2000年7月11日の投稿[1件]
それは夜、かなり遅くなってからのことだった。
ノイズが激しく混じる男の声を携帯の電話口の向こう側に聞いて、私の“時”は凍りついた。遠く海の彼方からの声の使者は、幼なじみの危急を知らせるものだったのだ。
「どう……して?」
「依頼主を庇って被弾した。弾は全部抜き取ったが、左脇腹上部に当たったヤツがあばらと内臓に傷を入れちまったんだ。ここ数日が山だそうだ。……来るか?」
身体から力が抜けていくようだ。ふと今が九月だということを思い出し、彼の兄も九月に亡くなったのだと気づく。恐ろしい錯覚に目眩がした。
「行くわ。なんとしてでも、そちらに行く!」
「了解。だが民間機はこの国の国境を越えられない。デュークに連絡を入れて、専用機が飛べるように手配する」
「いったい……いったい和紀はどこにいるのよ!?」
国境が封鎖されているような地帯で瀕死の状態になっている幼なじみを想像していると胸が潰れそうだ。
だからあれほど危険な仕事から足を洗えと言ったのに!
「説明は後からだ。すぐにバルダミッシュ宇宙港まで行け! そこの衛兵に合い言葉を伝えれば入れるようにしておく」
「合い言葉?」
「今から教える」
電話の向こう側は慌ただしい気配がしており、自宅でこの電話を受けた私の生活空間とはまったく別世界が広がっているらしいことは理解できた。
一語一句を聞き漏らすまいと耳をそばだてた私が、伝えられた合い言葉を確認する間もなく電話は途切れた。これからの諸々の手配のために慌てて切ったのだろう。
私は茫然とソファに座り込んでいたが、我に返るとデイパックを引きずり出してきて身支度を始めた。時間が惜しい。一刻の猶予もない、そんな気がした。
バルダミッシュ宇宙港は軍の管轄する施設のはずだ。身分証明書もなしに民間人が入ることなどできるわけがない。
だが私は迷うことなく宇宙港のゲートの前に車をつけ、すぐに立ち去るように睨みつけてくる衛兵へと教えられた合い言葉を伝える。
目を見開いた衛兵たちが慌てて通信機で本部と連絡を取っている姿がどこか滑稽だった。
通信を終えた衛兵の一人が軍用に改造されたジープで先導して港内を走り抜けていく。それを見失わないようにハンドルをさばきながら、私は舌打ちした。
和紀の今回の仕事はよほどヤバいものだったに違いない。でなければ、彼の相棒の人脈が恐ろしく広いか、だ。軍事施設にこうも簡単に出入りできるなど、聞いたこともない。
迫ってきた無骨な軍用施設の前にジープが止まり、私がそのすぐ後ろに車をつけると、建物の前で銃器を携えていた兵士の一人が仰々しいほどの動作で私へと敬礼し、建物の内部へと案内する。
何もかもが別世界だった。ほんの一時間ほど前までは私はただの民間人だったはずなのに、今は軍施設のなかを当たり前のような顔をして歩いている。
案内の兵士が再び大袈裟なくらいに畏まって目の前の扉を開けてくれた。どうやら私の身分を勘違いしているらしい。一介の民間人だと教えてやったら、彼はどんな顔をするだろう。
扉の向こうは眩いほどの光が満ちていた。決して廊下が薄暗かったわけではないが、室内の光量に目が慣れるまでに数秒かかったような気がする。
「ようこそ。お待ちしておりました、ミス・ユウキ」
重厚な低音に首を巡らすと、部屋の隅に設けられていた応接セットから上背のある男が歩み寄ってくるところだった。
相手の年は四十代後半といったところか。骨太のガッチリした体格に二メートル近い身長があるのだからかなりの威圧感があってもいいはずだが、そんな圧迫感は感じることもなく、彼は人当たりのいい笑みを浮かべて私に右手を差し出してきた。
「あなたは?」
「失礼。名乗るのを忘れておりました。カズキやマードックにはデュークと呼ばれています。本名はあしからずご容赦を……」
慇懃な態度で腰をかがめる男の灰色の瞳に一瞬鋭い光が点った。どうやらこちらが相手を警戒しているのと同様に、相手もこちらを値踏みしているらしい。
「結構よ。私もあなたの本名に興味などないわ。……専用機を用意して頂けると伺いましたが?」
「えぇ。マードックから連絡を受けてすぐに手配させました。もう間もなく離陸できるでしょう。ところで……ミス・ユウキ」
