石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔53日前〕 RSS Feed

2000年8月3日の投稿1件]

後日譚

No. 73 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第03章:慕情

 暗闇のなかで近づいたベッドには小さな子供が丸まって眠っていた。
 そっと息を殺してその寝顔を見つめていたウラートは、意を決したようにその自分よりは年下の子供の頭を抱き上げた。
 幼子は眠りを邪魔されてむずがり始めた。
「ご免ね。泣かないで……」
 幼子に詫びながら、ウラートはぐずる子供を抱きかかえた。だが、いくらウラートのほうが年上とはいえ、子供が子供を抱きかかえるのには無理がある。
 顔から汗が流れる。力を入れて子供を持ち上げるが、足が前には進まない。一歩でも足を出せば、そのまま床に転がってしまいそうだ。
母様(マァムゥ)……。ふぇぇ……」
 ぐずぐずと床に座り込んでしまう子供をどうしたものかとウラートは途方に暮れた。
 相手は精々二歳ほどの子供だ。熟睡しているところを起こされれば、ぐずるのも仕方がない。
 ウラートは困ったように眉を寄せると、子供の目の前に座り込んだ。
「ご免ね、邪魔して。お母さんが呼んでるんだ。一緒に行こうよ」
 まだ寝惚けたままの顔つきで幼子がウラートを見上げた。
 ウラートは身体を硬直させた。
 緑の目だ。
 薄暗い部屋のなかで、猫の目のように光る。暗い、重たい色合いの翡翠のように沈んだ翠。
 母親と一緒に暮らしていた娼館や奴隷商の所に出入りしていた人間でこんな色合いをしている目の持ち主には会ったことがなかった。
 薄暗いなかでその瞳を見ていると、心のなかを読まれているようで恐ろしい。
 ごくりと生唾を飲み込む音が大きく聞こえた。
「お母さんが待ってるよ。一緒に行こう……」
 震える声でもう一度子供に声をかけた。眠い眼をこすりながら、子供が小さな手を差し出した。
 温かいその手を握りしめてウラートは立ち上がった。
 自分の手のなかにあるその小さな手と、幼子の顔が異様に白く見える。薄闇のなかでより黒くみえる黒絹の髪がその白さを際だたせているのかもしれない。
 外で待つ男女にあまり似ているようには見えない子供の手を引いてウラートは囁いた。
「行こう……」
 ウラートの促す声にもぼんやりとした反応しか返さない子供の足取りは遅かった。
 ともすれば床に座り込んで眠ってしまいそうになる幼子を支えるようにしてウラートは扉を目指した。




