2000年7月2日の投稿[1件]
桜の咲く頃になると思い出す。
“人はピエロのようだね”
あいつは満開の桜の下で逝ったという。
女の荒い息が聞こえる。首筋に汗が光っているのが目に入った。
「和紀……。どうしたの? こっちに来てから変よ……」
女の問いかけを無視して俺はその艶っぽい声を出す口を自分の唇で封じた。
鼻腔の奥に香水の甘い香りが広がる。シュシュのミスティナイト。他の男から贈られたものだ。昔馴染みの、俺もよく知っている奴。
背中にまわされた腕に微かな力が込められるのが解った。指先が震えている。
離した唇からもれる押し殺した喘ぎに、俺は少しいらつく。
「声を出せよ、薫」
何度言ったか覚えてもいない言葉。素直に従おうとはしない女。
無益な抵抗を試みるように顔を背ける女を虐めたくなり、俺は女の両膝を肩に担ぎ上げた。
「いや! やめ……て……、あぁっ!」
女が身体を硬直させるのが解ったが、俺は彼女の懇願を聞き流した。
「ひぃっ……」
自分の手で口を覆う女の腕を無理矢理に引き剥がす。悲鳴に近い喘ぎ声をもらす女の耳元に俺は口を寄せた。
女の耳には俺が贈ったエメラルドのピアスが光っている。
「いい子だ……。そのまま、声を出せ」
女を蹂躙しながら、俺は数ヶ月前に会った男のことを思い出していた。
あいつと初めて会ったのは、まだガキの頃だった。
教室内が騒がしい。例の季節はずれの転校生のせいだ。卒業を間近に控えた三月初旬に転校なんてしてくるなよ。
一目でクラスの女子のアイドルになった人物はその女子たちに囲まれて得意げである。
「今日からこの六年B組で一緒に勉強する”インベユキミ”君です。彼は町内のふれあい広場にきているサーカスの団員です。このクラスで一緒に勉強できるのはあと三週間ほどしかないけど、皆さん仲良くしてくださいね」
担任のデブ川ぶた実こと出来川秀実が頬の肉を震わせながら紹介すると転校生はチョークで自分の名前を黒板に書き始めた。
「伊部幸三、と書きます。”コウゾウ”でなくて、”ユキミ”と読むから間違えないでね」
爽やか、という形容詞が似合いそうな美少年アイドル系の顔だ。絶対女子にモテそうな顔だな。
案の定、女子たちは拍手喝采している。俺は後ろにいる木羽誠二とこっそり顔を見合わせて、お互いに渋い顔をして見せた。
一時間目の終了直後から奴の机のまわりは群がる女子たちで溢れかえっている。
とばっちりは俺と誠二に降りかかっていた。
「おい! 邪魔だよ。そこは俺の席だぞ!」
伊部幸三は俺の前の席になっていた。
俺の席は窓際の最後部から二番目。このクラスは一列ごとに男女が入れ替わる配置になっているから、俺の右隣の列は全員女子だ。
伊部の席の前はすべて男子なのだが、配置上俺と誠二の席は教室の隅に追いやられる形になり、伊部の席に女子が群れる休憩時間に自分の席にいるのは不可能に近い。
「なによぉ~」
「やぁねぇ~。ちょっとくらい良いじゃない」
「だから男の子って乱暴で嫌いよ。あっ、伊部くんは別だからね!」
きゃいきゃいという擬音が聞こえてきそうな喧噪のなかでも、伊部の奴はニコニコと笑みを絶やさず、そういった所がまたアイドル系の仕草に似てむかついた。
「ダメだよ、美枝ちゃん。そんな言い方したら。ご免ね、彼女たちも悪気があって言ってるワケじゃないから。綿摘君、木羽君」
しゃべり方まで美少年アイドル気取りかい! むかつく。
「ゴメンって言うくらいなら、お前が休み時間は移動しろ!」
むかつきついでに、後先考えずに伊部に当たり散らす。
「さいて~!」
「やぁだぁ~、綿摘君って乱暴ぅ~」
「うるさいな! さっさと退けよ!」
