華の通っている学校まで押しかけて行ったと知らなければ、あんたもこんなことまでしなかったんじゃないの?」
オレは息を飲んだ。
蓮華が昼間、学校に押しかけてきたことをどうして彼女が知っているのか?
だが、柏葉監督が迎えに行った人物が彼女であれば、知ることは出来るのだと思い至り、再び息を潜めて駐車場の会話に聞き耳を立てた。
「どうせ二度と桜華に近づくなと約束させたって、破ることは判りきっているんだから、本当に二度と桜華の前に姿を現さないように海にでも沈めてやろうかしらね」
「そんなことさせるもんか! 第一お前は医者じゃないか! 人の命を預かる職業のくせして人を殺す算段かよ!」
藤見の声が怒りに震えていた。
オレに言わせれば“よく言うよ”となるが、目の前で殺しの相談ってのは、ちょっとご免だ。気持ちのいいものじゃない。
そのとき、隣にいた葛城が動いた。
まるで風のように自然な動きのため、オレは一瞬反応するのが遅れた。だが、慌てて後を追う。
「お嬢ちゃん、何しに来たんだ?」
オレたちを駐車場から連れ出した男が葛城の姿を認めて声をかけてきた。抑揚のない淡々とした話し方は先ほどと同じだ。
「桜華……? どうしたの、車で休んでなさい」
「いえ。休んでいる気分ではなかったので……。そこ、どいてください、綿摘さん」
結城に返事を返しながら、葛城のヤツは男を睨みつけていた。この男の名前は綿摘和紀というらしい。それにしても、随分と毛嫌いしているようだ。
肩をすくめて男が身体をずらすと、葛城は滑るような滑らかな動きで結城へと近づいた。
「薫さん。あなたが直接手を下すまでもありません。……今夜のことは、院でふんぞり返っている山の大伯父貴に報告してください。それで充分です」
葛城の言葉に藤見の身体が小刻みに震えているのが夜目にも判る。話題の人物は彼が震えるほどの強権を持っているようだ。
「それでいいのかい?ほとぼりが冷めたら、またこいつらはお前を狙うよ。いっそこの世からおさらばしてもらったほうが楽でいいのに」
結城は医者とは思えない辛辣な言葉を藤見たちにも聞こえるように葛城に返す。
「私のことはどうとでも報告してください。でも……でも、藤見は! 弟のことは、どうか……。この子は、もう天承院の一員ではありません」
「蓮華! こんな奴らに頭を下げるな」
結城の言葉に蓮華が、手を胸に組むように合わせて懇願した。芝居がかった動作が様になる人だ。並の男とかなら、それだけで許しているだろう。
「それは出来ないね。第一、お前たちの母親は、藤見が朝比奈家に入ったこと自体を納得しちゃいない。どうせ今回のことだって、裏ではあの女狐が指示してるんじゃないの!?」
寄り添うように立つ双子を見比べながら、結城が軽蔑したような視線を二人に向けた。同情を誘うことなど、彼女には通用しないらしい。冷淡な態度は、はたで見ているだけのオレですら、怯んでしまうものだった。
夏の時期なのに、空気が凍っているような錯覚さえ覚える。
「母は関係ありません! そうでしょ? 藤見」
青ざめた顔をして蓮華が藤見を庇った。だが、藤見は答えを返さなかった。俯いたまま唇を噛みしめているばかりだ。
「答えられないのかい、藤見。それこそが、真実だね」
「う、嘘です! そうでしょ? ねぇ、藤見! なんとか言って!」
なおも藤見を庇う蓮華の顔がますます青ざめた。
オレは何がなんだか判らずに頭を混乱させ続けていた。
「だったら、なぜ藤見は答えない? 答えられないってことが答えなんだよ」
意地悪く藤見を追いつめる結城を遮る葛城の声が響いたのは、そのときだった。
「もう、いいです。薫さん」
疲れた表情と声の葛城の様子は、誰が見ても彼女が打ちのめされていると思うだろう。今にも倒れそうな葛城を支えているのは、結城の腕一本だけだ。
「……判ったよ、桜華」
