石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

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後日譚

No. 83 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第13章:両腕

 蕾をつけ始めた花たちの間を行き来する娘の姿が見える。ダイロン・ルーンはその姿を眩しげに眺めていたが、思いきったように口を開いた。
「カデュ・ルーン。そちらへ行ってもいいか?」
 弾かれたように娘の白い顔が上がり、兄の姿を認めると、嬉しそうに手を振って応えてくる。相手の了承を得ると、ダイロン・ルーンはゆっくりと花畑へと足を踏み入れた。
 ここ聖地(アジェン)で春の訪れを教えるものといえば、カリアスネの花の香りと、背後にそびえる山脈から流れくるポトゥ大河の荒々しいせせらぎの音だろう。
 カリアスネは祭壇で焚かれる香油にかかせない。この花の香りを抽出して油に匂いつけをするからだ。聖地はカリアスネの最大最高の生産地でもあった。
 王宮の外にあるカリアスネの花畑であれば、今頃は下働きの者たちが整然と畝に沿って繁るカリアスネたちの新芽の選り分けをしているだろう。しかし、王宮内のこの花園にはカデュ・ルーンと彼女の手伝いをしている宮女数人の姿しか見えなかった。
「兄様、今日は帰りが早いのね。もうお仕事は終わり?」
「いいや、これから空庭(フォルバス)で剣の稽古だよ。選王会の開催が早まったお陰で稽古場は大混雑だが」
「王宮でも誰も彼もが浮き足だっているわ。……怖いくらい」
 美しい眉をひそめてカデュ・ルーンが俯く。長い睫毛に縁取られた新緑の瞳には不安が浮かんでいた。
「私は負けないよ、カデュ・ルーン」
「兄様が負けるなんて思ってないわ。でも、男の人たちがひそひそと物陰で内緒話をしている姿を見ると、良くないことが起こる前触れのような気がして落ち着かないの」
 小さく首を振る妹の様子はあどけない子どものようだ。足下のカリアスネが咲き誇る頃には、彼女も十五歳になるが、まだまだ顔には幼さがくっきりと浮かんでいた。
「選王会は聖地の貴族にとっては一生どころか、一族の命運を左右するものだからね。いかに勝ち上がっていくか、あるいは時期聖衆王の記憶に強い印象を残すかで、皆が躍起になっている。殺気立っている者もなかにはいるから、お前も出歩くときには気をつけなさい」
「はい……」
 選王会は表だっては王を決めるものだ。だが、実のところは聖地の貴族たちの間での足の引っ張り合いが半ば公然化するものでもある。どちらがより優位に立つか、それがこの時期の貴族たちの最大の関心事だ。
 選王会に参加する本人の技量だけで勝ち上がっていくのならいい。が、そんなきれい事が通用するものではないのだ。選王会の裏側では、周辺諸国からの賄賂(まいない)やら策謀が渦巻き、それを見越して立ち回る聖地の貴族たちが蠢いている。
 対立する者のみならず、その親族にも害意は向けられることになる。女子どもなどは格好の標的だ。
 元から表を出歩く質ではないカデュ・ルーンに、こんな脅すようなことを言ったのでは、余計に彼女は外へ出なくなってしまうだろう。しかし、自分だけならまだしも、彼女が狙われるようなことになれば、ダイロン・ルーンは身動きがとれなくなってしまうのだ。
「リュ・リーンから手紙は来ているかい?」
「えぇ。昨日、一番新しい手紙が届いたばかりよ。選王会……トゥナからは彼と、何人かの貴族の方が出席するようよ。お父さまへのご挨拶もあるから、彼だけは早めにこちらへ来るみたい」
「そうか。……貴族たちも来る、か」
 ダイロン・ルーンの表情が一瞬だけ歪み、すぐに元の端正でやや冷たい印象を与える美貌へと戻った。氷色の彼の瞳は感情らしい感情を浮かべてはいない。
「兄様。リュ・リーンと一緒にくるトゥナの貴族の方々は、彼にとっては良い方ではないのかしら?」
「そうだな。リュ・リーンの立場は夏の戦でかなり固まったように見える。が、それを快く思っていない者もまだいるだろう。それにトゥナ貴族の連中の力が弱体化したわけではないからね。まだまだ軋轢が残っているはずだ。カデュ・ルーン。お前もリュ・リーン以外のトゥナの連中とつき合うときは用心したほうがいい」
 素直に頷きながら、カデュ・ルーンが兄の顔を見上げる。信頼を浮かべた視線を向けると同時に、不安そうに寄せられた眉が彼女の内心の動揺を表しているようだった。
「大丈夫だ。リュ・リーンも私もそう簡単に負けたりしない。カデュ・ルーンは笑顔を絶やさないことだ。お前の笑顔がリュ・リーンには何よりの慰めになるだろうからな」
 兄の言葉に励まされたように、カデュ・ルーンがふんわりとした柔らかな微笑みを浮かべる。この場だけ先に春がきたような優しい温もりのある表情に、ダイロン・ルーンは今さらながら心癒されている自分がいることを感じていた。




 足早に大理石を蹴りつけ、廊下を進むウラートの表情はいつもより険しく見えた。しかし、彼の微妙な変化が判る者は少ない。すれ違う従者たちや貴族は、彼に特別な注意を払っているわけではないのだ。
 ウラートの格好は宮廷で生活しているときの衣装ではない。馬に乗りやすい簡素な服装は、彼が遠くリーニス地方から帰還したばかりだということを教えていた。
「まぁ! ウラート卿、お帰りになったのですね」
 脇廊下から上がった声にウラートはハタと立ち止まって振り返った。年のいった女官が見習いらしい女官を数人引きつれて、こちらへと歩み寄ってくるところだった。
「ただいま帰参しました。こちらは変わりなかったですか?」
「えぇ。リュ・リーン殿下がすっかり大人になられたことを除けば、他はつつがなく」
「私が王子を冬の間見なかっただけで、また背が伸びているなんてことはないでしょうね? 夏の勢いで背が伸びたのでは、とんでもない巨人になっているでしょうけど」
 見習いの女官たちはウラートが初めて見る顔ぶれだった。まだ王宮に入ったばかりの者たちなのだろう。気恥ずかしそうにチラチラと上目遣いでウラートを見ては、隣の者たちと目配せをしている。
 地方の領主の娘たちなのだろうか、彼女たちの立ち振る舞いは、柔らかではあるがどことなく田舎臭さが抜けていない。
「冬の間にもほんの少し背が高くなられましたわ。ウラート卿を追い抜いたのではないかしら。今度からお説教をするのが大変ですわよ?」
「見上げるような背になっていたって、誰が負けるものですか。王子の我が侭を注意できる人間が私の他にいるとでも? ほぼ半年ぶりですからね。私がいない間は好き勝手していたのでしょう? 気を引き締め直していただきますよ」
「まぁ、怖いこと。殿下にしてみれば、あなたのお帰りは嬉しさ半分、怖さ半分といったところでしょうね。でも去年に比べて、本当に丸くなられましたわ。それでも、この娘たちには怖い存在のようですけど。そうそう。あなたは初めてでしたわね。ご紹介いたしますわ」
 ようやく自分たちに話題が振られ、若い女官たちは一様に頬を染める。目の前に立つ美貌の従者に舞い上がっているようだ。
 ウラートはいつもの反応に内心で苦笑しつつ、年かさの女官から一人一人女官たちを紹介されるたび、優雅に腰を折って彼女たちに微笑みかけた。
「よろしく、お嬢さん方。王子付きのウラートと申します。皆さんの働きに期待していますよ。殿下は気難しい方ですから、気を使うことも多いでしょう。今のうちに私からお詫びしておきますよ」
 ゆったりとした仕草で頭を下げる王子付きの従者の態度に、緊張のあまり涙目になっている娘もいる。
 ウラートはいつも通りに柔和な笑みを向けるだけで、若い女官たちとそれ以上話をしようとはしない。見習いたちは彼の笑顔に顔を真っ赤に染めている。
 ウラートは馴染みの女官に向き直ると王子の所在を訊ね、女官たちを残してさっさと立ち去ってしまった。
「じょ、女官長様。あの方はいつもあんなにお優しいんですの?」
「男の方なのにあんな綺麗な方、初めて見ましたわ」
「王子様は怖そうな方なのに、あの方はなんて物腰が柔らかいんでしょう」
 口々に騒ぎ始めた見習いたちに向かって、中年の女官が顔をしかめる。眉間に浮かんだ皺が彼女の苛立ちを如実に表していた。
「皆さん、おしゃべりが過ぎますわよ! さぁ、しゃんとなさい。街娘でもあるまいに、そんなに浮かれていてどうしますか!」
「でも……!」
「あぁ、もっとお話したいわ」
「女官長様。あの方のこと、なんでもいいから教えてくださいな」
 ウラートが立ち去った後には、見習いの女官たちが年上の女官を質問攻めにしている光景があった。




 一年ぶりの王宮は、やはり聖地(アジェン)での選王会の話題で浮ついている様子だった。ほぼ二十年ごとに巡ってくる水面下の騒乱は、貴族たちの最大の関心事だと言ってもいいだろう。
 ウラートは女官長から聞いた場所へと急ぎながら、廊下の柱の陰で囁き合う貴族や宮廷従者たちの様子に舌打ちした。
 胸がむかついてくる。ここはトゥナ王国の王宮だ。遠い聖地の長に忠誠を誓うのと同じだけ、この王国の王家にも忠誠を誓ったらどうなのだ。
 彼ら貴族を養っているのは、聖地でお高くとまっている神殿貴族どもではなく、王家ヒルムガルであるというのに。
 王の執務室に続く廊下の手前で、ウラートは先触れをする従者に声をかけた。案の定、王子リュ・リーンは父王の元で話をしているとのことだ。
 王子付き従者の特権だ。遠慮なく廊下を進み、執務室の扉を叩くと、室内からのいらえも待たずに扉を開けた。
「ウラート! 帰ってきたのか!」
 目を細めて不敵に口元を歪める王とは対照的に、リュ・リーンは暗緑の瞳を大きく見開いて驚きを露わにする。が、それもすぐに満面の笑顔へと変わった。
「ウラート・タウラニエスク、リーニスより帰参いたしました」
 腰を折り、上目遣いに挑むように王に頭を下げると、シャッド・リーン王が喉の奥で笑い声を上げる様子が見える。
 この国王はいつでも臣下を煙に巻くが、決して凡庸な王ではない。そのことをウラートは厭と言うほど見せつけられてきた。
 ウラートが腰を伸ばし、リーニスの現状を報告しようと口を開くより早く、王は顔をフニャリと崩して隣りに立つ息子に声をかける。
「リュ・リーン~。ウラートも戻ったことだしぃ~。お前は少し休めぇ~」
「そう言って俺の従者をこき使うつもりか? 冗談じゃないぞ。リーニスから戻ったばかりのウラートを親父の手足のごとく使われたら、俺が聖地に行くときの侍従頭がいなくなるじゃないか! リーニスの報告なら書面で届いていただろう。俺の侍従は連れて帰らせてもらうぞ」
 リュ・リーンの瞳が剣呑な光を湛え、父親の言葉に反抗した。スタスタとウラートの傍らに歩み寄ると、リュ・リーンは遠慮なく従者の腕を取り、執務室から引っぱり出そうとする。
「リュ……。殿下、王陛下への報告が終わっておりません!」
「お前がこまめに送ってくる報告書のお陰で、口頭での報告は必要ないはずだ。長旅で疲れているんだから、お前は今日くらい休め! でないと、親父にいいように使われるだけだぞ」
「報告書は報告書です。詳しいことはやはり私の口からでないと……」
「お前の主人は俺だ。親父じゃない!」
 ギラリとリュ・リーンの瞳が光った。トゥナの人間ならその瞳を見ただけで怖じ気づいてしまいそうだが、ウラートには通じないようだった。
 腕を鷲掴みにしている王子の手をそっとはずすと、ウラートは相手の瞳を覗き込んで言い含めるような口調で相手をなだめた。
「陛下へのご報告はすぐに終わります。信用していただけないのなら、廊下でお待ちください。終わったらすぐに王子宮へお供しますので」
「……判った、廊下で待つ。おい、親父! 俺の従者をサッサと返せよ!」
 父親をチラリと一瞥すると、リュ・リーンは足音も荒々しく部屋を出ていった。もちろん、そのまま廊下を歩いていったりはせず、扉のすぐ目の前でウラートを待っているのは間違いない。
「やぁれやれ。ウラートが帰ってきた途端に我が侭の虫が騒ぎ出したようだな。まったく、我が侭を言う顔つきはミリアにそっくりだ。……で、ウラート。報告書の内容以上に重要なことでも起こったのか?」
「いえ、砦でちょっとした話を聞きまして。……リュ・リーンがオフィディア伯サイモス卿の異母弟ランカーンとつき合いがあると」
 ウラートの潜めた声にシャッド・リーンが片方の眉をつり上げた。苛立っているという表情ではない。この国王は明らかに面白がっていた。
「ほほぅ。あいつもいっぱしにランカーンを顎で使うようになったか」
「笑い事ではありません。リュ・リーンがオフィディア家の当主をすげ替えようとしていると噂にでもなったらどうなさるのです。ギイ伯との均衡を取るためにオフィディア伯を重用しているというのに、跡継ぎの王子が現当主を軽視しているなどと誤解されては、最悪の場合サイモス卿がギイ家と手を組みますよ」
 潜めてはいるが、ウラートの声は鋭かった。扉の向こう側にいるであろうリュ・リーンを気遣って大声を出さないが、自分の主人を守るためなら、その主人の父親であろうと容赦しないつもりのようだ。
「おぉ、怖い! ウラートの綺麗な顔で凄まれると、リュ・リーンの癇癪など子供だましだな」
「陛下! 遊んでいる場合ではありません!」
「判った、判った。そう怒るな。……まぁ、大丈夫だよ。サイモスは小心者だ。そしてオフィディア家の人間にしては、欲が少ないときている。もしも異母弟のランカーンが本気で当主の座が欲しいと言えば、あいつはアッサリと譲るだろうよ。妻の地位を守ってやる必要もなくなったことだしな」
 頬杖をつき、睨みつけてくるウラートの藍色の瞳を見上げると、シャッド・リーンはいたずらっ子のような笑い声をあげた。相手の毒気を抜く、いかにも無邪気な笑いだ。
「ウラート。リュ・リーンもバカじゃない。ランカーンの奴を振り回し、引っかき回している最中だ。あれの目に適うような人材かどうか、お前も見極めておけ。……先ほどリュ・リーンが王子付き近衛に増員を要求してきた。どうも、ランカーンが絡んでいるようだからな」
「何もかもご存知、という訳ですか……」
 ウラートがため息とともに肩の力を抜く。気負ってここまでやってきたのがバカらしい。
「なに、かしましい女官連中の噂話がこういうときは役に立つってことだ。お前だってそれはよく知っているだろう、ウラート」
「そのようですね。だからこそ、噂を侮ることはできませんよ。リュ・リーンと話をしてきます。彼が何を考えているのか聞かないことには……」
「あぁ、そうしてくれ。……頼むぞ、ウラート」
 小さく頷き、ウラートは王に背を向けた。その背に王が再び声をかける。
「選王会で貴族連中が浮き足立っている。聖地にはギイ伯シロンとオフィディア伯サイモスも行くことになる。……サイモスはともかく、シロンの動きを封じる必要があるぞ。あれは、リュ・リーンには目障りな存在だからな」
 ウラートは振り返ると、王の真似をして不敵な笑みを口元に湛えた。昔の彼ならこんな顔はしなかっただろう。ただオドオドと相手の顔色を伺うばかりで。
「もちろん、承知しておりますよ、陛下。全力で、王子殿下の行く手を遮る者を排除いたしますとも!」
 大仰なほど深々と腰を折り、ウラートが一礼する姿を、シャッド・リーンが頼もしげに見守っていた。王の口元には至極満足げな微笑みが浮かんでいる。
 無言のままの王を残し、ウラートが執務室を退出すると、すぐ目の前にしかめっ面のリュ・リーンが立っていた。それほど待たせたわけではないが、彼の眉間に刻まれた皺の深さが、端的に彼の不機嫌の度合いを示している。
「お待たせしました、殿下」
「遅い。待ちくたびれた!」
 口を尖らせるリュ・リーンに柔らかな微笑みを向け、ウラートは廊下の先を指さして王子を促した。
「参りましょう。私がいない間の色々をお聞きしたいですしね」
「お小言が言いたくてうずうずしてるだろ。そうはいかないからな。お前がいなくても、俺一人でやってきたんだぞ」
 ふてくされた口調でウラートに返事を返しながら、リュ・リーンは先に立って歩き始めた。心なしか、彼の足取りが弾むように見える。
「お一人でこなせたかどうかは、お話を伺ってから判断させてもらいましょう。……たぶん食事に関する限り、あなたは見張りがいないとメチャクチャですからね」
 背後のウラートの嫌味に、リュ・リーンが渋面を作って舌を出した。
 後ろにいるウラートにその様子が判るはずもない。が、彼は微かな笑みを口元に浮かべ、まだリュ・リーンより精神的に優位にいる自分を確認して満足しているようだった。




 フードを目深に被った男を振り返り、ウラートは眉間の皺を深くする。聖地へと向かう王子の行列のなかに紛れるこの男のことが、ウラートにはよく判らなかった。
 名をシーディ。オフィディア伯サイモスの異母弟ランカーンがゼビ王国より連れ帰った流浪の剣士だと言う。
 瞳の色以外、外見的な特徴はリュ・リーンに瓜二つの男を初めて目にしたときは、さすがのウラートも眼を丸くしたが、見馴れてみると、当たり前のことではあるが雰囲気はまったく別人のものである。
「それにしても……」
 ウラートは知らず知らずの間に小さな呟きを漏らし、それに気づくと慌てて前方の山脈を見上げ、それからすぐ前を往く年下の主人の背を睨みつけた。
 王都(ルメール)に戻ってすぐにリュ・リーンから聞かされたランカーンとのやり取りに、ウラートは少なからず腹を立てたのだが、それ以上に目の前の男を召し抱えたリュ・リーンの酔狂に呆れ返っていた。
 自身の影武者にするでもなく、ただ単に近衛兵にするだけのために召し抱えたと聞いたときには、リュ・リーンの頭がおかしくなったのではないかと思ったほどだ。
 それでもガミガミと説教をするでもなく、リュ・リーンの思うがままにやらせているのは、私生活以外のことでは、リュ・リーンは正しいと思ったことを絶対に撤回したりしないからだ。
 だからと言って、周囲の者の言葉に耳を貸さないわけではなく、間違いがあればそれを訂正する器量も持っている。いつも態度が素っ気ないために、彼が間違いを訂正しているのだと周囲の者が気づかないだけで。
 結局のところウラート自身がやることと言えば、リュ・リーンがより動きやすいように、周囲の者たちとの橋渡しをすることに終始していると言ってもいいだろう。円滑に人を動かせるというのは、組織の頂点に立つ者にとっては何よりも重要なことであるのだが。
「仕方ありませんね。彼の人となりを探っておきましょうか……」
 気乗りしないことであったが、ウラートは自分の役割を思い出したように馬の歩みを緩め、後ろに従っている男の馬と愛馬を並ばせた。
「何か用か?」
 シーディという男は人嫌いというわけではないようだった。その証拠に、こちらから話しかける前に彼のほうから声をかけてくる。もっとも、言葉少なではあるが。
聖地(アジェン)でのしきたりを憶えましたか?」
 これから向かう先は、トゥナの王宮以上に陰険な連中が集まっている場所だ。隣りを歩む男は王子と似ているだけに、何かと注目されるだろう。些細なことで揚げ足を取られるのはごめんだった。
「付け焼き刃ながら、一応は。だが、実際の場面で役に立つかどうかは判らんな。あの王子様と違って、オレは育ちの良くない人間なんでな」
「それでけっこうですよ。完璧など、王子も求めてはいないでしょう」
「どうだか。あんたが王都に戻ってくるまでの間のリュ・リーン王子の態度を知ってるか? オレをボロカスにこき下ろして、使えない奴だと嘲りやがったんだぞ」
 フードの下から覗いているシーディの口元が、腹立たしそうに噛み締められた。自嘲を僅かも含まない憤りに、ウラートは口元をほころばせる。彼の負けん気の強さはリュ・リーンにひけを取らないようだ。
「本当に使えないと思ったのなら、当の昔にお払い箱にしていますよ。王子はそりの合わない人間を手元に置くお方ではありません」
「王子とのつき合いの長さの最長記録を更新しているあんたに言われると、むかついてくるな。捨てられるほうが悪いような言い方だ」
「私は嘘を言っているわけではありませんからね。腹が立つのはそちらの勝手です」
「あんただってオレと大差ないくせに」
 苛立ったシーディの言葉の意味するところを理解して、ウラートは目を細めた。女性的ともいえる彼の柔和な顔立ちが、一瞬にして仮面のように固まる。
性奴(スィーヴ)上がりが王子の養育係をやってるんだ。あの王子様の変わり者ぶりはあんたのせいだろ? どんな手管を使ってたらし込んだんだか、是非ともご教示願いたいね」
「……それを本気で望んでいるのなら、お教えしますよ」
 ウラートの静かすぎる声に、シーディが言葉を詰まらせた。フードの下から覗く彼の灰色の瞳が、気味悪そうにウラートの横顔を見つめる。
「なんで怒らない?」
「ばかばかしすぎて怒る気にもなりません。その程度の挑発に乗っていては、王子の近衛などできませんよ? あのお方は人使いが荒いですからね。覚悟しておきなさい」
 冷たくそれだけを言い渡すと、ウラートは愛馬の脇腹を蹴ってシーディから離れた。
 内心の煮えくり返るような怒りを抑え込むのに苦労する。貴族連中にいつも言われていることだと自身に言い聞かせても、沸騰する怒りに馴れるわけではないのだ。
 なぜリュ・リーンはこんな不愉快な輩を手元に置こうとするのだろうか。別にシーディなどいなくても、彼は充分に王太子としてやっていけるはずなのに。居なくても良い人材など無益なだけではないか。
 表面上は無表情であったが、ウラートは前方の王子の背を射抜くほど鋭い視線で睨んだ。胸の奥に沸き上がってくる苦みが、ひどく息苦しい。
 この想いは、自分がいない間に見知らぬ男を側に置いたリュ・リーンと、似ているというだけで王子の側にいるシーディに対しての嫉妬だろうか? それとも自分の居場所がほんの少し狭くなったことに対する不安なのか?
 ウラートの視線の先では、王子の羽織る新調されたばかりのマントが、縫い取られた金糸を鈍く輝かせて揺れていた。複雑に絡み合う蔓草紋様と鎖紋様のなかに、トゥナ王家の紋章が浮き上がっている。
 見慣れた意匠だった。国王シャッド・リーンも同じ紋章の、さらに派手なマントを羽織っている。王家の直系にのみ使用が許される紋章を、ウラートは複雑な想いで見つめていた。
「ウラート。ちょっとこい」
 ふいにリュ・リーンに呼びかけられ、ウラートは動揺した。一瞬だけ目を伏せたが、すぐに気を取り直すと、巧みに馬を操って前方へと駆けていく。
「御前に、殿下」
 心のなかの動揺を表面に表すことなく、ウラートは主人と馬首を並べた。彼の夜明け寸前の空の色をした瞳が、王子の青白い横顔に浮かんでいる苦笑を見つけて尖った。
「何を面白がっているんですか、リュ・リーン」
「お前、俺を睨み殺すつもりなのか? 先ほどから背中が痛くて仕方がないぞ」
「おや。自覚があったのですか? それは残念ですね。判っていらっしゃったのなら、もっとおおっぴらにやればよかった」
 ウラートの嫌味にリュ・リーンがさらに苦笑を浮かべ、チラと肩越しに背後の隊列を見遣った。蟻のように長く続く列のなかにシーディの姿を見つけると、彼の口元が不機嫌そうに歪んでいることをしっかりと確認する。
「シーディとやり合ったか? お前にしては珍しく、本気で怒っているようだな。何を言われたか知らないが、聖地では機嫌を治してくれよ。お前の調子が悪いと、俺の仕事が一つも片づかないからな」
「あんな俗っぽい男など召し抱える必要があったんですか? 不愉快です。傭兵上がりのくせに、身の程を知らないとは」
「ウラート。お前らしくない言い方だぞ。俺が愚痴を聞かされて喜ぶとでも思っているのか?」
 冷徹な声音のリュ・リーンをウラートは剣呑な視線で睨んだが、すぐに瞳を伏せてため息をついた。
「すみません。頭に血が昇っているようです。自分の隊列に戻ってもよろしいでしょうか?」
「あぁ。聖地に到着したら忙しくなる。……頼むぞ」
 ウラートは王子に小さく頷き、馬首をめぐらせて自分の隊列へと戻っていった。胸中に渦巻いていた苛立ちが、リュ・リーンと話をしたことで少し落ち着いてきたようだ。
「他愛のない話をしただけで機嫌が治るとは……。まるで女のようですね」
 誰にも聞き取れない呟きを舌の上で転がすと、ウラートは自嘲に口元を歪めて嗤った。




 気分は最悪だった。ウラートは努めて顔には出さないようにしていたが、たぶんリュ・リーンには気づかれているだろう。
 聖地(アジェン)に入城してすぐ、リュ・リーンはシーディにフードを取るよう命じていた。それでなくても今回のリュ・リーンは周囲から注目を集めるだろうに、そこに余計な話の尾ひれがつくような話題を提供することもあるまいに。
 王宮の棟を繋ぐ回廊を足早に歩きながら、ウラートは忌々しげに舌打ちを繰り返した。今回のリュ・リーンの酔狂が理解できない。王都(ルメール)で詮索したときもはぐらかされたが、ここへ来る道中でも彼の真意を図ることができないままだった。
 ふと回廊の途中で足を止めると、ウラートは視界の隅に映った人影を透かし見る。この不愉快の原因である傭兵上がりの男が、ムスッとした顔つきで回廊の端から階下の様子を眺めている姿があった。
 何をしているのだろうかと微かな好奇心が頭をもたげたが、関わり合いになるのも腹立たしく、ウラートはそのまま行き過ぎようと背を向けかける。が、それよりも早く、相手のシーディが仏頂面のままこちらに向かって歩いてきた。
 前方に立っているウラートに気づいたようだが、ウラートに負けず劣らず不機嫌になっているらしい彼は、ウラートを無視するという選択肢も思いつかない様子で近づいてくる。
「おい! 何か仕事はないか? このままじゃ、オレの気が狂う」
「来てすぐだというのに、もう聖地の障気に当てられたんですか? そんな柔なことじゃ、近衛侍従としてやっていけませんよ」
「侍従? 近衛兵にはなったが、侍従になった憶えはないぞ! 冗談じゃない。オレにあの王子の夜伽でもしろと言うつもりじゃないだろうな」
「あなたの顔では絶対に無理です。安心しなさい。少しは落ち着いたらどうですか。キャンキャンと周囲に当たり散らされるのは迷惑ですよ」
「だったら、何も考えずにできる仕事をよこせ! 何もせずにボゥッとしていると、身体が腐っていきそうだ」
 苛立ちを隠さないシーディの態度は、数年前までのリュ・リーンによく似ていた。ピリピリと張りつめ、少しのことですぐに噛みついてくる。懐かしい感覚にウラートは渋面を作った。
「馬の世話でもしてきたらどうです? どうせ殿下の身のまわりの世話などやる気にならないでしょうし」
「とっくに追い出されたよ。この面でウロウロされると心臓に悪いんだとさ!」
「あぁ、そうですか。では厨房で酒でももらって飲んでいたら?」
「お前、オレが他に何もできないと思っているだろう?」
 こめかみに青筋を立てたシーディを、ウラートは冷たく一瞥したが、すぐに顔を背けて歩き始めた。彼につき合っている暇などない。仕事は自分から探せばいくらでもあるのだ。それくらい自力でなんとかしてもらわなくては。
「ちょっと待て! オレを無視するな!」
 噛みついてくる相手にまともに対応していたのでは、時間はいくらあっても足りない。さっさと無視して自分の持ち場に戻ったほうが賢明というものだ。
 しかし、ウラートの後ろにはシーディがぴったりと張りついている。がなり立てるシーディと素っ気ない態度のウラートの二人連れが廊下を行き過ぎると、行き会った他の従者たちは呆気にとられて彼らの背中を見送ることになった。
 さしものウラートも、いっこうに離れようとしないシーディに業を煮やし、険悪な顔つきで振り返って相手の灰色の瞳を覗き込んだ。
「少しは自分で考えたらどうなんですか? あなたは誰かから命じられないと、何もできないんですか!?」
「お前だってやろうとすること全部、そんなことしてもらわなくてもいいと言われてみろ。少しはオレの気持ちが判るだろうよ!」
「そこで大人しく引き下がらなければいいでしょうに!」
「オレが近寄るたびに怯えられてみろ。気が滅入って仕方がない!」
 吼え立てるシーディの遙か後方に、二人の成り行きを見守っている同僚たちの姿が見える。たぶん、自分の背後にも同じように人垣ができているだろう。この階どころか、他の階の人間まで覗きに来ているに違いない。
「だったら、あなたと同じ顔をした人に文句を言いに行きなさい! 私に八つ当たりされるのは迷惑です!」
「あいつは今、女といちゃついてるところだよ!」
「誰があいつですか! ちゃんと殿下と敬称で呼びなさい!」
「自分と同じ顔をした奴に敬語なんか使えるか! 気色悪いだけだろうが!」
 周囲の人間たちはハラハラとした顔つきで見守っているばかりで、止めに入る勇気を持っている人物は一人もいない。殴り合いになりそうな二人の剣幕に恐れをなして、遠巻きに見守っているで精一杯のようだ。
 彼らの間に落雷の声が響いたのは、喧噪が頂点に達しようかというところだった。
「やかましいぃっ! 静まれっ! これ以上騒ぐつもりなら、聖地の外へ出てやってこい!」
 二人同時に声の方角に振り返って見れば、黒と銀の影が寄り添うように佇んでいる。目を怒らせているリュ・リーンと、彼の側に付き従う聖地の姫の存在に、他の従者たちは潮が引くように姿を消した。
「お二人とも元気が有り余っていらっしゃるようね。これなら、兄様のお相手に充分ですわ」
 隣りに立つリュ・リーンの顔を下から覗き込み、聖地の姫カデュ・ルーンがニッコリと微笑みを湛えた。
 それに応えて笑みを浮かべるリュ・リーンの顔つきが、今までに見たこともないくらいに甘ったるく見えるのは、ウラートの気のせいではあるまい。ウラートのすぐ脇では、シーディが胸焼けを起こしたように口元を歪めて舌を出している。
「リュ・リーン。あなたの両腕のうち片腕をお借りすることになるわ。あなたのほうは大丈夫なのかしら?」
「心配しなくていい。シーディの剣の腕前は俺には劣るが、ダイロン・ルーンの稽古相手にはちょうどいいはずだ。彼にも手加減しなくていいと伝えておいてくれないか」
「ありがとう。兄様に伝えておくわ」
「見間違えようもないが、シーディの面通しも終わったし、今日はこれで帰ったほうがいいだろう。俺が奥宮まで送っていくよ」
 カデュ・ルーンの手を取って二人から背を向けたリュ・リーンだったが、ふと振り返ると、固まっている二人に鋭い一瞥を与えた。
「ウラート。明日からカストゥール候がこちらの中庭に通われる。シーディを剣の稽古相手にさせるから、その間は他の者を庭に近づけるな。それから、シーディ。稽古の最中、候に怪我を負わせることは許さん。宿酔(ふつかよ)いなんぞで顔を出したりしたら、ただで済むとは思うなよ」
 有無を言わせぬ主人の声に、ウラートは反射的に腰を折ると了解の態度を示す。が、シーディはなんとも言いようのない複雑な表情を作って、サッサと歩み去る雇い主とその恋人の後ろ姿を見送った。
「なんなんだ、あいつは。オレを貴族の遊び相手に指名しやがったのか!?」
「本当に、なんて人でしょうね。私が王子の右腕なのは判りますが、こんな暴れん坊と一緒にされて両腕呼ばわりされるとは。甚だ不愉快です」
「おい、お前。今、さりげなくオレのことをこきおろしたな!?」
「人間、真実を告げられると腹が立つものですね」
 サラリと相手の言葉をかわすと、ウラートはサッサと持ち場に向かって歩き始めた。シーディの仕事は明日からということが判ったのだ。もう自分にまとわりつかれる理由はない。
「オレをバカにするのもたいがいにしろ!」
「暇人につき合っている時間の余裕なんかありません。遊びたければお一人でどうぞ」
「女遊びもできない辛気臭い街で何をしろと言うんだ!」
「だったら、男遊びでもしたらどうです」
 ウラートの背後からシーディの怒声が響いてきたが、彼は無視を決め込むと、自室に割り当てられた部屋に滑り込んで扉を手早く閉めてしまった。
 廊下では、まだシーディが口汚くウラートを罵っている声が響いているが、耳から入ってくる鬱陶しい音を遮断して、ウラートは自分の仕事へと戻った。
 忙しい。王子はまったくもって自分を忙しくしてくれる。
 トゥナのことだけでも慌ただしいのに、それに加えて明日からはカストゥール候ミアーハ・ルーン卿の世話まである。氷の美貌を持つ貴公子に難癖をつけられないよう、明日は完璧に出迎えねばなるまい。
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま、ウラートは明日の準備のための部下の仕事分配を決め始めた。

