2000年7月13日の投稿[1件]
「いい加減にして! もうわたしには関係のないことだわ!」
罵声こそ浴びせてこないが、相手の形相は憎しみにどす黒く染まり、互いの間にある溝の深さをはっきりと伺わせる。
突き放されることはあらかじめ予測していた。それは想像の範疇の答え。すんなりと承諾してもらえるとは思っていなかった。でも拒絶されたからと言って、ここで諦めるわけにはいかない。
「お願い。帰ってきてくれとは言わないわ。一度でいいの。……たった一度、お母様の前で舞って欲しいのよ」
恥も外聞もない。蓮華は床に額を擦りつけて頼み込んだ。そうする以外にいったいどんな方法があったというのだろうか。
「蓮華れんげ……どうしてあんたがそこまでするのよ」
長い廊下の端に佇む二人の娘に、冬空の寒気が襲いかかっていた。建物の外側に沿って渡された回廊は、山水造りの庭からの冷気をもろに受けてしまう。
その庭を囲う石塀の向こう側には、雪の重みに項垂れる松木立が黒い影となって立ち尽くしていた。灰色の空からは雪こそ降ってこないが、刺すような寒風がこの巨大な建物へと吹き下ろしてきている。
長い歳月の間、その荒ぶる風を受けて廊下と屋根を支えてきた柱は、すっかり色褪せて白茶けた姿になり果てていた。
檜板の廊下はしんしんと氷のように冷え込み、土下座する蓮華の身体から容赦なく熱を奪っていく。それでも彼女は立ち上がろうとしなかった。
「お願いします。どうか……。一度だけ……お願い……」
「わたしを産み捨てた女を喜ばせるためだけに、どうしてわたしが舞を舞わなければならないわけ? 蓮華、そんなの虫が良すぎるでしょ!」
「判ってるわ。あなたがどれほど腹を立てているか、よく判ってる。でもあなたしか知らないのよ! 花娘を教えられたのは、あなたしかいないの! お願い……待ってちょうだい、桜華おうかちゃん!」
顔をあげた蓮華は立ち去ろうと背を向ける少女の足にすがりついた。ここで逃してしまったら、もう二度と彼女は会ってくれない。どんなことがあっても彼女から承諾をもらわなければならないのだ。
「迷惑だって言ってるでしょう!? 山の大伯父貴にでも頼みなさいよ!」
「それができたら、あなたに迷惑なんてかけてないわ……。家元は私や藤見ふじみを遠ざけているのよ。どうやって教えを乞えというの」
「そんなことわたしには関係ない!」
足にしがみつく蓮華を引きずって桜華が歩き始めた。すぐ目の前にある廊下の突き当たりには、檜造りの建物には似つかわしくない金属製の扉がはめ込まれている。
「桜華ちゃん……! お願い!」
喉を涸らして懇願する蓮華を無視してなおも少女は歩き続けた。桜華の明るい色の茶髪に縁取られた顔は青ざめている。足下にすがる蓮華の声に動揺しているのだろう。
桜華が金属製の扉に手を伸ばすと、それは内側から音もなく開かれて、一人の人物を吐き出した。
「こんな寒い場所で何してんのよ、あんたたち」
出てきた人影は二人の様子を見て目を丸くした。一歩踏み出したままの姿で、まじまじと二人の姿を観察する。
「薫さん! 助けてください!」
「お願い、桜華ちゃん! たった一差し舞ってくれるだけでいいの! もう……お母様に残された時間がないのよ!」
助けを求める桜華に向かって、蓮華は再び声をかけた。その様子にすべてを悟ったのか、薫と呼ばれた女は眉間に皺を寄せる。
「いい加減に放してよ! 鬱陶しい!」
とうとうたまりかねて桜華が掴まれていない片足を持ち上げた。その足で這いつくばる蓮華の手を蹴ろうというのだろう。だがそっと肩に置かれた手に驚いて、その動作が止まった。
「止めなさい、桜華。邪険にしたって蓮華は諦めやしないわよ。……蓮華、こんな寒い場所にいつまでも桜華を置いておきたくはないの。続きはなかでやってくれる?」
「薫さん! 続きを聞くまでもありません! わたしは断っているんですから!」
憤然と抗議の声をあげる桜華の肩を再び軽く叩くと、薫は腰を屈めて蓮華へと手を差し伸べた。今のやりとりを聞いていた蓮華の顔に、泣き笑いの表情が浮かぶ。
目の前に出現した女の白い手をとって立ち上がりながら、蓮華は涙をためた瞳で桜華をじっと見つめた。だが見つめられている本人は、その視線を無視して苦々しげに顔を歪めるばかりだ。
薫に導かれるようにして二人の娘は無機質な扉をくぐった。扉の向こう側へと滑り込んだ途端、そこは咳しわぶきひとつしない沈黙が落ちてきた。それまで扉越しに響いていた激しい足音や鋭い喚声がピタリと止んだ空間は異様だ。
