2000年7月15日の投稿[1件]
白い廊下、白い景色。年が明けたばかりのこの時期に、この光景は寒々しいばかりだった。
「紫野しのさん。ちょっといいですか?」
白い空間の片隅に置かれた硬いソファに腰を降ろしてぼんやりしていると、緊張した声がすぐ脇からあがる。
彼、紫野竜介しのりゅうすけは冷たい表情を崩すことなく相手の顔を見上げ、青ざめて強ばっている少女の表情の中に戸惑いを見つけた。
まだ十七~八歳の年齢の少女は、柔らかな茶髪とやや大きく見える瞳のせいで西洋人形のように見える。
「何かな、桜華おうかちゃん。薫と和紀ならまだオペ室から出てきてないよ」
竜介の硬質な声に桜華が首を振る。両手を身体の前で硬く握りしめ、真っ直ぐに竜介を見下ろす姿は、雪の降るなかに真っ直ぐに立つ、一本の若木のようだった。
「昔の薫さんたちのこと、お訊きしたいんです。薫さんと綿摘わたつみさんの間に何があったのか……」
「僕に話をしろって? 本人たちの了解もないまま? それは随分と失礼な話じゃないかな。君が知りたいのなら、薫たちに直接聞くべきだね」
「判っています。でも……。薫さんたちは、わたしが訊いても答えてくれないんです」
「それは君が知る必要のないことだからだろう? 薫は自分の大事な患者クランケに、余計なことを吹き込みたくないだけだよ」
少女の口元が意固地に引き結ばれた。これで引き下がる気は毛頭ないらしい。どこかで見覚えのある表情に、竜介は自嘲を込めた笑みを口の端に浮かべた。
「桜華ちゃんは薫のことが好きなんだねぇ。だから、和紀が薫の側にいるとご機嫌が悪いんだ」
「それは……! 薫さんはわたしの主治医です。だから、少しくらい薫さんのことを知りたいと……」
「嘘つき」
ビクリ、と桜華が身体を硬直させ、すぐに目の前に座る青年を強い眼光で睨んだ。
竜介という勇ましい名前とは反対に、彼は柔らかな外見をしている。どちらかといえば女性と見間違われそうな顔立ちと言ってもいいだろう。冷たい印象を与える彼の姿は、決して他人と馴れ合うことのない意志表示のようにさえ見える。
「君は昔の薫に良く似ている。薫のほうが常識はずれではあったけど」
「紫野さん。あなたの話ならしてもらえますか?」
「……いいよ。君も頭がいいみたいだね。やっぱり薫に似てる」
竜介は自分のコートを脇に抱えると、ソファからゆったりとした動作で立ち上がった。すぐ側に立つ少女を手招きして、彼は白い廊下を歩き始める。
「いつ頃の話を聞きたいのかな?」
長い廊下の所々にある階段の一つを昇り、彼は少女を屋上へと連れだした。フェンスを張り巡らせた屋上は、冬以外の季節であれば風が通って気持ちいいだろう。しかし、この寒空の下で見るとあまりにも殺風景だった。
「紫野さんと薫さんたちの間に起こったことすべて……という訳にはいきませんか?」
「そんなことしたら話に何日もかかるよ。君さえよければ、高校三年生になる頃の話をしようと思うけど?」
桜華はそっと頷き、真剣な眼差しを相手の口元に注ぐ。自分の知りたいことを、相手はよく理解しているはずだ。期待はずれなことを話はしないだろうと判断してのことだった。
青年は手にしていたコートを少女に羽織らせ、無表情なまま彼女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「今から話す事の本当の原因は何ヶ月も前に起こった事件だけどね。僕には興味もないことだから、僕は僕の始まりから話をする。どうしても原因を知りたいのなら、君自身の力で調べることだね」
少女の頭から手を離し、青年は灰色の空をチラリと見上げた。その空からすぐに目を反らすと、竜介はゆっくりとした口調で話し始めた。
南の地方では桜の開花宣言が出され、この地方でも桜の蕾が膨れ始めた季節。
まるで気楽な一人旅にでも出掛ける軽さで、彼は僕に向かって片手を挙げた。僕はそれにどう応えたら良いのか判らず、彼の真似をして静かに片手を挙げるだけだった。
「それじゃ、な」
すれ違い様のハイタッチ。いつもなら機嫌の良いときの挨拶だった。頭上で交差した僕の掌を、彼は一瞬強く握りしめた。その間でも、僕をチラリとも見はしない。
掌を放すと、彼はさっさと背を向けて歩き始めた。名残惜しげに振り返りもしない。あっさりとしたものだ。
呼び止めよう。そう思って口を開き掛かったけど、僕の喉はひりついていて、どうしても声を出すことができないまま、彼の背が小さく遠ざかっていくに任せていた。
どうしてそんなに簡単に背を向けることができるのだろう。彼は僕たちと一緒に過ごした日々を忘れてしまったのだろうか?