〔 13544文字 〕 編集

後日譚

No. 82 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第12章:密議

 冬の日差しは弱く、窓を開けても意味がない。部屋の主人は早々に戸を閉めて、暖炉の前の住人になってしまった。
 椅子に腰を降ろした彼を待ちかまえていたように、低い男の声がかけられた。
「選王会の時期をこれほど早められるとは……。何を考えておいでになるのですか」
 顎髭を撫でつけながら、年老いた男が苦々しげに口元を歪めた。厚手の羊毛と柔らかな山兎の毛で織り上げられた灰色の衣装、彼の真っ白になった髪は、それ自体が光を放っているように輝かしい。
「聖衆王の地位を降りると言っているわけではないさ。王位を譲る前に、後継者を決めて共同で統治できるようにしておく。前の聖衆王もそうだっただろう」
「しかし、共同統治の時期が長すぎますぞ。通例であればせいぜい一年ほど。今回の場合はいつもの倍の二年に及びます。周辺の諸侯どころか、聖衆(アジェス)の間にも混乱を招きかねません」
「そこを上手く取り持ってもらいたいと言っているのだ。ウード枢機卿、議院はそのためにも存在しているはずだが?」
 暖炉の赤い炎をじっと見つめたまま、王と呼ばれた男は口元に蓄えた髭を撫でつけて笑った。悪戯を仕掛けてくるような笑みに、ウードと呼ばれた老人はいっそう口元と眉をしかめる。
「あなたの元で議長をやっていると、心労で倒れそうな気がしますな。この老いぼれを酷使して楽しゅうございますか?」
「貴卿にやれないはずはない。できねば王議会の選王侯を束ねている意味がないぞ。……トゥナが国力を上げてきている。さらに力をつける前に次の聖衆王を選ぶのだ。あれが圧倒的な力をつけた後に聖地の長が決まったのでは、こちらが喰われてしまう」
 聖衆王の口元には笑みが浮かび続けていたが、その瞳は鋭さを増していた。冷徹とも取れる視線の切っ先は、目の前の老人ではなく、遙か彼方を見つめているようだ。
「さようでございますな。夏のリーニスでの勝ち戦以来、日増しにトゥナの親王派の力が強くなっていると報告を受けています。しかし、新たな聖衆王が決まれば、この聖地(アジェン)とて新旧の勢力で割れるやもしれません」
「選王会の時期はいつでも起こっていることだ。上手く御せぬようでは新たな王など務まらぬ。今回の新しい聖衆王を作り出す作業は、我ら王議会でも一年では無理だと判断したのだ。当初の予定より早めて選王会を行う」
「御意」
 枢機卿ウードが微かに頷いた。それだけの仕草だったが、王は満足したように視線を一瞬だけ伏せ、再び瞼を上げた。今度は表情から笑みは消えている。
「そうなりますと、冬いっぱいを準備に費やし、選王会は春ということに。例年ですとトゥナとカヂャが戦を始める頃合いかと思いますが……」
 王の表情はどこまでも相手から本心を隠しているような、つかみ所がないものだった。相手も心得たものなのか、別段気にした様子もない。
「春からの戦は始まるまい。聖衆王の選王会が始まるのだ。各国の王や特使たちが神降ろし(エンダル)を通ってやってくるだろう。カヂャにとっては夏に受けた痛手を癒す格好の年となろうがな」
「カヂャにも恩を売られますか。トゥナのシャッド候もその辺りを予測しておるでしょうな」
 ウードの瞳が子どものようにキラキラと輝き始めた。どうやら身内の調整をするよりも、対外的なことで思考を巡らせるほうが好きな人物らしい。まるでチェスの試合を楽しんでいるような口振りだった。
 ウードの様子に聖衆王がほんの一瞬だけ苦笑いを向ける。
「あれが脳天気にしているとも思えない。カヂャが兵力を蓄える以上に、リーニス地方の軍備を増強するだろうな。……あるいは、トゥナの宮廷に蔓延る寄生虫どもを今度こそ根絶やしにするか」
「それはいささか難しいかと。トゥナ貴族たちはミッヅェルやゼビと婚姻関係にある者も多いのです。下手に彼らに手出しをしては北方同盟にヒビが入りますからな」
 ウードの答えに王は小さく頷いた。しかし、口をついて出たのは彼の同調する言葉ではない。
「だが建国以来の懸案であるワーザスとリーニスとの力関係が崩れ始めている。現在、副都(ウレア)にいる副王の権力は脆弱だからな。ここ数年のうちに完全にワーザスに取り込まれ、名実ともにリーニス領はトゥナ国領となるだろう。そうなれば、トゥナ候の地位は盤石だ」
 王の横顔を揺らす暖炉の炎が不規則に身体を揺り動かして、王の顔に炎の影を刻みつけていた。その赤い影をウードがじっと見つめる。
「これまでもリーニスの副王などに権力はありませんでした。名ばかりの地位にございましょう」
「そうだ。名ばかりの地位だった。しかし、その名ばかりの地位と統治の権力を、あの副王は自らワーザスからやってきた若造にくれてやったのだ。今回は黒太子が統治権を返上したから良いようなものだが、あれが王となった暁には、副王の統治権などあるまいよ」
 王の重い声に耐えかねたように、暖炉のなかで薪が燃え崩れ、ザラザラとかすれた音を立てた。それは二人の会話のなかに出てきたリーニスという地方が、トゥナ王朝の力の前に屈している様子を象徴しているように見える。
「……トゥナは勝ちすぎましたな」
「そうだ。勝ちすぎだ。国同士の均衡が崩れるほどに……。ところが、その勢いを遮るだけの力を今は誰も持っていない。御す者がいるとしたら、その手綱の元を握っているはこの聖地の長でなければなるまい?」
 聖衆王の言葉を肯定して、枢機卿は深く頷き返した。細められた眼の奥では、計算高い瞳が鋭い光を放っている。
「まこと、その通りで。御身の娘御と黒太子との婚儀は、暴れ馬に轡を噛ませるには丁度良い時期だというわけですな」
「さて? どうだろうな。果たして大人しくなるかどうか」
 クスクスと聖衆王が笑い声をあげた。面白がっている様子の王に、ウードも同調するように笑う。
「何を仰せです。陛下の娘御に黒い魔神は首っ丈だともっぱらの噂ですぞ。トゥナ中の女たちが、今頃は胸を掻きむしって悔しがっておりましょう」
「その噂が本当であれば、父親としては娘を取られても溜飲が下がるというものだがな。……では、ウード卿。聖地内にて触れを出し、すぐに諸国にも使者を出してもらえるか? 奴らの泡を食った様子を見るのが楽しみなのでな」
「心得ましてございます。トゥナに集まっている注目、そろそろ我が聖地(アジェン)へと取り戻さねばなりますまいて」
 悠然と立ち上がり、衣擦れの音も静かに頭を下げると、ウード枢機卿は聖地の支配者の部屋から退出していった。
 それを見送る王の顔には、表情らしい表情は浮かんでいない。淡々とした彼の態度から、今までの会話の本心がどこにあるのかを知ることは不可能であろう。銀髪の下の瞳は森の奥深くにある泉のように静かだった。
 トゥナ王国がリーニスの朱の血戦で大勝した翌年、聖暦九九七年の年明けは、この通達により周辺の諸侯たちの間に、新たな緊迫を張り巡らせた。もっとも、それは周辺諸国のみならず聖地の内部をも揺り動かしたのであるが。
 本来は厳冬期の静かなこの時期、聖地からの通達はその寂水の水面(みなも)をざわめかせるに充分すぎるものであったのだ。




 執務室に金と黒の二つの影がいた。黒い影のほうが小柄であったが、それでもどちらの影も平均身長はあるはずだ。
「副王はぁ~、お前の代にはなぁ~、廃止だろぉ? リーニスを併呑してぇ~、二百年だからなぁ。よい頃合いであろうぅ~」
 のほほ~んと間延びした声が金色の影から漏れる。首を傾げて黒い影を見遣る瞳は、晴天の下に広がる海洋のような蒼色だった。
「朱の血戦での人選は、今回への布石だったんだな。まったく喰えない国王だ。副王の一族が地団駄を踏んでいる様子が思い浮かぶよ」
 黒い影が小さく嘆息した。しかし、会話のなかの人物に同情しているというわけではなさそうだ。口元に浮かんでいる微かな笑みは、さも気味がいいと言っているように見える。
「ところで、いい加減にその神経に障るしゃべり方、やめてくれないか」
「うっふふ~。お前もマシャノと同じことを言うなぁ」
「それで直したつもりなのか?」
 黒い影の発する声が明らかに低くなった。忍耐の限界を超えそうなのか、秀でた白い眉間によった皺が深い。
「ちゃ~んと聞き取れるだろぉ? 父はこういうしゃべり方なのだぁ~」
「嘘つけ! 俺が子どもの頃はまともにしゃべっていたじゃないか! イライラするからやめてくれ! 俺の神経を逆なでして、そんなに楽しいのか!?」
「ん~。リュ・リーンと話をすると楽しいなぁ~」
 勢いよく立ち上がると、リュ・リーンは剣呑な瞳を父親に向けた。ほの暗い緑の瞳は、こういうとき凄まじいほどの殺気を放つ。見慣れていない者なら、とうに失神しているだろう。
「ほらほら~。そんな怖い顔をするなぁ。せっかくの美男子が台無しじゃないかぁ~」
「俺は顔の善し悪しなんか気にしてない! もう我慢ならん。そのしゃべり方を続けるなら、俺は自室に帰る!」
 足音も荒々しくリュ・リーンは執務室の扉へと歩き出した。背後の父親のほうを一度も振り返らない。
「あぁ……。ミリア・リーン……。一人息子が余を見捨てていくぞぉ~。寂しいなぁ……。いっそ、お前のところに逝こうかなぁ~」
 扉に手をかけていたリュ・リーンの背中が凍りついた。背後から聞こえる涙声に恐る恐る振り返ってみると、父親が椅子の背もたれにしがみついて、こちらをじっと見つめているではないか。
「別に見捨ててないぞ。そのしゃべり方さえどうにかしてくれたら……」
「ミリア・リーン~。息子が余を苛めるぞぉ。小さい頃はあんなに素直で可愛かったのになぁ。大人になって嫁をもらうとなったら、親は用済みなのかぁ~……」
「用済みだなんて一言だって言ってないだろうが。何を一人でひがんでいるんだ、このクソ親父!」
「やっぱり苛めるんだぁ~。父親って損だよなぁ」
 しみじみとした口調で肩を落とすと、トゥナ王は椅子の背もたれからズルズルと滑り落ち、リュ・リーンの視界から消えた。大きな体で椅子の座面に丸まっているらしい。
「判ったよ。判ったから、その態度はやめてくれ。話を聞くから拗ねるなよ。いい大人がみっともないと思わないのか?」
 リュ・リーンはこめかみを指先でグリグリと押し、大きなため息をついた。
 どうしてか、母親の話題が振られると抵抗できなくなる。家臣たちはリュ・リーンの短気を怖れて口にしないが、この父親は平然と亡くなった王妃を持ち出してはリュ・リーンにかまいたがる。
 ひょっこり首を伸ばしてこちらを見る父親の蒼い瞳が笑っていた。涙声などどれだけでも作れるし、この喰えない父親が本気で人前で泣くはずなどないと判っていても、リュ・リーンはどうしてか父の拗ねた態度には逆らい難かった。
 手招きされ、リュ・リーンは大人しくそれに従うと、父親の隣りに腰を降ろした。まだ父親の体格のほうが大きかったが、以前の見上げるような身長差ではなくなっている。そのことが、リュ・リーンには新鮮に感じられた。
「リュ・リーン~。聖地(アジェン)で選王会が開催されるのは聞いているなぁ?」
「あぁ。予定よりも早い。聖地はこのトゥナがよほど怖いのか? 新しい聖衆王をサッサと決めて、その教育にかかりたいらしい……」
 父親がよく使っている香料がリュ・リーンの鼻腔をくすぐった。顔をあげてみると、目の前に父親の顔がある。
「な、なにをしてるんだ?」
「ん~。リュ・リーンは~、目元以外はミリア・リーンに似てるなぁ~っと」
「あぁ、そう……。ちょっと待て。なにをしてるんだ、親父!?」
 トゥナ王はリュ・リーンを抱き寄せると、くんくんと鼻を蠢かせて王子の黒髪の匂いを嗅いだ。
「う~ん。やっぱり匂いはミリア・リーンと違うか~」
「当たり前だ! 母上は花の香料を使われていただろうが! 俺の使っているものは香木だ!」
「チェッ。同じだったら良かったのに~。あぁ、そうそう~。それでなぁ、選王会はお前が顔を出せよ~。余はやることがたくさんあるからなぁ」
 リュ・リーンを抱き寄せたまま、トゥナ王は息子の黒髪に頬ずりした。まるで幼子を可愛がっているような仕草に、リュ・リーンのほうが赤面する。
「やめろ! 気色悪い!」
「気色悪くない~。ん~、やっぱり息子はいいなぁ。娘じゃぁ、こんなことしていたら、婿どもに何を言われるか判らんしなぁ~」
「俺にだってカデュ・ルーンがいる! 離れろ、バカ!」
「そうそう~。そのカデュ・ルーン姫に会えるんだからぁ~。ちゃ~んと良いことしてもらってこいよぉ~」
 首筋まで真っ赤になると、リュ・リーンは腕を振り回して父親の腕のなかから逃げ出した。肩で荒い息をしながら、黒髪の王子は握り拳を震わせている。
「ど、どど……どうしてそういう話になるんだ!? 俺と彼女はまだ結婚してないと、前から言っているだろうが!」
「放っておいたら他の男に盗られるぞぉ~? 選王会って言ったら、各国の男どもがウジャウジャ来るんだからなぁ~。知らないぞ~。彼女が他の男に寝取られてもぉ」
 父親の言っていることは判るが、あまりに直接的な言い方にリュ・リーンはさらに顔を赤くした。
「バカなことを言うな! 聖地(アジェン)内で、聖衆王の娘に手を出す奴がどこにいる!?」
「ここにいる」
 ゆったりと指先をリュ・リーンに向けて、トゥナ王はニヤリと笑う。悪戯を成功させたときの子どもの表情だ。言葉に詰まって立ち尽くすリュ・リーンをたたみ込むように、王はケラケラと軽い笑い声をあげた。
「寝てなくてもぉ、口づけはしただろう~? 下士官どもの間ではぁ、派手な噂になってるそうだぞぉ~。“神降ろし(エンダル)”の地での誓約の口づけは衆目の知るところだからなぁ」
 これ以上は赤くなれないだろうと言うほど顔を染めると、リュ・リーンは動揺に揺れる視線を彷徨わせる。
 下士官たちに見られたのは知っていたが、軍隊どころか父親の耳にまで届くほどの噂になっていようとは思ってもいなかった。こんなに噂になることが判っていたら、絶対にあのとき彼女を抱きしめたりしなかっただろうに。
「だからなぁ~。早いところ孫の顔を見せてくれ~。隠居した父親への孝徳だと思ってなぁ」
「……隠居? どういう意味だ?」
 リュ・リーンは父王の言葉に我に返った。対するトゥナ王は口元に笑みを浮かべたままである。
「まさか、カデュ・ルーンとの婚儀と同時に譲位するなんて言わないよな?」
「それも考えたんだがなぁ~。少々早いんだなぁ。宮廷の害虫どもをもう少し減らしておかんとぉ~、お前の負担が増えるばっかりでなぁ」
 椅子にもたれかかり、頭の後ろで腕を組むと、トゥナ王は面倒くさそうに唇を尖らせた。こういう仕草をすると、さらに子どもっぽく見えるのだが、当の本人はいっこうに気にしていないようだ。
「俺では力不足だと言いたいわけか?」
「そうじゃなくてぇ~。お前の対立勢力を増やす必要もないだろう~。……お前、魔導(インチャント)を学んでいるんだろうぅ?」
 ギクリとリュ・リーンの身体が強ばった。父親にも内緒にしていたのだが、ばれているらしい。この分だと、他の貴族連中にも知られている可能性が高いと見るべきだろう。
「神殿の神官どものなかにもなぁ、お前のことを良く思っていない輩はいるんだよなぁ。貴族の息のかかった連中なんか特になぁ~」
「だからって親父が手を下すこともない。俺が相手をすればいいことだ」
 憮然とした表情でリュ・リーンが父親の言葉を遮った。どうも未だに過保護に扱われているような気がしてならない。いい加減に大人扱いしてくれてもいいようなものだ。
「お前はぁ、神殿の奴らには手を出すな~。あいつらは余が相手だなぁ。お前は貴族たちをどうにかすることを考えろ~。……カデュ・ルーン姫のことはぁ、嗅ぎ回られたくないからなぁ」
「判ってる。だから魔導(インチャント)を身につけようとしているんだから。彼女に手出しする奴らは、ただでは済まさない」
 息子の顔つきを頼もしそうに見つめ、頭の後ろで腕を組んだトゥナ王は、楽しそうに笑い声をあげた。
「手始めにぃ、お前は選王会で他の国の王たちを掻き回す~。その間に余が神殿のなかを粛正ぇ。その後にカデュ・ルーン姫を迎えることになるなぁ。貴族連中はぁ~……う~む。ちと厄介だなぁ」
「俺の即位のときには跪かせてやるさ。あいつらの主が、遠い血筋にあたる異国の王ではなく目の前に立つ者だと……。厭と言うほど思い知らせてやるさ」
 息子の潜められた声にトゥナ王は眼を細め、喉の奥で笑う。リュ・リーンの耳には、その笑い声が先ほどの笑い声よりも残酷で力強く聞こえた。
 やはりまだ父親には敵いそうもない。いつか追いつき、追い越すにしても、その時期は今ではないようだった。




 開け放った窓から差し込んでくる日差しはまだ弱々しかったが、確実に時が経ち、春が近づきつつあることを伝える温みを含んでいた。
「リュ・リーン殿下。例の……あの男が参っておりますが」
 ネイ・ヴィーが足音もけたたましく駆け込んでくる。彼が飛び込んでくる前から、リュ・リーンは彼が部屋へとやってくる気配を感じていた。
「騒々しい奴だな。シーディがきたのだろう。ランカーンも一緒か?」
「は、はい。仕上がりをご覧にいれたいそうですが」
「判った。通せ。そろそろ来る頃だろうとは思っていた」
 窓辺の卓上に足を投げ出していたリュ・リーンがゆったりと身を起こす。だらしないはずの姿だが、彼がやるとそれだけで一枚の絵のようによく似合うから不思議だ。
 再びバタバタと廊下を駆け戻っていくネイ・ヴィーの足音を聞きながら、リュ・リーンは唇に笑みを乗せた。酷薄なその笑いは、彼の姿を魔王そのものに変える。陽光の下にあってもなお暗い翠の瞳が、不気味な輝きを帯びていた。
「さて。どう使ってやるかな」
 一人ごちるリュ・リーンが自分の懐に手を入れて何かを引っぱり出した。握り込んだ掌を開くと、そこには血を溶かし込み、紅玉(ルビー)のように輝く石が乗っている。
「影と成せば恐怖を呼び、対となせば毒を吐く……か。俺にとっては、去年の夏同様の避けては通れぬ障壁だな」
 ふわりと腕を動かして目線の高さまで石を持ち上げると、リュ・リーンは口のなかで低く何事かと呟いた。と、見る間に石の表面が光り、ドクリと蠕動を始める。
 リュ・リーンは石がドクドクと脈打つ様子をしばし眺め、ふと我に返ったように、今度はそっと息吹を石へと吹き込んだ。途端に石の表面に炎の波紋が広がった。炎の波は王子の白い頬にも同じ波紋を映し出す。
「外の様子を見せよ」
 リュ・リーンは当たり前のような顔をして石に向かって呟く。持ち主の声を理解しているのか、脈動する石が身をくねらせて表面の透明度を上げた。血色の輝きのなかに、何やら蠢く影がある。
「ふん。少しはマシな歩き方ができるようになったらしいな」
 石の内部を覗き込んで、リュ・リーンは楽しげに囁いた。見れば、蠢く影は数人の人影となって石の奥に映し出されている。この赤い石は魔導(インチャント)に使われる道具のようだ。
 再びリュ・リーンはか細い息吹を石へと吹きかけた。また表面に炎の揺らめきが蠢き回り、内部に映し出されていた人影も消える。
 王太子は何事もなかったように石を握りしめると、それを無造作に懐へと押し込んだ。酷薄な笑みが消えた彼の表情は、仮面のように無機質なものだ。
 立ち上がった王子は、陽光につられるように窓辺に寄った。冬の終わり、春の到来を告げる薫風はまだ吹いてこない。しかし、その時は確実に近づいてきていた。
 眼下に遠く流れる大河を静かに見下ろし、リュ・リーンは大河の源に佇む王城の鋭き尖塔に思いを馳せた。
「もうすぐ選王会が始まる。ダイロン・ルーン、お前は大丈夫なのか? いかに聖衆王の甥であろうと、お前は選王会での地盤は他の貴族どもの子弟より弱いはずだ……。勝ち残るのは容易いことではないぞ」
 廊下を歩いて近づいてくる者たちより、遙か東の山脈の麓にある聖地(アジェン)へと、リュ・リーンの思いは飛んでいた。身体は王都(ルメール)に縛られていても、心だけは天を駆け、銀色に輝く聖なる王宮に降り立っているようだった。




 黒塗りの馬車がこじんまりとした屋敷へ入っていった。馬止せでその動きを止めると、御者が飛び降りて扉を開ける。
 人影が二つ滑り降りてきた。一人は馬車に乗っていたときから苛立った声をひっきりなしに呟いていたらしく、降りてからも地面を蹴り飛ばし、あちこちに八つ当たりを繰り返している。
「なんなんだよ、あいつは! 俺をなんだと思ってやがる」
「落ち着け、シーディ。殿下の近衛になるということは、ちょっとやそっとの腕前では無理なことだ。お前は物覚えが良いほうだが、やはりまだ殿下のお気に召すだけの教養を身につけてはいないということだ」
 唸り声をあげる若者をランカーンがたしなめる。が、振り返った若者の灰色の瞳は、激昂を抑えるのに精一杯で、ランカーンの言葉の半分も納得して聞いてはいまい。
「俺は貴族のオモチャか? 毎日、毎日、机にかじりついてワケの判らん神話だの伝説だのを憶えて、身体中に痣ができるほど剣の稽古をさせられる。ほとほとうんざりしてきた!」
「そのうんざりするようなことを、あの王子は十七年間やってきているのだがね、シーディ?」
 二人の言い合いの後ろでは、御者がしずしずと馬車を移動させていく。馬たちまでもが、二人の言い争いに巻き込まれることを避けているように見えた。
「十七年! あぁ、考えただけでうんざりする。俺にもこれからずっとそうやっていけってわけか!?」
 うろうろと地面の上を歩き回る若者に近寄ると、ランカーンは若者の肩を軽く叩いた。
「お前は憶えが早い、と言っているだろう。おおよその下地ができれば、ことは息をするのよりも簡単さ。忘れるな。王子に近づけば近づくほど、お前は英雄になれるのだぞ。……王子に取って代われるほどにな」
「王子なんて堅っ苦しいもの、誰がなりたいものか! 俺は暴れ回るための戦場と、飢えなくてすむ食べ物が欲しかっただけだ」
 ランカーンの不吉この上ない言葉にも、若者は渋面を崩さない。苛立ったままランカーンの腕を振り解くと、サッサと建物のなかへと歩み入っていく。
 彼の強ばった背中を見送りながら、ランカーンは苦り切ったため息をついた。
「やれやれ。ウラート卿の苦労が判る気がする。十年以上もあの王子につき合っているというだけで、称賛に値するな」
 軽く首を振ると、ランカーンはゆったりとした足取りで屋敷のなかへと入っていく。
 その彼を招き寄せるように、奥からはシーディの叫び声が聞こえてきていた。空腹を訴えているようだ。怒りを鎮めるために酒や食事が必要なのだろう。ランカーンは苦笑いを浮かべると、待ちかまえていた従者に食事の用意を指示した。
「殿下の我が侭は噂に違わぬ。あいつの我が侭など可愛いものなのだろうな」
 一人呟きながらランカーンは食堂へと向かった。シーディの躾は終わっていない。彼が食事をする間も、あれやこれやと注意をせねばならないだろう。食事くらいゆっくり喰わせろと若者は怒鳴り散らすだろうが、ランカーンとしてはそうも言ってはいられない。
 今日の王子への拝謁でも、彼は不合格のままだった。王太子の近衛とするには役不足だと烙印を押され、シーディは憤懣やるかたない様子だ。いったいいつまでこんな茶番を続けるのか、と。
「茶番でなど終わらせるものか。是が非でもシーディを王子の近衛にする。王子の側に私の息がかかった者を……。オフィディアの当主の座を射止めるには、あの王子の心を手に入れねば」
 ランカーンの囁き声は空気に霧散し、聞き取れるほどの大きさはない。だが彼の表情には微かな野心が覗き、言葉よりも雄弁に彼の内心を物語っていた。