ブーイングを受けながら俺は女子を押しのけて強引に自分の席についた。折良く二時間目のチャイムが鳴ったからだ。
「こぉら~! 席につけよぉ~」
二時間目は理科だ。教科担任の貝原綱雄がチャイムが鳴り終わる時間を計ったように教室に入ってくると、窓際にたむろしていた女子たちが慌てて散っていった。
「お~し! 全員いるな。さっそくだが今日の理科の授業は……外だ!」
本人は格好良く指さしたつもりらしいけど、全然様になっていない姿で校庭を指さす貝原先生は自分が嗤い者になっているとは、夢にも思っていないようだ。
「さぁ~! みんな先生についてこい!」
熱血先生を演じているらしい貝原先生の後ろにゾロゾロと従いながら、6-Bの児童は校庭の桜の下までやってきた。
退屈な先生の質問に俺たちが答える形式で授業は進んでいった。
「綿摘君、綿摘君」
後ろからの囁き声に俺はそっと振り返った。
無邪気そうな笑顔をした伊部と目が合った。さっきまで女子に囲まれて立っていたはずなのに、伊部はいつの間にか俺の背後に立っていた。
しかもなんて人の良さそうな顔をしているんだ。やっぱりこいつむかつく。
「ねぇ、この後は業間休みなんだよね? だったら、学校の中を案内してくれない? 僕、校内のこと全然知らないんだ」
屈託なく話しをする転校生に俺は露骨に厭そうな顔をして見せた。
「女子の誰かに頼めよ。俺は厭だね!」
「えぇ~。だって女の子に頼んだら、喧嘩になっちゃうじゃん。頼むよ。前の席のよしみってことでさ」
ヌケヌケとよく言うよ。喧嘩になるだぁ? そうだろうさ、お前のせいで喧嘩になるだろうよ。平穏無事だった6-Bにお前は波風を立てに来たようなものだからな。
「じゃ、頼むね~」
勝手に決めて伊部の奴は元いた位置へ戻って行った。
「ちょっと待てよ。誰もOKしてないだろ!」
「わ~た~つ~み~。先生の授業はそぉんなにつまらないかぁ~?」
こめかみに青筋を立てた貝原先生が俺の前に立っていた。俺だけのせいじゃないだろうに、手痛いゲンコツを喰らったのは俺一人だった。
「自分だけ都合良く逃げやがて」
俺の不平を聞き流しながら、伊部は学校中を彷徨って俺を引きずり回した。
「ねぇ、ここは?」
なんの目的もなしに歩き回っているとしか思えない伊部の後を歩きながら、俺は彼の指さす方向を見た。
4階。最上階の一番端にある使用していない教室だ。
「使ってねぇよ、ここは。子供の数が減ったから空いてるんだ」
伊部につき合わされて俺は渋々ついてきていたが、それでも案内をサボったわけではなかった。
六年間も通った学校だ。俺が知らない所なんかない。職員室ではどの先生がどの机を使っているかも、校長室にはどんなトロフィーが置かれていて、体育用具室には何が詰まっているかも、職員トイレの故障している場所だって知っている。
「もうだいたいは見ただろ? 業間休みだけで学校中を見回れるわけないんだから、教室に帰るぞ」
休み時間は残り五分を切っている。
次の授業は国語。担任のデブ川の授業だ。遅れたら、あの暑苦しい顔で迫られるんだ。冗談じゃないぞ。
「わかった。じゃ、昼休みも頼むね」
またしても勝手に俺の予定を決めると、伊部は俺を軽々と追い越して6-Bの教室へと滑り込んでいった。
芽吹いたばかりの桜のつぼみが窓の下に見える。
無機質な白いドアの脇に病室ナンバーだけが貼られていた。ナースセンターで確認した番号に間違いない。最近は病人のプライバシーとかで、当人の名前を出している病棟はないから当然だろう。
病室のドアを開けると、中から出ようとしていた女性とぶつかりそうになり驚く。相手も俺に驚いた様子だ。
