2000年7月の投稿[33件]
The 2nd scene * 王子
急ぎ王子宮へと戻ってきたウラートだったが、リュ・リーンの居室の前で立ち止まり、かなりの時間そこで逡巡していた。
自分が思ったような誤解であればいい。しかし、王子の癇癪がそれ以外のものであったなら、自分は守り役としてどうしたらいいのだろう。
困惑ばかりが頭の中を行き来して、これはという答えは浮かんでこない。
幾度もためいきを繰り返していたが、ついにウラートは覚悟を決めて目の前の扉を押し開けた。
「リュ・リーン……? そこにいますか?」
恐る恐るかけた声は真っ暗闇の部屋の奥へと消えていく。ここにくる途中で手に入れた燭台のか弱い光では、部屋全体を照らすことは叶わなかった。
ウラートは足下を照らしながら寝椅子の側に歩み寄った。
果たして、先ほど自分が着せかけておいた上着を抱きしめるようにしてうたた寝している王子の姿があるではないか。
ウラートはため息をつき、部屋のそこここに備え付けられた燭台たちに火を移していく。炎の柔らかな光に照らされた壁がぼんやりと輝き始き、光の具合だけなら夏の夕闇の中に立っているような気分だ。
「リュ・リーン、起きてください。本当に風邪を引きますよ」
ウラートは主人の傍らに跪き、年齢よりも小柄な身体を抱き起こして、そっと顔をしかめた。
リュ・リーンの身体はすっかり冷え切っている。ふてくされて夜着も着ずに寝てしまったようだが、これでは風邪どころか肺炎に罹ってしまう。まったく、自分の身体のことには本当に無頓着な王子だ。
ウラートはリュ・リーンを抱き起こすと、脱ぎ散らかされている衣服を着せていった。やや乱暴な手つきであったが、王子は寝惚けているのか目を醒ます気配がない。
王子を抱きかかえるようにして寝所まで連れていった。が、ベッドの天蓋は開いたままで、暖かいはずのリネンのシーツや雪ウサギの毛で織られた毛布もすっかり冷え切っている。
「寝所をこんなに冷やしてしまうなんて……。今夜はここで寝る気はなかったということですかね」
ウラートは眠って力の抜けているリュ・リーンの身体をベッドに引っ張り上げ、シーツの間に王子の小柄な身体を押し込んだ。
途端にリュ・リーンの小さなくしゃみが聞こえ、いつもの癖で身体が小さく丸められる。彼は赤ん坊の頃から小さく丸まって眠るのが癖になっているが、今夜は特に寒さも手伝って手足を縮こめているようだ。
手がかじかんでいるとはいえ、動き回っているウラートはまだましなほうだろう。身体が冷え切っているリュ・リーンには寝具の冷たさは辛いに違いない。
ウラートは寝所を飛び出し、先ほど火種に落とした暖炉の灰を掻き回した。すぐに埋火うずみびから赤い舌が伸び、穏やかな熱気が暖炉の周囲に広がる。
温まった暖炉から離れ、ウラートは薄明かりを頼りに窪み棚アルコープの中を探り、酒壷や香辛料を取り出した。それらを手早く調合すると、炎にかざして温め、再び寝所へと戻っていく。
王子の寝所に戻ったウラートは閉じられた天蓋の幕をそっと開き、そこでハタと動きを止めた。
「リュ・リーン、起きていたのですか?」
毛布の隙間から覗く暗緑の瞳が不機嫌な光を湛えている。寝惚けている気配を微塵も感じないところをみると、先ほど熟睡しているように見えたのも実は嘘かもしれない。
「何しに戻ってきた」
瞳と同様の不機嫌な声が毛布の下から聞こえた。他の従者なら震え上がってしまうだろう。だが、ウラートはなんでもないといった態度でニッコリと微笑みを浮かべた。
「薬湯を作ってきました。飲んでください」
「いらない」
「そう言わずに。せっかく温めてきたんですから」
遠慮なく毛布をめくり、丸まっているリュ・リーンの肩に手をかけると、ウラートは王子の青白い顔を覗き込んだ。
「風邪をひきかかっていますよ。あんな格好で寝ているから……。ほら、薬湯が冷めないうちに飲んでください。苦くないように蜂蜜も入れてあります」
いつも通りのウラートの態度に王子はさらに不機嫌そうに眉を寄せ、クルリと背を向けてしまう。その程度のことで機嫌を直してやるものかと意固地になっているらしい。
「飲んでくださらないのですか?」
ウラートの問いも無視し、毛布にくるまるリュ・リーンの背中からはふてくされた拒否しか感じなかった。
「……仕方ありませんね」
ウラートは諦めたようにため息をつくと天蓋の隙間から身体を引き抜いた。薄い天蓋幕の向こう側でリュ・リーンが身じろぎしている。こちらの気配を伺っている様子が手に取るように判った。
ウラートは静かに微苦笑を漏らす。手の中の器から一口薬湯を口に含み、残りをベッド脇の小卓ハティーに乗せた。
薄幕の向こうでリュ・リーンがそっと身体を起こす気配が伝わってくる。その動きに合わせて天蓋の幕を跳ね上げ、ウラートはベッドの上の主人を押し倒した。
不意を突かれたリュ・リーンに反撃する間も与えず、スッキリと通った鼻筋を押さえて、青ざめている口唇を自分のもので塞ぐ。
バタバタと暴れる王子の手足が肩や胸を打つが、ウラートはそれを無視して口の中の薬湯をリュ・リーンの喉の奥に流し込んだ。相手が完全に薬湯を飲み下すまで顎を掴まえておくのは少々面倒ではある。
「ば、ばかやろう! 何をするんだ!」
ようやく押しつけていた唇を離した途端、リュ・リーンの口から悲鳴混じりの怒声が放たれた。
「ご自分で飲みたくないようでしたから、飲ませて差し上げただけです。どうしますか? 残りも同じようにして飲ませましょうか」
わなわなと肩を震わせて睨むリュ・リーンの顔を間近から覗き込み、ウラートも負けじと暗緑の瞳を睨みつける。だが、どちらかが根負けするまで続きそうだった睨み合いは、意外にもウラートが視線を反らして終わった。
「そのままでは身体が冷えてしまいます。早く毛布にくるまりなさい」
しかし、忠告を無視してリュ・リーンはいつまでも寝具の上に座り込んでいる。それを横目に見ながら、ウラートはベッドから滑り降りた。
ところがその動きが止まる。着込んでいる上着の裾が引っ張られ、天蓋幕の外に出ていくことができないのだ。
「リュ・リーン……?」
「俺の世話は義務か?」
未だに王子の瞳には怒りが浮かんでいた。誰もが怖れ、逃げ惑う死の王の瞳だ。だが、ウラートはその瞳に睨まれても少しも恐ろしいと思ったことがない。
闇の中で猫の眼のようにうっすらと光る瞳に驚きこそすれ、それに魅入られ、死に取り憑かれると怯える他人の気持ちが判らなかった。
「我が侭な主人の世話は義務も伴うでしょうね」
ウラートの返答にリュ・リーンの瞳が細められる。王子の形の良い唇がギリリと噛み締められた。そして瞳の中を怒りの他に寂しげな光が行き来する。
そのことに気づかないほど、ウラートは鈍くなかった。
「今のあなたは私の主人なのですか?」
ウラートの問いかけにリュ・リーンが眉をひそめる。何が言いたいのか理解し難いらしく、困惑に瞳の中の光がゆらゆらと揺れ動いていた。
「……あなたはまだ私を兄と思っていらっしゃるでしょうか?」
問いかけの言葉を変えると、王子は唖然とした表情でウラートの顔を見つめ返してくる。虚を突かれたその表情が可笑しく、ウラートは喉の奥で笑い声をあげた。
「手の掛かる弟の世話は苦ではありませんよ。……たまに、あまりの子どもっぽさに呆れはしますけど」
「こ、子どもじゃない! 俺は十三になったんだから、もう成年だ!」
「大人は薬を飲むのを嫌がって駄々をこねたりしませんよ」
さらりと嫌味を返されて、リュ・リーンが返答に詰まって絶句している。その表情もやはり年齢よりも子どもっぽく見え、ウラートは可笑しそうに笑い声をあげ続けた。
「笑うな! 元はと言えばお前が悪いんだ!」
「……そうですね。すみません。まさかあんなところにうずくまっているなんて思いもしなかったのですよ」
アッサリと非を認めたウラートの口調に、リュ・リーンは眉を寄せ、さらに口元を歪めて奇妙な表情を浮かべる。まるで幼子が泣き出す寸前に作る顔のように見えた。
「嘘だ。俺の眼を見て怯えたんだろ」
「私がですか? それは誤解です。どうして私があなたの眼に怯えなければならないんですか」
「みんな怯えてる。姉上たちだって……。時には父上だって怖がっている。さっきの女なんか、ここにいる間中ずっと泣き出しそうな顔をしていた。みんな……俺の眼が怖いんだ」
ウラートは降りかかっていたベッドの上に這い上がると、冷え切っているリュ・リーンの肩を抱きしめた。ウラートの態度に困惑した王子が、窮屈な姿勢から顔をあげる。
「確かにあなたの瞳を怖がる人もいるでしょうね。私はそれを否定することはできません。でも、これだけは信じてください。私はあなたを怖れてはいない。他の誰があなたを怖れようと、私はあなたの側にいますよ」
包まれた温もりに安堵したのか、リュ・リーンの強ばっていた身体から力が抜けた。ウラートの胸にもたれかかり、王子は深いため息を漏らす。
「俺は人間だ。……化け物じゃない」
「えぇ、もちろんですとも」
ウラートは目の前の黒髪をそっと撫でながら静かに瞳を閉じた。なぜか疲れがドッと出てきた。決してリュ・リーンを疎んじているわけではないが、彼の軋んだ悲鳴をあげる心を感じるたびに、この疲れを感じるのだ。
もしかしたら、この倦怠感こそがリュ・リーンの不安の正体なのかもしれないといつも思う。
誰にも理解してもらえない孤独の中にリュ・リーンはいる。どれほど言葉を重ねようと、彼の孤独を真実理解することはウラートにも不可能なことだった。王子の嘆きを理解するには、ウラートはなんでも器用にこなしすぎていた。
今夜の初人ういびととの契りは、リュ・リーンの心の傷をさらに深くえぐったらしい。いつも近くにいるウラートの心すら疑うほど。
力の抜けたリュ・リーンの身体を横たえると、ウラートは自分の身体も一緒に毛布の中に滑り込ませた。そのままの姿勢で王子の身体を抱きしめ、彼は微かに震えている主人の背中を撫でさする。
何年ぶりだろうか。かつて王妃が存命だった頃には、小さな王子にせがまれてこうやって同じベッドで寝入っていた。寒さをしのぐのに、人の体温は驚くほど心地よく感じたものだ。
「ずっとこうしていますから……。眠りましょう?」
顎の下にあるリュ・リーンの黒髪に声をかけ、ウラートは再び瞼を伏せた。寒さに自分の身体も随分と疲れていたらしい。リュ・リーンから感じられる温かさにホッとすると、瞬く間に睡魔が襲いかかってきた。
微睡みの浮游感の中、リュ・リーンの声が聞こえた気がする。何度も「兄さま」と呼びかけられ、そのたびに抱きしめる腕に力を込めた。
王子が十歳のときに聖地アジェンに留学し、それ以来ずっと兄と呼ばれたことなどなかった。それを一歩ずつ大人になっているのだと理解しているつもりでいたが、今夜の様子を見る限り王子の心の一部はまだ子どものままだ。
夜明け前の暗がりに怯える子どものように、あるいは見知らぬものに警戒する子猫のように、触れた途端に跳ね上がるリュ・リーンの心を抱きしめて、ウラートは何度も側にいるからと呟き続ける。
「リュ・リーン……。私は……あなたが好きですよ」
うつらうつらと眠りの浅瀬にたゆたいながら、ウラートは声にもならない声で王子に囁きかけた。それが聞こえたのだろうか、それとも眠気に勝てなかったのか、ウラートの胸元に顔を埋めたままいつの間にかリュ・リーンも寝息を立て始めていた。
静かな闇の帳とばりに囲まれ、二つの寝息だけが規則正しく響いていた。
肩先の寒さに震え、ふと眼を醒ましたウラートは闇の深さに頭を混乱させた。ここはどこだったろう。いつもの自分のベッドより暖かい気がするが。
腕の中にある温もりの原因を思いだすと、ウラートは苦笑いを浮かべた。子守のために横になったが、自分も一緒に眠ってしまったようだ。
身体を起こそうとしたが、リュ・リーンの指がしっかりと上着を握りしめており、それをはずすのは容易ではなさそうだ。ウラートは苦笑混じりのため息をつくと、再びベッドに突っ伏した。
「……父上のところへ行く気か?」
胸元からせり上がってきた囁き声にギョッとして、ウラートは首だけ持ち上げる。顎をくすぐる黒髪がもぞもぞと動き、すぐに青白い顔の中で光る暗緑の瞳が現れた。
「貴族どもがお前は父上の寵童だと嘲っていた……」
「言いたい者には言わせておきなさい。あなたが気にすることではありません。少し動いてもいいですか? 肩が痛くなってきました」
毛布の中に深く埋まりながら、ウラートはリュ・リーンと同じ視線になるよう移動する。間近で見ると、王子の瞳は濡れた緑の翡翠のように光って見えた。
「どうして父上のところへ行くんだ。お前は俺の守り役じゃないか」
「私には今のところ身を守るべき官職がありませんからね。……陛下も私の立場を苦慮しておいでなのでしょう」
王宮の外は夜明け前の薄明かりが広がっているのかもしれない。自分の瞳の色に似た、蒼く深い闇と朝の到来を予感させる微かな光が織りなす空色を懐かしく感じ、ウラートは紗幕越しに鎧戸を見つめた。
「俺の守り役では役不足か……」
自嘲に口元を歪め、目を伏せた王子の態度に、ウラートは何度目か判らない苦笑を浮かべる。
いつかリュ・リーンにも判るときがくるだろう。王が自分の後継者のため、その臣下とするべき若者に目をかけることはよくあることだ。貴族たちがやっかみ半分に男娼と嘲ったところで痛くも痒くもない。
「守り役は官職ではありませんからね。貴族たちを納得させるだけの手柄を立てなければ、私の王宮での地位などないに等しいのですよ。これはあなたのせいではありません。そうでしょう?」
指を伸ばし、リュ・リーンの頬を何度もなぞりながら、ウラートは自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
何年か後に、陰口を叩いていた者どもを追い落としてやればいいだけのことだった。今は目指すべき黎明の手前にいるだけだ。
「夏になれば俺はリーニスに出向く。そのときはお前も一緒だ……」
「えぇ。戦場では遠慮なく武勲を立てさせていただきましょう。置いていかれないように、あなたも励んでくださいよ」
いつも通りの軽い口調でウラートが笑う。それにつられたようにリュ・リーンも小さな笑い声で喉を震わせた。
「お前こそ、遅れずに俺についてこいよ。この王都ルメールでふんぞり返っているしか能のない貴族どもに泡を噴かせてやるんだからな」
王子の瞳が真っ直ぐにウラートに向けられる。その瞳の力強さに安堵と、同時に一抹の寂しさを覚えながらウラートはしっかりと頷き返した。
「当たり前です。……私が仕えるのはあなただけですからね。しっかり武勲を立ててください。私もそのおこぼれに預かれるんですから」
くすくすと毛布の下で笑い合っているが、二人の目は至って真剣だ。何年かかろうと、王国の頂点に立つために二人で遙か高みを目指していくのだ。もう何度そのことを話し合ったかしれない。
「ついでにサッサと奥方を決めていただけるとありがたいのですけどね。あなたが決めてくれないと、私の伴侶も見つけづらいものですから」
「うるさいな。……俺を見ても怯えない女なら誰でもいいよ。お前、どこかで女を引っかけて連れてこい」
ふざけて混ぜっ返せば、リュ・リーンはふてくされた様子で頬を膨らませる。いつも通りの彼の態度だ。
「仰せのままに……」
ウラートもいつも通りの口調で、いつもの態度で返事を返す。本気でウラートが口説き落とせば、落ちない女などいないだろう。しかし返事をしながら、お互いにそんな悪ふざけはしないであろうことは充分に判っていた。
「……なんだか、眠いな」
「そうですね。まだもう少し眠れるでしょう。夜が明けたら忙しくなりますよ。一眠りしておいたほうが賢明でしょうね」
どちらからともなく寄り添い、瞼を閉じながら、互いの温もりに安堵して、二人は微かな吐息を吐きだした。そして、二人とも緩やかに眠りの淵へと落ちていく。
宵闇に飛び交うみさご鳥の羽音がする。同時に夜明けに抗議するようにさえずるその鳴き声も。今日の夜明けはきっと美しいに違いない。
ウラートは鎧戸の向こう側に夜明け前の薄明かりを感じ取っていた。
夜の闇は夜明けの先触れたる薄明かりの前が一番深い。その深みから抜けだしさえすれば、後はこの瞳の色のような蒼い光が差し、紫色に染まった雲がたなびき出すのだ。
リュ・リーンの成年の儀式は数日中にすべて終わるだろう。その暁には、彼は正式な王太子としてこの王国に君臨することになる。そして夏がきて、王子が戦地に赴けば、彼は間違いなく幾つもの武勲を立てるのだ。
貴族たちに謗られ、蔑まれようと、リュ・リーンは王の子どもに恥じない知識と能力を養ってきた。それが試され、証明される日も近い。どれほど内心で反発しようと、貴族たちもそれを認めざるを得ないだろう。
その夜明けが待ち遠しい。天を照らす太陽のごとく王国を照らすであろう者を我が主と呼べる誇りを、ウラートは知っていた。
そう遠くない将来、遙か高みに立つ者の傍らにいる自分の姿を思い描き、ウラートは微睡みの中で静かに深い微笑みを湛えた。
終わり
The 1st scene * 夜姫
暗闇には夜香木の甘やかな香りが漂う。夜の暗がりのなかで緩慢に蠢き、生ける者の時間を凍りつかせ……松明越しに見る濃密な香りの闇には、気怠い気配が色濃く溶け込んでいた。
沈黙の時間の中でジリジリと炎が焦りの声をあげて身をよじりのたうつ様は、閨のなかの狂乱を彷彿とさせ、滴る闇の濃さに冒されているように見える。
光と影。その境界線の上でじっとりと沈んでいく宵闇の声に耳をそばだてて立ち尽くす人があった。
いったいどれだけの間そうやって佇んでいたのか、足に根が生えたように動かない人影は瞬きも忘れて輝きの向こう側を透かし見ていた。その場を通りかかった者がいたとしたら、腕組みをしているこの人影を彫像とでも勘違いしたかもしれない。
突如炎が大きく揺らめき、人影の横顔を大きな翳りで覆うと、その一瞬を待ちかまえていたように、闇の最奥で扉が軋みをあげてゆっくりと開く音が聞こえてきた。
揺らめく松明の灯りに照らされてぼんやりと人型が浮かんでいる。小柄で色白の、亜麻色の髪が美しく輝く女だ。たっぷりとした布地をふんだんに使った衣装を着ていても彼女の豊かな肢体を隠すことは不可能だった。
足早にこちらへ近づいてくる女を黙って迎えると、影は臆することなく腕を差し出した。
影は年若い男だ。十代の半ばから後半の年代であろうか。明るい滑らかな茶髪に縁取られた顔立ちは柔和で、中性的あるいは女性的な印象を見る者に与える。
「ご苦労なことですわね。伽が終わるまでそうやっていたんですの?」
わざわざ問いかけるまでもあるまい。腕を差し出した者の身体は冬場の冷気で凍え、袖の布越しですら寒さに震えていることが指に伝わってくるというのに。
判りきっていることだからか、相手の男は答えを返さなかった。
「夜姫、房での首尾は……?」
若者は反対にかすれた声で女へと問いかける。女のふくよかな唇が形良い笑みの形に歪められた。そう、歪んだ……と言うのがもっとも適切だった。
「王都の花館一の夜姫が、あなた様の主に粗相をするとでも? 愚かな問いですこと、ウラート卿」
「不快に思われたのでしたら失礼を。これも慣例の一つですから」
「ばかばかしい慣例ですわね。……えぇ。ご希望通りに。それが殿下にとって心楽しいことであったかどうかは別ですけど」
ウラートのため息混じりの言葉に女も同じくため息と共に返事をする。同じ動作をしているというのに、一人は疲れたような、一人は苛立ったような態度だった。
点々と行く先を照らす松明の間を抜けながら、二人の男女は冷え切った廊下を進んでいく。互いの吐く白い息が宵闇のなかに物憂げに溶けていった。
何を話すでもなく二人は黙ったまま歩き続ける。それぞれの足音が石の床を滑っていく空間は寂しいばかりで、明るければ華やかさに彩られているはずの壁は、闇の中で不機嫌に二人から顔を背けていた。
廊下を幾度か折れ曲がり、二人の行く手に月明かりに照らされた戸口が小さく見え始めると、重い沈黙を破って女が小さな吐息をついた。
「これが最初で最後にしていただきたいわ。あの方のお相手は……もう……」
何を思い出したのか、女は小さく肩を震わせて眉間に深い皺を刻んだ。亜麻色の髪がその苦悩を隠すようにハラリと額に落ちかかってくる。
「初めは名だたる美姫のなかから選ばれて喜んでいらっしゃったのに。ずいぶんな言い様ですね」
「あなた様は恐ろしくないのかしら? わたくしには無理ですわ。耐えられない。あれ以上留まっていたら……死に囚われてしまいそうで」
月明かりに浮かぶ戸口はもう目前だったが、女の足取りがハタと止まった。怯えた表情で隣りに佇む若者を見上げる。
「不敬は承知の上よ。でも駄目。これ以上は無理ですわ。あの方の……あの瞳を覗き込んだが最後……。魅入られて戻ってこられなくなるわ」
「本当に不敬な言葉だ。その言葉、私の胸だけに納めておきましょう。他言されないことを忠告しておきます」
ウラートの顔にうっすらと冷たい笑みが浮かんでいた。その表情から憤りを読み取ったのか、女は青ざめて瞼を伏せた。
「あなた様には判らないのだわ。あの瞳の恐ろしさが!」
「私はその瞳を毎日見つめているのですよ。恐ろしいものですか。私の主人のことをこれ以上悪し様に言うのでしたら……」
「やめて! もう言わないわ、誰にも……。だからこれが最初で最後にしてちょうだい!」
伏せた顔を大きく背けて夜姫が鋭く囁いた。色白の肌が戸口から差し込んでくる月光に青ざめて見える。その生白い首筋を見下ろしてウラートが小さく鼻を鳴らした。
「殿下が望まれたらお呼びすることになりますが? それでもあなたは拒まれますか」
ウラートの問いかけに女の肩が激しく震え、怯えから自分の両肩を抱きしめて首を振る。
「やめて……。お願い、やめて。あの方の瞳に魅入られたら生きていけない。わたくしは卑しい女だけど命は惜しいわ」
「殿下の初人に選ばれたのです。誰も卑しいなどとは言いますまいよ」
ウラートの指が女の額にかかった前髪をそっと掻き上げた。その指先を追うように夜姫の瞳が若者へと向けられる。彼女の淡い蒼眼の奥には、死の影への怯えがありありと浮かんでいた。
女の表情にウラートは苛立ちを覚える。誰もかれもがこうだ。なぜそれほど怯えるのだろうか?
「眼を閉じてください」
事務的な口調でウラートが声をかけた。女が怪訝そうな表情で彼を見上げる。何をするつもりなのかと別の怯えが彼女の瞳の上に広がっていた。自分に従おうとしない女に若者が冷たい笑みを向ける。
「忘れなさい。二度と思い出さないことです」
ウラートは片手で素早く女の瞼を覆うと彼女の形の良い唇を奪った。熱のこもらない接吻は長い間続けられ、もがく女の二の腕や頤に若者の指先が痛いほどに食い込んでいる。
舌を割り込ませ、歯列をなぞりながら、ウラートは冷たい瞳で女の表情を伺っていた。押しのけようと腕をあげる夜姫を壁に磔にし、執拗に彼女の口内を犯していく。甘い痺れとは無縁の口づけだった。
抵抗をやめた女の花唇を解放し、ウラートはそのまま彼女の首筋に舌を這わせた。片手だけで巧みに女の胸元をはだけると、白い肌の上に散った赤い花びらを確認して小さく笑う。
「一応は満足されたようだ」
ほとんど聞き取れないほどの小声で呟くと、ウラートは幾つか散った花びらの一つを舐め、強く吸い上げた。その感覚に女が白い喉元を仰け反らせる。
「今夜のことは忘れなさい。……あなたは殿下の初めの女にはなれても、永遠の女にはなれない」
相手の反応を弄ぶようにウラートは散っている花びらを一つずつ辿り、さらに濃い色の花弁の痕を残していった。そのたびに夜姫は喉を震わせ、熱い吐息を漏らし続ける。
いつの間にか白い腕はウラートの茶髪を梳り、ときおり強く引き寄せていた。その腕の蠢きにウラートは微苦笑を漏らした。なんと単純な女よ。
自分の唇と指の下でのたうつ女の白い肌を征服しながら、若者は憎悪と愛情を込めて花弁の最後の一つを強く吸った。
湿った音とともに肌から唇が離れると、女がウラートの口元をぼんやりと見上げた。彼の唇は女の痴態を嘲笑うように冷たく歪んでいる。
「満足しましたか?」
途端、女は怒りも露わにウラートの左頬を打ち据えた。凍えた空気に鋭い打音がこだまする。
「どれほど卑しくとも、わたくしにだって誇りがあるわ。この躰が欲しくもないのに触らないで!」
「私はあなたのお手伝いをしただけですよ。思い出したくもない情事なら忘れることです。あなたがたの場合はさっさと他の情事に耽ることですね」
ウラートの冷めた言葉に夜姫の唇が噛みしめられた。乱れた襟元を両手で押さえて屈辱にブルブルと震える女の唇から、獣の唸り声のような吐息が吐き出される。
「そうね。忘れることにしますわ。今夜のことすべて!」
キッと若者を睨みつける女の目元が怒りに赤く染まっていた。その挑みかかってくる女の視線をウラートはすげなく見つめ返し、彼女がきびすを返しても口を開かなかった。
「あなた様もかつてはわたくしと同じ場所にいたくせに……! よくもこのように冷たい仕打ちができたものね!」
戸口で月光を浴びながら女が振り返った。顔の半分が月明かりに青く染まり、瞳はどす黒い蒼に染め抜かれている。
返答をしないウラートに焦れて女はさらに言葉を叩きつけた。
「たとえ王子つきの従者になってもそれでは娼館の男娼と変わらないじゃない! なんて冷たい男かしら!」
言い終わるや否や、女は身を翻して建物の外へと飛び出していく。カタカタと凍てついた雪の上を駆け去っていく女の足音に続いて、複数の重たい足音が一緒に遠ざかっていった。従えてきた花館の下僕たちのものだろう。
足音が遙か彼方へと消え去ると、ウラートはようやく戸口へと歩み寄り、月光に全身を洗わせた。
王城の前庭へと続く小道には人影はない。青い月明かりが辺りを群青色に染め、痛いほどの沈黙を広げている。凍てついた重い空気のなか、ウラートは静かに深い吐息をついた。
「男娼、ね……。事実ですから腹も立ちませんが」
冷たい光に身震いすると、彼は自分の両腕を撫でさする。衣服の上からでは、少しも温みを感じはしなかったが。
「誇りなら私にもある。彼を認めない者を許すほど、この誇りは安くはない」
ウラートは銀に輝く円盤を見上げた。無垢な色で輝く月をしばらく見つめた後、彼は何事もなかったかのように扉を閉めて廊下の奥へと戻っていった。
世界に沈黙が落ちる。宵の鳥さえ今夜は眠っているとみえる。凛々と冷える空気に抱かれ、長い冬の夜はなおも続く。
音もなく降り注ぐ銀の月光だけが世界を蒼く冷たく染め上げていた。
王子の部屋の前に佇むと、ウラートはしばし躊躇して目の前の扉を見つめた。
本当なら今夜は主人を訪ねるべきではない。しかし先ほどの女の言動がひどく気にかかった。チリチリと胸の奥を焼く。
「ちゃんと眠っているかどうか、確認だけしましょう」
後ろめたさに言い訳し、ウラートはそっと扉を開けて室内へと滑り込んだ。暖炉の炎はほとんど消えかかっていたが、室内は廊下の寒さより数段マシである。
「火を落とさずに寝所へ入られたか」
ため息混じりに呟くと、ウラートは暖炉のくすぶりに近寄っていった。このまま燃え尽きるまで火を置いておくわけにはいくまい。
後始末を終え、ふと腰を伸ばしたウラートの鼻腔に青臭い匂いが届き、彼は小さく眉をひそめた。ここはいつも主人が好んでいる香木の香を焚いていたはずだ。なのになぜ?
ウラートは辺りを素早く見回し、こちらを睨めつける一対の瞳に立ちすくむ。
「今頃になって何をしにきた、ウラート?」
ややほぐれ始めていた身体の緊張が、その一言で一瞬にして最高点まで到達した。暗がりで鈍く光る暗緑の瞳は鋭い槍の穂先に似てウラートの心臓を刺し貫いてくる。
「リュ・リーン殿下……。まさかずっとそこに?」
ウラートは自分の声が震えていることに驚いた。こんな情けない声を上げたのは初めてかもしれない。
「無様に腰を抜かしているかもしれない主人を笑いにきたか? 生憎だったな。言われた通りにやってやったさ。下世話な貴族どもから謗られないようにな」
「どうして寝所にいないんです?」
ウラートの問いにリュ・リーンの眦が大きくつり上がり、手近にあったクッションがウラートに向かって叩きつけられた。それだけではない、次から次へと、手当たり次第に物が飛んでくる。
苛立っているリュ・リーンにウラートは少なからず狼狽した。普段から気難しい王子であるが、これほど理不尽な八つ当たりをされるとは思いもよらなかった。
飛んでくる小物を避けながらウラートはどうしたものかと首をひねり、怒りをぶつけてくるリュ・リーンの手元を見て顔をしかめた。相手は上半身に上着を引っかけただけの姿だ。
「いい加減にしてください、リュ・リーン。何をそんなに怒っているんです」
投げつける小物がなくなると、リュ・リーンは怒りに拳を震わせたままウラートの顔を睨みつける。
「リュ・リーン殿下。その格好では風邪をひきますよ」
他の者であったならリュ・リーンの一睨みで怖じ気づいていたであろう。しかし王子の偏屈な態度に馴れているウラートには、リュ・リーンの凄まじい形相もなんの効果もなかった。
ぷいとそっぽを向いてしまったリュ・リーンに素早く近寄ると、ウラートは自分の上着を脱いでスッポリと王子の頭に被せた。
「勝手に入ってきたから怒っているんですか? それなら謝ります」
「出て行け!」
リュ・リーンの髪に触ろうとしたウラートの腕が勢いよく振り払われる。
「殿下。私は謝罪もさせてもらえないのですか?」
「うるさい。あっちへ行け! 俺に触るな!」
「判りました。出ていきますから服を着てください。でないと本当に風邪をひきます」
「やめろ! 俺に触るなって言ってるだろ!」
自分の上着を主人に着せようとしたウラートの腕が、再び鋭く叩かれた。痛みにウラートの顔が一瞬しかめられる。
「……勝手になさい。これ以上は面倒みきれませんよ」
ここまであからさまに拒絶されるとさすがに腹が立ってくる。ウラートはしかめっ面のまま立ち上がり、不機嫌そうに顔を背けるリュ・リーンを残して王子の居室を後にした。
腹立ち紛れに廊下を進み、王子宮を抜けてさらに王宮の奥へと進んだ。
やはり今夜はリュ・リーンの側に行くべきではなかったのだ。あれほど荒れ狂っているところをみると、王子は先ほどの夜姫の態度にひどく傷ついているのだろう。
山のようにある王子の成年の儀式はあらかた終わっていたが、今夜の荒れようだと明日の朝に待っている幾つかの儀式に出席したがらないかもしれない。またリュ・リーンの女性嫌いに拍車がかかりそうな厭な予感がする。
ウラートは憤りの赴くままに運んでいた歩みを鈍らせ、ついに止めてしまった。つり上がっていた彼の眉が、今は哀しげにひそめられている。
「やはり初人の選別を他の者に任せるべきではなかった。……とはいえ、今さらそんなことを言っても遅いのですよね」
深々とため息をつき、ウラートは王宮の最奥部に足を踏み入れた。静まり返った空気が彼の密やかな足音に掻き乱されていく。
長い廊下を歩んでいくと所々に衛兵たちが佇んで夜警に当たっていた。その一人一人に労いの言葉かけ、ウラートは当然の顔をして彼らの前を通り過ぎていく。誰にも彼の行く手を止めることはできないのだ。
目の前に古めかしい扉が現れたのは衛兵たちの姿も見えなくなった奥宮の一画だった。
一瞬だけ躊躇ったものの、ウラートはすぐに扉を薄く開けて室内へと潜り込んだ。ここにも夜香木の甘やかな香が満ち、胸苦しいほどの痺れが身体の芯に走った。
身体の震えを抑えてウラートは周囲を見回す。天鵞絨張りの寝椅子の上に横たわる人影が暗闇の中に浮かんだ。そちらへと一歩踏み出したときだ。
「誰だ? ……おや、ウラートか。どうしたのだ? リュ・リーンに何かあったか?」
気怠げな声は一瞬で、すぐにそれは鋭いものに変わった。部屋の主はゆっくりと身体を起こすと、静かに伸びをしている。
ウラートはその傍らに足早に近づき、素早く跪いて項垂れた。
「しくじったのか?」
「いえ……。ですが、不愉快な思いをされたようです。大変な荒れようで手がつけられません」
身を起こした男は寝乱れた衣装を直す気配もなく、静かにため息を吐きだす。部屋の向こう側で燃える暖炉の炎に浮かび上がった横顔には、忌々しそうな表情が刻まれていた。
「……やはり駄目だったか」
「やはり? 陛下、まさか今夜のことを予測されていたのですか?」
「あれは余の息子だぞ。おおかたの察しはつく。相手の女は魔の瞳に怖じ気づいていたろう? 暗闇であの瞳と対面して平然としておれる者は少ないからな」
ウラートは男の傍らに跪いたまま瞼を伏せた。
自分もつい先ほど闇に光る瞳と対峙した。あのときは突然の人の気配に驚いたのだが、迂闊なことに発した声は裏返っていた。思い返せば、彼が癇癪を起こしたきっかけは「なぜ寝所にいないのか?」というウラートの問いだった。
あれで王子は誤解したのではなかろうか? 守り役のウラートも夜姫と同じ恐怖を感じていると。普段は不機嫌にしていても、自分の言うことに耳を貸さないということはないのだ。今夜の荒れようは聞き分けのない赤子と同じだ。
「王陛下。今回のことは私の失態かもしれません。殿下にいらぬ誤解を抱かせたのかも……」
ウラートの強ばった表情に王は口の端をつり上げる。皮肉をたたえた口元とからかうような眼の光は、王を実際の年齢よりも年若く見せた。
「リュ・リーンの寝所にまで押し掛けていったのか?」
「いえ、入ってすぐの居間に……。暖炉の火を落としたらすぐに退出するつもりでいたのですが、寝椅子と敷物の陰から声をかけられて飛び上がってしまいました。たぶん、あのときの私の様子を誤解しておいでだと……」
王の喉元から低い笑い声が漏れた。震えた空気は暖炉で揺れる炎と共鳴したようにゆらゆらと室内の住人の身体にまとわりついてくる。
「ということは、あいつは女を寝室に引っ張り込まなかったのか?」
「……そう言われてみれば、殿下は他人を寝所に入れたがらない性分の方でした」
「それはまた……。随分と寒かっただろうに」
クスクスと屈託のない明るい笑い声が響き、ウラートは不機嫌な表情で王の横顔を見上げた。
こちらとしては笑い事ではない。あそこにリュ・リーンがいるとは思っていなかったのだ。自分はそのことに驚いただけのことなのに、王子は勘違いし、激しい癇癪を炸裂させている。どこが笑えるというのか。
「そう睨むな。……早くリュ・リーンのところに行ってやれ」
「しかし、あの様子ではしばらく勘気は収まりますまい。今夜はそっとしておいたほうがよろしいのでは?」
「それでいいのか? 余はいっこうにかまわぬが」
王は勢いよく寝椅子から立ち上がると、再び伸びをして暖炉の前へと歩いていった。快活な足取りには迷いがなく、先ほどの気怠げな声を発した人物とは思えないほどサバサバとした動作だった。
ウラートは唇を噛みしめ、じっと王の背中を見つめる。
「失敗の種類にはいくつかある。だがこの場合の喩えに使うなら、大別すれば二つだ。判るか、ウラート?」
王はこちらに背を向けたままだった。暖炉の火に灰をかぶせているらしく、部屋の薄闇が溶けて、周囲はとっぷりと暗闇に落ちる。
ウラートは言葉もなく項垂れ、じっと王の次の言葉を待った。
「時間とともに赦される失敗と、時間が経てば立つほど赦されなくなる失敗だ。お前が言う失態は今回はどちらに当てはまる? 余であればどちらでも解決させることができる。が、お前自身はどちらの解決方法を選ぶのだ?」
ウラートが顔を上げると、そこには暗闇の中をゆっくりと歩み寄ってくる王の影があった。元から大柄な体格ではあったが、いつも屈託なく笑う表情が見えないだけで、その影はどこか恐ろしい存在であるかのような錯覚に陥る。
「誤解を解くのなら、早いにこしたことはありません……」
「ならば立て。今のお前がしなければならないことは、この部屋で余に報告してうずくまっていることではなく、トットと王子の部屋に行くことだろう」
ウラートは弾かれたように立ち上がり、間近にある王の顔を見上げた。暗くてよく見えないが、いつも通りの笑みが口元に浮かんでいるような気がする。
「報告は終わりだ。余も休むゆえ、お前も仕事が終わったら休め」
静かに腰を折り、無言で王への挨拶を済ませると、ウラートはあたふたと王の居室から飛び出した。その背後で王の小さな笑い声が弾けていたことに、彼は果たして気づいていただろうか。
「世話の焼ける息子たちだ。……なぁ、ミリア・リーン?」
星灯りだけが降り注いでくる夜だった。辺りの影は銀に染まり、まるで幻想画のように冴え冴えとした姿をしている。冷たい夜風に震える木立が覆い被さってくるような錯覚に立ちすくみそうだ。
息を潜めて木々の枝の下をくぐり、下生え草に足を取られないように注意しながら進んでいくと、すぐ近くに人の気配を感じた。
「ミリア……?」
恐る恐るといった感じの声がその気配に続いて聞こえてくる。
「シャッド」
相手の名を呼び返してやると、あからさまにホッとしたため息が耳に届いた。
黒い茂みをかいくぐると、そこは風が遮られていくらか温かい。
「ミリア……! 遅いよ。待ちくたびれた」
寒風から逃れてホッとしたのもつかの間、声の主にしがみつかれてミリア・リーンは足下をよろめかせて尻餅をついた。
「痛いじゃないの。もぅっ! ちょっとどいてよ」
「やだ!」
「夜着が濡れちゃうでしょ!」
夜着と聞いて相手が慌てて身体を起こす。
ミリア・リーンはやれやれと起き上がったが、今度は腕を引かれて前へと倒れ込んでしまった。
だが身体の下には地面とは明らかに違った柔らかな感触がある。見れば小柄な少年が自分を抱きかかえるようにして下敷きになっていた。
「ちょっ……シャッド!」
「えへへ」
海色の瞳を悪戯っぽく輝かせて、嬉しそうに笑い声をあげる少年の顔にはどこかしら満足げな気配が漂っている。
「何してるのよ。服が濡れちゃうわよ!」
慌てて身を起こそうと腕に力を入れるが、相手は意外なほど強い力で自分の細腕を押さえていた。体格は自分よりも小さいくらいなのに……。
「俺なら大丈夫。それに先にきて雪狐の毛皮を敷いておいたんだ」
相手の身体の下を覗いてみると、確かに雪とは明らかに違う。まるで白い柔草のような風合いの毛皮はまさしく雪狐特有の豪奢なものだ。何匹分の毛皮であろうか、人が数人集まれば埋まってしまう狭い窪地のなかは大半が毛皮で敷き詰められていた。
「すごい! こんなにたくさんの毛皮、どうしたのよ」
「んふふ。出入りの商人に注文したんだよ」
頭上で眼を丸くする少女の反応が楽しいらしく、少年は喉を鳴らして愉快そうに笑っている。毛皮の上に散っている彼の巻き毛は一匹だけ金毛の狐の毛皮を広げたように豊かに波打っていた。見る者を惹きつけるあでやかさだ。
夜の闇のなかでも宝冠のごとくに輝きを放つその髪に少女がうっとりとした手つきで指を絡ませた。
「でも……シャッドの髪のほうが綺麗」
一房その髪をすくい上げると、少女はそっと頬ずりする。
「何言ってるのさ。ミリアの栗毛のほうが俺は好きだよ」
ゆるく三つ編みに編み込まれた少女の髪を愛しげに撫でながら、少年は少女の身体ごと身を起こした。少女よりも一回りだけ小柄な少年の体格では相手を抱きしめるというよりは、抱きついているといった格好になってしまうが。
「ミリア……。従兄弟たちに言い寄られているだろ」
上目遣いに少女を見る少年の蒼い瞳に嫉妬が光った。
「あら、誰がそんなこと言ったの?」
「女官たちがコソコソと噂してたのさ。……で。ちゃんと逃げてるだろうな?」
首を傾げて少女は首を振る。なぜそんなことをしなければならないのかと、不審そうな顔つきだ。
「どうして逃げなきゃいけないのよ。贈り物をもらったお礼だって言わなきゃいけないのよ。逃げていたんじゃ失礼でしょ」
「贈り物だって!? どうして断らないんだよ!」
眉をつり上げ、声を荒げる相手にいっそう困惑して少女は眉をひそめる。そんなに驚くようなことだろうか? 貴族の間での贈答など、日常のことではないか。
「何を怒ってるの? 贈り物なんて昔からもらっ……きゃ!?」
柔らかな毛皮の上に引き倒されてミリア・リーンは小さな悲鳴をあげた。いくら地面より柔らかいとはいえ、乱暴にされたのでは痛くないはずがない。
「何をもらったんだ!」
文句を言ってやろうと見上げた相手は、恐いほど真剣な表情をしていた。思わず悪態を飲み込むと、素直に答えてしまう。
「は、花飾りと髪留めと……それから雪兎の毛で織った衣装と室内履き用の革の編み込み靴」
ミリア・リーンの口からはスラスラと答えが返る。それを不機嫌そうに聞いていた少年が頬を膨らませた。
「それ、身につけているところを相手に見せたのか!?」
少年の憤慨した様子に少女は跳ね起きて抗議する。
「失礼ね! そんなことしたら気があると誤解されちゃうじゃなの! ばかシャッド! 私をそこらの尻軽女と一緒にしないで!」
「み、見せてない……? 本当に……?」
「何よ! シャッドは私をなんだと思ってるのよ! だいたい……きゃあっ!」
再び毛皮の上に倒されると、ミリア・リーンは自慢の栗毛を波打たせて相手を凝視した。生暖かい息が鼻先をかすめている。これほど間近で相手の顔を注視するのは久しぶりのような気がした。
少年の金の巻き毛がすっぽりと二人の顔のまわりを覆い尽くして、眩い天蓋を作る。
「ミリア……」
柔らかな感触が唇に触れ、幾度も甘い口づけを落とした。その繊細な愛撫を受けていた少女が少年の髪を優しく掻き上げる。月のない夜空から降り注ぐ銀糸に洗われる二人の姿は庭園を飾る恋人たちの彫像を連想させた。
「私……ふしだらな女じゃないわ」
ようやく唇を解放されると、少女は囁きながら相手の肩に頬を埋める。それをしっかりと抱き留めながら、少年が小さく頷く。
「うん。……ごめん。ごめん、ミリア」
繰り返される少年の謝罪の声をうっとりと聞き、少女は満足げな吐息をついた。
「いいわ。許してあげる」
未だ少女の領域に身を置きながら、ミリア・リーンは艶っぽい大人びた瞳で相手を見上げると口元をほころばせる。宵闇のなかでもその微笑みに惹きつけられて少年が頬を染めた。
「あなたって本当におばかさんね、シャッド」
再度毛皮の上に転がると、ミリア・リーンは喉の奥でクックッと笑い声をあげる。その声にシャッド・リーンが頬を膨らませて反論した。
「だって、ミリアはもう成年の儀を終えて大人扱いされてるんだぞ! 俺はまだ……あと少しだけど、まだ成年の儀を終えてない。ミリアに正式には結婚を申し込めなんだからな……不安になるじゃないか……」
最後は悄然と肩を落としてシャッド・リーンは俯いてしまった。少女から顔を背けた彼の横顔は星灯りに青ざめて見える。
「シャッド……」
少女の呼び声に少年はうなだれていた首をもたげて振り返った。そして少女が言葉の続きを紡ぐ前にそっと囁く。
「愛してる、ミリア……」
晴天の下の海原を思わせる少年の瞳が濡れたように潤んでいた。すらりと鼻筋が通った整った顔のなかで、その蒼だけが恐ろしく鮮明な光を湛えている。
「私もよ」
その言葉に清々しいほどに明瞭な答えが返った。
ミリア・リーンが身を起こそう身体をよじる。しかし少年が覆い被さってその軌跡を塞いでしまった。
「どうして愛してるって言ってくれないんだよ」
ふてくされた口調で腕のなかにいる少女を睨むと、少年が頬を膨らませる。
シャッド・リーンの腕のなかでミリア・リーンの頬が真っ赤に染まった。いや、耳元までほんのりと赤みが差している様子が星光の下でもハッキリと判る。
相手の腕から逃れようともがいてみるが、しっかりと抱きしめられていてどうやっても逃げられない。
「な、何よ。そんな恥ずかしいこと言わせないでよ!」
上擦った少女の声に可笑しそうに笑い声を上げると、少年はいよいよ腕に力を込めて少女を抱きしめると、彼女の耳元に唇を寄せた。
首を振って抗う少女の耳たぶをそっとついばみ、相手の耳元がさらに赤く染まる様子を楽しそうに見つめている。
「くすぐったいってば。やめてよ、シャッド!」
「やめな~い」
「ばかシャッド!」
「愛してるって言って!」
「いやったらいや! あぁん、もぅ! 本当にくすぐったいんだってば!」
ジタバタと足を蹴り上げて抵抗しているが、それはあまり効果をあげていないようだ。そらした少女の横顔は火照りに首筋も耳元も赤く染め上がり、後れ毛が扇情的に張りついている。
「言ってよ、ミリア。でないと本当にやめないよ?」
弱々しい抵抗を続けるミリア・リーンの腕を押さえつけてシャッド・リーンは耳元で囁き続けた。何度も耳たぶを甘噛みし、その度に喉の奥で笑う。
だが少女は頑として相手の求めには応じようとしない。
むずがゆさがその身体の表層を這い回っているだろうに、少女が小刻みな痙攣をくり返し、唇を噛みしめたまま顔を背け続ける。
「ミリアの意地っ張り」
根負けしたのか、少年が身体を放してため息をついた。さも名残惜しそうに指先だけで少女の頬から顎の輪郭をなぞる。
闇のなかに白く浮かんだ少女の胸元が忙しない息遣いで大きく上下していた。夜着の上にマント状の上着を羽織っているだけで、その上着の下からは夜着に包まれた女らしい円みを帯びてきた胸やなだらかな腹部が覗いている。
解放された安堵に大きなため息をつく少女に艶を含んだ視線を送りながら、少年が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いいさ。次は絶対に言わせてやるから」
シャッド・リーンの宣誓にミリア・リーンが恨めしそうな視線を投げかける。その懇願の雰囲気を無視すると、少年は自分の手元にあった少女の左手をそっと持ち上げてそれを優しく両手で包み込んだ。
「それとも……ミリアが言えない分だけ俺が何千回も聞かせてやろうか?」
寝転がったまま少年の豪奢な巻き毛を見上げていた少女が気怠げに身体を起こした。ようやく息も落ち着いてきたのだろう。
「シャッドの意地悪!」
口を尖らせるミリア・リーンに華やかな笑みを向けたあと、少年は少女の左手を持ち上げてそっとその指元に口づけを落とした。
「愛してるよ、ミリア」
真摯な声に酔いながら、ミリア・リーンは瞳を閉じてシャッド・リーンに寄りかかる。
「私もよ……」
いつか自分も答えを返そう。相手が言葉に込めている以上の想いを織り込んだ言葉を。でも今は駄目だ。今はまだそれを紡げるほど自分は成長していない。
それでも、それは近い将来やってくる。そう……例えばもうすぐやってくる少年の成年の儀が執り行われる頃には。
自分の自慢の栗毛を優しく梳る少年を見上げると、相変わらず鮮やかな色をした蒼い瞳がじっとこちらを見つめている。
「愛してる……」
視線が絡まるごとに繰り返される少年の言葉に身を任せてミリア・リーンは口元に微かな笑みを浮かべた。
その言葉を伝えたなら、きっと彼は驚くだろう。
少年の蒼海の瞳がどんな風に見開かれるだろうかと想像しながら、少女は満足げな吐息をついた。
もうすぐ伝えられる。そう、もうすぐ……。本当にあとほんの僅かな時の果てに。
終わり
星が降ってきそうな夜だ。月のない初冬の夜はいつもそう。凍りついた星たちはチリチリと鈴のように鳴り響く。
白く凍る息が鼻先をくすぐり、微かな温みを伝える間もなく空気の塵と消える。
「ミリア……!」
少々腹を立てたような男の声が背後から響き、女の星空鑑賞は中断した。
「この寒空に何をしてるんだ! 早くこちらへ!」
振り返って見れば、海色の瞳が自分を睨んでいる。だが口調の響きの厳しさほどに男の表情に怒りは浮かんでいなかった。
背の高い男だ。豪勢な宝冠を思わせる金髪の巻き毛が白い顔を縁取り肩先から乱れ落ちる様は、男が慌ててここへ駆けつけたであろうことを予想させた。
ふと視線をずらして男の後ろを伺うと、七~八歳の少年の不安げな表情にぶつかる。
「ウラート……。お前が言いつけたのね?」
ため息をつきながら男の元へ歩み寄ると、女は首を傾げて少年を軽く睨んだ。少年が顔を強張らせ視線を伏せる。
「ミリア・リーン。ウラートを責めるんじゃない。この寒さの中、外気に当たっているそなたのほうがどうかしてるんだ」
男の口調にやり切れない怒りを感じて、ミリア・リーンは男の青ざめた顔を凝視した。真冬ならばともかく、初冬の寒さ程度でこれほど狼狽されるとは思いもしなかった。
「ごめんなさい……。星があんまり綺麗だから……」
大人しく詫びながら、ミリア・リーンは少年に微笑みかけた。頬にかかる自分の栗毛の髪を掻き上げる仕草はどこか気怠げだ。
「どちらに謝っているつもりなのだ、まったく……!」
忌々しそうに男は舌打ちすると、何の前触れもなく女を抱き上げ、軽々と室内の寝椅子へと運んだ。それを背後から、少年があたふたと追ってくる。
「ウラート、もっと火をおこせ! 部屋の中まで冷え込んでる。まったく、なんてことをしてるんだ、ミリア。少しはまわりの者に心配させないようにしてくれ。そなたは余の寿命を縮めて嬉しいか!?」
自分の羽織っていた毛皮を女の肩に羽織らせ、男がガミガミと説教を始める。
それをしおらしく聞いていたミリア・リーンが小さな笑い声をあげた。突然の相手の反応に思わず男の声が途絶え、暖炉に薪をくべて火掻き棒で掻き回していた少年がビックリしたように眼を見開いて振り返った。
「な……何が可笑しいんだ。笑い事ではないぞ!」
憤慨した表情の男の肩に頬を預けてミリア・リーンはひとしきり小さな笑い声をあげ、それが収まると呆気にとられている少年を差し招いた。仰々しく自分の足下に畏まる少年の態度に苦笑する。
「ウラート。給仕室に金芳果酒があるはずよ。持ってきてくれる?」
小走りに走り去る少年を見送ったあと、ミリア・リーンが男の顔を振り仰ぐと、複雑な表情をした男が何か言いたげに口を開きかかっているところだった。それを唇にそっと指を当てて押しとどめる。
「シャッド・リーン……。つき合ってよ。あなたも久しぶりでしょ? 金芳果酒は」
楽しげに微笑む女の顔は美しいが、どこか疲れを漂わせていた。しかし決して「疲れた」だとか「気分が悪い」とか、弱音を吐かないその横顔に、強く反対もできず、シャッド・リーンはふてくされたように頬を膨らませた。
「わがままな奴だな……」
「あら、あなたには負けるわ、シャッド。私に結婚を申し込んだときの言葉を忘れたわけじゃないでしょうね?」
ニヤリと悪戯っぽい笑みを返してきたミリア・リーンの顔に浮かんだ一瞬の生気が、彼女の表情を眩く輝かせる。
それを眼を細めて見つめ、シャッド・リーンはそっとその肩を抱きしめた。元から華奢な質の身体が最近はいっそう細くなった気がする。
内心で思っていても、それを口に出しては言えない。しかしそれを見透かしたようにミリア・リーンが問いかけてくる。
「私、しばらく見ないうちに痩せたでしょ? ……夏の間、あまり食欲が出なかったし」
「なんだ、余がいなかったから寂しかったのだろう?」
ミリア・リーンの囁く声をうち消すように、シャッド・リーンはおどけた声をあげてみせた。
それに応えるように相手があげる笑い声が自分のよく知る明るいものであることにホッとして、シャッド・リーンは再び妻の肩を抱いた。
凍てつくこの王国を守るために、冬以外の季節を戦場で過ごすシャッド・リーンには、国元で自分の帰りを待つ妻の様子など知りようもない。
時折、戦地に届く妻からの手紙と、留守を預かる内務大臣からの報告書だけが彼が妻の様子を知る唯一の手がかりと言っていい。
「シャッド・リーン、疲れたんじゃないの? リーニスから帰ってくるなり、大臣たちに捕まって政務室に押し込められていたんでしょ? 毎年のこととはいえ、この時期のあなたの忙しさは尋常じゃないわ」
「もう十日以上、溜まった書類の決済に追われてるよ。……寝る間もないくらいだ。いい加減に休みをもらうぞ。余の身体が保たないからな」
深いため息とともに首を振りながら、シャッド・リーンはうんざりしたように妻の問いに答えた。毎年、夏の間に溜まっていた書類が戦地から帰ってくる彼を待ち受けているのには馴れたが、その量は半端ではない。
緊急を要するような書類は代理人である内務大臣が処理していたり、戦地までわざわざ役人が飛んできて決済を仰いだりしているが、それ以外の煩雑なだけで重要性の薄いものはどんどん後回しにされて、王の帰りを待ちわびている状態なのだ。
冬の始めの彼は戦地での疲れを癒す間もなく書類たちと格闘している。
戦地で敵と睨みあっているほうが数百倍ましだ、と愚痴をこぼすシャッド・リーンをミリア・リーンは慰めるように微笑んだ。夫の負担を軽くすることも叶わず、慰めることしかできない自分がもどかしくもある。
「そういえば、食事もまともに摂っていない気がする……」
シャッド・リーンは部屋のなかを見回し、小卓の上に果物をふんだんに盛った籠と茶器を見つけた。
「ミリア・リーン。あの籠の中の物をもらうぞ?」
シャッド・リーンは妻が返答する前に立ち上がって、小卓へと近寄る。
籠の中にはレモンやリンゴ、ライムなどが見栄えよく盛られていた。その果物の中からアロムと呼ばれている薄紫色の握り拳大の実を取り出す。柔らかい産毛に覆われた薄皮を指で摘んで剥いていくと、中からは淡いクリーム色をした果肉が覗く。爽やかな甘い香りがふわりと辺りに漂った。
つやつやと果汁を浮かべた実にかじりつき、シャッド・リーンは籠を脇に抱えると妻の元へと戻ってきた。あまり行儀のいい姿とは言えまい。
あっという間にアロムを平らげたシャッド・リーンが指についた果汁を舌で舐め取っている。庶民ならばともかく、王侯貴族にしてはぞんざいな仕草だった。
「相変わらずお行儀の悪いこと。どうしてナイフやフォークを使わないのかしらね、あなたって人は」
呆れたようにミリア・リーンが呟き、夫の腕から果物籠を取り上げた。
寝椅子の脇に据えられているワゴンに籠を置くと、なかからリンゴとナイフを取り出し、器用に手の上で四等分する。芯の部分に切り込みをいれ、丁寧にそれを切り離すと皮を剥こうと実をクルリと裏返した。
「待った! 皮つきのほうがいい」
妻が切り分けたリンゴの切れ端を素早く横からさらって、シャッド・リーンは口に放り込んだ。
「もう!」
頬を膨らますミリア・リーンに悪戯っぽい笑みを向けると、シャッド・リーンは他の切れ端もねだって手を差し出した。夜も更けてきて、物を食べるには遅い時間だということはまったく考えていないらしい。
乾いた軽い足音が響き、少年が腕に壺を抱えて入ってきた。二人の様子に躊躇いを見せたが、すぐにワゴンに近づき酒杯の準備を始める。
「ありがとう、ウラート。……どう? お前も飲んでみる?」
健気に二人分の銀杯を磨き、陶磁器の壺を傾げて酒を注ぎ分けていた少年の手元がパタリと止まった。当惑した様子で二人の顔を交互に見比べ、その不躾さに気づくと顔を赤らめて下を向く。
「あの……陛下。僕はお酒はまだ……」
恐る恐るといった感じでミリア・リーンを見上げる少年の瞳には確かに好奇心の色があったが、自分から杯を差し出すような度胸もなく、どう答えればいいのか図りかねている様子だ。
クスクスと喉で笑い、女が少年を自分の側へと差し招いた。おずおずと近づいて跪く少年の前髪をそっと掻き上げ、その夜明け色をした幼い瞳を楽しそうに覗き込む。
「違うわ、ウラート。“陛下”ではないでしょう?」
耳まで赤く染めて口ごもった少年が、助けを求めるように傍らの男へと視線を向けた。
そして男が小さく頷くのを確認すると、いっそう顔を赤らめながら女の白い顔を見上げる。栗毛に縁取られた女の白い顔が、夜の薄闇に月のように浮かんで見えた。
「“母上”。僕はまだ……酒杯を頂ける歳ではありません」
少年の緊張した顔を満足げに眺め、ミリア・リーンは静かに頷いた。
「そうだったわね……。秋にようやく八つになったばかりだったわ。ウラートは大人びて見えるから、つい忘れていたわ。私としたことが、うっかりしていたこと。
そうね、私もこのお酒を初めて口にしたのは十を少し過ぎた頃だったわ。お前がその年齢になるのでさえ、あと二年待たないと駄目なのね……」
ウラートが驚いて眼を瞬かせる。
酒を嗜むことを公式に許されるのは、成人する十三の年齢以降だ。こっそりと盗み飲みするというのであれば、気の早い少年たちがその一~二年ほど前から悪戯心で口にすることはある。
だが十やそこらの少女がこの“金芳果酒”を口にするとなると話は別だった。蜜酒のなかでもアルコール度数が高めのものに金芳果を漬け込んで香りづけをしたこの酒は、子どもが初めて飲むには少しばかり強い酒だ。
寒冷なこの地方での飲酒は成人した者には日常的なものだ。
しかしさすがに幼い子どもたちに強い酒を飲ませるわけにもいかず、寒い時期の就寝前に子どもが飲むものといったら大抵は蜂蜜を湯で割った蜜湯だとか、穀造酒を作る課程で出る酒粕を利用した粕湯だとかの甘い飲み物が一般的だった。
ミリア・リーンの隣で二人の様子を見守っていた男が低い笑い声をたて、悪戯っぽく少年にウィンクを送る。
「正式にはあと五年も先だな。まぁ、興味が出てくる年頃ではあるだろうが……。ウラート、小卓の上にある水差しとカップを取ってこい。何倍にも薄めて飲めばいいだろう。今夜は冷え込みそうだ。身体を暖めるには、酒は丁度良い」
呆気にとられて男の言葉を聞いていた少年が飛び上がるようにして暖炉の傍らに置かれた小さなテーブルへと飛んでいった。だが、いざ水差しとカップを取ると、はたと立ち止まっておっかなびっくり振り返る。本当にこの歳で酒杯など受け取っていいものかと、困惑した表情が自分を見守る二人へと問いかけていた。
「早く水差しを持っていらっしゃい、ウラート」
楽しそうに震えている女の声に少年が意を決して水差しとカップを抱え戻ってきた。ワゴンの上に置かれた銀杯の横に陶製のカップを並べると、再び問いかけるように男に視線を送った。
無言のまま男がワゴンの脇へと歩み寄り、酒壺を取り上げ、少年の用意したカップに黄金色の液体を流し入れる。辛うじて底が隠れる程度の少量が注がれると、今度は水差しを持ち上げて七分目まで水を満たす。
「リュ・リーンには内証だぞ、ウラート。あれの年頃だとお前のやることをなんでもやりたがるからな」
秘密の話を打ち明けるようにシャッド・リーンがひそひそとウラートに耳打ちした。それに頷いて答えながらも、ウラートの視線は目の前のカップの中身に注がれていた。
「ここへおいでなさい、ウラート」
ミリア・リーンの声に少年が顔を上げた。彼女の指し示したところは、柔らかな寝椅子の上だ。戸惑いながらもそこに腰を落ち着けた少年にシャッド・リーンがカップを手渡す。同じようにミリア・リーンにも銀杯が手渡される。王妃が銀杯を掲げ、少年に分かり易いように酒杯の掲げ方を示して見せた。
少年が真似をして陶製の酒杯を掲げると、待ちかまえていたように頭上から声があがった。
「我が息子の親友が踏み出す大人への一歩に、乾杯」
男の低い声に続いて女の柔らかな声が同じように唱和した。
それぞれが酒杯を干して、お互いに秘密の約束を交わすように小さな笑い声をあげると、三人はふと何かに呼ばれたように暖炉の炎に魅入った。炎が踊る様は、まるで三人の様子を眺めて笑っているようだった。
寝椅子の上で眠りこける少年の背にショールを掛けながら、ミリア・リーンは小さな笑みをこぼした。
「まだお酒は無理だったかしらね……。すっかり酔っぱらって眠ってしまったわ」
すやすやと寝息をたてている少年の寝顔を見つめ、シャッド・リーンが低い笑い声を漏らした。悪戯っぽい印象を与えるその笑顔が大きな体躯とは反対に子供じみて見えた。
「あれだけ薄めれば大丈夫かと思ったが。まぁ、睡眠薬代わりにはなっただろうがな。子どもが起きているには少々遅い時刻だ、どれ、部屋に連れていこうか」
「いえ、いいわ。今日はリュ・リーンと一緒に寝かせるから。この子の寝起きしている部屋には、他の小姓たちもいるわ。起こしてしまっては可哀想でしょう。……リュ・リーンのベッドなら子どもが二人寝ても十分な広さがあるでしょうしね」
「じゃ、連れていくことにしようか……。ここにずっといたのでは風邪をひくからな」
寝椅子から立ち上がると、シャッド・リーンは軽々と少年を抱き上げて部屋の奥へと向かった。
向かった先には美麗な彫刻を施した扉が見える。他の落ち着いた内装とは雰囲気が違う。どこか幼さを感じるその装飾の扉を開けると、シャッド・リーンは背をかがめて向こう側の空間へと消えた。
戻ってきたシャッド・リーンの眼に暖炉の炎に魅入る妻の横顔が映った。
以前よりも妻は痩せたようだ。頬が痩けたとか身体が骨張ってきたとか、そういう一目でわかる変化ではなく、全体の作りが一回り小さくなったような感じの痩せ方だった。
「ミリア・リーン。そなたも眠ったほうがいい。今日はもう遅い……から……」
シャッド・リーンの声にミリア・リーンは振り返った。穏やかだが寂しげな視線にシャッド・リーンは言葉が詰まり、その場に立ち尽くしてしまう。彼女はこんな寂しい瞳をする女だったろうか?
「そう追い立てないでよ。半年ぶりに戦地から帰ってきたと思ったら、お説教? 私はそんなにお荷物かしら?」
ミリア・リーンの囁き声に胸を突かれ、シャッド・リーンは思わず視線をずらした。
そんなつもりはなかった。だが妻を病人扱いし過ぎて、傷つけてしまったことだけは確かだ。
いや実際に病人なのだ。胸を患っているミリア・リーンを本来トゥナの王宮に留めておくのすら、臣下の者たちを宥めすしてようやく了承させている状態なのだから。
「ミリア……」
「……そんな泣きそうな顔をしないで。まるでこちらが虐めているみたいじゃないの。ちっとも治らないのね、あなたの泣き虫なところは」
ため息とつくとミリア・リーンは寝椅子に深く身を埋めた。どこか遠くを見つめるように空を彷徨っていたミリア・リーンの視線が再びシャッド・リーンへと向けられた。
「わかったわよ。わがままは言わないわ。大人しく寝るから、寝室へ連れていってよ」
ミリア・リーンの差し出した手を取り、彼女を抱き上げようとしたシャッド・リーンの動きが止まった。
「シャッド……?」
次の瞬間、ミリア・リーンは息ができないほど強く抱きしめられていた。
自分よりも遙かに大柄な相手に抱きしめられているというのに、それは小さな子どもがしがみついているような感じがする。
「オレを置いていくな、ミリア……!」
震える囁き声にミリア・リーンはしばし瞑目した。
胸の病はいっこうに快方に向かわない。それどころかどんどん自分から命を削り取っている。確実に忍び寄ってくる死の影に怯えているのは、自分のほうだと思っていたのに……。
「ねぇ、シャッド……。初めて金芳果酒を飲んだときのこと、覚えてる?」
どこか夢見るようなミリア・リーンの声にシャッド・リーンは彼女を縛めていた腕を弛め、突然に何を話し出したのかと相手をじっと見つめた。
「お互い十歳になって、聖地へ留学していて……。私が散々意地悪してるのに、あなたったら懲りもせずに私に結婚を申し込んだわ。断っても断ってもつきまとって……。
挙げ句に聖地で作らせた竪琴と居候先のレーネドゥア家の台所からくすねてきた金芳果酒を持ち出して、私の寄宿先に押しかけて来たと思ったら『結婚してくれなきゃ、この場で死んでやる!』って……」
クスクスと笑い声をたてて自分の肩に寄りかかる妻を抱き留めたまま、シャッド・リーンも思い出していた。
もう二十年近くも前の話だ。日常に埋没して、改めて思い起こさなければ浮かんでこない記憶……。
「あなたが死んだら、私の母は諸手をあげて喜ぶし、あなたの母親は悔しがるだろうに。お互いが王位継承権を巡って争っていることも忘れているんだから……。本当に、あなたったらどうしようもないバカだわ。私が断ったら本気で死ぬつもりだったわけ?」
何も答えることができず、シャッド・リーンは妻の言葉に耳を傾け続けた。ミリア・リーンのほうも夫の返事を期待していたわけでもなさそうで、再び話を続ける。
「私が根負けして承諾した途端、持ってきた竪琴を結納の品物だって押しつけて……。誓約の杯を交わすって金芳果酒を飲ませるんですもの」
「だって……。他の奴に横取りされたくなかったし……」
自分の声がひどく子どもっぽく聞こえて、シャッド・リーンは狼狽した。
「横取り……? 十歳の子どもだったのよ? 誰がそんなことするのよ」
「だって……! ミリアには従兄弟だっていたし、オレより一ヶ月年上だから先に成年になるし! 口約束だけじゃ、大人たちは取り合おうとはしないだろし! 異母弟のオレじゃ圧倒的に不利だと思ったんだ」
ムキになって反論しながらも、シャッド・リーンは自分が子どものように駄々をこねているような錯覚に狼狽し続けていた。
「おチビで泣き虫で淋しがりやのシャッド・リーン……。置いていきやしないわよ」
「うるさい。オレはもうチビじゃない……。嘘つきミリア」
泣きそうな顔を見られまいと、シャッド・リーンは妻の身体を抱きしめた。
「心配で置いていかれやしないわ。あなたもリュ・リーンも、泣き虫で甘えん坊で、淋しがりやで……」
「オレは小さな子どもと一緒か……?」
苦笑しながら自分を見上げる妻の白い顔がゆらりと歪み、膜が張ったようにぼやけた。慌てて顔を背けたシャッド・リーンの頬をミリア・リーンの両手が包んだ。夜気に少し冷たくなった指先がどこか頼りなく感じる。
「シャッド・リーン。泣かないで。あなた強い王になるって約束したでしょう?これからも私や私の六人の子どもたちを守ってくれるんでしょう?」
言葉もなく肯き返す夫の涙に歪んだ顔を見つめて、ミリア・リーンは微笑んだ。
「私はいつだって、“ここ”にいるわ」
そう言うと、ミリア・リーンは夫の胸元を指先で叩いた。まるで竪琴を奏でるときのように、優雅にリズミカルに。
「ずっとあなたの側にいるって、約束したでしょう?」
自分の胸に身を委ねる妻の声を耳の奥に刻みつけながら、シャッド・リーンは涙を拭った。
約束は守られるためにある。自分は妻に強くなることを約束した。妻が生涯自分の側にいることを約束したように。他の誰でもない、自分が生涯ただ一人と誓った女に約束したのだ。
「約束だ……。オレの側にずっといてくれ」
胸に抱きしめた妻が静かに肯く気配を察して、シャッド・リーンは腕に力を込める。記憶の彼方にある約束を再び繰り返し、王は妻の柔らかな髪に頬ずりした。
冷たくなってきた夜気の中に立ち尽くし星を見上げる。鋭い光を放つ流れ星が一瞬黒い夜空を照らし、すぐに闇に溶け込んだ。
星だけが輝く空は黒絹を拡げた布のようで、何もかもを覆い尽くしてしまうようだった。
扉を叩く密かな音に、ふと我に返った。
「入れ……」
外気で冷えた喉から出た声は厭にしわがれて虚ろな音となって聞こえた。
扉から滑り込んできた者を確認して、シャッド・リーンは穏やかな笑みを浮かべる。
「ウラート。……リュ・リーンの様子はどうだ?」
「ご機嫌麗しゅうございますよ。……最近では、すっかり大人しくなってしまって。あのやんちゃだったリュ・リーンが嘘のようです。家具職人が嘆いているかもしれませんよ。今までは月に一度は家具の修理やら何やらをしていたのに、この一年ほどは、リュ・リーンの名前での注文がまったくないのですからね」
肩をすくめて答えながら、若者は手に捧げ持っていた酒壺と銀杯を暖炉脇のテーブルへと運んだ。茶髪が暖炉の明かりに照らされて一瞬金色に輝く。
振り向いた青年の面差しに昔日の幼さはなく、聡明な視線が穏やかにシャッド・リーンを見返していた。
「リュ・リーンの奴ももうすぐ十八だ。カデュ・ルーン姫との婚礼も間近い。いい加減に落ち着く年頃だろう」
青年が手慣れた様子で銀杯を磨き、酒をなみなみと注ぐ様子を見守りながらシャッド・リーンは暖炉の側まで椅子を引きずっていき、どっかりとそれに腰を下ろした。凍え始めていた身体に、暖炉からの温みが心地よい。
「……今日の酒はなんだ? いつもの穀造酒か?」
黙々と作業をしていた青年の手が一瞬だけ止まり、酒を注ぐ作業を再開させながら、低い声で返事をする。
「……いえ。今日は金芳果酒です」
青年の返答にシャッド・リーンは眼を見開き、問いかけのために口を開きかかった。だが思い直したように口を閉ざし、眼を閉じて物思いに耽る。
「どうぞ、シャッド・リーン陛下」
優雅だが無造作に酒杯を差し出す青年の態度にシャッド・リーンは苦笑した。
ふと見れば、すでにウラートの片手には銀杯が握られている。再び目の前の酒杯に視線を落とす。杯のなかに満ちる金色の液体からは金芳果特有の甘ったるい香りが立ちのぼっていた。
それを受け取り、シャッド・リーンは酒の香りを愉しむように静かに銀杯を揺らした。
ふと思い出したようにシャッド・リーンは青年を見上げた。藍色の静かな瞳が自分を見下ろしている。
かつてのウラートなら大袈裟なくらいに畏まっていただろうに、今は太々しいほど堂々と自分の目の前に立つようになった。あの日からどれくらいの時が経ったのだろうか? 過ぎた年月を数える。
……十三年だ。まだつい昨日のことのように覚えているというのに。
十三年という年月を思い、シャッド・リーンは不思議な感慨を覚えた。自分の髪にも白いものが混じるようになった。
確実に積み重ねられていく齢がどこか信じられないような気もする。
奴隷商からこの青年を買い取ってからだと十六年の月日が流れている。時の流れの速さを痛感しながら、シャッド・リーンは青年の掲げる銀杯と己の持つ杯とを打ち合わせて、微笑みを交わした。
「麗しき我が王妃陛下に献じて……」
十六年という年月の間に、甲高い子どもの声から低い大人の声に変わったウラートの声を頼もしげに聞きながら、シャッド・リーンは銀杯を傾ける。
金芳果酒は舌に甘みを残して胃の腑へと落ちていった。じわりと身体の中心に熱が拡がる。
酒特有の感触に浸り、シャッド・リーンは座っていた椅子に深く身を預けた。
「忙しくなるな……、ウラート。お前の守り役としての務めもまだしばらくは続くかもしれん」
傍らに佇む青年があげる小さな笑い声に耳を傾けながら、シャッド・リーンは炎を見つめた。あの日、妻がじっと魅入っていたように、穏やかに、静かに……。
「御意のままに……。私はそのためにここにいます」
明朗な若者の声にそっと頷くと、トゥナ王は掌中で揺らし続けていた酒杯をあおった。
喉を流れ落ちていく酒がいやに熱く感じる。その熱が胸一杯に拡がって王の身体から冷気を追い払う。
「あまり飲み過ぎないでくださいね、陛下。宿酔いなんかになったら、それこそリュ・リーンに噛みつかれますよ」
自分の酒杯を片づけようと小卓に寄ったウラートの背に王の低い声が届いた。
「ウラート。銀杯はそのままにしておけ……。明日の朝にでも片づければいい」
どこか気怠げな響きのあるその声にウラートはチラリと肩越しに振り返った。だが王の言葉に返事を返すことはない。
小卓から離れ、暖炉に薪をくべて炎をやや強めると、ウラートは改めて王に向き直る。
王は先ほどと同じ姿勢で瞳を閉じていた。その横顔には、癒しようのない孤独がにじんでいる。
どこか遠くに思いを馳せている様子の王の瞑想を邪魔せぬよう、ウラートは軽く一礼すると足音も静かに居室から退出していった。
室内に響く音は薪のはぜる微かな音だけだ。
ふと眼を開けたシャッド・リーンが立ち上がると小卓に歩み寄った。
酒壺を取り上げ、自分の酒杯と空いている銀杯に金芳果酒を満たす。琥珀色とも黄金色ともとれる液体がゆらゆらとその表面に波紋を広げた。
二つの銀杯を取り上げたシャッド・リーンは、ゆっくりとした足取りでテラスへと向かった。
先ほど閉ざした扉を開け、突き刺す夜気のなかに足を踏み込む。さして広くもないテラスの手すりにもたれかかり、再び星を見上げた。
冴え冴えと光り輝く銀の星たちは、無言のまま王を見下ろしていた。
手にした銀杯の一つを高々と頭上に掲げる。宵闇に白く銀杯が浮かんだように見える。
「ミリア……。乾杯しよう」
暗い天空を見上げるシャッド・リーンに応えるように、流れ星が一つ糸を引くように長く流れた。
「偉大な王がもうすぐ誕生するぞ……。そなたの息子を誇るがいい」
再び星が流れた。今度は連なるように二つ。
「そなたにも息子の嫁を見せたかったよ……。銀の髪に若葉色の瞳の……まるで白いカリアスネの花のような娘だ。お前も気に入ったろう」
腕が疲れたのか、シャッド・リーンは掲げていた酒杯を下ろしてテラスの手すりに据えた。
眼下に移した視線が遠くに見える大河の白い姿を捉える。峡谷の岩肌を削って流れゆく河の水音が時折耳に届いた。
誰に問いかけるともなしに、王はテラスにもたれかかり囁いた。
「そちらは楽しいのか? ここに戻ってくることを忘れるほど……。余は退屈で仕方がないぞ、ミリア・リーン。余の元に戻ってこい。神が怒ろうと余が許す……。だから、戻ってこい……」
冷たい夜風がざわりと王のまわりで蠢いた。滔々と流れる河はまだ凍てついてはない。もうしばらく季節が進めば、冬の凍気に表面を凍らせ、氷の彫刻芸術を披露するだろう。
そんな時期だった。妻が亡くなったのは……。
月も凍るほどの冷たく厳しい冬の夜。幼い息子の誕生日の明くる日だ。突然に喀血し、泣いてすり寄る息子の頭を撫でながら、眠るように逝ってしまった。
夫になんの断りも無しに、呆気ないほど簡単に旅立って、ついに戻ってはこなかったのだ。
「なぜ置いていくんだ。……余が泣き虫で淋しがりやだと知っているだろう? 戻ってこい。早く……」
片手に包み込んだままの自分の酒杯を軽く揺らし、シャッド・リーンは酒をあおった。しかし甘いはずの酒の味はいっこうに舌に拡がらず、むしろどこか苦みすら感じる。
ミリア・リーンが死んでしまったら、自分も生きていないのではないかと思っていた。
それなのに自分は妻の死に顔を見ても、葬儀の間も、一滴も涙をこぼさなかった。まるでいつも政務を片づけていくように淡々と事を終わらせ、いつもの日常を取り戻していた。自分は冷酷な人間だったのだろうか?
