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第02場 薫風にたなびく視線
嬉しくも気が重い時間がやってきた。
和紀は自宅の門をくぐると、隣家の門の前に佇む少女にチラリと視線を走らせた。門を挟んだ少女の隣りには、彼女の母親がニコニコと朝に相応しい晴れやかな微笑みを湛えてこちらを伺っている。
中学に入学してから一ヶ月近く、変わらず繰り返されてきた朝の光景がそこにあった。
「おはよう、和紀くん。いつも時間に正確ね」
聞き惚れるほどの美声も健在で、身体が宙に舞いそうなほどの心地よい声音に和紀の心臓は早鐘を打ち始める。
なぜ、この人はこんなにきれいな声が出せるのだろう。もしもこの女性が歌でも歌おうものなら、そこらの三流ポップス歌手顔負けの迫力のある歌声が出せるのではないだろうか。
和紀は緊張に肩をいからせながら、おはようございますと挨拶を返したが、まともに相手を見ることができず、オロオロと視線を彷徨わせた。そして無表情なまま佇んでいる娘の薫と視線が交わり、さらにうろたえる。
初日からずっとこの繰り返しだ。見送りに立つ薫の母親に逢い、その声を聞けるのは密かな楽しみになっているが、学校までの遠い道のりをこの少女と一緒に歩いていくのは、少々……いや、かなりの苦痛を強いられる行為だった。
「和紀くん、今日もよろしくね。……薫ちゃん、気をつけて」
自分の娘に「ちゃん」付けはどうかとも思っていたが、この女性がやると嫌味を感じない。いってきます、と平坦な返事を返す娘のほうが不作法であるような気さえしてくる。
薫と連れだって歩き始めてすぐ、和紀はふと後ろを振り返った。
敷地の中に立ったまま、娘の背中を見送る女性の姿が目に入り、彼は慌てて視線を逸らす。薫の母親がひどく切なそうな表情で娘の後ろ姿を見つめていた。彼女の顔に浮かんだ感情が、和紀にはどうにも理解できなかった。
娘は背後の母親の視線などまったく感じていないのか、スタスタと一人で先に歩いていってしまう。可愛げがないといってしまえばそれまでだが、そのドライな態度が彼女の瞳の奥にある暗さを押し隠していた。
初めて目にしたときの暗い雰囲気は、とりあえず朝の登校時には見ずに済む。朝っぱらからあの瞳を見せられたのでは気が滅入ってしまう。それだけがせめてもの救いだろうか。
自宅が見えなくなってしばらく後、薫の歩調が緩んだ。これもいつものことだった。この付近にくるまで、彼女は一刻も早く自宅から離れたいとばかりに、後ろを振り返ることなく早足で歩くのだ。
母娘の仲が悪いようにも見えないが、薫が母親の何かを重荷に感じていることだけは確かなようだった。
和紀は出かかったため息を飲み込むと、少女より半歩先を歩き続けた。
初夏間近の日差しは朝の空気を輝かせる。風に乗って草の青い匂いが届くと、差し迫った連休のことや空手道場の練習試合のことやらがふと頭を過ぎっていった。
あと一週間足らずで登校時の苦痛から一時的に解放される。気詰まりな相手と何十分も一緒にいるのは道場の特訓よりも辛かったが、そんな苦悩も束の間とはいえ忘れることができそうだ。
本来なら薫が学校までの道順を憶えた時点で別々に登校すれば良かったのだ。しかし、門まで毎朝見送りにくる薫の母親からさりげない懇願を感じ、今日までズルズルと一緒に登校するハメになったのだった。
初日から学校ではこの外見だけは美少女な薫と和紀がつき合っていると噂が広まったのだが、彼女の冷徹そのものの視線と無言の迫力に気圧され、そんな噂も二週間も過ぎた頃には立ち消えている。
気の強そうな女とつき合うなどごめんだと同級生の男子に触れまわっているせいか、トチ狂った上級生の男子から薫への橋渡しを頼まれることさえあった。
相手からの言伝を薫に伝える程度の手助けしかやらないが、一撃で玉砕していることは、隣を歩く少女の冷淡な態度を日々見続けていれば明らかだった。和紀にはとても彼女にしたいとは思えない。
いったい全体、彼女は何を考えているのだろう。一緒に登校していたところで会話があるわけではない。気詰まりなだけの相手といても楽しくなかろうに。
和紀が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、彼の目の前に薄いピンク色をした封筒が差し出された。
