2000年6月20日の投稿[1件]
永遠の娘【三話】
自分の名を呼ぶ聞き馴れない声がすぐ耳元で聞こえる。
“らさ! 起キロッ”
聞いたこともない子供の声。
「だ……れ……?」
倒れたままの姿勢からラサは頭だけ動かして声の主を見上げた。
「ネモ……?」
大きな光る目で自分を見下ろす竜の子と目が合う。自分にはちっとも懐かない可愛げのない生き物だ。
ラサはお師匠に可愛がられているこの幼獣が内心では嫌いだった。
「あんたなの? 今、わたしに話しかけたのは?」
異形の者が鼻を鳴らす音が小さく響く。
“他ニ誰ガイル? ……相変ワラズノ半人前カ、オ前ハ? えいらノ跡ヲ取ルニ相応シクナイ奴ダ!”
小ばかにしたように竜が目を細める。口はまったく動かされていない。幼獣はラサの頭に直接話しかけてきているようだ。
「う、うるさいわね!あんた、こんなとこで何してるのよ!?」
竜の子の不愉快な言葉にラサは飛び起きた。その拍子に自分の身にまとう白い衣装が目に入る。
「あ……!?」
“魔力グラマヲ受ケ継グコトダケハ出来タヨウダナ。ト、ナルト我ガえいらノ刻ときノ砂ハ止マッタカ……”
ラサは今まで身にまとっていた衣装がまったく別のものにすり替わっていることに愕然とした。見習いの衣装の代わりに自分がまとっているものは、師匠が正装するときに身にまとう純白の羽織だった。
袖下には月長石ムーンストーンが下がり、肩先を除く全身すべてを覆い尽くすその衣装は、ラサの身体の寸法を測って作られたように身体に馴染んでいた。
慌てて額に手をやる。
馴れない感触。金属の冷たさと真珠特有の滑らかな手触りが指先から伝わる。額飾りサークレットがここにあるという現実がラサの身体から血の気を引かせた。
「お、お師匠様……」
“マタソウヤッテ泣クツモリカ? 誰モ助ケテナドクレハシナイゾ。古書ヲ読ンダトイウノニ情ケナイ!”
頭のなかで破鐘のように響く痛烈な批判はラサの胸に突き刺さった。
「カームになど……。こんなことになると知っていたら、カームになどなりたいなどとは思わなかったわ! なぜなの!? なぜお師匠様が死ななければならないのよ!?」
泣き喚くラサを竜の子は冷めた目で眺めた。さも軽蔑したように鼻を鳴らす。
“……子供ヨナ。ソンナ覚悟デハ、えいらガ嘆コウニ……”
「あの書には……。あれには歴代のカームの生死が書かれていたわ! どこで生まれ、どこでどうやって死ぬか!」
古書の秘密を他の者に漏らさぬはずだ。一族の癒し手の生死を書き記した書物など、他の者が知ってはいけないことだ。親しい者の死を知ってしまったら、時を数えて恐怖するだろう。
“ダカラ、癒シ手ニハナリタクナイ、ト? ……ソウヤッテ甘エテ、オ前ハ森ノ民ヲ見殺シニスルノダナ”
「……死にたくないわ。わたしには自分の死を直視する勇気なんてないもの! お師匠様の死だって信じない!」
ましてや書物に自分の死に様が書かれていたとしたら……。歴代のカームたちは、こんな残酷なことが書かれた書物を読んだというのか!?
“愚カ者メガ! 血ニ飢エタ殺戮者タチカラ、オ前タチ幼子を護ルタメニ自ラノ命ヲ身代ワリトシタ師匠ノ想イヲ踏ニジルカ!? えいらノ代ワリニオ前ガ死ンデシマエバ良カッタノダ!”
まだ貧弱な羽根を精一杯大きく開くと竜の子は凶暴な叫び声をあげた。
竜の揺り動かす羽根の間から虹色の波紋が広がった。巨大な虹の壁が一面に展開し、めまぐるしくその色を変えていく。
「こ、これは……!」
“見ルガイイ! オ前ノ救ウベキハズノ者タチノ姿ヲ!”
輝く壁のなかに暗闇で怯える子供たちと気を失って倒れているキーマの姿が見えた。
「キーマ!? 子供たちまで! ど、どこにいるの!?」
“守護者ニシカ開ケラレヌ闇ノ部屋ニ隠サレタ者タチダ!放ッテオケバ飢エテ死ヌ”
壁が暗くなったかと思うと、今度は川上で繰り広げられる凄惨な戦場を映し出した。
「あぁ、そんな……。みんな、疲れ切って……。それに傷だらけだわ……」
“奴ラガタトエ勝利シテ戻ッテ来タトシテモ、癒シ手ガイナケレバ、永遠ニ戦ノ疲レハ癒サレマイ”
再び壁が暗くなる。そして、今度は見慣れた館の前庭を映す。人が見える。ここでも誰かが戦っている。
「族長クーン! だ、駄目! 早く逃げてッ!」
“友ヲ救ウタメニ戦ウ者。ダガ、疲レ切ッタアノ躰デハイツマデ保ツコトカ……”
壁が虹色に輝き始めた。そしてその輝きが収まると一人の白い女の顔が浮かぶ。
「お師匠様! お師匠……」
額に汗を浮かべて詠唱を続けるカームの横顔は疲れ切ってきた。気丈さを装おう姿はいつも通り美しく、幻想的でさえあったが、張りつめた緊張の糸は今にも切れそうだ。
聞いたこともない呪歌ガルーナの韻の間から懐かしい師匠の声が響く。
「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者カームのすべてを!」
優しい声音が空気を震わす。
「駄目です……。わたしは怖い。自分の死を見たくない! 耐えられません、お師匠様。自分の死を指折り数えて生きていくなど……!」
ガタガタを震えながらラサは白い癒し手を見上げた。虚空に浮かぶ水晶球を凝視する師匠の横顔は青ざめている。
水晶球が詠唱を続ける者の魔力グラマを奪っていく様子が手に取るように分かる。もうカームには幾らも魔力グラマは残ってはいまい。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
ラサは金切り声をあげた。壁から猛烈な力が押し寄せてくる。押しつぶされそうなほどの強大な力。
“白キ娘ヨ。目ヲ逸ラスナ!”
頭を抱えて転げ回るラサの脳裏に竜の幼い声が鳴り響く。その竜の声を追うように頭のなかに怒濤の勢いで流れ込んでくるものがある。
怒り、憎しみ、呪い、嘲り、哀しみ、嘆き、恐怖、嫌悪……。
闇から迸り、流れ込む感情の波にラサは翻弄されてもがきまわった。
「く、苦しい……。助けて……」
“巫女ノスベテヲ受ケ止メルガイイ! 娘ヨ!”