「リュ・リーン……」
 ウラートと名乗った子供が扉から顔を出すと、ミリア・リーンは思わず息子の名を呼んだ。
 子供に手を引かれて歩いてくる息子は眠そうに目をこする。
 寝惚けたままの瞳で母親の姿を確認すると、幼子はよろよろとした足取りで側にすり寄ってくる。
母様(マァムゥ)……」
 まだ小さな息子を抱き上げながら、ミリア・リーンは首を傾げて自分を見る奴隷の子供をまじまじと見つめた。
 信じられない。
 リュ・リーンは人見知りが激しいのだ。
 寝起きも悪く、無理に起こすと母親の自分でも耳を覆いたくなるほどの大声で泣き喚く。むずがる声は聞こえたが、泣き叫ぶ声はまったく聞こえなかった。
「合格、だな」
 隣で呟く夫の声が酷く緩慢な音となって彼女の耳朶に届いた。
「どうして……?」
 呆気にとられて囁くミリア・リーンの声を無視してシャッド・リーンが寝椅子から立ち上がった。所在なげに佇む子供を手招きして呼ぶ。
「ありがとう、ウラート。……どうだ? ここは気に入りそうか?」
 パタパタと走り寄ってきた子供を膝に抱き上げるとシャッド・リーンは小さな藍色の瞳を覗き込んだ。夜が明ける寸前の空の色を連想させる、静謐で清々しい瞳だ。
 寝椅子に腰を下ろした男の膝で、小さな者は大袈裟なくらい目をパチパチと瞬かせチラリと隣の女を見上げた。
 だがすぐに視線をずらすと、困ったような顔をして男に首を傾げて見せた。
 自分に選択権があるとは思っていない。自分の存在の是非を問う者は他にいるような気がしていた。
「ア~フゥ~」
 ウラートの返答の代わりのようにミリア・リーンの膝に抱かれた子供が欠伸をした。
 全身を反らせて辺りの空気を吸い尽くそうかというほどの大欠伸。母親の腕のなかで安心しきっている。
 眠気がまだ残っている暗緑の瞳がすぐ隣にいる者の夜明け色の瞳を覗き込んだ。闇に光る瞳は今は陰を潜め、暗い双眸が僅かな好奇心を含んで開いていた。
「息子はお前を気に入ったようだ。どうだ、ずっとここにいるか?」
 男の声がウラートの頭上から降ってきた。
 見上げた藍色の瞳が、海の瞳とぶつかる。
 おずおずと頷く子供に満足げな笑みを浮かべ、シャッド・リーンは隣の妻を振り返った。
「ミリア・リーン?」
 ふてくされたような女の顔にシャッド・リーンは苦笑した。
「そうやって、私を無視して話を進めていくのね」
 腹立たしそうに夫を睨みながら、それでもミリア・リーンは納得せざるを得なかった。貴族出の守り役をつけて、息子を貴族たちの権力闘争に巻き込まれるのは厭だったし、母親以外の者に気を許した息子を初めて見た。
 過敏に、自分を忌む者とそうではない者とを見分ける息子が出した判断が、彼女に決断させた。
「リュ・リーンの世話はその子に任せるわ。……でも息子を世話する者の教育は、私がしますからね!」
 これだは譲れない、とミリア・リーンは夫を睨んだ。
「了解だ、ミリア・リーン。好きにするといい」
 鷹揚に頷いてみせるシャッド・リーンの膝の上でウラートは顔を輝かせた。
 母親が死に、奴隷商に仲介されて男娼館に売り払われるところだったのだ。男たちに見下されながらの生活がこれで終わる。清潔で、煌びやかな生活が待っている。子供は単純に自分に与えられた幸運を喜んだ。