溜息とともに結城が小さく頷いた。凍りついた空気がゆっくりと氷解していく。
「お前なんかに……お前なんかに同情なんかされたくもない!」
金切り声をあげて、藤見が葛城へと走り寄った。
「藤見……!」
宵闇に銀線が走る。
藤見の左手から放たれた光の線は一直線に葛城へと飛んでいく。
葛城が避ける間もない。
黒い影が光と葛城の間に立ちはだからなかったら、彼女は胸か腹をその光の刃で貫かれていたかもしれない。
硬質アスファルトの上をサバイバルナイフに似た鋭利な刃物が転がった。
「……和紀! 利き腕をへし折っておやり!」
怒りに燃え上がった結城の声が、黒い影に指示を出した。
男はわずかに彼女を振り返った後、音もなく藤見に滑り寄ると、逃げだそうと身をよじった藤見を難なく掴まえた。
「お願いです。やめてください! 藤見を傷つけないで!」
捕らえられた藤見と男にすがりついて蓮華が泣き出した。
だが、結城は指示を撤回する様子を見せなかった。
自分の腕にしがみつく蓮華を男はつれない様子で振り払うと、藤見の腕をひねりあげた。苦痛に顔を歪めながらも、藤見は助けを乞おうとはしなかった。
憎悪に光る瞳が綿摘と結城を交互に見つめている。
「やめて! お願い。やめて!!」
蒼白な顔をした蓮華が再び綿摘の腕に飛びついた。
だが、無常にも藤見の腕は鈍い音と共にあり得ない方向へと曲がった。
「ウ……ゥッ!」
悲鳴にもならない苦鳴をあげた藤見が土気色の顔をしてアスファルトの上に転がった。力無く垂れ下がる腕が壊れかかった人形の腕を連想させて気味が悪かった。
「藤見ぃ!」
絹を裂くような悲鳴が上がると蓮華が弟を抱きかかえた。
それを見守っていた葛城が目眩を起こしたように結城の腕に顔を寄せた。結城自身は無表情な顔を真っ直ぐに藤見に向けている。
オレは身体が震えだすのを止められなかった。
顔を歪めたまま、藤見が結城と葛城を睨んだ。どんな表情よりも凄まじい憎悪と殺意が込められた視線が二人の女の肌を焼く。
「殺してやる……。いつか、必ず。お前たちを殺してやる……!」
藤見は本気だ。狂乱した瞳がそれを証明している。
だがそんな藤見の怒りをせせら笑うように結城が不快そうに鼻を鳴らした。
あの藤見の憎悪をまともに受けてなんとも思わないとは、それだけでこの女の神経はまともではない。
「だったら今度は自分の命と引き換えにするくらいの性根を鍛えてからにしな! ……お前みたいな乳臭いガキの相手をしている暇なんてこちらにはないんだよ。行くよ、和紀!」
結城は葛城の肩を抱くようにして、闇に背を向けた。それを悠々と追って、綿摘が後に続く。オレも引きずられるような感覚を伴いつつ後を追う。
肩を震わせて泣く蓮華と、屈辱に身体を震わせる藤見を残して、オレたち四人は後ろを振り返ることなく車へと向かった。
「桜華?」
結城の声にも葛城は反応しなかった。皆、葛城の様子に注目する。彼女を見つめる何対かの視線が、その身体に絡みついているように見えた。
結城が無理矢理に葛城の顔を上向かせた。
葛城の顔は、人形のように動かなかった。傀儡のようになんの感情も浮かんでいないその顔は、だた美しいだけで、生命の力強さなど感じはしなかった。
「桜華!」
結城が語気を強めて、葛城に呼びかけた。その声の糸に操られるように葛城の瞳が動いた。と見る間に、葛城の瞳に透明な水が溢れた。
「薫さん……」
疲れ切った葛城の声が車内を染めた。
「眠りなさい。今のあんたには、休息が必要よ」
忍耐強い顔をして結城が葛城の肩を抱いた。それに素直に従って葛城が目を閉じる。
すぐに彼女は深い眠りの淵へと落ちていったようだ。規則正しい寝息が聞こえてくる。
オレは葛城の寝息に耳を傾けならが、今度こそ安堵の息を吐いた。
「自宅には、監督から連絡を入れてもらっているわ。今夜は監督の家に泊まりなさい」