「なんだよ、これ?」
「昨日の放課後、隣の女子に頼まれたの。中身読んだら返事してよ。渡してないのかって恨まれるのは厭だから」
「なんでその女が直接渡しに来ないんだよ」
「そういうあんただって、バカ男の使いっ走りで私に伝言しに来るじゃない」
自分に告白しにくる上級生をバカ男呼ばわりするとは、なんという奴だろう。普通は自分に好意を示した相手を悪く言う者はいない。いるとしたら、よほど性格がねじ曲がっているのが相場だ。
和紀は隣の少女を呆れ顔で見つめた。
見た目が美形で他の女子と群れることがない薫は、周囲の男子生徒からは高嶺の花だと思われている。そのため呼び出してくる男子生徒の大多数は、軟派ながらかなり顔立ちが整った「美男子」だと言ってもいい。
その先輩たちをバカ呼ばわりしたことが他の女子に知れようものなら、薫は良くて無視、悪ければいびられることになるだろう。女子生徒の陰湿なイジメは凄まじいと聞くが……。
「お前、バカ男なんて他の女子に聞かれるなよ。逆恨みされるだけだぞ」
「バカ男にまとわりついているバカ女にも興味はないわ」
この少女には他人とのコミュニケーション能力が欠如しているのではなかろうか。立てなくていい波風まで立てようとしているとしか思えない。自分を追い込むようなことをして楽しいだろうか。
和紀は押しつけられた手紙のことも忘れ、隣を歩き続ける少女の整った横顔を注視した。
ハッとするほどの美少女であるにも関わらず、そこには硬質ガラスの冷たさと人形のような生気の無さしか感じ取れない。彼女には投げやりというか、刹那的なところがあった。
「手紙、読まないの?」
チラリと横目で睨まれ、和紀は慌てて視線を手許に落とした。
可愛いと言われている隣クラスの女子の名が封書に書かれている。散り果てた桜の花で染めたような封筒の色は甘ったるく、手紙の送り主の性格をよく表しているような気がした。
「これ、手渡されたときって他にも誰かいた?」
「いた、ウジャウジャと。手渡した子と同じクラスの女子がきゃあきゃあ冷やかしてたね」
どうやら女子の仲良しグループぐるみで画策した手紙らしい。それだけで内容が知れようというものだ。読む気にならないが、無視しようものなら陰口を叩かれることは目に見えていた。
容姿に自信があって友人に応援されながらの手紙や告白は、相手の男は振りにくい場合が多い。下手に振ると当の本人よりも外野が大騒ぎして男をなじるからだ。はた迷惑極まりない女の友情というやつだった。
渋々と封を切った和紀は、手紙の書き出し数行を読んだだけでため息をついた。案の定、ピンクの紙の上にはつき合って欲しいことと今日の放課後に返事を聞かせてくれなどと書かれている。
ここでつき合うことにしようものなら、今度の連休は絶対に初デートで潰される。空手道場の練習試合など、女子には地味すぎてつき合う気にもならないに違いなかった。
いや、今後の展開を冷静に予想している時点で、自分にはこの手紙の主のことをどう思っているのか判ってしまうではないか。
こんな手紙をもらえば、可愛い彼女が出来ると舞い上がる者もいるだろう。がしかし、生憎と和紀は今は空手のほうが面白かった。道場の熱気に身を置いていると、自分がどんどん強くなっていく気がしてならないのだ。
そんな想いをこの手紙の主に話したところで理解はされまい。可愛い服を着て、テーマパークや映画でデートをするのが恋人同士の有りようだと思い込んでいるような人種なのだから。
読み終わった手紙を封筒に戻しながら、和紀は一も二もなくこの申し出を断ることに決めた。取り巻きの女たちが人でなしだとか冷血漢だとか騒ぎ立てるだろうが、その罵りを甘受してでも自分の自由を明け渡す気にはならなかった。
ふと隣を見れば、淡々とした足取りで薫が隣を歩いている。
実は和紀は初めて一緒に登校した日から、女子では少し早いくらいのペースで歩いていた。歩調を合わせる気遣いを見せなければ、翌日からは薫のほうから別々に登校しようと言い出すかもしれないと思ったからだ。
ところが、彼女は平然とした顔でついてきたのだ。
身長が指一本分ほど彼女のほうが高いのだから歩幅も同じようなものだとは思っていたが、毎朝のロードワークを欠かさない自分についてこれないだろうと予想していたのが大きく外れてしまった。
まったくもって予想を裏切り続ける女だと思う。