困ったようにデュークと名乗った男が眉を寄せた。ブルネイの髪を片手で撫でつけている仕草に戸惑いが見える。
「何か?」
「随分と落ち着いていらっしゃる。普通はもう少し取り乱すものなのですがねぇ。こんなことは日常茶飯事なのですか、あなたのお仕事では?」
しみじみと聞こえる相手の声に私は苛立って眉をつり上げた。たぶん相手も私の内心を理解したのだろう。慌てて話の続きをする。
「いや、そんなことをお聞きしたいわけではなかった。実は向こうは少々ハードな環境になっておりましてね。専用機を幾度も飛ばせるわけではないのです。今回飛ばしたとなると、相手国を刺激しないためにも一週間ほどは様子を見なければならないでしょう。その間は……」
「自分の身は自分で守れ、と?」
「いやいや。そうではなくてね。女性にはちょっと厳しい生活環境ですので、清潔好きな方だとかなり苦痛かと思いまして」
意外とこの男は私に気を使っていたらしい。劣悪な環境で生活したことがない人間には、耐え難い場所だと忠告してくれているのだ。外見だけ見れば、私はそんな環境で生活したことがある人間だとは思えないだろう。
「ご忠告ありがとう。でもシャワーやトイレがない程度なら平気ですよ。……それとも疫病でも蔓延しているとか?」
私の返した答えが気に入ったのか、大男は口元を歪めて笑い声をあげた。
「それだけの心積もりがおありなら大丈夫だろう。シャワーやトイレはあまり清潔ではありませんが、ちゃんと備えてあります。それから……疫病が流行っているという報告は今のところ受けておりませんな」
「それだけ聞けば、充分ですわ」
「では搭乗口に向かいましょうか。そろそろ準備もできているでしょう」
私の様子に緊張を解いた男が扉へと歩き出す。大股で歩くその後ろ姿には一部の隙もない。訓練された人間の鋭い気配が、幼なじみの見慣れた背中と重なって、私の胃を締めあげた。
鼓膜を破りそうなほどの騒音を撒き散らして戦闘ヘリが下降していく。
二十世紀初頭に飛行機という乗り物が歴史に登場してから、私が生きているこの時代までおよそ二百年に航空技術は飛躍的に発達した。一日二十四時間のうちの半分、半日で地球を一周できる航空機どころか、かなり高額ではあるが金さえ払えば宇宙にだって行ける時代だ。
「ヘリから降りたら、すぐに迎えの者の後について走ってください!」
爆音のなかで指示を受けて下を確認すると、暗いブッシュの茂みの間に見覚えのある人物の姿が見えた。私の携帯に電話を寄越した人物……和紀の相棒マードックだ。
宇宙港を飛び立ったのは草木も眠る丑三つ時という時刻だったはずだが、ここは日没間近の時刻のようだ。
バルダミッシュ宇宙港から軍用の専用機から目的地の国境の手前でヘリに乗り換え、それからわずか三十分で目的の場所へと到着したのだ。恐ろしい高速移動だといっていい。
時間を遡ったような、あるいは一日を早送りにして過ごしたような、妙な時間のズレが時差という単語になって私の脳裏に浮かぶのにそう時間はかからなかった。
地面すれすれでホバーリングするヘリから一人の歩兵と共に飛び降りると、私は一直線にブッシュの群生へと走った。この大地は今、戦時中なのだ。いつなんどき銃弾が飛んできてもおかしくはない。
私たちが地面に飛び降りると同時にヘリは勢いよく舞い上がり、飛んできた方角とは反対側に向かって飛び去っていく。
「止まるな! ヘリが陽動してくれている間にここを離れるぞ!」
ブッシュのなかに駆け込むとマードックの猛獣のような唸り声が私を駆り立てた。マードックを先頭に、私の荷物を担いでいた兵士がしんがりに、私を間に挟んで鬱蒼と茂る木々の間を走り抜けていく。
薄暗い樹木の下を、木の根に足を取られないように走り抜けるのはかなり体力を消耗する。ともすれば遅れがちになる私をマードックは辛抱強くサポートしてくれているが、彼の運動能力から考えればかなり遅い行軍だろう。
どれくらい走ったかもう判らなくなる頃、もう辺りはとっぷりと日が暮れていたから、かなりの時間を走ったのだろうとは思うが、ようやくマードックが走る足を止めて静かに歩き始めた。
