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間もなく夏休みを迎える時期。長期休み前の単位試験が終わって、多くの生徒の気が弛んでいる頃だった。
僕たちの学校は単位制を導入していることもあり、滅多にいないが飛び級を行える学校として有名だ。
彼女が、結城薫ゆうきかおるが飛び級をして半年早く卒業するという噂が耳に飛び込んできた。よほど頭脳優秀でない限り難しいことだったけど、薫はこれまで一つの単位も落としたことがなかったし、成績も常に上位五位以内につけていた。不可能なことではない。
それでも、僕たちは彼女に裏切られたような気がした。理事会のメンバーにどれほど冷酷な仕打ちをしようと、彼女は和紀が望むように僕たちと一緒にいるだろう、と思っていたのに。
「そんなバカな! 学年が代わる時期なら判るけど、どうして残り半年っていう時期にいきなり卒業なんだよ!?」
噂を聞きつけた僕は転がるようにして彼女の部屋へとやってきていた。事の真相を確かめるために。
暑い日だった。梅雨明けの空気はチリチリと地上のものを焼いて、その年の夏の気温の凄まじさを簡単に予想させる。冷房が効いている室内だから汗一つかかないけど、そうでなければ耐えられない。
「おかしなことかしら? 私、合衆国ステイツの医大に入学が決まったの。だから、あっちの入学にあわせて卒業するだけの話よ。こんなケチな学校、さっさと辞めても良かったけど、卒業単位が必要だったからいただけだわ」
あまりにもアッサリと認められ、僕は和紀のとき以上に無力感に襲われた。どうして彼らはこんなに簡単に決断し、僕たちを振り切って行ってしまうのだろうか。
エリックもシャルロットも、翔も誠二もマオも、そして僕も、ただ君たちと笑って一緒の時を過ごしたかっただけなのに。
春以来、薫はほとんど笑わなくなっていた。いや、表面上は皮肉を口元に湛えた笑みを顔に浮かべていたけど、それは本当の彼女ではない。薫は復讐を果たしたけれど、心の隙間を埋めることはできなかったんだ。
「アメリカの医大への入学なら、来年にしたって良かったじゃないか。今年度に僕たちと一緒に卒業して、来年の入学に合わせて受験することだって……」
「まっぴらだわ。こんな腐った学校、一分一秒だって長くいたくない。早く出ていくことが出来るのなら、それを最大限に活かすわ」
「君まで僕たちを置いていくのか!?」
カッとして僕は怒鳴りつけていた。薫と同じように僕の鉄仮面も有名だけど、今の僕はそんなものをかぶっているだけの余裕などなかった。
「珍しいわね。竜介がそんな大声あげるなんて」
「話をはぐらかすな! 他の生徒は君の頭脳の優秀さにさもありなん、と言っているけど、僕の目を誤魔化すことはできないぞ。君は……逃げ出すんだ! 引っかき回すだけ引っかき回しておいて!」
「あの騒ぎならもうとっくに決着してるでしょう。私は自分のやりたいようにやっているだけよ」
薫は平然とした顔で紅茶をすすっている。いつも僕たちを睨みつけている鋭い眼光が、このときばかりは穏やかさを取り戻す。本当は、和紀さえいたら彼女の瞳が怒りに曇ることなどほとんどなかったのに。
外見の気の強そうな印象とは反対に、彼女の部屋はいかも女の子らしい。そのなかで紅茶のカップを持ち上げる薫の姿は、平素の彼女を知らない者が見たらお嬢様にしか見えなかっただろう。
押し黙った僕に視線を戻すと、薫は自嘲めいた笑いを口角の端に浮かべて僕に紅茶を勧めた。普段なら僕も素直に従っただろう。けど、今は彼女の言葉に従う気分にはなれなかった。
「君は和紀がいないと手負いの獣だね。幼なじみが側にいないだけで、どうしてそんなに荒れ狂うんだよ」
「何言ってるのよ。和紀のことは関係ないでしょう。どうして皆、誰かと誰かをくっつけたがるのかしら。私には理解不能だわ。人をゴシップのネタにする人種ってサイテーね」
一瞬、僕は目の前に座っているこの皮肉屋を殴りつけてやりたくなった。そんなことをしても何も解決しないと判っている。それでも、吐き気がするほど彼女の言動にむかついていた。