蓮華の目の前には、ローマの闘技場コロッセオを思わせる空間があった。緩い高低差のある階段状の観客席が彼女の前後に広がり、中央部分はワックスで磨きたてられた床がぽつんと広がっている。大きめの体育館とでも言えばいいのだろうか。
今その床の上にはバスケットコートの模様が浮き上がり、床のあちこちに佇んでいる少年たちが胡乱げな視線を蓮華へと向けてきている。
ただ、この施設の目立った特徴は他にもあった。客席より一段下がったコート面を囲む壁がすべて鏡張りになっている。ひどく落ち着かない気がするのは、死角のない空間がすぐそこにあるせいだろうか。
「今日の練習はここまでにしてもらいましょう。……どっちみちコーチが練習を見られなくなるんだから、今日の練習をこれ以上続けても無意味でしょう」
朗々と響く薫の声に集まっていた少年たちが口を尖らせ、薫の隣りに貼りついている桜華へと視線を泳がせた。その間にも少し離れて立つ蓮華へとチラチラ好奇心の目を向ける。
彼らはバスケットのユニフォームを着用しており、蓮華たちが廊下で言い争っていた「舞」という言葉とは、限りなく縁遠い存在だった。
「薫さん。わたし、蓮華に話をすることなんかありません! だから練習を続け……」
「そうね。話はないわね。でもやらなきゃならないことがあるはずよ?」
薫の言葉に桜華はますます不機嫌な顔をした。頑固に口を引き結んで、上目遣いで睨んでくる少女の様子に、薫は腕組みしてじっと睨み返す。
「あんたは天承院流を継ぐのかしら? それなら継承者の舞を独り占めしておいたって問題はないけど……」
「冗談じゃありません。そんなもの継ぐつもりはないです!」
苛立った桜華の叫び声に周囲の少年たちが顔をしかめた。そして非難がましい視線を蓮華へと向ける。彼らにも桜華の苛立ちの原因が、このひっそりと佇む娘にあるのだと判っている様子だ。
「ねぇ、桜華。あんたが問題にしているのは、死にかかっているどこかのおばさんの希望に沿って舞を舞ってやること? それとも、そのおばさんの側にいる愛娘に自分の技を盗まれること?」
薫の問いかけに桜華が顔を引きつらせ、その背後では蓮華が息を呑む。
「あ、あの……桜華ちゃん。私のことなら……。絶対に舞を盗み見たりしないわ。だから、お母様の……」
「うるさい! あんたは黙っていて!」
振り返りもせずに桜華が叫んだ。その金切り声に周囲の者たちは思わず後ずさった。だが目の前に立つ薫だけは鋭い視線を外すことなく、じっと桜華の紅潮した顔を睨み据えている。
「薫さん。こんな馬鹿げた舞を教わったばかりに、しつっこくつけ回されるわたしの気持ちが、あなたに判りますか? わたしはただの一度だって、自分から教えてくれと頼んだことなどなかったのに!」
怒りにブルブルと拳を震わせる桜華の背後で、蓮華は胸の前で両手を固く握り、祈るような想いで二人のやり取りを見守っていた。周囲の若者たちも凍りついたように動きを止めたままだ。
「大人の勝手な都合で押しつけられたこの舞のせいで……」
「それじゃ、どうして後生大事にそんな舞を覚えているの? さっさと忘れてしまいなさい」
「一度覚えたものをどうやって忘れろと言うんですか! それに……ここに来てからずっと稽古に呼ばれているんですよ!」
再び金切り声をあげた桜華に、薫が肩をすくめて小さく嘆息した。その態度が桜華の神経を逆撫でたらしい。食いしばった彼女の口元からギリギリと歯を噛み締める音が聞こえる。
「あんたの場合は忘れられないんじゃないわ。忘れたくないだけよ。花娘を舞えるのはあんたとあんたに教えた者だけ。つまり、門外不出のその舞を教えなければ、天承院の者はあんたを無視できないってわけね。結局あんたは天承院という鎖に繋がれていたいだけなんだよ」
「違う! わたしは……」
「違わない。あんたは自分を無視するなと駄々をこねている赤ん坊と同じよ!」
薫の鋭い声に桜華の背が激しく震えた。それを背後から見守っていた蓮華が、同じく怯えたように震えながら声をかける。
「違うわ。桜華ちゃんは家元と約束をしているから、誰にも教えられないだけよ。天承院の直系だけが継ぐ舞を、傍系に伝えるわけにはいかないんですもの! 天承院の花娘は一子相伝の秘技だもの!」
辺りは水を打ったように静まり返った。その耳が痛くなるような沈黙のなかで、薫があきれ果てたようにため息をつく。
「約束ですって? それじゃ、今の家元が死んだ時点で天承院流はお終いってわけね。桜華に伝えられた花娘を継いでいく者がいないのなら、他に後継者はいないってことでしょう?」
その薫の声に答えるように、俯いて顔を歪ませていた桜華が憎々しげに呟いた。今まで紅潮していた頬が今度は青ざめてみえる。
「潰れてしまえばいいんだ。天承院がなくなったところで、世の中の何が変わるっていうんです」