息があがって呼吸するのもかなり苦しい。これだけ長時間、しかも全力疾走に近い状態で走り続けたのは何年ぶりだろうか。
「誰だ!」
誰何すいかの声が暗闇の向こうから響いた。それにマードックが明瞭な声で何かを答える。私にはよく判らない単語だったから、たぶんこれもまた合い言葉のようなものだろう。
彼の息はまったく平常だ。なんて体力をしているのか。いや、後ろの兵士も息を乱してはいない。戦闘訓練を受けた者たちの底抜けの体力には呆れるばかりだ。
暗闇のなかから三人の男が現れた。全員がライフル銃のようなものを携帯している。私たちを取り囲むようにして彼らが周囲を固め、生い茂る茂みを掻き分けた先に、集落が忽然と姿を見せた。
樹木を幾重にも重ねて自然の砦としているのだろう。覆い被さるように空を覆う大木の枝の下には、か弱いがランプの光が静かに溢れている。
私たちの出現に集落の者が一斉に振り返った。不審と好奇心に満ちた瞳が私に集中している。
どうやら一つの村のような集団を形成しているらしいこの集落には、マードックたちのような傭兵の他に、現地人の男女、老人、子供までいた。
「カオル。オレの側から離れるなよ。ここは女が少ないからな。下手に一人で歩き回ると、馬鹿な考えを起こす奴がいるかもしれん」
マードックが低い囁きで私に忠告してきた。だがマードックの言うような荒んだ気配をこの集団の者からは感じない。それとも私の感覚が疲れで麻痺しているのか。
「マードック。その女、誰?」
流暢とは言い難いが現地人らしい褐色の肌をした女が英語でマードックに話しかける。見知らぬ、しかも兵士でもない女の出現に警戒を強めているのだろう。
「カズキの恋人だ。お前ら、手ぇ出すなよ」
唸るようなマードックの返答に場が一瞬だけ緊張する。彼の言葉に怯えていると言うよりは、カズキの名に反応したといった感じだ。
マードックに話しかけた女が刺すような視線を私へと向けた後、ふてくされたようにきびすを返して他の女たちの元へと行ってしまった。なんだか厭な感じだ。
「シェーン。彼女の荷物を返してやれ。……こっちだ、カオル」
後ろについてきていた兵士から自分の荷物を受け取ると、私は再びマードックの後ろについて歩き始める。幾つもの幌小屋を通り抜け、幾分マシな建物の前に到着すると、マードックはそっと扉をノックした。すぐになかから返事が返る。
建物のなかは意外と清潔だった。最新とまではいかないが、幾つかの医療機器が並んでいる。ここがこの集落の病院の役割を果たしているのだろう。
「お帰り、マードック。えぇっと。そちらが……?」
「カオルだ。ドク、カズキの様子は?」
三十代半ばほどの年齢だろう白人種の男が私の顔をしげしげと見つめてくる。だがマードックの声に我に返ると、状況を説明し始めた。
「相変わらず意識が戻ってない。弾は全部抜いたし、化膿止めも打ったわけだからね。肋骨にヒビが入っているから……熱も下がってない。後は彼の体力次第ってことになるかな」
「和紀はいつからそんな状態になっているの!?」
会話に割って入った私に医者らしい男は眉を寄せた。その男の代わりにマードックが説明を始める。
「鉛弾を身体にぶち込まれたのは一昨日だ。敵から隠れながら丸一日かかって、あいつをここまで運んだときにはもう発熱していた。すぐにドクに弾を摘出してもらったが……」
「和紀はどこ!」
今まで抑えていた苛立ちが突如噴き出してきた。もう耐えられない。和紀の様子を自分の目で確認しなければ気が済まない。
「奥の部屋だよ。でもまだ意識が戻っては……」
医者の声を最後まで聞く気にはならなかった。彼の指し示した廊下の先の部屋へと急ぎながら、私は自分の胃を服の上から鷲掴みにした。キリキリと痛み続けている。それは急げ、とシグナルを送っているような気がして、私の焦りを否応なく煽っていた。
そっと部屋の扉を開けると、室内はランプの明かりだけが点された薄暗い状態だった。一番奥にベッドがあり、その上に横たわる人影が見えた。
「和紀……!」
よく見知っている幼さなじみの青ざめた顔に、私は身体の力が抜けそうだった。どうしてこんなことになっているのだろう。和紀がこんな場所でこんな風に眠っていていいはずがない。