こんな理解不能な奴と家が隣同士だというだけで、同級生からは幼なじみだと誤解を受けているのだ。知り合って一ヶ月ほどだと言ってもほとんど誰も信じてはくれないのだから、人間というのはいい加減なものだ。
チラチラと横目で盗み見しているうちに、周囲に同じ制服を着た人影が目立つようになってきた。もうあと五分も歩けば学校の門が見えてくるだろう。今日の苦行からもやっと解放される。
「薫ぅ~。英語の宿題やってきた~!?」
遠くにバタバタと両手を振り回しながら駆け寄ってくる少女の姿が見え隠れしていた。人付き合いの悪い薫の態度にもめげずに入学当初から張りついている少女だ。
他の女子とも上手くつき合っているようで、彼女のお陰で薫はクラスから浮かずに済んでいた。
薫は近づいてくる少女をジロリと睨み、宿題を丸写しする気ならノートは見せないと冷淡にあしらう。
「違うって! 辞書引いても全然判らない文法があるんだよぅ。薫なら訳せたでしょ~。教えてよぉ」
「その判らない文法って訳文全部なんて言わないでしょうね?」
「いやだ、いくらなんでも全部なんて……五ページくらい、かな?」
「それ、宿題の九割じゃない。本当に判らなかったの? 単に途中で面倒になって宿題するの止めただけでしょ」
「まぁ、そうとも言います。……って、薫ぅ。無視しないでよ~!」
少女たちのやり取りを盗み聞きしながら、和紀は二人よりも数歩先を歩き始めた。
この状況なら薫を置いて先に行っても問題はないだろう。が、あからさまに駆け出していくのも体裁が悪い気がして、ついつい近くを一緒に歩いて校門をくぐることになるのだった。
どうして自分はこの結城薫という少女ばかり気にしているだろう。他の女子なら適当に合わせるか、サラリと受け流すかして適度な距離を保つのに、彼女のことになるとそのバランスを失ってしまう。
和紀は薫の鋭い声を背中で聞きながら、答えの出せない自問自答を繰り返すのだった。
待ちに待った連休が来ると、和紀は道場に入り浸って試合や練習に明け暮れた。身体を動かせば動かすほど成果が出るのが体感できるというのは、モチベーションを高めてくれる良い要素だった。
しかも休みの後半数日は兄の正紀も道場に顔を出していた。大学に入ってからは空手道場に通うのを止めていた兄だが、たまに地元に帰ってくるとフラリと稽古場に顔を出すことがある。
師範に次いで兄に褒められるのが嬉しくて、練習にも力が入ろうというものだった。
「よぅ、和紀。今日は練習は午前中で終わりだろ?」
「え? うん、俺は飯喰ったら自主トレしようかと思ってるけど……」
「母さんが昼飯は家の庭でバーベキューだとか言ってたぜ」
「げぇっ。肉喰えるのは嬉しいけど、後かたづけは俺の仕事じゃねぇかよ。コンロの始末とかしてたら午後からは練習出来ないぜ」
「俺の仕事じゃなくて俺たちの仕事だろ。面倒な思いをするのは俺も同じだっての。いいじゃねぇか、腹一杯好きな肉喰えるんだから」
稽古が終わって三々五々に散っていく仲間たちと別れ、和紀はブツブツと不平を漏らしながら家路についた。
隣を大股で歩く兄の様子は平然としたもので、この後に待っている天国と地獄のことなど気にも留めていないらしい。あるいはすでに諦めの境地に立っているのだろうか。
家の近所の公園を突っ切り、玄関前のアプローチに差し掛かると、兄が言った通り香ばしい肉の匂いが漂ってきた。庭の植え込みの向こうで人が動く気配もしており、すぐにでも食事が出来るようだ。
どうせ後で力仕事が待っているのなら、その前の食事を楽しまなければ損というものだ。
和紀は兄に習って開き直ると、稽古の胴着を部屋に放り込み、アタフタと庭に降りていった。
「腹減ったよ。俺の肉、ちゃんと残ってる~?」
今日は単身赴任中の父も一人暮らし中の兄も帰宅しており、久しぶりに家族が揃う日だった。母親が開放感からバーベキューをやろうと言い出すのも、思えば不思議はないのだろう。
だが、庭に駆け込んだ和紀はその光景に眼を丸くした。
のんびりとした足取りで後からやってきた兄に背中を叩かれなければ、唖然としたまま棒立ちになっていたことだろう。
なぜ、隣の結城家の人たちがいるのだろうか。いや、正確には薫とその母親だけが我が家のバーベキューに参加しているのだが。未だに和紀は隣家の主人の姿を見たことがなかった。
「あら、二人とも遅かったわね。空手の稽古、長引いたの?」