平然とした顔で自分以外の者の存在や考えを見下したり否定したりするのは、彼女の最大の欠点だろう。やりすぎなければ自信家のように映るけど、そうでないとき、今のような状況では彼女の態度は不愉快以外のなにものでもない。
「可愛げがないにもほどがあるよ、薫。君を見ていると、僕の女嫌いに拍車がかかる」
「私をどうこう言うのはかまわないけど、それで女全般の評価を下さないでくれる? 竜介はいつだって極論なんだから」
「僕以上に君のほうが極論だね! どうしてそう我が強いんだよ。少しは他人のことも考えろ!」
「どうでもいいわよ、そんなこと。どうせ私は居なくなるんだから。本当なら和紀が学校辞めたときに、私だって辞めてなけりゃならないんだもの」
「和紀を止めなかった僕が悪いとでも言うつもり?」
もう先ほどから堂々巡りをしているような気がする。彼女との話し合いは、今は不毛なだけだ。和紀と同様に、薫もすでに自分の中で下した決断に従っているのだから。
僕は薫が口を開くよりも早く立ち上がると、彼女の顔を見ることなく部屋の出口へと向かった。話し合いは平行線のままだ。まったく実入りの少ない会話だった。
「言い忘れるところだったよ。薫、卒業おめでとう。もう二度と顔を合わせることもないだろうから、今言っておくよ」
腹立たしさに、僕は戸口でチラリと振り返ると、いつも以上に冷たい口調で彼女に嫌味をぶちまけた。
彼女が一瞬目を見開き、次いで何かを言おうと口を開きかけた。それをわざとらしく無視すると、僕は彼女を振り返ることなく、部屋を飛び出していた。
それから数日後、長期休暇に入ると同時に、薫は渡米していった。八月末が彼女の卒業する日だったが、長期休暇に入っていたのでは、実質的な卒業は長期休暇とともにやってくる。
もう少しのんびりと渡米するだろうと思っていた他の連中は、彼女の慌ただしさに驚いたことだろう。
僕と、僕の周囲にいた数人だけが、彼女がすぐにでも居なくなると予測していた。そして、その予測通りに薫は誰に挨拶することなく、一人で僕たちの前から居なくなった。
教師たちには僕たち生徒会役員は仲が良いと思われていたから、彼女が何も告げずに慌ただしく去ったことを気にするでもなく、無神経にも彼女の渡米先の住所を知らせてきた。
仲の良かった友人の連絡先を教えてやったとでも思っているのだろう。
シャルロットやエリックたちはその住所に宛てて手紙を送ったりしたらしい。メールアドレスやテレフォニーナンバーを知らされていなかったのだから、前時代的な通信手段しか残されていなかったわけだけど。
僕は教師からもらった彼女の住所を書き付けた紙を、自室に戻ってすぐに破り捨てた。チラリとも見ていない。
判っている。僕と彼女は同族だ。入学してすぐに、僕と薫は自分たちが同じような人種だと認めている。僕が彼女と同じ立場に立たされたなら、僕も彼女と同じような手段に訴えたかもしれない。それを僕は否定しない。
残念ながら僕には幼なじみなど存在せず、彼女は女で、僕は男だった。僕に彼女とまったく同じ手段を使うことへの抵抗がある以上、彼女と同じ道を行く確立は格段に低いだろうとは思うけど。
彼女は普段は性別のことを持ち出すと憤慨するくせに、最後の最後に自分が女であることを利用した。他人が見たら、彼女のやり方は卑怯だと思ったかもしれない。彼女と同族だと思っている僕もほんの少しそう思ったくらいだから。
でも、卑怯ではあっても、僕は彼女のやり方が気に入らなかったわけではない。自分がやるのであれば、抵抗があるけど。
ただ……彼女や和紀たちが僕の存在を忘れたように一人でサッサと行ってしまったことが、許せなかったのだ。僕は、ずっと彼らを大切にしてきたのに。
それから一年後だ。もう逢えないかもしれないと思っていた和紀が、突然、僕やエリックの前に現れた。他の卒業生にでも訊ねたのだろう。僕たちが通っている大学まで、彼はやってきた。
大学は夏期休暇で閑散としていたけど、僕とエリックは研究室の用事でほとんど毎日のように大学に出入りしていた。それも調べたのだろう。和紀は一日のカリキュラムを終えて学校から出てきた僕たちを待ちかまえていた。