 侍女たちに着せ替え人形のように扱われて、ウラートは辟易していた。
 着替えくらい自分でできるのに、彼女たちは面白がって自分を人形のように扱う。くすぐったいし、鬱陶しいので止めて欲しいのだが。
「さぁ、出来たわよ。行ってらっしゃい、おチビさん」
 忌々しい苦行から解放されてホッと安堵の吐息をもらすと、ウラートは主人の待つ部屋へと駆けだした。主が機嫌を損ねないうちに参上しなければならない。
「やっと来た……の」
 息を切らせて部屋に飛び込んできたウラートの姿を認めると女主人が苦笑した。
 またしてもこの子は侍女たちに遊ばれていたようだ。華やかな衣装を着せられ、目も眩むような豪奢な髪留めや帯留めをあちらこちらに下げている。
 侍女たちの退屈しのぎにつき合わされる子供を気の毒に思いながらも、ミリア・リーンは従者たちのお遊びを取りあげようとはしなかった。
「また随分とめかしこんできたわね、ウラート。……どう? やっぱり今日も着替えるの?」
 少年と言うよりは少女と見間違いそうな顔立ちの子供だ。侍女たちが飾り立てて遊んでみたい気も判るが、この格好では笑いがこみ上げてきて話にならない。
 奇妙に引きつっている主人の顔を確認するとウラートは大きく頷いた。
 動きにくい衣装を着せられて、毎朝主人の機嫌を伺いに来る度に笑われるのは、子供でもそれなりに傷つく。
 眉間に不機嫌そうなしわを寄せると、ウラートは髪を留めていた髪飾りを乱暴にむしり取った。
「やめなさい、髪が痛むわ。ここへおいで、取ってあげるから」
 優しく手招きする主人の寝椅子によじ登るとウラートは神妙な面持ちで坐った。ふかふかの椅子に座っているとまるで雲の上の世界にでもいるようだった。
 主人の手が優しくウラートの髪から重たい飾りを取り外しいった。
 死んだ母親に頭をなでてもらっているときのような心地よさだ。ウラートはうっとりと目を閉じて、そのときの感覚を思い出していた。
「さぁ、髪飾りはこれで全部よ。まぁ、なんて数をつけられていたのかしらね。……ウラート? どうしたの?」
 ぼんやりと自分を見上げる子供に気づいてミリア・リーンは戸惑った。
 そのとき、奥の子供部屋から泣き声が聞こえてきた。寝起きの悪い息子がやっと起きたようだ。
 ミリア・リーンが立ち上がるよりも早くウラートが寝椅子から飛び降りると、重たい衣装を引きずって子供部屋へと走り込んでいった。今までのぼんやりした様子が嘘のようだ。
 ウラートの後を追うことをやめて、ミリア・リーンは部屋の隅の小さな衣装箱に歩み寄った。
 中から小さな衣装を一着取り出す。そして、箱の隅に収まっていた、今取り出したものより少し大きめの衣装も一緒に取り出した。
「ご主人様……」
 背後からの苦しげな声にミリア・リーンは振り返り、思わず噴き出しそうになった。
 小さな守り役はまだ寝惚け眼の息子を背負って真っ赤な顔をして立っていた。
 寝起きの悪い幼子をベッドから連れ出すために、必死なってここまで負ぶってきたのだろう。
 その滑稽な、でも懸命な姿の少年に走り寄ると、ミリア・リーンは子供の背中に貼りついている息子を抱き上げた。少年が大きな吐息を吐く。
「ウラート。衣装箱の上にお前とこの子の衣装があるわ。持ってきて」
 少年に休憩する暇も与えずに、女主人は命じた。
 弾かれたように少年が衣装箱へと駆けていく。箱の上に置かれた衣装を掴むと脱兎の勢いで主人の元へと駆け戻り、恭しく差し出した。
「ご苦労様。自分の衣装を着てしまいなさい」
 息子の衣装だけを取りあげるとミリア・リーンはまだ寝惚けている息子を手早く着替えさせ、重たい衣装を苦労して脱いでいるウラートの様子を面白そうに眺めた。
 王宮には侍女や侍従たちが山ほどいる。後宮にいる者だけでもそれなりの人数が揃えられている。
 だが大抵は貴族や地方領主の身内で、見えない派閥争いを繰り返している。幼い頃から王宮で育ったミリア・リーンにはうんざりする、だが馴染みの光景だった。
 奴隷上がりの者が王宮にいないわけではない。しかしそのほとんどは下働きの仕事をしている者たちで、今までミリア・リーンは間近に見ることはなかった。
 初めて間近で目にした奴隷の子は、娼婦の母を持つだけあって端正で、優しげな顔立ちの子供だった。
「ねぇ、ウラート」
 主人の呼びかけにウラートは着替えの手を休めて、その顔を上げた。
「はい、ご主人様」
「……お前の母親はどこの国から来たの?」
 単純な好奇心からミリア・リーンは聞いた。寝椅子の上では、起きたばかりの息子が母親の気を引こうと彼女の長い栗毛を引っ張っていた。
「……」
 子供は答える言葉を思いつかず首を振った。
 母親がどこから来たのかなど、知らなかった。自分の一番最初の記憶は、男に抱かれている母親のあられもない嬌声なのだ。
 暗い顔をして下を向いてしまった子供の様子にミリア・リーンはたじろいだ。
 自分では悪いことを聞いたとは思っていないが、子供の厭な想い出を掘り起こしてしまったことは理解できた。
「教えられていないのね……」
 五歳の子供では仕方のないことだ。
 彼女の言葉の何に反応したのは知らない。だがウラートはビクリと肩を震わせていっそう下を向いた。
「ウラート?」
 怪訝そうな顔で問いかけるミリア・リーンの視界の隅を黒い影が横切った。
「ウアートォ」
 舌っ足らずな、まだ言葉を正確に発音できない息子が、フラフラと子供に歩み寄っていく。
 ぶつかるようにして奴隷の子に抱きついたリュ・リーンは、無邪気にじゃれついて子供を押し倒した。