「余がそなたのために涙を流さなかったから怒っているのか……?」
再び星空を見上げてシャッド・リーンは小さな吐息を吐いた。長い永い夢を見ているような気がした。
妻の肌の温もりや心地よい声音を近くに感じるのに、届かないもどかしさにシャッド・リーンは苛立ち顔を歪める。行き場のない想いだけがあちらこちらに彷徨って宙ぶらりんのままだ。
「いつか……。いつの日にか、そなたの元へ旅立つときがきたら。そなたが見ることが叶わなかったことを話してやろう。それまでの、しばしの離別だ。そうだろう? ……ずっと側にいると約束したのは、そなたのほうではないか?」
見上げていた空からふと振り返ると、部屋の奥で炎がゆらゆらとこちらに手を振っていた。子どもに手招きする女のように、母を呼んで手を差し伸ばす幼子のように。
誘うように揺れ動く金色の炎が手の中にある金芳果酒の揺らめきに重なり、さらに笑いさざめく少年と少女の姿と重なった。
その金色の巻き毛を揺らす少年と流れるような栗毛をなびかせる少女の微笑みに、シャッド・リーンは微かに口元を歪めて笑みを返したように見えた。
王は手すりの上に置かれたままの酒杯を再び天空へと掲げると、儀式めいた仕草で眼下に流れる大河へとその中身を振りまく。
宵闇に散っていった黄金色の液体はすぐさま霧のように大気に溶けていった。
自分の手の中に残っていた酒杯のなかの酒を一気に飲み干すと、シャッド・リーンはきびすを返して室内へと歩み入った。
厳しく引き締められた口元に先ほどの歪んだ笑みはなかった。
外気を遮断しようと扉を閉じかかったシャッド・リーンの視界に再び流星が見えた。呆気なく消え去るその光の筋に一瞬だけ見とれ、王は思い出したように扉を閉めた。
暖かな部屋に迎え入れられ、シャッド・リーンは安堵したようにため息をつく。
空になった二つの銀杯を小卓の上に戻し、暖炉の側の椅子へと再び腰を下ろして、飽くことなく炎を見つめた。
時折燃え崩れる薪の音に耳を傾ける王の横顔には、穏やかな寂寥感が浮かんでいた。
終わり
大陸ゴッシア北西部地域、氷の王国トゥナとその懐に抱かれし聖地。これは氷原と神々の時空を舞台に繰り広げられる物語である。
大地が凍りつく音。吹きすさぶ風。神々の呟き。そして、肩叩き、笑いさんざめく温もり。多くの苦い想いとささやかな幸福。光と影の伝説に彩られた世界を伝えよう。
第08章:愛しき者
「不甲斐ないなぁ~」
残念そうに何度も同じことを繰り返す父親をリュ・リーンは睨みつけた。まだ昨日知った父親たちの仕打ちを許したわけではない。
「どうして無理にでも扉をこじ開けなかったんだぁ~? ミリア・リーンの竪琴だけ置いてくるなんてなぁ」
嘆息する父を無視するとリュ・リーンは略装の軍服の上にマントを羽織った。黒づくめの衣装の色のなかにマントに縫い取られた金糸の王家の紋章だけが鈍く光る。
「リュ・リーン~。次の冬まで彼女が待っていてくれるとでも思っているのかぁ?」
「う、うるさいな! ……親父には関係ない!」
壁に掛けておいた自分の大剣の刃を確認するとリュ・リーンは乱暴にそれを担いだ。多くの敵の血を吸った剣は主の背で所在なげに揺れている。
結局昨日、リュ・リーンはカデュ・ルーンと会うことができなかった。
慌ただしく支度を済ませながら、リュ・リーンは窓の外に視線を走らせた。早朝の靄が花園を覆って、リュ・リーンの視界からその姿を隠していた。
父親にばれないようにため息をつくと、リュ・リーンは自室を出て愛馬の待つ広場へと向かった。
「殿下!」
見送りに出てきた従者たちが緊張の面持ちで、馬に跨る主を見つめる。苦戦が予想される戦いに旅立つ若い主人の無事を祈って従者たちが次々に祈りの印を切る。
「殿下……! お供をさせてください」
リュ・リーンよりも若そうな従者が泣きそうな表情で主を見上げる。
「まだ言っているのか。お前たちはここに残って王を補佐しろと言っておいたはずだ」
「ですが! ウラート殿は殿下と一緒に……」
先に軍に合流しているウラートを呼び返している時間の余裕がないだけだ。リュ・リーンはジロリと従者を睨む。同じ問答を繰り返している暇はない。
「親父!」
建物の入り口でリュ・リーンたちの様子をうかがっていた父親に呼びかける。
「なんだ~?」
いつも通りの間延びした返事が返ってくる。
「俺の侍従たちを虐めるんじゃないぞ! ……こいつらを虐めてもいいのは、俺だけだからな!」
わかった、わかった、と手を振って答える父親をもう一度睨んだ後、リュ・リーンは湖へと通じる城門を振り返った。ここから湖沿いに南下して行けば、ウラートが率いているトゥナ軍に落ち合えるはずだ。
「ハイヤッ!」
リュ・リーンは愛馬に鞭を当てると、別れの言葉も告げずに駈けだした。
「殿下~!」
「ご武運を!リュ・リーン様!」
従者たちの声を背中で聞きながらリュ・リーンは城門を飛び出すと、眩しい光を放つ湖を横目に聖地を後にした。
カデュ・ルーンとの仲は元に戻らず仕舞いだった。
父親の言うとおり次の冬までカデュ・ルーンが待っていてくれる希望は薄い。
自分を傷つけた男のことなど、次の冬がくるまでに忘れてしまったほうが彼女のためなのかもしれない。
自嘲を含んだ嗤いを口の端に浮かべると、リュ・リーンは何かから逃げるように鞭を振るって馬の速度を上げる。
瞬く間に聖地の王城は小さくなり、遠くに霞んで見えていたトゥナの軍旗が大きくなる。
金糸の縁取りに真紅の生地、大きくはためくその生地には三日月紋と左手短剣紋が縁と同じ金糸で縫い取られている。
さらに一段低い戦旗が見えてきた。
「クソ親父ッ! やっぱり最初から俺をリーニスに寄越すつもりだったな」
馬上でリュ・リーンは毒づいた。
下段の旗には黒地に金糸で五弁紋が縫い取られている。蛇苺の紋章。見間違えようもない、トゥナ王太子リュ・リーン・ヒルムガルの紋だ。
徐々に朝靄が晴れてきた。掲げられた槍の林が朝日に鈍色に光る。馬たちの忙しない息づかいと神経質そうに蹄を地面に打ち付ける音も間近に聞こえる。
「リュ・リーン殿下!」
馬の群から一騎抜け出てくる者の姿が見えた。
「ウラート!出立だ! 角笛を吹け!」
リュ・リーンは自分に駆け寄る友の姿を認めると、声高に叫んだ。自身が休む間もなく行軍を開始させるつもりなのだ。
リュ・リーンは軍から僅かに離れた場所で馬を止めると、空気を震わせて鳴く角笛の叫びを待った。
程なく何か巨大な生き物の啼き声を連想させる、地を這う低重音が辺りにこだました。それを合図にトゥナ軍は馬蹄を踏みならして行軍を開始する。
眠りから覚めた竜のようだ。リュ・リーンは一体となって進んでいく軍隊を眺めてふと思った。だが、夢想に浸っているのも一瞬の間だった。
「総員、聖地へ捧剣!」
叫びながら、自らも重い大剣を天高く捧げ持つと、リュ・リーンは愛馬の脇腹を蹴って先頭へと駈けだした。
リュ・リーンの号令に一部の隙も見せずに兵士たちが従う。白銀の剣や槍の穂が朝日に輝く。
漆黒の愛馬を疾走させてその鋼の波の脇を走り抜けながら、リュ・リーンは暗緑の瞳を鈍色に輝く聖地の城郭に向けた。
この想いよ、届け。
聖地へと掲げる剣をいよいよ高く捧げ持つと、リュ・リーンは声無き叫びをあげた。
延々と続く原野を行軍しながら、リュ・リーンは前方に見えだした神降ろしの地を伺った。
切り立った断崖がそびえ、その黒っぽい岩肌を剥き出しにする台地は人を拒絶するようだった。
遙か太古に神が降り立ったと言われる台地は人が足を踏み入れるには畏れ多い場所だ。
今回はこの台地のすぐ脇を通り抜け、チャルカナン大山脈の北端を迂回する軍路を通ることになる。
道程は決して短くはないが、イナ洞門のようにリーニスに入ってすぐに戦闘が始まるような危険性は少ない。カヂャ軍の情報を集めながら進むのには向いている。
「リュ・リーン殿下」
先頭の一団を率いていたウラートが馬を寄せてきた。
「工兵は洞門の修理に回しましたし、王都には早馬を出して、救援物資の補充をするよう伝えてあります。最悪の場合は歩兵を補給隊に使用することになりますが?」
「構わん。歩兵を引き連れていては、身動きがとれなくなるかもしれん。今でも行軍の速度が遅いくらいだから、いっそ歩兵を補給隊に回したほうが楽だろう」
ウラートのやることにそつはない。自分の思った以上のことを先回りしてやってくれるのだから、これほど重宝な人材はいまい。
「あの……」
珍しくウラートが言いよどんだ。それに心当たりは充分ある。
アジェンの城郭が見えなくなるとすぐにリュ・リーンはウラートを呼びつけて、彼が居なかった間のアジェンでの出来事を話していた。もちろんカデュ・ルーンの力のことだけは伏せて。
格好の良い話ではなかったが、黙っていてもいずれは判ることだ。
「なんだ? 他にも何かあったか?」
それでも、自分からその話を蒸し返したくはないリュ・リーンは冷たい返事を返す。
「アジェンの姫は、本当にあなたのことを嫌いになったのですか?」
「……たぶんな」
大袈裟なくらいに大きなため息をついてみせるウラートの様子をわざと無視するとリュ・リーンは前方へと注意を向け直した。
その彼の視線の先に逆走してくる一騎の馬が見えた。
「……ウラート。あれはお前の副官じゃないか?」
リュ・リーンは巧に馬を操って自分たちに近づいてくる騎士を指し示した。ウラートもそれに気づいたようだ。
「そうです。……何かあったのでしょうか?」
瞬く間に馬を寄せる男の息が上がっている。
「殿下!」
砂煙とともにリュ・リーンの脇に馬をつけた騎士は紅潮した顔をリュ・リーンに向けた。目が動揺している。
「何かあったのか!?」
「あ、あの……。それが! ……聖地のお方が!」
しどろもどろな答えを返す男は、それ以上なんと言っていいのか判らない、といった様子で前方を指し示した。
「……? ……誰かいるのか!?」
その時、緩やかな行進を続けていた軍隊が止まった。前方からざわめきが聞こえてくる。
「ウラート! ついてこい!」
叫ぶや否やリュ・リーンは馬に鞭を当てて前方へと愛馬を疾走させていた。
誰かが行軍を止めたらしい。聖地の者だとしたら、この辺りを警備している者にでも鉢合わせたのだろう。
ここの通行許可は出ていたが、まだそれを知らない者がいてもおかしくはない。
「どうし……あぁ!?」
先頭で右往左往している騎士たちに声をかけようとしたリュ・リーンはその先に視線を向けて絶句した。
軍隊の前に立ちはだかっていたのはたった一騎の馬だった。
それくらいならこうも驚きはしない。リュ・リーンが驚いたのはその馬上にいる人物が自分のよく見知っている者だったからだ。
「ダ、ダイロン・ルーン!」
リュ・リーンの声に後から追いついてきたウラートも馬上で身を固くした。
「トゥナ軍の指揮官。前へ出られよ」
拒絶を許さない、厳しい声がダイロン・ルーンからかけられた。ざわめきとともに騎士たちが一斉にリュ・リーンを振り返る。
リュ・リーンはダイロン・ルーンの声に気圧されたように馬を降りると彼の前に歩み寄った。気遣わしげに自分を見ているウラートの視線を感じる。
「“清浄の誓い”を受けられよ」
まわりの騎士たちの動揺など無視してダイロン・ルーン、いやカストゥール候は神降ろしの地の方角を指し示した。かの地の少し手前に小高い丘が見える。
「清浄の誓い!? しかしあれは儀礼的なもので、以前から省略して……」
「今回は特別だ。聖衆王陛下の使者がお待ちだ。“神の小庭”へ上がるといい」
身の潔白を誓う儀式は昔はこの軍路を使う度に行われたものだった。
だが数代前のトゥナ王の時代からその儀式を行うことはなくなり、切り立った台地の脇を通り過ぎるときに軍の指揮官が一団を代表して台地に向かって誓いを立てるだけに止まっていた。
儀式で時間を取られることの煩雑さにリュ・リーンの顔は曇ったが、今のダイロン・ルーンは聖地の長の代理としてここに立っている。彼の言葉に逆らうことは、聖衆王に逆らうことに等しい。断れはしない。
リュ・リーンは愛馬に戻り、その鞍に背負った大剣を収めると固い表情のまま“神の小庭”と呼ばれる丘の上へ上がっていった。
「他の者には私から誓いを与える。隊長以上の騎士だけでよい。前へ出られよ」
背後からカストゥール候の声が響く。
リュ・リーンはそれに一度振り返ったが、困惑しながらも騎士たちがカストゥール候の前に跪く姿を確認すると、小さく嘆息して再び歩き始めた。
丘は人の背丈の三倍近い高さがあったが、小さなものだ。リュ・リーンは身軽にその急斜面に彫り込まれた階段を登っていく。
「なんでまた今回だけ……」
聖衆王のやることはさっぱり判らない。急階段を上りきったところで、リュ・リーンは顔を上げた。
「……!」
そしてそのまま凍りつく。そこにいる者は……。丘の中央に端然と立つ者は……。
「……カデュ・ルーン」
茫然とリュ・リーンは囁いた。一人で軍の前に立ちはだかるダイロン・ルーンを見つけたときの驚きなど比ではない。知らずに足が震える。
「こちらへ。旧き友よ」
王の娘は愛らしい声でリュ・リーンに呼びかけてくる。慈悲に満ちたその顔は、光の大神の妻“リーナ”を彷彿とさせるものだった。
言葉に引きずられてリュ・リーンは娘の傍らへと近づき、崩れるようにその前に跪いた。カデュ・ルーンの手が自分の額に触れる感触をリュ・リーンは痺れたままの身体で感じた。
聞き馴れた神話の一節がカデュ・ルーンの口元から流れる。リュ・リーンはその声にただ聴き入るばかり。
「神聖なる光が汝を照らすよう願う。汝の身が聖なる限り、よき風を送り、清かな水を運び、微睡みの地を約す。汝、ここにその身の潔白を誓い給え。永久に神への恭順を誓うならば、汝、ここにその身の清らかなるを誓い給え」
「……神よ。神よ、我を見届け給え。我が身、清浄なる限り、我の行く末を見届け給え。穢れあらば、光の炎にて我を焼き尽くし給え。神を讃えん。永久に神を讃えん」
いつの間にか目を閉じていたリュ・リーンは、自分の声を遠くに聞き、間近にあるはずの王の娘の顔を脳裏に思い描いた。
リュ・リーンの誓いの言葉が始まるとすぐにカデュ・ルーンは彼の頬を両手で包み、その白い顔を近づいてきた。
彼女の息遣いまではっきりと聞き取れる。顔にかかる娘の息が頬をくすぐる。
リュ・リーンの耳に辛うじて届くほどの細い声が流れる。
「汝を讃えん。汝は清浄なり。誓いは受け入れられた。四大精霊の名にかけて、汝の末を見届けよう……」
詠唱を続けていた娘はそこで口を閉ざした。まだ続きがあるはずだ。忘れてしまったのだろうか? リュ・リーンは痺れた頭の片隅でふとそんなことを考える。
そうこうするうちに、カデュ・ルーンは再び口を開いた。だが、出てきた言葉は詠唱している神話の一節ではなかった。
「……リュ・リーン」
娘が自分の名を呼ぶ声がリュ・リーンの耳朶の奥に稲妻のように走る。驚いてリュ・リーンは目を開けた。
判ってはいたが、間近に迫る娘の視線とぶつかってたじろぐ。両頬を包む彼女の手は熱く、今にも火を噴きそうだ。
「あなたはなんて卑怯なの。私の心を盗んでおいて、サッサと消えてしまうなんて!」
自分を見つめる娘の目から次々と涙の粒が伝い落ちていく。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは慌てて立ち上がろうとしたが、自分の頬を包むカデュ・ルーンの手がそれを邪魔する。
「わたしのことを嘘つきだと言ったり、愛していると言ったり、これ見よがしに竪琴を置いていったり……」
彼女の頬から伝い落ちた涙がリュ・リーンの頬に落ちる。
リュ・リーンは彼女の涙に狼狽えてその場にうずくまるばかりだ。
「わたしにどうしろと言うの……。非道いわ……、自分だけ納得して」
「カデュ・ルーン。泣かないでください……。どうしたら……」
嗚咽をもらす娘の泣き顔にリュ・リーンはただ見とれた。
「いやよ……。死んでは……いや。生きて、帰ってきて……。生きて……」
カデュ・ルーンは自分の体重を支えきれなくなった人形のようにリュ・リーンにもたれかかると、その首にしがみついた。
彼女の柔らかな胸に顔を半分埋めたまま、リュ・リーンはそっと彼女の背を抱いた。華奢な、肉づきの薄い背中は小刻みに震え、脈打っていた。
「カデュ・ルーン。約束します……。必ず帰ってきます。だから……。お願いですから、泣かないでください」
ようやくカデュ・ルーンの身体を引き離すとリュ・リーンは立ち上がった。
涙でぐしゃぐしゃになっている彼女の顔を拭いてやりながら、リュ・リーンはカデュ・ルーンに微笑みかけた。
「帰ってきます。必ず……」
自分の腕のなかで震える娘を愛おしそうに見つめながら、リュ・リーンは彼女の肩に落ちかかる輝く銀髪を梳る。
娘は瞳に涙を浮かべたままだったが、もう泣いてはいなかった。
「きっと帰ってきてください。約束です」
「はい……」
リュ・リーンは娘に判るようにしっかりと頷いた。
「汝の末裔に讃えあれ……」
再び王の娘の唇から神話の一文が溢れだす。カデュ・ルーンの瞳に溜まっていた涙が最後の一滴となってこぼれ落ちた。
「神に感謝を……」
リュ・リーンは王の娘の手を取ると、その甲に口づける。これで清浄の誓いはすべて完結した。
リュ・リーンは名残惜しそうにカデュ・ルーンの手を離し、神の小庭の下で待つ部下たちの元へと歩き出した。
まだ幾人かの騎士たちがカストゥール候の前にかしずいたままでいる。もう少し彼らの誓いはかかりそうだ。
「リュ・リーン殿下……!」
リュ・リーンが階段に足をかけたところで背後から声がかかる。肩越しに振り返って見ると、カデュ・ルーンが小走りにこちらに駆け寄ってくるところだ。
リュ・リーンは彼女に向き直った。
「リュ・リーン!」
走ってきたままの勢いでカデュ・ルーンはリュ・リーンに抱きついた。向き直っていなかったら、危うく下に転がり落ちていたかもしれない。
「カデュ……!」
リュ・リーンの首に抱きついたままカデュ・ルーンは背を伸ばし、彼の頬に自分の唇を押しつけた。見る見るうちにリュ・リーンの頬が赤く染まっていく。
「わたしを……わたしを王都にお連れください」
それだけを言うとカデュ・ルーンはリュ・リーンの胸にしがみついた。彼女の不安が伝わる。
「カデュ・ルーン……。帰ってきます。必ずあなたを迎えにきます。……贈った竪琴の弦が狂わぬうちに、必ず」
リュ・リーンはカデュ・ルーンの頬にそっと触れた。そして、その指を顎まで滑らせる。
「カデュ・ルーン。覚えていてください、この名を。ルーヴェ・リュ・リーン・ヒルムガル……。この名を忘れないでください」
ハッと目を見開いたカデュ・ルーンにリュ・リーンは微笑みかける。
聖名を持つ者は支配されることを怖れるあまりに、自らの真の名をその配偶者にすら教えない者が多いというのに。
自分を支配する禁忌の言葉。彼女の不安が取り除けるのなら、自分の真実の名を教えるくらいなんだというのだ。
「リュ・リーン……」
カデュ・ルーンが信じられないといった様子で首を振る。
「カデュ・ルーン。必ず帰ってきます。我が名に織り込まれた神の名にかけて」
「リュ……。エーマ、です」
一瞬、リュ・リーンは何を言われたか判らなかった。だがその単語の意味を思い出して、それがカデュ・ルーンの聖名だと悟る。
エーマ。“愛しき者”……彼女に相応しいその真実の名。
「エーマ……。あなたを……愛しています」
かすれた声は本当に自分のものだろうか? リュ・リーンはカデュ・ルーンの顎をそっと持ち上げる。
「ルーヴェ……」
囁き声とともに彼女の濡れた瞳がそっと閉じられた。頭がボゥッとしたままだ。心地よい支配が身体に拡がる。
そのまま吸い寄せられるように彼女の唇に自分のそれを重ねる。
彼女の唇は壊れそうに柔らかで、甘かった。
リュ・リーンはカデュ・ルーンを抱きかかえたまま階段を降り始めた。下のほうでざわついていた騎士たちの様子が少し変わっている。
彼らは一様にリュ・リーンとその腕に抱きかかえられた娘に注意を向けては外し、と視線を落ち着かなげに彷徨わせていた。
「リュ・リーン……」
うわずった声がリュ・リーンの耳に届いた。そちらを見るとウラートが顔を引きつらせて立っている。そして横にはダイロン・ルーンの仏頂面がある。
「……上での誓いは終わったのか?」
ダイロン・ルーンが低い声で問うた。感情を押し殺した声だ。
「終わった。こちらは?」
カデュ・ルーンを静かに降ろすとリュ・リーンは改めてカストゥール候に向き直った。そのリュ・リーンの背中にカデュ・ルーンが隠れる。気配でそれを感じたリュ・リーンが後ろを振り向く。
「カデュ・ルーン?」
王の娘が怖々とした様子で兄を見遣っていた。
「兄様……。怒ってるわ」
「え……?」
改めて友人の顔を見ると、彼の片眉はつり上がっている。リュ・リーンは、やっと自分の失態を知った。
「ダ……」
「浮かれているのは結構だが、戦場でその首を掻き落とされないよう、精々気をつけることだ」
丘の上での様子を見られていたのだ。リュ・リーンは顔を赤らめたり青ざめたりさせた後、開き直って告げた。
「案じるな。婚約者をむざむざ寡婦にするつもりはないからな」
そして傍らで頬を染めるカデュ・ルーンの肩を抱く。
リュ・リーンの言葉と態度にダイロン・ルーンの眉はいよいよつり上がり、その脇に立つウラートは目眩を起こしたように右手を額に当てた。
聖地神聖暦九九六年。トゥナ王朝暦にして一九四年。
聖地アジェンの文筆官たちの綴った史書には、トゥナ領リーニスの戦況が克明に記され、その惨状がこう書き残されている。『戦場は血で朱に染まり、カヂャ兵の骸は累々と積み上げられていった』と。
トゥナ軍の勝利は瞬く間に近隣諸国に伝わり、その軍を指揮した黒衣の王太子の名は諸国の間で恐怖をもって語られた。
黒い魔物、魔神の申し子。凶暴なる野獣王。
カヂャ軍を血の海に沈めた、その容赦のない手腕に近隣の国々は慄然とし、いずれ訪れるであろう彼の即位が自国の凋落の日であるような錯覚を起こさせた。
聖地の史書はこの戦について更に詳しい記述をしている。だが、それをここですべて書き記すことは不可能だ。この場では、それが確かに書き記されていることを伝えるに止めよう。
後の世に“リーニスの朱の血戦”と呼ばれるこの戦いは、トゥナの力を近隣に知らしめ、これから訪れるこの王国の隆盛を予感させた。
「カデュ・リーン?」
自分の腕に抱かれて、暖炉の火に見入る妻の白い頬の輪郭を眺めながら、リュ・リーンは呼びかけた。
「なぁに?」
リュ・リーンは振り返った妻の滑らかな額にそっと指を這わせた。柔らかい温かさが指先から拡がる。
強大な神の力を宿した眼は、今はその奥で眠っている。狂った霊繰りの力も……。
だがいつの日か。その超常の力たちは彼女の命を容赦なく奪うだろう。人の躰に収めておくには大きすぎる力だ。
「リュ・リーン? 何を怖れているの?」
妻の穏やかな声がリュ・リーンの胸に突き刺さる。怖れないわけがない。いつか自分の元から最愛の者を奪っていく力を。今からリュ・リーンは己の無力を呪っているのだ。
そのリュ・リーンの身体を包むように彼の妃は王の肩を抱いた。幼子をあやすようにそっと、だが力強く。
「わたしはここにいるわ、リュ・リーン。泣かないで。ずっとここにいるわ」
トゥナ王の目に涙などない。だが彼の心が泣いているのを過敏に感じ取った王妃は呪文のように繰り返す。
泣かないで、泣かないで……。わたしはここにいるから……。
もうすぐ雪が解ける。戦の季節だ。トゥナ王は領土と民を護るために戦場へと向かうだろう。
子供の頃、リュ・リーンは自分の名に織り込まれた死の神が支配する冬が嫌いだった。だが今は雪が解けて自分を戦場へと追い立てる春や夏のほうが疎ましい。
冬になりここへ帰ってきたときに、彼女は温かい笑顔で迎えてくれるだろうか? 次の冬まで生きていてくれるだろうか?
戦の最中でもふと思い出す焦燥感。自分の死など怖くない。だが、彼女の死は……。
「ルーヴェ……。泣かないで」
いつか潰ついえるその呪文を、繰り返し繰り返し囁く妻の腕のなかでリュ・リーンは呟く。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ……”」
ワガコイハオウジャノコイナリ。シシテモナオ、ソノホノオハキエジ……
終わり
第07章:告白
「いやだったら、いやだぁ~!!」
リュ・リーンは傍らの大理石の柱にしがみついて抵抗した。
「わがままを言うんじゃな~い~、リュ・リーン~。ほらほら~。父はマシャノ・ルーンに会いに行くから、お前はついでにカデュ・ルーン姫と仲直りする~」
「いやだ~! どの面下げて会いに行けばいいんだ!!」
奥宮に通じる回廊の端で父親にマントを引っ張られて暴れるリュ・リーンの姿があった。
あのあと支配の言葉に拘束され内宮近くまできたが、すんでのところで我に返ったリュ・リーンは慌てて逃げ出した。
だが結局は父親に捕まってここまで引っ張られてきてしまったのだ。
聖衆王に偉そうに大言を吐いたときの決意も潰れた半泣きのリュ・リーンをトゥナ王は担ぎ上げるようにして歩き出した。左肩にリュ・リーンを、右手になにやら布に包んだ品物を抱えている。
「うわぁっ!! やめろ! ばか! クソ親父ぃ~!! 放しやがれ、畜生ぉ~!」
悪態をつき暴れ回っているが、リュ・リーンの少し小柄な身体など大きな体躯のシャッド・リーン王にはどうということはない。
案内も乞わずに奥宮へと進んでいくトゥナ王たちに、たまたま遭遇したアジェンの民たちは呆気にとられて見守るばかりだ。それを横目に見ながら、リュ・リーンは耳まで真っ赤になりながら、一層激しく暴れる。
「放せぇ~! ばか親父~!」
背中で喚いている息子を無視するとトゥナ王は迷うことなくズンズンと奥へと歩いていき、とうとう内宮への扉の前に立ちはだかった。
騒ぎが聞こえていたのだろう。扉の両脇に控えた衛兵たちは顔を引きつらせて二人を凝視している。
災厄が来た、どうして自分たちが見張り番の時に現れるんだ、とその瞳が訴える。
「おぉ~! 久しぶりだな、お前たち。息災であったかぁ」
「ト、トゥナ王陛下……」
「お、お久しぶりで」
身体をよじって振り返ったリュ・リーンと目が合うと衛兵たちは決まり悪げに目を逸らし、二人顔を見合わせる。
「よっこらしょっと……。のぅ、聖衆王陛下がおいでだろぅ? 通してもらうぞぉ」
「ちょ……。親父! 案内も乞わずに入れると思っているのか!?」
かけ声とともにリュ・リーンを降ろすとトゥナ王は当然の権利のように扉に手をかけた。
相変わらずマントの端を父親に握られたままなので、リュ・リーンも引きずられるようにして扉へと近づく。
「だぁいじょぉぶ~。余は特別~」
なんの憂いもなさそうな笑みを浮かべるとシャッド・リーンは悠々と扉を開けた。両隣の衛兵たちがため息をつくのが判る。
「お、おい! お前たち!! 自分たちの王のいる場所に他人が勝手に入るのだぞ! 少しは警戒を……フガッ……」
「さぁ、行くぞ。息子よ~」
シャッド・リーンの腕に首を掴まえられ、リュ・リーンは内宮へと引っ張り込まれた。見守る衛兵たちが申し訳なさそうにリュ・リーンを見送っている。
「うわぁ!! やめろぉ~、ばか親父!」
「王子……。ご愁傷様です……」
自分を拝むように頭を垂れる衛兵の姿が閉じていく扉の向こうに消える。それでもリュ・リーンはわめき声をあげ続けた。
「わ~! うわ~! やめろぉ~! 放せ……あれ?」
父親が立ち止まったことに気づいて、リュ・リーンは声をあげることを止めると、ようやくその視線の先の人物たちに気づいた。
「せ、聖衆王陛下……。ダイロン・ルーン……」
眉間にシワを寄せて気難しい顔をした聖衆王の姿にリュ・リーンは生唾を飲み込んだ。
ダイロン・ルーンも不機嫌そうな顔をしている。今の騒ぎが居室にまで届いたのだろう。
「やぁ~、マシャノ・ルーン。それにミアーハ・ルーン卿も一緒か~」
二人の顔色など一向にお構いなしにトゥナ王はゆっくりと二人に近寄っていった。
「まったくうるさい親子だな、お前たちは」
忌々しそうにトゥナ王に応えた聖衆王は顎をしゃくってシャッド・リーンを奥へと促した。
それを当然のように受けてトゥナ王も歩き出す。そのまま数歩を歩いてから、シャッド・リーンはふと足を止めた。
「そうだ。リュ・リーン~」
振り返って息子を手招きする。そして、聖衆王に遠慮しておずおずと近寄ってくる息子の肩を抱くと右手に抱えていた包みを押しつけてこう言った。
「リュ・リーン~。お前の荷物だ。持っていろ」
中身も告げずに押しつけられた包みは適度な重みが心地よかった。触った感触はかなり硬い物が入っている様子だ。
「あぁ、それから、ミアーハ・ルーン卿~。リュ・リーンをカデュ・ルーン姫の元まで案内してやってくれ~」
リュ・リーンとダイロン・ルーンの返事も待たずにきびすを返すと、トゥナ王はサッサと聖衆王の後について歩き去ってしまった。
取り残されたダイロン・ルーンは険しい表情を二人の王の背中に向けている。その横顔を盗み見たリュ・リーンはこっそりと入り口へと後ずさった。
いくらなんでも、ダイロン・ルーンが妹の部屋に案内してくれるわけがない。こういう込み入った話は後から出直してきたほうがいい。
もっともリュ・リーンはそれを口実に逃げ出したいばかりなのだが。みっともなくてとてもダイロン・ルーンと顔を会わせてはいられない。
「逃げる気か、リュ・リーン」
不機嫌そうな顔のままダイロン・ルーンが振り返った。リュ・リーンはすくみ上がった。ダイロン・ルーンに気づかれないうちに内宮を抜けてしまおうと思っていたのに。
「いや、あの……」
しどろもどろに答えを返すリュ・リーンの側に滑り寄るとダイロン・ルーンはジットリと年下の友人を見下ろした。
「聖衆王陛下との交渉は上手く運んだようだな?」
淡々とした口調で自分に話しかけるダイロン・ルーンの表情に不機嫌さ以外の感情は浮かんでいなかった。
「カデュ・ルーンに会うのは難しいぞ。今やっと落ち着いたところだ」
当然であろう。判ってはいたが、リュ・リーンは肩を落とした。
「……済まなかった」
「今さら、だな。……リュ・リーン、少しつき合え」
リュ・リーンの言葉に苦々しげに答えた後、ダイロン・ルーンは妹の居室がある方向とは反対の方角に歩き出した。
リュ・リーンがついてきているかなど確認もしない。ついてきて当然だと思っているようだ。
内宮から抜ける機会を失い、リュ・リーンはため息をついた。
「お前、本当に話を聞かされていなかったのか?」
ダイロン・ルーンはリュ・リーンに煎れたての香茶を手渡しながら尋ねた。なんの話かを確認するまでもない。
「……知らない。“今年から春の朝献にはお前が行け”と言われた」
手渡された器を両手で包み込んだままリュ・リーンは友人の問いに答えた。まんまと父親の謀略にはまってしまったのだ。情けなくて涙が出そうだ。
連れられてきた部屋はカデュ・ルーンの居室と対になっているのか、そっくりな間取りだった。
違いと言えば彼女の部屋が女性らしい色合いなのに対して、こちらの部屋は書物のほうが人間よりも大きな顔をして居座っているせいか味気ないほど生活臭がないところか。
人の匂いのするものと言ったら、申し訳程度に置かれた古びた小さな書記机とそれに備え付けられている丸椅子、それから今リュ・リーンが腰掛けているやたらと坐り心地の良い寝椅子くらいのものだ。
ダイロン・ルーンはため息とともに丸椅子に乱暴に腰を下ろした。
「お前もあの腹黒い王たちにはめられたわけか……」
「え? ……も、って。ダイロン・ルーン?」
不愉快そうな表情を隠しもせず、ダイロン・ルーンは吐き捨てるように言った。
「聖衆王とトゥナ王に、してやられたんだよ、私たちは! あぁ、思い出しても腹の立つ! 五年がかりで罠を張りやがって、あのジジィども!」
「え……? え? な、何? 何がどうしたって!?」
リュ・リーンは話がさっぱり見えてこず、頭を混乱させた。
「まだ気づかないのか!? 私たちは最初から試されていたんだよ、あの二人に! 高笑いをあげながら私に種明かしをして見せる叔父上の顔ときたら! 畜生! 人をなんだと思っているのだ」
どうもまだ騙されていることがあるらしい。だが何をどうはめられたのか判らないリュ・リーンは、友の怒りに困惑するばかりだ。
リュ・リーンは落ち着かない気分で身じろぎした。その拍子に父親から渡されていた包みが彼に倒れかかる。どうも安定が悪い品物のようだ。
片手に香茶の入った器を持ったまま、リュ・リーンはそれを立て直した。だが思うようにいかない。
手から滑り落ちた包みの先端が再びリュ・リーンの腕を叩く。
今度は倒れた拍子に包みの結び目が緩んできたようだ。品物の端が僅かに覗く。
どこかで見たことのある装飾に飾られた品……?
「……。げっ!」
「なんだ、おかしな声をあげて」
リュ・リーンは包みから覗いている品物にはっきりと見覚えがあった。なぜ親父がこんなものを持ってきたんだ!?
「な、なんでもない! ……それより、教えてくれ。ダイロン・ルーンは何にそんなに怒っているんだ?」
慌てて誤魔化すとリュ・リーンはダイロン・ルーンに向き直った。
「何にだって!? ……いいか、私たちが知らなかっただけで、お前とカデュ・ルーンはとっくの昔に婚約していたんだ!」
一瞬目の前が真っ白になる。
「な……なんだとぉ~!!」
すぐに我に返ると、リュ・リーンはこの日何度目かの叫び声をあげた。
「うわっち、ちっ!」
叫んだ拍子に茶の入った器を取り落としたリュ・リーンはこぼれた香茶の熱さに飛び上がった。
だが熱さにかまっていられない。
今まで父親が散々持ってきた見合い話すべて、いかさまだったというのか!? リュ・リーンは顔を引きつらせた。
「私は十四で成人して養護院を出たのだが、そのときカデュ・ルーンを引き取るだけの財力がなかった。
やむなく叔父上の養女として手続きをとって、二人してここに住まいを移したのだが……。クソ! そのときから、叔父上は準備を進めていたんだ!」
リュ・リーンは目を見開いてパクパクと口を開閉させるが、驚きのあまりに何も喋ることができない。
「春と秋の朝献の度にトゥナ王がここ内宮を訪れることは知っていたか? 王宮内の人間の間では有名なことらしい。
トゥナ王は来る度にお前の話をカデュ・ルーンに聞かせていた。王宮の外でも男と話をしたことなどほとんどないカデュ・ルーンには、それで充分だろう? 妹はお前以外の男のことなど考えないよう、仕向けられていたのだ!」
「お、親父はカデュ・ルーンと面識があったのか!?」
「あったかだと? あったに決まっているだろう! 叔父上に引き取られてすぐに紹介されている」
先ほどはカデュ・ルーンの名を初めて知ったような口振りだった。よくも嘘っぱちで息子を騙してくれたな! あのクソ親父!
だがそれで判った。なぜカデュ・ルーンが自分に好意的だったのか。
顔を会わせる度にトゥナ王からかつて一度会ったことのあるリュ・リーンのことを聞いていたのだ。警戒心が薄い上に、良いことばかりを聞かされていたのだろうから嫌がられるはずがない。
リュ・リーンはカデュ・ルーンのことを思い出して、急速に怒りが冷えていくことを自覚した。
王たちの思惑通りであったとはいえ、自分が彼女に恋した事実は消えない。結局は自分が選び取った結果なのだ。彼女を傷つけてしまったことも。
リュ・リーンは力尽きたように椅子に座り込んだ。
「……カデュ・ルーンはお前の好みの女だろう? リュ・リーン」
低い唸るようなダイロン・ルーンの声にリュ・リーンは背筋を震わせた。
自分を見つめる友の瞳は怒りに燃えている。返答できないでいるリュ・リーンになどかまわず、ダイロン・ルーンは喋り続けた。
「当然だな。知らないうちにそのように育てられてきたのだ。気づかなかった私も迂闊だった……」
リュ・リーンの胸に友の言葉が炎の槍のように突き刺さる。居たたまれない。どうして父王たちはこんな手の込んだことをしたのだろう。
リュ・リーンは恐る恐るダイロン・ルーンの顔を盗み見る。どうしても確認しておきたいことがあった。
「ダイロン・ルーン。親父は……知っていたのか? カデュ・ルーンの力のことを?」
「……知っている」
リュ・リーンの怯えた声にダイロン・ルーンが眉間のシワを深くする。嫌々に絞り出すような声で答える友の顔が大きく歪んだ。
「お前にだけは、知られたくなかったよ……。だから……」
顔を背けるダイロン・ルーンの顔は蒼白で、見ているこちらの胸が苦しくなってくる。
なぜ……なぜ、俺なんだ?
再び王の居室にいたときの問いが頭をもたげる。カデュ・ルーンの相手に自分が選ばれた理由が判らない。
ダイロン・ルーンが反対していたらしいことは想像できる。それなのに、なぜ王たちは……。
「カデュ・ルーンは……生まれてすぐに母に殺されかかった」
ポツリと呟いたダイロン・ルーンの言葉はリュ・リーンには衝撃的だった。リュ・リーンの反応など見もせずにダイロン・ルーンは続ける。
「妹は覚えてもいないだろうがな……。カデュ・ルーンのあの力は母には享受できることではなかったのだろう。父が止めに入らなければ、母の振り上げたナイフはカデュ・ルーンの額に振り下ろされていたはずだ。
母の狂乱はすぐに叔父上に知れた。実姉が狂っていく様を見た叔父上は、父と二人、カデュ・ルーンの力を封印した。だが母の壊れかかった心は元には戻らなかった。
……その封印も父の死を契機に破られることになった。母は父の死がカデュ・ルーンのせいだと思い込んでいた。まだ四つになるかどうかの妹に、聞くに耐えない悪口雑言を浴びせ、自分で毒をあおって父のあとを追った。
そのときのショックでカデュ・ルーンの枷は外されてしまった。それ以来妹は人に会うことを極端に怖れるようになった。……初めて覗いてしまった人の心が憎悪に満ちた実母の心。狂わなかったことが不思議なくらいだ」
顔を背けたままダイロン・ルーンは話を続けてたが、そこでふと顔をリュ・リーンへと向けた。蒼白な顔がリュ・リーンをひたと捕らえる。
「お前が六年前、アジェンに留学してきたとき、お前の瞳の噂は瞬く間に学舎や養護院の子供たちの間に広まった。それまで外の世界に関心らしい関心を示さなかったカデュ・ルーンが、その噂にだけは興味を示した。
私がお前と仲が良いと知って、カデュ・ルーンがお前に会ってみたいと言い出したときには我が耳を疑ったよ。妹が他人に会いたいと自分から言い出すなんて信じられなかったよ。
カデュ・ルーンが変わったのは、お前に会ってからだ。積極的ではないにしろ、他人と話をしたり、他のことに関心を示すようになり、それまでの臆病な性格が嘘のようだった。だから……。だから、叔父上は、お前を、選んだ……。だから……」
話し声が途切れるとダイロン・ルーンは呻いて頭を抱えた。肩が微かに震えている。
「力のことが知れたら、いくらお前でも妹から離れていくだろう。大事な妹や友人を災厄に巻き込む王たちも、聖衆王の娘だというだけで浮かれているお前も許せない! 私の大切なものをむしり取っていく権利が誰にあると言うのだ!?」
ダイロン・ルーンの吐きだす言葉は逐一リュ・リーンの胸に突き刺さった。
王たちの気まぐれや自分の浮ついた言動に翻弄されて、傷ついている友にかけるどんな言葉があるというのか。
「なぜ、妹に伴侶など与えようとする……? カデュ・ルーンは巫女にでもなったほうが幸せだ」
ダイロン・ルーンの呻き声を聞きながら、リュ・リーンはふと思い出した。
成人前、まだ十二~三のときだったろうか、父王から一つのことを訊ねられた。とても大切なもののうち、どちらか一方を取らねばならなくなったとき、お前はどうするのかと。
あのとき自分は答えられなかった。いや内心では答えを出していた。
だが自分で勝手にそれは不正解だと結論を出してしまっていたのだ。父親を失望させたくないばかりに、リュ・リーンは父の問いに沈黙で答えた。
今その問いかけがもう一度彼の目の前に突きつけられている。今度は答えないわけにはいかない。
逃げることは卑怯でとても許されることではない。
「ダイロン・ルーン」
リュ・リーンは自分の声が意外にしっかりしていることにホッとした。
ダイロン・ルーンが顔を上げる。血の気の引いた顔には怒りとも悲しみともとれる表情が張りついていた。
「俺は……ダイロン・ルーンやカデュ・ルーンに会えて良かった。
カデュ・ルーンが俺に会って変わったと言うけど、二人に会って、いやダイロン・ルーンに会って変わったのは俺のほうだ。俺を孤独の淵から引っ張り上げてくれたのはダイロン・ルーン、あなたのほうが先だった。
もし彼女が変わったというのなら、それは俺のせいじゃない。あなたが俺を変えてくれたからだ。今度は俺があなたやカデュ・ルーンの支えになる番だ。俺はまだ未熟でちっぽけな人間だけど、彼女の盾になる覚悟はできている。
ダイロン・ルーン。カデュ・ルーンの人生を俺にくれ。あなた一人で背負い込むな。俺だって、彼女を護りたい」
ダイロン・ルーンの唇がわなわなと震えていく様を、リュ・リーンは静かに見守った。
「お前……正気か? 災厄に自分から飛び込むなんて、いかれているにもほどがある」
泣いているような表情で自分を見る友人にリュ・リーンは微笑みかけた。心は凪いだように静かだ。
父の問いに出した答えは、これで正しかったのだろうか?
どちらかを選べ、と問われたとき、リュ・リーンはどちらも選べなかった。どちらも選べない代わりにどちらも取る、それがリュ・リーンの出した結論だった。
「大神の名に賭けて、俺は正気だ」
父はこの答えにどう応じるだろうか? 聖衆王は? 弱々しく首を振る友の姿を見守りつつ、リュ・リーンは二人の王の静かな視線を思い出していた。
「ばかか、お前は……。どうかしている。カデュ・ルーンはお前に秘密を知られて、傷ついたままだ。自分の秘密を知っている者を愛せると思っているのか? ……そんなに言うなら、妹に会ってこい! 会って、フラれてくるといい! この愚か者!」
泣いているようなダイロン・ルーンの叫びのなかに怒りはない。
リュ・リーンはゆっくりと立ち上がると、自分に背を向けたままの友を静かな眼差しで見つめた。
「ありがとう……」
遠い日の言葉を、もう一度友に伝える。ダイロン・ルーンの微かな呻き声が届いた。
リュ・リーンは父から手渡された包みを抱えると、静かに友の部屋を後にした。
リュ・リーンは包みを抱きかかえたまま、カデュ・ルーンの部屋の扉の前までやってきていた。
だが足は重く、それ以上の前進を拒んでいるようだった。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。緊張に心臓が忙しなく鼓動している。
「カデュ・ルーン」
ノックとともに部屋の主に呼びかける。耳を澄ますと、衣擦れの音が小さく聞こえる。カデュ・ルーンに彼の声は届いているはずだ。
「カデュ・ルーン。開けてください」
「……いや!」
今度は拒絶の返事が返ってきた。
「カデュ・ルーン……。顔を見せてください。話がしたいのです」
「いやよ。何も話すことなどありません! わたしのことは放っておいて……」
震える小さな声がリュ・リーンの耳に届く。
「カデュ・ルーン」
「……」
辛抱強く呼びかけるリュ・リーンの声に部屋の主からの答えはなくなった。それでもリュ・リーンは呼び続けた。
「お願いです。カデュ・ルーン、開けてください。あなたに謝りたい……」
「……」
「どうか、一目だけでも……」
だが、閉ざされた扉が開く気配はない。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは扉に取りすがった。その拍子に抱えていた包みが扉の表面をこする。硬い物同士がこすれる微かな音。
「……母上」
リュ・リーンは小さく呟いた。包みの中身は母親が大切にしていた品物だ。今は母の形見となったその品は、かつて父が母に贈った物だと聞いたことがある。
リュ・リーンは結び目をほどいた。
たぶんここ聖地で造られた物だろう。繊細な装飾を施された竪琴がその優美な曲体を現した。
楽の音を愛していた母ならではの贈り物だ。
どんなきっかけで贈られたのかは知らないが、リュ・リーンのうろ覚えな記憶のなかの母は、よくこの竪琴を奏でていた。
リュ・リーンはそっと抱きしめた。
母が亡くなってから父は毎晩のようにこの竪琴を爪弾いていた。
普段はふざけたようなことばかりしている父が、この竪琴を弾いているときだけは真剣な顔をしていたことを思い出す。
「カデュ・ルーン」
リュ・リーンは再度、扉に呼びかけた。相変わらず、返事はない。
「カデュ・ルーン。あなたを傷つけるつもりはなかった……」
彼女の返事を期待しないで、リュ・リーンは続けた。
「……明日俺はリーニスに向けて出発します。カヂャに踏み荒らされているトゥナの領土を救わなければなりません。大きな戦になります。次の冬まで帰ってはこれないでしょう」
部屋からはなんの反応もない。
「あなたに嫌われたまま出立するのは辛い」
彼女が聞いているのかどうかは判らない。だが何も伝えずにこの場を去ることはできなかった。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは祈るように呼びかける。
「カデュ・ルーン……。あなたを……愛しています……」
だがついに彼女から呼びかけに応じる声はあがらなかった。
第06章:真実の名
一言も言葉を交えることもなく、リュ・リーンは聖衆の長の自室へと連れられてきた。
白亜の大理石と磨き抜かれた黒曜石で飾られた部屋は、感情的なものが欠落しているように味気ない。
中央寄りに置かれた最高の材質で作られているであろう紫檀の飾り机の装飾も、華やかさより重厚さを演出している。
「掛けたらどうかね?」
自分は絹張りの椅子に腰を落ち着けながら、聖衆王は向かいの長椅子を指し示した。
リュ・リーンは血の気の引いた顔を一層歪めると、王に向かって何か言わなければと唇を開いた。
しかし痺れた舌は言葉を紡ぐことはなく、震える顎が歯をカタカタと鳴らすばかりだった。
「用向きの見当はついているが、一応聞いておこうか。トゥナ王の息子よ」
リュ・リーンの青ざめた顔色には一切目もくれず、聖衆王は淡々と話を始めた。それがリュ・リーンの神経を逆撫でし、彼に言葉を取り戻させることになった。
「王よ。ご存じだったのでしょう!? 何故、彼女を……!」
奥宮殿へ来た用向きも忘れてリュ・リーンは叫んでいた。聖衆王は知っていたはずだ。先ほどの態度から察するに彼は間違いなく彼女の力を知っている。
聖衆の長として聖地を治める者の娘が禍々しい力を秘めている。
考えようによってはリュ・リーンは支配者の弱みを握ったと言ってもよいはずだ。しかし今のリュ・リーンにはそこまでに思考を働かせる余裕などなかった。
今の彼には何故王が娘の婿に自分を選んだのか、いやそもそも何故カデュ・ルーンを養女にしたのか、その問いで頭が一杯だった。
「そんなことを訊ねにきたわけではあるまい?」
冷酷さを口調に混ぜたままの聖衆王の返答は、嘲笑うようにリュ・リーンの鼓膜を震わせた。
「聖……」
「そんなくだらない問いのために午前中の謁見前に余を訪ねたのか? ならば引き取ってもらいたいな。余が忙しい身なのは知っていよう?」
軽蔑さえ含んだ王の視線の前にリュ・リーンの舌は凍りついた。苛立ちだけが無為に募っていく。だが……。
「失礼を……。今日の面会の件は他でもありません、王陛下もすでにお聞き及びかと存じますが、我がトゥナの領土リーニスが存亡の危機にあります。
一刻を争う事態ゆえに聖領ならびに“神降ろし”の地の通過をお許し願いたく参上しました」
リュ・リーンは自分が何ごともなかったように聖衆王の前に跪き、当初の目的を告げる姿を遠くに感じていた。
頭の中に逆巻く思いは消しようもなかったが、自国の危機を後回しにできるほど時間の余裕はない。それでも聖地の通行許可を求めるリュ・リーンの表情には動揺がありありと浮かんでいた。
「旧き友よ、汝らの苦境に関しては知らせを受けている。我ら聖衆も汝らの立場には同情を禁じ得ない。だが“神降ろし”の地は血を嫌う。あの地を通る者の中に兵士が含まれることは耐え難い」
トゥナを“旧き友”と呼びかける聖衆王は無表情で、彼が言うような同情や憐れみの感情など一欠片も見えない。
「無論、ただでとは申しておりません。キャラ山の……」
「莫大な黄金や銀で対価を払うと? ……汝らはいつもそうだな。金ですべてを解決するか」
聖衆王がリュ・リーンの言葉を遮った。嘲りや軽蔑の感情を含んでいたほうがまだ人間味があったろう。
しかしその口調から感情は読みとれず、聖地の支配者の顔に感情らしい感情は浮かんでいなかった。
「旧き友の子よ。お前は交渉が下手だな。大事な切り札の出し所を見誤るな」
リュ・リーンが反論しかかったとき、またしても聖衆王がそれを遮るように口を開いた。
王の冷たい眼光にリュ・リーンは身震いした。まるで講義中に生徒を諭すような王の口調からは相変わらず何も読みとれない。
「リュ・リーンよ。今その胸の中にある秘密を飲み込むがいい。それを忘れると運命神に誓え!
そして、今後一切、誰に対してもそれを口にするな。それならば、聖地へトゥナ軍が足を踏み入れることを許可しよう」
「な……!」
リュ・リーンは目を見開いて聖衆王を凝視した。
「出来るな? ……もちろん、娘との縁談は断ってもらって結構。もっともお前がトゥナの後継者ならば、娘を娶れはすまいがな」
「お、己の娘を政の道具とされるか!?」
「……。娘とて駒の一つだ。そんなことも判らぬのか」
先日は宴の席で自慢げに娘を指し示していた者がこうも冷淡に娘を扱えるものだろうか。勝手に娘の婚姻相手を決め、そして今度はそれを破棄しようという。
それに振り回される娘の気持ちのことなど考えてもいないのか。
リュ・リーンは自分の中で何かが外れる音を聴いた気がした。
「こ、断る……! そんなことを承伏できるか!?」
それが自分たちを支配する者への暴言であることも忘れて、リュ・リーンは叫んでいた。
「あなたにそこまで彼女の人生を差配する権利があるのか! 養女とはいえ自分の娘のはずなのに、あなたが彼女の幸せを願っているとは思えない!」
「ほう? ではお前はどうなのだ。カデュ・ルーンを愛しているとでも言うつもりか? 滑稽な!」
王の口調は相変わらず冷徹で、その視線はリュ・リーンを射抜くように鋭いままだ。リュ・リーンの拒絶や批判にもまったく動じていない。
「俺は彼女を愛してる!」
だが、噛みつくような口調で返事を返すリュ・リーンに聖衆王は冷笑を向ける。冷たい視線がリュ・リーンの頭からつま先までを舐めるように滑っていく。
「子供よな。いつ狂うともしれない異端者を本気で愛おしんでいると?」
王の言葉にリュ・リーンは激昂した。目の前が怒りで真っ赤に染まっていく。このまま聖衆王の前に居続けたら、憎悪で何をするか判らない。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ”……王よ、失礼する。あなたとは意見が合いそうもない!」
古代神話の最終章を飾る“神への言霊”を引用するとリュ・リーンは聖衆王を睨み、そしてきびすを返した。
引用した言葉は神と英雄との問答の場面に出てくるものだ。最愛の妻を亡くした英雄に光の大神は新しい妻を娶れと促すが、それを拒絶して英雄が言い放った言葉がこれだ。
王朝開闢以来、この言葉はトゥナ王族などの間では密かに使用されている。
大神に逆らうようなこの言葉は、聖地に関わりのある者の前ではおおっぴらに使える類のものではない。
しかしその英雄の末裔と称しているトゥナ王家としては、聖地への反骨精神を表す言葉の一つとして口にするのだ。
今まで逡巡していたリュ・リーンの心は決まった。
誰がなんと言おうと、カデュ・ルーンを、自分の愛している女を侮辱されるのは許せない。
自分が大事に想う者を謗られて、それを享受するほどリュ・リーンは寛大ではなかった。
もしカデュ・ルーンがリュ・リーンの妃となり、もしトゥナの貴族たちに彼女の力が知れたなら、最悪の場合リュ・リーンは王族の地位を追われるばかりか、異端者を一族に加えた者として暗殺されるかもしれない。
父王とてかばい立てできないだろう。
それでも! リュ・リーンは決めた。カデュ・ルーンが拒まないのならば、自分が彼女の秘密ごと最愛の女を護るのだと。
燃えるような怒りを抱えたままリュ・リーンは王の居室から出ていこうとしていた。
そのリュ・リーンを呼び止める声が聞こえた。
「待つといい、リュ・リーン」
厳然とした声音には予想外にも微かな穏やかさが含まれていた。今までの冷酷さはなく、むしろ好意的とも取れそうだ。
驚いてリュ・リーンは王を振り返った。
いつの間にか聖衆王は立ち上がり、こちらへ歩いてきていた。王の表情には侮蔑や非難の色はなく、口元には静かな笑みさえ湛えていた。
リュ・リーンは王が近付くに任せ、その口が開かれるのを待った。
「……トゥナ王家の気位の高さは有名だが、お前のそれは母親のミリア・リーン譲りだな。まったく、シャッド・リーンも手を焼いているだろうて」
「は、母をご存じなのか!?」
リュ・リーンは再び動揺した。時折聖地を訪れる父王はともかく、聖衆王が母ミリア・リーンを知っているとは思いもしなかった。
「知っているとも。あのじゃじゃ馬には昔シャッド・リーンと一緒に振り回されっぱなしだったからな。わがままなことこの上ない女だよ、お前の母親は」
苦虫を噛みつぶしたような顔をしてみせると聖衆王はリュ・リーンの瞳を覗き込んだ。
リュ・リーンはたじろいで一歩後ずさる。彼の瞳をこうもマジマジと覗き込める人間はいない。
「自分が怒り狂っているときの顔を見たことがあるか、リュ・リーン? 若い頃のお前の母親がヒステリーを起こしたときの顔にそっくりだ」
「な……」
聖衆王からあからさまに母親のことを言われようとは思ってもみなかった。今までの怒りも忘れてリュ・リーンは王の顔に見入った。
「ついでに言っておくとな。……余に向かって今の大言を吐いた奴はお前で二人目だ。親子揃って芸のないやつだな」
「えぇ!?」
親子揃ってだと?
「お前の親父は子供の頃に無茶をやらかしては下っ端の神官たちの頭を悩ませていたが、どういう訳か女のことに関してだけは身持ちが堅かったな。
後にも先にも余の父親と余に向かってあの大言を吐く奴はシャッド・リーンだけだと思ったのだがな」
「お、親父が……?」
聖衆王の口から出てくる実父の姿は息子のリュ・リーンからしてみればいつもの姿なのだが、それを聖地でもそのまま実行していたとなると、父親はリュ・リーン以上に無茶な性格をしていることになる。
現聖衆王の父親と言えば、大神神殿の前神官長レーネドゥア公爵だ。
政治の表舞台は聖衆王とその配下が取り仕切っているが、各神殿内はそれぞれの神に仕える神官たちが牛耳っているのだ。
その神殿権力の権化とも言える神官長に向かってあの“我が恋は云々”と言い切ったとしたら、大神神殿の権威に唾を吐きかけたに等しい。
「何を言ってるんだ、あのクソ親父は」
目の前に聖衆王がいることも忘れてリュ・リーンは小さく呟いた。
よくぞ今まで暗殺もされずにトゥナ王としてやってきたものだ。よりによって神官長に向かってあの言霊を吐いて、無事に済んでいることは奇蹟のようなものだ。
「父は子供の戯れ言だと思ったのだよ、リュ・リーン。お前の父がその大言を吐いたのは十を少し過ぎたばかりの子供のときだったからな」
さも呆れたといった顔をして聖衆王は肩をすくめた。
「呆れた親子だよ、お前たちは。一人の女に命をかけるところまでそっくりだ。……あの当時はシャッド・リーンだけが特別なのかと思ったが、息子のお前まで同じだとはな」
「何を仰りたいのです?」
いきなり昔話など始めた聖衆王の態度には先ほどの冷ややかさはなかったが、リュ・リーンは王の意図するところが見えなかった。
用心深く王の表情を探ってみるが、狡猾な王がそれを表情に表すはずもない。
「判らぬか?」
再び口元に穏やかな笑みを浮かべると聖衆王はリュ・リーンの瞳をまっすぐに見つめた。
自分の瞳を覗かれることに馴れていないリュ・リーンは一層に動揺を深くした。なぜこれほど平気な顔をして自分の瞳を見ることができるのか。
怯えたように後ずさるリュ・リーンの姿を哀れんだのか、聖衆王はその視線をずらした後、先ほどまで坐っていた椅子へと戻っていった。
「お前の両親が異母姉弟だと言うことは知っていよう?」
椅子に座りながら、またしても聖衆王は話題を変えた。困惑したままリュ・リーンは肯首してみせた。
前トゥナ王、リュ・リーンの祖父には二人の妃がいた。
有力貴族の息女と侍女上がりの女だ。貴族出身の娘は男女一人ずつの子をなし、もう一人の娘は男の子を一人だけ産んだ。
貴族出身の娘が産んだ男児がまともに成長していれば、力の均衡からいっても、その子供が王位に就いただろう。だが、その子供はまともには育たなかった。
齢五歳を過ぎても言葉を話さず、歩くことも出来ず、ただただ生まれたばかりの赤子と同じように起きては食べ、食べては寝るだけを繰り返す状態が続いていた。
これでは王位につくことなど出来るはずもない。
継承権を剥奪された子供はそれでもいくらかの時をそれから生きて、母や外祖父の願いも空しく死んでいった。
その後、貴族出身の妃を担ぐ者たちは遺された女児に王位継承権を与えようと躍起になった。
残りの男児を亡き者にすれば女児しか残っていない王の子だということで彼女にも継承権が発生するはずだと、幾度となく王宮には暗殺者が送り込まれ遺された王子の命を狙った。
結局、暗殺はことごとく失敗に終わり、王子は無事に成人して父親の跡を継いで王となった。
だが普通は王位に就いたとて暗殺が終わるはずもない。
それが止んだのは、父親から王位を譲られた王子がその場で自分の妃として異母姉を指名したことが宮殿中に伝わったからだった。
よもや自分たちの盟主たる王女を相手にかっさらわれるとは思ってもみなかったのだろう。
貴族たちが混乱している間に諸々の手続きは終わり、反目し合っていた二人の妃は諍い合う意味を失って沈黙せざるを得なくなった。
婚姻に関してトゥナの法律はかなりいい加減な部分がある。片親が違っていれば兄弟姉妹であろうと婚姻の対象になるのが、その例の一つだ。
前トゥナ王妃たちにどれほどの不満があろうと、定められた手続きを踏んで成立してしまった婚礼に異を唱えるのは不可能だった。
それくらいのことはリュ・リーンでも知っていた。
聖衆王は頷くリュ・リーンの姿を目を細めて眺めたあと、年下の者に話して聞かせるというよりは、独り言を呟くように話し始めた。
「シャッド・リーンは幼い頃から自分の身に危険が及ぶことをよく承知していた。物心ついたときから死と隣り合わせに生きてきたのだろう。
自分が生き延びる方法ばかりを考えていた、とシャッド・リーンは言っていた。どうすればより安全に生きていけるのかと、そればかり考えたと。
顔も見たこともない姉と反目し合う愚かしさに一番疲れていたのは、シャッド・リーン自身だったろう」
リュ・リーンは黙って立ちつくしたまま、その話に聴き入った。
「十歳になり、ここアジェンに留学してきたとき、シャッド・リーンは初めてミリア・リーンに会った。十歳だぞ? お互いの子供を護るためにトゥナ王妃たちはそれくらいに人目に我が子を曝すのを怖れていたのだ。
……可笑しいのは、お互い別々の屋敷に宿泊していたから、相手がよもや自分と血を分けた姉弟だとは思いもしなかったということだ。
しかもシャッド・リーンの奴は姉とは知らずにミリア・リーンに惚れていた。ミリア・リーンにからかわれていることにも気づかずに、散々彼女に振り回された挙げ句、自分たちだけで勝手に結婚の約束までして先の大言だ。馬鹿馬鹿しい!」
父親の子供時代をリュ・リーンは初めて聞いた。
五人の実姉以上に自分を猫可愛がりする父が疎ましく、成人してからはつっけんどんな口しか利いていない。そんな話をしたことはなかった。
「シャッド・リーンは自分とミリア・リーンを護るためにあらゆる手段を講じることを、十歳のときに誓った。
……リュ・リーン。お前はどうなのだ? 自分だけではない、カデュ・ルーンのすべてを護るために己の両手を血に染める覚悟をしたと言うのか!?」
聖衆王の口調は厳しさを帯びていたが、なぜかリュ・リーンにはその口調に祈りにも似た色合いが含まれているように感じられた。
親父も通った道か。
ふとリュ・リーンは軍馬とともに大河を遡っているであろう父親の顔を思い出した。
父とそんな話をしたことはなかった。だが自分には間違いなくあの男の血が流れていることが実感できる。
聖衆王に告げる答えは一つだけだ。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ”……幾度問われても答えは同じです。
たとえあなたが愚かと笑おうと、カデュ・ルーンを諦めるつもりはありません。誰にも譲らない。彼女は……カデュ・ルーンはこのリュ・リーン・ヒルムガルが護る!」
初めから……、彼女に初めて会ったときから、気づいていなかっただけで、とうに答えは出ていたのだ。
たとえ彼女が親友の恋人であったとしても、忌まわしい力をその内に秘めていても、自分が帰っていく先は彼女以外に考えられない。
リュ・リーンの答えに聖衆王は大仰にため息をついた。
「本当に愚かな奴だ、二度も大言を吐くとは……。カデュ・ルーンがそんなに欲しければくれてやるから、どこへなりと連れて行け。余にしてみれば厄介払いができて丁度いい」
投げやりにリュ・リーンの答えに応じたあと、聖衆王はリュ・リーンに興味を失ったのか手を振って退出を促した。
「あぁ、そうだ……。リュ・リーン。さっさとリーニスに行ってカヂャを追い返してこい。トゥナが滅びては、カデュ・ルーンの嫁ぎ先がなくなってしまうからな」
ついでに付け足したような言い方で退出しかかっていたリュ・リーンの背中にそれだけ言うと、王はそっぽを向いて目を閉じた。
リュ・リーンは目を見張った。カデュ・ルーンを取った時点でエンダル経由の軍路を使う手だては諦めていたのだ。
「……あ、ありがとうございます。御意に沿うよう努めます」
聖衆王の心変わりに驚きつつ、リュ・リーンは素直に頭を垂れた。
もしかしたら、聖衆王は自分を試すためだけにこんな手の込んだことをしてみせたのではないか?
リュ・リーンの脳裏にふとそんな思いが浮かんだが、無表情を保つ王の顔色からそれを伺うことは不可能だった。
廊下を歩いていたリュ・リーンの足がふと止まった。
視線の先にここよりも少し狭いだけの廊下の入り口が目に入る。あそこはカデュ・ルーンの居室へとつながるものだ。
リュ・リーンの胸がチクチクと痛んだ。
彼女に会いたい、会いたい、会いたい……。
その廊下に踏み込もうと数歩進んだところで、リュ・リーンは躊躇って足を止めた。どんな顔をして会えばいいのか判らない。
聖衆王には大きなことを言ってはみたが、いざ彼女と会おうとすると気後れした。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは声に出して最愛の女の名を小さく呼んでみる。
廊下の突き当たりに半開きの扉が見える。数十歩は先にあるその扉まで彼の声が聞こえるとは思えない。
「カデュ・ルーン」
もう一度、呼びかける。だが返事を返してくる者は誰もいない。
もっともリュ・リーンは返事を期待してるわけでもないだろう。それを期待するには声が小さすぎる。
しばらく無人の廊下に立ちつくしていたリュ・リーンは、肩を落として王の娘の居室に背を向けた。
だが足が前に動かない。
「カデュ・ルーン。あなたを愛している……。愛して……」
自分の想いが果たして届くのだろうか? 彼女は以前のようにあの柔らかな微笑みを自分に向けてくれるだろうか?
幾度となくリュ・リーンは自分の心に反問する。しかしそれに答える者とて、ここには存在しなかった。
胸にこみ上げてくる熱い塊に身を焼かれながら、リュ・リーンは足を引きずるようにしてその場を後にした。
疲れて戻ってきたリュ・リーンの目に初めに飛び込んできたのは慌てふためく従者たちの姿だった。今朝ここを出るときはこんな状態ではなかったはずだ。
「なんだ……? この騒々しさは」
「あ! で、殿下!」
「何があったんだ、騒々しい」
「あ……えっ……と」
不機嫌そうに質問するリュ・リーンの様子に従者たちが一瞬口ごもる。それにリュ・リーンは苛立ったが、今は怒鳴りつける気力もない。
「なんだ。怒ってないから、ちゃんと喋れ!」
眉間にシワを寄せていては口では怒っていないと言っても信じてもらえまいが、リュ・リーンは自分としては最大限の努力を払ったつもりだった。
「それが……」
「殿下、驚かないでお聞きください」
ざわついていた従者たちの間から副侍従長を務めている男が顔を出した。ウラートがいない間は彼が従者たちの責任者なのだ。
「……?」
リーニスがカヂャに攻め込まれて存亡の危機にあると言う以上に驚くことなどあるのだろうか? リュ・リーンは男の次の言葉を辛抱強く待った。
「王が……。トゥナ王陛下がお一人でお越しになっておられます」
「な、なにぃ~!?」
ほとんど絶叫に近い叫び声をあげるとリュ・リーンは、父親の訪れを告げた男に掴みかかった。
「ど、どういうことだ! 共も連れずに一人だと!? 親父は援軍を率いてまだポトゥ大河の下流にいるはずだぞ!」
「そ……それが、こっそり軍を抜けてこられ……ぐぇっ」
皆まで聞かずにリュ・リーンは副侍従長を突き放すと、自室へと駆け上がっていった。
あのバカ親父! こんなところへ来ている暇があるのか!?