際限なく続くかと思われた負の感情の流入が突然止まった。
咳き込みながらラサは恐る恐る顔を上げた。光の壁に映し出された師匠の顔に滝のような汗が流れている。魔力の限界だ。これ以上力を使ったら、師匠は廃人になってしまう。
「お師匠様……。駄目です。あなたが死んでしまったら、わたしは癒し手に……」
ラサは青ざめた顔を竜に向ける。
「お願い、ネモ! お師匠様を止めて!」
だが竜の子がそれに返事を返すよりも早く、白い女は両手を高く突き上げて叫んでいた。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたラサは私カームになる!」
水晶球を掴み取った師匠の指の間から閃光が迸った。
「お師匠様……! やめてッ!」
掠れた叫び声をあげたラサの脳裏に閃光が突き刺さり、見覚えのない景色を焼き付ける。
自分が生まれ落ちるより遙か以前の記憶。白い癒し手たちの幼い記憶がラサの脳髄の奥まで浸食する。
そして また
脈々と続く記憶を受け継いで
再生の巫女が生まれよう
あふれ出てくる記憶の数々にラサは目眩を起こして床に倒れる。これを一人で負えというのか!? 何十人という白い女たちの記憶。
ラサの小さな身体では収まりきらないほどの記憶が彼女の内部を食い荒らす。激しい痙攣を起こしながら、ラサは悲鳴をあげることもできない苦痛に身を焼いた。
“見届ケヨ。白イ娘ヨ! コノ世ノ末マデ、スベテヲ見届ケルガイイ。”
流れ込んでくる記憶の奔流を遡り、ラサは一族の者たちがあげる声無き苦悶を聞いた。身体は引きちぎられそうな苦痛が支配を続けている。
しかし、心の方はより純粋に、天の高みに昇っていくように高次元の世界へと引き込まれる。
「あ……れが……カー……ムの……本……質……?」
見開いたままの目から涙が溢れる。
“美シイ世界デアロウ?オ前ガ到達スベキ場所ダ”
竜の子にもラサの見ているものが見えているのだろうか? 痙攣を繰り返す娘の身体を未発達な前足でなでさする。
「あ……ぁ、な……んて……綺……麗な……」
ラサはなにを見ているのだろうか?
彼女が流している涙は決して哀しみや苦しみのためのものではなかった。痙攣が続く唇がため息をもらす。安堵と、諦観を含んだ優しい吐息。
「竜よ。……古き者よ。私の子たちを助けて……」
涙で潤んだ眼まなこが異形の瞳とぶつかる。
“待ッテイタゾ、ソノ言葉ヲ!”
竜の子が口をいびつに歪めて笑い、すぐに喉を震わせて咆吼した。
「な、なんだい!? この声!?」
ハルペラの剣が止まった。
どんな肉食獣でも出しようのない凶暴で残酷な吠き声が間断なく夜空を、森を、谷間を震わせる。轟々と響きわたる声に身体がすくむ。
「あれは……!」
アティーナのあげる声の方角を振り向いたハルペラは息を飲んだ。
癒し手の館の上に巨大な黒い影が浮かんでいる。細い月を背にするその影の輪郭は禍々しい。
「古代竜! そんなバカな……あれは伝説の……」
茫然と呟くハルペラの声を聞きながらアティーナも身体を震わせた。
カームが飼っている竜の幼獣など足元にも及ばない。知恵の王“古代竜”が天空から自分たちを睥睨している。嘲笑うような赤い瞳。大きく開かれた口から覗く巨大な牙。巨躯の数倍に達するであろう大きな翼。
“血に飢えた戦士にも、この姿は恐ろしいか”
二人の族長の脳髄を焼く声が響いた。禍々しいほどの圧倒的な力を持った声だ。逆らい難さに、身体から力が抜けていく。
「竜の長おさ……」
喘ぎ声をもらしてアティーナは地面に座り込んだ。すぐ隣に立つハルペラの膝が目に見えて震えているのが目に入った。その右手に下げた剣の先が力無く地面を叩く。
「嘘だ……。古代竜など、いるものか! 嘘だぁっ!!」
“一族の誇りを失った者の戯れ言など聞きたくない”
ハルペラの叫びを嘲る声が響いた。谷の族長の身体がビクリと痙攣する。顔は血の気が引いて真っ青だ。
“男たちを一族に加えてどうするつもりだ、ハルペラよ”
巨大な竜の詰問にハルペラは答えなかった。
その竜が浮かぶ館から数人の女たちが駆けだしてきた。谷の一族を示す蒼い布が肩から下がっている。
彼女たちは自分たちの族長と森の族長に気づくと、一斉に駆け寄ってきた。だが、凍りついたように立つ二人の顔に気づきすぐに立ち止まった。
「族長クーン!? なぜとどめを刺さないのです!」
敵の長を目の前にしながら茫然と空を見上げる族長の様子を怪訝そうに伺い、主人の見上げる空を振り返った。
「ひぃっっ!」
一様に女戦士たちは凍りついた。悲鳴を上げることも忘れて震え上がっている者もいる。
“愚か者どもめ。くだらぬ勲いさおしなど見るも穢れる”
戦士たちの身体についた返り血を憎々しげに睨むと、巨大な羽根を持つ者は不快そうな咆吼をあげる。さらにその巨大な顎あぎとを開いて牙を剥きだした。
竜の唸り声が遠くの山々まで届き、空気を波打たせる。
“消えるがいい! 女族アマゾネスの名に相応しくない者ども!”
地面に縫いつけられたように立ちつくす女たちめがけて竜は前足を振った。いくら巨大な体とはいえ、そこまで届くはずもないのに。ところが、見えない風圧に吹き飛ばされるように女たちは次々とはじき飛ばされ空へと舞いあげられた。
アティーナは木の葉のように空に舞う女たちを見上げるしかなかった。アッという間に夜の闇に消えた谷の者たちの行く先など解るはずもない。
“己の撒いた災い。己の命で贖あがなうがいい”
冷徹な竜の声が闇に消えた女たちの後を追う。
「竜の長……」
館を護るように空に浮かんだままの古代竜を見上げて、アティーナは自身の死を覚悟した。次は自分の番だ。
無様な戦いぶりだった。族長としての自身の器の小ささを見せつけられた今夜の戦闘は、非難されても反論はできない。
“お前は我が名を忘れてしまったのか? アティーナ”
森の族長は首を振った。忘れるはずもない。生まれたときから聞かされる女族アマゾネスの真の守護者。古代竜の名を。
「誇り高きアレオパゴスよ……」
一度も会ったことはない、今日が初めてだ。だが見間違えようもない伝承通りの巨躯と声の持ち主。圧倒的な力の差の前に、アティーナはただ平伏することしかできなかった。
アティーナの返答に満足したのか、巨大な黒い竜は目を細め、口を歪めて笑い声をあげる。
“上出来だ、アティーナ。エイラの子供たちに栄光を……!”