 聖地からの噂は大地を駆け抜け、リーニスの砦にも届いていた。まるで季節の変わり目に吹く風のように一気に駆け抜けた報は、当然のごとくウラートの耳にも達している。
「聖衆王が王議会に対して、選王会の開催を告げたそうだな」
 西のワーザス地方に比べてリーニスの春は早い。温みのある陽の光の下で部下へ指示を出していたウラートの元に、将軍アッシャリーが出向いてきたのは、砦中が噂に浮き足立っているときだった。
「将軍、まさかあなたまで浮ついているのではないでしょうね?」
「まさか。だが通例よりも早い選王会の開催だ。しかも雪解けと供に開かれるとあっては、気にするなというほうが無理だろう。現聖衆王を決める選王会のときは、オレはまだ駆け出しの軍人だったんでな。出来ることなら、今度の選王会を間近で見たいくらいなのだが……」
 顎髭をしごきながら楽しそうに目を細める将軍の様子に、ウラートは大仰なほどのため息をついた。陽光に照らされた彼の夜明け寸前の空色をした瞳が、皮肉をたたえて光っている。
「そういうのを浮き足立っているというのではないのですか? 噂好きな尻軽女と同じ様なことを言わないでください」
「ウラート卿。貴卿はときどき嫌味なくらい冷静だな。選王会ってのは、一生に数度しか行き会わないのだぞ。血統ではなく己の力のみにて王位を選ぶなど、面白いと思わないのか?」
「本来ならば他の王国でも、聖地のように行われていてもおかしくはないでしょう? 王の能力に欠ける者が王位に就いて、国が栄えた試しなどありませんよ。合理的でけっこうではありませんか」
 将軍の好奇心に冷や水を降りかけると、ウラートは大人しく指示を待っている部下に再び命令を下した。
「貴卿と話をしていると、自分がガキのような気分になるぞ。まったく。こんな手厳しい奴に育てられたとは、リュ・リーン殿下もお気の毒に」
「お褒めの言葉はありがたく頂戴いたしますよ。それで? 私と軽薄な噂話をしたくて、こんなところまでおいでになったのですか?」
「それだけなわけないだろうが。噂話はもう一つある。……貴卿にはこちらのほうが重大だろうよ」
 作業に戻ろうとしていたウラートが厭そうに眉を寄せた。が、将軍の真剣な眼差しに不機嫌を押し込めると、相手にまともに向き合った。
「なんですか? 王都で何か起こったのですか?」
「いや、王都では何も起こっていない。……が。リュ・リーン殿下の姉上ラスタ・リーン様がお亡くなりになる少し前より、殿下の側にオフィディア伯の異母弟ランカーン卿がいるらしい」
「ランカーン卿が? オフィディア伯とは兄弟仲がよろしくない方でしたね。まさか伯爵位を狙って王子に近づいてきたのでしょうか……」
「さてな。オレにも判らぬわ」
 自分がいない間に、リュ・リーンの身辺ではきな臭いことが起こっているのではないだろうか?
 ウラートは不意に不安が胸にこみ上げ、顔を歪めた。何か、厭な予感がしてならない。
 オフィディア家は現国王シャッド・リーンの母親の生家でもある。亡き王妃ミリア・リーンの母親の生家ギイ家と同じく名家であるが、どちらも血生臭いお家騒動が絶えないことで有名だ。王家を巻き込んで家督争いをするつもりなら、ウラートとしては容赦するわけにはいかない。
「アッシャリー将軍、ご忠告感謝しますよ。どうやら、悠長に仕事をしている時間はないようです。さっさと作業を終わらせて、王都に戻らなければ」
「なぁに。感謝されることでもないさ。オレはこれでお前さんに一つ貸しを作ったことになる。そのうちに返してもらえばいいことだ」
 普段は軍人肌で王都での権力闘争には興味なさげな様子だが、将軍の耳は意外と早いようだ。王子付きの臣下に恩を売ることも忘れないところなど、なかなかどうして、しっかりしている。
「早いところここでの仕事を終わらせることだぞ。たぶん、選王会絡みで聖地(アジェン)へ行くのは殿下ご自身だろうからな。置いていかれでもしたら、王子の周囲で何が起こるか判らぬぞ」
「そうですね。仕事を急がせることにしましょう」
 ウラートはきびすを返すと、部下たちに再び指示を出しに駆け出していた。強ばった彼の背中を見送りながら、アッシャリー将軍が小さなため息をつく。
「王は一人では成り立たん。いかに優れた臣下を多く持つかで、王の器が決まる。幸い、ウラートの選別眼は確かだ。無能な輩を放置しておくまいよ。……あの王子には公正な王になってもらわねばな。そうでございましょう、シャッド・リーン陛下?」
 砦の外にうずたかく積まれていた同輩の遺骨はすでに埋葬されていたが、大地に染み込んだどす黒い血は未だに点々と残されており、かつての血色の海に浮かんだ骨の山を想像すると身震いしたくなる。
 降り注ぐ陽光の下、アッシャリーは来たときと同様、軽快な足取りで砦のなかへと戻っていった。
 惨状を消すため、砦の周囲の土を削り取って血を消し去る作業を冬の間中続けてきたが、それも間もなく終わるだろう。急いで終わらせることもないのだが、春になると攻めてくるカヂャの軍勢に備えて、一冬の間に完全に終わらせるつもりで作業させていたのが幸いした。
 砦の周囲に点在する部下の間を走り回るウラートの様子を、外壁の上でチラと見遣った後、アッシャリーは腕組みをして東の山並みを睨んだ。
 今年はカヂャ軍は攻めてこれまい。王自身か、その近親者がこのトゥナのリーニス領を通って聖地へと向かうとなれば、聖地の不興を怖れて軍勢を動かすことを手控えるはずだ。
 もっともカヂャにとっては、聖地での選王会を口実に、この時期に軍を休養させられ幸いであろう。カヂャ国内の急進派でも聖地の名を出されては、そう易々とは動けない。兵力を温存して来年まで力を蓄えておける。
「聖地の連中め、やることが狡賢い。カヂャを休ませてやるつもりだな。恩を売っておいて、さらに自分たちはトゥナより先に地盤を固めるつもりか。先手を打たれたってわけだ。王陛下がどう出るか……。いや、王太子殿下が諸国の王どもの挑発を無視できるかどうかが、この夏のトゥナの試練か?」
 アッシャリーの視線の先、薄青い山のなだらかな稜線が、間もなくの春の到来を告げていた。だが、今年はその山並みを超えてくる者は、リーニスに血の嵐を呼ぶ軍隊ではなく、腹黒い策謀を練る策士どもだけのようである。
「まったく! 今年もオレの出番がないではないか。暴れ足りないことこの上ない。やはり聖地の選王会でも見物に行きたいものだな」
 不遜な口調の将軍の立つ外壁の下から従者が声をかけてきた。それに片手を挙げて応えると、アッシャリーは将軍位にいる男にしては軽率なほどの軽々しい足取りで外壁から駆け降りていった。

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後日譚

No. 81 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第11章:約束

 見上げた夜空は雲がかかり、月も星も隠されていた。なんとも味気ない殺風景な空だ。
 こんな夜は雲の濃淡が描き出す紋様を眺めるしかない。その蠢く雲が別の生き物を連想させて、いつも最後には厭な想い出を思い出してしまうというのに、雨降りでもない限りは、夜ごと空を見上げるのが日課になってしまっていた。
「月が出ていない空など眺めて楽しいものかな?」
 間近に聞こえた低い声に、ウラートはチラと振り返る。
「別に楽しんでいるわけではありませんよ。なんとなく日課のようになってしまっているだけです。……アッシャリー将軍こそ、こんな時間にどうされました? 何か危急の知らせでも?」
「いや。雨を運んでくる風が吹いているのでな。寝つかれないのさ。どうも湿り気の多い風は好かんのだ」
「そういえば空気が湿気ってますね。明日は雨でしょうか」
「たぶん。リーニスでは雨だが、ワーザス地方辺りだとこの冬最初の雪嵐が吹いている頃ではないかね?」
 アッシャリーのいらえに頷きながら、ウラートは眼下に広がる篝火を見下ろした。
 トゥナ王国の東の果てにあるリーニス砦は、夏の惨状が消え去ると、以前と同じく謹厳実直な外観で東の山並みの向こうに広がる国カヂャに睨みを利かせている。血塗れた惨劇が嘘のようだ。
王都(ルメール)は白銀の世界に包まれているでしょうね。雪原を見ない冬を迎えようとは思いもしませんでしたよ」
 ウラートの隣りに立つと、アッシャリーも同じように眼下の篝火を見下ろし、鋭い瞳を細めた。
「これからは増えるかもしれんぞ。リュ・リーン殿下の片腕となるならば、このリーニス地方を抑える手腕が必要だ」
「そうですね。副王が女にうつつを抜かしてウレアに引っ込み、まったくあてにできない状況ではね」
 アッシャリーが刈り込んだ顎髭をしごきながら、不敵な笑みを漏らす。この年若い騎士の辛辣な批評が気に入ったようだ。
 下手をしたら貴族に不興を買うだけではすまないであろうに、ウラートは時々ズケズケと思ったことを口にする。普段は周囲に気を使い、人間関係を壊すような態度を取らないだけに、たまに飛び出す毒舌がアッシャリーには新鮮に映るのだろう。
「手厳しいな。否定はせんが。そういえば、王子からは手紙が届いているのか?」
「指示書くらいなものです。あの人は今は聖地(アジェン)との文のやり取りで大忙しでしょうからね。まったく、薄情なものですよ」
 ウラートがふてくされたように口を尖らせているのが面白いらしく、アッシャリーはいっそうにたついた笑いを浮かべた。
「なんだ。聖地の姫君にやきもちを焼いているのか? 今のところは貴卿のほうが王子の寝顔を見た回数は多かろうに。ところで、その姫。銀髪の美人だそうだが、卿は見たことがあるのか?」
「ありますよ」
「ほう。人となりはどのような姫だ?」
 軽い好奇心に駆られ、アッシャリーは身を乗り出した。それを見てウラートが顔をしかめる。確かこの将軍は意外と女好きだったはずだ。よもやリュ・リーンの妃に手を出すことはなかろうが、聖地の姫を話の種にするとは頂けない。
「……リュ・リーン王子の好みの女性だとだけ申し上げておきましょうか」
「もったいぶったな。少しくらい教えてくれてもいいようなものだが。……そうだなぁ。王子は母君と早くに別れている……となれば、母親似の姫君というところかな?」
「さぁ? カマをかけても無駄ですよ、将軍」
 取りつくしまもないウラートの態度に、アッシャリーは憮然とした表情になった。どうも目の前の若者は一筋縄ではいかないようだ。
「チッ。口の堅いヤツ。もっとも我々としては、深窓の令嬢を気取っているお堅い姫君や男なら相手かまわず閨に引っ張り込むあばずれでもなければ、なんでもいいのだがな」
「随分な言われようですね。王子がそんな愚かな女に引っかかるとでもお思いですか?」
 アッシャリーのぞんざいな言い様にウラートは目をすがめ、ジロリと睨みつけた。リュ・リーンを嘲るようであれば、それが国軍を束ねる将軍であろうと容赦するつもりはない。
 しかし、ウラートの剣呑な視線にめげた様子もなく、アッシャリーはひょいと肩をすくめると人好きのする笑みを浮かべた。
「さぁ? それこそ、殿下の内面は我々には判らぬ。それに一番詳しいのは貴卿であろう」
「それは買いかぶりというものです。私など大した人間ではありません」
「また謙遜を。王子以上に王子のことを知っているのは、ウラート卿をおいて他にいないと、下士官の間ではもっぱらの噂だぞ」
 むず痒くなる称賛にウラートは眉をひそめ、口元を曲げた。どうもこの将軍と話をしていると、上級士官と話をしているというよりも、同年代の下士官たちと雑談をしているような妙な気分になってくる。
 この将軍の出身がリーニス地方で、それほど高位の家柄ではないことを思い出すと、ウラートはそれはそれで仕方がないのか、と小さく苦笑を漏らした。
「また勝手な憶測が飛び交っているものですね」
「なに、あながち嘘ではあるまいよ。少なくとも、貴卿は王子の欠点をよく理解している。それは我々では手出しのできぬ範疇だ」
 年長者としての風格など気にしていないのだろうか。アッシャリーは何度も頷きながら、自分の言葉に自分で納得している。
 ウラートは呆れ顔で小さく嘆息した。戦場での功績はいざ知らず、アッシャリーという男は普段は将軍という自覚が皆無なようだ。彼の性格は、かつてこの砦で軍を指揮していたアルマハンタ将軍の質実剛健な性格とは正反対だった。
「私をそこまで評価していただけるとしたら、それは亡き王妃陛下の教育の賜物というものですね。陛下なくして、今の私はあり得ません」
「ミリア・リーン様の秘蔵っ子か。それは手強そうだな。王妃陛下の気の強さにはシャッド・リーン陛下も手を焼いていたほどだ」
「どういう例えかたですか、それは!」
「有名なことなんだがなぁ」
 軽薄な口調で笑い声をあげたアッシャリーが湿った風が渡っていく夜空を見上げる。つられてウラートも真っ黒な空を見上げた。厚い雲に隠され、月も星も眠りのなかにいるようだ。
「さて。今度こそ本当に寝るとするかな。……ウラート卿。貴卿はまだ眠らんのか?」
「いえ。もう休みます。まだ残務処理は山積みですからね。寝坊するわけにもいきませんよ」
 真面目くさった顔で受け答えるウラートの言葉にアッシャリーが小さく笑みをこぼした。
「真面目なことだな。……だからこそ、貴卿が側に仕える王太子殿下も信用できるというものだが」
 それまでの軽々しい態度とは一変した落ち着いた声に、ウラートはハッと目を見張る。自分が置かれている立場を忘れていたわけではないが、改めてアッシャリーの口からリュ・リーンとの絆について言及されると粛々とした気分になる。
 サッサと歩み去っていくアッシャリーの背を見送りながら、ウラートは深い吐息を漏らした。




「ウラート。果物を切らしてしまったわ。奥の女官に幾つか持ってこさせてちょうだいな」
 王妃が最後に自分にかけた言葉は、ひどく素っ気なく、しかし肉親の親愛が込められたありきたりの言葉だった。
「はい、陛下。ただいま……あ……! すみません。すぐにお持ちします、母上……」
 王やリュ・リーンしかいない場所では、ウラートは王妃のことを母と呼ぶよう言われている。しかし、あまりにも身分の隔たった間柄であり、簡単に馴染むこともできず、ウラートはよく「陛下」と呼びかけて王妃に睨まれていた。
 今回も部屋には王子と王妃、そして自分しかいないのだから、言われた通りに「母上」と呼びかけなければならないのだが、うっかり「陛下」と口にしてしまったのだ。
 お小言をもらう前に部屋を飛び出すと、ウラートは絨毯が敷き詰められた長い廊下をパタパタと駆けていった。きっと部屋に戻ったら、気の強い王妃は口を尖らせながら文句を言うに違いない。
 女官たちがたむろしている部屋までやってくると、ウラートは遠慮がちに扉を叩いた。そして、扉が開けられるまでの僅かな隙に、そっと憂鬱そうにため息を漏らす。
 女たちはいつもウラートを玩具にしたがった。やれ髪を結わせろ、服を着替えさせろ、果てには化粧までさせられそうになったこともある。
 どうやら自分の顔立ちは少女のような造作であるらしいが、中身は歴とした男だ。女たちのように着飾らせてもらっても嬉しくもなんともない。
「あらぁ。いらっしゃい、ウラート。待ってたわよ」
 扉を開けた女官がウラートを見つけた途端に、パッと笑みの花を咲かせた。反対にウラートはガックリと肩を落として顔をしかめる。
 出てきた女官は特にウラートを着飾らせたがる一人だ。それも肌まで磨こうとする念の入れようで、逃げるのに苦労させられる。この様子だと、大人しく帰らせてはもらえそうもない。
 それでもウラートは情けなさそうに顔を歪めたまま、精一杯声を張り上げて用向きを伝えた。
「そう。果物をご所望なのね。判ったわ。すぐに用意するから、部屋のなかで待っていなさい」
「いえ! 外で待ちます!」
「何を言ってるの。こんな寒いところで待つことないわ。それに、廊下で一人で立っていたら、悪い人に連れて行かれちゃうわよ」
 宮殿の最奥にある後宮に悪い人など入り込むわけがないではないか、とウラートは口を尖らせる。しかし、対応した女官の後ろから数人の女たちが顔を出し、ウラートを見つけると我先に彼の腕を捕らえて部屋のなかへと引っ張り込んでしまった。
「陛下がお待ちなんです! 早く用意してくださいっ」
 自分の髪やら頬やらを遠慮なく触る女官たちに向かって精一杯大声をだすが、簡単に逃げられるものではない。王妃付きの女官は一人や二人ではなく、手の空いている女たちは格好の玩具が手に入ったとご機嫌だった。
「この前、出入りの商人から買ったリボンがあるのよ。ウラートの髪に似合いそうだから、髪を結ってあげる」
「え、遠慮します。僕よりもあなたの髪を飾ったらいいじゃないですか」
「前に殿方からいただいた帯飾り、ウラートにあげようと思うの。綺麗な銀細工だから、ウラートの衣装によく合うわよ」
「そんな高価なものいただけません! だいいち、相手の方の失礼じゃないですか」
「あぁ、このすべすべの肌! 白粉ののりが良さそうよねぇ……」
「そんな臭い粉をはたかないで! 陛下からいただいた衣装が粉まみれになっちゃうでしょ!」
 ウラートは最後には敬語も忘れて叫んでいた。女たちの手を振り解くと、わたわたと部屋のなかを逃げ回るのだが、面白がって女官たちは追いかけ回してくる。
 言い遣った用事を済ますまでの短い時間、いつもこうやって追いかけっこが続くのだ。ウラートにしてみれば、不本意なことこの上ない。
「なんで僕にかまうの! やめてよ。そんなものいらないったら!」
「いや~ん。ウラート、可愛いー! わたしにも触らせて!」
「綺麗な子は着飾らなきゃ駄目よ! ほら、ウラート用にドレスも用意したんだから!」
「それ、女の子の衣装じゃない! 僕は男なの! お・と・こ!」
「ウラートなら男でも女でも、どちらの衣装だって似合うわよ! ほら!」
「イヤーッ! ヤダったら! 放してー!」
 廊下にまで響く騒動の末、用意された果物の篭を引っ掴むと、ウラートは這々の体で女官たちの部屋を逃げ出した。あれ以上いたら、どんな有様になっていたことか。
 背後から女たちの笑いさざめく声が聞こえてきたが、ウラートはそんなことに注意を払うどころではない。半泣きで廊下を駆けていき、息を切らせて王妃が待つ部屋の前へと辿り着いた。
 走ってきたため、篭のなかに綺麗に収まっていた果物の幾つかが落ちそうになっている。それを慌てて収め直すと、ウラートは深呼吸をして扉を叩いた。
「ただいま戻りました」
 この後には王妃のお小言が待っているに違いない。少し憂鬱になり、ウラートは俯きがちに室内へと入っていった。
「お待たせしました。果物を……」
 嗅ぎ慣れない匂いにウラートは口をつぐみ、顔をあげると、そのまま凍りついたように立ち尽くす。
 寝椅子の足下に王妃のドレスの裾が見えた。どう見ても床に寝転がっているようにしか見えない。が、王妃が寝椅子以外の場所で眠る姿など今まで見たことがない。
 鼻の奥を刺激する匂いは鉄錆の匂いに似ていた。腕に抱えていた果物篭が、重力に引かれてゴトリと床に落ち、収まっていた果実たちが不機嫌そうに床に転がった。
 心臓が早鐘を打つ。口の中が乾き、耳の奥がボゥッと重い音を立てる。手足が何もしていないのに、小刻みに震えた。
「陛下……?」
 ウラートは床に貼りついた足を引き剥がすと、恐る恐る寝椅子を回り込んで、そこにいる王妃の姿を覗き込む。
 最初に目に入ったのは、鮮やかすぎるほど強烈な色彩を放つ朱だった。鉄錆の匂いがいっそう強く鼻につく。
 匂いに気圧されたようにウラートはよろけ、力の入らない足がガクリと折れて、床に座り込んでしまった。
母様(マァムゥ)。目、開けて……。母様(マァムゥ)?」
 小さな囁き声に、ウラートは視線を動かした。鮮血の池のなかに、衣装を血染めにして小さな王子がうずくまっている。王子の衣装は焦げ茶色に染められた温かな羊毛の短衣(チュニック)だったが、それは血塗れてどす黒い色に変わっていた。
「お、王子……。リュ・リーン殿下……」
 ウラートは這いずって幼いリュ・リーンの元へと近寄ると、王子の黒絹の髪へと腕を伸ばした。
 その腕が途中で止まる。
 彼が腕を伸ばすよりも先に、倒れている女の腕がゆっくりと持ち上げられたのだ。見れば、王妃は荒い息を繰り返し、身体を小刻みに痙攣させている。
「リュ・リーン……。良い子ね。怖くないから、泣かないでね」
 何度も咳き込みながら王妃は血で赤く染まった口元をほころばせた。蝋のように青白い肌に、血の朱は殊更に鮮やかさを増して見える。まるで、王妃の生命そのものが今まさに流れ出してしまったかのようだ。
 ウラートは喉の奥に声を貼りつかせ、ブルブルと震えていた。彼の目の前では、小さなリュ・リーンが母親の手を握りしめてポタポタと涙をこぼしている。
「大丈夫。怖くない……怖くないから。良い子……ね。お前は良い子……」
 しゃくりあげるリュ・リーンが幾度も母を呼ばわるが、王妃の声は徐々に小さく弱くなっていった。
 幼い王子の手が血で滑って母親の腕から離れる。血溜まりのなかに厭な音を立てて白い腕が落ちたとき、ウラートは声にならない叫びを上げ、転がるようにして入ってきた扉のノブに飛びついた。
「だ、誰かっ! 誰か来て! 王妃様がっ!」
 かすれた甲高いウラートの叫びに、廊下の向こう側にある女官たちの部屋から数人の女たちが飛び出してくる。
 次々に部屋へ入っていった女官たちが、息を飲んで立ちすくみ、すぐに一人の女官を残すと、あとの女たちはバタバタと部屋の外へと飛び出していった。
「ウラート。お医者様を呼んでくるから、あなたは彼女と一緒に王妃様の側にいて!」
 早口にウラートに指示を与える女官の顔色は蒼白だ。絶望が彼女の瞳の奥に揺れている。
 痺れて思考が止まった頭で、ウラートはぼんやりと硬いベッドの上で冷たくなっている母親のことを思い起こしていた。
 氷のように冷たかった母の顔は、今の王妃よりもひどい顔色をしていた。まだ王妃の顔色はあそこまでひどくない。まだ、王妃は死んではいない。
 足下がよろけたが、ウラートはフラフラと王妃の側へと近づいていった。女官がリュ・リーンを血溜まりから引き離そうとしていたが、幼い王子は頑としてそれを聞き入れず、取り落とした母の白い腕にしがみついている。
母様(マァムゥ)!」
 震えながら母を呼ぶ王子の声に、女官が顔を背けた。ウラートはそんな彼女の仕草に微かな怒りを覚えた。王妃はまだ死んでいない。まだ身体は暖かいし、顔色だって悪くない。
 王子がしっかりと抱きしめている王妃の白い腕を一緒に抱きながら、ウラートはリュ・リーンの震える肩を強く抱きしめた。
「殿下。お母様を呼んでください。きっとお応えになりますから」
 幼い王子がウラートの言葉にいっそう大きな声を出して母親を呼んだ。何度も、何度も。喉が切れそうなほど大きな声で。
 その叫びが聞こえたのか、王妃の閉じられていた瞼が震え、微かに頬が揺れる。緩慢な動きで王妃は首を巡らせると、自分を呼ぶ息子とそれを支える従者の少年を視界に収めて、安堵したように微笑んだ。
 王妃の薄い空色の瞳は、春の空のように柔らかく霞んで見えた。
 何事かを口にしようと、王妃は唇を震わせる。が、漏れるのは虚ろな風音のような呼吸音ばかりで、言葉は何一つ出てこなかった。
 見開いていた瞼がゆっくりとゆっくりと閉じられていく。そして、ついに青白い瞼が完全に閉ざされると、後は何度呼ぼうとも彼女の瞳が開くことはなかった。




 王妃の国葬が厳冬のなかで滞りなく執り行われた後、リュ・リーンはさらに気難しい子どもになった。
 周囲の大人が抱き上げようとしようものなら、腕に噛みついて逃げ出してしまう。最高潮に機嫌が悪いときなどは、実の父親であっても側に近づけないほどだ。
 唯一、ウラートだけが王子の側にずっと寄り添うことを許されていた。
「リュ・リーン殿下。今日は湯浴みをしてくださいな」
「イヤだ。熱い湯になんか浸からない!」
 王妃の代わりにと、女官たちがリュ・リーンの世話をしようとするが、王子はそれらをことごとく無視し、ウラートにしか心を許そうとはしない。
「リュ・リーン様。我が侭をおっしゃっては困りますわ。さぁ、あちらに……」
「イヤだって言ってるだろ。あっちへ行け!」
 王子が容赦なく小さな拳を振り上げるようになったのもこの頃からだ。彼の癇癪に恐れをなして、年若い女官ほどリュ・リーンに近寄らなくなった。
「殿下。女官たちをあまり遠ざけては……」
「いらない! 女官たちなんかいなくてもいい!」
「でも……」
「いらないって言ってるだろ! あいつら、いつも怯えた眼で見るんだ。大っ嫌いだ!」
 ただでさえ黒髪に暗緑の瞳を持ち、死の王の申し子よと怖れられる王子は、母親の死後はどんどん王宮のなかで孤立した。心を閉ざし、物憂げに佇み、きつい視線を周囲に投げかけていたのでは、それは致し方のないことだろう。
 さらに間の悪いことに、春がきて父王がリーニス地方へと出陣していく時期がきてしまった。そうなると、王子はいっそう王宮内で孤独を囲った。
 リュ・リーンの姉たちも、王子の癇癪に心配を募らせるそれぞれの守り役から止められて、思うようには弟の側にいることはできなかった。
 一年前に結婚したの長姉エミューラ・リーンがギイ伯シロンの子を腹に宿していたこともあり、次姉のラスタ・リーン以下五名の姉たちも長姉を差し置いて王太子である弟の元を訪なうことができなかったことも禍した。
 王妃が亡くなったのは年が明けたばかり、リュ・リーンの五歳の誕生日の翌日だった。ウラートは八歳。彼自身もまだまだ子どもで、リュ・リーンの立場をどうしてやることもできない。
「殿下。でも湯浴みはしないと」
「イヤだったら、イヤだ!」
「そんなことおっしゃらずに。私もご一緒しますから……」
 王妃の死後、ウラートは自分のことを「僕」と言わない。さらに外見とは不釣り合いなほど大人びた顔つきをするようになった。成長することをやめてしまったリュ・リーンの代わりに、彼の分まで成長しようとしているかのようだ。
 ウラートは心を凍らせてしまった王子を心配して、今まで以上に側にいることが多くなった。
「ウラートも一緒に入る?」
「はい。ご一緒します」
「……じゃあ、入る」
 食事も湯浴みも勉学も、リュ・リーンは何もかもウラートとともに行動したがる。それは母親を慕ってついて歩いていた頃と同じだ。他人が少しでも彼らの仲を邪魔しようものなら、黒髪の王子は凄まじい癇癪を起こして暴れ回った。
 ウラートの言葉なら素直に聞き入れるリュ・リーンを、忌々しく思っている人物は多かっただろう。未来の国王としてこの癇癪持ちの王子が不適格であると、早々に結論づけてしまった者も少なくない。
「足下が滑りやすいですから、気をつけてくださいね」
「うん。判った」
 ウラートは大人びた口調で話しかけながら、リュ・リーンの手を引いて歩く。それまではいつも周囲の大人たちの顔色を伺い、緊張し続けていた様子が嘘のような落ち着きようだ。
「結界魔法で冷気は入ってこないようになってますけど、あまり壁際にはいかないでくださいね。身体を清めたら、すぐに上がっていいですし……」
「判ってる。アチッ!」
「殿下。まず手足を温めてから入らないと。指先が冷えているから熱く感じるんですよ」
 献身的に王子の世話を焼くウラートに、王妃付きだった女官たちの多くは好意的だ。しかし、そんな彼ら二人の姿を間近に見ることのない他の者たちは、たまに王子と出くわしては彼の勘気に触れ、いっそう幼い王子から背を向け、その王子の世話をするウラートを悪し様に軽蔑した。
「さあ、殿下! 身体もきれいになったし、湯冷めしないうちに寝ましょう」
 湯から上がると、ウラートは自分の身体から水滴が滴り落ちるのも構わず、リュ・リーンを夜着に着替えさせる。
 冬場の寒さがなくなったとはいえ、そんな状態では風邪をひいてしまう。雪国の春は短い。昼間はまだ温みのある日差しが差すが、夜は寒さに震えることも多かった。
 年輩の女官がそんな守り役を心配して、なにくれとなくウラートの体調を気遣ってやらなかったら、とうに寝込んでいただろう。
「暖かい花蜜湯を持ってきますから、待っていてくださいね」
 水蒸気に当たって湿気ってしまった王子の髪を乾かしながら、ウラートはリュ・リーンを寝室の暖炉前へと引っ張っていった。
 小さな身体がスッポリと隠れてしまうほどの布を王子の身体にかけ、ウラートはバタバタと花蜜湯を作りに奔走する。王妃が生きていたなら、彼女かウラートのどちらかがリュ・リーンの相手をし、もう一人が花蜜湯を作っていただろう。
 出来上がった花蜜湯を持って暖炉の前に戻ってみると、身体が温まってウトウトし始めたリュ・リーンが、布地の繭のなかで丸まっていた。生成りの布地を背景に、リュ・リーンの黒髪が暖炉の炎に照らされて赤くまだらに染まっている。
「リュ・リーン殿下。起きて下さい。そんなところで寝ては駄目です。ほら。花蜜湯は飲まなくてもいいですから、ベッドへ上がってください」
「う~ん……。母様(マァムゥ)……」
「……で……んか……」
 リュ・リーンの寝言にウラートの小さな口元が歪んだ。見る見るうちに、夜明け寸前の濃紺の空色をした瞳に透明な雫が滲む。
 小さな王子を必死に抱き上げると、ウラートは涙をこらえてベッドへと歩いた。八歳の子どもにとっては、これはかなりきつい労働だ。それでも、ウラートは黙々と王子を温かな寝具にくるみ、まだ生乾きの髪を拭く作業に勤しむ。
 亡くなった王妃のことを考えると、頭がどうかなってしまいそうだった。今、この瞬間にも子ども部屋の扉を開けて、王妃が美しい栗毛を輝かせながら顔を見せるのではないかと思ってしまう。
「はは……うえ……」
 食いしばった歯の間から涙に震える声が漏れた。
 眠りの淵にまどろんでいる幼子の顔のなかに、敬愛してやまない王妃の顔が重なる。白い(おとがい)雪花石膏(アラバスター)のように滑らかで秀でた額。リュ・リーンの黒髪や暗緑の瞳に誤魔化されて気づく者は少ないが、王子の顔立ちは母親である王妃に似ている箇所が多い。
 王妃が存命中は気後れして呼ぶことが躊躇われた呼称を、ウラートは幼い王子のなかにある懐かしい面差しに向かって何度も呟いた。もう二度と応えが返ってくるはずのない声を探すように。
 この方に仕えるのだと心決めてから、果たして自分はどれほどのことを成しただろうか? 王妃の足手まといにしかなっていなかったのではなかったか?
 守り役とは名ばかりで、実際のところ、王妃は二人の子どもを抱えて忙しかったに違いない。王の留守中は彼女が王城の主である。それを切り盛りするだけでも神経を使ったであろうに。
 こらえきれなくなり、ウラートは涙をこぼした。一度堰を切って流れ出した涙は後から後から溢れだし、彼の頬を伝って幼い王子の頬に滴る。嗚咽をこらえるのに精一杯で、ウラートは伝い落ちる涙を放っておいた。
「うぅ……ん……。……ウラート?」
 ウラートの涙の滴りに気づいて、リュ・リーンが寝惚けた顔をあげる。眠そうに眼を擦っていたが、自分を見下ろす守り役が声もなく泣いている様子に驚いて飛び起きた。
「ウラート。ウラート……」
 泣き止まない年上の友にしがみつき、リュ・リーンは指先でウラートの頬を拭く。それでもウラートの涙が止まらない様子に、王子は震える背中を撫でながら囁いた。
「泣かない……。泣かない。ウラートは強い。誰よりも強い」
 それはリュ・リーンが母である王妃にあやされるときに必ず言われていた言葉だった。抱きしめ、背中を撫でながら、王妃は歌うように何度も言葉を繰り返し、むずがる幼子につき合っていたものだ。
「王子……。リュ・リー……ン殿……下」
 ウラートはいっそう肩を震わせ、自分を支える子どもに寄りかかった。
「兄様は強い」
 唐突な言葉にウラートは目を見開き、相手の暗緑の瞳を見つめる。王子は今なんと言ったか?
「兄……?」
「ウラート兄様は強い。だから泣かない。母様(マァムゥ)はいつもおっしゃっていた」
「わ、私はあなたの兄上でもなんでもありません。ただの……ただの奴隷上がりの……」
 自分の言葉にひどく傷ついて、ウラートは途中で押し黙った。その通り。自分は国王に買われてやってきた奴隷の子で、王妃の庇護下になければ、何の力もない存在だ。
 こうしてリュ・リーンの側にいるのは、王妃との約束もあるが、何よりも自分自身の保身のためではないか? 再びどこかへ売り払われないために、王子にとってなくてはならない存在になることで、我が身を守っているのではないか?
母様(マァムゥ)は嘘はおっしゃらない! ウラートは家族。父様(ダムゥ)にもそうおっしゃっていた」
 リュ・リーンの言葉にウラートはさらに瞳を見開いた。まさか王妃がそんなことを言ってくれていたとは。
 王妃ミリア・リーンは、誰もいないところではウラートに王と王妃のことを父母と呼ぶことを許してはいたが、人前では臣下として扱っていた。
 ウラートはそれを身分の高い者の気まぐれだとばかり思っていた。娼婦であった実の母親が子どもを孕んだ途端、まったく娼館に寄りつかなくなったという顔も知らない父親のように。
「ミリア・リーン陛下が……そのようなことを……」
母様(マァムゥ)とお約束した。王太子リュ・リーンの守り役はウラートだけ。他に誰もいらない。ウラート兄様がいればいい」
「殿下……」
「ウラートは母様(マァムゥ)と一緒にいたときのように、リュ・リーンと呼び捨てていい。誰も咎めない」
 止まっていたウラートの涙が、再び溢れ始めた。その様子にリュ・リーンが心配そうに手を差し伸べてくる。暖かい小さな手に抱きつかれたまま、ウラートはいつまでも涙を流し続けた。
「リュ・リーン殿下……」
「違う。リュ・リーンでいい」
「……リュ・リーン。私も母上とお約束したように、ずっとあなたのお側にお仕えします。何があっても、どんなときも……」