 その尻餅をついた少年の頬に涙の後を見つけてミリア・リーンは呆気にとられた。
「ウラー……ト!?」
 自分は彼を泣かせるような非道いことを言っただろうか?
 自分にじゃれつく幼子を抱きかかえたまま、少年は小さな涙の粒をポロポロとこぼした。震える唇が何かを呟いている。
 ミリア・リーンはそれが妙に気になって、二人の子供を抱きしめた。
「お母さん……。お母さん……」
 子供の小さな声がミリア・リーンの耳にも届いた。
 母を呼ばわる子供の声が彼女の胸を突き刺した。死んだ母を思って涙を流す子供は、いつもの賢しげな様子とは裏腹に頼りなく、力無いものに見えた。
 見慣れない涙の粒を流す子供を不思議そうに見上げる息子を抱き上げ、ミリア・リーンはウラートの背中をそっと抱きしめた。弱々しく震える肌が熱っぽい。
「ずっと我慢していたのね……」
 自分を守ってくれていた唯一の者が死んでしまったのだ。
 ずっと心細さに震えていたであろう少年の背中をさすってやりながら、ミリア・リーンはやるせない思いにため息をついた。
 自分にも身に覚えのある感覚だった。たぶん、夫である、シャッド・リーンにも覚えがあるだろう。
 王の子供という肩書きがついているだけで、勝手な権力闘争の中心に据えられ、見たこともない相手といがみ合った。
 守られていると言われながら結局はまわりの者の保身に利用され、一人寂しさに泣いた日々はどれほどの齢を重ねようと忘れはしない。
「泣きたいだけ、泣きなさい……。ここには、あなたを責める者などいないから」
 だが、彼女の言葉に反して、ウラートは涙を拭いて立ち上がった。
 涙を耐えるように引き結ばれた唇はまだ震えていたが、もう決して涙を見せようとはしなかった。
「強い子ね……。羨ましいこと……。昔の私にそれほどの強さが欲しかったわ」
 羨望を禁じ得ず、ミリア・リーンは子供の瞳を覗き込んだ。
 後ろを振り返らない強さが瞳の奥に炎となって燃えていた。何者をも侵すことを許さない、頑迷なほどの強い意志。これからの人生を一人の力で切り開いていく決意を秘めた双眸。
「でも、ウラート。あなたはまだ子供なの。……泣きたいときには、泣きなさい。頼る者がいないのなら、私の所へ来ればいい。……判るわね? 私の言っていること」
 曖昧に頷いてみせる子供が、決して自分に頼ったりはしないことは予想できた。だが、ミリア・リーンは敢えてそれを口にはせず、相手には柔らかな微笑みを向けただけだった。
「ウラート。今から私のことをご主人様と呼ぶのはやめなさい。いいわね? ……今後は、人前では“陛下”と呼びなさい」
 戸惑いながらも頷く子供の頭をなでてやりながら、ミリア・リーンはさらに続けた。
「リュ・リーンやシャッド・リーンしか側にいないときは、”母上”と呼びなさい。判ったわね?」
 目をパチクリさせて自分を見上げる少年に悪戯っぽく笑いかけると、ミリア・リーンは抱いていた息子を少年の前に座らせた。小さな子供は目の前にいる年かさの少年に無邪気な笑顔を向けてじゃれついた。
「あの……陛下、あの……」
 動揺しているウラートをよそに、ミリア・リーンは着替えかけていた少年の衣装を着直させ、自分の首から下げていた飾り護符を外して、愛おしそうにそれを指でなでた。
 子供の頃、中庭で見つけた石を加工させて作った物だ。孤独に泣いた日々はこの石に封じてきた。
「ウラート。おまじないの石よ。あなたにあげるわ」
 石に手を伸ばして引っ張ろうとする息子を避けて、ミリア・リーンは少年の首に護符を巻いた。まだ華奢な体つきの子供には大袈裟な印象を与えるデザインだったが、彼女はいっこうに気にしなかった。
「ずっと持っていなさい。今日からあなたの物よ」
 もう自分にはいらない物だ。今度はこの少年の心を癒すために、その胸で輝いているといい。
「陛下……」
「“母上”でしょう、ウラート」
 さり気なく少年の言葉を訂正して、ミリア・リーンは涙に汚れたその顔を拭いてやった。
「“母上”。……ずっと、ずっとお側でお仕えします。あなたの、お側に……」
 黙って少年の言葉を聞いていたミリア・リーンがうっすらと笑みを浮かべた。
「あなたが仕えるのは私じゃないわ。……リュ・リーンに。私の息子に仕えなさい。あなたがこれから命を懸けて護るのは、私じゃなくて、この子……。石はその代償……。判った?」
 決して心から自分のことを母とは呼ばない子供の心情を汲んで、ミリア・リーンは少年に言い聞かせた。
「はい……。お言いつけ通りに」
 恭しく、王命を拝するように自分の命令を受ける小さな騎士から息子を引き離すと、トゥナ王妃は息子に囁いた。
「お前の最初の臣下ですよ、リュ・リーン。挨拶なさい」
 きょとんとして母親の顔を見つめた子供が、目の前に跪く少年の瞳を覗き込んだ。探るような視線がじっと注がれる。
「ウアートォ」
 舌っ足らずな声。だが、敏感にその場の雰囲気を感じ取った、緊張を孕んだ幼い声がウラートの鼓膜を震わせた。
 少年が幼子を見つめ返した。
 子供が小さな騎士に手を伸ばした。
 差し出された小さな手を握り、ウラートは自分の仮の母親を見上げた。この方に一生仕えるのだ。今……たった今、自分自身と約束した。
 彼女の息子に仕えるという約束とは別に、彼女の生がある限り、自分はこの方に仕え続けるのだ。
 そのためだったらなんでもやる。どんなことでも……。首に下げられた護符は、その約束のために存在する。
 真実、自分の居場所を見つけた少年は、強い眼差しを王妃に注いだ。




