石獣庭園 -Wing on the Wind-

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2000年8月2日の投稿1件]

後日譚

No. 72 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第02章:恋文

“リュ・リーン。怪我などしていませんか?”

 リュ・リーンの顔が自然とほころぶ。
 カデュ・ルーンからの手紙はいつもこう始まる。

“あと一ヶ月もしたらカリアスネの季節も終わるでしょう。兄様は相変わらずあなたの話になると不機嫌です。でもわたしたちのことに反対することはなくなりましたから、気持ちの整理がつけば昔のように一緒に笑える日もくることでしょう……”

 柔らかい、丸みのある文字が彼女の優しげな微笑みを連想させてリュ・リーンは胸を熱くした。
 あの“神降ろし(エンダル)”の地で別れてから、四ヶ月以上も会っていない。
 兄に寄り添いながら、哀しそうな瞳で自分を見送る彼女の小さな姿が今でも目の前にちらつく。
 彼女からの手紙が初めて届いたのは、副都ウレアにリュ・リーンが到着して二週間とは経っていない頃だったろうか。以来、時折に届く彼女からの便りは戦でささくれがちになるリュ・リーンの心を和ませた。
 カデュ・ルーン。あなたに会いたい……。
 手紙の続きに視線を走らせながら、リュ・リーンは未だに自分の腕や唇に残る彼女の感触を思い出していた。
 壊れやすい上質の磁器を連想させる肌に赤いカリアスネのように澄んだ色の唇。流れるように紡がれる言葉の数々。花よりも優しい微笑み。
 父王とその友人である聖地の長が選んだ自分の婚約者は、自分が娶るにはもったないくらいに理想的な女性だった。
 自分が王の後継者でなければ、こんな場所で泥まみれになって、神経をすり減らしていたくはない。
 彼女のためなら王都で自分が軟弱者と嘲っていた貴族たちのように詩文や花を毎日でも贈りたいくらいだ。
 だが今のリュ・リーンにはそれらすべて許される状態ではなかった。
 カヂャとの戦況は自軍に有利に傾いてきてはいたが予断を許さない事態が続いていたし、戦で焼け出された農民たちの身の安全も保障してやるよう対策をとらなければならない。
 後から後から出てくる問題にリュ・リーンは指揮官、統治官として休む間もなく判断を下し、それを決済していく。
 胃が痛くなることなど今では日常茶飯事だ。
 もう駄目だ。もう厭だ。
 音を上げそうになる度に、リュ・リーンの元には彼女からの手紙が届いた。
 決して戦を鼓舞するような文が書かれているわけではない。
 日々の聖地での出来事や自分の身を案じる文字ばかりが書き連ねられているごくありふれた文章であったが、彼女からの手紙が届く度にリュ・リーンが救われていることは間違いなかった。

“どうか無事でいてください。そして一日も早く帰ってきてください。あなたが無事に帰る日を毎日大神に祈っています。 カデュ・ルーン・アジェナ・レーネドゥア”

 いつも通りの手紙の終わり方だ。別に目新しいことが書いてあるわけではない。
 それでもリュ・リーンはその手紙を何度も何度も読み返した。その度に耳元に彼女の柔らかな声が聞こえてくる気がした。
 そっと紙面の文字を指でなぞる。
 そんなことがあるはずはないのだが、彼女の温もりが伝わってくるような錯覚にリュ・リーンは心を震わせた。