 眠りにつこうとベッドに腰を降ろしたウラートの視界の隅に、小卓(ハティー)の上に置かれた護符が映った。柔らかな光沢を放ってはいるが、なんの変哲もない石がはめ込まれた護符だ。
「ミリア・リーン陛下……」
 ウラートは立ち上がってそれを手に取ると、石の熱を感じようとでもいうのか、護符を唇にそっと押し当てた。
 頭のなかで先ほどのアッシャリー将軍の声がぐるぐると巡っている。リュ・リーンとの絆、聖地の姫君、亡き王妃……亡き……母。
 皮肉なことにリュ・リーンは自分と同じ五歳のときに母親を亡くしていた。
 決定的に自分と違うことは、彼の目の前で母親が事切れたということだ。鮮血を吐き絶命した母親に取りすがって泣き叫ぶリュ・リーンの声をウラートは未だに憶えている。
 ウラートは母親が病に倒れたときに隔離されており、亡くなって土気色をした顔で硬いベッドに横たわる姿が最後の対面だった。冷たい母の身体が恐ろしく、だた一度触れただけで身体の震えが止まらなかった。
 自分の熱が母の冷たい身体に奪われるのではないかと怯えたのだ。一緒に連れていかれのるのはないか、と。
 リュ・リーンの母親ミリア・リーンの場合はまったく違う。
 彼女は病がどれほど進行しようと息子の側から離れようとはしなかった。日に日に顔色は青ざめ、身体は痩せ衰えていこうとも、凛と胸を張り、頭をそらして王宮の女主人であり続けた。
 ベッドへ戻ると、ウラートは掌のなかの護符をじっと見下ろした。この護符はこれまで自分を守り続けてきてくれた。
 貴族たちは奴隷の子が王族の側にいることをバカにし、それを平然と側に置くリュ・リーンや、それを許しているシャッド・リーン王を異端扱いしている。自分のために被る不利益をはねのけている彼らの期待を裏切るわけにはいかない。そんな思いでこれまで必死にやってきた。
「あなたは誇り高い方だった。私はあなたに仕えることができて幸せです。今はお約束通り、あなたの息子に仕えることこそが……私の至福になっていますよ、母上」
 王妃が亡くなり、リュ・リーンの子ども部屋で泣き明かした夜以来、ウラートは涙を封印している。王子に強くなれと言う代わりに、自分自身が王子に負けぬほど強くあろうとした。
 事実、ウラートや父シャッド・リーンの背を見て育ったリュ・リーンは、この夏以来、凄まじい成長を遂げている。聖地の姫との一件も引き金になっているだろうが、間違いなくリュ・リーンは父王に勝るとも劣らない王になるはずだ。
 玉座の高みから並み居る家臣たちを睥睨する黒髪の王の姿が、ウラートには容易に想像できた。
「もうすぐです……。あなたの息子は誰よりも高い場所に登るでしょう。誰よりも強く、誇り高い王が……もうすぐ……」
 磨かれた石の表面をそっと撫でると、ウラートは再びその表面に口づけを落とす。その横顔は貴婦人の指先に接吻を落とす騎士の顔だった。

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後日譚

No. 80 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第10章:魔眼(イヴンアージャ)

 祝宴の主役がいなくても、宴の席は賑やかだ。その様子を幕間の隙間から眺めて、リュ・リーンは口元だけにうっすらと嘲弄の笑みを浮かべた。
 このまま、どこかに雲隠れしても、誰も気づかないのではないだろうか。饗宴の片隅に目立たないように配されている番兵すら、主賓がいなくなったことに気づいていない。
 ふと、誰かに見られている視線を感じて、リュ・リーンは鋭くそちらを一瞥した。
 姉たちとともにこの宴へとやってきた男たちの一団のなかから、じっとこちらを見つめている若者がいた。ややくすんだ色の金髪が、宴のあちこちで灯されて蝋燭の揺らめきにけぶるように輝いている。
「あれは……ラスタ・リーン姉上のところの……」
 それが病で伏せっている次姉の家の者だと思い出すまでに、リュ・リーンはしばらくの時間を要した。
 本来なら次姉とその夫が招かれる宴であるが、病で出席できない姉夫婦に代わって、彼らの義弟がやってきている。普段、あまり顔を合わせることのない若者を憶えていただけでも、リュ・リーンとしては奇跡的なことだったろう。
 その若者がリュ・リーンから視線を逸らすと、ふわりと集団のなかから抜け出した。人の波に乗ってあちこちを渡り歩き、思い出したように宴の娘たちにまとわりつきながら、ゆったりとした足取りでこちらへとやってくる。
 飛び抜けて整った顔立ちの男ではないが、娘たちに微笑みかける表情は甘く、世慣れない少女たちならうっとりと見つめ返してしまうだろう。
 自分にはとてもできない芸当だ、とリュ・リーンは苦い思いを噛みしめた。
 外見で損をしている彼にも、この若者のように仕草で欠点を補うことは可能であるかもしれない。しかし、他人の好奇の目に触れること自体が苦手なリュ・リーンには、真似しようという気すら起こらないことだった。
 リュ・リーンはその若者から視線をそらすと、幕間の奥へと引っ込んでしまった。人々の間に入っていき、興味本位に話しかけられるのは好きではない。
 テラスへと続く大窓に寄りかかって星空を見上げると、星たちがチリチリと音を立てて瞬いている様子が間近に迫っていた。外気は冷たいが、他人の煩わしい視線にさらされないだけ、リュ・リーンにはマシに思えた。
「さっさと抜け出してやるかな……」
 疲れを感じて、リュ・リーンは瞳を閉じた。眼裏(まなうら)には、今まで見上げていた星空がくっきりと浮かび上がってくる。
「宴を抜け出されるのでしたら、お供させてもらえますか?」
 かすれた囁き声に、リュ・リーンは驚いて振り返った。いつの間にか、先ほどの若者が幕間の隙間から滑り込んできている。宴の広間から漏れる光と星灯りで、彼のくすんだ金髪がチラチラと小さな輝きを放っていた。
「突然、ご無礼を。こんな機会でもない限り、殿下のお側にはいつもウラート卿がおいでで、わたくしなどは近づけませんので。オフィディア伯サイモスの異母弟ランカーンと申します」
 薄紫の瞳が柔らかな笑みを浮かべている。貴族出身者にしては、顔の造詣はそれほど美麗ではないが、作り笑顔であったとしても彼の浮かべる微笑みは特上品であった。つられてこちらまで微笑みを返してしまいそうになる。
 普段のリュ・リーンならば不機嫌さを如実に表して、暗に相手を拒絶しただろう。ところが、ランカーンと名乗った若者の笑みに毒気を抜かれ、彼には珍しく口角の片方を持ち上げて薄い笑みを浮かべている。
「死神の顔でも拝みにきたか?」
「神のお姿を間近で拝する栄誉を与えていただけるのですか?」
 足音を立てることなく、ランカーンはリュ・リーンの目の前まで歩み寄り、ゆったりとした動作で王太子の前に跪いた。そのまま、若者はリュ・リーンがまとっている儀礼用のマントの裾を手にすると、その端にそっと口づけを落とした。
 あまりにも自然で静かなランカーンの動きに、リュ・リーンは相手を拒絶することも忘れて佇んだままだ。いつも自分を取り巻く不愉快な連中とは、少々勝手が違ってた。
「あまりに畏れ多く、ご尊顔をわたくしの眼に映すことがはばかられます。このままの姿勢で失礼を」
 跪き、顔を伏せたまま、若者がリュ・リーンへと声をかける。
「口の上手い奴だな。俺のこの瞳を見てみろ。どうせ毛嫌いされている瞳だ。今さらどうこう言われてもなんとも思わない」
「申し訳ありません。それはご勘弁願います。殿下の瞳に魅入られますと、自分の強欲さを懺悔したくなって参りますので」
「面白いことを言う。俺の瞳を見て、死の神に招き寄せられそうだと言う奴はいても、懺悔したくなると言った奴は初めてだ」
 初対面の者には無口なはずのリュ・リーンが、目の前の若者に向かっては饒舌だ。相手の反応が、彼には珍しくて仕方がない。
 この魔の瞳(イヴンアージャ)を怖がっていることに代わりはないが、言葉を濁すことなく、実直に恐ろしいと受け答えをする者は、今までほとんどいなかった。
「皆が口下手なのでございましょう。殿下の瞳は、相手に嘘偽りを許さない瞳です。欲深い者には、天罰と同じ」
「フン。では、お前は俺に嘘をつきにきたか? 俺の顔をまともに見られないというのなら、お前も嘘つきだということになるな」
 俯いたままのランカーンをリュ・リーンは嘲弄した。そのリュ・リーンの言葉に、金髪の若者は小さくため息をつく。
「いえ。わたくしは嘘つきではなく、欲深い人間でございます。ですから、殿下のお顔を見ていると、懺悔したくなってくるのです」
「では、その欲深い者が俺になんの用だ? お前の強欲を満たすものを俺が持っているとでも?」
 せせら笑うリュ・リーンの言葉に、ランカーンが俯いたまま首を傾げた。それは一瞬の逡巡だったかもしれない。あるいは、困惑であったのかもしれない。
「実は殿下に引き逢わせたい者がおります。わたくしが外遊先で見つけだした者なのですが……」
「断る。そんなものに興味はない」
 相手の言葉が終わるよりも早く、リュ・リーンは拒否していた。
 それを予測していたのか、ランカーンが再び小さなため息をつく。それは一呼吸おくときの癖であるかのように、ごく自然な動作だった。
「彼は殿下のお時間を割いていただくに値する者かと思います。少なくとも、ギイ伯爵家のシロン卿よりは害をなさないでしょう」
「こそこそと逢わねばならんということ自体が気に食わない。俺の正面に立てぬ者をどう信用しろというのだ?」
 そのときになって、ようやくランカーンが顔をあげた。怯えているかと思った彼の瞳はクッキリとリュ・リーンを見上げ、恐怖に揺れてなどいない。
「お父上の勧めでゼビ王国へ行った折に見つけてきた者です。その男のことは、他の者には内密にしたいと思いましたので」
 父王の勧めと聞いて、リュ・リーンは眉を寄せて考え込んだ。そういえば、去年の秋頃に、父の母親、リュ・リーンの祖母にあたる女性の実家の者を国外へ外遊させると言っていた。では、その若者がランカーンであったというわけか。
 リュ・リーンはようやく目の前の若者が自分の従兄弟筋の者であることを思い出した。長姉が母方の祖母の実家へ、次姉が父方の祖母の実家へ嫁いでいる。その家名に名を連ねる以上、ランカーンもまた王家に近しい者だ。
 口を閉ざしているリュ・リーンをじっと見上げたまま、ランカーンが再び口を開いた。
「本当は外遊とは名ばかりで、オフィディア家からの体のいい厄介払いですが。失礼。これは殿下には関係のないことでした。これをご覧いただけますか?」
 ランカーンが差し出した紙切れを手に取ったリュ・リーンは、いよいよ眉間の皺を深くした。薄暗い幕間のなかでもハッキリと判る黒髪の若者の顔を写し取った姿絵だ。
「こんなものを持ち歩いて楽しいか? くだらない」
 この王国のなかで、姿絵になるほど名の知れ渡った黒髪の若者など、自分しかいないではないか。それをこの若者が持ち歩いているという事実に、リュ・リーンは嫌気が差した。
「よくご覧になっていただけますか? それは殿下ではございません」
「なんだと……?」
 リュ・リーンは改めて姿絵の顔を凝視した。しかし、薄暗さのなかで見るその顔形は、いかにも自分に似ており、他人だと言われてもすぐには信用しがたい。
「この姿絵は王都(ルメール)の裏界隈で商売をしております絵師に描かせたものです。お調べいただければ、宮廷お抱えの絵師の手によるものでないことはすぐに判ります」
 ランカーンの言葉は、暗に宮廷絵師の前に連れ出すことのできない者を描かせたのだと告げていた。リュ・リーンは驚きとともに鋭い視線を相手へ向ける。
「連れてきたのは……殿下によく似た男でございます」
 息をひそめ、囁き声をもらしたランカーンの顔に、このとき初めて計算高い狡猾な色がうっすらと浮かんだ。
「なるほど。お前が強欲な人間だというのは本当らしい。俺の影を紹介する代わりに、何か見返りをよこせということか」
「殿下はお命を常に狙われております。影武者を一人立てたところで、どれほどの効果があるのか、わたくしには見当もつきませんが、使いようによってはお役に立てるでしょう」
 ひそひそと言葉を続けるランカーンの表情は計り知れない。リュ・リーンは相手をどの程度信用していいものか、逡巡を続けていた。読み違いをしたら、それは自分にとっては命取りになりかねない。
「お前の言うことを信用する根拠は?」
 リュ・リーンは努めて冷たい口調で言い放つと、手にしていた姿絵を相手に突き返した。
「根拠など何もありません。ただ、わたくしは欲深い人間でございますので、自分のためにも、殿下のためにも役立ちそうなものを見過ごすことが、いかにももったいないと思ったのです」
 ランカーンが完璧な微笑みを顔に刻んだ。まったく喰えない奴だ。自分の腹のなかを明け透けに見せておきながら、その表情は何を考えているのか少しも読めないのだから。
 リュ・リーンは窓際を離れ、ランカーンに背を向けると、幕の向こうで繰り広げられている饗宴の広間へと足を向けた。
 訪問者を残してその場を立ち去るかと思われた王太子の足が止まる。手にした幕の端を握りしめたまま、リュ・リーンは僅かに振り返った。
「ランカーン。お前の忠誠は王家のあるのか? それとも、俺か? あるいは、自分自身か?」
 リュ・リーンの問いかけに、ランカーンが立ち上がって振り向いた。
 金髪の若者は小さく腰を屈め、相変わらずの上質な笑みを貼りつかせたまま、王子の黒衣の背を見つめ返してくる。
「申し上げた通り、わたくしは欲深い人間でございます。忠誠の第一は自分自身に、そして、その次にわたくしに満足を与えてくれる人間に向いております。これまでの人生のなかでは、わたくしを満足させ得る方は未だに現れておりませんが」
 その答えに納得でもしたのか、リュ・リーンは小さく口の端をつりあげた。
「面白い奴だな。王太子の前で、そこまでズケズケ言える奴も珍しい。……いいだろう。今夜の馬鹿げた茶番劇ももうすぐ終わる。その後に、王宮の東側にある伽藍庭園へと来るがいい。お前の演出する舞台に上がってやろう」
 リュ・リーンの返答に、ランカーンは深く腰を折った。それを視界の端で確認すると、リュ・リーンは二度と振り返ることなく幕間を後にした。




 トゥナ王国の伽藍庭園は諸外国でもよく知られていた。王宮を支える石柱と同じくらいに太い柱が庭のそこここに立ち上がり、柱頭からは優雅な曲線を描いた石梁が隣り合った柱同士を繋いでいる。
 一見すると屋根と壁のない建物のように見えるだろう。代わりに屋根や壁の役割を果たしているのは蔦類の植物だ。実際にそれらの機能を果たしているわけではないのだが、庭園の内側から見渡したとき、それらの植物たちは鬱蒼と繁って見る者を取り囲んでいる錯覚を与える。
 しかし、冬場の今は緑の天蓋を望むのは難しい。枯れ果てた雑草が庭園のあちこちで縮れ、柱に取りすがる白茶けた蔦たちは、寒さから逃れようと必死に石柱にしがみついている。足下の土中では花々の球根や越冬する虫の幼虫たちが、今はまだ遠い春を夢見てまどろんでいるところだ。
 月は雲間に隠れ、途切れた雲の間から光を投げ落としてくる星たちの下で見ると、伽藍庭園は人を拒絶するように頑なな沈黙を守っているように伺えた。
 ほとんど闇一色。僅かに白い石柱が星灯りを弾いて、白灰色の身体を真っ直ぐに天へと伸ばしている姿が見えるばかりだった。
「……待たせたな」
 リュ・リーンの低い声に反応して、石柱の一つから淡くくすんだ金色の輝きが姿を現した。
「おみ足をこのような場所までお運び頂き、恐悦至極に存じます」
 完璧な動作でランカーンが腰を折り、満面に笑みを貼りつかせる。が、その表情が王太子を見た途端に強ばった。いや、正確には、その脇に佇む人物の姿を認め、瞠目したのだ。
「ネイ・ヴィー卿。あなた様もご一緒とは存じませんでした」
「殿下から面白いものを見せてもらえると伺ってな。滅多にない機会であろうから、遠慮なくご一緒させてもらったのさ」
 ネイ・ヴィーと呼ばれた男は、明るい金茶色の髪に縁取られた顔のなかで萌葱色をした瞳を光らせている。口元に蓄えた薄い髭が皮肉を込めた笑みに小さく歪んでいた。
 ネイ・ヴィーは、ようやく十七になるリュ・リーンよりも、五つ以上は年上であろう。ただ、武官と呼ぶにはいささか貧弱な体格が、彼の実年齢を推測する目を惑わせる。
「ご随意に。あなた様にも気に入って頂けると思いますよ。……こちらへ」
 最後の言葉は、斜め後ろの闇に向かって放たれた。相変わらず、ランカーンの口調は内心を読ませない柔和なものだ。
 夜の暗がりから浮かび上がってきた人影に、ネイ・ヴィーが驚きの一声を発したのを、リュ・リーンは背中で聞いていた。
 そのネイ・ヴィーの驚きも無理はない。彼らの前に姿を現した者は、リュ・リーンによく似た漆黒(ぬばたま)の髪に、薄く日焼けはしているが白い肌をしていた。まるで兄弟のようによく似ている。
 唯一違っているのは、その瞳の色であろう。リュ・リーンの深く憂いが籠もった暗緑の瞳に比べ、目の前の若者の瞳は黒っぽい灰色をしていた。
 リュ・リーンはその事実に、がっかりしたようにため息をつく。彼は現れる若者が自分と同じ瞳の色を持っていることを期待していたのだ。自分と同じ瞳を持ちながら、他国で育った者を見てみたかったのだ。
 期待が外れ、リュ・リーンはあっけないほど簡単にランカーンたちに背を向けた。
「殿下!?」
 ランカーンとネイ・ヴィーが同時に呼びかけたが、リュ・リーンはチラリと肩越しに振り返っただけで、向き直ろうとはしない。
「ランカーン。不合格だ。容色は俺とよく似ているが、瞳の色が違いすぎる。今度は俺の瞳の色とよく似た奴を連れてこい。それでは意味がないだろう」
「ひ、瞳の色以外は兄弟のようによく似ております、殿下!」
 このとき、ランカーンが初めて自分の被っていた仮面にヒビを入れた。こんなにアッサリと却下されるとは思ってもみなかったのだろう。
 狼狽えたランカーンを、ネイ・ヴィーが気の毒そうに見遣っていたが、リュ・リーンの決定が覆らないことを知っているのか、何も口を挟んでこない。
「瞳を見られなきゃ、いいんだろ」
 背を向けて歩き始めたリュ・リーンを呼び止めたのは、まったく聞き覚えのない、いや、よく聞き馴染んだ声だった。自分のものによく似た声に、リュ・リーンは思わず立ち止まったのだ。
「こいつ……声まで殿下に似ている」
 ネイ・ヴィーはゾッとしたように首をすくめ、足を止めたリュ・リーンを伺った。すべては王子自身が決めることだ。
 今度こそ向き直ったリュ・リーンが、自分によく似た若者の瞳をじっと注視していた。自分の言葉一つで、彼らの今後が決まる。それは戦のときの駆け引きよりも味気ない、退屈でくだらない決定のような気がした。
「俺の聞いた話じゃ、あんたの瞳をまともに見ることができる人間なんて、ほとんどいないってことじゃないか。顔もまともに見られないような奴らが、相手の瞳が何色なのかなんて気にするのか?」
 目の前に立っている者が何者か判っていないのか、リュ・リーンによく似た若者はズケズケと言葉を並べ立ててくる。傍らで聞いているネイ・ヴィーが、その不躾さに胃痛を起こしたように鳩尾を押さえた。
 リュ・リーンが喉の奥で小さな笑い声をあげる。決して友好的とは言い難い声音だが、目の前に立つ若者の口調を面白がっていることが明白な笑い声だった。
 王子はゆっくりとした足取りで、若者へと近づいていく。
 その様子をランカーンとネイ・ヴィーが、奇しくも同時に生唾を飲み込んで見守っていた。もしも、この黒髪の若者が王太子の機嫌を損ねていたら、問答無用で切り捨てられるだろう。
「俺の瞳を見る者がいない、だと? それは逆だな。皆、俺の眼を恐いモノ見たさでチラチラと盗み見るんだ。そして、そこに死神と同じ瞳を見つけて怯える。見ていないようで、彼らは見ている。死に魅入られるのが怖いくせに、死の淵を覗きたがるのさ」
 若者の目の前に立つと、リュ・リーンは笑みを表情から消し、ジッと相手を凝視した。脇からそのリュ・リーンの顔を見つめていたランカーンが、喘ぐように浅いため息を繰り返し顔を背ける。彼にはそこまでが限界だったようだ。
 無表情ななかに光るリュ・リーンの瞳は、呼び名の通りに魔性のものだ。誰もかれもが気を反らせなくなり、そのまま死へと誘われてしまいそうな錯覚に背筋を凍らせる。
 若者も、目の前で突如光り出したリュ・リーンの暗緑の瞳に、たじろいだように半歩下がった。初めて目にする人外の瞳に、驚きを隠せないのだろう。
「この瞳の名を知っているか? 魔の瞳(イヴンアージャ)と言うのだ。死の魔王ルヴュールと同じ、人間を暗黒の淵へと引きずり込む瞳だ」
 若者が下がった分だけリュ・リーンは相手へと近寄った。すると、また若者が半歩下がる。再び、リュ・リーンが近づく。また若者が下がる。
 それを数度繰り返し、足下の石につまづいて若者が地面に転がった。それでも、若者はリュ・リーンの瞳から視線を逸らすことができず、惚けたように暗く光る暗緑の瞳を見上げている。
 リュ・リーンは黒髪の若者を見下ろしたまま、うっすらと口元に被虐的な笑みを浮かべた。相手に覆い被さるように身を屈めると、相手の顔の間際まで寄り、さらに相手の瞳の奥を覗き込む。
「や、やめろ。それ以上、近づくな!」
 座り込んだまま背後に逃げようと、手足をばたつかせる若者の胸ぐらを掴むと、リュ・リーンはゆっくりと瞬きをした。
 途端に、魔性の呪縛が解けたように、若者の動きが止まった。肩で忙しなく息をしながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う様は、心底安堵しているように見える。
「少々、遊びが過ぎたな。だが、憶えておけ。今までに俺の瞳の呪縛から逃れた者はごく僅か。それも俺が本気を出していない場合ばかりだ。お前にできるのか、俺の真似事が?」
 リュ・リーンを見上げている若者が悔しそうに唇を噛みしめた。その顔つきを見下ろしていたリュ・リーンの口元に再び、相手を嘲弄するような笑みが浮き上がった。
「お前、名はなんという?」
 問われて、若者が訝しげにリュ・リーンを見上げる。さすがにまだ恐怖が去っていないのか、彼の瞳を注視することはなかったが。
 再度リュ・リーンに問われ、若者はもそもそと「シーディ」と答えを返す。その名を口に出して確認すると、リュ・リーンは満足したように頷いた。
「雇われる気をなくしたか、シーディ?」
 リュ・リーンは無感動な視線を若者に向け続けている。ランカーンがその様子を固唾を呑んで見守っていた。
「こんな目に毎日遭うのならごめんだ」
 シーディと名乗った若者がふてくされたように返事を返す。そして、自分をこの地に連れてきた青年のほうにチラリと視線を走らせ、すぐにそっぽを向いた。こんな目に遭うなんて約束が違うとでも言った態度だ。
「毎日? それじゃ、毎日ではなければいい、ということか?」
 やや嘲りを含んだリュ・リーンの声に、若者がギリリと奥歯を噛み締め、苛立った様子で吐き捨てる。
「どうせ他に行くところなんかないからな。ゼビ王国にだって、フラリと立ち寄っただけだし」
「ふん……。根無し草か……」
「悪いかよ!? 俺だって好きでさすらっているわけじゃないんだ!」
 リュ・リーンの口調に苛立ちを強めたシーディが、噛みつくように叫んだ。
 彼らの様子をハラハラと見守っていたランカーンが、その態度に顔をしかめて小さく呻く。この王子に対してこんな口調で返事をするとは……なんという恐れ知らずだ。
「さすらえる手足があるだけ、マシだろうに」
 そう言い捨てると、リュ・リーンは座り込んだ若者に背を向けて歩き始めた。今度は若者も、ランカーンも、黒衣の王太子を止めようとはしない。少し離れた場所で成り行きを見守っていたネイ・ヴィーが、ホッとしたようにため息をついた。
 が、彼の安堵もそこまでだった。再び足を止めたリュ・リーンがクルリと取り残された二人を振り返り、意地の悪い笑みを浮かべて言い放つ。
「シーディ。過大な報酬を期待しないのなら、雇ってやろう。……それから、ランカーン。こいつにトゥナの王宮での作法を学ばせろ。別に俺と同じ王太子の作法でなくてかまわん。だが、近衛兵程度の教養は身につけさせろ。お前との話は、それからだ」
 言い捨てると、リュ・リーンはサッサと伽藍庭園から出ていってしまった。あんぐりと口を開けてリュ・リーンの言葉を聞いていたネイ・ヴィーが、我に返ると、転がるように王太子の後を追いかけていく。
 取り残された金髪の青年と黒髪の若者は、目をひん剥いたまま、全身を星の銀色に染め、遠ざかっていく黒太子の背中を見つめていた。




