2000年7月4日の投稿[1件]
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
頷くことしかできないオレを脅す顔は、花さえ恥じらう美しさなのに、凄惨な匂いを漂わせる。
その見知らぬ女の腕に抱かれた葛城の青ざめた横顔が、現実離れしていて夢を見ているようだった。
ボールはリングの縁をクルクルとまわり、弾かれたようにこぼれ落ちた。床にボールが落ちる間もなく、痛烈な声が飛んだ。
「なにやってんだよ、下手くそ! レイアップくらいきちんと入れろ!」
容赦のない罵倒を浴びせられた佐倉井が顔を歪めた。
「……うるせぇな、鬼婆ぁ」
ボソリと囁いた声は相手に聞こえてはいないはずだったが、鬼婆ぁと罵られた相手は目をつり上げて佐倉井を睨みつけた。
「やる気ないわけ!? ……だったら、さっさと帰りな!」
「おい……葛城。それは言い過ぎだ」
「あんたは黙ってな、赤間」
オレの忠告も簡単に却下された。葛城は顎をしゃくり、出口を示す。その顔が傲慢そうに佐倉井を見上げていた。
「誰も、やる気がねぇなんて言ってねぇよ!」
不機嫌そうに吐き捨てながら、佐倉井がボールを拾い上げた。大きな手がバスケットボールを器用に掴み、オレに放ってよこした。
「キャプテン、もっかいパスだし頼むわ」
シュート位置につこうとする佐倉井の背中に鋭い声がかかる。
「必要ない! 佐倉井、今日帰るまでに跳躍千回終わらせろ! それまで、ボールに触るな!」
振り返った佐倉井の顔が怒りに赤く染まっていた。
「葛城……」
これはヤバイ。
佐倉井が切れそうだ。葛城はいくら一年先輩とはいえ、女だ。佐倉井の性格からして、女にここまで言われて黙っているとも思えない。
オレは葛城の腕をとって体育館の隅へ引っ張っていった。
「お前、ちょっときついぞ。あそこまでポンポン言われたら、一年坊主だって頭にくるだろうが」
葛城は不機嫌そうな顔を隠しもせず、佐倉井の顔を睨ねめつけている。
だから、それがヤバイんだってのに。
「誰かが言わなきゃ、あいつにはわかりゃしねぇよ」
口を尖らせたまま葛城はオレを見上げた。黙っていれば綺麗な顔をしているのに、この口の悪さときたら始末に負えない。
「あのなぁ……。お前、もう少し言葉を選べよ」
最悪、身体を張っての喧嘩になったら、身長が二メートル近くある佐倉井に対して、その胸ほどの身長しかない葛城は圧倒的に不利だ。
もっとも身長差の前に、女だってだけで体力的な差がありすぎるが。
「ふん」
ふてくされてそっぽを向いた葛城にこれ以上何を言っても無駄そうだった。まったく、こいつはいつだって傲慢で不遜な奴なんだ。
「コーチ!」
体育館の入り口から声が聞こえた。
バスケット部のマネージャーで、オレの妹でもある香奈が葛城を手招きしていた。葛城が怪訝そうな顔をして歩き出す。
その足がふと止まった。
「おい、佐倉井! わたしが見てないと思ってサボるんじゃねぇぞ!」
しっかり佐倉井に念を押すことだけはわすれない。それにしても、もっとましな言い方ってもんがあるだろうが。
「葛城。そろそろ休憩取りたいんだけどな……」
仕方なくオレはその場のピリピリした雰囲気を消そうと葛城に話しかけた。
他の部員も疲れが溜まってきている。ここいらで休憩を入れたほうが効率が良さそうだった。
葛城もそれに気づいたようだ。了解の印に手を挙げると、香奈の待つ外へと歩き去っていった。
オレはため息混じりに部員たちに休息の指示を出した。
葛城は今年の四月に編入してきた転校生だ。それもバスケット部監督の柏葉先生のお墨付きで、この西ノ宮高校のバスケット部のコーチとしてわざわざ編入してきたのだ。
同年代の、しかも女がコーチに着任して、部員たちは初めは憤慨していた。だが文句はすぐに言っていられなくなった。