よろけながらベッドに近づき、横たわる彼の寝顔を見下ろしたとき、不意に私の眼から涙が伝った。止められない。止まらない。
今まで涙を我慢していたという感覚はない。だがそれは私の頬を濡らし、和紀の眠るベッドの縁を湿らせ続けた。
一晩中、和紀のベッドの傍らにいた私がその部屋を出たのは、朝の慌ただしさが建物の外を取り巻き始めた頃だった。
外は朝靄が微かに残っていた。でもそれもすぐになくなるだろう。朝食のための煮炊きの音と匂いが人間の生の営みのリズムを告げているようで、私は小さく安堵のため息をついた。
青ざめ、昏々と眠りつづける和紀の顔を見続けていると自分も生死の境を彷徨っているような浮游感に襲われ、ひどく身体が気怠くなってくるのだ。
「カオル!」
聞き慣れたマードックの声が近くの小屋の脇からあがった。振り返ったその姿を確認すると、大柄な彼の脇には現地人らしい男と、昨日私がここに来たときにあからさまな敵意を剥き出しにした女が立っている姿も目に入った。
私が返事を返す前に、現地人の男のほうがこちらに近づいてきていた。それを追うようにマードックと女が後ろに続く。
男の歩く姿は堂々としており、この集落のなかでも決して地位の低い者ではないことを伺わせる。年格好は三十代くらいだと思われるが、他民族の年齢を外見だけで判断することは難しい。
「ようこそ、カオル。我々はあなたを歓迎します。昨日は挨拶もせずに失礼しました。私はここでは“イーグル”と呼ばれている。あなたもそう呼んで下さい」
流暢な英語が男の口から流れる。聞きかじりで学んだにしては癖のない、限りなくネイティブに近いイーストアメリカンイングリッシュだ。名乗ったイーグルという名は本名ではないだろう。
「……一つ断っておくわ。私のファーストネームを呼べるのは私が許可した者だけよ。それ以外の人間が“カオル”の名を呼ぶことは許さないわ。以後は“ユウキ”と呼んで頂戴」
男、イーグルの後ろに控えていた女の視線が険しくなった。その隣ではマードックが苦笑いを浮かべている。
「了解。私は日本人の風習にあまり詳しくないのでね。失礼があったことは詫びよう、ユウキ。そうそう。妹を紹介しよう。ラナだ。兄弟のなかでも一番の末っ子でね。ちょっと我が侭なところが……」
「イーグル!」
不機嫌な女の声が割り込んできた。イーグルの傍らに寄り添うラナは険しい視線を私に向けたままだ。
見比べてみると確かに彼らの顔はよく似ていた。決して高くはないがスッキリと通った鼻筋やアーモンド型に切れ上がった眼、やや肉厚な唇にえらの張った頬から顎にかけてのライン。民族的な特徴以外にも彼ら兄妹の容姿は酷似していた。
「私が一番上で、この子が一番下だ。他の弟や妹たちは死んでしまった。三日前には危うく私も死ぬところだった。……ユウキ。あなたには謝らなくてはならない」
一瞬だけ目を伏せたあと、イーグルは真っ直ぐに私の顔を見つめてきた。
あぁ、そうか。そのときに私は確信した。和紀が庇ったのはこの男なのだ。この集落のリーダー的な存在なのだろう。彼を失うということは、彼が率いているこの集団の人間には致命的なことらしい。
「謝る必要があるの? イーグル。私に謝るのではなくて、和紀に感謝するほうが先だわ。私はあなたに謝られるようなことはしていない」
「冷静、ですね。普通は恋人に何かあったら取り乱して大変なのに」
イーグルの言葉に私はふと目眩を感じた。そうかもしれない。私は和紀の危急の知らせに衝撃を受けたが、取り乱したりはしなかった。彼らがいう恋人という立場に私がいるとしたら、冷静というよりはむしろ冷淡なくらいの態度だろう。
だが私は和紀の恋人ではない。単なる幼なじみだ。……少々複雑な関係ではあるが。
「私が泣き叫んだら和紀の怪我が治るのかしら? 今回の和紀の怪我は仕事上のことでしょう。自業自得じゃないの」
「おいおい。そこまで言ったらカズキが可哀想だろう。通信を入れたときには、あんなに殺気立っていたくせに」
「あのバカはそう簡単に死にやしないわよ。……身体だけは頑丈にできてるんだから。相棒のあなたならそんなこと知ってるでしょう?」
彼らが私と和紀の関係を誤解しているのは、マードックからの情報だからだ。そしてたぶん、和紀もその誤解を解こうとはしなかったせい。