ノックもせずに扉を蹴り開けるとリュ・リーンは自室へと転がり込んだ。
「おぉ。息子よ~。達者であったかぁ」
えらく間延びした声は忘れようもない。
「お、親父! こんなところで何している!?」
「何してる~? 父は花を愛でていたんだがなぁ」
剣呑な息子の言葉に答えたつもりなのか、トゥナ王シャッド・リーンは窓を振り返った。リュ・リーンが日課のようにして眺めていた花園がその視線の先にある。
「そんなことを聞いているのではない! 援軍はどうしたんだ! えぇ!? しかも一人で来ただと!? ウラートに途中で会っただろうが! 俺の大事な侍従をどこへやったんだ!」
「何を怒っているのだ~? ウラートなら援軍の指揮を取りに向かわせたぞ。それより、久しぶりに会ったのだ、顔をよく見せよ、息子よ~」
リュ・リーンは暢気にヘラヘラと笑っている自分の父親に素早く近付くと、頭二つ分は高い位置にある父の顔を掴んで自分の顔の前に引き寄せた。彼のこめかみには青筋が浮かんでいる。
「……最後に会ってからまだ十日と経っていないっ。いつまで俺をガキ扱いするつもりだ、クソ親父!」
そう言い様に相手の両頬をつねり、思いっきり引っ張る。
「いだだだ! 痛い、痛い。止めよ、リュ・リーン」
「王としての自覚があるのか、バカ親父! 軍隊は放ってくるわ、息子の侍従は顎でこき使うわ、危機感はないわ! 少しはまわりの迷惑を考えろ!」
自分のことは棚に上げてリュ・リーンは父親の頬を一層強くつねりあげ、アジェンに来てからの鬱憤を晴らすように当たり散らす。
そんなことをしてもなんの解決にもならないのだが。
「痛い~。顔が伸びる。リュ・リーン、放してくれ~。それに余は遊んでばかりいたわけではないぞぉ。ギイが悪戯をしないようにしたし、早馬で副都のアッシャリーに戦の指示は出しておいたし~」
それを聞いてリュ・リーンはようやく父親を拷問から解放した。
「ギイ伯爵に何をしたんだ?」
未だ怒りは収まったわけではないが、リュ・リーンは鋭い視線で父親を見上げた。トゥナ王は赤くなった頬をなでながら、息子の顔を見下ろして悪戯っぽく笑う。
「ふふふ~。当分の間は悪戯ができないよう、食事に下剤を混ぜさせている」
「げ、下剤!?」
毒薬ではなく、下剤を盛るというやり方の子供っぽさがいかにも父王らしく、リュ・リーンは毒気を抜かれた。
しばらく身体の自由を奪うのなら痺れ薬を盛ったほうが効率がいいだろうに。
「下剤なら怪しまれないだろぅ。ここのところ囲った女のところへ毎晩通って行くとエミューラ・リーンがこぼしていたからなぁ。ギイにはいい薬になっただろうなぁ。くふふ」
トゥナ王は娘婿の哀れな姿を想像しているのか、さも楽しげに笑い声をあげると息子の頭をグリグリとなで回した。
「やめんか! 髪が乱れる!」
乱暴に父親の手を払いのけるとリュ・リーンは自分の右手親指の爪を噛んだ。
父親もまんざらバカではないらしい。
聖地にギイ伯爵を呼びつけてできもしない交渉を押しつけようと思っていたが、本人がその様では屋敷どころか部屋からだとて一歩も出られまい。そんな無様な姿を人目に晒せるほど伯爵の気位は低くはないはずだ。
「リュ・リーン~」
間延びした唄うような口調でじゃれついてくる父親を邪険に押しのけると、リュ・リーンは自室から出て、階下で二人のやりとりをハラハラと聞いているであろう従者たちを呼ばわった。
「誰か居ないか! 出立の準備をしておけ!」
応じる声の後にバタバタと駆け去る足音を確認すると、リュ・リーンは室内から自分を見守る父親を振り返った。
窓から差し込む光のなかにいる父親は大きな体躯の割に王らしくは見えず、崩した姿勢で椅子に座り机にもたれかかるその容姿は子供っぽい印象しか受けない。
「親父……」
自室の扉を後ろ手に閉めながら、リュ・リーンは改めて父を呼んだ。今までの騒々しさは消え、静謐な空間が出来上がる。
「なぜ俺に黙ってアジェンの姫とのことを……」
リュ・リーンは苦々しげに父親を見遣った。聖衆王の娘との縁談話を聞かされたとき、リュ・リーンはまず何よりも父親に裏切られたと思ったのだ。
「話していたら、今回のアジェン行きを渋っただろぅ? お前は天の邪鬼でいつも余の言うこととは反対のことをしでかすからなぁ」
「でも、何も聖衆王の娘を!」
胸に拡がる苦い想いを吐き捨てるようにリュ・リーンは言った。
そうなのだ。彼女の肩書きは何も聖衆王の娘でなくても良かったのだ。カストゥール家の娘でもなんら差し支えないはずだ。
彼女がカストゥール家の者であることが最初から判っていれば、ダイロン・ルーンとの関係に気を揉んであれほど悩むこともなかった。
今さらながら己の失態が悔やまれる。
「なんだ? 王の娘は気に入らなかったのか~? おかしいなぁ。マシャノ・ルーンの奴が太鼓判を押した娘だったんだが?」
何を暢気なことを言っているのか。その娘が異形の者であるからこそ、聖衆王はトゥナに彼女を押しつけようとしたのではないか。
「本当に気に入らなかったのか~? ミリア・リーンに似た娘を、と頼んでおいたのに。マシャノ・ルーンの奴、嘘を言ったのか?」
「ちょっと待て! 誰に頼んだだと!? さっきから言っているマシャノ・ルーンってのは誰だ!?」
首を傾げる父親に詰め寄るとリュ・リーンは相手を睨んだ。
「ん~? あぁ、お前は知らんか。聖衆王の名だ、マシャノ・ルーン・アジェナ・レーネドゥア。あいつにお前の気に入りそうな娘を探してもらうよう頼んだのだが……はて? どういう娘だったのだ、その娘は~?」
のんびりと自分を眺める父王にリュ・リーンは目眩を覚えた。
「母上の顔さえうろ覚えな俺にどうやったらその娘が母上に似てると判るんだ! 第一、彼女の髪は銀髪で母上の栗毛とは似ても似つかない……」
「そうではなくてぇ。お前の母親代わりになるほどの包容力を持った娘を探してくれと余はマシャノ・ルーンに頼んだのだ。
お前のきかん気な性格を享受できるのはそれくらいの娘でなければ務まりそうもないからなぁ。そういう娘ではなかったのか~?」
リュ・リーンは何も言えずに黙り込んだ。
さすがに父親だけのことはあった。息子の性質をよく心得ている。
父王は幼い頃に母親を亡くしたリュ・リーンのトラウマをよく判った上で、相手を探していたらしい。
「気に入らなくはない……」
ボソリとそれだけ答えるとリュ・リーンは俯いた。その黙り込んでしまった息子の顔を覗き込んだトゥナ王はニッコリと微笑んだ。さも安心したと言うように。
「そうか! 気に入ったか~。良かった、良かった」
「良くない! 俺が気に入っても、彼女は……!」
不用意に彼女の部屋に踏み入り、秘密を覗いて、自分は彼女の心を傷つけてしまった。きっと彼女は自分の不躾さに嫌気が差したろう。
「そうか~? マシャノ・ルーンからの返事では、娘のほうもお前に気があると言ってきたんだがなぁ? 絶対にお前も気に入ると言っていたし。お前、嫌われるようなことをしたのか~?」
ギクリとリュ・リーンは顔を上げ、腕を組んで首を傾げる父親の顔に一瞬だけ視線を向けると再び俯いた。
その息子の様子にトゥナ王は大袈裟なため息をついた。世話の焼ける奴だ、と内心で言っているのがリュ・リーンにさえ判る。
「何かヘマをやらかしたな、リュ・リーン? 早めに謝ったほうが得策だぞ~。夫婦喧嘩ってやつは、男のほうが先に謝ったほうが円満に解決することが多いからなぁ」
「ま、まだ俺とカデュ・ルーンは夫婦じゃない!」
先走る父親の考えにリュ・リーンは一瞬たじろぎ、顔を赤く染めた。
「ほぉ~、カデュ・ルーンと言うのか~。“聖なる魂”あるいは“聖なる神の器”と言った意味か。良い名だな。ミリア・リーンにもその娘を見せてやりたかったなぁ」
ぼんやりと窓から差し込む光を見つめながらトゥナ王はしばし物思いに耽る。その蒼い瞳は死んでいった者とでも会話しているのだろうか。
光を受けて淡い金色に光る髪に縁取られた父親の横顔を見つめてリュ・リーンはそっとため息をついた。
「……さて、リュ・リーン。グズグズせずに謝りに行ってきたらどうだ~。どうせお前のことだ、自分が援軍を率いて聖領を突っ切るつもりだろう?
だったら、早く仲直りしておかないと、今年はリーニスから動けないだろうから、機会を失って本当に愛想をつかされるぞぉ?」
「な、なんでそれを知ってるんだ!」
ウラートにさえ明かしていなかった戦術をどうして父王が知っているのか!?
「リュ・リーン~。余はトゥナの王だぞぉ? 一番効率よくかつ効果的に動くためにどうすればいいかを考えるのはお前より長~くやっている。お前が今朝王に謁見を申し込んだと聞いてすぐに判ったぞ?
……上手くいったのだろぅ? マシャノ・ルーン、いや聖衆王との話し合いは」
あれを上手くいったと言ってもいいのかどうか。だが結果的にエンダル台地を経由する軍路は確保できた。
以前も使用したことのある軍路なのに恩着せがましく許可を出す聖衆王のやり方は腹立たしいが、トゥナがリーニスを失って国力を落としてはトゥナの軍事力を体よく使っているアジェンとしても都合が悪いはずだ。
聖衆王はそこのところもよく判っていたのだろう。
「お前のここでの任務は父が代わってやる。精々リーニスでは派手に暴れて、“黒い悪魔”の名に相応しい戦果を挙げてこい。
あぁ、そうだ~。今すぐに軍に合流することはないぞ。明日にも我が軍は大タハナ湖の南側に到着するだろう。お前の甲冑も持ってきているから、ちゃんと着込んでいくんだぞぉ~?
先年のように兜もかぶらずに戦場を駆け回るんじゃないぞ、父の寿命はあれで十年は縮んだ」
「まったく何から何まで。言いたい放題言ってくれる……」
リュ・リーンは自分が駆けずり回っていたことが馬鹿馬鹿しくなってきた。
聖衆王はリーニスが蹂躙されていることを自分と変わらない早さで察知していたし、父親は彼の考えなどすべてお見通しだ。
彼らの掌中できりきりまいしている自分が政治家としても半人前だということをこれほど思い知らされたことはない。
「どうした? リュ・リーン~?」
扉へと向かう息子にトゥナ王は間延びした口調のまま問いかけた。
「侍従たちに指示の出し直しだ。今すぐに出立しなくて済んだからな」
忌々しげに父の問いに答えながらリュ・リーンは振り返った。
その視線のすぐ先に自分の顔を覗き込む父の顔を発見してリュ・リーンはぎょっとした。
いつものふやけた締まりのない顔ではない。厳しい王の顔をして真っ直ぐに自分の瞳を見つめる父を、これほど間近で見たことがあっただろうか?
「ルーヴェ……」
低い重々しい声がトゥナ王の口からもれる。 リュ・リーンは己の足が微かに震えていることを自覚した。
ルーヴェ。何年も聞いていなかった自分の“聖名”。
秘された名。真実の名。人は真の名を知り、“支配の言葉”を使う者によって支配される。逃れることは許されない。
リュ・リーンの聖名を知る者はもはやこの世では父王ただ一人。その父は魔道師としての力も使えるのだ。
「……はい」
名を呼ぶ者に抵抗などできない。リュ・リーンの思考は強制的に支配される。
シャッド・リーン王の両手が上がり、息子の顔を包み込む。王はさらに自分の顔を近づけると、息がかかるほど間近から囁く。
「忘れるな、お前の名を。お前に災いをもたらす者、すべてに死を与えてこい。そして、生きて帰り、余の掲げる王杖を奪い取れ……」
「はい……。ちちうえ……」
忘れるはずもない、この忌まわしい名を。
ルーヴェ・リュ・リーン・ヒルムガル。名の意味は“氷原で死の翼を震わす鳥”。終焉神の使徒。
自分を追放した者たちに氷の刃を向けた放逐者の名がリュ・リーンの名には織り込まれている。
自由を奪われたリュ・リーンの思考の断片にその神の密やかな声が聞こえる。
災いをなす者には死を……。限りなく残酷なる死を!
熱に浮かされたように頷く息子に微笑みかけるとトゥナ王は息子の暗緑色の瞳を覗き込んだ。人ならざる者の瞳を。魔の瞳を。
「死の王の御子よ、生きて我が王国にお戻りあれ」
囁き声は小さなものだったが、リュ・リーンの耳には落雷のような激しさでこだました。
第05章:秘密と代償
前を歩く侍従の背をもどかしく見つめながら、リュ・リーンは王城の奥へと向かっていた。
ウラートを送り出してすぐにリュ・リーンは聖衆王に面会を求めた。
早朝からの面会に長が応じるかどうかなど、かまってはいられない。リュ・リーンは自分が今ここアジェンにいることを最大限に利用するつもりであった。
父王には時間的に無理でも、聖地にいる自分にならわずかではあるが、エンダル台地を通過する許可を求める時間の余裕がある。
何もせずにボゥッと聖地にいるわけにはいかない。
「どうぞ。こちらでございます」
長い回廊から回廊へと歩き続け、磨かれた大理石の床と重厚な彫刻が施された扉がそびえる一角へとリュ・リーンは案内された。
巨大な扉の前には衛兵が二人、無表情なまま立っている。リュ・リーンはその巨大な扉が聖衆王を象徴しているような錯覚に捕らわれた。
案内の侍従の合図にその重々しい扉はゆっくりと開けられ、リュ・リーンを奥へと誘うように口を開けた。
「え? 奥の案内は……?」
ここまで案内してきた王宮の侍従はそれ以上奥へ入ってこようとはしない。戸惑うリュ・リーンに無機質な声のまま侍従が答える。
「申し訳ございませんが、わたくしが仰せつかった案内はここまででございます。奥へは廊下に沿ってお進みください。長の居室の前に案内の者がおります」
呆気にとられるリュ・リーンを残して、侍従は下がっていってしまった。扉の両側に立つ兵の横顔を盗み見ても、彼らはまったくリュ・リーンに関心を示さなかった。
長に会いたいとの言伝にあっさりと応じたかと思えば、今度は奥へは勝手に行けと言う。ここの警備はいったいどうなっているのか。
リュ・リーンは心許ない心境で奥へと誘う赤い絨毯の上を歩き出した。その背後から扉の閉まる重たげな音が響く。
壁にかかるタペストリーは荘厳な紋様が縫い取られているが、天上から下がる薄布が、端が解らなくなるほどに広い廊下を華やかに飾り立てていた。
誰もいない廊下を進みながら、リュ・リーンは物珍しそうに辺りを見まわした。聖衆は旧い民の一族だと聞いたことがある。建物も古びたものが多い。だがこの一角の華やかさは今風で新しげに見えた。
聖地には不釣り合いなほどの明るさにリュ・リーンは意外な思いがした。天上から下がる軽やかな薄布は王の娘の舞姿を連想させる。
その彼の視線の先を銀の光がかすめた。リュ・リーンは一瞬身を固くした。
「……ダ、ダイロン・ルーン」
広間ほどの幅がある廊下の端を足早に歩いてくるダイロン・ルーンの姿に心臓が飛び上がる。
まだ相手は気づいていないようだ。俯き加減に廊下を進むその姿はかつての闊達な少年の印象からはほど遠い。
「……!」
ダイロン・ルーンがため息とともに顔を上げた。リュ・リーンに気づいたようだ。露骨に顔を歪めると、何か悪態をついてやろうと口を開きかかった。
しかし何を思ったかリュ・リーンの存在自体を無視すると一段狭い廊下へと足を向ける。
「ダイロン……! 待ってくれ!」
リュ・リーンは当初の目的も忘れてかつての友の後を追った。
自分を無視して歩み去ろうとするダイロン・ルーンの後を追いすがったリュ・リーンには、自分が踏み込んだ場所がどんなところかなど思い巡らす余裕はなかった。
「ダ……。カストゥール候! 話がある!」
リュ・リーンの呼び声に初めてダイロン・ルーンが反応した。険悪な目つきのまま振り返り、リュ・リーンを睨みつける。
「その名で呼ぶと言うことは、カストゥール家当主に用があると言うことか?」
視線の激しさとは反対に声音は冷え冷えと響いてきた。
「そうだ。……同盟者ヒルムガル家当主の息子として、カストゥール家当主に話がある」
リュ・リーンは「同盟者」の部分を強調してみせた。
かつてほどの強権は持たないが、聖地は近隣諸国を統括していることになっていた。そのためトゥナ王家のみならず、近隣国の王家は表面上は聖地に臣下の礼をとる。
聖地からそれぞれの国の預かり統治しているという建前のためだ。よって、聖地の貴族と各国の王家は同列ということになっている。
「こちらには話などない、ヒルムガル家の息子よ」
「カストゥール候、今までの非礼は詫びる。この通りだ」
トゥナの貴族たちが見たら卒倒しそうな光景だった。冷血漢と陰口をたたかれている王子リュ・リーンが他人にひざまずくなど信じられることではない。
カストゥール領主の瞳にも動揺が走る。だが彼の前にぬかずくリュ・リーンにはその表情は見えなかった。
「今回の当家の申し込みが、貴候をなおざりにしたものであると申されるなら、我が当主に成り代わって謝罪の上、申し込みの破棄をお伝えしたい」
父王や聖衆王となんの相談もなしに勝手に話を破棄して良いわけはない。良いわけではないが、今のリュ・リーンに考えつく謝罪法はこれしか思いつかない。
「その上で、改めて……貴候の妹君にお引き合わせ願いたい」
虫のいい願いだと、内心で思いながらリュ・リーンは恐る恐る相手の顔を見上げた。
「どちらも断る、と申し上げたら……?」
カストゥール家の当主は無表情を保ったまま、リュ・リーンを見下ろしていた。同列に扱われるはずの相手に立ち上がるよう促す気配など微塵も感じさせない。
「お許し頂けるまで、参上し続ける」
断固たる口調でリュ・リーンは返答した。
カデュ・ルーンのことを諦めるには、リュ・リーンは彼女に惹かれすぎてる。
「先の縁談が貴卿の預かり知らぬことであったことは、今我が王からお伺いしてきたところだ。その件の誤解に対してはこちらから詫びよう。
だが妹の顔すら覚えていなかった貴卿に、結婚を申し込むどんな資格があると言うのだ。迷惑な話だ……」
「そのことには、いかような責めも甘んじて受ける。だが……それでも……」
リュ・リーンの言葉を遮るように頭上から嘲りを含む声が響く。
「断れば当家へ押しかけてくる、か。愚かしい奴だ。……このまま引き下がったのでは、家名に傷がつくか? ならば、交換条件を出してやろう」
カストゥール候の言葉がリュ・リーンの胸に突き刺さる。
「カストゥール候……」
「聞けば今トゥナは一刻を争う危機に直面しているらしいな。……助力が欲しかろう? 当家から聖衆王陛下にご助力賜るべく具申しよう。それで今回のことはすべて白紙に戻し、今後一切我が妹に関わるな!」
リュ・リーンは愕然としてよろめいた。そして、そのまま躰を支えきれずに両手を床につく。
聖衆王の耳の早さに驚くばかりだ。自分が今朝受けたと同じ報告を聖地の長も受け取っていたのだ。密使を使っている意味がない。
我知らずリュ・リーンは呻き声をもらした。
助力は欲しい。リュ・リーンはここへ聖地の支配者にその助力を乞いにきたのだ。弱みがどうとか言っている場合ではない。
聖衆王の許可さえ下りれば、エンダル台地の通行は可能だ。許可さえ下りれば。
長の甥であり、神殿司祭長であるカストゥール候の具申があれば、王から許可を求めることは格段に楽になる。だが、それでは……。
「それを選べと申されるのか、カストゥール候」
躰を支える両手をリュ・リーンはきつく握りしめた。
「貴卿に選択の余地があるのか?」
「それは……」
言いよどむリュ・リーンの様子など意に介さず、カストゥール候は踵で大理石の床を蹴った。虚ろな音が響くなか、候はさらに続けた。
「貴卿の申し出は不愉快だ。妹を振り回すのはやめてくれ!」
「……! カストゥー……」
その時! リュ・リーンの声やダイロン・ルーンが床を蹴る音を掻き消すように、何かが砕け散る音が辺りにこだました。
「え? なんだ、この音は?」
「何……!」
ダイロン・ルーンの顔に焦りの色が浮かぶ。
「しまった……!」
彼はそのままきびすを返すと目の前に迫っていた廊下奥の扉へと駆け出して行った。
破壊音は断続的に続いている。リュ・リーンはダイロン・ルーンの行動に引きずられるように扉へと向かう。
開け放たれた扉の奥からダイロン・ルーンの焦り声が聞こえてきた。
「目を覚ませ! カデュ・ルーン……! カデュ・ル……うわっ!」
切迫したその声にリュ・リーンは走り出した。飛び込んだ部屋の奥はほの暗く、調度品が黒い影を床の絨毯に落としている。
奥のベッド下の床に銀色の色彩が見えた。
フラフラとそれが揺れてベッドへと近寄っていく。それが床に倒れていたダイロン・ルーンが起き上がっているのだ、と気づくまでにリュ・リーンは二呼吸ほどかかった。
「ダイロン・ルーン!」
思わず叫ぶとリュ・リーンは一歩踏み出した。
「来るな!」
その歩みを押し止めるようにダイロン・ルーンのうわずった声が響く。
「来ないでくれ……、リュ・リーン!」
友のただならぬ声にリュ・リーンは動揺した。こちらに背を向けているダイロン・ルーンの後ろ姿は何かに耐えているように痛々しく見える。
どうしたらよいのか判らない。
目のやり場に困ったリュ・リーンは辺りを見まわして、いっそう動揺した。そこかしこに砕けた水差しやカップの破片が散らばっている。
床に落ちて割れたというには不自然な位置だ。それに砕け方が何かおかしい。
なんだ、これは……?
リュ・リーンは足元から這い上がってくる悪寒に身震いした。
「なんだ? いったい何が……?」
リュ・リーンは全身の肌が粟立つのを感じた。不吉な感覚。こちらに背を向けているダイロン・ルーンの肩がガックリと落ちるのが見えた。
「に、兄様……。助けて……」
苦しげな少女の声が聞こえてきた。間違いない。カデュ・ルーンの声だ。
「ここにいるよ、カデュ・ルーン」
ダイロン・ルーンの声はまだうわずったままだ。まるで何かを怖れるように震えている。だが少女はそれが聞こえていないのか、囁き声で助けを求め続けた。
ダイロン・ルーンがぎこちない動作でベッドの上にかがみ込む。
「カデュ・ルーン……」
兄の呼び声に答えるように少女の悲鳴が小さくあがった。
「い、いや……! 助けて……。助けて……!」
リュ・リーンはそれを茫然と見守るしかなかった。
何がどうなっているのか、さっぱり判らない。夢にうなされているらしいカデュ・ルーンを抱きしめたダイロン・ルーンが肩越しにリュ・リーンへと視線を向けた。怯えたような瞳がリュ・リーンを凝視する。
「リュ・リーン……」
かすれた声がリュ・リーンの耳に届いたが、それがダイロン・ルーンのものだと気づくまでかなりの時間がかかった。
その厭な沈黙を破るように再び破壊音が辺りにこだました。窓を塞いでいる鎧戸が在らぬ方角へと弾け飛んだ。
「カデュ・ルーン! ……しっかりしてくれ!」
悲鳴に近い声で妹に呼びかけると、ダイロン・ルーンは彼女を目覚めさせようとその躰を激しく揺する。
眼前で起きた破壊の様にリュ・リーンの躰の震えが強くなる。
「霊繰り……?」
リュ・リーンは恐怖とともにこの世でもっとも忌まれる種族の名を口にした。そのリュ・リーンの言葉にダイロン・ルーンの躰が激しく身震いする。
窓から差し込む光が部屋の惨状をつぶさに照らし出していた。とても人間がやったものとは思えない。
置かれている調度品の数々には引き裂かれたような傷跡や穴が穿たれ、壁を飾る絵画の木枠は大きく裂け飛んでいる。
陶製の水差しは粉々に粉砕され、所々に金箔が押されていたらしいカップは原型を留めないほどに砕け散っていた。
リュ・リーンは震える足を叱咤して、ようやく一歩を踏み出した。
ダイロン・ルーンの肩が目に見えて震えているのが判る。その彼の腕に抱かれた娘の白銀の髪が陽光に煙るように輝いているのがチラリと覗く。
重い足取りでベッドの傍らへ移動したリュ・リーンの目から妹を庇うように、ダイロン・ルーンが少女の頭を自分の胸に押し当てた。
その動作が引き金になったのか、カデュ・ルーンが身じろぎする。目を覚ましたようだ。
「う……ん。兄様……?」
ぎくしゃくとした動きでカデュ・ルーンが身を起こしかかる。
それを押し止めるようにダイロン・ルーンが妹の躰を抱きしめる。そしてその姿勢のまま隣のリュ・リーンの顔を見上げる。
「出ていってくれ、リュ・リーン。頼むから……」
囁き声だがはっきりと聞き取れるダイロン・ルーンの声にリュ・リーンは一瞬にして全身に鳥肌が立つのを感じた。
「リュ・……リー……ン……?」
たどたどしい口調のまま少女が兄の言葉を反芻した。たったそれだけのことにリュ・リーンは一歩後ずさった。
だが恐怖が躰を強ばらせ、それ以上の後退を鈍らせる。
ゆっくりと、本当にゆっくりとした動きで少女の頭が上がり、その顔がリュ・リーンへと向けられる。
ダイロン・ルーンもリュ・リーンも凍りついたように動きを止め、彼女の顔が上がるのを固唾を飲んで見守った。
娘の白い顔の半分が陽光を受けて鮮やかに浮かび上がる。
「……! そんな……」
リュ・リーンは驚きのために喘ぎ声をもらす。そして躰の支えを求めるようにベッドの天蓋の支柱に取りすがった。
リュ・リーンは娘の顔から目を逸らすこともできずに茫然とその顔を見守った。いや、正確に言えば、その額の部分を。
カデュ・ルーンの額には、在るはずのないものが存在していた。
「そんな……神の眼が……」
娘の滑らかな額には縦に醜悪な裂け目が広がり、そのあり得ない空間にはまばゆいばかりに輝く黄金の色彩が満ちていた。
リュ・リーンの茫然とした呟きにダイロン・ルーンが顔を背けた。泣いているようにその肩が震えている。
娘はぼんやりとした顔つきのまま、リュ・リーンと兄の顔を交互に見比べる。
その顔が徐々にはっきりとした意識の覚醒を思わせる表情を刻んでいくにつれ、娘は恐怖に顔を引きつらせた。
恐る恐るといった動作で娘の右手が自分の額へと伸びる。
そして、そこに人ならざる者の眼を発見すると、怖れに見開かれた娘の瞳がリュ・リーンの顔に向けられた。
娘の躰がガクガクと震えている。
「いや……。いやぁ~!」
リュ・リーンの視線に耐えられないとばかりに娘は兄の胸にすがりついた。病的とも思える痙攣が娘の躰を襲っている。
小柄な少女の躰を覆ってしまうように抱きしめると、ダイロン・ルーンがリュ・リーンを睨んだ。
「出ていってくれ。もうたくさんだ! 出ていってくれ、リュ・リーン!」
猛獣の雄叫びよりも激しい叫び声でダイロン・ルーンが絶叫した。リュ・リーンは躰の震えを押さえることができずにいた。
何故、彼女の額に神の眼が刻まれている? 忌まれたる種族の刻印を刻まれた娘がなぜカデュ・ルーンなのだ?
リュ・リーンは何か言おうと口を開いたが、唇は何の音も発しなかった。
言葉を紡ごうにも、彼の頭のなかはあまりにも空虚で、言うべき言葉などどこにも見あたらなかったのだ。
立ちすくむリュ・リーンの視線から妹を庇うダイロン・ルーンが、戸口の方角を振り返ったのは、次の瞬間のことだった。
「叔父上……!」
ダイロン・ルーンの泣き出しそうな横顔にリュ・リーンは胸を痛めたまま、入り口を振り返った。
いつからそこに立っていたのか。大地を睥睨する神のように聖地の支配者がそこに佇んでいた。冷徹で厳格なその表情からは、どんな感情も読みとれない。
感情の片鱗すら見せずに、聖衆王はベッドへと近づいてきた。その足取りにはなんの躊躇いも、焦りもない。
全身を震わせる自分の娘をチラリと一瞥すると、リュ・リーンの深い色合いの瞳を覗き込む。
「内宮に入ったと報告を受けたのに、一向に姿を現さぬから様子を見にきてみれば……。少々、勝手がすぎるな、トゥナの王子よ」
リュ・リーンに向けられた王の声は冷たく、言いしれぬ不安を彼の胸に広げた。リュ・リーンの背に再び悪寒が走る。
「参ろうか? ここでは話もできぬ」
相手の返事など求めていないのか、聖衆王はきびすを返すとサッサと扉へと向かった。娘や甥には一言もない。
王の背中は他人の声を拒否する冷酷さがあった。逆らうことなど、できるはずもない。
リュ・リーンは奴隷の如き鈍い足取りで聖域の支配者の後に従った。
どうして彼女なのか?
リュ・リーンは乱れがちな呼吸をなだめながら歩き続けていた。
前を歩く聖衆王はリュ・リーンの心情などお構いなしに足早に歩いていく。後ろに従う者のことなど忘れてしまっているかのようだ。
どうして彼女が?混乱した頭ではまともな答えが見つかるはずもない。
だが確かなことは、彼女が“神の眼”を持ち、忌むべき“霊繰り”の力が使えるということだ。
なぜ彼女なのだ。自分の両眼が“魔の瞳”と謗られる以上につらい。彼女の第三の眼は人が持つべきでない代物だ。
遙か昔、まだ神々が人とともに大地に住まいし時代、神と人とが交わり、神人が誕生したという。
弱々しい人間の器に神の力を宿す者。神人たちは神の力に耐えきれず、自ら命を絶つ者、発狂する者、力が暴走して命を落とす者が続出した。
その惨状に心痛めた神々は、遂に地上を離れたと神話は謳っている。
“神の眼”はその神人の名残。滅びたはずの神人族の血脈を示す紋章。
王朝の史書には何人かの神の眼の所有者の伝承が記載されている。
その記述によれば、眼の持ち主の最期は大抵悲惨なものだ。神の眼は人の心を読み、獣たちと会話するという。
知りたくもない他人の心を読み取ってしまう眼の力に人間の心のままでいることは辛い。心の奥底を覗き込む力など、人には不要なものなのだ。
それなのに、彼女の額には神の眼が。あぁ、それに霊繰り。
リュ・リーンはその恐ろしさに目眩がしそうだった。
魔法、と呼ばれる類の力を操る者たちは大きく分けて三種類の種族に分かれる。
一つ目は神殿僧や呪医たちが学ぶ、通称呪術と呼ばれる治癒魔法。
これは薬草や鉱物の知識を持つ者がその修行を積んで身につけたものだ。彼らの祈りの呪文によって発動し、庶民には一番馴染みのある力だろう。
二つ目は魔導師や魔術学者たちが身につけている、通称魔道と呼ばれる魔法。
こちらは古代文書や魔道書の知識を持つ者が研究を重ねて身につけたもの。呪符や力の言葉を使うことで発動される。
彼らの多くは宮廷学者として招聘された者たちで、魔道書などの文献を研究するうちにその力の原理を学んで魔法を使えるようになる。
そして三つ目が霊繰り。
この力だけは解明されていない。
他系統の魔法が、伝承によって学び知識を蓄えてその魔法力を高め、薬草や古文書を媒体に魔法を発動させるのに対して、霊繰りの力は一切の言葉や物質などの媒体を使わず思念によって発動する。
しかも、その力を宿す者に出生の法則なく、突然変異のように生まれてくる。
言葉も呪符も用いない。念じるだけ。不可解な力。まるで魔神の戯れで生み出されたような者たち。神の眼と同じく神の業に通じる力。
それ故に人々はその力を怖れた。そして、その力を持つ者を迫害し続けた。それは有史以来変わることなく繰り返されてきたことだ。
理解の範疇から外れる力を持つ少数民をその力を持たぬ民は怖れるあまりに、汚辱を与え、見捨て、そして惨殺していった。
数百年前、まだワーザス地方の大半が北海に沈んで半島となる前、この地は“海に浮かぶ広野”と呼ばれるアッシレイ大帝国があったという。
帝国時代、霊繰りたちへの迫害は凄惨を極めたと史書には記述されている。
そこは生きたまま皮を剥がれ、焼き殺され、あるいは串刺しにされる霊繰りたちの阿鼻叫喚に満ちていた。
だがその帝国時代に霊繰りたちへの残酷なまでの虐殺劇が開始されたのは、虐げられてきた霊繰りたちの反逆が引き金になったと言われている。そうでなければ、これほど凄惨な殺戮は起こらなかったであろう、とも。
以後の世代でも帝国時代ほどの苛烈さはなくなったが、霊繰りへの処遇は冷淡で陰惨なものがほとんどだ。
人はそれほど霊繰りの力を怖れたのだ。いや、もしかしたら羨望したのかもしれない。
呪術や魔道は資質を問われはするが、何の力もなかった者であっても会得できる可能性があった。しかし、霊繰りの力は違う。
生まれ落ちたそのきにすでにその小さな赤子に力は存在しているのだ。
自分たちには決して持つことの叶わぬ力を、神の如くに操られる力を宿した者たちへの嫉み。
もしかしたら初めはそんな些細な嫉妬心から迫害が始まったのかもしれない。
だが今となっては知りようもないことだ。
その二つの力を彼女は持ち合わせている。リュ・リーンは未だに己の目が見せた幻であって欲しいと願わずにはいられなかった。
なぜ? どうして? 同じ問いかけばかりが脳裏に渦巻き、どうしようもない焦燥感だけがじわじわと募っていく。
いつか彼女は狂ってしまうかもしれない。いやそれよりもその力のことが知れたなら、彼女がどんな仕打ちを受けることか。
史書や伝承のなかで語られる超常力の能力者の末路を思い起こすと、リュ・リーンは震えが止まらなくなった。
いやだ。いやだ。誰か、これは嘘だと言ってくれ!
だがリュ・リーンの心の叫びに答えうる者は現れず、数歩前を歩む聖地の支配者は彼の内心にかまう様子どころか、振り返ることさえしなかった。
第04章:記憶の顔
翌朝。リュ・リーンは目覚めるとすぐに自分の枕元にウラートがうたた寝している姿に気づいた。
外からは小鳥のさえずりが聞こえる。今朝も小鳥の鳴き声に起こされたようだ。
ウラートに起こされる前に目を覚ますという快挙を二日間に渡って成し遂げたわけだ。
昨夜はウラートに髪を撫でられているうちにリュ・リーンは眠りについていた。代わりにウラートほうはリュ・リーンの髪をなでてずっと起きていたのだろう。
リュ・リーンは少し申し訳ない気分になり、ウラートを起こさないようにそっとベッドから下りると、昨日の朝そうしたように今日も中庭に面した窓を開けてみる。
昨夜の言いようのない虚しさが一瞬頭をもたげたが、それ以上に期待感に胸が膨らむ。
肌寒い空気がリュ・リーンの頬をなでていった。中庭は朝靄に包まれている。
だがリュ・リーンが期待した花の精霊の舞姿は今朝は見ることができなかった。
小鳥たちのさえずりだけが響く花園は美しくはあるが、どこか疎外感があり、リュ・リーンは花園にまで嫌われたような錯覚に陥った。
「う……、リュ・リーン?」
背後からの声にリュ・リーンは振り返った。窓からの光でウラートを起こしてしまったようだ。
「すまん、起こしてしまったか?」
「いいですよ、別に。もう起きなければならない時間です。……それより、リュ・リーン……」
皆まで言わせずリュ・リーンは彼の侍従に微笑んだ。
「昨日は半日も公務をサボった。今日は休んでいるわけにもいかないな。枢機卿との会談は今日に繰り越したのか?」
「昨日の今日でしょう? 相手の都合だってありますよ。午前中は何も入れていませんが、午後からは学舎の訪問があります。大丈夫ですか?」
ウラートには主人のこの落ち着きようが、逆に彼の傷の深さを顕わしているようで気がかりだった。
リュ・リーンはウラートの心配をよそにゆっくりと伸びをした。身体のほうは呆れるほどすっきりとしている。重く気怠いのは心のほうだ。
「休みすぎなくらいだ。午前中からでも動けるぞ」
リュ・リーンは身体を動かして、他のことに集中していたいのだ。ウラートはそれを悟ると、素早く頭を回転させて主人の今日の予定を組み替えていく。
「判りました。午前中から予定を入れましょう。すぐに調整します」
「おい、無理に変更しろとは言っていない。午前中に公務が入っていないなら、行っておきたいところがある」
気をまわしすぎる従者にリュ・リーンは苦笑する。
「カストゥール家へ行ってきたい。朝食の間に連絡をとってみてくれ。ダイロン……いや、ミアーハ・ルーン卿の都合がつけば、すぐにでも訪ねたい」
リュ・リーンは口元を歪めた。いずれはケリをつけねばならない相手だが、会うとなると気が重い。それでも会わねばなるまい。
「……はい。すぐに連絡を取りましょう」
ウラートはリュ・リーンの意図するところを理解した。聖衆王やその娘に今回の縁談の件を断る前に、娘の想い人であるカストゥール候に断りをいれるつもりなのだ。
神官職にも名を連ねる聖地の大貴族とトゥナ王の息子。聖地の王の娘の縁談としてどちらがより相応しいか、よく考えればわかることだ。
それにしても、なぜ聖衆王は同族の大貴族の意向を無視するようなことをしたのか?
聖地の民が外様である他国に嫁ぐことはかなり稀なことなのだ。
娘を説き伏せたところで、自分の臣下の不満を残す形での婚姻が後のしこりになることは目に見えている。
リュ・リーンの沈みがちな瞳の色を気にしつつも、ウラートは主の意向に添うべく他の従者に指示を出しに主人の部屋から退出した。
部屋に独り残されたリュ・リーンは再び中庭へと視線を向けた。
相変わらず花園の主の姿は見えない。リュ・リーンは急速に萎んでいく自分の気持ちを吐き出してしまうように荒々しい吐息をはいた。
落ち込んでいる時間は自分には与えられていない。聖地での任務をやり残したまま帰国するわけにはいかないのだ。
決着をつけるべきことは、早くつけたほうがよい。
昨夜から考え続けていたことを、自分に言い聞かせるように確認するとリュ・リーンは窓を閉じようと身を乗り出した。
そのリュ・リーンの動きが止まった。今まで陰になっていて見えなかったが、王城の奥宮殿の回廊に続く扉の近くに人影が見えるではないか。
その人物を確認してリュ・リーンは愕然とした。
「ひ……姫!?いったい、いつから……」
王の娘が木陰に顔を伏せたまま座り込んでいた。疲れたようにうずくまる衣装は昨夜と同じものだ。着替えもせずに部屋を抜け出してきたのだろうか?
「まさか……」
リュ・リーンは動揺したまま部屋を飛び出していた。外の廊下を行き交う従者たちが、主人の形相をみて慌てて飛び退いていく。
どこへ行くのかと呼び止める声が聞こえる。だが呼び声に応える余裕はリュ・リーンにはなかった。
中庭に飛び出したリュ・リーンは、そこで足を止めた。昨夜の気まずい想いが彼の足を進めることを躊躇わせる。
木陰では娘が身じろぎ一つせず、まるで白い彫像のように座していて、今にも消え入りそうなほど弱々しく見えた。それがリュ・リーンの気持ちに鞭を打つ。
恐る恐る木陰へと近づく。娘と目が合ったら逃げ出してしまうかもしれない。
「姫……」
ようやく娘の側までくるとリュ・リーンはひざまずいてそっと声をかけた。
びくりと小動物のように肩を震わせて、娘が顔をあげた。その表情に胸が針で刺されたように痛む。泣きはらして娘の眼まなこは真っ赤になっていた。
「殿下……」
「姫……。まさか……まさか一晩中?」
娘はこくりと肯く。そんな仕草は幼く見えた。
信じられない。春先のこの時期、夜はまだ肌寒い。それを一晩中、外気に当たっていたというのか。
「なんてことを……!」
リュ・リーンは衝動的に娘を抱きしめた。
その身体が夜露に濡れたのだろう、湿っていることに気づくと、慌てて自分の上着を脱いで娘の肩にかける。そのときになって、娘が震えていることにリュ・リーンは気づいた。
当たり前だ。一晩中、夜露に濡れたままこんなところに座っていては、風邪をひくどころではない。
娘の意識は朦朧としているようだ。熱が出始めたのかもしれない。
「着替えを! ……あぁ、でもその前に身体を暖めなくては」
リュ・リーンは娘の小柄な身体を抱き上げた。予想以上に軽い。青ざめた顔色の娘を気遣いながら、リュ・リーンは棟の入り口目指して足早に歩き始めた。
「待て! リュ・リーン! その娘をどこへ連れていくつもりだ!」
恐ろしく冷たく、殺気だった声が背後からかかった。振り返って確認するまでもない。この声に聞き覚えがある。
「ダイロン……ルーン……」
リュ・リーンは苦々しい思いで振り返った。
テラスの上に息を切らしたダイロン・ルーンの姿があった。
今しがた、ここへ来たのだろう。目を爛々と光らせ、自分を睨むダイロン・ルーンにリュ・リーンはどんな言い訳も通用しない頑迷さを見て暗い気持ちになった。
娘は虚ろな意識のままリュ・リーンの腕に抱かれている。
このまま娘を連れ去ってしまいたい衝動がリュ・リーンの身体を駆けめぐるのと、ダイロン・ルーンがテラスからリュ・リーンの前に飛び降りるのと、どちらが先であったろうか?
「お前が連れていっていい娘ではない」
当然の要求をするようにダイロン・ルーンが娘に手を伸ばした。
リュ・リーンは反射的にその腕を避ける。自分でもなぜそんなことをしたのか判らない。
ダイロン・ルーンの片眉がピクリとつり上がる。怒っているときの彼の癖だ。
「さっそく亭主気取りか?」
侮蔑の視線をリュ・リーンに向けたまま、ダイロン・ルーンはリュ・リーンに一歩近づいた。
「昨夜から部屋に戻っていないと聞いて探してみれば……。お前たちはどこまで私を愚弄すれば気が済むのだ」
背の高いダイロン・ルーンを見上げながら、リュ・リーンは青ざめて一歩退いた。足元に花壇の石積みの感触が伝わる。これ以上退がることはできない。
「ダイロン・ルーン……。俺は……」
「くだらない言い訳など聞きたくもない!」
叩きつけるようなダイロン・ルーンの言葉に、リュ・リーンはそれ以上何をどういえばいいのか判らない。
更にダイロン・ルーンが一歩近づいた。かつての彼からは想像もできないような厳しい表情を浮かべている。
リュ・リーンは気圧されたように身体をふらつかせ、バランスを失うと紅いカリアスネが咲き乱れる花園に娘もろとも倒れ込んだ。濃密な花の香りが辺りに散らされる。
「返してもらうぞ」
ダイロン・ルーンが娘の腕に手をかけた。リュ・リーンはどうすることもできずに、ダイロン・ルーンに抱き上げられた娘を見上げた。
「ダイロン・ルーン……」
リュ・リーンの呼びかけを無視するとダイロン・ルーンは背を向けかけた。その友の腕のなかで娘が身じろぎした。緩慢な動きで腕が上がり、うっすらと目を開ける。
「ん……。リュ……リ……ーン殿……下?」
娘が自分の名を呼ぶ。ダイロン・ルーンではなく、自分の名を。
リュ・リーンは花に埋もれた身体を起こすと、無意識のうちに娘へと手を伸ばした。その伸ばした腕が、続く娘の言葉で止まる。
「兄様……?」
え……? 今、彼女はなんと言った?
訳が分からず、リュ・リーンは恋敵と娘の顔を交互に見比べた。心配そうに歪むダイロン・ルーンの顔が、リュ・リーンのなかで娘の優しげな顔と重なる。
「ま……まさか。カ……デュ・ルー……ン……殿か……?」
おぼろな記憶のなかから、リュ・リーンはダイロン・ルーンの妹の姿を必死で思い起こした。
ダイロン・ルーンと同じ聖地では珍しくない白銀の髪。雪のように白い肌。そして、伏し目がちな瞳の色は……?
思い出せない。
リュ・リーンと視線を合わそうとしなかった友の妹の瞳の色はリュ・リーンの記憶から抜け落ちていた。
だが目の前にいる王の娘の顔立ちはダイロン・ルーンとよく似ている。
リュ・リーンは娘の顔立ちを聖地の民特有のものだと思っていた。
聖地の民は皆、よく似通った顔つきをしている。同族婚の多い地域では、必然的に似た顔立ちのものが多くなる。聖地とて例外ではない。
「ダ、ダイロン・ルーン。その娘がカデュ・ルーン殿なのか!?」
リュ・リーンは確認せずにはいられなかった。
「なんだと……?」
ダイロン・ルーンの顔に新たな怒りが刻まれたことにも気づかない。
リュ・リーンの身体が後ろに吹っ飛んだのは次の瞬間のことだった。鳩尾に響く激しい痛みに息が止まる。
「ぐ……」
「カデュ・ルーンか、だと? 貴様……! よくもそんな口を!」
娘を抱きかかえていたダイロン・ルーンの右足が自分の鳩尾を痛打したことが解るまでしばしの間が空いた。肺が空気を求めてもがいている。
「ダ……イ……」
リュ・リーンを見下ろすダイロン・ルーンの顔は怒りにどす黒く染まっていた。
「二度と妹に近づくな!」
氷よりも冷たく、ナイフより鋭い声で吐き捨てるように言い残すと、ダイロン・ルーンは回廊へと続くテラスの階段を上がっていった。
リュ・リーンは苦痛に顔を歪めたまま、その後ろ姿を見送るしかなかった。己の勘違いと優柔不断さが招いた結果だ。
頭のなかでもう一人の自分があざける声が聞こえる。
愚か者、愚か者……、愚か……者。
よろけるように自室のある棟へと戻ったリュ・リーンは彼のために奔走しているであろうウラートを探した。
「ウラート……! ウラートはいないのか!」
従者たちが慌ただしく走り回る使用人部屋の階へ足を踏み入れるとリュ・リーンは侍従長の名を呼ばわった。
「リュ・リーン殿下……!」
階段の手すりにもたれかかったままの主人の姿を見て従者たちが驚きの声を上げた。
それもそのはずだ。リュ・リーンは花壇に倒れ込んだときについた花の残骸や草汁に全身をまだらに染めたままなのだ。なんという姿をしているのか。
「ウラートはどこだ!」
彼らの驚きを無視してリュ・リーンが苛立たしげに声を上げた。従者の一人にリュ・リーンが視線を走らせると、天敵に睨まれた小動物のようにオロオロと従者が答えを返す。
「ウ、ウラート殿でしたら……殿下のお部屋に……」
腹立たしい。主人の質問一つに答えるためにどれほどの時間をかけるのか。
リュ・リーンは忌々しそうに舌打ちすると、自室のある上階へと重い足取りで階段を登っていく。
その自室のある階から慌ただしく足音が響いてくる。ウラートがリュ・リーンを探し回っているに違いない。
何をそんなに慌てているのか。探しているのはリュ・リーンのほうであろうに。
「ウラート!」
リュ・リーンは上にいるウラートに聞こえるように叫ぶと、未だに痛む腹部を押さえて階段の途中で立ち止まった。
遠慮容赦なく鳩尾に打ち込まれた蹴りで、きっと腹部には痣ができているだろう。あの場で胃のなかのものを吐き出さなかったのが不思議なほどだ。
「リュ・リーン……! どうしたのです、その格好は!」
階段の上に姿を見せたウラートが青ざめた顔で叫んだ。
「なんでもない! それよりも、先ほどの……」
「それどころではありません! ……王が! トゥナ王陛下が、リーニスへ向けて軍を動かされました! しかも指揮官は王ご自身だと……!」
一瞬、リュ・リーンは彼の学友の言っている意味が掴めずに目を瞬かせた。
「え……?」
親父が、なんだって?
「軍の規模およそ騎兵五〇〇名、歩兵一五〇〇名、工兵が一〇〇名! 先ほど、王都よりネイ・ヴィー卿の密書が届きました」
「な、何だと!? 何故リーニスに援軍がいるんだ! あそこには冬期の間、国軍の七割近くが配備されているのだぞ!」
「我々が聖地に出立したのと入れ違いでアッシャリー将軍から援軍要請があったようです。“リーニス砦は敵軍の手中にあり、カヂャの軍馬に我が平原は蹂躙されている”と!」
「ばかな!」
リュ・リーンは腹部の痛みも忘れて階段を駆け上がった。
リーニスはトゥナにとって生命線だ。あの地方を取られては自国は成り立たない。
トゥナ王国は巨大なチャルカナン大山脈によって東西に分断されている。
切り立った断崖に囲まれた大地を突きだしたワーザス半島の西端に王都ルメールは位置し、東部のリーニス平原に出るには半島を塞ぐ大山脈を越えなければならない。
およそ二百年前、ワーザス半島に閉じこめられていたトゥナ王国がリーニス王国を併呑してその版図を広げてより、カヂャ公国との戦が収まりを見せるのはトゥナが兵を動かせない冬に限られる。
だがそれですら、他国を利用する謀略を尽くしてのことだ。
リーニスの豊かな農産物やワーザスの金塊といった莫大な富を分配する条件で、エンダル北方同盟に加わるミッヅェル公国、ゼビ王国のカヂャ北方の国々から戦を仕掛けさせてかの国の戦力を削がせている。
その均衡が崩れない限り、冬期にカヂャ公国がトゥナを攻めることなどできるはずがない。
「何故だ! カヂャにこの時期、我が国を攻める余力はないはずだぞ。何があったんだ!」
ウラートの顔色がその一瞬で怒りに赤く染まる。
「東のグンディ帝国がゼビの王都付近に侵攻しています。ゼビはミッヅェルに援軍を依頼せざるを得ない切迫した状況です。
ゼビが滅びては、次はミッヅェルがグンディの餌食。両国ともカヂャを揺さぶるどころではありません!」
リュ・リーンの顔にも怒りが刻まれる。
「グンディの欲惚けじじいめ! カヂャに踊らされたか!」
トゥナは豊穣なるリーニス地方の作物によって国民を養っている。その豊かさが国の力を増強していたが、同時に人口を増加させてもいる。
「リーニスの残存兵数は!?」
リーニスが荒らされ、あろうことか奪取されては、氷原が大半を占める西側ワーザス地方の民が飢えに苦しむのは目に見えている。
「副都ウレアから北部にかけてはまだ五万の兵力が温存されています。ですがカヂャとの最前線のリーニス砦を守っていたアルマハンタ将軍の戦死で士気はがた落ちです。
カヂャの軍勢はリーニスの南部の大半を押さえたと。報告が届いた時点でザナ大河を下りながら北上し、オルナ山へ迫る勢いとか」
「くそ! アルマハンタが……!」
実直さを体現したようなアルマハンタ将軍の顔を思い出してリュ・リーンは顔を歪めた。彼の戦死はトゥナには大変な痛手だ。
リュ・リーンは脳裏にリーニス地方の各砦の配置を思い描く。
現在のリーニス地方にいる人物でましな者といったら南方ルキファ王国国境のユーゼ川上流部に配されているタタイラス将軍か、リーニス側からイナ洞門の修繕にあたらせているアッシャリー将軍くらいのものか。
ルキファに睨みをきかせているタタイラス将軍はともかく、アッシャリー将軍は早馬を王都に出した後は副都の守備に入っているはずだ。
簡単には副都が陥落するとは思えないが、予断は許さない状況であることに代わりはない。
「ダライが生きていれば!」
昨年に戦死したダライ将軍が存命していれば、状況は今少し変わっていただろうに。
リーニスの状況は切迫していた。いくら兵が残っていても指揮する者の絶対数が足りていない。
下士官たちの士気向上のためにも、強力な主導者がいる。だが王自らが出馬しても、一度散らされた指揮系統を再度まとめるのは容易ではない。
「ようやく雪が解け始めたとは言え、標高の高いチカ山を越える軍路はまだ無理です。安全なエンダル台地経由の軍路は聖衆王に許可を取る時間のない今回は選択できません。
王陛下は先月崩れて修繕し始めたばかりのイナ洞門を通る軍路を選ばれたのでしょうが……たとえ一〇〇名の工兵を投入したとしても、洞門の瓦礫を取り去るのに時間を取られ過ぎます」
「残りは航路だが……。狭海に流氷が残っている以上、使いものにならん。確かに親父ならイナ洞門を使うだろう。
だが使者の早馬ならともかく、大量の軍馬と歩兵を通すとなると崩れた洞門では狭すぎる! ……軍は今どこを移動している!?」
焦りの色を隠しもせず、リュ・リーンは自室へと向かった。彼の部屋にはトゥナとその王国内にあるアジェンの地形が記された地図がある。
自室の扉を蹴破るほどの勢いで開けると、リュ・リーンは書棚の端に押し込まれている巻紙を引っぱりだした。
「ウラート! ネイ・ヴィーの報告では、王の出立はいつだ!」
「援軍要請の使者の到着が我々の出立後の翌日。王の出立はその翌日です」
「何!? ……王ともあろう者がなんと急ごしらえな」
「今年は雪解けが遅かったですからね。たとえ軍馬と言えども、親善隊の我々と大差ない速度でしか行軍できないでしょう。ポトゥ大河沿いに行軍しているとして、ざっとこの辺りかと……」
リュ・リーンは無意識のうちに右手親指の爪を噛みながら唸り声を上げた。
「明日にもポトゥ大河とツェル川の合流地点にさしかかる。……ウラート! 親父を止めろ! リーニスには俺が行く!」
驚いてウラートがリュ・リーンの険しい顔を見る。
「リュ・リーン! 聖地での任務はどうするのです。あなたの代わりなどいないのですよ」
「判っている! だが王都を空にして良いわけがないだろうが。王都にはギイ伯爵が残っている。
あの危険極まりない男を監視の目もつけずに野放しにしておけるか!? 親父には、あの忌々しい義兄を押さえておいてもらわねばならん!」
リュ・リーンは一番上の姉と婚姻を結んだ驕慢な男の顔を思い出して歯がみした。
なんと間の悪い! たとえリーニスからカヂャを追い払えたとしても、王都を空けていては父が理不尽に玉座から追われる危険がある。
「……。判りました。ですが、あなたがここでの任務を放棄した、とギイ伯に揚げ足を捕られますよ」
「……今回の聖地訪問の目的はなんだ? ウラート?」
リュ・リーンは頭一つ分上にあるウラートの顔を見上げた。意地の悪い笑みを浮かべている。
「え? 神殿への供物の献上と、ロディタリス大神殿からの親書を枢機卿に手渡して……」
「そうだ。供物献上と枢機卿の取り込み。この二つだ」
ウラートはリュ・リーンの真意が見えずに困惑した。
「義兄上にその栄誉の一つを譲ってやろうではないか」
「リ、リュ・リーン! なんてことを言うのです! 自分から勝ちを譲るのですか!」
とんでもないことを言い出した主にウラートは震え上がった。
王子に与えられた任務の代理を受けたとなれば、当のギイ伯爵は今後それを鼻にかけて、尾ひれをつけて喧伝してまわるだろう。
「勘違いするなよ、ウラート。あのバカ義兄に気難しい枢機卿が会うと思うか?」
「う……。まさか、伯爵に恥をかかせるつもりですか!?」
気位の高い枢機卿が王族に名を連ねるとはいえ、王の後継者以外の者にそう易々と面会を許すとはとても思えない。
ニヤリ、と口を歪めて自分の言葉を肯定してみせる主にウラートは目眩すら覚えた。この王子は災いすら、自分の地位を固めるために利用してみせるつもりなのだ。
「あぁ、リュ・リーン。あなたと言う人は! ……いいですか、その策略は諸刃の剣だということを忘れないでくださいよ」
「あの男に枢機卿相手の交渉などできるか! それに俺が交渉に当たったとしてもトゥナに有利な条件で枢機卿を取り込める可能性は低い。ギイ家の人間もそれを狙っていたんだ。あの男が同じ立場に立たされたときの顔が見てみたいね!」
ギイ伯爵がリュ・リーンの失敗を手ぐすね引いて待ちかまえているように、今度はリュ・リーンが義兄の失態をあざ笑ってやろうというのだ。
しかし危険な賭には違いない。
「伯爵を引っ張り出すのに、親父がいる。俺から言い出しては、義兄に無駄な恩を売るだけではなく、俺自身が負けを認めるようなものだ。王命として聖地にご足労願おうか。なぁ、ウラート?」
義理の兄の吠え面を想像しているのか、リュ・リーンの顔がいっそう意地の悪い表情を刻んだ。
ウラートは不幸な目に会う伯爵にほんの少し同情したあと、ため息とともにその感情を押しやり、眼前に迫っている危機へと頭を切り換えた。
「主命謹んで拝します。小官自らが王陛下の元へ参じ、必ずや吉報をお届けします!」
リュ・リーンの前に恭しく膝をつくと、ウラートは右掌を心臓の上に当て、主に向かって頭こうべを垂れた。
「聖地との境界線辺りで王と会えるだろう。すぐに俺も軍と合流する。後のことはその時に……」
ウラートの言葉に頷いて見せるリュ・リーンの顔は力強く、謀略と戦術を駆使して戦場を駆け巡っているときの表情になっていた。
その後、ウラートは律儀にも自分の身支度を済ませながら、リュ・リーンの世話を焼いてアジェンの王宮を飛び出していった。
二人の従者を引き連れてポトゥ大河沿いに駆け去るウラートの姿を見送った後、リュ・リーンは自室へ戻り開いたままの窓から外を眺める。
一時の忙しなさが過ぎてしまうと、今朝の中庭での顛末が思い起こされた。
リュ・リーンは幼い頃のカデュ・ルーンの容姿をもう一度思い起こしてみる。やはりはっきりとした記憶は残っていない。
何故、思い出せないのか。大事な友の妹だと言うのに。
リュ・リーンは爪を噛んだ。ウラートは子供っぽいと言うがリュ・リーンが考え込んでいるときの無意識の癖だ。
相変わらず、カリアスネの花は吹く風に優しげに揺れている。
古代の勇者の一族に捧げられたと言う、この花の姿はリュ・リーンのなかで聖地の王の娘の姿と重なって見えた。
「カデュ・ルーン。何故あなたなのだ。何故? ……何故ダイロン・ルーンの不興を買ってまでトゥナに嫁ぐことを承諾したのだ?」
自国の危機にも関わらず、己の関心がカデュ・ルーンの上から去らないことにリュ・リーンは苦笑を禁じ得ない。
聖地にきてからの自分はどうかしている。彼女のことになると、どうしてこうも情けない様をさらすのか。
第03章:遠き日の涙
帰ってくるなりリュ・リーンは手近にあったテーブルの足を蹴り折り、椅子を壁に投げつけて叩き壊した。
それでも怒りが収まらないのか、傾いだテーブルを殴りつけてその卓上にヒビを入れる。
「リュ・リーン! なにをしているんです!」
リュ・リーンに付き従っていった従者の一人から王子の様子を聞き、ウラートは従者たちを王子の部屋から遠ざけたあと、一人この部屋へと飛んできたのだ。
「ウラート!! お前は知っていたのか!? ……いや、知っていたんだな! 俺と聖衆王の娘との縁談のことを!!」
恐ろしい形相でリュ・リーンはウラートを怒鳴りつけた。ウラートの肩までしかないリュ・リーンがウラートの胸ぐらを締め上げて眼をつり上げる。
「さぞ俺のことを滑稽に思っただろうよ。お前には俺が親父たちの手の中で踊っている玉にしか見えなかったってわけだ!」
「リュ……・リー……ン……」
苦しそうにもがくウラートを更に締め上げるべくリュ・リーンは腕に力を込めた。
同年の若者よりやや小柄なリュ・リーンだが、戦場で自ら馬を駆り大剣を振るっているその腕力は強い。このまま締め上げればウラートの息の根は止まるだろう。
だがウラートの顔から血の気が引いた頃合いを計ったようにリュ・リーンは腕の力を抜いてウラートを解放した。
床にくずおれ息を吸おうとむせるウラートを冷たく見下ろしたままリュ・リーンは壁にかかった自分の剣を引き抜いた。
「ウラート。親父から何を言われてきた?」
剣の切っ先はウラートの眼前にぴたりと据えられている。
「……なにも……言われては……」
「嘘をつけ! 親父から、この話のお膳立てをするよう言われてきただろうがっ!」
落雷のような怒声がウラートの頭上から降ってきた。眼前の切っ先は相変わらず微動だにせず突きつけられていた。
「出立前のあの時期のオリエルとの話は、俺が断ることを見越してのまやかしだったというわけか。ふざけたことを! ウラート。俺を愚弄してただで済むと思うなよ」
リュ・リーンの怒りはいっこうに収まりをみせなかった。今ここでウラートの首をはねてもおかしくはないほどの憤怒の形相が刻まれている。
このままでは流血沙汰は避けられない。
「……だったら断りなさい」
「なに!?」
今まで大人しくリュ・リーンのされるがままになっていたウラートがリュ・リーンの顔を睨み返した。
リュ・リーンの剣の切っ先を避けながら、ウラートはリュ・リーンの怒りを受け止めるように彼の主人の真正面に立ちはだかった。
「今までのお相手のように、聖地の姫君とのお話もお断りになればいい! ……簡単なことでしょう。あなたにとっては!」
「貴様は!」
リュ・リーンの深緑の瞳が異様な光を湛えた。人の眼とは思えない、とトゥナの宮殿に出入りする貴族たちが陰で囁いているのをリュ・リーンもウラートも知っていた。
リュ・リーンは剣を退くと自分を睨みつける侍従長の腹部めがけて足を蹴り出した。剣を持ったままでは不安定な蹴りだ。ウラートにあっけなく避けられる。
「何を怒っているのです。聖衆王はあなた次第だと仰せですよ。あなたから断っても不都合なことなどありません。断り文句が思いつかないのなら、いつものように相手の姫君に嫌われたらいい!」
ウラートの言葉に衝撃を受けたのか、リュ・リーンは剣を取り落とした。鈍い音を立てて絨毯の上に剣が転がる。
当のリュ・リーンは自分が剣を落としたことにも気づいていない様子だ。
リュ・リーンの動揺ぶりにウラートのほうがたじろいだ。リュ・リーンらしくない。
「俺が……?」
ウラートからしてみれば、簡単な理屈である。
今までリュ・リーンがしてきたようにわざと相手に嫌われて断られてしまえばいいのだ。
相手が聖衆王の娘となれば多少のもめ事は起こるだろう。もしかしたら聖衆アジェスの不興を買うかもしれない。
だが伝え聞く聖衆王の人となりを聞いた限り、それが決定的な破局を招くようには思えなかった。
それを考えるとリュ・リーンの様子は今までの彼の態度からすると異様だった。
彼は破談を望んでいるのではないのか!?
リュ・リーンは自分の動揺に気がついていなかった。傍らのウラートの存在も忘れて茫然とその場に座り込んでいる。
彼が生まれて初めて遭遇したジレンマであったろう。
だがウラートにそれが判るわけもない。
「リュ・リーン! しっかりしてください。リュ・リーン!?」
ウラートの声も聞こえないのか、リュ・リーンは床の一点を見つめたまま動かない。
「どうしたんです、リュ・リーン!」
ウラートがリュ・リーンの身体を激しく揺するが、彼の主人は何の反応も示さなかった。
今までに見たこともないこのリュ・リーンの姿にウラートは全身から血の気が引いていくのを感じた。
アジェンに来てからリュ・リーンはおかしくなっている。さしものウラートもどうしたらいいのか判らず、リュ・リーンを目の前にただ途方にくれた。
『俺が……諦める? それとも……奪い取る、のか?』
リュ・リーンの頭の中をぐるぐると昔の情景が巡っていく。そして昨日からの出来事が……。
親の作った道に乗るのか、自分の意志を優先させるのか。巡っていく思いは終止符を打たず、だた彼の心を千々にかき乱して止むことはなかった。
『ダイロン・ルーン。あなたは俺を恨むだろうか?』
予想外のリュ・リーンの反応にウラートは困惑しつつ、午後からの主人の予定を体調不良との名目で取り消して今日一日分は何とか取り繕った。
だが明日以降の予定も詰まっているのだ。
リュ・リーンが今夜中に元に戻る保証はない。明日以降もあの状態のままだったら、まずいことになる。
「ウラート殿」
自分の補佐として同行させた若者が近づいてきて、耳打ちする。
「何!? 聖衆王陛下のご息女が?」
トゥナ王家の一行があてがわれた棟の入り口に聖衆王の娘が見舞いに来ているとの伝言にウラートは青くなった。
今のリュ・リーンの姿をアジェンの者に知られるのは芳しくない。人の噂に戸はたてられない。
この様子がもし故郷でリュ・リーンを快く思っていない連中にでも知れ渡ったら、トゥナでのリュ・リーンの立場は微妙なものとなるかもしれない。
「私が行く……。他の者を遣わしては礼を失しよう」
不安そうに他の侍従たちが見守る中、ウラートは王の娘と対面すべく棟の入り口へと向かった
控えの間として使っている部屋に足を踏み入れると、ウラートは聖地の支配者の娘と対峙した。
相手に不快感を与えないよう言葉には細心の注意を払い、あくまでも最上の礼節を尽くしつつ、面会を求める相手の要求をかわすのは容易なことではない。
「では、どうあってもお会いすることは叶いませんのね」
「申し訳ございません。本当に王子はつい先ほどお休みになったばかりなのです。ご来訪は目を覚ました折に必ずお伝えしたしますので、今日のところはなにとぞお引き取りを」
共も連れずに訪ねてきた娘をいぶかりながらも、ウラートは深々と頭を下げた。
首から聖衆王の紋をかたどったペンダントを下げている以上、彼女は王の近親者に違いないのだから。
「判りました。今日は諦めることにしますわ。……殿下のご回復をお祈りしています」
あっさりと相手が退いたことに驚きつつも、ウラートは油断なく王の娘を観察した。
歳の頃からいってリュ・リーンとの縁談が持ち上がった娘であろう。柔らかな物腰の端々に彼女が本当にリュ・リーンを案じてやってきたことが伺えた。
「ご無礼の段は平にご容赦を」
リュ・リーンが部屋へ籠もっていることは嘘ではないが、休んでいるかどうかはウラートでも判らない。いや、きっと茫然と座り込んでいるだけだろう。
あながち誇張ではない嘘に王の娘はあっさりと引き下がり帰っていった。
彼女が去った後、ウラートは安堵の吐息を大きく吐くと、ふとあの娘ならリュ・リーンも気に入りそうなものだが、と埒もない考えに一瞬浸り苦笑した。
リュ・リーンは親の言いなりになるのが厭なのだ。相手の容姿や性格など考慮してはいまい。
もう少し自分の将来を考えて欲しいものだと、主人を心配しつつウラートは同僚たちに報告をすべく奥部屋へと引き上げた。
夜半になり従者たちも寝静まった頃リュ・リーンはそっと窓を開けて外を眺めた。
レイクナー家でこうるさい雀よろしくお喋りする貴婦人たちから今回の縁談の話を耳にしてから、リュ・リーンは怒りを抑えるのに一苦労だった。
帰ってきて暴れた後の虚脱状態から少しは立ち直った。
だがやるせない気持ちが消えたわけではない。王の娘やダイロン・ルーンのことを考えると心が掻きむしられるようで、叫びだしたくなってくる。
ダイロン・ルーンの怒りの理由はこれだったのだ。自分の想い人を政治の道具として利用しようとしている聖衆王やトゥナ王家が許せないのだ。
きっと彼はリュ・リーンも承知してここへ来ていると思っているだろう。
自分の知らないところで事が進んでいく苛立ち以上に、友に与えたであろう屈辱を考えるとリュ・リーンは身体の震えが止まらなかった。
と同時に、いかなる運命であれ王の娘に惹かれていく自分も否定できないでいた。
自分の欲する者を手に入れれば友を失い、友を取ればリュ・リーンは自分の魂の半分が砕け散ってしまうのではないかと思うほどの喪失感を感じるであろう事が判っていた。
どちらも取れない、だがどちらも取りたい。
夜になっても花の芳香は立ちのぼってリュ・リーンの鼻腔にその馥郁たる香りを運んできた。
その香りに誘われたのか、リュ・リーンはふらりと窓辺を離れると中庭に下りる廊下を足音を忍ばせて歩いていった。
月明かりのなかを庭に下りてみると花の芳香が身体に絡みついてくるような錯覚に陥る。どうして夜でもこれほど花の香りがするのだろう。
リュ・リーンは胸いっぱいに香りを吸い込み、その後深いため息を吐いた。アジェンにきてから自分はため息ばかりついている。
自嘲に顔を歪める。朝に少女と会った場所に立ち、自分が蹴散らした花の残骸を見下ろしてリュ・リーンは泣きそうな気分になった。
日頃はえらそうに自分の道は自分で決めるなどと言っておきながら、いざその時がきてみればなんと不甲斐ない様だろうか。
大人になるということ、一人前として扱われるということの重みを今リュ・リーンは厭というほど感じていた。どちらかを選択しなければならない。それは彼自身が決めなければならないことだ。どちらかを……。
「リュ・リーン殿下」
すぐ脇からの小さな声にリュ・リーンは飛び上がらんばかりに驚いた。そして、振り返ったその視線の先にいた人物の姿に彼は逃げ出したい衝動に駆られた。
「姫……。いつからそこに?」
今もっとも会いたくて、もっとも会いたくない人。高鳴る胸の動悸を必死になだめながらリュ・リーンは王の娘と向き合った。
娘は寝間着に着替えているようだった。柔らかなガウンをぴったりと身体に巻きつけている。
「ほんの少し前から……。一度呼びかけたのですけど気づかれませんでしたか?」
朝と変わらない穏やかな笑顔で少女はリュ・リーンに語りかけた。娘の声が耳に心地よい。
「すみません。気がつきませんでした。……夜の散歩ですか、姫」
「いいえ」
首を振って否定する娘の髪が肩で揺れている。月光が髪の上を踊っていく。
「夕刻にお見舞いに伺ったときはお休みだと聞きましたけど、ここに来れば殿下にお会いできるような気がして。お加減はどうです? 少しは気分が良くなったのかしら」
きっとウラートが取りなしたのだろう。リュ・リーンは自分が逃げ隠れしていたようで、恥ずかしさに顔を赤らめた。自分は彼女を騙しているのだ。
「見舞っていただいたとは知りませんでした。すみません」
リュ・リーンはまともに彼女の顔を見ることができなかった。
「殿下はさっきから謝ってばかりね。わたしが勝手に押しかけていったの。お付きの方たちはさぞ困ったことでしょうね? でも、回復されたみたいで良かった」
少女はさらにリュ・リーンに近づき、その白い手をリュ・リーンの額に当てた。夜気で少し冷えた娘の手のひらが肌に心地いい。
彼女は本当に自分のことを心配してくれている。リュ・リーンは歓喜の叫びをあげている自分の心をどうすることもできなかった。
「顔色もいいし、熱もありませんわね」
娘が額に置いていた右手をリュ・リーンの頬へと滑らせた。
相手の頬を触るのが彼女の癖なのだろう。柔らかい手のひらの感触を感じ、リュ・リーンは彼女の手を取った。そっと触らなければ壊れてしまいそうだ。
彼女の右手に軽く頬ずりしたあと、リュ・リーンはその手に口づけした。
娘の手がピクリと震えたがそれ以外の抵抗は見せず、彼女はされるがままにリュ・リーンに右手を預けている。新緑の瞳にも動揺は見えない。
彼女は何もかも判っていると言いたげにリュ・リーンに微笑みかけた。
胸苦しいような焦燥感と喉の乾きにも似た期待にリュ・リーンは少女を抱き寄せた。
相変わらず娘は抵抗しない。ガウンの下から感じる肌の温もりは森の小動物たちのそれに似て繊細で無防備だ。
リュ・リーンはそっと腕に力を入れる。
彼女に触れている部分すべてが火に焼かれるように熱い。乱れ気味なリュ・リーンの呼吸の下で娘がホッとため息をつき、ゆっくりと彼を見上げた。
そして、その唇が信じられない言葉を紡ぐ。
「わたしをお連れください。王都へ……」
リュ・リーンの舌は痺れたように動かなかった。心臓は魔王の冷たい手に鷲掴みにされたように凍りつき、目の前はくらくらと揺れながら視点が定まらない。
リュ・リーンは両腕の拘束から娘を解放するとよろよろと後ずさった。
「嘘だ……」
ようやく絞り出すようにうめき声を上げたリュ・リーンを今度は娘が信じられないような顔をして見つめた。
何を言っているの? とその表情は問いかけている。
リュ・リーンの言葉の意味を測りかねているいるようだ。なぜそんなことを言われるのか判らない、と。
「リュ・リーン殿下……?」
「嘘だ! あなたには……! いや、王に言われて俺の元に来たのか? 憐れみで来たのなら、やめてくれ!」
悲鳴に近い叫び声をあげるとリュ・リーンはきびすを返して城内へと駆け込んだ。自分の背中を見つめる少女の視線が痛い。いっそ泣き叫べたらいいのに。
リュ・リーンは自室へ駆け戻るとベッドへと倒れ込んだ。
到底、王の娘の言葉を信じる気にはなれなかった。
ダイロン・ルーンへ向けた親愛の情を表した彼女の微笑みは決して偽りのものではなかった。
あれが彼女にとっての真実なら、今のリュ・リーンに向けて囁いた言葉は政略のための婚姻に服従する誓約にしか聞こえない。
「リュ・リーン!」
馴染みのある学友の声にリュ・リーンはビクリと肩を震わせた。慌てたような足音の後に枕元にかしずくウラートの顔が見えた。酷く心配そうな表情を浮かべている。
「リュ・リーン……」
「なんだ……?」
どうしようもない苛立ちにリュ・リーンは不機嫌な声を出した。誰かに八つ当たりしたい気分だ。
「……」
何も言わずに黙り込んでいるウラートの様子に更にリュ・リーンは苛立ちを強めた。
「なんの用だ! 用がなければ、さっさと出ていってくれ!」
一瞬の躊躇いを見せた後、ウラートは遠慮がちに主人に問いかけた。
「彼女が……好きなのですね?」
リュ・リーンの胸がズキリと痛んだ。改めて指摘されるとなお苦しい。いっそ嫌ってしまえれば、どれほど楽だろう。
「すみません。覗き見するつもりはなかったのです。先ほどあなたが中庭に出ていく足音が聞こえたので、後をつけたら……」
何も言わないリュ・リーンの態度を肯定と受け止めたのか、ウラートはベッドの縁に座り直すと、幼子をあやすときのようにリュ・リーンの髪をなで続けた。
母親が亡くなってから幼いリュ・リーンをいつもウラートはこうやって寝かしつけたものだ。自分も十歳にもならない子供だったが。
リュ・リーンは幼いころから人前では泣かない子だった。ウラートはそのことをよく知っている。
自分の瞳の色が人ならざる者の持つ瞳だと謗られても、可愛げのない子供だと陰口をたたかれても、彼は人前では泣かず、独りで部屋に籠もって声を上げずに泣く子だった。
「ウラート……」
リュ・リーンが伏せていた顔を上げてウラートの顔を見上げた。涙はない。どこか疲れ切った表情だった。
「俺の涙は涸れてしまったのかもしれない。悲しいのに、惨めなのに、あふれるどころか滲んでもこない」
自嘲を含んだ声が震えている。
それは悲しみを感じなくなるほど傷ついているからだ、とはウラートはついに口にすることができなかった。
強くなれ、とウラート自身がいつもリュ・リーンに言っている。そしてトゥナ王も国民も、暗黙のうちにそれを強要する。
強くなければトゥナでは認められない。弱い王など国を滅ぼすだけだ。
「リュ・リーン。父王への意地など捨てなさい。彼女が好きなら、この縁談を受ければいいではないですか?」
リュ・リーンが折れればいい。見栄や意地など捨てて、彼女への気持ちを取ればいいのだ。そうすべきだ。
たとえ政略での婚姻であってもリュ・リーンにとって不利益などないのだから。
「違う。彼女はダイロン・ルーンの恋人なんだ」
血の気の引いた顔色のままリュ・リーンが囁いた。まるで病人のようだ。
「な……! そんなバカな……!」
ウラートは目眩を覚えた。
トゥナ王国から持ち込まれた縁談だとはいえ、聖衆王は想い人のいる娘をリュ・リーンと娶せようとしているのか。
それでは王の娘に想いを寄せているリュ・リーンが傷つくばかりだ。
「今朝早くに中庭でダイロン・ルーンと会っている彼女を見た。あんな綺麗な笑顔を恋人以外の男に見せる女がいるか?」
ウラートは茫然とリュ・リーンの声を聞いていた。どう言ってリュ・リーンを慰めてやればいいというのだ。リュ・リーンはこれ以上はないと言うほど傷ついているのだ。トゥナ王はこんな縁談を持ち込むべきではなかったのだ。
今は弱くてもいい。そう言ってやれない自分が恨めしく、ウラートは彼の主人の傷が少しでも癒えないものかと、彼の髪を優しくなで続けた。
「リュ・リーン。こんなところで何やってるんだ?」
頭上からの声にリュ・リーンは高い塔の窓を見上げた。一人の少年と視線が合った。
「ダイロン・ルーン……」
なんと答えたらよいのやら。リュ・リーンは口ごもったまま相手を見上げ続けた。
「登ってこいよ。見晴らしがいいぞ、ここは」
リュ・リーンの様子など気にした様子もなく、ダイロン・ルーンは友を手招きしている。
黒髪の少年は少し躊躇ったあと、友人に頷き返して塔の入り口をくぐった。
螺旋で急勾配の階段は少年の足には少しきつい。途中からは息が切れてきた。だがダイロン・ルーンも登ったのだ。
自分に登れないはずはない、とよろけそうになる足を踏ん張って上へ上へと歩を進める。
下を見ると入り口が随分と小さく見える。
どれくらい登ってきたのか忘れかけたころ、ようやくダイロン・ルーンの待つ頂上へとたどり着いた。下ばかり見ていた視線をふと横へずらす。
「あれ……?」
塔の頂上を一周するように作られた足場の向こうに扉が見える。
「やっと上がってきたか」
リュ・リーンの右手から声が聞こえ、それに続いて銀髪の少年の顔が覗く。
「なんだ? 何を見てるんだ、リュ・リーン?」
「ダイロン・ルーン。あっちの扉には何があるんだ?」
リュ・リーンは自分の視線の先にある扉を指さした。ダイロン・ルーンはチラリとそちらに視線を向けると、何を言ってるんだという顔つきで友を見た。
「神殿につながってるに決まってるだろ?」
「あれ? ……あそこからも神殿に出入りできるのか?」
驚いて聞き返すリュ・リーンの顔を見て、ダイロン・ルーンは更に怪訝そうな顔をする。
「おい、リュ・リーン。お前、どこからこの塔に入ったんだ?」
「え? 下の入り口から……」
「えぇ!? 下から登ってきたのか!?」
呆れたようにダイロン・ルーンが叫んだ。
「お前……よく登ってきたな」
「え? ダイロン・ルーンは下から登ったんじゃないのか!?」
リュ・リーンはこのときやっと自分が勘違いをしていたことに気づく。息を切らして登ってきた自分が滑稽だ。
「大人だって嫌がる螺旋階段を……。物好きな奴だよ、お前は」
リュ・リーンは改めて階段の下を覗き込んでぞっとした。
よくもまぁ、この細い階段を延々と登ってきたものだ。塔の下に続く螺旋階段は際限なく続く、とぐろ巻く蛇のように伸びている。
「し、知らなかった……。神殿のどこでつながってるんだよ、あの扉」
自分の足を酷使して登ってきた苦労が、とてつもなく無駄なことに思えてリュ・リーンはため息を吐いた。
「なんだ、本当に知らないのか?学舎に向かう途中で二股に別れている道をいつも右に折れるだろ? あそこを左に行くのさ。まっすぐここにつながってるよ」
ダイロン・ルーンは笑いながらリュ・リーンの質問に答えた。リュ・リーンはさらにもう一度ため息を吐くと、疲れた足をさすって座り込む。
「おいおい。せっかく苦労して登ってきたんだ。見てみろよ」
ダイロン・ルーンの呼びかけにリュ・リーンは大儀そうに立ち上がると、彼の学友が眺めている彼方を見遣った。
「わぁ……。きれいだ……」
二人の視線の先には、雪解け水とポトゥ大河からの水流を受けて満々と水を満たす大タハナ湖が広がっていた。
遮るものが何もない。なだらかな平原のなかの巨大な湖の水面は陽光にキラキラと輝いて、もう一つの太陽がそこにあるような目映さだった。
「この時期、ここからの眺めがアジェンのなかで一番綺麗なんだ。どうだ? 苦労して登ってきた甲斐があったろ?」
「広いな……。なんて広いんだろう」
茫然と呟くリュ・リーンの横顔を見て、ダイロン・ルーンが嬉しそうな笑い声をあげた。
「そうだ。水神の住まいたる湖はどこよりも広いのさ」
陽気に、なんの憂いもない笑い声を響かせてダイロン・ルーンはリュ・リーンの肩を軽く叩く。
「行こう!」
「え? どこへ?」
驚いて聞き返すリュ・リーンの額を指で小突きながらダイロン・ルーンが言った。
「忘れたのか。養護院へ連れていってやるって言ったろ?」
「えぇっ!? で、でも妹が人見知りするって……」
塔の扉を開けて、神殿への石橋を渡り始めたダイロン・ルーンの後ろを追いかけながらリュ・リーンは本当に行っていいものかと、首を傾げた。
ダイロン・ルーンには両親がいない。正確に言えば四年ほど前に病気で亡くなったらしいのだが。
聖地の慣例に従って、成人前に両親を亡くした子供たちや経済的貧困層の子供たちは孤児を預かるための施設、養護院へ入れられる。
父親のカストゥール侯爵の名を継ぐには幼すぎたダイロン・ルーンは、妹と二人で養護院で暮らしている。
これはどんな貴族でも例外はない。逆に言えば、どんなに貧しい家の子供でも平等に扱われる施設だ。
リュ・リーンは以前に自分が下宿しているラウ・レイクナー家へダイロン・ルーンを招いたことがある。レイクナー夫人に薦められてのことだったが。
その時にダイロン・ルーンと約束したことがあった。ダイロン・ルーンの暮らす養護院への招待だ。
だがダイロン・ルーンの妹は極端な人見知りだとその後すぐに人づてに聞かされた。
妹を気遣うダイロン・ルーンが気軽にリュ・リーンを呼ぶとは思えなかったので、リュ・リーンは諦めていたところだった。
「なんだ、妹のこと気にしていたのか? 大丈夫だよ。それに……」
途中で言葉を切ると、ダイロン・ルーンは後ろのリュ・リーンを振り返って意味ありげに笑う。
「お前、もうすぐトゥナに帰るんだろ?」
ぎょっとしてリュ・リーンは立ち止まった。
確かに半月ほど前、トゥナの王都ルメールから使者がきて手紙を置いていった。その手紙には父王からの命で来月末には帰郷するよう記してあったのだ。
突然の命にリュ・リーンは困惑すると同時に落胆した。
まだ聖地にきてから半年ほどだ。ようやくここにも馴れてダイロン・ルーンのような友人も出来始めていたところなのに。
暗い顔をするリュ・リーンの頭をくしゃくしゃと掻き回し、ダイロン・ルーンが口を尖らせた。
「水臭いぞ。なんで教えてくれないんだよ」
リュ・リーンは俯いたまま、どう答えていいのか迷った。
「遠慮してたんだろ?」
その通りだった。
リュ・リーンと違ってダイロン・ルーンには友人が多い。
世話好きで、誰とでもうち解けるダイロン・ルーンから見れば、ほんの半年ほどの、しかも人から避けられるような容姿をしたリュ・リーンなどすぐにでも忘れてしまう存在に思えた。
自分の事情など話したところで、それをまともに聞いてもらえるとも思っていなかったリュ・リーンは黙って帰ってしまおうかと考えていたのだ。
俯いたままのリュ・リーンの腕を引いて、ダイロン・ルーンは歩き始める。堂々としたその足取りには、気負いも傲慢さもなかった。
「お前、最近元気なかったろ? 気にしてはいたんだけど……。叔父上や枢機卿に聞かなければ、気づいてやれないところだったよ」
やはりダイロン・ルーンは叔父である聖衆王にリュ・リーンの帰都のことを聞いたのだ。
「帰ってしまうのは、仕方ない。でも……約束を守れないのは、厭だ」
黙ったままのリュ・リーンの反応を見るように、一語一句を噛みしめながらダイロン・ルーンは言葉を紡いだ。そして彼の小さな学友の肩を抱く。
ところが、その抱きしめた肩が小さく震えているに気づいて、ダイロン・ルーンは驚いて立ち止まった。
「リュ・リーン……?」
ダイロン・ルーンはリュ・リーンの顔を覗き込んで慌てた。リュ・リーンは目に涙を一杯に溜めていた。
「お、おい。リュ・リーン……」
ダイロン・ルーンはどうしてよいか判らずに立ちつくす。なぜ泣かれるのか判らない。
「……」
「え? なんだって?」
リュ・リーンがくぐもった声で何か囁いた。ダイロン・ルーンはそれを聞き取ろうと顔を寄せる。
「ありがとう……」
ようやく聞こえた声は涙に震えていた。
自分は感謝されるようなことをしただろうか?