彼女が部員たちの目の前で行ったシュートのデモンストレーションは、非の打ちようのない出来だったからだ。
誰が予想しただろう、部員たちの指示する場所から放った、百本を越えるシュートをすべてノーミスでリングに押し込むなどと。
オレたちと彼女の勝負を笑って見ていた監督が止めなければ、彼女は二百本でも三百本でもシュートを放ち、確実に決めていたはずだ。
百発百中、一発必中の正確無比なシュートを見せつけられ、オレたちはぐうの音も出なかった。
誰もそんなことはできない。同じ場所からシュートし続けるだけなら、あるいは奇跡的にできる奴がいるかもしれない。
だが彼女が打ったシュートは一つとして同じ場所から放たれてはいない。
ゴール下はもちろん、スリーポイントのラインを大きく下がった位置からでさえ悠々とボールを放り、リングの淵にはかすりもせずにネットの真ん中を突き抜けていくボールを目で追いながら、オレたちは敗北感に打ちのめされていた。
飄々と百本ものシュートを放った後でさえ、葛城は涼しい顔をしていた。
あいつは化け物だ。誰ともなしに部員たちが言い合っているのをオレは何度も耳にした。
あのデモンストレーション以来、葛城が皆の前でプレイして見せることはなかった。
だが彼女のきつすぎる眼光で睨まれ辛辣な口調で罵られる度に、部員たちがあの見事な放物線を描いて飛んでいく彼女のシュートを思い出しているに違いないことは手に取るように判った。
かく言うオレも、怒鳴りつけられる度にあのシュートがストップモーションのように頭に甦る。
……床の上で軋むバッシュの足音。舞いを舞っているかのように優雅なジャンプ。乾いた音を立ててネットに吸い込まれていくボールの摩擦音。床に落ちたボールがバウンドしている規則的な打音。部員たちのもらす微かな吐息。
葛城をうち負かせる者など、この部内に一人として居はしなかった。
「お兄ちゃん!」
香奈の呼び声でオレは我に返った。
「なんだ?」
「もぅ! やっぱり聞いてなかったのね」
頬を膨らます妹に苦笑いを浮かべて謝ると、オレは缶に残っていたスポーツ飲料を飲み干した。
「だからね、葛城コーチを訊ねてきた人ってのが、すっごい美人なの! しかも清楚って言葉がぴったりくるような!」
「はいはい、それで?」
「あの人、コーチのなんだろうね? お姉さんかな? まだ若いからお母さんってことはないと思うけど」
葛城自身は清楚なんぞという単語からは一番ほど遠そうな性格をしている。
あいつだって、黙っていれば美人の部類に入るのだ。その訊ねてきた人物があいつの身内だっていうのなら、外見で内面まで判断したくはないね。
「おれはその女の人見てないけど、香奈さんのほうが美人だと思うね」
オレの側に座り込んでいた佐倉井がデレデレと鼻の下を伸ばして香奈を見上げた。こいつの反応は分かり易すぎる。香奈が好きだと顔にハッキリ書いてある。
……まぁ、兄の自分が言うのもなんだが、香奈は可愛い。佐倉井が惚れるのも無理はない。
「やぁだ~。佐倉井君ったら何言い出すのよ。でもすっごい美人なのよ~、その人ってば。女のあたしが見てもほれぼれするくらい。
あ……でも、美人でも葛城コーチとはタイプが違ってたなぁ。コーチはどっちかって言うと西洋美人って感じだけど、その人は日本人形みたいな感じだったもん」
どういう例えだ? オレにはどっちでもいい。見てもいない女の噂話なんか興味もない。
「ねぇねぇ、誰だと思う?」
香奈がワクワクと目を輝かせてオレに返事をねだっていたが、まともに答える気にもならず、オレは葛城の出ていった体育館の戸口を振り返った。
「香奈ちゃ~ん。助けて~」
大きな荷物を抱えた高杉真子がフラフラと歩いてくる姿が見えた。彼女もバスケット部のマネージャーだ。