 バタバタと背後に従い歩くネイ・ヴィーが何度目かのため息をついたとき、リュ・リーンはようやくチラリと振り返って、嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「俺の決定が不満か、ネイ・ヴィー?」
 俯きがちに歩いていたネイ・ヴィーがハッとして顔を上げる。自分が知らぬ間に不満を漏らしていたことにやっと気づいたようだ。
「申し訳……。出すぎたことを……」
「気にするな。陰でネチネチと嫌味を言う奴らよりマシだ。あのシーディという男がどこまで使い物になるかは未知数だ。お前の不安も当然だろう。……きっと、ウラートなら一も二もなく反対している」
 まとわりつくマントをうるさそうにたくし上げると、リュ・リーンは宮殿の外回廊から夜空を見上げた。凍てついた星たちは、今にも降ってきそうなほど鮮やかな輝きを放っている。
「でしたら、なぜあのように氏素性の知れない者を──」
「知れないからこそ、だ。貴族連中の息のかかった者が側にいたのでは息が詰まる。あの男なら鬱陶しい牽制も無視するだろう?」
「ですが、ランカーン卿の手の者です。ランカーン卿は前オフィディア伯の庶子。嫡子の現当主とはあまり仲がよいとは言えませんよ。彼が殿下に近づいてきたということは、充分に下心があるからですし……」
 見上げていた夜空から視線をそらすと、リュ・リーンはチラリとネイ・ヴィーを振り返った。宵闇のなかで見ると、リュ・リーンの瞳はいっそう物憂げな色をしている。
 まるで深い森の奥で誰かが訪れるのを待っている沼のようだ。周囲の音や空気まで呑み込みそうな暗い緑の瞳は、それを見ているだけで禁忌を犯している罪悪感に駆られる。
「俺の周囲に集う者の大多数は下心がある者ばかりだ。今さら一人二人増えたところで気にもならん。……ただ。ランカーンには、お前やウラートのような無私の忠誠はなくとも、自分自身の欲望には忠実だという利点がある」
 判るか? と首を傾げるリュ・リーンの態度に、ネイ・ヴィーは小さく首を振った。リュ・リーンの言いたいことが判らない。我欲に溺れる者など、リュ・リーンの側に置いておけるはずがない。
「ランカーンには権力が今どちらを向いているのか、正確に計るだけの洞察力がある。つまり、あれが俺に近づいてきたということは、ギイ伯や奴の義兄オフィディア伯よりも俺が玉座に近いと判断したということだ」
「自分の位置を探る物差しになさるおつもりですか?」
「そうだ。あいつには日和見な爺連中よりも若い分だけ野心がある。いけ好かない義兄から嫌味の一つも言われるだろうに、オフィディアの名を背負って外遊に出掛けていくだけの気概も。毒を盛ってくる陰険な輩ではない、と判断した」
 再びリュ・リーンは歩き始めた。ゆったりとした歩調だったが、彼の気配には僅かな緊張感が漂っている。それを鋭敏に感じ取ったネイ・ヴィーはまた小さくため息をついた。
「ご随意に、殿下。でも、あのシーディという者に何をさせるおつもりで?」
「近衛兵にする」
 振り返ることなく、リュ・リーンはネイ・ヴィーの問いに答える。それは日常会話のようにごくアッサリとした口調だった。
「こ、近衛兵ですって!?」
 思わず立ち止まったネイ・ヴィーであったが、リュ・リーンが足を止めないのを見て、再びバタバタと追いかけた。
 近衛兵になれる者は身元のしっかりとした騎士階級の者だけだ。それなのに、どこの誰とも知れない者を兵団に推挙できるはずがない。
「殿下。お気は確かですか!? そんなことできっこありません!」
「できない、のではない。やるんだ」
「殿下……!」
 情けないほど素っ頓狂な声をあげて抗議するネイ・ヴィーの態度に、リュ・リーンが意地の悪い笑みを向ける。
「誰が王宮の近衛兵にすると言った?」
「お……だって、近衛兵と言ったら王宮の……」
 パクパクと口を開閉させ、目を泳がせているネイ・ヴィーの様子が可笑しいのか、リュ・リーンはクスクスと喉を鳴らして笑っていた。そうやっていると、リュ・リーンも年相応の若者に見える。
「王子。意地の悪いことをしないで教えてください!」
 憤懣やるかたない、といった顔つきのネイ・ヴィーに対して、リュ・リーンは屈託ない笑みを浮かべていた。王子のその表情にネイ・ヴィーが困ったように眉を寄せる。
「か、変わられましたね、殿下」
「え? なんだって?」
「去年の冬頃から見ると随分と丸くなられた、と申し上げたのです。よく笑われるようになりましたし」
 眩しげに目を細めるネイ・ヴィーの様子に、リュ・リーンは居心地悪そうに肩をすくめた。突然に何を言い出すのかと思えば……。
「どうせ去年の俺は刃物のように尖っていたと言いたいんだろう」
「自覚があったんですか?」
 心底驚いているネイ・ヴィーの態度に、いささかリュ・リーンはムッとした。が、何を思ったのか、そのまま彼に背を向けてスタスタと歩き始める。
「あっ。ちょっと王子! 待って下さい。さっきの話の答えはなんだんですか!? 教えてくださいよ!」
 足早に歩き去るリュ・リーンの後ろを転がるようについていきながら、ネイ・ヴィーは自分の失言に苦虫を噛み潰していた。
 ここ最近のリュ・リーンの雰囲気の軟化に気を抜いていた。前までのリュ・リーンならもっと冷たい態度を取られただろうが、今でも十分王子は不機嫌になっている。
「俺をよぉっく見ているはずのお前なら判るだろう。それでも判らないのなら、俺自身よりも俺を知っているお前の義弟にでも聞け!」
「やめてくださいよ。ウラート卿なら、我がタウラニエスク家に養子に入って以来、一度も里帰りしてきてないんですよ。義弟なんて言われても、ピンときません! 第一、どうして彼が殿下以上に殿下のことを判るんですか!?」
「自分で考えろ」
 取りつくしまもないリュ・リーンの口調に、ネイ・ヴィーは情けない表情でため息をついた。やはりこの人には、油断してはいけないのだ。




 翌日、リュ・リーンは次姉の見舞いのためにオフィディア家へとやってきていた。
 しかし、随分と待たされているのに、いっこうに姉のところへ案内されない。しばらくの間、談笑につき合っていた姉の夫も先ほど出ていったきりで戻ってこない。
 焦れてリュ・リーンは部屋のなかをウロウロと歩き回っていた。他に誰も人がいないからいいようなものの、俯きがちな姿勢で行ったり来たりを繰り返す彼の姿は王太子の威厳とはほど遠い。
「いったい何をしているのだ!」
 とうとうリュ・リーンは部屋から飛び出すと、手近にいた召使いの一人を捕まえた。震え上がっているその男を脅しつけて、姉が臥せっている部屋へと無理に案内させる。
 屋敷の主人であるオフィディア候がギョッと顔を強ばらせてリュ・リーンを迎えたが、王子は相手の様子を完全無視して部屋の主へと声をかけた。
「姉上。お加減が悪いと伺って、急いで参上したのですが……。逢ってはいただけないのですか?」
 紗の降ろされた天蓋のなかで人の蠢く気配がする。人影がノロノロと起きあがり、こちらへと顔を向けていた。
 病人を少しでも明るい雰囲気の場所へとの心遣いからか、窓から差し込む光が姉のいる天蓋の内側まで届いている。肌寒さを多少は感じるが、澱んだ空気が漂っていないだけに陰気さとは無縁なことにリュ・リーンはホッとしていた。
 次姉は姉弟のなかでも、もっともリュ・リーンを甘やかせた姉である。長姉が優しくとも、時には厳しい言葉を口にするのに対し、次姉はリュ・リーンの我が侭をいつも寛容に許していた。
 よほど無理難題を押しつけたとき、本当に申し訳なさそうにできないと答える彼女の態度は、リュ・リーンには長姉の厳しい叱責よりも胸に堪えたものだ。
「リュ・リーン……? 病が移るわ。早くお帰りなさい」
「紗越しにお話することも叶いませんか? せっかくきたのに」
 低く囁くような女の声に、リュ・リーンは小さく眉をひそめた。最後に聞いた次姉ラスタ・リーンの声はこんなにか弱くはなかったはずだ。姉は明るい、光が弾けるような笑い声をあげる人だ。
「相変わらずね。──外してくださる?」
 後の言葉は、二人の間に立って途方に暮れている彼女の夫へと向けられてものだ。妻の容態を気にしつつも、王太子の要求をはねつけるだけの気概もないのか、オフィディア候は渋々といった態度で部屋から出ていった。
「結婚が決まったそうね、リュ・リーン。おめでとう。わたくしはそれまで生きていないかもしれないから、今のうちにお祝いを差し上げるわ」
「そのように気弱なことを! 父上が嘆かれます。早く元気になってください、姉上」
 苛立った口調でリュ・リーンが姉の言葉を遮る。彼の態度に、紗の向こう側からかすれた笑い声があがった。
「ずいぶんと背が伸びたのね。……死ぬ前にもう一度逢えて良かったわ」
「ラスタ・リーン姉上!」
 リュ・リーンの口調がさらに険しくなる。死ぬことを前提にした言葉など聞きたくない。自分はここに見舞いにきたのであって、遺言を聞きにきたわけではないのだ。
 しかし、リュ・リーンの思いを知ってか知らずか、ラスタ・リーンは自分の死を予見する言葉を覆しはしなかった。
「自分が死ぬか生きるか、判っているのよ。それだけ。悲観して言っているわけじゃないわ。……ねぇ、リュ・リーン。王宮の伽藍庭園はまだ綺麗に整備しているかしら? 荒れ果ててはいない?」
「えぇ。今は花たちは眠っていますが、春には赤や白の花たちで賑わうでしょう。皆で植えたナナカマドも花をつける──」
 肩を落とし、ため息をつきながらリュ・リーンは姉の言葉に答えた。彼女の瞳は自分を映しているだろうが、実際に見ているのは今ここにいるリュ・リーンではなく、幼い頃、たった一度ではあったが姉弟全員で訪れた伽藍庭園での光景だ。
 光り輝いていた幸福なひとときだった。リュ・リーンのなかではおぼろげな記憶でしかないが、子どもたちの守り役たちをすべて退け、両親と姉弟だけで過ごした数少ない想い出の場所だ。
 王宮のなかで、ほとんど顔を合わせることのない姉弟たち全員が逢えたわずかな時間だった。毎年夏の間は戦場に出ている父王が、その年はずいぶんと早く帰還でき、のんびりと家族だけでくつろげるとは、望外の幸運であっただろう。
 あの風景を憶えているからこそ、自分たち姉弟は決定的にいがみ合うことなく今に至っている。
「秋の終わりだったわね。赤く色づいた蔦葉や枯れずに最後まで咲いていた紅いカリアスネが、とても綺麗な色をしていて……。リュ・リーンはまだお母様に甘えたい盛りで、わたくしが成年を迎える頃だった。あれが子供時代の──お母様との最後の想い出」
 リュ・リーンは姉の言葉に応じることができず、立ち尽くしていた。姉の言うとおり、あれが母が王宮の外に出られた最後の機会だった。その後すぐに母は胸の病を患い、翌年の冬に悪化すると大量に吐血して他界したのだから。
「ねぇ、リュ・リーン。お祝いは何が欲しい?」
 ふとラスタ・リーンが我に返り、リュ・リーンを呼ぶ。姉の問いに、王子は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに口を引き結んで微かな微笑みを浮かべた。
「姉上のお顔を見せてください」
 天蓋から戸惑いの気配が伝わる。しかし拒絶の言葉は聞こえてこない。再び、リュ・リーンが顔を見せてくれと声をかけると、天蓋の紗が微かに揺れた。
「病んだ姿を見せろというの? 化粧もしていないわ」
「姉上のお顔を見ないまま帰れと仰るのですか?」
 弟の表情のなかに何を見たのか、ラスタ・リーンは長い長いため息をつく。
「ここに、おいでなさい」
 頑固な弟に諦めたのか、意外とあっさりラスタ・リーンは王子を手招きした。姉が心変わりしないうちにと、リュ・リーンは足早に天蓋に近寄り、姉が作った紗の隙間から天蓋のなかへ割り込んだ。
 ラスタ・リーンの顔色はかなり悪かった。身体も随分と痩せている。夏のわずかな間だけで病が急速に進行したらしい。病んでなお輝きを失わない金髪と、深い蒼色をした瞳の大きさばかりが目立った。
 彼女の色を失った唇が弱々しい笑みを刻む。
「ひどい有様でしょう?」
「……いいえ。今もお綺麗です」
 嘘ではなかった。痩せ衰え、身体が弱っていてさえ、姉は光に包まれているようだった。ただ、この痩せ方に憶えがある。
「姉上……。やはり胸を──?」
 死に際の母によく似ていた。ラスタ・リーンの容姿は父親であるシャッド・リーンに似て華やかだったが、痩せて眼の大きさばかりが目立つ顔は、亡くなる前の母の状態にそっくりだった。
「そうよ。移るかもしれないから側に来て欲しくなかったのに」
 リュ・リーンはベッドの縁に腰を降ろすと、姉の細い指をとり、そっと握りしめた。なんという細い指だろう。危うく力を入れすぎたら折ってしまいそうだ。幼い頃に、繋いだ手はもっとふくよかであったのに。
「皮肉ね。エミューラ・リーン姉様のほうがお母様に似ているのに、死に方はわたくしのほうがそっくりになりそうよ」
「やめてください。まだ、希望はあります! 遠方の国の薬を手に入れましょう。国中の医者を集めて……」
 リュ・リーンの言葉にラスタ・リーンが微笑みを浮かべる。その表情にリュ・リーンは言葉を詰まらせた。
 それは死を悟った者の顔だった。諦めて自暴自棄になっているわけではなく、ただあるがままに、命の灯火が消える日を待っている表情だ。
「死ぬのは、怖くないの。死の王が迎えにきても平気よ。きっとルヴュール神は、リュ・リーンによく似た綺麗で優しい顔をしているでしょうから」
 自分の顔が綺麗で、しかも優しいはずがあるものか! リュ・リーンは喉まで出かかった叫びを呑み込んだ。姉は病に臥す自分を嘆くどころか、死を楽しんでいるように見える。
「首が据わったばかりの黒髪の赤子に逢ったときは、怖かったわ。本当に。死の神が目の前にいるような気分になってね」
 王太子の胸がチクリと痛んだ。皆がそう思っているだろう。自分の黒髪と暗緑の瞳は、この国の人間には死そのものだから。生の対極にあるものが目の前に立っていて怖れるなというほうが無理というものだ。
 それでも、周囲の人間の反応や言葉は否応なしにリュ・リーンを傷つける。
 顔をしかめたリュ・リーンにラスタ・リーンが笑いかけた。青ざめた肌に、ほんのわずかだが赤みが戻ってきている。
「でも、あの伽藍庭園で走り回っている男の子は、とても綺麗な瞳をしていた。わたくしたちは知っているわ。その鉄仮面の下にどんな優しい顔を持っているのか」
「姉上……。それは買いかぶりすぎです」
 リュ・リーンの囁き声にラスタ・リーンがそっと俯いた。
「ごめんなさい。わたくしたちの態度がリュ・リーンを傷つけているのよね。死を怖れるばかりに、死の神に似ているというだけの理由で……」
 何も答えないリュ・リーンを伺い、ラスタ・リーンの視線がチラリと上がり、すぐにまたベッドの上に落とされた。
「リュ・リーンを傷つけたかったわけではないのよ。知らない死というものが、怖かっただけ……。でも、もう怖くないわ。全然、怖くないのよ。お母様の穏やかな死に顔を見てからは、全然怖くないの。わたくしも静かに逝ける──」
 ラスタ・リーンの指を握っていたリュ・リーンの手に力が込められた。その僅かに強められた力に答えて、ラスタ・リーンも細い指で握り返す。
「また次に生まれていくための、魂の船に乗るだけよ。寂しくないし、怖くもない。だから、またどこかで逢いましょうね、リュ・リーン?」
 顔を上げたラスタ・リーンは、やつれた顔に花のような笑みを浮かべていた。光を弾き、自身が輝きを放っている金色(こんじき)の花のような笑みを。
 リュ・リーンは強ばる顔になんとか笑みを刻み、小さく頷くしかなかった。死の息吹は戦場で間近に感じたことがある。しかし、こんなに穏やかに寄り添う死は知らない。
「また皆と一緒に、あの伽藍庭園で遊ぶのよ。小さかったナナカマドが、大きくなって迎えてくれるわ。だから、そのときには迎えに行ってあげる。きっとリュ・リーンは不慣れで迷子になってしまうでしょうから」
 唇を噛みしめて胸に刺さる痛みをやり過ごすと、リュ・リーンはようやくしっかりと笑みを口元に刻んだ。
「お願いします、姉上。母上と一緒に迎えにきてください」
 満足げにラスタ・リーンが頷き、口を開きかかったとき、部屋の入り口に人の気配がした。心配したオフィディア伯が様子を見に来たのだ。
 紗の間からのぞく姉弟の様子に一瞬狼狽した表情を浮かべたが、館の主は何も言わず、再び姿を消した。
「サイモスが心配しているわ。行きなさい。……また逢いましょう」
 リュ・リーンは名残惜しげに口を尖らせたが、姉の言葉に素直に従って立ち上がった。しかし、すぐには戸口へと向かわず、握りしめたままの細い指先にそっと口づけを落とし、低く囁いた。
「また、お逢いしましょう」
 胸が苦しかった。鋭い剣をねじ込まれたとしたら、こんな痛みが走るのだろうか? そう思うくらいに苦しかった。それを無理矢理にねじ伏せると、リュ・リーンは自分にできる最良の微笑を姉に向ける。
「さよなら。また逢いましょう。……今日はわたくしが見送るわ。わたくしの旅立ちのときには、リュ・リーンも皆と一緒に見送ってくれるでしょうから」
 姉の言葉に頷き返し、リュ・リーンは彼女に背を向けて歩き始めた。背中に暖かい視線を感じる。それは日だまりのようにリュ・リーンを包み込んでくる。
 戸口の陰で佇んでいる義兄に面会の礼を伝えると、リュ・リーンは最後にもう一度天蓋のなかの姉と視線をかわした。姉の大きな瞳が笑みに細められる様を確認し、リュ・リーンは今度こそ廊下へと歩み出した。
 もう二度と振り返らない。
 次姉ラスタ・リーンが、長い旅路へと出発したという知らせがリュ・リーンの元へ届いたのは、冬の寒さがもっとも厳しくなる時期のことであった。

〔 16428文字 〕 編集

後日譚

No. 79 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第09章:竪琴

 半年ぶり以上の王都(ルメール)であったが、リュ・リーンはそれほど深い感慨を抱くこともなく大通りを駆け抜けていった。
 本来なら聖地にずっと留まっていたかった。だが、母国に戦勝報告をしていない。面倒なことであったが、それを終わらせないことには、彼の戦は本当の意味で完結しないのだ。
 海のある西側から肌を刺す寒風が吹きつけ、凍てついた大地は石よりも硬く、騎乗している愛馬の蹄を容赦なく酷使させる。彼が生まれ育った大地は今まさに氷の大地へと変貌しているところだった。
 常に黒衣をまとっているリュ・リーンの姿は、雪が舞い始めた白銀の世界ではよく目立つ。地響きを轟かせて近づいてくる馬影に、家々の戸口には王都の住民たちが顔を覗かせた。
 その目の前を駆け去っていく未来の王に彼らは口々に歓声を送ってくる。リーニスに侵攻してきたカヂャ公国軍を、完膚無きまでに叩きのめした王子の戦いぶりは、すでに人々の知るところとなっていたのだ。
 リュ・リーンが王宮に近づいていくと、扉を固く閉ざしていた城門がギシギシと軋んだ音を立てて開いていった。
 その空間を当たり前のようにして駆け抜けると、リュ・リーンは下馬庭まで一気に駆け寄った。背後に続く騎士たちもそれに倣って付き従う。
「リュ・リーン殿下、ご帰還!」
 城門周辺を守護している兵士たちの間から、轟くような歓声があがった。その騒乱のなか、リュ・リーンは相も変わらず無愛想な表情のままで馬を下りる。
 すぐに近寄ってきた馬丁に手綱を手渡し、疲弊気味の愛馬の首を柔らかく叩いて労ってやる姿に馬丁が苦笑を漏らした。この王子は人間よりも動物に優しい。
「こいつもよく走って疲れたでしょう。たんまりと褒美をやることにしますです、殿下」
 真面目腐った口調の馬丁にチラリと視線を走らせると、リュ・リーンは微かな笑みを口元に湛えた。
「あぁ、頼む。ほとんど毎日乗り回していたからな。よくやってくれたよ。ゆっくりと休ませてやってくれ」
 馬丁は、滅多に口をきかないリュ・リーンが笑みまで浮かべて声をかけてきたことに驚いた。この夏の間に、王の跡取りは身体だけでなく、精神も随分と成長したようだ。
「それとも、聖地の綺麗なお姫様を妃に迎えるってんで、あの仏頂面の王子様でも嬉しいのかねぇ」
 旅用の簡素なマントをひるがえして去っていく王子の背中を見守りながら、馬丁は嬉しそうに微笑んだ。何にせよ、王子の顔に笑みを見つけることは稀なことだ。今後、その機会が増えるというのなら、喜ばしいことだった。
 馬丁から評価を上げてもらえた当のリュ・リーンのほうはと言えば、表面上は浮かれた様子などまったく見せていなかった。いや、実際のところは鬱屈とした気分でいたと言ってもいいだろう。
 王都へと帰還しなければならない時期がきたとき、彼は身を引き裂かれるような思いで聖地を後にしてきたのだ。カデュ・ルーンがいない場所はなんと味気なく、灰色に染まっていることか。
「おや。英雄のお帰りで。ようこそ、ようこそ」
 粘質の強い声に背筋を撫でられ、リュ・リーンは思わず身震いしそうになった。前方の廊下の支柱に寄りかかるようにして、三十そこそこの男とその取り巻きらしい数人が立っている。
 王宮へと足を踏み入れ、父王の待つ居室へと向かおうとしていたところだ。その宮殿のなかでも深部に近い場所に出入りできる者は限られている。
「これはギイ伯爵。そんなところで何を?」
「なぁに、大事な義弟殿の無事を確認しに参ったのですよ。よくぞ生きて帰られた。カヂャの蹄に蹴散らされはしないかと心配しておりましたぞ」
 ギイと呼ばれた男の明るめの青い瞳が、ギラリと光る。その眼は「どうして死んでくれなかった」と非難がましくリュ・リーンを責め立てていた。その取り巻きたちも口にこそ出さないが、友好的とは言い難い視線をリュ・リーンへと浴びせる。
「お心遣い感謝しよう。そうそう、姉上はいかがお過ごしです? 随分とお逢いしておりませんが」
「もちろん、元気ですとも。元気でいてもらわなくては。私の大事な妻ですからねぇ。それにしても、義弟殿。戦場ではこの王都よりも美味いものを食べさせてもらえたようで。その勢いで身長が伸びては、いずれ宮殿の天井を突き抜けてしまわれるのではないか?」
 クスクスと喉の奥に絡まるような笑い声をあげながら、リュ・リーンの義兄は冷たい視線を送り続けてきた。半年ほど見ない間に伸びたリュ・リーンの身長ですら、目の前の男には鬱陶しかったのだろう。
「ご忠告通りにはなりますまいよ。俺は父に似ているそうだからな。……では、失礼する。王に報告をせねばなりませんから」
 相手の冷笑に負けない冷たい笑みを口元に浮かべると、リュ・リーンは男たちを押しのけるようにして宮殿の奥へと向かった。
 その彼の背を憎しみの籠もった幾対もの瞳が見送っている。それを背に痛いほど感じながら、リュ・リーンは苛立ちに眉をひそめた。
 戦に圧勝したとしても、王都の人間が自分に向ける視線が変わることはないだろう。その評価を完全に覆すには、リュ・リーン自身が王位に就き、彼らに忠誠を誓わせるしかあるまい。
 奥宮殿へと足を向け、父王が待つ部屋への取り次ぎを頼むと、リュ・リーンは控えの間をウロウロと歩き回った。帰ってきてすぐだというのに、宮殿に立ち込めている毒の臭気に吐き気がする。
「カデュ・ルーン……」
 氷原の向こうの街に残してきた娘の名を呟くと、リュ・リーンは暖炉のなかで揺れる炎をじっと凝視した。揺らめく赤い手がかつて彼女が舞っていた舞の動きに見えてくる。
 彼女を守るのだと心に誓いながら、それでもリュ・リーンの内心から不安は去らなかった。こんな場所に彼女を連れてこなければならないのかと思うと、それだけで暗澹とした気分になってくる。
 頑強な壁を拳で殴りつけ、リュ・リーンは小さくうめいた。
「彼女に何かあったら……俺はどうすればいいんだ」
 無意味に募る焦燥感を落ち着けようと、リュ・リーンは幾度も深い呼吸を繰り返し、脳裏に銀の舞姫を思い描いた。不思議と、彼女の笑顔を思い出すと心が鎮まってくる。
 眼を軽く閉じ、眼裏(まなうら)の花の微笑みに微笑み返すと、リュ・リーンは安堵したように肩から力を抜いた。昔ならまだ不機嫌さを引きずっていただろうに、今は彼女を思い出すたびに、僅かではあるが心に静穏が訪れる。
「カデュ・ルーン」
 彼女の名を呼べば、心の奥底に暖かい灯火が点る。本当に、彼女の名にはいったいどんな魔法がかけられているというのだろうか?
 廊下から足音が聞こえてきたのは、そんなときだった。
 その足音が控えの間の前で止まり、その足音の主は無遠慮に大きく扉を開いた。その空間から大柄な男が室内へと滑り込んでくる。
「お、親父! こんなところまで何しに出てきた」
 本来なら息子であるリュ・リーンが王の居室に案内されるはずだ。それが、王自らが控えの間まで足を運んでくるとは。いかにも腰が軽い国王である。
「リュ・リーン~。息災であったかぁ~?」
 半年前と変わらぬ間延びした声に、リュ・リーンは脱力したように肩を落とした。ときどき、自分の父親が本当にこの男なのかと疑いたくなる。こんなとぼけた王がどこにいるというのか。
「元気だからこうして報告に戻ってきたんだ。どこを見てるんだ、まったく」
「んふふ~。やぁっと背が伸びたなぁ」
 大股で息子に歩み寄ると、トゥナ王は息子の顔を両手で挟み込んでじっとその暗緑の瞳を覗き込んだ。
 かつては腰を屈めなければ、間近に見ることができなかった息子の瞳を、今は悠々と見ることができる。息子の身体の成長ぶりにそうごを崩すと、王は子どものような笑い声とともに息子の頭をグリグリとなで回した。
「うわっ。やめろってば。俺はもう子どもじゃないんだぞ!」
「いや~。子どもだ、子ども~。リュ・リーンはぁ、いつまでたっても~、余とミリアの子どもだぞぉ?」
 どうしようもないほど笑み崩れている父親の顔を見上げ、リュ・リーンは困惑とともに苦笑いを浮かべた。どこまで真実で、どこまで偽りなのか判らないが、父王の態度が今はひどく懐かしい。
「この調子ならぁ、来年の冬には余の背に追いつくな~」
 いつまでも息子の髪をくしゃくしゃと掻き回している王に、リュ・リーンが苦笑混じりの声をかける。
「これじゃ、いつまで経っても戦勝の報告ができないんだがな、親父」
「おぉ~。そうそう~。忘れていたぞぉ。……でも、お前が報告せんでも、ウラートからちゃ~んと聞いているがなぁ」
 戦地からリュ・リーンに付き従っていたウラートが報告書を送り続けていたのだろう。トゥナ王はニヤリと口元をつりあげて悪戯っぽい笑みをみせた。
「どうせそんなことだろうと思った。しかし、今回の戦は親父が裏でグンディを牽制してくれたお陰で助かったよ。せっかくトゥナが勝っても、ゼビやミッヅェルがグンディに呑まれていたんじゃ目も当てられないからな」
 手近な長椅子に腰を降ろしたトゥナ王がさも楽しそうに息子を見上げる。そして、リュ・リーンが思ってもみなかった言葉を突きつけてきた。
「んっふっふっ。よく判っているじゃないかぁ。それでぇ、聖地ではカデュ・ルーン姫といいことしてきたか?」
「な、なななな……! 何を……!」
 真っ赤な顔色になった息子の様子に、トゥナ王シャッド・リーンはつまらなさそうに口を尖らせた。
「こ、このスケベ親父! どうしてそういう話が出て来るんだ。俺と彼女はまだ婚約したばかりで、結婚しているわけではないんだぞ!」
「なんだ~? まだなのか~? チェッ。早く孫の顔がぁ、見たいのにな~。どうせ来年には一緒になるならぁ、早いも遅いもないがなぁ」
「けじめってものがないのか、親父には!」
「けじめ~? だって、お前ぇ、竪琴(リース)を置いてきたんだろうぅ? あれの意味が判ってないのか~?」
 突然に出てきた竪琴リースという単語に、リュ・リーンは戸惑い、それを贈る意味を真面目に考え始めた。
「確か竪琴(リース)の意味は“汝、その音色にて我を慰めよ”だったと──」
「そうそう~。で、それから~?」
「そ、それから? それ以外の意味があるのか!?」
 息子の狼狽ぶりにシャッド・リーン王は呆れたように目を見開いた。
「リュ・リーン~。もしかしてぇ、本当に知らないのか~?」
 父親が目の前で深いため息をつく姿を見て、リュ・リーンは顔を強ばらせる。いったい竪琴(リース)を贈るということにどんな意味が込められているというのだ。
 返事もできずに突っ立っている息子を差し招くと、トゥナ王は自分の隣の席へとリュ・リーンを座らせた。
「あのなぁ、竪琴(リース)という単語は女性詞だろう~? だからぁ、特定の女の姿を指すんだなぁ」
 ため息混じりの父の口元を凝視して、リュ・リーンは一語一句を聞き逃すまいと息をひそめる。そんな息子の様子に、トゥナ王はますますため息をついた。
「その特定の姿ってのはなぁ~……」
 ふとそこで口をつぐむと、シャッド・リーン王は生真面目な顔をしている息子の耳元に口を寄せ、ごにょごにょと小声で囁きかける。途端、リュ・リーンの顔が先ほどの赤面以上に赤くなった。
「女の……声? それも……それも……」
 動揺に震える息子の声に、トゥナ王は再びため息をついた。トゥナの王族男子なら、成年の儀式の一部で経験済みであろう。だが、目の前の息子がその場数を踏んでいるとは思いがたい。
 この手の恋愛の駆け引きにはまるで疎い息子の横顔を苦笑混じりに眺めると、トゥナ王は励ますようにその背を叩いた。
「まぁ、なるようになるさ~。どうせ来年にはぁ、カデュ・ルーン姫はここにくるんだからぁ~。というわけでぇ、孫の顔を~楽しみに待ってるぞぉ」
「そんな……。そんなバカな……。俺はそんなこと全然知らなかったぞ……。そんな……」
 もはや息子が自分の声など聞いていないほどの衝撃を受けていることに、トゥナ王はようやく気づいた。鈍すぎるのも良し悪しだが、どうやら息子の場合はこちらの知識のことも鍛え直しておく必要性があるようだった。
「嘆くな、リュ・リーン~。父がついておるだろぅ?」
 悄然と肩を落とすリュ・リーンが、恨みがましそうな視線を父へと向けた。なんの慰めにもなっていないような父親の言葉に、文句の一つも並べてやりたいところだろう。
「どうしてあのとき、竪琴(リース)なんか持ってきたんだよ! あれさえなかったら、こんな恥ずかしい想いしなくても良かったんだぞ」
「そうか~? でも、そうなったらぁ、お前はこれからもずぅっとぉ、知らないままだったんだぞ~?」
「うぅ……。そ、それは……。で、でも! カデュ・ルーンがこのことを知っていたら……知っていた……ら……」
「ま~、知ってるかもなぁ」
「あぁっ! 耐えられない。彼女の前で俺はどれだけバカ面をさらしていたんだ!?」
 呻き声とともに頭を抱えたリュ・リーンの背を再び叩くと、シャッド・リーン王は少しも慰めにならない言葉を息子に贈った。
「リュ・リーン~。長い人生のなかにはなぁ、幾つかの汚点も残っているものだぞ~」
「こんな汚点なんかいらない! まだ負け戦のほうがマシだ!」
 父の言葉に反論しながら、リュ・リーンは自分の片手で自分の首を締めつける。こうでもしないと、叫びだしてしまいそうだ。
 なんという失敗だろう。これまで、彼女がリュ・リーンの贈った竪琴(リース)を奏でている音色を平然とした顔で聞いていた。その音色を思い出すたびに、自分の無知に罵声を浴びせてやりたくなってくる。
 竪琴(リース)を贈るという意味にそんなものが含まれているなんて、少しも考えつかなかった。女が、寝所であげる泣き声だなんて……!
 彼女はなんと思っただろう? しかも、贈っておいて何もしなかった自分を、どう感じただろう?
 信じられない失態に、リュ・リーンは呻き声をあげ続けた。