ダイロン・ルーンはリュ・リーンへの返事を思いつかず、口を二~三度パクパクと開閉させたが、言葉として出てきたのは想いとは別のものだった。
「な……涙を拭けよ。王になる男が簡単に泣くな」
ようやくそれだけの言葉を発すると、ダイロン・ルーンは自分のハンカチをリュ・リーンへ差し出した。
第02章:恋情
夜明け頃にリュ・リーンは目を覚ました。気の早い小鳥たちのさえずりが小さく聞こえる。
昨夜は疲れていたのでぐっすり眠ったはずなのだが、身体は未だに怠さを残している。
リュ・リーンは身体をベッドから無理に引き剥がすと、中庭に面した窓をそっと開けてみた。
大陸の北端部に位置するこの地方にしては暖かな空気が流れ込んできた。薄く朝霧が出ているようだ。たぶん夜中に雨でも降ったのだろう。
大きく息を吸い込んだ空気に雨の残り香が含まれていた。
城郭の向こうには青い水を湛えた大タハナ湖が見える。その向こうの黒い稜線の彼方にトゥナの首都ルメールがあるはずだ。
リュ・リーンは感傷的な考えなどとは無縁の精神の持ち主だったが、いずれは自らの手で治める氷原の大都にはやはり他の都市とは違った感慨があった。
小鳥たちのさえずりが大きくなってきた。霧が少し薄らぎ、中庭の花の色が鮮やかさを増してくる。
故郷でも見慣れた花たちを眺めていたリュ・リーンは、花園の中に動く人影を見いだして釘付けになった。
衣装の色こそ違うが、そこには昨夜の舞姫が鳥たちと戯れている姿があった。
「あれは……!」
若草色の緩やかなドレスの裾が彼女の足の動きに応じてヒラヒラと揺らめき、高く天に掲げた右手の指に瑠璃色の小鳥が止まってさえずっている。
リュ・リーンは彼女のまわりだけが光り輝いているような錯覚に陥った。
幻想的でさえあるその空間は、高名な画家による宗教絵画のような気高さに満ちている。
朝靄のなかで彼女の表情をハッキリと捉えることはできないが、彼女の身体の動きが今この時間を楽しんでいると語っていた。
リュ・リーンは動くことさえできずに、ただ彼女の動きに魅入っていた。
ほんの少しの物音で飛び立ってしまう小鳥たちのように、彼が少しでも動いたら娘はその場からかき消えてしまうのではないかと思われた。
「……!」
彼女のまわりに集まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
鳥たちの飛んでいく軌跡を追う娘の視線がふと背後に注がれた。リュ・リーンもつられてそちらに眼をやる。
「ダイロン・ルーン……」
昨夜リュ・リーンにあからさまな敵意を向けていた若者が中庭に面したテラスの階段に立っていた。
彼の口が動くのが見えた。何ごとかを娘に伝えているようだ。だが高い位置から二人を見ているリュ・リーンには二人の会話はまったく聞き取れない。
ダイロン・ルーンの表情が今朝は穏やかだ。昨夜の険しい表情など想像もできないほどに。
あれが本来のダイロン・ルーンの顔なのだ、とふとリュ・リーンは思い至った。
娘が踊るような足取りで若者に近づいていく。
リュ・リーンは無意識のうちに身体を強ばらせた。聖衆王の娘と聖地アジェンの大貴族、誰が見ても似合いの二人だ。
表情を見ればお互いに気を許した者同士なのだとすぐに判るほど二人の表情は明るかった。
知らぬ間に王の娘に惹かれていく自分自身の心が恐ろしい。リュ・リーンは目の前の光景に嫉妬している己に身震いした。
「俺の入り込む余地など、ない……か」
何を考えている? 昨日一度見ただけの娘ではないか。
リュ・リーンよ、お前は友人の恋人を奪うほどのたいそうな人間なのか? それとも敵意を見せた男など友人ではないか? だから、その男に恋人がいることを嫉んでいるのか?
どこからともなくもう一人の自分が問いかけてくる。苛立ちが募った。
先ほどまで光に満たされていた心が瞬く間に萎んでいくのが判る。……なんと弱い人間なのか、自分という人間は。
沈んだ気持ちのまま、それでも二人の姿を見やるリュ・リーンの背後から声がかかった。
「リュ・リーン。もう起きていたのですか?」
彼の忠実な学友ウラートの声だ。
主人を起こしにくるのは彼の毎朝の日課なのだが、珍しく今日は自分から起き出しているリュ・リーンの姿に驚いたようだ。
普段のリュ・リーンは非常に寝起きが悪い。
声をかけたくらいでは眼を覚ましていても絶対にベッドから降りないし、起こした後でもすぐにベッドに転がり込みそうな顔をしているのだ。
「どういう風の吹きまわしです? あなたが自分からベッドを出るなんて。……まぁ、仕事が一つ減って助かりますけどね。……リュ・リーン?」
皮肉を言っているのにリュ・リーンは窓辺からこちらを振り返りもせず、その背中は不機嫌さを現してもいなかった。
どうも昨夜から様子が変だ。
ウラートはリュ・リーンの立つ窓辺へと近づき、彼の頭越しに外を見まわした。
「……?」
中庭には花が咲き乱れているばかりで、他に変わった様子はなかった。
リュ・リーンはいったい何を見ているのだろうか?
ウラートは明らかに落ち込んだ表情をしている主人の顔を覗き込む。
「リュ・リーン。昨夜から変ですよ。宴でなにがあったのです?」
ウラートは努めて優しげな表情を浮かべてリュ・リーンに声をかけた。彼にとってリュ・リーンと共に聖地を訪問するのは今回が初めてだ。
リュ・リーンの前回の訪問のときは、ウラートたち侍従の同行は許可されなかったため、その時のリュ・リーンの生活を知っている者は今回の同行者のなかにはいない。
昨夜の段階でリュ・リーンの話をまともに聞いておけば良かったのかもしれない、とも思ったが今となっては後悔しかできないことだ。
第一、昨夜の話の様子から今日のこの落ち込みようは予想できるものではなかった。
「ウラート……。俺は六年前と比べて変わったか? 友人から白眼視されるほど厭な奴になったか?」
消え入りそうな囁き声がウラートの耳に届いた。
「……難しいことを聞きますね。どちらとも答えられない質問ですよ。
リュ・リーン、あなたは確かに六年前のあなたではない。でもね、六年前と変わらない部分だって持っているんです。今あなたが自分のどこの部分を比べているのか知りませんが、人間という生き物は自分の意志次第でどうとでも変われるのだと私は思っています。
私は昔のあなたも今のあなたも好きですよ。そして、あなたが自分自身を見失わない限り、これから先のあなたも私は好きでいると思いますよ」
リュ・リーンへの返答にはなっていなかったのかもしれない。しかしウラートの言葉がリュ・リーンの萎んだ心を少しは膨らませることができたようだった。
傍らにたたずむ忠臣にリュ・リーンは少し救われたような笑みを見せた。
「さぁ、着替えてください。残念ながら朝食はまだ出来上がってはいませんのでね。時間がありますから、散歩でもしてきたらどうです?」
ようやく笑みを見せた主にウラートは、いつもと変わらぬ口調で着替えを促した。
「そうだな。庭に下りてみることにする。出来上がったら呼んでくれ」
努めて明るい声を出そうとしているリュ・リーンの様子にウラートはそっと眉をひそめた。
誰もいない庭の中心に紅や白のカリアスネが咲き乱れている。
花から立ちのぼってくる芳香で酔いそうだ。この時期から晩夏にかけて、この花はずっと咲き続けていることだろう。
他の花の香りを消してしまうほどの濃厚な香りが、ふとリュ・リーンに先ほどの王の娘を思い起こさせた。顔ははっきりと見えなかったが、美しいといって差し支えない容姿だった。
彼女のどこにこうまで惹かれているのか、リュ・リーンには判らなかった。美しさだけならトゥナの王宮にだとて、選りすぐりの美女が何人もいたのだ。
自問し続けるうちにリュ・リーンは再び昨夜のダイロン・ルーンの態度を思い出していた。無表情な顔のなかで瞳だけが憤怒に光っていた。
なぜ自分にあれほどの怒りを見せるのか、リュ・リーンには見当がつかなかった。六年前に別れて以来、一度も会っていないのだ。
出口の見えない迷路に迷い込んだ気分になり、リュ・リーンは足元の花を蹴り飛ばした。
花に罪はない。単に八つ当たりするものが欲しかっただけだ。
「やめて! なぜそんなことをするの」
少女の厳しい詰問の声にリュ・リーンは驚いて振り返る。
朝靄のなかに見た少女が庭の端に立っていた。
声の厳しさとは裏腹に娘は哀しそうな視線をリュ・リーンに向けていた。
リュ・リーンはまずいところを見られて、内心動揺していた。だが動揺しつつ、心臓が早鐘を打つ。つい先ほどダイロン・ルーンと共にこの場を去った彼女と、会えるとは思ってもみなかったのだ。
娘が小走りに近寄ってくる。だが視線はリュ・リーンにではなく、彼の足元の花に向けられていた。
少女が脇を通り過ぎたとき、リュ・リーンの嗅覚にカリアスネの芳香よりも甘い香りが届いた。脳の奥が痺れそうな感覚。
無惨に散らされた花をそっと花壇の土へと還してやりながら、少女はつぶやいた。
「……かわいそうに」
茫然としているリュ・リーンに少女は非難の視線を向ける。
「ごめん……」
気の利いた言葉が思いつかず、リュ・リーンは素直に詫びた。最悪の出会いである。彼女の自分への印象はかなり悪いと思っていいだろう。
今度からは物に当たるのはやめよう、と悄然としながらリュ・リーンは心に誓い、ため息をもらした。
「花はどんな酷い仕打ちをされても、文句一つ言えないわ」
独り言のように少女が囁いた。
返す言葉もなくリュ・リーンはうなだれるしかなかった。
「もう……こんなことしないでしょう?」
念を押すような少女の言葉にリュ・リーンは黙って肯いた。
ひどく惨めな気分だ。自分が子供じみて見える。これでは一人前の扱いをされなくても文句は言えまい。
落ち込むリュ・リーンの頬が暖かい手に包まれたのは、その時だった。
驚いて顔を上げたリュ・リーンの視線のすぐ先に少女の顔があった。遠目で見たとき以上に愛らしい顔立ちだ。血が逆流しそうなほど心臓が踊る。
自分の顔が真っ赤になっていることを自覚してリュ・リーンは狼狽えた。
「あ……」
「約束ね。リュ・リーン殿下」
少女に名を呼ばれてリュ・リーンは心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど驚いた。
よく考えてみれば紹介されていないだけで、昨夜の宴の席で一度顔を会わせている。この聖地を訪れている異人で客分として聖衆王に招かれる者はトゥナ王の息子である彼だけのはず。
自分の名が知られていてもいっこうに不思議はないのだが、今のリュ・リーンにはそんなことを考える余裕はなかった。
リュ・リーンは更に顔を赤く染めた。
娘が触っている自分の両頬が熱くて溶けてしまいそうだ。彼女の手を払いのけることもできずに、ただただリュ・リーンはその場に立ちつくしていた。
少女はもう怒ってはいないのか、人を魅了する笑顔をリュ・リーンに向けている。
リュ・リーンにとって、この事実は重大だった。
彼の髪の色や瞳の色を見て、平気な人間など数えるほどしかいないのだ。
大抵の人間は嫌悪や恐怖で彼を避ける。そう、表面上は平静を装いながらさりげなく彼から身を逸らすのがすぐに伝わるのだ。それが彼女にはなかった。
少女はリュ・リーンを恐れるどころか、無邪気な笑顔を見せさえした。リュ・リーンには信じられない光景だった。
「約束してね?」
「は……はい……」
鈴の音のように愛らしい笑い声をあげると、娘は踊るように身を翻してリュ・リーンから離れた。そして優雅に会釈してみせる。
「まだ挨拶していなかったわ。昨夜はご挨拶もなしに失礼しました。……ようこそ、我が聖地へ」
少女が屈めた腰を伸ばし、返事を催促するかのように首を傾げるのを見て、初めてリュ・リーンは彼女が昨夜するはずだった挨拶を今してみせてくれたことに気づいた。
自分はまだ嫌われてはいないようだ。それがリュ・リーンには嬉しかった。
「歓待を感謝します、姫」
自分も彼女に合わせて昨夜の続きを演じてみせる。彼の従者たちが見たら、王子の頭がおかしくなったと誤判しそうだ。
気難しく感情の起伏の激しい彼が、座興につき合うなどとはどうしたわけか、と。そして今までに見せたこともない穏やかな笑顔をしていることも。
「きつい言い方をしてごめんさいね」
本来謝るべきはリュ・リーンのみで少女に非はなかったはずなのに、彼女は申し訳なさそうな顔をしてリュ・リーンに許しを請うた。
驚いて首を振るリュ・リーンの様子に娘は笑い声をあげた。たったそれだけのことなのにリュ・リーンは自分の心臓がさらに激しく打つのを感じる。
「あら、大変! わたしったらお父様に呼ばれているのを忘れていたわ」
用事を思い出したのだろう。娘は慌てて城の中へと駆け出した。
テラスの上まで登ったとき、少女は振り返ってリュ・リーンに手を振った。
少女の光り輝く笑顔を見送った後、リュ・リーンは自分が大事なことを忘れていたことに気がついた。彼女の名前を聞き忘れたのだ。
自分の間抜けぶりに落胆し、リュ・リーンは朝から何回目か判らない深い深いため息をはいた。
ウラートと共に朝食を摂りながら一日の予定を確認をするのがリュ・リーンの一日の始まりとなっている。
今日は午前中に六年前に宿泊先として世話になったラウ・レイクナー家に訪問し、昼食を摂った後、午後からは枢機卿の屋敷を訪ね、トゥナ王国のロディタリス大神殿からの親書を手渡し、その親書の内容の交渉を行うことになっていた。
老獪な枢機卿との交渉は難航することが予測されるが仕方がない。
トゥナがこのアジェンを国教の聖地として崇める以上は、聖地の枢機卿に取り入ってでも聖地でのトゥナの地位を少しでもあげておく必要がある。
今回の聖地訪問の表立っての訪問は大聖殿への供物の奉納だが、実際は聖地の有力者たちを探り、将来トゥナ王国がより高みに登るための根回しなのだ。
この交渉が隣国を追い落とすための工作へとなるのだから、年若い王子に託された使命は決してなま易しいことではない。
「かの枢機卿は謎の多い人物です。こちらが考えている以上に、腹の内を見せようとはしないでしょう。カヂャ国との小競り合いとは違いますからね。短気を起こさないでくださいよ」
リュ・リーンに焼きたてのパンを手渡しながらウラートが念押しした。ウラートにはリュ・リーンの短気だけが心配の種だ。
リュ・リーンは今まで軍を率いての戦であれば、天性の才能を発揮して自軍を勝利へと導いてきた。しかし、年若いだけに話し合いでの駆け引きとなると経験が足りなかった。
同年代の若者と比べれば確かに駆け引きのコツは心得ているが、今回の相手はリュ・リーンより狡猾でウラートより知略を巡らすのが巧みな人物なのだ。
相手に隣国よりトゥナに肩入れしたほうが得だと納得させることができれば、この後の国境での駆け引きや小競り合いが格段にやりやすくなる。
それは判っていても、ぬらりくらりと話をはぐらかしていくであろう相手のペースに焦れずに、交渉を続けていく根気をリュ・リーンが無くしてしまうことが危惧される。
トゥナ王のただ一人の後継者であるリュ・リーンであるが、国内に彼の敵がいないわけではない。今回の訪問が失敗に終われば、その敵が喉元に噛みついてくるのは間違いない。
「リュ・リーン……、サラダを残すんじゃありません!」
取り分けたサラダをテーブルの向こうにさりげなく押しやるリュ・リーンの様子をめざとく見つけるとウラートはサラダボールをリュ・リーンの目の前に押し出した。
「ソースが酸っぱいからいらないっ!」
山盛りのサラダをウラートの前に押しやるとリュ・リーンは肉料理が盛ってある皿を自分の前にすえて上目遣いにウラートを睨んだ。
だが、そんなことを許すほど甘いウラートではなかった。
「……料理人があなたのためにわざわざ酸味を押さえた特製ソースを作ったんですよ。彼の努力を無駄にするのですか?」
厳しい顔つきでウラートはリュ・リーンを諭した。ここで許してしまえば、この後リュ・リーンは絶対サラダを口にしなくなるだろう。
主の前に置かれた肉料理の皿にウラートは手を伸ばした。
「野菜は嫌いだ!」
目の前にある肉の皿を取りあげられるのが厭で、リュ・リーンは皿を持ったままウラートから離れようと椅子ごとテーブルの端にずれていく。
「いつまで子供じみたことを言っているんです! 食べなければ、昼も夜も明日の朝も毎食、食事はこのサラダしか出しませんからね!」
それはリュ・リーンにとって拷問よりも辛い。野菜を食べない日はあっても肉を食べない日などリュ・リーンには考えられないのだ。
「う゛~~……」
だがウラートならやりかねない。テーブルいっぱいに並べられたサラダを想像してリュ・リーンは胸が悪くなってきた。
しぶしぶ元の席のあった場所に椅子を戻し、持っていた皿をテーブルの上に置いた。
「きちんと腰掛けて。……そう、その皿をこちらに寄越しなさい」
ウラートは有無を言わせずリュ・リーンの肉料理を取りあげると、サラダをボールに盛ったまま彼の目の前に置いて食べるように促した。
ボールの中にはまだ三分の一ほどサラダが残っている。
当然三分の二はウラートが平らげているのだが、リュ・リーンは恨めしそうにウラートが手に持っている自分の肉料理を見ると、しぶしぶといった感じで不味そうにサラダを口に運んだ。
公の席や戦場での姿とは反対に私生活でのリュ・リーンの子供っぽさにウラートは時々嘆息を禁じ得ない。
一人息子で末っ子だという環境を差し引いても、リュ・リーンはかなりわがままである。
口うるさいとリュ・リーンは言うが、ウラートがいなかったらこのわがままな王子はまともな生活を送っていないのではないかと思うと、小言が多くなろうと言うものだ。
この子供っぽい短気さが交渉のときに出れば、話し合いは上手くはいかないだろう。
ウラートがどれほど気を揉んでいるかなどお構いなしに、リュ・リーンは顔を歪めたままサラダの最後の一口を口の中に押し込むと、よく噛みもせずに残っていたスープで口の中のものを流し込んだ。
ここは以前と変わらない木の香りに満ちていた。
リュ・リーンは六年前と変わらぬ部屋の様子に嬉しそうに微笑んだ。
「あなたが使っていた部屋は今、息子の部屋として使っていますよ」
そう言ってラウ・レイクナー家の主が紹介してくれた息子は、六年前の赤ん坊だった頃の面影など無く、きかん気な性格の少年に成長していた。
その息子が案内してくれた部屋は、リュ・リーンがいた頃の状態そのままに使われていた。
大木を削りだして組まれた壁や床・天井は大きな木箱の中にいるようで、それだけで秘密の小部屋めいて、少年だったリュ・リーンの心をわくわくさせたものだ。
「昔のままだ。懐かしいな……」
今見れば、簡単な木製のベッドが置かれただけの小さな部屋だ。それが当時のリュ・リーンにはたいそうな隠れ家のように見えたものだ。
生まれて初めて親しい者もいない環境に放り出された少年には、一日の終わりにこの部屋で木の香りを嗅ぎながら、これからのことや故郷のことを空想する時間が、大切なものに思えた。
「殿下。王の後継者って、どんな感じ?」
懐かしさに浸っていたリュ・リーンを現実に引き戻すように声がかかった。
振り返ったリュ・リーンの視界に薄いそばかすのある少年の顔があった。彼は、相手の身分になど頓着していないようだ。
「どうって? レイス。君は何を期待して訊ねている?」
「ん~……言葉そのもの、なんだけど。あのさ、殿下も知ってるとおもうけど。アジェンはさ、王様を選王会で選ぶじゃない。現王の要望か、王選議員の要請があったときに」
リュ・リーンは幼い口調で聖地の慣習を説明する少年をベッドの縁に差し招いて座らせると、自分は少し離れた場所に腰掛けた。
「それで選王会が開催されることになると、成人男子で身体の達者の者は全員がその大会に参加することになってるでしょう。すべての者に公平に機会を与えるって名目で」
少年の声には、どこか皮肉めいた口調が含まれている。
「公平では、ない?」
少年の表情から微かな非難の色を見てとったリュ・リーンは、彼の心理を肯定してやるように問いかける。
「そう! そうなの。公平なんてとんでもないって。今までの王が文官出身の貴族ばっかりなの知ってる?」
リュ・リーンが首を横に振ったのを確かめると、少年は畳みかけるように先を続けた。
「選王会はさ、初めに口頭で問答をするんだ。その問答ってのが問題なの。神話語で! 神殿規律と! 古代神話を暗唱するんだよ! 非道いじゃない!? 僕たち武官出身者に、そんなことまで勉強する余裕なんてないよ。最初から武官出を排除するためにやってるとしか、僕には思えない!」
少年はさも憤慨していると言いたげに、口をとがらせた。
「問答の後の選別は? 今度は筆記の問答でもあるのか?」
ふくれっ面の少年の気を逸らすべくリュ・リーンは選王会のその後を訊ねた。
「その後こそ、重視して欲しいよ。問答の後はね。武芸戦なんだよ、勝ち抜きの。武官のいない武芸戦の無様なことったらないよ。普段の模擬戦でさえへっぴり腰で、真剣で闘技したこともない文官たちが、大事な王を選ぶ大会でどんな勇ましい姿を見せられるっていうのさ。頭にきちゃうよ」
年の頃七歳ほどといったところの少年が、もっとも最近でも十年以上前の選王会を見物できたとは思えないが、見てきたように不平を鳴らすその姿は微笑ましい。
「なるほど。それは確かにレイスには損な話だ。神殿規律はともかくとして、古代神話の暗唱は文官たちの得意芸だ」
聞き及んではいたが、聖地の文官びいきは徹底している。これでは、軍事で自国を支えているトゥナ王国が煙たがられるわけだ。
午後からの枢機卿との会談を想像して、リュ・リーンはうんざりしたように嘆息した。
「ほんと。いやになっちゃうよ。古代神話なんて、どうやったら覚えられるのさ。新起神話を覚えるのがやっとだってのに」
リュ・リーンの真似をしてため息をつくと少年は軽く肩をすくめて見せた。
「レイス、諦めるな。……そうだな。トゥナに帰ったら、神官長に頼んで神話語の辞書と古代神話の伝承録の写しを送らせよう。どうだ? 文官たち並の書籍が君の手元にくる。努力次第では、次回の選王会で勝ち抜けるかもしれんぞ」
言葉の途中から少年は目を光らせて、リュ・リーンの顔を覗き込んでいた。幼い顔とは反対の野心的な表情がうっすらと浮かんでいる。
「本気? 僕が本当に王になったら、何を見返りに要求するつもり?」
子供とは思えない狡猾な表情を浮かべたまま、少年は口調では無邪気さを装った。
「王になったら考えよう。なれないかもしれないだろ」
リュ・リーンは少年の突飛な考えに苦笑した。もう自分が王になると決めているかのような口調だ。他にも多くの青少年たちがいるだろうに。
「さぁね? でも王になる可能性も否定できないよ。まぁ、選王会でいいとこまでいければ、その後の地位も上がるだろうけど。
……ところで最初の質問。王の後継者ってどんな感じ?」
アジェンの子供たちが皆こんな野心を持っていたとしたら、と想像してリュ・リーンは背筋に薄ら寒いものを感じた。
聖地の者たちが小狡く立ち回る様を苦々しく思ってきた。
しかし子供のころからこういった考えを植え付けられているとしたら、大した武力もないのに今まで侵略もされずに聖地の地位を保ってきたことも納得できる。
「どんな、か。気が重くなるときもある。……が、王の代理として、すべてをチェスの駒のように差配していくのは、快感だな」
「ふ~ん。快感ね。だからだね、皆が王になりたがるのは。僕もやっぱり王になろうっと」
表面上は寛大な年長者を装いながら、リュ・リーンは自分の半分も生きていない少年が大人と変わらない野心を持つことに驚嘆した。
「殿下。僕、遊びに行ってもいい?」
父親から案内役を仰せつかったものの、まだ七歳になったばかりの少年には、明確な記憶に残っていないかつての同居人より遊び友達のほうが大切なのだ。
自身にも身に覚えがあった。しかめっ面をした教師役の神官たちと向き合っているときよりも、同年代の少年たちといるときのほうが遙かに楽しかった。
少年を退屈な役目から解放すると、リュ・リーンはかつての目線で部屋を見まわした。
「もう六年。……いや、まだ六年しか経っていないと言うのに」
その日その日を泣いたり笑ったりして過ごしていた日々が、遠い過去のような気がする。
自分は変わったとウラートは言った。それがどう変わったのかは、ウラートは答えてはくれなかった。
また彼は変わっていないとも言った。それもまたどう変わっていないのかは教えてくれなかった。
六年ぶりにあったこの屋敷の当主には自分はいったいどのように映っているだろうか。
たった半年あまりの子供部屋。ここから毎日神殿の学舎に通い、色々な人に会い、色々な思いをした。
今でも相変わらずリュ・リーンの瞳の色は他人に忌避されていたが、彼の外見を気にすることもない友にも出会えたと思っていたのだ。
つい昨日までは……。
『ダイロン・ルーン。俺がなにをした……。あなたが憎悪するほどのことを、俺がしたと言うのか!? 教えてくれ』
「リュ・リーン王子。居間にいらっしゃいませんこと?わたしのお友達も見えているのよ」
物思いに耽っているリュ・リーンに子供部屋の戸口から声がかかった。
レイクナー夫人の笑顔が覗いていた。美人とは言えないが、人を安心させる暖かい笑顔をした女性だ。
きっと誰にでもこんな笑顔を向けているのだろう。決してお喋りではない人だが、彼女のまわりには人がよく集まる。
今日でもリュ・リーンが来訪する寸前まで客がいたようだった。
レイクナー家は貴族でも下位のほうの家柄だ。武官の家柄らしく質素だが、堅実で率直な当主とその夫人を慕って訪れる者は軍属以外の者も多い。
「すぐ行きます」
たぶん興味本位でリュ・リーン見たさに押しかけてきた貴婦人たちが居間には待ちかまえているのであろうが、素直に返事をするとリュ・リーンは立ち上がった。
夫人の足音を聞きながら、もう一度リュ・リーンは部屋の中を見まわす。
少年の日は戻らない。ならば、先に進むしかあるまい。ダイロン・ルーンが変わったというのなら、その変わってしまった彼とつき合っていくしかないのだ。
時よ、戻れ! と念じる暇があったら、後悔しない生き方を選択したほうが賢明と言うものだ。
リュ・リーンは小さな子供部屋にかつての自分を再び封印すると、一度も振り返ることなくその部屋を後にした。
第01章:花の娘
「ねぇ、思い出さないこと?」
彼女の声に答えるように、暖炉の薪が大きな音で爆ぜた。灰色虎の毛皮の上を炎の影が躍る。同じように彼女の横顔にも……。
「あぁ……。もう何年になるかな」
花の香りのする彼女の髪を優しく撫でながら、彼は炎の中に昔日の二人の姿を重ねていた。
『我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ』
青臭い。今から思えば随分と大胆な啖呵を切ったものだ。心の中で苦笑すると彼は背後から彼女を抱きすくめた。
後悔する恋などしていない。誰がなにを言おうが、これが自分の唯一、絶対無二の恋……。
彼女の細い指が自分の頬に触れるのを感じた。暖かい日だまりのような感触。
抱きしめているのは自分のほうなのに、なぜか逆に自分が抱きしめられているような錯覚を覚えて、彼はゆっくりと瞳を閉じた。
その心地よさに浸るように……。
「殿下! リュ・リーン殿下!」
背後からの呼び声を煩わしそうに聞きながら、リュ・リーンは窓から吹き込んでくる花の香りに心を奪われていた。
目の前のテーブルには飲みかけの金芳果酒のグラスが置かれたままだ。春の訪れを知らせる香りがここには満ちている。
「殿下……! こちらでしたか」
戸口からの声にリュ・リーンはようやく振り返った。つい今し方のぼんやりとした顔つきは消え失せ、冷徹な表情が刻まれている。
「何事だ、騒々しい」
冷ややかな主人の対応に部屋の入り口で従者が立ちすくんだ。彼とそう歳も違わない従者は気圧されたのか、主人の顔から視線をそらして下を向いてしまった。
そんな従者の態度に忌々しそうにリュ・リーンは舌打ちした。
どいつもこいつも! ちょっときつい言葉を聞けば、怖じ気ずく。まったく不愉快だ。
「何か伝えにきたのだろう、早く言え!」
イライラとした態度を隠しもせず、リュ・リーンは続けた。
端正な顔立ちのリュ・リーンだが、大抵の人はその整った顔立ちよりも彼の激烈な性格のほうに肝を冷やし、恐れおののく。
彼にはそれが腹立たしい。
別に顔を褒めそやして欲しいとは思わないが、彼の視界のなかに立つ者の反応はほとんどの場合、彼を不快にさせることのほうが多い。
「あの……聖衆王陛下よりの伝言でございます。歓待の宴を催したいと存ずる。出席して頂けようか? とのことですが、いかが計らいましょうか」
おずおずと申し出る従者にいっそうの苛立ちを覚えたが、声をあらげても彼の態度が変わるわけでもない。リュ・リーンは努めて無表情を装ったまま従者に指示を与えた。
「出席する旨を伝えろ。……どちらにしろ、断ることはできん」
後の言葉は独り言に近く、従者には聞き取れなかった。
あたふたと退出する従者などすぐに忘れ去ると、リュ・リーンは憤怒の形相も露わに手近にあった水晶のグラスを卓上から叩き落とした。
絨毯がグラスを受け止め、その美しい輝きは割れることなく床に転がっていく。中の琥珀色をした液体がその軌跡上に飛び散った。
「くそっ…! どいつもこいつも喰えぬ奴ばかり!」
「物に当たっても仕方ないでしょう。落ち着きなさい」
従者と入れ違いに入ってきた男がたしなめるように声をかけた。
「ウラートか」
不機嫌そうな顔のままリュ・リーンは窓辺へと歩み寄り、眼下の景色を見下ろした。いくつかある中庭の一つだろう。色とりどりの花が咲き乱れている風景は、彼の心情とは裏腹にのどかだ。
「まだ出発前のことを気にしているのですか? あなたらしくもない」
「うるさい! 気にしている、ではなく腹を立てているのだ!」
眼をつり上げるとウラートと呼んだ従者のほうへ向き直る。
十六歳になるリュ・リーンから見るとウラートはいくらか年上になる。細身だが筋肉質のいかにも武官らしい体格とは反対にウラートは女にもてそうな優しい顔立ちをしていた。
「父王の勧められた縁談を壊したのはあなたのほうですよ。いったい何人のお相手を怒らせれば気が済むのです。少しは大人になってください」
弟をたしなめるような顔でウラートが忠告する。その言葉にリュ・リーンはふてくされたように横を向いた。
「見合いをすっぽかしたぐらいでうるさいのだ、あの親父は! しかも相手はたったの十歳のガキじゃないか。ふざけるにもほどがある!」
誰も自分の言い分など聞いてくれない。
口では成人したのだから、と言いつつ、実のところはまだまだ子供扱いされているのだ。
ウラートは床に転がったままのグラスを拾い上げ、丁寧に磨き上げてテーブルに戻すとリュ・リーンの怒りをスルリとかわして返事をする。
「……オリエル嬢はあなたの従妹でもあるのですよ。少しくらい優しくしてもいいじゃないですか、それこそまだ子供なんですから」
「ウラート! お前は親父の肩を持つのか!? お前まで親父のメンツを潰したとか言うのか!? ふざけるなよ! 俺は王族間の婚姻などまっぴらだ。いくつ縁談が持ち上がろうが知ったことか。片っ端から潰してやる!」
俺の存在意義は何だと言うんだ。子孫を残すことだけが、俺の存在理由だと言うのなら一生涯結婚などしない。
そんなものしなくても子供は残せる。政略結婚だと言うのなら、はっきりとそう言えばいいのだ。俺のためだなどと見え透いた嘘で固めた縁談など誰が受けるか。
相手は俺が決める。誰にも文句は言わせない! それが政略結婚であったとしてもだ。
「非難しているのではありませんよ。あなたの好きにすればいいのです。いずれあなたは王になる。あなたは誰に媚びる必要もない方だ。
……ですが、相手を見極めてください。王になると言うことは、我が王国の民すべての命運を握ると言うことなのですから。あなたの采配一つで、国が揺れる」
判りきっていることを殊更口に出して見せて、ウラートはリュ・リーンの反応を見る。自分の仕える主人は王の器に足る人物であるのか、とその瞳はリュ・リーンに問いかけていた。
「……。判っている、ウラート。俺が生まれ落ちたときからそれは決まっていたのだから。逃げるつもりはない」
いつでも自分は試されている。それは避けようのない現実。
「判っておいでなら、けっこうですよ。
さて、さしあたっては聖衆王の招きを受けたのです。身支度を整えてください。ここはあなたの王国ではない、いわば敵地です。あなたの一挙手一投足が注目されているのですから、心して宴の席に出て頂かねば!」
湯浴みの支度が整っているらしい。
ウラートの指し示した部屋へとリュ・リーンは視線を向けると、不愉快な記憶を消し去るように頭を振り、年上の従者に皮肉っぽい笑みを見せた。
「お前は口うるさい爺さんになりそうだな、ウラート」
「大きなお世話ですよ、リュ・リーン」
自分を呼び捨てにできる数少ない人間の一人である学友の脇をすり抜けると、リュ・リーンは浴室へと向かった。
熱めの湯に浸かった後にむせるほどの香料を体中に吹きつけられ、リュ・リーンはうんざりした顔をした。
王侯貴族のたしなみだとかで、ここ数年流行っている香水が彼は好きではなかった。こんなものを嬉々として振りかける輩の気が知れない。
見目麗しく着飾った女たちならともかく、老若問わず男どもが、この香水はどうだとかあの香料を使うとなんだとか話し合っている姿は興ざめだ。
「もう、それでいい! 下着にまで振りかけるな! 匂いがきつすぎて吐き気がする」
リュ・リーンは自分の服にせっせと香料を振りまく従者たちを叱責する。
なぜ彼らはこんなくだらないことに心をくだくのか。それでリュ・リーンが彼らの評価を高くするわけでもないのに。
二人の従者がリュ・リーンの衣装の形を整えながら近寄ってくる。
謁見のときに着ていた重たい衣装ではなく略装の簡素な衣装だ。リュ・リーンに言わせればこれでもまだ動きにくい。
しかし一人で歩くのにも難儀な正装をさせられるよりはマシだろう。数時間にも及ぶであろう宴の席で、正装のような堅苦しい衣装を着込んでいては、苦痛以外のなにものでもない。
従者たちのされるがままに衣装を着込み、後頭部からこめかみまでを帯状に覆う飾冠をつけながら、リュ・リーンは退屈そうなため息をついた。
これから腹黒い爺さんたちの相手をしなければならないのだ。父王の代理としてこの地に赴いている以上、彼の印象が自身の王国の印象として相手方の記憶に刻まれることになる。
あの手この手でこちらの腹を探ってくるであろう、老獪な為政者たちの顔を思い出して、リュ・リーンは不愉快な気分を避けられなかった。
先触れの声と共に入来したリュ・リーンの姿を室内の人間が一斉に注目する。
黒絹を思わせる髪に奥深い森の緑よりも濃く深い色合いの翠の瞳。これだけで見る者に、違和感を与えるには充分な色彩だった。
一年の半分近くを雪と氷に閉ざされる大地の王国出身者に黒髪は少ない。まして伝説でしか聞き及ばない深い翠の瞳。闇の神の瞳を持つと言うだけで人は彼を恐怖する。
ざわめきの声に恐怖と嫌悪が混じっていることはリュ・リーンには手に取るように解る。いつもの反応だ。いちいち気にしていたら身が保たない。
彼はいつも通りに耳障りな囁き声のする方角を冷たく一瞥する。それだけで囁き声は凍りついた。彼の視線を浴びた者はほとんどが闇に心を覗かれたような嫌悪に身を震わせる。
リュ・リーンを見聞しようと集まってきた者のなかにはここへ来たことを後悔している者もいるだろう。
「お招き頂き感謝いたします、陛下」
文句のつけようのない完璧な立ち振る舞いで王の前に歩み寄ると、リュ・リーンは優雅に会釈してみせた。その彼の動きに合わせて、薄手の羊毛でできたマントがしなやかに揺れる。
リュ・リーンの挨拶に聖衆王が玉座から立ち上がった。
「部屋は気に入って頂けたかな? トゥナ王の息子よ」
儀礼的な呼びかけ。決して心を許してはいない者への些細な牽制。
「はい。六年前と変わらぬ景色に心が和みました。さすがは聖衆王ご自慢の花庭園でございます」
他にどう返事をしろと言うのだ。リュ・リーンは内心で毒づきながら、それでも表面上は笑顔を作ってみせた。見えない腹の探りあいはもう始まっているのだ。
「ハハハッ! 世辞などよいわ。トゥナの王宮にある伽藍造りの大庭園に比べれば、ささやかなものだ。……随分と背が高くなられた、リュ・リーンよ。トゥナ王も鼻が高かろう、そなたのような自慢の息子がいるのだから」
謁見のときから変わらずにいた聖衆王の厳めしい顔がふとほころんだ。
リュ・リーンの顔を眺める王の瞳には六年前のリュ・リーンが見えているだろう。まだ成人前で必死に背伸びして大人に負けまいと懸命な幼い子供の顔が。
「不肖の息子でございます。いたらぬことばかりで父の心労は絶えないでしょう」
礼儀正しく答えながらリュ・リーンも六年前の王の姿を思い浮かべた。
今とさして変わらない。厳格だがユーモアを解するこの王がリュ・リーンは実父以上に好きだったはずだ。いつからだろう。いつから自分はこんな冷徹な人間になったのか。
「ふふ。親はその心労さえ厭わぬものだよ。さぁ、皆! 今日は余の旧い友人のための宴だ。存分に楽しもうぞ」
王の声に凍てついた空気が溶け、それを合図に酒や馳走がふるまわれた。幾人かの宮女たちが舞を舞い始めると、舞の楽に合わせて手拍子があちこちで聞こえだす。
王に誘われて柔らかな長椅子でくつろぎながらも、リュ・リーンは話の相づちを打ちつつ油断なく辺りの人物を観察していた。
多くの者は彼と視線を合わさないように仲間との会話に集中している。だが中には怖いもの見たさでか、チラチラと王とリュ・リーンの姿を盗み見ている者も少数いた。
そんな輩のひそひそ声が研ぎすました彼の耳には聞こえてくる。
「大した切れ者らしいぞ、あの王子は。ここ二~三年、あの王子が指揮をとる戦は負けなしだとか」
「今年で十六か? 王族の男子がこの歳でまだ妃を娶っておらんとは……」
「さもあろう。あの瞳……見ているだけで震えが止まらぬ。あれは魔性の瞳だ。女が怖がって近づくまいて」
「あの王子が王になったときが心配だ。ここ聖地アジェンをないがしろにするのではないか?」
「トゥナ王宮であの王子がなんと呼ばれているか知っているか? 野獣王と言われているらしい」
「聞いたことがあるぞ。容赦のない性格で、怪我をする従者が絶えぬとか」
憶測の域を出ない戯れ言が飛び交うのには馴れている。だが気持ちのいいものではない。
リュ・リーンは聖衆王に気づかれないよう舌打ちすると顔を歪ませた。雑魚には言わせたいだけ言わせておけばいい、と割り切っているつもりでも苦々しい思いが消えるわけではないのだ。
宴も進んでいき人々が気持ちよく酔いに身を任せかけた頃、王の傍らに一人の侍従が滑り寄ってきて耳打ちした。
「そうか。連れて参れ」
王の小声が耳に入る。一通り家臣と引きあわされた後だったのでリュ・リーンは気にも留めなかった。まだ会っていない家臣の者でも連れられてくるのだろう。
相変わらず舞姫たちの踊りは続いている。王が紹介してくる家臣を見ているより、麗しい乙女たちを見ているほうがよほどましだ。
「陛下。遅れまして申し訳ございません」
予想外な若い男の声にリュ・リーンは思わず振り返った。王の臣下のなかでは一番の若年ではないだろうか。年の頃、およそ二十歳前後。淡い銀色の髪にどこか見覚えがある。
「待っておったぞ。さぁ、近くへ参れ」
親しげに声をかける王に男が歩み寄り、傍らのリュ・リーンに軽い会釈をする。だが、その顔が笑っていない。むしろ怒っている、といったほうがいいだろう。
あからさまな敵意にリュ・リーンは少したじろいだ。
「リュ・リーン。覚えておるか?司祭長を務めるカストゥール候ミアーハ……」
リュ・リーンは眉をよせた。カストゥール……ミアーハ……? 六年前の記憶を手繰り寄せている彼を手助けするように若者が王の言葉の後を受けて話し始めた。
「その名では記憶していまい。覚えているとすれば、“ダイロン・ルーン”だ」
記憶のパズルが音を立ててきっちりと合わさった。
ダイロン・ルーン!
リュ・リーンより三つ年上で聖衆王の甥にあたる男だ。リュ・リーンは飛び上がるように立ち上がった。
「ダイロン……。ダイロン・ルーン! あなたなのか」
六年ぶりに見る男の顔に昔の面影を探してリュ・リーンはその顔を凝視した。
氷を思わせる淡いブルーの瞳、ここ聖地では珍しくもない銀の髪。鼻筋の通った涼やかな容貌。確かに昔日の面影が残る男の顔……だが、かつての屈託のない笑顔は今ダイロン・ルーンの表情からは消えていた。
「久しいな、リュ・リーンよ」
ダイロン・ルーンは少年の声から大人の男の声へと変わっていた。リュ・リーンがそうであるように。
しかしかつてのダイロン・ルーンはこんな冷たい声をだす男ではなかった。面倒見のいい彼は多くの友に囲まれ、いつも明るい笑い声の中心にいた。
トゥナ王族としてのたしなみで聖地アジェンに預けられた孤独な少年にも、彼は変わらぬ笑顔で接したのだ。多くの大人たちが少年を避けているというのに。
「あ……あぁ、本当に。いつから名を?」
自分の声が震えているのに気づく。動揺が隠せない。きっと顔がこわばっている。
「もう二年ほどになる。亡くなった父の爵位を継いだのだ。父の名も継いだから今はミアーハ・ルーン・アルル・カストゥール、が私の名だ」
抑揚のない冷めた声が返事をする。リュ・リーンは他の話題を探そうと記憶のなかをひっかきまわした。一人の幼い少女の顔が浮かぶ。
「そう言えば、妹君は? 確か……カデュ・ルーン殿だったな。彼女はお元気か?」
リュ・リーンのその言葉に男の顔がいっそう険しさを増した。その様子に驚いたリュ・リーンがなにか取り繕ろわねばと口を開きかかる。
「二人とも、座ったらどうだ。新しい舞手が出てきたぞ」
正面の舞台のほうを顎でしゃくってみせた聖衆王が、意味ありげにリュ・リーンに笑いかけた。王は二人の剣呑な雰囲気など意に介した様子もなく、グラスの中の果実酒を口に含む。
王を挟んで反対側に腰を下ろした旧友に困惑しつつ、リュ・リーンは舞台へと視線を向けた。
王の言ったとおり淡紅色の衣装をまとった乙女が一人、松明の灯りに照らされて舞台へと進み出るところだった。炎に照らされた娘の白銀の髪が雪の結晶のように輝いている。
娘は花びらのように重ね合わされたドレスのひだをたくし上げると、雪よりも白い両手を天高く突き上げて、両手のすべての指を使って中空に柔らかな曲線を描き始めた。
両手の動きに合わせて全身が旋回していき、それにつれてドレスの裾が大きく膨らむ。まるで朝日を浴びてその花弁を開こうとしている花のようだ。
緩やかで緩慢な動きから徐々に娘の体は早いテンポのリズムを刻み始めた。
松明はそよとも風に揺らいではいないが、娘のまわりにだけ激しい風の動きがあるようにドレスがひるがえる。
時折、見えない風がドレスに隠れた娘の肢体を浮き彫りにし、少女から女へと移ろい始めている娘の微妙な体格が現実離れした妖しさを醸しだしていた。
時々転調を繰り返す楽の音とリズムを早めていく舞だけなのに、リュ・リーンは体中の血がざわめくのを感じた。全身が小刻みに震える。戦場で敵と刃を交えているときにも似た興奮。心臓が早鐘のように鳴り、息は激しく乱れていく。
体の奥底から沸き上がってくる衝動を反射的に押さえ込んで、リュ・リーンは小さく呻いた。
まわりの人間たちが楽に合わせて拍子を打っている姿が見えるが、リュ・リーンにはその音も、楽の音も聞こえてこなくなっていた。ただ正面で無心に舞い続ける娘とその姿を照らし出す松明の灯りばかりが、眼の奥に焼き付いて離れない。
魅入られた、と言うのはこういうことを言うのか。
心のどこかで冷静に自分自身を観察しているもう一人の自分の存在を感じて、リュ・リーンは必死に平静を取り戻そうと荒い息を整える。
大歓声がリュ・リーンのまわりで起こった。
舞台上の乙女が深々と腰を屈めて会釈している姿が目に入る。混乱した頭のままリュ・リーンは舞手の技量に拍手を送った。
見事な舞であった。解放された安堵感にリュ・リーンは深い吐息を吐いた。
「どうだね、今の舞は? 気に入ったかね」
リュ・リーンの吐息に気づいて聖衆王が耳打ちした。まだ痺れている頭のままリュ・リーンは再度息をもらすと、王に返事を返した。
「見事です。トゥナにもあのような舞手はおりませんよ。どなたのご息女なのですか、あの女性は?」
まだ頭はボゥッとしている。体の火照りも残っていた。
「余の娘だ」
淡々と答える王の言葉にリュ・リーンは耳を疑った。
「え? 陛下の……?」
聖衆王の娘? 六年前にここを訪れたときは王に娘などいなかった。あの娘の体格からして十数歳といった年頃のはず。実の娘でないとしたら、どこかの貴族の娘でも養女にとったのだろうか。
突然の王の娘の出現に驚くリュ・リーンを無視してミアーハ・ルーンが立ち上がったのは、そのときだった。
「陛下、私はこれにて……」
王への挨拶の後にリュ・リーンへも慇懃に会釈をして、ミアーハ・ルーンは人だかりを避けながら、舞台の下へと歩き出した。
舞台下に降り立った先ほどの娘の側まで行くと、その肩を抱いて宴の外へと連れ出していく。
娘に王への挨拶もさせずに退出させる不自然さにリュ・リーンは眉をひそめた。
「やれやれ。困った奴だ。せっかくリュ・リーン殿に娘を紹介しようと思うたに、連れて行ってしまったわ」
隣で肩をすくめる王の態度に漠然とした不自然さを感じた。
その後宴が終わるまでの間ずっと、リュ・リーンは娘を連れ去る聖地の大貴族の後ろ姿とこちらにチラリと視線を送った王の娘の横顔を思い描いていた。
彼女の驚きと困惑を含んだ表情がリュ・リーンの記憶に印象的に残っていたのだ。
舞が終わった後に入れ替わり立ち替わり現れる家臣たちと腹の探りあいを繰り返した宴が終わると、リュ・リーンは疲れ果てて自室へと戻ってきた。
待ちかまえていた従者たちに手伝わせて動きにくい衣装を脱ぐと、従者の一人に学友ウラートを呼ぶように伝えて、自分は温めの湯船に体を伸ばす。
ほどなくウラートが浴室に顔を覗かせた。
「なんです? 男の入浴姿は見ても嬉しくないですけど」
憎まれ口を叩くウラートを軽く睨むと、リュ・リーンは彼を差し招いた。
「バカげたことを言ってないでお前も入ってこい。そんなとこに突っ立ってると服が湿って風邪をひく」
普通は王族などはたとえ友と呼ぶ間柄であったとしても、一緒に、と入浴や就寝を誘うことはない。それを誘うのは友と呼ぶ以上の関係でなければならない。その点から言ってもリュ・リーンははみだし者と言っていいだろう。
だがリュ・リーンもウラートもいっこうに気にする様子もなく、一度に十数人は入れそうな浴槽に気持ちよさそうに体を伸ばしてひととき眼を閉じる。
「宴ではなにがありました?」
無表情なままのリュ・リーンの隣に移動するとウラートは囁いた。浴槽はあきれるほど広く、囁き声であってもよく響いた。内緒話をするにはここは不向きなようだ。
「……ダイロン・ルーンに会った」
「はい?」
六年前のここでの生活をかいつまでウラートに話ながら、リュ・リーンは宴でのダイロン・ルーンの態度を思い出していた。
不可解だ。人はあんなに変われるものだろうか? あの人なつっこい笑顔でまわりの大人たちからも可愛がられていた少年が、たったの六年であんなに冷たい眼をするようになるとは。
それからカデュ・ルーン。
リュ・リーンより二つ年下の少女の話になった途端に、ダイロン・ルーンは更に険しい顔つきになった。
彼女になにかあったのだろうか。六年前、内気で兄の後ばかり追っていた少女の容姿を思い浮かべる。細かな容姿までは思い出せないが、華奢な体格の娘であったことが記憶に残っている。
一緒に、と風呂に誘ったウラートの存在などすっかり忘れてリュ・リーンは考え込んでいた。
「リュ・リーン! 浴槽から上がりなさい。のぼせていますよ」
頭から湯をかけられてリュ・リーンは我に返った。考え事にふけっていたので、不意打ちに驚いて湯を少し飲んでしまう。
「ウ……ウラート! お前……主人に向かってなんてことをっ!」
ウラートの後を追おうと勢いよく立ち上がったリュ・リーンの視界が暗転した。派手な音を立てて水中にひっくり返った彼は今度はたらふく湯を飲み込んだ。
浴槽から這い上がって激しく咳き込むリュ・リーンにウラートはあきれたように声をかける。
「だから、のぼせてるって言ったでしょ。そんなに勢いよく立ち上がる人がありますか。……立てますか、リュ・リーン?」
ここで素直に立てないとは言わないのがリュ・リーンの意固地なところだ。ムキになってウラートを睨む。
めまいが収まると不機嫌そうな顔をしてゆっくり立ち上がり、ウラートの差し出す布に全身をくるんだ。
「はい。寝間着には自分で着替えてください」
リュ・リーンに寝間着を押しつけ、自分の衣服をさっさと着込むと、不機嫌な主人を残してウラートは浴室から姿を消してしまった。
与えられた日程を淡々とこなしていくリュ・リーンと違ってウラートはリュ・リーンの公務日程を組んだり、侍従長としてまわりの者に指示を与えたり、故国に報告書を書いたりと忙しい。
リュ・リーンのようにのんきに風呂に浸かっている余裕などないのだ。主の気まぐれにつき合うのは、それがウラートにとっての気分転換になるからに過ぎない。
トゥナ国の王宮でも最近はウラートは王やリュ・リーンの雑事の始末に忙しく働いている。
ウラートは有能で、万事をそつなくこなしていく。それはそれで大変重宝するのだが、リュ・リーンは自分が独り取り残されたようでひどく惨めな気分になった。
「俺はいったい何なんだ」
成人してからずっと繰り返している自問をそっと呟くと、リュ・リーンは緩慢な動きで寝間着に着替えて自室のベッドへともぐり込んだ。
柔らかな寝具がリュ・リーンのまだ成長しきっていない身体を受け止める。
従者が焚いたのだろう、香木の香りが部屋中に満ちている。体に吹きつけられる香水と違って空中を漂うこの香りがリュ・リーンは好きだ。子供の頃からの馴染みの香り。
まだ自分が幼い頃に亡くなった母を思い出す。
死というものがなんなのかさえ判っていなかった頃の母の死は、現実離れしていて実感が伴わないものだった。それだけに夜になると母を恋しがってよく泣いた、と聞かされていた。
この香りを嗅ぐと、顔もおぼろにしか覚えていないはずの母を思い出す。
母親の記憶を辿っていたリュ・リーンの脳裏に先刻の舞姫の姿が甦った。ドレスの淡紅色が目の前をチラチラと往復する。
新雪のように白い肌。雪煙のようにサヤサヤと流れる銀髪。紅色のカリアスネの花に似た鮮やかな唇。そして……春の若芽を思わせる淡緑色の瞳。
思い出しているだけなのに全身の肌が粟立つ、この奇妙な感覚はなんだろう。……どこかで会ったことがある。どこで会ったのだろう?
『あなたはいったい、どこの誰なのだ……?』
いつの間にかリュ・リーンは眠りの淵へと誘われ、ゆっくりとその中へと沈んでいった。
湖上を渡る風の音が遠くに聞こえる。あの風は遙かトゥナ国の首都ルメールにまで渡っていくのだ。そして風に急き立てられるようにして短い春が終わりを告げる日もそう遠くはない。
眠りのなかでリュ・リーンは覚えていないはずの母の声を聞いた気がした。
『早く大人におなり。お前には待っている人がいるのだから……』
第一章:月と竜
雲海を見下ろしていた黒い影がふと小さな吐息を吐き、背筋をピンと伸ばした。黄昏の鈍い赤色の中、その残光を吸い取ったように禍々しく輝きを放つ巨大な月星が北天にかかっている。
「どこだ? お前はいったいどこにいる? 俺を置いて……どこへ行った?」
まだ年若い男だ。ようやく成長期が終わったといったところだろう。肩から下がったマントがはためくたびに、彼の逞しい腕がチラチラと覗く。
若者は赤い天球へと腕を伸ばし、それを受け取るように掌を翻した。血色の月は、地底に眠っていた秘宝のように濡れて見える。
辺り一面も暮色に血のように染まっていた。
腕の先にあるものを見定めようと、若者は顎を上げて眼をすがめる。翠の闇を湛えた彼の瞳はあまりにも深く、見る者がいたならば底なし沼のように吸い寄せられ、絡め取ってしまうだろう。
「見つけだす、必ず……。あの月に、お前を連れていかせはしない。俺はまだ伝えていない。お前に、何も伝えていないんだ」
暗い翠眼で朱き月を追い、凍て始めた空に光り始めている他の小さな星を見渡すと、若者はギリギリと歯を噛み締めた。それは怒りのためではない。抑えきれない想いを押し込める仕草だ。
「側にいると言った。あの誓いは嘘じゃない……! もうこれ以上、誰も失いはしない」
暗緑の瞳に激しい煌めきが宿った。触れれば火傷しそうなほどの強い輝きを見る者はいない。
銅色の空から顔を背けると、若者は再び眼下の雲海を見下ろした。巨大な竜たちが蠢いているようにゆっくりとのたうつ雲の峰は、彼を差し招いているように見えた。
来い、と。ここまで来てみろ、と言うように……。
雲の波間から竜たちの嘲笑う声が聞こえてきそうだった。彼らは、空飛ぶことも、地に隠れることも、水に潜ることも叶わぬ矮小な者に、どれほどのことができるか試してやろうと言っている。
澱んだ暮色に染まる雲が、若者の目の前で大きな渦を巻いて下界へと誘う。雲の底にあるものを奪い取ってみろと言うように。
「行ってやろう。お前のいる場所が、凍りつく氷原の奥津城であろうと、燃えさかる火の山の腹の底であろうと……!」
若者は荒れ山の地肌を蹴ると、羽織ったマントを翻して雲海を目指して駆け降りていった。彼の足下の石たちは蹴り砕かれ、行く手を遮る枯れ枝は弾き飛ばされる。
山を後にする若者の後ろ姿は、荒れ狂い、天に向かって咆吼を上げる若竜そのものだった。
史書は語る……。
その血塗られた歴史を。
だが、人の心すべてを語るわけではない。
語られない歴史の中にこそ真実はあるのかもしれない。
人の流す血と涙と汗は、決して史書では語られない。
いや、語り尽くすことなどできはしない。
親から子へ、子から孫へ。
血は受け継がれ、語り継がれる。
人はどれほどの想いを託すのだろうか。
見果てぬ夢には、いつ届くのだろうか。
……判らない。
それは永遠に判りはしない。
そう、人々を睥睨する偉大なる神にさえも!
死に往く者たちよ。
その密やかなる声に耳を傾けるといい。
死と生の狭間から見つめる、その暗緑の瞳を見るといい。
すべてを飲み込んで舞う死の王の翼の下に休むなら
お前たちは時代の水面に映る青白き神の横顔を見るだろう。
嗚呼、今こそ夢を見よう……。美しく、そしてときに残酷な夢を。
眠る幼子に語るように優しく、戦場いくさばであがる怒号のように猛々しく。
あるいは、神に捧げられる祈りのように厳かに。
男たちの武勲いさおしと、女たちの懇願に耳を傾けて……。
さぁ、夢を見よう。
今暫くの間、夢うつつの世界を彷徨おう。
嗚呼、人よ。その美しき夢に微睡め──
まわりを流れる雲の動きは、山の上から見たときと同様、竜の息遣いのように密やかだ。
時に若者の腕に絡まり、時に遠巻きにその動きを眺める。それを繰り返し、侵入者の方向感覚を狂わせていく。ゆっくりと、じわじわと、獲物を追い詰めていく肉食獣のように。
雲は大きな森を囲んでいるのか、蠢く雲波の間から、時折黒々とした木々の影が透けて見える。
飛ぶように走っている若者は、腕を伸ばした先すら見えない白い闇の中を猛然と駆け、飛んでくるように現れる大木の幹を器用に避けながら、雲の奥深くへと突き進んでいた。
辺りは何も音がしない。小鳥のさえずりや小動物が木の皮をかじる音、大型動物たちが下生え草を踏む足音、普通なら聞こえるはずの森の音が、この雲の中では聞こえてこなかった。
若者も森の掟に従って一言も声を発しない。ただ、彼が駆け抜けていく足音ばかりが異様に大きくこだましているだけだ。
どこまで続くのか判らない雲間の森を、若者は少しも怖れていないようだ。口元に浮かんだ不敵な笑みが、そのことを何よりも強く物語っている。
ところが、それまで快調に進んでいた若者の足が突如止まった。今まで聞こえてこなかった音がする。
遠くから、あるいは近くから葉擦れの音が聞こえていた。ザザザッ、ザザザッ、と繰り返されるその音は、何かが移動している音に間違いない。
若者は息を殺すと、それまでの荒々しい動きが信じられないくらいの慎重さで、そっと足音を忍ばせて音の主へと近づいていった。
相変わらず森の中を漂う雲が、音の主の姿を隠してしまっている。どれほどの距離にいるのか見当もつかないが、若者は相手を見失うことなく忍び足で歩き続けた。
永遠に追いつけないのではないかと思われる時間が経った。
いや、実際にはそれほどの時間ではなかったのかもしれない。雲によって視界を遮られた状態で、しかも陽も落ちた時刻だ。闇の中で蠢く灰色の雲のまだら模様から過ぎた時間を計ることなど不可能だった。
妖かしにたぶらかされた気分になり、若者は苛立ちとともに立ち止まった。音を追いかけるだけ無駄な気がする。
だが、ここから元来た道を戻ることもできそうにない。何より、明確な目印があって道を歩いていたわけでもないのだ。
山の上でははやっていた気持ちが、この雲の冷気で冷やされたか、急速に縮んでいた。陽が落ちてから急速に冷え込んできている。夜露をしのげる場所を見つけたいところだった。
そんなことをつらつらと考えていた矢先、先を往く音から意識がそれた途端、若者は音の方向を見失った。
どうやら本格的に森の中で迷いそうだった。若者は恐ろしいとは思っていないようだ。むしろ夜の支配する時間帯に何かが出てくることを期待しているように、辺りに首を巡らせ、再び不敵な笑みを口元に刻んだ。
「俺の背後に道はない。俺が進むところが道そのものだ」
彼は観察するようにゆっくりと辺りを見回し、低い呟きとともに移動を始める。背負っていた剣をそっと引き抜き、目の前に現れる枝や薮を切り払って、一直線に進み始めた。
ガサガサと物音を立てながら進んでいくと、突然、目の前の薮がなくなり、大小の岩が連なる一角に出た。心なしか視界を遮る雲の層が薄くなってきたような気がする。
透かし見ると、岩の間から点々と低い灌木が生えているが、それ以外は何もない場所のようだった。
登り勾配になっている岩場を、足場を固めながら進むと、徐々に周囲の雲は微かな靄へと変わっていく。
岩の連なりは終わることなく続いていたが、勾配がなくなった頂に辿り着くと、そこはさらに何もない場所だった。いや、正確にはだだっ広い泉が岩の間に広がっている。
若者は油断なくその泉を見つけていたが、靄に包まれた泉の対岸付近から水音が聞こえてくることに気づくと、点在する岩を伝ってそちらへと近づいていった。
バシャバシャと水面を叩く音は、動物が立てる物音のようだった。若者はゆっくりと音の元へと近づき、岩の陰からそっと首を伸ばした。
白っぽい影が靄の中に浮かんでいるのが見える。それが人型をとっていることに気づくと、若者はさらに岩伝いに泉に近づき、眼をすがめて相手の様子を伺った。
先ほど森の中で先を歩いていた主かもしれなかったが確証のないことだ。それにしても、夜は冷え込むというのに水浴びとは、どういう神経をしているのか。今は真冬ではないが、水浴びに適している時期ではない。
若者は水浴びを続ける相手の体つきを観察した。細く白い身体だ。が、繊弱であるというわけではなさそうだ。
実際、この岩場を歩いてきたのなら、弱い足腰ではここまでやってくることもできまい。動きは機敏だが、全体的に柔らかさを感じさせるものだった。
どれほどの間、相手を見ていただろうか。ゆっくりと晴れてきた靄の間から見える人影の体格と横顔が、さらにハッキリと若者の視界に映った。
雪のように白い肌にかかる髪は、夜空にまたたく星たちのようにキラキラと輝いて見える。清楚な銀色をしているのだろう。天にかかっている月が靄の隙間から差し込むたびに、水を滴らせた髪が光を放つ。
髪に縁取られた顔の中で目立つのは高い鼻梁。彫りの深い顔立ちのせいで、相手の横顔が天を向くと、竜が空に向かって吼え立てているようだった。
やや肉厚の唇や、滑らかだががっしりとした顎が、細い首筋とは対照的な印象を与える。
厳つくはないが筋肉がのった肩と腕がゆったりとした動きで水をすくい、虚空へと煌めきを弾いて水と戯れ遊んでいる様子は、寒さの中でなければいつまでも見ていたいほど無邪気だった。
その白い人が、くるりと若者のほうへ身体を向けた。向こうはまだこちらに気づいていないようで、大きく伸びをする仕草は開放感に浸っているようだ。
が、若者は相手が向き直った瞬間に見えたものに驚き、眼を見開いて息を飲んだ。
相手の胸には柔らかな双丘があった。
女だ! 後ろ姿のときには、てっきり細身の男だろうと思っていたのに。
どうしたことだろう。女の身でこんなガレ場の泉にやってくるとは。よほど曰くのある者なのか、変わり者なのか。
若者が驚きに身を隠すことも忘れていると、ついに相手の女が若者に気づいた。こちらも驚き、口を半開きにして若者を凝視している。
互いにまじまじと相手の顔を見つめていたが、最初に動いたのは若者のほうだった。彼は手にしていた剣を岩場の隙間に突き立てて辺りを見回した。そして、女が脱ぎ捨てていた衣類を見つけると、それを取り上げて相手に示す。
泉から上がるよう促したのが相手にも伝わったらしい。女はバシャバシャと水音を立てながら岸へと近づいてきた。
若者は手近な岩にそれを乗せ、剣を突き立てた場所まで後戻りした。
先ほどから女は前を隠そうともしない。羞恥心というものがないのかもしれないが、若者は自分の中の礼儀で相手に不躾な視線を送るのを控えようとしたのだ。
しかし、眼を背けようとした一瞬の視界に、若者は不可解なものを見つけてしまった。
女の胸には果実を思わせる見事な膨らみがあるというのに、滑らかな腹部の下に、女ならばないはずのものが、しっかりと存在しているではないか!