いいや。そんなはずはない。忘れるはずがない。
通りの向こうの角を曲がり、彼の均等に筋肉がついた背が見えなくなっても、僕はじっとその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
どれくらいそうしていただろうか。ポッカリと心に空いた穴は空虚で、僕の中から時間という感覚をすっかり奪っていた。
「あいつ、どこいったのよ!?」
「薫……? どうしたのさ?」
金切り声とともにバタバタと駆け寄ってきた少女の顔を、僕は虚ろな気持ちのまま見つめた。
いつも怒ってばかりの薫は、今も声だけ聞いていると烈火の如く怒り狂っているようにしか聞こえない。しかし、彼女の今の顔はひどく歪んで泣いているように見えた。
「和紀はどこ!? ちゃんと答えなさいよ!」
「君らしくない慌てようだね。落ち着きなよ」
「いいから訊かれたことに答えなさい、竜介!」
怒声を張り上げる彼女の背後には、寮の玄関口から怖々と顔を覗かせる男子寮生たちの顔が並んでいた。空手の上位有段者の薫に敵う男子はそういない。同じく空手をやっている僕でも無理だろう。彼女に勝てるとしたら……。
「勝手に退学届け出して出ていったなんて、嘘なんでしょう!?」
薫は拳一つ半高い僕の肩を掴むと、遠慮容赦なくガクガクと揺する。女にしては握力が強い彼女に肩を鷲掴みにされると、それなりに痛いものだと、ふと頭の隅にどうでもいいことが浮かび、すぐに消えた。
「和紀は出ていったよ。もうここにはいない」
「バカッ! 生徒会長のくせになんで止めなかったのよ!?」
「止めて聞き入れるような奴じゃないだろう。それに、あの理事が退学届けを受け取ったんだよ。今の僕たちに覆せると思う?」
「あいつは今度の馬鹿げた事件のことで早まっちゃったのよ。あいつが学校辞めるのなら、私だって同罪でしょ!? 友人なら止めなさいよ、バカ!」
空っぽになりかかっていた僕の頭の中が、自分の言葉にふと覚醒を始めた。その通りだ。僕も最初は和紀は早まったと思った。だから止めた。結論を急ぐな、と。僕たち生徒会の人間でなんとか理事会に掛け合うから、と。
それをあいつは、どうでもいいことのように笑い飛ばし、もう退学届けを出してきた、と僕たちの前に爆弾を落としていった。しかも、校長や理事長にではなく、あのイカレた理事に、だ。
「僕だって止めたさ。君にとやかく言われる前にね!」
「もっと、ちゃんと止めなさいよ! 私が呼び戻してくる! どっちの方角に行ったのよ!?」
ヒステリックに叫ぶ薫の目は充血していた。もしかしたら、彼女は本当にここまで泣きながら走ってきたのかもしれない。僕にはどうでもいいことだったけど。
「あっち。たぶん駅の方角だと思うけど。……でも追いつけないよ、きっと」
「うるさいわね! 追いついてみせるわよ!」
僕の肩を突き飛ばすように放すと、薫は和紀が歩き去った方角へと飛んでいった。
彼女を止めても無駄だろう。道の途中で和紀に追いつける保証などない。いや、たぶん追いつけない。万が一、和紀に追いつけたとしても、彼は帰ってこないだろう。
