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夏期休暇の静かな大学構内を抜けて敷地を出た途端、足は縫い止められたように止まった。懐かしく、胸の痛む姿が見える。
いつかは来るだろうと予測していたはずなのに、その突然の来訪は一瞬にして時間を一年前に逆流させた。
強ばった舌は痺れて言葉を発することを許さない。
先に呼びかけたのは向こうだった。
「薫……。やっと見つけた……」
すこし癖毛の、獅子のたてがみに似た髪型が微かな風に震えていた。日に焼けた精悍な顔の中で、黒い瞳が燃えるような激しさで光っている。
「よく……ここが判ったね」
動揺に震える声だったがなんとか相手に答えると、薫はようやくしっかりと相手に向き直った。
「竜介やエリックには少々痛い目にあってもらったがな」
自嘲気味な笑みを口元に浮かべて近づいてくる相手に気圧されて、薫は思わず後ずさった。相手の淡々とした口調とは反対に、自分を睨みつけているその瞳は押さえきれない怒りにたぎっている。
「和……」
「なんであんなことした? 相手はお前が手を下すような奴じゃないだろう」
恐いほどの真剣さで瞳を覗き込んでくる相手を拒絶できず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。炎の瞳から目をそらせない。
「俺のためにやったのなら……」
「違う! あんたのためじゃない! あれは私自身のけじめをつけるためにやったんだから」
大声にまばらな通行人が思わず立ち止まってこちらを見ている。さすがに居心地が悪い。
「チッ。……行こう。お前の部屋、この近くなんだろ?」
忌々しそうに舌打ちする相手の声がざらついて聞こえた。こんなに苛立っている様子を見るのはいったいどれくらいぶりだろうか?
「……こっちよ」
薫は先に立って歩き出したが、すぐに隣に並んだ男の顔を極力見ないように俯いていた。
燦々と照りつける日差しは部屋の中の温度を容赦なく押し上げている。慌てて換気ファンを回しながら、窓という窓を開け放つ。
「適当に座っててよ。何か飲み物を入れてくるから」
相手の顔を見ないようにキッチンへと向かおうとした肩が押さえつけられた。
「薫! なんであんな無茶やらかした!」
「放して!」
乱暴に相手の腕を振り払ったつもりだったが、抵抗は相手には通じていない。両肩を掴まれて、むりやりに相手へとねじ向けられた身体が滑稽によじれてた。
「俺の目を見ろ! 自分のためだなんて言い訳するな。お前……本当、は……」
和紀は動揺に思わず口ごもった。目の前では、いつも気丈なはずの薫が声を殺して泣いていた。
意外と細い肩が僅かに痙攣している。その小さな嗚咽を茫然と聞きながら、彼はオロオロとした手つきで思わず薫を抱きしめていた。
「な、泣くなよ。俺、泣かすつもりで責めたんじゃない」
「和紀は……和紀は悔しくなかったの!? あんなバカ理事なんかに……!」
しゃくり上げながら和紀を睨みつける薫の目尻は涙に赤く染まっている。その薫の憤りを抑えるように、さらに抱きしめる腕に力を込めると和紀はそっと囁いた。
「悔しくないよ。……お前は無事だったんだから。なのにお前ときたら……」
ため息混じりの囁き声を耳にすると薫は身体の力が抜けたようにへたり込む。今までの緊張感がいっぺんに抜けてしまったようだ。
ボロボロと頬を伝う涙が彼女を支える日焼けした腕や床に散っていく。
「私は……悔しかった。勝手な思い込みだけで私たちの価値を決める奴らが憎かった! それに乗せられる理事も、PTAの馬鹿な大人たちも!」
「だから理事を罠にはめたのか? 無茶をして……」
床に座り込んでしまった薫を抱き上げると、和紀は部屋のソファへと運んでいき、そこにそっと座らせた。まるで磁器を扱うような注意深い手つきだ。
「薫……」
そっと呼びかける和紀の声は優しい。
顔を上げて相手を見つめる薫はまだ泣き止んでおらず、その瞳からは止めどなく涙が流されている。小刻みに震える肩が時々激しく波打ち、彼女が涙をこらえようとしていることが伝わってくる。
「雪山で俺たち二人が遭難したとき、それにあらぬ誤解をしたのは確かにバカなマスコミとあのイカレた理事だったけどさ。学園の皆は俺たちのことを信じてくれていたはずだ。竜介やエリック、翔やシャーリーだって……」
泣き止まない薫の頬に指を這わせ、幾度も涙を拭いながら和紀は相手を安心させるように小さく微笑んだ。
「俺が学園を出ていくことで不愉快なあの騒動は収まったはずだぞ? それを蒸し返して相手を罠にはめたんじゃ……」
「仕返ししてやって何が悪いのよ! 私たちはそれだけのことをされたのよ!? 和紀だって退学しなくてもいいのに自主退学だなんて、ふざけるにも……ぅん!」
薫の怒りの声が途中で止まる。
自分の身に何が起こったのか判らず薫は混乱した。しかし、それが相手からの口づけで自分の口を塞がれているからだと気づくと、それまで以上に身体から力が抜けてソファへと身を沈める。
「俺は薫が好きだ。……だから、マスコミや理事どもの誤解もあながち嘘じゃないと思っている。あの山小屋で、あと数日一緒にいたら嘘は真実になっていたかもしれないじゃないか」
「嘘よ……」
弱々しく首を振り、相手から目をそらすと薫は両手で顔を覆った。そんなことがあるものか。真実、自分たちの間には何もなかったのだから。
「嘘じゃない。きっとあのままだったら……」