 羽根ペンの動きを止め、紙面を見入る。
「やっぱり俺には文才はない、か」
 リュ・リーンはそこまでの文章を読み返して、ため息をつく。
 カデュ・ルーンからの手紙に返事を書こうと机に向かい、懸命にペンを走らせてみるが、自分が思ったことの半分も文面には書けていないような気がしてもどかしい。
 一度、初めてカデュ・ルーンからの手紙に返事を書こうとしたとき、その手紙の書き方に困ってウラートに訊ねたことがあった。
 ところがいつもなら大袈裟にため息をつきはするが丁寧に教えてくれる学友は、このときはなんの助言もくれなかった。
 それどころか、ものすごく機嫌の悪そうな顔をすると『そんなこと自分で考えなさい!』と冷淡にあしらわれてしまっていた。
 自分は悪いことを聞いたつもりはなかったが、さすがにあれほど露骨に厭な顔をされると二度と彼に聞く気にもなれず、毎回不出来な手紙を書いては聖地のカデュ・ルーンに送っていた。
「毎回毎回、変わり映えのしない文だなぁ。……でも、ここでは他に何も書くこともないし」
 両手で髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回すとリュ・リーンは唸り声をあげた。
 髪の乱れも忘れてもう一度、手紙を読み返してみる。やっぱり気に入らない。ため息とともに机に突っ伏すと、額を軽く机の表面にぶつける。
「はぁ……。こんな文章じゃ、カデュ・ルーンに笑われていそうだ」
 自分の勝手な思いこみで勝手に落ち込んでリュ・リーンは自分の書いた手紙を投げ出した。
 顔を伏せたまま机に頬を擦りつける。ひんやりとした硬い感触が伝わる。
 そのリュ・リーンの顔に自分の黒髪がハラリと落ち、僅かに視界のなかに収まる。
 リュ・リーンはうるさそうにその髪を払いのけた。
 ここへ来てからは髪を切る暇もなかった。以前はかなりまめに髪を切って短めに整えていたのだ。そうすれば自分の黒髪が目立たなくなるような気がしたからだ。
 だが今は自分の身なりにかまっている余裕などなくなっていた。
 時間の余裕がないと言うよりは、リュ・リーンの気持ちにそんな余裕がないのだ。日々を指揮官、統治官としての任務に忙殺されている状態で、たまに暇ができても何かをしようという気力もなく、ただ身体を休めているだけだ。
「いっそ長く伸ばすかな?」
 誰に言うでもなくリュ・リーンは呟いた。自分の黒髪など誰も褒めてくれはしないだろうが、長めにしておいたほうが今の状況下では楽でいい。
 どうでもいいようなことをぼんやりと考えていたリュ・リーンの耳に、大天幕に近づいてくる足音が聞こえた。
 軽快な足音は入り口へと向かい、一瞬立ち止まったあと、中へ踏み込んできた。
 ウラートが手に湯気の立つ器を乗せた盆を持って立っていた。
 机に突っ伏している主人に気づくが、ベッド脇の間仕切り前に置かれた小テーブルまで盆を運び、慎重にそこに据える。
「なんだ、それ?」
 リュ・リーンは身を起こして器から上がる湯気をみた。だが湯気だけでは中身を想像することはできない。
「薬湯です」
 ウラートがゆっくりとリュ・リーンの側に近寄ってきた。だが視線は主人を通り越して、その先に延びていっている。
「薬湯? 腹痛や頭痛はないし、胃痛は今のところ起こしてないぞ?」
 薬を飲むいわれが判らず、リュ・リーンはウラートを見上げた。
「化膿止めです! 心当たりは充分にあるでしょう?」
 昼間のウラートの剣幕を思い出して、リュ・リーンは首をすくめた。
 カデュ・ルーンからの手紙を読んでいるうちに傷の痛みも引き、顔に巻かれた包帯のことをすっかり忘れていたので、リュ・リーンは自分が怪我人である自覚などまるでなかった。
 きっと吐きそうなほど苦い薬に違いない。リュ・リーンは勝手にその味を想像して顔を歪めた。
「ここでは羊皮紙一枚でも大切な物資ですよ。ぞんざいに扱わないでくださいよね」
 ウラートは身を乗り出して、リュ・リーンの書きかけの手紙をつまみ上げた。
「あ……! こら。見るなよ!」
 ウラートの手から手紙を取り返そうとリュ・リーンは立ち上がった。だが、スルリと学友にかわされる。
「ウラート!」
「……見ませんよ、人の恋文なんか。それより、サッサと薬を飲んでください。飲み終わったら返しますよ」
 勝手に交換条件を出すと、ウラートはリュ・リーンの手紙を懐に隠してしまった。頬を膨らますリュ・リーンを無視してウラートは小テーブルへと向かった。
 器にはなみなみと液体が入っている。それを飲みやすいように半量だけカップへと注ぎ、リュ・リーンに差し出す。
「ほら、リュ・リーン」
 厭そうな顔をしている主人の目の前にカップを突き出すと、ウラートは厳しい表情でそれを飲むよう促した。
「不味そうな色だな」