「少しだけね。腹減ったよ。俺と和紀の分の肉、ちゃんと残してあるだろうな。野菜ばっかり喰わされたんじゃたまらないぜ」
「残してますよ、失礼な子たちね! ほら、正紀。あんたは初めてでしょう。挨拶なさい。三月の末にお隣に引っ越していらっしゃった結城さんよ。薫ちゃんは和紀と同い年だし、せっかくのバーベキューだから誘ったの。静ちゃん、うちの上の息子の正紀よ。前に話しだけはしたことあったわよね?」
「えぇ、お聞きしたわ。よろしく、正紀くん。お逢いできて嬉しいわ。工学部にいらっしゃるんですってね。それに和紀くんと同じくスポーツマンだって。……和紀くん、こんにちは。いつもありがとうね」
薫の母親の歌うような美声は健在だった。
兄の正紀が面食らって言葉を失うのを、和紀は隣で面白くなさそうな顔で見上げていた。
「初めまして、薫です。……よろしく」
母親に続いて頭を下げる薫の声が聞こえなかったら、兄はボゥッと正体を失ったままだったのではないだろうか。
ふと気になって父親を振り返ると、目尻を下げた父の顔が目に入ることになり、和紀は小さくため息をついた。どうやら薫の母親の美声は綿摘家の男に絶大な効果があるらしい。平然としている母が羨ましくもある。
「さぁ、食べて食べて。お肉が焼けすぎて不味くなっちゃうわよ。ほら、静ちゃんも薫ちゃんも遠慮しないで!」
母親はこの母娘がすっかり気に入ったらしく、自分よりも十歳は若い薫の母親を馴れ馴れしく名前で呼んでいた。その影響で、和紀も逢った当初から薫のことを名前で呼ばされる。姓の結城で呼んだのでは母か娘か判らないからと。
そんなのは屁理屈だと思うのだが、母が一度言い出したことは滅多なことでは曲げない頑固者であることを知っている和紀は、抗議の言葉をグッと飲み込むしかなかったのだ。
兄と肉の取り合いをしながら、和紀はコッソリと薫の様子を盗み見ていた。
どうして今日の誘いに乗ったりしたのだろう。やはり母親と一緒だからつき合ったのだろうか。そうでなければ、彼女がこの家に足を踏み入れるとは思えなかった。
本当に何を考えているのか判らない少女だ。母親たちに話しかけられると、義理で微笑みを浮かべることはあるが、そうでなければ顔の表情一つ動かさないのではないだろうか。
いや、今日は珍しくふと表情が和むときがある。和紀はその僅かな瞬間を何度か目撃し、彼女が向ける視線の先を確認した。
──兄貴を見てる。
兄の正紀は弟の自分から見ても格好いい。同級生たちはそういうのをブラコンと言うんだと囃し立てるが、兄の切れ長で鋭い瞳と筆で描いたような形のいい眉だけでも人を惹きつけるものがあると和紀は思っている。
まして空手やサーフィンといったスポーツで身体を鍛えており、Tシャツの袖口から覗く腕は適度に日焼けし、筋肉質で逞しい。
自分もいつか兄のようになるのだと密かに思っているだけに、和紀は薫が兄に向ける視線に気づいてしまった。なんだか面白くない。兄に賞賛の視線を向ける少女の態度が気に入らなかった。
今まで兄に熱視線を送った女がいなかったわけではないのに、今回はどうしてこう気に入らないだろう。理由が思い浮かばないのに、ひどく苛立ちを感じるのはなぜだろうか。
もやもやとした内心を抱えたまま、和紀は焼き上がった肉を頬張り続けた。
兄に憧憬の視線を向ける薫も、そんな彼女の内心を知ってか知らずか平然と話しかける兄の態度も、見ているとムシャクシャしてくる。視界に収めないようにしようとすればするほど、そちらのほうが気になって仕方がない。
どうかしている。今までだって兄は同年代の女性や年下の少女たちと普通に会話していたではないか。それなのに、なぜいつもは無愛想な薫がぎこちなくも微笑みを浮かべている様子に苛立つのか判らなかった。
「あらぁ、お肉がもうないわ。和紀、冷蔵庫から新しいお肉を取ってきてちょうだいよ」
母親の言いつけに生返事を返し、和紀は家の中に駆け込んでいった。
兄と薫から視線を背けることができるのなら、こんな簡単な手伝いどころか、なんでもやったに違いない。
台所のひんやりとした空気の中、和紀は気難しげに眉間に皺を寄せて立ちすくんでいた。不条理な苛立ちが少しでも落ち着きはしないかと思いながら。
だが彼の期待も虚しく、ささくれだった内心はそう簡単には平静さを取り戻しそうもなかった。
つづく......