「怪我を……?」
 険しい顔のままダイロン・ルーンは叔父を見た。
「それで、怪我の程度は?」
「気になるのか、ミアーハ・ルーン?」
 苦笑して自分を見る叔父を軽く睨むと、ダイロン・ルーンは吐き捨てるように言った。
「いけませんか!?」
「悪いとは言ってない。……命に別状はないそうだ。相変わらず、無茶をしているらしな、トゥナの息子は」
 長の低い笑い声にダイロン・ルーンは不愉快そうに口を尖らせた。いつもそうやって、自分や妹、果ては大事な友人まで思い通りに操っている叔父に歯がみしたいほどの悔しさを感じる。
 いや、叔父に感じるのではない。いつまで経っても半人前な自分に腹が立つのだ。
「カデュ・ルーンはどうしている? 相変わらず手紙ばかり書いているのか?」
「えぇ。それが彼女の楽しみですから。送る、送らないは別にして、毎日机に向かっていますよ。……あの勤勉さには呆れてしまいますけどね」
 肩をすくめてみせながら、ダイロン・ルーンはせっせと手紙を書く妹の真剣な横顔を思い出した。
 自分が部屋に入っていっても気づかないほどに、妹はいつも熱中して書いている。それは彼にその手紙を受け取る友人への嫉妬を抱かせた。愚かしい感情だと自分に言い聞かせるが、妹の口から友人の名が出る度に、無性に腹が立ってくるのだ。
「まぁ、悪いことをしているわけでもないからな。……ところで、ミアーハ・ルーン。お前に縁談がきているのだがな。相手の名を知りたくないか?」
 椅子にゆったりと腰掛けていた叔父が居心地悪そうに足を組み替えた。
 ダイロン・ルーンはいっそう不機嫌そうな顔を作ると、叔父を冷ややかに見据える。
「……いつも通りにお断りください。私は誰とも連れ添いません!」
 苛立ちがいっそう募る。
「そうは言ってもなぁ。……カストゥールの血筋を絶やしてしまうつもりか? ま、大貴族の名を継ぎたいという輩はゴロゴロいるだろうが。
 お前ももう十九、いやもうすぐ二十歳だ。浮き名の一つも出てきていいと思うがな。同年代の者のなかにはすでに子供までもうけている者もいよう?」
「大きなお世話です。……カストゥールの跡継ぎは養子でも迎えればいいでしょう? 叔父上だって結婚していらっしゃらないではないですか。
 私のことよりもご自分のことをお考えになったら如何です。それこそ名門レーネドゥアの家名を絶やされるのですか?」
 ずけずけと言葉を投げつけながら、ダイロン・ルーンは複雑な気分でいた。
 ずっと以前に、叔父が結婚しないのは、昔好きな女性がいたからだと誰かから聞いたことがあった。自分はそうではなかった。ただ、異性に気を使いながら生活していく億劫さが疎ましいのだ。前はカデュ・ルーンのことを言い訳にでもしていれば良かったが、妹の結婚が決まった今となると、彼の行動は他人には理解しがたいものだろう。
 愛想良く笑う自分のなかで、冷めた目で相手を見ているもう一人の自分がいることをダイロン・ルーンは自覚していた。
「耳に痛いことを平気で言う奴だな、お前は。……まぁ、いい。お前が厭なものを無理に勧めるつもりもない。だが、ミアーハ・ルーン。その主義を貫くのも、辛いものだぞ? 判っているか?」
「ご忠告は胸に入れておきますよ……。では、今日は失礼します」
 苦笑しながら自分を送り出す叔父の視線を背中に痛いほど感じながら、ダイロン・ルーンは聖地の長の居室から離れた。
 胸には忸怩(じくじ)たる想いがわだかまっている。
 自分の感情を持てあます。
 妹の婚約のとき以上に自分の結婚のことなど、どうやっても考え及ばない。第一妹の婚約のことでさえ、本心から納得しているとは言い難いのだ。
 妹の相手にと選ばれたリュ・リーンは確かに得難い相手だと言えよう。ほかの男では、妹の相手など務まるはずもない。
 それを悟っていながらも、真実納得しようとしない自分の感情に手を焼いてダイロン・ルーンはもどかしげに顔をしかめた。