「薬が美味しいわけないでしょう? 不味いからそれを飲まなくてもいいように、皆早く怪我や病を治そうとするんです」
 無理矢理な感が拭えない理屈をつけるとウラートは再びリュ・リーンに向けてカップを差し出した。抵抗しても無駄なようだ。
 リュ・リーンはしぶしぶカップを受け取ると、その液体の匂いを嗅いでみる。なんとも言えない厭な匂いだ。
「早く飲みなさい。冷めるともっと不味くなりますよ、この薬」
 そんなことを言われたら飲まないわけにはいかないではないか。リュ・リーンは恐る恐るカップに口をつけた。
 一口だけ口に含んで嚥下する。
 渋みと苦みで口内が痺れた。やっぱり不味い。
 だが飲むまでウラートは許さないつもりだ。リュ・リーンは覚悟を決めると、一気に薬湯を飲み干した。
「カップを貸してください」
 口を歪める主人の手元からカップを受け取るとウラートは器に残っていた薬湯を再びカップに注いだ。
「うぅ……。なんて不味い味だ。人間の飲むものとは思えない」
 リュ・リーンは口元を押さえて呻いた。
「何言ってるんです、自業自得でしょう? さぁ、残りも飲みなさい」
 再度、有無を言わせぬ口調でウラートはリュ・リーンの目の前にカップを突きつけた。
「うげ。まだこんなにあるのか。本当にこれだけ全部飲まなければならないのか。なんだか多いぞ」
 最初の一杯でかなりうんざりしているリュ・リーンはできることなら飲まなくて済みはしないかと、ウラートに抗議をしてみる。だがそんなリュ・リーンの希望はあっさりと打ち砕かれた。
「駄目です。飲みなさい。……飲まないと手紙を返しません」
 それは非常に困る。やっとの思いであそこまで書いたのだ。もう一度、手紙を書く気力は今日はない。
 泣きそうな気分でカップを受け取るとリュ・リーンは生唾を飲み込んだ。
 今しがた飲んだ薬の味はできれば二度と経験したくないものすごい味だった。
 確かにこんな薬を飲むくらいなら、早く傷を治して、二度と怪我などしないと誓いたくなる気分も判る気がする。
「さっさと飲みなさい、リュ・リーン」
 ウラートに急かされると、リュ・リーンは目を閉じて一気に薬を飲み干した。嚥下した薬が喉をゆっくりと落ちていく感覚にリュ・リーンは安堵のため息を吐いた。
「はい。口直しの水」
 リュ・リーンが薬を完全に飲み下したのを確認するとウラートは水差しから注いだ冷たい水を差しだした。
 それを慌てたように受け取るとリュ・リーンは注がれた水をすべて飲み干す。
 口のなかは渋いような苦いような味で充満しており、水を少々飲んだくらいでは落ち着きそうもなかった。
「うぇ~。不味かった」
 顔を歪めたままリュ・リーンは薬湯の入っていたカップと今空にしたカップとをウラートに返した。ウラートは涼しい顔のままそれを受け取り、再度水をついでリュ・リーンの前に差し出す。
 勧められるままにさらに水を飲み干すとリュ・リーンは右手を差し出した。
「手紙!」
 当然忘れていなかったであろうが、ウラートはじらすように首を傾げた。
「はい?」
「だから! さっきの手紙、返せよ」
 おちょくられているのにも気づかず、リュ・リーンはむきになった。他人に自分の書いた手紙を預けておくのは抵抗がある。ましてその手紙はリュ・リーンにとってはただの手紙ではない。
「はいはい。判ってますよ。ほら」
 無造作に差し出された羊皮紙をひったくるとリュ・リーンはウラートに見えないようにそれを丸めてしまった。
「続きは書かないんですか?」
 側に人がいては書きづらい内容の手紙であるのに、ウラートは意地悪く訊いてくる。それをリュ・リーンは軽く睨む。
「うるさいな。後で書くよ!」
「……無理だと思いますねぇ。今の薬、即効性の眠り薬も調合されてますから。すぐに眠気が襲ってきますよ」
 相変わらずの涼しげな顔でウラートはカップを片付け始めた。
「眠り薬!? なんでそんなものが入ってるんだ!」
 青ざめるリュ・リーンを無視してウラートは天幕から出ていこうとする。
「ウラート!」
 さすがにムッとしてリュ・リーンは守り役の肩を掴んだ。以前の彼なら見上げていたウラートの顔が今はすぐ目の前にある。
「眠り薬の調合はお前が頼んだんじゃないだろうな!」
「……そうですよ。あなたはいつも無茶ばかりしますからね。今夜くらいは大人しく寝てなさい」
 冷淡な口調だが、やはりリュ・リーンを気遣う気配を見せたウラートが囁きながら、自分の肩に置かれた主人の手をずらした。
 何も言い返せないリュ・リーンの顔をしばらく見ていたウラートは、主人の動揺が収まるのを待たず、天幕の外へと向かった。
 天幕から出かかってふと後ろを振り返る。置いていかれる子供のような顔をして自分を見送る主人と目が合う。
「手紙……書くのなら、早く書いてしまいなさい」
 低い、小さな声でそれだけを伝えると、ウラートはあとは振り返らずに外に出た。