僕は意気消沈して帰還するだろう薫をどうしようかと思いながら、寮の玄関へと引き返した。首を玄関扉から突きだして鈴なりになっている寮生たちと視線が合うと、僕はいつもの鉄仮面のままで寮の建物の奥を指さした。
それだけで充分だ。彼らは三々五々に玄関から散って、ある者は自室へ、ある者は談話室へ、ある者は女子寮との境界線である食堂へと向かった。
一時間もしないうちに、綿摘和紀わたつみかずきが学校を自主退学したことは知れ渡るだろう。良い噂と悪い噂も同時に。他人の不幸は蜜の味。一般の生徒には、単調な日々のちょっとした刺激を求めるにすぎない話題だけど。
「竜介ぇ~。薫、放っておいていいのか?」
「そうですよ、紫野先輩。まだマスコミがそこらにいたら、大騒ぎになっちゃいますよ」
最後まで残っていたエリックと翔が不機嫌な顔つきで口を尖らせている。和紀や薫を止めなかった僕のことを不満に思っているに違いない。
「薫ならマスコミなんか突っ切って帰ってくるよ。それに今頃は理事会のほうもマスコミの上層部に圧力かけて頃だろうし……。一番の貧乏くじを引いたのは和紀一人ってことだね」
「オレもこの学校辞めたくなってきたね。他の学校と違って育成モデル校だから飛び級はあるし、校風も自由だけどさ。なんなんだよ、寄ってたかって和紀と薫ばっかり……」
「ボクもですよ。あ~ぁ、つまんない。この学校、他の学校より生徒の発言権あると思って入ったけど、今回のことは幻滅ですよぉ。ホント、あの理事なんかサイテーって感じ?」
苦虫を噛み潰したような顔をしている二人に、僕はさらに冷酷に対応した。僕たち生徒の抗議なんか、理事会は痛くも痒くもないのだから。
「君たちが辞めたってなんの解決にもならないね。学校も大人たちもなんとも思わないよ。バカな生徒が減っただけだと思うさ。それにエリック。君は交換留学生なんだから、自分の都合で勝手に辞められないの!」
「なんだよ、冷たいなぁ!」
ふてくされるエリックたちを無視すると、僕は自分の部屋へと向かった。遠くで人が動き回る物音がする。階段を上がり、自分の部屋へと続く廊下を歩き続ける道筋がひどく遠く感じた。ここはこんなに広かっただろうか?
廊下の中ほどにある自室の前に辿り着き、扉に手を掛けたとき、僕はふと糸に引かれるように隣の部屋の扉を振り返った。
沈黙する扉。開かれない扉。この部屋の主はもう帰ってこない。少し日に焼けた肌に収まりの悪い癖毛、人懐っこい笑顔をした同級生は、あっけないほど簡単にこの場所から居なくなってしまった。
じわりと僕の視界が滲む。熱を持って歪んだレンズ越しに景色を見ているようだった。震える指先でなんとか暗証番号を押し、開いた扉の隙間から室内に滑り込むと、僕はその場に座り込んで顔を覆った。
頭の奥が疼くような熱に侵され、目の前がグルグルと回っている。頬を伝うものの生ぬるさに、僕の胸はむかついて仕方がない。どうして、こんなにも息苦しく感じるのだろう。
僕は息苦しさに何度か大きく息を吸い込み、その度に感じる胸の痛みに拳を幾度も床に叩きつけた。手の痛み以上に胸が痛い。
無力だ。僕たちはあまりにも無力だった。何も、彼に何もしてやれなかった。僕たちの苦しみを知ってか知らずか、彼は自分の下した決断に従ってこの場所からいなくなった。それが一番正しいことだと思っているのか?