ものすごい形相だった。一目見て、彼が薫のことを知ったのだと、僕には判った。彼がこれほど怒り狂う理由が他にはなかったからだ。案の定、彼が開口一番に訊いたことは薫のことだった。
「薫の奴、今どこにいるんだ!?」
殺気だらけの声。眼光だけで人を睨み殺しそうな彼の様子に、僕は首を振るしかなかった。
「僕は知らないよ。教えてもらっても迷惑なだけだから、住所を書いた紙は破り捨てた」
その僕の左頬に、和紀の平手が飛んだ。構えていなかった僕はアッサリと吹っ飛び、さらに殴りかかろうとする和紀を、側でやり取りを見ていたエリックが真っ青になって止めたほどだ。
「竜。てめぇ、なんで薫を止めなかった!? 俺がいなけりゃ、理事会は大人しくなったハズじゃねぇか! てめぇの優秀な脳味噌は何をやってたんだよ、生徒会長!」
「僕はもう生徒会長じゃない。勝手に学校を辞めた奴にどうして殴られなきゃならないのか教えて欲しいね! 君たちの子守をするために僕がいたわけじゃないよ!」
吹っ飛ばされたときにコンクリートの壁に背中を強かに打ちつけていた。どうにかこうにか身体を起こすと、僕はひりつく左頬を撫でながら和紀を睨みつけた。
どうして彼にこんなことを言われなきゃならない? 勝手に出ていったのは和紀のほうだ。同じく薫も勝手に僕たちから背を向けた。なのに、それを止められなかった僕を二人は罵倒する。
「てめぇはぁっ!」
「薫に逢いに行ってどうするつもりさ」
エリックが必死に和紀の身体を羽交い締めにして抑えていたけど、その拘束が外れるのも時間の問題だろう。和紀は高校時代以前から空手で全国大会まで出ていくような強者だったから。
たとえ体格は和紀よりでかくても、武道などやったこともないエリックに和紀を止めておける力があるとは思えない。
「ちょ……! 逃げろ、竜介!」
力任せにエリックの腕を振り解いた和紀が僕に飛びかかってきた。正面からまともに見ると、彼の姿は獅子が襲いかかってくるような錯覚に囚われる。空手大会で対戦した相手もさぞやゾッとしただろう。
殴りつけられる寸前、僕は相変わらずの鉄仮面の表情で彼を睨んだ。
「君も見捨てられるよ」
和紀が大きく眼を見開いて動きを止めた。殺気はまだ辺りに漂っていたけど、彼の表情からそれまでの怒りが消えている。
「どういう……」
「薫は僕たちになんの相談もなしに一人で何もかもやったんだ。そして、一人で出ていった。僕たちを見捨てて逃げ出した君と同じ、だろ?」
「俺は逃げてねぇよ!」
和紀の瞳がつり上がった。ふてくされたときなどに目をつり上げることはあったが、彼がこれほど負の感情を表に出すのは珍しい。それだけ、自制が効かなくなっているということだろう。
「君は逃げたつもりがなくても、薫はそう思っただろうよ。当事者として、一人学校に取り残されたんだから。薫がどんな気持ちでいたと思う?」
和紀は反論してこなかった。薫を守るつもりで学校を辞めたことが、彼女にどんな影響を与えたのか、彼は今になってようやく考え始めたんだ。それまでは、考えの端にさえ浮かばなかったのだろう。
「人の噂も七十五日って言うよね。和紀が学校を辞めた時期ってちょうどそれくらいの期間が経っていたと思う。もう少し辛抱していたら、三流のマスコミは次のゴシップに飛びついて君たちのことなんか忘れただろうに」
和紀はまだ口を開かない。きっと彼の頭の中は、大混乱しているはずだ。自分が辞めた後の学校の様子など何も知らなかっただろうから。
「君が退学した事実は新しいゴシップネタだったよ。取り残された薫はその渦中に一人取り残された。気の強い薫だからね、表面上は前と変わってなかったけど。でも僕たちが何度話しかけても、彼女は笑わなくなった。……そして、彼女も君と同じように逃げ出したよ。僕たちの前から」
随分と残酷なことを言っていると思う。今、僕が和紀に話をしている内容は、あくまでも僕の見地に立っての話だ。薫の立場に立てば、彼女なりの話があるだろう。そして、和紀の立場に立てば、彼なりの……。
「エリック。薫の住所、教えろよ」
僕を見つめたまま、和紀はすぐ後ろに立つエリックに声をかけた。やはり薫に会いに行くつもりのようだ。もう、こうなったら彼を止められる者はいない。