妹の香奈より一学年上だが、香奈が子供っぽいせいか、大人びた顔をしているように見える奴だ。
「真子先輩!? どしたんですか、その荷物!」
前がほどんと見えない状態で足元もおぼつかない様子の高杉に気づいて香奈が飛んでいった。
戸口の段差で立ち往生していた高杉が、香奈の手助けに大袈裟なほどのため息をついてぼやく。
「もぅ~、いやんなっちゃうわ。柏葉先生ったら、私一人にこの大荷物押しつけてどっか行っちゃうんだもの」
「あれ~。これって新しいユニフォームですかぁ~? わっ! 黒地に青赤のライン!西ノ宮カラーですね~」
高杉のぼやきを無視して香奈が荷物の中からユニフォームを引っぱりだしている。休憩していた部員たちの目が光る。
もう後数日もしたら、監督からレギュラーが発表されるはずだ。そのときにレギュラーナンバーの入ったユニフォームを手渡されることを皆夢見ているのだ。
その憧れのユニフォームが目の前にある。目を輝かせるなと言うほうが無理というものだ。
「香奈さ~ん。おれも見たい!」
すっかり子供のようにはしゃいで佐倉井が荷物の山に突進していった。
柏葉監督の方針で、うちの部は実力主義だ。一年坊主でも実力があればレギュラーの座がまわってくる。
佐倉井もここのところメキメキと力を伸ばしてきているから、決して夢物語の話ではない。
もっとも監督が選ぶということはコーチである葛城の意見が多分に含まれるということだ。
反抗的な態度の佐倉井を葛城がどう評価しているのか……少し気にはなるところだ。
わいわいと部員たちが荷物に群がり、ユニホームを引っぱりだしては取り合っている。休憩時間はもうすぐ終わるが、これはしばらく収まりそうもない。
「やぁ、すみませんでしたね。真子くん」
飄々とした声が聞こえたかと思うと体育館の入り口に柏葉監督が顔を覗かせた。
四十代後半のはずだがスポーツマンらしい体型と十歳は若く見える男前な顔の造りで、学校の女子の間で密かに人気が高い。
「もぅ~、酷いですよ。一人でここまで運ぶの大変だったんですから! これ、貸しですよ、監督!」
声をかけられた高杉が頬を膨らませて監督を睨むが、本気で怒っていないのは明らかだ。
「電話が入ってしまってね。……おや? 我が部のコーチはどこに行きました?」
監督が人垣をキョロキョロと見まわした。
葛城の姿が見えないことをいぶかしんいる。それもそのはずだ。葛城が部活時間にこの体育館にいないことなど、今までなかったことだ。
「葛城コーチなら、綺麗な女の人に呼ばれて裏門に行きましたよ」
葛城に伝言をした香奈が代表して答える。
「綺麗な女の人? 誰です?」
柏葉監督の丸眼鏡の奥の瞳が糸のように細くなった。
「えぇっと? ……名前を仰らなかったです。でも綺麗なストレートの長い髪で、色白の優しそうな顔で。葛城コーチより五つくらいは年上に見えました。顔が似てなかったけど、もしかしてお姉さんかと」
香奈は相手の特徴を伝えようと一所懸命に思い出していたが、いかんせん、名前が判らないのでは要領を得なかった。
「……お姉さん。香奈くん、その人、確かに女の人だったの?」
「え? だってワンピース来てましたよ? ……スカートだったから、女の人だと思ったんだけど」
急に不安そうな顔をした香奈に柏葉監督はニッコリと笑いかけた。
「あぁ、心配ないから。裏門だったっけ?様子を見てく……」
「桜華ちゃん……!」
監督の声を遮るように、細い呼び声が体育館に沿って植えられているツツジの向こうからあがった。
部員一同が驚いてそちらを向く。
いつも以上に険しい顔つきの葛城がこちらへと足早に歩いてくる姿が目に入った。その後ろを二十二~三歳の女性が追いかけてくる。こちらも切羽詰まったような顔つきが尋常ではない。
「待って! 桜華ちゃん!」