 うずたかく積み上げられた本を押し退けると、ダイロン・ルーンは寝椅子に身体を横たえた。
 苛立ちが募っていく。
 カストゥール家の当主としての仕事や神殿での仕事があったが、どうしてもそれらをする気にはならなかった。
「こんな所に籠もっていても、何にもならんのだがな……」
 一人ごちてみても、気力が湧いてこない。
「あぁ! 私らしくもない!」
 イライラと指で自分の額を叩いてみるが、ささくれだった心は容易には収まりそうもなかった。何かが、今にも爆発しそうだった。
「やっぱり駄目だ! ……こういうとき、リュ・リーンならどうしていたかな?」
 荒々しい溜息をつきながら、ダイロン・ルーンは頭を振った。
「……。何を考えているんだ、私は」
 どうしてそこで友人の名が出てくるのだろうか? 何の脈絡もないではないか。どうかしている。
 ふとダイロン・ルーンは山のように積まれた本たちを見まわした。
 叔父が読み漁った本たちだと聞いたことがある。自分も仕事の合間を縫って読んではいるが、すべてを読破するにはあまりにも量が多すぎた。
 叔父はどうやってこんなに読んだのだろうか。膨大な量の書物たちが自分を取り囲んでいる様に威圧され、ダイロン・ルーンは居たたまれなくなってきた。
「私の居場所はどこにもないのか?」
 かつて、自分には取り囲まれるほどの友人たちがいた。養護院、学舎、ありとあらゆる場所にいたのだ。
 今だって彼らは自分のことを友人だと言ってくれるだろう。だが、かつてのような分け隔てのない感情で接してくれる者は少なくなった。
 それぞれの家を継ぎ、あるいは思い定めた役職についていては、個人の感情よりはそれら公の思惑のほうが優先される。
 友人たちは狡猾に世情を読み、渡っていっている。自分でもやってきているのだ。それはここ聖地では当たり前のことであった。
 だが独りになると突然襲ってくるこの孤独感を癒してくれる者など、誰もいないのだ。
 宙ぶらりんのままでいるような心許なさが、その孤独にいっそう拍車をかける。
「私は独りぼっちだ……」
 泣き出したいような気分に心塞がれ、ダイロン・ルーンは書庫から逃げ出すように飛び出した。