 天幕からもれる弱い灯りに誘われるようにウラートは入り口の幕を引き上げた。
 奥の机に身を任せて眠りこけるリュ・リーンの姿がすぐ目に入る。
「しょうのない人だ。やっぱり手紙を書いている途中で眠ってしまったのか」
 ため息をつきつつ、主のそばに近づく。そして無心に眠りを貪るその寝顔にしばし見入った。
「……」
 眠っている顔まで大人になった。
 ウラートは幼い頃から見慣れたリュ・リーンの顔を思い起こして複雑な顔を作った。
 かつて彼が無防備な寝顔を向けるのは、両親と自分しかいなかった。
 成年後は息子の寝所を父王が訪れることもなくなったから、自分しか彼の寝顔を見る機会はなかったし、人見知りの激しいリュ・リーンが自分以外の者を寝所に入れるはずもなかった。
「リュ・リーン。身体に悪いですよ、ベッドに移りなさい」
 主人の身体を揺すって呼びかけるが、リュ・リーンはもぞもぞと身体を動かすだけで目を覚ましはしなかった。
 ため息をつくと、ウラートはリュ・リーンを脇から抱えた。
 以前なら頭一つ分小さなリュ・リーンを抱えることなど造作もなかった。だが、ここ数ヶ月でめっきり背が伸びた彼を抱えるのは骨が折れる。
「まったく。勝手に大きくなって」
 自分の屁理屈にも気づかずウラートは苦労して主人をベッドに運んだ。かなりの力仕事だ。その間もリュ・リーンはぐっすりと眠り込んでいる。
 ベッドに転がされるとリュ・リーンが手足を縮めて丸くなった。幼い頃からの彼の癖だ。赤ん坊のように手足を縮めている様子だけは昔と変わっていない。
「リュ・リーン」
 彼が聞いていないことが判った上でウラートは呼びかける。
「うぅ……ん」
 リュ・リーンの口から微かに声がもれた。だが、目を覚ましたわけではなかった。その証拠にさらに寝言を呟いている。
「う……ん……カデュ・ルーン……」
 その寝言にウラートの顔が曇る。
「……リュ・リーン」
 そっとベッドの端に腰を下ろした。
 自分が見下ろしている若者は自分の主であるはずだが、幼い頃から一緒に暮らしてきたウラートには実際にはいないのだが、弟のような強烈な存在感があった。
 そっとリュ・リーンの髪に手を伸ばしたウラートの手が途中で止まった。そしてそのまま腕を引っ込める。
「いずれあなたは王になる……。強くなりなさい、リュ・リーン。あなたに仇なす者たちさえもがひれ伏すほどに強く……。聖地の姫があなたの心を護る盾となると言うのなら、私は王たるあなたの誇りを護る騎士となりましょう」
 囁き声は闇に溶け、主の耳には届いていないだろう。
 リュ・リーンを弟のように甘やかす時期は終わりを告げようとしていた。
 王者に相応しい器量を身につけつつある主人にウラートは一瞬寂しげな視線を向けた後、主の眠りを妨げぬよう灯りを消して天幕を後にした。