「エリック。和紀に教えてやれよ。君は知っているんだろう?」
「……やだよ。なんで恋敵に教えてやらなきゃならないんだ」
子どもっぽく頬を膨らませたエリックを、振り返った和紀が鋭く睨んでいる様子が、彼の背中からも伺えた。
在学中から、薫にちょっかいを出すエリックと和紀は衝突が絶えなかった。今も彼らは薫を巡ってばかばかしい諍いをやめようとしない。
「エリック。そんなこと言わ……止めろ、和紀!」
昔からの癖で僕が仲裁に入ろうとしたときだ。和紀が拳を振り上げ、エリックの鳩尾に鉄拳を叩き込んだ。僕が止めろ、と叫んだときには、すでにエリックは地面に長々と伸びた後だ。
「なんてことするんだ、和紀!」
「うるせぇ、黙ってろ!」
地面に転がるエリックの懐を漁り、和紀はエリックの手帳を引っぱり出した。女と見れば手当たり次第に口説いて回るエリックらしく、彼は相手の女の連絡先をまめに手帳に記入している。その癖は今も治っていなかった。
「人の手帳を勝手に見ていいと思ってるのか!? エリックに謝れ!」
「黙れ。俺に指図するな」
和紀が視線を上げ、僕と目を合わせた。それまでの怒鳴り声を収めた彼の声は、ひどく平坦な声だった。それが彼の内心の苛立ちを示しているように見える。
エリックの手帳の一部を破り取ると、和紀は紙切れをジーンズのポケットにねじ込んだ。薫の住所を見つけたのだ。
「邪魔したな」
奪い取った手帳をエリックの胸元に投げ降ろすと、和紀は僕たちに背を向けて行ってしまった。
他のものに興味を失った彼の背中に、僕は以前と同じように声をかけることができなかった。いや、学校を去っていく彼の背中を見送ったとき以上に、彼の存在が遠かった。
気を失っているエリックを抱き起こしながら、僕は和紀の背中を睨んだ。彼には薫しか見えていない。僕やエリックや、他の仲間たちのことなど、眼中にないのだ。それを思い知らされた気がした。
以来、僕は夏が大っ嫌いになった。薫も、和紀も、二人とも僕の目の前からいなくなった季節だから。
いつの間にか、桜華は俯いて相手の話に聴き入っていた。目の前の麗人を直視することができなかった。
「紫野さんは、それでも二人のことが好きなんですね」
フェンスにもたれかかる竜介が、桜華のもらした囁きに苦笑して身体を起こした。
「僕は自他共に認める人間嫌いだったからね。彼らのお陰で、少なくとも女嫌い程度に改善することはできたんだよ。まぁ、女嫌いってだけで充分厭な人間だろうけど」
フェンス越しに灰色の街が見える。コンクリートが林立する街だからというわけではない。今にも雪がちらつきそうな空模様を、街が写し取っているのだ。
「彼らがいなかったら、僕はもっと厭な人間になっていただろうね。見捨てられたと腹を立てても、僕は彼らを憎むことはできなかった。……桜華ちゃん。君はどうだい? 大好きな薫先生の側にいる和紀を憎めるかい?」
「わたしはもとから憎んでなんかいませんよ。ただ……」
「ただ……羨ましかった、かな」
小さく頷く少女の頭をそっと撫でると、竜介はそれまで冷たい矜持を保っていた目元をほころばせた。そうやって笑っていたほうが、多くの人間に好かれるだろうに、彼はそれをごく一部の人間にしか見せないようだ。
「あの二人の間に入っていくことができる人間はいないだろうね。僕にも、僕の仲間にも無理だった。君がそれをできるとは、僕には到底思えない」
「そうかもしれません。わたしはただの患者ですから」
泣き笑いの表情を浮かべた桜華の肩をそっと抱き寄せると、青年は建物の中へと誘った。身体はすっかり冷え切っている。これ以上屋外で話をするのはやめたほうがいい。
「女の人が嫌いなのに、わたしの側にいて平気ですか?」
「女は嫌いだよ。君が僕にしなだれかかってきたら、さっさと振り払ってさよならするさ。でも、君は自分が女だってことを主張しないだろう」
「人間嫌いじゃなくて、女嫌いってのは、そういうことですか」
クスリと少女が喉の奥で笑い、青年もつられたようにクスクスと笑い声をあげた。
「……わたし、やっぱり薫さんと綿摘さんの間にあったこと、調べるかもしれません」