 ふらふらと歩いている間にダイロン・ルーンは昔通っていた学舎のそばまで来てしまっていた。どこをどう歩いてきたのかなど、まったく覚えがない。
 前方から数人の女神官たちが巻物を抱えて歩いてくる姿が目に入った。
「あら、カストゥール候。学舎にご用でしたの?」
「ラナイヤ女神官……。君こそ、学舎で何を?」
「子供たちの使っていた資料が傷んできたので、新しい物と取り替えに参りましたの。結構あるから重くって」
 正神殿に仕える、昔馴染みの娘の顔は、少し上気して薄桃色に染まっていた。腕一杯に抱えた巻物の重さは、見た以上の重量があるのだろう。
「私も手伝うよ。学舎に用事があったわけじゃないから……」
 手を伸ばしてラナイヤの腕から巻物を取りあげると、ダイロン・ルーンは巻物を落とさないように慎重に抱え直した。
 かなりの重さがある。女性たちだけで運ぶこともできるがさぞ腕が痛いだろう。
「ありがとうございます。助かりますわ」
 仲間の腕から少しずつ荷物を預かり、再び腕一杯に巻物を抱えたラナイヤがダイロン・ルーンを先導するように歩き出した。
 仲間の女神官たちがダイロン・ルーンを囲むようにして後に続いた。
 自分も昔はこうやって友人たちに囲まれて笑っていたのだ。成人しカストゥールの名を継いでからは、こんな風に人に取り囲まれたことはなかったような気がする。
「今日はカストゥール候は剣の稽古をされませんの?」
 肩越しに振り返りながらラナイヤ女神官が問うた。
「え? ……あぁ、今日も行きますよ。午後からになると思うけど」
「そう。随分と腕をお上げになったと聞いてますけど、どうです? 次期聖衆王の可能性はありそうですか?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべるラナイヤにダイロン・ルーンは顔をしかめてみせた。
「誰に聞いたんです? 武官たちに袋叩きにされてますよ。……相手が悪すぎます」
 ラナイヤが鈴を転がすような笑い声をたて、まわりの女神官たちの間からもつられたように声が上がった。
「まぁ、大変。アジェンの大貴族カストゥール候を打ちのめした勇者はどこのどなたですの?」
「そんなこと聞いてどうするんです? もしかして、私が無様に負けた様子でも聞きに行くつもりですか、ラナイヤ女神官?」
「ふふ。どうしましょうか? そんなお話を聞くのも面白そうですわね」
 彼女の冗談を受け流しながら、ダイロン・ルーンは回廊を行き交う人々の様子を眺めていた。
 叔父が聖衆王の地位についてからすでに十五年になる。
 王の任期は最長で二十年と定められているから、もうあと数年もしたら次の聖衆王を決める選王会が開催される。
 主だった貴族や士族たちはそのときに王の候補として名乗りを上げるつもりで、今から古書の暗記やら、剣の腕やらを磨いている。
 おおよそ二十年毎に巡ってくるこの大会は、聖地では最大の関心事だ。
 この大会での結果がその後二十年の聖地の力関係を決定づけると言っても過言ではないのだから。
 カストゥールの名を継ぐ者として、ダイロン・ルーンもその大会に出ないわけにはいかなかった。
 王となってこの聖地の(まつりごと)を統括していく技量が、自分にあるのかどうかなど判りはしない。
 だが勝ち残るにせよ、敗れるにせよ、その闘いに出ない限り、聖衆王の座どころか、その後の出世は困難を極める。
 普段は血を嫌う聖地の民が、血に飢えたようにどう猛な牙をお互いに剥く。互いを凌ごうと飽くなき闘いを繰り広げる日は確実に近づいてきていた。
「あぁ、やっと着いたわ。カストゥール候、ありがとうござました。この部屋までで結構ですから」
 考え事をしている間に目的の場所まで到着してたようだ。古くさい書庫の棚にはびっしりと書物や巻物が詰められているのが見えた。
「ここに置けばいいのか?」
「えぇ、修繕したあとで棚に戻しますから」
 同じような古い巻物が積んである机へと歩み寄り、抱えていた巻物を下ろすと、ダイロン・ルーンはかび臭い書庫を出て伸びをした。
「お疲れになりました?」
 ラナイヤがにこやかな笑顔を向けてきた。
「いや。君たちほども疲れてないと思うよ。女性には少し重いみたいだったね、あの荷物は。出来れば、今度からは台車を使わせてもらったほうがいいんじゃないかな?」
「まぁ、嬉しいこと。上司がそれくらい物わかりのいい人ならわたくしたちも苦労しないのに」
 大袈裟に溜息をついてみせると、ラナイヤは舌を出して戯けてみせた。昔から屈託のないひょうきんな娘だったが、それは今も変わってはいないらしい。
「その上司には上司の考えがあるのでしょう? それじゃ、私はこれで」
 いつも通りの愛想のいい笑顔で答えた後、ダイロン・ルーンは軽く手を挙げて彼女たちに別れを告げた。
 午後から剣闘場へ出掛けるならば、自分の仕事を片付けておかなければならないだろう。
 仕事をやる気になったわけではなかったが、溜めておけばそれだけ後でツケが回ってくる。面倒でも、今片付けておくほうがいいのだ。
 足早に大神殿へと向かう。その道すがらも、ダイロン・ルーンは鬱屈とした自分の気分を押し込めるのに苦労した。