第01場 冷たい顔
南国では桜の花も花開いた時期だが、この地方ではまだ薄桃色の花びらはほろほろと微かな彩りしか見せていなかった。日中の暖かな日差しが消えると、未だに空気はグッと冷え込んでくる。
それは、こんな季節に始まった。
和紀は己の鼓膜を叩く騒音に、不機嫌そうに眉をしかめた。玄関のチャイムが聞こえる。居間のテレビを見ながら夕食を待っていたが、台所から応対するように呼ぶ母親の声に急かされて重い腰をあげた。
「めんどくせぇなぁ……。こんな忙しい時間になんだっていうんだよ」
自分はまったく忙しくないが……いやいや、テレビを見ていたのだから、大いに邪魔された気分であることは間違いない。忙しいといえば忙しいのだ。
だが、不平不満は多々あれど、グズグズしていると母親から鉄拳が飛んでくることは間違いない。「あんた、中学生にもなろうっていうのに、お客さんとの応対一つできないの!? わたしはそんな風に育てた憶えはないわよ!」ときたものだ。
玄関の向こうで大人しく立っている来訪者の影がドアガラスに透けて見える。背格好から女性らしいということが判ると、和紀は少しだけホッとした。
夕食どきになるとやってくるセールスマンだと、しつっこくて面倒なのだ。もっとも女性でも押し売りの類はいるのだから油断はできないが。
家庭のセキュリティーをあげるなら、居間か台所辺りに防犯カメラのモニタでもつけておけばいいのだろうが、生憎とこの家にそんな高価な代物はない。覗き穴からそっと相手を観察してみると、見たこともない中年女性が立っていた。
人の良さそうな顔つきだ。卵形の綺麗な輪郭を縁取る黒髪は、玄関の防犯灯に照らされてもなお黒々と輝いている。今どき真っ黒の髪とは珍しい。もしかして染めているのだろうか。
伏し目がちな睫毛の影が白い頬に映っていた。微かに震えるその動きで外気温の低さが伺い知れる。全体的な雰囲気から、自分の母親より若そうだと和紀は判断した。年上の女性ながら、この人は美人の部類に入ると余計な採点までしてしまう。
「どちら様ですか?」
それでも用心深くインターフォン越しに声をかけた。美人だからって気を許すと、立て板に水の勢いでセールストークをまくし立てる喧しいおばちゃんだったというオチはご免被りたい。
ところが、和紀の問いかけに「隣りに越してきた結城ゆうきと申します」と返ってきた。
その相手の女性の声に和紀は思わず聞き惚れそうになった。こんなに柔らかで優しい音色をした声は初めて聞いた気がしたのだ。いや、高級デパートの受付に座っている見目麗しい女性たちもこんな柔らかな声をしていたはず。もしかしたら、それ以上に耳心地の良い声かもしれない。
「ちょっと待ってください」
うっとりと相手の声を反芻しながら、そういえば昼間に引っ越し業者が隣りに出入りしていたっけと夢見心地で台所へ飛んでいった。
「お隣に越してきた人だよ。結城さんだってさ」
最後の盛りつけにかかっていた母親が「あらあら」と手櫛で髪をかきあげて玄関へと出ていく後ろ姿を、和紀はちょっと羨ましそうに見送った。今風に茶髪に染めて若作りしている母親の若々しい声以上に、訪問者の声音は綺麗だった。
訪問者の正体が判ったら自分のお役はご免のはずだが、今回の女性の声はもっと聞いていたい。もしもあの声で勧誘でもされようものなら、間違いなく誘いに乗ってしまうだろう。
居間の敷居の側でウロウロと歩き回り、和紀は玄関口の話し声に耳をそばだてた。だが母親の大声が聞こえるだけで肝心の女性の声が聞こえない。
「もぉ~。なんて厚かましい大声あげてんだよ。ったく、聞こえねぇってば」
ブツブツと小声で母親を罵ってみるが、こればかりはどうしようもない。それでも、どうにかしてもう一度声が聞けないものかと息を潜めてみる。図太い顔をして相手の前に出て行くには、和紀は複雑なお年頃すぎた。
「和紀ぃ。ちょっと出てらっしゃい!」
イライラと気を揉んでいた彼は、母親の呼ぶ声に文字通り飛び上がった。引っ越しの挨拶に訪れたくらいで、自分が紹介に呼ばれるとは思ってもみなかったのだ。それともその訪問者の前で何か余計な用事でも言いつけられるのか。
どきどきと心臓を踊らせながら恐る恐る玄関に近づいていくと、母親が一生懸命に手招きしている。扉の向こうに見える女性の清楚さと自分の母親のガチャガチャした態度の落差に、和紀は一瞬複雑な気分になった。
がしかし、こちらに微笑みを向ける訪問者の雰囲気を感じ取り、彼は身体を緊張させた。顔が赤くなっていないかといらぬ心配をしながらドアの脇に立った和紀は、女性の顔を見るのが気恥ずかしくて母親の顔を見上げて問いかけた。