ギョッとして若者はその場に立ち尽くした。顔を背けることも忘れて、相手の身体に視線を這わせる。女の円みのある体格でも、男のがっしりした体格でもない、微妙な……いや、曖昧な体格の生き物が若者の目の前にはいた。
男と女の特徴を併せ持った存在がいることを聞いたことがある。だが、目の当たりにしてみると、それはまったく別の生き物のように思えた。
互いに一言も発しないまま、若者は相手を凝視し、白い者は暢気に身体を拭いて衣服を着込んでいる。奇妙な沈黙であるはずだが、夜の帳の中では、そんな沈黙の時間もあるかと思わせた。
異質な存在は衣装を着終わると、サバサバした様子で若者に向き直った。まったく相手の視線を気にしていなかったようだ。天にかかる朱き月のような瞳がヒタと若者を捉えるが、それは非難しているようには見えなかった。
「お前は、なんだ……?」
若者はようやく重たい口を開いて問いかけを発した。その声は岩場のあちこちに反響して、何度となくこだまを返してくる。お前はなんだ、という問いかけは、問いかけを発した若者自身にも向けられたように錯覚させられた。
白い者が首をひねる。こちらの言葉が理解できないのかもしれない。若者の間近まで歩み寄ると、戸惑いを浮かべる相手の額に掌をかざし、若者の黒い前髪をサラリとなで上げる。
背格好は若者のほうがやや高い。体格も若者のほうががっしりしている。しかし、警戒心を露わにする若者に対して、白い存在には相手の懐の中にスルリと潜り込んでくる無防備さがあった。
ゾクリと若者の身体が粟立った。恐怖ではない。何か血が沸騰するような奇妙な高揚感に目眩がして、若者は白い手から逃げた。
「オマエノコトバ、ムズカシイ。モウイチド、サワラセロ」
異質な存在が抑揚のない声を発する。男なのか女なのか判らない奇妙な声に、若者は瞠目して立ち尽くした。
それを了承と受け取ったのか、白い存在は若者の首筋に腕を絡ませ、彼の黒髪越しに白い額を押しつけてくる。生き物の温みに、若者の身体から力が抜けていった。
「判った。もうしゃべることもできる。“お前はなんだ?”と言ったのだな。我は……そうだな、我らの言葉では両性体という。お前の言葉だと両性具有という存在のようだ」
「なぜ俺の言葉を?」
「お前は遠くからきた者なのだな。我らの言葉と違う言葉を話した。相手の言葉が判らぬでは話もできんだろう。だから、お前の頭の中にある言葉を教えてもらったのだ。……ほら、こうやって」
再びヒラリと白い掌が舞い、若者の額にかざされた。再び生き物の温もりが若者の額に伝わったが、それ以外は何が起こるでもない。
「それだけで判ると? 見ず知らずの者を随分とあっさり信じるのだな。俺には信じられん」
「悪意ある者を魔霧が生かしておくものか。お前はこの泉に辿り着いた。それだけで充分だ」
「あの雲か? あれに意志があると?」
白い存在が首を傾げ、にっこりと笑みを浮かべた。そんな仕草だけ見れば、女が微笑んでいるような優しげな印象しか受けないが、声や口調は男とも女とも判らない。
「我ら一族の言い伝えでは、魔霧を抜け出る者は幸運をもたらすとされている。遙か天の月より使わされた竜の化身だとも言われている。お前は、竜か?」
相手の無心な瞳に、若者は再び絶句した。自分が竜などと、どこをどう見たらそんなものに見えるというのか。
「違うな。俺は人だ。竜じゃない」
「でも、竜が持つ瞳を持っている。やはりお前は竜なのだろう」
「やめろ。この瞳は俺の一族の間では珍しくない。お前は見慣れないものを見て、勘違いしているだけだ」
不快そうに眉を寄せた若者の様子に、白い者は哀しげに項垂れた。がっかりしたらしく、肩を落とす様子が胸に痛い。
「魔霧を抜けてきた竜は幸いをくれると聞いて、ここまでやってきたのに。本当に竜ではないのか?」
「俺は海を渡ってやってきた。月からきた竜などではない。残念ながら、竜なら他を当たってくれ」
さらに悄然と肩を落とした目の前の者に、さすがに若者も決まりが悪くなってきた。
「もう少し待ってみたらどうだ? 本当の竜がくるかもしれないぞ。俺みたいなまがい物ではなくてな」
若者の言葉に白い者が顔をあげ、力無く微笑みを浮かべてそっと首を振る。
「お前、名は……?」
若者が再び口を開いた。困ったように眉を寄せる顔つきに、白い存在は小さな笑い声をあげる。震える笑い声が岩場に反響して、辺り一面が笑いの渦に巻き込まれた。
「お前、面白いな。どうしてお前は悪くないのに、そんなに困った顔をするのだ?」
若者がムッとした表情で口元を曲げる。その表情を見て、白い者はさらに笑い声をあげて身を翻した。腰の高さほどの岩へ舞い上がると、クルクルと身体を回転させてなおも笑い続ける。
「何が可笑しい!」
若者の苛立った声も岩場に反響し、笑い声とささくれた声が不協和音を辺りに轟かせた。くわんくわんと鳴り響く鐘の音に似た反響に、二人が顔をしかめてしばし黙り込む。
ようやく周囲の音が静まったとき、白い者が天を指さして囁いた。
「我の名はルラン。我らの一族の言葉で“二つの月”という意味だ。白き月と朱き月が交わった日に生まれた」
クルリと身体を回転させると、ルランは岩の上から飛び降り、若者の顔を覗き込んでクスクスと笑い声を漏らす。
「お前のことはドルクと呼ぶことにしよう。一族の言葉で“竜”を意味する言葉だ」
若者が呆れたように渋面を作ったが、ルランは気にした様子もない。むしろ、自分の考えが気に入ったらしく、若者の周囲をヒラヒラと飛び歩いては、楽しそうな笑い声をあげている。
すっかり靄が晴れた天空では、黒々とした夜空に鋭い星が瞬き、北天の朱き月が岩場に立つ二つの影をじっと見下ろしていた。
第02場 薫風にたなびく視線
嬉しくも気が重い時間がやってきた。
和紀は自宅の門をくぐると、隣家の門の前に佇む少女にチラリと視線を走らせた。門を挟んだ少女の隣りには、彼女の母親がニコニコと朝に相応しい晴れやかな微笑みを湛えてこちらを伺っている。
中学に入学してから一ヶ月近く、変わらず繰り返されてきた朝の光景がそこにあった。
「おはよう、和紀くん。いつも時間に正確ね」
聞き惚れるほどの美声も健在で、身体が宙に舞いそうなほどの心地よい声音に和紀の心臓は早鐘を打ち始める。
なぜ、この人はこんなにきれいな声が出せるのだろう。もしもこの女性が歌でも歌おうものなら、そこらの三流ポップス歌手顔負けの迫力のある歌声が出せるのではないだろうか。
和紀は緊張に肩をいからせながら、おはようございますと挨拶を返したが、まともに相手を見ることができず、オロオロと視線を彷徨わせた。そして無表情なまま佇んでいる娘の薫と視線が交わり、さらにうろたえる。
初日からずっとこの繰り返しだ。見送りに立つ薫の母親に逢い、その声を聞けるのは密かな楽しみになっているが、学校までの遠い道のりをこの少女と一緒に歩いていくのは、少々……いや、かなりの苦痛を強いられる行為だった。
「和紀くん、今日もよろしくね。……薫ちゃん、気をつけて」
自分の娘に「ちゃん」付けはどうかとも思っていたが、この女性がやると嫌味を感じない。いってきます、と平坦な返事を返す娘のほうが不作法であるような気さえしてくる。
薫と連れだって歩き始めてすぐ、和紀はふと後ろを振り返った。
敷地の中に立ったまま、娘の背中を見送る女性の姿が目に入り、彼は慌てて視線を逸らす。薫の母親がひどく切なそうな表情で娘の後ろ姿を見つめていた。彼女の顔に浮かんだ感情が、和紀にはどうにも理解できなかった。
娘は背後の母親の視線などまったく感じていないのか、スタスタと一人で先に歩いていってしまう。可愛げがないといってしまえばそれまでだが、そのドライな態度が彼女の瞳の奥にある暗さを押し隠していた。
初めて目にしたときの暗い雰囲気は、とりあえず朝の登校時には見ずに済む。朝っぱらからあの瞳を見せられたのでは気が滅入ってしまう。それだけがせめてもの救いだろうか。
自宅が見えなくなってしばらく後、薫の歩調が緩んだ。これもいつものことだった。この付近にくるまで、彼女は一刻も早く自宅から離れたいとばかりに、後ろを振り返ることなく早足で歩くのだ。
母娘の仲が悪いようにも見えないが、薫が母親の何かを重荷に感じていることだけは確かなようだった。
和紀は出かかったため息を飲み込むと、少女より半歩先を歩き続けた。
初夏間近の日差しは朝の空気を輝かせる。風に乗って草の青い匂いが届くと、差し迫った連休のことや空手道場の練習試合のことやらがふと頭を過ぎっていった。
あと一週間足らずで登校時の苦痛から一時的に解放される。気詰まりな相手と何十分も一緒にいるのは道場の特訓よりも辛かったが、そんな苦悩も束の間とはいえ忘れることができそうだ。
本来なら薫が学校までの道順を憶えた時点で別々に登校すれば良かったのだ。しかし、門まで毎朝見送りにくる薫の母親からさりげない懇願を感じ、今日までズルズルと一緒に登校するハメになったのだった。
初日から学校ではこの外見だけは美少女な薫と和紀がつき合っていると噂が広まったのだが、彼女の冷徹そのものの視線と無言の迫力に気圧され、そんな噂も二週間も過ぎた頃には立ち消えている。
気の強そうな女とつき合うなどごめんだと同級生の男子に触れまわっているせいか、トチ狂った上級生の男子から薫への橋渡しを頼まれることさえあった。
相手からの言伝を薫に伝える程度の手助けしかやらないが、一撃で玉砕していることは、隣を歩く少女の冷淡な態度を日々見続けていれば明らかだった。和紀にはとても彼女にしたいとは思えない。
いったい全体、彼女は何を考えているのだろう。一緒に登校していたところで会話があるわけではない。気詰まりなだけの相手といても楽しくなかろうに。
和紀が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、彼の目の前に薄いピンク色をした封筒が差し出された。
「なんだよ、これ?」
「昨日の放課後、隣の女子に頼まれたの。中身読んだら返事してよ。渡してないのかって恨まれるのは厭だから」
「なんでその女が直接渡しに来ないんだよ」
「そういうあんただって、バカ男の使いっ走りで私に伝言しに来るじゃない」
自分に告白しにくる上級生をバカ男呼ばわりするとは、なんという奴だろう。普通は自分に好意を示した相手を悪く言う者はいない。いるとしたら、よほど性格がねじ曲がっているのが相場だ。
和紀は隣の少女を呆れ顔で見つめた。
見た目が美形で他の女子と群れることがない薫は、周囲の男子生徒からは高嶺の花だと思われている。そのため呼び出してくる男子生徒の大多数は、軟派ながらかなり顔立ちが整った「美男子」だと言ってもいい。
その先輩たちをバカ呼ばわりしたことが他の女子に知れようものなら、薫は良くて無視、悪ければいびられることになるだろう。女子生徒の陰湿なイジメは凄まじいと聞くが……。
「お前、バカ男なんて他の女子に聞かれるなよ。逆恨みされるだけだぞ」
「バカ男にまとわりついているバカ女にも興味はないわ」
この少女には他人とのコミュニケーション能力が欠如しているのではなかろうか。立てなくていい波風まで立てようとしているとしか思えない。自分を追い込むようなことをして楽しいだろうか。
和紀は押しつけられた手紙のことも忘れ、隣を歩き続ける少女の整った横顔を注視した。
ハッとするほどの美少女であるにも関わらず、そこには硬質ガラスの冷たさと人形のような生気の無さしか感じ取れない。彼女には投げやりというか、刹那的なところがあった。
「手紙、読まないの?」
チラリと横目で睨まれ、和紀は慌てて視線を手許に落とした。
可愛いと言われている隣クラスの女子の名が封書に書かれている。散り果てた桜の花で染めたような封筒の色は甘ったるく、手紙の送り主の性格をよく表しているような気がした。
「これ、手渡されたときって他にも誰かいた?」
「いた、ウジャウジャと。手渡した子と同じクラスの女子がきゃあきゃあ冷やかしてたね」
どうやら女子の仲良しグループぐるみで画策した手紙らしい。それだけで内容が知れようというものだ。読む気にならないが、無視しようものなら陰口を叩かれることは目に見えていた。
容姿に自信があって友人に応援されながらの手紙や告白は、相手の男は振りにくい場合が多い。下手に振ると当の本人よりも外野が大騒ぎして男をなじるからだ。はた迷惑極まりない女の友情というやつだった。
渋々と封を切った和紀は、手紙の書き出し数行を読んだだけでため息をついた。案の定、ピンクの紙の上にはつき合って欲しいことと今日の放課後に返事を聞かせてくれなどと書かれている。
ここでつき合うことにしようものなら、今度の連休は絶対に初デートで潰される。空手道場の練習試合など、女子には地味すぎてつき合う気にもならないに違いなかった。
いや、今後の展開を冷静に予想している時点で、自分にはこの手紙の主のことをどう思っているのか判ってしまうではないか。
こんな手紙をもらえば、可愛い彼女が出来ると舞い上がる者もいるだろう。がしかし、生憎と和紀は今は空手のほうが面白かった。道場の熱気に身を置いていると、自分がどんどん強くなっていく気がしてならないのだ。
そんな想いをこの手紙の主に話したところで理解はされまい。可愛い服を着て、テーマパークや映画でデートをするのが恋人同士の有りようだと思い込んでいるような人種なのだから。
読み終わった手紙を封筒に戻しながら、和紀は一も二もなくこの申し出を断ることに決めた。取り巻きの女たちが人でなしだとか冷血漢だとか騒ぎ立てるだろうが、その罵りを甘受してでも自分の自由を明け渡す気にはならなかった。
ふと隣を見れば、淡々とした足取りで薫が隣を歩いている。
実は和紀は初めて一緒に登校した日から、女子では少し早いくらいのペースで歩いていた。歩調を合わせる気遣いを見せなければ、翌日からは薫のほうから別々に登校しようと言い出すかもしれないと思ったからだ。
ところが、彼女は平然とした顔でついてきたのだ。
身長が指一本分ほど彼女のほうが高いのだから歩幅も同じようなものだとは思っていたが、毎朝のロードワークを欠かさない自分についてこれないだろうと予想していたのが大きく外れてしまった。
まったくもって予想を裏切り続ける女だと思う。
こんな理解不能な奴と家が隣同士だというだけで、同級生からは幼なじみだと誤解を受けているのだ。知り合って一ヶ月ほどだと言ってもほとんど誰も信じてはくれないのだから、人間というのはいい加減なものだ。
チラチラと横目で盗み見しているうちに、周囲に同じ制服を着た人影が目立つようになってきた。もうあと五分も歩けば学校の門が見えてくるだろう。今日の苦行からもやっと解放される。
「薫ぅ~。英語の宿題やってきた~!?」
遠くにバタバタと両手を振り回しながら駆け寄ってくる少女の姿が見え隠れしていた。人付き合いの悪い薫の態度にもめげずに入学当初から張りついている少女だ。
他の女子とも上手くつき合っているようで、彼女のお陰で薫はクラスから浮かずに済んでいた。
薫は近づいてくる少女をジロリと睨み、宿題を丸写しする気ならノートは見せないと冷淡にあしらう。
「違うって! 辞書引いても全然判らない文法があるんだよぅ。薫なら訳せたでしょ~。教えてよぉ」
「その判らない文法って訳文全部なんて言わないでしょうね?」
「いやだ、いくらなんでも全部なんて……五ページくらい、かな?」
「それ、宿題の九割じゃない。本当に判らなかったの? 単に途中で面倒になって宿題するの止めただけでしょ」
「まぁ、そうとも言います。……って、薫ぅ。無視しないでよ~!」
少女たちのやり取りを盗み聞きしながら、和紀は二人よりも数歩先を歩き始めた。
この状況なら薫を置いて先に行っても問題はないだろう。が、あからさまに駆け出していくのも体裁が悪い気がして、ついつい近くを一緒に歩いて校門をくぐることになるのだった。
どうして自分はこの結城薫という少女ばかり気にしているだろう。他の女子なら適当に合わせるか、サラリと受け流すかして適度な距離を保つのに、彼女のことになるとそのバランスを失ってしまう。
和紀は薫の鋭い声を背中で聞きながら、答えの出せない自問自答を繰り返すのだった。
待ちに待った連休が来ると、和紀は道場に入り浸って試合や練習に明け暮れた。身体を動かせば動かすほど成果が出るのが体感できるというのは、モチベーションを高めてくれる良い要素だった。
しかも休みの後半数日は兄の正紀も道場に顔を出していた。大学に入ってからは空手道場に通うのを止めていた兄だが、たまに地元に帰ってくるとフラリと稽古場に顔を出すことがある。
師範に次いで兄に褒められるのが嬉しくて、練習にも力が入ろうというものだった。
「よぅ、和紀。今日は練習は午前中で終わりだろ?」
「え? うん、俺は飯喰ったら自主トレしようかと思ってるけど……」
「母さんが昼飯は家の庭でバーベキューだとか言ってたぜ」
「げぇっ。肉喰えるのは嬉しいけど、後かたづけは俺の仕事じゃねぇかよ。コンロの始末とかしてたら午後からは練習出来ないぜ」
「俺の仕事じゃなくて俺たちの仕事だろ。面倒な思いをするのは俺も同じだっての。いいじゃねぇか、腹一杯好きな肉喰えるんだから」
稽古が終わって三々五々に散っていく仲間たちと別れ、和紀はブツブツと不平を漏らしながら家路についた。
隣を大股で歩く兄の様子は平然としたもので、この後に待っている天国と地獄のことなど気にも留めていないらしい。あるいはすでに諦めの境地に立っているのだろうか。
家の近所の公園を突っ切り、玄関前のアプローチに差し掛かると、兄が言った通り香ばしい肉の匂いが漂ってきた。庭の植え込みの向こうで人が動く気配もしており、すぐにでも食事が出来るようだ。
どうせ後で力仕事が待っているのなら、その前の食事を楽しまなければ損というものだ。
和紀は兄に習って開き直ると、稽古の胴着を部屋に放り込み、アタフタと庭に降りていった。
「腹減ったよ。俺の肉、ちゃんと残ってる~?」
今日は単身赴任中の父も一人暮らし中の兄も帰宅しており、久しぶりに家族が揃う日だった。母親が開放感からバーベキューをやろうと言い出すのも、思えば不思議はないのだろう。
だが、庭に駆け込んだ和紀はその光景に眼を丸くした。
のんびりとした足取りで後からやってきた兄に背中を叩かれなければ、唖然としたまま棒立ちになっていたことだろう。
なぜ、隣の結城家の人たちがいるのだろうか。いや、正確には薫とその母親だけが我が家のバーベキューに参加しているのだが。未だに和紀は隣家の主人の姿を見たことがなかった。
「あら、二人とも遅かったわね。空手の稽古、長引いたの?」
「少しだけね。腹減ったよ。俺と和紀の分の肉、ちゃんと残してあるだろうな。野菜ばっかり喰わされたんじゃたまらないぜ」
「残してますよ、失礼な子たちね! ほら、正紀。あんたは初めてでしょう。挨拶なさい。三月の末にお隣に引っ越していらっしゃった結城さんよ。薫ちゃんは和紀と同い年だし、せっかくのバーベキューだから誘ったの。静ちゃん、うちの上の息子の正紀よ。前に話しだけはしたことあったわよね?」
「えぇ、お聞きしたわ。よろしく、正紀くん。お逢いできて嬉しいわ。工学部にいらっしゃるんですってね。それに和紀くんと同じくスポーツマンだって。……和紀くん、こんにちは。いつもありがとうね」
薫の母親の歌うような美声は健在だった。
兄の正紀が面食らって言葉を失うのを、和紀は隣で面白くなさそうな顔で見上げていた。
「初めまして、薫です。……よろしく」
母親に続いて頭を下げる薫の声が聞こえなかったら、兄はボゥッと正体を失ったままだったのではないだろうか。
ふと気になって父親を振り返ると、目尻を下げた父の顔が目に入ることになり、和紀は小さくため息をついた。どうやら薫の母親の美声は綿摘家の男に絶大な効果があるらしい。平然としている母が羨ましくもある。
「さぁ、食べて食べて。お肉が焼けすぎて不味くなっちゃうわよ。ほら、静ちゃんも薫ちゃんも遠慮しないで!」
母親はこの母娘がすっかり気に入ったらしく、自分よりも十歳は若い薫の母親を馴れ馴れしく名前で呼んでいた。その影響で、和紀も逢った当初から薫のことを名前で呼ばされる。姓の結城で呼んだのでは母か娘か判らないからと。
そんなのは屁理屈だと思うのだが、母が一度言い出したことは滅多なことでは曲げない頑固者であることを知っている和紀は、抗議の言葉をグッと飲み込むしかなかったのだ。
兄と肉の取り合いをしながら、和紀はコッソリと薫の様子を盗み見ていた。
どうして今日の誘いに乗ったりしたのだろう。やはり母親と一緒だからつき合ったのだろうか。そうでなければ、彼女がこの家に足を踏み入れるとは思えなかった。
本当に何を考えているのか判らない少女だ。母親たちに話しかけられると、義理で微笑みを浮かべることはあるが、そうでなければ顔の表情一つ動かさないのではないだろうか。
いや、今日は珍しくふと表情が和むときがある。和紀はその僅かな瞬間を何度か目撃し、彼女が向ける視線の先を確認した。
──兄貴を見てる。
兄の正紀は弟の自分から見ても格好いい。同級生たちはそういうのをブラコンと言うんだと囃し立てるが、兄の切れ長で鋭い瞳と筆で描いたような形のいい眉だけでも人を惹きつけるものがあると和紀は思っている。
まして空手やサーフィンといったスポーツで身体を鍛えており、Tシャツの袖口から覗く腕は適度に日焼けし、筋肉質で逞しい。
自分もいつか兄のようになるのだと密かに思っているだけに、和紀は薫が兄に向ける視線に気づいてしまった。なんだか面白くない。兄に賞賛の視線を向ける少女の態度が気に入らなかった。
今まで兄に熱視線を送った女がいなかったわけではないのに、今回はどうしてこう気に入らないだろう。理由が思い浮かばないのに、ひどく苛立ちを感じるのはなぜだろうか。
もやもやとした内心を抱えたまま、和紀は焼き上がった肉を頬張り続けた。
兄に憧憬の視線を向ける薫も、そんな彼女の内心を知ってか知らずか平然と話しかける兄の態度も、見ているとムシャクシャしてくる。視界に収めないようにしようとすればするほど、そちらのほうが気になって仕方がない。
どうかしている。今までだって兄は同年代の女性や年下の少女たちと普通に会話していたではないか。それなのに、なぜいつもは無愛想な薫がぎこちなくも微笑みを浮かべている様子に苛立つのか判らなかった。
「あらぁ、お肉がもうないわ。和紀、冷蔵庫から新しいお肉を取ってきてちょうだいよ」
母親の言いつけに生返事を返し、和紀は家の中に駆け込んでいった。
兄と薫から視線を背けることができるのなら、こんな簡単な手伝いどころか、なんでもやったに違いない。
台所のひんやりとした空気の中、和紀は気難しげに眉間に皺を寄せて立ちすくんでいた。不条理な苛立ちが少しでも落ち着きはしないかと思いながら。
だが彼の期待も虚しく、ささくれだった内心はそう簡単には平静さを取り戻しそうもなかった。
つづく......
第01場 冷たい顔
南国では桜の花も花開いた時期だが、この地方ではまだ薄桃色の花びらはほろほろと微かな彩りしか見せていなかった。日中の暖かな日差しが消えると、未だに空気はグッと冷え込んでくる。
それは、こんな季節に始まった。
和紀は己の鼓膜を叩く騒音に、不機嫌そうに眉をしかめた。玄関のチャイムが聞こえる。居間のテレビを見ながら夕食を待っていたが、台所から応対するように呼ぶ母親の声に急かされて重い腰をあげた。
「めんどくせぇなぁ……。こんな忙しい時間になんだっていうんだよ」
自分はまったく忙しくないが……いやいや、テレビを見ていたのだから、大いに邪魔された気分であることは間違いない。忙しいといえば忙しいのだ。
だが、不平不満は多々あれど、グズグズしていると母親から鉄拳が飛んでくることは間違いない。「あんた、中学生にもなろうっていうのに、お客さんとの応対一つできないの!? わたしはそんな風に育てた憶えはないわよ!」ときたものだ。
玄関の向こうで大人しく立っている来訪者の影がドアガラスに透けて見える。背格好から女性らしいということが判ると、和紀は少しだけホッとした。
夕食どきになるとやってくるセールスマンだと、しつっこくて面倒なのだ。もっとも女性でも押し売りの類はいるのだから油断はできないが。
家庭のセキュリティーをあげるなら、居間か台所辺りに防犯カメラのモニタでもつけておけばいいのだろうが、生憎とこの家にそんな高価な代物はない。覗き穴からそっと相手を観察してみると、見たこともない中年女性が立っていた。
人の良さそうな顔つきだ。卵形の綺麗な輪郭を縁取る黒髪は、玄関の防犯灯に照らされてもなお黒々と輝いている。今どき真っ黒の髪とは珍しい。もしかして染めているのだろうか。
伏し目がちな睫毛の影が白い頬に映っていた。微かに震えるその動きで外気温の低さが伺い知れる。全体的な雰囲気から、自分の母親より若そうだと和紀は判断した。年上の女性ながら、この人は美人の部類に入ると余計な採点までしてしまう。
「どちら様ですか?」
それでも用心深くインターフォン越しに声をかけた。美人だからって気を許すと、立て板に水の勢いでセールストークをまくし立てる喧しいおばちゃんだったというオチはご免被りたい。
ところが、和紀の問いかけに「隣りに越してきた結城ゆうきと申します」と返ってきた。
その相手の女性の声に和紀は思わず聞き惚れそうになった。こんなに柔らかで優しい音色をした声は初めて聞いた気がしたのだ。いや、高級デパートの受付に座っている見目麗しい女性たちもこんな柔らかな声をしていたはず。もしかしたら、それ以上に耳心地の良い声かもしれない。
「ちょっと待ってください」
うっとりと相手の声を反芻しながら、そういえば昼間に引っ越し業者が隣りに出入りしていたっけと夢見心地で台所へ飛んでいった。
「お隣に越してきた人だよ。結城さんだってさ」
最後の盛りつけにかかっていた母親が「あらあら」と手櫛で髪をかきあげて玄関へと出ていく後ろ姿を、和紀はちょっと羨ましそうに見送った。今風に茶髪に染めて若作りしている母親の若々しい声以上に、訪問者の声音は綺麗だった。
訪問者の正体が判ったら自分のお役はご免のはずだが、今回の女性の声はもっと聞いていたい。もしもあの声で勧誘でもされようものなら、間違いなく誘いに乗ってしまうだろう。
居間の敷居の側でウロウロと歩き回り、和紀は玄関口の話し声に耳をそばだてた。だが母親の大声が聞こえるだけで肝心の女性の声が聞こえない。
「もぉ~。なんて厚かましい大声あげてんだよ。ったく、聞こえねぇってば」
ブツブツと小声で母親を罵ってみるが、こればかりはどうしようもない。それでも、どうにかしてもう一度声が聞けないものかと息を潜めてみる。図太い顔をして相手の前に出て行くには、和紀は複雑なお年頃すぎた。
「和紀ぃ。ちょっと出てらっしゃい!」
イライラと気を揉んでいた彼は、母親の呼ぶ声に文字通り飛び上がった。引っ越しの挨拶に訪れたくらいで、自分が紹介に呼ばれるとは思ってもみなかったのだ。それともその訪問者の前で何か余計な用事でも言いつけられるのか。
どきどきと心臓を踊らせながら恐る恐る玄関に近づいていくと、母親が一生懸命に手招きしている。扉の向こうに見える女性の清楚さと自分の母親のガチャガチャした態度の落差に、和紀は一瞬複雑な気分になった。
がしかし、こちらに微笑みを向ける訪問者の雰囲気を感じ取り、彼は身体を緊張させた。顔が赤くなっていないかといらぬ心配をしながらドアの脇に立った和紀は、女性の顔を見るのが気恥ずかしくて母親の顔を見上げて問いかけた。
「なんの用? テレビ見てたのに」
「まぁ、可愛くない! まったくこれだから男の子は……」
つい憎まれ口を叩いてしまう自分の口が恨めしいと思ったのは、今日が初めてかもしれない。内心とは反対に口を尖らせると和紀はそっぽを向いた。
「用がないならテレビ見たいんだけど」
「何言ってるの。用があるから呼んだに決まってるでしょ?」
母親が自分の肩を押さえつけて、無理矢理に訪問者のほうへと向き直らせる。まともに顔を合わせることになって、和紀はあからさまに頬を染めた。玄関ホールと外の防犯灯の双方に照らし出され、彼の頬は熟したオレンジのような色になっている。
「うちの息子よ。今度、中学一年生。お宅のお子さんと同い年だから一緒に登校すればいいわよ」
突然にベラベラとしゃべり始めた母親の言葉に面食らって、和紀は目をパチパチと瞬かせた。目の前にある女性がおっとりとした笑顔でこちらの顔を覗き込んでいて、心臓が飛び出しそうなほどドキドキする。
その女性の視線がふと外の暗がりへと向けられた。白いうなじがブラウスの首から覗き、灯りの下で生白く光る。中年女性の後ろ髪は綺麗に櫛を入れて結い上げられていた。
「薫ちゃん、こちらに来てご挨拶なさい」
柔らかな声に和紀はうっとりと聞き惚れて頬を緩める。なんて綺麗な声だろう。やはり今までに聞いたことがないほど心地よい声だ。
自分にはかなり年上の兄がいることもあって、母は同級生たちの母親よりも年上であることが多い。対抗意識を燃やしているのか、母はいつも若作りをしており、声も溌剌とした若さを意識して大きめだった。
その颯爽とした母親の声とはまた違った力強さと柔らかさを持ったこの女性の声は、聞く者の心を溶かしてしまう魔力を秘めているに違いない。
女性に手招きされて暗がりから現れた人影が目にはいると、和紀はビクリと身体を震わせた。
「まぁ! お母さんに似て美人だこと! やっぱり女の子はいいわねぇ。わたしも欲しかったわぁ」
母親が耳元で大声をあげなければ、和紀はポカンと口を開けたまま相手の顔に穴が開くほど見惚れ続けていただろう。
「娘の薫。和紀くん、同じ学校に通うのだけど通学路を教えてやってもらえるかしら? 土地勘が全然ないところだし、学校はちょっと遠いみたいだから」
弓張月のように綺麗なラインの眉をひっそりとひそめて、女性が和紀の顔を再度覗き込んでくる。色白の肌に大きな黒目がよく目立つ顔立ちだと、和紀はそのときになってようやく相手の女性の顔をまじまじと観察した。
「い、いいですよ。ここから学校までの通学路は少し複雑だし、一緒の時間帯の通学でしょ? 憶えるまでなら……」
この女性は美人の部類に入れてもいい顔立ちだと思う。だが娘のほうは……なんというのだろう。母親が包み込む真綿のような優しさと美しさだとしたら、薫と呼ばれた娘は、彫像のように硬質で、ピリピリとした鋭さをもつ刃のようだった。二人とも美人ではあるが、雰囲気も顔立ちも似ているとは思えない。対極にあるような親子だった。
「よろしく……」
口数少なく頭を下げる少女は、ニコリとも笑みを浮かべずに母親の女性の側に立っている。彫刻芸術のような綺麗な顔が、かえって彼女の冷たさを際だたせているように見えて和紀は視線をそらせた。
日本人にしてはやや薄めの色素をしているようだ。濃い茶髪に明るい茶の瞳は、全体的に彼女の印象を明るめのものにするはずなのだが、どういうわけか鋭さを前面に押し出した薫の態度は暗い印象を拭えない。
「こちらこそ、よろしく」
そそくさと返事を返し、再び視線を合わせることなく和紀は返事を返すと、クルリと背を向けて居間へと駆け戻った。
ずっと彼女を見ていると頭がおかしくなりそうだった。暗い淵に引きずり込まれそうな薄ら寒さに和紀は身震いした。
背後の玄関からは母親の呆れ声が聞こえていたが、彼はソファに身を沈め、クッションをきつく抱きしめた。そして、暴れる心臓をなだめるように幾度も深呼吸を繰り返す。
いつの間にか少女の母親の聞き惚れる美声のことなど忘れていた。あの聞き惚れるほどの柔らかな声から感じる温もりも吹き飛ばすほど、薫の暗い雰囲気のほうが和紀の心を掻き乱していく。
いや、一見しただけでは彼女が暗いという印象は受けない。あの瞳だ。あの瞳も初めて目にする性質のものだった。薄い色素の瞳は明るさを感じさせる前に人の心を呑み込んでしまう。まるで色をつけた氷のよう。見る者を怖じ気づかせる冷たさが、そこにはしっかりと横たわっていた。
あんなに綺麗な顔をしているのに、どうして笑わないのだろう。微笑んでいれば、もっと晴れやかで人を魅了することができるだろうに。それとも見知らぬ相手を警戒しているだけだろうか。
近いうちに始まる中学校生活の始まりを喚起させる訪問者に、なんとも波乱に満ちた未来を想像してしまう。ぬるま湯のような時間から引きずり出され、きりきり舞させられる気配がするのは気のせいではないような……。
居間に戻ってきた母親が頭を小突いていったが、それを無視すると、和紀は気のない視線をテレビ画面に向けたまま身震いを繰り返した。
夜明けと同時に始めるランニングはすでに日課となっている。
大学生の兄が家を出てからも、一人でトレーニングを続けることは止めなかった。長年習っている空手の腕前が、最近になってから急に上達してきてからかもしれない。
体力がつくにつれて一足飛びに技も冴えてきており、ここで筋力トレーニングを疎かにしたら、せっかく伸びた芽が萎えてしまうのではないかと、心のどこかが怯えているのだ。
東の空が白々と明けていく様を眺めながら、和紀は庭でストレッチを繰り返していた。充分に筋肉をほぐしてから予定通りのコースを走り始める。幾人もの見知った顔がいつも通りに朝の挨拶をしてすれ違っていった。
アスファルトの上を走ると膝を痛めるとアドバイスを受けて以来、和紀は公道のランニングを短めにして、近所の広い公園内で走り込みや筋トレをするようになっていた。
この日も近所をぐるりとまわって公園の前にやってくると、走っていたときの手足の筋肉をほぐしながらブラブラと公園内に足を踏みれた。
すでに何人かの大人たちがランニングをしたり、のんびりと散歩を楽しんでいたりして、早朝とはいえそれなりに人の姿が見える。
「やぁ、おはよう。綿摘わたつみくん」
サラリーマン風の中年男性が汗をふきふき近づいてきた。日に焼けた顔で微笑むと実年齢より若くみえる。聞いたことはないが、たぶん四十代後半ほどの年齢だろう。
「おはようございます。早いですね」
「今日は早めに会社に行くのでね。いつもより走った距離も短いよ」
やや腹が出てきているが、筋肉質の体格から見てもこの男性が身体を動かすことが好きなことは容易に想像がついた。
男性と別れた和紀はいつも通りのランニングを始めた。公園の土は適度な硬さがあり、確かに公道を走っているときよりも足が楽だ。
自分のペースを守りながら黙々と走り続け、額にじっとりと汗をかくほどになると今度は筋力トレーニングを始める。目を瞑っていてもできるくらいに馴れたメニューだった。
いつも通りの内容を淡々と消化して再び最後の仕上げに走り始める頃、和紀は公園内に見慣れない人影を発見した。
東の空に昇っている太陽をじっと見上げて佇むその人影を確認すると、和紀の足は凍りついたようにその場で止まった。それ以上うんともすんとも動かない。
昨夜出逢ったあの少女だ。太陽の光を浴びて、昨日以上に明るく見える茶髪がキラキラと輝いている。白い肌は遠目にも血色がよく、輝く茶髪と相まって昨夜の暗い印象とはほど遠い横顔だった。
色白の肌も髪同様に発光しているような輝きを放っている。こんなに朝日の光が似合う横顔に初めて出逢った。
茫然とその顔に見惚れていた和紀の背中をポンポンと叩く手がある。
「何を見ているんだい、綿摘くん?」
ハッと我に返って振り向くと、先ほど公園の入り口付近で会った中年男性が立っていた。今度はスーツ姿である。どうやらこれから出勤していくようだ。公園内を通り抜けて駅まで近道しようというのだろう。
「あぁ……えぇっと……」
もごもごと言い訳を考えるうちに相手が遠目に見える少女の姿を発見した。
「おやぁ? ずいぶんと可愛い子がいるじゃないか。なぁんだ、あの美人に見とれていたわけかい? それとも口説き落とそうと狙っていたか?」
「そ、そんなんじゃないです!」
「まぁまぁ。そう照れなさんな。あの子、稀にみる美人じゃないか。口説くなら早くしないと他の男に取られるぞ」
「だから! そんなんじゃないって!」
顔を真っ赤にして反論する和紀の肩を気さくに叩くと、男性は楽しそうに笑い声をあげる。すっかり誤解しているらしい。和紀の言うことなどほとんど耳に入っていないようだ。
「若いっていいねぇ」
楽しげな笑みを浮かべたまま手を振って立ち去る男性に和紀は地団駄を踏んだ。少しは自分の話を聞け! 誰も彼女を口説くなんて言ってない!
だが誤解を解く前に立ち去ってしまった男性の後を追う気にもなれず、和紀はむくれたまま少女のほうを振り返った。そして、そのまま射すくめられるように硬直する。
いつの間にこちらの存在に気づいたのだろう。薄い茶色の瞳でじっと自分を見つめる視線は昨夜の暗さを残していた。全体的な明るさを裏切る彼女の瞳の冷たさが、朝日で温まった和紀の体温を急速に奪っていった。
だがいつまでもそこに立っていることはあまりにも不自然な気がして、彼はぎこちない動きで相手に近づいていく。できることなら、このまま自宅に走り帰りたいところだが、こうまでしっかりと視線を向けられて、あからさまに無視するわけにはいかないだろう。
並んでみると彼女のほうがやや背が高いようだ。十代前半ではよくあることだが、和紀は少なからずショックを受けていた。
「お、おはよう。早いね」
「おはよう……」
澄んではいるが無機質な声で返事を返す相手の前に立つと、和紀は真っ白な頭のなかをフル稼働させて言葉を探した。
「さ、散歩?」
「近所の道を憶えようと思って……」
「似たような家が多いから迷うだろ?」
「そうでもない」
「……そっか」
あぁ。もう会話が終わってしまった。こんなときいったい何を話したらいいんだろうか。パンクしそうな頭には意味不明な言葉ばかりが浮かび、役に立たないまま消えていった。
「もう走らないの?」
突然かかった相手からの声に、和紀はビクリと身体を震わせる。予測不能の事態に頭はグルグルしていた。何を言われたのかよく判らない。間の抜けた顔をしていることにすら、彼は気づいていなかった。
「……え?」
「ずっと走ってたでしょう? もう走るのはやめ?」
「あ、うん……。もう、帰るから……」
帰るからと言いつつ足は根が生えたように動かない。再び太陽を眩しそうに見上げる白い横顔に寂しい拒絶を感じながらも、和紀は心臓を踊らせてじっと薫に視線を注いだ。
「まだ、帰らないのか?」
恐る恐る問いかけると、ふと我に返ったように少女がこちらへと視線を向けた。昨夜と同じ暗い光を宿した薄茶の瞳がキラキラと光を弾いている。用心深く見知らぬものを警戒する子猫のような瞳だ。
間近で見ると、薫の顔の造りは本当に整っていた。卵型の輪郭にスッキリと鼻筋の通った顔立ちというだけでも涼やかな印象を受ける。それにアーモンドのように切れ上がった瞳はくっきりとした二重瞼に縁取られ、髪よりもやや濃いめの睫毛が華やかさを添えていた。
その瞳の上では睫毛と同じ色の眉がきりりとつり上がっている。それは彼女の容姿に鋭さを与えていた。聡明そうな額や滑らかな頬には染み一つない。和紀には文句のつけようがない美貌に見えた。
「帰ろうかな……」
ポツリと呟くように囁いた少女の唇に和紀の視線は釘付けになった。
やや下唇が厚めだが、花の花弁を思わせるその口元が微かに震えているように見える。まるで散り際の桜のようだ。
「寒いの?」
「え……?」
唇の震えの原因が他に思いつかず、和紀は思ったままを口にした。ほとんど顔の位置は同じ高さにあったが、和紀は彼女の唇に目を奪われていて少女の瞳にどんな色が浮かんでいるのか気づいていなかった。
「唇、震えてるから」
その和紀の言葉に、少女がハッとしたように自分の口元を押さえる。ついで鋭い視線を相手へと向けた。
険悪なその視線に和紀が狼狽する。気に障るようなことを口走ったつもりはなかった。何にそんなに腹を立てているのだろうか。
「震えてなんか、ない!」
言いざまに少女は背を向けて走り去っていった。人間に見つかって逃げ出す小動物のような俊敏さだ。後ろを振り返ろうとはしない。
その背中を呆気にとられたまま見送ると、和紀は自分の唇をそっとなぞってみた。別に唇が震えていたところで何か問題があるとは思えない。どうしてそんなことで怒られるのか、彼には見当がつかなかった。
「なんなんだよ、あいつ……」
いわれのない怒りをぶつけられた腹立たしさに和紀は頬を膨らませる。駆け去った少女の姿はもう見えなかったが、その消えた背を睨むように彼は眉をつりあげ、唇を尖らせた。
やはり波乱の幕開けだ。あの少女と一緒に登校する学校までの道のりは、なんと果てしなく感じることだろうか。
上手くやっていけるかどうか不安になり、和紀は照らし出す朝日とは対照的な想いため息をついた。
頭の上を通り抜けていく足音。コンクリートと窓ガラス越しのその音は、わずか数メートル先の人の存在を、あまりにも遠いものに感じさせる。
俺の中に残っているものは、今は胸を塞ぐ苦々しさと喉の渇きにも似たある渇望だけだった。
半地下のこの店は、今の俺の気分を代弁しているように薄暗い。夜はパブに代わるが昼間はカフェとして営業しているこの店は、客の年齢層が高く、しかも男のほうが多いらしい。
女性客もチラホラと見えるが、大抵が一人で店にやってきて待ち合わせの相手がくるとすぐに席を立ってしまう。ゆっくりとした時間が流れる場所だが、人々はぬるま湯のような空間に浸っていくことは少ないようだ。
フゥッと口を尖らせて息を吐くと、細い紫煙が勢いよく噴きだし、すぐにユラユラと空気の中に溶け込んでいく。何度も繰り返してみるが、同じ輪郭を描くものは一つもできなかった。
生まれて初めて煙草を吸ったのは、ほんの一ヶ月ほど前。それまでは見向きもしなかったというのに、一度吸い始めると日に日に本数は増えていき、今では一日一箱なんてざらだった。
俺は残り少なくなった煙草を灰皿に押しつけると、新しい一本に火をつけた。
この国で煙草を吸っていると冷たい目を向けられる。故郷でも嫌煙権を振りかざす人間によく行き当たるが、この国ではもっと徹底している。愛煙家が店に入るときは喫煙席の有無の確認は怠れなかった。
「Hey, boy! You must not smoke.」
お節介な金髪男が俺に話しかけてくる。
これで何人目だ? 俺はいい加減うんざりしていたが、ポケットからパスポートを引っぱり出すと、相手の目の前に大きく開いて生年月日の欄を指さした。
男が俺の年齢を確認して青い目を大きく見開く。やはり五~六歳は年齢を間違えられていたようだ。
この都市では十八歳から大人の扱いを受ける。喫煙も必然的にその年齢からは咎められない。自己の責任で管理しろというわけだ。
俺は十九歳になっている。故郷ではまだ喫煙が認められていない年だが、ここでは大手を振って紫煙をくゆらせることができるはずだ。が、実際のところは故郷よりうるさい。ここは見て見ぬフリをするということをしない都市なのだ。
この国では東洋人は外見年齢で得をすることもあれば、損をすることもある。俺の喫煙は大いに損をしている部類に入った。逐一、パスポートを引っぱり出してきて自分の年齢を教えなければならないからだ。ポリスになるとパスポートが本物かどうかまで疑う奴もいた。
この店の中では、俺は客層の中では若い年代で、かなり浮いている。さらに煙草の煙を吐き散らして目立っているのだから、他の客に鬱陶しがられていても仕方ないのかもしれないが。
大人しく自分の席へと戻っていった男が、同僚らしい男に首を振っている姿が目の端に入った。東洋人の年齢を当てるのは難しいとでも言っているのかもしれない。
煙草は旨いから吸っているわけではない。気を紛らわせるために吸い始めただけだ。手持ち無沙汰になると余計なことを考えてしまうから。
この夏、俺は最低最悪の失敗をやらかした。今までに築き上げてきた信頼を根底から突き崩す失敗だ。本当ならブタ箱に放り込まれたって文句もいえないはずだが、幸か不幸か、俺はここにこうして座っていられる。
頭に血が昇ったまま彼女に会いに来たのがそもそもの間違いだったと、今ではちゃんと判っていた。のぼせた頭で考えることなど、ろくなものではない。それでも、焼けつく焦燥感に煽られ、勢いのままにこの国まで彼女を追ってきた。
バカなことをした。他の奴らとの間には築けない信頼が二人の間にはあったはずなのに、その信頼をアッサリと裏切ってしまった。
最初はちょっとした事件が発端でこじれた関係だった。しかし、時間が解決してくれるはずの事柄だったのだ。お互いがお互いを庇い合ったためにできた軋みが、最悪の不協和音を奏でる結果になった。
夏の昼下がり、暑い部屋の中のあの悪夢。彼女がふいに流した涙が、俺の理性を焼き切ってしまった。
俺のために流された涙だと思った途端、押さえていたタガは外され、凶暴な嗜虐癖が顔を覗かせた。シーツの上に押さえつけた彼女の喉から漏れる嗚咽が、今でもクッキリと思い出せる。
何もかもが終わった加虐の痕に、俺はゾッとした。何をやったんだ。どうしてこんな真似を、と。
情交の痕を洗い流して彼女の部屋を飛び出した俺は、一晩中夜の街を彷徨いた。しかし、結局はヘトヘトに疲れた足を引きずって、再び彼女の部屋の扉を叩いていた。
夏の早朝、本来ならもっと清々しいものだろうに、俺たちの間にあったのはドロドロと歪んだ想いだけだった。
彼女もほとんど眠っていないのだと、すぐに判った。目の下にうっすらと浮いた隈で、せっかくの美人が台無し寸前だった。俺を見る彼女の瞳は、いつもの力強さが欠片もなかった。
「どこに行っていたのよ。夜は治安が悪いってのに。下手なところに入り込んだら、命が幾つあっても足りやしないわよ」
罵倒されることを覚悟して会いに行ったのに、彼女は開口一番こう言った。俺がホテルに泊まったとは考えなかったらしい。
彼女は玄関先で茫然としている俺を部屋に招き入れると、気怠げな様子でキッチンに立ち、熱い珈琲を入れてくれた。そして、そのまま俺の左隣に腰を下ろすと、ホゥッと深いため息をつく。
非難めいたことは一言も口にしないまま俺の頬をそっと撫でる指先の熱さが、彼女がいかに疲れているのかを教えていた。寝不足で身体がむくむほど俺を待っていてくれたのだと思い上がってしまう。
しかし、まるで何年もそうしてきたような馴れた仕草が、かえって俺のしでかしたことを激しく非難していた。彼女の中に残っている傷跡に胸を痛めながら、同時にその傷が消えなければいいと心底思った。
「私、ずぅっと一人っ子だったし、小さな子どもの頃も近所の子と遊んだことなかったから、喧嘩したときの仲直りの仕方を知らないのよね。あんた、夜中になっても戻ってこないし、警察に捜索願を出した方がほうがいいのかどうか、散々迷ったわ」
俺の頬を何度も撫でて満足したのか、彼女は机に向き直ると、ゆっくりと肘をつき、そこにそっと顎を乗せた。伏せられた瞼に浮かぶ静脈が、いつも以上に薄青くハッキリと浮かんで見える。
あれが喧嘩なものか。俺が一方的に彼女を踏みにじっただけだ。目の前のオモチャを好き勝手にする幼子と同じ。相手のことなど考えなしだった。
どうしてそんなに静かにしていられるのだろう。俺は彼女をめちゃくちゃにしたのに。当たり前のような顔をして隣りに腰を下ろさないで欲しかった。
俺を警察に突き出すなり、罵倒して平手打ちにするなり、怒りをぶつけられたほうがいっそスッキリするだろう。彼女の傷が治らなければいいなどと、歪んだ想いを抱かずに済むのに。
それなのに、彼女はホッと安堵のため息をついた後、珈琲を飲んだらシャワーを浴びて疲れを癒せとまで言うのだ。
席を立った彼女がキッチンで朝食を作り始めのを見て、俺は矢も楯もたまらず彼女を抱きしめた。他に俺に言う言葉があるはずだ。日常の延長線上ではない言葉が。
だけど、彼女は俺の頭をそっと抱きしめて力無く微笑みを浮かべるのだ。
「一晩中、泣いていたんでしょう? あんた、意外と泣き虫だもんね。……ごめん。ごめんね。私のせいだよね、あんたがそんなに傷ついているのは」
彼女は一言も俺を責めなかった。謝るべきは俺のはずなのに、彼女が謝罪しなければならないことなどないはずなのに。
俺は身体中から力が抜け、その場にズルズルと膝をついた。目の前にある彼女のくびれた腰を抱きしめ、何度も赦しを乞い、好きだと囁き続けた。
卑怯な奴だ、俺は。好きだから赦してくれと懇願したのだ。俺の気持ちなど関係ない。俺のしでかしたことは、謝罪だけで赦されることではないのに。
ただ彼女からは赦すという言葉も出なかった。曖昧に微笑みを浮かべたまま、俺の頭をそっとなで続けただけだった。
消えそうな微笑みを浮かべる彼女を、俺は初めて目にした。キッパリとした拒絶以上に、その微笑みは俺の胸を刺し貫く。俺のことを好きだとも嫌いだとも言わない。
沈黙が怖いと、このときほど思ったことはなかった。
俺は彼女の身体を揺さぶって、俺のことが好きなのか嫌いなのかと問いただした。好きになれないのなら、嫌ってくれと、憎んでくれと。どちらか白黒つけたかったのだ。
でも、彼女は跪く俺を見下ろしたまま、小さく首を振っただけだった。
残酷な罰だ。彼女が俺に下した罰は、俺にとってはもっとも辛い罰だった。彼女のそばにいることを許してもらった代わりに、彼女の心は俺が手に入れることが叶わないほど遠くへ行ってしまった。
もしも時間が巻き戻せるのなら、俺は昨日一日をやり直したいと痛切に思った。こんな結末を得るなんて、今の俺には耐えられないと。
ところがどうだ。あれからほぼ一ヶ月半、いや、二ヶ月近くになるのか、暑い夏が終わり秋風を感じるようになった現在、俺は未だに彼女のそばにいる。平然とした顔をして。しかし、彼女の心を失ったまま。
あの後、俺は機械的に彼女の入れてくれた珈琲を飲み、言われるままにシャワーを浴びた。その後に二人で彼女の作った朝食を摂り、ろくな話をしないまま彼女を残して帰国した。
機内で死んだように眠りながら、俺は夢の中で彼女の曖昧な微笑みを何度も見つめ、狂った時間の中で聞いた彼女の嗚咽をなぞった。
失意のまっただ中だというのに、俺は何も考えられない頭のままで仕事をし、学校に通った。本当に機械のような生活だった。何も考えないようにしていたのだろう。
それから数週間後、今どき珍しいエアメールが届いた。ヴィジフォンや電子メールが当たり前のご時世に、ポストに突っ込まれていた白い封筒はあまりにも眩しかった。
彼女からのエアメール。見慣れているはずの彼女の文字が、そのときばかりは見ず知らずの他人が書いたもののように映った。なんて他人行儀なことのするのだろうか、と。
丸一日、俺はその手紙の封を開けることができなかった。もう失うものなど何もないだろうに、それでも決定的な拒絶をされなかった期待が心のどこかにくすぶっていたのだ。
この手紙が俺を拒絶するものだったら、俺は今度こそ頭がおかしくなってしまう。今さら突き放すくらいなら、あのときに拒んでいて欲しかったのだ。
それでも翌日、俺は手紙の封を開いた。宛先を読んだときに封書から薫った香りは彼女がいつもつけていたコロンの香りだった。彼女の触れた封書に書かれている内容がどんなものか、ひどく気になっていたのも事実だ。
恐る恐る開けた封書の中からこぼれ落ちたのは、一枚のチケットと折り畳まれたパンフレット。そして、掌に乗るほどの小さなカードだけだった。
チケットとパンフレットは彼女の住む都市で開かれる写真展のものだった。秋に開かれる写真展は、各地でも有名なカメラマンが毎年主宰するもので、なかなかチケットが手に入らないことで知られている。
職場の先輩や上司がこれを見たら、きっと本来のチケット代の数倍の値段を払ってもいいから売ってくれと言い出しかねない貴重なものだ。
俺は足下に落ちたアイボリーカラーのカードを拾い上げ、そこに書かれた彼女直筆の文字を信じられない思いで読んだ。
落ち葉色の蔦模様で囲まれた文章は、その写真展へ一緒に行こうと誘う言葉だった。ツテがなければ入手することができないチケットを、彼女はいったいどうやって手に入れたのだろう。
いや、それ以上に、俺と一緒にと誘ってくれたことが信じられない。
俺がカメラマンを目指していることを知った上で誘っているのだ。写真展に赴くなど、自分の趣味でもなんでもないのに。
俺は時差のことも考えずに彼女にヴィジフォンをいれた。
それまでは何度もナンバーを押しながら結局繋ぐことができなかった、すっかり暗記してしまった彼女のナンバーがディスプレイで点滅している様子を、俺は混乱した頭でじっと見つめていた。
真っ暗な画面の向こう側から彼女の声が聞こえても、俺は一瞬言葉を忘れて立ち尽くしていた。すぐに画面が切り替わり、起き抜けらしい彼女の格好を見て、俺はようやく現実へと引き戻されたのだ。
「チケット、届いた?」
頷いた俺に彼女はそっと微笑みかけ、知り合いが手に入れたが都合がつかなくなったものを格安で手に入れたから使ってくれ、というのだ。
格安なんて嘘だ。写真に興味ある人間なら喉から手が出るほど欲しい代物だ。誰が行けなくなったからといって格安で手放すものか。
意外なところで、彼女は嘘をつくのが下手だ。いっそ、賭けで勝負に勝って相手から巻き上げたのだとでも言うほうが、よほど真実味があるだろうに。
「行きたくないなら別にいいよ。チケットは誰か他の人にあげて。私は一人で見に行くし」
これも嘘だ。俺が行かないと言ったら、彼女も行かないに決まっている。わざわざ出掛けていくほど、彼女は写真が好きなわけじゃない。気晴らしに出掛けるなら、彼女はいつも小さな雑貨が売っている店に足を向けるのだ。
俺は仕事や学校を休む手筈を一瞬のうちに頭の中で組み立てると、彼女に礼を言いがてら写真展に行く約束を取りつけた。
途中からは天にも昇るような気分でいた。憧れの写真展に行けるというだけではない、その空間には彼女が一緒にいるのだ。手紙の封を開けるまでの鬱屈した気分などあさっての方角に消し飛んでいた。
だが、ヴィジフォンを切って興奮状態が落ち着いた頃、俺の心はまたしても暗い気分に覆われていった。
彼女にこれだけのことをさせながら、俺はいったい何をしてやれるというのか。歪んだまま修正された友情はあまりにも脆い。俺は恋人になりたいと思っていても、彼女はそれを良しとしない。
俺たちの心は今もすれ違ったままだ。見えない亀裂に目を背け、結果を後回しにしているだけなのだ。
何度も俺は自分の過ちを呪い、自分の馬鹿さ加減を嘲った。
あの愚かしい行為がなければ、いつか彼女は俺自身を見てくれたのではないのか。俺を愛してくれたのではないのか。一生を互いの傍らで過ごすことができたのではないのか。
後悔すればするほど、俺は自分で掛け違えた運命を呪った。呪って、呪って、自分の存在そのものに嫌悪を抱くほど呪って……。
それでも、どうにもならない想いを抱いたまま、俺は再び彼女の元にやってきた。焦がれ続けた想いを消すことができず、惨めったらしく彼女の姿を追い求めて。
通りの方角からクラクションの音が響いてきた。けたたましいその音に、俺は考え事を中断する。テーブルの上に置かれた珈琲はまだ半分量ほど残っていた。
先ほどから指に挟んだままだった二本目の煙草も短くなってきた。約束の時間を五分ほど過ぎている。彼女が遅刻するとは珍しい。
自分の周囲に漂う紫煙が、ゆったりと俺の肩を撫で頬を滑っていった。まるであの日の彼女の指先の柔らかさそのものだ。
俺は未練がましく煙草を一吸いした後にその火をもみ消し、肺から最後の紫煙を噴き出すと、目の前に置かれた冷えた珈琲を口に含んだ。
腕のいいマスターがいれた本格的な味だったが、俺にはあの日彼女のが俺のためだけにいれてくれた珈琲のほうが、俺の性に合っているような気がしていた。紅茶党の彼女が、料理に使うために買い置きをしていたであろうインスタントの珈琲のほうが、俺の今の苦い胸のうちにはしっくりとくる。
俺はそっと腕に巻きつけた時計を見た。クラシカルなデザインが気に入って買ったものだ。ごつくてやや重たいのだが、俺の腕にはよく馴染んでいると自惚れている品だった。
時間はいっこうに進まない。冷めきった珈琲が俺の待ち時間の長さをイヤでも認識させる。
俺がそっとため息をついたときだった。階段を駆け下りてくる足音がし、背後の店の入り口で小さくベルの音がした。
振り返った俺はそこに目的の人物の姿を認め、店の奥まった席から手をあげて自分の存在を知らせた。
俺の座っている席を見咎めて彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、足早に近づいてくるとすぐに、煙草の匂いに顔をしかめた。彼女には煙草を吸い始めたことを教えていなかった。
俺の目の前に立った彼女は、エアメールの中に入っていたカードと同じアイボリーのスーツを着込み、胸元は秋を連想させるくすんだオレンジとダークイエローが入り混じったスカーフで飾っている。肩から下げたやや大きめのショルダーバッグと靴の色は揃いの茶色がかった灰色だ。
そして、前に逢ったときと同じコロンの香り。小さなパールのピアス。右手の小指を飾るリングはシンプルな金色だ。
「髪に匂いがつくじゃない。なんでそんな不味そうなものを吸い始めたのよ」
俺の周囲に漂う匂いを追い払うように手を振ると、彼女は俺の向かいの席に腰を落ち着け、彼女の好み通りにミルクティーを注文した。
走ってきて上気した頬の赤さが可愛らしく見えたが、それを口にすることはやめた。きっと彼女は照れも手伝って、余計に不機嫌になるだろうから。
「待たせたよね。ごめん」
紅茶が運ばれてくるまでの間、彼女は遅刻を謝りはしたが、遅刻の理由に関しては何も言わなかった。言い訳をしないところがいかにも彼女らしい。
運ばれてきたミルクティーをゆっくりと飲み干し、彼女が人心地ついてから、俺たちは店を後にした。
会計を済ませたあとに俺はさりげなく彼女の肩に手を回そうとしたが、彼女は容赦なくそれを振り払い、サッサと先に店を出ていってしまう。俺の目には彼女の行動が俺を意識しての動作だと映るのは自惚れか?
彼女を追う俺の視線が先ほど俺に注意をしにきた金髪男と絡まった。同僚との会話の合間に、彼はキザにウィンクをしながらこう言った。
「Good rack, boy!」
俺の年齢が判っていても、彼には俺が子どもに見えるのだろうか。ダークグレーのビジネススーツを着こなし、Good rack.と余裕でウィンクをする男の態度が、俺には羨ましかった。
軽く手を挙げて男のウィンクに応えると、俺は先に店を出ていった彼女を追いかける。階段を駆け上がると、そこは秋色の風が吹く街角だ。煉瓦で囲われた街路樹の下に佇む彼女が、首をすくめてこちらを見ている。
日差しは暖かだったが、吹いている風は冷たい。寒がりの彼女には少し辛い季節が近づいてきていた。
「写真展、もう始まっているわよ」
時間通りに到着しなくてもいいことは彼女も判っているはずなのに、遅れて店から出てきた俺を急かすように、彼女は俺の腕を引いた。
彼女の指先から感じる温もりに、俺は幸福感に浸り、そして、同時に胸を掻き乱すやるせない想いにひどく傷ついていた。
終わり
間もなく夏休みを迎える時期。長期休み前の単位試験が終わって、多くの生徒の気が弛んでいる頃だった。
僕たちの学校は単位制を導入していることもあり、滅多にいないが飛び級を行える学校として有名だ。
彼女が、結城薫ゆうきかおるが飛び級をして半年早く卒業するという噂が耳に飛び込んできた。よほど頭脳優秀でない限り難しいことだったけど、薫はこれまで一つの単位も落としたことがなかったし、成績も常に上位五位以内につけていた。不可能なことではない。
それでも、僕たちは彼女に裏切られたような気がした。理事会のメンバーにどれほど冷酷な仕打ちをしようと、彼女は和紀が望むように僕たちと一緒にいるだろう、と思っていたのに。
「そんなバカな! 学年が代わる時期なら判るけど、どうして残り半年っていう時期にいきなり卒業なんだよ!?」
噂を聞きつけた僕は転がるようにして彼女の部屋へとやってきていた。事の真相を確かめるために。
暑い日だった。梅雨明けの空気はチリチリと地上のものを焼いて、その年の夏の気温の凄まじさを簡単に予想させる。冷房が効いている室内だから汗一つかかないけど、そうでなければ耐えられない。
「おかしなことかしら? 私、合衆国ステイツの医大に入学が決まったの。だから、あっちの入学にあわせて卒業するだけの話よ。こんなケチな学校、さっさと辞めても良かったけど、卒業単位が必要だったからいただけだわ」
あまりにもアッサリと認められ、僕は和紀のとき以上に無力感に襲われた。どうして彼らはこんなに簡単に決断し、僕たちを振り切って行ってしまうのだろうか。
エリックもシャルロットも、翔も誠二もマオも、そして僕も、ただ君たちと笑って一緒の時を過ごしたかっただけなのに。
春以来、薫はほとんど笑わなくなっていた。いや、表面上は皮肉を口元に湛えた笑みを顔に浮かべていたけど、それは本当の彼女ではない。薫は復讐を果たしたけれど、心の隙間を埋めることはできなかったんだ。
「アメリカの医大への入学なら、来年にしたって良かったじゃないか。今年度に僕たちと一緒に卒業して、来年の入学に合わせて受験することだって……」
「まっぴらだわ。こんな腐った学校、一分一秒だって長くいたくない。早く出ていくことが出来るのなら、それを最大限に活かすわ」
「君まで僕たちを置いていくのか!?」
カッとして僕は怒鳴りつけていた。薫と同じように僕の鉄仮面も有名だけど、今の僕はそんなものをかぶっているだけの余裕などなかった。
「珍しいわね。竜介がそんな大声あげるなんて」
「話をはぐらかすな! 他の生徒は君の頭脳の優秀さにさもありなん、と言っているけど、僕の目を誤魔化すことはできないぞ。君は……逃げ出すんだ! 引っかき回すだけ引っかき回しておいて!」
「あの騒ぎならもうとっくに決着してるでしょう。私は自分のやりたいようにやっているだけよ」
薫は平然とした顔で紅茶をすすっている。いつも僕たちを睨みつけている鋭い眼光が、このときばかりは穏やかさを取り戻す。本当は、和紀さえいたら彼女の瞳が怒りに曇ることなどほとんどなかったのに。
外見の気の強そうな印象とは反対に、彼女の部屋はいかも女の子らしい。そのなかで紅茶のカップを持ち上げる薫の姿は、平素の彼女を知らない者が見たらお嬢様にしか見えなかっただろう。
押し黙った僕に視線を戻すと、薫は自嘲めいた笑いを口角の端に浮かべて僕に紅茶を勧めた。普段なら僕も素直に従っただろう。けど、今は彼女の言葉に従う気分にはなれなかった。
「君は和紀がいないと手負いの獣だね。幼なじみが側にいないだけで、どうしてそんなに荒れ狂うんだよ」
「何言ってるのよ。和紀のことは関係ないでしょう。どうして皆、誰かと誰かをくっつけたがるのかしら。私には理解不能だわ。人をゴシップのネタにする人種ってサイテーね」
一瞬、僕は目の前に座っているこの皮肉屋を殴りつけてやりたくなった。そんなことをしても何も解決しないと判っている。それでも、吐き気がするほど彼女の言動にむかついていた。
平然とした顔で自分以外の者の存在や考えを見下したり否定したりするのは、彼女の最大の欠点だろう。やりすぎなければ自信家のように映るけど、そうでないとき、今のような状況では彼女の態度は不愉快以外のなにものでもない。
「可愛げがないにもほどがあるよ、薫。君を見ていると、僕の女嫌いに拍車がかかる」
「私をどうこう言うのはかまわないけど、それで女全般の評価を下さないでくれる? 竜介はいつだって極論なんだから」
「僕以上に君のほうが極論だね! どうしてそう我が強いんだよ。少しは他人のことも考えろ!」
「どうでもいいわよ、そんなこと。どうせ私は居なくなるんだから。本当なら和紀が学校辞めたときに、私だって辞めてなけりゃならないんだもの」
「和紀を止めなかった僕が悪いとでも言うつもり?」
もう先ほどから堂々巡りをしているような気がする。彼女との話し合いは、今は不毛なだけだ。和紀と同様に、薫もすでに自分の中で下した決断に従っているのだから。
僕は薫が口を開くよりも早く立ち上がると、彼女の顔を見ることなく部屋の出口へと向かった。話し合いは平行線のままだ。まったく実入りの少ない会話だった。
「言い忘れるところだったよ。薫、卒業おめでとう。もう二度と顔を合わせることもないだろうから、今言っておくよ」
腹立たしさに、僕は戸口でチラリと振り返ると、いつも以上に冷たい口調で彼女に嫌味をぶちまけた。
彼女が一瞬目を見開き、次いで何かを言おうと口を開きかけた。それをわざとらしく無視すると、僕は彼女を振り返ることなく、部屋を飛び出していた。
それから数日後、長期休暇に入ると同時に、薫は渡米していった。八月末が彼女の卒業する日だったが、長期休暇に入っていたのでは、実質的な卒業は長期休暇とともにやってくる。
もう少しのんびりと渡米するだろうと思っていた他の連中は、彼女の慌ただしさに驚いたことだろう。
僕と、僕の周囲にいた数人だけが、彼女がすぐにでも居なくなると予測していた。そして、その予測通りに薫は誰に挨拶することなく、一人で僕たちの前から居なくなった。
教師たちには僕たち生徒会役員は仲が良いと思われていたから、彼女が何も告げずに慌ただしく去ったことを気にするでもなく、無神経にも彼女の渡米先の住所を知らせてきた。
仲の良かった友人の連絡先を教えてやったとでも思っているのだろう。
シャルロットやエリックたちはその住所に宛てて手紙を送ったりしたらしい。メールアドレスやテレフォニーナンバーを知らされていなかったのだから、前時代的な通信手段しか残されていなかったわけだけど。
僕は教師からもらった彼女の住所を書き付けた紙を、自室に戻ってすぐに破り捨てた。チラリとも見ていない。
判っている。僕と彼女は同族だ。入学してすぐに、僕と薫は自分たちが同じような人種だと認めている。僕が彼女と同じ立場に立たされたなら、僕も彼女と同じような手段に訴えたかもしれない。それを僕は否定しない。
残念ながら僕には幼なじみなど存在せず、彼女は女で、僕は男だった。僕に彼女とまったく同じ手段を使うことへの抵抗がある以上、彼女と同じ道を行く確立は格段に低いだろうとは思うけど。
彼女は普段は性別のことを持ち出すと憤慨するくせに、最後の最後に自分が女であることを利用した。他人が見たら、彼女のやり方は卑怯だと思ったかもしれない。彼女と同族だと思っている僕もほんの少しそう思ったくらいだから。
でも、卑怯ではあっても、僕は彼女のやり方が気に入らなかったわけではない。自分がやるのであれば、抵抗があるけど。
ただ……彼女や和紀たちが僕の存在を忘れたように一人でサッサと行ってしまったことが、許せなかったのだ。僕は、ずっと彼らを大切にしてきたのに。
それから一年後だ。もう逢えないかもしれないと思っていた和紀が、突然、僕やエリックの前に現れた。他の卒業生にでも訊ねたのだろう。僕たちが通っている大学まで、彼はやってきた。
大学は夏期休暇で閑散としていたけど、僕とエリックは研究室の用事でほとんど毎日のように大学に出入りしていた。それも調べたのだろう。和紀は一日のカリキュラムを終えて学校から出てきた僕たちを待ちかまえていた。
ものすごい形相だった。一目見て、彼が薫のことを知ったのだと、僕には判った。彼がこれほど怒り狂う理由が他にはなかったからだ。案の定、彼が開口一番に訊いたことは薫のことだった。
「薫の奴、今どこにいるんだ!?」
殺気だらけの声。眼光だけで人を睨み殺しそうな彼の様子に、僕は首を振るしかなかった。
「僕は知らないよ。教えてもらっても迷惑なだけだから、住所を書いた紙は破り捨てた」
その僕の左頬に、和紀の平手が飛んだ。構えていなかった僕はアッサリと吹っ飛び、さらに殴りかかろうとする和紀を、側でやり取りを見ていたエリックが真っ青になって止めたほどだ。
「竜。てめぇ、なんで薫を止めなかった!? 俺がいなけりゃ、理事会は大人しくなったハズじゃねぇか! てめぇの優秀な脳味噌は何をやってたんだよ、生徒会長!」
「僕はもう生徒会長じゃない。勝手に学校を辞めた奴にどうして殴られなきゃならないのか教えて欲しいね! 君たちの子守をするために僕がいたわけじゃないよ!」
吹っ飛ばされたときにコンクリートの壁に背中を強かに打ちつけていた。どうにかこうにか身体を起こすと、僕はひりつく左頬を撫でながら和紀を睨みつけた。
どうして彼にこんなことを言われなきゃならない? 勝手に出ていったのは和紀のほうだ。同じく薫も勝手に僕たちから背を向けた。なのに、それを止められなかった僕を二人は罵倒する。
「てめぇはぁっ!」
「薫に逢いに行ってどうするつもりさ」
エリックが必死に和紀の身体を羽交い締めにして抑えていたけど、その拘束が外れるのも時間の問題だろう。和紀は高校時代以前から空手で全国大会まで出ていくような強者だったから。
たとえ体格は和紀よりでかくても、武道などやったこともないエリックに和紀を止めておける力があるとは思えない。
「ちょ……! 逃げろ、竜介!」
力任せにエリックの腕を振り解いた和紀が僕に飛びかかってきた。正面からまともに見ると、彼の姿は獅子が襲いかかってくるような錯覚に囚われる。空手大会で対戦した相手もさぞやゾッとしただろう。
殴りつけられる寸前、僕は相変わらずの鉄仮面の表情で彼を睨んだ。
「君も見捨てられるよ」
和紀が大きく眼を見開いて動きを止めた。殺気はまだ辺りに漂っていたけど、彼の表情からそれまでの怒りが消えている。
「どういう……」
「薫は僕たちになんの相談もなしに一人で何もかもやったんだ。そして、一人で出ていった。僕たちを見捨てて逃げ出した君と同じ、だろ?」
「俺は逃げてねぇよ!」
和紀の瞳がつり上がった。ふてくされたときなどに目をつり上げることはあったが、彼がこれほど負の感情を表に出すのは珍しい。それだけ、自制が効かなくなっているということだろう。
「君は逃げたつもりがなくても、薫はそう思っただろうよ。当事者として、一人学校に取り残されたんだから。薫がどんな気持ちでいたと思う?」
和紀は反論してこなかった。薫を守るつもりで学校を辞めたことが、彼女にどんな影響を与えたのか、彼は今になってようやく考え始めたんだ。それまでは、考えの端にさえ浮かばなかったのだろう。
「人の噂も七十五日って言うよね。和紀が学校を辞めた時期ってちょうどそれくらいの期間が経っていたと思う。もう少し辛抱していたら、三流のマスコミは次のゴシップに飛びついて君たちのことなんか忘れただろうに」
和紀はまだ口を開かない。きっと彼の頭の中は、大混乱しているはずだ。自分が辞めた後の学校の様子など何も知らなかっただろうから。
「君が退学した事実は新しいゴシップネタだったよ。取り残された薫はその渦中に一人取り残された。気の強い薫だからね、表面上は前と変わってなかったけど。でも僕たちが何度話しかけても、彼女は笑わなくなった。……そして、彼女も君と同じように逃げ出したよ。僕たちの前から」
随分と残酷なことを言っていると思う。今、僕が和紀に話をしている内容は、あくまでも僕の見地に立っての話だ。薫の立場に立てば、彼女なりの話があるだろう。そして、和紀の立場に立てば、彼なりの……。
「エリック。薫の住所、教えろよ」
僕を見つめたまま、和紀はすぐ後ろに立つエリックに声をかけた。やはり薫に会いに行くつもりのようだ。もう、こうなったら彼を止められる者はいない。
「エリック。和紀に教えてやれよ。君は知っているんだろう?」
「……やだよ。なんで恋敵に教えてやらなきゃならないんだ」
子どもっぽく頬を膨らませたエリックを、振り返った和紀が鋭く睨んでいる様子が、彼の背中からも伺えた。
在学中から、薫にちょっかいを出すエリックと和紀は衝突が絶えなかった。今も彼らは薫を巡ってばかばかしい諍いをやめようとしない。
「エリック。そんなこと言わ……止めろ、和紀!」
昔からの癖で僕が仲裁に入ろうとしたときだ。和紀が拳を振り上げ、エリックの鳩尾に鉄拳を叩き込んだ。僕が止めろ、と叫んだときには、すでにエリックは地面に長々と伸びた後だ。
「なんてことするんだ、和紀!」
「うるせぇ、黙ってろ!」
地面に転がるエリックの懐を漁り、和紀はエリックの手帳を引っぱり出した。女と見れば手当たり次第に口説いて回るエリックらしく、彼は相手の女の連絡先をまめに手帳に記入している。その癖は今も治っていなかった。
「人の手帳を勝手に見ていいと思ってるのか!? エリックに謝れ!」
「黙れ。俺に指図するな」
和紀が視線を上げ、僕と目を合わせた。それまでの怒鳴り声を収めた彼の声は、ひどく平坦な声だった。それが彼の内心の苛立ちを示しているように見える。
エリックの手帳の一部を破り取ると、和紀は紙切れをジーンズのポケットにねじ込んだ。薫の住所を見つけたのだ。
「邪魔したな」
奪い取った手帳をエリックの胸元に投げ降ろすと、和紀は僕たちに背を向けて行ってしまった。
他のものに興味を失った彼の背中に、僕は以前と同じように声をかけることができなかった。いや、学校を去っていく彼の背中を見送ったとき以上に、彼の存在が遠かった。
気を失っているエリックを抱き起こしながら、僕は和紀の背中を睨んだ。彼には薫しか見えていない。僕やエリックや、他の仲間たちのことなど、眼中にないのだ。それを思い知らされた気がした。
以来、僕は夏が大っ嫌いになった。薫も、和紀も、二人とも僕の目の前からいなくなった季節だから。
いつの間にか、桜華は俯いて相手の話に聴き入っていた。目の前の麗人を直視することができなかった。
「紫野さんは、それでも二人のことが好きなんですね」
フェンスにもたれかかる竜介が、桜華のもらした囁きに苦笑して身体を起こした。
「僕は自他共に認める人間嫌いだったからね。彼らのお陰で、少なくとも女嫌い程度に改善することはできたんだよ。まぁ、女嫌いってだけで充分厭な人間だろうけど」
フェンス越しに灰色の街が見える。コンクリートが林立する街だからというわけではない。今にも雪がちらつきそうな空模様を、街が写し取っているのだ。
「彼らがいなかったら、僕はもっと厭な人間になっていただろうね。見捨てられたと腹を立てても、僕は彼らを憎むことはできなかった。……桜華ちゃん。君はどうだい? 大好きな薫先生の側にいる和紀を憎めるかい?」
「わたしはもとから憎んでなんかいませんよ。ただ……」
「ただ……羨ましかった、かな」
小さく頷く少女の頭をそっと撫でると、竜介はそれまで冷たい矜持を保っていた目元をほころばせた。そうやって笑っていたほうが、多くの人間に好かれるだろうに、彼はそれをごく一部の人間にしか見せないようだ。
「あの二人の間に入っていくことができる人間はいないだろうね。僕にも、僕の仲間にも無理だった。君がそれをできるとは、僕には到底思えない」
「そうかもしれません。わたしはただの患者ですから」
泣き笑いの表情を浮かべた桜華の肩をそっと抱き寄せると、青年は建物の中へと誘った。身体はすっかり冷え切っている。これ以上屋外で話をするのはやめたほうがいい。
「女の人が嫌いなのに、わたしの側にいて平気ですか?」
「女は嫌いだよ。君が僕にしなだれかかってきたら、さっさと振り払ってさよならするさ。でも、君は自分が女だってことを主張しないだろう」
「人間嫌いじゃなくて、女嫌いってのは、そういうことですか」
クスリと少女が喉の奥で笑い、青年もつられたようにクスクスと笑い声をあげた。
「……わたし、やっぱり薫さんと綿摘さんの間にあったこと、調べるかもしれません」
「僕に止める権利はないだろうね。でも、桜華ちゃん。彼らに関わろうとするのなら、それ相応の覚悟をしておくことだね。彼らは聖人君主じゃない。君が綺麗なイメージを抱いているのなら、待っているのは失望でしかないよ」
笑いを収めた少女が漏らした言葉に、青年は静かな口調で答えを返す。それを予測していたのか、少女はしっかりと頷いて、白い白い廊下の奥を見据えた。そこには誰もいない。人の気配もない。
「まだオペは終わってないみたいだね。……君は休んでいたほうがいいと思うよ。終わったら知らせてあげるから」
「いえ。見届けさせてください。わたし、綿摘さんのこと好きじゃないですけど、自分を助けてくれた人を放って、一人でいることはできないです」
「薫が執刀している以上、和紀を死なせるわけないと思うけど。……いいよ。一緒に待っていよう。でも、身体の調子が悪くなったらすぐに病室に戻ること。いいね?」
再び青年は硬いソファに腰を降ろした。今度は隣りに華奢な体格の少女も一緒に。
互いに寄り添うでもなく、かといって他人行儀でもなく、二人は目の前に立ちはだかる白い扉を見つめて黙り込んだ。
別の階の物音だろうか、遠くに人のざわめきのようなものが聞こえてくる。それ以外の物音がしない白い景色の中、青年と少女はその風景に溶け込むようにして静かに座り続けていた。
終わり
白い廊下、白い景色。年が明けたばかりのこの時期に、この光景は寒々しいばかりだった。
「紫野しのさん。ちょっといいですか?」
白い空間の片隅に置かれた硬いソファに腰を降ろしてぼんやりしていると、緊張した声がすぐ脇からあがる。
彼、紫野竜介しのりゅうすけは冷たい表情を崩すことなく相手の顔を見上げ、青ざめて強ばっている少女の表情の中に戸惑いを見つけた。
まだ十七~八歳の年齢の少女は、柔らかな茶髪とやや大きく見える瞳のせいで西洋人形のように見える。
「何かな、桜華おうかちゃん。薫と和紀ならまだオペ室から出てきてないよ」
竜介の硬質な声に桜華が首を振る。両手を身体の前で硬く握りしめ、真っ直ぐに竜介を見下ろす姿は、雪の降るなかに真っ直ぐに立つ、一本の若木のようだった。
「昔の薫さんたちのこと、お訊きしたいんです。薫さんと綿摘わたつみさんの間に何があったのか……」
「僕に話をしろって? 本人たちの了解もないまま? それは随分と失礼な話じゃないかな。君が知りたいのなら、薫たちに直接聞くべきだね」
「判っています。でも……。薫さんたちは、わたしが訊いても答えてくれないんです」
「それは君が知る必要のないことだからだろう? 薫は自分の大事な患者クランケに、余計なことを吹き込みたくないだけだよ」
少女の口元が意固地に引き結ばれた。これで引き下がる気は毛頭ないらしい。どこかで見覚えのある表情に、竜介は自嘲を込めた笑みを口の端に浮かべた。
「桜華ちゃんは薫のことが好きなんだねぇ。だから、和紀が薫の側にいるとご機嫌が悪いんだ」
「それは……! 薫さんはわたしの主治医です。だから、少しくらい薫さんのことを知りたいと……」
「嘘つき」
ビクリ、と桜華が身体を硬直させ、すぐに目の前に座る青年を強い眼光で睨んだ。
竜介という勇ましい名前とは反対に、彼は柔らかな外見をしている。どちらかといえば女性と見間違われそうな顔立ちと言ってもいいだろう。冷たい印象を与える彼の姿は、決して他人と馴れ合うことのない意志表示のようにさえ見える。
「君は昔の薫に良く似ている。薫のほうが常識はずれではあったけど」
「紫野さん。あなたの話ならしてもらえますか?」
「……いいよ。君も頭がいいみたいだね。やっぱり薫に似てる」
竜介は自分のコートを脇に抱えると、ソファからゆったりとした動作で立ち上がった。すぐ側に立つ少女を手招きして、彼は白い廊下を歩き始める。
「いつ頃の話を聞きたいのかな?」
長い廊下の所々にある階段の一つを昇り、彼は少女を屋上へと連れだした。フェンスを張り巡らせた屋上は、冬以外の季節であれば風が通って気持ちいいだろう。しかし、この寒空の下で見るとあまりにも殺風景だった。
「紫野さんと薫さんたちの間に起こったことすべて……という訳にはいきませんか?」
「そんなことしたら話に何日もかかるよ。君さえよければ、高校三年生になる頃の話をしようと思うけど?」
桜華はそっと頷き、真剣な眼差しを相手の口元に注ぐ。自分の知りたいことを、相手はよく理解しているはずだ。期待はずれなことを話はしないだろうと判断してのことだった。
青年は手にしていたコートを少女に羽織らせ、無表情なまま彼女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「今から話す事の本当の原因は何ヶ月も前に起こった事件だけどね。僕には興味もないことだから、僕は僕の始まりから話をする。どうしても原因を知りたいのなら、君自身の力で調べることだね」
少女の頭から手を離し、青年は灰色の空をチラリと見上げた。その空からすぐに目を反らすと、竜介はゆっくりとした口調で話し始めた。
南の地方では桜の開花宣言が出され、この地方でも桜の蕾が膨れ始めた季節。
まるで気楽な一人旅にでも出掛ける軽さで、彼は僕に向かって片手を挙げた。僕はそれにどう応えたら良いのか判らず、彼の真似をして静かに片手を挙げるだけだった。
「それじゃ、な」
すれ違い様のハイタッチ。いつもなら機嫌の良いときの挨拶だった。頭上で交差した僕の掌を、彼は一瞬強く握りしめた。その間でも、僕をチラリとも見はしない。
掌を放すと、彼はさっさと背を向けて歩き始めた。名残惜しげに振り返りもしない。あっさりとしたものだ。
呼び止めよう。そう思って口を開き掛かったけど、僕の喉はひりついていて、どうしても声を出すことができないまま、彼の背が小さく遠ざかっていくに任せていた。
どうしてそんなに簡単に背を向けることができるのだろう。彼は僕たちと一緒に過ごした日々を忘れてしまったのだろうか?