次の瞬間、古代竜の姿は掻き消すようになくなった。その存在を示すものは何も残されていない。
暗い夜空には細く痩せた月がかかっているだけだった。
痺れた頭を振りながら起き上がると、キーマは目の前の娘の姿に息を飲んだ。
「ラサ・モーリン!」
小さな白い影が振り返る。利発そうな顔に微笑みが刻まれる。どこかで見たことのある顔つき。
「気がついたのね。子供たちも落ち着いたから、そろそろ戻りましょうか」
見れば、ラサのまわりには年端もいかない子供たちがまとわりついて離れない。どうして幼い者たちがラサと一緒にいるのだろう。屋敷で眠っているはずなのに。
「ラサ・モーリン、ここはどこなのです!?」
辺りを見まわしてキーマは動揺した。何も見えない。ラサや子供たちはあんなにハッキリとみえるのに、まわりは真っ暗な闇が拡がっていた。こんな空間は知らない。
カームの居室で気絶したらしいことは覚えているが、その後がどうなったか覚えがない。
「秘された間。……そう呼ぶのが相応しいかしら。わたしにしか開け閉めできないらしいわ」
自嘲を含んだ笑みを顔に浮かべるとラサはキーマに手を差し伸べた。
「ラサ・モーリン……。その額飾りサークレットは……」
ようやくラサの姿がいつもの見習いの格好ではなく、カームの正装だと気づいてキーマは怯えた。
「……これから、忙しくなるわ。戦が終われば鎮魂の儀式リポーズランセムが行われるだろうし、館や屋敷の修理もしなきゃ。手伝ってね、キーマ」
一瞬、ラサの顔に寂しげな笑みが浮かんで消えた。
「白き母上……。ここは怖いよ。早く帰ろうよ」
怯えた声で訴える幼子たちを振り返るとラサは穏やかな微笑みを向けた。
「大丈夫よ。わたしがついているわ」
キーマは子供たちが自分以上に素早くラサの変わり身を受け入れたことに驚愕した。つい昼間まではラサはカーム見習いだったのだ。それなのに……。
「さぁ、急ぎましょう。キーマ。みんなが待っているわ」
首を微かに傾げて自分に微笑みかける娘の仕草にキーマは震えた。白き母エイラの癖だ。なぜ彼女がそんな仕草をするのか。
だが差し出された小さな手を振り払うこともできず、キーマはその手を取った。温かい生き物の温もりが伝わる。
「“光、満ちよ。月の見る夢は醒めた”」
滑らかに呪歌を唱う小さな娘の横顔を見つめながら、キーマはラサがカームの力を受け継いだことを悟った。
新たな癒し手が誕生した。ならば、旧き者は……。
自分の予想が外れることを祈りながら、キーマは空間を満たす光の渦のなかに身を投じた。
「ラサ・モーリン! いったいどうやってここまで来たの!?」
黒い鎧を血で染めた女が叫んだ。その声につられてまわりの者が一斉に振り返った。全員の視線の先に白い小さな娘が立っていた。軽く首を傾げ、静かな笑みを浮かべている。
「こんな前線まで来るなんて!槍一本持ったことのないお前がくる場所じゃないよ。早く館……へ……」
「ラ、ラサ……。その姿は……」
ざわめきが拡がっていく。小さな娘は純白の衣装を見にまとっていた。そして額には真珠の額飾りサークレットが……!
「みんな、帰りましょう」
唱うように喋る白い娘の顔には優しい微笑みが浮かんでいた。
「何を言っているの!? お前、あの剣戟が聞こえないのかい!?」
戦いの場からは荒れ狂う水音のような叫声が響いていた。そして、さらに剣と盾が擦り合わされる甲高い音。
「いいえ。すぐに収まるわ。ホラ! あれを見て」
娘が細い月のかかる夜空を指さした。つられるように女たちが空を見上げる。何かが降ってくる。
「なんだ……? 何か落ちてくるぞ」
月の細い光に照らされて木の葉のように舞うものが落ちてくる。
「……! お、おい! 人だ! 人が落ちてくる!?」
呆気にとられて見守るなか、空から降ってくる人型がどんどん大きくなってくる。きりもみ状態で間近まで迫った人間たちの腕に蒼い布地が見えた。
「た、谷の者だ! どうなっているんだ!?」
「うわっ。落ちるぞ……!」
ざわめきが急速に辺りに拡がっていく。剣を撃ち合わせる音が小さくなり、そして、止んだ。
水を打ったような静けさのなか、上空の女たちのわめき声だけが異様に大きくこだまする。
「谷の族長だ! あぁ!?」
吸い込まれるように地面に近づく女の顔には正気はない。瞳は恐怖に見開かれ、唇は意味不明の言葉を発し続けていた。
戦いのまっただ中だった場所に女たちが次々と落下していく。
叩きつけられる鈍い音と、断末魔の絶叫が空気を振動させた。時間が凍りついたように止まった。
「いったい何が起こったんだ!?」
人の業わざとは思えぬ出来事に戦っていた者たちは戸惑い、怖じ気づいた。こんな死に方はご免だ。誰もがそう思う凄惨な死。
谷の族長の身体は落ちた衝撃でぐちゃぐちゃだった。手足は幾重にも折れ曲がり、頭は跡形もなく潰れている。
他の降ってきた女たちも同様な死に様だ。
嗅ぎなれた血臭のはずなのに、吐き気が胃からこみ上げてくる。その場に居合わせた者たちは一様に顔を歪ませた。
もはや戦うどころではなかった。毒気を抜かれた軍勢は誰が言うともなしに後退を始めていた。
「ラ、ラサ!?」
その時になってやっと、自分たちの目の前にいた娘の姿が見えなくなっていることに気づいた森の一族は、お互いの顔を見合わせ困惑した。
月が見せた幻か?混乱した頭のまま女たちは退いていく敵たちを見送った。
よろけるようにアティーナは館へと踏み込んだ。
扉は破壊され、家具類は引き倒されていた。こんな有り様になった館内など見たこともない。いや、これからだって見たくはない。
震える身体に鞭打って、アティーナは一番奥にある一族の母の居室へと向かった。
居室の扉は跡形もなく吹き飛んでいた。アティーナの身体の震えが増す。
恐る恐る戸口に手を掛け、アティーナは強ばる足を叱責した。入り口からそっと中を覗き込む。
「……! カー……エイラ!」
奥に倒れている白い人影にアティーナは飛びついた。
「エイラ……! エイラ! しっかりして!」
土気色をしたカームの顔はピクリとも動かない。胸は血で真っ赤に染まっている。体温は触れている間にも、どんどん下がっていく。心臓は、……もう脈打ってはいなかった。
自分は間に合わなかったのだ。
アティーナの瞳から涙が伝った。
「ごめんなさい……。エイラ、ごめんなさい。私が……私がもっと早く来ていたら……」
かつて一緒に草原に遊んだ友の骸が急速に冷えていく。自分の体温を分け与えるように友を掻き抱いてアティーナは泣き続けた。
どれほど悔いても、悔いきれない。自分がもっと早くに敵の罠を察していれば、こんなことにはならなかった。
死の神が命を奪っていくというのなら、自分の命を奪っていってくれればいいのに。なぜ、一族の母を、自分の幼い日の友の命を奪っていくのか!?