「そうかしらね。確かに世界がひっくり返るような大事にはならないでしょうよ。でも膨大な数の弟子を抱えた流派が消滅したときの余波は決して小さくはないわ。現に直系のあんたは傍系の藤見に疎まれて、何度も命を狙われているでしょう」
「それももうすぐ終わりです。ここで父が作り上げたすべてのデータを記録し終えたら、もうわたしはこの場所にくることもないんですから。……あとは、天承院の人間で勝手にやればいい!」
青ざめたまま顔をあげた桜華が絞りだすように答えを返した。苦り切った声が彼女のなかに溜まっている憤りを表している。
しかしそんな桜華の答えにも薫の視線は鋭さを失うことなく、なおも彼女の瞳を射抜き続けていた。そんな視線に耐えられないのか、桜華は再び視線をそらして俯いてしまった。
「バカね。あんたにその気がなくても、家元はまだ諦めちゃいないわよ。来年、あるいは再来年……あんたがここに連れ戻されるという可能性を考えたことはないわけ? あの古狸が気前よく、稽古をすることだけを条件に、あんたにここを貸すわけがないでしょう」
「そんな……!」
薫の言葉に不満の声をあげたのは、周囲を取り囲んでいる若者たちのなかでも一際背が高い少年だった。短く刈り込んだ髪を金色に染めているが、顔立ちは日本人のものだ。そのまわりにいた者たちも不満を露わにした表情をしていた。
「葛城かつらぎコーチはオレたちと一緒に全国大会を目指すんだぜ! 勝手に連れ出されてたまるかよ!」
「そうだよ。今年の惨めな負け方はもうご免だからね」
「来年こそは全国の頂点に立つんだろ!」
「本人が嫌がってんのに、ひでぇじゃないの!」
次々にあがる不平の声に桜華が目を丸くする。口々に自分を引き留めているのは、普段は反抗的な態度ばかりをする一年や二年のメンバーだ。
「あら。事実じゃないの。桜華はあんたたち西ノ宮高校のバスケ部コーチであると同時に、この天承院流の後継者でもあるんだから。天承院の側からみたら、あんたたちとのことのほうがオママゴトなのよ」
少年たちの怒りの声にも淡々と答えを返した薫の横顔には、とりたてて意地の悪い表情が浮かんでいるわけではない。背後から様子を伺う蓮華にもそのことは判っていた。しかし、少年たちにはその態度を理解する余裕はなさそうだった。
「オレたちのやっていることが遊びだと!?」
「お前……葛城コーチの主治医だかなんだか知らねぇけど、言っていいことと悪いことがあるぜ!」
背格好だけなら薫よりも大柄な少年たちばかりだ。乱闘にでもなったら、怪我を免れ得ないだろうに。
「やめなさい、みんな」
少年たちを押しとどめる声をあげたのは桜華だった。血の気が引いた彼女の顔には先ほどから苦渋が浮かんでいるが、決して少年たちのような殺気はまとっていない。
「でもよ……!」
「お前ら、全員頭冷やせ。葛城のことにいちいち首を突っ込むな」
不満を浮かべる少年たちの後ろから低い声があがった。かなり大柄で筋肉質な少年がきつい視線を周囲の若者に注いでいる。
「赤間キャプテン……」
「部長! でもこいつオレたちのバスケを……」
苛立った声をあげる背高のっぽの少年を制して、赤間と呼ばれた若者が桜華へと視線を向けた。
「結城ゆうきさんは俺たちのバスケをバカにしているわけじゃない」
「でも……」
不満そうに口を尖らす後輩たちを制して、赤間がさらに続ける。
「葛城。お前の好きにやれよ。バスケ部のコーチだろうが、舞の家元だろうが、どちらを選んだってお前自身のことじゃないか」
思ってもみなかったことを話し始めた赤間に、他の少年たちが息を呑んだ。いったい何を言い出すのだろう。
当の赤間はそんな周囲の反応など気にした様子もなく、いや、周囲のことなど気にしている余裕がないのかもしれないが、言葉を選ぶように桜華に向かって語りかけている。
「この九ヶ月、お前のコーチのお陰でうちの部はずいぶんとレベルをあげたと思う。県大会程度の実力しかなかった部が全国大会に出たんだぜ? お前のこと、途中でコーチの役目放り出したなんていう奴はいないから……よく、考えて決めろよ」
「赤間先輩、何言ってるんスか。そんなこと言ったら……」
部員のなかでは小柄な体格の少年が声を震わせた。
「そうですよ。今までだってあの藤見って野郎、葛城コーチをむりやり引きずって連れ出していたじゃないですか」
ひょろりと細い身体で背の高さばかりが目立つ少年も、赤間の言葉に不満を漏らす。
今年の全国大会、大事な初戦で思ったような力を発揮することなく敗れ去ったことに、誰よりも怒りと失望を露わにしたのは、この目の前にいる赤間ではなかったか?