いいや。そんなはずはない。忘れるはずがない。
通りの向こうの角を曲がり、彼の均等に筋肉がついた背が見えなくなっても、僕はじっとその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
どれくらいそうしていただろうか。ポッカリと心に空いた穴は空虚で、僕の中から時間という感覚をすっかり奪っていた。
「あいつ、どこいったのよ!?」
「薫……? どうしたのさ?」
金切り声とともにバタバタと駆け寄ってきた少女の顔を、僕は虚ろな気持ちのまま見つめた。
いつも怒ってばかりの薫は、今も声だけ聞いていると烈火の如く怒り狂っているようにしか聞こえない。しかし、彼女の今の顔はひどく歪んで泣いているように見えた。
「和紀はどこ!? ちゃんと答えなさいよ!」
「君らしくない慌てようだね。落ち着きなよ」
「いいから訊かれたことに答えなさい、竜介!」
怒声を張り上げる彼女の背後には、寮の玄関口から怖々と顔を覗かせる男子寮生たちの顔が並んでいた。空手の上位有段者の薫に敵う男子はそういない。同じく空手をやっている僕でも無理だろう。彼女に勝てるとしたら……。
「勝手に退学届け出して出ていったなんて、嘘なんでしょう!?」
薫は拳一つ半高い僕の肩を掴むと、遠慮容赦なくガクガクと揺する。女にしては握力が強い彼女に肩を鷲掴みにされると、それなりに痛いものだと、ふと頭の隅にどうでもいいことが浮かび、すぐに消えた。
「和紀は出ていったよ。もうここにはいない」
「バカッ! 生徒会長のくせになんで止めなかったのよ!?」
「止めて聞き入れるような奴じゃないだろう。それに、あの理事が退学届けを受け取ったんだよ。今の僕たちに覆せると思う?」
「あいつは今度の馬鹿げた事件のことで早まっちゃったのよ。あいつが学校辞めるのなら、私だって同罪でしょ!? 友人なら止めなさいよ、バカ!」
空っぽになりかかっていた僕の頭の中が、自分の言葉にふと覚醒を始めた。その通りだ。僕も最初は和紀は早まったと思った。だから止めた。結論を急ぐな、と。僕たち生徒会の人間でなんとか理事会に掛け合うから、と。
それをあいつは、どうでもいいことのように笑い飛ばし、もう退学届けを出してきた、と僕たちの前に爆弾を落としていった。しかも、校長や理事長にではなく、あのイカレた理事に、だ。
「僕だって止めたさ。君にとやかく言われる前にね!」
「もっと、ちゃんと止めなさいよ! 私が呼び戻してくる! どっちの方角に行ったのよ!?」
ヒステリックに叫ぶ薫の目は充血していた。もしかしたら、彼女は本当にここまで泣きながら走ってきたのかもしれない。僕にはどうでもいいことだったけど。
「あっち。たぶん駅の方角だと思うけど。……でも追いつけないよ、きっと」
「うるさいわね! 追いついてみせるわよ!」
僕の肩を突き飛ばすように放すと、薫は和紀が歩き去った方角へと飛んでいった。
彼女を止めても無駄だろう。道の途中で和紀に追いつける保証などない。いや、たぶん追いつけない。万が一、和紀に追いつけたとしても、彼は帰ってこないだろう。
僕は意気消沈して帰還するだろう薫をどうしようかと思いながら、寮の玄関へと引き返した。首を玄関扉から突きだして鈴なりになっている寮生たちと視線が合うと、僕はいつもの鉄仮面のままで寮の建物の奥を指さした。
それだけで充分だ。彼らは三々五々に玄関から散って、ある者は自室へ、ある者は談話室へ、ある者は女子寮との境界線である食堂へと向かった。
一時間もしないうちに、綿摘和紀わたつみかずきが学校を自主退学したことは知れ渡るだろう。良い噂と悪い噂も同時に。他人の不幸は蜜の味。一般の生徒には、単調な日々のちょっとした刺激を求めるにすぎない話題だけど。
「竜介ぇ~。薫、放っておいていいのか?」
「そうですよ、紫野先輩。まだマスコミがそこらにいたら、大騒ぎになっちゃいますよ」
最後まで残っていたエリックと翔が不機嫌な顔つきで口を尖らせている。和紀や薫を止めなかった僕のことを不満に思っているに違いない。
「薫ならマスコミなんか突っ切って帰ってくるよ。それに今頃は理事会のほうもマスコミの上層部に圧力かけて頃だろうし……。一番の貧乏くじを引いたのは和紀一人ってことだね」
「オレもこの学校辞めたくなってきたね。他の学校と違って育成モデル校だから飛び級はあるし、校風も自由だけどさ。なんなんだよ、寄ってたかって和紀と薫ばっかり……」
「ボクもですよ。あ~ぁ、つまんない。この学校、他の学校より生徒の発言権あると思って入ったけど、今回のことは幻滅ですよぉ。ホント、あの理事なんかサイテーって感じ?」
苦虫を噛み潰したような顔をしている二人に、僕はさらに冷酷に対応した。僕たち生徒の抗議なんか、理事会は痛くも痒くもないのだから。
「君たちが辞めたってなんの解決にもならないね。学校も大人たちもなんとも思わないよ。バカな生徒が減っただけだと思うさ。それにエリック。君は交換留学生なんだから、自分の都合で勝手に辞められないの!」
「なんだよ、冷たいなぁ!」
ふてくされるエリックたちを無視すると、僕は自分の部屋へと向かった。遠くで人が動き回る物音がする。階段を上がり、自分の部屋へと続く廊下を歩き続ける道筋がひどく遠く感じた。ここはこんなに広かっただろうか?
廊下の中ほどにある自室の前に辿り着き、扉に手を掛けたとき、僕はふと糸に引かれるように隣の部屋の扉を振り返った。
沈黙する扉。開かれない扉。この部屋の主はもう帰ってこない。少し日に焼けた肌に収まりの悪い癖毛、人懐っこい笑顔をした同級生は、あっけないほど簡単にこの場所から居なくなってしまった。
じわりと僕の視界が滲む。熱を持って歪んだレンズ越しに景色を見ているようだった。震える指先でなんとか暗証番号を押し、開いた扉の隙間から室内に滑り込むと、僕はその場に座り込んで顔を覆った。
頭の奥が疼くような熱に侵され、目の前がグルグルと回っている。頬を伝うものの生ぬるさに、僕の胸はむかついて仕方がない。どうして、こんなにも息苦しく感じるのだろう。
僕は息苦しさに何度か大きく息を吸い込み、その度に感じる胸の痛みに拳を幾度も床に叩きつけた。手の痛み以上に胸が痛い。
無力だ。僕たちはあまりにも無力だった。何も、彼に何もしてやれなかった。僕たちの苦しみを知ってか知らずか、彼は自分の下した決断に従ってこの場所からいなくなった。それが一番正しいことだと思っているのか?
薫はきっと追いつけない。僕が和紀を見送ってから随分と時間が経っていたはずだから。たとえ、追いつき彼を捕まえたとしても、彼は戻ってきはしない。
それじゃ、と片手を挙げた彼の真っ黒な瞳には、どこか達観したような強い光だけがあった。怒ったときには子どものような顔をするくせに。彼があんな瞳をするときは、絶対に言いだしたことを曲げないときだ。
彼は、もう戻ってこない。もう二度と……。
高校生活を一年残したまま、彼はこの学舎から姿を消してしまった。
「おい、聞いたか! 薫のこと」
「あのバカ理事にヤられちまったって?」
「マジかよ。あのヒヒジジィ……見境ってもんがねぇのかよ」
まことしやかに流される醜聞スキャンダル。公然と言葉にすることはできない話題に、学校中が浮き足立っていた。
そんな話は嘘っぱちだと言う者もいれば、さもありなんとしたり顔で頷く者もいる。新学期が始まったばかりだというのに、授業そっちのけの雰囲気に教師たちの眉間には皺が寄りっぱなしだ。
マスコミがようやく沈静化し始めた時期だっただけに、学校側は過敏になっているようだ。しかし、生徒たちには漏れないようにという努力は無駄に終わった。
それもそうだろう。片方の当事者が故意に噂を流し、作為的に情報を操っていた。
「薫、君は危険な賭をしていること判ってるんだろうね?」
「だから何? 私のやることにいちいち文句つけないでよ」
「情報操作に生徒会副会長の地位を利用してるだろ。僕たち他の生徒会役員まで巻き込むつもりか? そんなことしたら、和紀がなんのために一人で泥をかぶったのか……」
「竜介たちに迷惑はかけないわよ! 私のことは放っておいて!」
やることが無茶苦茶だ。ヤケになっているとしか思えない薫の暴走を止めようと、僕は必死だった。和紀を助けられなかったときと同じ無力感に苛まれながら。
「やりすぎるな、薫! そんなことしたって和紀は喜ばない」
「和紀は関係ない。私がやりたいようにやっているのよ。許さない。絶対にあの理事だけは許さない!」
生徒の間では薫の気性の凄まじさは有名だった。しかし、教師たちの薫の認識は優秀だが皮肉屋で気の強い女子生徒という程度だ。彼女はその仮面を隠れ蓑に、恐ろしいほど巧みに情報を操作して理事会を追い詰めていた。
「利用できるものはすべて利用したわ。理事会に煮え湯を呑ませてやるために、爺さんにも頭下げたんだから。絶対に失敗はしないし、竜介たちにも迷惑はかからない」
「そんなこと聞きたいわけじゃないよ。君は自分をなんだと思ってるのさ。君を庇った和紀の気持ちを踏みにじる権利があるのか!」
「冗談じゃないわ。黙って引き下がるものですか。あいつら、ありもしないことで私たちをつるし上げたのよ!? 同じように、ありもしないことで抹殺してやるわ! 自業自得でしょ!」
噂は生徒どころか、PTAや教育委員会にも流れた。理事会の理事が学校の女子生徒を暴行した。しかも、彼女にはなんの罪もないことをネタに脅したのだ、と。当の理事は反論したそうだが、教師の何人かが現場を目撃している。
いかにもマスコミが喜んで食いついてきそうな話題だ。もうこれ以上隠し通せないギリギリのところで、薫は理事会に呼び出されていった。
理事会に出頭した薫がどんな大演説をぶったのか知らない。生徒会会長とはいえ、一介の生徒にすぎない僕には知りようもないことだった。いや、たとえ知ることができても、もう僕には手出しできることではなくなっていただろう。
薫が呼び出された理事会会議が終わった翌日、件の理事は解任された。理事会は自分たちに及ぶ被害を怖れるあまり、薫たちをつるし上げた理事を生け贄にしたというわけだ。
そして、さらに一ヶ月も経たないうちに、その理事が飲酒運転の末に車ごと海に転落して死亡したことが噂で伝わってきた。
薫は用意周到に理事会の面目を潰していったのだ。ようやく十八歳になるという少女に、老獪なはずの理事会の面々は、再起不能寸前までやられたといっていい。
彼女は復讐を果たしたんだ。望み通りに。
そして、彼女も僕たちから背を向けた。和紀と同じように。いや、もしかしたら、それ以上に冷たい方法で。
薫の声に押されるようにして鏡の壁が内側へとゆっくり開いていった。どうやら壁の鏡はマジックミラーになっていたらしい。ぽっかりと空いた空間からもさもさの髪と無精ひげを生やした男が歩み出てきた。
「薫~。お前さぁ、説教が長ぇよ。徹夜続きのオレの身にもなれよなぁ。危うく寝ちまうところだっただろ。……ほらよ。パスワードの解除のついでに見つけたやつだ。そこのお嬢ちゃんなら、この資料がなんなのか判るんだろ?」
今までの緊張感を吹き飛ばす、眠気いっぱいの声とあくびが無精ひげの間から漏れる。薫が再び苦笑いを浮かべながら、男の差し出したディスクを受け取った。
「悪かったわね。誠二の仕事はこれで終わり。奥に行ったついでに、昼寝してる奴らを叩き起こしておいてよ」
「あいよ~。んじゃ、一眠りしてくるわ」
男はヒラヒラと手を振りながら階段をあがっていくが、蓮華は最後まで見送るようなことはせず、男から薫へ、そして桜華へと手渡されたディスクをまじまじと見つめた。
「なんですか、これ?」
不審そうに眉をひそめた桜華が首を傾げながら薫を見上げる。その桜華に「開けてみれば?」と薫が壁の一角を指さして言う。壁は一面に鏡が押し込められており、その奥に何があるのかまるで見えないのだが。
桜華は渋々といった顔つきで蓮華の脇をすり抜けると、鏡の壁の隙間に指先を差し込んだ。
すぐに小さなモーター音が響き、続いて壁の一部がスライドすると、チカチカと点滅を繰り返す機器類が姿を現した。たぶんこの施設のコントロールパネルの一部だろう。
桜華は馴れた手つきでパネルを操作すると、手にしていたディスクを機材のなかに押し込んだ。一瞬の沈黙のあと、キュルキュルと摩擦音が響いてパネルが新たな光点を瞬かせる。
じっと黙ったままその作業を見守っていた全員が、ふと気配を感じて振り返ると、コントロールパネルの反対側の鏡壁に光幕と呼ばれる立体映像を投射する光が天井から降り注いできた。
自動的に再生されるようになっていたのだろうか? ディスクから読み込まれたデータが光の幕に反射し始めた。次々に浮き上がっては消えていく膨大な文字、文字、文字。目で追うには不可能なスピードだ。
スクロールし続けていた画面が消えると、光は一瞬の沈黙のあとに、今度は別の形を取り始めた。
「お父さん……!」
桜華の声はまわりの少年たちのどよめきに掻き消されそうだった。辛うじて蓮華の耳に届いた彼女の声は、ひどくか細くて哀しい色をしている。
目の前の立体映像は一人の男の姿を作り上げていた。
蓮華には桜華の叫び声を聞くよりも早く、それが誰であるのか判っていた。桜華の父、葛城梓一郎だ。いや。桜華だけではない。自分にとっても義理とはいえ、父親であった。母、菖蒲の元から去っていくまでは。
梓一郎と菖蒲との結婚は最初から破綻していた。一族の者によって無理に進められた縁談であったと聞いている。彼らの間には愛情などなかったのだから、それは致し方のないことだった。
菖蒲が梓一郎との間に子どもを作ることを拒否し続けたために、一族の者がむりやりに人工授精を施し、菖蒲が胎児を殺さないようにと代理母をあつらえるという具合だったと聞いている。
しかも、生まれてきた子どもを菖蒲は疎み、一族の後継者が誕生したことで役目を終えたと梓一郎は遠ざけられるようになった。天承院という一族はなんという残酷なことをするのだろうか。
蓮華は、母である菖蒲と義理の父である梓一郎との確執の矢面に立たされた義妹の横顔を盗み見た。青ざめた桜華の横顔は強ばり、怒りとも絶望ともとれる複雑な表情を作っていた。
義妹の視線を追って映像を見上げると、光のなかの梓一郎はゆったりとした動作で舞の基本形を繰り返しているところだった。
菖蒲との結婚生活の合間に、彼は一人で舞の稽古をしていたのだろうか。この映像は自身の舞の型を研究するために撮影されたもののようだ。
映像のなかの男は隣りに立つ桜華の整った顔とよく似ていた。母が妹を毛嫌いする理由の一つがこの顔立ちだった。桜華の顔を見るたびに不当な扱いを受けた記憶を呼び起こされ、母は彼女に辛く当たり続けている。
桜華を可愛がっていた梓一郎が天承院を去ると、母の桜華への虐待はさらにひどくなった。ついに母娘は引き離され、幼い子どもはこの巨大な天承院の宗家寺院で育てられることになったほどだ。
「薫さん……。父が舞の稽古をしていたことは判りました。でも、だからと言って好きで舞っていたとは限りません。天承院はわたしに舞うことを強要しました。父にも同じことをしたかもしれません」
桜華の固い声に、蓮華は現実へと引き戻された。立体映像の男は相変わらず舞の基本型を稽古し続けている。バスケットコートとその舞姿があまりにもアンバランスで、蓮華にはどちらが現でどちらが幻なのか、一瞬混乱したほどだった。
「解除用のパスワード、二種類あるのよね」
薫の声に桜華の顔が険しくなった。自分の問いかけへの答えとは思えない相手の言葉だ。いったい何を言い出すのか。
「一つはシステムのシークレット部分のもの。ワードは"dear my daughter"、親愛なる娘へってところね。もう一つ。システムの一番奥に格納されていたこのデータのパスワードは"floral girl"だったわ。ねぇ? 舞を嫌っている人間が、わざわざデータにパスワードをかけまで遺したり、そのワードを花娘の英語読みにしたりするかしら?」
唇を噛みしめたまま、桜華が立体映像を見つめていた。十数年前の父の姿だ。彼女にはおぼろげな記憶しかないであろうが、自分とよく似たその顔立ちを見間違えようはずがない。
「全部……花娘を舞うための基礎の型ばかり……」
桜華の小さな呻き声が聞こえてきた。
蓮華にもおぼろげに判ってきていた。目の前の虚像が舞っているのは、花娘を舞うために欠かせない基本形の型なのだと。
「桜華ちゃん……あの……」
蓮華は背後から義妹の背を見つめ、その肩が微かに震えていることに気づいた。桜華のこれまでの認識を根底から覆すような事実だ。動揺するなというほうが無理だろう。
「山の大伯父貴は、花娘を教えるのはわたしで二人目だと言った。一子相伝のはずなのに。一人目は……まさか……」
「花娘は菊乃お祖母様から彼女の兄……今の家元に伝えられたはずよ。家元は私たちのお母様には伝えていないわ。一人目はきっと、お義父様よ」
蓮華はそっと腕を伸ばし、恐る恐る桜華の肩に手を乗せた。
家元にどんな考えがあったのか知らない。だが、本来の後継者であるはずの母ではなく、その配偶者である葛城梓一郎に、そしてその娘である桜華に花娘は伝えられていたのだ。
「どうしてこんなことを……」
桜華の声はまだ震えていた。肩の震えも収まっていない。
蓮華はその震えを抑えようとでもするかのように、義妹の肩においた手に力を込めた。
「家元の考えなんかどうでもいいわ。問題はこのデータが葛城梓一郎が遺していった資料のなかにあって、その正当な後継者であるあんたへと託されていたってことなんだから。彼が培ってきたものは、バスケだけじゃなかったってことでしょう」
桜華の様子を見守っていた薫がようやく口を開いた。
蓮華はぎこちない動きで薫を振り返った桜華の横顔が真っ青なことに気づいてうろたえた。これほど彼女が動揺しているとは。ただでさえ心臓が弱い彼女にこれ以上精神的な衝撃を与えてはいけない。
「桜華ちゃん。結論を急ぐべきじゃないわ。お義父様にどんな考えがあったのか、私たちが正確に理解するのは難しいんだから」
だが青ざめた桜華の顔が自分へと向けられたとき、蓮華は冷たいものが背筋を伝っていく恐怖を味わった。目の前には飢えた獣のような顔をした少女の顔がある。これほど何かに飢かつえている表情を蓮華は見たことがない。
「どうして、お父さんなの? どうし……!」
ビクリと桜華の肩が跳ね上がった。青ざめた顔色が見る見るうちに土気色に変わっていく。あまりの急変ぶりに蓮華の身体は凝り固まって動けない。
「桜華! 駄目よ。ゆっくりと息をしなさい! 息を止めちゃ駄目!」
硬直した桜華の身体を支えたのは主治医である薫だった。桜華の心臓発作に馴れているからだろうか、周囲の少年たちも次々に四方に散り、桜華を横たえるためのマットやら、彼女の薬やら処置機材やらを引っぱり出して駆け寄ってくる。
蓮華はその様子をオロオロと見守ることしかできなかった。話には聞いていたが、桜華の発作の様子を初めて目にした。狼狽えるなというほうが無理なのかもしれない。
「桜華ちゃん……。桜華ちゃん、死なないで……」
周囲の少年たちが一通りの処置を終えて引いていくと、義妹の足下にへたり込んで蓮華はうわごとのように囁き続けた。
「大丈夫よ。いつもよりは軽い発作だわ。すぐに回復するわよ」
取り乱す蓮華をなだめるように薫が振り返って呼びかける。その腕のなかで浅い息を繰り返す桜華の顔色はまだ青白いままだ。だが当初の身体を硬直させるほどの痙攣は収まっていた。
「わ、私が無理なお願いなんかしたから……」
義妹の命に別状がないと判ったのか、蓮華は突然ボロボロと涙をこぼし始めた。安心と悔恨が同時に彼女に襲いかかる。
「それはうぬぼれってものだわね、蓮華。この子の発作があんた一人のせいだなんて思うのは、おこがましいにもほどがあるわ」
泣き崩れそうな蓮華を叱責するように薫が厳しい声をあげた。その声に打ち据えられて蓮華の肩が大きく震え、涙をこぼす瞳を大きく見開いた。
「でも……でも、私が花娘を舞ってくれなんて頼まなければ……」
「あんたが頼んだからじゃないでしょう。桜華の発作は自分が思い込んでいた現実と事実が違っていたことのショックなんだから。まったく。あんたといい、藤見といい、どうしてそう思い上がりも甚だしいのかしらね」
ズケズケと厳しい言葉を吐き出す薫に、蓮華はいっそう狼狽えて俯いてしまった。これまでの人生で、これほどストレートに言われたことなど桜華以外にいない。なんと言って言葉を返せばいいのか、見当もつかなかった。
他の者たちの嫌味は遠回しに囁かれ、小さな切り傷を蓮華の心に与えるばかりだった。あからさまではあるが、薫の言葉にはひねこびた悪意がない。それに蓮華は困惑するばかりだった。
薫の応急処置が効き始めたのか、桜華の顔色が戻ってきた。健康的な肌色とは言い難いが、先ほどの蝋人形を思わせる雰囲気からは脱しただけましというものだろう。
桜華の喉から微かな呻き声が漏れた。呼吸も深く豊かになり、切迫した浅い息遣いはもうどこにもない。朦朧とした意識の底からゆっくりと浮上してきた桜華の瞼が小刻みに痙攣していた。
「桜華。疲れたんならそのまま眠りなさい。どっちみち今日の練習は終わりよ」
薫の低い囁き声に反応して、桜華の瞼が大きく震えた。足下に座り込んでその様子を見守っていた蓮華が、両手を胸の前で固く握り、唇を噛みしめる。
「ごめんなさい、桜華ちゃん。もう困らせないから……。ごめんなさい」
ピクピクと桜華の腕が痙攣したかと思うと、自分の胸元を掴んでいた指が強ばりながら持ち上げられた。
「薫……さん。起こしてください」
か細いものだったが、明瞭な発音で桜華が声を発した。周囲を取り囲んでいた少年たちの口から安堵のため息がもれる。もう大丈夫だと、彼らにも判ったのだろう。
「こっちの心臓に悪いぜ、コーチ」
「ホントだよ。オレたちのほうが先にくたばっちまう」
口々に軽口を叩く少年たちに桜華がチラリと視線を走らせ、一人の少年と視線が合うとじっとその瞳を見上げた。
「赤間。どうしてわたしが舞うことが好きだと思ったわけ?」
険はないが鋭さを伴った少女声に、呼びかけられた少年はばつが悪そうに視線をはずす。だが周囲の仲間たちからも注目されて、しぶしぶといった表情で答えを返した。
「ごめん。覗くつもりなんかなかったんだけど、一昨日の夜、お前がここで一人で稽古しているの見たんだ。稽古が嫌いなら夜中に起き出してまでやらないだろうし……」
少年の答えに桜華がギクリと顔を引きつらせる。その桜華の首をガッチリと締めあげる腕があった。
「桜華ぁ~! 私がきちんと睡眠時間をとれってあれほど言ったのに、言いつけを守ってなかったわねぇっ!?」
「か、薫さん……。ごめんなさい」
頭上からの怒りの声に桜華がたじたじとなる。苦しくはないが、首に回された腕が、視線を相手からそらすことを許さなかった。
「謝ればいいってモンじゃないわよ! 自分で体力すり減らすようなことするんじゃない! いいこと!? 私の言いつけを破ってばかりいると、あんたの大っ嫌いな婆がくたばる前に、あんたのほうがくたばっちゃうわよ!?」
「ご、ごめんなさい」
素直すぎるくらい大人しく謝る桜華に蓮華が目を丸くし、周囲の少年たちがニヤニヤと笑い顔になった。
傍若無人なくらいに我の強い桜華が、唯一頭が上がらない相手がこの薫だろう。鬼のようにトレーニングでしごかれている少年たちには、溜飲が下がる一瞬なのだ。
「以後、気をつけるように。……って、もう何回言わせる気よ、あんたは!」
頭を小突かれながら、桜華は足下にうずくまっている義理の姉を見た。二人の視線が絡み合ったとき、蓮華が口を開きかかる。だが、それを素早く制すると桜華が鏡の壁面を指さした。
「あのディスク、あんたにあげるわ。わたしには必要ないから」
「お、桜華ちゃん?」
義妹の真意を測りかねて蓮華は声を上擦らせた。そんな蓮華の様子に取り立てて注意を払うでもなく、桜華がゆっくりと立ち上がろうとする。
「ちょっと……桜華、何をする気!? しばらくは休んでなさい」
主治医の忠告を無視すると、桜華がまだふらつく足下をおして人垣を掻き分けた。そのまま鏡壁の一角に辿り着くと、馴れた手つきでマジックミラーの扉を押し開けて内部へと入り込む。
「あの……バカ!」
薫が悪態をつくが、その口元には微苦笑が浮かんでいた。桜華がやろうとしていることを、察したのだろう。彼女を止めようとはしない。
「ほら、バスケ部の諸君! トットとボールや荷物を片付けなさい! 桜華の邪魔よ」
薫に叱責されて、少年たちが思わず条件反射のように片づけを始めた。どうもこの気の強い主治医には逆らいがたいようだ。
だが彼らにしても、これからいったい何が始まるのか判っていない。もちろん、未だに床に座り込んだままの蓮華にも判ろうはずがない。
バタバタと少年たちが走り回っているなかで、薫が蓮華を練習場の片隅へと引っ張っていった。彼女たちの目の前には、先ほど桜華がディスクを差し込んだパネルがチカチカと光を放っている。
「ほら。桜華のお許しが出たんだから、サッサともらっておきなさい」
薫は無造作にディスクを取り出すと、蓮華にその銀盤を押しつけた。蓮華が戸惑っているうちに、それは掌中にスッポリと収まり、そうこうするうちに薫が顎をしゃくって施設の一角を示した。
「お出ましよ」
蓮華が振り返って見れば、数枚の薄衣を肩から羽織り、舞扇子を手にした桜華が、素足になって床面の中央に歩み出てくるところだ。桜華の顔色はまだ少し青白いが、足取りは先ほどよりも確かになってきている。
周囲の人間が固唾を呑んで見守るなかで、桜華が床の中央に立ち、じっと蓮華へと視線を注いだ。
「わたしはあの人の前で舞う気はない。やるなら蓮華がやりなさいよ」
桜華は着ていたトレーニングウェアの上着を脱ぎ始めている。下には薄手のTシャツしか着ていない。病気のためか、彼女の身体はひどく華奢に見えた。
「一度だけ……。たった一度だけ、わたしは天承院桜華として舞う。これが最初で最後よ。あとは知らない。このあとの天承院は、あんたたちで好きにしなさいよ」
薄衣を重ね着して形を整えると、桜華は手にした舞扇子を一直線に蓮華へと向ける。挑みかかるような鋭い視線も一直線に義姉へと注がれ、辺りには張りつめた空気が広がった。
「でも桜華ちゃん、あなたと家元との約束は……。許しなく花娘を舞うことは禁じられているんじゃ……」
「葛城桜華が舞うのなら許されないわ。でも天承院桜華なら問題ない」
まっすぐに伸ばした腕をすとんと落とすと、桜華は皮肉を込めた笑みを口元に湛える。
「忘れたの? 天承院の家元は女が継ぐのよ。菊乃お祖母様が亡くなったとき、仮で山の大伯父貴が継いだだけで、本来の継承者は別にいるのよ? 天承院を一度飛び出して連れ戻されたあの人は、その権利を剥奪されているし、花娘を知らない」
蓮華は桜華の声を聞きながら手に収まっているディスクを握りしめた。声が枯れてしまったような気がして出てこない。
「女でこの舞を知っているのは、誰? わたしだけでしょ。天承院を名乗る限りは、わたしが現家元なのよ。誰もわたしを止める権利はない」
蓮華は何か答えねばと口を開いた。だがやはり喉は何も音を発せず、彼女は力尽きたようにその場に座り込んだ。
どれほど懇願しても聞き届けられなかった秘技の教えを、目の前の少女が教えてくれると言う。夢でも見ているのではないだろうか。
「あの人が花娘を見たいというのなら、あんたが舞ってやればいい。わたしはご免だけど、あんたならあの人の願いを聞き届けられるでしょうよ」
ふわりと桜華の腕がかざされ、片手だけで器用に扇子が開かれた。風に揺れる花びらのようにその扇子の先端が震え、散り急ぐ花が舞うようにそれが翻ると、舞い始めた少女の喉からは舞の拍子をとる唄が響きだした。
蓮華はその舞姿を食い入るように見つめる。それ以外に舞い続ける少女にどう応えろというのだ。
今、自分の目の前で流派の頂点に立つ者が直々に舞っている。その一部の隙もない滑らかな舞を、彼女が受け継がせてくれるというのなら、それを正面から受け止めねばなるまい。それが相手へと礼儀というものだ。
高低をつけた舞唄に沿って扇子が狂い咲き、少女の華奢な身体が柔らかく弧を描いて揺れ動く。その一部始終を見逃すまいと、蓮華は目を見開いて息を詰めた。
舞えや、舞え
この花嵐の紅のごとく
この身の血潮や
舞えや、舞え
いつしか蓮華も舞い続ける少女と供に舞唄を口ずさんでいた。
咲き狂う花のように絢爛と舞う娘の姿だけをただひたすらに追い、蓮華は自身の網膜へとその姿を焼きつける。新しい継承者へと引き継がれていく秘技は可憐で、俗世のあざとさなど微塵も感じさせない清廉なものだった。
喉を震わせる蓮華の眦まなじりから一滴の涙かこぼれ落ちる。それを知ってか、知らずか、継承者の舞は止まることなく続けられたのだった。
終わり
「いい加減にして! もうわたしには関係のないことだわ!」
罵声こそ浴びせてこないが、相手の形相は憎しみにどす黒く染まり、互いの間にある溝の深さをはっきりと伺わせる。
突き放されることはあらかじめ予測していた。それは想像の範疇の答え。すんなりと承諾してもらえるとは思っていなかった。でも拒絶されたからと言って、ここで諦めるわけにはいかない。
「お願い。帰ってきてくれとは言わないわ。一度でいいの。……たった一度、お母様の前で舞って欲しいのよ」
恥も外聞もない。蓮華は床に額を擦りつけて頼み込んだ。そうする以外にいったいどんな方法があったというのだろうか。
「蓮華れんげ……どうしてあんたがそこまでするのよ」
長い廊下の端に佇む二人の娘に、冬空の寒気が襲いかかっていた。建物の外側に沿って渡された回廊は、山水造りの庭からの冷気をもろに受けてしまう。
その庭を囲う石塀の向こう側には、雪の重みに項垂れる松木立が黒い影となって立ち尽くしていた。灰色の空からは雪こそ降ってこないが、刺すような寒風がこの巨大な建物へと吹き下ろしてきている。
長い歳月の間、その荒ぶる風を受けて廊下と屋根を支えてきた柱は、すっかり色褪せて白茶けた姿になり果てていた。
檜板の廊下はしんしんと氷のように冷え込み、土下座する蓮華の身体から容赦なく熱を奪っていく。それでも彼女は立ち上がろうとしなかった。
「お願いします。どうか……。一度だけ……お願い……」
「わたしを産み捨てた女を喜ばせるためだけに、どうしてわたしが舞を舞わなければならないわけ? 蓮華、そんなの虫が良すぎるでしょ!」
「判ってるわ。あなたがどれほど腹を立てているか、よく判ってる。でもあなたしか知らないのよ! 花娘を教えられたのは、あなたしかいないの! お願い……待ってちょうだい、桜華おうかちゃん!」
顔をあげた蓮華は立ち去ろうと背を向ける少女の足にすがりついた。ここで逃してしまったら、もう二度と彼女は会ってくれない。どんなことがあっても彼女から承諾をもらわなければならないのだ。
「迷惑だって言ってるでしょう!? 山の大伯父貴にでも頼みなさいよ!」
「それができたら、あなたに迷惑なんてかけてないわ……。家元は私や藤見ふじみを遠ざけているのよ。どうやって教えを乞えというの」
「そんなことわたしには関係ない!」
足にしがみつく蓮華を引きずって桜華が歩き始めた。すぐ目の前にある廊下の突き当たりには、檜造りの建物には似つかわしくない金属製の扉がはめ込まれている。
「桜華ちゃん……! お願い!」
喉を涸らして懇願する蓮華を無視してなおも少女は歩き続けた。桜華の明るい色の茶髪に縁取られた顔は青ざめている。足下にすがる蓮華の声に動揺しているのだろう。
桜華が金属製の扉に手を伸ばすと、それは内側から音もなく開かれて、一人の人物を吐き出した。
「こんな寒い場所で何してんのよ、あんたたち」
出てきた人影は二人の様子を見て目を丸くした。一歩踏み出したままの姿で、まじまじと二人の姿を観察する。
「薫さん! 助けてください!」
「お願い、桜華ちゃん! たった一差し舞ってくれるだけでいいの! もう……お母様に残された時間がないのよ!」
助けを求める桜華に向かって、蓮華は再び声をかけた。その様子にすべてを悟ったのか、薫と呼ばれた女は眉間に皺を寄せる。
「いい加減に放してよ! 鬱陶しい!」
とうとうたまりかねて桜華が掴まれていない片足を持ち上げた。その足で這いつくばる蓮華の手を蹴ろうというのだろう。だがそっと肩に置かれた手に驚いて、その動作が止まった。
「止めなさい、桜華。邪険にしたって蓮華は諦めやしないわよ。……蓮華、こんな寒い場所にいつまでも桜華を置いておきたくはないの。続きはなかでやってくれる?」
「薫さん! 続きを聞くまでもありません! わたしは断っているんですから!」
憤然と抗議の声をあげる桜華の肩を再び軽く叩くと、薫は腰を屈めて蓮華へと手を差し伸べた。今のやりとりを聞いていた蓮華の顔に、泣き笑いの表情が浮かぶ。
目の前に出現した女の白い手をとって立ち上がりながら、蓮華は涙をためた瞳で桜華をじっと見つめた。だが見つめられている本人は、その視線を無視して苦々しげに顔を歪めるばかりだ。
薫に導かれるようにして二人の娘は無機質な扉をくぐった。扉の向こう側へと滑り込んだ途端、そこは咳しわぶきひとつしない沈黙が落ちてきた。それまで扉越しに響いていた激しい足音や鋭い喚声がピタリと止んだ空間は異様だ。
蓮華の目の前には、ローマの闘技場コロッセオを思わせる空間があった。緩い高低差のある階段状の観客席が彼女の前後に広がり、中央部分はワックスで磨きたてられた床がぽつんと広がっている。大きめの体育館とでも言えばいいのだろうか。
今その床の上にはバスケットコートの模様が浮き上がり、床のあちこちに佇んでいる少年たちが胡乱げな視線を蓮華へと向けてきている。
ただ、この施設の目立った特徴は他にもあった。客席より一段下がったコート面を囲む壁がすべて鏡張りになっている。ひどく落ち着かない気がするのは、死角のない空間がすぐそこにあるせいだろうか。
「今日の練習はここまでにしてもらいましょう。……どっちみちコーチが練習を見られなくなるんだから、今日の練習をこれ以上続けても無意味でしょう」
朗々と響く薫の声に集まっていた少年たちが口を尖らせ、薫の隣りに貼りついている桜華へと視線を泳がせた。その間にも少し離れて立つ蓮華へとチラチラ好奇心の目を向ける。
彼らはバスケットのユニフォームを着用しており、蓮華たちが廊下で言い争っていた「舞」という言葉とは、限りなく縁遠い存在だった。
「薫さん。わたし、蓮華に話をすることなんかありません! だから練習を続け……」
「そうね。話はないわね。でもやらなきゃならないことがあるはずよ?」
薫の言葉に桜華はますます不機嫌な顔をした。頑固に口を引き結んで、上目遣いで睨んでくる少女の様子に、薫は腕組みしてじっと睨み返す。
「あんたは天承院流を継ぐのかしら? それなら継承者の舞を独り占めしておいたって問題はないけど……」
「冗談じゃありません。そんなもの継ぐつもりはないです!」
苛立った桜華の叫び声に周囲の少年たちが顔をしかめた。そして非難がましい視線を蓮華へと向ける。彼らにも桜華の苛立ちの原因が、このひっそりと佇む娘にあるのだと判っている様子だ。
「ねぇ、桜華。あんたが問題にしているのは、死にかかっているどこかのおばさんの希望に沿って舞を舞ってやること? それとも、そのおばさんの側にいる愛娘に自分の技を盗まれること?」
薫の問いかけに桜華が顔を引きつらせ、その背後では蓮華が息を呑む。
「あ、あの……桜華ちゃん。私のことなら……。絶対に舞を盗み見たりしないわ。だから、お母様の……」
「うるさい! あんたは黙っていて!」
振り返りもせずに桜華が叫んだ。その金切り声に周囲の者たちは思わず後ずさった。だが目の前に立つ薫だけは鋭い視線を外すことなく、じっと桜華の紅潮した顔を睨み据えている。
「薫さん。こんな馬鹿げた舞を教わったばかりに、しつっこくつけ回されるわたしの気持ちが、あなたに判りますか? わたしはただの一度だって、自分から教えてくれと頼んだことなどなかったのに!」
怒りにブルブルと拳を震わせる桜華の背後で、蓮華は胸の前で両手を固く握り、祈るような想いで二人のやり取りを見守っていた。周囲の若者たちも凍りついたように動きを止めたままだ。
「大人の勝手な都合で押しつけられたこの舞のせいで……」
「それじゃ、どうして後生大事にそんな舞を覚えているの? さっさと忘れてしまいなさい」
「一度覚えたものをどうやって忘れろと言うんですか! それに……ここに来てからずっと稽古に呼ばれているんですよ!」
再び金切り声をあげた桜華に、薫が肩をすくめて小さく嘆息した。その態度が桜華の神経を逆撫でたらしい。食いしばった彼女の口元からギリギリと歯を噛み締める音が聞こえる。
「あんたの場合は忘れられないんじゃないわ。忘れたくないだけよ。花娘を舞えるのはあんたとあんたに教えた者だけ。つまり、門外不出のその舞を教えなければ、天承院の者はあんたを無視できないってわけね。結局あんたは天承院という鎖に繋がれていたいだけなんだよ」
「違う! わたしは……」
「違わない。あんたは自分を無視するなと駄々をこねている赤ん坊と同じよ!」
薫の鋭い声に桜華の背が激しく震えた。それを背後から見守っていた蓮華が、同じく怯えたように震えながら声をかける。
「違うわ。桜華ちゃんは家元と約束をしているから、誰にも教えられないだけよ。天承院の直系だけが継ぐ舞を、傍系に伝えるわけにはいかないんですもの! 天承院の花娘は一子相伝の秘技だもの!」
辺りは水を打ったように静まり返った。その耳が痛くなるような沈黙のなかで、薫があきれ果てたようにため息をつく。
「約束ですって? それじゃ、今の家元が死んだ時点で天承院流はお終いってわけね。桜華に伝えられた花娘を継いでいく者がいないのなら、他に後継者はいないってことでしょう?」
その薫の声に答えるように、俯いて顔を歪ませていた桜華が憎々しげに呟いた。今まで紅潮していた頬が今度は青ざめてみえる。
「潰れてしまえばいいんだ。天承院がなくなったところで、世の中の何が変わるっていうんです」
「そうかしらね。確かに世界がひっくり返るような大事にはならないでしょうよ。でも膨大な数の弟子を抱えた流派が消滅したときの余波は決して小さくはないわ。現に直系のあんたは傍系の藤見に疎まれて、何度も命を狙われているでしょう」
「それももうすぐ終わりです。ここで父が作り上げたすべてのデータを記録し終えたら、もうわたしはこの場所にくることもないんですから。……あとは、天承院の人間で勝手にやればいい!」
青ざめたまま顔をあげた桜華が絞りだすように答えを返した。苦り切った声が彼女のなかに溜まっている憤りを表している。
しかしそんな桜華の答えにも薫の視線は鋭さを失うことなく、なおも彼女の瞳を射抜き続けていた。そんな視線に耐えられないのか、桜華は再び視線をそらして俯いてしまった。
「バカね。あんたにその気がなくても、家元はまだ諦めちゃいないわよ。来年、あるいは再来年……あんたがここに連れ戻されるという可能性を考えたことはないわけ? あの古狸が気前よく、稽古をすることだけを条件に、あんたにここを貸すわけがないでしょう」
「そんな……!」
薫の言葉に不満の声をあげたのは、周囲を取り囲んでいる若者たちのなかでも一際背が高い少年だった。短く刈り込んだ髪を金色に染めているが、顔立ちは日本人のものだ。そのまわりにいた者たちも不満を露わにした表情をしていた。
「葛城かつらぎコーチはオレたちと一緒に全国大会を目指すんだぜ! 勝手に連れ出されてたまるかよ!」
「そうだよ。今年の惨めな負け方はもうご免だからね」
「来年こそは全国の頂点に立つんだろ!」
「本人が嫌がってんのに、ひでぇじゃないの!」
次々にあがる不平の声に桜華が目を丸くする。口々に自分を引き留めているのは、普段は反抗的な態度ばかりをする一年や二年のメンバーだ。
「あら。事実じゃないの。桜華はあんたたち西ノ宮高校のバスケ部コーチであると同時に、この天承院流の後継者でもあるんだから。天承院の側からみたら、あんたたちとのことのほうがオママゴトなのよ」
少年たちの怒りの声にも淡々と答えを返した薫の横顔には、とりたてて意地の悪い表情が浮かんでいるわけではない。背後から様子を伺う蓮華にもそのことは判っていた。しかし、少年たちにはその態度を理解する余裕はなさそうだった。
「オレたちのやっていることが遊びだと!?」
「お前……葛城コーチの主治医だかなんだか知らねぇけど、言っていいことと悪いことがあるぜ!」
背格好だけなら薫よりも大柄な少年たちばかりだ。乱闘にでもなったら、怪我を免れ得ないだろうに。
「やめなさい、みんな」
少年たちを押しとどめる声をあげたのは桜華だった。血の気が引いた彼女の顔には先ほどから苦渋が浮かんでいるが、決して少年たちのような殺気はまとっていない。
「でもよ……!」
「お前ら、全員頭冷やせ。葛城のことにいちいち首を突っ込むな」
不満を浮かべる少年たちの後ろから低い声があがった。かなり大柄で筋肉質な少年がきつい視線を周囲の若者に注いでいる。
「赤間キャプテン……」
「部長! でもこいつオレたちのバスケを……」
苛立った声をあげる背高のっぽの少年を制して、赤間と呼ばれた若者が桜華へと視線を向けた。
「結城ゆうきさんは俺たちのバスケをバカにしているわけじゃない」
「でも……」
不満そうに口を尖らす後輩たちを制して、赤間がさらに続ける。
「葛城。お前の好きにやれよ。バスケ部のコーチだろうが、舞の家元だろうが、どちらを選んだってお前自身のことじゃないか」
思ってもみなかったことを話し始めた赤間に、他の少年たちが息を呑んだ。いったい何を言い出すのだろう。
当の赤間はそんな周囲の反応など気にした様子もなく、いや、周囲のことなど気にしている余裕がないのかもしれないが、言葉を選ぶように桜華に向かって語りかけている。
「この九ヶ月、お前のコーチのお陰でうちの部はずいぶんとレベルをあげたと思う。県大会程度の実力しかなかった部が全国大会に出たんだぜ? お前のこと、途中でコーチの役目放り出したなんていう奴はいないから……よく、考えて決めろよ」
「赤間先輩、何言ってるんスか。そんなこと言ったら……」
部員のなかでは小柄な体格の少年が声を震わせた。
「そうですよ。今までだってあの藤見って野郎、葛城コーチをむりやり引きずって連れ出していたじゃないですか」
ひょろりと細い身体で背の高さばかりが目立つ少年も、赤間の言葉に不満を漏らす。
今年の全国大会、大事な初戦で思ったような力を発揮することなく敗れ去ったことに、誰よりも怒りと失望を露わにしたのは、この目の前にいる赤間ではなかったか?
三年生の赤間にとっては、高校最後の試合があんな無様な負け方では、腹立たしいなどというものではないだろうに。
桜華にコーチとして部に残って欲しいと願っているのは、赤間自身であるはずだ。でなければ、高校バスケをとうに引退しているはずのこの冬の時期に合宿になど参加するわけがない。
「葛城。お前、バスケと同じくらい、舞を舞うのも好きなんじゃないのか?」
赤間の遠慮がちな問いかけに、成り行きを見守っていた蓮華は動揺していた。目の前に立つ少女が舞が好きだなどとは思ってもいなかった。彼女は小さな頃から、むりやりに稽古に引っぱり出され、嫌々舞っているのだと信じていたから。
「桜華ちゃん……。あなた……」
蓮華は震える声で目の前にいる少女の背に呼びかけたが、相手の反応は彼女には向けられなかった。
「何を勘違いしてるのよ、赤間。わたしが好きで舞をやっていると本気で思ってるの? 冗談じゃないわ。こんな鬱陶しいもの、今すぐにでもやめたいわよ!」
しかし、厭だと言う桜華の声に力強さは感じられない。他の少年たちにも桜華のなかにある動揺が見えてきたのだろう。互いに顔を見合わせてはいっそう困惑している。
「厭ならやめなさいよ。簡単でしょ、そんなこと。山の大伯父貴があんたとの約束を守ろうって気がさらさらないのに、どうしてあんたばかりが素直に言いなりになってなきゃならないわけ?」
若者たちの間に広がった動揺に薫が小石を投げかけ、さらに波紋を広げた。蓮華自身も周囲の動揺に呑まれていて、自分がどう出ていいのか判らなくなっていた。
「あんたは舞を続ける気がない。一方で蓮華は天承院流が途絶えないようにしたい。どう? あんたの後継者の舞を蓮華に譲っても不都合なことないわよ」
「できません。大伯父貴が約束を破るかどうかなんて、今の段階では判らないことです。それに相手が約束を破るかもしれないからって、こちらが破棄していい理由になるとは思えません」
強情に口元を引き結んで桜華が薫の顔を見上げる。それは強い意志の現れであるとも、駄々をこねている子どもの我が侭ともとれるものだった。
「意地っ張り」
「意地っ張りでけっこうです。わたしは天承院を継がないし、呼び戻されたって絶対に花娘を舞いません」
「じゃ……これであんたの父親が愛した花娘の舞姿は、永遠に見られないってわけだ」
「……え? お父さんが……?」
突然、父を引き合いに出され、桜華が目を丸くする。天承院の娘、菖蒲あやめとむりやり結婚させられ、将来を嘱望されていたバスケットプレイヤーの地位を潰されてしまった父が、天承院の秘技“花娘”を愛していただなどと、いきなり言われても信じられるわけがない。
「あんたの父親、葛城梓一郎かつらぎしんいちろうは天承院流の師範代家系葛城家の出身でしょうが。自身は舞よりもバスケットプレイヤーとしての才能があったけど、舞を嫌っていたわけじゃないわよ」
「どうしてそんなことが判るんですか! 父はプロのプレイヤーになれたはずです。それを天承院の一存で踏みにじられて……」
怒りを含んだ桜華の声に薫が苦笑を漏らした。そして、今までじっと目の前の少女に注いでいた視線をふとそらすと、自分たちを囲んでいる鏡張りの壁の一角へと目を転じた。
「証拠ならあるわ。……つい今し方見つけたばかりなのよね。それを知らせに行こうと思って、廊下であんたたちに鉢合わせたんだから」
そう言うと、薫は鏡に映る自分へと声をかけた。
「待たせたわね。例のもの、出してくれる?」
「あんた変わってるわ」
私がここへ来て二度目の昼を迎える頃、不機嫌な顔をしたままラナがボソッと囁いた。相変わらずふてくされた表情は崩していないし、私に敵愾心を持っているようだ。
昨日に続いて診察の巡回に回っているところだったが、一通りの家庭を回り終えて再び最初の小屋から回ろうとした私に向けての彼女の言葉がこれだった。
「お金にもならないのに何度も診察に回るなんて。それに……カズキの側に居ようともしない」
「私がカズキの側にいたほうがいいの?」
彼女の波立っている感情のなかに放り込んだ私の言葉は、彼女の苛立ちを間欠泉のように噴き上げさせた。
「誰もそんなこと言ってないわよ! でも、あんたを見ているとイライラする。取り澄ました顔して、カズキのことなんかこれっぽっちも心配してませんって顔を見てると……!」
彼女の怒鳴り声に、今日も私の周囲に群れていた子供たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していた。物陰に隠れて私たちのやり取りを見守っている子の他に、泣き出している子もいる。
いや、怒鳴り声に家々の戸口からは女たちが顔を覗かせているし、軍用の建物の戸口からは男たちの顔も見えた。
「子供たちが怯えているじゃない。可哀想に」
「そんなことどうでもいいわよ! なんだってそんな平気な顔してるのよ、あんたは! 本当にカズキの恋人なの!? 信じらんない!」
ヒステリーを起こして地団駄を踏むラナの様子に周囲の人間たちは戸惑い、仲裁をしていいものかどうかと手をこまねいている状態だ。私が彼女の凶荒に同調すれば事態はいっそう悪化しそうだった。
「ドクの処置は適切だったわ。もう私が和紀にしてやれることは祈ってやることくらいよ。それだって私の神経をすり減らしてまで祈って欲しいなんて、和紀なら望まないわ」
私の口調が気に入らなかったのだろう。ラナはいっそう腹立たしそうな顔つきになり、自分の上着をきつく握りしめる。
「祈ればいいじゃないのさ! 神様はそれを聞いてくれるかもしれないじゃない」
彼女の言葉に私は思わず笑ってしまった。何を言っているのだろう、この女は。この私に神に祈れと言うのか?
「馬鹿馬鹿しい。……神などこの世にいないわ」
怒りにラナの顔が歪んだ。避ける間もなく、彼女の平手打ちが私の左頬を叩く。渾身の力を込めたその掌が怒りのために小刻みに震えている。
「あんたなんか大っ嫌いよ! カズキに全然相応しくないわ。あんたなんか地獄に堕ちちゃえばいいんだ! あんたなんか……!」
最後は現地語で罵り声をあげ、ラナは和紀の眠る建物へと駆け出していった。そのラナをマードックが押しとどめ、私に向かって叫んだ。
「カオル! カズキが目を醒ましたぞ!」
呆気にとられたようにマードックを見上げていたラナがバタバタと暴れ始めた。カズキの元に行こうとしているのだ。だがマードックはその腕を放そうとしない。
「早く行ってやれ、カオル!」
私はゆっくりとマードックに近寄るとラナを拘束する彼の腕に手をかけた。
「この腕を離しなさいよ、マードック。ラナの好きなようにさせて」
驚いた二人の目が私に集中した。私に情けをかけられたとでも思ったのか、ラナの顔に怒りが浮かぶ。
「イーグルたちは?」
「あ……あぁ、病室に飛んで行ってると思うけど」
未だにラナの腕を掴んだままのマードックが私とラナを交互に見比べて困惑していた。この手を離していいものかどうか、と。
「じゃ、私が会いに行くのは最後だ。私はここにいないはずの人間だからね。……ラナを離してやりなよ」
「しかし……」
マードックもラナがカズキを気に入っていることに気づいているのだろう。私に気を使っていることは彼の態度からありありと伺える。
「ラナ。行ってカズキに会ってきなよ。イーグルの妹なら会いにいく権利は充分にあるだろう」
マードックの腕を力任せにふりほどいたラナが私を睨みつけた。目をつり上げたその顔は私には子供っぽく見える。
「あんたなんか大っ嫌い。あんたになんか絶対にカズキを渡さないんだ!」
「お好きなように。和紀が心変わりするようなら、それはそれで結構よ。そんな軽薄な奴ならこちらから願い下げだわ」
「お、おい!」
「見てらっしゃいよ。絶対に渡さないんだから!」
マードックが慌ててラナを掴まえようとしたが、素早く身を翻した彼女を掴まえ損ない、困ったように私を振り返った。私の態度が理解できないのだろう、彼の表情には今まで見たこともないくらいハッキリと困惑が刻まれている。
「ラナを焚きつけてどうする気だ? 素直に会いに行けばいいじゃないか」
「私はここにいないはずの人間だって言ったじゃない」
「……カズキに会わずに帰るつもりか? 強情な女だな、あんたは。必死になってここまで来たくせに」
私の言わんとするところをおぼろに察したマードックが呆れたように肩をすくめた。彼には理解できないだろう、私の考えなど。
「マードックはカズキと話をしたの?」
「あぁ、オレが覗きに行ったときに目を開けやがったからな。一言二言だったが……。後はドクやイーグルに知らせて、あんたを探しに来たところだったんだ」
「そう。……じゃ、手伝ってよ。仕事が途中なんだ。通訳がいなくなっちゃったからね」
マードックの目が大きく見開かれた。この状況でまだ依頼された診察をしようとする私の心境が理解できないらしい。小さく頭を振ってため息をつく。
「日本人ってのは、みんなそうなのか? それともカズキとあんただけか、そんなに強情なのは?」
「よく判ってるじゃない、カズキのこと」
私が微かに浮かべた笑みに苦笑いで応えるマードックがひょいと肩をすくめてみせた。
「オレ以外でカズキの相棒が務まる奴はいないと思うぜ?」
その後、和紀の病室を訪れる人間は絶えなかった。次から次へと兵士たちが建物を出入りし、果ては集落の女たちや子供まで建物を取り囲んでいる始末だ。
ラナは姿を見せない。きっと和紀の側に張りついているのだろう。
「イーグルを助けた英雄だからな。今日はお祭り騒ぎになるだろうよ」
「英雄、ねぇ……」
診察に訪問してもほとんどの家がもぬけの殻では仕事にならない。私は苦笑混じりに家々をまわり、昨日薬草を処方したミア婆さんの家までやってきた。
家のなかを覗くと、昨日の中年女性が干した薬草を丁寧に仕分けしているところだった。
私に気づくと慌てて立ち上がって駆け寄ってくる。私には理解できない現地語で早口に何かを告げているが、私にはまったく理解できない。ただ彼女の表情に昨日の暗さがないことから、老婆の容態が快方に向かっているらしいことだけは想像できた。
「婆さん、よくなったらしいぞ。……今日は起きあがれるようになったそうだ。現地の言葉はオレにはあまり理解できんが、だいたいこんなところだろう」
辛抱強く女性の言葉に耳を傾けていたマードックが私に耳打ちしてくる。私の想像通りだ。
「ありがとう、マードック。ちょっとここで待っていて。患者を診てくるから」
まだ何かをしゃべり続ける女性に微笑みかけると、私はその脇をすり抜けて室内へと踏み込んだ。昨日案内された床の上で老婆が器から何かをすすっている姿が見える。
「ミアさん。少しはよくなったようですね」
どうせ日本語も英語も理解できないだろうから、私は母国語の日本語で彼女に語りかけた。
私の呼び声にミア婆さんは顔をあげ、童女のようにはにかんだ笑みを返してくる。ラナの気性の激しさを体験したあとだと、彼女の慎ましさには面食らう。
手にした器を傍らに押しやると、痩せた手を私に差し伸べて私には理解できない言葉でしきりと話しかけてくる。
私はミア婆さんの傍らに座り込むと、彼女の背中をなんども撫でながら頷き返した。一所懸命に私に礼を言っているらしいことは理解できるが、それがどんな言葉であるのか私には判らない。それでも彼女の言葉が途切れるまで、私は辛抱強く頷き返した。
ミア婆さんの診察を終え、外に出てみるとマードックは小屋の外壁にもたれかかったまま居眠りしていた。日は傾いてきており、木々の間には夕闇が垂れ込めてきてる。
「マードック。そんなところで夜になるまで眠ってると風邪をひくよ」
私の呼びかけにマードックが片目を開けた。本当に熟睡していたわけではなさそうだ。
「終わったか?」
「えぇ。ありがとう。今日はこれでお終い。もうすぐ夕食でしょう? 帰ろうか」
伸びをして身体をほぐすマードックの横で、私は遠くに見える建物を見つめた。まばらになっていたが人々の出入りがまだ続いている。リーダーを助けた英雄はしばらく解放してもらえそうもない。
「気になるなら行ってきたらいいじゃないか。本当に強情だな」
私の視線の先を見透かしてマードックが混ぜっ返してくる。それを無視して私は歩き始めた。灯りが点り始めた家々の間を縫ってこの集落の中央にある広場へと向かう。
「カオルが会いにいけば、カズキの怪我なんか吹っ飛んじまうぜ?」
「お世辞なんかいらないよ。第一、和紀は私がここにいることを喜ばないね」
「なんてこと言うかな。恋人が会いにきてくれて喜ばない奴なんて……」
「マードック。カナダでのことを忘れたの?」
私が初めて和紀にマードックを紹介された冬の出来事を思い出したのだろう。マードックが黙り込んだ。
「和紀はあのとき私をカナダに呼んだことを後悔している。今回はカナダ以上に危険な場所でしょう? 和紀は私がここにいることを喜ばないよ」
「それは……でもな、カオル……」
チラリと肩越しに振り返った私の視線にマードックは開きかかった口をまたつぐんでしまった。あのカナダでの事件につき合った彼は、その後の和紀の荒れ様を知っているはずだ。
「あの怪我だとしばらくは起きあがれないね」
「あぁ、まぁ一週間はベッドの上かな」
「その間に私が帰国できるよう手配してくれる?」
私の言葉にマードックが立ち止まった。気配でそれを察して振り返ると、彼は険しい表情をして私を見つめている。
「オレがやったことは迷惑だったか?」
「いいえ。感謝してるわ」
私をここに呼んだことを言っているのだろう。彼の独断で決められたことだと思うが、あのときのマードックの配慮は私にはありがたかった。それは事実だ。
私は自分の目で和紀の無事を確認できたのだ。何も知らずにいるよりも、どれほどマシだったかしれない。
だが和紀は私をこの危険地帯に呼び寄せる気など毛頭なかっただろう。カナダのあの事件以来、和紀は今まで以上に自分のやっていることを私に話さなくなっていた。
そうだ。あの冬のカナダで、私はレイプされた。和紀は自分が許せないのだ。自分の傭兵稼業に私を巻き込んだばかりに起こったあの事件を、彼は決して忘れてはいまい。
私がここにきて七日目が過ぎようとしていた。
和紀が意識を取り戻したあと続いた人々の狂乱は丸二日続き、ずいぶんとドクの気を揉ませたらしい。
意識を取り戻したとはいえ、未だ微熱の続く和紀の体力を懸念してイーグルが人々を追い立てなかったら、その狂乱はまだまだ続いたかもしれない。イーグルの命を助けたということは、この集落の人々には感謝してもしきれるものではないのだろう。
私は淡々と与えられた仕事をこなした上に、ドクの仕事の幾つかを請け負っている状態が続いていた。
和紀の元に押し掛けてくる見舞客をさばくのはドクの仕事になってしまっている。和紀の体調を把握しているのが主治医である彼一人なのだからそれは仕方のないことだろう。
ラナは毎日健気に和紀の元へ通っているようだった。私と集落のどこかですれ違っても、まったく無視して声をかけてこようとはしない。
だが彼女の横顔が勝ち誇ったように輝いているところを見ると、和紀を独占している今、私よりも優位にいると確信しているようだ。
昼下がりの気怠い時刻、女たちはのんびりと家事をこなし、男たちの大半は銃器の手入れに余念がない。
私は治療すべき患者もなく、暇を持て余し気味だった。現地の言葉が判らないので、女たちのおしゃべりに混じることもできない。和紀が怪我を負った戦闘以来、戦いらしい戦いがないのでドクの仕事を手伝うにしても何もない状態だ。
「カオル!」
マードックが木陰でぼんやりと木漏れ日を見上げていた私の元へと駆け寄ってきた。
「デュークと連絡がとれた。今日の日没間際にヘリをつけるそうだ」
「そう。ありがと」
「……本当にいいのか? カズキに会わなくて」
彼はまだこだわっているようだ。それもまた仕方ないのかもしれない。私を呼び寄せたのは彼自身だ。和紀のために良かれと思ってやったことだったのに、その本来の目的はまったく達せられていないのだから。
「帰るわ。和紀の容態はもうだいぶん良いみたいだし……」
「判らんな。次に会える保証はない稼業だぞ、オレたちは。ここで会っておかなかったことを後悔するかもしれんぞ」
不満を漏らすマードックに笑みを返すと私は目を閉じた。もう何度も彼と議論をしているその度に平行線なのだ。私の強情さに呆れたのか、マードックは小さく肩をすくめると元来た道を戻っていった。
その彼の後を追って私も立ち上がった。帰るのなら荷物をまとめておかなければならない。いくら持ってきた荷物が少ないとはいえ、置いていくわけにはいかないのだから。
私が割り当てられた小屋へと歩き始めるとすぐに、鼻歌を歌いながら女たちの集落へと向かうラナと行き会った。和紀の元から帰ってきたところなのだろう。踊るように浮き足立った足下を見ればすぐに判る。
私に気づいた彼女が小さく鼻で笑った。いやに神経に障る笑い方をする。だが私は顔の表情を変えることなく、彼女を無視して自分の小屋へと入っていった。
自分の感情を押し殺すことなど私には日常茶飯事のことだ。いや、必要とあれば白けていても笑顔の仮面くらい被ってみせる。
医者という職業は権力者が近寄ってくることも多い。彼らに自分の内心を覗かれたくなれば、これくらいの芸当ができなくてはやっていけない。立派な志をもって医者になった者ばかりではない、その現実は私の心をいつも鎧で固めさせていたのだ。
身支度を整えて集落の広場で出発を待っていた私の背後に人の気配がした。
「カオル。準備できたのか?」
マードックが事務的な声をかけてきた。出発の時刻がきたのだろう。
「えぇ。いつでもいいわよ」
立ち上がってマードックを振り返った私の視界の隅に病院の建物が入った。その扉が開き、イーグルが姿を見せる。
「意地を張るのもほどほどにしてくれよな」
「もう帰るってのに、まだ言って……る……!?」
イーグルに続いて建物から姿を見せた人物を見て私の舌が強ばる。その私の表情から察したらしいマードックがいつもの猛獣に似た笑みを口元に浮かべた。
「今回のことは後でオレが二~三発殴られりゃ済むんだからさ」
向こうもマードックの傍らに立つ私の存在に気づいた。大きく目を見開いた顔が強ばっている。
「薫……!」
ほんの二十メートルと離れていない場所に立つ和紀があげた叫び声が、私の耳にはひどく遠い場所から聞こえるような気がした。
「どういうことだ、マードック! なんで薫がここにいる!?」
茫然とした様子からすぐに立ち直ると、和紀は未だに痛む身体を引きずるようにして私たちの側まで歩み寄ってくる。険しすぎる声にマードックが居心地悪そうに身じろぎした。
「お前の通信機のデータを読ませてもらって彼女に連絡をいれたんだよ。オレの独断で、だけど」
「勝手なことをするな! 俺がいつ薫を呼んでくれと頼んだ!?」
マードックに掴みかかっていく和紀だったが、怪我をしている今の状態ではどれほどの力も出ない。足下をよろめかせ、それをマードックに助けられる始末だ。
「せっかく会いにきてくれたんじゃないか」
「余計なお世話だ! 俺に断りもなしに勝手なことをするな、馬鹿野郎!」
マードックの腕を払いのけると、和紀は今度こそ相棒を殴り倒そうと腕に力を込めた。
「やめなよ。ここへ来るって言ったのは私なんだから」
私が振り上げかかった和紀の腕を押さえなければ、彼は何度でもマードックに殴りかかっていきそうだった。私の声に和紀の顔が歪む。ここへ来るまでの危険を思い描いているのだろう。和紀は唇を噛みしめたまま、じっと私を見下ろしてくる。
「こんな危ない真似をするなよ。お前に何かあったら俺はどうすりゃいいんだ」
久しぶりに聞く彼の日本語は震えていた。マードックに英語で怒声を浴びせていたときの勢いはまったくなくなっている。
「どうもしない。何もなかったんだから」
「これから何もないって保証はないだろうが! お前に何かあったら、俺は今度こそ自分を許さない……!」
叫び様に和紀は私をきつく抱きしめていた。腕が微かに震えている。背中にその震えを痛いほど感じて、私はなぜか可笑しくなってきた。自分に降りかかる危険には無頓着なくせに、私のことになるといつもこれだ。
いつの間にかマードックがイーグルの側まで退いていた。ニヤニヤと笑いながら私たちの成り行きを見守っている。どうやらマードックという人物は私が思っていた以上に喰えない性格をしているらしい。
「怪我しなかったか、薫……?」
「あんた、自分の怪我の心配しなさいよね」
自分のことは棚に上げて私の躰の心配をする和紀に呆れて、私は和紀の頭を小突いた。それでも和紀は私を解放しようとはしない。
広場には他にも目があり、どうやっても私たちは彼らの注目を集めているのだが、和紀はまったくその様子に気づいていないようだ。
「ちょっと和紀。いい加減に放してよ。息苦しいし、恥ずかしいでしょ!?」
「やだ!」
即答して和紀は私を抱きしめる腕をさらに強めた。
「もう! これから帰るんだから、放してってば!」
「え……?」
ようやく和紀が私を戒める腕から力を抜く。怪訝な表情で私を見返す彼の顔には困惑が広がっていた。
「私がここへきたのはもう七日も前なの! だからいい加減に帰らないと仕事がたまってるのよ」
「そんな前からいたのか!?」
目に殺気を宿した和紀がマードックを振り返った。今まで何も教えなかった相棒の仕打ちに腹を立てているのだ。その和紀の形相にマードックが首をすくめる。
「彼に当たるのは止めなさいってば! 私が口止めしておいたんだから」
「なんで黙っていたんだよ」
「言えばそうやってマードックに殴りかかっていくじゃない。それに必要以上に私を心配するし。だから何も言わずに帰ろうと思ったのに」
私の返答に和紀は微かに眉を寄せた。それだけの仕草だったが、和紀が自分の言動を後ろめたく思ってることは手に取るように判る。怒りに任せて相棒に当たり散らしたことを少しは後悔してくれているようだ。
「あとでマードックに謝りなさいよね」
「マードック!」
私の言葉を無視すると和紀は相棒の黒人に向かって叫んだ。不穏な光が目に浮かんでいる。私は嫌な予感に思わず身を引いたが、和紀が私を抱きしめていた腕に再び力を込めてそれを阻んだ。
「まだ間に合うよな? 出発を一日延ばせ!」
有無を言わせない和紀の声にマードックが再び首をすくめる。その横ではイーグルが笑いを噛み殺して肩を震わせていた。
「何言ってるのよ!? これ以上引き留めないでよ!」
「どうせここまできたんだ。もう一日くらい仕事をサボれ! ……いいよな、薫がもう一日ここにいたって?」
逃げようともがく私を抱きしめたまま、和紀はイーグルへと視線を走らせる。とても了解を求めているという口調ではない。命令を下すような断定的な言葉遣いにイーグルがさらに肩を震わせて笑いをこらえている。
「好きにしろ。私はいっこうにかまわん。……まぁ、問題はラナくらいか」
チラリとイーグルの視線が集落の方角へ走った。その視線を追っていくと、広場の縁で身体を硬直させて私たちを見つめる彼女の姿が見えた。
なんて人の悪い兄貴だ! 何も妹にこんなところを見せる必要などなかっただろうに。
ショックのあまりに口がきけない彼女には目もくれず、和紀は私を引きずるように病院へと連れていく。広場の周囲で成り行きを見守っていた男たちや女たちが、ある者は笑いながら、ある者は呆気にとられて私たちを見つめている。
「バカ! 放しなさいよ!」
「いやだね。ほら、マードック。早くデュークに連絡入れろよ」
愉しげに口元に笑みを浮かべた和紀に急き立てられてマードックが何処にか消えていく。私を助ける気は毛頭ないようだ。
「放してったら!」
「暴れるなよ。怪我に響いて痛いだろう」
怪我と聞いて、突っ張ってきた私の腕から一瞬力が抜けた。それを見計らったようにふわりと身体が浮かんだ。和紀が私を担ぎ上げたのだ。
「バカーッ! 何すんのよっ!」
私の抗議を無視すると和紀は悠々と病院と戸口をくぐっていく。本当にけが人か!? 人一人担ぎ上げるだけの体力がある奴が本当に怪我人なのか!?