「僕に止める権利はないだろうね。でも、桜華ちゃん。彼らに関わろうとするのなら、それ相応の覚悟をしておくことだね。彼らは聖人君主じゃない。君が綺麗なイメージを抱いているのなら、待っているのは失望でしかないよ」
笑いを収めた少女が漏らした言葉に、青年は静かな口調で答えを返す。それを予測していたのか、少女はしっかりと頷いて、白い白い廊下の奥を見据えた。そこには誰もいない。人の気配もない。
「まだオペは終わってないみたいだね。……君は休んでいたほうがいいと思うよ。終わったら知らせてあげるから」
「いえ。見届けさせてください。わたし、綿摘さんのこと好きじゃないですけど、自分を助けてくれた人を放って、一人でいることはできないです」
「薫が執刀している以上、和紀を死なせるわけないと思うけど。……いいよ。一緒に待っていよう。でも、身体の調子が悪くなったらすぐに病室に戻ること。いいね?」
再び青年は硬いソファに腰を降ろした。今度は隣りに華奢な体格の少女も一緒に。
互いに寄り添うでもなく、かといって他人行儀でもなく、二人は目の前に立ちはだかる白い扉を見つめて黙り込んだ。
別の階の物音だろうか、遠くに人のざわめきのようなものが聞こえてくる。それ以外の物音がしない白い景色の中、青年と少女はその風景に溶け込むようにして静かに座り続けていた。
終わり
白い廊下、白い景色。年が明けたばかりのこの時期に、この光景は寒々しいばかりだった。
「紫野しのさん。ちょっといいですか?」
白い空間の片隅に置かれた硬いソファに腰を降ろしてぼんやりしていると、緊張した声がすぐ脇からあがる。
彼、紫野竜介しのりゅうすけは冷たい表情を崩すことなく相手の顔を見上げ、青ざめて強ばっている少女の表情の中に戸惑いを見つけた。
まだ十七~八歳の年齢の少女は、柔らかな茶髪とやや大きく見える瞳のせいで西洋人形のように見える。
「何かな、桜華おうかちゃん。薫と和紀ならまだオペ室から出てきてないよ」
竜介の硬質な声に桜華が首を振る。両手を身体の前で硬く握りしめ、真っ直ぐに竜介を見下ろす姿は、雪の降るなかに真っ直ぐに立つ、一本の若木のようだった。
「昔の薫さんたちのこと、お訊きしたいんです。薫さんと綿摘わたつみさんの間に何があったのか……」
「僕に話をしろって? 本人たちの了解もないまま? それは随分と失礼な話じゃないかな。君が知りたいのなら、薫たちに直接聞くべきだね」
「判っています。でも……。薫さんたちは、わたしが訊いても答えてくれないんです」
「それは君が知る必要のないことだからだろう? 薫は自分の大事な患者クランケに、余計なことを吹き込みたくないだけだよ」
少女の口元が意固地に引き結ばれた。これで引き下がる気は毛頭ないらしい。どこかで見覚えのある表情に、竜介は自嘲を込めた笑みを口の端に浮かべた。
「桜華ちゃんは薫のことが好きなんだねぇ。だから、和紀が薫の側にいるとご機嫌が悪いんだ」
「それは……! 薫さんはわたしの主治医です。だから、少しくらい薫さんのことを知りたいと……」
「嘘つき」
ビクリ、と桜華が身体を硬直させ、すぐに目の前に座る青年を強い眼光で睨んだ。
竜介という勇ましい名前とは反対に、彼は柔らかな外見をしている。どちらかといえば女性と見間違われそうな顔立ちと言ってもいいだろう。冷たい印象を与える彼の姿は、決して他人と馴れ合うことのない意志表示のようにさえ見える。
「君は昔の薫に良く似ている。薫のほうが常識はずれではあったけど」
「紫野さん。あなたの話ならしてもらえますか?」
「……いいよ。君も頭がいいみたいだね。やっぱり薫に似てる」
竜介は自分のコートを脇に抱えると、ソファからゆったりとした動作で立ち上がった。すぐ側に立つ少女を手招きして、彼は白い廊下を歩き始める。
「いつ頃の話を聞きたいのかな?」
長い廊下の所々にある階段の一つを昇り、彼は少女を屋上へと連れだした。フェンスを張り巡らせた屋上は、冬以外の季節であれば風が通って気持ちいいだろう。しかし、この寒空の下で見るとあまりにも殺風景だった。