「なんの用? テレビ見てたのに」
「まぁ、可愛くない! まったくこれだから男の子は……」
つい憎まれ口を叩いてしまう自分の口が恨めしいと思ったのは、今日が初めてかもしれない。内心とは反対に口を尖らせると和紀はそっぽを向いた。
「用がないならテレビ見たいんだけど」
「何言ってるの。用があるから呼んだに決まってるでしょ?」
母親が自分の肩を押さえつけて、無理矢理に訪問者のほうへと向き直らせる。まともに顔を合わせることになって、和紀はあからさまに頬を染めた。玄関ホールと外の防犯灯の双方に照らし出され、彼の頬は熟したオレンジのような色になっている。
「うちの息子よ。今度、中学一年生。お宅のお子さんと同い年だから一緒に登校すればいいわよ」
突然にベラベラとしゃべり始めた母親の言葉に面食らって、和紀は目をパチパチと瞬かせた。目の前にある女性がおっとりとした笑顔でこちらの顔を覗き込んでいて、心臓が飛び出しそうなほどドキドキする。
その女性の視線がふと外の暗がりへと向けられた。白いうなじがブラウスの首から覗き、灯りの下で生白く光る。中年女性の後ろ髪は綺麗に櫛を入れて結い上げられていた。
「薫ちゃん、こちらに来てご挨拶なさい」
柔らかな声に和紀はうっとりと聞き惚れて頬を緩める。なんて綺麗な声だろう。やはり今までに聞いたことがないほど心地よい声だ。
自分にはかなり年上の兄がいることもあって、母は同級生たちの母親よりも年上であることが多い。対抗意識を燃やしているのか、母はいつも若作りをしており、声も溌剌とした若さを意識して大きめだった。
その颯爽とした母親の声とはまた違った力強さと柔らかさを持ったこの女性の声は、聞く者の心を溶かしてしまう魔力を秘めているに違いない。
女性に手招きされて暗がりから現れた人影が目にはいると、和紀はビクリと身体を震わせた。
「まぁ! お母さんに似て美人だこと! やっぱり女の子はいいわねぇ。わたしも欲しかったわぁ」
母親が耳元で大声をあげなければ、和紀はポカンと口を開けたまま相手の顔に穴が開くほど見惚れ続けていただろう。
「娘の薫。和紀くん、同じ学校に通うのだけど通学路を教えてやってもらえるかしら? 土地勘が全然ないところだし、学校はちょっと遠いみたいだから」
弓張月のように綺麗なラインの眉をひっそりとひそめて、女性が和紀の顔を再度覗き込んでくる。色白の肌に大きな黒目がよく目立つ顔立ちだと、和紀はそのときになってようやく相手の女性の顔をまじまじと観察した。
「い、いいですよ。ここから学校までの通学路は少し複雑だし、一緒の時間帯の通学でしょ? 憶えるまでなら……」
この女性は美人の部類に入れてもいい顔立ちだと思う。だが娘のほうは……なんというのだろう。母親が包み込む真綿のような優しさと美しさだとしたら、薫と呼ばれた娘は、彫像のように硬質で、ピリピリとした鋭さをもつ刃のようだった。二人とも美人ではあるが、雰囲気も顔立ちも似ているとは思えない。対極にあるような親子だった。
「よろしく……」
口数少なく頭を下げる少女は、ニコリとも笑みを浮かべずに母親の女性の側に立っている。彫刻芸術のような綺麗な顔が、かえって彼女の冷たさを際だたせているように見えて和紀は視線をそらせた。
日本人にしてはやや薄めの色素をしているようだ。濃い茶髪に明るい茶の瞳は、全体的に彼女の印象を明るめのものにするはずなのだが、どういうわけか鋭さを前面に押し出した薫の態度は暗い印象を拭えない。
「こちらこそ、よろしく」
そそくさと返事を返し、再び視線を合わせることなく和紀は返事を返すと、クルリと背を向けて居間へと駆け戻った。
ずっと彼女を見ていると頭がおかしくなりそうだった。暗い淵に引きずり込まれそうな薄ら寒さに和紀は身震いした。
背後の玄関からは母親の呆れ声が聞こえていたが、彼はソファに身を沈め、クッションをきつく抱きしめた。そして、暴れる心臓をなだめるように幾度も深呼吸を繰り返す。
いつの間にか少女の母親の聞き惚れる美声のことなど忘れていた。あの聞き惚れるほどの柔らかな声から感じる温もりも吹き飛ばすほど、薫の暗い雰囲気のほうが和紀の心を掻き乱していく。
いや、一見しただけでは彼女が暗いという印象は受けない。あの瞳だ。あの瞳も初めて目にする性質のものだった。薄い色素の瞳は明るさを感じさせる前に人の心を呑み込んでしまう。まるで色をつけた氷のよう。見る者を怖じ気づかせる冷たさが、そこにはしっかりと横たわっていた。