「あの……?」
戸惑う女の後ろ、衝立の奥から声が届いた。
「だれ?」
若い男の声だ。
「綿摘和紀だ。伊部か?」
女性の顔がパッと輝くのが解った。俺に頭を下げると衝立の向こうへと俺の体を押しやる。
「やあ! 綿摘君。本当に来てくれたんだ」
伊部はよろよろと起き上がった。
白いベッドに身を起こした姿のあまりの弱々しさに俺は目を背けた。
「伊部。お前はあのサーカス団で働いているものだと思っていた」
「そうだね。ずっとピエロのままでいられたら良かった。でも桜前線と一緒に旅したサーカスはもうないんだ」
返答に窮して俺は黙ったままだった。
結果から言えば、俺は昼休みは伊部から解放された。
業間休みに放っておかれた女子たちが、我先にと奴を案内しに出てきたからだ。最初から女子に任せておけば良かったんだ。
その後も伊部は女子にまとわりつかれていたが、気にする様子も見せず、全授業が終わると広場の仮設してある自宅へと飛ぶように帰っていった。
俺は下校するときに校門のところで奴に追い抜かれた。
「バイバーイ! 綿摘君、また明日ねぇ~」
後ろを振り返って俺に手を振る伊部の顔は本当に屈託がなく、無邪気に見えた。
「おぉ~い。かずきぃ~!」
校門を出てすぐに誠二の声が追いかけてきた。
俺は立ち止まって、誠二が追いつくのを待つ。背負ったランドセルをガタガタいわせて、誠二は俺に追いつくと、「悪い悪い」と俺に向かって両手を合わせた。
「おせぇよ。職員室に当番日誌届けるだけなのに、何分かかってんだよ」
誠二は俺の不平にもう一度謝ってから、ポケットから数枚の紙切れを出した。なんだかカラフルな紙だ。
「これだよ、これ! このチケット貰ってたら遅くなっちまって」
ポケットの中で少しシワのよった紙にはこう書かれていた。
『春祭り 桜サーカス入場券』
「桜サーカス? もしかして、ふれあい広場のサーカスのか?」
「うん。伊部幸三が置いてったのさ。再来週の日曜日の招待分らしいよ。見に行かねぇ? タダだし」
こいつ。無料につられたな。
俺は家が少し遠いこともあり、早足で歩きながら誠二の顔を見た。
「お前、ゲームソフトばっか買ってるから金がねぇんだぞ」
こいつは暇さえあれば、ややこしいゲームをやっている。俺なんか分厚い攻略本を見なけりゃクリアできそうもないようなヤツだ。
「それとこれとは関係ないだろ~。お前行きたくないわけ?」
「行かねぇなんて言ってないだろ」
俺は誠二の手からチケットをむしり取るともう一度その紙面を眺めた。
「兄貴も誘うかな……」
去年から下宿しながら大学に通っている七つ違いの兄を思い出して、つぶやいた俺の一言に誠二が噴きだした。
「出たな、ブラコン」
「なんだよ、兄貴誘っちゃ悪いかよ!」
低学年のころはお前だって俺の兄貴に懐いてただろうが。
「やだねぇ~、兄貴兄貴って。もうすぐ中学生だぜ? いつまで兄貴にくっついてるのさ、和紀ちゃん。兄貴の真似ばっかしてるから、爺くさいんだよ、お前」
「き~ば~せ~じぃ~。お前、ゆってはならんことを~」
俺を冷やかして走っていく誠二を追いかけて俺は猛然とダッシュした。
「ゆるさぁ~ん! 待たんか、せいじぃ~!」
翌日以降も伊部のまわりは女子が群れていた。飽きないのかねぇ。
でも徐々にその光景に馴れてきた俺たちは、教室に転校生がいることの違和感を感じなくなっていた。
卒業間近で六年生は授業らしい授業が少なくなっていて、卒業式の練習だとかお別れ会の準備だとか、お祭り気分のほうが強くて日常が非日常に化けていたのもそれに拍車をかけていた。