「紫野さんと薫さんたちの間に起こったことすべて……という訳にはいきませんか?」
「そんなことしたら話に何日もかかるよ。君さえよければ、高校三年生になる頃の話をしようと思うけど?」
桜華はそっと頷き、真剣な眼差しを相手の口元に注ぐ。自分の知りたいことを、相手はよく理解しているはずだ。期待はずれなことを話はしないだろうと判断してのことだった。
青年は手にしていたコートを少女に羽織らせ、無表情なまま彼女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「今から話す事の本当の原因は何ヶ月も前に起こった事件だけどね。僕には興味もないことだから、僕は僕の始まりから話をする。どうしても原因を知りたいのなら、君自身の力で調べることだね」
少女の頭から手を離し、青年は灰色の空をチラリと見上げた。その空からすぐに目を反らすと、竜介はゆっくりとした口調で話し始めた。
南の地方では桜の開花宣言が出され、この地方でも桜の蕾が膨れ始めた季節。
まるで気楽な一人旅にでも出掛ける軽さで、彼は僕に向かって片手を挙げた。僕はそれにどう応えたら良いのか判らず、彼の真似をして静かに片手を挙げるだけだった。
「それじゃ、な」
すれ違い様のハイタッチ。いつもなら機嫌の良いときの挨拶だった。頭上で交差した僕の掌を、彼は一瞬強く握りしめた。その間でも、僕をチラリとも見はしない。
掌を放すと、彼はさっさと背を向けて歩き始めた。名残惜しげに振り返りもしない。あっさりとしたものだ。
呼び止めよう。そう思って口を開き掛かったけど、僕の喉はひりついていて、どうしても声を出すことができないまま、彼の背が小さく遠ざかっていくに任せていた。
どうしてそんなに簡単に背を向けることができるのだろう。彼は僕たちと一緒に過ごした日々を忘れてしまったのだろうか?
いいや。そんなはずはない。忘れるはずがない。
通りの向こうの角を曲がり、彼の均等に筋肉がついた背が見えなくなっても、僕はじっとその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
どれくらいそうしていただろうか。ポッカリと心に空いた穴は空虚で、僕の中から時間という感覚をすっかり奪っていた。
「あいつ、どこいったのよ!?」
「薫……? どうしたのさ?」
金切り声とともにバタバタと駆け寄ってきた少女の顔を、僕は虚ろな気持ちのまま見つめた。
いつも怒ってばかりの薫は、今も声だけ聞いていると烈火の如く怒り狂っているようにしか聞こえない。しかし、彼女の今の顔はひどく歪んで泣いているように見えた。
「和紀はどこ!? ちゃんと答えなさいよ!」
「君らしくない慌てようだね。落ち着きなよ」
「いいから訊かれたことに答えなさい、竜介!」
怒声を張り上げる彼女の背後には、寮の玄関口から怖々と顔を覗かせる男子寮生たちの顔が並んでいた。空手の上位有段者の薫に敵う男子はそういない。同じく空手をやっている僕でも無理だろう。彼女に勝てるとしたら……。
「勝手に退学届け出して出ていったなんて、嘘なんでしょう!?」
薫は拳一つ半高い僕の肩を掴むと、遠慮容赦なくガクガクと揺する。女にしては握力が強い彼女に肩を鷲掴みにされると、それなりに痛いものだと、ふと頭の隅にどうでもいいことが浮かび、すぐに消えた。
「和紀は出ていったよ。もうここにはいない」
「バカッ! 生徒会長のくせになんで止めなかったのよ!?」
「止めて聞き入れるような奴じゃないだろう。それに、あの理事が退学届けを受け取ったんだよ。今の僕たちに覆せると思う?」
「あいつは今度の馬鹿げた事件のことで早まっちゃったのよ。あいつが学校辞めるのなら、私だって同罪でしょ!? 友人なら止めなさいよ、バカ!」
空っぽになりかかっていた僕の頭の中が、自分の言葉にふと覚醒を始めた。その通りだ。僕も最初は和紀は早まったと思った。だから止めた。結論を急ぐな、と。僕たち生徒会の人間でなんとか理事会に掛け合うから、と。
それをあいつは、どうでもいいことのように笑い飛ばし、もう退学届けを出してきた、と僕たちの前に爆弾を落としていった。しかも、校長や理事長にではなく、あのイカレた理事に、だ。