 夏の太陽が天中近くに昇り、人の肌を焼く時刻がきていた。雪国育ちのリュ・リーンには苦手な時間だ。
 毎年、従軍する度にこの暑さには悩まされる。少しでも暑さをしのごうと、リュ・リーンは窮屈な軍服を脱いで下着同然の格好でベッドに転がっていた。
「リュ・リーン殿下! カヂャが……! カヂャ軍が動きました!」
 そのだらけきっている彼を叱責するようにカヂャの動向が報告される。その声にリュ・リーンは飛び起き、自分の格好に慌てて軍服を羽織る。
「殿下!?」
 大天幕へ飛び込んできた若者が薄暗がりのなか、リュ・リーンの姿を探す。
「ここだ」
 ベッドを隠すように立てられた間仕切りの陰からリュ・リーンは立ち上がった。慌てて着込んだ服は少しだらしなくシワがよっている。
 だが、飛び込んできた若者はそんなことに注意を払うような状態ではなかった。
「カヂャ軍がウレアに向けて進軍を開始したと、たった今早馬が!」
「判った! 詳しい報告は軍議の席で聞く。将軍たちに召集をかけてくれ」
 弾かれたように天幕を飛び出していく男の背中を見送ると、リュ・リーンは軍服の乱れを直し、もはや自分の一部となっている王家のマントを羽織った。
 トゥナ王国を表す左手短剣紋とヒルムガル王家を表す三日月紋。くすんではいたが金糸が薄闇にぎらりと光る。
 天幕の幕布を跳ね上げると、熱い風が頬をなぶっていく。ムッとするような熱気だ。リュ・リーンは僅かに顔をしかめた。
 だが、その顔を一瞬で元の怜悧な表情に戻すと、足早に軍議を開く建物へと歩き出した。
 ここ数週間の膠着状態が崩れようとしていた。
 カヂャの軍事物資は枯渇寸前になっているはずだ。本国におめおめと帰還できないのであれば、このウレアを攻め落とすしか方策はないであろうことは予想していた。
 真綿で首を絞めるように相手を苦しめ屈辱を与えてきたが、ようやくそれも終わる。ここでカヂャを叩き伏せれば、トゥナの勝利は間違いないものになるだろう。
 軍議室の扉を勢いよく開けると、何人かの部隊長がすでに集まっていた。一様に顔には緊張感が漂っていた。
「カヂャがとうとう音を上げたらしいな」
 残酷な笑みを浮かべるとリュ・リーンは集まっていた者たちを見まわした。この時を待っていたのだ。今までの小手先だけの作戦ではない。
 大がかりな戦になるだろう。
 隊長たちの表情にも緊張と殺気が浮かんでいる。
「殺し尽くしてくれる……。今までにリーニスが受けた汚辱は、奴ら自身の命で贖わせてやる」
 リュ・リーンの暗い双眸に炎が浮かんでいる。
 これからその地獄の業火で焼かれるであろう敵軍に同情などするつもりはない。だが人が覗くべきではないその闇を盗み見たような気分にその場に居合わせた者たちは身震いした。