「あぁ、月神アルテミスよ、戦神アレスよ。お願いです。エイラの命を戻してください、お願いです……」
肩を震わせて泣くアティーナの背後に人の気配がした。
涙を拭きもせず振り返り、アティーナはそのまま茫然とその人物を見つめた。
月光色の髪が波打ち、純白の衣装の縁を彩る。青白い肌のなかで若葉色の瞳と淡い紅色の唇だけがハッキリとした色彩を放っていた。
「ラサ……?」
目の前に立っているのは、確かにラサ・モーリンと呼ばれる娘であるはずなのに、そこにいる者は自分の知っているカーム見習いの小さな娘ではなかった。
慈悲深く自分を見つめる瞳に見覚えがある。すべてのものを飲み込んでしまう深淵を思わせる眼差しがひどく懐かしい。
「子供たちは無事です。キーマ・ラスティも。間もなく一族の者たちも戦場いくさばから帰ってくるでしょう。……立ちなさい、族長クーン。あなたに立ち止まる時間など与えられてはいない。わたしと同じように、ね」
謎めいた微笑みを湛えて白い娘は一族の長を見つめた。
「お前は誰? 私の知っているラサ・モーリンはそんな娘ではなかった!」
不意に胸にこみ上げてきた苛立ちをぶつけるようにアティーナは叫んだ。理不尽な怒りが沸々と煮える。
だが白い娘は答えを返すでもなく、ただニッコリと微笑むと、死出の旅に出た女の傍らに佇んだ。
「“そして また、脈々と続く記憶を受け継いで、再生の巫女が生まれよう……”あなたに、安らかなる眠りを。美しきエイラ……」
ひっそりと囁く娘の声は唱うように空気を震わせ、アティーナの耳に届いた。驚くほど死んだ友に似たイントネーション。
哀しげに友を見下ろす白い娘の顔を見たアティーナは自分のなかの今まで悔恨や苛立ちが急速に退いていくのを自覚した。
胸に染み込む若草色の寂しげな瞳。それが懐かしい友の顔と重なる。
その信頼はどこからくるのかと訊ねたときに見せた、友の揺るぎない自信を示す空色の瞳にそっくりな光を宿す小さな娘の瞳は、彼女が間違いなく一族の魂の守護者カームとなったことを表していた。
白い娘は背後からの気配に振り返った。若草色の瞳が光の向こうを透かし見るように微かに細くなる。
“すべては元通り……”
掠れた声が光のなかに響いた。
「戦いの丘アレオパゴス? そこにいるの?」
彼女の呼びかけに答えるように咆吼が響き、黒い影がゆらりと浮かんだ。
“永遠の娘リジェナレートよ。ようやく目を覚ましたか”
安堵した声が娘の脳に拡がる。思慮深く、だが残酷な声。
「記憶の引き継ぎは終わったわ。あなたとの契約はまだ生きていたようね?」
穏やかに小さな娘が巨大竜に語りかける。
“契約を破棄するのはいつも人間のほうだ。我が守護を望むのなら、戦い続けるがいい。……闘う心こそが我が安息の地。それを提供する限り、我が守護は続く”
「ありがとう、知恵の竜。母なる月と父なる戦がある限り、あなたとの契約は履行されるわ。そうそう、今回はあなたの子供を随分とこき使ってしまったわ。あなたにもお詫びをしなければ」
白い小さな手が屈み込んだ竜の鼻先をなでた。
“森の番人ネモレンスか? あの悪戯者のことだ、あっちこっちでお前の子たちの鼻面を引っ張り回していることだろう。……ふむ。今もお前の姿を借りて一族の者を驚かせているようだ。詫びにも及ぶまい”
喉の奥で笑うような声が響いた。竜の赤い目がすぅっと細くなる。大きく裂けた口がいびつに歪んだ。
「引き続き、私があなたの子を預かってもいいのね?」
白き者の口元がほころんだ。白い歯がチラリと覗く。
“あれは森の番人だ。お前たち森の一族に委ねるのが一番相応しかろう?”
天を覆うような巨大な羽根がふわりと舞った。音もなく古代竜の黒い巨躯が浮き上がる。
“絶えることなく記憶を引き継ぐがいい、再生の巫女よ”
強烈な光が辺りを覆う。目を焼く白光がすべての色彩を飲み込んでいった。
「再びあなたに会うときは、わたしを迎えにくるときね。お師匠様の待つ光の野へ。わたしも後継者を見つけるわ、アレオパゴス。あなたとの契約のためではなく、わたしが守護する森の女たちのために……。これから生まれてくる子供たちのために……」
低く呟く白き娘の声は、消え去った黒い影には届いてはいなかった。
緑の輝きが蒼い空に放たれていた。森は朝日を受けて生き生きとしている。
自分の瞳と同じ輝きを放つ森を見上げてラサは深く息を吸い込んだ。鮮烈な空気が肺をいっぱいに満たす。
ふと東の彼方を見る。赤茶けた低い丘が見えた。戦い続ける者を招く、沈黙を守る丘、戦いの丘アレオパゴスだ。
どれほどの者の血を吸ったかしれない丘は、朝日のなかでも相変わらずの沈黙を守っていた。
「賢者ラサラサ・デュ・カーム」
おずおずと傍らに跪く娘を見下ろして白い娘は微笑んだ。
「あら、キーマ。どうしたの?」
「申し訳ありません。私はあなたを欺きました」
青ざめたキーマの顔は酷く頼りない表情を浮かべていた。
「いいのよ、もう……。それより、擦り傷を作っているじゃないの。手当をしないと」
自分と同い年の娘の腕を取ると、ラサは口のなかで小さく呪文を唱える。今まで一度でも成功させたことのない治癒魔法。
見る間にキーマの擦り傷はふさがり、傷跡さえ残さずに魔法は成功した。
「見事ですね」
「ク、クーン! どうしてここへ?」
背後の声にキーマは慌てて振り返った。
「戦が終われば負傷者のためにカームが必要だ。ここに来るのは当然だ」
無表情に答えを返すと族長クーンは恭しく白い娘の前に跪いた。
「カーム。鎮魂の儀式リポーズランセムの用意が整いました。どうぞ、お出ましを」
「解りました。すぐに参りましょう」
自分に向かって頭こうべを垂れる年かさの族長に鷹揚に返事をするラサの態度にキーマは驚きの視線を向けた。だが口に出した言葉は驚きを表すことはなく、平静を保とうとしていた。
「私も仲間の元に戻ります」
足早に草原へと去っていくキーマを見送ると、族長はラサを振り返った。その表情はどこか年以上の厳めしさを見せている。
「カーム。お訊きしてもよろしいか?」
「どうぞ。わたしで判ることでしたら」
涼しげな笑みを浮かべて白い娘が答える。
「古書には、なにが記されていたのですか?」
禁忌を訊ねる族長の顔は険しかった。友を死へと追いやったものを素直に受け入れるには、まだ時間がかかるかもしれない。
少しだけ驚いた顔をした娘が首を傾げた。
「さぁ? なんだと思います?」
逆に問いを返して白い娘は悪戯っぽく微笑んだ。
その仕草に見覚えがある。既視感に族長は目眩を覚えた。そんなはずはない。この娘が友に似ているなどと……。
「……見当がつけば、訊ねたりしません」
族長が憮然とした顔で答えた。
「その通り。だから、答えなど聞かないほうが良いのですよ」
穏やかに微笑む小さな癒し手の顔に旧知の友の顔が重なる。人の心を覗き込む、あの空色の瞳が。何を考えているのかさっぱり解らない微笑みが。
若葉色の双眸が族長の瞳をヒタと捕らえた。
「行きましょう。皆が待っています」
小さな白い母が笑う。燦然と額に輝く額飾りサークレットの白真珠が朝の光に鈍く瞬いた。
足元には喉を鳴らしてじゃれつく竜の幼獣が未熟なその羽根を空に震わしている。ぎゃあぎゃあと鳴き声をあげる竜の子を白い娘がそっと抱き上げた。
何も変わってはいない。これまでも、これからも……。
「参りましょう、白き母上……」
「えぇ。皆が待っていますね」
赤髪の女を従えて、魂の守護者は草原へと歩き出す。朝の陽炎がそのまわりに揺らめき、優しく包み込んでいった。
幼い子供たちの歓声が二人と一匹を追う。傷ついた戦士たちの戸惑いと憧憬の眼まなこがそれを迎える。
森の一族は、今は癒しの刻とき。その白い守護者が鎮魂の儀式へと向かう。変わらない朝日の下に、変わらない日常が戻る──。
終わり
自分の名を呼ぶ聞き馴れない声がすぐ耳元で聞こえる。
“らさ! 起キロッ”
聞いたこともない子供の声。
「だ……れ……?」
倒れたままの姿勢からラサは頭だけ動かして声の主を見上げた。
「ネモ……?」
大きな光る目で自分を見下ろす竜の子と目が合う。自分にはちっとも懐かない可愛げのない生き物だ。
ラサはお師匠に可愛がられているこの幼獣が内心では嫌いだった。
「あんたなの? 今、わたしに話しかけたのは?」
異形の者が鼻を鳴らす音が小さく響く。
“他ニ誰ガイル? ……相変ワラズノ半人前カ、オ前ハ? えいらノ跡ヲ取ルニ相応シクナイ奴ダ!”