「僕だって止めたさ。君にとやかく言われる前にね!」
「もっと、ちゃんと止めなさいよ! 私が呼び戻してくる! どっちの方角に行ったのよ!?」
ヒステリックに叫ぶ薫の目は充血していた。もしかしたら、彼女は本当にここまで泣きながら走ってきたのかもしれない。僕にはどうでもいいことだったけど。
「あっち。たぶん駅の方角だと思うけど。……でも追いつけないよ、きっと」
「うるさいわね! 追いついてみせるわよ!」
僕の肩を突き飛ばすように放すと、薫は和紀が歩き去った方角へと飛んでいった。
彼女を止めても無駄だろう。道の途中で和紀に追いつける保証などない。いや、たぶん追いつけない。万が一、和紀に追いつけたとしても、彼は帰ってこないだろう。
僕は意気消沈して帰還するだろう薫をどうしようかと思いながら、寮の玄関へと引き返した。首を玄関扉から突きだして鈴なりになっている寮生たちと視線が合うと、僕はいつもの鉄仮面のままで寮の建物の奥を指さした。
それだけで充分だ。彼らは三々五々に玄関から散って、ある者は自室へ、ある者は談話室へ、ある者は女子寮との境界線である食堂へと向かった。
一時間もしないうちに、綿摘和紀わたつみかずきが学校を自主退学したことは知れ渡るだろう。良い噂と悪い噂も同時に。他人の不幸は蜜の味。一般の生徒には、単調な日々のちょっとした刺激を求めるにすぎない話題だけど。
「竜介ぇ~。薫、放っておいていいのか?」
「そうですよ、紫野先輩。まだマスコミがそこらにいたら、大騒ぎになっちゃいますよ」
最後まで残っていたエリックと翔が不機嫌な顔つきで口を尖らせている。和紀や薫を止めなかった僕のことを不満に思っているに違いない。
「薫ならマスコミなんか突っ切って帰ってくるよ。それに今頃は理事会のほうもマスコミの上層部に圧力かけて頃だろうし……。一番の貧乏くじを引いたのは和紀一人ってことだね」
「オレもこの学校辞めたくなってきたね。他の学校と違って育成モデル校だから飛び級はあるし、校風も自由だけどさ。なんなんだよ、寄ってたかって和紀と薫ばっかり……」
「ボクもですよ。あ~ぁ、つまんない。この学校、他の学校より生徒の発言権あると思って入ったけど、今回のことは幻滅ですよぉ。ホント、あの理事なんかサイテーって感じ?」
苦虫を噛み潰したような顔をしている二人に、僕はさらに冷酷に対応した。僕たち生徒の抗議なんか、理事会は痛くも痒くもないのだから。
「君たちが辞めたってなんの解決にもならないね。学校も大人たちもなんとも思わないよ。バカな生徒が減っただけだと思うさ。それにエリック。君は交換留学生なんだから、自分の都合で勝手に辞められないの!」
「なんだよ、冷たいなぁ!」
ふてくされるエリックたちを無視すると、僕は自分の部屋へと向かった。遠くで人が動き回る物音がする。階段を上がり、自分の部屋へと続く廊下を歩き続ける道筋がひどく遠く感じた。ここはこんなに広かっただろうか?
廊下の中ほどにある自室の前に辿り着き、扉に手を掛けたとき、僕はふと糸に引かれるように隣の部屋の扉を振り返った。
沈黙する扉。開かれない扉。この部屋の主はもう帰ってこない。少し日に焼けた肌に収まりの悪い癖毛、人懐っこい笑顔をした同級生は、あっけないほど簡単にこの場所から居なくなってしまった。
じわりと僕の視界が滲む。熱を持って歪んだレンズ越しに景色を見ているようだった。震える指先でなんとか暗証番号を押し、開いた扉の隙間から室内に滑り込むと、僕はその場に座り込んで顔を覆った。
頭の奥が疼くような熱に侵され、目の前がグルグルと回っている。頬を伝うものの生ぬるさに、僕の胸はむかついて仕方がない。どうして、こんなにも息苦しく感じるのだろう。
僕は息苦しさに何度か大きく息を吸い込み、その度に感じる胸の痛みに拳を幾度も床に叩きつけた。手の痛み以上に胸が痛い。
無力だ。僕たちはあまりにも無力だった。何も、彼に何もしてやれなかった。僕たちの苦しみを知ってか知らずか、彼は自分の下した決断に従ってこの場所からいなくなった。それが一番正しいことだと思っているのか?