三年生の赤間にとっては、高校最後の試合があんな無様な負け方では、腹立たしいなどというものではないだろうに。
桜華にコーチとして部に残って欲しいと願っているのは、赤間自身であるはずだ。でなければ、高校バスケをとうに引退しているはずのこの冬の時期に合宿になど参加するわけがない。
「葛城。お前、バスケと同じくらい、舞を舞うのも好きなんじゃないのか?」
赤間の遠慮がちな問いかけに、成り行きを見守っていた蓮華は動揺していた。目の前に立つ少女が舞が好きだなどとは思ってもいなかった。彼女は小さな頃から、むりやりに稽古に引っぱり出され、嫌々舞っているのだと信じていたから。
「桜華ちゃん……。あなた……」
蓮華は震える声で目の前にいる少女の背に呼びかけたが、相手の反応は彼女には向けられなかった。
「何を勘違いしてるのよ、赤間。わたしが好きで舞をやっていると本気で思ってるの? 冗談じゃないわ。こんな鬱陶しいもの、今すぐにでもやめたいわよ!」
しかし、厭だと言う桜華の声に力強さは感じられない。他の少年たちにも桜華のなかにある動揺が見えてきたのだろう。互いに顔を見合わせてはいっそう困惑している。
「厭ならやめなさいよ。簡単でしょ、そんなこと。山の大伯父貴があんたとの約束を守ろうって気がさらさらないのに、どうしてあんたばかりが素直に言いなりになってなきゃならないわけ?」
若者たちの間に広がった動揺に薫が小石を投げかけ、さらに波紋を広げた。蓮華自身も周囲の動揺に呑まれていて、自分がどう出ていいのか判らなくなっていた。
「あんたは舞を続ける気がない。一方で蓮華は天承院流が途絶えないようにしたい。どう? あんたの後継者の舞を蓮華に譲っても不都合なことないわよ」
「できません。大伯父貴が約束を破るかどうかなんて、今の段階では判らないことです。それに相手が約束を破るかもしれないからって、こちらが破棄していい理由になるとは思えません」
強情に口元を引き結んで桜華が薫の顔を見上げる。それは強い意志の現れであるとも、駄々をこねている子どもの我が侭ともとれるものだった。
「意地っ張り」
「意地っ張りでけっこうです。わたしは天承院を継がないし、呼び戻されたって絶対に花娘を舞いません」
「じゃ……これであんたの父親が愛した花娘の舞姿は、永遠に見られないってわけだ」
「……え? お父さんが……?」
突然、父を引き合いに出され、桜華が目を丸くする。天承院の娘、菖蒲あやめとむりやり結婚させられ、将来を嘱望されていたバスケットプレイヤーの地位を潰されてしまった父が、天承院の秘技“花娘”を愛していただなどと、いきなり言われても信じられるわけがない。
「あんたの父親、葛城梓一郎かつらぎしんいちろうは天承院流の師範代家系葛城家の出身でしょうが。自身は舞よりもバスケットプレイヤーとしての才能があったけど、舞を嫌っていたわけじゃないわよ」
「どうしてそんなことが判るんですか! 父はプロのプレイヤーになれたはずです。それを天承院の一存で踏みにじられて……」
怒りを含んだ桜華の声に薫が苦笑を漏らした。そして、今までじっと目の前の少女に注いでいた視線をふとそらすと、自分たちを囲んでいる鏡張りの壁の一角へと目を転じた。
「証拠ならあるわ。……つい今し方見つけたばかりなのよね。それを知らせに行こうと思って、廊下であんたたちに鉢合わせたんだから」
そう言うと、薫は鏡に映る自分へと声をかけた。
「待たせたわね。例のもの、出してくれる?」