穏やかだが反論を許さない口調で結城が話しかけてきた。
「え……? でも……迷惑じゃ?」
監督の家は一戸建てだがそれほど大きな造りの家ではない。夫婦二人暮らしの家に葛城が転がり込み、なおかつオレまで泊まることなどできるのだろうか? もしかしたら、結城薫自身だって今夜は柏葉監督の家に泊まるのかもしれないし。
「……私には、今夜は寝床は必要ないし、和紀は自分の部屋に戻る。休息が必要なのはあんたも同じ。今から自宅へ帰ったら、家の人を起こす羽目になるわよ?」
オレは結城の言葉に甘えることにした。第一、彼女には何を言っても無駄な気がする。そんなところは、葛城とよく似ていた。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて一晩お世話になります。……ところで、オレたちがあそこにいるってよく判りましたね?」
オレの質問に運転席から静かな笑い声があがった。
「ちょっと和紀! 何笑ってるのよ! ……あのね、桜華の制服の内ポケットには、いつでも小型のモバイルフォンが入っているの。それが発信器代わりになっているのよ。藤見のヤツも見逃すくらい小型で巧妙に隠してあるけどね。
でも今回は手間取ったわ。桜華が通学路に使っている道にあんたたち二人の学生鞄が放り出されてなかったら、気づくのがもっと遅れたかもしれない」
そういえば、オレは鞄を持っていない。今までは緊張の連続で気づきもしなかった。人通りの少ない住宅街の路地に放り出された鞄を想像して、オレはゾッとした。もう少し遅かったら、オレは死んでいたかもしれないのだ。
「喉の調子はどお? 痛みは?」
結城が医者らしい口調でオレに声をかけた。先ほどまで、殺意を露わにしていた人物と同一とは信じがたい声だ。
「大丈夫です。なんともありません」
実際に首を絞められた後の後遺症は何もなかった。案外、もう駄目だと思ってからも人間はまだまだ生きていられるものなのかもしれない。
「そう。……迷惑をかけたのは、こちらのほうだったわね」
葛城の髪をなでてやりながら、結城がポツリとこぼした。
「あの……。葛城の病気、治りますよね?」
オレは一番の気がかりを聞いてみることにした。葛城の病気が治れば、西ノ宮のバスケ部のコーチとして残っているつもりはないかもしれない。
彼女の病気が治るといい、と思う心のどこかで、治らなかったら……と打算が働いている自分がいる。
「桜華に聞いたの? 珍しいわね、この子が自分から話をするなんて」
「いえ、成り行きで……」
オレは今までの経緯を手短に説明した。
黙って聞いていた結城が微かに口を歪めた。だが、オレにはそれが何を示しているのかは判らなかった。
「お嬢ちゃんにしては、随分と譲歩した。少しは成長したってことだな」
運転席から声がかかった。それに結城が頷く。
「そうね。人間ってものを信用していなかった桜華にしては上出来だ。……あんたは桜華に信用されている数少ない人間ってわけだ」
結城の瞳がスゥッと細くなり、オレを値踏みするように全身を眺めてくる。居心地の悪いものだ。この瞳の前で隠し事をするなど不可能な気がする。
「葛城はオレたちのコーチとして最大限に努力しています。彼女のコーチとしての才覚を部員全員が信じています。
……葛城がオレたちに嘘をつかないから、オレたちは彼女を信用している。それだけのことです」
オレは居心地の悪さに視線をそらせた。
葛城の病気が治らなかったら卒業するまで、あるいは卒業してからでも、ずっとコーチでいてくれるのではないかと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしかった。
「それでいいのよ、桜華との関係は。……本当はね、五分五分よ。時間との勝負。この子の心臓はもうボロボロだから、いつ死んでもおかしくない」