「随分とラナイヤと仲良くしてたじゃないか?」
 からかうような口調がダイロン・ルーンの背後からかけられた。驚いて振り返った彼の視界に、金褐色の色彩が踊った。
「……イージェン。見ていたのか?」
 大神殿で一緒に働いている同僚の若者の顔は、どこか引きつっているように見えた。
「たまたま通りかかったのさ。別に覗き見していたわけじゃない。それよりも、お前がラナイヤと一緒にいるってのはどうしたことだ?」
 金褐色の髪を指で弄びながら、イージェンと呼ばれた若者がダイロン・ルーンの傍らへと歩み寄った。
「別に。回廊で彼女たちが大荷物を抱えているのに出くわした。……手伝ってやっただけだよ。それがどうかしたのか?」
 猫の目のようにうっすらと光って見えるイージェンの瞳に睨まれていると、なんだか落ち着かない気分になってくる。
 皮膚の上を滑っていくその不安定な感覚がダイロン・ルーンには不愉快だった。
「彼女には許嫁がいるんだぜ? あまり親しくしないほうがいいんじゃないのか。良からぬ噂がたってもつまらんだろうが」
 つっけんどんな口調で言い捨てると、イージェンはダイロン・ルーンの先に立って歩き始めた。
「不注意だったな。……忠告は感謝するよ」
 イージェンも背の高いほうだが、ダイロン・ルーンのほうがほんの僅かに高いようだった。
 目の前に揺れる同僚の巻き毛がダイロン・ルーンにはリーニス地方の大地を覆う麦穂を連想させる。
 さらにその輝く大地にいるはずの友人の顔を思い出してダイロン・ルーンはなぜかしら落ち込んだ。
 そしてその落ち込んでいる状態で、ダイロン・ルーンはラナイヤを一人の女として見ていなかった自分に気づいた。恋愛をするには致命的な欠陥のような気がした。
 ラナイヤは決して魅力のない娘ではない。
 だが自分の劣情を煽り起てることはなかった。彼女のせいではない。自分のなかの何かがおかしい。
 その事実は一つの結論を提示しているように思えて、ダイロン・ルーンは顔を強ばらせた。

〔 12535文字 〕 編集

■全文検索:

複合検索窓に切り替える

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■メール


編集

■カレンダー:

2000年8月
12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031

■最近の投稿:

■日付一覧:

■日付検索:

■ハッシュタグ:

  • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)

■新着画像リスト:

全0個 (総容量 0Bytes)

▼現在の表示条件での投稿総数:

1件