「素晴らしい勝ち戦だったとか……。王国中、殿下の噂で持ちきりでございますよ、リュ・リーン様」
「戦模様をぜひともお聞きしたいものですな。きっと、他の者も聞きたがっておりますぞ」
 もったいぶった口調の貴族たちに取り囲まれ、リュ・リーンはうんざりしていた。なぜ彼らと楽しくもないのに、一緒にいるのだろうか。まだ始まったばかりの饗宴の空間を、リュ・リーンは冷めた視線で見回した。
 王都に帰ってきてからのリュ・リーンは、表面上は戦の起こる前と大差ないように見えた。身長が飛躍的に伸びて同年代の若者よりも高くなったお陰で、彼の欠点をあげつらう箇所が減り、不満に思っている輩もいるようであるが。
「我が娘など、殿下の姿絵を買い求めておりますぞ」
「姿絵……?」
 芳しくない表情のまま、リュ・リーンは隣でおしゃべりを続ける男の顔を見返した。いま、彼はなんと言ったか?
「そうそう。街でもあちこちで飛ぶように売れておるとか。今では宮殿どころか、王国中の女たちの憧れですな」
「どうしてそんなものが出回っている?」
「もちろん。リーニスの朱の血戦の英雄に娘たちが熱をあげているせいではありませんか」
「誰もかれも、殿下に夢中でして。他の公子たちが妬むほどですぞ」
 リュ・リーンの声が一段と低くなったことにも気づかず、貴族たちは下品な笑いを口元に浮かべている。彼らには、リュ・リーンの声の調子から王子の機嫌の善し悪しを判断することなどできないのだろう。
 元から鋭いリュ・リーンの視線が、いつもに増して険しくなった。
 自分の知らないところで、自分の虚像が勝手に歩き回っている。顔も知らない女たちが身勝手な想像で王子に憧れを抱くのは自由だが、それでリュ・リーンの気分がよくなるわけではない。
 苛立ちを込めた視線を周囲を取り巻く男たちに送ってみるが、彼らはいっこうにリュ・リーンの不機嫌さに気づいていなかった。
 こんなときにウラートがいたならば、彼がさりげなく不愉快な連中からリュ・リーンを遠ざけてくれたことだろう。しかし、ウラートがいない今は、リュ・リーン自身がなんとかしなければならなかった。
 リュ・リーンは全身から不機嫌さを放出して気難しい顔をしている。ところが、貴族たちはそれを照れとでも受け取ったのか、なおも揶揄するようにしゃべり続け、遠巻きにリュ・リーンを眺めている貴婦人たちへと意味ありげな視線を送っていた。
 不快感にリュ・リーンの背中には虫酸が走っている。もうこれ以上は辛抱できないギリギリいっぱいのところだ。
 と、そのとき。饗宴の広間にさざ波のように歓声が広がっていった。
 振り返ったリュ・リーンの視線の先に、数名の女が目に入った。他のどんな貴婦人たちよりも華やかに、艶やかに、堂々と人垣を割っていく彼女らのすぐ脇には、女たちを引き立たせるためにいるとしか思えないような男たちが寄り添っている。
 うっすらと、リュ・リーンの口元に嘲弄が浮かんだ。男たちは威厳を保とうと必死なようだが、隣りに立つ女たちのほうが数段貫禄があるように見えるのだ。リュ・リーンには、どんな道化の狂態よりも滑稽な光景に映った。
 人の波を掻き分けて進む集団が、リュ・リーンのいる場所へと一直線に向かってくる。その様子を、リュ・リーンは黙って見守っていた。自分のほうから近づいていこうとはしない。
「ごきげんよう、弟殿。今回のお手柄、お祝い申し上げますわ」
 リーニス地方に広がっていた秋の麦穂を思わせる豊かな女の声に、リュ・リーンは慇懃に腰を折った。長姉エミューラ・リーンが、他の姉たち数人を引きつれてリュ・リーンのために催されている饗宴へとやってきたのだ。
 それまでリュ・リーンを囲んでいた貴族たちが、遠慮した様子ですごすごと引き下がっていく。その逃げ足を内心で嘲笑いながら、リュ・リーンは姉の白い手をとり、薄い手袋に覆われた爪先に接吻を落とした。
「姉上も相変わらずお美しく、お健やかなご様子で何よりです」
「お前も相変わらず綺麗な顔ね。背も伸び、すっかり凛々しくなったこと。我が家の年若い侍女たちまでお前の話ばかり。黒衣の王子は、かしましい女たちの噂の種よ」
 無表情なリュ・リーンの顔をじっと観察していた姉たちが、小さく喉の奥で笑い声をあげた。皆、それぞれに父母の美貌の恩恵に預かり、光り輝かんばかりの華やかさがある。
 その中でも、長姉エミューラ・リーンはもっとも母親の容姿を濃く受け継いでいると聞く。栗毛の滝髪を高く結い上げた髪型の下に覗く、すんなりとした(おとがい)の輪郭が、リュ・リーンのなかのぼんやりとした記憶の母と重なっていった。
 ふと、この場にいる姉たちの数に気づき、リュ・リーンは首を傾げた。
 彼女たちの数は四人。リュ・リーンには六人の姉がいる。数年前に他界した一番下の姉を抜けば、この場には五人の姉が揃っていなければならないはずだ。
 長姉のエミューラ・リーンに気取られていて、リュ・リーンはそのことにようやく気が付いた有様だった。
「ラスタ・リーン姉上はどうされました? お姿が見えないが……」
 この場に居ないのは次姉である。すぐ下の妹を思いやっているのか、長姉エミューラ・リーンの表情が翳った。
「夏の終わりに体調を崩してね……。以来、床に臥せっているわ」
「それほどお加減が悪いのですか? 少しも知りませんでした」
「お父さまが、あなたには知らせないように仰ったのよ。お姉さま、すっかり痩せてしまわれて……もう……」
 胸を詰まらせて涙ぐむ三番目の姉の肩を、エミューラ・リーンがそっと抱き寄せて首を振る。
「まだ、どうかなったわけではないわよ、セイシャ・リーン。お祝いの席で、こんな湿っぽい話は止めましょう。……ねぇ、皆さん。楽師に竪琴(リース)を弾かせてちょうだいな。今日は弟の戦勝祝いなのですからね」
 声を高くしたエミューラ・リーンの態度に、沈みそうになった場の雰囲気が再び華やいでいった。
「リュ・リーン……。ちょっとこちらへ……」
 長姉エミューラ・リーンが手招きして末弟を側に呼び寄せたのは、王の娘の病の翳りをうち消すように賑々しく楽師たちが音楽を披露し、人々がその音色に合わせて踊り始めた頃だった。
「おや、エミューラ。我が愛しの妻よ。またまた君は弟殿を独り占めかい?」
 粘質な男の声に、リュ・リーンは一瞬だけ厭そうな表情をしたが、それをすぐにヴェールの奥へとしまい込んで、いつもの無表情に戻った。
「まぁ、シロン。あなた、義弟にやきもちでも焼いているの? わたくしの夫はそんなに狭量な男だったかしら」
 わざとらしく肩をすくめるエミューラ・リーンに、彼女の夫であるギイ伯爵はムッとした表情で答えを返した。
「もちろん、やきもちなんか焼いているものか。しかしね、君。英雄を独り占めというのは良くない。彼は王国中の宝ではないかね」
 皮膚の上をまとわりつく男の声に、リュ・リーンは小さく身震いする。何度聞いても、馴染めない男の声だ。どうしてこんな男が自分の義兄であるのか、ほとほとうんざりしてくる。
「あら、すぐにあなたがたの英雄はお返しするわよ。でも、ほんの少しくらい、弟とお話させてもらっても文句を言われる筋合いじゃないと思うわ。そうでしょ、シロン?」
 あどけない童女のように無垢な微笑みを夫へと向けたあと、エミューラ・リーンは弟の背を押して幕間を通り抜け、バルコニーの一角に腰を落ち着けた。
「嫉妬深い夫を持つと大変だわ。そう思わないこと、リュ・リーン?」
 苦笑いを浮かべる姉の言葉に同調することなく、リュ・リーンは無表情のまま眼下のポトゥ大河を眺めている。この河の上流、遙か大タハナ湖の畔に立つ都にいるはずの恋人を想いながら。
「相変わらず無愛想ねぇ。その態度じゃ、うちのオリエルが癇癪を起こすのも無理ないわね」
「別に謝るつもりはありませんよ。十歳の子どもと見合いさせられたこちらの身にもなってもらいたい。俺は子守じゃありませんからね」
 冷え冷えとしたリュ・リーンの声に、エミューラ・リーンがつまらなさそうにため息をついた。
「なんて愛想のない叔父様かしらねぇ。可哀想なオリエル。こんな人と一緒にならなかっただけ幸せってことかしら」
「嫌味を言うためにこんなところに引っ張ってきたのですか、姉上? 娘のオリエルとの縁談を持ちかけてきたのはそちらでしょう。そのあとに、断ってきたのもそちらだ。俺にとやかく言うのは止めてくれ」
 苛立ちの籠もったリュ・リーンの声に、彼の姉は小さく(かぶり)を振って肩をすくめた。
「オリエルとのことをうるさく勧めてきたのは、シロンのお父上よ。判っているでしょう。先の国王陛下、わたくしたちのお祖父様が奴隷に産ませた娘を貰い受けてから、ずっと、あの人は王家に劣等感を抱いているのよ。末っ子のシロンを……王家の姫に産ませた子どもの血筋を少しでも王家そのものに近づけようと必死」
「それで、姉上は同情して自分の娘を、自分の弟と見合いさせたと? ばかばかしいにもほどがある! ギイ伯は現国王の従弟という地位と、未来の国王の義兄という地位があるではないか。それ以上を望むとあらば……」
「望めるのなら、玉座そのものを欲しがるわよ、あの人」
 リュ・リーンの言葉を遮って、エミューラ・リーンは不吉な声をあげる。ひそめた声の迫力にリュ・リーンが眉を寄せた。
「娘との縁談は、きっとお前が壊してくれると踏んでいたから、他からなんと言われようが平気よ。オリエルの癇癪をなだめるのが大変でしたけどね。でも、お前が妃を迎えるなれば、また状況が変わってくるわ」
「彼女に手出しするなら、姉上でも容赦しない!」
 リュ・リーンの声が一気に殺気立つ。普段から人々が怖れる彼の瞳の色が、夜の闇のなかで、鋭すぎる輝きを点した。その様子を見て、エミューラ・リーンが身震いする。
「いつ見てもぞっとするわね、お前の瞳の色は……。いいわ。お前にその覚悟があるなら大丈夫でしょう。自分の妻を守るための努力を惜しまないことよ。お前自身とともにね」
 黙ったまま姉を睨みつけている弟に微かな微笑みを浮かべると、エミューラ・リーンは弟と並んで大河を見下ろした。
「まわりに無関心だったお前を夢中にさせるなんて、どういう娘かしらね。綺麗な子? 優しい子なのかしら?」
「……美しい、白いカリアスネの花のような人です」
 夜風に吹かれながら、リュ・リーンは淡い微笑みを口元に浮かべる。弟の整った横顔を見つめていたエミューラ・リーンが満足そうに頷いた。
「お前のそんな顔は初めて見たわ。良い娘なのでしょうね。今から逢うのが楽しみよ」
 姉の囁き声に、リュ・リーンは意地の悪い笑みを湛えて混ぜっ返した。
「自分の娘をフッた男の妻のあら探しでもするつもりでしょう?」
 そのリュ・リーンの言葉に、エミューラ・リーンが鼻で笑う。さも気味がいいといった態度で弟を見遣ると、風に絡まる後れ毛をなで上げた。
「もちろんですとも。娘の敵討ちもさせてもらえないなんて、母親として、これ以上つまらないことはないわ」
「彼女を泣かせたら許しませんよ、姉上。俺の恐ろしさはご存知でしょうが」
 充分に凄みを効かせたつもりだったが、リュ・リーンの言葉にも恐れ入った様子など見せず、エミューラ・リーンは楽しそうに喉の奥で笑っている。「心得ておくわ」と答えながら、その瞳は大きく笑み崩れていた。
 姉の態度に憮然とした様子だったリュ・リーンが、ふと思い出したように次姉の容態を問いただした。弟の言葉にエミューラ・リーンの顔も翳りがちになる。
「あまり良くはないわ。寒くなってきているから、身体にずいぶんと負担がかかっているかもしれないし。……あぁ、でもお前に心配してもらっていると知ったら、あの子のことだからすぐに良くなるわ」
 弟の無表情な顔のなかに、ラスタ・リーンを案じているらしい様子を見つけて、エミューラ・リーンが穏やかな笑みをもらした。怪訝そうにこちらを伺う、警戒心いっぱいの弟の態度はついからかってやりたくなる。
「あぁ、それとも。お前の姿絵を枕元に張って眺めているくらいだもの。心配してもらっているなんて知ったら、そのまま嬉しさのあまりに昇天してしまうかしらね?」
「な、なんでラスタ・リーン姉上まで俺の姿絵を持っているんですか!? 冗談じゃない! そんなもの、枕元に張るのは止めさせてください」
 リュ・リーンの悲鳴混じりの抗議にも、エミューラ・リーンは涼しい顔のままだった。むしろ、姉を元気づけているのだから、とすぐ下の妹の肩を持つ始末だ。
「クソッ! カデュ・ルーンだって俺の姿絵なんか持ってないのに、どうして姉や知らない女の慰め者になど……」
「あぁら、失礼な子ね。姉が弟可愛さに姿絵を買い求めたっていいでしょうに。それに、モテない男より、モテる男のほうがいいでしょう? お前の大事な婚約者に聞いてごらん。きっとわたくしと同じことを言うから」
 余裕の表情でエミューラ・リーンは弟を見返した。その態度にリュ・リーンはますます焦れるが、彼の苛立ちは少しも姉には伝わっていないようだった。
「いいじゃないの。減るものでもなし」
「まさか、姉上……。あなたも俺の姿絵を持っているなんてことは……?」
 ニィッと口元を笑み崩す姉の表情に、リュ・リーンは今度こそ鳥肌を立てた。どうやら次姉だけではなく、この目の前の姉も自分の姿絵を持っているようだ。下手をすると他の姉たちも……。
「わたくしの集めたもののなかで、一番男っぷりのいいものをお前の婚約者に送ってあげましょうか? 夫の姿絵も持っていないようじゃ、妻としては哀しいでしょうからねぇ」
 嫣然と微笑みを浮かべる姉に、リュ・リーンは引きつった笑みを浮かべたまま切り返した。
「お心遣いは感謝しましょう。でも、けっこうですよ。彼女はまがい物の俺ではなく、本物の俺の側にいるのに相応しい人ですから」
「あらそう。残念だこと。……でも、なんて虐め甲斐のある子かしらねぇ」
 まとっていた衣装の裾をゆったりと持ち上げると、エミューラ・リーンはバルコニーから宮殿のなかへと歩を進めた。外気にさらされていたお陰で、身体はすっかり冷え切っている。これ以上、外での立ち話は無理だろう。
 悠々と歩み去った姉の姿が消えても、リュ・リーンは複雑な表情を浮かべたまま、引き下ろされている幕を睨んでいた。
 先日の竪琴(リース)の件といい、今回の姿絵のことといい、今まで気にも留めていなかったことが、次から次へと襲いかかってくる。まったく予想もしていない部分からの攻撃に、自分がこれほど脆いとは思ってもみなかった。
「カデュ・ルーン。まさか……あなたは、こんな俺に愛想を尽かさないよな?」
 自分の言葉にどっぷりと落ち込み、リュ・リーンは足の先から力が抜けていく感覚によろめく。バルコニーの手すりにもたれかかると、リュ・リーンはため息とともに銀星を見上げた。

〔 11909文字 〕 編集

後日譚

No. 78 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第08章:封印

 じっと寝椅子に座り込んでいたダイロン・ルーンの耳に、書庫の扉が開かれる密かな音が聞こえた。次いで柔らかな蝋燭の明かりが書庫のなかへと差し込んでくる。書庫の暗闇のなかで感じる蝋燭の灯火は、心に刺さった棘を溶かす暖かさがあった。
 日が落ちたのだろう。空気がシンと冷えてきていた。思考のなかに沈んでいたダイロン・ルーンは、ようやく自分の指先が冷たくなっていることに気づく始末だ。
 恐る恐る書庫内に踏み込んでくる足音は、まるで雪のなかを歩いているように小さな小さな音となって庫内に反響した。
「兄様……」
 遠慮がちな妹の声にダイロン・ルーンがほんの少しだけ振り返ると、視界の隅に映った妹は弱い灯火のなかでもハッキリと浮かび上がるほど、きらきらと銀髪を輝かせて立っている姿が見えた。
「どうした、カデュ・ルーン?」
「お食事にも顔を出されないから心配で……」
 ダイロン・ルーンは驚きに一瞬目を見開いた。そんなに時間が経っていようとは思いもしなかった。元から薄暗い書庫のなかでは時間の感覚が狂いがちだが、それにしても随分と長い間椅子に座り込んでいたことになる。
「ありがとう。すっかり忘れていたよ」
 穏やかな兄の声に安心したのか、カデュ・ルーンは手にしていた蝋燭の炎を書庫の燭台へと移していった。小さな炎が幾つも闇のなかに浮かび、古びた本たちを照らし出す。
「あまり遅くに食事を摂るのは身体によくないわ。まだ食事はできますから、食堂に行きましょう?」
 兄の視界に入るところまで歩み寄ると、カデュ・ルーンはいつもの無意識の癖でそっと首を傾げた。それを椅子に座ったまま見上げていたダイロン・ルーンが、目眩を起こしたように視線を外すと、戸惑い気味に顔を伏せて囁いた。
「あまり空腹を感じない。今日はこのまま眠りたいくらいだ」
 ダイロン・ルーンの言葉に娘が手にしていた手持ち燭台を近くの小卓(ハティー)へと預け、そっと傍らに跪ひざまづいた。兄を見上げる小造りな顔立ちのなかで大きな若葉色の瞳が炎を受けてキラキラと輝いている。
「お加減が悪いの? だから今日は虫の居所が悪かったのかしら?」
 兄の膝に手を乗せてその顔を覗き込む彼女の仕草は、母親が子どもをなだめる優しさがあった。その掌の温もりは遠い日の母の手を思い出させる。
 狂気のなかで死んでいった母は不幸な女性だったのだろうか? 息子としてはそうは思いたくないところだ。しかし、現実は妹が生まれて以降、母は決して幸福そうな微笑みを表情に浮かべはしなかったのだ。
「体調は悪くないよ、カデュ・ルーン。お前が心配することじゃない」
「兄様はいつもそう言って一人で解決しようとするのね。わたしはそんなに頼りないのかしら?」
 困ったように眉根を寄せてさらに首を傾げる妹は、夏の間に森の木々を飛び回っているリスのようだった。しかし、あどけない様子が抜けないにせよ、彼女はもう一人前に扱われる年齢になっていた。
「私は私自身のことを考えていただけだ。お前だって自分自身のことを考えることくらいあるだろう? 心配するな。どこも悪くはないさ」
 妹を安心させようとダイロン・ルーンは娘の白い手の甲を軽く叩き、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて見せる。それでもまだ一抹の不安が拭いきれないのか、カデュ・ルーンは腕を伸ばして兄の頬に指先を滑らせた。
「わたしのことで思い煩っておいでだったのではないの? わたしが……あの力を持っているから……」
「そんなことあるものか。お前は自分の力の御し方を覚えただろう? 誰にも頼らなくてもお前ならちゃんとやっていける。……今日は少々ドジを踏んだんだ。それでついリュ・リーンに当たり散らしてしまった。後から詫びないといけないな」
 不安そうに自分を見上げるカデュ・ルーンを安心させようと、ダイロン・ルーンはなおも微笑みを浮かべる。燭台の炎は薄暗く、書庫のなかにはまだ闇が深く垂れ込めていたが、そのなかでも判るようにハッキリとした微笑みだ。
 兄の笑顔に安心したのか、カデュ・ルーンは兄の頬に沿えていた指先を放すと安心したように微笑みを浮かべた。その笑顔を見ているだけで小春日の日だまりを連想してしまう。
「兄様でも失敗をするのね。少し安心したわ。でも食事を摂らないのは良くないわ。一緒におつき合いするから、食堂へ行きましょう?」
 自分に全幅の信頼を寄せる妹の微笑みにダイロン・ルーンは胸を詰まらせた。この微笑みをうち砕いてしまうことなどできようか。
「あぁ、判った。お前の言うとおりにしよう」
 ダイロン・ルーンは妹の手を取ると静かに立ち上がった。この半年で妹の背も随分と伸びていたが、元が小柄なこともあり、彼女の外見はまだまだ華奢な印象を受ける。
 供に食堂への廊下を歩きながら、二人は他愛ない話をして笑い合った。誰もが仲の良い兄妹だと噂する、穏やかで親しみのある空気がそこにはある。決して後ろ暗さなど感じない、ただ強い絆だけが存在した。
 食堂では無数の燭台に灯火が揺れ、入ってきた兄妹を手招きする。聖地を統括する長の食堂だ。こじんまりとしたなかにも贅を尽くした調度品が並んでいた。
 普通ならば養護院を出てカストゥール候の名を継いだダイロン・ルーンが、聖衆王と食事を摂ることなどあり得ない。だが、聖衆王の養女になったカデュ・ルーンの兄という立場と、聖衆王の甥という地位がそれを許していた。
 本来なら与えられないはずの王宮の個人書庫にしても贅沢なことで、ダイロン・ルーンの同僚からみたら羨望を禁じ得ないに違いない。かつて机を並べて同じ学舎で学んだ友とはいえ、ダイロン・ルーンに嫉妬しない者はいないだろう。
 しかし……、とダイロン・ルーンは内心で嘆息した。どれほどに恵まれた環境にいても心が満たされないことはある。むしろ養護院で他の孤児たちと供に、妹と寄り添って暮らしていた時期のほうが遙かに満たされていたのではないだろうか。
「また難しい顔をなさっているわ。今日はよほどの失敗をなさったの?」
 自分の顔を覗き込んでくる妹の態度に苦笑いを浮かべて、ダイロン・ルーンは小さく肩をすくめた。
「そういうことはあまり詮索するものではないよ、カデュ・ルーン。憶えておきなさい。リュ・リーンが気難しい顔をしていても、あれこれと詮索しないほうがいい。男には考えることが山ほどあるんだ」
「まぁ。女が何も考えていないみたいな言い方ね。でも、兄様……」
 妹の言葉が途切れたことを訝しんで、ダイロン・ルーンは椅子をひいていた手を止めた。どうしたというのだろう。別に言いよどむようなことはないはずだが。
「カデュ……?」
「初めてね。リュ・リーンとわたしのことを話してくれたのは……」
 ダイロン・ルーンは妹の言葉に動揺した。確かに今までは故意にリュ・リーンと妹の関係を無視していたのだ。ところが、今はそれが自然と口にのぼる。胸を突き刺す痛みが消えたわけではないが、二人の関係に苛立ちを覚えなくなっていた。
「そ、そうだったかな?」
「えぇ、そうよ。……兄様の口からリュ・リーンの話を聞くのは、彼が留学してきていたとき以来だわ」
 嬉しそうに微笑む妹の顔にダイロン・ルーンは一瞬見とれた。
 彼女からこれほど優しい微笑みを引き出すリュ・リーンが羨ましい。自分がどれほど望んでも、彼女にこの穏やかさを与えることはできまい。そう思えるから余計に胸が痛む。
 妹に腰掛けるよう促したあと、ダイロン・ルーンは自分の席に腰を落ち着けた。
 すっかり冷えていたが、彩りよく盛りつけられた夕食が彼の前に並べられている。それらを無理に胃へと押し込みながら、ダイロン・ルーンは機嫌のいい妹の顔を時折盗み見ては顔を曇らせた。
 暗闇のなかで封じた想いが溢れだしてくる。自分には禁じられた言葉を妹に囁ける、かつての学友の顔が目の前にちらついて離れない。
 半年の間に大人びた顔つきになった彼が妹の傍らに立つ姿が、あまりにも容易に想像できて、ダイロン・ルーンは胃のなかに詰め込んだ食事を吐き出しそうになった。
 この苦しさから解放される日はくるのだろうか? そんな日は永遠にこないような気がしてならない。これほど強い執念がどうやったら消え去るのか、ダイロン・ルーンには見当もつかなかった。