彼女の言葉がオレへの答えだと気づくと、オレは全身から血の気が引いていく感覚に目眩した。いつ死んでもおかしくない、という結城の言葉は衝撃だった。
「そ、そんなに悪いのですか?」
「二十歳まで生きられないわ。今のままじゃ、ね」
オレは思わず背もたれに寄りかかった。そうでもしなければ、目眩で倒れてしまいそうだった。
「二十歳って……じゃあ、あと三年くらいしか……」
「いいえ、二年よ。この子は今十八だから」
「えぇ!? 十八? だって、葛城は二年生で……」
途中まで出た言葉をオレは飲み込んだ。葛城がオレと同い年でもおかしくはないのだ。西ノ宮に編入してくる前に彼女は入院などでブランクがあるかもしれないのだから。
「お察しの通りよ。桜華は高一の終わりにひどい発作を起こして入院してるわ。二年生になってからは、ほとんど学校へは通えなかった。
今年の春先になってからよ、歩けるまでに回復したのは」
「……葛城は、知っているんですか? 二十歳までの命かもしれないってこと」
オレは沈んでいた。自分があと二年の命だと言われたらどうだろう?オレならおかしくなってしまう。信じたくもない。
「知ってるわ」
冷淡なほどきっぱりと結城がオレに告げた。
「葛城が可哀想だ……」
オレがもらした言葉に結城の眉がつり上がった。
「可哀想? ……病気だから? それとも、不愉快な連中につけ狙われているから? どちらも桜華の前では口にしないことね! この子は同情されることが大嫌いだから」
微かな怒りを含んだ彼女の声にオレは自分の言葉が偽善でしかないことを悟った。葛城は自分を可哀想だとは思っていない。いや、思いたくはないのだ。
同情は葛城を傷つける。
「すみません。絶対に言いません……」
「そうね。今夜、見聞きしたことも、ね」
オレは頷くしかなかった。今夜のことなど話しても誰も信じはしないだろう。
「何も教えられずに黙っていろって? それは不公平だな、薫」
黙ってオレたちのやりとりを聞いていた男が不満をもらした。バックミラーから覗く黒い瞳がオレたちをジッと見つめる。
「知らないほうがいいこともあるわ」
「藤見はこいつも殺そうとするかもしれない。あんな無様な姿を見られたんだ。その記憶を消し去るには当事者全員を抹殺しようとするかもな。
……お前は何も知らないまま、消されたいのか?」
黒い瞳が今度はオレだけを凝視した。
オレは藤見の狂気を孕んだ瞳と声を思い出して身震いした。あいつは普通じゃない、絶対に狂っている。
「桜華だけを守っているわけにはいかなくなった、か」
結城が溜息をついた。それが、オレにいっそうの恐怖を与えた。オレはまだ死にたくなかった。
オレは不安そうな顔をしていたのかもしれない。結城は苦笑すると、一度だけ葛城の寝顔に視線を走らせて、話し始めた。
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
天承院家は、古代舞の家元である。代々、女主が家元の座を継ぎ、千年を越える家系を維持してきたのだ。
だがその長大な命脈を保っていた家系に危機が訪れた。今から二十三年も前のことだ。
当時、第四十六代家元である天承院菊乃の一人娘菖蒲が十六歳の誕生日を目前に控えて突然に姿を消したのだ。
この事態に天承院流を支える師範代家系『朝比奈』家と『葛城』家は色めき立ち、早速暗躍を始めた。
跡取り不在で、自分たちの一門の誰かを院の養子という形で送り込むことができるのだ。突然に降って湧いた幸運に彼らは何よりも自分たちの利権の確保に奔走した。
誰も跡取り娘の行方など心配もしない。
だが両家の暗躍も空しく、四年後、菖蒲は天承院に連れ戻された。
両親は娘の無事に躍り上がって喜んだが、連れられてきた娘が抱く男女二人の幼子に愕然とした。