「出立だ!」
「遅れをとるな!」
 荒々しい馬蹄が天幕のまわりの大地を踏みならす。
 その騒然とした様子の兵士たちが、前方に設けられた壇上にあがる人物に気づき、いっそう大声をあげた。
「リュ・リーン殿下!」
「黒衣の王子!」
 空気を震わす、怒濤のような歓声が壇上にいるリュ・リーンの身体を包む。夜の闇色をした王太子の甲冑が太陽の光を吸い込んでいく。
 兜だけをはずし、黒い髪を風になびかせ、リュ・リーンはまわりの兵士たちを見まわした。右頬にはうっすらと白くなった傷痕が残っている。
「皆、随分と待たせたな。ようやく我らの屈辱を(すす)ぐ日が来た! カヂャを追い落とせ! 一人残らず、カヂャの兵を屠るのだ! 今こそ、死んでいった盟友たちの無念を晴らせ!」
 リュ・リーンの声に歴戦の戦士たちの間から鬨の声があがる。
 皆、待っていたのだ。戦友たちの無念を、故郷が踏みにじられた屈辱を晴らす、この日を!
 大歓声のなかで壇上に立つリュ・リーンの横顔を見つめながら、ウラートは安堵したような吐息をついた。
 もう少しだ。今日の戦いに勝利すれば、リュ・リーンの地盤は確実に固まるだろう。そうなれば、王都でのうのうとあぐらをかいて戦いの行方を眺めている貴族たちでも、おいそれとは大事な主人に手出しなど出来なくなる。
 常に勝ち続けることを強要され、敗北など決して許されないリュ・リーンの片腕として戦ってきた自分を少し誇らしく思いながら、ウラートは巨大な生き物のおめき声のように拡がる兵士たちの喊声に耳を傾けた。