小ばかにしたように竜が目を細める。口はまったく動かされていない。幼獣はラサの頭に直接話しかけてきているようだ。
「う、うるさいわね!あんた、こんなとこで何してるのよ!?」
竜の子の不愉快な言葉にラサは飛び起きた。その拍子に自分の身にまとう白い衣装が目に入る。
「あ……!?」
“魔力グラマヲ受ケ継グコトダケハ出来タヨウダナ。ト、ナルト我ガえいらノ刻ときノ砂ハ止マッタカ……”
ラサは今まで身にまとっていた衣装がまったく別のものにすり替わっていることに愕然とした。見習いの衣装の代わりに自分がまとっているものは、師匠が正装するときに身にまとう純白の羽織だった。
袖下には月長石ムーンストーンが下がり、肩先を除く全身すべてを覆い尽くすその衣装は、ラサの身体の寸法を測って作られたように身体に馴染んでいた。
慌てて額に手をやる。
馴れない感触。金属の冷たさと真珠特有の滑らかな手触りが指先から伝わる。額飾りサークレットがここにあるという現実がラサの身体から血の気を引かせた。
「お、お師匠様……」
“マタソウヤッテ泣クツモリカ? 誰モ助ケテナドクレハシナイゾ。古書ヲ読ンダトイウノニ情ケナイ!”
頭のなかで破鐘のように響く痛烈な批判はラサの胸に突き刺さった。
「カームになど……。こんなことになると知っていたら、カームになどなりたいなどとは思わなかったわ! なぜなの!? なぜお師匠様が死ななければならないのよ!?」
泣き喚くラサを竜の子は冷めた目で眺めた。さも軽蔑したように鼻を鳴らす。
“……子供ヨナ。ソンナ覚悟デハ、えいらガ嘆コウニ……”
「あの書には……。あれには歴代のカームの生死が書かれていたわ! どこで生まれ、どこでどうやって死ぬか!」
古書の秘密を他の者に漏らさぬはずだ。一族の癒し手の生死を書き記した書物など、他の者が知ってはいけないことだ。親しい者の死を知ってしまったら、時を数えて恐怖するだろう。
“ダカラ、癒シ手ニハナリタクナイ、ト? ……ソウヤッテ甘エテ、オ前ハ森ノ民ヲ見殺シニスルノダナ”
「……死にたくないわ。わたしには自分の死を直視する勇気なんてないもの! お師匠様の死だって信じない!」
ましてや書物に自分の死に様が書かれていたとしたら……。歴代のカームたちは、こんな残酷なことが書かれた書物を読んだというのか!?
“愚カ者メガ! 血ニ飢エタ殺戮者タチカラ、オ前タチ幼子を護ルタメニ自ラノ命ヲ身代ワリトシタ師匠ノ想イヲ踏ニジルカ!? えいらノ代ワリニオ前ガ死ンデシマエバ良カッタノダ!”
まだ貧弱な羽根を精一杯大きく開くと竜の子は凶暴な叫び声をあげた。
竜の揺り動かす羽根の間から虹色の波紋が広がった。巨大な虹の壁が一面に展開し、めまぐるしくその色を変えていく。
「こ、これは……!」
“見ルガイイ! オ前ノ救ウベキハズノ者タチノ姿ヲ!”
輝く壁のなかに暗闇で怯える子供たちと気を失って倒れているキーマの姿が見えた。
「キーマ!? 子供たちまで! ど、どこにいるの!?」
“守護者ニシカ開ケラレヌ闇ノ部屋ニ隠サレタ者タチダ!放ッテオケバ飢エテ死ヌ”
壁が暗くなったかと思うと、今度は川上で繰り広げられる凄惨な戦場を映し出した。
「あぁ、そんな……。みんな、疲れ切って……。それに傷だらけだわ……」
“奴ラガタトエ勝利シテ戻ッテ来タトシテモ、癒シ手ガイナケレバ、永遠ニ戦ノ疲レハ癒サレマイ”
再び壁が暗くなる。そして、今度は見慣れた館の前庭を映す。人が見える。ここでも誰かが戦っている。
「族長クーン! だ、駄目! 早く逃げてッ!」
“友ヲ救ウタメニ戦ウ者。ダガ、疲レ切ッタアノ躰デハイツマデ保ツコトカ……”
壁が虹色に輝き始めた。そしてその輝きが収まると一人の白い女の顔が浮かぶ。
「お師匠様! お師匠……」
額に汗を浮かべて詠唱を続けるカームの横顔は疲れ切ってきた。気丈さを装おう姿はいつも通り美しく、幻想的でさえあったが、張りつめた緊張の糸は今にも切れそうだ。
聞いたこともない呪歌ガルーナの韻の間から懐かしい師匠の声が響く。
「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者カームのすべてを!」
優しい声音が空気を震わす。
「駄目です……。わたしは怖い。自分の死を見たくない! 耐えられません、お師匠様。自分の死を指折り数えて生きていくなど……!」
ガタガタを震えながらラサは白い癒し手を見上げた。虚空に浮かぶ水晶球を凝視する師匠の横顔は青ざめている。
水晶球が詠唱を続ける者の魔力グラマを奪っていく様子が手に取るように分かる。もうカームには幾らも魔力グラマは残ってはいまい。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
ラサは金切り声をあげた。壁から猛烈な力が押し寄せてくる。押しつぶされそうなほどの強大な力。
“白キ娘ヨ。目ヲ逸ラスナ!”
頭を抱えて転げ回るラサの脳裏に竜の幼い声が鳴り響く。その竜の声を追うように頭のなかに怒濤の勢いで流れ込んでくるものがある。
怒り、憎しみ、呪い、嘲り、哀しみ、嘆き、恐怖、嫌悪……。
闇から迸り、流れ込む感情の波にラサは翻弄されてもがきまわった。
「く、苦しい……。助けて……」
“巫女ノスベテヲ受ケ止メルガイイ! 娘ヨ!”