薫はきっと追いつけない。僕が和紀を見送ってから随分と時間が経っていたはずだから。たとえ、追いつき彼を捕まえたとしても、彼は戻ってきはしない。
それじゃ、と片手を挙げた彼の真っ黒な瞳には、どこか達観したような強い光だけがあった。怒ったときには子どものような顔をするくせに。彼があんな瞳をするときは、絶対に言いだしたことを曲げないときだ。
彼は、もう戻ってこない。もう二度と……。
高校生活を一年残したまま、彼はこの学舎から姿を消してしまった。
「おい、聞いたか! 薫のこと」
「あのバカ理事にヤられちまったって?」
「マジかよ。あのヒヒジジィ……見境ってもんがねぇのかよ」
まことしやかに流される醜聞スキャンダル。公然と言葉にすることはできない話題に、学校中が浮き足立っていた。
そんな話は嘘っぱちだと言う者もいれば、さもありなんとしたり顔で頷く者もいる。新学期が始まったばかりだというのに、授業そっちのけの雰囲気に教師たちの眉間には皺が寄りっぱなしだ。
マスコミがようやく沈静化し始めた時期だっただけに、学校側は過敏になっているようだ。しかし、生徒たちには漏れないようにという努力は無駄に終わった。
それもそうだろう。片方の当事者が故意に噂を流し、作為的に情報を操っていた。
「薫、君は危険な賭をしていること判ってるんだろうね?」
「だから何? 私のやることにいちいち文句つけないでよ」
「情報操作に生徒会副会長の地位を利用してるだろ。僕たち他の生徒会役員まで巻き込むつもりか? そんなことしたら、和紀がなんのために一人で泥をかぶったのか……」
「竜介たちに迷惑はかけないわよ! 私のことは放っておいて!」
やることが無茶苦茶だ。ヤケになっているとしか思えない薫の暴走を止めようと、僕は必死だった。和紀を助けられなかったときと同じ無力感に苛まれながら。
「やりすぎるな、薫! そんなことしたって和紀は喜ばない」
「和紀は関係ない。私がやりたいようにやっているのよ。許さない。絶対にあの理事だけは許さない!」
生徒の間では薫の気性の凄まじさは有名だった。しかし、教師たちの薫の認識は優秀だが皮肉屋で気の強い女子生徒という程度だ。彼女はその仮面を隠れ蓑に、恐ろしいほど巧みに情報を操作して理事会を追い詰めていた。
「利用できるものはすべて利用したわ。理事会に煮え湯を呑ませてやるために、爺さんにも頭下げたんだから。絶対に失敗はしないし、竜介たちにも迷惑はかからない」
「そんなこと聞きたいわけじゃないよ。君は自分をなんだと思ってるのさ。君を庇った和紀の気持ちを踏みにじる権利があるのか!」
「冗談じゃないわ。黙って引き下がるものですか。あいつら、ありもしないことで私たちをつるし上げたのよ!? 同じように、ありもしないことで抹殺してやるわ! 自業自得でしょ!」
噂は生徒どころか、PTAや教育委員会にも流れた。理事会の理事が学校の女子生徒を暴行した。しかも、彼女にはなんの罪もないことをネタに脅したのだ、と。当の理事は反論したそうだが、教師の何人かが現場を目撃している。
いかにもマスコミが喜んで食いついてきそうな話題だ。もうこれ以上隠し通せないギリギリのところで、薫は理事会に呼び出されていった。
理事会に出頭した薫がどんな大演説をぶったのか知らない。生徒会会長とはいえ、一介の生徒にすぎない僕には知りようもないことだった。いや、たとえ知ることができても、もう僕には手出しできることではなくなっていただろう。
薫が呼び出された理事会会議が終わった翌日、件の理事は解任された。理事会は自分たちに及ぶ被害を怖れるあまり、薫たちをつるし上げた理事を生け贄にしたというわけだ。
そして、さらに一ヶ月も経たないうちに、その理事が飲酒運転の末に車ごと海に転落して死亡したことが噂で伝わってきた。
薫は用意周到に理事会の面目を潰していったのだ。ようやく十八歳になるという少女に、老獪なはずの理事会の面々は、再起不能寸前までやられたといっていい。
彼女は復讐を果たしたんだ。望み通りに。
そして、彼女も僕たちから背を向けた。和紀と同じように。いや、もしかしたら、それ以上に冷たい方法で。