「嘘! 和紀はそんなことしない!」
悲鳴のように甲高い叫び声をあげると薫は相手の言葉を遮った。
認めることはできない。自分は真実をねじ曲げた大人たちに復讐するためにあの罠を張ったのだ。それを根底から覆すような和紀の言葉を受け入れるわけにはいかない。
顔を埋めたまま肩を震わす薫の姿に和紀は途方に暮れたようにため息をつく。
「俺を買いかぶるなよ……。俺だってそこらにいる他の男と変わらない。聖人君主じゃないんだぜ?」
「嘘よ。そんなの嘘……。和紀はそんな卑怯なことしない。今までだって、これからだって!」
「むりやりキスするような奴がか?」
覆い被さってきた相手の囁き声に驚き、薫は顔をあげた。すぐ目の前に和紀の黒い瞳がある。息のかかるほど間近で見た彼の瞳は今までに知っているどんな光よりも凶暴な輝きを湛えていた。
逃げようにもソファに押しつけられた身体は弱々しい抵抗しかできない。
「何をするつもりよ。そこをどいて……」
怯えた声をあげる薫の目の前で和紀の瞳が細められた。まるで獲物を捕獲した肉食獣のような瞳だ。捕らえた相手をこれからどうしてやろうかと思案している残酷な表情。
「どうしようか? このまま噂を本当にしてやるのもいいかもな」
「やだ……。やめて……」
後ずさることなどできないのに、薫は必死にソファへと身体を押しつけた。僅かでも相手から離れるために。
「あのままにしておけば良かったんだよ。やましいことなんてなかったんだから、いつかは俺もお前も笑って逢うことができたはずなんだ。それなのに……お前はそれをぶち壊しちまった。俺が必死に堰き止めていた想いを……」
和紀の指先が薫の顎にかかった。その熱っぽい指先に薫は思わず身震いする。
相手の想いに気づいていなかった。いや、気づかないフリをしてきた。それは幼なじみを失うことだと思ったから……。
「きっと……初めて逢った六年半前からずっとこうしたかったんだ……」
熱い息が顎先にかかった。
それは子供時代への決別のため息だっただろうか? それとも……?
傾いた陽の光が窓辺に置かれた観葉植物の葉の影を長く壁に這わせていた。
赤く澱んだ光が部屋を満たし、気怠げな空気が熱っぽく辺りには漂い続けている。そんな日暮れは初めて迎えたような気がした。
身体の芯から鈍い痛みが襲ってくる。思い通りに動かない体が鉛のように重く感じられて起き上がるのがひどく億劫だった。
首だけ動かして部屋の様子を伺っていると、シャワールームの方角から小さな水音が聞こえてくることに気づいた。まるで家のなかから眺める小雨の降る音を聞いているようだ。
その水音が止まった。カチャカチャと人が動き回る物音が響き、しばらくすると向こう側の部屋の壁づたいに歩いてくる足音が聞こえてくる。
扉の前で一瞬だけ足音が立ち止まったが、すぐにドアノブが動き、静かに人影が入ってきた。慌てて寝たフリをして目を閉じる。
足音の主は息を潜め、そっとベッド脇に歩み寄ってきた。
「薫……?」
かすれた囁き声にも答えずにじっと目を閉じたままでいると、静かに和紀がベッド脇の床に膝をついて顔を覗き込んでいる気配がする。
起きていることに気づかれたくなくて、薄目を開けてその表情を確認することはできなかったが、和紀の気配が沈んでいることだけはハッキリと感じ取れた。
「傷つけたかったわけじゃないのに……。どうして俺はいつも失敗ばかりするんだろうな」
恐る恐るといった手つきで薫の髪を手ぐしで掻き上げながら、和紀は深いため息をついた。指先が微かに震え、それが伝染したように、再度吐いたため息も震える。
「俺を憎んでいいよ、薫……。俺は、お前の期待を裏切った……」
ベッドに横たわる者の顔を見つめていた和紀が、そっと立ち上がった。そして入ってきたときと同じく、静かに部屋を出ていく。フローリングの上を虚ろに響く足音が遠ざかる。
そっと目を開けた薫は暗い影を部屋に作る窓枠の向こうの赤い空を見上げた。
こんな陽光が斜陽という言葉に相応しいのだろう。気怠く、重たく、そして哀しい色をした暮色の太陽が。
何もかもを引き裂いてしまったのは自分だ。沈黙がいつかは傷を癒しもしただろうに、それをこじ開けてしまったのだ。その結果、自分に何が残っただろうか?
「助けて。お願い、助けてよ……」
苦しそうに呻きながら、薫は枕に顔を埋めた。
この息苦しさから開放されるのはいったいいつだろう? 自分の蒔いた種を刈り取れる日はいつくるだろう? 犯した罪を償える日は……?
どんな苦しみも、どんな罪も、いつかは時が癒してくれると言った者は誰だったろう。そんな言葉は嘘っぱちだ。これほどに苦しいのに、この想いが消えてなくなるものか。
いつの日にか、和紀と再会するときがくるだろう。だが決してふざけて笑いあったあの頃には戻れない。怒りに任せてすべてを粉々にうち砕いてしまったのは、自分自身なのだから。
「助けて、和紀……」
夏の夕暮れに吹く生暖かい風が窓から流れ込んでくる。シーツにくるまったまま、薫は自分の肩を抱いた。夕風とは別に、身体の奥底から吹いてくる風で芯から凍えてしまいそうだ。
凍りついていく心の奥で幾度も幾度も助けの声を上げながら、薫は頬を濡らす。今はその涙を拭ってくれる者は現れそうもない。
「和紀……」
自らの手で互いの間に溝を穿ってしまった幼なじみの名を呼びながら、薫は嗚咽を押し殺して肩を震わせた。何にも代え難い過去に想いを馳せ、もはや戻らぬ至宝の時を懐かしんで……。