みんな伊部がサーカスの団員だと知ってはいたが、奴がその話題になると巧みに話をそらすので、いつの間にか誰もその話題を口にしなくなっていた。自分が特別な者を見るような目で見られることが嫌いだったのかもしれない。
春休み前なので、サーカスの開演は土日だけだったし、卒業式が間近に控えていた俺たちは式の前にサーカスを見に行くような気分ではなかったことも話題を控えた一因だ。
それでも誰も決して伊部を嫌ったり、除け者にはしなかった。あいつは誰とでも気さくに口をきいた。
あいつのことを嫌ってはいないが、うっとうしいとは思っていた俺にさえ、他の人間と変わらない口調でつき合っていた。
クラスの奴は皆示し合わせたように卒業式の翌々日の日曜日。あの招待券の日にサーカスを見に行くと言い合っていた。俺も誠二と兄貴と一緒に行くことにしている。
「やっぱり兄貴も呼んだのかよぉ」
誠二の奴はニヤニヤしながら俺を冷やかしたが、俺は真面目に取り合わないことにした。
「綿摘君の撮った写真見たよ。ホラ!」
彼の手には一週間ほど前に発行された報道雑誌が握られていた。確かこの雑誌の担当者からの依頼で渡した写真は中央アジアの、とある国の地方都市の風景だったはずだ。
「懐かしい風景だった。……って言っても、僕は覚えてたわけじゃないんだ。僕の母親から聞かされていた風景、母の故郷の風景だった。カメラマンの名前を見たときは同姓同名かと思ったんだよ」
立ったままの俺を枕元の椅子に腰掛けるよう促すと、伊部は自分のまわりにクッションを何枚か重ねて、その中に身体を沈めた。
「雑誌社に電話をかけてきた声は女の声だったらしいけど、さっきの人か?」
俺が病室に入ったときにいた若い女の顔を思い出した。
「そう。彼女に話したらさ、勝手に電話しちゃって……。雑誌社の人たち、ビックリしたろう?」
「別に。電話の問い合わせなんていくらでもあるって言ってた」
雑誌を刊行していれば、色んな電話がかかってくるだろう。依頼、打ち合わせ、苦情、問い合わせ……。数え切れないくらいに。
「へ~ぇ。でも迷惑かけちゃったね。僕が会ってみたいなんて言い出したばっかりに。彼女、ボランティアでここの病院に出入りしてるんだけど、ちょっとお節介なとこあるから。でも君が会いに来てくれて嬉しいよ」
無邪気に笑う伊部の表情に俺は罪悪感を感じた。
俺は忘れていた。雑誌の担当者から連絡を受けるまで、伊部の名前などすっかり忘れ去っていた。
「母親の故郷って言ったな? お前の母親って外国人だったのか?」
他の話題が思いつかず、俺は伊部の言葉尻に乗って話を振った。
「うん。僕と母はね、中央アジアの故郷の内乱を逃れて、父親の故郷である日本に亡命してきたんだ。僕はまだ三つにもなっていなかったはずだよ」
俺の様子など気にもせずに伊部が話し始めた。
俺はただ黙って聞いていることくらいしかできない。
「でも着の身着のままで転がり込んだ日本の親類の家で、僕たちは厄介者だったよ。父は会社からの出向命令で母の故郷へ来ていたんだ。反対されていたんだよ、母との結婚は……」
そんな話は聞いたことがなかった。俺や俺の同級生が知っている伊部は、人当たりが良くて女子に人気の美少年……。ただそれだけだった。
「内乱に巻き込まれて父が亡くなったことを知ると親類は母と僕を放り出した。行くあてもない母は、幼い僕を抱えて途方にくれたことだろう」
淡々と語る横顔には、怒りも悲しみもなかった。ただ事実を無心に伝えるだけ。
「そんなときだった。町にサーカスがやってきた。……母はね、故郷で雑技団の団員だったんだ。団長に会いにいって、必死に自分を売り込んだらしいよ。片言の日本語で。」
「……」