 翌日の昼頃、本来ならば剣の稽古の時間であったが、空庭(フォルバス)への出入りを差し止められていることもあって、ダイロン・ルーンは久しぶりに清花カリアスネの庭と呼ばれる中庭へとやってきた。何か予感があったのかもしれない。
 前夜から降り始めた雪が朝にはうっすらと地面を雪化粧させていたはずだが、庭師が入ったらしく、雪を取り除いた黒土の痕がそこここに残っていた。曇った空からは時折思い出したように白いものが舞ってくるが、降り積もるほどではなさそうだ。
 その黒と灰色と白の景色のなかに彼はいた。
 午前中の仕事を終え、午後の仕事がぽっかりと空いてしまったらしい。しばしの休息だというのに、所在なげに庭に佇む背中には鬱屈とした雰囲気が漂っていた。
 逃げ隠れするつもりもない。ダイロン・ルーンは足音を消すこともせず、庭へと続く石階段を降りていった。
 すぐにダイロン・ルーンの足音は相手の知るところとなった。振り返った青白い顔が強ばっている。昨日の乱闘のあとだけに、警戒しているようだ。
「正神殿の長との会見が流れたそうだな。今日は神楽の練習のあるカデュ・ルーンにも逢えないだろうから、暇を持て余しているといったところか?」
「あなたこそ何をしているんだ? 神殿での仕事があるはずだろう。神殿長との会見が流れて、俺がこそこそと動き回るとでも思って監視にきたのか?」
 ダイロン・ルーンはその言葉に苦笑いを浮かべた。相手は人間を警戒する森の獣のように距離をおこうとしている。それというのも昨日の自分の行動のせいなのだろうが、こんな険のある顔を見せられたのは久しぶりだった。
「お前の行動をいちいち監視していられるか。私は休憩中だ。夕方前には職場に戻る」
「ずいぶんと長い休憩があったものだな。大神殿はそんなに暇な職場なのか?」
 会話を交わしながらダイロン・ルーンは相手へと歩み寄っていった。昨日感じた通り、相手はこの半年でずいぶんと背が高くなっている。もう自分との身長差は拳一つ分もあるまい。
「暇なわけがないだろう。休憩というのは語弊があるな。本当は剣の稽古の時間なんだ。ちょっとした手違いでしばらくは皆と稽古ができないから、適当に時間を潰しているってわけだ。それに、ここにはお前がいるだろうと思ってな、リュ・リーン」
 名前を呼ぶと相手の黒絹の髪が微かに震えた。今のダイロン・ルーンの言葉にいっそう警戒心を強めたらしい。表情を殺していたが、鋭く輝く暗緑の瞳には挑んでくるような力強さがある。
「あなたのほうから話があるとはな。今度はどんな文句があって、こんな寂しい場所まで御足を運んで頂いたのかな?」
「嫌味はよせ、リュ・リーン。……悪かった。昨日はやりすぎた」
 リュ・リーンの顔がギョッとしたようにひきつり、ダイロン・ルーンの顔を気味悪そうに覗き込んだ。まだ警戒を解いていないようだ。致し方のないこととはいえ、ダイロン・ルーンは不機嫌そうに口を尖らせた。
「なんだそのあからさまな驚きようは。私が謝罪するのはそんなにおかしいか?」
「いや……いや、すまない。昨日のことがあったから……。しばらくは口を利いてもらえないかと思っていたところだ。まさかあなたのほうから声をかけてくるとは考えてもいなかった」
 眉根を寄せ、困ったように視線を外すリュ・リーン顔には、少年時代の素直さのなかに鬱々とした想いを溜め込んでいた彼の顔が重なって見えた。
 それを発見できたことが、ダイロン・ルーンにはむしろ驚きだった。すっかり成長したと思っていたリュ・リーンの大人の顔の下には、まだまだ甘えてくる少年の幼さがあるではないか。
 突然にダイロン・ルーンは妹が彼の側にいたがる理由が判ったような気がした。外見がどれほど大人びて冷淡になろうと、リュ・リーンのなかには少年の日に見た痛々しい姿がかすめて浮かんでくる。
 それは弱い者や寂しい者に対して敏感に反応するカデュ・ルーンの注意を引くだろう。妹の見ているリュ・リーンの横顔が、今このときに彼自身にも見えたのだ。
「お前は……変わらないな、リュ・リーン」
 ぽつりと呟いたダイロン・ルーンの声に、今度はリュ・リーンが口を尖らせた。そんな表情をすると、取り繕っていた冷淡な仮面が消え失せてしまうというのに。
「俺が全然成長していないみたいに言うんだな。もう、俺は子どもじゃないぞ」
「あぁ……。お互いに子どもじゃない。判っている、そんなことは」
 どちらからともなく黙り込むと、二人は同時に地面へと視線を落とす。奇妙な沈黙だった。だがなぜか不快なものではない。どこかしらホッとする、優しい静寂だ。
 ダイロン・ルーンがふいに顔をあげた。その視線に気づいたリュ・リーンが同じように顔をあげ、どうしたのかと首を傾げる。その表情は気安く肩を叩き合い、笑い合った少年時代の顔つきだった。
「リュ・リーン。……私と馴れ合うなよ。お前が王になるというのなら、たとえ妻の兄であっても容易く心を許すな」
「それはどういう意味だ?」
 大きく目を見開いたリュ・リーンの表情に、ダイロン・ルーンは微苦笑を浮かべた。
 彼は単純だ。いや、実際には心のなかに如何に大きな葛藤を抱えていようと、表面に現れる感情は是か否かのどちらかだ。曖昧さがない。戦ではどれほどの狡猾さを見せるのか知らないが、私生活においては脆いほど子どもの部分を露呈する。
 ダイロン・ルーン個人としては、そんな明解なリュ・リーンを好もしく思っている。だが聖地の貴族としての視点ではどうだろう? あまりにも今の彼はつけ入り易いではないか。
「お前が公私をハッキリわけているのは、王になる者としては大切なことだろう。だが私的な場所だとしても、私人として振る舞う相手を間違えるな。私はいずれ聖衆王となる。いや、たとえ選王会の途中で敗れ去っても、神殿の要職についてみせる。……お前はそういう人間を前にして今のままでいるつもりか?」
 返答に窮したリュ・リーンが唇を震わせた。忘れていた……いや、新たな聖衆王を選ぶための評議が行われることは知っていた。しかし、ダイロン・ルーンの名があがる可能性を頭では判っていても、感情は納得していなかったのだ。
「お前は父王のようには振る舞えまい? 彼のように、気楽そうな顔の下に計算高い王の顔を隠せはしないだろう。ならばトゥナ王家やお前と利害を異にする者の前で仮面を外すな。……いいか。私が聖衆王になったら、お前がかつての学友であったとしても容赦はしない。それを肝に銘じておけ」
 リュ・リーンの強ばった顔つきが一瞬哀しげに歪んだ。それをダイロン・ルーンは見逃していない。
「子どもではない、ということはそういう意味合いも含むんだぞ、リュ・リーン。それができないのなら王になどなるな!」
 静かだが厳しいダイロン・ルーンの声音に打たれ、リュ・リーンが俯いた。ダイロン・ルーンはその様子をじっと見守った。答えを待つ必要などないことは判っていた。リュ・リーンはトゥナ国王になるのだ。それは避けようもない。
「大事な妹の嫁ぎ先が足下をすくわれて潰れたのでは目も当てられない。……死ぬなよ、リュ・リーン。お前がカデュ・ルーンよりも先に死ぬんじゃないぞ」
 視線をそらしていたリュ・リーンが困惑した顔をあげた。瞳には期待と動揺が交互に行き交っている。本当に、こういうところは変わっていない、とダイロン・ルーンは頭の隅で子ども時代のリュ・リーンを思い出していた。
「いいのか? 俺と彼女のこと……」
「お前は勝っただろう。それとも他の奴に異議を唱えられたら黙って身を引けるとでも言うのか?」
「誰が引くか! そんなことを言い出す奴がいたら、俺の手で叩きのめしてやる」
 怒りで咄嗟に叫び返したリュ・リーンが、ダイロン・ルーンと視線が合った途端に顔を赤らめた。昨日のことを思い出したのだろう。まさしく、自分の婚儀に異議を唱えるダイロン・ルーンを叩きのめしてしまったのだから。
「あの……怪我はなかったのか? うっかり力を入れすぎたから……痣とか、切り傷をつけてしまったんじゃ……」
 再びおろおろと視線を彷徨わせている相手の様子に、ダイロン・ルーンは小さな笑い声を漏らした。その声にリュ・リーンが本当に困ったように顔を歪ませる。
「本当に……お前は変わらない」
 ダイロン・ルーンが再びぽつりと呟いた。だが今度はあとに続く静寂のなかに、優しさはない。
 昨日に引き続いて様子がおかしい友人に、リュ・リーンは首を傾げた。リュ・リーンの視線の先にあるダイロン・ルーンの横顔には寂寥感がある。それがいったい何からくるのか、彼にはまったく判らないのだ。
「ダイロン・ルーン。何かあったのか?」
「何も……。何もない」
 突然にダイロン・ルーンが背を向けて歩き始めた。なんの断りもない。この庭へとやってきたときと同じように、彼は唐突に去っていこうとしていた。
 背後からリュ・リーンが呼びかけるが、ダイロン・ルーンはチラリと肩越しに振り返ったが、軽く手をあげて応えただけで後戻りしようとはしなかった。
 ゆっくりとした足取りで石階段を登っていく友人の背を見上げながら、リュ・リーンは無意識のうちに腰に帯びていた細身剣の柄を握りしめる。焦燥に身を焼くように眉を寄せ、苦しげに口元を歪めて。
「ダイロン、いや……ミアーハ・ルーン! これから剣の稽古をするのか?」
 石階段を登り終えようとしていたダイロン・ルーンの背に、トゥナ王太子の声が届いた。追いすがってくるその声に再びダイロン・ルーンは振り返って、声の主を見下ろす。
「あぁ、剣の稽古だ。だが二十日間は空庭(フォルバス)への出入りが禁じられてしまったからな。どこか適当な庭を見つけて独りで稽古だ」
 答えを返しながらダイロン・ルーンも無意識のうちに腰の剣を握りしめていた。本来、文官である彼には無用のものであるはずだが、その剣は当たり前のようにして彼の腰に居座っている。
「それじゃあ、俺が相手をしてやるよ。昨日のあの腕前だと、選王会での出来が心配だからな」
 友の銀影を見上げていたリュ・リーンが強ばった笑みを浮かべた。どこか無理をしている笑顔だ。階段の上からそれを見下ろしていたダイロン・ルーンが複雑な表情で応じた。
「お前の仕事はどうするんだ。いつまでも遊んでいられないだろう。それに半日つき合ってもらった程度で、私の剣の腕前があがるものか」
「やってみる前からそんなこと言うな。それから仕事のことならなんとでもなる。なぁ、昨日の庭でどうだ? あそこなら誰も何も言わない」
 しばし考え込むように顎に手をかけていたダイロン・ルーンが視線をあげた。もう表情のなかに迷いはない。
「判った。頼むとしよう」
「それでは……お手合わせ願おうか、カストゥール候」
 リュ・リーンがダイロン・ルーンの顔をじっと見上げたまま、右の掌で左の二の腕を叩き、続いて滑るようにして左胸を二度叩いた。ここ聖地の武官が相手に試合を申し込むときによくやる仕草だ。
 剣の稽古をするようになって、ダイロン・ルーンも武官たちと手合わせするときには、その仕草をするようになっていた。どんな意味があるのかは聞いたことがなかったが。
 自身の胸を叩いて相手の挑戦に応じながら、ダイロン・ルーンは石階段を駆け上がってくる黒髪の友人に静かな笑みをこぼした。
 しかし、並んで歩き始めたとき、彼らの顔にはお互いへの親愛の情は浮かんではいない。二人の顔には、戦場へと旅立つ戦士の表情が浮かんでいたのだ。




 激しい剣戟が続いていた。白刃が弧を描くたびに響く金属音で鼓膜が破れてしまいそうだ。
 銀と黒の影が交錯すると、小さく火花が散る。弱い守護魔法をかけられた練習用の剣と、同じく守護魔法でくるまれている儀礼的に武官が日常帯びている細身剣が、それぞれの結界に触れあって反発し合っているからだ。
 ここ数日、この銀柳の庭は静寂から見放されていた。灰色の空に響きわたる剣戟の騒乱が、毎日数刻ずつ続いている。
「まだ踏み込みが浅い! 剣を突き出すときは、軸足の体重を移動させないと駄目だ」
「突きをかわされたら、すぐに間合いまで下がって脇を固めろ! 相手は待っていてくれないぞ」
「相手の切っ先だけじゃない、身体全体の動きを見るんだ!」
 次々に出される相手からの忠告に、なかなか身体がついていかない。目で動きを追うだけでも精一杯だ。剣で応戦するとなると、手足は枷に繋がれたように思った通りには動いてくれなかった。
「肘が上がりすぎだ! 右脇ががら空きだぞ!」
 相手の姿が一瞬視界から消えた直後、右手の指先は痺れを残したまま凍りついた。はじき飛ばされた剣が、鈍い音を立てて地面の上を転がっていく。
「今日はこれで十数回は死んでるな」
 自嘲気味に相手を振り返ると、ダイロン・ルーンは小さく肩をすくめた。その肩も息が上がっていて、忙しなく上下している。
 ところが相手はほとんど息を乱していない。微かな笑みを浮かべたまま、転がっている剣を拾い上げて刃こぼれを確認する余裕まである。
「少しずつは腕を上げているさ。休憩しよう」
 今まで、ただの一度でも目の前の若者に勝てないでいる。まったく。力の差は歴然としているではないか。
「あぁ。それにしても、お前は強すぎる。本当に手加減してるのか?」
「汗もかかないんだぞ。手加減してるに決まってるだろう。武官が文官にやり込められていたんじゃ、なんのために武官をやっているのか判らないじゃないか」
「信じられない。私はこれ以上早くは動けないぞ。どういう鍛え方をしたら、そう易々と身体が動くんだ」
 緊張感が弛んだのか、ダイロン・ルーンは片隅に寄せられた石椅子へと乱暴に身を沈めた。若者がそのすぐ脇の地面に足を投げ出して座り込む。
「おい、リュ・リーン。地面なんかに座ると身体が冷えるぞ。椅子ならまだ空いてる。こっちに座ったらいいじゃないか」
「椅子も地面も大差はないさ。なぁ……。カデュ・ルーンはいつも神楽を練習しているのか?」
「え? あぁ、庭の手入れに忙しい時期はそれほどでもないがな。冬場はほとんど毎日だ。それが何か?」
 身体の後方に腕をつき、だらしなく足を投げ出していたリュ・リーンが小さなため息をついた。
「……つまらない」
 ボソリとリュ・リーンが呟くのを聞きつけ、ダイロン・ルーンは眉間に皺を寄せる。そして、おもむろに優雅に組んでいる足をほどくと、足下の若者の脇腹を蹴りつけた。
「イテッ! 何するんだ、ダイロン・ルーン」
「悪かったな、私のお守りばかりで! 別に律儀に剣の稽古につき合ってくれなくてもいいんだぞ」
 ダイロン・ルーンはじっとりと冷たい視線を投げ下ろす。その彼の態度にリュ・リーンは慌てたように首を振った。
「ご、誤解だ。そういう意味で言ったんじゃない! 俺はただ……」
「どうだか」
「ダイロン・ルーン!」
 そっぽを向いた友人の横顔を目にして、リュ・リーンは思わず立ち上がった。
 その気配にダイロン・ルーンがチラリとリュ・リーンの顔を見上げ、そこに見捨てられた子どものような表情をして佇む若者を確認すると、大袈裟なくらいのため息をついた。
「リュ・リーン。前にも言ったが、その感情剥き出しの顔はやめろ。お前が今、何を考えているのか、はっきりと読みとれるぞ」
 ダイロン・ルーンの言葉にリュ・リーンは一瞬だけハッとした表情になり、自分の顔に手をもっていく。だが、すぐにその指を引っ込めるとふてくされた表情をして銀髪の友人を見下ろした。
「他の奴ならいざ知らず、どうしてダイロン・ルーンの前でまで取り繕わないといけないんだ。そんなのおかしいじゃないか」
「リュ・リーン。ここ聖地(アジェン)の人間は日常的に騙しあっているんだ。もちろん、私も。将来、その聖地の中核に立つ人物に自分の人となりを暴露してどうするつもりだ。仮面を外すな、いいな」
 ダイロン・ルーンの冷ややかな受け答えにリュ・リーンがカッとしたのか、石造りの机を平手で叩いた。彼の感情に従うように、暗緑の瞳に鋭い光が灯る。
「ダイロン・ルーンは俺のことならなんでも知っているはずだ。俺がここに留学していた時期、四六時中、一緒にいたんじゃないか。今さら取り繕うようなものなんか何もない!」
「リュ・リーン。それは子どもの理屈だ。私たちは利害を異にする者同士なんだぞ。必要以上に馴れ合うんじゃない」
 ダイロン・ルーンの口調も頑なだった。互いの言葉は平行線を辿り、決して交わることがないように思われた。まるで銀と黒の互いの髪の色のように対極にあるような口論だった。
「友人の前でまで王を演じろというのか!? それでは王たちはいったいどこで本当の自分を出せるというんだ!」
「そのためにお前にはカデュ・ルーンがいるのではないか。それとも、カデュ・ルーンの前では格好をつけたいから、いい子の仮面を外せないか?」
「ダイ……! カストゥール候、あなたは俺を侮辱しているのか!?」
 リュ・リーンは拳をきつく握りしめて銀色の若者を睨んだ。自分の伝えたいことがこれほど通じないとは思わなかったらしい。
「気に障ったか? だがな、これが聖衆(アジェス)のやり方だ。感情を剥き出しにする者がこの地で繁栄することはできないんだ。お前たちトゥナ人のように荒ぶる魂だけで生きてはいけん」
 姿勢良く椅子に腰を降ろしたまま、ダイロン・ルーンは静かな口調でリュ・リーンに声をかけた。それまでの突き放すような態度から、子どもに教え諭すような柔らかな口調へと変わっている。
「そんな……。急に言われても……」
「お前の留学期間が半年間だけだったのは痛かったな。ちょうどこの地に馴れた頃に王都(ルメール)に呼び戻されてしまった……。トゥナ王にしては手ぬるいやり方だった。だが今さら愚痴を言っても仕方ない。学ぶことだ、リュ・リーン。……敵と味方を区別するように、王の仮面がいかに重要か、お前にも判るときがくるだろう」
 俯き、押し黙ってしまったリュ・リーンを無視して、ダイロン・ルーンは音もなく立ち上がった。机の上に放り出されていた剣を手にすると、鞘から刀身を抜き放って天へと掲げる。
「選王会へは各国の王や大使が集い、新たに誕生した聖衆王に忠誠を誓うことになる。たぶん……トゥナ王はお前をその席に出席させるだろう。ゼビやミッヅェルの北方同盟の国々だけではない、カヂャも同席する。先の戦で大敗しているだけに、カヂャからの挑発はしつこいぞ」
 鋭い風切り音とともに振り下ろされた白刃が、初冬の大気を切り裂いていった。その音を確認しながら、ダイロン・ルーンはなおも話を続ける。
「カデュ・ルーンとの婚儀のこともある。私とお前の関係は注目を集めるはずだ。私が聖衆王か聖衆(アジェス)一族の要職に就き、妹の婿であるお前と近しくしていたなら、他の国々の者たちの間には強い危惧が生まれるだろう」
 顔を強ばらせたまま佇んでいるリュ・リーンが、唇を噛みしめた。それを知ってか知らずか、ダイロン・ルーンは教えられた剣の型を思い出しながら身体を動かし続けている。
「リーニスの朱の血戦で、お前は勝ちすぎた。強大になりすぎたトゥナの足を引っ張りたくてしようがない連中ばかりだぞ。私との関係が良好だと判断した場合、大半の特使や王たちは諦めるのではなく、お前と聖地アジェンとの結束を崩そうとしてくるはずだ。どの国もトゥナの言いなりになる気はないだろうからな」
 振り返ったダイロン・ルーンの表情には微苦笑が浮かんでいた。彼の氷色の瞳は鋭さを保ったまま、年下の友人の様子を観察している。
 ダイロン・ルーンには日常的なことだ。相手の心のなかを探り続け、自分が常に優位に立つことが彼らの一族には必要不可欠だ。
 この聖衆(アジェス)一族を、神の領域に住まうことを許された民として各国の頂点に君臨させることこそが、自分たち一族の繁栄に繋がっていることなのだから。
「俺を……嫌っているわけじゃないんだな?」
 リュ・リーンがようやく口を開いた。その飛び出してきた言葉にダイロン・ルーンは呆れ果てて肩をすくめる。
「おい、こら。ちゃんと人の話を聞いていたのか、お前は!」
「聞いてたさ。ダイロン・ルーンが俺以上に俺のことを考えていてくれたってことは、よく判ったよ」
 嬉しそうに目を細めるリュ・リーンに近づくと、ダイロン・ルーンは相手の白い額を指先でつついた。
「何を自惚れてるんだ、バカ! お前もそれくらいのことは考えておけ」
「判ってる。ちゃんと考えるよ」
「あぁ、もう! お前の甘えた体質を見ていると、気が気じゃない。こんな奴に大事な妹を任せなきゃならない兄の身にもなってみろ」
 ダイロン・ルーンは両手でリュ・リーンの黒髪を掴むとワシャワシャとそれを掻き回した。乱れたその黒髪の下で、なおもリュ・リーンが笑っている。それに腹を立て、ダイロン・ルーンが今度は両手をリュ・リーンの頬に滑らせてしっかりと掌に包み込んだ。
「リュ・リーン……。本当に、カデュ・ルーンのことを頼むぞ。これからは私が守ってやることができないんだからな」
 ようやく神妙な顔つきに戻ったリュ・リーンが小さく、だがしっかりと頷いてみせた。それを確認したダイロン・ルーンが、安心したように微かな笑みを口元に浮かべる。
 そして、リュ・リーンの頬を包んでいた掌を外すと、何事もなかったように背を向けかけた。
「ダイロン・ルーン……」
「なんだ? まだ文句があるなんて言わないだろうな?」
 振り向いた友人の眉間に浮かんだ皺に、リュ・リーンが苦笑をもらした。その態度にダイロン・ルーンはいよいよ皺を深くする。笑われるようなことを言ったつもりはない。
「そうじゃないよ。俺、魔道(インチャント)を学ぶつもりなんだ。詳しい書物を知っていたら教えて欲しいんだけど」
「どうした? シャッド・リーン王の真似でもするつもりか?」
 突然のことにダイロン・ルーンは怪訝そうに首を傾げる。武の国であるトゥナ王国は、呪術(カシュラ)やら魔道(インチャント)といった超常の力にあまり重きをおかない。知識としてその力の存在を知っていても、自らがそれを使役しようとする者は多くないのだ。
「超常の力を戦に使うのは、その反動の激しさからも褒められたことじゃない。俺も親父もそのことは充分に知っているさ。だからトゥナは戦に魔道士(インチャンダー)たちの助言を入れないんだから」
「だったら……」
「俺が魔道士(インチャンダー)になれば、カデュ・ルーンの例の力に注目する者は少なくなるだろう? 聖衆(アジェス)は学舎で学習して、超常の力を使える者が多いことはよく知られている。宮廷の奴らにしてみれば、聖地の民の持つ特性の一つにすぎないように見えるだろう。本来、彼女に集まるだろう注意を俺にも向けることができる」
 言葉一つ一つをゆっくりと噛み締めるように答えるリュ・リーンの様子に、ダイロン・ルーンは困惑した。
 何もそこまでやれとは言っていない。ただでさえリュ・リーンの武人としての腕は恐れられている。それに加えて魔道士(インチャンダー)としても力を奮うとなれば、より多くの危惧を周囲の者に抱かせるだろうに。
「俺なら年中命を狙われているからな。少々、狙われる機会が増えたところで大した差はない。それに微弱ではあっても、彼女のまわりに俺の守護結界を張ることもできる。力の暴走を恐れて、トゥナの王宮内に彼女を閉じこめておかなくても済むだろう?」
「お前……」
「この夏の間、ずっとどうしようかと迷っていたんだ。俺が魔道士(インチャンダー)になった場合は、親父のように周囲を牽制するのではなく、逆に周囲を恐れさせる王になるだけだろうと。でも、カデュ・ルーンを守るためには超常の力が必要だ。だから、これからの一年、俺はできるだけのことをしようと思う」
 魔神の申し子と恐れられるリュ・リーンが神々の(わざ)にも通じる超常者の力を得るということは、より神に近しい存在となっていくようなものだ。必ず周囲との軋轢を産むだろう。それでも彼はその力を望むと言う。
 ダイロン・ルーンは目眩を起こしたように掌で目元を覆い、しばらくその場に立ちすくんでいた。
「ダイロン・ルーン。頼むよ」
 乱れた呼吸を整えるように何度もため息をつく友人の様子に、リュ・リーンは痺れを切らしたようにその名を呼ぶ。その呼び声に促されたか、ダイロン・ルーンは恐る恐る腕を降ろして顔をあげた。
「リュ・リーン……お前の行こうとする道は茨の道かもしれんぞ? それでも行くのか?」
「何もせずにいるほうが、俺にとっては罪だ。彼女は俺にとって、それだけのことをするに値する人だ。俺の瞳を見て、怖くないと……。綺麗な瞳だと言ってくれたのは、後にも先にも彼女だけだ」
 なんの迷いもなく、むしろ晴れ晴れとした顔つきでそう答えられ、ダイロン・ルーンにはもはや返す言葉がなかった。彼は一つ頷くと、大きく息を吸い込んだ。
「叔父上から借りている書庫のなかに何冊か参考になるものがある。私は全部憶えているから、お前にやろう。どうせ叔父上も全部憶えていて、必要ないだろうからな」
 ダイロン・ルーンの言葉に、リュ・リーンが嬉しそうな笑みを浮かべる。その無心の笑みを見つめながら、彼は自分の敗北を認めていた。
 自分にはここまでできなかった。簡単な魔道(インチャント)呪術(カシュラ)ならば、自分なら今すぐ使いこなすことはできる。それは聖地の民としてはごく当たり前のことだ。
 だが何もないところから……むしろ自分の負荷にしかならない力を身につけてまで、妹を守ろうとしたことがあっただろうか? そう、例えば今、自分の権力掌握の足がかりにしようとしている剣術の稽古のようなことを。
 思い出せる限りのなかで、ダイロン・ルーンの記憶にそんな強い執念はない。
 半年前、自分に向かって「カデュ・ルーンの人生をくれ」と言ってきた若者の力強い眼差しが、今再び目の前にある。あのときも自分は無意識のうちに彼の強さにすがっていた。そして、今もまたすがろうとしている。
 逢うたびに強く、より高いところに向かっていく黒髪の友人に、ダイロン・ルーンはこのとき初めて畏敬の念を抱いたのだった。