あんなに綺麗な顔をしているのに、どうして笑わないのだろう。微笑んでいれば、もっと晴れやかで人を魅了することができるだろうに。それとも見知らぬ相手を警戒しているだけだろうか。
近いうちに始まる中学校生活の始まりを喚起させる訪問者に、なんとも波乱に満ちた未来を想像してしまう。ぬるま湯のような時間から引きずり出され、きりきり舞させられる気配がするのは気のせいではないような……。
居間に戻ってきた母親が頭を小突いていったが、それを無視すると、和紀は気のない視線をテレビ画面に向けたまま身震いを繰り返した。
夜明けと同時に始めるランニングはすでに日課となっている。
大学生の兄が家を出てからも、一人でトレーニングを続けることは止めなかった。長年習っている空手の腕前が、最近になってから急に上達してきてからかもしれない。
体力がつくにつれて一足飛びに技も冴えてきており、ここで筋力トレーニングを疎かにしたら、せっかく伸びた芽が萎えてしまうのではないかと、心のどこかが怯えているのだ。
東の空が白々と明けていく様を眺めながら、和紀は庭でストレッチを繰り返していた。充分に筋肉をほぐしてから予定通りのコースを走り始める。幾人もの見知った顔がいつも通りに朝の挨拶をしてすれ違っていった。
アスファルトの上を走ると膝を痛めるとアドバイスを受けて以来、和紀は公道のランニングを短めにして、近所の広い公園内で走り込みや筋トレをするようになっていた。
この日も近所をぐるりとまわって公園の前にやってくると、走っていたときの手足の筋肉をほぐしながらブラブラと公園内に足を踏みれた。
すでに何人かの大人たちがランニングをしたり、のんびりと散歩を楽しんでいたりして、早朝とはいえそれなりに人の姿が見える。
「やぁ、おはよう。綿摘わたつみくん」
サラリーマン風の中年男性が汗をふきふき近づいてきた。日に焼けた顔で微笑むと実年齢より若くみえる。聞いたことはないが、たぶん四十代後半ほどの年齢だろう。
「おはようございます。早いですね」
「今日は早めに会社に行くのでね。いつもより走った距離も短いよ」
やや腹が出てきているが、筋肉質の体格から見てもこの男性が身体を動かすことが好きなことは容易に想像がついた。
男性と別れた和紀はいつも通りのランニングを始めた。公園の土は適度な硬さがあり、確かに公道を走っているときよりも足が楽だ。
自分のペースを守りながら黙々と走り続け、額にじっとりと汗をかくほどになると今度は筋力トレーニングを始める。目を瞑っていてもできるくらいに馴れたメニューだった。
いつも通りの内容を淡々と消化して再び最後の仕上げに走り始める頃、和紀は公園内に見慣れない人影を発見した。
東の空に昇っている太陽をじっと見上げて佇むその人影を確認すると、和紀の足は凍りついたようにその場で止まった。それ以上うんともすんとも動かない。
昨夜出逢ったあの少女だ。太陽の光を浴びて、昨日以上に明るく見える茶髪がキラキラと輝いている。白い肌は遠目にも血色がよく、輝く茶髪と相まって昨夜の暗い印象とはほど遠い横顔だった。
色白の肌も髪同様に発光しているような輝きを放っている。こんなに朝日の光が似合う横顔に初めて出逢った。
茫然とその顔に見惚れていた和紀の背中をポンポンと叩く手がある。
「何を見ているんだい、綿摘くん?」
ハッと我に返って振り向くと、先ほど公園の入り口付近で会った中年男性が立っていた。今度はスーツ姿である。どうやらこれから出勤していくようだ。公園内を通り抜けて駅まで近道しようというのだろう。
「あぁ……えぇっと……」
もごもごと言い訳を考えるうちに相手が遠目に見える少女の姿を発見した。
「おやぁ? ずいぶんと可愛い子がいるじゃないか。なぁんだ、あの美人に見とれていたわけかい? それとも口説き落とそうと狙っていたか?」
「そ、そんなんじゃないです!」
「まぁまぁ。そう照れなさんな。あの子、稀にみる美人じゃないか。口説くなら早くしないと他の男に取られるぞ」
「だから! そんなんじゃないって!」
顔を真っ赤にして反論する和紀の肩を気さくに叩くと、男性は楽しそうに笑い声をあげる。すっかり誤解しているらしい。和紀の言うことなどほとんど耳に入っていないようだ。
「若いっていいねぇ」
楽しげな笑みを浮かべたまま手を振って立ち去る男性に和紀は地団駄を踏んだ。少しは自分の話を聞け! 誰も彼女を口説くなんて言ってない!