呼び声の主はこの女性のようだ。まだ三十メートルは離れている距離なのに随分とハッキリと声が聞こえる。
葛城の下の名前を呼んでいるところをみると、やはり身内か近しい知り合いなのだろう。それにしても、葛城の奴も『桜華』なんて、随分と大袈裟な名前をつけられたものだ。
葛城に追いついた女性が、彼女の肩に手をかける。
「放せ! わたしに用はない!」
葛城が乱暴にその手を振り払う。険悪な雰囲気だ。
「あなたに戻ってもらわないと困るのよ」
「うるさい! わたしにはもう関係ない!」
「桜華ちゃん! お母様も待っているの。お願いだから、天承院に戻って」
「関係ないって言ってるだろ!」
「天承院にはあなたが必要なの! お願い、桜華ちゃん! ……桜華ちゃん!」
追いかけてきた相手を無視して葛城がこちらに歩きかかった。
「待って頂戴。桜華ちゃん」
葛城の腕に女性が取りすがった。必至の声と形相がオレたちにもハッキリと見えた。
この人が香奈の言っていた女の人だろう。確かに綺麗な女性だ。日本人形と香奈が言っていたが、その形容詞にぴったりの人だ。眉目秀麗、とはこの人のためにあるような言葉に思えた。
「わたしには用のない家なんだよ!」
青ざめた顔の女性を突き飛ばすように払いのけると葛城が叫んだ。腕を払いのけられた拍子に、女性が蹌踉めいて地面に転がる。
冷酷なほどに冷たい視線で葛城がその姿を見下ろす。
「あんたがやりゃあいいんだよ、蓮華。わたしには、もう関係ない!」
冷え切った声が葛城の口からもれる。オレたちをあからさまに罵倒することはあるが、こんな冷たい口調で喋ったことはない。
「桜華ちゃん……」
「帰って!」
裏門のほうへ顎をしゃくり、葛城は冷たい視線を蓮華と呼んだ女性に向け続けた。容赦をしない口調は聞いているオレたちさえ慄然とする厳しさがにじんでいた。
葛城の態度に屈したのか、女性はフラフラと立ち上がり肩を落とした。青ざめた顔は白さばかりが目立つ。
哀しそうな瞳で自分を見つめる女性のことなど無視して背を向けると、葛城はオレたちの待つ体育館入り口へと歩き出した。
葛城の肩越しに女性が彼女の背中を見送る姿が目に入る。
茫然とこの様子を見ていたオレたちに、歩き始めた葛城はすぐに気づいたようだったが、無表情を保ったその顔からは葛城の胸中を推し量ることはできなかった。
「何やってるんだ? まだ休憩時間だなんて言わないよな?」
いつもの厳しい口調に戻った葛城がオレたち部員を見まわした。まったく乱暴な口調だ。
彼女のきつい視線を受けて、部員たちが慌ててコートへと戻っていった。
遠くに見えた長髪の女性が諦めたのか、力無く歩み去っていく。
「お前がついてて、何やってるんだよ、赤間! もうすぐ地区予選が始まる時期にだらけていてどうする!?」
厳しい叱責がポンポンと葛城の口から飛び出してくる。
「悪かったよ。新しいユニフォームにちょっと浮かれていただけだ」
反論すればするだけ葛城の口調がきつくなることを今までの経験で学習していたオレは、素直に詫びて部員たちの待つコートへ向かおうとした。
「あぁ、赤間くん。ちょっと待ってください」
柏葉監督の声がオレを呼び止めた。監督の口調は先ほどの葛城の様子を見ていたにも関わらず、淡々としていた。
「桜華くん」
「……? はい」
監督に返事を返しながら、葛城が首を傾げた。監督には随分と素直な態度をとる奴だ。
「すみませんが、今日は赤間くんに家まで送ってもらってください。人と会う約束があるので」
「えぇ!?」
驚いてオレは目を瞬しばたたかせた。
葛城は柏葉監督の家に居候している。部活の帰りはいつも監督の車に乗って帰るのだ。
同じ家に帰るのだから、車に同乗してもオレたちは不思議に思わなかった。だが高校生にもなって、家まで送れとはいったいどういうことなのだ。