〔 14204文字 〕 編集

後日譚

No. 77 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第07章:剣鬼

 掌に張りついてくる剣を引きずるようにしてダイロン・ルーンは長い石廊下を歩いていた。顔は無表情を保っていたが、内心は激しい苛立ちと動揺にさざ波立っている。
 彼は自分でもどうしていいのか判らなくなっていた。原因は剣の稽古場での同僚たちとの会話にある。それだけは判っていた。
 武官たちには到底敵わないが、ダイロン・ルーンは持ち前の器用さで文官のなかでは飛び抜けて剣術の腕をあげている。それを妬んだか、あるいは間近に迫った選王会への布石のためか、最近は文官出の同僚からの風当たりが厳しい。
 いつものように剣の稽古が終わり、指南してくれた武官と歓談していると、背後から聞こえよがしの声が届いた。
「まったく、聖衆王の娘御の趣味は変わっている」
「まぁ、元から変わり者だったからな」
「他の娘だったら話が持ち上がった時点で毒でもあおって自決していよう?」
「それともトゥナの財宝にでも惑わされたか」
 あからさまなその言葉にダイロン・ルーンの眉がピクリとつりあがった。彼とのつき合いが長い者ならば、それが押さえきれない怒りや苛立ちを表しているのだとすぐに気がついただろう。
 だが今日はかすかに眉を蠢かせるだけではすまなかった。不躾な噂話をする者たちからは彼の表情は見えなかったが、ダイロン・ルーンと話し込んでいた武官が青ざめてその顔色をうかがったほどだ。
 人当たりのよい彼からは想像もつかない表情がそこに浮かんでいた。
「それは我がカストゥール家への侮辱と受け取ってもいいのか?」
 声は彼の氷色の瞳そっくりに凍てついている。武官に服の裾を押さえられたが、ダイロン・ルーンはかまうことなく立ち上がると振り返った。
 普段の人当たりのいい彼しか知らない同僚たちが驚きに目を見張った。集まっていた文官たちの多くはばつの悪そうな表情を作って下を向く。
 しかし迫りつつある選王会への高揚感に酔っているのだろう、人垣のなかの一人が小さく鼻を鳴らし、稽古場の地面に唾を吐いた。
 薄い色合いの金髪と生白い顔立ち、それに紫苑色をした瞳の持ち主は、どこか中性的な雰囲気をした青年だった。カストゥール家と同程度の地位にある家柄の若者、名はガルディエ・ダナン。正神殿ではなく、天神殿つまり主神エンダリュンのみを祀る神殿の祭司だ。
 新起神(ニギュルサーガル)が興る前より世界に君臨している光の大神を祀る正神殿とは、何かにつけて対立している派閥の者だった。
「変わり者を変わっていると評しただけで侮辱とはな。呆れたものだ」
 そのガルディエ・ダナンの言葉に勇気を得たか、さらにもう一人バカにしたような視線をダイロン・ルーンへと向けた。こちらの若者も天神殿で働いている者だ。ガルディエ・ダナンの取り巻きの一人といったところか。
「カストゥール家は家名に釣り合うだけの財力欲しさに妹を売ったともっぱらの噂だ。違うのか?」
「あるいは妹を寝盗られて仕方なく嫁に出すとか?」
 ガルディエ・ダナンと同じ天神殿に所属している者たちの集団なのだろう。彼に追従するように、クスクスと忍び笑いが文官たちの間からあがる。
 ダイロン・ルーンの顔色が青ざめ、次いで真っ赤になった。ダイロン・ルーンがむきになればなるほど、彼らはいっそう意地の悪い言葉で翻弄してくるに違いない。背後の武官が相手になるなと背中をつついている。
 剣の鞘を指が白くなるほどきつく握りしめ、ダイロン・ルーンは一歩彼らに近づいた。握った剣の柄が怒りに震えている。
「もう一度言ってみろ……。カデュ・ルーンが誰に寝盗られただと!?」
「おやおや。違うのかい? 聖地(アジェン)中の噂だよ。トゥナの魔神の子に大事な操を奪われた愚かな……女……だ……」
 ダイロン・ルーンは空いていた片手で素早く剣を引き抜くと、問答無用でガルディエ・ダナンへと切りかかった。
 稽古の後で疲れが残ってはいたが、彼の振り下ろした剣は真っ直ぐに無礼者の頭上に落ちていく。相手には避ける間もない。
 突然の恐怖に叫び声をあげることもできずにガルディエ・ダナンは突っ立っていた。周囲の者たちも口を開けたまま茫然と立ち尽くしていることしかできない。落ちてくる切っ先をただ見守るだけ。
 ガキリと金属同士が噛み合う音が響いたのは、ガルディエ・ダナンの目と鼻の先に白刃が迫った次の瞬間のことだった。
 ダイロン・ルーンは自分の剣を受け止める籠手の下から、薄紫色をした瞳に睨みすえられて固まった。その夜明けの空色がダイロン・ルーンの怒りを急速に冷ましていく。
「少々血の気が多すぎますな、カストゥール候。今のあなたの顔を水鏡ででもご覧になるといい」
 低い壮年の男の声にダイロン・ルーンの理性が呼び覚まされ、自身の凶行に蒼白になる。改めて目の前の男へと視線を向けて、凶刃を防いだ籠手が無様に歪んでいることに気づいた。
「ドゥーン・ラウ・レイクナー……。すまぬ、貴卿の籠手が……」
 武官ラウ・レイクナー家の当主だ。くすんだ銀髪と彫りの深い顔立ちのなかで薄紫の瞳だけが、いやに鮮やかな色をして見える。
「武具の一つや二つ壊れたところでお気になさいますな。こんなもの裏から叩き出せばすぐに直ります」
 実際にダイロン・ルーンも籠手を心配していたのではない。その籠手の下にある腕を心配していたのだ。鉄の籠手が歪むほどの衝撃を受ければ、間違いなく痣ができていよう。かなりの痛みも感じたはずだ。
「ひ、人殺し! ミアーハ・ルーン、お前のやったことは聖衆王陛下や天神殿長にご報告申し上げるぞ!」
 足下から聞こえてくるわめき声にダイロン・ルーンはようやくそちらに注意を向けた。ラウ・レイクナー家の当主の背後にヘタり込んで、ガルディエ・ダナンが蝋のように青ざめてキィキィと叫んでいる。
 再びダイロン・ルーンのなかに怒りが広がっていった。なぜこんな輩に妹や自分が侮辱されねばならないのか。
「ではシン・エウリアット家のご当主にも今のいきさつをお話せねばなりませんな。それが公平というものでしょう、ガルディエ・ダナン・シン・エウリアット」
 足下のガルディエ・ダナンに向けてラウ・レイクナー家の当主が声を発した。
 その厳格な声にダイロン・ルーンがハッと我に返る。その通りだ。些細な喧嘩で済ますには事が大きすぎる。つい相手の口車に乗って剣を抜いてしまった自分の浅慮が悔やまれた。
 自分の家名を持ち出され、ガルディエ・ダナンが渋面を作った。ダイロン・ルーンに斬りかかられたいきさつを探られたなら、彼も少なからず不愉快な追求を受けることになるだろう。
「ち、父上に申し上げるだと? ラウ・レイクナー、お前は武官の分際で我ら貴族のことに口出しするか!?」
 腰が抜けたのかガルディエ・ダナンはいっこうに立ち上がろうとしない。上擦った声のまま簡易甲冑を着込んだ男を見上げるばかりだ。
「私が申し上げるのは、お二人が神聖な空庭(フォルバス)で私闘を行おうとしたということだけですが? 稽古以外での殺生沙汰は禁じられております」
「わ、私は剣を抜いてはいない! 抜いたのはそこのカストゥール候のほうではないか!」
 指先をわなわなと震わせて自分を指さす若者をダイロン・ルーンは睨みつけた。ここで悄然としていては相手につけ込まれるだけだ。こんな輩のために家名に傷をつけたかと思うと腹立たしいにもほどがある。
「さよう。剣を抜かれたのはアルル・カストゥール候です。しかしそれをご報告申し上げれば、なぜそのような事態を招いたのか詮議されましょう。私はこの庭を預かる者として、見たままを正確に報告せねばなりません」
「私は……何もしていない!」
「なるほど。では詮議の席でもそのように申し開きなさいませ。私も私の部下たちもありのままをお話します。……それで何も問題はございませんでしょう?」
 表情一つ変えることなく武官がガルディエ・ダナンを見下ろしている。反論された本人はと言えば、助けてくれる者はいないかと自分の同僚を振り返るが、誰もかれもが関わり合いになることを恐れて視線をそらしてしまう。
 実際、剣を抜いたのはダイロン・ルーンだけであった。しかしガルディエ・ダナンもやりすぎていた。彼は相手を嘲弄しただけではなく、選王会のために開放されている稽古場、この空庭(フォルバス)に唾を吐き捨てている。
 相手を侮辱し合っただけならばそれは当人同士の問題だけで済んだだろう。だが相手の見ている目の前で唾を吐くということは、相手に挑戦していると取られても仕方のない行為だ。剣を抜いているか、抜いていないかなど問題ではない。
 片方は稽古以外で抜刀し、片方は王を選ぶための神聖な場所に唾を吐いたという事態は、見過ごすわけにもいくまい。暗黙の了解のなかで私闘は禁じられていた。それを犯せば厳罰は避けられない。
 異様な緊張感が辺りを覆った。かたや現聖衆王の甥カストゥール候、かたや天神殿ではかなりの影響力をもつエウリアット候の子息。選王会にも出場するであろう二人の若者の対立は、この聖地(アジェン)に血生臭い争いを巻き起こすことになる。
「それとも。選王会の迫った大事な時期です。この庭を預かる私の裁きで済ませますか?」
 ダイロン・ルーンとガルディエ・ダナンは同時に息を飲んだ。聖衆王などの高位高官に報告されれば厳罰は免れ得ない。だが武官のラウ・レイクナーが下す裁きならば、処罰にも限界というものがある。
「武官が我ら貴族を罰しようというのか? 思い上がるのも……」
「お厭でしたらお父上や聖衆王の御前で申し開きを。詮議は少々手続きが面倒ですからね。できましたら私も忙しいこの時期に煩雑なことは避けたかったのですが、どうしてもおっしゃるなら……」
「私も忙しい身だ。面倒な手続きなどしていられないぞ」
 うだうだと逡巡しているガルディエ・ダナンを無視すると、ダイロン・ルーンはラウ・レイクナーの背中に呼びかけた。
 無駄に体裁にこだわっているときではない。ラウ・レイクナーの条件を飲めないということは、延々と詮議の場に立たされねばならないということだ。選王会を控えている大事な時期をそんなことで台無しにされたくはなかった。
「カストゥール候は異存ないそうですが? あなたはいかがです、ガルディエ・ダナン卿?」
「……いいさ。聞いてやろうじゃないか、お前の裁きとやらを」
 虚勢を張るガルディエ・ダナンだったが、未だに地べたに座り込んだ姿勢では威厳など出ようはずもない。それを見下ろしたままダイロン・ルーンは不機嫌に眉を寄せた。
 どうして相手の挑発になど乗ったのだろう。口争いだけならばお互いにこんな惨めな目に合うこともなかったのに。
「よろしい。では御両名に申し渡します。これより二十日間、この空庭(フォルバス)への出入りを禁じます!」
 あからさまにホッとした表情を浮かべたのはガルディエ・ダナンのほうだった。だがダイロン・ルーンは不機嫌な表情を崩すことなく、ラウ・レイクナーの背に声をかけた。
「二十日間も剣の稽古をさせてもらえないのか? この空庭(フォルバス)の外ではまともに剣を振るえる場所などないのに」
 その声に甲冑の武官が振り返る。微かだったが彼の口元には好意的な微笑が浮かんでいることにダイロン・ルーンは気づいた。
「ご不満でしたら面倒な手続きをして詮議の場で申し開きをなさってください。しかし詮議となれば、剣の稽古どころか、神殿でのお勤めにも支障をきたしますぞ。それでもよろしいか?」
「じょ、冗談じゃない! 大事な職務に穴を開けられるか! カストゥール候! そんなばかばかしい手続きなどしないだろうな!?」
 ようやく同僚に助け起こされながらガルディエ・ダナンがわめき声をあげる。彼には剣の稽古ができない程度どうでもいいらしい。それよりも詮議のことが噂になり、神殿で自身の悪い風評が立つことだけは避けたいようだ。
 ダイロン・ルーンにしても、職務を放り出して詮議の席に引っ張り出される事態は避けたいところだった。それでなくても剣の稽古をしながらの職務は身体にはきついのだ。これに詮議など加わったら身が保たない。
「判った。その裁きを受けよう……」
 ため息とともにダイロン・ルーンは承諾した。それでも顔には不機嫌な表情が張りついたままだったが。
「けっこう。ではこの場においでの皆様に証人になって頂きましょう。このお二人が二十日間、この稽古場に出入りしないよう、監視をお願いします」
 ラウ・レイクナーのこの言葉で、ようやくこの場に縛りつけられていた人々が開放された。一方の当事者であるガルディエ・ダナンも同僚に支えられながら空庭(フォルバス)を後にする。
 三々五々に庭を出ていく皆の後ろ姿を見送りながら、ダイロン・ルーンは再度ため息をついた。まったくとんだ茶番劇だ。こんなみっともない姿をさらすことになろうとは。
「短慮はなりませんぞ、カストゥール候。御身に何かありましたら、嘆かれる方が多かろう。……もちろんシン・エウリアット候のご子息にしても同様だが」
 最後まで残っていたダイロン・ルーンにラウ・レイクナーが声をかけてきた。彼の薄紫の瞳に呑み込まれそうだった。
「助力、感謝する」
 ダイロン・ルーンは頷くようにして頭を下げた。貴族階級の者が高位とはいえ武官に頭を下げたとあっては外聞が悪い。それが頭の隅をかすめて、なんとも半端な礼の言い方だった。
「なに。私も少々腹が立ちましたのでね。ほんの半年とはいえ、私の預かり子が悪し様に謗られては、見過ごすこともできません」
 ラウ・レイクナーの言葉にダイロン・ルーンは彼が留学中のトゥナ王太子宿泊先当主であることを思い出した。自分も一度だけ彼の家に行ったことがあるはずなのに、そのことをすっかり忘れているとは。
「では私はこれで。そうそう、剣の稽古は王宮の奥にある庭のどこかででも続けてください。一人ではまともに稽古もできないでしょうが、剣の重みを忘れなければ二十日間の空白などすぐに埋まりますよ」
 飄々と歩き去っていく武官の背中をダイロン・ルーンは憮然とした表情で見送った。随分と奇妙な形で救われたものだ。
 それにしてもばかなことをしでかしたものだ。ついカッとなってしまった。だが……だがまた再び妹が貶められるようなことがあったら……。きっとまた自分は同じ過ちを繰り返してしまうのではないだろうか。
 ダイロン・ルーンは辿り着いた思考の果てにゾッとして身震いした。なんという短慮だ。軽率な行動の結果を今し方見せられたばかりだというのに。
 誰もいなくなった空庭(フォルバス)から逃げるようにしてダイロン・ルーンは走り出た。まるで自分の考えから逃げ出すように。
 宮殿の入り口に辿り着くまで行き交う者は誰もいなかった。そのことにダイロン・ルーンは心底ホッとした。
 そして今、宮殿の奥へと続く長い長い石廊下を歩いているというわけだ。なぜ自分はあんなにも怒りを露わにしてしまったのか。言葉の応酬だけならばこんな惨めな想いを抱かずに済んだのに。
 廊下の出口をくぐり抜けるとそこは吹き抜けの空間だった。周りを建物の石壁が囲み、その壁に沿ってアーチ型の屋根が吹き抜けを一周している。ここを最初の起点にして王宮が広がっているのだ。
 濃い灰色の空が高い建物の屋根を覆っている。今夜辺りからまた雪がちらつくだろう。それにしても、今の空は自分の心のなかを写し取ったようにどんよりとした色をしているではないか。
 暗い気持ちを引きずるダイロン・ルーンの視界の隅に黒い影が動いた。
 ハッとしてそちらを見遣ると、人気(ひとけ)のない廊下の一つに入っていくトゥナ王太子の背中が映った。見知っているはずのその人影は随分と背が高い。
 半年の間にリュ・リーンの身体は少年のものから青年のものへと急速に成長している。長身のダイロン・ルーンにも追いつきそうな勢いだ。
 数日前にリーニス地方から戻って以来、彼がこの王城に滞在していることは知っていた。だが半年前の出来事が心に引っかかったままで、ダイロン・ルーンは彼とまともに顔を合わせていなかったのだ。
 気まずさが頭をもたげたが、ふと彼の向かった先が使われていない区画であることを思いだして戸惑いが浮かんだ。いったいどこへ向かっているのか。
 剣の稽古を終えたなら着替えて大神殿の職場へと戻るべきだろう。しかし腐りきった今の気分のまま、選王会のことでギスギスしている職場へ戻る気になどなれるものか。
 ダイロン・ルーンは深く考えることなく、廊下の奥に見える黒い人影に誘われるように歩き出した。




 黒い背中が小さな扉をくぐっていく。それを廊下の角を曲がったところで確認すると、ダイロン・ルーンの表情は険しくなった。なぜ彼がこんな場所を知っているのかと。
 そこはダイロン・ルーンさえ知らないような宮殿内の小庭園だった。扉に近づいてよく見てみると、すり減った扉の錨版に消えかかった文字で「銀柳の庭」と刻まれている。
 何代か前の聖衆王の時代に王の紋章に使われていた銀柳を象徴する庭でも造ったのだろう。迷路状になりつつある聖地(アジェン)の王城のなかには、このような庭が所々に造られていた。
 扉に耳を近づけて庭の様子を伺ってみるが、向こう側からは何も聞こえてこない。ダイロン・ルーンは途方に暮れたように視線を彷徨わせたが、次の瞬間には意を決したように扉へと腕を伸ばした。
 微かな軋みをたてて扉が開いていく。灰色の景色が扉の形に切り取られたように目に入ったが、それをよく観察することもなくダイロン・ルーンは入り口を潜った。
 腰を屈めて入った庭の片隅に石造りの机が見える。その机にもたれかかるようにして黒い人影が佇んでいた。
 こちらの気配に気づいたのか、相手の肩がピクリと震え、弾かれたように振り返る。穏やかな光を讃えていた暗緑の瞳が、自分の姿を捉えた途端に大きく見開かれる様子をダイロン・ルーンは苛立ちを込めて見守っていた。
「ダイロン・ルーン……? どうしてここに?」
 相手の声は半年前と同じだ。だがおよそ六年前の少年のものとは異なる大人の声をしている。そして背丈は半年前からは見違えるほどに高くなっていた。この調子で背が伸びれば、近い将来には追い越されてしまうだろう。
 昔のリュ・リーンと変わらないところと言えば、宵闇よりも深い色をした黒髪と魔の瞳(イヴンアージャ)と呼ばれる暗緑の瞳だけ。かつてリュ・リーンの瞳の奥を支配していた孤独は今の彼の瞳のなかにはなかった。
「私や叔父上に隠れて、こそこそと逢い引きか? “リーニスの朱の血戦”の英雄は随分と姑息な真似をする。……それとも平原の戦場でも相手の寝首を掻いていたのか?」
 ダイロン・ルーンは獣の唸り声のように低い声で囁く。彼の脳裏にはつい先ほど空庭(フォルバス)での出来事が思い浮かんでいた。同僚たちの嘲弄が耳の奥で幾度も繰り返される。今、その張本人が目の前にいるのだ。
「別にやましいことなどしていない!」
 顔を歪めてなじるダイロン・ルーンの態度にリュ・リーンがムッとして叫び返す。だがダイロン・ルーンは態度を硬化させたまま目を細めた。その冷たい瞳の上で彼の形良い眉がつり上がっている。
「……カデュ・ルーンを辱めることは許さん」
「ダイロン・ルーン、誤解だ! 俺はなにも……」
 リュ・リーンが立っていた石造りの机から離れて、ダイロン・ルーンへと足を一歩踏み出した。だがそれよりも早く当のダイロン・ルーンは手にしていた鞘から刀身を抜き放つ。鈍い陽光の下でも、その刃は不気味なほど鋭い輝きを発した。
 抜き身の剣を持つダイロン・ルーンにリュ・リーンは一瞬怯んだ。だがなおも説得しようと足を踏み出す。
 それを押し返すようにしてダイロン・ルーンは剣を振りかぶり、振り上げた勢いに乗って相手めがけて襲いかかった。
「やめろ! ダイロン・ルーン!」
 振り下ろされる白刃を避けざまにリュ・リーンが叫ぶ。だがその声を追うようにしてダイロン・ルーンは剣を薙ぎ払った。
「逃げるな、リュ・リーン! 私と手合え!」
「バカな! あなたと手合う理由などないではないか!」
 驚愕の声をあげるリュ・リーンにダイロン・ルーンが再び襲いかかる。心の臓を正確に狙い、体重のすべてをかけた突きが繰り出された。
「ないだと!? ……本気でそう言っているなら、私の剣の錆になるだけだぞ、リュ・リーン!」
 ダイロン・ルーンのぎらつく瞳が、リュ・リーンの驚きに見開かれた暗緑の瞳を捕らえた。氷色をしたダイロン・ルーンの瞳には憎しみの炎が燃え上がっている。
「正気か、ダイロン・ルーン!」
 信じられないものを見たと言いたげにリュ・リーンの瞳には動揺が浮かんだ。戦う理由が彼にはない。ダイロン・ルーンの誤解さえ解ければ、すべては丸く収まるものだと思っている。
「私に勝ったなら、カデュ・ルーンをトゥナの王都(ルメール)なり、どこへなりと連れていくがいい! さぁ、剣を抜け!」
 怒りに歪んだ顔でダイロン・ルーンが吐き捨てるように叫んだ。普段は雪のように白い彼の顔色が、この時ばかりは怒りのためにどす黒く染まっている。
 リュ・リーンはダイロン・ルーンの振り回す剣先から身をかわし続けた。戦場で渡り合う剣戟に比べれば、本当の実戦を積んだことのない友人の太刀筋を避けることなど造作もないことだった。
「やめてくれ、ダイロン・ルーン!」
 だがリュ・リーンの制止の声も空しく、ダイロン・ルーンの剣の切っ先は更に怒り狂ったようにリュ・リーンへと向けられた。彼の耳にはリュ・リーンの声など聞こえていないのだ。
「剣を抜け! リュ・リーン!」
 友人の瞳に本物の殺意を見出して、リュ・リーンは愕然とした表情を作る。
 心のどこかで、ダイロン・ルーンは妹カデュ・ルーンと自分のことを許してくれているとタカをくくっていたのだ。これほどに殺意を露わにされるとは思ってもみなかったのだろう。
「やめ……」
 とうとうダイロン・ルーンの振るう剣先がリュ・リーンの頬をかすめた。僅かな血臭がリュ・リーンの躰にまとわりつく。ダイロン・ルーンの息はとうに上がっていたが、凶暴な剣戟は収まりを見せはしなかった。
「くそっ……」
 鼻をくすぐる血の匂いに酔ったのか、リュ・リーンの暗緑の瞳が妖しげな光を帯びる。悪態をつくその表情には戦場で垣間見せる彼のもう一つの顔が覗いていた。
「後悔……するぞ。ダイロン・ルーン!」
 腰から下げていた細身の剣を抜き放つと、リュ・リーンは襲ってくる凶刃を巧にはじき返しヒラリと舞った。まるで漆黒の鷲が急旋回して飛び回っているような身軽さだ。
 リュ・リーンが戦で使用している大剣から比べれば、今手にしている細身の剣の重さなどなきに等しい。ダイロン・ルーンの剣戟を軽やかにかわした彼の腕から鋭い白刃が繰り出された。
 防戦一方だったリュ・リーンの反撃を受けて、ダイロン・ルーンの剣が悲鳴をあげる。今までに受けたこともない重たい衝撃に彼の腕全体が痺れた。歪んだダイロン・ルーンの顔が衝撃の強さを物語る。
 取り落としそうになった剣を辛うじて支えると、ダイロン・ルーンは再び剣を突き出した。だが黒い魔鳥のように身を翻すリュ・リーンにはかすりもしない。実戦を経験した者とそうでない者との差は歴然としていた。
 額に汗をにじませて獲物の姿を追うダイロン・ルーンを嘲笑うかのように、剣の重みが彼の動きを鈍らせていく。武官として身体を鍛えているわけではない彼にとって、相手の機敏な動きについていくことは端から無理な話だ。
「こちらだ、ダイロン・ルーン!」
 背後の鋭い声に反応してダイロン・ルーンが振り返ると、目の前に暗緑の瞳を輝かせている友の顔があった。剣を振り上げようとした腕に今度は痺れではなく激痛が走る。あまりの痛みにダイロン・ルーンの頭のなかは一瞬真っ白になった。
 痛みに手から剣がこぼれ落ちる。慌ててその剣を拾い上げようと屈めたダイロン・ルーンの身体が、次の瞬間宙に舞った。
「うあぁ……!」
 ダイロン・ルーンは背中から地面に激突すると、吹き飛ばされたときに感じた胸部の痛みと地面からの衝撃に激しく咳き込んだ。落ちたときに口のなかを切ったのか、彼の舌は血の味を感知し、その生臭い匂いが鼻腔を満たす。
「……俺の勝ちだ」
 冷酷なほどきっぱりとした声が頭上から降ってきた。その声にダイロン・ルーンは弾かれたように顔をあげる。
 鋭い切っ先をピタリと自分に当てて、静かに見下ろしてくるリュ・リーンの青白い顔があった。怒ったように口を歪めているその顔は、ダイロン・ルーンが見知っている人物のものではない。絶対的な強さを誇示する戦士の顔だ。
 悔しさに唇を噛みしめたダイロン・ルーンは睨みつけてくるリュ・リーンの視線を避けるように目をそらした。その視線が庭の入り口へと彷徨い、そこに佇む小さな銀影を捉えて固まる。
「カデュ……」
 ダイロン・ルーンの囁き声にリュ・リーンがビクリと身体を震わせた。焦ったように振り返り、そこに蒼白な顔色をしている婚約者を見つけて真っ青になる。
「カ、カデュ・ルーン! いつからそこに!?」
 ブルブルと身体を震わせている娘の瞳は大きく見開かれ、唇は血がにじむほどきつく噛みしめられていた。柔らかそうな淡紅色の衣装は彼女に強く握りしめられて皺だらけだ。
 ダイロン・ルーンに突きつけていた剣を放り出すと、リュ・リーンは転がるようにしてカデュ・ルーンへと駆け寄った。
 その後ろ姿を暗い瞳で見つめていたダイロン・ルーンはノロノロと立ち上がり、自分の剣を引きずるようにして拾い上げる。いつの間にか放り出していた鞘も一緒に拾うと、気怠い手つきで刀身を収めた。
 足下にはリュ・リーンが手放した細身の剣が転がっている。それは自分の手にしている実用向きな剣よりも華奢な造りだというのに、刃を交えてもびくともしなかった。
 リュ・リーンとの力の差は、剣術を学び始めたダイロン・ルーンにもそれとすぐに察しがつくほどの圧倒的な差だった。いいようにあしらわれていただけだったのだ。
 振り返ったダイロン・ルーンは、そこに恋人に抱きしめられてポロポロと涙をこぼす妹の姿を確認した。苦い想いが胸に広がる。認めたくはない想いが。
 それ以上、寄り添う二人を見ていることに耐えられず、ダイロン・ルーンは二人に声をかけることもせずに庭から出ていこうとした。
「兄様……! 待って!」
 悲鳴のような妹の声にダイロン・ルーンの足は引き留められる。心は早く立ち去りたいと願っているのに、身体はそれを裏切ってこの場に留まってしまう。
「どうして? どうして許してくれないの? わたし……どうしたらいいの? どうやったら兄様は許してくれるの!?」
 涙声で訴えるカデュ・ルーンを支えるようにリュ・リーンがその肩を抱いていた。その光景にダイロン・ルーンの胸はチリチリと痛みの炎を燃やす。このもどかしさが誰に判るというのか。
「お前のせいじゃない、カデュ。これは私の……私だけの問題だ」
「ダイロン・ルーン! それでは答えになってない!」
 それまで静かに二人のやり取りを見守っていたリュ・リーンが声を荒げた。憤りに顔が紅潮している。彼やカデュ・ルーンにはダイロン・ルーンの怒りは理不尽なものだった。
「お前に答える義理などないな、リュ・リーン」
 凍てついた声でリュ・リーンの呼びかけを切り捨てると、ダイロン・ルーンは今度こそ扉をくぐり抜けた。細身のその背中は強ばり、見守る二人どころか世界中を拒絶しているような頑な態度だった。
 言葉を失って立ち尽くしている妹とその婚約者のことが、庭を後にしたダイロン・ルーンの頭のなかを占め続ける。気づかなければ良かったのだろうか? それともこれはやはり気づくべくして気づいたのだろうか?
「カデュ・ルーン……。どうしてお前は……私の……」
 口を突いて出た言葉をダイロン・ルーンは途中で呑み込んだ。目をそらすことができない現実に、彼は押しつぶされそうな気分だった。
 その現実から逃げるようにダイロン・ルーンは奥宮の扉の前へと辿り着く。いつもはしかめっ面をしている衛士たちが、聖衆王の甥の険しい表情にギョッとした表情を作った。だが質問することを恐れるように扉を開けて顔を伏せる。
 普段なら愛想良く声をかけるダイロン・ルーンが、扉の番人たちへの挨拶もせずに駆けるようにして通り抜けていった。その後ろ姿を見守るのは衛士たちが閉じていく巨大な扉だけだった。
 叔父から与えられた書庫へと逃げ込むとダイロン・ルーンは手にした剣を床に投げ出し、部屋の片隅に鎮座する寝椅子へとへたり込む。唸り声をあげて頭を抱える彼を物言わぬ本たちが見下ろしていた。
 剣の稽古が終わったなら、本来は職場に戻らねばならない。だが今のこんな状態で職場に出ていくことなどできない。同僚の前でいったいどんな顔をしていろというのか。それよりも何を口走ってしまうか判らない。
 リュ・リーンの胸に顔を埋めて泣き、自分に向かって「なぜ結婚を許してくれないのか」と問いかけた妹の姿が目に焼きついている。
 その姿を見て確信した。自分は女性を愛せないのではない。妹を愛しているのだ。実の妹を、カデュ・ルーンを……!
 両親を亡くして孤児となり、二人で寄り添うように生きてきた。彼女を守るのは他の誰でもない、自分なのだと言い聞かせて。それは当然のことなのだと……。だが、どうだ。今、彼女を守る者は他にいる。もう自分は必要なくなってしまったのだ。
「神よ! あなたは残酷だ。なぜカデュ・ルーンを私の妹としてこの下天へ遣わしたのだ。私には初めから彼女のそばにいる資格などないではないか。ずっとそばにいたのに……近くにいたのに、私には彼女はもっとも遠い存在だ!」
 うめくように神を呪詛するダイロン・ルーンが激しく(かぶり)を振った。まるで現実を拒絶するかのようだ。
「カデュ・ルーンは父上の血を引いていないかもしれない。魔の森で彷徨っていた母上を見初めた者の子かもしれない。……あぁ! ここがトゥナであったなら……。トゥナであったなら……私にも望みが……」
 口にしたところで現実は変わらない。だがダイロン・ルーンは寝椅子に身を預けると、叶わぬ望みにすがるように肘掛けをきつく握りしめた。指先がその力に白くなるほどだ。
「判っている……。彼女の血の秘密は暗黙の封印のなかにある。誰にも知られてはならないことだ。夫となるリュ・リーンにさえも……。私とカデュ・ルーンは同じ父母を持つ兄妹で……婚姻の対象にはなり得ない……」
 自分の言葉に打ちのめされたダイロン・ルーンが、力尽きたように背もたれに身を埋めた。疲れ果てたその表情には泣き顔はない。いや、泣く気力すら失せているのだ。
「そうだ。カデュ・ルーン……お前のせいではない。これは……私の問題なのだ」
 父と叔父が守り通そうとした秘密を知ってしまった代償だ。知らなければ、自分はカデュ・ルーンを実の妹だと信じて疑いもしなかっただろう。幼子の好奇心がもたらした……あまりにも大きな代償だった。
 まるで仮面のように強ばったダイロン・ルーンの顔には憔悴が浮かんでいた。それが辛うじて彼が人間であると教えていたが、もしも今この場に誰かが入ってきたとしたら、椅子に座るその姿を精巧に作り上げられた神像だと勘違いしただろう。
「私はお前の兄だ。それ以外になり得ない。……私は、私はお前の兄でしか……」
 自分の言葉の剣に刺し貫かれたようにダイロン・ルーンの身体が痙攣した。氷色をした彼の瞳は虚空の一点を睨み、そこから微動だにしない。
 薄暗い書庫のなかでダイロン・ルーンの人影だけが白く浮き上がっていた。その姿は見る者がいたとすれば、胸を打たれたかもしれない。孤高の頂きに立つ神のようだと。
 しかし、彼の姿を見守るのは古びた本たちの山ばかりで、彼の悲痛な声を聴く者は誰もいなかった。

〔 13142文字 〕 編集

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