およそ半年前の冬、和紀は相棒のマードックとともに別の依頼を受けていた。そのときに起こったトラブルに私が巻き込まれ、マードックは私と和紀の関係を誤解したのだ。いや。予備知識の段階ですでに和紀に誤解させられていたと言っていいだろう。
普段は嘘などつかない和紀だが、私のことに関してはいつだって自分に都合のいい嘘をつく奴だったから。
「ったく。本当にカズキが言った通りのじゃじゃ馬だな、あんたは」
「えぇ、おかげさまでね」
私は小さく苦笑いを浮かべた。それをどう捉えたのか、イーグルは感心したようなため息をつく。
「強い人だ。……ところで、ユウキ」
改まった口調でイーグルが私の瞳をじっと見つめた。
「マードックからあなたが医者だと聞いたのですが、ここに滞在している間、年寄りや子供たちを診てやってもらえないでしょうか? ドクは戦闘員の怪我の治療を優先しているので、戦いに加わっていない者の病気が心配で……」
「駄目よ、兄さん! この人に頼んだって! カズキの心配だってロクにしないような人が他の人間を診察してくれるわけないじゃない!」
訛りが強い英語がラナの口から紡がれる。私にわざと聞かせるために英語でしゃべっているのだろう。そうでなければ私に関係なく現地語で話をしているはずだ。
「ラナ! まだ答えを聞かないうちから……」
「だって! この人、全然カズキの心配してないわ!」
ふと十年近い昔の出来事を思い出した。私の目の前で和紀に向かって私のことを痛罵した少女がいた。あのときも私と和紀は憎まれ口を叩く仲だった。和紀を邪険に扱う私の態度に反発した少女は和紀のことが好きだったのだ。
そう言えば私がここへ来たとき、彼女は私が和紀の恋人だとマードックから聞かされてひどく不機嫌そうな顔をしていた。
たぶん、このラナという女も和紀を好きになっているのだろう。和紀はぶっきらぼうな言葉遣いをすることはあるが、女には優しいから。
「ラナ。心配してないなら、カオルはここまで来なかったろうよ。彼女は腕のいい医者なんだ。患者は引く手数多さ。その大事な仕事を放り出してきているんだ、心配してないはずがないだろう」
マードックはいつも余計なことを言う。
私の医者としての腕など彼女には関係ないだろうに。彼女はただ単に私の存在が気に入らないだけだ。どんな小さなことでもいいから難癖をつけてみたい、そういう女心を判ってない。いや、判っていて庇ってくれたのかもしれないけど。
「……マードック。庇ってくれなくてもいい。で? 治療する場所は? あの建物だと、医療機器の数云々よりも医者一人でいっぱいの広さだと思うけどね」
「いいのですか、本当に?」
「何よ。頼んだのはそちらでしょ?」
ムッとした私の顔を見てイーグルが小さな笑い声をあげた。珍しいものを見るような彼の視線が鬱陶しい。
「面白い人ですね、あなたは。……年寄りや子供たちの治療はそれぞれの小屋で行ってもらいたい。新たに施設を建てるだけの余裕はないですからね。言葉が通じないでしょうから、助手にラナを使ってください。通訳としてしか役に立たないでしょうけど」
「ちょ……兄さん! わたし、手伝うなんて言ってない!」
「結構よ。通訳してもらえれば充分」
勝手に話を進めていく私たちの横で不満そうにラナが頬を膨らませている。それをなだめるようにイーグルが彼女の肩を軽く叩いた。
不満を残しつつも兄には逆らいがたいのか、ラナがそっぽを向きながら小さく頷く姿を私は視界の隅で確認していた。
診察に回っている間に、私の後ろには小さな子供たちの行列が出来始めていた。傭兵以外の、しかも女など初めて見るので珍しいのかもしれない。
私には判らない現地語でコソコソと囁きかわす彼らの様子は、好奇心で玩具にじゃれつく子猫のようだった。
集落は木々に取り囲まれており、空もほとんど見えない。枝の間から覗く切り取られた青が見えなければ、ここが屋外だということを忘れてしまいそうだった。
木漏れ日の間にひっそりと固まって建っている建物を一棟ずつ訪ね歩く作業は、研修医のときに恩師の後に従って患者の病室を巡っていたときのことを思い出させる。