だが誤解を解く前に立ち去ってしまった男性の後を追う気にもなれず、和紀はむくれたまま少女のほうを振り返った。そして、そのまま射すくめられるように硬直する。
いつの間にこちらの存在に気づいたのだろう。薄い茶色の瞳でじっと自分を見つめる視線は昨夜の暗さを残していた。全体的な明るさを裏切る彼女の瞳の冷たさが、朝日で温まった和紀の体温を急速に奪っていった。
だがいつまでもそこに立っていることはあまりにも不自然な気がして、彼はぎこちない動きで相手に近づいていく。できることなら、このまま自宅に走り帰りたいところだが、こうまでしっかりと視線を向けられて、あからさまに無視するわけにはいかないだろう。
並んでみると彼女のほうがやや背が高いようだ。十代前半ではよくあることだが、和紀は少なからずショックを受けていた。
「お、おはよう。早いね」
「おはよう……」
澄んではいるが無機質な声で返事を返す相手の前に立つと、和紀は真っ白な頭のなかをフル稼働させて言葉を探した。
「さ、散歩?」
「近所の道を憶えようと思って……」
「似たような家が多いから迷うだろ?」
「そうでもない」
「……そっか」
あぁ。もう会話が終わってしまった。こんなときいったい何を話したらいいんだろうか。パンクしそうな頭には意味不明な言葉ばかりが浮かび、役に立たないまま消えていった。
「もう走らないの?」
突然かかった相手からの声に、和紀はビクリと身体を震わせる。予測不能の事態に頭はグルグルしていた。何を言われたのかよく判らない。間の抜けた顔をしていることにすら、彼は気づいていなかった。
「……え?」
「ずっと走ってたでしょう? もう走るのはやめ?」
「あ、うん……。もう、帰るから……」
帰るからと言いつつ足は根が生えたように動かない。再び太陽を眩しそうに見上げる白い横顔に寂しい拒絶を感じながらも、和紀は心臓を踊らせてじっと薫に視線を注いだ。
「まだ、帰らないのか?」
恐る恐る問いかけると、ふと我に返ったように少女がこちらへと視線を向けた。昨夜と同じ暗い光を宿した薄茶の瞳がキラキラと光を弾いている。用心深く見知らぬものを警戒する子猫のような瞳だ。
間近で見ると、薫の顔の造りは本当に整っていた。卵型の輪郭にスッキリと鼻筋の通った顔立ちというだけでも涼やかな印象を受ける。それにアーモンドのように切れ上がった瞳はくっきりとした二重瞼に縁取られ、髪よりもやや濃いめの睫毛が華やかさを添えていた。
その瞳の上では睫毛と同じ色の眉がきりりとつり上がっている。それは彼女の容姿に鋭さを与えていた。聡明そうな額や滑らかな頬には染み一つない。和紀には文句のつけようがない美貌に見えた。
「帰ろうかな……」
ポツリと呟くように囁いた少女の唇に和紀の視線は釘付けになった。
やや下唇が厚めだが、花の花弁を思わせるその口元が微かに震えているように見える。まるで散り際の桜のようだ。
「寒いの?」
「え……?」
唇の震えの原因が他に思いつかず、和紀は思ったままを口にした。ほとんど顔の位置は同じ高さにあったが、和紀は彼女の唇に目を奪われていて少女の瞳にどんな色が浮かんでいるのか気づいていなかった。
「唇、震えてるから」
その和紀の言葉に、少女がハッとしたように自分の口元を押さえる。ついで鋭い視線を相手へと向けた。
険悪なその視線に和紀が狼狽する。気に障るようなことを口走ったつもりはなかった。何にそんなに腹を立てているのだろうか。
「震えてなんか、ない!」
言いざまに少女は背を向けて走り去っていった。人間に見つかって逃げ出す小動物のような俊敏さだ。後ろを振り返ろうとはしない。
その背中を呆気にとられたまま見送ると、和紀は自分の唇をそっとなぞってみた。別に唇が震えていたところで何か問題があるとは思えない。どうしてそんなことで怒られるのか、彼には見当がつかなかった。
「なんなんだよ、あいつ……」
いわれのない怒りをぶつけられた腹立たしさに和紀は頬を膨らませる。駆け去った少女の姿はもう見えなかったが、その消えた背を睨むように彼は眉をつりあげ、唇を尖らせた。
やはり波乱の幕開けだ。あの少女と一緒に登校する学校までの道のりは、なんと果てしなく感じることだろうか。
上手くやっていけるかどうか不安になり、和紀は照らし出す朝日とは対照的な想いため息をついた。