病院の扉を閉める寸前、和紀がイーグルを振り返った。
「明日の朝まで面会謝絶、な」
私の目の前で扉が閉まっていく。そのわずかに隙間の向こうにイーグルの笑み崩れた顔が覗いた。
まるでそれが当然の権利だとでもいうような堂々たる和紀の台詞を聞いたイーグルが今度こそ爆笑している声が響き渡り、それに後押しされるように和紀は病室の扉を開けてなかに滑り込んだ。
「何するつもりよ、あんた!」
「何するって決まってんじゃん」
口元に凶悪なほど愉しげな笑みを浮かべた和紀の様子に、私の頭のなかは真っ暗になった。その私を再びきつく抱きしめた和紀が喉の奥で笑い声をあげている。いつだってこの男は私の考えなど無視して行動する。
「愛してるよ」
和紀の囁き声が私の耳にはどんな媚薬よりも最悪な麻薬となって広がっていった。それは彼の危急を知らされたときに凍りついていた私の“時”をゆっくりと溶かす呪文のようだった。
終わり
それは夜、かなり遅くなってからのことだった。
ノイズが激しく混じる男の声を携帯の電話口の向こう側に聞いて、私の“時”は凍りついた。遠く海の彼方からの声の使者は、幼なじみの危急を知らせるものだったのだ。
「どう……して?」
「依頼主を庇って被弾した。弾は全部抜き取ったが、左脇腹上部に当たったヤツがあばらと内臓に傷を入れちまったんだ。ここ数日が山だそうだ。……来るか?」
身体から力が抜けていくようだ。ふと今が九月だということを思い出し、彼の兄も九月に亡くなったのだと気づく。恐ろしい錯覚に目眩がした。
「行くわ。なんとしてでも、そちらに行く!」
「了解。だが民間機はこの国の国境を越えられない。デュークに連絡を入れて、専用機が飛べるように手配する」
「いったい……いったい和紀はどこにいるのよ!?」
国境が封鎖されているような地帯で瀕死の状態になっている幼なじみを想像していると胸が潰れそうだ。
だからあれほど危険な仕事から足を洗えと言ったのに!
「説明は後からだ。すぐにバルダミッシュ宇宙港まで行け! そこの衛兵に合い言葉を伝えれば入れるようにしておく」
「合い言葉?」
「今から教える」
電話の向こう側は慌ただしい気配がしており、自宅でこの電話を受けた私の生活空間とはまったく別世界が広がっているらしいことは理解できた。
一語一句を聞き漏らすまいと耳をそばだてた私が、伝えられた合い言葉を確認する間もなく電話は途切れた。これからの諸々の手配のために慌てて切ったのだろう。
私は茫然とソファに座り込んでいたが、我に返るとデイパックを引きずり出してきて身支度を始めた。時間が惜しい。一刻の猶予もない、そんな気がした。
バルダミッシュ宇宙港は軍の管轄する施設のはずだ。身分証明書もなしに民間人が入ることなどできるわけがない。
だが私は迷うことなく宇宙港のゲートの前に車をつけ、すぐに立ち去るように睨みつけてくる衛兵へと教えられた合い言葉を伝える。
目を見開いた衛兵たちが慌てて通信機で本部と連絡を取っている姿がどこか滑稽だった。
通信を終えた衛兵の一人が軍用に改造されたジープで先導して港内を走り抜けていく。それを見失わないようにハンドルをさばきながら、私は舌打ちした。
和紀の今回の仕事はよほどヤバいものだったに違いない。でなければ、彼の相棒の人脈が恐ろしく広いか、だ。軍事施設にこうも簡単に出入りできるなど、聞いたこともない。
迫ってきた無骨な軍用施設の前にジープが止まり、私がそのすぐ後ろに車をつけると、建物の前で銃器を携えていた兵士の一人が仰々しいほどの動作で私へと敬礼し、建物の内部へと案内する。
何もかもが別世界だった。ほんの一時間ほど前までは私はただの民間人だったはずなのに、今は軍施設のなかを当たり前のような顔をして歩いている。
案内の兵士が再び大袈裟なくらいに畏まって目の前の扉を開けてくれた。どうやら私の身分を勘違いしているらしい。一介の民間人だと教えてやったら、彼はどんな顔をするだろう。
扉の向こうは眩いほどの光が満ちていた。決して廊下が薄暗かったわけではないが、室内の光量に目が慣れるまでに数秒かかったような気がする。
「ようこそ。お待ちしておりました、ミス・ユウキ」
重厚な低音に首を巡らすと、部屋の隅に設けられていた応接セットから上背のある男が歩み寄ってくるところだった。
相手の年は四十代後半といったところか。骨太のガッチリした体格に二メートル近い身長があるのだからかなりの威圧感があってもいいはずだが、そんな圧迫感は感じることもなく、彼は人当たりのいい笑みを浮かべて私に右手を差し出してきた。
「あなたは?」
「失礼。名乗るのを忘れておりました。カズキやマードックにはデュークと呼ばれています。本名はあしからずご容赦を……」
慇懃な態度で腰をかがめる男の灰色の瞳に一瞬鋭い光が点った。どうやらこちらが相手を警戒しているのと同様に、相手もこちらを値踏みしているらしい。
「結構よ。私もあなたの本名に興味などないわ。……専用機を用意して頂けると伺いましたが?」
「えぇ。マードックから連絡を受けてすぐに手配させました。もう間もなく離陸できるでしょう。ところで……ミス・ユウキ」
困ったようにデュークと名乗った男が眉を寄せた。ブルネイの髪を片手で撫でつけている仕草に戸惑いが見える。
「何か?」
「随分と落ち着いていらっしゃる。普通はもう少し取り乱すものなのですがねぇ。こんなことは日常茶飯事なのですか、あなたのお仕事では?」
しみじみと聞こえる相手の声に私は苛立って眉をつり上げた。たぶん相手も私の内心を理解したのだろう。慌てて話の続きをする。
「いや、そんなことをお聞きしたいわけではなかった。実は向こうは少々ハードな環境になっておりましてね。専用機を幾度も飛ばせるわけではないのです。今回飛ばしたとなると、相手国を刺激しないためにも一週間ほどは様子を見なければならないでしょう。その間は……」
「自分の身は自分で守れ、と?」
「いやいや。そうではなくてね。女性にはちょっと厳しい生活環境ですので、清潔好きな方だとかなり苦痛かと思いまして」
意外とこの男は私に気を使っていたらしい。劣悪な環境で生活したことがない人間には、耐え難い場所だと忠告してくれているのだ。外見だけ見れば、私はそんな環境で生活したことがある人間だとは思えないだろう。
「ご忠告ありがとう。でもシャワーやトイレがない程度なら平気ですよ。……それとも疫病でも蔓延しているとか?」
私の返した答えが気に入ったのか、大男は口元を歪めて笑い声をあげた。
「それだけの心積もりがおありなら大丈夫だろう。シャワーやトイレはあまり清潔ではありませんが、ちゃんと備えてあります。それから……疫病が流行っているという報告は今のところ受けておりませんな」
「それだけ聞けば、充分ですわ」
「では搭乗口に向かいましょうか。そろそろ準備もできているでしょう」
私の様子に緊張を解いた男が扉へと歩き出す。大股で歩くその後ろ姿には一部の隙もない。訓練された人間の鋭い気配が、幼なじみの見慣れた背中と重なって、私の胃を締めあげた。
鼓膜を破りそうなほどの騒音を撒き散らして戦闘ヘリが下降していく。
二十世紀初頭に飛行機という乗り物が歴史に登場してから、私が生きているこの時代までおよそ二百年に航空技術は飛躍的に発達した。一日二十四時間のうちの半分、半日で地球を一周できる航空機どころか、かなり高額ではあるが金さえ払えば宇宙にだって行ける時代だ。
「ヘリから降りたら、すぐに迎えの者の後について走ってください!」
爆音のなかで指示を受けて下を確認すると、暗いブッシュの茂みの間に見覚えのある人物の姿が見えた。私の携帯に電話を寄越した人物……和紀の相棒マードックだ。
宇宙港を飛び立ったのは草木も眠る丑三つ時という時刻だったはずだが、ここは日没間近の時刻のようだ。
バルダミッシュ宇宙港から軍用の専用機から目的地の国境の手前でヘリに乗り換え、それからわずか三十分で目的の場所へと到着したのだ。恐ろしい高速移動だといっていい。
時間を遡ったような、あるいは一日を早送りにして過ごしたような、妙な時間のズレが時差という単語になって私の脳裏に浮かぶのにそう時間はかからなかった。
地面すれすれでホバーリングするヘリから一人の歩兵と共に飛び降りると、私は一直線にブッシュの群生へと走った。この大地は今、戦時中なのだ。いつなんどき銃弾が飛んできてもおかしくはない。
私たちが地面に飛び降りると同時にヘリは勢いよく舞い上がり、飛んできた方角とは反対側に向かって飛び去っていく。
「止まるな! ヘリが陽動してくれている間にここを離れるぞ!」
ブッシュのなかに駆け込むとマードックの猛獣のような唸り声が私を駆り立てた。マードックを先頭に、私の荷物を担いでいた兵士がしんがりに、私を間に挟んで鬱蒼と茂る木々の間を走り抜けていく。
薄暗い樹木の下を、木の根に足を取られないように走り抜けるのはかなり体力を消耗する。ともすれば遅れがちになる私をマードックは辛抱強くサポートしてくれているが、彼の運動能力から考えればかなり遅い行軍だろう。
どれくらい走ったかもう判らなくなる頃、もう辺りはとっぷりと日が暮れていたから、かなりの時間を走ったのだろうとは思うが、ようやくマードックが走る足を止めて静かに歩き始めた。
息があがって呼吸するのもかなり苦しい。これだけ長時間、しかも全力疾走に近い状態で走り続けたのは何年ぶりだろうか。
「誰だ!」
誰何すいかの声が暗闇の向こうから響いた。それにマードックが明瞭な声で何かを答える。私にはよく判らない単語だったから、たぶんこれもまた合い言葉のようなものだろう。
彼の息はまったく平常だ。なんて体力をしているのか。いや、後ろの兵士も息を乱してはいない。戦闘訓練を受けた者たちの底抜けの体力には呆れるばかりだ。
暗闇のなかから三人の男が現れた。全員がライフル銃のようなものを携帯している。私たちを取り囲むようにして彼らが周囲を固め、生い茂る茂みを掻き分けた先に、集落が忽然と姿を見せた。
樹木を幾重にも重ねて自然の砦としているのだろう。覆い被さるように空を覆う大木の枝の下には、か弱いがランプの光が静かに溢れている。
私たちの出現に集落の者が一斉に振り返った。不審と好奇心に満ちた瞳が私に集中している。
どうやら一つの村のような集団を形成しているらしいこの集落には、マードックたちのような傭兵の他に、現地人の男女、老人、子供までいた。
「カオル。オレの側から離れるなよ。ここは女が少ないからな。下手に一人で歩き回ると、馬鹿な考えを起こす奴がいるかもしれん」
マードックが低い囁きで私に忠告してきた。だがマードックの言うような荒んだ気配をこの集団の者からは感じない。それとも私の感覚が疲れで麻痺しているのか。
「マードック。その女、誰?」
流暢とは言い難いが現地人らしい褐色の肌をした女が英語でマードックに話しかける。見知らぬ、しかも兵士でもない女の出現に警戒を強めているのだろう。
「カズキの恋人だ。お前ら、手ぇ出すなよ」
唸るようなマードックの返答に場が一瞬だけ緊張する。彼の言葉に怯えていると言うよりは、カズキの名に反応したといった感じだ。
マードックに話しかけた女が刺すような視線を私へと向けた後、ふてくされたようにきびすを返して他の女たちの元へと行ってしまった。なんだか厭な感じだ。
「シェーン。彼女の荷物を返してやれ。……こっちだ、カオル」
後ろについてきていた兵士から自分の荷物を受け取ると、私は再びマードックの後ろについて歩き始める。幾つもの幌小屋を通り抜け、幾分マシな建物の前に到着すると、マードックはそっと扉をノックした。すぐになかから返事が返る。
建物のなかは意外と清潔だった。最新とまではいかないが、幾つかの医療機器が並んでいる。ここがこの集落の病院の役割を果たしているのだろう。
「お帰り、マードック。えぇっと。そちらが……?」
「カオルだ。ドク、カズキの様子は?」
三十代半ばほどの年齢だろう白人種の男が私の顔をしげしげと見つめてくる。だがマードックの声に我に返ると、状況を説明し始めた。
「相変わらず意識が戻ってない。弾は全部抜いたし、化膿止めも打ったわけだからね。肋骨にヒビが入っているから……熱も下がってない。後は彼の体力次第ってことになるかな」
「和紀はいつからそんな状態になっているの!?」
会話に割って入った私に医者らしい男は眉を寄せた。その男の代わりにマードックが説明を始める。
「鉛弾を身体にぶち込まれたのは一昨日だ。敵から隠れながら丸一日かかって、あいつをここまで運んだときにはもう発熱していた。すぐにドクに弾を摘出してもらったが……」
「和紀はどこ!」
今まで抑えていた苛立ちが突如噴き出してきた。もう耐えられない。和紀の様子を自分の目で確認しなければ気が済まない。
「奥の部屋だよ。でもまだ意識が戻っては……」
医者の声を最後まで聞く気にはならなかった。彼の指し示した廊下の先の部屋へと急ぎながら、私は自分の胃を服の上から鷲掴みにした。キリキリと痛み続けている。それは急げ、とシグナルを送っているような気がして、私の焦りを否応なく煽っていた。
そっと部屋の扉を開けると、室内はランプの明かりだけが点された薄暗い状態だった。一番奥にベッドがあり、その上に横たわる人影が見えた。
「和紀……!」
よく見知っている幼さなじみの青ざめた顔に、私は身体の力が抜けそうだった。どうしてこんなことになっているのだろう。和紀がこんな場所でこんな風に眠っていていいはずがない。
よろけながらベッドに近づき、横たわる彼の寝顔を見下ろしたとき、不意に私の眼から涙が伝った。止められない。止まらない。
今まで涙を我慢していたという感覚はない。だがそれは私の頬を濡らし、和紀の眠るベッドの縁を湿らせ続けた。
一晩中、和紀のベッドの傍らにいた私がその部屋を出たのは、朝の慌ただしさが建物の外を取り巻き始めた頃だった。
外は朝靄が微かに残っていた。でもそれもすぐになくなるだろう。朝食のための煮炊きの音と匂いが人間の生の営みのリズムを告げているようで、私は小さく安堵のため息をついた。
青ざめ、昏々と眠りつづける和紀の顔を見続けていると自分も生死の境を彷徨っているような浮游感に襲われ、ひどく身体が気怠くなってくるのだ。
「カオル!」
聞き慣れたマードックの声が近くの小屋の脇からあがった。振り返ったその姿を確認すると、大柄な彼の脇には現地人らしい男と、昨日私がここに来たときにあからさまな敵意を剥き出しにした女が立っている姿も目に入った。
私が返事を返す前に、現地人の男のほうがこちらに近づいてきていた。それを追うようにマードックと女が後ろに続く。
男の歩く姿は堂々としており、この集落のなかでも決して地位の低い者ではないことを伺わせる。年格好は三十代くらいだと思われるが、他民族の年齢を外見だけで判断することは難しい。
「ようこそ、カオル。我々はあなたを歓迎します。昨日は挨拶もせずに失礼しました。私はここでは“イーグル”と呼ばれている。あなたもそう呼んで下さい」
流暢な英語が男の口から流れる。聞きかじりで学んだにしては癖のない、限りなくネイティブに近いイーストアメリカンイングリッシュだ。名乗ったイーグルという名は本名ではないだろう。
「……一つ断っておくわ。私のファーストネームを呼べるのは私が許可した者だけよ。それ以外の人間が“カオル”の名を呼ぶことは許さないわ。以後は“ユウキ”と呼んで頂戴」
男、イーグルの後ろに控えていた女の視線が険しくなった。その隣ではマードックが苦笑いを浮かべている。
「了解。私は日本人の風習にあまり詳しくないのでね。失礼があったことは詫びよう、ユウキ。そうそう。妹を紹介しよう。ラナだ。兄弟のなかでも一番の末っ子でね。ちょっと我が侭なところが……」
「イーグル!」
不機嫌な女の声が割り込んできた。イーグルの傍らに寄り添うラナは険しい視線を私に向けたままだ。
見比べてみると確かに彼らの顔はよく似ていた。決して高くはないがスッキリと通った鼻筋やアーモンド型に切れ上がった眼、やや肉厚な唇にえらの張った頬から顎にかけてのライン。民族的な特徴以外にも彼ら兄妹の容姿は酷似していた。
「私が一番上で、この子が一番下だ。他の弟や妹たちは死んでしまった。三日前には危うく私も死ぬところだった。……ユウキ。あなたには謝らなくてはならない」
一瞬だけ目を伏せたあと、イーグルは真っ直ぐに私の顔を見つめてきた。
あぁ、そうか。そのときに私は確信した。和紀が庇ったのはこの男なのだ。この集落のリーダー的な存在なのだろう。彼を失うということは、彼が率いているこの集団の人間には致命的なことらしい。
「謝る必要があるの? イーグル。私に謝るのではなくて、和紀に感謝するほうが先だわ。私はあなたに謝られるようなことはしていない」
「冷静、ですね。普通は恋人に何かあったら取り乱して大変なのに」
イーグルの言葉に私はふと目眩を感じた。そうかもしれない。私は和紀の危急の知らせに衝撃を受けたが、取り乱したりはしなかった。彼らがいう恋人という立場に私がいるとしたら、冷静というよりはむしろ冷淡なくらいの態度だろう。
だが私は和紀の恋人ではない。単なる幼なじみだ。……少々複雑な関係ではあるが。
「私が泣き叫んだら和紀の怪我が治るのかしら? 今回の和紀の怪我は仕事上のことでしょう。自業自得じゃないの」
「おいおい。そこまで言ったらカズキが可哀想だろう。通信を入れたときには、あんなに殺気立っていたくせに」
「あのバカはそう簡単に死にやしないわよ。……身体だけは頑丈にできてるんだから。相棒のあなたならそんなこと知ってるでしょう?」
彼らが私と和紀の関係を誤解しているのは、マードックからの情報だからだ。そしてたぶん、和紀もその誤解を解こうとはしなかったせい。
およそ半年前の冬、和紀は相棒のマードックとともに別の依頼を受けていた。そのときに起こったトラブルに私が巻き込まれ、マードックは私と和紀の関係を誤解したのだ。いや。予備知識の段階ですでに和紀に誤解させられていたと言っていいだろう。
普段は嘘などつかない和紀だが、私のことに関してはいつだって自分に都合のいい嘘をつく奴だったから。
「ったく。本当にカズキが言った通りのじゃじゃ馬だな、あんたは」
「えぇ、おかげさまでね」
私は小さく苦笑いを浮かべた。それをどう捉えたのか、イーグルは感心したようなため息をつく。
「強い人だ。……ところで、ユウキ」
改まった口調でイーグルが私の瞳をじっと見つめた。
「マードックからあなたが医者だと聞いたのですが、ここに滞在している間、年寄りや子供たちを診てやってもらえないでしょうか? ドクは戦闘員の怪我の治療を優先しているので、戦いに加わっていない者の病気が心配で……」
「駄目よ、兄さん! この人に頼んだって! カズキの心配だってロクにしないような人が他の人間を診察してくれるわけないじゃない!」
訛りが強い英語がラナの口から紡がれる。私にわざと聞かせるために英語でしゃべっているのだろう。そうでなければ私に関係なく現地語で話をしているはずだ。
「ラナ! まだ答えを聞かないうちから……」
「だって! この人、全然カズキの心配してないわ!」
ふと十年近い昔の出来事を思い出した。私の目の前で和紀に向かって私のことを痛罵した少女がいた。あのときも私と和紀は憎まれ口を叩く仲だった。和紀を邪険に扱う私の態度に反発した少女は和紀のことが好きだったのだ。
そう言えば私がここへ来たとき、彼女は私が和紀の恋人だとマードックから聞かされてひどく不機嫌そうな顔をしていた。
たぶん、このラナという女も和紀を好きになっているのだろう。和紀はぶっきらぼうな言葉遣いをすることはあるが、女には優しいから。
「ラナ。心配してないなら、カオルはここまで来なかったろうよ。彼女は腕のいい医者なんだ。患者は引く手数多さ。その大事な仕事を放り出してきているんだ、心配してないはずがないだろう」
マードックはいつも余計なことを言う。
私の医者としての腕など彼女には関係ないだろうに。彼女はただ単に私の存在が気に入らないだけだ。どんな小さなことでもいいから難癖をつけてみたい、そういう女心を判ってない。いや、判っていて庇ってくれたのかもしれないけど。
「……マードック。庇ってくれなくてもいい。で? 治療する場所は? あの建物だと、医療機器の数云々よりも医者一人でいっぱいの広さだと思うけどね」
「いいのですか、本当に?」
「何よ。頼んだのはそちらでしょ?」
ムッとした私の顔を見てイーグルが小さな笑い声をあげた。珍しいものを見るような彼の視線が鬱陶しい。
「面白い人ですね、あなたは。……年寄りや子供たちの治療はそれぞれの小屋で行ってもらいたい。新たに施設を建てるだけの余裕はないですからね。言葉が通じないでしょうから、助手にラナを使ってください。通訳としてしか役に立たないでしょうけど」
「ちょ……兄さん! わたし、手伝うなんて言ってない!」
「結構よ。通訳してもらえれば充分」
勝手に話を進めていく私たちの横で不満そうにラナが頬を膨らませている。それをなだめるようにイーグルが彼女の肩を軽く叩いた。
不満を残しつつも兄には逆らいがたいのか、ラナがそっぽを向きながら小さく頷く姿を私は視界の隅で確認していた。
診察に回っている間に、私の後ろには小さな子供たちの行列が出来始めていた。傭兵以外の、しかも女など初めて見るので珍しいのかもしれない。
私には判らない現地語でコソコソと囁きかわす彼らの様子は、好奇心で玩具にじゃれつく子猫のようだった。
集落は木々に取り囲まれており、空もほとんど見えない。枝の間から覗く切り取られた青が見えなければ、ここが屋外だということを忘れてしまいそうだった。
木漏れ日の間にひっそりと固まって建っている建物を一棟ずつ訪ね歩く作業は、研修医のときに恩師の後に従って患者の病室を巡っていたときのことを思い出させる。
「ラナ。次の家の家族構成は?」
「婆さんが一人と女が一人、それから子供が五人」
必要最小限の言葉しか発しないが、私を案内するラナは自分に与えられた役割をきちんと果たしていた。気に入らない奴と仕事をするときに、バカげた意地悪をする医者仲間とは大きく違う点だ。
戸口をくぐって次の小屋へと入っていくラナに続いて私がその敷居をまたぐと、私たちを取り巻いていた子供たちまでが戸口から家のなかをしげしげと覗き込んでくる。
ラナが話をつけてくれたのだろう。中年の女性がおずおずと進み出て私を小屋の奥で横たわる老婆の元へと案内してくれた。
老婆は弱々しい光を目に宿し、怯えた様子で私を見上げている。見知らぬ女がいきなり現れては、恐れるなというほうが無理な話だろうが。
「ラナ。この人はなんて呼ばれているの?」
「ミア婆さん、よ」
どうせ通じないだろうが、私は第一声を日本語で話しかけた。
「初めまして、ミアさん。あなたを診察させてもらえますか?」
日本語ではラナも理解できない。通訳できずにラナはムッとした顔をした。自分の存在を無視されたとでも思っているのだろう。
次はラナに判るよう英語で指示を出す。
「彼女がこんな状態になってからどれくらい? それから身体の症状には何が出ているの?」
ラナが不機嫌な顔のまま中年女性と話をする。女性は不安を訴えるようにラナに何事かをまくし立てる。その光景はラナの不機嫌な顔以外は、病院の診察室で看護婦に不安を訴えてくる患者の家族にそっくりだった。
「五日ほど前から嘔吐と下痢を繰り返している。今はほとんど水しか口にしていないそうよ。胃の痛みを訴えているわ。それ以外の症状は出ていないみたい。……よく働く元気な婆さんだったのよ」
「他の家族に症状は出ているの?」
「いえ。婆さんだけよ」
女性の訴えている内容を通訳するラナは努めて不機嫌を顔には出さないようにしているようだ。それでも私と一緒に仕事をするのは厭なのだろう。診察にまわり始めてから一度も私の目を見ようとはしない。
ラナからの説明を受けて私は老婆の胸に聴診器を当てた。心音や内臓が蠢く音が拡大されて鼓膜の奥を刺激してくる。馴染んだその感覚の下で私は忙しく頭を巡らせて病名の見当をつけた。
この土地で自生している薬草を確認してあったので、そのなかから目的の薬草の名前をあげてラナにその服用方法を伝える。
「胃腸が弱っているときに、消化しきれないものを口にしたのかもしれない。この薬草は下痢を止める作用があるものと胃の痛みを抑える作用のあるものだから、煎じて食事の度に服用させて。食事は粥のようなものから始めて徐々に固いものに変えるように」
症状の原因となったものまでは、簡単な診察では判らない。だが今後同じ症状が出たときには、彼らは今回の薬草を使って治すことを憶えているだろう。
「こんな草が?」
半信半疑のラナを説得するには薬草の効能を一から十まであげて、なおかつ事例まであげる必要が出てくるだろう。そんな時間をかけてもいられない。
「効果は出るわ。保証する。胃の痛みが収まれば下痢と嘔吐はなくなるはずよ。水分はできるだけマメに取らせて」
不満そうな顔をするラナに通訳させて中年女性に薬草の煎じ方を教えると、私は未だに怯えている患者へと視線を戻した。
「もう大丈夫。必ず治るから」
この場にいる誰にも判らないだろうけど再び日本語で話しかけ、小さく老婆に微笑みかけて立ち上がった。
「ラナ。ここの子供たちはどうしたのかしら?」
私の呼びかけにラナが指を戸口に向けた。
「あそこから覗き込んでいる子たちよ。見えるでしょ」
確かに五~六人の子供たちが戸口の柱に隠れるようにして室内を伺っている。見知らぬ者が自分の住まいにいる不安に駆られて、彼らなりに家族を心配しているのだろう。
「子供は元気そうね。そちらの女性は? 特に問題はない?」
ムスッとした顔のままラナが頷いた。中年女性は至って健康的であったし、子供たちも問題なさそうだ。この家での診察はこれで終わりだ。
「次に行きましょうか」
ラナの不機嫌さを無視して私は小屋から外へ出た。子供たちが驚いたようにワッと散っていく。遠巻きに私を眺めながら囁く子供たちの様子は相変わらずだった。
夏期休暇の静かな大学構内を抜けて敷地を出た途端、足は縫い止められたように止まった。懐かしく、胸の痛む姿が見える。
いつかは来るだろうと予測していたはずなのに、その突然の来訪は一瞬にして時間を一年前に逆流させた。
強ばった舌は痺れて言葉を発することを許さない。
先に呼びかけたのは向こうだった。
「薫……。やっと見つけた……」
すこし癖毛の、獅子のたてがみに似た髪型が微かな風に震えていた。日に焼けた精悍な顔の中で、黒い瞳が燃えるような激しさで光っている。
「よく……ここが判ったね」
動揺に震える声だったがなんとか相手に答えると、薫はようやくしっかりと相手に向き直った。
「竜介やエリックには少々痛い目にあってもらったがな」
自嘲気味な笑みを口元に浮かべて近づいてくる相手に気圧されて、薫は思わず後ずさった。相手の淡々とした口調とは反対に、自分を睨みつけているその瞳は押さえきれない怒りにたぎっている。
「和……」
「なんであんなことした? 相手はお前が手を下すような奴じゃないだろう」
恐いほどの真剣さで瞳を覗き込んでくる相手を拒絶できず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。炎の瞳から目をそらせない。
「俺のためにやったのなら……」
「違う! あんたのためじゃない! あれは私自身のけじめをつけるためにやったんだから」
大声にまばらな通行人が思わず立ち止まってこちらを見ている。さすがに居心地が悪い。
「チッ。……行こう。お前の部屋、この近くなんだろ?」
忌々しそうに舌打ちする相手の声がざらついて聞こえた。こんなに苛立っている様子を見るのはいったいどれくらいぶりだろうか?
「……こっちよ」
薫は先に立って歩き出したが、すぐに隣に並んだ男の顔を極力見ないように俯いていた。
燦々と照りつける日差しは部屋の中の温度を容赦なく押し上げている。慌てて換気ファンを回しながら、窓という窓を開け放つ。
「適当に座っててよ。何か飲み物を入れてくるから」
相手の顔を見ないようにキッチンへと向かおうとした肩が押さえつけられた。
「薫! なんであんな無茶やらかした!」
「放して!」
乱暴に相手の腕を振り払ったつもりだったが、抵抗は相手には通じていない。両肩を掴まれて、むりやりに相手へとねじ向けられた身体が滑稽によじれてた。
「俺の目を見ろ! 自分のためだなんて言い訳するな。お前……本当、は……」
和紀は動揺に思わず口ごもった。目の前では、いつも気丈なはずの薫が声を殺して泣いていた。
意外と細い肩が僅かに痙攣している。その小さな嗚咽を茫然と聞きながら、彼はオロオロとした手つきで思わず薫を抱きしめていた。
「な、泣くなよ。俺、泣かすつもりで責めたんじゃない」
「和紀は……和紀は悔しくなかったの!? あんなバカ理事なんかに……!」
しゃくり上げながら和紀を睨みつける薫の目尻は涙に赤く染まっている。その薫の憤りを抑えるように、さらに抱きしめる腕に力を込めると和紀はそっと囁いた。
「悔しくないよ。……お前は無事だったんだから。なのにお前ときたら……」
ため息混じりの囁き声を耳にすると薫は身体の力が抜けたようにへたり込む。今までの緊張感がいっぺんに抜けてしまったようだ。
ボロボロと頬を伝う涙が彼女を支える日焼けした腕や床に散っていく。
「私は……悔しかった。勝手な思い込みだけで私たちの価値を決める奴らが憎かった! それに乗せられる理事も、PTAの馬鹿な大人たちも!」
「だから理事を罠にはめたのか? 無茶をして……」
床に座り込んでしまった薫を抱き上げると、和紀は部屋のソファへと運んでいき、そこにそっと座らせた。まるで磁器を扱うような注意深い手つきだ。
「薫……」
そっと呼びかける和紀の声は優しい。
顔を上げて相手を見つめる薫はまだ泣き止んでおらず、その瞳からは止めどなく涙が流されている。小刻みに震える肩が時々激しく波打ち、彼女が涙をこらえようとしていることが伝わってくる。
「雪山で俺たち二人が遭難したとき、それにあらぬ誤解をしたのは確かにバカなマスコミとあのイカレた理事だったけどさ。学園の皆は俺たちのことを信じてくれていたはずだ。竜介やエリック、翔やシャーリーだって……」
泣き止まない薫の頬に指を這わせ、幾度も涙を拭いながら和紀は相手を安心させるように小さく微笑んだ。
「俺が学園を出ていくことで不愉快なあの騒動は収まったはずだぞ? それを蒸し返して相手を罠にはめたんじゃ……」
「仕返ししてやって何が悪いのよ! 私たちはそれだけのことをされたのよ!? 和紀だって退学しなくてもいいのに自主退学だなんて、ふざけるにも……ぅん!」
薫の怒りの声が途中で止まる。
自分の身に何が起こったのか判らず薫は混乱した。しかし、それが相手からの口づけで自分の口を塞がれているからだと気づくと、それまで以上に身体から力が抜けてソファへと身を沈める。
「俺は薫が好きだ。……だから、マスコミや理事どもの誤解もあながち嘘じゃないと思っている。あの山小屋で、あと数日一緒にいたら嘘は真実になっていたかもしれないじゃないか」
「嘘よ……」
弱々しく首を振り、相手から目をそらすと薫は両手で顔を覆った。そんなことがあるものか。真実、自分たちの間には何もなかったのだから。
「嘘じゃない。きっとあのままだったら……」
「嘘! 和紀はそんなことしない!」
悲鳴のように甲高い叫び声をあげると薫は相手の言葉を遮った。
認めることはできない。自分は真実をねじ曲げた大人たちに復讐するためにあの罠を張ったのだ。それを根底から覆すような和紀の言葉を受け入れるわけにはいかない。
顔を埋めたまま肩を震わす薫の姿に和紀は途方に暮れたようにため息をつく。
「俺を買いかぶるなよ……。俺だってそこらにいる他の男と変わらない。聖人君主じゃないんだぜ?」
「嘘よ。そんなの嘘……。和紀はそんな卑怯なことしない。今までだって、これからだって!」
「むりやりキスするような奴がか?」
覆い被さってきた相手の囁き声に驚き、薫は顔をあげた。すぐ目の前に和紀の黒い瞳がある。息のかかるほど間近で見た彼の瞳は今までに知っているどんな光よりも凶暴な輝きを湛えていた。
逃げようにもソファに押しつけられた身体は弱々しい抵抗しかできない。
「何をするつもりよ。そこをどいて……」
怯えた声をあげる薫の目の前で和紀の瞳が細められた。まるで獲物を捕獲した肉食獣のような瞳だ。捕らえた相手をこれからどうしてやろうかと思案している残酷な表情。
「どうしようか? このまま噂を本当にしてやるのもいいかもな」
「やだ……。やめて……」
後ずさることなどできないのに、薫は必死にソファへと身体を押しつけた。僅かでも相手から離れるために。
「あのままにしておけば良かったんだよ。やましいことなんてなかったんだから、いつかは俺もお前も笑って逢うことができたはずなんだ。それなのに……お前はそれをぶち壊しちまった。俺が必死に堰き止めていた想いを……」
和紀の指先が薫の顎にかかった。その熱っぽい指先に薫は思わず身震いする。
相手の想いに気づいていなかった。いや、気づかないフリをしてきた。それは幼なじみを失うことだと思ったから……。
「きっと……初めて逢った六年半前からずっとこうしたかったんだ……」
熱い息が顎先にかかった。
それは子供時代への決別のため息だっただろうか? それとも……?
傾いた陽の光が窓辺に置かれた観葉植物の葉の影を長く壁に這わせていた。
赤く澱んだ光が部屋を満たし、気怠げな空気が熱っぽく辺りには漂い続けている。そんな日暮れは初めて迎えたような気がした。
身体の芯から鈍い痛みが襲ってくる。思い通りに動かない体が鉛のように重く感じられて起き上がるのがひどく億劫だった。
首だけ動かして部屋の様子を伺っていると、シャワールームの方角から小さな水音が聞こえてくることに気づいた。まるで家のなかから眺める小雨の降る音を聞いているようだ。
その水音が止まった。カチャカチャと人が動き回る物音が響き、しばらくすると向こう側の部屋の壁づたいに歩いてくる足音が聞こえてくる。
扉の前で一瞬だけ足音が立ち止まったが、すぐにドアノブが動き、静かに人影が入ってきた。慌てて寝たフリをして目を閉じる。
足音の主は息を潜め、そっとベッド脇に歩み寄ってきた。
「薫……?」
かすれた囁き声にも答えずにじっと目を閉じたままでいると、静かに和紀がベッド脇の床に膝をついて顔を覗き込んでいる気配がする。
起きていることに気づかれたくなくて、薄目を開けてその表情を確認することはできなかったが、和紀の気配が沈んでいることだけはハッキリと感じ取れた。
「傷つけたかったわけじゃないのに……。どうして俺はいつも失敗ばかりするんだろうな」
恐る恐るといった手つきで薫の髪を手ぐしで掻き上げながら、和紀は深いため息をついた。指先が微かに震え、それが伝染したように、再度吐いたため息も震える。
「俺を憎んでいいよ、薫……。俺は、お前の期待を裏切った……」
ベッドに横たわる者の顔を見つめていた和紀が、そっと立ち上がった。そして入ってきたときと同じく、静かに部屋を出ていく。フローリングの上を虚ろに響く足音が遠ざかる。
そっと目を開けた薫は暗い影を部屋に作る窓枠の向こうの赤い空を見上げた。
こんな陽光が斜陽という言葉に相応しいのだろう。気怠く、重たく、そして哀しい色をした暮色の太陽が。
何もかもを引き裂いてしまったのは自分だ。沈黙がいつかは傷を癒しもしただろうに、それをこじ開けてしまったのだ。その結果、自分に何が残っただろうか?
「助けて。お願い、助けてよ……」
苦しそうに呻きながら、薫は枕に顔を埋めた。
この息苦しさから開放されるのはいったいいつだろう? 自分の蒔いた種を刈り取れる日はいつくるだろう? 犯した罪を償える日は……?
どんな苦しみも、どんな罪も、いつかは時が癒してくれると言った者は誰だったろう。そんな言葉は嘘っぱちだ。これほどに苦しいのに、この想いが消えてなくなるものか。
いつの日にか、和紀と再会するときがくるだろう。だが決してふざけて笑いあったあの頃には戻れない。怒りに任せてすべてを粉々にうち砕いてしまったのは、自分自身なのだから。
「助けて、和紀……」
夏の夕暮れに吹く生暖かい風が窓から流れ込んでくる。シーツにくるまったまま、薫は自分の肩を抱いた。夕風とは別に、身体の奥底から吹いてくる風で芯から凍えてしまいそうだ。
凍りついていく心の奥で幾度も幾度も助けの声を上げながら、薫は頬を濡らす。今はその涙を拭ってくれる者は現れそうもない。
「和紀……」
自らの手で互いの間に溝を穿ってしまった幼なじみの名を呼びながら、薫は嗚咽を押し殺して肩を震わせた。何にも代え難い過去に想いを馳せ、もはや戻らぬ至宝の時を懐かしんで……。
日が沈もうとしている。西の空は夕焼けで鮮やかなオレンジ色に染まっていた。辺りの街路樹もオレンジのまだら模様にその身を染めている。
南へと真っ直ぐに伸びていく市道の端に、うずくまっている人影が見えた。自分と同じ中学校の女子生徒が着用している見慣れた制服だ。ダークブラウンの上着に、タータンチェックの同系色のスカート。
その制服の後ろ姿は嫌になるほどハッキリと記憶している人物のものだった。
「薫! んなとこで、何やってんだよ」
振り返った薫の顔が強ばっている。今年、中学に入学する直前に、自分の家の隣に越してきた少女の表情には、いつもの気の強さがなかった。
遠慮無しに近寄ってみれば、彼女の目の前には段ボールの箱。さらにその中には子犬が一匹、鼻を鳴らしてこちらを見上げていた。
「和紀……」
「なんだよ、子犬じゃねぇか。誰だ、こんなとこに捨てていった奴は!」
ペットに飽きたとか、面倒になったとかで、簡単に捨てていく奴は後を絶たない。すぐ側に公園もあるこの辺りは、動物好きな人間が犬の散歩コースにしていることもあり、ペットを捨てていく者がよく現れる。
「……ったく。後の面倒ばっかり他人に押しつけて、なんて飼い主だ。……な、なんだよ。なんか俺、悪いこと言ったか?」
不機嫌そうに呟く自分をじっと見つめる少女の真摯な瞳に、一瞬たじろぐ。
「別に」
ぶっきらぼうな相手の口調は、彼女が不機嫌なときによくやるものだ。もしかしたら、癇に障るようなことをうっかりと口走ってしまったかもしれない。
「あっそ。……ところで、どうすんだよ。お前、連れて帰るのか?」
その言葉に傷ついたように顔を歪め、薫が首を振る。子犬に聞かれるのを恐れているかのように立ち上がると、小声で早口にまくし立てる。
「駄目。私のところ、父さんが動物大っ嫌いなんだ。連れて帰ったりしたら、虐め殺されちゃうわ。そんなの可哀想で……!」
「んだよぉ。……うちは母さんが動物の表皮アレルギーあるから駄目だしなぁ」
「もらってくれそうな人、いるかな?」
「さぁねぇ……。俺、学校の荷物家に置いたら空手道場行くから、そこで訊いてみるわ。お前も一緒にくるか?」
物問いたげに首を傾げる薫を無視して、しゃがみ込んで目の前の子犬の頭をなでてやる。
人見知りをしない丸い黒眼がじっと見つめ返してきた。自分の命運を目の前の人間が握っている、とでも思っているのか、神妙なその態度は放っておくことを躊躇わせるに充分だった。
「部外者が行ってもいいの? 入門希望って訳でもないし、ただ単に犬のもらい手を探しにきたってだけだと……」
所在なげに佇む薫の表情は常にない、遠慮がちなものだ。らしくないその態度が、可笑しくて思わず笑ってしまう。
「何、遠慮してんだよ。でかい面して入ってきゃいいさ。どうせ、野郎連中ばっかだしな。美人が行けば、大歓迎だぜ?」
「……美人なんかじゃない」
少々ムッとした表情になって薫が反論してきた。さらに混ぜっ返してやりたくなったが、彼女の眉間に寄せられたしわを見て、思いとどまる。いつもの気の強さがなりを潜めた薫の顔からは、孤独感が滲んでいたから。
「まぁ、どっちでもいいさ。道場の連中なら、俺たち中坊みたいに家族に聞かなきゃ、なんてこと言わなくても、犬の一匹くらいもらってくれる奴いると思うぜ?動物好きな奴だっているだろうし……」
どうする?と首を傾げて相手の表情を見る。困惑した表情のまま、薫が頷くのを確認すると、再び子犬の頭をなでる。くんくんと鼻を鳴らしていた子犬がベロリと指を舐めてきた。
「うわっ! 気安く舐めんなよ。さっきハンバーガー買い食いしたから、匂いでも残ってんのかな? ……腹減ってんのか、お前?」
じゃれつかれて思わず指を引っ込めると、残念そうに子犬が喉を鳴らす。その様子を見守っていた薫が小さな笑い声をあげた。
「あんたの指、餌と間違えられてるんじゃないの?」
子犬を抱き上げた薫が、微笑みを子犬へ向ける。徐々に日が沈みかかっているこの時刻、彼女の表情を辛うじて判別できるだけの光源しかない。
それでもその横顔を見ていると、やはり美人の部類に入る整った顔立ちをしているように思える。いや、有り体にいうならば、かなり自分好みの顔をしていると言っていいだろう。
「……どしたの、和紀?」
「い……いや。なんでもない。俺、胴着取ってくるから、お前も学校の鞄置いてこいよな。それから、おばさんに行き先伝えておけよ。遅くなるだろうし……」
動揺を悟られていないかと、思わず早口になる。しかし、当の相手はまったく気にかけてはいないようだった。彼女の関心は子犬にだけ注がれている。
「え……? もらい手が見つかったら、すぐに帰るよ?」
子犬の頭をなでながら、驚いた表情で見返してくる相手を軽く睨む。
「お前なぁ。これから道場に行けば、着く頃には真っ暗だぞ?いくらお前が気が強いったって、女一人で帰せるかよ。んなことしたら、俺が母さんに絞め殺されちまう」
わざとおどけて自分の首を絞めてみせると、薄闇のなかで相手が小さな笑い声をあげた。
「おばさんなら、ホントに怒りそうだよね」
「だろ? ……んじゃ、行くか。そのチビ、段ボールごと運んだほうがいいぞ。たぶんなかの毛布、今まで使っていたやつだろうから」
「うん……。ところで、道場って何時まで?」
連れだって歩き始めると、段ボールのなかから子犬は二人を交互に見比べては、鼻をひくつかせて甘えた鳴き声をあげ続けた。
ポツンポツンと建っている街灯が、弱い光を辺りに放ち始める。子犬の鳴き声と、互いの話し声しか聞こえない。静かなものだ。
「たぶん、八時くらいだよ。いつも早組はそれくらいで上がるからさ。それに、遅組とも顔を会わせるから、飼い主探しには好都合だろ」
「そっか。わかった。それじゃ、準備してくるわ」
納得した顔で頷く相手が清しい笑顔を向けてきた。それに一瞬見とれたが、駆け出そうとした薫を慌てて呼び止める。
「お……おい。そう慌てるなってば。俺だって準備があるんだからさ」
チラリと振り返った少女が口を尖らせる。不満そうな表情が、いつもの大人びた印象を和らげた。
「和紀は着替えるのすぐでしょ? 私は時間がかかるのよ!」
「んなモン、適当なもの着ていけって! どうせ、その段ボール抱えて行くから汚れちまうぞ」
いっそう頬を膨らませて睨んでくる相手を同じように睨み返す。その剣呑な雰囲気を悟ったのか、子犬が再び甘えたように鳴き声をあげた。
「チェッ……。犬になだめられてりゃ、世話ねぇぜ。あぁ、もういいや。俺が犬連れて行くから、お前着替えてこいよ」
薫が抱き上げていた段ボール箱に手を伸ばす。
間近に少女の顔があった。ふと、鼻をかすめる甘い香り。そして、無意識に手と手が一瞬だけ触れ合う。
「……!」
刹那……指先に電流が走った。思わず顔が強ばるが、薄暗いなかでは、相手の表情はほとんど確認できない。
「じゃ、着替えてくるから。この子、お願いね。あ、そうだ。母さんが今日の夜食用にサンドイッチ作ってくれてるんだ。それも持ってくるわ。道場に行きながら食べよ! ……ハンバーガーだけじゃ、足りないでしょ?」
「あ……あぁ」
動揺して返事の声が上擦っている。薫はまったく気づいていない。
パタパタと軽快に走り出した少女の背中は、すぐに薄闇の向こうへと消えていった。彼女はまったく今の電流を感じなかったのだろうか。あんなに激しく身体中を駆け巡っていったというのに。
今も指先は震えている。その甘い痺れに鳥肌がたつ。心臓の動悸が早い。喉がひどく渇いた。
くぅん……と小さく鳴く子犬の声に、ようやく我に返って歩き出す。ぎこちない歩調は、さきほどの痺れの名残か?
「お前、薫に見つけてもらって良かったな……。変な奴に見つかってたら、虐められて酷い目に遭ったかもしれないんだぞ」
甘えた鳴き声をしきりと漏らす小動物に小さく声をかけながら、街灯が照らし出す道を歩く。単調な帰り道のはずなのに、胸のなかがざわついた。
甘く、どこか痛みを伴うそのざわめきが愛しくて、つい顔がほころぶ。
「なぁ。薫の家のサンドイッチはさ……、けっこう美味いんだぜ? 新鮮な卵とハム、それから庭で採れたパセリを入れた卵サンドに、熟したトマトとレタス、薄切りにした鳥の照り焼きに特製ソースを塗ったサラダサンド。お前も食べさせてもらえるかもな」
痺れた指先に僅かに力を込め、しっかりと段ボールを抱え直した。
家々の明かりと街灯を頼りに進む道の先に、他の家から少し離れて、見慣れた外観の家が二軒見えてきた。
自分と……薫の家だ。見れば、二階の彼女の部屋に明かりが点っている。きっとタンスをひっくり返して、着ていく服を選んでいるに違いない。
家の屋根の上、南の空にはとうに星が出ていて、ギラリと鋭い瞬きを地上へと放っていた。西の空も同様だ。太陽の最後の残光が消えれば、さらに星の輝きは増していくのだろう。
「お前、新しい飼い主に可愛がってもらえよ?」
大人しく自分の顔を見上げている子犬に小さく微笑みかけた後、歩調をあげて家へと急いだ。道場へ行く支度をしなければならない。
家の門についたところで、再び薫の部屋を見上げてみる。まだ電灯の光が弱々しく漏れていた。
眉間にしわを寄せて、衣装選びをしているであろう少女の顔を思い浮かべると、胸が暖かくなってきた。その温もりは、きっと、いつまでも胸の奥底で輝く明かりになるだろう。そんな予感がした。
「ただいま~」
小さな電子音が響き、セキュリティーロックが音声に反応して解除された。金属製の玄関扉を引き開け、玄関ホールへと滑り込む。
母親は仕事から帰ってきていないらしく、家の中はガランとしていた。いつもなら一抹の寂しさを感じるのに、今は先ほど感じた胸の温もりが消えない。その暖かさをもっと強く感じようと、段ボールをそっと抱きしめた。
「好き……なのかな? でも、あいつの好きな奴は俺じゃねぇんだよな……」
見下ろした子犬がクゥ~ンと喉を鳴らす。その小さな頭をそっと撫でてやりながら、玄関に設えられている鏡をじっと見つめた。
十三歳の少年の顔がそこにある。子どもから大人へと変わっていく課程の、まだ半人前のその顔が鏡の向こうから自分を見据えていた。
「やっぱり……好きなんだよな?」
誰に問うでもなく呟いた声を聞いている者は腕の中の子犬だけだった。
いつものように猫が歩く
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ
いつもの場所で立ち止まる
朝靄のなかに溶けながら
異形の友のねぐらの前に
清けき音色で鈴が鳴る
主なき犬小屋に
声無き声で呼びかける
鈴音とともに猫がいく
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ
人の気配がした。なぜだか気になって足音を消して近づく。どうしてそんなことをしたのか、自分自身にも理解し難いことだったけれど。
近づいていくにつれ、話し声が聞こえてきた。ひそひそと囁かれる声が意外に大きく響く。
このまま廊下を歩いて行き突き当たりの角を曲がったら、鉢合わせになるだろう。なぜかその人物たちと顔を合わせることが躊躇われ、角部屋の襖を開けると中へ滑り込んだ。
襖を閉じても部屋はぼんやりと明るかった。月明かりが障子越しに差し込んでくるからだ。
真新しい障子に人影が映っている。煌々と照らす月光がその輪郭をハッキリと浮き上がらせていた。
二人の男の影。見慣れた特徴のある体格だった。耳を研ぎ澄ませば、聞き馴染んだ二人の声がすぐ耳元で話をしているように聞こえてきた。
「お前は薫に冷たすぎるんだよ」
「どこが? 僕は女嫌いだって言ってるだろ。僕にしては最大限譲歩してるつもりだけど?」
「何言ってやがるんだよ。……薫はお前のことが好きなんだぞ。少しは解ってやれよ」
鼻で嗤う気配が伝わってきた。相手の言い分が陳腐なものだと言っている。堂々巡りを繰り返している押し問答に嫌気が差しているらしい気配もする。
「僕は女の考えていることなんか理解したくもないね。だいたい和紀!お前がだらしないからだろ。いつまで半端な関係でいるつもりだよ。やることやってるんだから、さっさと薫をさらっていけ!」
「そんなことできるか!? 薫が好きなのは俺じゃなくって、お前だって言ってるだろうが。なんでそれがわかんねぇんだよ、竜介!」
思わず大きな声になり、夜のしじまに大きく反響した。二人は慌てて口を閉ざし、辺りの気配を伺っている様子だ。人が近づいてくるような気配はしない。それに安堵したらしく、二人は同時に小さな吐息を吐いた。
どちらからともなく廊下に巡らされている欄干に寄りかかる。同じように障子の影法師も欄干の影に絡まる。巨大な寺院に相応しい頑強な造りの欄干なのだろうが、影からは推測することは不可能だった。
「僕に過大な期待を寄せるなよ。薫が僕を好きだったのは高校時代の初め頃だけ。それもほとんど気の迷い! 今はなんとも思っちゃいないよ。薫と寝てるお前のほうがよほど釣り合いがとれるだろうに」
「薫は俺のこと、男として見てねぇよ。俺たちは友人以上の関係だろうけど、恋人じゃねぇんだから。俺が薫と寝てるのは、仕事の成功報酬だからだ」
「……ふん。だらしのない奴。昔っからお前は薫の尻に敷かれてるんだから。見てるこっちがイライラするよ」
口調にはあからさまな嘲りの色が含まれていた。それに腹を立てたのか、影の一つが欄干から離れ、苛立った様子で廊下を歩きさっていった。
長い回廊の向こうへと足音が消えるまで、残りの影は動かなかった。
「まったく……。いつまでたっても……」
忌々しげに舌打ちした影が言葉尻を濁した。
そして何を思ったのか、欄干にヒョイと腰をかけると忍び笑いを漏らす。まるで悪巧みを思いついたようなその笑い声が収まったとき、空を流れていた雲が月にかかり、その銀盆の姿を下界から遮ってしまった。
「いつまでそうしているつもりだよ。……出ておいで」
スゥッと音もなく開いた障子から姿を現した者を予想していたらしく、欄干の上から再び忍び笑いが聞こえた。
「竜……。なんで和紀を焚きつけるようなこと言うのよ」
「事実だろ? 薫だって内心ではそう思ってるんじゃないの?」
「関係ないわよ」
「嫌だねぇ。二人揃って意固地なことったら……。僕を巻き込まないで欲しいんだけどな。薫のこととなるとあいつはめちゃくちゃだよ。自分でも何をしてるか判ってないんじゃないの?」
鋭い視線で睨む相手の怒りをスルリとかわすと竜介が再び口を開いた。
からかっているのか、それとも警告しているのか。あやふやな印象を与える口調は、彼の内心を隠して決してそれを掴ませない。
「あいつの兄貴に遠慮してる? 確か、綿摘正紀は薫の初恋の人だったよな。それとも……例の、あの事件を未だに引きずっているわけ?」
「どれもこれも大昔のことじゃない。もう忘れたわよ」
「どうだか。薫……。母親の亡霊に取り憑かれているのは勝手だけど、ほどほどにしとかないと和紀に愛想尽かされるぞ。もっとも僕の場合は母親の生き霊に取り憑かれているんだから、君のこと言えた義理じゃないけどさ」
腰掛けていた欄干から飛び降りると竜介は肩越しに空を見上げた。雲に覆われた月は顔を見せない。
星明かりのなかで続けられた会話の真意が隣に立つ薫にどこまで通じたのか判らない。黙りこくっている彼女の気配からはそれは読みとることはできなかった。
「じゃ、お休み。僕も持ち場に戻ることにするよ」
竜介が背を向けて歩き始める。暗い廊下の向こうに消えかかったその背中へ「おやすみ」と女の声が追いついた。それに片手を挙げただけで答えると、彼は振り返ることなく暗闇へと消えていった。
二人の男たちが消えた後は、ひどく空虚に感じる。身体が空っぽになったように軽い。
まるで風に押されるようにフラリと欄干に寄りかかると、薫は暗い空の隙間から覗く星たちを見上げた。月が翳っている今の状態だと、星は鋭い光を放ち、地上に銀糸の光を落としていた。
「自分の中に流れる血が許せない……。そんな人間が誰かを好きになってもろくな事はないわ」
自嘲に満ちた声が夜気を震わせた。その声に呼ばれたように雲間から月が顔を覗かせ、星の光を駆逐する。
星の銀光はすっかり色あせ、青白い月光が闇を洗い上げていった。まるで初めから月の光しか存在しなかったかのように……。
薫は頭の中から嫌な記憶を振り落とそうと首を振った。それでも抜け落ちない。忌まわしい記憶たちの奔流から逃げ出すように、和紀の歩き去った回廊へと走り出した。
思い出したくない。消えてなくなればいい。……できることならば、自分自身の存在さえも。
部屋の入り口に取り付けたチャイムが不機嫌な声を張り上げている。ひっきりなしに鳴くその叫びに急かされて、起き上がろうともがいた。
しかし身体は言うことを聞かなかった。
ガチャガチャとノブが喚いている。あんなに乱暴にしたら壊れるかもしれない、とバカげた考えが一瞬頭を過ぎった。
考え事をするだけでも頭がガンガンする。何も考えずに眠っていたかった。放っておいてくれないだろうか? うるさくて、眠れない。
ガチャリと鍵の外れる音がした。それを朦朧とした意識のなかで聞きながら、ウトウトと眠りの淵へと落ちていく。
「薫……!?」
聞き慣れた声が天井から降ってくる。でも、眠くて……目を開けるのが億劫だ。
「おい。大丈夫なのかよ? 薫……あ!? ひでぇ熱!」
ひんやりとした手が額にあてがわれると、すぐに素っ頓狂な声があがった。
瞬く間に冷たい手が生温く感じるようになり、その手が外されると、慌てた足音が遠ざかっていく。
何も考えたくなくて、うつらうつらとしていると、額にまた冷たいものが押し当てられた。柔らかい感触……。布地のようなものだった。冷たくて気持ちいい。
熱で身体が蒸発しそうだったけれど、これで少し落ち着くかもしれない。
眠たくて開くことも億劫な瞼を無理に押し開いて、自分の顔を見下ろしている人間の顔を見ようと目を凝らした。でも熱に視界が霞んでハッキリと輪郭が見えない。誰だろう?
「なんだ? ……どっか辛いとこでもあるのか?」
心配してかけられる声が耳に優しかった。その声に安心して再び目を閉じる。
すぐに睡魔が襲ってきた。白濁していく意識の隅で、先ほどの声を追いかける。もう一度、その声を聞きたくて、記憶のなかに紛れ込んだ声の断片を探しまわった。
「薫……? 眠ちまったのか?」
囁き声が聞こえる。それに答えようとするが声が出ない。眠りに支配されていく身体は自由にはならなかった。
「まったく。心配かけやがって……」
声がひどく間近から聞こえた。
「男が部屋ン中にいるんだぞ? いつもみたいに叩き出してみろよ?」
鼻先に息がかかった。次いで、自分の頬を誰かの指がなぞっていく感触……。なんだか、むず痒い。
首を振って避けようとするが、本当に身体はピクリとも動かなかった。
「薫……」
熱のこもった声が掠れた。そして、唇の上に温かい感触を感じる。潜めた息づかい。自分の顎に添えられた生暖かい指先……。
それらがふいに遠ざかった。まるで悪戯を見つかった子どもが逃げ惑うように……。
「俺ってサイテー……」
自己嫌悪にささくれだった声がなぜかとても寂しく聞こえてきた。腕を差し伸ばしてやりたいのに、それは叶わず……。遠ざかってしまった気配に頼りない気分になる。
胸が痛んだ。ジクジクと血を流しているように……胸が痛んだ。
足早に廊下を歩いていった先に煙を吹かしている人物が見え始めた。ぼんやりと月を見上げている横顔に孤独がにじんでいるように見えてひどく胸がざわつく。
思わず立ち止まって、その横顔に魅入ってしまった。
その横顔がふとこちらを振り返り、ギクリと顔を強張らせた。くわえていた煙草を慌てて手持ちの携帯灰皿で揉み消す動作がぎこちない。
「また煙草を吸っていたのね。そのうちに肺ガンで死ぬわよ」
「大きなお世話だよ」
舌打ちをして顔を歪めた和紀の顔には、つい今し方まで浮かんでいた孤独はなかった。
「なぁ、薫……」
「……側に寄らないでよ。私が煙草の匂いが嫌いなの知ってるでしょ?」
今の和紀に近寄りたくはなかった。しかし自分に割り当てられた部屋の入り口は和紀の立っている場所の真正面だ。結果的には自分から相手に歩み寄っていく形になる。
だが建物の周りをぐるり一周囲んでいる回廊は一間(※約1.8m)ほどの広さがあり、かなりの間隔を開けて相手とすれ違える筈だった。
それなのに、吹きつける風を肌に感じたときには、相手の腕のなかにいた。
月を背にして立っている相手の顔は翳り、表情をハッキリと確認することはできなかった。微かな煙草の匂いに目眩がした。鳥肌が立つ。
「部屋に入れてくれないか……」
「厭よ!煙草臭くなるじゃない!」
「成功報酬が欲しいんだけどな」
「……何言ってるのよ。まだ仕事は終わってないわ。明日、無事に桜華(おうか)たちを送り届けたら終わり!最初に言っておいたでしょ!?」
自分を抱え込む腕を振り払おうともがく。それほど相手の腕に力が込められているわけではなさそうなのに、逞しい腕は離れなかった。なぜか息苦しい。
「和紀!」
相手に自分の不快感を伝えるために、わざと不機嫌な声をあげる。その声に反応して、相手の肩が小さく震えた。
荒い息遣いが聞こえる。強引に部屋に入ってくるつもりなのだろうかと、相手の出方を伺うが、そんな様子はいっこうに見えなかった。
「薫……」
耳元で囁かれた声が熱かった。背筋に電流のような痺れが走る。それを相手に気取られることが恐ろしく、闇雲に相手を突き飛ばした。
呆気なく拘束が解かれ、互いの間に人一人分の空間が空く。自分の過剰な反応に相手が驚いている気配が伝わってきた。その先を読まれることが怖くて足が竦む。
「薫……?」
そのとき、何の前触れもなく月が翳った。まるで自分の見られたくない心を押し包むように……。
星明かりのなか男の首に自分の腕を絡ませた。動揺に相手が息を飲む気配が腕越しに伝わってくる。相手がどう思っているのかなどかまっている余裕はなかった。素早く背伸びをし、その唇に自分の唇を押しつける。
それに相手が反応する前に腕を振り解くと、薫はきびすを返して部屋へと走り込み、後ろ手に障子を閉め切った。
待っていたかのように月の光が障子越しに射し込み、閉じたその障子のすぐ向こうにいる男の影を映しだす。
その影のなかにすっぽりと収まっている自分の影を見つけたとき、不意に薫の頬を涙が伝った。
「薫……!」
「入ってこないで! 契約違反よ!」
泣いていることを気取られなかっただろうか? いつも通りの声だっただろうか? そんなことを考えながら、薫はその場に座り込んだ。
涙がいっこうに止まらない。声を殺すために両手で口を塞いだ。それでも嗚咽が溢れる。
「薫……お前……」
「入ってこないでったら!」
ヒステリックな声音は逆効果だと頭のどこかで警鐘が鳴った。だがその警告よりも先に言葉のほうが溢れ出ていた。
「一人にして! お願いだから……」
だがその言葉は聞き入れられなかった。乱暴に引き開けられた障子の隙間から月光が洪水のように部屋のなかを満たす。人型に切り取られた影だけが光の浸食を阻んでいた。
その影が小さく収縮していき、部屋のすべてが月光に染まると、薫は温かい腕のなかに収まっている自分を発見した。
「放して……」
「厭だ」
抱きしめられていた腕に力が込められた。痛いほどに強く……。
「やっと捕まえた……」
再び耳元に落ちてきた囁きに身体が竦んだ。逆らおうとしたが手足に力が入らない。首筋にかかった温かい息に身体が小刻みに震えた。新たな涙が頬を伝い落ちていく感触。その頬を生暖かく柔らかいものが這っていった。
「今度こそ逃がさない……」
男のほうの声も震えていることに気づいて、なぜかホッとした。なぜそう思ったのか……。薫はもう嗚咽を漏らしてはいなかった。涙も止まった。身体も震えてはいない。
「……逃げるわ。これは月の光が見せた幻。偽りの……」
言葉の最後は塞がれた口のなかで行き場をなくして萎んでいった。相手には伝わったのかもしれない。最後の言葉がなんであったのか。
それを確かめる勇気は今はなかった。伝わっていないことを祈りつつも、自分の考えていることなど相手には筒抜けであろうことは判っていた。
肩を掴まれ、仰向けに畳に押しつけられた。男の表情は逆光で見えない。
「逃げたければ逃げろ。俺はどこまでも追っていくぞ……」
間近で囁かれた声から顔を背ける。暗がりで光る瞳を覗き込んだら、それですべてが終わってしまいそうな気がした。
そんな終わり方は卑怯だ。相手に対しても、自分に対しても……。
でもいつかは終わりがくる。
その終わり方がどんなものであれ、きっとそれは唐突に訪れて、有無を言わせずに結果を押しつけてくるのだろう。自分の望みさえ見失っているというのに、それは確実に訪れる。それでも、まだ……終わらせたくはない。
「逃げるわ……。ずっと遠くへ。追ってきたければ追えばいい」
薫の囁き声に対する答えは男からは返ってこなかった。見下ろしている視線だけを痛いほどに感じだ。空気を焼き尽くすような激しい痛みだけを伴う視線だった。
肩を押さえつけていた和紀の手が弛み、離れていく。そのまま部屋を出ようと、背を向けて立ち上がる。
そこで一瞬動きが止まった。操り人形のようなぎこちなさで、畳に横たわる薫を振り返る。
「……どうして俺じゃ駄目なんだ?」
「他の誰でも同じよ」
返ってきた答えに納得したのか、それとも失望したのか……。月光を背にしているその表情を読みとることはできなかった。
フラリと入ったコンビニの片隅にプライスダウンブックを見つけ、何冊かの雑誌の表紙をぱらぱらとめくった。
最新号が発売されたために、価格を下げて販売されている本たちは、申し訳なさそうに小さくなってこの一角に縮こまっている。ゴシップ雑誌はともかくとして、上質な絵本を思わせる表紙の文芸誌まである。
時間から置き去りにされた感が否めないコーナーだった。
まるで今の自分のようだった。
普段はあまり目を通さない文芸誌を手に取り、中身をパラパラとめくっていると、一つの詩篇が目に留まった。
偶然だった。素人の詩の投稿コーナーで、名前は匿名希望になっており、どこの誰が作ったものとも知れない作品だ。
いつものように猫が歩く
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ
いつもの場所で立ち止まる
朝靄のなかに溶けながら
異形の友のねぐらの前に
清けき音色で鈴が鳴る
主なき犬小屋に
声無き声で呼びかける
鈴音とともに猫がいく
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ
奇妙な取り合わせだった。犬を訪ねてくる猫……。まるで性質の違うそれぞれの生き物が友というのはどうかと思ってしまうが、居なくなった相手からの反応をジッと耳を傾けて待つ猫の姿を想像して胸がざわついた。
特に何かを買おうと思って入ったわけではなかったが、手に取ったその雑誌をレジまで運んだ。そのまま雑誌を棚に戻すことがどうしてもできなかったのだ。買ったからといって、目を通すとは限らないのに。
コンビニから出たところで、見知った顔がこちらに駆けてくる姿を目にして立ち尽くした。別に何をしたというわけでもないのだが、なぜか顔を合わせずらかった。原因は判っている。
「薫……!こんなとこで何してんだよ。まだ熱があるだろうが!さっさと部屋へ戻れよ」
頭ごなしに怒鳴りつけられ、思わず首を竦めた。
気分転換に近所のコンビニにきただけなのだが、病み上がりで出掛けるのは無謀だったろうか? 腕に抱えた袋を抱きしめたまま、恨めしそうに相手を見上げてしまう。そんなにガミガミ言わなくてもいいと思うのだけど。
「……なんだ、本買いにきたのか。言えば代わりに買いにきたのに。ほら!もう行くぞ」
「どうして私にかまうのよ。放っておけばいいじゃない。寮のみんなはとっくに帰郷してるのよ?」
手を引かれて歩きながら囁いた声に相手が立ち止まった。また怒っているのか、握っていた手に力が込められた。熱で火照った自分の手から相手の手に熱が伝染したように、一瞬相手の掌に激しい熱が籠もったように感じる。
「俺が居たら迷惑か?だったら俺も実家に帰るけど……。でも、今のお前は病人だぞ。寮母だって自分の家の大掃除でお前にばっかかまってられないんだから、俺一人くらい居たっていいだろ?俺のほうは親に今年は帰れないって言ってあるし……それに、おふくろもお前のこと心配してんだからな」
「私なら一人で平気なのに……」
「嘘つけ!この二日間、熱だして起きあがれなかったじゃないか。まったく、医者になりたいって言ってる奴が、そんなことでどうすんだよ!」
「医者……か。もうどうでもよくなった感じ……」
投げやりな言葉に相手の顔が険しくなった。
それは非難しているというよりは、何もできないもどかしさに焦っているようだった。どう言えば、自分の気持ちが伝わるのだろうかと考えあぐね、答えを見出せずにいる苛立ちが握った手からジンジンと伝わってきた。
「早く帰ろう……。ちょっと寒くなってきた」
今度は自分が先に立って歩き始めた。すぐに相手も隣に並んだ。
「どうして私にはお母さんの血が流れてないんだろう……。どうしてあんな女の子どもなんだろうね……」
「薫……」
辿り着いた寮の玄関でセキュリティチェックを受ける。その電子音が今日はやけに耳障りだった。
何も考えたくはないのに、思い出すのはここ数日間の記憶の断片ばかりだった。寝込んでいたときのほうがマシだったくらい。熱のせいで何も考えなくて済んだのだから。
「どうしてお母さんは愛人が産んだ子どもなんか引き取ったんだろう。私を見る度に、厭なことを思い出すだろうに……。何も……何も教えてくれないまま、死んじゃうなんて……」
黙ったまま手を握り返してくる相手の手の温もりが心地よかった。それでも、凍えた自分の心を溶かすことはできなかった。それを溶かせるのは自分自身だけ。でも今は駄目だ。凍てつき鋭く尖ったまま……。
「お父さんも……あの女も許さない……。お母さんが死んだのは、あの二人のせいなんだから」
「薫……」
「心配してくれてありがとう、和紀……。私、大丈夫だよ。死んだりしないから……。お母さんの後なんか追ったりしないから。……一人で、大丈夫だから」
そう……。朝靄のなかでジッと耳を澄ます、あの白猫のように、一人で生きていけるようにするから……。
母が私に注いだのは、偽りの愛情だったのだろうか……? 私が和紀と一緒にいるのは、なんのためだろう?
見つけられない答えを探している私の心は今も凍てついたまま。時折吹きつけてくる温かい息吹に、立ち止まることはあっても、引き返すことはないだろう。
彼に孤独を与える自分の罪を忘れない。自分のなかに流れる忌まわしい血の記憶がある限り。彼の優しさの上に胡座をかいて、甘えている自分の弱さを許さないように、未だに一人で立つことができない自分の罪を決して忘れはしない。
終わり
「じゃ、行ってくるよ」
「また海? 兄貴も飽きないねぇ」
「何言ってるんだ。サーフィンはこれからが本番だろうが」
「はいはい。行ってらっしゃい。気をつけてな」
「おう! じゃ、な」
それが、最後だった。
俺は十四で、兄貴は二十一。俺の記憶に、これ以降の兄貴の声は存在しない。
けたたましい電話のベル。すすり泣く風の声。……そして、潮騒の雄叫び。ぽっかりと空いた記憶の空白を埋め尽くすのは、そんな音の騒乱だけだった。
「おばさん。……和紀、上ですか?」
「まぁ、薫ちゃん。来てくれたの。……えぇ。ずっと籠もりっぱなし」
「ちょっと、いいですか?」
「遠慮しないで上がって。あなたの言うことなら聞くかもしれないわね、あの子。様子を見てきてもらえる?」
少しやつれた顔をした女性がスリッパを揃えながら微笑んだ。その寂しい微笑に頷き返した後、少女は足早に二階に上がっていった。
見慣れたドアの前で少し躊躇う。しかし、思い切ってノックをする。なかからの返事は、なかった。
そっと扉を開ける。夕暮れどきの薄暗い部屋には、昼間の熱気が歪んで重く沈んでいた。ベッドに背を預け、膝を抱えてうずくまる人影が見える。
何も言わぬまま薫は静かにその傍らに歩み寄り、そっと相手を見下ろした。相手の肩が微かに震えている。
「和紀……」
ビクリとその震えていた肩が大きく波打った。ゆっくりと上がった顔のなかで、瞳だけが涙に濡れて光っていた。
「薫……」
囁くような声が自分の名を呼ぶのを確認すると、少女は脇のベッドに腰掛けて、震える少年の肩に手を置いた。
「私……正紀さんのこと、好きだったよ……」
「うん……」
頷いた少年の眼からまた一滴の涙がこぼれた。
「まだ……信じられない」
「うん……」
徐々に暗くなっていく部屋のなかにすすり泣きが響いた。それは、どちらの声だったろうか。長いような、短いような時間のなかで、時折にあがるその声だけが、緩やかな時間の流れを教えていた。
「正紀さんのこと……忘れちゃ駄目だよ」
囁き声に答える者はなかった。
「あんたが思い出すたびに、正紀さんは生き返るんだから」
日が暮れて暗闇に包まれた部屋では、相手の表情は解らなかった。
「正紀さんの分まで、ちゃんと生きるんだよ」
震える手が少女の手を握り返してきた。それが精一杯の答えだった。それ以上の答えを返すことなど、できなかったのだろう。
「あんたが生きてる限り、正紀さんは死なない……」
再び小さな嗚咽が聞こえた。
宵星が窓の向こうに輝く。遠くから響く車の走行音が、潮騒のように、この部屋のなかへとうち寄せてきた。
海の見える丘に立つと、視線の先にある灰色の墓標たちは蒼く拡がる海と空に胸を張って立っているように見えた。
髪を吹き流す潮風に、微かな秋の匂いがした。霊園の片隅にひっそりと佇む一つの墓石に歩み寄り、その前に跪く。
「兄貴……。ただいま」
小さな墓標は何も答えてはくれなかった。初めから、そんなものに期待はしていなかったのだろう。男は手慣れた様子で花を飾り、線香を手向けた。
淡々とした静かな時間だけが過ぎていく。
ヒュゥ……と笛の泣き声のような風が、辺りの木立を吹き抜けていった。
「俺、やっぱり親不孝かな? ……兄貴なら、どうするだろう?」
風で吹き散らされた線香の細い煙が、再び糸のような弱々しさで天へと立ちのぼっていく。その軌跡を目で追いながら立ち上がった男は、諦めたような溜息をついて苦笑した。
「俺は、兄貴ほど賢くないからな。……他の方法が思いつかないんだよ」
ほんの一瞬。男の顔になんとも言えない複雑な表情が浮かび、消えていった。
「じゃあな、兄貴。また、来るよ」
囁くような声で別れを告げると、男はもう後を振り返ることなく霊園の階段を登っていった。
「待たせたな、竜介」
登り切った先に、大きな桜の木があった。その下で所在なげに佇む男に声をかけると、足早に近づく。
「もういいのかい、和紀? ずいぶんと早いな」
「想い出に浸るほど、センチじゃねぇよ。行くか?」
「あぁ……。薫の奴が待ってるからな。遅れるとうるさい」
駐車場に止めておいた車に乗り込み、無造作にキーをひねる。低重音のリズムでエンジンが唸りをあげ、潮騒のざわめきを掻き消す。
堤防沿いを滑るように走り出した車の右手に広い海原が見え隠れする。近くに迫っている岬の陰から躍り出てきた白い船影が、視界の隅をかすめていった。
ボォゥッっと霧笛の音が車窓越しに響く。チラリと目をやれば、先ほどの船が貨物船とすれ違うところだった。
再び霧笛が哭ないた。
忘れるな、と叫んでいるようだった。……忘れるな。ここにいるぞ、と。
(忘れるものか……)
とっくに死んだ兄の歳を追い越しても、なお、自分の兄は綿摘正紀わたつみまさき以外にいないのだ。
道が大きく左にそれ、視界から海の青さが消えた。潮騒の音も、磯の香りを運ぶ風も、もう届かない。低く唸るエンジン音とともに潮風の街を走り抜けながら、亡き兄の日に焼けた笑顔を思い出す。
そう、海の蒼さを見ると思い出す。潮騒の囁き、風の奔流。
消えぬ哀惜の念。
わだつみに消えた兄への弔鐘を打ち終わる日は、まだ……来ない。
終わり
「お前……! いつ、日本へ……」
藤見と呼ばれた男の声が今度こそ動揺しているのが判る。今までビクともしなかった男とは思えない。
聞き馴れた葛城の声とは違う、大人の女の声が夜の空気を震わせる。
「いつだって、お前が桜華に手出ししそうなときには帰ってくるさ」
オレは自分の窮地を救ってくれたらしい人物を見上げた。月明かりに薄く照らされた顔の半面が藤見を凝視していた。
「随分と手荒なことをしてくれたね。タダじゃおかないよ」
「か、薫さん……!」
葛城の声が聞こえた。彼女はオレを抱きかかえるようにして座り込んでいる。安堵感が葛城から漂ってくる。
そうか。この人物が葛城の言っていた結城薫か。
オレは自分の立場も忘れて、目の前の人物を観察した。
葛城と同じような茶髪に目鼻立ちのハッキリした美人だ。彼女の顔を見ていると、美術の教科書などに載っているギリシャの女神像が連想される。
引き結んだ唇には強固な意志が感じられた。鋭い眼光には、妥協を許さない力強さが漲っている。ただの一睨みで藤見の気勢を削ぐ辺りは並の男より強く見える。
やはり葛城が絶対の信頼を寄せる人物だ。
小石を右手で弄びながら、女は駐車場の入り口からゆったりとした足取りで近寄ってきた。
今気がついたが、藤見はオレを締め上げていた右腕を押さえていた。彼女が小石を投げつけて負わせた怪我なのだろう。
「蓮華になんて言って言い訳するつもりだい? ……ふざけたことをしてくれたね。お前のお遊びにつき合わされる桜華の迷惑を少しは考えたらどうなのさ!」
「う、うるさい! お前なんかに指図される覚えはないよ。第一、蓮華はこの事は知らないんだ! 言い訳も何もあるもんか!」
突如現れた女の言葉に藤見が動揺して半歩下がった。
今までの冷徹さが蔭を潜めた彼の横顔はわがままな幼児のようだった。実際、藤見は成長しきっていない子供と同じなのかもしれない。
「蓮華が知らないって? お気楽なヤツ。だからお前らはいつまでたっても天承院を継げないんだよ! ……出といで、蓮華!」
女の落雷のような声音に藤見は飛び上がった。
「蓮華……!」
一人の男に伴われて、昼間に会った女性がフラフラと姿を現した。昼間に見た哀しげな表情が浮かんでいた。
「藤見……。なんてことを……」
藤見と同じ顔立ちの女性が泣きそうな顔をして囁いた。黒絹の髪が月光を反射して輝いている。
「お前らが蓮華に告げ口したんだな! 卑怯者!」
藤見のわめき声が夜空に空虚に響く。
「もうやめて、藤見!もう……」
涙声で訴える蓮華が両手で顔を覆った。
「自分のやったことを棚に上げて卑怯者とはね。あんたってホントにろくでなしだよ、藤見。大事な蓮華を泣かせているのは、あんた自身じゃないか。……和紀!」
女が蓮華の背後に立っていた男に声をかけた。
和紀と呼ばれた男がゆっくりとした足取りでオレと葛城に近づいてきた。鋭い眼光の野性的な感じの顔立ちの男だ。
「立てるか?」
低い声がオレたちを包んだ。
決して優しくもないが、冷たさも感じさせない穏やかな声がオレの耳には心地よかった。だが葛城は不機嫌そうに顔をしかめて、そっぽを向いた。
オレは男の問いに行動で答えた。
立ち上がり、服に付いた埃や泥を払い、まだ座り込んだままの葛城に手を差し出す。
葛城は素直にオレの手にすがって立ち上がったが、まだ男と視線を合わそうとはしなかった。どうやら、葛城は結城女史の連れであるこの男が嫌いなようだ。
「桜華や彼女の友人を巻き込むなんて許さないよ、絶対に」
突き放したような声が駐車場に響いた。
オレと葛城は男に促されて駐車場の入り口から外に出た。暗い駐車場の敷地内には、藤見と蓮華、そして結城薫だけが残された。
「あそこに見える車で待ってろ。こちらの用が済んだら、すぐに行く」
男は五十メートルほど離れた街灯の下に止められた一台の車を指さし、抑揚の少ない声でオレたちに指示した。
オレが車の位置を確認して男を振り返ったときには、彼はすでに背を向けて駐車場に向かっていた。
葛城は不機嫌そうな顔を崩さずに男の背を見送っている。
「行くか? 葛城」
オレはいつまでもその場を動こうとはしない葛城を促した。きっとここから先はオレたちが立ち会ってはいけないことなのだ。たぶん葛城に配慮をしてのことなのだろう。
だが、葛城は動かなかった。
「葛城?」
「ゴメン、赤間。わたし、最後まで見届けないといけない気がする。先に車に行っててよ」
こいつは言い出したら聞かないところがある。いつもの気の強い顔に戻った葛城の白い横顔は、これまたいつも通りの頑固な意志を示していた。
オレはそっと空を見上げて溜息をついた。オレ一人で行けるわけないだろうが。
こいつはいつだってマイペースだ。なんだってこんなに頑固なんだ。折角、気を使ってあの場からオレたちを逃がしてもらったって言うのに。
「さて、これからあんたたちをどうしてくれようかねぇ?」
結城の冷たい声が響いてきた。
藤見の残忍さよりも背筋が凍る突き放したような声音だ。
藤見などはどう思っただろう?