「ラナ。次の家の家族構成は?」
「婆さんが一人と女が一人、それから子供が五人」
必要最小限の言葉しか発しないが、私を案内するラナは自分に与えられた役割をきちんと果たしていた。気に入らない奴と仕事をするときに、バカげた意地悪をする医者仲間とは大きく違う点だ。
戸口をくぐって次の小屋へと入っていくラナに続いて私がその敷居をまたぐと、私たちを取り巻いていた子供たちまでが戸口から家のなかをしげしげと覗き込んでくる。
ラナが話をつけてくれたのだろう。中年の女性がおずおずと進み出て私を小屋の奥で横たわる老婆の元へと案内してくれた。
老婆は弱々しい光を目に宿し、怯えた様子で私を見上げている。見知らぬ女がいきなり現れては、恐れるなというほうが無理な話だろうが。
「ラナ。この人はなんて呼ばれているの?」
「ミア婆さん、よ」
どうせ通じないだろうが、私は第一声を日本語で話しかけた。
「初めまして、ミアさん。あなたを診察させてもらえますか?」
日本語ではラナも理解できない。通訳できずにラナはムッとした顔をした。自分の存在を無視されたとでも思っているのだろう。
次はラナに判るよう英語で指示を出す。
「彼女がこんな状態になってからどれくらい? それから身体の症状には何が出ているの?」
ラナが不機嫌な顔のまま中年女性と話をする。女性は不安を訴えるようにラナに何事かをまくし立てる。その光景はラナの不機嫌な顔以外は、病院の診察室で看護婦に不安を訴えてくる患者の家族にそっくりだった。
「五日ほど前から嘔吐と下痢を繰り返している。今はほとんど水しか口にしていないそうよ。胃の痛みを訴えているわ。それ以外の症状は出ていないみたい。……よく働く元気な婆さんだったのよ」
「他の家族に症状は出ているの?」
「いえ。婆さんだけよ」
女性の訴えている内容を通訳するラナは努めて不機嫌を顔には出さないようにしているようだ。それでも私と一緒に仕事をするのは厭なのだろう。診察にまわり始めてから一度も私の目を見ようとはしない。
ラナからの説明を受けて私は老婆の胸に聴診器を当てた。心音や内臓が蠢く音が拡大されて鼓膜の奥を刺激してくる。馴染んだその感覚の下で私は忙しく頭を巡らせて病名の見当をつけた。
この土地で自生している薬草を確認してあったので、そのなかから目的の薬草の名前をあげてラナにその服用方法を伝える。
「胃腸が弱っているときに、消化しきれないものを口にしたのかもしれない。この薬草は下痢を止める作用があるものと胃の痛みを抑える作用のあるものだから、煎じて食事の度に服用させて。食事は粥のようなものから始めて徐々に固いものに変えるように」
症状の原因となったものまでは、簡単な診察では判らない。だが今後同じ症状が出たときには、彼らは今回の薬草を使って治すことを憶えているだろう。
「こんな草が?」
半信半疑のラナを説得するには薬草の効能を一から十まであげて、なおかつ事例まであげる必要が出てくるだろう。そんな時間をかけてもいられない。
「効果は出るわ。保証する。胃の痛みが収まれば下痢と嘔吐はなくなるはずよ。水分はできるだけマメに取らせて」
不満そうな顔をするラナに通訳させて中年女性に薬草の煎じ方を教えると、私は未だに怯えている患者へと視線を戻した。
「もう大丈夫。必ず治るから」
この場にいる誰にも判らないだろうけど再び日本語で話しかけ、小さく老婆に微笑みかけて立ち上がった。
「ラナ。ここの子供たちはどうしたのかしら?」
私の呼びかけにラナが指を戸口に向けた。
「あそこから覗き込んでいる子たちよ。見えるでしょ」
確かに五~六人の子供たちが戸口の柱に隠れるようにして室内を伺っている。見知らぬ者が自分の住まいにいる不安に駆られて、彼らなりに家族を心配しているのだろう。
「子供は元気そうね。そちらの女性は? 特に問題はない?」
ムスッとした顔のままラナが頷いた。中年女性は至って健康的であったし、子供たちも問題なさそうだ。この家での診察はこれで終わりだ。
「次に行きましょうか」
ラナの不機嫌さを無視して私は小屋から外へ出た。子供たちが驚いたようにワッと散っていく。遠巻きに私を眺めながら囁く子供たちの様子は相変わらずだった。