「柏葉先生。送ってもらわなくても、わたしなら一人で帰れますよ。子供じゃあるまいし」
監督の言葉に葛城が口を尖らせた。それはそうだ。これでは葛城を子供扱いしているようにしか見えない。
「先ほど結城先生から電話が入りました。今夜、到着するそうですよ。僕がこれから迎えに行く約束をしましたから、今日の帰りは君一人になってしまいますからね。夜道の女の子の一人歩きは危ないでしょう?」
部活が終わるのは、夜と言っていい時間帯になっているが、監督の家の距離は女が一人で帰るのに遠すぎるということはない。
だが、葛城は監督の言葉に目を輝かせた。
「薫さんが……!?」
ついぞ見たことのない晴れやかな顔つきだ。普段からこういう顔をしてくれていればいいのに。
「ちょっと監督! オレだっていつも香奈と一緒に帰ってるんですよ。妹も一緒に連れてけって言うんですか!?」
「そんなこと言ってませんよ。香奈くんは今日は他の部員に送ってもらってください。君はキャプテンなんですから、コーチを送っていくくらいのことでガタガタ言わない!」
ふ、不公平な気がする。
監督の家とオレの家は正反対の方角だ。葛城が帰宅する同方角なら、佐倉井や三輪とかがいるじゃないか。
オレたちのやりとりを遠巻きに聞いていた部員たちが困惑している様子が背中に感じられる。
「じゃあ、頼みましたよ」
オレが反論を思いつく前に監督はサッサと歩いていってしまった。
「……別に送らなくてもいいよ。ガキじゃないんだから」
監督の姿が見えなくなるとすぐに葛城がオレに言った。つっけんどんな口調だったが、オレに気兼ねしている様子が微かに伺えた。いっぱしに気を使ってやがる。
「いいよ、別に。送っていくくらいなら。香奈のことは木塚にでも頼むし」
オレは部員のなかで一番信頼の置けそうな男に妹を頼むことを決めると、葛城にチラリと視線を向けた。
普段とは明らかに違う困惑した表情を浮かべた葛城の顔が、このときばかりは女子高生らしく見えた。
部活の終了後、オレは葛城の着替えが終わるのを校門で待っていた。
「ゴメン、待たせた。迷惑かける……」
コーチをしている葛城はいつも体育館や部室の施錠を確認してから、帰るのを習慣にしていたので、部員の中で一番遅く更衣室を出てくる。
今日も女子更衣室の戸締まりに始まって、部室、体育館の施錠を確認して鍵を用務員室に返してから、駆けつけてきたのだろう。他の部員たちはとっくに帰ってしまっていた。
薄情にも、他の男子部員は誰もオレにつき合おうとか代わってやろうとは言ってくれなかった。妹の香奈だけが一緒に行ってもいいと言ってくれたが、あまり帰りが遅くなると母が心配する。やはり先に帰すことにしたので、葛城を送っていくのはオレ一人になってしまった。
「んじゃ、行くか」
オレが先に立って歩き始めると、その後ろを葛城がトボトボとついてくる。部活のときの勢いはまるでなかった。これでは囚人を連行しているみたいじゃないか。
「なぁ。結城って誰?」
重苦しい沈黙に耐えかねて、オレは葛城に呼びかけた。昼間の女性のことを聞くのは葛城の様子からはばかられる以上、オレの関心はもう一人の人物に向かった。
部活のときに見た葛城の喜びようから見ても、結城なる人物は葛城にとっては大切な人なのだろう。
自分のことをあまり語ろうとはしない葛城を喜ばせるような人物にちょっとした好奇心が湧いたこともあった。
「……わたしの主治医」
「へ?」
意外な答えにオレは思わず足を止めた。
「主治医? お前ってどっか悪いのか!?」
「大したことない。……薫さんは治るって言ってくれてるし」
そう言えば、初めのデモンストレーション以降、葛城はオレたちの前でプレイの見本を見せてくれることはなかった。コーチと言いつつも、やっていることは監督代理のように指示を出すことがほとんどだ。
どこが悪いのだろう?