つい先ほどまでは自分がいるはずもない立場に立たされる気分というのは、不愉快なものだろうが。
「蓮華は関係ないじゃないか!」
藤見の苛立った声が後に続く。
「関係ない? そうかねぇ、蓮華が桜華の通っている学校まで押しかけて行ったと知らなければ、あんたもこんなことまでしなかったんじゃないの?」
オレは息を飲んだ。
蓮華が昼間、学校に押しかけてきたことをどうして彼女が知っているのか?
だが、柏葉監督が迎えに行った人物が彼女であれば、知ることは出来るのだと思い至り、再び息を潜めて駐車場の会話に聞き耳を立てた。
「どうせ二度と桜華に近づくなと約束させたって、破ることは判りきっているんだから、本当に二度と桜華の前に姿を現さないように海にでも沈めてやろうかしらね」
「そんなことさせるもんか! 第一お前は医者じゃないか! 人の命を預かる職業のくせして人を殺す算段かよ!」
藤見の声が怒りに震えていた。
オレに言わせれば“よく言うよ”となるが、目の前で殺しの相談ってのは、ちょっとご免だ。気持ちのいいものじゃない。
そのとき、隣にいた葛城が動いた。
まるで風のように自然な動きのため、オレは一瞬反応するのが遅れた。だが、慌てて後を追う。
「お嬢ちゃん、何しに来たんだ?」
オレたちを駐車場から連れ出した男が葛城の姿を認めて声をかけてきた。抑揚のない淡々とした話し方は先ほどと同じだ。
「桜華……? どうしたの、車で休んでなさい」
「いえ。休んでいる気分ではなかったので……。そこ、どいてください、綿摘さん」
結城に返事を返しながら、葛城のヤツは男を睨みつけていた。この男の名前は綿摘和紀というらしい。それにしても、随分と毛嫌いしているようだ。
肩をすくめて男が身体をずらすと、葛城は滑るような滑らかな動きで結城へと近づいた。
「薫さん。あなたが直接手を下すまでもありません。……今夜のことは、院でふんぞり返っている山の大伯父貴に報告してください。それで充分です」
葛城の言葉に藤見の身体が小刻みに震えているのが夜目にも判る。話題の人物は彼が震えるほどの強権を持っているようだ。
「それでいいのかい?ほとぼりが冷めたら、またこいつらはお前を狙うよ。いっそこの世からおさらばしてもらったほうが楽でいいのに」
結城は医者とは思えない辛辣な言葉を藤見たちにも聞こえるように葛城に返す。
「私のことはどうとでも報告してください。でも……でも、藤見は! 弟のことは、どうか……。この子は、もう天承院の一員ではありません」
「蓮華! こんな奴らに頭を下げるな」
結城の言葉に蓮華が、手を胸に組むように合わせて懇願した。芝居がかった動作が様になる人だ。並の男とかなら、それだけで許しているだろう。
「それは出来ないね。第一、お前たちの母親は、藤見が朝比奈家に入ったこと自体を納得しちゃいない。どうせ今回のことだって、裏ではあの女狐が指示してるんじゃないの!?」
寄り添うように立つ双子を見比べながら、結城が軽蔑したような視線を二人に向けた。同情を誘うことなど、彼女には通用しないらしい。冷淡な態度は、はたで見ているだけのオレですら、怯んでしまうものだった。
夏の時期なのに、空気が凍っているような錯覚さえ覚える。
「母は関係ありません! そうでしょ? 藤見」
青ざめた顔をして蓮華が藤見を庇った。だが、藤見は答えを返さなかった。俯いたまま唇を噛みしめているばかりだ。
「答えられないのかい、藤見。それこそが、真実だね」
「う、嘘です! そうでしょ? ねぇ、藤見! なんとか言って!」
なおも藤見を庇う蓮華の顔がますます青ざめた。
オレは何がなんだか判らずに頭を混乱させ続けていた。
「だったら、なぜ藤見は答えない? 答えられないってことが答えなんだよ」
意地悪く藤見を追いつめる結城を遮る葛城の声が響いたのは、そのときだった。
「もう、いいです。薫さん」
疲れた表情と声の葛城の様子は、誰が見ても彼女が打ちのめされていると思うだろう。今にも倒れそうな葛城を支えているのは、結城の腕一本だけだ。
「……判ったよ、桜華」
溜息とともに結城が小さく頷いた。凍りついた空気がゆっくりと氷解していく。
「お前なんかに……お前なんかに同情なんかされたくもない!」
金切り声をあげて、藤見が葛城へと走り寄った。
「藤見……!」
宵闇に銀線が走る。
藤見の左手から放たれた光の線は一直線に葛城へと飛んでいく。
葛城が避ける間もない。
黒い影が光と葛城の間に立ちはだからなかったら、彼女は胸か腹をその光の刃で貫かれていたかもしれない。
硬質アスファルトの上をサバイバルナイフに似た鋭利な刃物が転がった。
「……和紀! 利き腕をへし折っておやり!」
怒りに燃え上がった結城の声が、黒い影に指示を出した。
男はわずかに彼女を振り返った後、音もなく藤見に滑り寄ると、逃げだそうと身をよじった藤見を難なく掴まえた。
「お願いです。やめてください! 藤見を傷つけないで!」
捕らえられた藤見と男にすがりついて蓮華が泣き出した。
だが、結城は指示を撤回する様子を見せなかった。
自分の腕にしがみつく蓮華を男はつれない様子で振り払うと、藤見の腕をひねりあげた。苦痛に顔を歪めながらも、藤見は助けを乞おうとはしなかった。
憎悪に光る瞳が綿摘と結城を交互に見つめている。
「やめて! お願い。やめて!!」
蒼白な顔をした蓮華が再び綿摘の腕に飛びついた。
だが、無常にも藤見の腕は鈍い音と共にあり得ない方向へと曲がった。
「ウ……ゥッ!」
悲鳴にもならない苦鳴をあげた藤見が土気色の顔をしてアスファルトの上に転がった。力無く垂れ下がる腕が壊れかかった人形の腕を連想させて気味が悪かった。
「藤見ぃ!」
絹を裂くような悲鳴が上がると蓮華が弟を抱きかかえた。
それを見守っていた葛城が目眩を起こしたように結城の腕に顔を寄せた。結城自身は無表情な顔を真っ直ぐに藤見に向けている。
オレは身体が震えだすのを止められなかった。
顔を歪めたまま、藤見が結城と葛城を睨んだ。どんな表情よりも凄まじい憎悪と殺意が込められた視線が二人の女の肌を焼く。
「殺してやる……。いつか、必ず。お前たちを殺してやる……!」
藤見は本気だ。狂乱した瞳がそれを証明している。
だがそんな藤見の怒りをせせら笑うように結城が不快そうに鼻を鳴らした。
あの藤見の憎悪をまともに受けてなんとも思わないとは、それだけでこの女の神経はまともではない。
「だったら今度は自分の命と引き換えにするくらいの性根を鍛えてからにしな! ……お前みたいな乳臭いガキの相手をしている暇なんてこちらにはないんだよ。行くよ、和紀!」
結城は葛城の肩を抱くようにして、闇に背を向けた。それを悠々と追って、綿摘が後に続く。オレも引きずられるような感覚を伴いつつ後を追う。
肩を震わせて泣く蓮華と、屈辱に身体を震わせる藤見を残して、オレたち四人は後ろを振り返ることなく車へと向かった。
「桜華?」
結城の声にも葛城は反応しなかった。皆、葛城の様子に注目する。彼女を見つめる何対かの視線が、その身体に絡みついているように見えた。
結城が無理矢理に葛城の顔を上向かせた。
葛城の顔は、人形のように動かなかった。傀儡のようになんの感情も浮かんでいないその顔は、だた美しいだけで、生命の力強さなど感じはしなかった。
「桜華!」
結城が語気を強めて、葛城に呼びかけた。その声の糸に操られるように葛城の瞳が動いた。と見る間に、葛城の瞳に透明な水が溢れた。
「薫さん……」
疲れ切った葛城の声が車内を染めた。
「眠りなさい。今のあんたには、休息が必要よ」
忍耐強い顔をして結城が葛城の肩を抱いた。それに素直に従って葛城が目を閉じる。
すぐに彼女は深い眠りの淵へと落ちていったようだ。規則正しい寝息が聞こえてくる。
オレは葛城の寝息に耳を傾けならが、今度こそ安堵の息を吐いた。
「自宅には、監督から連絡を入れてもらっているわ。今夜は監督の家に泊まりなさい」
穏やかだが反論を許さない口調で結城が話しかけてきた。
「え……? でも……迷惑じゃ?」
監督の家は一戸建てだがそれほど大きな造りの家ではない。夫婦二人暮らしの家に葛城が転がり込み、なおかつオレまで泊まることなどできるのだろうか? もしかしたら、結城薫自身だって今夜は柏葉監督の家に泊まるのかもしれないし。
「……私には、今夜は寝床は必要ないし、和紀は自分の部屋に戻る。休息が必要なのはあんたも同じ。今から自宅へ帰ったら、家の人を起こす羽目になるわよ?」
オレは結城の言葉に甘えることにした。第一、彼女には何を言っても無駄な気がする。そんなところは、葛城とよく似ていた。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて一晩お世話になります。……ところで、オレたちがあそこにいるってよく判りましたね?」
オレの質問に運転席から静かな笑い声があがった。
「ちょっと和紀! 何笑ってるのよ! ……あのね、桜華の制服の内ポケットには、いつでも小型のモバイルフォンが入っているの。それが発信器代わりになっているのよ。藤見のヤツも見逃すくらい小型で巧妙に隠してあるけどね。
でも今回は手間取ったわ。桜華が通学路に使っている道にあんたたち二人の学生鞄が放り出されてなかったら、気づくのがもっと遅れたかもしれない」
そういえば、オレは鞄を持っていない。今までは緊張の連続で気づきもしなかった。人通りの少ない住宅街の路地に放り出された鞄を想像して、オレはゾッとした。もう少し遅かったら、オレは死んでいたかもしれないのだ。
「喉の調子はどお? 痛みは?」
結城が医者らしい口調でオレに声をかけた。先ほどまで、殺意を露わにしていた人物と同一とは信じがたい声だ。
「大丈夫です。なんともありません」
実際に首を絞められた後の後遺症は何もなかった。案外、もう駄目だと思ってからも人間はまだまだ生きていられるものなのかもしれない。
「そう。……迷惑をかけたのは、こちらのほうだったわね」
葛城の髪をなでてやりながら、結城がポツリとこぼした。
「あの……。葛城の病気、治りますよね?」
オレは一番の気がかりを聞いてみることにした。葛城の病気が治れば、西ノ宮のバスケ部のコーチとして残っているつもりはないかもしれない。
彼女の病気が治るといい、と思う心のどこかで、治らなかったら……と打算が働いている自分がいる。
「桜華に聞いたの? 珍しいわね、この子が自分から話をするなんて」
「いえ、成り行きで……」
オレは今までの経緯を手短に説明した。
黙って聞いていた結城が微かに口を歪めた。だが、オレにはそれが何を示しているのかは判らなかった。
「お嬢ちゃんにしては、随分と譲歩した。少しは成長したってことだな」
運転席から声がかかった。それに結城が頷く。
「そうね。人間ってものを信用していなかった桜華にしては上出来だ。……あんたは桜華に信用されている数少ない人間ってわけだ」
結城の瞳がスゥッと細くなり、オレを値踏みするように全身を眺めてくる。居心地の悪いものだ。この瞳の前で隠し事をするなど不可能な気がする。
「葛城はオレたちのコーチとして最大限に努力しています。彼女のコーチとしての才覚を部員全員が信じています。
……葛城がオレたちに嘘をつかないから、オレたちは彼女を信用している。それだけのことです」
オレは居心地の悪さに視線をそらせた。
葛城の病気が治らなかったら卒業するまで、あるいは卒業してからでも、ずっとコーチでいてくれるのではないかと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしかった。
「それでいいのよ、桜華との関係は。……本当はね、五分五分よ。時間との勝負。この子の心臓はもうボロボロだから、いつ死んでもおかしくない」
彼女の言葉がオレへの答えだと気づくと、オレは全身から血の気が引いていく感覚に目眩した。いつ死んでもおかしくない、という結城の言葉は衝撃だった。
「そ、そんなに悪いのですか?」
「二十歳まで生きられないわ。今のままじゃ、ね」
オレは思わず背もたれに寄りかかった。そうでもしなければ、目眩で倒れてしまいそうだった。
「二十歳って……じゃあ、あと三年くらいしか……」
「いいえ、二年よ。この子は今十八だから」
「えぇ!? 十八? だって、葛城は二年生で……」
途中まで出た言葉をオレは飲み込んだ。葛城がオレと同い年でもおかしくはないのだ。西ノ宮に編入してくる前に彼女は入院などでブランクがあるかもしれないのだから。
「お察しの通りよ。桜華は高一の終わりにひどい発作を起こして入院してるわ。二年生になってからは、ほとんど学校へは通えなかった。
今年の春先になってからよ、歩けるまでに回復したのは」
「……葛城は、知っているんですか? 二十歳までの命かもしれないってこと」
オレは沈んでいた。自分があと二年の命だと言われたらどうだろう?オレならおかしくなってしまう。信じたくもない。
「知ってるわ」
冷淡なほどきっぱりと結城がオレに告げた。
「葛城が可哀想だ……」
オレがもらした言葉に結城の眉がつり上がった。
「可哀想? ……病気だから? それとも、不愉快な連中につけ狙われているから? どちらも桜華の前では口にしないことね! この子は同情されることが大嫌いだから」
微かな怒りを含んだ彼女の声にオレは自分の言葉が偽善でしかないことを悟った。葛城は自分を可哀想だとは思っていない。いや、思いたくはないのだ。
同情は葛城を傷つける。
「すみません。絶対に言いません……」
「そうね。今夜、見聞きしたことも、ね」
オレは頷くしかなかった。今夜のことなど話しても誰も信じはしないだろう。
「何も教えられずに黙っていろって? それは不公平だな、薫」
黙ってオレたちのやりとりを聞いていた男が不満をもらした。バックミラーから覗く黒い瞳がオレたちをジッと見つめる。
「知らないほうがいいこともあるわ」
「藤見はこいつも殺そうとするかもしれない。あんな無様な姿を見られたんだ。その記憶を消し去るには当事者全員を抹殺しようとするかもな。
……お前は何も知らないまま、消されたいのか?」
黒い瞳が今度はオレだけを凝視した。
オレは藤見の狂気を孕んだ瞳と声を思い出して身震いした。あいつは普通じゃない、絶対に狂っている。
「桜華だけを守っているわけにはいかなくなった、か」
結城が溜息をついた。それが、オレにいっそうの恐怖を与えた。オレはまだ死にたくなかった。
オレは不安そうな顔をしていたのかもしれない。結城は苦笑すると、一度だけ葛城の寝顔に視線を走らせて、話し始めた。
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
天承院家は、古代舞の家元である。代々、女主が家元の座を継ぎ、千年を越える家系を維持してきたのだ。
だがその長大な命脈を保っていた家系に危機が訪れた。今から二十三年も前のことだ。
当時、第四十六代家元である天承院菊乃の一人娘菖蒲が十六歳の誕生日を目前に控えて突然に姿を消したのだ。
この事態に天承院流を支える師範代家系『朝比奈』家と『葛城』家は色めき立ち、早速暗躍を始めた。
跡取り不在で、自分たちの一門の誰かを院の養子という形で送り込むことができるのだ。突然に降って湧いた幸運に彼らは何よりも自分たちの利権の確保に奔走した。
誰も跡取り娘の行方など心配もしない。
だが両家の暗躍も空しく、四年後、菖蒲は天承院に連れ戻された。
両親は娘の無事に躍り上がって喜んだが、連れられてきた娘が抱く男女二人の幼子に愕然とした。
菖蒲にそっくりな子供は間違いなく自分たちの孫である。その事実に天承院内部は揺れに揺れた。
菖蒲と幼子二人はすぐさま引き離され、菖蒲は一門の者が決めた相手と連れ添わされた。
さらに菖蒲の幼い息子は朝比奈家へと養子へ出され天承院を名乗ることを許されず、双子の片割れである娘は天承院家に残されたが父親がいないという理由で跡取りとは認められなかった。
菖蒲と新しい伴侶との間にはすぐに女児が作られた。しかし、それは自然の営みとは反する科学によって作り出された子供であった。
菖蒲は自分の意志に反して生まれてきたこの子供を愛そうとはしなかった。
だが天承院の正式な跡目を継ぐ子供の誕生だ。
周囲から菖蒲の想いは無視され、まして子供に自らの意志など望まれもしない。
その子供の物心がつく頃、形ばかりの夫婦であった子供の両親は再び他人に戻った。
その後子供に無償の愛情を注ぐ者はいなかった。
「おはようッス」
「おうッス」
朝練で体育館に駆け込んでくる部員たちに声をかけながら、オレはチラチラと入り口のほうを伺い続けた。
あらかたの部員が揃い、ストレッチを思い思いに始める。
「はようッス」
「チーッス」
「はようございますッ」
全員が緊張の糸を張りつめて戸口から入ってきた人物に挨拶をする。
「おはよう」
いつも通りの厳しい口調と自信に満ちた双眸が部員一人一人に届けられる。変わらない朝が巡っている。
「コーチ。今日もいつものメニューですか?」
高杉がストップウォッチを片手に指示を待っている。
「あぁ、頼むよ」
葛城の声に部員たちが筋トレ用の道具をそれぞれ手に取る。
「すまなかった。……薫さんが、お前によろしくと」
葛城の小さな声が彼女の前を通りすぎようとしたオレの耳に届いた。
昨夜、オレは監督の家に泊めてもらったが、夜が明けるとすぐに家に飛んで帰っていた。葛城につきっきりだった結城薫とは今朝は顔を合わせていなかった。
葛城はいつもと変わらないきつい眼光を部員たちに注ぎ、的確な指示を出している。
何も変わらない朝。この朝日のなかでは、昨夜の出来事は夢物語のような気がする。
だが夢ではないのだ。
オレの記憶のなかには、結城から聞かされた遠くの世界の話が残っている。決して消えない錦絵のように、肌に刻まれるタトゥーのように。
『この子はね、PUPETT……人形なんだよ。糸で繰くられる操り人形。見えない傀儡師に操られるように生まれてきて、まわりの大人の思うように作られて、そして使いものにならなくなれば捨てられる。
……傀儡のような生き方しか出来なかった。そんな生き方しか許されない。いや、この子だけじゃない。この子の二人の姉兄もまた同じ。傀儡のごとくに操られ続ける……』
朝日のなかで見る葛城の横顔には昨日の脆さはなかった。だが、その仮面の下にある素顔をオレは知っている。暗闇に怯える幼児のようなその素顔を。
「だぁ~! かったりぃ~!」
遠くで佐倉井が不平をもらしている。それを葛城が腕組みしたまま睨む。
「……やりたくないなら帰れ! お前のようなヤツはいらん!」
部員たちが首をすくめ、佐倉井はいつも通り生意気に葛城を睨み返す。
「いい加減にしろ、佐倉井! 真面目にやれ!」
オレはいつも通りに佐倉井と葛城の間に入って、危険なバランスを取る。まったく変わらない日常が今は薄っぺらに感じる。
ふと見れば、葛城が苦笑をもらしている。笑うことのなかった葛城の笑みに、それに気づいた部員たちがざわめく。日常が変わっていく。少しずつ、だが確実に。
いつの日か、葛城は自分の足で立つだろう。傀儡から人へと変わる、その日が早く来ればいい。
そのときは、葛城は誰よりも綺麗に笑うだろう。
終わり
重たい瞼を押し上げた先に見えたものは、葛城の青ざめた横顔だった。
「か、葛城。大丈夫か」
病的な青白さをした葛城の顔は疲れ切っていた。医者にかかっているくらいなのだ、身体のどこかに変調があったのかもしれない。
オレの声に葛城が我に返ったようにオレを振り返った。
「赤間!」
葛城はオレの顔を見て安心したような表情を作った。
「ここ、どこだ? ……あっ! なんだ、これ!?」
オレは自分の今の状況を把握して呆気にとられた。
どこかのビジネスホテルみたいに殺風景な部屋のベッドの足にオレは手錠でつながれていた。同じく反対側の足には葛城がつながれている。
どうやらどこかに監禁されたらしい。
「なんなんだ。あいつら誰だ!?」
理不尽な拘束にオレは腹を立てた。
突然に人を殴りつけて気を失わせておいて、どこだか解らない場所に監禁するなんて、まっとうな人間のやることじゃない。
「ごめん……」
葛城の小さな弱々しい声が聞こえた。
見ると葛城は膝に顔を埋めていた。紺色の制服の間から覗く葛城の頬が常よりも白さを増しているように見える。
「お前が謝るなよ。オレが怒ってるのは、お前に対してじゃない」
どうもいつもの調子と違う葛城の様子にオレは戸惑った。普段の葛城なら素直に謝ったり、落ち込んだ様子など見せはしないのだ。
「でも……やっぱりわたしのせいだ」
俯いたまま葛城が囁いた。
確かにオレたちをさらった連中の目的は葛城にあるようだった。オレはいわば巻き込まれたのだ。だが、不思議と腹立たしさはなかった。
「悪いのは連中だろ? お前のせいだなんて思うな」
「……」
どう言い繕ったものだろうか。葛城はかなり落ち込んでいるように見えた。
「それより、お前、身体の方は大丈夫かよ。顔色、随分と悪いぞ」
血の気の引いた葛城の顔がゆっくりと持ち上がり、オレのほうへと向けられた。普段の気の強い表情が嘘のような弱った顔つきが、オレを不安にした。
「大丈夫。身体は平気」
オレを安心させようとでもしているのか、葛城は口元に笑みを浮かべた。だが、引きつった顔に浮かんだ笑みは彼女を余計に弱々しく見せた。
まるで、人形のようだった。作られた笑顔を貼りつかせるだけの人形のように無感動な笑みが葛城の顔には浮かんでいた。
「そ、そうか……」
オレは言葉に詰まった。今はどんな言葉を葛城に伝えても、彼女には伝わらないような気がした。
黙り込んだオレの耳に部屋のドアを開ける音が聞こえた。
葛城が緊張に身体を強ばらせているのが、離れていても判った。たぶん、オレも同じだ。
「おや。お目覚めかい」
若い男の声に続いて、その声の主がオレたちの前に姿を現した。
「……!」
オレは今どんな顔をして相手を見ているだろう。相手の男はオレの反応を無表情なまま見つめていた。
「そうか……。お前、蓮華に会ったんだ?」
淡々とした口調がオレの肌をなぶっていき、オレの全身に鳥肌を立てた。
男は昼間に見た蓮華と呼ばれていた女性にそっくりだった。体格に男女の差は見受けられたが、顔の造りは瓜二つだ。
双子、という単語がオレの頭のなかに浮かんだ。
「藤見! なんで赤間まで巻き込んだ!」
葛城の詰問も男にはまったく動揺を与えてはいなかった。むしろ、そんな葛城を面白がっているようにさえ見える。
「巻き込まれたほうが悪い。……それに、お前が素直に言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったんじゃないの?」
藤見と呼ばれた男は葛城に近寄ると、顔を近づけて、気味の悪い笑みを浮かべた。能面の笑みを連想させる作り物の顔だ。
「まったくかわいげのない女だね。少しは蓮華を見習ったらどうなのさ。お前を見てると、また滅茶苦茶にしてやりたくなるよ」
葛城の顔が男の言葉に青ざめた。睨みつけている視線は鋭いままだが、血の気の引いた顔には生気が乏しかった。
「お前なんか大嫌いだよ。さっさと死んじゃえばいいんだ。いつも、いつも、蓮華の邪魔ばかりする。鼻持ちならないったらありゃしない」
毒を含んだ言葉が葛城に浴びせられる。気丈にもそれに耐えながら、葛城は尚も相手を睨みつけていた。
「ボクは不本意だけど、これから院へお前を連れていくからな。蓮華にはできないんだから、今度の花娘はお前が演じるんだよ」
「断る……!」
即答で返事を返した葛城の視線がさらにきつい光を帯びた。
「断る? ……お前に選択権なんか、ないんだよ。ボクだってお前が花娘をやるのは不愉快なんだ」
「なんで蓮華がやらないんだ! わたしはやらないからな」
葛城の声がさらに大きくなった。うわずっていると言ってもいいかもしれない。オレは黙って二人のやりとりを見ていることしかできなかった。
「……できることなら、お前なんかにやって欲しくないよ。でも、蓮華は花娘を教えられていないんだ。知らないことは出来ないだろう?だから、お前がやるんだよ、桜華おうか。蓮華の前で演じるんだ。彼女なら、一度見れば覚えられる。そしたら、お前なんか用済みさ」
「イヤよ! 絶対に行かないッ!」
葛城の頬が鳴った。うっすらの葛城の頬が紅くなる。
「うるさいよ。お前に選択権などないと言っただろう?……一度でいいんだ。蓮華の前で演じるんだよ。そしたら、そのあとはボクがお前を殺してやるッ」
「イヤッ!」
再び、葛城の頬に平手が飛んだ。
「やめろよ!」
たまりかねてオレは叫んでいた。無抵抗の人間に暴力を振るうなんて普通ならやらない。こいつは、どこかおかしいんだ。
「……部外者は黙ってな」
オレの制止の声を不快そうな視線で受けると、男はオレを軽蔑したように見下ろした。冷酷な視線が、オレの背筋に悪寒を走らせた。
それでも、ここで引っ込んではいられない。
「黙ってられるか!葛城は嫌がってるじゃないか!」
男の眉がピクリと動いた。そして、徐々に顔にニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる。
「葛城……? はぁ~ん。お前、葛城姓なんか名乗ってるのか、桜華。随分と殊勝なことだ。そのまま葛城でいたほうがお前には都合がいいんだろうけど、今度ばかりは蓮華のためだからね。お前に花娘を演じてもらうよ」
「イヤ! やらないったら、やらないッ!」
悲鳴に近い声で拒絶する葛城の顔は死人のように真っ青だった。
「何度も同じ事言わせるんじゃない!お前には選択権なんかないんだ!」
葛城の拒否に、男はカッとなったのか、今まで以上に荒々しい口調で怒鳴った。顔に怒りのために朱がさす。
「そうだ。良いことを思いついた」
その怒りが突然に冷めたように、男は平然とした顔を取り戻した。
オレのすぐ傍らまで音もなく近寄ると、息がかかるほどの距離に顔を近づけてきた。ニヤリと笑う顔が不気味だ。
「桜華。彼をどうしようかねぇ?」
男の指がオレの首にかかった。夏の時期だというのに、氷のように冷たい指だ。オレの全身が総毛立つ。
「やめろ!赤間に手を出すな!」
葛城の顔が引きつっている。かすれ気味の声が、彼女の緊張感が頂点に達していることを示していた。
「さぁ。どうしよう? ……このまま指に力を入れたら、どうなる?」
男の喉の奥で空気がもれる音がした。男の笑い声だと気づくまでに少し時間がかかった。
「やめて!」
オレの喉は男の指の冷たさに痺れてしまったのか、言葉どころか呻き声一つでない。
「イヤだと言ったら?」
薄ら笑いを浮かべている男の顔に、魔物の哄笑が重なる。この男なら本当にオレの首を絞めることなど朝飯前なのだ。
「お願い。やめて、藤見!」
葛城の唇は青ざめ、震えていた。オレは彼女が泣き出すのではないかと思ったほどだ。だが、葛城はギリギリのところで、泣き声を押さえているようだった。
「だったら、院へ行くんだ。いいな」
「……」
葛城は拒否の言葉を発しなかった。オレを人質に捕られては抵抗などできない。
情けないことに、オレのことにかまうな、とはオレ自身は言えるほどの勇気がなかった。葛城の足を引っ張っているだけの存在である自分が酷く煩わしく思える。
「準備が出来次第、出発する。それまでは良い子で待ってるんだな」
男はオレの首を指の拘束から解放すると、氷の視線をオレたちに投げつけ、この部屋を後にした。
「ごめんなさい……」
伏し目がちに下を向く葛城の目尻に光るモノが見えた。
後ろ手に拘束されている姿勢では、顔を覆い隠すこともままならない。部屋の電灯の光を受けて、葛城の涙が光る。
「な、泣くなよ、葛城」
慰めの言葉が思いつかず、オレは滑稽なほど狼狽していた。
「でも、わたしのせいで……」
声が涙に震えている。
オレは何もしてやれないもどかしさに顔を歪めた。
「自分のせいだなんて思うなよ! お前のせいじゃない。絶対にお前のせいじゃないから!」
オレは夢中で叫んでいた。
普段の傲慢な態度が影を潜めた葛城は、あまりにも弱々しく見えた。そのまま消えてなくなってしまいそうなほどに小さくも見える。
オレの空虚な言葉に、それでも葛城は反応した。
そっと顔を上げた葛城の顔は今まで見た彼女の顔のなかで一番、綺麗で、脆かった。
「お前、行きたくないんだろ? だったら、どうにかして逃げる算段を考えよう。このままじゃ、どうにもならない」
提案をしている自分自身がどうすれば逃げ出せるかなんて思いつきもしないのに、オレは葛城を励ますためだけに偉そうなことを言ってみる。
それでも葛城には効果があったのか、彼女は泣きやんでオレをジッと見つめていた。
「……赤間。ありがとう」
囁くような声がオレの耳に届いた。
普段の葛城からは信じられないほど素直な言葉だ。いつもこんな調子だったら可愛い奴なのに。
だがそんなことをつらつらと考えている時間はない。男は準備が出来次第と言っていた。
準備がいつ出来るかは解らないが、男が葛城の様子を見にきたところを見ると、今少しの時間が必要なのだろう。
どうやったら、それを有効に使ってやれるだろうか?
「赤間。わたしにちょっと考えがある……」
考え込んでいたオレに葛城が声をかけた。
見ると、葛城はいつもの気丈な顔に戻っていた。オレは少しだけホッとしたけど、なんだか惜しいような気分になった。葛城のあんな弱った顔はもう二度と見れまい。
「なんだ?」
「ドアの向こうには見張りがいると思うんだ。たぶんこの手錠の鍵を持っている。だから、その見張りから鍵を奪わなければ、逃げられない」
オレは見張りのいる可能性をすっかり失念していた。
「見張りが自分からこの手錠を外すように仕向けるんだ」
「どうやって!?」
「私が発作を起こした振りをするからお前が外の見張りを呼んでくれ。見張りが藤見からわたしのことを聞いていたら、間違いなく奴はわたしの手錠を外すはずだ」
発作?
オレは聞き馴れない単語に少々戸惑った。
オレの表情からそのことを読み取ったのだろう、葛城は奇妙な顔をした。苦笑というか、自嘲というか、なんとも言いようのない歪んだ顔だ。
「……心臓発作だ」
オレはきっと驚いた顔をしたのだろう。
オレの反応を確かめた葛城が、視線を床に落とした。オレの視線に耐えられないとでもいうように。
「わたしの心臓は精神的なショックを受けたりすると、筋肉が痙攣する発作を起こすことがある。今は……それを利用するしかない」
ボソボソと喋る葛城の口調からは、諦めが伝わってきた。
今まで自分のことを話たがらなかったのは、この病気のせいか。オレは一人で合点して、ちょっと落ち込んだ。
もし葛城が健康になったら、西ノ宮のコーチなどすっぱり辞めて自分がプレイヤーとして活躍するだろう。
それだけの実力が彼女にはある。オレたちにそれを止める権利はないのだ。
反発している佐倉井や氷室たち一年生が近年稀にみる成長ぶりを見せているのは、葛城の指導の賜物だと二~三年生のオレたちは気づいていた。
オレたちが入学してきたときに葛城ほどのコーチがいたらと、内心では思っているのだ。
葛城の病気が彼女とオレたちを引き合わせたのだ。皮肉なものだ。
いっぱしにバスケットプレイヤーを名乗っているオレたちに、葛城は同情などされたくはないのだろう。
同情されてコーチの地位に甘んじているつもりはないのだ。葛城は、コーチとしてやっていくと決めた時点で、プレイヤーとしての誇りを捨てて西ノ宮に来たはずだから。
「本当に上手くいくかな?」
オレは務めて憐憫を顔に出さないように気を使って、葛城の顔を見た。成功したかどうかなんて解らなかった。
「やってみるしかないよ。他の方法なんて思いつかない」
「そうだな……」
オレと葛城はお互いの顔を見合わせて頷いた。
大きく深呼吸した後、オレは大声をあげた。
「誰か! ……誰か、来てくれ!」
オレの声を合図に、葛城が床に倒れ込んだ。身体を小さく丸め、肩で息をし始める。
「誰か! 誰もいないのかよ!おぉいっ!」
葛城の言ったとおり、ドアが音もなく開くと、黒服の中年男が入ってきた。
「なんだ! うるせぇぞ」
「医者を呼んでくれッ!」
オレの言葉に男は眉間にシワを寄せた。そして、何事かに思い至ったのか、視界から隠れていた葛城に駆け寄った。
葛城は演技とは思えない苦しみようを見せていた。
手足が小刻みに痙攣し、何かから身を庇うように丸まる姿は、オレでさえ震えが止まらなかった。
「た、大変だ……!」
葛城の様子に青ざめた男が懐から鍵を引っぱりだす。葛城の手錠を外そうと焦るが、思うようにいかず、忌々しそうな舌打ちが聞こえる。
ようやく手錠を外し終わった男が葛城を抱き上げようと彼女の腕を取った瞬間!
「ゲ……ゥ……!」
無防備になっていた男の股間に葛城の蹴りが決まっていた。
痛いぞ、ありゃあ……。
オレは男に少しだけ同情した。と、同時に男の急所を躊躇なく潰せる葛城の無慈悲さに改めて寒気を覚えた。
苦悶の顔から脂汗を噴き出してうずくまる男の首筋に葛城は腕を振り下ろした。小さな衝突音がした後、男は白目を剥き出し、股間を押さえた哀れな姿で気を失った。
なんの躊躇いも見せず葛城が男の懐を探り、オレの手錠の鍵を見つけだすと、素早くオレを解放した。
「サ、サンキュ。それにしても、お前ちょっとやりすぎじゃないのか? ありゃあ、痛いなんてモンじゃねぇぞ。使えなくなってたら、どうするんだよ」
同じ男としてオレは葛城に抗議してみる。だが葛城の返事は素っ気なかった。
「お前だって同じような目に遭っただろ? こいつらは自業自得だ!」
オレは大事なところを蹴られた覚えはないぞ。
「ちょっと待ってて」
オレから離れた葛城が手錠を持ったまま男に近づく。
「え……?」
オレが見守るなか、葛城は男に手錠をかけていった。しかも、ご丁寧に両手両足が互い違いになるような拘束の仕方だ。
これじゃあ、寝返りだってうてやしないじゃないか。さらに手近にあったタオルで男の口に猿ぐつわまで噛ませている。やっぱりやりすぎな気がする。
右足と左手、左足と右手をそれぞれつながれた男はまだ正気には戻っていなかった。
彼が我に返り、身動きできない、声も出せないその状態でどうやって助けを呼ぶのかと憐れみさえ覚えてしまう。
「さぁ、行こう!」
満足したのか、葛城が立ち上がってオレを振り返った。
いつもの強い眼光がオレを射抜く。さきほどの涙など想像もできない。
オレがやったことと言ったら、助けを呼ぶ振りをしただけだ。こいつはとんでもない女だ。オレは改めて葛城の容赦をしない性格を思い知らされて慄然とした。
廊下に出てみると、そこはやはりビジネスホテルのように殺風景な造りの場所だった。
「行くよ!」
オレより先に部屋を出た葛城が、数歩先から声をかけてくる。
突き当たりに階段を示すマークが見えた。エレベーターではなく、階段で下まで降りるつもりのようだ。
先が読めない状況になることは少ないから、賢明な判断と言っていいのだろう。
オレたちが閉じこめられていた部屋は七階最上階だった。案外大きな建物だ。市街地にこんな大きな建物なんてあったかな?
頭のなかで市の中心街の地図を思い描くが、建物の階数までは思い出せなかった。
「ここ、どこなんだ?」
葛城と並んで小走りに移動しながらオレは訊ねた。
「朝比奈がオーナーをしてる物件だ」
「朝比奈?」
オレの疑問を表す返事に葛城の顔がしまった!という表情を浮かべた。話すとまずいことがあるのだろうか?
「オレが聞くとヤバイことなら、話さなくてもいいよ」
「いや……やばくはないけど」
言い淀む葛城の顔には迷いが去来していた。葛城自身が話題にしたくはない内容なのか?
「なぁ、花娘って何?」
オレの何気ない質問に、葛城はいっそう困ったような顔をした。俯き加減な視線が動揺している。
「……悪い。忘れてくれ」
またしてもオレは余計なことを聞いてしまったようだ。
葛城の眉間に寄せられたシワは不快さよりも、困惑と焦りを濃く映していた。葛城は自分に関わる事柄を語ることを極端に避けているようだった。
「ここってホテルみたいだから、建物の外に出さえすれば、逃げるのは簡単なのかな?」
もう葛城に関する質問はしまい、と誓った後、オレは重苦しい沈黙を破って聞いてみた。葛城の表情がややほぐれた。
「……今は午後九時半過ぎだから、街のなかって言っても人通りは少なくなってるはずだよ。建物から出た後も油断はできないと思う」
「九時半!? オレ、随分と気を失っていたんだな」
自宅ではオレの帰りが遅いことを不審に思っていることだろう。もしかすると柏葉監督の家に電話を入れているかもしれない。いや、監督や奥さんだって葛城が帰宅していないことを心配しているだろう。
「香奈ちゃん、心配してるよね……」
ポツリと呟いた葛城の声が、オレの耳には大きく響いた。葛城が責任を感じていることは明らかだ。だが、情けない話、それを慰める言葉をオレは知らない。
オレたちは辺りに注意を払いながら、息を潜めて一階へと降りきった。
今まで邪魔が入らなかったことに感謝しつつ、オレは一歩前を進む葛城の後ろをついていった。
葛城は恐ろしくしっかりしていた。場慣れしている、とでも言うのだろうか、足音を立てずに進んでいくその後ろ姿を見ていると同じ高校生とは思えない貫禄があった。
ホテルの出入り口に厳重な見張りがいるのかと思ったが、フロントやロビーには呆気ないほど人の気配がなかった。
だが葛城は用心しているのか、ホテルの裏口らしい方角へと進んでいく。
「赤間。あんたバイク乗ったことある?」
裏口をすぐ目の前にして葛城が振り返った。顔には少しだけ安堵の表情が浮かんでいる。どうやら、無事に逃げ切れそうだ。
「いや。全然」
バスケに明け暮れているオレにバイクの免許を取りに行く時間があるわけないだろうが。それにバイクで事故って手足を怪我したらどうするんだ。
……まぁ、興味がないわけじゃないけど、現在のところは乗る気はない。
「……じゃあ、わたしが運転するか」
「へ? お前、乗れるの!?」
「制服のスカートじゃ、乗りにくいし、今は免許証持ってないんだよね。だから、捕まるとやばいけど」
葛城は通用口と書かれたドアをソッと押し開けた。
道を挟んだ向こう側に蛍光灯の青白い光に照らされた駐車場の看板が見える。市営か民営の月極駐車場といったところか。どこにでもありそうな造りの駐車場には、車が十台ほどとバイクが二台置いてあった。
「でも、鍵はどうすんだよ?」
オレは根本的なことを思い出して聞いてみた。バイクが目の前にあっても、鍵がなければエンジンをかけることなどできないだろうに。
「……やりようはいくらでもあるさ」
通用口を静かに閉めながら葛城が囁いた。まわりの様子を伺いながら、道路の向こうに見えた駐車場へと足早に歩いていく。
「それって……。よくバイクの盗難なんかで使われているらしい手口の……」
「たぶん、あんたの言っているやり方になると思うよ。徒歩で逃げるには限界があるから」
仕方ない、といった風情で葛城が肩をすくめてみせた。それにしてもどうして葛城は鍵無しでバイクのエンジンをかける方法を知っているんだ。
だがそれを追及するには時間が惜しいような気がした。
「ここってそんなに家から遠いのか?」
迂闊にもオレは歩いて帰れるほどの距離を想像していたから、少したじろいた。バイクに乗ることには抵抗はなかったが、無事に家に辿り着くまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「遠いよ。車やバイクでも一時間はかかるかな」
「嘘、マジ!?」
「んなことで、嘘つくわけないでしょ!」
一時間といったら、市を二つや三つは通り越しているくらいの距離はある。それを歩きで帰っていては、帰り着く頃には夜が明けてしまう。
「行こう。グズグズしてると気づかれる」
一台のバイクへと歩み寄りながら葛城がオレを促した。
オレが見てもよく解らない機械を葛城は平然と外し始めた。彼女にはどの部品を外して操作すればバイクが動くのかが判っているようだった。
やっぱりこいつはただ者じゃない。
オレは呆れて溜息をついた。こんなところでバイク強盗の手伝いをする羽目になるとは。強盗の手伝いならそれらしく、見張りでもしていたほうがよさそうだった。
オレはホテルの連中に気づかれてはいないかと気になって、駐車場の入り口へと引き返した。駐車場は袋小路になっていて、ここで追いつめられたらおしまいだ。
「どこ行くの?」
「見張りだよ。ここにいても役に立たねぇモン」
「判った。気をつけて」
了解の印に葛城が片手をあげた。そして、すぐに自分の作業に没頭する。
あの様子だと、車輪をロックしているチェーンや電子ロックなどの解除方法も知っているのだろう。泥棒稼業で生活していけそうなヤツだ。
オレは入り口近くまで戻って手近な車の影からホテルの様子を伺った。建物内部は静まり返っていて、中から人が出てくる様子はなかった。
オレは身体から力が抜けていくような安堵感からその場に座り込んだ。
「やれやれ……。やっと解放された」
「それはどうかな?」
オレは背後からの声に背筋を凍らせた。
反射的に振り返ろうと身体をひねったが、オレは自分の首に絡まった冷たい指に震えあがった。
「まったくバカにしてくれるじゃないか。やっぱりお前も用済みになったら殺したほうがよさそうだな」
全身の血の気が引いていく。
藤見と呼ばれてる男は白い麗貌に本物の殺意を込めてオレを睨んだ。
萎えそうになる気力をオレは振り絞る。首に絡まる男の指は今にも満身の力が込められそうだった。
「か、葛城ぃ~!! 逃げろぉ~!」
このままだと葛城は捕まってしまう。男の配下が近くにいるかもしれなかったが、彼女の不利益を見逃すことは出来なかった。
それでなくてもオレは一度彼女の足を引っ張っている。
「貴様……!」
男の双眸に炎が燃え上がった。
葛城がこちらを振り返る姿が目に入った。驚きと悔恨をにじませた顔が夜の闇に浮かぶ。
オレの声に葛城は反応したが、彼女は逃げ出さなかった。オレはまたしても、彼女の足手まといになってしまったようだった。
「いい根性をしてるよ、お前は。ボクは良い子で待ってろと言ったはずだ。自分の立場が判っているのか?」
「藤見……」
苦々しい表情を浮かべた葛城の顔には半ば諦めが浮かんでいた。
「逃げ出してどこへ行くのかと思ったら、こそ泥の真似事とはね。……お前らしいじゃないか、桜華。泥棒猫に相応しいよ」
毒々しい言葉は葛城の心にしっかり届いているように見えた。オレの耳元から聞こえる男の声が、彼女の心に突き刺さっていく様が見えるようだ。
それでも葛城は歪めた顔を男に向けたまま、歯を食いしばって対峙し続けていた。
「わたしは花娘なんかやらない。蓮華がその技を欲しいのなら、山の大伯父貴に教えを乞えばいい!わたしから盗み取ったもので満足できる花娘ができるとでも思っているの!?」
「……確かにお前の技も未完成だ。だが知っている者と知らない者との差は雲泥なんだ! 伯父貴は蓮華に教えるつもりは毛頭ないんだよ。だったら、知っている者から盗むしかないじゃないか」
オレの首にかかっている男の指は相変わらずビクともしなかったが、男は葛城の言葉に少しだけ怯んだように見えた。
オレは男のその弱い部分を突いてみることにした。そうでなければ、オレは男の拘束から逃げることができない。
「結局あんたも蓮華とかいう人も、花娘に踊らされているってワケか? まるであやつり人形か道化師だな」
オレは精一杯の勇気を振り絞って男を睨んだ。氷の美貌が間近に迫っていたが、先ほどの禍々しいほどの殺意は薄らいでいた。
「貴様なんかに、ボクたちの気持ちが判るもんか!ガキは引っ込んでろ」
首に食い込む指に少しだけ力が込められた。オレの肺が空気を求めてもがいているのが判ったが、オレは男の手首をありったけの力で握りしめた。
オレだってスポーツをやっているのだ。腕や握力を鍛えている。男がどれほど鍛えているのかは知らないが、そう易々とは殺されるつもりはなかった。
「駄目よ、赤間!」
オレの様子を見た葛城が叫んだ。
「遅いよ」
オレの目の前で男の口が笑みを浮かべた。昔ポスターで見た無表情な仮面に刻まれた笑みのように。オレは鳥肌が全身に拡がるのを悟った。
「死んじまいな。ボクに逆らおうなんて、百年早いよ」
オレが握りしめた男の手首は振り払うどころか、頑強にオレの首へと絡みついてきた。痩せ気味の男の身体のどこにこんな力があるのかと思うほどの強い力がオレの首を圧迫した。
「やめて、藤見!」
掠れた叫び声をあげて葛城が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
男はオレの首を絞める力をいっこうに弱めることなく、翳りのある笑い声をあげた。夜の闇に消えていくその声がオレの頭のなかでリフレインし続ける。
もう、駄目だ。息ができない。目の前が暗い。
オレの両手が男の指を空しくかきむしった。
意識が崩壊しそうになる寸前にオレは解放された。肺が流れ込んでくる酸素に飛び上がり、オレは激しく咳き込む。
「THE GAME IS OVER……。遊びは終わりだよ、藤見」
明瞭で力強い女の声がオレの耳朶に届いた。
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
頷くことしかできないオレを脅す顔は、花さえ恥じらう美しさなのに、凄惨な匂いを漂わせる。
その見知らぬ女の腕に抱かれた葛城の青ざめた横顔が、現実離れしていて夢を見ているようだった。
ボールはリングの縁をクルクルとまわり、弾かれたようにこぼれ落ちた。床にボールが落ちる間もなく、痛烈な声が飛んだ。
「なにやってんだよ、下手くそ! レイアップくらいきちんと入れろ!」
容赦のない罵倒を浴びせられた佐倉井が顔を歪めた。
「……うるせぇな、鬼婆ぁ」
ボソリと囁いた声は相手に聞こえてはいないはずだったが、鬼婆ぁと罵られた相手は目をつり上げて佐倉井を睨みつけた。
「やる気ないわけ!? ……だったら、さっさと帰りな!」
「おい……葛城。それは言い過ぎだ」
「あんたは黙ってな、赤間」
オレの忠告も簡単に却下された。葛城は顎をしゃくり、出口を示す。その顔が傲慢そうに佐倉井を見上げていた。
「誰も、やる気がねぇなんて言ってねぇよ!」
不機嫌そうに吐き捨てながら、佐倉井がボールを拾い上げた。大きな手がバスケットボールを器用に掴み、オレに放ってよこした。
「キャプテン、もっかいパスだし頼むわ」
シュート位置につこうとする佐倉井の背中に鋭い声がかかる。
「必要ない! 佐倉井、今日帰るまでに跳躍千回終わらせろ! それまで、ボールに触るな!」
振り返った佐倉井の顔が怒りに赤く染まっていた。
「葛城……」
これはヤバイ。
佐倉井が切れそうだ。葛城はいくら一年先輩とはいえ、女だ。佐倉井の性格からして、女にここまで言われて黙っているとも思えない。
オレは葛城の腕をとって体育館の隅へ引っ張っていった。
「お前、ちょっときついぞ。あそこまでポンポン言われたら、一年坊主だって頭にくるだろうが」
葛城は不機嫌そうな顔を隠しもせず、佐倉井の顔を睨ねめつけている。
だから、それがヤバイんだってのに。
「誰かが言わなきゃ、あいつにはわかりゃしねぇよ」
口を尖らせたまま葛城はオレを見上げた。黙っていれば綺麗な顔をしているのに、この口の悪さときたら始末に負えない。
「あのなぁ……。お前、もう少し言葉を選べよ」
最悪、身体を張っての喧嘩になったら、身長が二メートル近くある佐倉井に対して、その胸ほどの身長しかない葛城は圧倒的に不利だ。
もっとも身長差の前に、女だってだけで体力的な差がありすぎるが。
「ふん」
ふてくされてそっぽを向いた葛城にこれ以上何を言っても無駄そうだった。まったく、こいつはいつだって傲慢で不遜な奴なんだ。
「コーチ!」
体育館の入り口から声が聞こえた。
バスケット部のマネージャーで、オレの妹でもある香奈が葛城を手招きしていた。葛城が怪訝そうな顔をして歩き出す。
その足がふと止まった。
「おい、佐倉井! わたしが見てないと思ってサボるんじゃねぇぞ!」
しっかり佐倉井に念を押すことだけはわすれない。それにしても、もっとましな言い方ってもんがあるだろうが。
「葛城。そろそろ休憩取りたいんだけどな……」
仕方なくオレはその場のピリピリした雰囲気を消そうと葛城に話しかけた。
他の部員も疲れが溜まってきている。ここいらで休憩を入れたほうが効率が良さそうだった。
葛城もそれに気づいたようだ。了解の印に手を挙げると、香奈の待つ外へと歩き去っていった。
オレはため息混じりに部員たちに休息の指示を出した。
葛城は今年の四月に編入してきた転校生だ。それもバスケット部監督の柏葉先生のお墨付きで、この西ノ宮高校のバスケット部のコーチとしてわざわざ編入してきたのだ。
同年代の、しかも女がコーチに着任して、部員たちは初めは憤慨していた。だが文句はすぐに言っていられなくなった。
彼女が部員たちの目の前で行ったシュートのデモンストレーションは、非の打ちようのない出来だったからだ。
誰が予想しただろう、部員たちの指示する場所から放った、百本を越えるシュートをすべてノーミスでリングに押し込むなどと。
オレたちと彼女の勝負を笑って見ていた監督が止めなければ、彼女は二百本でも三百本でもシュートを放ち、確実に決めていたはずだ。
百発百中、一発必中の正確無比なシュートを見せつけられ、オレたちはぐうの音も出なかった。
誰もそんなことはできない。同じ場所からシュートし続けるだけなら、あるいは奇跡的にできる奴がいるかもしれない。
だが彼女が打ったシュートは一つとして同じ場所から放たれてはいない。
ゴール下はもちろん、スリーポイントのラインを大きく下がった位置からでさえ悠々とボールを放り、リングの淵にはかすりもせずにネットの真ん中を突き抜けていくボールを目で追いながら、オレたちは敗北感に打ちのめされていた。
飄々と百本ものシュートを放った後でさえ、葛城は涼しい顔をしていた。
あいつは化け物だ。誰ともなしに部員たちが言い合っているのをオレは何度も耳にした。
あのデモンストレーション以来、葛城が皆の前でプレイして見せることはなかった。
だが彼女のきつすぎる眼光で睨まれ辛辣な口調で罵られる度に、部員たちがあの見事な放物線を描いて飛んでいく彼女のシュートを思い出しているに違いないことは手に取るように判った。
かく言うオレも、怒鳴りつけられる度にあのシュートがストップモーションのように頭に甦る。
……床の上で軋むバッシュの足音。舞いを舞っているかのように優雅なジャンプ。乾いた音を立ててネットに吸い込まれていくボールの摩擦音。床に落ちたボールがバウンドしている規則的な打音。部員たちのもらす微かな吐息。
葛城をうち負かせる者など、この部内に一人として居はしなかった。
「お兄ちゃん!」
香奈の呼び声でオレは我に返った。
「なんだ?」
「もぅ! やっぱり聞いてなかったのね」
頬を膨らます妹に苦笑いを浮かべて謝ると、オレは缶に残っていたスポーツ飲料を飲み干した。
「だからね、葛城コーチを訊ねてきた人ってのが、すっごい美人なの! しかも清楚って言葉がぴったりくるような!」
「はいはい、それで?」
「あの人、コーチのなんだろうね? お姉さんかな? まだ若いからお母さんってことはないと思うけど」
葛城自身は清楚なんぞという単語からは一番ほど遠そうな性格をしている。
あいつだって、黙っていれば美人の部類に入るのだ。その訊ねてきた人物があいつの身内だっていうのなら、外見で内面まで判断したくはないね。
「おれはその女の人見てないけど、香奈さんのほうが美人だと思うね」
オレの側に座り込んでいた佐倉井がデレデレと鼻の下を伸ばして香奈を見上げた。こいつの反応は分かり易すぎる。香奈が好きだと顔にハッキリ書いてある。
……まぁ、兄の自分が言うのもなんだが、香奈は可愛い。佐倉井が惚れるのも無理はない。
「やぁだ~。佐倉井君ったら何言い出すのよ。でもすっごい美人なのよ~、その人ってば。女のあたしが見てもほれぼれするくらい。
あ……でも、美人でも葛城コーチとはタイプが違ってたなぁ。コーチはどっちかって言うと西洋美人って感じだけど、その人は日本人形みたいな感じだったもん」
どういう例えだ? オレにはどっちでもいい。見てもいない女の噂話なんか興味もない。
「ねぇねぇ、誰だと思う?」
香奈がワクワクと目を輝かせてオレに返事をねだっていたが、まともに答える気にもならず、オレは葛城の出ていった体育館の戸口を振り返った。
「香奈ちゃ~ん。助けて~」
大きな荷物を抱えた高杉真子がフラフラと歩いてくる姿が見えた。彼女もバスケット部のマネージャーだ。
妹の香奈より一学年上だが、香奈が子供っぽいせいか、大人びた顔をしているように見える奴だ。
「真子先輩!? どしたんですか、その荷物!」
前がほどんと見えない状態で足元もおぼつかない様子の高杉に気づいて香奈が飛んでいった。
戸口の段差で立ち往生していた高杉が、香奈の手助けに大袈裟なほどのため息をついてぼやく。
「もぅ~、いやんなっちゃうわ。柏葉先生ったら、私一人にこの大荷物押しつけてどっか行っちゃうんだもの」
「あれ~。これって新しいユニフォームですかぁ~? わっ! 黒地に青赤のライン!西ノ宮カラーですね~」
高杉のぼやきを無視して香奈が荷物の中からユニフォームを引っぱりだしている。休憩していた部員たちの目が光る。
もう後数日もしたら、監督からレギュラーが発表されるはずだ。そのときにレギュラーナンバーの入ったユニフォームを手渡されることを皆夢見ているのだ。
その憧れのユニフォームが目の前にある。目を輝かせるなと言うほうが無理というものだ。
「香奈さ~ん。おれも見たい!」
すっかり子供のようにはしゃいで佐倉井が荷物の山に突進していった。
柏葉監督の方針で、うちの部は実力主義だ。一年坊主でも実力があればレギュラーの座がまわってくる。
佐倉井もここのところメキメキと力を伸ばしてきているから、決して夢物語の話ではない。
もっとも監督が選ぶということはコーチである葛城の意見が多分に含まれるということだ。
反抗的な態度の佐倉井を葛城がどう評価しているのか……少し気にはなるところだ。
わいわいと部員たちが荷物に群がり、ユニホームを引っぱりだしては取り合っている。休憩時間はもうすぐ終わるが、これはしばらく収まりそうもない。
「やぁ、すみませんでしたね。真子くん」
飄々とした声が聞こえたかと思うと体育館の入り口に柏葉監督が顔を覗かせた。
四十代後半のはずだがスポーツマンらしい体型と十歳は若く見える男前な顔の造りで、学校の女子の間で密かに人気が高い。
「もぅ~、酷いですよ。一人でここまで運ぶの大変だったんですから! これ、貸しですよ、監督!」
声をかけられた高杉が頬を膨らませて監督を睨むが、本気で怒っていないのは明らかだ。
「電話が入ってしまってね。……おや? 我が部のコーチはどこに行きました?」
監督が人垣をキョロキョロと見まわした。
葛城の姿が見えないことをいぶかしんいる。それもそのはずだ。葛城が部活時間にこの体育館にいないことなど、今までなかったことだ。
「葛城コーチなら、綺麗な女の人に呼ばれて裏門に行きましたよ」
葛城に伝言をした香奈が代表して答える。
「綺麗な女の人? 誰です?」
柏葉監督の丸眼鏡の奥の瞳が糸のように細くなった。
「えぇっと? ……名前を仰らなかったです。でも綺麗なストレートの長い髪で、色白の優しそうな顔で。葛城コーチより五つくらいは年上に見えました。顔が似てなかったけど、もしかしてお姉さんかと」
香奈は相手の特徴を伝えようと一所懸命に思い出していたが、いかんせん、名前が判らないのでは要領を得なかった。
「……お姉さん。香奈くん、その人、確かに女の人だったの?」
「え? だってワンピース来てましたよ? ……スカートだったから、女の人だと思ったんだけど」
急に不安そうな顔をした香奈に柏葉監督はニッコリと笑いかけた。
「あぁ、心配ないから。裏門だったっけ?様子を見てく……」
「桜華ちゃん……!」
監督の声を遮るように、細い呼び声が体育館に沿って植えられているツツジの向こうからあがった。
部員一同が驚いてそちらを向く。
いつも以上に険しい顔つきの葛城がこちらへと足早に歩いてくる姿が目に入った。その後ろを二十二~三歳の女性が追いかけてくる。こちらも切羽詰まったような顔つきが尋常ではない。
「待って! 桜華ちゃん!」
呼び声の主はこの女性のようだ。まだ三十メートルは離れている距離なのに随分とハッキリと声が聞こえる。
葛城の下の名前を呼んでいるところをみると、やはり身内か近しい知り合いなのだろう。それにしても、葛城の奴も『桜華』なんて、随分と大袈裟な名前をつけられたものだ。
葛城に追いついた女性が、彼女の肩に手をかける。
「放せ! わたしに用はない!」
葛城が乱暴にその手を振り払う。険悪な雰囲気だ。
「あなたに戻ってもらわないと困るのよ」
「うるさい! わたしにはもう関係ない!」
「桜華ちゃん! お母様も待っているの。お願いだから、天承院に戻って」
「関係ないって言ってるだろ!」
「天承院にはあなたが必要なの! お願い、桜華ちゃん! ……桜華ちゃん!」
追いかけてきた相手を無視して葛城がこちらに歩きかかった。
「待って頂戴。桜華ちゃん」
葛城の腕に女性が取りすがった。必至の声と形相がオレたちにもハッキリと見えた。
この人が香奈の言っていた女の人だろう。確かに綺麗な女性だ。日本人形と香奈が言っていたが、その形容詞にぴったりの人だ。眉目秀麗、とはこの人のためにあるような言葉に思えた。
「わたしには用のない家なんだよ!」
青ざめた顔の女性を突き飛ばすように払いのけると葛城が叫んだ。腕を払いのけられた拍子に、女性が蹌踉めいて地面に転がる。
冷酷なほどに冷たい視線で葛城がその姿を見下ろす。
「あんたがやりゃあいいんだよ、蓮華。わたしには、もう関係ない!」
冷え切った声が葛城の口からもれる。オレたちをあからさまに罵倒することはあるが、こんな冷たい口調で喋ったことはない。
「桜華ちゃん……」
「帰って!」
裏門のほうへ顎をしゃくり、葛城は冷たい視線を蓮華と呼んだ女性に向け続けた。容赦をしない口調は聞いているオレたちさえ慄然とする厳しさがにじんでいた。
葛城の態度に屈したのか、女性はフラフラと立ち上がり肩を落とした。青ざめた顔は白さばかりが目立つ。
哀しそうな瞳で自分を見つめる女性のことなど無視して背を向けると、葛城はオレたちの待つ体育館入り口へと歩き出した。
葛城の肩越しに女性が彼女の背中を見送る姿が目に入る。
茫然とこの様子を見ていたオレたちに、歩き始めた葛城はすぐに気づいたようだったが、無表情を保ったその顔からは葛城の胸中を推し量ることはできなかった。
「何やってるんだ? まだ休憩時間だなんて言わないよな?」
いつもの厳しい口調に戻った葛城がオレたち部員を見まわした。まったく乱暴な口調だ。
彼女のきつい視線を受けて、部員たちが慌ててコートへと戻っていった。
遠くに見えた長髪の女性が諦めたのか、力無く歩み去っていく。
「お前がついてて、何やってるんだよ、赤間! もうすぐ地区予選が始まる時期にだらけていてどうする!?」
厳しい叱責がポンポンと葛城の口から飛び出してくる。
「悪かったよ。新しいユニフォームにちょっと浮かれていただけだ」
反論すればするだけ葛城の口調がきつくなることを今までの経験で学習していたオレは、素直に詫びて部員たちの待つコートへ向かおうとした。
「あぁ、赤間くん。ちょっと待ってください」
柏葉監督の声がオレを呼び止めた。監督の口調は先ほどの葛城の様子を見ていたにも関わらず、淡々としていた。
「桜華くん」
「……? はい」
監督に返事を返しながら、葛城が首を傾げた。監督には随分と素直な態度をとる奴だ。
「すみませんが、今日は赤間くんに家まで送ってもらってください。人と会う約束があるので」
「えぇ!?」
驚いてオレは目を瞬しばたたかせた。
葛城は柏葉監督の家に居候している。部活の帰りはいつも監督の車に乗って帰るのだ。
同じ家に帰るのだから、車に同乗してもオレたちは不思議に思わなかった。だが高校生にもなって、家まで送れとはいったいどういうことなのだ。
「柏葉先生。送ってもらわなくても、わたしなら一人で帰れますよ。子供じゃあるまいし」
監督の言葉に葛城が口を尖らせた。それはそうだ。これでは葛城を子供扱いしているようにしか見えない。
「先ほど結城先生から電話が入りました。今夜、到着するそうですよ。僕がこれから迎えに行く約束をしましたから、今日の帰りは君一人になってしまいますからね。夜道の女の子の一人歩きは危ないでしょう?」
部活が終わるのは、夜と言っていい時間帯になっているが、監督の家の距離は女が一人で帰るのに遠すぎるということはない。
だが、葛城は監督の言葉に目を輝かせた。
「薫さんが……!?」
ついぞ見たことのない晴れやかな顔つきだ。普段からこういう顔をしてくれていればいいのに。
「ちょっと監督! オレだっていつも香奈と一緒に帰ってるんですよ。妹も一緒に連れてけって言うんですか!?」
「そんなこと言ってませんよ。香奈くんは今日は他の部員に送ってもらってください。君はキャプテンなんですから、コーチを送っていくくらいのことでガタガタ言わない!」
ふ、不公平な気がする。
監督の家とオレの家は正反対の方角だ。葛城が帰宅する同方角なら、佐倉井や三輪とかがいるじゃないか。
オレたちのやりとりを遠巻きに聞いていた部員たちが困惑している様子が背中に感じられる。
「じゃあ、頼みましたよ」
オレが反論を思いつく前に監督はサッサと歩いていってしまった。
「……別に送らなくてもいいよ。ガキじゃないんだから」
監督の姿が見えなくなるとすぐに葛城がオレに言った。つっけんどんな口調だったが、オレに気兼ねしている様子が微かに伺えた。いっぱしに気を使ってやがる。
「いいよ、別に。送っていくくらいなら。香奈のことは木塚にでも頼むし」
オレは部員のなかで一番信頼の置けそうな男に妹を頼むことを決めると、葛城にチラリと視線を向けた。
普段とは明らかに違う困惑した表情を浮かべた葛城の顔が、このときばかりは女子高生らしく見えた。
部活の終了後、オレは葛城の着替えが終わるのを校門で待っていた。
「ゴメン、待たせた。迷惑かける……」
コーチをしている葛城はいつも体育館や部室の施錠を確認してから、帰るのを習慣にしていたので、部員の中で一番遅く更衣室を出てくる。
今日も女子更衣室の戸締まりに始まって、部室、体育館の施錠を確認して鍵を用務員室に返してから、駆けつけてきたのだろう。他の部員たちはとっくに帰ってしまっていた。
薄情にも、他の男子部員は誰もオレにつき合おうとか代わってやろうとは言ってくれなかった。妹の香奈だけが一緒に行ってもいいと言ってくれたが、あまり帰りが遅くなると母が心配する。やはり先に帰すことにしたので、葛城を送っていくのはオレ一人になってしまった。
「んじゃ、行くか」
オレが先に立って歩き始めると、その後ろを葛城がトボトボとついてくる。部活のときの勢いはまるでなかった。これでは囚人を連行しているみたいじゃないか。
「なぁ。結城って誰?」
重苦しい沈黙に耐えかねて、オレは葛城に呼びかけた。昼間の女性のことを聞くのは葛城の様子からはばかられる以上、オレの関心はもう一人の人物に向かった。
部活のときに見た葛城の喜びようから見ても、結城なる人物は葛城にとっては大切な人なのだろう。
自分のことをあまり語ろうとはしない葛城を喜ばせるような人物にちょっとした好奇心が湧いたこともあった。
「……わたしの主治医」
「へ?」
意外な答えにオレは思わず足を止めた。
「主治医? お前ってどっか悪いのか!?」
「大したことない。……薫さんは治るって言ってくれてるし」
そう言えば、初めのデモンストレーション以降、葛城はオレたちの前でプレイの見本を見せてくれることはなかった。コーチと言いつつも、やっていることは監督代理のように指示を出すことがほとんどだ。
どこが悪いのだろう?
そういえば、葛城ほどの実力があれば、女子バスケでかなりのレベルの学校に入れるはずだ。
彼女が西ノ宮高校のバスケ部コーチでいる不自然さを感じていたオレたちの疑問がこういった形で見えてくるとは思いもしなかった。
オレに追いついた葛城がチラリとオレに視線を向けたが、すぐに外すと先に立って歩き出した。
慌てて彼女を追うと、オレは並んで歩き始めた。
どこが悪い、とは葛城は敢えて口にしなかった。たぶん、言いたくないのだろう。自分のことを語るのが苦手なのかもしれない。
それ以上の追及がしにくい雰囲気に、オレは黙り込んだ。先ほど以上の気詰まりな空気が肩に重くのしかかってくる。
押しつぶされそうな沈黙を破ったのは、今度は葛城のほうだった。
「推薦のほう、どうなってる?」
初めは何を言われたか判らなかったが、それがオレの進路を言っていることに思い至り、オレは葛城の横顔をマジマジと見た。
今まで葛城は部員の進路のことなど口にしたことはなかった。
どう答えたらいいものか。迷っているオレを葛城がどう取ったのかは知らないが、オレにチラリと視線を向けた後、自分の言葉を補足するように続けた。
「昭島大のバスケ部から特待生で、ってことで話がきてるんだろ?……話は上手く進んでるのか?」
「うん……。進んでるって言えばいいのかどうか。条件付きだけど、まぁ、なんとか」
「条件?」
葛城が眉間にシワを寄せてオレを見た。
「あぁ、特待生の条件は……全国大会でベスト4に入るってことなんだ」
「ベスト4!? 随分と厳しいじゃないか。ようやく全国大会に行けるってレベルだった学校の部員にだす条件じゃないよ」
「今年は西ノ宮に期待してるってことだろ? 今のメンバーなら、狙えないこともないと思う」
確かにきつい条件だが、例年以上に秀逸な人材が揃っているのも事実だ。
葛城が口を歪めた。不機嫌そうに鼻を鳴らす。なぜだか、葛城は怒っている。オレの進路なのに、葛城が怒ってどうするんだ。
「今のままじゃ、絶対に無理だ」
ボソリともれた葛城の声は酷く掠れていた。
「え? なんで? 今までの練習試合を見ても、地区予選は楽勝だろうし……」
「全国は、そんなに甘くない」
険しい顔つきの葛城の横顔にはなんとなく焦りが見えた。
「コーチのお前がそんな悲観するなよ。オレにプレッシャーかけてもいいことないぞ」
オレの言葉に葛城はいっそう気難しい顔をした。
ふと、後ろから聞こえる音にオレは耳を澄ませた。
静かな音だったが、車が近づいてくる音がする。数年前からブームになっているソーラーカーの走行音だ。
あの車は近くにくるまで音が聞こえないから、気をつけていないと危ないのだ。
うっかり路地から飛び出した子供が正面衝突なんてことが最近のテレビニュースなどで流れている。
そのオレの視界一杯に光が溢れたのは、車との距離を確認しようとオレが振り返ったときだった。
「……うわっ!」
オレはあまりの眩しさに顔を覆った。ヘッドライトの光だとすぐに理解できたが、不自然さがオレのなかに疑問を投げかけた。
このソーラーカーはオレたちのすぐ後ろの距離に近づくまでヘッドライトをつけていなかったのだ。
辺りは暗くなっていて、ヘッドライト無しで走行するには危険すぎるはずだ。ライトを消していたのは、故意にやっていたとしか思えない。
「な、何が……」
目の前がチカチカして物がよく見えない。
車のドアが開く音が複数回した。
痛む目を懸命に開いてオレはヘッドライトのなかに立つ人物を見ようとした。だが、それは叶わなかった。
人の呼吸音がすぐ目の前でするが、目は一向に視力を取り戻さない。
なんの前触れもなく、鳩尾に激痛が走った。息ができない。
「やめて……!」
遠くに葛城の声が聞こえた。
「うるさいよ、桜華。ボクと一緒にくるんだよ。おい! そっちの奴も一緒に連れていけ」
葛城と争っているらしい男の声が、オレの腹を殴りつけた奴に指示を出す。再びオレの身体に激痛が走る。今度は後ろの首筋だ。
あまりの痛みに苦痛の声をあげることも出来ず、そのままオレの意識は闇に落ちた。