際限なく続くかと思われた負の感情の流入が突然止まった。
咳き込みながらラサは恐る恐る顔を上げた。光の壁に映し出された師匠の顔に滝のような汗が流れている。魔力の限界だ。これ以上力を使ったら、師匠は廃人になってしまう。
「お師匠様……。駄目です。あなたが死んでしまったら、わたしは癒し手に……」
ラサは青ざめた顔を竜に向ける。
「お願い、ネモ! お師匠様を止めて!」
だが竜の子がそれに返事を返すよりも早く、白い女は両手を高く突き上げて叫んでいた。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたラサは私カームになる!」
水晶球を掴み取った師匠の指の間から閃光が迸った。
「お師匠様……! やめてッ!」
掠れた叫び声をあげたラサの脳裏に閃光が突き刺さり、見覚えのない景色を焼き付ける。
自分が生まれ落ちるより遙か以前の記憶。白い癒し手たちの幼い記憶がラサの脳髄の奥まで浸食する。
そして また
脈々と続く記憶を受け継いで
再生の巫女が生まれよう
あふれ出てくる記憶の数々にラサは目眩を起こして床に倒れる。これを一人で負えというのか!? 何十人という白い女たちの記憶。
ラサの小さな身体では収まりきらないほどの記憶が彼女の内部を食い荒らす。激しい痙攣を起こしながら、ラサは悲鳴をあげることもできない苦痛に身を焼いた。
“見届ケヨ。白イ娘ヨ! コノ世ノ末マデ、スベテヲ見届ケルガイイ。”
流れ込んでくる記憶の奔流を遡り、ラサは一族の者たちがあげる声無き苦悶を聞いた。身体は引きちぎられそうな苦痛が支配を続けている。
しかし、心の方はより純粋に、天の高みに昇っていくように高次元の世界へと引き込まれる。
「あ……れが……カー……ムの……本……質……?」
見開いたままの目から涙が溢れる。
“美シイ世界デアロウ?オ前ガ到達スベキ場所ダ”
竜の子にもラサの見ているものが見えているのだろうか? 痙攣を繰り返す娘の身体を未発達な前足でなでさする。
「あ……ぁ、な……んて……綺……麗な……」
ラサはなにを見ているのだろうか?
彼女が流している涙は決して哀しみや苦しみのためのものではなかった。痙攣が続く唇がため息をもらす。安堵と、諦観を含んだ優しい吐息。
「竜よ。……古き者よ。私の子たちを助けて……」
涙で潤んだ眼まなこが異形の瞳とぶつかる。
“待ッテイタゾ、ソノ言葉ヲ!”
竜の子が口をいびつに歪めて笑い、すぐに喉を震わせて咆吼した。
「な、なんだい!? この声!?」
ハルペラの剣が止まった。
どんな肉食獣でも出しようのない凶暴で残酷な吠き声が間断なく夜空を、森を、谷間を震わせる。轟々と響きわたる声に身体がすくむ。
「あれは……!」
アティーナのあげる声の方角を振り向いたハルペラは息を飲んだ。
癒し手の館の上に巨大な黒い影が浮かんでいる。細い月を背にするその影の輪郭は禍々しい。
「古代竜! そんなバカな……あれは伝説の……」
茫然と呟くハルペラの声を聞きながらアティーナも身体を震わせた。
カームが飼っている竜の幼獣など足元にも及ばない。知恵の王“古代竜”が天空から自分たちを睥睨している。嘲笑うような赤い瞳。大きく開かれた口から覗く巨大な牙。巨躯の数倍に達するであろう大きな翼。
“血に飢えた戦士にも、この姿は恐ろしいか”
二人の族長の脳髄を焼く声が響いた。禍々しいほどの圧倒的な力を持った声だ。逆らい難さに、身体から力が抜けていく。
「竜の長おさ……」
喘ぎ声をもらしてアティーナは地面に座り込んだ。すぐ隣に立つハルペラの膝が目に見えて震えているのが目に入った。その右手に下げた剣の先が力無く地面を叩く。
「嘘だ……。古代竜など、いるものか! 嘘だぁっ!!」
“一族の誇りを失った者の戯れ言など聞きたくない”
ハルペラの叫びを嘲る声が響いた。谷の族長の身体がビクリと痙攣する。顔は血の気が引いて真っ青だ。
“男たちを一族に加えてどうするつもりだ、ハルペラよ”
巨大な竜の詰問にハルペラは答えなかった。
その竜が浮かぶ館から数人の女たちが駆けだしてきた。谷の一族を示す蒼い布が肩から下がっている。
彼女たちは自分たちの族長と森の族長に気づくと、一斉に駆け寄ってきた。だが、凍りついたように立つ二人の顔に気づきすぐに立ち止まった。
「族長クーン!? なぜとどめを刺さないのです!」
敵の長を目の前にしながら茫然と空を見上げる族長の様子を怪訝そうに伺い、主人の見上げる空を振り返った。
「ひぃっっ!」
一様に女戦士たちは凍りついた。悲鳴を上げることも忘れて震え上がっている者もいる。
“愚か者どもめ。くだらぬ勲いさおしなど見るも穢れる”
戦士たちの身体についた返り血を憎々しげに睨むと、巨大な羽根を持つ者は不快そうな咆吼をあげる。さらにその巨大な顎あぎとを開いて牙を剥きだした。
竜の唸り声が遠くの山々まで届き、空気を波打たせる。
“消えるがいい! 女族アマゾネスの名に相応しくない者ども!”
地面に縫いつけられたように立ちつくす女たちめがけて竜は前足を振った。いくら巨大な体とはいえ、そこまで届くはずもないのに。ところが、見えない風圧に吹き飛ばされるように女たちは次々とはじき飛ばされ空へと舞いあげられた。
アティーナは木の葉のように空に舞う女たちを見上げるしかなかった。アッという間に夜の闇に消えた谷の者たちの行く先など解るはずもない。
“己の撒いた災い。己の命で贖あがなうがいい”
冷徹な竜の声が闇に消えた女たちの後を追う。
「竜の長……」
館を護るように空に浮かんだままの古代竜を見上げて、アティーナは自身の死を覚悟した。次は自分の番だ。
無様な戦いぶりだった。族長としての自身の器の小ささを見せつけられた今夜の戦闘は、非難されても反論はできない。
“お前は我が名を忘れてしまったのか? アティーナ”
森の族長は首を振った。忘れるはずもない。生まれたときから聞かされる女族アマゾネスの真の守護者。古代竜の名を。
「誇り高きアレオパゴスよ……」
一度も会ったことはない、今日が初めてだ。だが見間違えようもない伝承通りの巨躯と声の持ち主。圧倒的な力の差の前に、アティーナはただ平伏することしかできなかった。
アティーナの返答に満足したのか、巨大な黒い竜は目を細め、口を歪めて笑い声をあげる。
“上出来だ、アティーナ。エイラの子供たちに栄光を……!”