 黒々と伸びる軍列を見送りながらウラートは胸中で祈りの印を切った。
『無事でいてくださいよ、リュ・リーン』
 補給部隊を受け持つウラートには先陣をゆくリュ・リーンの後を追うことは許されない。自分の役目の重要性は判っていたが、側にいられないもどかしさを払拭することはできなかった。
「ウラート殿。我らも出立を!」
 配下の者がウラートに声をかけなければ、彼はいつまでもそうやって軍列を見送っていただろう。
「あ、あぁ。判りました。出立しましょう」
 補給部隊は二つに分けられ、それぞれが本隊とは別路を通って補給地へと向かう予定なのだ。あまりゆっくりもしていられない。
「ミシャナス卿、そちらの隊をお願いします!」
 愛馬に跨りながらウラートは別働隊の同僚に声をかけた。
「任せておけ。敵の本隊は王太子殿下が引き受けてくださるのだ。これくらいの隊を指揮できなくてどうするんだ」
 日に焼けた顔がウラートを振り返った。薄い茶色の瞳が不敵な笑みを含んでいた。逞しい体つきから察するに、ウラートよりも歳は上だろうがまだ若い。
 この大戦で壮年の騎士の多くが命を落としている。
 年若い騎士たちにとっては自分が勇躍する場が拡がっただけありがたいかもしれないが、軍を指揮していた熟練の騎士たちの死はトゥナ王国としては痛い損失であった。
「出立!」
 ウラートの号令を今や遅しと待ち構えていた兵士たちが補給物資を守るように行軍を開始した。
 本隊ほど早くは進めない。だが、確実に補給地へ間に合わせなければならない。
 時折に斥候を放ち、万が一の敵軍に備えながら、ウラートは東へと軍を進めた。
『無事でいてください、リュ・リーン殿下』
 同じ東へ向かう軍路でも、より危険な南方を進んでいるであろう年下の主人を思いながら、ウラートはしばし瞑想に耽った。
 彼と初めて会ったのは、いつだったろうか?
 確かまだリュ・リーンが二歳になるかどうかといった頃だった。
 自分はようやく五歳の誕生日を迎えたばかりの小さな子供で、右も左も判らない王城は、ただただ広いばかりで心細い場所だった。
 あの甘えん坊の赤子が、今は大軍を指揮する将軍になっている。
 思えばこの十五年近く、ほんの一時期を除いてずっと一緒に育ってきたのだ。随分と長く一緒にいる。
 わがままな主人に愛想も尽かさず、世話を焼くウラートを貴族のなかには物好きな奴だと笑う者もいる。
 だが幼かったウラートに選択の余地などなかった。
 それに貴族たちが陰で謗っている者が自分の仕える主であることを知っていて、それを笑って許してやれるほどウラートは卑屈でも臆病でもなかった。
 いつかは天の高みに立ち、その貴族たちを睥睨する者を、自分が育てているのだ。その誇りを傷つけるようなことができるはずもない。
 あの日に誓ったのだから。片言の言葉を喋りながら自分にすり寄ってくる幼子を前に、ウラートはあの日に誓っていたのだから。
『忘れてはおりません、陛下。約束は必ず……』
 ウラートは思い出したように胸に手を当てた。
 甲冑の上からではまったく感触など判るはずもないが、自分の首から下がっている護符を意識できた。
 この護符を首に下げてくれたあの手を忘れはしない。