なにも言わない俺の反応など気にしていないのか、伊部は話を続けた。
「母は疲れていたんだろうね。馴れない異国での暮らし、馴染めない異国の言葉。サーカスの団員になってから一年もしたころ、母は覚えたての空中ブランコの練習中に足を滑らせ、頭を打って死んだ。命綱もネットも張らずに一人で練習していたらしい。見つけたときには手遅れだった」
俺はホッとため息をもらした伊部の横顔を盗み見た。少し疲れたような表情だ。
卒業式の日がやってきた。
今日は母さんも一緒に登校するのだ。朝から準備に余念がない母さんは香水の匂いをプンプンさせて、信じられないくらい濃く見える化粧をしている。
「お母さん、化粧濃いよ」
ドレッサーを覗き込むその後ろ姿を見ながら俺が忠告したが、母さんは上の空で聞いちゃいなかった。
「ふあぁ~……。お。和紀、もう支度できたのか?」
三日前から帰省している兄貴がやっと起きてきた。
「兄貴遅いよ。みんな朝御飯食べちゃったぞ。ねぇ! お母さん。早くしてよ。卒業式に遅刻なんて格好悪いよ」
「はいはい、終わったわよ。正紀、ご飯ラップかけて適当に暖めてね」
化粧で大変身した母さんは兄貴に朝食を指し示すと、俺の手を引いて玄関へと急いだ。
「もう! 子供じゃないんだから、手なんか引かないでよ」
慌ただしく家を出ると俺と母さんは学校へと急いだ。
予鈴が鳴るギリギリの時間に到着すると、母さんは式場になっている体育館の受付へ、俺は6-Bの教室へと向かった。
教室はいつも以上にざわついていて落ち着かない。
「はぁ~い。みんな、おはよう。全員、揃ったわね? じゃ、体育館へ移動しますよぉ~。教室の外に整列してくださ~い」
デブ川……出来川先生がはち切れそうなスーツ姿で現れた。
俺は落ち着く間もなく席を立つと教室の外へと向かった。その途中で伊部に追いつく。
伊部はみんなより少し離れた場所に立っていた。
「……ピエロだ」
伊部のつぶやき声に俺は奴の顔を盗み見た。
笑みを絶やさない伊部の顔が少し引きつって見えた。ピエロ? 誰が? 何を見ているんだろう?
「おい、伊部。早く並べよ!」
俺は伊部に声をかけてみた。奴は我に返ったような顔をして、クラスの連中のなかに混じっていった。
俺は最後尾から辺りを見まわしてみた。だけどピエロのように見える奴など誰もいなかった。
「伊部、疲れたんなら……」
「大丈夫。今日はいつもより気分がいいんだ。それより綿摘君、喉乾かない?」
相変わらずの様子で伊部は俺の顔を覗き込んだ。
「あ……いや。少し……乾いた、かな」
俺じゃない、きっと伊部自身が喉が乾いているのだ。
「じゃあ、そこの冷蔵庫から適当なもの出してよ。あ……僕は飲みかけのミネラルウォーターがあるから、それでいい」
俺は言われるまま冷蔵庫の中を物色して、伊部のミネラルウォーターと自分用にコーヒーを取り出した。
「サンキュ~。悪いね、お客さんを使っちゃって」
冷えたボトルを受け取ると伊部は昔ながらの明るい笑い声を上げた。
曖昧な返答をする俺を横目に伊部は美味そうにミネラルウォーターを口に含んだ。
「母が死んだとき僕は小学校に入ったばかりの歳だった。」
喉を潤すと伊部は話の続きを始めた。
それはまるで死に急ぐ人間が自分の生きた証を何かに残そうとするように、誰かに刻みつけておこうとするように見えた。
「母が亡くなってから、父方の祖母だという人が僕を引き取りに来た。でも団長は僕を渡さなかった。母は自分に万が一のことがあったときのために僕を団長の養子にしておいてくれたからさ。祖母は団長を罵り、僕をなだめすかして連れ帰ろうとしたよ。でも、僕は行かなかった」
伊部は唇の端をつり上げた。彼らしくない、歪んだ笑い。