次の瞬間、古代竜の姿は掻き消すようになくなった。その存在を示すものは何も残されていない。
暗い夜空には細く痩せた月がかかっているだけだった。
痺れた頭を振りながら起き上がると、キーマは目の前の娘の姿に息を飲んだ。
「ラサ・モーリン!」
小さな白い影が振り返る。利発そうな顔に微笑みが刻まれる。どこかで見たことのある顔つき。
「気がついたのね。子供たちも落ち着いたから、そろそろ戻りましょうか」
見れば、ラサのまわりには年端もいかない子供たちがまとわりついて離れない。どうして幼い者たちがラサと一緒にいるのだろう。屋敷で眠っているはずなのに。
「ラサ・モーリン、ここはどこなのです!?」
辺りを見まわしてキーマは動揺した。何も見えない。ラサや子供たちはあんなにハッキリとみえるのに、まわりは真っ暗な闇が拡がっていた。こんな空間は知らない。
カームの居室で気絶したらしいことは覚えているが、その後がどうなったか覚えがない。
「秘された間。……そう呼ぶのが相応しいかしら。わたしにしか開け閉めできないらしいわ」
自嘲を含んだ笑みを顔に浮かべるとラサはキーマに手を差し伸べた。
「ラサ・モーリン……。その額飾りサークレットは……」
ようやくラサの姿がいつもの見習いの格好ではなく、カームの正装だと気づいてキーマは怯えた。
「……これから、忙しくなるわ。戦が終われば鎮魂の儀式リポーズランセムが行われるだろうし、館や屋敷の修理もしなきゃ。手伝ってね、キーマ」
一瞬、ラサの顔に寂しげな笑みが浮かんで消えた。
「白き母上……。ここは怖いよ。早く帰ろうよ」
怯えた声で訴える幼子たちを振り返るとラサは穏やかな微笑みを向けた。
「大丈夫よ。わたしがついているわ」
キーマは子供たちが自分以上に素早くラサの変わり身を受け入れたことに驚愕した。つい昼間まではラサはカーム見習いだったのだ。それなのに……。
「さぁ、急ぎましょう。キーマ。みんなが待っているわ」
首を微かに傾げて自分に微笑みかける娘の仕草にキーマは震えた。白き母エイラの癖だ。なぜ彼女がそんな仕草をするのか。
だが差し出された小さな手を振り払うこともできず、キーマはその手を取った。温かい生き物の温もりが伝わる。
「“光、満ちよ。月の見る夢は醒めた”」
滑らかに呪歌を唱う小さな娘の横顔を見つめながら、キーマはラサがカームの力を受け継いだことを悟った。
新たな癒し手が誕生した。ならば、旧き者は……。
自分の予想が外れることを祈りながら、キーマは空間を満たす光の渦のなかに身を投じた。
「ラサ・モーリン! いったいどうやってここまで来たの!?」
黒い鎧を血で染めた女が叫んだ。その声につられてまわりの者が一斉に振り返った。全員の視線の先に白い小さな娘が立っていた。軽く首を傾げ、静かな笑みを浮かべている。
「こんな前線まで来るなんて!槍一本持ったことのないお前がくる場所じゃないよ。早く館……へ……」
「ラ、ラサ……。その姿は……」
ざわめきが拡がっていく。小さな娘は純白の衣装を見にまとっていた。そして額には真珠の額飾りサークレットが……!
「みんな、帰りましょう」
唱うように喋る白い娘の顔には優しい微笑みが浮かんでいた。
「何を言っているの!? お前、あの剣戟が聞こえないのかい!?」
戦いの場からは荒れ狂う水音のような叫声が響いていた。そして、さらに剣と盾が擦り合わされる甲高い音。
「いいえ。すぐに収まるわ。ホラ! あれを見て」
娘が細い月のかかる夜空を指さした。つられるように女たちが空を見上げる。何かが降ってくる。
「なんだ……? 何か落ちてくるぞ」
月の細い光に照らされて木の葉のように舞うものが落ちてくる。
「……! お、おい! 人だ! 人が落ちてくる!?」
呆気にとられて見守るなか、空から降ってくる人型がどんどん大きくなってくる。きりもみ状態で間近まで迫った人間たちの腕に蒼い布地が見えた。
「た、谷の者だ! どうなっているんだ!?」
「うわっ。落ちるぞ……!」
ざわめきが急速に辺りに拡がっていく。剣を撃ち合わせる音が小さくなり、そして、止んだ。
水を打ったような静けさのなか、上空の女たちのわめき声だけが異様に大きくこだまする。
「谷の族長だ! あぁ!?」
吸い込まれるように地面に近づく女の顔には正気はない。瞳は恐怖に見開かれ、唇は意味不明の言葉を発し続けていた。
戦いのまっただ中だった場所に女たちが次々と落下していく。
叩きつけられる鈍い音と、断末魔の絶叫が空気を振動させた。時間が凍りついたように止まった。
「いったい何が起こったんだ!?」
人の業わざとは思えぬ出来事に戦っていた者たちは戸惑い、怖じ気づいた。こんな死に方はご免だ。誰もがそう思う凄惨な死。
谷の族長の身体は落ちた衝撃でぐちゃぐちゃだった。手足は幾重にも折れ曲がり、頭は跡形もなく潰れている。
他の降ってきた女たちも同様な死に様だ。
嗅ぎなれた血臭のはずなのに、吐き気が胃からこみ上げてくる。その場に居合わせた者たちは一様に顔を歪ませた。
もはや戦うどころではなかった。毒気を抜かれた軍勢は誰が言うともなしに後退を始めていた。
「ラ、ラサ!?」
その時になってやっと、自分たちの目の前にいた娘の姿が見えなくなっていることに気づいた森の一族は、お互いの顔を見合わせ困惑した。
月が見せた幻か?混乱した頭のまま女たちは退いていく敵たちを見送った。
よろけるようにアティーナは館へと踏み込んだ。
扉は破壊され、家具類は引き倒されていた。こんな有り様になった館内など見たこともない。いや、これからだって見たくはない。
震える身体に鞭打って、アティーナは一番奥にある一族の母の居室へと向かった。
居室の扉は跡形もなく吹き飛んでいた。アティーナの身体の震えが増す。
恐る恐る戸口に手を掛け、アティーナは強ばる足を叱責した。入り口からそっと中を覗き込む。
「……! カー……エイラ!」
奥に倒れている白い人影にアティーナは飛びついた。
「エイラ……! エイラ! しっかりして!」
土気色をしたカームの顔はピクリとも動かない。胸は血で真っ赤に染まっている。体温は触れている間にも、どんどん下がっていく。心臓は、……もう脈打ってはいなかった。
自分は間に合わなかったのだ。
アティーナの瞳から涙が伝った。
「ごめんなさい……。エイラ、ごめんなさい。私が……私がもっと早く来ていたら……」
かつて一緒に草原に遊んだ友の骸が急速に冷えていく。自分の体温を分け与えるように友を掻き抱いてアティーナは泣き続けた。
どれほど悔いても、悔いきれない。自分がもっと早くに敵の罠を察していれば、こんなことにはならなかった。
死の神が命を奪っていくというのなら、自分の命を奪っていってくれればいいのに。なぜ、一族の母を、自分の幼い日の友の命を奪っていくのか!?