菖蒲にそっくりな子供は間違いなく自分たちの孫である。その事実に天承院内部は揺れに揺れた。
菖蒲と幼子二人はすぐさま引き離され、菖蒲は一門の者が決めた相手と連れ添わされた。
さらに菖蒲の幼い息子は朝比奈家へと養子へ出され天承院を名乗ることを許されず、双子の片割れである娘は天承院家に残されたが父親がいないという理由で跡取りとは認められなかった。
菖蒲と新しい伴侶との間にはすぐに女児が作られた。しかし、それは自然の営みとは反する科学によって作り出された子供であった。
菖蒲は自分の意志に反して生まれてきたこの子供を愛そうとはしなかった。
だが天承院の正式な跡目を継ぐ子供の誕生だ。
周囲から菖蒲の想いは無視され、まして子供に自らの意志など望まれもしない。
その子供の物心がつく頃、形ばかりの夫婦であった子供の両親は再び他人に戻った。
その後子供に無償の愛情を注ぐ者はいなかった。
「おはようッス」
「おうッス」
朝練で体育館に駆け込んでくる部員たちに声をかけながら、オレはチラチラと入り口のほうを伺い続けた。
あらかたの部員が揃い、ストレッチを思い思いに始める。
「はようッス」
「チーッス」
「はようございますッ」
全員が緊張の糸を張りつめて戸口から入ってきた人物に挨拶をする。
「おはよう」
いつも通りの厳しい口調と自信に満ちた双眸が部員一人一人に届けられる。変わらない朝が巡っている。
「コーチ。今日もいつものメニューですか?」
高杉がストップウォッチを片手に指示を待っている。
「あぁ、頼むよ」
葛城の声に部員たちが筋トレ用の道具をそれぞれ手に取る。
「すまなかった。……薫さんが、お前によろしくと」
葛城の小さな声が彼女の前を通りすぎようとしたオレの耳に届いた。
昨夜、オレは監督の家に泊めてもらったが、夜が明けるとすぐに家に飛んで帰っていた。葛城につきっきりだった結城薫とは今朝は顔を合わせていなかった。
葛城はいつもと変わらないきつい眼光を部員たちに注ぎ、的確な指示を出している。
何も変わらない朝。この朝日のなかでは、昨夜の出来事は夢物語のような気がする。
だが夢ではないのだ。
オレの記憶のなかには、結城から聞かされた遠くの世界の話が残っている。決して消えない錦絵のように、肌に刻まれるタトゥーのように。
『この子はね、PUPETT……人形なんだよ。糸で繰くられる操り人形。見えない傀儡師に操られるように生まれてきて、まわりの大人の思うように作られて、そして使いものにならなくなれば捨てられる。
……傀儡のような生き方しか出来なかった。そんな生き方しか許されない。いや、この子だけじゃない。この子の二人の姉兄もまた同じ。傀儡のごとくに操られ続ける……』
朝日のなかで見る葛城の横顔には昨日の脆さはなかった。だが、その仮面の下にある素顔をオレは知っている。暗闇に怯える幼児のようなその素顔を。
「だぁ~! かったりぃ~!」
遠くで佐倉井が不平をもらしている。それを葛城が腕組みしたまま睨む。
「……やりたくないなら帰れ! お前のようなヤツはいらん!」
部員たちが首をすくめ、佐倉井はいつも通り生意気に葛城を睨み返す。
「いい加減にしろ、佐倉井! 真面目にやれ!」
オレはいつも通りに佐倉井と葛城の間に入って、危険なバランスを取る。まったく変わらない日常が今は薄っぺらに感じる。
ふと見れば、葛城が苦笑をもらしている。笑うことのなかった葛城の笑みに、それに気づいた部員たちがざわめく。日常が変わっていく。少しずつ、だが確実に。
いつの日か、葛城は自分の足で立つだろう。傀儡から人へと変わる、その日が早く来ればいい。
そのときは、葛城は誰よりも綺麗に笑うだろう。
終わり
- この投稿と同じカテゴリに属する投稿:
- この投稿に隣接する前後3件ずつをまとめて見る