薫はきっと追いつけない。僕が和紀を見送ってから随分と時間が経っていたはずだから。たとえ、追いつき彼を捕まえたとしても、彼は戻ってきはしない。
それじゃ、と片手を挙げた彼の真っ黒な瞳には、どこか達観したような強い光だけがあった。怒ったときには子どものような顔をするくせに。彼があんな瞳をするときは、絶対に言いだしたことを曲げないときだ。
彼は、もう戻ってこない。もう二度と……。
高校生活を一年残したまま、彼はこの学舎から姿を消してしまった。
「おい、聞いたか! 薫のこと」
「あのバカ理事にヤられちまったって?」
「マジかよ。あのヒヒジジィ……見境ってもんがねぇのかよ」
まことしやかに流される醜聞スキャンダル。公然と言葉にすることはできない話題に、学校中が浮き足立っていた。
そんな話は嘘っぱちだと言う者もいれば、さもありなんとしたり顔で頷く者もいる。新学期が始まったばかりだというのに、授業そっちのけの雰囲気に教師たちの眉間には皺が寄りっぱなしだ。
マスコミがようやく沈静化し始めた時期だっただけに、学校側は過敏になっているようだ。しかし、生徒たちには漏れないようにという努力は無駄に終わった。
それもそうだろう。片方の当事者が故意に噂を流し、作為的に情報を操っていた。
「薫、君は危険な賭をしていること判ってるんだろうね?」
「だから何? 私のやることにいちいち文句つけないでよ」
「情報操作に生徒会副会長の地位を利用してるだろ。僕たち他の生徒会役員まで巻き込むつもりか? そんなことしたら、和紀がなんのために一人で泥をかぶったのか……」
「竜介たちに迷惑はかけないわよ! 私のことは放っておいて!」
やることが無茶苦茶だ。ヤケになっているとしか思えない薫の暴走を止めようと、僕は必死だった。和紀を助けられなかったときと同じ無力感に苛まれながら。
「やりすぎるな、薫! そんなことしたって和紀は喜ばない」
「和紀は関係ない。私がやりたいようにやっているのよ。許さない。絶対にあの理事だけは許さない!」
生徒の間では薫の気性の凄まじさは有名だった。しかし、教師たちの薫の認識は優秀だが皮肉屋で気の強い女子生徒という程度だ。彼女はその仮面を隠れ蓑に、恐ろしいほど巧みに情報を操作して理事会を追い詰めていた。
「利用できるものはすべて利用したわ。理事会に煮え湯を呑ませてやるために、爺さんにも頭下げたんだから。絶対に失敗はしないし、竜介たちにも迷惑はかからない」
「そんなこと聞きたいわけじゃないよ。君は自分をなんだと思ってるのさ。君を庇った和紀の気持ちを踏みにじる権利があるのか!」
「冗談じゃないわ。黙って引き下がるものですか。あいつら、ありもしないことで私たちをつるし上げたのよ!? 同じように、ありもしないことで抹殺してやるわ! 自業自得でしょ!」
噂は生徒どころか、PTAや教育委員会にも流れた。理事会の理事が学校の女子生徒を暴行した。しかも、彼女にはなんの罪もないことをネタに脅したのだ、と。当の理事は反論したそうだが、教師の何人かが現場を目撃している。
いかにもマスコミが喜んで食いついてきそうな話題だ。もうこれ以上隠し通せないギリギリのところで、薫は理事会に呼び出されていった。
理事会に出頭した薫がどんな大演説をぶったのか知らない。生徒会会長とはいえ、一介の生徒にすぎない僕には知りようもないことだった。いや、たとえ知ることができても、もう僕には手出しできることではなくなっていただろう。
薫が呼び出された理事会会議が終わった翌日、件の理事は解任された。理事会は自分たちに及ぶ被害を怖れるあまり、薫たちをつるし上げた理事を生け贄にしたというわけだ。
そして、さらに一ヶ月も経たないうちに、その理事が飲酒運転の末に車ごと海に転落して死亡したことが噂で伝わってきた。
薫は用意周到に理事会の面目を潰していったのだ。ようやく十八歳になるという少女に、老獪なはずの理事会の面々は、再起不能寸前までやられたといっていい。
彼女は復讐を果たしたんだ。望み通りに。
そして、彼女も僕たちから背を向けた。和紀と同じように。いや、もしかしたら、それ以上に冷たい方法で。