「あぁ、月神アルテミスよ、戦神アレスよ。お願いです。エイラの命を戻してください、お願いです……」
肩を震わせて泣くアティーナの背後に人の気配がした。
涙を拭きもせず振り返り、アティーナはそのまま茫然とその人物を見つめた。
月光色の髪が波打ち、純白の衣装の縁を彩る。青白い肌のなかで若葉色の瞳と淡い紅色の唇だけがハッキリとした色彩を放っていた。
「ラサ……?」
目の前に立っているのは、確かにラサ・モーリンと呼ばれる娘であるはずなのに、そこにいる者は自分の知っているカーム見習いの小さな娘ではなかった。
慈悲深く自分を見つめる瞳に見覚えがある。すべてのものを飲み込んでしまう深淵を思わせる眼差しがひどく懐かしい。
「子供たちは無事です。キーマ・ラスティも。間もなく一族の者たちも戦場いくさばから帰ってくるでしょう。……立ちなさい、族長クーン。あなたに立ち止まる時間など与えられてはいない。わたしと同じように、ね」
謎めいた微笑みを湛えて白い娘は一族の長を見つめた。
「お前は誰? 私の知っているラサ・モーリンはそんな娘ではなかった!」
不意に胸にこみ上げてきた苛立ちをぶつけるようにアティーナは叫んだ。理不尽な怒りが沸々と煮える。
だが白い娘は答えを返すでもなく、ただニッコリと微笑むと、死出の旅に出た女の傍らに佇んだ。
「“そして また、脈々と続く記憶を受け継いで、再生の巫女が生まれよう……”あなたに、安らかなる眠りを。美しきエイラ……」
ひっそりと囁く娘の声は唱うように空気を震わせ、アティーナの耳に届いた。驚くほど死んだ友に似たイントネーション。
哀しげに友を見下ろす白い娘の顔を見たアティーナは自分のなかの今まで悔恨や苛立ちが急速に退いていくのを自覚した。
胸に染み込む若草色の寂しげな瞳。それが懐かしい友の顔と重なる。
その信頼はどこからくるのかと訊ねたときに見せた、友の揺るぎない自信を示す空色の瞳にそっくりな光を宿す小さな娘の瞳は、彼女が間違いなく一族の魂の守護者カームとなったことを表していた。
白い娘は背後からの気配に振り返った。若草色の瞳が光の向こうを透かし見るように微かに細くなる。
“すべては元通り……”
掠れた声が光のなかに響いた。
「戦いの丘アレオパゴス? そこにいるの?」
彼女の呼びかけに答えるように咆吼が響き、黒い影がゆらりと浮かんだ。
“永遠の娘リジェナレートよ。ようやく目を覚ましたか”
安堵した声が娘の脳に拡がる。思慮深く、だが残酷な声。
「記憶の引き継ぎは終わったわ。あなたとの契約はまだ生きていたようね?」
穏やかに小さな娘が巨大竜に語りかける。
“契約を破棄するのはいつも人間のほうだ。我が守護を望むのなら、戦い続けるがいい。……闘う心こそが我が安息の地。それを提供する限り、我が守護は続く”
「ありがとう、知恵の竜。母なる月と父なる戦がある限り、あなたとの契約は履行されるわ。そうそう、今回はあなたの子供を随分とこき使ってしまったわ。あなたにもお詫びをしなければ」
白い小さな手が屈み込んだ竜の鼻先をなでた。
“森の番人ネモレンスか? あの悪戯者のことだ、あっちこっちでお前の子たちの鼻面を引っ張り回していることだろう。……ふむ。今もお前の姿を借りて一族の者を驚かせているようだ。詫びにも及ぶまい”
喉の奥で笑うような声が響いた。竜の赤い目がすぅっと細くなる。大きく裂けた口がいびつに歪んだ。
「引き続き、私があなたの子を預かってもいいのね?」
白き者の口元がほころんだ。白い歯がチラリと覗く。
“あれは森の番人だ。お前たち森の一族に委ねるのが一番相応しかろう?”
天を覆うような巨大な羽根がふわりと舞った。音もなく古代竜の黒い巨躯が浮き上がる。
“絶えることなく記憶を引き継ぐがいい、再生の巫女よ”
強烈な光が辺りを覆う。目を焼く白光がすべての色彩を飲み込んでいった。
「再びあなたに会うときは、わたしを迎えにくるときね。お師匠様の待つ光の野へ。わたしも後継者を見つけるわ、アレオパゴス。あなたとの契約のためではなく、わたしが守護する森の女たちのために……。これから生まれてくる子供たちのために……」
低く呟く白き娘の声は、消え去った黒い影には届いてはいなかった。
緑の輝きが蒼い空に放たれていた。森は朝日を受けて生き生きとしている。
自分の瞳と同じ輝きを放つ森を見上げてラサは深く息を吸い込んだ。鮮烈な空気が肺をいっぱいに満たす。
ふと東の彼方を見る。赤茶けた低い丘が見えた。戦い続ける者を招く、沈黙を守る丘、戦いの丘アレオパゴスだ。
どれほどの者の血を吸ったかしれない丘は、朝日のなかでも相変わらずの沈黙を守っていた。
「賢者ラサラサ・デュ・カーム」
おずおずと傍らに跪く娘を見下ろして白い娘は微笑んだ。
「あら、キーマ。どうしたの?」
「申し訳ありません。私はあなたを欺きました」
青ざめたキーマの顔は酷く頼りない表情を浮かべていた。
「いいのよ、もう……。それより、擦り傷を作っているじゃないの。手当をしないと」
自分と同い年の娘の腕を取ると、ラサは口のなかで小さく呪文を唱える。今まで一度でも成功させたことのない治癒魔法。
見る間にキーマの擦り傷はふさがり、傷跡さえ残さずに魔法は成功した。
「見事ですね」
「ク、クーン! どうしてここへ?」
背後の声にキーマは慌てて振り返った。
「戦が終われば負傷者のためにカームが必要だ。ここに来るのは当然だ」
無表情に答えを返すと族長クーンは恭しく白い娘の前に跪いた。
「カーム。鎮魂の儀式リポーズランセムの用意が整いました。どうぞ、お出ましを」
「解りました。すぐに参りましょう」
自分に向かって頭こうべを垂れる年かさの族長に鷹揚に返事をするラサの態度にキーマは驚きの視線を向けた。だが口に出した言葉は驚きを表すことはなく、平静を保とうとしていた。
「私も仲間の元に戻ります」
足早に草原へと去っていくキーマを見送ると、族長はラサを振り返った。その表情はどこか年以上の厳めしさを見せている。
「カーム。お訊きしてもよろしいか?」
「どうぞ。わたしで判ることでしたら」
涼しげな笑みを浮かべて白い娘が答える。
「古書には、なにが記されていたのですか?」
禁忌を訊ねる族長の顔は険しかった。友を死へと追いやったものを素直に受け入れるには、まだ時間がかかるかもしれない。
少しだけ驚いた顔をした娘が首を傾げた。
「さぁ? なんだと思います?」
逆に問いを返して白い娘は悪戯っぽく微笑んだ。
その仕草に見覚えがある。既視感に族長は目眩を覚えた。そんなはずはない。この娘が友に似ているなどと……。
「……見当がつけば、訊ねたりしません」
族長が憮然とした顔で答えた。
「その通り。だから、答えなど聞かないほうが良いのですよ」
穏やかに微笑む小さな癒し手の顔に旧知の友の顔が重なる。人の心を覗き込む、あの空色の瞳が。何を考えているのかさっぱり解らない微笑みが。
若葉色の双眸が族長の瞳をヒタと捕らえた。
「行きましょう。皆が待っています」
小さな白い母が笑う。燦然と額に輝く額飾りサークレットの白真珠が朝の光に鈍く瞬いた。
足元には喉を鳴らしてじゃれつく竜の幼獣が未熟なその羽根を空に震わしている。ぎゃあぎゃあと鳴き声をあげる竜の子を白い娘がそっと抱き上げた。
何も変わってはいない。これまでも、これからも……。
「参りましょう、白き母上……」
「えぇ。皆が待っていますね」
赤髪の女を従えて、魂の守護者は草原へと歩き出す。朝の陽炎がそのまわりに揺らめき、優しく包み込んでいった。
幼い子供たちの歓声が二人と一匹を追う。傷ついた戦士たちの戸惑いと憧憬の眼まなこがそれを迎える。
森の一族は、今は癒しの刻とき。その白い守護者が鎮魂の儀式へと向かう。変わらない朝日の下に、変わらない日常が戻る──。
終わり