「何故だと思う?」
「父親の親類を恨んでた?」
適当な見当をつけて答える俺に伊部は意味ありげな微笑みを向けた。
「そう、当たりだ。僕は日本人が憎かった。僕の中に流れている父の血も含めて!」
言葉などなにも浮かばなかった。
伊部は人当たりの良い人格を演じている自分のなかの、隠していた暗い部分を俺に見せて何を言おうとしているのか。
「君の写真を見て思ったんだ。あの写真は懐かしさを感じた。でもそれだけだった。僕にはなんの感慨も浮かばなかったんだ。あそこは僕の故郷だと思っていた。でも……皮肉なもんだね。僕の故郷はいつの間にか、この日本になっていたんだ。憎んで、嫌って、軽蔑していたはずの国が……僕の故郷に」
俺には返してやる言葉がまったく思いつかないままだった。
「疲れちゃったんだよ、僕も母親のように。どんなに馴染もうとしてもこの国は僕を拒絶する」
「伊部……」
顔に浮かべた皮肉っぽい笑みはいったい誰に向けたものなのか。
「もう! タバコはやめてって、いつも言ってるでしょ。臭いじゃない! それに身体にいいわけないんだから」
俺が床に転がったシガーケースの中からタバコを一本取り出して口にくわえると、女はすかさずそれを取りあげた。
ここで取りあげられたタバコを奪還しようなどと、考えて実行すると、手酷いスパンクが飛んでくる。この女の城では、そういった些細な抵抗でも数十倍にして返されるのだ。
「大人しいのはベッドの中だけだ」
俺の独り言に女の目がとんがる。
「なんですって!?」
「なんでもねぇよ。この紅茶もらうぞ」
女が飲み残していた冷めた紅茶を一口だけ口に含む。自慢の紅茶もこう冷めると渋みがきつい。
「私にも頂戴。喉がカラカラ」
俺は女の伸ばした手にマグカップを握らせるとベッドから立ち上がって窓のスクリーンカーテンをそっとずらした。
まだホワイトカラーたちの出勤時間ではないのか、マンションの下の道の人影はまばらだ。
「日本で何があったのよ。あんた、今日はおかしいわよ」
長年のつきあいでお互いの行動パターンの多くは理解されている。だが、今回の些細な気落ちは自分でも説明できるものではなかった。
「……自分でもよく解らん。少し苛ついてるかもな。昔の知り合いに会っただけだ」
下手に隠すとしつこく詮索されてうっとうしい。簡単な説明だけはしておく。
「ふぅ~ん?」
それ以上の詮索に興味を失ったのか、それとも俺自身が感じてもいない何かを感じ取ったのか、女はその話題をそれで終わりにした。
「それで? これからの予定は?」
ベッドの上で足をパタパタと動かしながら女が俺を見上げた。まるで猫を見ているようだ。
気まぐれで高慢で、気位が高い。そっくりと言えばそっくりだ。
「十一時発のフライトだ。朝食は空港で摂るからいいよ。シャワー、借りるぜ?」
「どうぞ、ご自由に。私は今日は非番。見送りにはいかないからね」
元々、見送りにくるとは思っていない。
浴室へ向かう俺の背後から声がかかった。
「ちょっと~。裸で部屋のなか歩きまわらないでよ。バスローブ使ってよね」
「タオル巻いてるだろ? 第一、今さら何を照れて……」
俺は最後まで言い切ることができなかった。女のお気に入りだという大きな羽根枕が二つ、立て続けに飛んできたからだ。
やっぱり、この城で女に逆らうのは賢明なことではなさそうだ。
もう五年以上も異国で生活している女にとって、外の世界でならともかく、この部屋で思い通りにならないことは許し難いことらしい。
彼女なら、自分のほうを向こうとしない太陽を無理矢理に自分へ向けるくらいの傲慢さを持っていても不思議には思わない。