「本気で言っているの、シャッド・リーン!?」
 扉の向こうから聞こえる女性の声に、子供はすくみ上がった。機嫌の良さそうな声だとは間違っても思えない。腹立たしそうな声が続く。
「この子は私の子よ! 私が育てるわ!」
「聞き分けのないことをいうな……ミリア・リーン」
 辛抱強い男の声が女の抗議を遮らなかったら、女の怒りの抗議は止まることなく続いただろう。
「どうして他人に預けるの! 私からこの子を取りあげないで!」
 震える女の声が力無く子供の鼓膜を叩いた。先ほどの怒りの声よりも胸をえぐる哀しげな声。
「預けたりはしない。……預けるわけがない! そうであろう? そなたは誤解している。守り役をつけるとは言った。だがあの子から母親を取りあげるとは言っていない」
「その守り役に育てさせるのでしょう? 同じことよ! 預けるのと同じことじゃないの!」
 細い甲高い声が空気を震わす。
「判った。……ただ、会ってやってくれ。それからでいい。その者を守り役につけるかどうかを決めるのは、それからでいい」
 諦めたように返事を返す男の声が途切れると重たい足音が扉へと近づいてきた。子供は自分の心臓が打つ音が辺りに響いているような錯覚に、その小さな胸を押さえた。
 大きな扉だった。それが音もなく開くと、その扉の奥から海色の瞳が子供を見下ろした。
「待たせたな。入れ」
 天を突くような大きな男。自分をここまで連れてきた男の白い顔が覗いた。その顔を縁取る金色の髪が少し乱れて額に落ちかかっている。
 子供は男の顔を見上げ、教えられたとおりに恭しく律儀に腰を屈めて了解の姿勢をとると、扉の隙間から部屋のなかに滑り込んだ。
 キョロキョロと子供は物珍しげに辺りを見まわした。そして、奥の寝椅子に身を預け、こちらを睨めつけるように見る女と視線がぶつかると、びっくりしたような顔をして目を瞬かせた。
「おいで。こちらだ」
 背後に立った男が子供の小さな身体を抱き上げた。
 あっさりと肩に担ぎ上げられ、子供は突然に高くなった視界が面白くてにっこりと笑った。こんな高いところから辺りを見るのは初めてだ。
 嬉しそうに笑う子供を女は無表情なまま見上げた。内心の動揺を押し殺した表情だ。
「どういうことなの?」
 務めて声も平静を装ったつもりだったが、それが成功したかどうかは怪しい。
「今日の朝、奴隷商から買い受けた。名前は……」
 そのときになって初めて子供の名前を尋ねていなかったことに気づいて男は口ごもった。肩の子供の顔を見上げる。
「奴隷商ですって!? じゃあ、奴隷の子なの!? 守り役だと言うから、てっきり成人した男か女だと思っていたのに! 守り役が、子供の、しかも奴隷ですって!?」
 二人の様子を見ていた子供が足をばたつかせて下へ降りる意志表示をした。男がゆっくりと子供を降ろす。解放された子供が恭しく女の前に跪いた。
「ウラートです、ご主人様」
 奴隷商に仕込まれたのだろう。幼い少年は不釣り合いなほど優雅に腰を屈めて、女を見上げた。
 その真っ直ぐな藍色の瞳に女が虚を突かれたように相手を見た。自分の目の前にいる者がいったい何者か判っているのだろうか?
「そうか。ウラートという名だったか……。そう言えば、奴隷商の主人がそんなような名前で呼んでいた気もする」
 呑気に顎を掻く男を女は鋭い目で睨みつけた。
「いい加減にして! シャッド・リーン! あなたには王としての自覚があるの!? よりによって奴隷に自分の息子を育てさせる気でいるなんて!」
 女が全身をわなわなと震わせている。目の前に跪く子供を完全に無視して、男に食ってかかっていく。
「……じゃあ、貴族にでも頼むのか? それこそ頂けない話だ、ミリア・リーン。そなただってそれくらいのことは判るだろう?」
「だから、私が育てるって言っているでしょう! この子をさっさとさげて頂戴! 話なんて聞く必要もないでしょう!?」
 癇癪を起こして怒鳴る女を驚いて見つめる少年を男はそっと抱き上げると、子供に向かって微笑んだ。
「ウラート。すまんが奥の子供部屋に行って、眠っている息子を連れてきてくれ。……できるか?」
 神妙に男の言葉を聞いていた子供がこくりと頷いた。それを確認すると男は子供を降ろし、奥部屋の方向と指さした。
「あそこだ」
「シャッド・リーン! その子を息子に近づけないで!」
 身を埋めていた寝椅子から飛び起きると女が子供を掴まえようと手を伸ばした。それを男が逆に止める。それほどの力を入れているわけでもないのに、女の身体は拘束されて動かせない。
「放してよ。放して、シャッド・リーン!」
 もがく女の視線が走り去る子供の背中に突き刺さる。子供は子供部屋の扉を難なく開けると薄暗い部屋に躊躇いもなく足を踏み入れた。
「止めて……!」
 女の掠れた叫びがその後を追ったが、男に抱きかかえられた身体はどうよじっても、もがいても自由にはならなかった。
 奥部屋から幼い子供のむずがる声が聞こえた。
「シャッド・リーン!」
 女が首をよじって男の顔を見上げた。男を睨みすえる女の顔には複雑な表情が浮かんでいた。
「貴族たちに大事な子供を任せるわけにはいかない。……成人した者たちでも一緒だ。皆、一様に息子を怖れるだろう。まだ偏見を持たぬほど幼い子供でなければ、息子を任せることなど出来ない」
「……」
「あの子は偏見を持たない。いや、持ちようがない……。母親は遠国から娼館に売られてきた娘だ。この国の伝説や伝承とは無縁の者が産み落とした子供……。あの子なら、息子を忌みはしない」
 いつの間にか女は男の腕のなかで大人しくなっていた。
「ミリア・リーン……?」
 男は女の顔を覗き込み、その瞳に浮かんだ涙を見ると、そっと自分の胸に女の頭を抱き寄せた。
「約束したではないか。……生まれてくる子供たちを不幸にはしない、と。あの時……聖地の尖塔での約束を忘れたわけではあるまい?」
 震えている女の肩を抱きながら、男は子供部屋を見守った。今度、あの扉から出てくるときが、中にいる者の運命の分かれ目だ。
 男は自分の心臓が早鐘のように打つのを遠くに感じていた。まるで、氷原を駆けていく早馬の馬蹄のような音だ。
 女もこの音を聞いているだろう。だったら男がこの瞬間も祈るような思いで子供部屋の扉を見つめていることが判っているはずだ。

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