そういえば、葛城ほどの実力があれば、女子バスケでかなりのレベルの学校に入れるはずだ。
彼女が西ノ宮高校のバスケ部コーチでいる不自然さを感じていたオレたちの疑問がこういった形で見えてくるとは思いもしなかった。
オレに追いついた葛城がチラリとオレに視線を向けたが、すぐに外すと先に立って歩き出した。
慌てて彼女を追うと、オレは並んで歩き始めた。
どこが悪い、とは葛城は敢えて口にしなかった。たぶん、言いたくないのだろう。自分のことを語るのが苦手なのかもしれない。
それ以上の追及がしにくい雰囲気に、オレは黙り込んだ。先ほど以上の気詰まりな空気が肩に重くのしかかってくる。
押しつぶされそうな沈黙を破ったのは、今度は葛城のほうだった。
「推薦のほう、どうなってる?」
初めは何を言われたか判らなかったが、それがオレの進路を言っていることに思い至り、オレは葛城の横顔をマジマジと見た。
今まで葛城は部員の進路のことなど口にしたことはなかった。
どう答えたらいいものか。迷っているオレを葛城がどう取ったのかは知らないが、オレにチラリと視線を向けた後、自分の言葉を補足するように続けた。
「昭島大のバスケ部から特待生で、ってことで話がきてるんだろ?……話は上手く進んでるのか?」
「うん……。進んでるって言えばいいのかどうか。条件付きだけど、まぁ、なんとか」
「条件?」
葛城が眉間にシワを寄せてオレを見た。
「あぁ、特待生の条件は……全国大会でベスト4に入るってことなんだ」
「ベスト4!? 随分と厳しいじゃないか。ようやく全国大会に行けるってレベルだった学校の部員にだす条件じゃないよ」
「今年は西ノ宮に期待してるってことだろ? 今のメンバーなら、狙えないこともないと思う」
確かにきつい条件だが、例年以上に秀逸な人材が揃っているのも事実だ。
葛城が口を歪めた。不機嫌そうに鼻を鳴らす。なぜだか、葛城は怒っている。オレの進路なのに、葛城が怒ってどうするんだ。
「今のままじゃ、絶対に無理だ」
ボソリともれた葛城の声は酷く掠れていた。
「え? なんで? 今までの練習試合を見ても、地区予選は楽勝だろうし……」
「全国は、そんなに甘くない」
険しい顔つきの葛城の横顔にはなんとなく焦りが見えた。
「コーチのお前がそんな悲観するなよ。オレにプレッシャーかけてもいいことないぞ」
オレの言葉に葛城はいっそう気難しい顔をした。
ふと、後ろから聞こえる音にオレは耳を澄ませた。
静かな音だったが、車が近づいてくる音がする。数年前からブームになっているソーラーカーの走行音だ。
あの車は近くにくるまで音が聞こえないから、気をつけていないと危ないのだ。
うっかり路地から飛び出した子供が正面衝突なんてことが最近のテレビニュースなどで流れている。
そのオレの視界一杯に光が溢れたのは、車との距離を確認しようとオレが振り返ったときだった。
「……うわっ!」
オレはあまりの眩しさに顔を覆った。ヘッドライトの光だとすぐに理解できたが、不自然さがオレのなかに疑問を投げかけた。
このソーラーカーはオレたちのすぐ後ろの距離に近づくまでヘッドライトをつけていなかったのだ。
辺りは暗くなっていて、ヘッドライト無しで走行するには危険すぎるはずだ。ライトを消していたのは、故意にやっていたとしか思えない。
「な、何が……」
目の前がチカチカして物がよく見えない。
車のドアが開く音が複数回した。
痛む目を懸命に開いてオレはヘッドライトのなかに立つ人物を見ようとした。だが、それは叶わなかった。
人の呼吸音がすぐ目の前でするが、目は一向に視力を取り戻さない。
なんの前触れもなく、鳩尾に激痛が走った。息ができない。
「やめて……!」
遠くに葛城の声が聞こえた。
「うるさいよ、桜華。ボクと一緒にくるんだよ。おい! そっちの奴も一緒に連れていけ」
葛城と争っているらしい男の声が、オレの腹を殴りつけた奴に指示を出す。再びオレの身体に激痛が走る。今度は後ろの首筋だ。
あまりの痛みに苦痛の声をあげることも出来ず、そのままオレの意識は闇に落ちた。